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   <title>上祐史浩オフィシャルサイト</title>
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   <title>【日記 プライベート】日記コーナー、アメブロに移行しました。</title>
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   <published>2010-11-18T12:38:37Z</published>
   <updated>2010-11-18T13:07:42Z</updated>
   
   <summary> この「日記プライベート」のコーナーは、 先日開設のブログ、 「上祐史浩オフィシ...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/diary/">
      <![CDATA[<p>
<span style="font-size: medium"><span style="font-size: small">この「日記プライベート」のコーナーは、</span><strong><br />
</strong><span style="font-size: small">先日開設のブログ、</span><strong><br />
</strong></span>
</p>
<span style="font-size: medium"><strong><a href="http://ameblo.jp/joyufumihiro/theme-10024388449.html"><br />
「上祐史浩オフィシャルブログ 　「２１世紀の思想の創造」　日記</a></strong></span>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong><span>へ移行いたしました。</span></strong></span><br />
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: small">今後はこちらの方での閲覧をよろしくお願いいたします。</span><span style="font-size: small"><br />
</span><span style="font-size: small"><br />
※ブログの更新情報は、当サイト<a href="http://www.joyus.jp/">トップページの「更新情報」</a>でご覧いただけます。</span>
</p>
]]>
      
   </content>
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   <title>【日記 プライベート】汝の敵を愛して、キリスト教の誕生</title>
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   <published>2010-11-02T03:27:05Z</published>
   <updated>2010-11-18T12:56:30Z</updated>
   
   <summary> 学術的に言えば、キリスト教は、イエスキリストの教えと言うよりも、 イエスキリス...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/diary/">
      <![CDATA[<p>
学術的に言えば、キリスト教は、イエスキリストの教えと言うよりも、<br />
イエスキリストの言行を土台として、パウロらが確立した宗教である<br />
と言われています。よって、学者によっては、パウロによって、<br />
キリスト教が発明されたという刺激的な表現をとる人もいます。
</p>
<p>
そのパウロ、有名な話しとしては、ある宗教体験をして、改心するまでは、<br />
イエスの信者を弾圧しており、しかも、生前のイエスには会ったことがない。<br />
すなわち、キリスト教とは、イエスの信者の敵対者だった者が確立した<br />
宗教である、とも言うことが出来るのです。
</p>
<p>
すなわち、イエスの名言、汝の敵を愛せ、これがそのまま、キリスト教の誕生を<br />
もたらしたということになります。
</p>
<p>
キリスト教と言えば、なんと言っても、イエスの十字架で死と復活ですが、<br />
私個人は、宗教としてのキリスト教の誕生が、その敵にもたらされたという点に、<br />
非常に惹かれています。
</p>
<p>
そして、イエスの様々な予言の中で、一般には予言の的中とされていませんが、<br />
私は、彼が彼の信者に、汝の敵を愛せと語ったことは、素晴らしい予言のように感じます。
</p>
<p>
敵対者であるパウロが、キリスト教確立の立役者になった。<br />
ユダの裏切りをきっかけに、イエスのキリストとしての復活があった。<br />
敵が味方に。死が再生に。
</p>
<p>
人が最も忌み嫌う二つのもの、「敵」と「死」、<br />
これによって、その中核が作られたキリスト教。<br />
さすがに世界最大宗教の誕生は興味深い。
</p>
<p>
ひかりの輪では、大乗仏教の教えをベースにして、<br />
苦しみの裏に喜びがあり、<br />
悪（劣）の裏に善（優）がある、<br />
という一元法則を説いています。
</p>
<p>
前の日記で、苦しみこそ慈悲の源であるとして、苦しみに感謝するお話をしました。<br />
これをひかりの輪では、苦楽表裏として、釈迦牟尼の法則と呼んでいます。
</p>
<p>
これに加えて、人が一見して、自分より劣っていると考えている対象が、<br />
別の面においては、自分より優れており、将来的には、自分が助けられる場合<br />
があります。
</p>
<p>
例えば、イエスの信者にとっては、初期のパウロは、真理を理解しない<br />
悪業多き魂の一人だったのでしょうが、後世のキリスト教徒にとっては、<br />
全ての信者の上に抱く存在となりました。
</p>
<p>
また、仏教では、釈迦牟尼如来の一人前の如来をカッサパ仏と言いますが、<br />
カッサパ仏の時代においては、釈迦牟尼は、カッサパ仏を誹謗中傷したと<br />
も言われています（この生の釈迦牟尼はまだ悟って仏となっていない）。
</p>
<p>
そして、釈迦牟尼が仏となった後には、釈迦牟尼を殺そうとした大悪人が、<br />
改心して、釈迦牟尼の高弟となります。有名なアングリマーラです。
</p>
<p>
さらに、釈迦牟尼教団を一時的に分裂させたデーバダッタが、地獄に堕ちたが、<br />
そこで改心したので、仏教を守る神（護法神）として生まれ変わったと言います。
</p>
<p>
釈迦牟尼遅れて５６億７千万年後に悟る弥勒菩薩は、それほど釈迦牟尼に遅れて悟るのに、<br />
釈迦牟尼より遙かに多い人々を悟りに導くとされています。
</p>
<p>
誰かが、最初に劣っていて、間違っているように見えても、<br />
その人が転機を迎えて、転換し、深化していくならば、<br />
その落ち込みが深く、はい上がる高さも高い分だけ、<br />
最初から優れていた人よりも、大きなものを得るのではないかと思います。<br />
<br />
仏教的に言えば、煩悩が深い者は、早く悟ることは出来ないものの、<br />
苦闘の末に、それから脱却したならば、煩悩の浅いものよりも、<br />
同じように煩悩が多い者を救うことができるし、救おうとする慈悲も強い、<br />
とも考えられます。大煩悩大解脱（煩悩即菩提）と言われる教えです。
</p>
<p>
これから出てくる教えは、全てを平等に尊重すべきである、というもののです。<br />
仏教的に言えば、万人が、平等な仏性の現われ、<br />
すなわち、平等に未来に仏陀になる可能性を有する、というものです。
</p>
<p>
これは、人は、無知によって、色々な間違いを犯すが、それを経験して学習し、<br />
徐々に成長していく、という人間観と、それに加えて、<br />
人と人の違いは、仏の視点から見ると、優劣ではなく、実は、個性であり、<br />
役割分担の違いで、お互いがお互いを助け合っている、という視点があります。
</p>
<p>
先ほど言ったように、早く悟った釈迦牟尼が、先駆者として仏の教えを広め、<br />
後に悟る弥勒菩薩が、実際に人類全体を救済して、釈迦牟尼を助け補う<br />
というのが、仏教の救済の構造となっています。
</p>
<p>
これは、母が子供を育てる時の心境に似ています。幼少の時の子供は、<br />
母親に２４時間苦役を強い、客観的には、母親に最大の敵の一面を呈しますが、<br />
その将来の成長を信じる母親は、子供に最大限の尊重と愛を持って、<br />
育みます。そして、成長した子供は、今度は年老いる母親を助けます。
</p>
<p>
観音菩薩で言えば、慈母観音菩薩、仏母観音菩薩などと言われます。<br />
また、この宇宙は、全ての生き物を育む母なる仏の母胎の中であるとする<br />
胎蔵界曼荼羅の思想などがあります。<br />
キリスト教で言えば、敵を愛せと言ったイエスもそうですが、聖母マリアが<br />
宇宙の母のイメージでしょうか。
</p>
<p>
こうして、宇宙の母のような気持ちで、全ての生き物について、<br />
その一時的な優劣・善悪を超えて、<br />
お互いが助け合う関係にある未来の仏と考えて尊重し、<br />
愛し育むのが、仏陀の智恵と慈悲だと思います。
</p>
<p>
汝の敵を愛せと、今回はキリスト教的になりましたが、<br />
最後はいつもの通り仏教で締めくるならば、<br />
「敵こそは教師である」と説かれます。<br />
<br />
宗教は、宗派対立に陥ると、宗教戦争など、敵を増やします。<br />
しかし、現代社会では、敵と戦争をもたらす一面が目立つ宗教ですが、<br />
別の面では、本来は、敵を味方に変え、平和をもたらす思想があります。<br />
２１世紀の宗教の創造を目指すひかりの輪では、この平和をもたらす<br />
宗教の力を再生できればと考えています。
</p>
<p>
また、オウム・アレフを脱会して、麻原信仰を脱却したひかりの輪は、<br />
今現在は、麻原信仰を深めるアレフと対立関係にありますが、<br />
アレフの人達が改心して、その苦闘の末に、麻原信仰を脱却する時が<br />
来るならば、そのはまり方が私達より深く、脱却の苦闘が深い分だけ、<br />
より多くの人に、慈悲深くなる可能性があると思っています。
</p>
<p>
それから、公安調査庁の方、彼らは私にとっては愛の鞭としての教師。<br />
我々の反省、改革、深化、忍耐、真の愛を促す、教師です。
</p>
<p>
余談ですが、立ち入り調査の時に、ある調査官から聞いたことは、<br />
調査官の奥さんも、私の公開ネット講話を聞いているそうです。<br />
旦那さんと一緒に教団を監視して夫婦二人三脚のつもりか、<br />
単なる興味本位か、夫婦関係の悩みがあるのか......。<br />
旦那さんの「公開しすぎ」という苦しいコメントから、推して知るべし。
</p>
<p>
そもそもは、ひかりの輪も、アレフも、公安調査庁も、同じ日本人。<br />
一つしかない日本。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
      
   </content>
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   <title>【日記 プライベート】東京説法会とオフ会終了、今週末は千葉・福岡へ </title>
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   <published>2010-11-01T13:26:24Z</published>
   <updated>2010-11-18T12:56:30Z</updated>
   
   <summary> （2010年11月01日00:59の日記） 本日は、予定通り、東京の説法会とオ...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/diary/">
      <![CDATA[<p>
（2010年11月01日00:59の日記）<br />
<br />
本日は、予定通り、東京の説法会とオフ会を行い、今帰宅しました。<br />
今回も、それぞれに数十名の方にお集まりいただき、<br />
スタッフの方、参加された方に。深く御礼申し上げます。<br />
<br />
今日は、いつもよりも多くの方々と個人的に面会したり、<br />
ご相談に乗れたことが、良かったなと感じています。<br />
中には大きな人生の転換期の方もいらっしゃり、<br />
住み慣れた関西から単身で引越し、芸能関係の仕事を始める方や、<br />
最近長年付き合った人と別れ、新しい仕事を始めつつある方なども。
</p>
<p>
昼１１時半から夜１２時近くまで、説法会とオフ会の間の２～３時間を除き、<br />
３回の講話と個別のお話となりましたが、比較的スムーズに運び、<br />
疲労感少なく、充実感のある1日でした。
</p>
<p>
今週末は、４日・５日の木曜・金曜日に、一般の方、会員のとの面会<br />
の予定を入れており、６日・７日の週末は、既にお知らせしたように、<br />
千葉・福岡の説法会・勉強会の予定です。<br />
７日（日）の福岡勉強会の講話はネットで公開生中継も行います。
</p>
<p>
今日と同じように、多くの方との交流と、いろいろな学びの機会が<br />
得られればと思いますが、これらプログラムのお問い合わせ先、<br />
ご連絡先は以下の通りです。
</p>
<p>
<strong>４日～５日：東京本部での個人面会</strong><br />
担当者：細川美香<br />
担当者携帯電話：０８０－３４２４－７０５４<br />
メールアドレス：<a href="mailto:tokyo@hikarinowa.net">tokyo@hikarinowa.net</a><br />
<br />
</p>
<p>
<strong>６日：千葉説法会、７日：福岡説法会の詳細</strong><br />
<a href="http://www.joyus.jp/hikarinowa/news/news/102411.html">http://www.joyus.jp/hikarinowa/news/news/102411.html</a><br />
<br />
<br />
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【日記 プライベート】苦しみは慈悲の源</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/diary/022010/1049.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2010:/diary//2.1951</id>
   
   <published>2010-10-29T12:12:03Z</published>
   <updated>2010-11-18T12:56:30Z</updated>
   
   <summary> （2010年10月29日の日記） 最近、様々な苦しみが慈悲の心を培う力になるこ...</summary>
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         <category term="2010年の日記" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/diary/">
      <![CDATA[<p>
（2010年10月29日の日記）<br />
<br />
最近、様々な苦しみが慈悲の心を培う力になることを良く考えます。
</p>
<p>
それに関連する話しで、前にもしましたが、観音菩薩がいます。<br />
慈悲の化身、慈悲から生まれたと言われますが、観音菩薩は<br />
以下のように誕生しｊたと言われています。
</p>
<p>
観音菩薩として生まれる前の生で、彼は、大変苦しい人生を送りました。<br />
子供の時に両親と死に別れ、弟と共に売り飛ばされ、島での苦役を強要され、<br />
ぼろぼろになって、そのまま死に至りました。死の直前に、自分達の悲惨な<br />
人生を嘆く弟に対して、
</p>
<p>
「私達は今生、人としての様々な苦しみを味わった。<br />
だから、来世生まれ変わったら、他の苦しみを取り除く人となろう」
</p>
<p>
と語りました。こうして生まれたのが観音菩薩と言われています。
</p>
<p>
この観音菩薩の誕生のエッセンスは、苦しみの経験が慈悲の心をもたらす<br />
ということだと思います。
</p>
<p>
苦しみを経験してこそ、他の苦しみを理解することが出来る。<br />
苦しみが、人にとって一番大切な慈悲の心の源になる。<br />
<br />
また、世俗的な幸福は、多かれ少なかれ奪い合いの様相があって、<br />
お金も、異性も、名誉も、自分が他に勝って、それらを得る喜びの裏には、<br />
負けた他が、それらを失う苦しみがあり、逆に言えば、<br />
自分が負ける苦しみの裏には、他人が得る喜びがある。<br />
<br />
慈悲の心があれば、自分の苦しみは、自分が他から奪いすぎないで、<br />
足るを知って生きるために、喜びととらえなおすことが出来る。<br />
この意味でも、苦しみは、慈悲の心の源にすることができる。
</p>
<p>
今の日本、前よりも豊かさが減ったためか、将来への経済的な不安が増大しています。<br />
しかし、世界・地球全体から見ると、やはり、特別に豊かで恵まれた国であって、<br />
飢え死ぬ訳ではない。
</p>
<p>
また、最近は、勝ち組・負け組と言って、自分を負け組と考えて、酷く落ち込む人も多いが、<br />
日本人を含めた先進国の人々は、世界の中で富を独占する存在で、しかも、日本は<br />
長寿で安全な国だから、客観的に見て、勝ち組であることは間違いない。
</p>
<p>
その日本人がかかえる将来の不安とは、本質的に何を意味しているのか。<br />
客観的には、贅沢や勝利に慣れすぎてしまった心の問題の側面がないか。<br />
だとすれば、その程度の不安があったとしても、それは本当に悪いことか。<br />
それとも、慈悲の心を培うよい機会・試練ではないのか？
</p>
<p>
仮にもし全く不安のない人生だったら、どんな人間になるのでしょう。<br />
例えば、他の苦しみを理解できるようになるでしょうか<br />
お金と名誉・勝利に満ち足りて、何の苦しみもない人生とはどんなものでしょう。
</p>
<p>
これについては、有名なフランス王妃マリーアントワネットの話を思い出します。<br />
民衆がパンがなく飢えていた時に、「「パンがないなら、なぜケーキを食べないの」と言って、<br />
民衆の怒りを買って、彼女は自らを滅ぼす結果となりました。<br />
彼女の栄華は一時的だったが、その栄華が彼女を滅ぼす原因となった。
</p>
<p>
また、腹八分目に医者いらずと言うます。<br />
食べ物も、それが過ぎれば、体には毒になるように、<br />
お金や名誉やその他のものも、それが過ぎれば、<br />
心の健康＝慈悲には毒にならないか。<br />
ならば、多少の不足・不安くらいは、本当に悪いことなのか。
</p>
<p>
こう考えると、楽にも苦にも感謝して生きる道があると思います。<br />
今、与えられている幸福に感謝すると共に、<br />
今、与えられていない苦しみに対しても、<br />
それを慈悲の源と感謝して、全ての感謝する道。<br />
楽にも苦にも感謝。一切に感謝。<br />
<br />
そして、足るを知り、感謝の心がないならば、<br />
絶えず、今得ていないものを未来に求めて生きることになる。<br />
しかし、それは、未来に生きようとしているようなもので、<br />
今現在の人生を楽しむことはできない。<br />
<br />
今の楽にも苦にも感謝して、今、ここで、幸せになる。<br />
今、ここの人生を感謝し、楽しむ。<br />
そこには、際限のない貪りから離れた平安な心と、<br />
奪い合いから離れた温かい慈悲の心が存在している。
</p>
<p>
そして、そのような分かち合いの心が生じると、<br />
不思議にも、生きて行くに必要なものは与えられるもの。<br />
それが大自然の摂理であり、神仏の守護・祝福として<br />
信じられてきたものではないか。
</p>
<p>
仏教開祖の釈迦牟尼は、苦と楽のバランスを取る中道の教えを説きました。<br />
自分を痛めつけ過ぎるような苦行（右道）を否定すると共に、<br />
快楽を満たし過ぎる道（左道）を否定しました。<br />
不苦不楽の中道の教え。<br />
これも慈悲の教えと一体のものだと思います。
</p>
]]>
      
   </content>
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<entry>
   <title>【日記 プライベート】ネットで知り合った人達と面会の毎日</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/diary/022010/1048.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2010:/diary//2.1948</id>
   
   <published>2010-10-27T14:00:14Z</published>
   <updated>2010-11-18T12:56:30Z</updated>
   
   <summary> 昨日、今日、明日と、ネットで知り合った人と、私の住む東京世田谷烏山で 面会させ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="2010年の日記" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/diary/">
      <![CDATA[<p>
昨日、今日、明日と、ネットで知り合った人と、私の住む東京世田谷烏山で<br />
面会させていただいています。
</p>
<p>
昨日印象に残ったのは演奏家の方。最近の不況の打撃をもろに受けているのが芸術分野だそうで、軒並み生演奏の機会が減ったとか。<br />
面会で様々な分野・職業の人の話を聞くと、見識が広がるので勉強になります。
</p>
<p>
私の方からは、不況などの不安・困難を逆活用して、　演奏家にも大切な集中力やインスピレーションの強化（雑念を止める）や、心の熟成をはかる仏教的な智恵についてお話ししました。苦楽表裏ですから。
</p>
<p>
今日印象に残ったのは、２０代で霊的なヒーリングをやっている若者。<br />
お父さんも励ましているというしっかり者で、最近のスピリチュアル、ヒーリング、サイキック関係の事情も含めて、勉強になりました。
</p>
<p>
私の方からは、慢心が増大して、他の尊重ができなくなるという霊的修行の落とし穴の問題の話しをしたり、オウムや幸福の科学といった宗教、政治、親子関係など様々な質問に答えました。<br />
よく学び、邪道を振り払って、次代の精神世界を支える人物となるように期待を込めて。
</p>
<p>
明日また、昼・夜と面会をする予定で、その後、お知らせしましたとおり、<br />
横浜説法会、東京説法会、東京オフ会となります。既に多くの一般の方の<br />
参加の予定を聞いており、多くの方と交流できることを楽しみしています。
</p>
<p>
なお、各イベントの連絡先はＮＥＷＳに掲載しましたのでご関心があれば。<br />
<br />
<a href="http://www.joyus.jp/announcement/02/0241.html">http://www.joyus.jp/announcement/02/0241.html<br />
<br />
<br />
</a>
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【代表メッセージ】「上祐史浩のメッセージ」コーナーは、アメブロ「智慧のツィート」に移行しました</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/message/00/0012.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/hikarinowa/message//26.595</id>
   
   <published>2011-01-05T04:50:23Z</published>
   <updated>2011-01-05T05:02:40Z</updated>
   
   <summary>この「上祐史浩のメッセージ」コーナーは、上祐史浩オフィシャルブログ--２１世紀の...</summary>
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   </author>
         <category term="このコーナーについて" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/message/">
      <![CDATA[この「上祐史浩のメッセージ」コーナーは、<a href="http://ameblo.jp/joyufumihiro/">上祐史浩オフィシャルブログ--２１世紀の思想と創造</a>の<a href="http://ameblo.jp/joyufumihiro/theme-10027589572.html">智慧のツィート</a>のコーナーに移行しました。<br />
これまでのメッセージはそのままこちらでご覧になれます。２１世紀に必要な思想・宗教、さまざまな教えについて語ります。左に、カテゴリー分けしています。<br />
<br />
<br />
]]>
      
   </content>
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<entry>
   <title>【代表メッセージ】感謝と分かち合い３――すべての人を幸福にする道</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/message/cat243/0053.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/message//26.1298</id>
   
   <published>2008-12-09T04:00:32Z</published>
   <updated>2008-12-09T05:01:21Z</updated>
   
   <summary> 「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上...</summary>
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   </author>
         <category term="会員向けメッセージ・特別公開" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/message/">
      <![CDATA[<p>
<br />
「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上祐史浩（ひかりの輪代表）のメッセージを、公式サイトにも掲載することになりました。
ご紹介するメッセージが、皆さまの日々の生活に少しでもお役に立つことができればと願っています。
なお、メンバーズサイトは、会員の方に限らず、真面目なご関心のある方にも、ご利用いただいています。
</p>
<p>
お問い合わせは<a href="mailto:mail@hikarinowa.net">mail@hikarinowa.net</a>まで。
</p>
-----------------------------------------------------------<br />
<br />
<p>
<strong>●幸福・不幸は、他との比較の問題</strong><br />
<br />
さて、今回は、感謝と分かち合いこそが、すべての人々を幸福にする道だと思うことについて述べたい。
</p>
<p>
例えば、ここに３人の人がいて、それぞれの給料が２０万、２５万、３０万だとする。普通の場合は当然のことだが、２０万の人は、２５万や３０万の人を見て、自分の給料に不満を抱き、自分の給料がもっと上がるように欲求する。
</p>
<p>
しかしながら、この世の中のお金は有限だから、誰かの給料が上がるためには、誰かの給料が下がらなければならないときがある。
</p>
<p>
それは好景気のときには当てはまらない、と言うかもしれない。しかし、先ほどの３人の給料が、好景気のために、それぞれ二倍になり、４０万、５０万、６０万となっても、３０万の人の欲求は変わらない。
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/pokkarikumo-thumb-250x187.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="250" height="187" align="right" />
人の感じる幸福・不幸は、「他との比較」の問題であって、いくらであれば幸福で、いくらならば不幸である、といった具合に、額自体で決まるのではないのだ。実際に、お金持ちとは、いくら以上の所得の持ち主である、と定義されるのではなく、単に「他の人より」お金を持っている人という意味にすぎない。つまり、お金持ちになるには、他の人に貧しくなってもらわなければならないのである。
</p>
]]>
      <![CDATA[<p>
<strong>●経済動向から見た分かち合いの必要性</strong>
</p>
<p>
さらに、景気にはいつも波がある。好景気において、貪りにとらわれ、金に目がくらんだ人は、正常な判断能力を失い、過剰な投資・生産によって、不景気がやってくるのが常である。
</p>
<p>
それだけではなく、最近は、適度な好景気と不景気が循環するいわゆる景気サイクルを逸脱し、世界一二の経済大国である米国と日本で、バブルの崩壊といった、大きな問題が起き、世界を巻き込んで、不景気と物価高を招き、食糧価格と原油高騰は世界中の弱者の生活を直撃していた。
</p>
<p>
そして、短期的な経済動向に限らず、長期的に見ても、今後の地球のさまざまな資源・エネルギー・環境の問題を考えるならば、各国が自由に経済・消費を成長させてよい時代は終わりつつあるように思う。すなわち、一つしかない地球を人類全体で、いや地球の生き物全体で分かち合わなければならないのである。<br />
<br />
</p>
<p>
<strong>●今の時代に幸福になるには</strong><br />
<br />
こうした時代、どうしたらすべての人々が幸福になれるのだろうか。それは、やはり、自分たちに「今すでに与えられている幸福」に気付き、それに感謝して、喜びとすることではないか、と思う。
</p>
<p>
これは何も金銭に関しての問題に限らない。いや、現代の日本人の悩みは、金銭というよりも、「自己存在意義」の欲求ではないかと思う。社会の中で、いかに自己の存在が重要であるか、といった欲求、言い換えれば、自己愛、プライド、地位・名誉などいったものである。
</p>
<p>
しかしながら、この精神的な欲求についても、結局は奪い合いになることは間違いない。自己の存在の重要性とは「他との比較」に基づくからである。それを追求し続けるならば、現代風に言えば、「世界・宇宙のヒーロー」にならないと気がすまない。
</p>
<p>
それが現実の世界では不可能だから、多くのアニメやパソコンゲーム、インターネットなどのフィクションの世界が展開されているが、青少年が、こういった世界に没入して現実から逃避したり、妄想・空想の精神病理的な状態に陥ったり、現実とフィクションが区別できなくなって、犯罪を含めた問題の一因になっているともいわれている。
</p>
<p>
一方、「感謝」によるメリットとは、「皆が得ている幸福」に気付くことだ。先ほどの２０万、２５万、３０万のケースで言えば、この３人は、皆が１５万以上の給料を得ている。それは、所得水準が日本の十分の一以下である発展途上国の人たちから見れば、王侯貴族の所得水準であり、仮に、彼らが日本に来て、それを得れば、大変大きな喜びとなるものだ。
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/nijinowa-thumb-250x187.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="250" height="187" align="left" />
こうして、皆が、「自分が得ていない幸福」ではなく、「すでに得ている幸福」に目をやって、その幸福の「大きさ」に感謝するならば、貪りによる奪い合いではなく、皆が幸福を感じることができるだろう。
</p>
<p>
そして、その感謝と同時に、自分たちよりもはるかに不幸な人たちの苦しみを理解し、彼らと幸福を分かち合うことができるようになれば、世界の幸福はさらに増大するだろう。
</p>
<p>
例えば、先ほどの例では、仮に日本で生きていく上には１５万以上は必要ないとすれば、２０万の人が５万、２５万の人が１０万、３０万の人が１５万を発展途上国の人たちと分け合えば、合計で３０万の支援ができるが、所得水準が日本の１０分の１以下の国の人たちには、３０万は３００万ほどの価値に感じられるものだ。
</p>
<p>
こうして、今すでに自分に与えられている幸福に目をやり、その「大きさ」に気付いて、感謝をなし、そして、自分よりもはるかに不幸な人たちと自分の幸福を分かち合う、という実践は、皆が幸福になる輪（ひかりの輪）が広がっていく。
</p>
<p>
一方、貪りにとらわれ、常に今与えられていない幸福ばかりに目をやり、常に不満を抱き、それを得ようと貪るとともに、自分より幸福に見える人たちに嫉妬を抱き、奪い合いをするならば、皆が不幸になる輪が広がっていく。これは、市場原理主義の競争が激しさを増し、勝ち組・負け組の問題や、精神病・異常犯罪が増える現代社会の一側面ではないか。
</p>
<p>
<br />
<strong>●貪りの捨断と布施の実践＝感謝と分かち合い</strong>
</p>
<p>
最後に、私たち自身がすでに得ている幸福について、仏教的な教義に基づいて考えてみよう。まず、私たちは、他の生き物ではなく、「人間」に生まれた。これは単純に数学的な確率で見ると非常にわずかなことである。
</p>
<p>
次に、「日本」という豊かなだけでなく、他の先進国に比べても安全で長寿の国に生まれたこと。これは６６億のうち１億２千万だから、６０分の１くらいの確率だ。
</p>
<p>
さらに、その日本の中で、貪りと奪い合いに明け暮れるのではなく、感謝と分かち合いを含めた、「仏陀の法」による幸福に対して、縁があって、それを学び、実践する機会に恵まれているのである。
</p>
<p>
これらの幸福に気付いて、自分よりはるかに不幸な多くの生き物や人々の苦しみ・不幸を考えて、自分たちの幸福の大きさをよくかみしめるならば、日常感じている自分たちの苦しみ・不幸は、自分たちの過剰な欲望＝貪りが作り出した幻影のようなものであり、「本当の苦しみ・不幸ではない」と感じられるようになるだろう。
</p>
<p>
そして、それが進めば、自分たちよりもはるかに不幸な人たちに対して、自分たちが非常に冷たかったこと、慈悲がなかったことに気付く。また、自分たちの幸福が、場合によっては、他の幸福の上に成り立っている一面にも気付く。繰り返すが、煩悩的な欲求の追求には、奪い合いの構図があって、自分の幸福の裏側には、他人の不幸があることが多い。
</p>
<p>
例えば、日本を含めた先進国の物質的な繁栄は、その一面において途上国の貧困の上に成り立っているのだ。例えば、世界の食糧が有限である中で、今現在の途上国の食糧不足は、先進国や新興国の飽食に一因があることは、昨今マスメディアでも、よく指摘されるようになった。
</p>
<p>
これに気付いて、自分たちよりはるかに不幸な人たちと、自分たちの幸福を分かち合うことになれば、すなわち、仏教的に言えば、「布施の実践」がなされれば、多くの人が幸福になるだろう。これは、「貪りの捨断」と「布施の実践」であり、言い換えれば、「感謝と分かち合い」の実践である。
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【代表メッセージ】感謝と分かち合い２</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/message/cat243/0052.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/message//26.1281</id>
   
   <published>2008-12-07T12:05:30Z</published>
   <updated>2008-12-09T05:07:49Z</updated>
   
   <summary> 「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/message/">
      <![CDATA[<p>
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</p>
<p>
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</p>
----------------------------------------------------------<strong><br />
<br />
<p>
●感謝と分かち合いと、不満と奪い合い</strong><br />
</p>
<p>
前回に引き続き、感謝と分かち合いについて述べたい。
</p>
<p>
「感謝と分かち合い」とは、すでに与えられている幸福で「足る」を知り、それに「感謝」し、その自分の幸福を他と「分かち合う」ことである。その背景には、欲望には際限がなく、足るを知らずに、もっともっと求めて貪ったとしても、幸福にならないことを悟った智恵がある。
</p>
<p>
その反対は、貪りに基づく「不満と奪い合い」の実践である。それは、現在の状態に不満を抱き、まだ与えられていないものを得ようと欲求して、例えば、お金・物、
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/birusora-thumb-250x187.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="250" height="187" align="right" />
プライド、名誉、地位といった外的な条件を良くしようとして、それが際限なく肥大化していくプロセスである。
</p>
<p>
これは、仏教的な表現では、「貪り」であるが、この貪りにとらわれてしまうと、多くの場合、それがうまくコン トロールできなくなって、欲求が肥大化し、他の人との「奪い合い」になる。これは、煩悩的な欲求の対象は有限であって、それを求めることは、本質的には、他との奪い合いの構図を形成してしまうからだ。
</p>
]]>
      <![CDATA[<p>
現在、食料・エネルギー・環境などにおいて、深刻な地球規模の問題を発生させているのも、人類の「消費主義」という貪りと奪い合いであり、へたをすれば、将来は国家間の戦争という激しい闘争・奪い合いに至りかねない。<br />
<br />
</p>
<p>
<strong>●良い意味での欲求も、行き過ぎは害悪となる</strong><br />
<br />
なお、人々を幸福にする向上欲求、改善欲求というものも、貪りではないか、という考え方がある。これは、ある意味ではそうであって、貪りというのは、絶対悪ではない、ということもできる。例えば、私は、上記の深刻な地球規模の問題を作り出した主たる原因である、現代の資本主義文明を全面的に否定するつもりはまったくない。それによって、人類が受けた恩恵は多大である。
</p>
<p>
しかし、すでに誰の目にも明らかであるが、その「貪り」という心の働きの欠点は、それがコントロールできず、際限がなくなり、いわば「貪りの中毒」になってしまい、本人を逆に支配し、破滅に至らせる可能性があることだ。すなわち、人の幸福のための手段であった欲求・貪りなのに、「目的」と「手段」が入れ替わり、人が欲求・貪りの奴隷になってしまうのである。これでは逆の結果になりかねない。
</p>
<p>
よって、修行や衆生済度を含めて、良い意味での向上を求める欲求も、その欲求にとらわれ過ぎると、自分の思う通りにいかないがゆえの、焦りや怒りが生じてしまう。これは空回りを生じさせたり、状況を悪化させたり、悪くすると、大きな問題を起こす。
</p>
<p>
例えば、スポーツや武術でも、適度に力を抜くことや、「勝つと思うな、思えば負けよ」という無我・無心の境地が説かれるのもそのせいである。また、修行でも、身体操作を使う霊的な修行は急ぎすぎると危険である。
</p>
<p>
善を実現する衆生済度・世直し・社会改革といった運動も、焦るあまりに、本人たちは「善」を目指しているつもりなのに、結果的には「悪」になってしまって、自滅するケースもよくある。善を欲求する場合であっても、何ごとも「行き過ぎ」は、害悪となり、冷静に流れを見極めることが重要であり、欲求の奴隷になってはならない。
</p>
<p>
そのためにも、「感謝と分かち合い」は重要である。すなわち、現状が完璧ではなくても、与えられている良い部分・幸福があるはずだから、それに感謝する心のゆとりを持つことが重要である。
</p>
<p>
そして、感謝に基づく分かち合いにおいて、この感謝の精神を多くの人と分かち合っていくことである。これが、過剰な貪り・欲求・不満・奪い合いを回避することになる。
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【代表メッセージ】感謝と分かち合い</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/message/cat243/0051.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/message//26.1280</id>
   
   <published>2008-12-07T10:05:28Z</published>
   <updated>2008-12-09T05:12:26Z</updated>
   
   <summary> 「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上...</summary>
   <author>
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         <category term="会員向けメッセージ・特別公開" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/message/">
      <![CDATA[<p>
「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上祐史浩（ひかりの輪代表）のメッセージを、公式サイトにも掲載することになりました。
ご紹介するメッセージが、皆さまの日々の生活に少しでもお役に立つことができればと願っています。
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</p>
<p>
お問い合わせは<a href="mailto:mail@hikarinowa.net">mail@hikarinowa.net</a>まで。
</p>
----------------------------------------------------------<br />
<br />
<p>
仏陀の教えを考え直してみると、貪り・怒り・無智を死滅して、「智恵と慈悲」を深めることにその本質があるということがわかる。そして、そのための具体的な実践としては、どうしても「感謝と分かち合い」というものが出てくると思う。
</p>
<p>
貪りとその裏にある怒りを捨断するということは、「足る」を知って、「もっと、もっと」という欲望が満たされない ことによる不満・怒りを抑えることだから、そのためには、「与えられているものの大きさを理解し、なるべく感謝する」という実践がとても有効になると思う。
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/himawarinooka-thumb-250x187.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="250" height="187" align="right" />
そして、それが進んでくれば、「自分のために、もっと、もっと」という気持ちが薄れて、「他のために、自分の持っているものを分かち合う」ということが出てくると思う。これが仏教が説く布施の実践であろう。<br />
<br />
現代社会は、不満と奪い合いの傾向が強まっているように見える。個々人の自己愛や消費の欲望は肥大化し、社会システム全体としても、個々人の精神状態にしても、行き詰まりつつあるように見える。
</p>
<p>
それを超えるための教えは、この「感謝と分かち合い」の実践ではないだろうか。不満と奪い合いは、貪り・怒り・無智の三毒に基づいたもので、感謝と分かち合いは、言い換えれば、「智恵と慈悲」の実践である。
</p>
<p>
感謝と分かち合い。単純ではあるが、非常に本質的な教えではないかと思う。個人としても、団体としても、日常の幸福のためにも、悟りの境地に近づくためにも、今後できるだけ実践していきたいと思う。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【代表メッセージ】王侯貴族の日本人――今の幸福に気づいて分かち合う</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/message/cat243/0050.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/message//26.1278</id>
   
   <published>2008-12-03T01:30:01Z</published>
   <updated>2008-12-03T09:40:34Z</updated>
   
   <summary> （2008年06月29日会員向けメッセージより転載） ●日本人は不幸か幸福か-...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="会員向けメッセージ・特別公開" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/message/">
      <![CDATA[<p>
<br />
（2008年06月29日会員向けメッセージより転載）<br />
<br />
<strong>●日本人は不幸か幸福か--比較による感覚</strong>
</p>
<p>
毎日、新聞で秋葉原などの最近の犯罪などを見ると、日本の国の中では、多くの人が自分が不幸であると感じているように見える。「若年層の派遣労働」や「ワーキングプア」の問題、市場原理主義が強化された社会での「負け組」、毎年７０００人にもおよぶ「経済苦を動機とした自殺」など。
</p>
<p>
しかし日本の中で、自分は貧しいと思っている人でも、途上国の人たちから見ると「王侯貴族」に見えるという話を聞いた。それは確かなことだろう。日本の平均年収は数万ドルにおよび、途上国は、その十分の一から、場合によっては百分の一に近いところさえある。
</p>
<p>
「結局、人は地球全体を見て、自分が幸福か不幸か、ないし裕福か貧しいかを認識するのではなく、近いしい他人と比較してそれを判断するものだ」とある社会学者が述べていたが、それは事実であろう。実際には、近い他人との比較に加え、例えば以前の自分と今の自分の比較などもある。前より豊かになったら「幸福」だし、落ちぶれたら「不幸」と感じるのだ。
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/ani07-thumb-200x133.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="200" height="133" align="right" />
これは、「幸福・不幸」「裕福・貧困」の絶対的な基準があるのではなく、すべては、相対的なものであるということである。すなわち「幸福・不幸」は、人の心が比較によって作り出す主観的なものであり、客観的なものではなく、その意味で実体がない。
</p>
]]>
      <![CDATA[<p>
この「実体がない」という言葉は、仏教では「空」と言われており、「一種の幻影のようなもの」という意味がある。「他と独立して存在する実体がない」という意味で、常に、他との相互関係（例えば上記のように比較）の中でしか存在しないということだ。<br />
<br />
</p>
<strong>●日本人は不幸か幸福か--地球生命圏全体から見て</strong><br />
<p>
では、日本人が幸福か不幸かについて、自分の近くの日本人と比較するのではなく、地球生命圏全体から、客観的に見てみるとどうなるだろうか。
</p>
<p>
地球生命圏には無数の生き物が存在している。一人の足の下には百万の生物がいるともいわれる。その中で、私たちは６６億しかいない「人間」に生まれている。動物に生まれれば、家もなく、雨ざらしで、毎日の食べ物も保障されない。
</p>
<p>
その６６億の中で、私たちは、十数億人しかいない「先進国」に生まれている。途上国には、動物と同じように、家のない人もおり、饑餓や貧困、感染症や戦争による死の危険に常に苦しむ人たちが非常に多い。
</p>
<p>
さらに、私たち日本人は、その先進国の人たちの中で、１億２０００万人の「日本人」の一人として生まれている。この国は、世界最高水準の豊かさに加えて、他の先進国にはない幸福がある。それは、「世界一の寿命（と優れた医療技術）」、そして、主要国では突出した「安全性・治安の良さ（犯罪率の低さ）」である。
</p>
<p>
昨今の無差別殺人などの印象があるので、治安の良さも色あせたように見えるが、まだまだ人種差別などがある欧米各国に比べると、日本は統一のとれた民族性と優秀な警察機構などのおかげで、犯罪率は非常に低い。
</p>
<p>
この日本に生まれる確率は、全人類の中でも６６分の１の「幸運」、地球上の全生命の中では、まさに限りなく「ゼロ」に近い、「奇跡」に近い確率である。
</p>
<p>
その意味で、日本人は地球生命圏の生態系の「最上位・頂点」に位置し、その中のまさに「王侯貴族」であるというのが客観的な事実である。さらに、この文章を読んでいる多くの人は、「五体満足」であることを含めて、日本の中でも恵まれた人たちに入るだろう。<br />
<br />
</p>
<p>
<strong>●日本人のすべてが、幸福・感謝を培う道<br />
</strong><br />
こうして、客観的には、日本人とは、「宝くじに当たったような人生」を得ているわけであるが、１億２０００万人の中で、この奇跡的な幸運に対して、喜びと感謝に満ちあふれた毎日を送っている人はほとんど見当たらない。
</p>
<p>
先進国の搾取などに苦しむ途上国の人たちなどから見れば、本来は「自分たちだけがこんなに幸福でいいのだろうか」と申し訳なく思う面もあってしかるべきだろうが、この国の中では、「自分が不幸である」と感じている人が相当にいる。
</p>
<p>
最近は「負け組」とか「ワーキングプア」というが、それは「日本王侯貴族」の間での話であり、途上国の人たちから見ると、「王族たちの内輪もめ」のたぐいに映るだろう。
</p>
<p>
もちろん私は、こういった日本国内の社会問題を軽んじるつもりはない。市場原理主義による行きすぎた貧富の格差は、適切に是正されなければならないと思う。お金持ちの味方をするつもりなどない。
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/2238021554.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="165" height="132" align="left" />
しかし、今ここで指摘したいことは、ご理解いただけると思うが、そういった「次元」の問題ではない。国内での貧富の格差にかかわらず、日本人のすべてが意識すべき、地球の中での自分たちの位置づけである。それは、日本人のすべてが、人によらず、自分の幸福を感じ、感謝という明るい心を培う道である。
</p>
<p>
一方、貪り・欲望には際限がない。自分より不幸な無数の人たちを見るのではなく、自分より幸福な人たちを見れば、いつまでたっても「幸福」とは感じない。地球生命圏の頂点に立っていても、自分より上ばかりを見れば、自分の「幸福」には一生気づかない。<br />
これは実に恐ろしいことだ。心の病が作り出す「不幸」としかいいようがない。
</p>
<p>
そして、何かを得れば「もっと欲しく」なり、また「それを求める」という無限のサイクルにはまる。これを抜け出すのは、麻薬から抜け出すようなもので大変である。求めても得られない場合や、得ていたものを失うと大きな苦しみを感じる。<br />
特に、何かを得れば、得るまではなしでもいられたのに、得たとたんに生じる執着により、なしではいられなくなるという不思議なことが起こる。
</p>
<p>
日本人が不幸を感じる場合には、こういった、際限のない貪りの中で、前に言ったように、近しい他との比較や、以前の自分との比較によって、そう感じているだけなのである。<br />
これはまさに、貪り・欲望というものに翻弄されている状態ではないだろうか。
</p>
<p>
２１世紀は、「地球規模の問題」に覆われている。資源・エネルギー・環境の問題。先進国を中心とした貪り、過剰な消費は、途上国の人々や他の生物に対して、非常に強い圧迫になっている。
</p>
<p>
よって、いまこそ日本人は、たぐいまれな豊かさ・幸福の元に生まれた事実を自覚し、自分たちの地球の中での真実の位置づけに気づいて、過剰な欲望の追求＝貪りを静めて、地球の無数の人たち、無数の生き物との「分かち合い」の実践に入るべきではないだろうか。
</p>
<p>
具体的な実践のステップを仏教的な言葉で表現すると
</p>
<p>
１．正観・正見解（正しい観察を行う、正しい見解を持つこと）<br />
地球における自分の存在をありのままに見る実践をなし、今の自分の幸福・幸運に気づくこと。
</p>
<p>
２．感謝・ザンゲ（反省）・知足・分かち合い<br />
今の自分の幸福に対する感謝と、その幸福の裏側にある他の生き物・人々に与えている苦しみを反省（ザンゲ）し、貪りを滅して足るを知り、分かち合いの実践をすること。
</p>
<p>
ということになるだろう。
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【仏教講義】２０１０年 夏期セミナー特別教本『三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜――２１世紀の宗教の革新』</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/lecturetext/012010/00372010.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2011:/lecturetext//31.2181</id>
   
   <published>2011-03-10T03:12:22Z</published>
   <updated>2011-08-20T02:44:53Z</updated>
   
   <summary> 2010年夏に行われた夏期セミナーの特別教本です。 テーマは、『三仏の一元法則...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="【動画あり】21世紀のための仏教講義" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/lecturetext/">
      <![CDATA[<p>
<span style="font-size: small">2010年夏に行われた夏期セミナーの特別教本です。<br />
</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small">テーマは、『三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜--２１世紀の宗教の革新』です。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small">セミナーでは、各章ごとに、全６回の上祐史浩による教本解説の講義が行われ、すべてＵstreamでネット生中継されましたので、動画をご覧いただきながら、教本を読み進めていただくことができます。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>◎動画の内容(全６回)</strong></span>
</p>
<p>
<strong><span style="font-size: small">第１回講話 『釈迦牟尼の教え--苦楽表裏について』<br />
第2回講話  『観音様の教え--すべての人を愛すること』<br />
第3回講話  『弥勒菩薩の教え--自分と他人の区別を超え幸福になる<br />
第4回講話 『真の利他心・菩提心とは』<br />
第5回講話 『大乗仏教の幸福への智恵--六つの完成』<br />
第6回講話 『21世紀の宗教の革新、３つのポイント』</span></strong>
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&nbsp;<span style="font-size: small"><a href="http://www.joyus.jp/movie/00200911/00151620_2010_6.html">＞＞動画はこちらでご覧いただけます。</a></span>
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<span style="font-size: small"><strong>2010年夏季セミナー特別教本</strong></span><br />
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<span style="font-size: small"><strong>『三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜--２１世紀の宗教の革新』</strong></span>
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<img src="/mt/uploads_files/images/2011kyouzai/2010kaki.h.jpg" alt=" " width="150" height="214" align="left" />
<strong><span style="font-size: large; color: #000000">第一章　一元法則の理解を深める</span></strong>
</p>
<p>
&nbsp;
ここでは、従来から説かれている「三仏の一元法則」の理解をさらに深めることにする。なお、これまで説かれてきた一元法則の基礎は、特に『ひかりの輪 2010年ゴールデンウィークセミナー特別教本 一元の法則とその悟りの道程、金剛薩?の内省修行』にまとめられているから、ぜひ読んでいただきたい。ただし、本稿は、それを読んでいない人も、一定の理解ができるようには説明している。
</p>
&nbsp;
]]>
      <![CDATA[<strong><span style="font-size: medium">１　釈迦牟尼の一元法則--苦と楽の区別・二分化を超える</span></strong>
<p>
&nbsp;<span style="font-size: small"><br />
<strong>１．楽の裏に苦がある</strong></span>
</p>
<p>
苦と楽は、表裏一体である。楽の裏に苦があり、苦の裏に楽がある。まず、楽の裏に苦があるとは、例えば、快楽に貪りとらわれれば、その裏に、さまざまな苦しみが生じることである。
</p>
<p>
仏教では、自分や自分のものに対するさまざまなとらわれによって、四苦八苦と呼ばれる苦しみが生じると説く。四苦八苦の中にある最初の四苦とは、生・老・病・死の４つの苦しみである。釈迦牟尼が説いた「十二縁起の法」によれば、人は、意識と五感を通して、何かに愛著してとらわれる結果、この世に転生し、生・老・病・死の苦しみを経験するという。
</p>
<p>
これを言い換えれば、人は、自分自身やこの世の快楽に対して執着するほど、老い、病み、死ぬことが苦しみとなる。そして、最後の死の際には、一切を失うという苦しみを経験する。
</p>
<p>
また、次に、四苦八苦の他の４つの苦とは、貪りには際限がない中で、求めても得られない苦、愛著・執着するものを失う（と別れる）苦、奪い合う苦（敵対者と会う苦）など、さまざまなとらわれによる苦しみをいう。こうして、苦と楽が表裏であることを理解し、絶えず貪り求めることをやめて、足るを知ることが重要である。<br />
そして、そのためには、今すでに得ている幸福の大きさに気づいて、それを支えている万物に感謝することが重要である。
</p>
<p>
&nbsp;<br />
<span style="font-size: small"><strong>２．苦の裏に楽がある</strong></span>
</p>
<p>
次に、苦の裏に楽があるとは、上記と逆のプロセスである。例えば、苦しみの経験を経る中で、それに慣れてくるが、それは、とらわれが減少したことを示している。その結果、その人の苦しみの範囲が減り、喜びの範囲が増える。
</p>
<p>
一般にも、苦しみ・労苦は、その人の心身を鍛える、愛の鞭である、試練であるなどといわれる。そして、大乗仏教には、六つの完成の忍辱(にんにく)の修行のように、自己を批判する敵対者も、自分の修行を進める教師として、感謝する教えがある。
</p>
<p>
それだけでなく、苦しみの経験は、慈悲の心を深める可能性がある。それによって、同じ苦しみを持つ人の気持ちがわかり、自分がその苦しみを乗り越えれば、他者がその苦しみを取り除く手助けをすることもできる。そうなれば、その人は、慈悲による幸福を得ることができる。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>３．他に優位にある喜びと、他を愛することによる幸福の違い</strong></span>
</p>
<p>
ここで考えたいことは、喜び・幸福には２つのタイプがあることだ。一つは、現代の社会における一般的な喜びとは、他に勝つ、他に優位に立つことによって得る喜びであって、仏教的に見れば利己的な喜びである。お金持ちになる喜び、魅力的な異性を得る喜び、地位や名誉・権力を得る喜びは、皆が他との競争である。<br />
もう一つは、他を愛することによる幸福感、四無量心による幸福というものがある。四無量心とは、慈・悲・喜・捨という４つの計り知れない大きな心という意味である。慈とは、他に幸福・楽を与える心であり、悲とは、他の苦しみを悲しみ、それを取り除く心、喜とは他の幸福を喜ぶ心、捨とは、分け隔てなく平等に他を愛する心である。
</p>
<p>
そして、重要なことは、他に優位になって喜びを得ようとする視点からは、苦しみに感じられる事柄が、他を愛して幸福になるという視点からは、逆に、幸福の原因となるということである。例えば、先ほども述べたように、他に勝つことができないという苦しみは、同じような弱者の苦しみを理解し、それを手助けしたり、自分ではなく、他の能力を活かしたりするという力になる。
</p>
<p>
そして、他に優位に立つことによる幸福は、その裏にさまざまな苦しみをもたらし、それに加えて、いつかは失う無常なものである。これは、四苦八苦の教えと本質的に同じであり、勝てない苦しみ、さらに負けて失う苦しみ、敵対者を作る苦しみなどがある。そして、老い、病み、死ぬ中で、すべては苦しみに変わる。仮に人生の前半は勝ち組でも、後半は、死に神に負け、すべてを失う。その意味で、この、他に勝つことによる幸福は、尻すぼみの無常な幸福となる。
</p>
<p>
その一方、他を愛することによる幸福は、その心の修練を積み重ねるほど、成熟していく。老い病み、死ぬことで衰えることがない。自己に対するとらわれも薄まり、死の恐怖も超越する。さらに、心に培った徳性は、死後、来世においても継続するので、死によって失われることはない。その意味で、これは尻上がりの継続する幸福である。
</p>
<p>
よって、仏陀は、人生が無常であることをふまえ、さまざまな利己的な執着を放棄して、慈悲を培うように説いた。そして、その具体的な実践は、大乗仏教で六つの完成といわれる。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>４．苦しみに感謝すること</strong></span>
</p>
<p>
そして、先ほど述べたとおり、苦しみの経験は、その人の慈悲を深める可能性がある。詳しく言い直せば、利己的な視点における苦しみの裏に、他を愛する視点における喜びがある。この意味でも、やはり、苦しみの裏に喜びがある。
</p>
<p>
こうして、苦の裏には、とらわれの減少や、慈悲の心の増大による楽・喜びがあると理解することが重要である。そして、それに基づいて、今経験している苦しみや、苦しみを与える存在に対して、感謝することが重要である。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
５．万物に恩恵・恩人として感謝すること</strong></span>
</p>
<p>
以上をまとめると、<br />
① 楽の裏に苦があることを理解し、今すでに得ている幸福と、それを支える万物に感謝し、かつ、<br />
② 苦の裏に楽があることを理解し、苦しみと、それを与えるものに感謝することが重要である。
</p>
<p>
そして、この２つを合わせて実践すれば、最終的に、森羅万象・万物が、自分にとって恩恵となっており、万人が恩人であることに気づき、万物に感謝する境地が生まれてくる。わかりやすくいえば、自分の経験している「すべてがありがたい」と感じる境地である。
</p>
<p>
そして、このすべての衆生に対する感謝に基づいた恩返しの実践が、すべての衆生の苦しみを取り除き、彼らに幸福を与えようとする「大慈悲・四無量心」であり、それに基づく「発(ほつ)菩提(ぼだい)心(しん)」、すなわち、すべての衆生の済度のために、仏陀の境地に至ろうとする心である。
</p>
<p>
<strong><br />
《参考》釈迦牟尼が説いた法則--縁起の法</strong>
</p>
<p>
釈迦牟尼が説いた中核の教えである「縁起の法」とは、「此（これ）があるから、彼（あれ）があり、彼（あれ）があるから、此（これ）がある」というものである。これは、事物が相互に依存し合って存在していることをいう。そして、大乗仏教では、これをすべての事物に当てはめて、「万物は相互に依存し合って存在し（一体であり）、他から独立した固定した実体はない（空である）」とした。
</p>
<p>
そして、人は、この法理を悟っていない無智（＝無明）のために、無智に加えて、貪り・怒りの３つの根本煩悩（三毒）を有しており、そのために、さまざまな苦しみが生じる。例えば、先ほども述べたように、無智（無明）に基づく貪り・愛著によって、生・老・病・死の苦しみが生じるプロセスを説いたのが、「十二縁起の法」と呼ばれる教えである。
</p>
<p>
また、事物が相互に依存し合って存在し、固定した実体がないということは、言い換えると、無常であるということである。この世の万物は無常であり、人も必ず、老い、病み、死ぬものである。よって、それに執着しても、失われるものだから、苦しみを招く。これも重要な釈迦牟尼の教えである。
</p>
<p>
そして、この無明をわかりやすい言葉で表現すると、楽と苦、善と悪、自と他の区別・二分化などと表現できる。これを乗り越える教えが、ひかりの輪の説く三仏の一元法則である。そして、特に、楽と苦の区別・二分化を超える教えを、ひかりの輪では、釈迦牟尼の一元法則と呼んでいる。これは、上記のとおり、実際には、楽の裏に苦があり、苦の裏には楽があるという教えである。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<span style="font-size: medium"><strong>２　観音菩薩の一元法則--善と悪・優と劣の区別・二分化を超える</strong></span>
<p>
&nbsp;<span style="font-size: small"><strong>１．善と悪、優と劣はセットで、時と場合によって変化する</strong></span>
</p>
<p>
善と悪、優と劣は、実は表裏・一体である。そもそも、善とは、他と比較して良い、というものであり、何かを善とすれば、必ず何かが悪となる。全く同じように、何かを悪とすると、何かが善となる。こうして、善と悪は常にセットで存在している。
</p>
<p>
こうして、善悪は、比較の問題であるから、ある善があっても、より大きな善の中では、それは悪とみなされる。そして、ある悪があっても、より大きな悪の中では、それは相対的に善となる。こうして、善と悪は、時と場合によって変化する。すなわち、固定した実体のないものである。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><br />
<strong>２．善と悪、優と劣、短所と長所は、表裏であること</strong></span>
</p>
<p>
さらに、善の裏に悪、優の裏に劣がある。言い換えると、短所の裏に長所があり、長所の裏には短所がある。<br />
例えば、何かに優れている人は、それに劣っている人に比べて、同じく劣っている人の気持ちを理解したり、それを乗り越える手助けをしたりすることは難しい。また、自分が優れているがゆえに、逆に他を活かすということは難しくなる。<br />
言い換えるならば、他に勝つ上での優秀性と、他を愛する上での優秀性は、大きく違っている。先ほども述べたように、現代の社会における一般的な喜びは、他に勝つ、他に優位に立つことによって得る喜びであるが、これとは違って、他を愛することによる幸福感がある。<br />
そして、他に優位になって喜びを得ようとする視点からは優れている人が、他を愛して幸福になるという視点からは、逆に劣っている場合がある。そして、他に優位になる喜びは、その裏にさまざまな苦しみをもたらし、無常であるが、他を愛することによる幸福は、そうではないのである。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>３．人と人の違いは、それぞれの個性・役割の違いである</strong></span>
</p>
<p>
こうして、長所の裏に短所があり、短所の裏に長所があると考えるならば、人と人の間の違いは、善悪や優劣に単純に二分化できるものではなく、個性の違いであることがわかる。<br />
もう少し言えば、それぞれの、全体に対して果たすべき役割の違いである。そして、この世の万物は、その違いによって、お互いが補い合う形で助け合って、相互に依存し合って存在している。<br />
そして、短所の裏に長所があると理解して、努力によってそれを活かすならば、卑屈を乗り越えることができる。また、逆に、長所の裏に短所があると理解するならば、慢心によって落下することがなく、絶えず努力する謙虚さを培うことができる。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>４．悪人が、苦しみの経験を経て、善人になっていくこと</strong></span>
</p>
<p>
さらに、仏教の教えで貴重なものとして、悪人はいつまでも悪人ではなく、徐々に善人になっていくという人間観である。<br />
この人間観を具体的に説明すると、まず、人は、悪人だから悪をなすのではなく、幸福になりたいのに、幸福を得る真の道（＝利他）がわからないがゆえに悪をなす。しかし、悪を積み続けているうちに、悪は苦しみをもたらすから、苦しみが増大して、行き詰まる時が必ず来る。よって、ある時点で、自分の過ちに気づいて、真の幸福の道、すなわち、善の道に入っていくというものである。<br />
実際に、釈迦牟尼も、仏となる前の生には、カッサパ如来（釈迦牟尼以前の仏）を誹謗中傷したこともあったとされる。仏教では、如来の誹謗中傷は、最も大きな罪とされるが、その大罪をなした者が、後に仏になったのである。<br />
他にも、９９９人の人を殺した後に、釈迦牟尼に巡り会い、改心して悟りを得たというアングリマーラや、数十人の親族を呪殺した後に、師に巡り会い、大成就者となったというミラレパなどの聖者が有名である。他にも、仏教は、悪人・悪神が、仏陀・聖者・善神になったという話が多い。<br />
これは、罪を憎んで人を憎まずの精神でもある。人は悪をなすが、それは、その人が純粋に絶対的に悪人だからではなく、無智だからにすぎない。そして、その無智は、悪をなして苦しむ経験からの学習によって、徐々に解消されていくという考えである。<br />
その意味で、悪い行為とは、無智のために一時的に生じるもので、善に至る過渡的な試行錯誤である。それは、無智な者が、失敗から成功を得ていく過程のものである。この意味で、悪と善はつながっており、現在の悪は、未来に善に行き着く、苦しみを伴う準備過程とも解釈できる。<br />
よって、大乗仏教では、「すべての衆生は、未来に仏陀になる可能性＝仏性を有し、未来の仏であり、仏の胎児であり、仏の子であるがゆえに仏である」と説く。そして、「この宇宙全体が仏であり、その中で育まれているすべての衆生は、仏の子であって、母なる仏である宇宙が、その母胎の中で仏の子を育んでいる」と考える。これは、胎蔵界曼荼羅の思想と呼ばれる。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><br />
<strong>５．万物は平等な仏の現れ、という教え</strong></span>
</p>
<p>
次に、こうした教えを土台として、いよいよ、大乗仏教が説く究極的な教えである、「万物は平等な仏の現れ（ないし平等な仏性の顕現）」という教えについて考えてみよう。より詳しくいえば、大乗仏教は、「この世の万物は、根源仏（例えば大日如来）の現れであって、その中の万物は当然、平等な仏の一部であり、平等な仏の現れである」と考える。
</p>
<p>
これは、常識的な価値観では理解しがたいが、上記で学んだように、<br />
① 優劣は表裏一体で、人の違いは優劣ではなく、個性・役割の違いであり、<br />
② すべての衆生は、過ちの経験を経て悟り、未来に仏陀になる存在であるということを理解するならば、この教えも理解しやすいだろう。
</p>
<p>
そして、このそれぞれの異なる個性・役割は、すべて仏のさまざまな要素の一部であって、それらは皆、仏の現れである、と考えるのである。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>６．万物を平等な仏の現れ（仏性の顕現）として育む</strong></span>
</p>
<p>
以上の法則をよく理解するならば、結論として、優劣を設けずに、万物を平等な仏の現れ（仏性の顕現）として尊重して、それを育むべきである、という考え方が出てくる。<br />
そして、「仏の現れとして育む」とは、具体的には、すべての衆生の仏性を覚醒させる＝仏陀の境地に至る上でのお手伝いをする、ということである。そして、すべての衆生の仏性の覚醒を助けるために、自ら仏陀の境地に至らんと決意するのが、大乗仏教が説く「発菩提心」という心構えである。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><br />
<strong>７．大煩悩が大解脱をもたらす可能性</strong></span>
</p>
<p>
善と悪（優と劣）の区別・二分化を超える教えについて、もう少し深めておこう。まず、「大煩悩大解脱」といわれる教えについてである。これは、煩悩が大きい者が解脱したならば、その解脱も大きい、という考えである。<br />
その一つの例が、大悪業をなしていたガネーシャ神が、観音菩薩に教化されて、聖歓喜天に進化した後は、大善業をなすようになったといわれる話である。この話の中では、過去の悪業も今の善業も大きいのは、エネルギーが強いからだと説かれている。これは、ヨーガ・タントラの思想でいえば、煩悩も菩提心も、その源は生命エネルギーである。よって、煩悩が強い場合には、その煩悩が菩提心に昇華した後は、菩提心も強いという考えが成り立つのである。<br />
これは、チベットの大聖者であるミラレパにも当てはまるのではないかと思う。ミラレパは屈強な身体を持ち、師に巡り会う前は、数十人の親族を呪殺する悪業をなした。これは、強いエネルギーがあったからであろう。そして、その後、改心したミラレパは、修行に励み、大成就者となり、深い智慧と慈悲、そして、さまざまな神秘力を有した、チベットで最も敬愛される大聖者となった。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><br />
<strong>８．悟りの遅い者が得る、大きな慈悲の可能性--先駆者と普及者の役割分担</strong></span>
</p>
<p>
次に、煩悩が強く、そのため解脱が遅い者が、大きな慈悲を得る可能性についてである。論理的に考えれば、煩悩が強く、そのため解脱が遅いとしても、そういった者が、解脱を果たしたならば、その経験からして慈悲も深いと考えられる。<br />
なぜならば、自己の体験上、煩悩による苦しみや、煩悩から脱却する上での困難を深く経験しているために、自分のように煩悩が強い者に対する慈悲は深くなり、そういった者を助ける力も強いと考えられるからである。<br />
その一例であるかどうかは確かではないが、仏教が説く釈迦牟尼と弥勒菩薩では、釈迦牟尼の方がはるかに早く解脱する。弥勒菩薩は、釈迦牟尼に遅れること５６億７千万年後に解脱するといわれている。しかし、弥勒菩薩は、釈迦牟尼よりもはるかに多くの人々を悟りに導くとされている。<br />
こうして、釈迦牟尼は、弥勒菩薩の導き手・先駆者となる一方で、弥勒菩薩は、衆生済度において、釈迦牟尼の不足を補い、釈迦牟尼の仏教の教えを全人類に広める。実際に、弥勒菩薩は、釈迦牟尼を補完する仏と位置づけられる場合がある。<br />
こうして、先に解脱する者と後に解脱する者が、お互いに助け合って存在している。先に解脱する者は先駆者として、後に解脱する者の道筋を作る。後に解脱する者は、その道を太くして、多くの者が通れるようにし、その普及者となる。これは、どちらが優れているというのではなく、まさに役割分担であり、助け合いであろう。<br />
言い換えるならば、両者は、互いに独立した存在ではなくて、先に助けて後に助けられたり、先に助けられて後から助けたりする、といった相補的（相互依存）な関係にあり、両者が一つの大きな流れの中でつながっている。
</p>
<p>
<br />
<strong>《参考》観音菩薩の教え</strong>
</p>
<p>
ひかりの輪では、観音菩薩の法則として、その瞑想伝授教本である『観音菩薩の瞑想』の中の教えを重視している。それは、「すべての衆生は、悟りの境地から見れば、観音菩薩であり、この世界は、観音菩薩の本体である阿弥陀如来の極楽浄土である」というものである。<br />
未来に仏陀になる存在を菩薩というが、大乗仏教が説く、「すべての衆生は、仏性（未来に仏陀になる可能性）を有し、今は一時的に煩悩に曇らされているが、未来には仏性が覚醒し、未来に仏陀になる存在である」という思想に基づいて考えると、すべての衆生は菩薩であると考えることができる。<br />
そして、上記でも述べたが、大乗仏教では、「すべての衆生は、仏陀の胎児（＝如来蔵）である」と考え、人間の胎児が人間であるように、仏陀の胎児は本質的には仏陀自体にほかならず、「悟りの境地から見れば、すべての衆生は仏陀であり、仏陀・菩薩の集うこの世界は、仏陀の浄土（例えば阿弥陀如来の極楽浄土）である」と考えることができる。<br />
そして、観音菩薩は、同時に、慈悲の化身ともいわれる。これは、すべての衆生が、本質的には仏であり、仏性を有しながらも、それが未覚醒のために、今現在は大変苦しんでいる。これを深く悲しみ、それを取り除こうとする心（大慈悲）の象徴が観音菩薩とされているからである。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>&nbsp;３　弥勒菩薩の一元法則--自と他の区別・二分化を超える</strong></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>１．自と他は、物理的に精神的に一体であり、循環していること</strong></span>
</p>
<p>
自と他は、よく考えれば、本質的に一体のものである。実際に、自己は他に支えられ、自己も他を支えており、独立して存在してはいない。自分というものは、その身体も思考も、他に支えられて、相互に依存し合って存在している。
</p>
<p>
例えば、人は、生きるためには、毎日他の生き物の犠牲である食べ物を取り、そのため、自分の体を構成する分子は、絶えず他の生き物のそれと入れ替わり続けている。こうして、地球の生命圏を循環している分子を、自分も他の生き物も共有している。
</p>
<p>
思考においても、自分だけで作った考えなどはなく、他から得た大量の情報の結果でできており、逆に、自分の言動も、絶えず他に影響を与え、他の思考に関わっている。こうして、自分と他人の思考は、互いに独立したものではなく、自分も他人も、社会全体を循環する膨大な情報・思考を共有している。
</p>
<p>
また、地球の生態系・食物連鎖の中では、自己の生が、他の生き物に支えられているだけではなく、自己の死も、他の生を支えることになる。科学者によれば、ある生き物が死ぬと、その体の有機物は、他の生命体にほとんど再利用されるという。
</p>
<p>
実際に、地球は生命が誕生して以来３６億年もの間、無数の生命を育んできたが、これが可能であったのは、無数の生命が死んだからである。死がなければ、新たな生命が生まれることはない。人が死ななかったならば、人口爆発によって、とうの昔に人類は滅びている。こうして、地球の生態系とは、生まれる者と死ぬ者のバランス、生と死の循環によって、成り立っている。こうして、自と他は、物心両面で、相互に依存し合って存在し、相互に循環し、一体不可分となっている。
</p>
<p>
なお、輪廻転生を信じる立場からは、自分の生と死の間にも循環が生じる。生まれた者は必ず死ぬが、死んだ者は新たな生を受ける。この自分の生と死も表裏であり、生と死が循環している。自分の今生の体を失った後は、他の体を得る。
</p>
<p>
こうして、自分が死んだ後、自分の体の分子は、無数の他の生き物などを構成するものとなる。また、自分の心は、他の体に転生していく。よって、自分の真の身体とは、この無限の宇宙全体に広がっているもの、と解釈できるだろう。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>２．弥勒菩薩が説いた唯識思想における、自と他の区別を超える教え</strong></span>
</p>
<p>
ここでは、弥勒菩薩が説いた唯識と呼ばれる教えに基づいて、自と他の区別を超える教えをさらに深く広く理解してみよう。自と他の区別を超えるという視点から、特に重要な唯識の教えは以下のとおりである。
</p>
<p>
（１）三性の法則、特に、依他起(えたき)性(しょう)
</p>
<p>
これは、万物は他に依存して生起している、という教えであり、上で述べたことと一致する。
</p>
<p>
（２）主客同一、一人一宇宙
</p>
<p>
これは、外界の体験と呼ばれているものは、よく考えれば、実際には、外界の直接的な体験ではなく、自分の心の中の体験（脳の中のさまざまな情報処理の結果）である事実を重視した教えである。すなわち、他人とか外界といっても、それは、自分の心の中に現れた他人・外界にすぎず、あくまでも自分の中のものであるということである。
</p>
<p>
もう少し精密に説明すれば、五感や意識（六処）が違う生命体は、同じ場所にいても、体験する外界が大きく違う。その意味で、外界には、何か固定した実体のあるものが存在するのではなく、それは、外界をきっかけとしつつも、個々の生命体の五感と意識が作り出すものである。
</p>
<p>
そして、そこで感じる苦や楽も、外界をきっかけとしつつも、その主たる原因は、自分の中に内包されていた悪業（苦しみの原因）や善業（喜びの原因）が引き出されて生じるものである。実際、同じ場所・環境で、それを喜びと感じる人と、苦しみと感じる人がいる。これは、自分の心・業の現れである。これを言い換えれば、一人に一つの宇宙の体験があるということになる。
</p>
<p>
（３）阿頼耶識縁起
</p>
<p>
これは、世界の万物は、（すべての生命体が共有する）「阿頼耶(あらや)識(しき)」という根源的な意識が変化して現れたものであり、万物は阿頼耶識の変化したものとして、まさに同根であって一体である、といった教えである。
</p>
<p>
この思想は、心理学や科学に通じる面がある。例えば、ユング心理学では、すべての人々の意識は、多重構造をなしており、その最も深い部分に、通常は気づかない「集合的無意識」というものがあって、それは、すべての人々が共有している、自と他の区別を超えた意識であるとしている。これは、上記の阿頼耶識と非常によく似た概念なのである。
</p>
<p>
また、科学的な宇宙観でも、この世の万物は、ビッグ・バンから生じたもので、宇宙の創生期は、すべては一体であったとも解釈できる。さらに、量子力学では、万物は波動の性質を有しており、万物は波動レベルでは、宇宙全体に広がって重なり合い、一体として存在しているとも表現できる。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><br />
<strong>３．万物を一体と見て、愛すること</strong></span>
</p>
<p>
こうして、自と他の区別は、実際には存在しないことを理解して、万物が本質的には一体であると認識したならば、万物・すべての衆生を自己と区別せずに愛するという教え（四無量心）が出てくる。<br />
具体的には、他の苦しみは、他だけのものでなく、他とつながっている自分にとっても、その潜在的な苦しみ、過去や未来の苦しみを現していると考える。よって、他の苦しみを自己の苦しみと同じように悲しみ、それを取り除く心の働きを持つ。これを大悲という。
</p>
<p>
同じように、他の喜びは、他だけのものではなく、他とつながっている自分の喜びである。よく考えれば、自分の幸福は万物に支えられており、他の幸福は自分を支える力となる。また、他の幸福は、自分が他の良いところを見習うならば、自分の未来の幸福となるものである。よって、他に幸福を与える心を培う。これを大慈という。
</p>
<p>
よって、自と他を含めた万物を一体と見たならば、他の苦しみを取り除き、他に幸福を与えるという、大慈悲の実践をすることが、自分の苦しみを取り除き、幸福を高める道であることがわかる。これが、大乗仏教が説く、大慈悲、ないし四無量心の実践である。
</p>
<p>
なお、大慈悲ではなく、四無量心という場合には、慈と悲に加えて、喜と捨という心の働きが加わる。喜とは、他の幸福を喜ぶ心であり、捨とはわけ隔てなくすべてを平等に愛する心である。慈・悲・喜・捨の４つを合わせて四無量心という。
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong><br />
<span style="font-size: small">４．弥勒菩薩の船頭の菩提心</span></strong></span>
</p>
<p>
上記の唯識の教えに加えて、弥勒菩薩には、「船頭の菩提心」という教えがある。菩提心とは、すべての衆生を救うために仏陀の境地に至らんとする心である。そして、船頭の菩提心とは、弥勒菩薩が、すべての衆生を乗せて、解脱という目的地に向かう救済の船の船頭である、という意味である。
</p>
<p>
そして、そのポイントは、弥勒菩薩は、すべての衆生を先導しながら、すべての衆生とともに、解脱を果たすという意味があることである。これは、まさに自と他の区別を超えた心構えであり、解脱においても、すべての衆生と自分を区別することなく、それを同時に達成するといった心である。
</p>
<p>
また、自と他の区別を超えた視点からは、先ほど述べたように、真の自己（の身体）は、無限の宇宙に広がっていると解釈できる。また、真の自己の家族は、すべての衆生であり、真の自己の家は、宇宙全体であるとも表現できる。そして、すべての衆生とともに解脱する救済の船の船頭である弥勒菩薩にとって、真の自己の教団は、無限の宇宙そのものにほかならないのであろう。
</p>
<p>
そして、これは、自と他のすべてを平等に愛し、無限の宇宙に広がる意識（宇宙意識）を得る教えである。これにふさわしく、弥勒菩薩の原語のマイトレーヤは、慈愛の教師という意味がある。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
５．悪人は自己の反面教師</strong></span>
</p>
<p>
さて、万物は一体であるとか、万物が同根であるという視点で考えるならば、悪業をなす人がいたとしても、それは、自己の反面教師である意味を持っている。ここで注意すべきことは、自分が「悪い」と認識する存在も、同じ地球・社会にいる以上は、自分と全く無関係なのではなく、どこかしら自分とつながった存在であるということである。
</p>
<p>
よく考えれば、悪とされるいかなる存在も、そのものだけで生まれてきて、そのものだけが原因となって、悪をなすことはないことがわかる。この世が、本質的には一体である以上、社会や宇宙といった全体が、それを生み出し、育む中で、悪をなすに至っている。
</p>
<p>
この事実から、自分が悪と認識しているものが、自分や社会全体の問題を投影している反面教師、ないしは自分の鏡であることに気づくことができる。そして、自分を含めた全体の努力がなくて、単純にある特定の存在を悪として批判・排除したとしても、同じ類の悪が生まれ続けるという問題があることにも気づくことができる。<br />
なお、誤解がないように述べておくが、悪とされるものを反面教師と見るということは、当然のことながら、悪行を肯定しているのではなく、まったくその逆である。当然のこととして、悪行を戒め、善行は推奨すべきである。
</p>
<p>
<br />
そして、悪を減らしていくためにも、すでに他がなしてしまった悪行は、それが全体との関係で生じたことをふまえ、反面教師として自分と全体の向上のために活かすことが、同じ類の悪行を減らしていくために重要である。<br />
さらに、この考えによって、善い人は見本として、悪い人は反面教師として、すべてを憎しみなく受け止めて、すべてを愛する土台ができる。この愛の心が、多くの悪い行為を防ぐことはいうまでもない。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>４ 三仏の一元法則のまとめ</strong></span>
</p>
<p>
では最後に、三仏の一元法則をまとめておこう。
</p>
<p>
<br />
（１）釈迦牟尼の法則--苦と楽は表裏・一体であり、万物は恩恵・恩人である
</p>
<p>
よって、万物に感謝し、恩返しをすること。
</p>
<p>
<br />
（２）観音菩薩の法則--善悪・優劣は表裏・一体であり、万物に優劣はなく、仏の平等な現れである
</p>
<p>
よって、万物を尊重し、仏として育むこと。※個々の違いは、相互に助け合う上での役割の違い。
</p>
<p>
<br />
（３）弥勒菩薩の法則--自と他は本質的に一体であり、万物は一体である
</p>
<p>
よって、万物の苦しみ・喜びを自己の苦しみ・喜びとし、大慈悲の実践をすること。
</p>
<p>
<br />
そして、現代の多くの人は、①苦楽が表裏であることがわからず、快楽を貪り、苦しみを厭い、②優劣には実体がないとわからず、卑屈・自己嫌悪や、慢心と軽蔑に陥り、③自と他が一体であると理解できず、怒り・妬み・卑屈などさまざまな苦しみを抱え、自と他の双方への嫌悪があって、自己も他者も双方を愛せないのである。
</p>
<p>
しかし、心が浄化されて、すべての存在が、自分にとって恩恵であり、等しく尊い価値・役割があって、さらには、すべてが一体であると理解できれば、自分と他人の双方を含めた、万物を愛することができるのである。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<strong><span style="font-size: medium"><br />
５　補足説明--苦楽・善悪・自他が、表裏で循環すること</span></strong>
</p>
<p>
ここでは、一元法則のより正確な理解のために、苦と楽、善と悪、自と他といったものが、表裏であって、かつ、循環していることについて、補足説明して整理しておこう。
</p>
<p>
<strong><span style="font-size: small"><br />
１．苦と楽の表裏・循環</span></strong>
</p>
<p>
苦と楽の表裏・循環については、これまでも説いてきたとおりである。快楽を貪れば、快楽にとらわれることで、求めても得られない苦しみや、得たものを失う苦しみや、奪い合いの苦しみなどを含め、四苦八苦と呼ばれる苦しみが生じる。逆に、苦しみの経験は、その結果、快楽へのとらわれが静まることで、とらわれによる苦しみが減って、楽が生じる。こうして、楽が苦に、苦が楽に循環している。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
２．善と悪、優と劣の表裏・循環</strong></span>
</p>
<p>
前に述べたように、一面的な視点からは、善・優であるものが、別の視点からは、悪・劣となる。言い換えるならば、短所の裏に長所があり、長所の裏に短所がある。こうして、善悪・優劣は表裏である。
</p>
<p>
そして、これに基づいて、悪・劣が善・優に、善・優が悪・劣に循環する現象がある。例えば、悪・劣とされた者は、上記のように、①同じ苦しみを持つ者の気持ちを理解したり、②努力して苦しみを乗り越えて、同じ苦しみを持つ者を手助けしたり、③自分にこだわらずに、他を活かすことで、成長する可能性がある。
</p>
<p>
その一方で、善・優とされる者は、①そうではない者の苦しみを理解できず、②彼らを手助けすることができず、③自分の力に頼って、他を活かすことができない場合がある。これを言い換えると、他に冷淡であったり、ワンマン的になって、慢心によって落下したりするというケースである。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>３．自と他の表裏・循環</strong></span>
</p>
<p>
そもそも、無思考の状態では、自と他の区別は存在しない。自と他を区別して認識する意識が存在しない。それが、人が思考を始めると、その思考の中で、自と他の区別をして、自己という概念を認識すると、それと同時に、他という概念も生じる。同じように、逆に、他という概念を認識すると同時に、自己という概念も生じる。こうして、自と他という概念・認識は、表裏一体である。
</p>
<p>
また、前に述べたように、人は、自分の身体も思考も、他の身体と思考に支えられて存在しており、身体を構成する分子も、思考に影響を与える情報も、自分と他人の間を絶えず循環している。さらに、自己の生は、他者の死によって支えられ、また、逆に、自己の死は、他の生を支えることになり、他者が自己になり、自己は他者になり、互いが互いに循環している。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>６　三仏の一元法則が一体であることの理解</strong></span>
</p>
<p>
ここでは、楽と苦、善と悪（優と劣）、自と他の区別・二分化を超える、という三つの一元法則が、実際には、互いに表裏をなしており、密接不可分の関係があることを説明する。これは、そもそも、三仏の一元法則というものが、それぞれ別々のものではなく、一つの根本的な道理を三つの切り口で見た、表現の違いであるからと説明することもできる。では、一部は、これまでの繰り返しになる部分があるが、この点を説明しよう。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
１．何が苦で、何が楽かは、自と他を区別する視点と、区別しない視点では、正反対になる</strong></span>
</p>
<p>
何が楽であり、何が苦であるかは、自と他を区別する視点と、自と他を区別しない視点では、正反対であるほど、大きく違ってくる。これは、苦と楽の区別を超える法則が、自と他の区別を超える法則と、表裏の関係にあることを示している。
</p>
<p>
まず、ここで、自と他を区別する視点とは何かというと、自と他を区別して、自己に愛著する、自己を偏愛する視点であり、仏教教義から見れば、利己的な視点である。これは、自分が他に勝って、他より優位に立つことで、幸福になるという考えである。この場合は、幸福は自分と他人の間で奪い合うものである、という考えになる。競争主義の現代社会では、これが一般的な幸福であり、幸福観である。
</p>
<p>
一方、ここで、自と他を区別しない視点とは、自と他を平等に愛する視点である。これは他に勝つのではなく、他を幸福にすることで、幸福になろうという考えである。この場合は、幸福は奪い合うものではなく、自と他の幸福は同時に強まるという考えである。
</p>
<p>
これは、仏教教義では、四無量心といわれている。四無量心とは、慈・悲・喜・捨の４つの心であり、具体的には、①すべての他者を慈しむ心（慈）、②すべての他者の苦しみを悲しみ、それを取り除く心（悲）、③すべての他者の幸福を喜ぶ心（喜）、④すべての他者をわけ隔てなく愛する心（捨）である。
</p>
<p>
さて、自と他を区別した利己的な視点において幸福とされるものは（現代の社会では、これが一般的に幸福といわれる場合が多いが）、自分の幸福の裏には、他の不幸があるということになる。
</p>
<p>
例えば、お金持ちになる、魅力的な異性を得る、おいしいものを食べる、名誉・地位・権力を得るといった幸福の裏には、他の苦しみがある。お金持ちとは、一般の平均よりお金を持っていることであり、自分が他人より多く持つということは、他人はその逆になるということである。
</p>
<p>
魅力的な異性も、実際には同性の間での奪い合いの対象であり、おいしい食べ物は他の生き物の犠牲によるものである。地位や名誉・権力は、ごく一部の人が得てこそ、意味を持つもので、その意味でやはり競争の対象である。
</p>
<p>
よって、自と他を区別せずに、他を幸福にすることで、幸福になろうとする四無量心の視点から見るならば、こういった利己的な（一般的な）幸福を得るということは、本当の幸福ではなくて、逆に苦しみとなる（おそれがあるものである）。
</p>
<p>
例えば、他との幸福の奪い合いに勝つということは、その裏側で、他の苦しみに対して冷淡になり、他の苦しみを取り除く力が弱り、また、他の幸福を喜んで、他と幸福を分かち合い、他を活かすという力が弱るということである。すなわち、四無量心による幸福を得る力は弱るということになる。
</p>
<p>
その逆に、自と他の区別をする利己的な（一般的な）視点から、苦しみと感じられるものは、自と他の区別をしない四無量心の視点からは、幸福・楽になる可能性がある。
</p>
<p>
例えば、自分が他と比較して、いろいろ恵まれなかったり、他との競争に負けたりするといった苦しみを経験するならば、同じ苦しみを持つ他の気持ちを理解する力が生じる。また、その苦を取り除く手伝いをする力を培うことができる。そして、自分がある能力において、他人より劣っている場合の方が、自分が優れている場合よりも、他の能力を活かす力を培いやすい場合がある。
</p>
<p>
この典型的な例が、昭和の著名な実業家である松下幸之助氏であり、彼は、学がなかったから、他から謙虚に学び、体が弱かったから他人に頼むことを覚え、お金がなかったから丁稚奉公に行って商人の才を得たという。こうして、彼の場合は、自分の（他と比較して）乏しい学門・体力・財力が、他人の学門・体力・財力を活かす力へと変わり、大勢の人々の力を活かし、大きな企業の成功へとつなげたのである。
</p>
<p>
最後に、死のとらえ方も、自と他の区別をする視点と区別しない視点では大きく違う。自と他を区別する利己的な（一般的な）視点からは、最大の苦しみの一つとなるものが、自分の死である。しかし、これを自と他を区別しない四無量心の視点から見るならば、自分が死ぬことは、他の生を支えるものである、という全く別の見方が出てくる。
</p>
<p>
地球は生命が誕生して以来３６億年もの間、無数の生命を育んできたが、これは無数の生命が死んだからであり、死がなければ、新たな生命が生まれることはできない。人が死ななかったならば、人口爆発によって、とうの昔に人類は滅びている。地球の生態系は、生まれる者と死ぬ者のバランスで、成り立っているのである。
</p>
<p>
そして、私たちは、他の生き物の生命を犠牲にして、日々の糧を得て生きており、いわば、他の生き物の身体の供養を受けている。よって、自と他を区別せず、平等に愛する視点からは、日々自分が生きる上で、その犠牲となっている他の生き物に感謝するように努め、そして、自分が天寿を全うする時が来たならば、これまでの恩返しとして、他の生き物に自分の身体を捧げる（返す）つもりで、死んでいくという考えが出てくるだろう。
</p>
<p>
これは、死に対する嫌悪・恐怖を乗り越える考え方である。これは、決して自分の命を粗末にするという意味ではなく、天寿を全うして死ぬことを恐怖せずに、それを恩返しと位置づけて、喜びに変えるものである。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
２．何が楽で何が苦かは、善と悪、優と劣を区別する視点と区別しない視点でも正反対になる</strong></span>
</p>
<p>
何が楽であり、何が苦であるかは、善と悪（優と劣）を区別する視点と区別しない視点の間でも、正反対になる。これは、苦と楽の区別を超える法則が、善と悪（優と劣）の区別を超える法則と、表裏の関係にあることを示している。
</p>
<p>
第一に、善と悪・優と劣の区別をする視点から見て、一時的に楽と感じられるものは、善と悪の区別をしない視点から見れば、一時的には楽であっても、長期的には楽ではなく、苦の因となり得るものである。<br />
例えば、優れているとされる人は、劣っている人の苦しみを理解したり、手助けをしたりする力は弱くなる。また、自分が優れていると、他人の力を活かす力は培えない場合もある。そして、劣っているとされる人に対して冷淡で、自分の力を過信するワンマン的なタイプになるおそれがある。
</p>
<p>
何でも自分の力でできると思い込み、いかなる成功や達成も、他の支えがあってこそ得られる、ということがわからず、謙虚な心や感謝の心が薄くなり、他を活かし、助け合ってこそ、自分も幸福になるということがわからない。これは、本質的に無智な状態である。
</p>
<p>
第二に、これとは逆に、善と悪・優と劣の区別をする視点からは、一時的に苦と感じられるものは、善と悪の区別をしない視点からは、長期的には苦ではなく、楽の因となる可能性がある。<br />
例えば、劣っているとされる者は、同じ苦しみを持つ者の気持ちを理解し、その手助けをしたり、また、自分にこだわらずに、他を活かしたりすることで、成長していく可能性がある。
</p>
<p>
昔からよく、苦労は買ってでもしろ、といわれるように、最初から優れていて、楽に幸福になることが、長期的には、逆に、不幸を招く可能性がある。美人薄命というのも、美人であれば、人格的な努力をせずに、幸福になれてしまうことが、長期的に不幸をもたらすことを意味しているのであろう。
</p>
<p>
よって、そうならないように、かわいい子には旅をさせよ、ということになる。逆に、さまざまな欠点・不遇があっても、人間万事塞翁が馬というように、それが幸福をもたらす可能性がある。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
３．自と他の区別は、楽と苦の区別や善と悪（優と劣）の区別によって生じる</strong></span>
</p>
<p>
自と他の区別をする意識の土台には、楽と苦の区別をする意識がある。しかし、仏教の法則は、楽と苦の区別はなく、苦楽は表裏であると説く。すなわち、善行を積む努力＝労苦によって、真に幸福になり、煩悩による一時的な快楽は、不幸をもたらすと説く。
</p>
<p>
しかし、人は、多くの場合、楽して幸福になりたいと考える。これは、楽と苦を区別する法則で、努力・労苦なくして幸福になりたいという意識である。そして、この楽と苦を区別する意識によって、自と他を区別する意識にも陥ることになる。
</p>
<p>
この典型的なパターンが、自分の悪い部分があっても、それを直視して、乗り越える努力を回避し、そうではなく、それを忘却しようとする場合である。この場合、他人に、自分と同じ悪い部分を見ても、それが自分の投影とは理解できずに、怒りが生じることになる。
</p>
<p>
また、他人の幸福や良い部分を見たときに、それに嫉妬がわくのも同じである。人は、それぞれの個性・役割を与えられており、努力をするならば、自分の個性・役割を活かして、幸福になることができる。しかし、努力を厭う人は、個々人に幸福になる道があるとはわからない。そのため、他人の幸福を見ても、それが自分の幸福とはつながらず、嫉妬という形で、自と他の区別が生じるのである。
</p>
<p>
また、この自と他を区別する心の原因として、努力を嫌がる心に加えて、もう一つあるのが、善と悪・優と劣を区別する意識である。<br />
自分の悪い部分を見ることは辛いことだが、善と悪を区別せずに、悪の裏に善があると理解できれば、その辛さがやわらぐ。自分の短所や失敗に関して、それを長所や成功の元として前向きにとらえ直すことができる。
</p>
<p>
逆に、それを理解できなければ、悪い部分は単に悪い部分でしかないから、それを直視することは、より難しくなる。こうして、善と悪の区別をしなければ、悪の裏に善があると理解できて、自分を善としたいがために、自分の暗部を見ずに、自と他を区別してしまう問題はやわらぐ。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: large">&nbsp;</span>
</p>
<span style="font-size: large"><strong>第二章　発菩提心と六波羅蜜（六つの完成）</strong></span>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
&nbsp;
&nbsp;
ここでは、大乗仏教の最も重要な実践課題である発菩提心と六つの完成について述べたいと思う。これは、大乗仏教が目指す仏陀の境地、智慧と慈悲を獲得するためのものである。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<strong><span style="font-size: medium">１　六つの完成とは何か</span></strong>
</p>
<p>
六波羅蜜は、六つの完成という意味である。仏教の伝統では、大乗仏教で、すべての衆生の済度のために、仏陀の境地に至ろうと決意し（発菩提心）、菩薩の道を歩む者がなすべき実践項目である。具体的には、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの修行を完成させていくことである。
</p>
<p>
六つの完成の修行の恩恵は、煩悩を鎮め、現象・事物をありのままに理解する力＝智慧を増大させ、すべてを愛する大慈悲・四無量心を増大させるものである。これを仏教の専門用語で言い換えると、六つの完成とは、仏陀の境地に至る条件とされる「智慧」と「方便」を形成することである。智慧とは、縁起・空といった法則の悟りであり、方便とは、利他・功徳を積む手段のことである。
</p>
<p>
そして、六つの完成でいえば、先に述べた、布施から禅定までが、普通は方便とされて、最後が智慧となる。この智慧と方便は、お互いを助け合って増大していき、智慧と方便が一体として体得された境地を仏陀の境地という。ただし、智慧の修行という場合、縁起・空をはじめとする法理を教学・思索して修習＝瞑想する修行、すなわち思考上の修行をいい、方便の修行といえば、実際の行為によって徳を積む修行をいう場合もある。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>２　六つの完成の前行</strong></span>
</p>
<p>
六つの完成を実践する前に、チベット仏教などでは、次の修行を行なう。これは、六つの完成の土台となり、非常に重要である。六つの完成とは、衆生済度を目指す菩薩の実践であるが、この前行は、それが、独りよがりで高慢な「済度もどき」にならないように、その健全な土台を作る。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>１．平等心の瞑想</strong></span>
</p>
<p>
これは、人間関係は無常であり、輪廻転生の中で、味方が敵に、敵が味方に変わってきたということを考え、すべての人々・生き物を平等に見る瞑想である。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>２．因果の七つの秘訣の瞑想</strong></span>
</p>
<p>
これは、以下の七つの瞑想である。
</p>
<p>
① すべての衆生は、無数の過去世のいずれかにおいては、自分の母などであったこと<br />
があり、または、敵対者として自分が法則に向かう動機を与えてくれた存在となっ<br />
ており、<br />
② こうして、すべての衆生に多大な恩を受けたと考え、<br />
③ すべての衆生の恩に報いる（恩返しをする）心を培い、<br />
④ すべての衆生を（恩人とみなして）愛し、<br />
⑤ その恩人たる衆生の現在の苦しみを悲しみ、<br />
⑥ 自分がその苦しみを引き受ける決意をし、<br />
⑦ その救済のために、自分が仏陀の境地に至ろうとする心<br />
＝菩提心を起こす（発菩提心）
</p>
<p>
なお、この修行の前に、上記の平等心の瞑想によって、すべての衆生を平等に見る心を培い、この瞑想と合わせて、すべての衆生を平等に恩人と見るように努める。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
３．自他平等利他行の瞑想</strong></span>
</p>
<p>
これは、人が通常は、自と他を区別し自分だけを愛する傾向があることに対して、①自己だけを愛する不利益と、②他を利する利益をよく考え、③自分の幸福のすべてを他に与え（大慈）、④すべての他の苦しみを自分が引き受ける（大悲）ことができるようになる祈願をするものである。
</p>
<p>
ここで、自と他は、別々の存在のようで、実際には密接不可分であることを考え、他の幸福は自己の幸福につながり、他の苦しみも自己の苦しみにつながり、自と他の幸福と不幸が、本質的には一体であることを修習するとよいだろう。
</p>
<p>
なお、この点の参考教材としては、『ひかりの輪の密教儀式（密教加行の儀式次第・増補改訂版）』の中の発菩提心の瞑想や、特別教本の『仏教講義・悟りの道程２　悟りへの道と大乗の教え』などがあるので参照されたい。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>４．三仏の一元法則が大慈悲・発菩提心を支える</strong></span>
</p>
<p>
以上が、伝統仏教における六つの完成の前行である。しかし、ひかりの輪においては、三仏の一元法則の修習が、この前行と同じ効果（ないしそれ以上）を持つと考えている。この法則と、六つの完成の前提である大慈悲・発菩提心が、以下のように深い関係があるからである。
</p>
<p>
第一に、釈迦牟尼の法則は、楽と苦の区別・二分化を超える教えであるが、それは、楽の裏に苦があり、苦の裏に楽があるという意味である、よって、その結果は、①快楽を貪らずに、足るを知り、与えられたものに感謝し、②苦しみを喜びととらえ直して感謝するという実践に結びつく。
</p>
<p>
そして、これは、万物に感謝する教えである。与えられている幸福に感謝し、かつ苦しみに感謝するならば、万物・森羅万象に感謝することになる。なお、釈迦牟尼の法則とは別に、前回の特別セミナーの教本の中に、「感謝の法則」として、①知足の感謝、②転換の感謝、③万物の感謝の三つの感謝を説いたことを思い出されたい。これと同じことである。
</p>
<p>
そして、万物に感謝することが、発菩提心の前提として、すべての衆生を恩人として感謝すること（因果の七つの秘訣の第二）と結びつく。すべての衆生をかつての母親などの親族・友人として、また、かつての敵対者として感謝するのである。
</p>
<p>
母親などに感謝するには、彼らに与えられた幸福の大きさを考え感謝すること（足るを知る感謝）がポイントである。内観の実践などは、この具体的な実践である。足るを知らず、貪りが多く、常に自分と他人（自分の親と他人の親）を比較するなどして不満の多い人は、親にも感謝が少ない。
</p>
<p>
また、敵対者に感謝するためには、苦しみを喜びととらえ直すことが必要であることはいうまでもない。敵対者の与える苦しみは、私たちが真理に向かう動機となり、心身を引き締め強くし、自我執着を放棄するといった実践を促す愛の鞭となり、六つの完成の中の重要な実践である忍辱の実践において、必要不可欠なものである。こうして、敵対者は、日常生活において、神仏の与える、悟りの試練ということもできるだろう。
</p>
<p>
第二に、観音菩薩の法則は、善と悪（優と劣）の二分化・区別を超えて、すべての衆生・万物を仏の平等な現れとして尊重する教えである。これは、すべての衆生は平等に仏性があって、未来の仏陀である、という理解である。
</p>
<p>
そして、発菩提心の教えでは、①すべての衆生に仏性を認めつつも、②その仏性がいまだ覚醒していないために、すべての衆生が苦しんでいることを悲しみ、③ 彼らを救うために、その仏性を覚醒させるしかないが、その手伝いをするためには、まず、自分が仏性を覚醒させること＝仏陀の境地を得る以外にはないと理解し、④仏陀の境地を求める心＝菩提心をおこすのである（発菩提心）。
</p>
<p>
よって、すべての衆生が仏性を有し、未来の仏陀であるという理解がなければ、すべての衆生を救うために、まず自らの仏性を覚醒させる（仏陀の境地に至ろうとする）決意をする意味はまったくない。
</p>
<p>
また、衆生済度は、表現を変えると、すべての衆生の仏性の覚醒のための奉仕である。それは、宇宙が仏の現れであり、その中のすべての衆生は、母なる仏に育まれている仏の胎児であり、私たちは、母なる仏とともに、仏の胎児が一人前の仏に成長するように、奉仕するのである。
</p>
<p>
これは、仏の胎児が仏になるための奉仕であるから、哀れみとか衆生済度といった言葉を使っていても、その対象を見下しているのではなく、奉仕の対象に対して、最大限の尊重を持った考え方であることに注意する必要がある。
</p>
<p>
第三に、弥勒菩薩の法則は、自と他の区別・二分化を超えて、万物を一体と見る教えである。これと発菩提心の教えとの関係は、因果の七つの教えの第六や、自他平等利他行の教えに出てくる、他の苦しみを自己の苦しみとして引き受ける点である。
</p>
<p>
自と他を含めたこの世の万物が一体であれば、自分と他人の幸福と不幸も一体であり、他の苦しみを取り除くことが、自分の（未来の）苦しみを取り除くことであり、自分の幸福を他に与えることが、（他の幸福が支える）自分の（今後の）幸福につながることになる。
</p>
<p>
これをわかりやすくいえば、この世界で本当に幸福になる条件は、この世界のすべてが幸福である以外にはなく、自分だけが幸福であればいいとか、今だけ幸福であればよいというのは、本当の幸福には至ることができない無智・慢心・怠惰である。
</p>
<p>
まとめるならば、
</p>
<p>
（１）釈迦牟尼の一元法則--苦楽の区別・二分化の超越
</p>
<p>
&rarr; 万物を恩恵、万人を恩人と見て感謝<br />
&rarr; 感謝に基づく恩返しとしての大慈悲<br />
&rarr; 発菩提心
</p>
<p>
（２）観音菩薩の一元法則--善悪（優劣）の区別・二分化の超越
</p>
<p>
&rarr; 万物を平等な仏（仏性）の現れとして尊重<br />
&rarr; その仏性の覚醒を手伝う大慈悲<br />
&rarr; 発菩提心
</p>
<p>
（３）弥勒菩薩の一元法則--自他の区別・二分化の超越
</p>
<p>
&rarr; 万物が一体であると認識<br />
&rarr; 他の苦を自己の苦と見て取り除く大慈悲<br />
&rarr; 発菩提心
</p>
<p>
ということになる。
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<p>
こうして、大慈悲・発菩提心の心は、三仏の法則を土台としており、万物への感謝、万物への尊重、万物を一体と知る実践を日々培うべきである。
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<p>
また、弥勒菩薩は、自己の未完を自覚し、５６億７千万年の巨大な時を天界で修行した後に、如来として降誕するという。これは、仏陀の境地に至り、済度の時が来るまで、長い間、謙虚さを保ち、忍辱（忍耐）と精進（努力）をし続け、大きな功徳を積み上げる菩薩の心構えを象徴している。
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<span style="font-size: medium"><strong>３　弥勒菩薩の船頭の菩提心・一元法則の究極</strong></span>
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<p>
ここで、菩提心に関連して、弥勒菩薩の船頭の菩提心という教えについて紹介しておく。
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<br />
<span style="font-size: small"><strong>１．弥勒菩薩とは</strong></span>
</p>
<p>
弥勒菩薩は、釈迦牟尼に次ぐ未来仏とされ、大乗の象徴仏ともされる。５６億７千万年後に地球に下生し、数百億もの人々を悟りに導くという。いまだ仏陀になっていないという意味で、未完の菩薩とよくいわれるが、自己の未完を自覚し、５６億７千万年もの長い間、修行に努めて、いったん下生すれば地球のすべての衆生を悟りに導くという。
</p>
<p>
そして、この弥勒菩薩にちなんで、弥勒菩薩の船頭の菩提心といわれる教えがある。これは、弥勒菩薩は、すべての衆生とともに解脱する菩提心を有しているというものである。船頭の菩提心という理由は、すべての生き物が、解脱に向かう船に乗っているとすれば、その船の船頭という意味である。この教えの重要性は、自分の解脱と、すべての他の解脱を一体・同時達成のものとして、とらえていることである。
</p>
<p>
こうして、仏教における弥勒菩薩の位置づけには、二面性があると私は解釈している。一つは、釈迦牟尼如来に次いで、仏陀・如来となるという、他と比較して非常に優れた存在であるという位置づけである。もう一つは、自己の未完を自覚し、長い間修行に努め、下生した時には、地球のすべての人々を悟りに導くなど、すべての衆生の解脱と自分の解脱が一体・同時という位置づけである。
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<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
２．利他＝利己という思想</strong></span>
</p>
<p>
さて、自と他が一体であるという世界観に基づくと、真の完全な幸福は、この宇宙のすべての苦しみがなくなった時（すべての衆生が仏陀の境地に到達した時）こそ達成される。なぜならば、すべての存在はつながっており、苦しんでいる者がいる限り、この世のどこかに苦しみがある限り、それとつながっている自分も、完全には解放されていないからである。
</p>
<p>
こうして、利他＝利己であるならば、仏教教学においては、利他の教えの大乗と、利己の教えの小乗の区別さえなくなる。小乗の教えは、貪りや怒りといった現世への執着を放棄することによって、一定の条件の下では、苦しみが生じなくなった状態にすぎず、それは決して永続的なものではなく、やはり無常なものであり、小乗には、それを理解しない無智が残っているということになる。
</p>
<p>
こうして、貴方が修行者である場合、本当に利他と利己、大乗と小乗の区別が根絶されるならば、「自分だけ悟れればいい」という意識や、「他人はどうでも今の自分が幸福であればよい」という意識、修行の進歩などにおいて法友と闘争・嫉妬する意識が払拭されていく。
</p>
<p>
よって、仏教教学上の表現をとれば、小乗や、自己満足の強い欲天や、妬みの多い阿修羅といったカルマを超えることになる。そして、法友や他の宗教に対しての闘争心、そして、教団や宗教の世界での名誉欲・権力欲・支配欲、そして、それらが得られないことによる苦しみ、怒り、焦りも滅することになる。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
３．自と他の区別の超越と、楽と苦・善と悪の区別・二分化の超越の同一性</strong></span>
</p>
<p>
なお、自と他の区別をなくすには、それと同時に、善と悪、楽と苦の区別をなくすことを含めた、ひかりの輪の説く、三仏の法則全体の悟りが必要である。まず、自と他の区別を超越して、利他の修行を行なうことは、利他の労苦こそが、真の楽の道であることを理解することにほかならない。これは楽と苦の区別を超えている状態である。
</p>
<p>
逆に、楽と苦の区別をして、目先の楽にとらわれる者は、長い時をかけて利他の実践をすることが、自分の真の楽の道であることが、まだよく理解できていない。より正確にいえば、長い時間をかけても他を救う道の方が、自分の目先の楽にとらわれて、いつまでも真の幸福に至れない迷路にはまるよりも、本当はより早く、より楽に幸福になれる道であることがわかっていないのである。
</p>
<p>
次に、自と他の区別を超越して、利他の修行を行なうことは、当然に、善と悪の区別を超え、すべての衆生が未来の仏陀であるという認識と一体である。すべての衆生に仏性があり、未来の仏陀であるという考えがなければ、利他の行為は空しいものとなる。
</p>
<p>
また、逆もまた真なりである。善と悪の区別を超えて、すべての衆生が未来の仏陀であると考えるならば、すべての衆生は未来に仏陀に至る一本の道を歩んでいると考えられるから、自と他の区別もなくなっていくのである。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>４．真の自己は無限の宇宙、真の家族はすべての生き物という思想</strong></span>
</p>
<p>
なお、自他の区別を超えた状態では、真の自己は無限の宇宙であり、真の自分の家族・教団・会社・国は、無限の宇宙となり、そのすべてを平等に愛する意識となる。その中では、自我執着に基づいた、家族・教団・会社・国などといった集団の中にまつわる、自我意識に関連する名誉欲・権力欲・支配欲は止滅していく。
</p>
<p>
そして、真の教団は宇宙である以上、宇宙全体＝すべての衆生が導きの対象である。ひかりの輪という私たちの教団でさえ、今生を超えた延々と続く輪廻転生の中では、一時的な組織にすぎない。こうした、広大無辺な心と永遠の精進の心を培うべきである。
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<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>５．真の救済・奉仕とは、仏＝宇宙の時空間の流れに沿った奉仕</strong></span>
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<p>
衆生への奉仕・衆生済度の実践は、宇宙こそが衆生を育む仏の現れであるから、宇宙の時空間の流れが仏の救済活動そのものである。よって、その時空の流れ＝仏の意思に沿って、仏が今、自分に与えている役割は何かを推し量りつつ、その奉仕・救済活動のお手伝いを、遠大な時の間、焦らず弛まず延々と行なうのである。
</p>
<p>
しかし、自我執着に基づく自分の活動を仏の救済活動と取り違えている場合は、権力欲・支配欲が生じることになる。衆生済度を仏＝宇宙によるものではなく、自分がするものと錯覚し、自分の救済活動＝自分の教団の活動だと錯覚して行なうならば、「そこで自分が早くうまく救済したい」という欲求や、そうならない場合の怒り・いらだち・焦りが生じる。
</p>
<p>
これは、自と他の区別・自我執着であり、楽と苦の区別・楽して救済したいという無智であり、権力欲・支配欲等の煩悩につながる。そして、オウム真理教の麻原元教祖のように、善悪の区別も含まれた意識でもある。よって、延々と流れている宇宙の時空の神への帰依は重要である。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
６．時の神、時空の神との一体化の重要性</strong></span>
</p>
<p>
よって、他者への奉仕・衆生の済度においては、焦らずに、時の流れと一体化することが重要である。衆生の心の進化のスピードは、単純に、それが速いことが善であり、遅いことは悪なのではない。自分が、仏である大宇宙の流れ（大宇宙の意思）と合致することが大切である。
</p>
<p>
なお、時は、非常に偉大である。時を経て、すべては無常に移り変わる。苦が楽に、楽が苦に、善が悪に、悪が善に、自己が他に、他が自己に変化・循環していく。そして、時を経てなすさまざまな経験が、すべての衆生の心を徐々に成熟させていき、凡夫を仏陀に育てていく。
</p>
<p>
その意味で、時の神である、マハーカーラ（サンスクリット語で大いなる時という意味、日本語では大黒天）、カーラチャクラ（時の輪という意味）が、ひかりの輪の神仏曼荼羅に出てくるのである。マハーカーラは、大黒柱のヴィジョンにも関係する。
</p>
<p>
さらに、未完の菩薩・未来仏として、５６億７千万年の時を、謙虚に辛抱強く修行するとされる弥勒菩薩も、この時の神の系統であると解釈できるだろう。そして、ひかりの輪の神仏曼荼羅で、その弥勒と同じ系統である薬師如来も、時と関係のある仏さまである（月光菩薩・日光菩薩を脇侍とし、時に関係する十二神将を従える）。そして、ひかりの輪と縁がある薬師如来の化身とされた徳川家康も、忍耐を強調した遺訓を残した。
</p>
<p>
また、ひかりの輪の宗教的な流れの原点となる宗教的な体験の一つに、私の草津での瞑想修行と七重の虹の体験がある。それは、６月１０日の時の記念日のことであった。その時に、天空に、太陽の周りに虹の輪が現れるとともに、カーラチャクラ尊の形によく似た彩雲も現れた。また、その草津の温泉は、薬師如来の祝福・聖地である。
</p>
<p>
また、現在ひかりの輪の東京世田谷・烏山の本部と、正確な南北の位置関係にある聖地である日光は、開山された際に、大黒天の守護があったという伝説があり、神道の聖地としても、大黒天と一体視される大国主命が信仰対象となっている。
</p>
<p>
そして、この時の神と一体化した精神で、善悪の区別、苦楽の区別、自他の区別を超えて、衆生への奉仕・救済のお手伝いをしなければならない。すなわち、煩悩が少ない者と多い者によって、善悪の区別をせず、調御しやすい者と調御し難い者によって、苦楽の区別をせず、教団の内と外によって、自と他の区別をせずに、奉仕するのである。
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&nbsp;
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<p>
<span style="font-size: medium"><strong>&nbsp;４　六波羅蜜（六つの完成）と十八の実践</strong></span>
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<p>
では以下に六つの完成自体の説明を行なう。六つの完成とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの修行を完成することである。一つ一つ説明する。
</p>
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&nbsp;<br />
<span style="font-size: small"><strong>１．布施--三つの布施</strong></span>
</p>
<p>
第一の布施は、財施である。これは、財物を施すことである。また、広くは労働を奉仕することも含む。財物は人を真に幸福にしないにもかかわらず、現代社会は財物のとらわれが強く、物欲にあふれ、拝金主義の世界であるから、それから解放されるためには、この実践は非常に重要である。
</p>
<p>
第二の布施は、無畏施(むいせ)である。これは、文字通り解釈すれば、畏れ（恐れ）の無い状態を施す、という意味である。言い換えると、他を恐れから守ることである。そして、これは、その裏に、怒りによって他を攻撃することを避けるという意味がある。
</p>
<p>
第三の布施は、法施である。これは、法則を施すということである。法則を施す＝教えると、自分の理解も深まるため、自己の悟りと利他を求める者にとって重要な実践である。
</p>
<p>
さて、法施とは、ちまたでいわれる宗教団体の自己拡大欲求に基づくものではなく、すべての衆生を自分の恩人・未来の仏陀と見て、自分と他者を区別せずに、法則を分かち合おうとする心に基づいて、行なうべきものである。その意味で、今生において法則に縁のある人たちすべてに対して、（千手観音菩薩のように）手をさしのべるくらいの心構えが必要である。
</p>
<p>
もちろん、手をさしのべた結果として、縁があって法則を学ぶかどうかは、もっぱら相手に委ねられる。仏教の教えの達成は、自発的な意志が重要視されるから、当然のことだが、ちまたでいわれるような宗教団体の無理な勧誘などは全く意味がない。
</p>
<p>
では具体的には、どのような法施を行なうかについては、後述する「２１世紀のための宗教の革新」のところを見ていただきたい。会員を増やして教団を膨張させるということを主眼としたのではなく、人類社会全体・万人に開かれた新しいタイプの教団・修行の場を作るのである。
</p>
<p>
話を元に戻すと、自分の怠惰のために、他と法則を分かち合う実践ができなければ、「自分だけが法則によって幸福であればいい」という、自己中心的な心の働きを乗り越えることができない。法則を、縁あるすべての人と分かち合うことにより、広く大きな心を作るのである。
</p>
<p>
なお、法施がしにくいと感じる場合は、まず、自と他を区別しないことを含めた教学が不足していると考えるとよいだろう。あらためて、教本を教学したり、発菩提心を含めた密教儀式などをしっかりと行じたりするとよいと思う。
</p>
<p>
最後に、布施の実践は、法施に限らず、財物や精神的な安寧(あんねい)について、他と分かち合うことであるから、「自分だけ良ければいい」とか、「自分が独占したい」という心の働きを弱めることができる。こうして、自と他の区別を和らげ、利他の心を培うことになるから、智慧と慈悲を体得するために重要な法則である。そして、布施以下の持戒・忍辱・精進・禅定・智慧も、本質的には、これと同じ恩恵がある。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>２．持戒--三つの根本戒と十戒</strong></span>
</p>
<p>
持戒は、例えば、仏陀の説いた十戒（＝十悪をなさないこと）を護持することである。十悪とは、①殺生、②偸盗(ちゅうとう)（盗み）、③邪淫、④妄語（嘘）、⑤綺語（必要のない言葉）、⑥悪口(あっこう)、⑦両舌（仲違いさせる言葉）、⑧貪り、⑨怒り、⑩無智（仏法を理解せず、現象をありのままに見ることができない）である。
</p>
<p>
この十戒の根本は、最後の三つの心に関する戒（貪り・怒り・無智＝三毒を避ける）ということができる。この三毒は、根本的な煩悩であるとされ、これから他の悪行も生じるのである。例えば、殺生は主に怒り、偸盗は主に貪り、邪淫は主に無智が原因となることが多い。また、妄語・綺語は主に無智、悪口・両舌は主に怒りが原因となることが多い。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>３．忍辱--三つの忍辱</strong></span>
</p>
<p>
忍辱の第一は、物質的な困窮に耐えることである。第二は、非難・批判に耐えることである。第三は、法則の理解の難しさに耐えることである。
</p>
<p>
この忍辱の実践は、大乗の修行の中でも非常に重要だといわれている。大乗の実践は、その根幹に、万物への感謝がある。そして、忍辱は、単に苦しみに対する忍耐とか、とらわれの放棄といったものにとどまらず、苦しみを喜びとして、苦しみに感謝するという教えが含まれている（転換の感謝）。それでこそ、敵対者を含めた万物への感謝が生じ、万物を恩人と見た発菩提心の土台となるのである。
</p>
<p>
なお、三つの忍辱と三つの布施は密接につながっている（表裏である）。財物を施すことは、物質的な困窮に耐えることと表裏であり、怒らずに他を恐れから守ることは、他からの非難・批判に対して怒らずに耐えることと関係し、法則を施すことは、法則の理解（及び法則を理解させること）の難しさに耐えることと表裏である。
</p>
<p>
さらに、布施と持戒と忍辱には共通点がある。三つの布施と三つの忍辱がつながっているが、この三つの布施と忍辱は、三つの根本戒と合致している。というのは、財施は、貪りを弱め（財物は貪りの原因）、無畏施は、怒りを弱め（怒らずに守るから）、法施は、無智を弱める（法則は無智を弱めるから）。よって、三つの布施・三つの戒・三つの忍辱で、三毒を和らげることができる。
</p>
<p>
なお、布施・持戒・忍辱の実践と、本質においてよく似ているのが、修行者が悟る上でなすべき三つの放棄である。三つの放棄とは、いろいろな表現が可能だが、仏教用語でいえば、①我所執(がしょのしゅう)（自分のものに対するとらわれ）、②我執(がしゅう)（自分に対するとらわれ）、③邪見（間違った考えに対するとらわれ）である。邪見が、我執・我所執を形成する源であることに注意されたい。
</p>
<p>
また、ヨーガのチャクラの概念でいえば、①下位の三つのチャクラ（財物・異性・食べ物）の放棄、②虚栄心（プライド）や妬みの放棄（アナハタ・ヴィシュッダに関係）、③間違った善悪の観念のとらわれの放棄（アージュニァーに関係）と表現できるだろう。
</p>
<p>
一つ目は物欲などの放棄で財施・貪りの止滅と関連し、二つ目の我執ないし虚栄心・プライドは、怒りの原因となることが多いから、無畏施・怒りの止滅と関連し、三つ目の間違った考え方や善悪の観念は、法施・無智の止滅に関連する。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
４．精進--三つの精進</strong></span>
</p>
<p>
精進の第一は、決起の精進である、これは、困難を感じても、決意してダルマの実践に入ることである。人は概して、「楽して幸福を得たい」と思うものだが、ダルマが説く真理は、真の幸福とは、善行を積み上げる努力を経て達成されるものである。よって、常に楽を求める精神からは、ダルマの実践は困難に思えるが、実際にはそれが真の幸福の道であるから、これを乗り越える決起の精進が必要である。
</p>
<p>
第二は、実行の精進である。これはダルマの実践を遅らせないことである。人は、「今さえ楽であればいい」と考えがちだが、今日できることを明日に延ばすほど、実際には苦しみが増大していくのであることを理解し、今日できることは今日実行する精進が必要である。
</p>
<p>
第三は、継続の精進である。これは、たゆまずダルマを実践することである。人は、何ごとにつけても、ある程度修行が進むと、途中で気を緩め、修行から離れてしまう傾向があるので、これを乗り越えるのが、継続の精進（たゆまぬ精進）である。
</p>
<p>
この精進は、法則の実践において、とてもよく問題となる無智・怠惰・慢心を滅するものである。第一の決起の精進は、「楽して幸福になりたい」という無智を超えるものである。第二の実行の精進は、「今さえ楽であればよい」という無智を超えるものである。そして、第三の継続の精進は、「焦らず弛まず努力せずに楽をしたい」という無智を超えるものである。
</p>
<p>
また、精進とは、発菩提心に基づいた六つの完成の中の実践であるから、それは、すべての衆生の仏性の覚醒への奉仕に対する精進であることはいうまでもない。そして、私たちが、一元の法則の教学をなして、それを現実世界で行為として実現するのが、精進をはじめとする功徳の実践である。
</p>
<p>
よって、精進の実践とは、教学・行法などによって、自と他、善と悪、楽と苦を区別せずに、すべての衆生の苦しみを取り除くことが、自己の苦しみを完全に取り除くことだと理解し、その教えに、自分たちの日々の実践を合致させて、未来永劫、焦らず弛まず、ひたすら衆生への奉仕・衆生済度を行なうことである。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>５．禅定--三つの禅定</strong></span>
</p>
<p>
禅定の第一は、未真理の瞑想である。これは、まだ、十分にダルマの真理に基づいた瞑想に至っていない段階の瞑想である。教学がしっかりとできていないと、与えられる瞑想をなしても、その深い意味がわからず、瞑想上の気持ちよさなどに意識を取られる場合が、この場合である。
</p>
<p>
第二は、真理の論理的な瞑想である。これは、ダルマの真理に基づいた瞑想をしているが、それが依然として論理的な思考に基づくものであって、ダルマの真理を直接体験している段階には至っていない。相当に高い段階ではあるが、まだ、煩悩が十分に滅してはいない。
</p>
<p>
第三は、真理を直接体験している瞑想である。これは、ダルマの真理を直接体験している瞑想であり、論理・思考によらない瞑想である。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
６．智慧--三つの智慧</strong></span>
</p>
<p>
智慧の実践の第一は、教学による智慧である。教学といっても、この段階は、ダルマの真理を知識として吸収しているにすぎない段階である。知識としては吸収しているが、まだ十分な思索・分析がなされておらず、ダルマの正しさを論理的にも体験的にも理解していない。
</p>
<p>
第二が、推理智（論理智）の智慧の段階である。これはダルマの真理を論理的に分析・思索し、十分に納得している段階である。しかし、この理解は、ダルマの真理の直接体験による理解ではなく、論理によって間接的に、ダルマの正しさを理解した＝推理した段階である。
</p>
<p>
第三が、真理を直接体験している智慧である。これはダルマの真理を（瞑想によって）直接体験して得られた智慧である。
</p>
<p>
なお、上記のように、禅定と智慧は連動している。これは、禅定＝瞑想の結果、心が静まると、智慧が生じるからである。これは、止観の教えの中にも出てくる。すなわち、瞑想によって心が静まる（＝止）と、正確な観察が生じる（＝観）という教えである。
</p>
<p>
以上、六つの完成・十八の実践は、煩悩を止滅し、利他の心を培い、仏陀の境地に至るために、私たちの修行に欠かせない重要な実践項目であることをわきまえ、日々励行(れいこう)するべきである。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>５　付記--オウム真理教の六波羅蜜の解釈の過ちを正すこと</strong></span>
</p>
<p>
六波羅蜜（六つの完成）は、大乗仏教の伝統である素晴らしい教えであるが、オウム真理教でも六波羅蜜を「六つの極限」と称して実践した点を考慮して、ひかりの輪の六つの完成の解釈が、どのようにオウム真理教の問題を解決し、大乗仏教の伝統の正しい解釈であるかを以下に示すことにする。
</p>
<p>
それは、六つの完成を実践する準備修行と位置づけられている、①平等心の瞑想、②因果の七つの秘訣の瞑想、③自他平等利他行の瞑想といった、三つの前行に端的に表れている。このことを以下に具体的に説明しておく。この三前行の教えのエッセンスは、まさに三仏の法則と同じでもあり、その意味で、三仏の法則こそが、オウム真理教の間違いを解決する重要なポイントである。
</p>
<p>
まず、平等心の瞑想では、輪廻の中では、敵味方が頻繁に入れ替わり、各生での人間関係には、固定的な実体がないことを修習する。これに対して、オウム真理教の教えでは、この世界は、過去世から麻原元教祖の集団と悪の集団があるかのようなイメージがあり、これが一連の事件を支える信者の精神構造の一部となった面がある。
</p>
<p>
しかし、実際には、かつての弟子たちは、私たち自身を含めて大半が脱会し、元教祖を否定するに至ったのが、今生でも確認できる事実である。また、性急に日本の王となろうとし、サリン散布などの非人道的な暴力行為に出た後に、弟子の告発にあって逮捕された元教祖の人格は、比叡山の焼き討ちをなし、明智光秀の裏切りにあった戦国時代の織田信長の性格ともよく似て、部下・家来に裏切られて破滅するタイプであり、その主従関係は、離反が相次ぐ、非常に不安定＝無常なものになるはずである。
</p>
<p>
次に、因果の七つの秘訣の瞑想は、すべての衆生・万物に対する感謝と恩返しを養う教えである。これは、オウム真理教の際に陥った、社会を善業多き魂である自分たちと、悪業多き魂である他者に分けて、「社会が自分たちを弾圧している」という被害妄想や、「その中でキリストの集団となる」という誇大妄想とは、正反対の教えであることは明らかであろう。
</p>
<p>
そして、この被害妄想の背景になったものと推察されるのが、元教祖の幼少期における不遇であるが、親や周囲に対する不満・被害妄想といった人格の歪みも、法則に基づいて、感謝の実践を行なうならば解消される（例えば、知足・転換・万物の三つの感謝の法則や、内観法などがその実践の具体的な例である）。
</p>
<p>
よって、貪りを超えて、足るを知り、与えられてきた幸福に感謝すること、そして、苦しみを喜びとして敵対者にも感謝するといった教えは、貪りや怒りの捨断とともに、謙虚さや愛を育んで、誇大妄想や被害妄想を予防することに役立つのである。
</p>
<p>
最後に、自他平等利他行の瞑想は、自と他の区別を超えた教えである。伝統的な自他平等利他行の思索は、ダライ・ラマ法王などの書籍（『ダライ・ラマ瞑想入門』）によれば、一般的に、利他の行為の利益と、利己・エゴの行為の不利益を考えるというもので、ある意味で道徳的な感じのものである。
</p>
<p>
それに対して、ひかりの輪の自他平等利他行は、より徹底的なもので、具体的には、三仏の法則などの修習によって、自と他は本質的に一体であるという世界観に基づいて、利他＝利己、真の自己＝全宇宙・万物、といった認識を確立する。
</p>
<p>
この教えによって、オウム真理教に見られた、非信者＝社会の悪業を、教祖や信者＝教団の悪業とは別物と見て、非信者を消去することで（オウム真理教の用語でポアと呼ばれた行為）、この世界を理想の世界にするという発想を乗り越えることができる（なお、オウム真理教でのポアという言葉の使い方は、チベット密教のポアという言葉の使い方と異なる面があるので注意されたい）。
</p>
<p>
そして、社会の悪業は、自分たちの悪業とつながったもの、投影したものであると考えて、謙虚さを保って、自らの努力を深めることが、社会を浄化することにつながるという考え方を持つことができる。これは、一元の法則を理解する智慧に基づいて、長い間かけて衆生済度を実現するという、忍辱（忍耐）と精進の修行にほかならない。
</p>
<p>
それから、六つの完成の無畏施についてであるが、ひかりの輪が、教団として行なうべき無畏施がある。それは、オウム真理教時代の問題に起因する、社会の教団への不安を和らげるために、団体全体を挙げて、過去の反省・総括、教団教義と活動の改革、賠償・テロ防止の社会貢献、ならびに団体の現状に関して適切に公表・広報・出版していくといった努力をすることである。
</p>
<p>
これに加え、今後、各支部の活動における無畏施を考えなくてはならない。それは、少なくとも、①法則を求める一般の人がなるべく不安を持たなくてすむあらゆる工夫をすること、②来道・入会した人を社会的な問題からなるべく守るための努力をすること、③社会が重視するオウム真理教信仰の脱却支援活動として、元信者を導く努力などが含まれるだろう。
</p>
<p>
また、忍辱の実践とは、現実世界での自我執着の放棄であり、これは、ゾクチェンやマハームドラーの修行の中でも説かれる、現実の試練によって悟りを深める修行に属する。
</p>
<p>
ただし、オウム真理教のマハームドラーの試練の教義の間違いは、他者＝社会を犠牲にした形で、自己満足の世界の中で、自己放棄の修行をしようとしたことであった。この点に十分留意して、反省総括をする必要がある。そして、この自己放棄の修行を、麻原のように社会を犠牲することなしにできてこそ、真の自立の成就でもある。
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<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: large"><strong>&nbsp;第三章　２１世紀のための宗教の革新--新しい宗教の創造</strong></span>
</p>
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&nbsp;
</p>
<p>
ここでは、私が現段階で構想している、２１世紀のための宗教の革新について述べたい。２０世紀までの宗教は、人を救う面があったとともに、例えば、盲信・狂信の非合理性、他宗派・社会との対立・紛争、そして、組織の閉鎖性などといったさまざまな問題を抱えているのは明らかである。そういった問題を乗り越えた、２１世紀の人類社会のための新しい宗教のあり方の一例を示したい。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>１　盲信を超える</strong></span>
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--依存・怠惰と傲慢を超える、宗教と科学の融合、釈迦牟尼の教えから
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まず、特定の人物を絶対視しないこと。言い換えると、学びの基本は、絶対視せずに、かつ、謙虚に学ぶことである。また、特定の人物（自己の宗派の教祖・開祖）を絶対視しないのと同様に、自己の宗派とその教義などを絶対視しないことである。
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誰か他人を絶対視することは、楽して幸福になりたいという依存の欲求と、自分が信じた人を絶対と位置づけることにより、気づかないうちに自分自身の判断能力を絶対視することになり、怠惰と虚栄心・慢心の煩悩が増大する恐れがある。
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その一方、絶対視できる相手がいないならば、誰からも学ばないという反動的な考えに陥る場合があるが、それも、形を変えた怠惰と慢心にほかならない。よって、絶対視せずに、謙虚に学ぶという、バランスの取れた考え方が必要である。
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これは、一般にいわれる先生と生徒、先達と後輩の関係にも似ている。自分の教えの師（先生）からは、謙虚な心で十分に、その先人・先達の智慧を吸収しつつも、それを絶対視はせずに、自分の知性・理性で、その教えをよく吟味し、自分で納得できたならば、それを修習することである。
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これは、釈迦牟尼が説いた学びの方法であった。釈迦牟尼は、「私（＝釈迦牟尼）を崇めるな」と戒め、修行者が、自己と法を帰依の拠り所にすることを説いた（自灯明・法灯明）。ただし、これは、他人から学ぶなという意味では決してない。実際、釈迦牟尼は、自ら法則を説いたし、また、仏・法・僧の三宝に対する帰依を説いた。重要なことは、師から教えられた法を、自分の知性・理性でその是非をよく吟味し、自分なりによく咀嚼(そしゃく)して、修習することである。
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実際に、インドの仏教の伝統では、自分の師に対する深い敬意を持ちつつ、その師の教えを絶対に正しいと考えることは、その敬意とは別のものだとされてきた。よって、真実を見極める科学者が行なうように、師の教えを客観的に分析・評価し、必要ならば批判する態度も許容されたという。
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なお、盲信の背景にある依存・怠惰は、楽して幸福になりたいという欲求である。これは、釈迦牟尼の一元法則である、苦楽表裏、楽の裏に苦があるという教えの無理解から来るといってもよい。教えをよく吟味するのは労苦であるが、目先の楽のために盲信に走れば、後に、盲信による大きな苦しみのつけが回ってくるのである。
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なお、盲信をしないためには、客観的な事実に基づかず、単に信じていることと、客観的な事実に基づいて、信じていること（＝知っていること）をきちんと区別することが重要である。人は、自分が特定の人物や教義を信じる場合に、客観的に見れば、それが十分な証明・根拠に基づいていないにもかかわらず、それが正しいと思いこむ傾向がある。
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客観的には、それは、その人が好きで信じている範疇であるにもかかわらず、当人は正しいと思い込んでいる。これが、いわゆる「はまる」「突っ込む」という状態である。その背景には、上記の依存・怠惰の欲求や、自己愛著・虚栄心・慢心といったものがある。特に後者は、その対象の正しさを信じることが、自分の正しさを信じることと一体不可分に結びついてしまった状態である。
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科学分野の師弟関係では、自分の先生を絶対視しないことは当たり前となっている。その一方で、先人・先達・先輩に対する敬意は深い。ニュートンの万有引力の法則が、その後に現れたアインシュタインの相対性理論に比べて不正確な理論であったとしても、アインシュタインを含めた多くの科学者にとって、ニュートンは、深く尊敬すべき先人・先達であることに変わりはない。ニュートンは、彼らの学びの対象であり、ニュートンのおかげで、その後の物理学の発展があり、その中で、アインシュタインの功績も生まれたのである。
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今後は、宗教の教義・思想も、科学の分野のごとく、どのように偉大な先人の教えであっても、それを絶対視せずに、謙虚に学び、それを吸収したならば、それよりも優れた教義・思想を生み出すべく、絶えず努力するべきであろう。こうして、科学の理論と同じように、宗教の教義・思想も、絶えず改善・成長し続けるならば、宗教が、科学とともに、人類の叡智という地位を回復するだろう。
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<span style="font-size: medium"><strong>２　善悪二元論と闘争を超える</strong></span>
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--世界の調和、真の民主主義の実現、観音菩薩の教えから
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従来の多くの宗教においては、自分が信じる宗教の世界の中において、「神・仏・聖」とされるものと、「魔・邪」とされるものを、非常に強く区別してしまう問題がある。そして、そのため、異なる宗教・宗派や、宗教と社会の間で、自分たちを神の側、他者を悪魔の側と位置づけて、対立・闘争・戦争が繰り返され、今日に至っている。
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そして、これを乗り越える教えとして、第一章で、善と悪、優と劣の区別・二分化を超える観音菩薩の一元法則を解説した。それは、この世の万物には、本質的に優劣があるのではなく、それは、それぞれの個性であり、お互いを助け合う上での役割の違いであって、万物はすべて、神仏の平等な現れ（平等な一部）であると説いた。
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しかし、これを本当に実現して、宗教による対立をなくすためには、第一章でも触れたように、自分の信じる宗教の世界で聖とされるものと、邪とされるものの間にも、本質的には、優劣の区別はないという思想にたどり着かなければならない。これができるかが、分かれ道となる。
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そして、まさにこれに関連する大乗仏教の教えとして、凡夫と仏を二分化しない「凡夫(ぼんぷ)即仏(そくほとけ)」という教えがある。すべての凡夫は仏性を有し、釈迦牟尼がそうであったように、時とともにさまざまな経験を経て成長し、未来に仏になる存在である。その意味で、仏の胎児であって、仏と本質的に区別される存在ではない（仏の子であるならば、本質的には、仏にほかならない）。
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釈迦牟尼も、仏となる前の生には、カッサパ如来（釈迦牟尼以前の仏）を誹謗中傷したこともあったとされる。仏教では、如来の誹謗中傷は、最も大きな罪とされるが、その大罪をなした者が、後に仏になったのである。他にも、９９９人の人を殺した後に、釈迦牟尼に巡り会い、改心して悟りを得たというアングリマーラや、数十人の親族を呪殺した後に、師に巡り会い、大成就者となったというミラレパなどの成就者がいた。
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ここでは、時の作り出す変化（無常性）を理解することがポイントである。すなわち、悪人も時とともに、善人に変わると考えて、善人と悪人を二分化せずに、すべての人々・生き物を未来の仏、仏の子と考えるのである。時はすべてを変えていく大きな力を持っている。
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そして、これに加えて、煩悩が大きい者が、未来には大いなる解脱をする可能性があること（大煩悩大解脱）、煩悩が強く悟るのが遅れる者が、悟ったならば大きな慈悲を持つ可能性があることについても、第一章で述べたとおりである。
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先に仏になった釈迦牟尼と、後に仏になる弥勒菩薩の間にも、優劣があるのではなく、その違いは、先駆者と普及者といったような役割の違いであって、その違いによって、互いに助け合う・補い合う関係にあると解釈するのである。
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さて、これに関連して、凡夫と仏陀を二分化しないことと同じように、大乗仏教には、凡夫の煩悩と仏の菩提心（慈悲の心）を二分化しない教えがある。それを「煩悩即菩提」という。凡夫の煩悩も、それが土台となって、菩提心が生まれる。煩悩による苦しみが、重要な経験となって、菩提心の正しさに目覚めるのである。
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最後に、大乗仏教では、仏教が苦しみの世界とする（私たちが生きている）輪廻の苦界と、絶対の世界とする「涅槃」を区別しない教えがある。また、同じように、輪廻の世界と、仏の集う「仏の浄土」を区別しない教えもある。それぞれを「輪廻即涅槃」、「輪廻即浄土」という。
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輪廻と涅槃や、輪廻と仏の浄土は、大乗仏教の唯識思想が説くところでは、本質的に別々の世界ではない。それは、それぞれの人の心（意識と五感）の違いによって、同じ世界が、輪廻・涅槃・仏の浄土といったように、さまざまに違って見える（現れ出してくる）ものである。
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この思想は非常に重要で、宗教が対立・闘争する中で抱えている一つの問題が、この現実世界・現世の軽視である。どんな宗教でも、この世以外の世界を認める面がある。しかし、それが行き過ぎれば、この世よりも、あの世の方をずっと重視してしまう場合がある。
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すると、オウム真理教のポアのように、「宗教的に対立する他人を殺しても、高い世界に生まれ変わるのだから問題はない」、「現在の悪い社会をハルマゲドンで滅ぼして、その後にキリストの千年王国を作る」という発想や、イスラム原理主義のように、「悪い者をやっつけるために自爆テロをすれば、天界に生まれ変わって幸福になれる」といった発想も生じてくる。
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これは、本質的には、オウムやイスラムに限らず、あの世を強調する宗教のすべてに当てはまる潜在的な危険性である。例えば、織田信長との対立では、浄土真宗（一向宗）も、信者に対して、「進めば天国、退けば地獄」と説き、織田信長との戦いに立ち向かうことを求めた。
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こうして、この世を軽視したり、この世の生を軽視する教えの場合は、それが、宗教的な対立・紛争の際に、他者を殺したり、信者に命の犠牲を求めるなどして、現実世界を破壊し、地獄にしてしまう可能性をはらんでいる。
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そして、これを乗り越えるのが、先ほど述べた、「輪廻即涅槃」、「輪廻即浄土」の教えである。すなわち、この世界が良い世界か悪い世界かは、それを見る人の心によって変わってくるもので、天界から地獄といった世界は、本質的に人の心の中に存在するという思想である。
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以上をまとめるならば、①人についての善悪の二分化を超えること、②人の心についての善悪の二分化を超えること、③世界についての善悪の二分化を超えることによって、宗教が、対立・闘争を乗り越えることができると思われる。
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最後に、この宗教的な思想は、実は、真の民主主義の土台となるものである。民主主義は、その思想の発祥においては、民が主(しゅ)＝神であるという思想がある。
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それ以前は、一人の人間＝王が、主＝神であった。すなわち、王権神授説に基づき、王が神の代理人であったのだ。それに取って代わった民主主義の本来の意味は、一人一人の民が主である、一人一人の民は神の一部であるという意味を持つ。実際、ユダヤ教では、多数決において、多数の方に神の意思が現れるという思想があるそうで、民主主義という政治形態と宗教教義が融合している。
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しかしながら、現在の民主主義社会では、投票権においては確かに一人一票とされて、万人が平等に扱われているが、人の心の中では、ご存じのとおり、万人が平等・等価値とは、全くなっていない。優劣の区別が激しくなされ、自己を否定して卑屈に陥ったり、他人を否定する慢心に陥ったりしている。こうして、自分の価値を否定したり、他人の価値を否定したりすれば、すべての民が、それぞれ主＝神の一部であるという認識には全く至らない。
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これを乗り越える一元法則を普及させることは、投票権に限られた、現在の形ばかりの民主主義ではなく、すべての人が本当の意味で尊重し合う、真の民主主義の社会の土台となる思想である。言い換えれば、良い意味での、宗教的な叡智と政治の融合である。
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なお、アメリカ合衆国が、世界初の民主主義国家として誕生し、その後、民主主義を深めるために、黒人奴隷の解放を含めた人種差別を乗り越えてきた歴史があるが、現代社会で民主主義を深めるためには、個々人と社会が、自分の心の中の優劣の二分化の奴隷にならないようにすべきであろう。
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<span style="font-size: medium"><strong>３　教団と社会の壁を越える</strong></span>
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<span style="font-size: small"><strong>--地球全体に開かれた宗教の実現、弥勒菩薩の教えから</strong></span>
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多くの宗教団体は、救われるには、信者・会員にならなければだめだと説き、教団とその外部には相当な壁がある。しかし、実際には、本質的には、信者と非信者に明確な境界はなく、信者にも疑念が、非信者にも何らかの宗教心はあり、教団とその外部は、密接不可分の関係にある。
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また、現在の宗教団体は、精神的・物理的・地理的な制約によって、その信仰・修行の実践の場が、多かれ少なかれ、万人に開かれたものだとは言い難く、一部の教団では、その施設内部のみで、修行・信仰が行われ、隠された形となっており、外部の人にとっては、それも障害・不安となっている。
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<p>
そこで、教団の内外の区別をなるべく和らげた、開かれた宗教を実現する。そのために具体的には、信者・非信者を問わず、誰もが参加できるネット空間や、公の聖地・施設を、思い切って、その修行・信仰の実践の場とすることが考えられる。
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<br />
特に、ネット空間を大胆に最大限に活用することによって、それは、地球全体に広がる精神的な向上のためのネットワークとなる。世界中どこにいても、信者にならなくても、オンライン参加者として参加できる。名付ければ、グローバル・スピリチュアル・ネットワークとしての、ひかりの輪の創造である。
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<p>
このひかりの輪のネットワークは、２１世紀の社会のための新しい宗教の創造であり、宗教の革新と、社会の価値思想の革新を促すものである。具体的には、一元の法則という新しい幸福観・思想と、その実践方法を普及し、なおかつ、上記のとおり、その具体的な実践の場、今までにない新しい開かれたシステムを構築する。
</p>
<p>
なお、ネットに加えて、自然豊かな聖地に集まって修行を行なうことも有益であろう。ネットも聖地も、特定団体に属さない、万人の共有物であり、これは、地球・宇宙全体が、真の教団である、という思想に合致するものである。また、公の施設を使って行なうイベントも活用していく。
</p>
<p>
これは、自と他の区別を超える弥勒菩薩の法則の実践であり、言い換えると、真の自己は宇宙全体であり、真の家族は宇宙のすべての衆生であり、真の自分の教団・社会・国は、宇宙全体である、という思想である。
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<strong>《付記》今後、ひかりの輪が構築する予定の、具体的な新しい修行の場・システム</strong>
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<p>
今後構築する具体的な新しい修行の場・システムとしては、例えば以下のものがある。
</p>
<p>
１　ネット上で、講話や儀式・他の修行を自宅に頻繁に生中継する（Ustream)<br />
２　ネット上で、複数の人の自宅を結んで、勉強会や個人面談を行う<br />
（NetＴＶ会議システム）<br />
３　道場以外の場として、オフ会や聖地修行に、一般の人も参加できるようにする。<br />
４　教材や法具も、ネットを通じて購入できるように整える。
</p>
<p>
なお、現状のひかりの輪の公式ＨＰは、上記のネット教団の前段階のものであり、すでに、以下の機能を有しているが、今後その機能を拡充・改善する。
</p>
<p>
１　代表の支部道場での講話の生中継（Ustream)、代表・指導員の講話の動画、<br />
２　法具聖音・瞑想音楽の音声データ、ヨーガ等の行法・聖地修行の動画・テキスト、<br />
３　代表・指導員による法則のテキスト、会員や一般の方々の修行体験談、<br />
教材・法具の紹介<br />
４　各支部道場や指導員のご紹介など
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&nbsp;
</p>
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<strong>《付録》　関連教材リスト</strong>
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以下は、今回の講義に関連する、これまでのひかりの輪の特別教本のリストです。<br />
ご活用ください。
</p>
<p>
『一元の法則とその悟りの道程、金剛薩?の内省修行』（2010年ＧＷセミナー）
</p>
<p>
『現代人の一元の法則』（2009～2010年末年始セミナー）
</p>
<p>
『循環の法則と密教加行』（2009年夏期セミナー）
</p>
<p>
『内観、唯識、縁起のエッセンス』（2009年ＧＷセミナー）
</p>
<p>
『仏教講義・悟りの道程１　縁起の法』（2008年9月）
</p>
<p>
『仏教講義・悟りの道程２　悟りへの道と大乗の教え』<br />
（2008・2009年 年末年始セミナー）
</p>
<p>
『大乗仏教・六仏の教え』（唯識、内観の部分）（2009年2月）
</p>
<p>
『ひかりの輪　密教加行の儀式次第』（2009年8月）
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<p>
&nbsp;
</p>
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</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【仏教講義】２０１０年～１１年　年末年始セミナー特別教本『中道の教え、卑屈と怒りの超越――21世紀の新しい信仰のあり方』</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/lecturetext/012010/003820101121.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2011:/lecturetext//31.2184</id>
   
   <published>2011-03-10T11:12:43Z</published>
   <updated>2011-08-20T02:44:53Z</updated>
   
   <summary> 2010年～11年の年末年始にかけて行われた、年末年始セミナーの特別教本です。...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="【動画あり】21世紀のための仏教講義" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/lecturetext/">
      <![CDATA[<p>
<span style="font-size: small">2010年～11年の年末年始にかけて行われた、年末年始セミナーの特別教本です。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small">テーマは、『中道の教え、卑屈と怒りの超越--21世紀の新しい信仰のあり方』 です。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small">セミナーでは、各章ごとに、全７回の上祐史浩による教本解説の講義が行われ、すべてＵstreamでネット生中継されましたので、録画された動画をご覧いただきながら、教本を読み進めていただくことができます。</span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>◎動画の内容（全７回）</strong></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>第1回　『釈迦牟尼の教え１--中道の教えによる幸福な人生』<br />
第2回　『釈迦牟尼の教え２--中道の教えによる幸福な人生』<br />
第3回　『卑屈・妬みを超える慈悲・四無量心の教え』<br />
第4回　『怒り・憎しみを超え、自己反省と利他に生きる教え』<br />
第5回  『自我執着を超える縁起・無我の教え・瞑想』<br />
第6回　『宗教を学ぶ姿勢1--21世紀の新しい宗教・思想の創造』<br />
第7回　『宗教を学ぶ姿勢2-21世紀の新しい宗教・思想の創造』</strong></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><a href="http://www.joyus.jp/movie/00200911/00533238_20101121_7.html">&nbsp; ＞＞動画はこちらでご覧いただけます。</a></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<span style="font-size: small"><strong>2010年～11年年末年始セミナー特別教本</strong></span>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>『中道の教え、卑屈と怒りの超越--21世紀の新しい信仰のあり方』</strong></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<img src="/mt/uploads_files/images/2011kyouzai/2011nensi.h.jpg" alt=" " width="150" height="212" align="left" />
<span style="font-size: large"><strong>第一章　中道の教えによる幸福な人生</strong></span>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong><br />
１　釈迦牟尼の中道の教え--苦にも楽にも偏らない幸福</strong></span>
</p>
<p>
仏教開祖の釈迦牟尼は、「中道」と呼ばれる教えを説きました。中道とは、自分の心身を痛めつけ過ぎるような苦行にも、快楽を追求する道にも、どちらにも片寄らない修行の道のことです。なお、苦行主義は右道と呼ばれ、快楽主義は左道と呼ばれ、この中道は不苦不楽の道ともいわれます。<br />
</p>
]]>
      <![CDATA[<p>
そして、釈迦牟尼は、この不苦不楽の中道を特徴とする「八正道」という教えの実践によって悟りに到達し、初めて行った説法（初転法輪）も、この中道・八正道を説いたとされます。<br />
では、この不苦不楽の中道の教えを、現代に生きる私たちにも役立つ思想として検討し直してみたいと思います。まず、苦行に片寄らないという点は、皆さん、すぐに飲み込めるのではないかと思います。戦前・戦中までの日本では、いたずらに苦行主義に走る潮流・文化があったかもしれませんが、現在の日本はそういうことはないと思います。<br />
逆に、快楽に片寄らないという点については、どこかで頭ではわかっているが、豊かになった日本社会の中では、ほとんど忘れられつつある重要な思想だと思います。しかし、それによって、逆に、豊かな社会の中で、苦しみや不安が増大しています。<br />
では、不苦不楽の中道という思想を現代的に表現すれば、人が幸福になる最善の道は、苦しみばかり求めても良くないが、楽ばかり求めても良くない。そうではなく、苦と楽のバランスが取れた生き方が最善だということです。<br />
これを一言で言い換えれば、「足るを知る」と表現できるかもしれません。足るを知るとは、実に深い教えだと思います。というのは、これは、多少の不足を感じても満足するように努めるという消極的な意味だけではなく、多少の不足・苦しみは、ないよりもあった方が良いのだという積極的な意味があります。そして、今回考えてみたいのは、後者の積極的な意味合いの方です。<br />
例えば、「腹八分目に医者いらず」という言葉があります。これは、多少の満腹感の不足があった方が、健康には良いという意味ですね。また、「一病息災」という言葉もあります。これは、一つくらい病気があった方が、体をいたわるため、長生きするという意味です。こうして、何一つ病気がないよりは、少し病気があった方が、全く健康であるより良い場合がある、という意味になります。<br />
「こうじ好事魔多し」というのも、同じかもしれません。良いことばかりがあると、その後が怖いという経験則。例えば好調が続き、慢心・油断に陥り、気がゆるむと、大けがすることもある。
</p>
<p>
「若いうちは苦労を買ってでもしろ」というのは最近身にしみます。若いころ過保護で甘やかされ、わがまま・甘え・忍耐力が不足している自己愛型人格が増えているともいわれています。人間関係が上手くできず、引きこもり、仕事が続かない、夫婦関係・育児の困難を抱えるといった問題が広がっています。<br />
今広がっている新型の鬱病の一因もこれではないかと疑われています。旧型の鬱は頑張りすぎ、新型の鬱はゆるみ過ぎが原因だといわれます。そして、両者の合体型もあるようです。二つの鬱病の原因から見ても、幸福への道は、無理せず怠けず、焦らず弛まず、すなわち、釈迦牟尼の中道と同じです。<br />
また、高齢者は、生活習慣や食生活が乱れ、規則的な運動・作業や、頭を使う機会がないと、認知症になる危険性が高まるとされています。こうして見ると、退職して悠々自適の年金暮らしが、高齢者雇用によって労苦を背負い続ける人よりも、必ずしも幸福とはいえないということになります。<br />
お金はどうか。あればあるだけ良いのか。それともあり過ぎると不幸になるか。お金に多少不足を感じる方が、質素倹約・無駄遣いの抑制の習慣が身につき、少ないお金で生きていくことができます。また、稼ぐ上での苦労が、智慧や忍耐力を育み、育ててくれた親やさまざまな人たちへ感謝したり、世界中の貧困の苦しみを理解できて、感謝や愛や智慧や忍耐という、人にとって一番大切なものを培ったりすることもできるかと思います。<br />
逆に、何一つ不自由・苦しみがない生活というのは、本当に良いのか。フランス王妃マリー・アントワネットが、パンもなく飢えていた貧しい民衆の気持ちが理解できず、「パンがないなら、なぜケーキを食べないのか」と言って怒りを買って、命を落としたという有名な話もあります。<br />
彼女の不幸は、自分に不自由がなかったために、他の苦しみがわからなかったことでした。こうして、全く不自由・苦しみのない生活とは、まるで悪魔の誘惑のように、大変恐ろしいものではないでしょうか（なお、学術的には、これはマリーではなく、他の王室の女性のことだという説もあります）。<br />
誰もが不自由はしたくないと思いますが、世界の中で１０億人以上が飢餓や絶対的な貧困に悩み、昨今は先進国にも不況が広がる今日、そう思い過ぎるならば、客観的には、自分が幸福であればそれでいいと考えていることになるかもしれません。<br />
それでは、あの有名な『蜘蛛の糸』の話のように、慈悲の心を軽視して、自分だけは救われたいと願っても、それで地獄に堕ちるかどうは別にして、慈悲の心から遠くなった心は救われないことは明白です。まず、慈悲の心を目指すべき仏道修行者・宗教家としては非常に危険でもあります。<br />
よく形骸化しているといわれる日本の伝統宗派。徳川幕府の導入した檀家制度で、民衆は皆どこかの宗派に属することになり、修行・布教しなくても、冠婚葬祭などのお布施でお金に困らなくなりましたが、彼らにとって本当に良かったかは疑問です。<br />
最近は、形骸化にともなって、檀家が離れ、葬式にお金をかけない人が増え、危機感を持った若い僧侶の方の相談を、私などさえ受けることもあります。一度たるんで喪失した伝統を取り戻すことは、非常に困難で絶望視する人もいます。最澄・空海が頑張ったとき、&nbsp;彼らは檀家を持たない新興宗教でした。<br />
よって、大乗仏教の菩薩道の修行である「六つの完成（六波羅蜜）」の教えでは、忍辱（忍耐）の修行の第一として、物質的な困窮に耐えるというのがあります。物質的な困窮が全くなくて、仏教が説く智慧と慈悲が身につくだろうかということです。<br />
また、称賛・名誉・地位はどうか。人は弱い者で、成功・評価されてしまうと、満足・慢心・油断が生じ、以前のようには努力がしにくくなる。逆に批判は人を鍛える力にもなり、正しい批判は、自分の改善に役立ち、理不尽な批判は不動の心を培い、感情的な批判は、批判する人の苦しみを理解する機会となり、批判は未来の成長・名誉を生み出すように逆利用ができます。<br />
早く成功したいというのは人情ですが、一番大切なのは、最終的に成功し、幸福になれるかどうか。しかし、若いときに一気に成功して、人・物・金が集まって、その後、落とし穴にはまったケースは多い。９０年代の日本のバブルの崩壊と、最近の米国発のバブルの崩壊で、多くのエリート集団が失敗した話をよく聞きます。<br />
失敗せずに成功したいという気持ちは皆が持ちますが、人は生まれながらに不完全で、多くの成功は、失敗を元にして生まれるのが真実。失敗を恐れず、失敗を成功の元と考え努力を続ける人が、エジソンのように成功し、失敗を恐れる人は、経験が増えずに成功する可能性が少なくなる。<br />
自分の経験でも、宗教家も、あまり苦労なく、２０～３０代前半などで若くして成功するのは危険かもしれません。成功で舞い上がって慢心を抱き、傲慢になって落とし穴にはまる。経典を見ると、真の智慧・慈悲がなく超能力などが身につくのは、魔の働きとも説かれています。<br />
戦国の覇者も、人生前半はさまざまな苦労・忍耐をした家康でした。天才的な信長は破竹の勢いの途中で足下をすくわれ、秀吉は天下統一後の慢心で後が続かなかった。家康の耐えた労苦は、それに値する果報をもたらしたと思います。<br />
その意味で、オウムを出自とする私とひかりの輪は、今も社会の厳しい目の下にあるとはいっても、それを愛の鞭と考えれば、継続的な自己研磨の原動力となると思います。おそらくは一生、気を緩められない境遇だとは思いますが、それも視点を変えれば、一生努力できるということであり、応援してくださる皆さんも少なくなく、人一倍幸福といえるかもしれません。<br />
そして、前にも言及しましたが、大乗仏教の六波羅蜜の忍辱（忍耐）の修行の第二として、誹謗・中傷に耐える教えがあります。実際に、称賛・名誉ばかりで、批判されない人が、真の強い精神、智慧、慈悲といったものが培えるかと説いているのです。<br />
さらに、大きな達成を得ようとすれば、長期的な継続的な努力・労苦に耐える必要があります。逆に言えば、労苦をともなうことこそ、本当の価値があるということ。いっかく一攫千金というのは、たいていが、邪道・魔の道です。最近は、入ればたちまち救われるとする宗教だけでなく、短期間であなたは変われると宣伝するセミナーもあるようですが、心配しています。<br />
よって、大乗仏教の忍辱（忍耐）の修行の第三として、仏陀の教え（ダルマの真理）を理解する上での困難に耐えることが説かれています。イエスの有名な言葉で言えば、「狭き門から入れ」、「滅びに至る道は広い」ということですね。「急がば回れ」、「ローマは一日にして成らず」で、焦らずコツコツ努力しましょう。<br />
しかし、苦労しているときは、苦労の価値はなかなかわからないものです。それを成し遂げた後に、落ち着いた視点で振り返ってみたり、苦労しなかった＝苦労できなかった人の不幸などを見たりして、ようやく気づくというパターンが多いのが普通だと思います。<br />
このあたりが、人の本質的な問題で、目先の幸福にとらわれやすく、長期的な幸福のために努力する価値は見失いやすい。これを仏教では無智といいますが、幸福への最大の障害だと思います。よって、教えをなるべく学び、先輩の経験を分かち合うことが非常に重要ですね。<br />
善行・利他をなすのは、労苦であるが、本当の幸福をもたらします。悪行・利己的な行為は、目先は楽であっても、後には不幸をもたらします。因と果の法則、いわゆるカルマの法則です。この基本的・根本的・普遍的な道理を深く理解できれば、すでに高い悟りを得たといえるほどに、重要な教えだと思います。
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<strong><br />
<span style="font-size: medium">２　苦楽表裏の教え--苦しみの裏側に喜びがあるという教え</span></strong>
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さて、苦しみにも楽にも片寄らないという中道の教えの背景にある考え方が、苦楽表裏、すなわち、楽の裏に苦しみがあり、苦しみの裏に楽があるという教えだと思います。ここで、この教えを詳しく検討しながら、中道の教えの理解を深めてみましょう。
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<span style="font-size: small"><br />
<strong>（１）楽の裏に苦しみがある--とらわれや自我執着による苦しみの増大</strong></span>
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楽の裏に苦しみがあるという教えは、これまでの特別教本でも詳しく解説しました。これに関する代表的な仏教の教えが、「十二縁起」の教えと「四苦八苦」の教えと呼ばれるものです。それは、快楽に執着・とらわれを持つ人間が、この世に生まれて、老・病・死を含めた、さまざまな苦しみを経験することを説いています。<br />
具体的には、十二縁起は、人間が苦しみを経験するプロセスを分析したものです。また四苦八苦の教えは、そうして人間がこの世で経験する苦しみを八つほどに分類して説いたものです。なお、この文脈では、四苦八苦という言葉は仏教の専門用語であって、大変苦しい状態を意味する日常用語としての四苦八苦とは意味が違っていますのでご注意下さい。
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この四苦八苦の教えの中で、楽の裏側に苦しみがあるという今回のテーマに最も関係する教えとは、生・老・病・死以外の四つの苦とされるものです。それは、
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①求めても得られない苦（ぐ求ふとっ不得く苦）、<br />
②愛している者など、とらわれの対象と別れる、失う苦しみ（愛別離苦）、<br />
③嫌いなものと会う苦しみ（おんぞう怨憎えく会苦）、<br />
④（ごうん五蘊が構成する）自我に執着することによる苦しみ（五蘊じょう盛く苦または五取蘊苦）<br />
などです。なお、「五蘊」とは、人の肉体や精神的な要素を五つに分類したものですが、詳しくは他の特別教本や、ひかりの輪の『基本用語集』などをご参照下さい。
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そして、この四つの苦しみをわかりやすく言い換えると、<br />
①快楽の貪りは、際限なく続き、とらわれれば、求めても得られない苦しみが生じる、<br />
②得た快楽にはとらわれが生じるので、それを失うときに苦しみが生じる、<br />
③快楽へのとらわれや奪い合いによって、敵対者などの嫌悪の対象に出会う苦しみが生<br />
じる、<br />
④快楽にとらわれた結果として生じる自我に対する執着が、さまざまな苦しみをもたら<br />
す、と表現できると思います。
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こうして、快楽を貪っても、決して満ち足りることがないのに、欲求は際限がなく続き、得られないときの苦しみや、とらわれた対象を失う苦しみ、快楽を貪りとらわれて奪い合うがゆえに、さまざまな敵・嫌悪の対象を作る苦しみが生じるわけです。また、快楽を貪りとらわれる中で、すべての存在を愛するのではなく、自分だけを偏愛する意識（自我執着）が生じ、これによってさまざまな苦しみが生じます。
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<br />
<strong><span style="font-size: small">（２）苦の裏に喜びがある--とらわれの減少と智慧・慈悲の増大による幸福</span></strong>
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では、逆に、苦しみの裏には、どんな喜びがあるについて述べたいと思います。<br />
第一に、苦しみは、その状態に慣れれば、苦しみではなくなっていきます。これは、快楽への貪りを満たすと、それにとらわれてもっと欲しくなるのと対照的な現象です。これは、とらわれが減少して、それ以前より広い条件で幸福でいられるということになります。これも、貪りを満たしてとらわれ、それなしではいられなくなるのと対照的な現象です。<br />
紆余曲折のある人生を長い目で見れば、今の苦しみに耐え、とらわれが減るならば、その後の人生で、再び落ち込みがあっても、安定していることができます。とらわれが少なくなるとは、苦しみに強くなることです。<br />
この忍耐力は大きな宝だと思います。最近は、少子化・過保護・ゆとり教育など、若いときの苦労・鍛錬の不足から、わがままで忍耐力が乏しく甘えが強い、いわゆる自己愛型人格の人が増えていると心配されています。労働、夫婦関係、育児等は、忍耐力が必要です。それらの維持に多大な困難を感じる人が増えているようです。<br />
なお、釈迦牟尼の教えは、中道といって、バランスを重視し、無理な苦行は否定します。無理せず怠けず、焦らず弛まず、コツコツ努力することです。苦しみの経験が宝であるといっても、無理し過ぎは、怠けることと同じようによくありません。そして、何が無理で何が怠惰かは、当然のこととして、その人の条件に合わせてケースバイケースとなります。<br />
長年苦しみから逃げて心身がたるんでいる場合は、急に頑張ると無理が来て、息切れしたり、反動が来たりする場合もあります。その場合は、焦らずに、急がば回れの精神で、こつこつと改善するのが、空回りしない秘訣だと思います。ただし、無理しないということを口実に、怠惰を続けてはいけません。<br />
これを考えると、早いうちから、無理せず怠けず、コツコツと忍耐力を培うことが重要です。大乗仏教の六波羅蜜の教えでは、今日できることを明日に回さないで精進すべきであると説いています。「思い立ったら吉日」、「鉄は熱いうちに打て」というように、今日からコツコツ努力しましょう。
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第二に、苦しみは、それから逃げ出さずに努力する限りは、智慧を磨く機会となると思います。これは仏教的に言えば、苦しみは悪業の清算であり、悪業は無智の原因であるため、苦しみに耐えて努力する中で、無智が晴れていく状態です。<br />
例えば、失敗を成功に、欠点を長所に、不遇を財産に変えていく智慧があります。格言でいえば、「ピンチの裏にチャンスあり」、「短所の裏に長所あり」、「失敗は成功の元」、「万事さいおうがうま塞翁が馬」といった諸々の経験則です。<br />
例えば、昭和の希代の実業家である松下幸之助氏は、学歴がなかったから他人から謙虚に学べ、体が悪かったから他人に頼む術を覚え、お金がなかったからでっち丁稚ぼうこう奉公に行って若くして商人の機微を覚えたと語っています。彼は長寿でしたが、体が悪かったから、健康に気をつけたのでしょう。<br />
松下氏のやり方は、自分が劣っているという短所を、優れた他人を活かすという長所に変えています。自分が学歴・健康・お金がないから、他人の学歴・健康・お金を活かす。自分が優れている人は、これがなかなかできません。自分が劣っていた彼だからこそ、他人を活かす方向性を見いだしました。<br />
これは学校の成績に関係する知性とは必ずしも同じではなく、しなやかで粘り強い知的・精神的な能力で、智慧と呼びたいと思います。そして、例えば、挫折・困難に強い人は、これが上手だと思います。言い換えれば、挫折・困難を経験しないと、こういった智慧は培えないのです。<br />
よって、これも、苦しみの経験の裏にある喜びであると思います。とはいえ、単に苦しみを経験しても、あきらめずにコツコツ努力し続けない人は、この智慧というものを磨けません。あくまでもあきらめず努力する人が、苦しみを通して得るものが智慧だと思います。そして、この智慧は、次に述べる慈悲に関係します。
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第三に、苦しみは、他の苦しみを理解する力、優しさ、いたわり、慈悲の源になります。自分で苦しみを経験しない人は、実体験がありませんから、その分、他の苦しみを理解することは難しいと思います。自分が苦しみを経験することで、同じ苦しみを持つ他人をよりよく理解し、慈悲を持って手助けする心の働きが強くなります。
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そして、他の苦しみを理解する慈悲の心が生じると、この世界では、自分の幸福の裏には他人の不幸があることを深く理解するようになり、それが、さらに、足るを知る精神、忍耐力を深めることになります。世俗的な幸福は、多かれ少なかれ奪い合いの様相があります。<br />
お金も、異性も、名誉も、自分が他に勝って、それらを得る喜びの裏には、負けた他が、それらを失う苦しみがあります。逆に、自分が負ける苦しみの裏には、他人が得る喜びがあります。これは誰しも頭のどこかではわかってはいても、自分が調子が良くて勝ち組であるときは、気にせず見ないものです。自分が苦しみを経験して初めて、これを深く認識するようになることが多いと思います。<br />
そして、その慈悲の心からは、松下氏のように、他に勝ってではなく、他を活かして自分が幸福になるという発想も生まれてくることになります。自分の幸福の裏に他人の不幸があるということは、逆に、自分の不幸の裏には、他の幸福があるということですから、自分が劣っていることを逆に活用して、優れた他人を活かして幸福になる発想、そういった道があることも気づくわけです。
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<strong>（３）慈悲の化身・観音菩薩の誕生の説話--苦しみこそが慈悲の源</strong></span>
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さて苦しみの裏側に喜びがあるとしました。苦しみの経験を活かして得ることができる最高の宝は、慈悲の心だと思います。そして、その慈悲の心から生まれた、慈悲の化身といわれているのが、観音菩薩です。そして、観音菩薩の誕生のエピソードは、まさに観音菩薩が自己の苦しみの経験を活かして慈悲を培ったことを示していますので、ご紹介しましょう。
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観音菩薩と勢至菩薩は、その前生で、そうり早離とそくり即離という名前の幼い兄弟でした。その生で、二人は若くして父母を亡くしました。二人が悲しんでいると、人さらいがやってきて、「親に会わせてやる」と騙し、小さな無人島に連れていきました。そこで二人は、労働に酷使されて、疲れと飢えのために命を落とすことになりました。<br />
その際、弟の即離は、自分たちの薄命を嘆きましたが、兄の早離は、弟をなだめながら、「私も初めはそう思ったが、どうにもならない。でも、この世で親に死に別れて、人に欺かれる悲しさと、飢えと疲れの苦しさを知った。だから、今度この世に生まれてきたら、この苦しみの体験を縁として、同じ悲しみに泣く人たちを救ってゆこう。他を慰めることが、自分が慰められる道理であることを学んだではないか」と、諭しました。<br />
これを聞いた弟の即離は、初めて心が晴れて、兄弟してこの誓いを胸にして、息を引き取りました。その時、二人の顔には、静かで明るい微笑みが浮かんでいたといいます。この兄の早離が観音菩薩で、弟の即離が勢至菩薩だと南伝大蔵経の『華厳経』は伝えています。<br />
このように、他の苦しみを取り除くことが、自分の苦しみを取り除くことになります。
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それがゆえに、苦しみは慈悲の源なのです。この道理を理解する智慧と、それに基づく慈悲が、観音菩薩であり、勢至菩薩の心であるということができます。
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<strong>（４）慈悲の心の素晴らしさ</strong></span>
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仏教では、慈悲の心は、仏の心の働きそのものであり、人にとって一番大切なものだとしています。慈悲の心による幸福とは何でしょうか。<br />
第一に、他の幸福を喜び、苦しみを悲しむ慈悲の心は、その人の心を温かく、明るく、軽く、広くします。逆に、自己中心で他を害する人の心は、冷たく、暗く、重たく、狭くなります。そして、自己中心の人は、自分も他に害されるのではないかという不安に苦しみますが、慈悲の心のある人は、心が安らぎ、解放されています。<br />
第二に、単に温かく広いだけでなく、智慧に富み、とらわれが少なく、苦しみに強い心を作ります。日頃から多くの他人の苦しみを考えて取り除こうとしますから、智慧が深まります。足るを知って他から奪いすぎずに生きようとしますから、とらわれが減り、苦しみに強くなります。逆に、自己中心の人は、他人の苦しみを考えないため、それによって逆に、自分の苦しみに弱くなります。<br />
今の日本は、前よりも豊かさが減ったためか、将来への経済的な不安が増大しています。しかし、世界・地球全体から見ると、やはり、特別に豊かで恵まれた国であって、ほとんどの人は、飢え死ぬわけではありません。また、最近は、勝ち組・負け組といって、自分を負け組と考えて、ひどく落ち込む人も多いですが、日本人を含めた先進国の人々は、世界の中で富を独占する存在で、しかも、日本は長寿で安全な国だから、客観的に見て、勝ち組であることは間違いありません。<br />
その日本人が抱える将来の不安とは、本質的に何を意味しているのでしょうか。客観的には、贅沢や勝利に慣れすぎてしまった心の問題の側面がないでしょうか。だとすれば、その程度の不安があったとしても、それは本当に悪いことか、それとも、慈悲の心を培う良い機会・試練ではないかということは、よく考えてみる必要があると思います。<br />
仮に、もし全く不安のない人生だったら、どんな人間になるのでしょう。例えば、他の苦しみを理解できるようになるでしょうか。マリー・アントワネットの話を思い出します。途上国の人たちから見ると、日本人は皆がマリー・アントワネットのように、王侯貴族に見えるそうです。気をつけたいものです。
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第三に、慈悲の心は、精神面だけでなく、人間関係や物質面においても、さまざまな幸福をもたらします。利他の精神に満ちた慈悲の心の強い人が、多くの人に愛されるのは当然のことでしょう。その結果として、物質面でも、生きていくに必要なものは与えられることになります。<br />
これは、他を愛して与えるから、他に愛され与えられるということですが、さらに言えば、「類は友を呼ぶ」というように、自分と同じように慈悲＝分かち合いの心の強い人との縁ができるのだと思います。これを言い換えれば、慈悲深い人は、慈悲そのものである神仏の祝福を得るということもできると思います。これが宇宙の道理、大自然の摂理であり、神仏の守護・祝福として信じられてきたものではないかと思います。<br />
今回のセミナーでは、神仏・三宝などとの良縁を深めるために、縁結びの儀式を行います。その前提となるのが、皆さんが慈悲の心を培おうとする決意です。良縁とは、自分の善行に基づいて形成されるものですから、神仏の心である慈悲の心が、縁結びの成功に重要です。
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<span style="font-size: small"><br />
<strong>（５）二つのタイプの幸福--他に勝利する幸福と慈悲による幸福</strong></span>
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これまで、喜びと苦しみは表裏であると述べてきました。これを言い換えると、二つのタイプの幸福の道があるということになります。<br />
一つは、他に対して優位に立って、他に勝って、優れて、得る幸福です。お金持ちも、名誉や地位も、他との競争であり、皆が得ることはできません。言い換えると、他を苦しめてでも、自分が幸福になろうとする側面があります。もう一つは、他を愛すること、他の幸福を喜び、他の苦しみを取り除くことによって、得る幸福です。慈悲の心による幸福です。<br />
そして、すぐにわかると思いますが、前者にとって喜びであることは、後者にとっては苦しみになる恐れがあり、前者にとって苦しみであることは、後者にとって喜びに転換できるものです。こうして、喜びの裏に苦しみが、苦しみの裏に喜びがあるということになります。
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そして、この社会で普通に生きていると、生まれた時から、学校、そして、社会に出ても、常に、前者の幸福に駆り立てられると思います。しかし、仏教を学んでよくよく考えてみると、前者の幸福の道は、端的に言えば、年を取れば取るほど少なくなってしまう「尻すぼみの幸福」であるように思います。若いときは、健康で、美しく、体力もあり、頭も回りますが、老いていくと、病み、醜くなり、体力も衰え、頭も衰える。これが釈迦牟尼が修行に入った動機ともいわれます。<br />
一方、後者の道は、心の訓練によって、年を重ねるほど、増大していく（成熟していく）ため、「尻上がりの幸福」だと思います。もちろん、真剣な努力を重ねた場合ですが。こうして、人生後半に強いのは後者の幸福だと思うのです。
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もちろん、最近は、若いときから、負け組として苦しむ人が多くなっています。そもそも、勝ち組・負け組と分けると、勝ち組は１・２割、負け組が８・９割かもしれません。自分がエリートであるという意識の人の割合はもっと少ないかもしれませんね。当の私は、最初は、学歴などでは、エリートだったようなのですが、その後の宗教的な盲信のために、負け組となって久しいようですが（笑）、いまはそれを活かして智慧と慈悲を培う原動力にしています。<br />
そして、日本という国自体が、国としては、少子高齢化が進み、先進国の運命ともいえる老大国化しつつあるといえるでしょう。２０世紀は、人口が増え続け、まずは軍事大国として、次に経済大国として、世界の中での競争に勝ってきました。<br />
しかし、今後は、中国・インドなど、急激な成長をしている他国が台頭する中で、単純に、今までのようにアジアの中で経済の一人勝ちをするのは難しそうです。今後は、考え方を間違えると、負け組の意識が強まるかもしれません。国全体がそんな雰囲気の中ですから、その中の人々は、以前にも増して、負け組の意識の強い人が増える心配があります。<br />
実際に、鬱を病む人が、通院・投薬を受けている人だけで百万を超えたという統計が発表されています。自殺者も３万人レベルで高止まりしています。これまでのイラク戦争の米国軍の戦死者や、年間の交通事故死亡者の総数よりも多く、交通戦争ならぬ、自殺戦争ともいうべき深刻な状態があります。<br />
これらの問題を和らげるには、競争に勝つこと以外の幸福があることを理解し、心の持ち方を変えることが必要です。そのために、私は、ひかりの輪を通して、新しい幸福への道をお伝えする努力をしています。
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<strong><span style="font-size: small">（６）健全な資本主義社会の維持のためにも</span></strong>
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そして、この二つの幸福の考え方は、両者を組み合わせることができます。勝利による幸福という考え方だけだと、それが果たせず挫折を経験すると、人生に絶望しかねません。そのときに、慈悲による幸福を知っていれば、その苦しみを喜びに転換することができ、大きな救い・助けとなります。<br />
実際、競争に勝つためには、挫折に強い、粘り強い安定した精神が必要です。そのためにも、一つだけより、二つの幸福の道を知っている方が有利であることは間違いありません。その分だけ、苦しみを和らげ、幸福を感じる選択肢が多くなるからです。<br />
私は、勝者と敗者をともなう競争をすべて否定しているのではありません。それが、他を苦しめて自分だけが幸福になる形のものではなくて、お互いを尊重して切磋琢磨する形のものであれば、自と他双方を幸福にするものとして、形を変えた慈悲の実践と考えることができると思います。<br />
競争原理に基づく資本主義社会も、本来の目的は、健全・活発な競争によって、社会全体の富・幸福・技術が向上することです。しかし、それは健全・活発な競争が続くことが前提となっています。<br />
ところが、その中で、現在のように、心身を壊してしまい、競争できなくなる人が増えるならば、その人たちが不幸になるだけでなく、競争の参加者が減って、活発な競争は維持できません。よって、政府は、失業した人のケアや、一度倒産・破産してもやり直せる経済の仕組みを作る努力をしています。<br />
しかし、そういった物質面での努力に加えて、精神面でのフォローが必要だと思います。
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なぜならば、幸福・不幸、希望・絶望は、心が感じるものだからです。よって、現在の社会を支えるためにも、単なる競争に基づく価値ではなく、慈悲に基づく新しい幸福の価値観が必要だと思います。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
３　日常のさまざまな苦の裏にある幸福を見つける</strong></span>
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ここでは、日常のさまざまな苦の裏にある幸福を見つける考え方について述べたいと思います。
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<strong><span style="font-size: small"><br />
（１）経済の不安--質素倹約・精神的な幸福の気づき・慈悲の芽生え</span></strong>
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今日本は不況で、自分の将来の経済に不安を感じる人が多くいます。しかし、絶対的な貧困や飢餓にあえぐ途上国の人達の貧困や飢餓から見ると、日本の人は皆、王侯貴族に見えるといいます。確かに、経済に不安を感じるといっても、それは、途上国のように、生きてはいけない絶対的な貧困や飢餓ではありません。<br />
日本には生活保護を含めた社会福祉制度があり、（行政・法律は完全ではありませんから例外はあるでしょうが）おおむねそのような事態を防いでいます。よって、経済の不安とは、生きていくためのお金が全く不足しているという事実ではなく、前ほどはお金がない、将来に備えて十分なお金があるとかどうかわからないといった、多分に精神的な苦しみであることがわかります。よって、経済の不安の裏側にある喜び・幸福について考えてみましょう。
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第一に、お金が減ったことを前向きに考えると、贅沢・無駄遣いを見直す機会となり、より少ないお金でやっていく方法や別の形でお金を稼ぐ方法を求めて、智慧を絞って工夫する機会となります。これは欲望を減らし、忍耐力を強め、智慧を深めることにつながります。<br />
そして、景気の浮き沈みは常にあり、質素倹約の力を身につけられれば、今後とも安定した経済生活が営めることになります。これは、仏教の教義で言えば、苦しみに慣れて、悪業が清算され、とらわれが減って、無智が減って智慧が増大し、より広い条件で幸福になるという教えです。
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第二に、この経済不安の経験を活かせば、慈悲の心を培うことができます。今まで理解しようとしたことがなかった、同じように経済に苦しむ多くの人たちの気持ちを理解し、慈悲を培うことができます。世界中に、私たちよりもはるかに貧しい人がいますし、日本の中にも大勢いるでしょう。人はやはり自分で不安・苦しみを経験しないと、他の苦しみを実感することは難しいものです。これは、仏教の教えにおいて、苦しみが慈悲を培う手助けになるというものです。<br />
そして、それは、現象をありのままに見る智慧にも結びつくと思います。すなわち、豊かさとか貧しさといったことを含め、人の感じる幸福・不幸は、比較によって生じる実体のないものだということです。自分と自分に近い人の比較、今の自分と前の自分の比較で幸福・不幸を感じるのであって、比較対象が変わると、不幸が幸福に、幸福が不幸に入れ替わってしまいます。外にあるお金や名誉が幸福・不幸を作るのではなく、心の中の比較が作ります。仏教の教えでは、智慧と慈悲は一体であり、最も重要な修行の目的です。<br />
さらに突き詰めていくと、ざんげ懺悔の心、謙虚な心を培うことができます。自分たちのこれまでの豊かさが、世界中の貧困の犠牲の上に立っている事実にも目覚めます。日本などの先進国が経済力で世界の富を独占しています。世界には全人類に十分な食べ物があるといわれますが、その配分が偏っているために、飽食の先進国と飢餓の途上国があります。日本などの先進国が、食糧などの物資を国際市場で買い付ける行為は、その分だけその市場価格を上昇させ、貧しい国は十分に買うことができません。これは、仏教の教えにおいて、自分の（煩悩的な）喜びの裏には、他人の苦しみがあると説かれているものです。<br />
このようなことを考えているうちに、経済的な貪りが静まり、自分が経験している多少の経済の不安は苦しみとは感じなくなるでしょう。そして、私たちが経済の不安を感じているのは、常日頃私たちが自分たちのことばかりを考えて、もっともっと欲しいという欲求が強い社会の中にいるためであることがわかります。これは仏陀が説いた、自己の苦しみが自己の中の原因でもたらされるという自業自得の教えでもあります。<br />
このように考えてみれば、私たちが経験している経済の不安は、私たちが知らず知らずのうちに陥っている、自分中心の考え方・貪りに気づいて目を覚まし、慈悲を培う貴重な機会になると思います。
</p>
<p>
第三に、自分のお金が減ったときは、逆に、お金以外のもの、お金以上に大切なものに気づく機会でもあります。<br />
例えば、お金が儲かっているときは、もっともっとお金を求め、お金に執着するために、お金以外のもの、お金以上に素晴らしいものに気づかないことも多いと思います。例えば、上記の智慧や慈悲も、その一部であるということができます。<br />
それに加えて、自分のお金や所有物ではなくて、例えば、毎日私たちの目の前で展開する大自然・大宇宙の営みといった、皆が共有するものの豊かさ・素晴らしさに気づく機会だと思います。自分と他人を区別し、自分を偏愛する自我執着の心は、すべて苦しみの原因ですが、自分のお金が減ったことを機会に、そのとらわれを弱めるならば、皆が共有するものの素晴らしさを楽しむことができるのです。<br />
また、「時は金なり」といいますが、給料とともに仕事が減るならば、今まで仕事でできなかった他のことができます。それを有意義なことに使えば、仕事では培えない豊かな人格を形成する機会となります。最近不況で仕事が減って、男性の家庭サービスが増えているという興味深い報道がありましたが、これは愛の増大といえるかもしれません。
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こうして、経済の不安の裏側にはさまざまな幸福があります。そして、大乗仏教における重要な教えである六波羅蜜（六つの完成）の中には、物質的な困窮に耐えるという教えがあります。これは、それによって、自己や自己の所有物に対するとらわれが和らぎ、智慧や慈悲が高まっていくという意味があります。
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最後に、こうして経済の不安を逆に喜びとして前向きに生きていくならば、逆に経済的に恵まれるという教えがあります。いわゆる、「笑う門には福来たる」という経験則です。七福神の一人であり、財物の神である大黒様は、常に微笑んでいます。<br />
これは神秘的な話のようですが、合理的な話でもあります。落ち着いて考えれば、経済の不安に悩み、深刻な雰囲気の人と比較すれば、不安を逆活用して喜びにしている明るい人の方が、他人に好かれるのは間違いありません。よって、良い仕事、良い顧客、良い取引先が得られるでしょう。<br />
また、「類は友を呼ぶ」ということを考えると、経済の不安に深く悩んで、必要以上にお金にガツガツしている人は、似た人と縁ができて、そういった人たちの輪の中では、お互いに与え合うことがあまりありません。逆に、あまり悩まず、ガツガツしていない人は、お互いに与え合うから、お互いに豊かになります。<br />
これは、国の経済が、皆が寛大にお金を使ってお金の流通が増えると全体に活性化して、逆になって、流通が減ると全体に停滞するのと似ています。私の経験でも、お金の心配をあまりしない人の方が、お金の入りがよいのです。<br />
この「類は友を呼ぶ」というのは、縁というものを重視する仏教の法則に通じます。ここでの縁とは、共通のカルマ・精神的な傾向といったほどの意味で、これがあると結びつくのです。また、自分がなしたことが、他から返ってくると説くカルマの法則にも通じます。<br />
そして、こうして法則の実践をしていると、神仏の祝福・守護というか、宇宙法則（ダルマ）の存在というか、そういったものを感じるようになります。生きていくに必要なものは不思議と（神仏に）与えられるとか、（法に従って）回ってくるという体験をするようになります。私自身、団体を創設して以来、こうした体験を何度もしており、そのため社会的な苦況にあっても、今まで続いています。<br />
よって、大黒様などにお祈りするときには、そのふくよかな笑いが、私たちが見習うべき、重要な実践であることを意識するとよいでしょう。
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<p>
<br />
<strong><span style="font-size: small">（２）批判・中傷--学びの場としての人間関係を</span></strong>
</p>
<p>
批判を受けるというのは、誰にとっても辛いものですが、万事、苦しみの裏に喜びありとの視点から、批判を受ける裏側にある利益を考えてみましょう。<br />
まず、第一に、正しい批判は、謙虚に受け止めれば、自己の成長の大きな助けとなることはいうまでもないと思います。しかし、これを素直に実践するためには、今の自分を評価してほしいという欲求を超えて、常に自分を向上させようという欲求が必要だと思います。<br />
客観的にはまだまだ未熟な自分であるのに、自分でも気づかないうちに、楽して早く幸福になりたいという怠惰・甘えに支配されると、現状の自分は問題がないという錯覚が強くなります。すると、謙虚に学ぶ意欲が弱り、批判を活かすことができなくなります。これには絶えず注意しておかなければなりません。<br />
こうして、厳密に言えば、批判自体が苦しみをもたらすのではありません。それを受ける側が、成長欲求を持っていれば、批判とは、助力と感じられます。自己保全欲求を持っていれば、自分の幸福を邪魔するものと感じられるということだと思います。<br />
よって、毎日の人間関係の意味合いとして、自分への評価を求める場ではなくて、自己を成長させるための学び・自己研磨の場と考えるとよいと思います。こうして、感謝すべき学びの場と位置づければ、批判に対して過敏になることがなくなり、だいぶ楽になる人も多いのではないでしょうか。<br />
なお、この学びの場という考え方は、日常の人間関係全体を有意義なものにするために、非常に重要な教えです。単に批判に対してだけでなく、良いことをしている人、悪いことをしている人を見ては、自分の教師・見本、反面教師として学びの対象とするのです。すると、すべての人々が、神仏が自分に与えた導き手のように感じられるようになります。
</p>
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第二に、間違った批判についてですが、これは冷静に対処すれば、逆に自分の名誉・評価を高める機会になることが多いと思います。特に、理不尽で感情的な批判を受ける場合は、第三者が見れば、批判されている方に同情心が生じるのが普通でしょう。そういった批判にも冷静・誠実に対応するならば、逆に尊敬されることが多いと思います。<br />
また、そういった理不尽な批判は、現代社会の人々の苦しみを洞察する良い機会となります。そういった批判は、実際には、自分の中の苦しみのため、他人に噛みつき、注目を集めようとする（愛してもらおうとする）場合が多いと思います。いわゆる屈折した愛情欲求です。<br />
最近はこれが相当に多くなったと思うのですが、そうした人への洞察力を高めるならば、批判に対して心が動じず強くなるし、そうして隠していた苦しみを理解し、受け止めることができると、相手が敵から味方になる場合が少なくありません。これは、深い意味での智慧と慈悲だと思います。<br />
最後に、そういった間違った批判について、自分の反面教師と見て、自分を振り返り、自分も過去においてそうしたことや、時と場合によってはそうする可能性があることに気づいて、自戒を深めると、よりいっそう心が成熟すると思います。
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こうして、批判を受けることは、心も持ち方、視点を変えると、自分を成長させ、他の苦しみを理解し、評価を高め、味方を増やす機会となり得るものです。そのため、先ほども述べた大乗仏教の六波羅蜜（六つの完成）の教えには、物質的な困窮に耐えることに加えて、批判に耐えることという修行があります。
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また、この意味で、仏陀が説く「敵こそ教師である」という教えや、イエスの言葉である「汝の敵を愛せ」というのは、まさに人としての智慧と愛の結晶だと思います。実際、イエスや仏陀は、敵を愛し、敵を味方にしてきた人でした。<br />
例えば、キリスト教の教義体系は、イエスというよりも、弟子のパウロらが確立したといわれていますが、パウロは、イエスに関する宗教体験をして改心するまでは、イエスの信者を弾圧していました。すなわち、キリスト教は、以前は敵対者だった者が確立した宗教という一面があります。「汝の敵を愛せ」という言葉がそのまま、キリスト教の誕生をもたらしたということになります。<br />
また、イエスはユダの裏切りをきっかけに刑死しましたが、それがキリストとしての奇跡の復活につながりました。こうして、敵が味方になったという話や、裏切りによる死が復活の奇跡につながったという話は興味深いものです。人が最も忌み嫌う、敵、裏切り、死といった苦しみが、世界最大宗教となったキリスト教の中核を作ったわけです。<br />
仏教でも、同じような話があります。まず、釈迦牟尼如来のひとり前の如来をカッサパ仏といいますが、カッサパ仏の時代においては、釈迦牟尼自身が、一度は、カッサパ仏を誹謗中傷したともいわれています（この生の釈迦牟尼はまだ悟って仏陀とはなっていませんでした）。<br />
そして、釈迦牟尼が仏となった後には、釈迦牟尼を殺そうとした大悪人が、改心して、釈迦牟尼の高弟となります。有名なアングリマーラです。さらに、釈迦牟尼教団を一時的に分裂させたデーヴァダッタは、いったん地獄に堕ちましたが、そこで改心して、仏教を守る神（護法神）として生まれ変わったといいます。
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さて、これは私の仮説ですが、パウロが初期にイエスに帰依できなかったことは、彼が世界宗教として発展するようなキリスト教の教義体系を確立する際に役立ったのかもしれないと思いました。人は、自分自身がなかなか帰依できないという経験があれば、同じように帰依できない人の気持ちを理解でき、なるべく多くの人が帰依・実践できるように、教義などを工夫すると思うからです。<br />
また、これと少し似た話として、釈迦牟尼に遅れること５６億７千万年後にようやく悟るとされている弥勒菩薩が、逆に釈迦牟尼よりはるかに多い人々を悟りに導くとされています。これは、煩悩が多く早く悟ることはできない者が苦闘の末に悟ったならば、煩悩が少なく早く悟る者に比べて、自分と同じように煩悩が多く苦闘する者を救う力は強く、いっそう多くの者を救うことができるからとも考えることができます。<br />
こうして、誰かが、最初は間違っていたり、劣っていたりしても、それは、落ち込みが深い分だけ、はい上がる高さも高いということであって、その人が成長したならば、最初から正しく優れていた人よりも、大きな達成を得る一面があるのではないでしょうか。<br />
これに関連して、仏教では、大煩悩大解脱とか、「大悪人が大善人になるという教えがあります。これは、煩悩が強い者はエネルギーが強い者であって、そのために、解脱を果たしたならば、エネルギーが強い分だけ大きな解脱を果たし、大きな善行をなすというものです。<br />
そして、これから出てくる教えは、すべてを平等に尊重すべきである、というものでしょう。これを仏教的にいえば、万物が平等な仏性の現われ（平等に未来に仏陀になる可能性を有する）という教えがあります。<br />
この教えは、私が解釈するに、人と人の違いは、仏の視点から見ると、優劣ではなく、個性であって、役割の違いであり、お互いがお互いを助け合っているという思想です。早く悟った釈迦牟尼が、先駆者として仏の教えを広め、後に悟る弥勒菩薩が、実際に人類全体を救済して、釈迦牟尼を助け補います。<br />
これは、母が子供を育てるときの心境に似ています。幼少の時の子供は、母親に２４時間苦役を強い、客観的には、母親に最大の敵の一面を呈しますが、その将来の成長を信じる母親は、子供に最大限の尊重と愛を持って、育みます。そして、成長した子供は、今度は年老いる母親を助けます。<br />
よって、仏をすべての生命の母と見立てて、慈母観音菩薩といったり、観音菩薩の化身のグリーンターラーを仏母と位置づけることがあったり、この宇宙をすべての生き物をはぐくむ仏の母胎とする「胎蔵界曼荼羅」という教えが、仏教にはあります。キリスト教で言えば、聖母マリアが宇宙の母のイメージでしょうか。<br />
こうして、宇宙の母のような気持ちで、すべての生き物について、一時的な敵味方の関係や、善悪・優劣の区別に惑わされずに、真実は皆がお互いが助け合う関係にある未来の仏であると考えて、愛しはぐくむのが、仏陀の智慧と慈悲です。よって、イエスが、「汝の敵を愛せ」と説き、仏教は「敵こそは教師である」と説きます。
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一方、今現在は、宗教が、敵と戦争をもたらす一面が目立っています。しかし、本来は、宗教には、敵を味方に変え、平和をもたらす思想があります。２１世紀の宗教の創造を目指すひかりの輪では、この平和をもたらす宗教の力を再生できればと考えています。<br />
また、麻原信仰を脱却し、アレフ（旧オウム）を脱会・独立したひかりの輪は、今現在は、麻原信仰を深めるアレフと対立関係にあります。しかし、アレフの人たちが成長し改心して、その苦闘の末に、麻原信仰を脱却したならば、苦闘が長く深い分だけ、より多くの人に、慈悲深くなる可能性もあると思います。<br />
また、団体を監視する公安当局も、私たちの脱却・脱皮・進化を促す愛の鞭とも考えられます。そもそもは、ひかりの輪も、アレフも、公安当局も同じ日本人であって、一つの日本しかありませんから、「汝の敵を愛せ」、「敵こそ教師である」という教えは素晴らしいと思います。
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<strong><span style="font-size: small">（３）挫折・失敗--失敗は成功の元と考え、目標を達成する強さを得る</span></strong>
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挫折・失敗も辛いものですが、「失敗は成功の元」という言葉は真実だと思います。仏教の教義では、人は皆、善業だけでなく、なんらかの悪業を背負って生まれて育ち、それゆえに、物事を完全には正しく見ることができない無智の状態にあるとされます。<br />
よって、真の幸福に至るためには、悪業の清算という苦しみに耐えて、悪業によって形成されている無智を減少させる必要があるとされています。そのため、大乗仏教の教えでは、苦しみに耐える忍耐の修行が課せられています。特に、法則を理解し、悟ることについての難しさに耐えろと教えられています。<br />
そして、これは、悟りの達成に限らず、世俗の物事の達成についても当てはまります。物事の達成には、物事を正しく見る智慧が必要なことは言うまでもありませんが、人は、その悪業と無智によって、そうできない場合があります。その場合、失敗・挫折を経験します。<br />
しかし、その失敗・挫折は、それでは成功しないということを知ったという意味では、成功に向けて一歩前進したことになります。それは、失敗の苦しみによって悪業が清算され、その分だけ無智の闇が晴れたということもできるのです。
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実際に、「失敗は成功の元」という言葉の生みの親ともいわれる発明王エジソンは、電球の発明までに９９９回も失敗したといわれていますが、彼は、その９９９回について、失敗ではなく、「これでは成功しないと知った成功だった」とか、「成功へのステップだった」と語ったといわれています。<br />
同じように、成功ばかりを欲求し失敗を恐れることは、正しい成功の道ではないことを端的に表現したのが、ホンダの創始者の本田宗一郎氏の言葉で、「多くの人が成功を夢見ている。私にとって成功とは、数多くの失敗と自己反省を繰り返した末に初めて手に入るものだ。」と語っています。<br />
少し古いですが、私の好きな日本人としては、戦国の覇者の徳川家康も、人生前半は捕虜になっていたり、戦では戦うたびに負けを繰り返したりしました。しかし、その経験が、人生後半で活かされたといわれています。<br />
最も敬愛された米国大統領エイブラハム・リンカーンは、初めて州議会に立候補して落選した後、それから合計８回の選挙に落選したとされます。大統領になった後の南北戦争などで発揮された忍耐強い性格は、こういった若いときの苦労から生まれたのではないかと思います。<br />
自動車王であるヘンリー・フォードも、自動車会社が成功するまでに７度の失敗、５度の破産をしているし、ウォルト・ディズニーは、想像力に欠けるとされ、新聞社を解雇され、ディズニーランドを建てる前に何度も破産したといいます。
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こうして、真の成功は、失敗したくないという自己保全があると、得られないことがわかります。無鉄砲ではいけませんが、よく考えたならば、実行に移すことです。その結果が失敗であっても、それは成功の元であり、何もしなければ、成功どころか、成功の元さえ得られません。よって、成功にとらわれすぎて、失敗を恐れれば、成功しないというのが法則です。<br />
成功にとらわれすぎる背景心理には、失敗が悪いことだという固定観念、失敗による不名誉を嫌がる自己愛・自己保全、そして、失敗を経ずに早く成功したいという怠惰などがあるかもしれません。しかし、真の成功は、目先の楽である怠惰や名誉を超えて、長期的な視点に立った、継続的な忍耐・努力によって生まれるものだと思います。<br />
成功にとらわれるもう一つパターンとして、最初成功したがために、その成功体験にとらわれてしまうことがあります。しかし、あらゆる物事は絶えず変化していますから、状況に応じた改善努力を怠るならば、最初の成功が逆に失敗の元となるといわれています。<br />
こうして、継続的な努力をする限りは、失敗は成功の元になり、それがなければ、成功さえも失敗の元になるということができます。言い換えれば、努力をする人には、成功と成功の元があり、努力をしなければ、失敗と失敗の元があります。<br />
最後に、ヒトラーに打ち勝った第二次世界大戦最大級の英雄・イギリス首相のウィンストン・チャーチルは、子供のころに、言語障害があって何年も苦労し、士官学校に入るのにも３度も落ちていますが、そのチャーチルの言葉として、「成功とは、意欲を失わずに失敗に次ぐ失敗を繰り返すことである。」というのがあるそうです。<br />
これは、物事を達成する上では、一種の悟りの境地かと思います。成功を求めつつ、（目先の）成功にとらわれず、成功の元となる失敗を含めた多くの経験をひたすら積み重ねて、最終的に成功を達成するという心構えです。ある意味で、無心・無我の境地で、物事に望む悟りの境地に通じます。<br />
私自身も、人生前半がああでしたから、これからの人生後半、失敗を成功の元にすべく、生きていきたいと思います。
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<span style="font-size: medium"><strong>４　今この瞬間を楽しむ生き方</strong></span>
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宗教的な真理の中に、すべてがありがたいとの境地があります。これは一つの悟りであるともいわれます。<br />
そして、苦しみの裏側に喜びがあることを理解すると、その極致として、この心境が出てきます。それは、今この瞬間を楽しむ生き方だということができます。<br />
しかし、普通の人は、たいてい、今現在の自分の境遇に関しては、なんらかの不満・苦しみを抱いています。そして、未来については、現状の不満が解消される期待と、その逆になる不安を抱いています。そして、過去に関して、不満のある今現在の自分を作った部分において、なんらかの後悔を抱くことが多いと思います。<br />
それに対して、今現在の自分の境遇のすべてを受容・感謝すれば、今この瞬間を楽しんで生きることができるということになります。これは、道教などの東洋思想では、その時々に自分の境遇に合わせて生きる、無為自然の生き方とされるものです。<br />
そのためには、①今得られていないものではなく、自分に得られている幸福をよく考えて、それに感謝する、②今の苦しみについても、この前お話ししたように、その裏にある利益を発見して、その苦しみは悪いことではなく、（今は少し辛くても長期的・総合的には）良いことだと考えて感謝することが必要です。これを言い換えれば、今得ていることにも、得ていないことにも、感謝することであり、現在の自分の条件のすべてに感謝という、全面肯定の生き方になります。
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この心境が深まると、絶えず際限なく貪り求める心が静まって、心が落ち着いてきます。そして、前回お話ししたように、自分の苦しみの経験を他の苦しみを理解することにつなげていきますから、心が温かく広がった状態になっていきます。<br />
静まった心と広がった心、寂静と慈悲、これが仏陀の心だと、私は解釈しています。そして、この静まった広がった心による幸福は、今この瞬間に存在し、今この瞬間瞬間を楽しむことができます。今この瞬間の自分と自分を取り巻く世界を楽しむことができます。<br />
しかし、普通は、際限のない貪りにとらわれ、もっともっととばかり考えて、自分が得ている幸福や、それを支える人への感謝が乏しい。そして、得ていないことを苦しみ・悪いことだとばかり考えます。その心には、現在の不満と、未来への期待と不安が渦巻いています。今の自分や他人は嫌だ、未来はこうあってほしいけど、そうならないのは嫌だと。<br />
これでは、今この瞬間瞬間を幸福に生きることなく、半分は、今はまだ存在しない未来における期待と不安に生きているようなものです。そして、そのままずっと行って、気づいたときには、一度も与えられているものに感謝して楽しむことなく、死を迎えてしまいます。
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さて、ここで、皆さんからはこういった反論ができるかもしれません。今現在の自分に不満を抱き、未来がもっと良くなるようにと求めてこそ、人間は今より幸福になるのではないか。それが人間を進歩させてきたのではないか。それに対する私の答えは二つあります。<br />
第一に、現在への不満が未来に向かっての改善努力に建設的に前向きに働いているのであればいいのですが、最近は、逆に改善努力ができなくなって、自己否定・卑屈・諦め・怠惰・鬱状態を招くケースが多いのです。この場合は、現状への感謝によって、気持ちを切り替え明るくし、心身のエネルギーを回復して、努力し続ける状態を得ることが有効です。<br />
特に、挫折の時には、失ったものばかり見て悲嘆せず、「自分にはまだこれだけある」と考えて感謝したり、逆転の発想によって、挫折を成功の元ととらえなおし感謝したりする発想が非常に有効だと思います。挫折に強く、継続的な努力ができれば、長期的には必ず成功するものだと思います。<br />
第二に、何かの目的を達成する場合にも、目的達成を焦ってばかりいるのではなく、足るを知る、一切に感謝する精神で、心が静まる方が、むしろ逆に、その目的としていたことを達成することができる、という逆説的な事実です。逆に言うと、欲しい欲しいと思って、どうしたらいいかと思い悩むばかりでは、空回りをしてしまい、上手くいかないということです。これについては、次項でお話しします。<br />
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さて、第一について、もう少し詳しく述べたいと思います。繰り返しになりますが、自分が前向きに生きるための手段として、現状への不満・自分への叱咤を使えているうちはよいのですが、心が現状への不満そのものとなってしまい、自己と周囲を否定するばかりとなれば、破壊的なものとなります。<br />
例えば、大きな挫折をしたり、何か大切なものを失ったりしたときなどは、場合によっては、希望を失い、落ち込み、やる気がなくなり、身動きが取れない場合もあります。そういった状況では、視点を変えて、「依然として、広い目で見ると自分は恵まれているのではないか」、「まだこれだけ持っているではないか」という発想が有効です。<br />
例えば、世界的な視点から見れば、長寿・安全・経済大国の日本人ですから、苦況・逆境でも、依然として、相当なものをいただいています。昨今は不況で、お金や仕事を失う人も多いでしょうが、依然として、自分を支えようとしている家族・友人・知人、五体満足な健康と残りの寿命が残っています。また、より大きな視点で見れば、途上国と違って、飢餓・民族紛争はなく、福祉・医療制度・治安が整った社会が自分の周りにはあります。<br />
こうして、いまだあるもの、今でも与えられているものが相当にあることを考えたり、その裏側に、自分よりはるかに苦しんでいる人たちが無数にいることを考えたりして、自分がそれらの幸福を当然のものと考えて感謝が足りなかったことなどを反省するなどすると、自分の落ち込んだ気持ちを徐々に立て直すことができると思います。<br />
すなわち、改善努力が重要だとしても、それを長期的に続けていくためには、現状に対する受容＝感謝と改善努力の間でバランスを取ることが必要です。他人を育てる場合に、優しさと厳しさのバランスが重要であると同じように、自分が成長していく上でも、現状の受容（感謝）と改善の努力のバランスです。<br />
例えば、いきなりすべて達成しようという焦りがあると、それができない不満によるストレスが強くなり過ぎ、一方、現状の受容だけだと、現状の改善は起こらない。現状に感謝しつつ、改善の努力をするといったバランスを取ることです。理想としては、時の流れに沿ってこつこつ前進することですが、これをもう少し高度にすると目的達成に無心の境地で向かうということになります。これについては次項でお話しします。<br />
さて、こうして、今ある幸福を見いだし感謝した上で、挫折の苦しみの裏側の喜び・利益を見いだす逆転の発想を行います。これについては、別項で述べますので、ここでは省略します。
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最後に、感謝のさまざまな効用をまとめておきたいと思います。まず、感謝は、智慧・謙虚さ・愛を強め、心を明るく温かく軽くします。<br />
感謝の訓練をすると、自分の得ている幸福の大きさに気づきます。そして、さまざまな人々・万物が自分の幸福を支えてくれている事実に気づきます。自分の幸福のために、さまざまな存在が犠牲を払っていることに気づき、懺悔の気持ちも出てきます。こうして謙虚さ・智慧が増大します。さらに、感謝の気持ちが強まると、多くの存在・万物への愛が増大し、恩返しとして、利他の実践を行なう土台を培うことができます。<br />
感謝の心は、苦しみに強い心も作ります。上記のように、挫折・失敗・喪失の際にも、自分に与えられているものの大きさを理解して、前向きになる力です。また、感謝に基づき、万物への愛が増大し、自分よりもはるかに苦しんでいる人への慈悲が強まると、これも苦しみに強い心の状態を作ります。他者の苦しみに比べて、自分の苦しみが小さく感じられるからです。<br />
そして、心の利益に限らず、感謝は、一部の医療関係者が主張するように、がんや免疫力の低下の原因であるストレスを和らげる可能性があります。これによって、身体・健康維持にも利益があります。さらに、不満が少なく感謝の心が大きい人は、自ずと、人にも好かれ愛されますから、良縁に恵まれ、物質的にも恵まれることになります。こうして、感謝は、心、体、物質のすべての面での恩恵があると思います。
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５　目標達成のための最高の境地--無心の境地</span></strong>
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皆さんは、人生において何か目的・目標をお持ちでしょう。それが何であれ、私の考えでは、それを達成する上で、最善の心の持ち方・精神状態は、無心、無我、無欲の境地などと呼ばれるものです。<br />
何かの目標・目的を持っていたとしても、単にその達成を欲求するばかりで、焦ったり、達成できないのではと不安に悩んだりしていると、空回りして逆に上手くいかないことは、経験上、なんとなくおわかりいただけるかと思います。<br />
これは、仏教に限らず、幅広くあらゆる分野に通じる経験則です。例えば、武術の達人が、「勝つと思うな、思えば負けよ」といいます。無心の境地こそが無敵の境地であるといわれます。スポーツの世界では、追い詰められて「なるようになれ」と開き直ったら上手くいったとか、肩の力が抜けたら上手くいったというのも同じです。さらには身近なところでは、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来たる」、「急がば回れ」などいった格言も、同じことを言っているものだと思います。<br />
欲求と不安で心が乱れていると、正確な観察や思索ができません。さらには、これは不思議な人間の精神的な能力ですが、心が静まっているときでなければ、直感的な智慧・インスピレーション（言い換えれば超高速度の精神活動でしょうか）は生じません。<br />
例えば、私は、数時間の講話をするときも、最近は原稿を一切用意しません。昔はある程度のメモ書きを用意していたのですが。講話の前には、なんとなく話す内容のイメージはありますが、具体的に何をどう話すかは、話しながら考えているというか、実際に話している間に、次々と浮かんできたことを話しています。<br />
普段から修習している教えが、空っぽの心の状態の中に、順々にわいてきたのを話しているという感じでしょうか。さらに、話している間に、それまで考えてもなかったこと、そのとき初めて気づいたことを話すことも度々あります。話しながらひらめく、気づく、学ぶといった感じでしょうか。<br />
そして、講話の前に、上手く話そうと思い過ぎると、上手くできないのではないかという不安が生じることがあります。そうしたときは、上手く話そうと思えば、逆に上手く話せないということを経験上よく知っているため、その欲求を意図して放棄し、思考を空っぽにするようにしています。<br />
そうして静まった心の状態であれば、普段から考えていた教えに関して、それなりに上手く話すことができます。昔は、これが上手くできないこともありましたが、最近はだいぶ上達してきて、そういった余計な欲求・雑念は、比較的すぐに静めることができるようになりました。<br />
特に、目的を達成する上で、相手のある場合は、自分の欲求ばかりが頭にあると、相手を洞察することもできません。相手を理解する直感も働きません。講話や質疑応答でも、一番上手くいくのは、自分が上手く話したいというよりは、相手に集中している場合だと思います。<br />
武術・スポーツでは自分が勝とうと思い過ぎれば、相手が見えにくくなって、逆に負けてしまうとされます。そして、ビジネス・交渉も、恋愛・夫婦・育児まで、これは、万事に当てはまると思います。自分がこうしたいと思い過ぎると、相手のことはわからなくなって、結果として、上手くいかなくなってしまうわけです。<br />
これは、さまざまな分野の達人が気づいた真実だと思います。「一芸は百芸に通じる」という格言も、無心・無我の境地こそ、百芸のために最高の境地だという意味だと思います。また、剣術と仏教の禅定（瞑想）は一つの如しとする「剣禅一如」という言葉も同じです。<br />
仏教では、「止と観」という教えがあります。サマタとヴィパサナーとサンスクリット語では言いますが、これは、止まった心が現象を正確に観察するという意味があります。これと同じものが、「禅定と智慧」という教えで、禅定＝瞑想で心が静まると現象がありのままに見える智慧が生じるという意味です。正確な観察と智慧があれば、物事の達成は容易となります。
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さて、この無心・無我・無欲の境地を達成するために、さまざまな雑念を含め、「心の働きを止滅すること」をヨーガといいます。この日本人にもよく聞かれるようになったヨーガという言葉は、独特の体操や呼吸法のこと（だけを意味するの）ではありません。<br />
数千年前に、ヨーガの発祥の地であるインドのある哲学派において、ヨーガという言葉が、心の働きを止滅することと定義され、この定義をした哲学派の名前自体がヨーガとなりました（ヨーガという言葉の原意は、つなぎ止めるといったような意味があると記憶しています）。<br />
しかし、ヨーガは、インドの一哲学派を超えて、他のインドの哲学派や、仏教や密教の世界にも広まり、今や世界中に広まりました。それは、皆さんが今知る、体操（体位法・座法）、呼吸法（調気法）、瞑想などといった、ヨーガのさまざまな実践手段が、非常に有用であったからです。それは、インドの宗教＝ヒンドゥー教全体、そして、仏教・密教に取り入れられたとされています。
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そして、仏教・密教・ヒンドゥー教には、さまざまなタイプのヨーガ＝心の働きを止滅する方法・教えがあります。<br />
例えば、（正しい道理に基づく）思索によって心を静めるヨーガがあります。足るを知ること、一切に感謝すること、慈悲を持つことなどは、この一部です。<br />
次に、神聖なシンボルを観想・イメージするヨーガ、心を静める神聖な言葉（マントラ・真言）を唱えるヨーガ、心を静める身体操作、例えば、座法等の姿勢や、呼吸法などがあります。これらは、人の心が、その思考、イメージ、言葉、呼吸、姿勢などの身体の状態と連動していることを使って、心を静めようとするものです。<br />
また、目に見えない、霊的なエネルギーを活性化・浄化・制御して、心を静めるといった霊的なヨーガもあります。この霊的エネルギーが心と密接不可分に連動しているからです。この目に見えないエネルギーは、仙道・気功で「気」と呼ばれ、ヨーガではクンダリニーエネルギー、チベット密教では風（ルン）のエネルギー等と呼ばれています。<br />
さらに、心を静めるために役立つ戒律（ヤマ・ニヤマ）＝生活規律や、心を静めやすい環境作りがあります。例えば、自宅に祭壇を設置して神仏を供養すること（バクティヨーガ）、さらには、神聖な聖地を巡礼して、心を静めるといった方法があります。これらは、心が、生活規律や環境・土地の影響を受けることを考慮したものです。<br />
ひかりの輪では、こうしたヨーガを組み合わせて、心を静める実践をこつこつと進めることを皆さんにお勧めしています。
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<span style="font-size: large"><strong>&nbsp;
第二章　卑屈・妬みを超える慈悲・四無量心の教え</strong></span>
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ここでは、卑屈・コンプレックスを乗り越える教えについて述べたいと思います。物質的な苦しみが和らいだ、現代の先進国社会では、精神的な苦しみが最大の苦しみだと思います。そして、精神的な苦しみの根本原因は、自分と他人を区別し、自分だけを愛する自我執着にあります。最近は、仏教の教義に限らず、心理学の世界でも、自己愛型人格の問題が、現代人の問題としてよく言われるようになりました。<br />
自分が重要な存在でありたい、他より優れた存在でありたい、他人から認められたい、愛されたいという欲求が強くなる中で、それが満たせないために、卑屈、コンプレックス、妬み、寂しさ、孤独感に苦しむ人は相当に多いと思います。ここでは、この問題について扱います。
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<span style="font-size: medium"><strong>１　優劣の区別がない大乗仏教の世界観--万物は平等な仏性の現れ</strong></span>
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大乗仏教では、万物・森羅万象が、平等な「仏性」の顕現であるとしています。仏性とは未来に仏陀になる可能性のことです。よって、万人が、未来に仏陀になる平等な可能性が有するのです。わかりやすく言えば、優れている者と劣っている者の区別は、本質的には存在せず、すべてが平等に尊く、未来のブッダに向かって成長する可能性があるという教えです。<br />
一方、私たちの常識は、「この世界は、優れている者と劣っている者、良い者と悪い者があるに決まっている」と考えています。しかし、そういった常識的な固定観念に流されずに、純粋な知性で深く考えてみると、優劣の区別は、私たちが日常で考えているようには存在しないことがわかります。では、具体的には、どのような考え方によって、すべてが平等に尊い存在であると考えられるかを説明したいと思います。
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<span style="font-size: medium"><strong>２　視点を変えると、優劣が表裏であること</strong></span>
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そのエッセンスを一言で言えば、自分が他に勝つという視点で見れば優れている人も、他を助けるという視点で見ると劣っている可能性があり、逆に、自分が他に勝つという視点で見れば劣っている人も、他を助けるという視点で見ると優れている可能性があるということです。<br />
よって、これは、前章でお話しした、苦しみの裏側に喜びがある、という考え方と同じ本質を持っています。その際は、他に勝って幸福になるという視点では喜びであることが、他を助けて幸福になるという視点では苦しみになり、また、その逆も成り立つということをお話ししたと思います。<br />
視点を変えてみると、苦しみが喜びに、喜びが苦しみになるということです。そして、今回もそれと同様に視点を変えてみると、優れていることが劣っている可能性に、劣っていることが優れている可能性になるのです。では具体的に、どのように考えられるかを羅列してみたいと思います。
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第一に、一般に劣っているとされる人は、優れている人たちよりも、その気になれば、自分と同じように劣っている人の気持ちを理解する能力があります。同じ苦しみの実体験があるからです。もちろん、自分の苦しみに没入して嘆いてばかりいるならば駄目ですが、他の苦しみを理解できる人間になろうとすれば、劣っているとされる人が、逆に有利な部分があります。<br />
一方、優れている人は、実体験がないために、たとえ努力したとしても、同じようには理解することができません。また、多くの場合、優れているとされる人は、他に勝つことができるがあまり、競争に没入してしまい、負けて苦しむ人たちの気持ちが理解できない冷たい人間になるおそれもあります。こうして他の苦しみを理解する力、思いやり、優しさを持った人間になろうとすれば、単純に他よりも優れていることが有利ではなく、他よりも劣っているならば、それを逆に活かすことができます。
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第二に、何かに劣っている人が、あきらめずに努力して、その欠点を克服したならば、同じように劣っている人が、欠点を克服することを手助けする力を備えることができます。また、そもそも、劣っている人の気持ちを深く理解できますから、手助けしようという動機も、優れている人よりも強くなる可能性があります。<br />
しかし、優れている人は、劣っている人がどういった具体的な問題を抱えており、それをどう乗り越えるべきかということを実体験できませんから、同じように手助けすることは難しいと思います。また、その苦しみを同じように深く理解することは難しいので、その分、手助けする際の動機も弱くなる可能性があります。<br />
この一つの例ですが、先日会ったある男性が、「自分は物覚えが悪く、人の何倍も時間がかかりますが、そのためか、会社で新人研修の担当になることが多いのです。他人がどこでわからなくなるかというのが、出来の悪い自分は、全部わかるからです。」と語っていました。
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第三に、自分の力が劣っている人は、意識を転換して、自分の力で物事を成就させることにこだわらずに、優れている他の力を活かすことに努力するならば、他の力を活かすことができる人になる可能性があります。しかしながら、自分の力が優れている人は、自分でできてしまうがために、逆に、他の力を活かす努力をしない場合が多いと思います。こうして、他を活かして幸福になろうとするならば、単純に自分が優れていることが有利ではありません。<br />
この好例が、私が好きな昭和期最大の実業家である松下幸之助氏で、彼は、「自分は学がなかったから、他から謙虚に学べた。体が弱かったから、他に頼むこと・活かすことを覚えた。お金がないから、（お金持ちのところに）丁稚奉公に行って早く商人の才を得た」と語っています。こうして、学力・体力・財力に劣っていた人が、他の学力・体力・財力を活かして、昭和経済界の頂点に立ちました。<br />
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こうして、他に勝って、他に優位に立って幸福になろうとすると、自分が劣っていると思いこんで苦しみますが、そうではなく、①他の苦しみを理解し、②他の苦しみを取り除く手助けをし、③他の力を活かすことによって、幸福になろうとすると、自分の欠点が、逆に長所となる可能性に気づきます。
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<span style="font-size: medium"><strong>３　優劣を超えるには、努力が前提</strong></span><br />
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ですから、自分はそもそも駄目だ、劣っているとか、彼はそもそも恵まれていて、優れている、と言うことはできないことになります。皆がそれぞれに平等に幸福になる可能性があることになります。<br />
とはいえ、欠点が長所になるとは、潜在的な可能性であって、粘り強い努力で、それを実際に引き出さなければなりません。万物が平等な仏性の顕現とは、すべての存在が平等に仏陀になる可能性があるという意味であって、その可能性を活かすためには、粘り強い努力が必要です。<br />
よって、私が思うに、自分を否定する人の中には、努力を嫌がる心の働き＝怠惰・甘えある場合があると思います。表面的には、自分は駄目だと思ったり、言ったりするのですが、本質的には、（自分でも気づかない場合もあるでしょうが）駄目ではなくなるまでの努力はしたくないという意識が根底にあるのです。<br />
これは、卑屈・コンプレックスの問題ではなく、怠惰・甘えの問題です。「楽して幸福になりたい」という本質的な欲求です。<br />
この本質的な欲求は、前章でもお話ししましたが、幸福を妨げる本質的な無智です。本当に幸福になるためには善行＝利他が必要で、悪行＝利己では幸福は得られないのに、楽して幸福になりたいと考える無智があると、目先の喜びをもたらす悪行と、目先は労苦もともなう善行を見て、麻薬中毒のように、前者を選択してしまいます。<br />
ただし、この経験を繰り返していくうちに、徐々に悪行の麻薬性を理解し、真の幸福は善行による以外にはないことを体験的に理解していくのが、人の成長のプロセスであるとお話ししました。
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<p>
それはともかく、努力を避けようとする欲求を前提にせずに、粘り強い努力をするこを前提とすれば、優れている者と劣っている者の区別は本質的には存在せず、皆が平等に幸福になる可能性（＝皆が平等に仏陀になる可能性）があるということになります。<br />
そして、これを言い換えれば、欠点と長所は裏表であって、裏に長所のない欠点はなく、裏に欠点のない長所もないということです。絶対的な長所や絶対的な短所はないのです。ところが、ものの見方が一面的であったり、努力を避ける意識があったりすると、（絶対的な）優劣の違い、（絶対的な）長所と短所があるという錯覚が生じます。これが、卑屈・自己嫌悪に陥ったり、逆に慢心に陥ったりしてしまうプロセスです。
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<span style="font-size: medium"><strong>４　慢心の苦しみ</strong></span>
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ここで、多少、自分が他より優れているという錯覚＝慢心に陥る人について言及します。この人たちは、実際には、自分が他より絶対的に優れていたり、絶対的な長所を有していたりするわけではないのに、あたかもそう思いこんでしまいます。よって、慢心の状態になります。<br />
その結果として、過信に陥り、努力を怠り、油断するおそれがあります。すなわち、ウサギとカメの話と同じです。最近の不況は、エリート中のエリートが、金融バブルを形成して、それが崩壊した結果ですが、これは慢心・過信による没落であることは間違いありません。時代の寵児が次々と逮捕・起訴されましたが、これも同じだと思います。<br />
また、慢心に陥っている人が、一転して卑屈になる場合があります。慢心に陥っている間は、他人を見下し、その価値を否定していますから、自分が挫折・失敗したときなどに、その他人に向けていたのと同じ思考パターンが、自分に向けられるのです。人生には、誰もが一度や二度の大きな挫折があると思いますが、他人に向けた冷酷なやいば刃が、自分に返ってくるということです。
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<br />
<span style="font-size: medium"><strong>５　卑屈を超えて、四無量心の教えに至る</strong></span>
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なお、これに関連する教えとして、大乗仏教では、仏の心は「四無量心」であると説いています。四無量心とは、慈・悲・喜・捨の四つの広大無量の心です。<br />
「慈」とは、他を慈しむ・育む心、「悲」とは、他の苦しみを（自己の苦しみのように）悲しみ取り除こうとする心、「喜」とは、他の喜び・幸福・功徳を（自分のことのように）喜ぶ心、「捨」とは、すべての生命を分け隔てなく愛する心のことをいいます。<br />
よって、劣っている人が努力することで、他の苦しみを理解して取り除く手助けをすることは、四無量心でいえば、悲の心です。他の優れた力を妬まずに、それを活かそうとすることは、慈の心や喜の心にあたると思います。長所と短所は裏表であると見て、優劣の区別・差別を超えて、万人を尊重するといった実践は、捨の心にあたると思います。<br />
こうして、優劣が表裏であるという教えは、まさに四無量心の教えです。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
６　人と人の間の違いは個性であり、役割の違い</strong></span>
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さて、今まで述べてきたことは、言い換えれば、人と人の間には違いは、「個性」であって優劣ではない、とも表現できます。そして、この個性の違いは単にその人自身のためのものではなく、その人が、「全体に対して果たす役割」を示し、皆が違うことによって、お互いに助け合っているという考えです。<br />
例えば、前回の例のように、さまざまな物事において、他の人より先に実現する能力がある人と、さまざまな障害のために、遅れる人がいます。この場合、後者は、その人と同じように障害を持つ人を助ける役割があると解釈できます。前者は、皆の先駆者となる役割があると解釈できます。<br />
そして、この両者は互いに助け合っています。前者は先駆者として、その物事に道筋を作り、後者を助けます。後者は、その道筋を多くの人が進める太い道として、その道の価値を確立します。
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この話は、仏様にさえ当てはまると思います。仏教が説く二人の仏、すなわち、釈迦牟尼と弥勒菩薩もそうです。釈迦牟尼は、２６００年ほど前にすでに悟った、仏教の開祖です。一方、弥勒菩薩は、それからはるかに遅れて５６億７千万年後に悟るとされています。<br />
しかし、弥勒菩薩は、釈迦牟尼よりはるかに多くの人たちを、悟りに導くといわれています（経典の表現では約２７０億人だから、全地球の人口だと思います）。その意味で、先に悟った釈迦牟尼は、仏陀・如来と呼ばれていても、決して完全無欠な存在ではなく、弥勒菩薩をはじめとする、その後の無数の仏陀の助けによって、その教えが真にすべての人々・生き物を救うものとしての価値を発揮していきます。<br />
よって、弥勒菩薩は、釈迦牟尼を補完する仏陀ともいわれます。これは、釈迦牟尼が弥勒菩薩より優れているということでもなければ、その逆に、弥勒菩薩が釈迦牟尼より優れているということでもなく、両者には、それぞれの役割があって、お互いを助け合っていると解釈できます。
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<span style="font-size: medium"><strong>７　性格の違いも、個性であり優劣ではない</strong></span>
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さて、卑屈と慢心に関連して、人の性格について、「性格が良い、性格が悪い」と表現することがよくあります。しかし、実際には、絶対的に良い性格や絶対的に悪い性格があるわけではなく、すべての性格は、やはり個性であって、短所と長所は裏表だと思います。以下に例を挙げますので、検討してみてください。
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<p>
短気＝素早さ、　のんき＝落ち着き、　感情的＝情熱的<br />
大雑把＝おおらか、　神経質＝繊細、　反抗的＝自立心がある<br />
頑固＝意志が強い、　いい加減＝おおらか、　あきらめが悪い＝「粘り強い」<br />
興奮しやすい＝情熱家、　仕切りたがる＝リーダーシップがある<br />
八方美人＝誰にでも好かれる、　くるくる変わる＝臨機応変<br />
慎重さに欠ける＝楽観的、　目移りが激しい＝好奇心旺盛<br />
お節介＝世話好き、　引っ込み思案＝控えめ・謙虚、　口べた＝聞き上手<br />
迎合型＝協調性、　優柔不断＝柔軟、　甘やかす＝包容力<br />
気が弱い＝繊細、　なあなあ＝平和主義、　自分を責める＝まじめ<br />
鈍感＝辛抱強い、　頭でっかち＝思慮深い、　理屈っぽい＝理論家<br />
神経質＝気がつく、　臆病＝慎重、　視野が狭い＝集中・一途<br />
冷たい＝冷静、　融通利かぬ＝厳格、　消極的＝控えめ<br />
傲慢＝自信家、　保守的＝堅実な、　落ち着きがない＝行動的<br />
批判的＝分析力、　しつこい＝粘り強い
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<p>
こうして、自分の性格が善し悪しではなく個性であると考えると、私たちがなすべきは、自分の性格を否定して、他の性格をうらやむことではなく、自分の個性をいかに活かすかということになります。言い換えれば、その性格が、自分と他人のためになるように工夫・努力し、自分と他人を害さないように工夫・努力するということでしょう。
</p>
<p>
さて、こうして、人と人の間の違いが、優劣ではなくて、お互いを助け合う上での役割の違いであるという考え方は、人の体の中の各細胞の働きとよく似ています。<br />
成人した人間には約６０兆もの細胞があるといわれていますが、その中には、頭、手、足、そして、各臓器など、さまざまな細胞があります。そして、これらの細胞は、例えば、頭があれば、手や足は要らないということにはなりません。皆が互いを互いに助け合っており、互いがあるからこそ、互いが存在しています。<br />
そもそも、この６０兆の細胞は、皆が一つの細胞（父親の精子と母親の卵子が結合した受精卵）から細胞分裂して生じたものであり、同根です。同じ一つのものから発生し、今でも、お互いがお互いを助け合って、一体となって存在しています。お互いがなければ、お互いが存在しないほど、密接不可分に助け合っています。<br />
そして、仏教やヨーガの思想には、この人間の体を小宇宙と見て、大宇宙と相似形と考える思想があります。よく考えると両者は、ともに一点から成長した点でよく似ています。人間の体は受精卵から、大宇宙はビッグバンから。<br />
そして、宇宙の万物も、人の体の中の細胞のように、互いに助け合って、互いがあるからこそ、存在しています。例えば、人は、自分だけで生きることはできません。空気・水・他の生き物の犠牲である食べ物に支えられて生きています。地球・宇宙全体に支えられています。<br />
また、自分も死ねば、その体を構成していた有機物が、他の生き物の体に使われます。再利用、リサイクルされるわけですが、そのリサイクル率は、ある科学者によれば99.9％という非常に高いものだそうです。こうして、自分の生は、他の生き物の死に支えられ、自分の死が他の生き物の生を支え、お互いを支え合っている関係であることがわかります。
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<br />
<span style="font-size: medium"><strong>８　優劣を超えて、神の存在を感じる</strong></span>
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<p>
さて、こういった考え方を突き詰めていくと、その果てに、神や仏の存在という視点が生まれてくることがあります。<br />
神道には、人はすべて「神の子」という思想があります。大乗仏教は、すべての衆生が「仏の胎児（未来の仏）」であると説きます。キリスト教は、この世界の万物は「神仏の創造物」であると説きます。これらは、多少の表現・解釈の違いがあっても、宗教の多くは、この世の万物の根元として神仏があります。万物が神仏の現れ、ないし、現したものという思想があります。<br />
しかし、「自分は駄目だ、生きている価値がない」、または、「あいつは駄目だ、生きている価値がない、世の中は苦しみいっぱいだ」と考えている人は、この世に慈悲深き神仏が存在して、我々を含めた万物を神仏が現しているという宗教的な世界観は信じがたいでしょう。慈悲深き神仏が存在し、それが万物を現したとするならば、「なにゆえこの世には、自分や他人など、駄目なやつが多いのだ」などと思うからです。<br />
これに対して、万人の間には、本質的には優劣はなく、それぞれが幸福（仏陀）になる可能性を与えられており、その違いは個性であって、全体に果たす役割の違いにすぎないと考えるならば、それぞれに個性や役割を与えた存在としての神仏を信じる土台が形成されるのです。<br />
こうして、自分や他人といった人間存在を価値あるものとして愛する、尊重することができるかどうかということと、人間を含めた万物の根元に神仏が存在すると信じるかどうかは、根底において、つながっている部分があると思います。
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<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>９　日本人の優れた宗教性</strong></span>
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<p>
かといって私は、神仏や宗教を信じている人が皆、自他・万物を愛していると主張しているわけではありません。というよりも、現在の多くの宗教は、他宗派を悪魔視するなど、必ずしも、そうできていないと思います。場合によっては、宗教的な意見の相違から、宗教戦争などを行う場合さえあります。<br />
また、自他・万物を愛している人は、特定の神仏や宗教を信じるはずだとも主張していません。特定の神仏や特定の宗教を信じていなくても、自分や他人を愛することは可能だからです。ただし、そういった人の場合でも、広い意味での宗教性、例えば、一人では生きることさえできない自分というものを支えてくれる、この世の万物・大自然に対する感謝や、人智を超えた何か大きな力を尊重する謙虚さ、というものがある場合が多いと思います。<br />
そして、日本人の場合は、この広い意味での宗教心は非常に高いと思います。言い換えれば、それこそが、日本的な宗教性なのでしょう。読売新聞が特集した「日本人の宗教観」という世論調査によると、「宗教を信じている」という人は３割以下にもかかわらず、日本人の半数以上は、「自分たちの宗教心は薄くない」と考えており、さらに、「自然の中に人間の力を超えた何か」を感じ、日々の暮らしでは、「墓参り」「初詣」などを、宗教色を意識せずに受け入れています。以下に具体的なデータを紹介します。
</p>
<p>
（１）宗教を信じているかどうか　　「信じている」26,1%　　「信じていない」71,9%<br />
（２）日本人は宗教心が薄いと思うか？　　「そうは思わない」48,9%、「そう思う」45,1%、<br />
&rarr;　特定の信仰の有無と、宗教心の有無が一致しない。日本人特有の宗教観。<br />
（３）先祖を敬う気持ちは？　　　「持っている」が94,0%　「持っていない」4,5%<br />
&rarr;　年代別でも、「持っている」は、20歳代でも86%、30歳代以上で9割超を記録<br />
（４）自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがあるか？<br />
「ある」56,3%、「ない」は39,2%<br />
&rarr;　「ある」はすべての年齢で5割超、「宗教を信じていない人」と答えた人でも51%<br />
（５）日常生活の中の宗教的行為<br />
①盆や彼岸などにお墓参りをする　78,3%<br />
&rarr;　「宗教を信じていない」と答えた人でも77%。<br />
②正月に初詣に行く　73,1%　&rarr;「宗教を信じていない」と答えた人でも74％。<br />
③しばしば家の仏壇や神棚などに手を合わせる　56,7%<br />
（６）死んだ人の魂については、<br />
「生まれ変わる」29,8%、「別の世界に行く」23,8%、「墓にいる」9,9%、<br />
「消滅する」17,6%。「魂は存在しない」9,0%。<br />
&rarr;　何らかの形で死後の存在を信じている人が過半数を超えている。
</p>
<p>
皆さんは、どうでしょうか。神や仏の存在を信じていらっしゃるでしょうか。そして、信じているという人は、どういう意味で信じているでしょうか。信じていないという人は、どういう意味で信じていないでしょうか。よく考えると、信じていると考えている人が、別の視点では信じておらず、信じていないとした人も、他人から見ると信じている人に見えるかもしれません。<br />
そして、ひかりの輪は、この日本的な宗教心、宗教性、霊性といったものを大切にしています。例えば、純粋な自然の聖地に行くことがあるのも、その一環です。また、最近は、一般にも、聖地に行く人が多くなっているようですね。
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong><br />
10　科学に見られる神仏の存在の示唆</strong></span>
</p>
<p>
さて、前に、人と人の違いは、お互いを助け合う上での役割の違いであり、それが人の体の中の各細胞が助け合うのと似ているというお話をしました。人の体は、一つの受精卵から始まって、細胞分裂を繰り返し、成人の場合、６０兆もの細胞を持っています。その中には、頭・手・足・各臓器・神経・血管など、さまざまな細胞があります。<br />
そして、筑波大学の村上和雄名誉教授が非常に興味深いことを語っています。最初の一つの細胞から多くの細胞が分裂していく中では、それぞれの細胞が、体のどの細胞になるかを決めて、かつ、それら無数の細胞が常にお互いに助け合って一つの生命体としてまとまるように総合調整するものが必要なわけですが、それが、ＤＮＡ情報の中にも、他にも、物理的には見つかっていないということです。<br />
ＤＮＡには、人体のすべての細胞に関する情報はあるのですが、分裂していく無数の細胞を全体としてコントロールするものはなく、それに必要な情報はあまりに膨大なのだそうです。これを言い換えると、細胞分裂による人の成長のプロセスとは、人智を超えたあまりにも見事な（奇跡的な）ものであり、村上教授は、それをなしている、人智を超えた何かを「サムシング・グレート（何か偉大なもの）」と呼んでいます。<br />
「サムシング・グレート」と表現するのは、村上教授の科学者らしい冷静・慎重な姿勢・表現として評価できますが、古典的な表現をとれば、これは、まさに神仏とか、宇宙を貫く法ということになるでしょう。実際に、宗教では、神仏とは生命の源という考えがあります。ですから、神仏という表現をとれば、個々の細胞に個々の役割を配分して、調整しているのは、神仏であるということになります。<br />
例えば、大乗仏教では、皆さんご存じの「南無阿弥陀仏」の阿弥陀如来という仏がいますが、この仏の別名は、無量寿仏（無量の寿命の仏という意味）です。それは、この宇宙が無数の生命を育む力を、仏の力、仏の法力と見なしているからです。
</p>
<p>
さて、科学と神仏の接点は、人体の成長のプロセスに限りません。この宇宙が生命を育むようになったこと自体が、それが偶然の物理的な現象としては、あまりに奇跡的であり、合理的には説明しがたいという科学的な見解があります。なお、これはあくまで説であって、これに対する反論もあるかもしれませんので、あくまでも一つの説として受け止めてください。<br />
そういった科学者は、仮に、偶然の物理的な現象として、生命が誕生する数学的な確率は、１０の３００乗分の１ほどしかないとも主張します。そして、偶然に発生する確率があまりに小さい事柄は、偶然ではなく、必然的に発生した＝誰かが意思してそうした、と考える方が合理的だということになります。例えば、あなたが、家に帰って、テーブルの上にコーヒーが入ったコップが置いてあったならば、それが「誰かによって意思され作られたものではなくて、単なる偶然の現象だ」とは考えないでしょう。<br />
仮に、偶然の現象だと考えると、例えば、地震が起こり、戸棚から、コップが上向きにテーブルに落ち、水道から（故障で）水が出て、その下に偶然にもヤカンがあり、その後、何かの原因で（再び地震？）、脇のコンロの上に移動し、何かの原因で（火事？）温められ、その後、何かの原因で（また地震？）、テーブルのコップの上にだけ注がれ、後はすべてがきれいに元に戻った、ということになります。これは、あまりに無理があることはおわかりでしょう。<br />
そのため、宇宙の中の生命の誕生の原因としては、偶然の物理現象とするよりも、それと意図して誕生させようとした超越的な何かの存在を想定する方が、合理的・科学的である、という見解が出てくるのです。これは宇宙の人間原理説と呼ばれることがあります。
</p>
<p>
また、これは、人づてではありますが、宇宙物理学の佐藤勝彦教授（インフレーション理論の提唱者）が、ある講演で、「物理学における最大の難問は神だ。ビッグバンをさかのぼった世界のすべての始まり、特異点を考えるとき、神という既存物理学を超越した作用を思い浮かべずにはおれない」と語られたことがあったと聞いたことがあります。<br />
また、あるジャーナリストが、ノーベル賞級の科学者数十名にアンケートしたところ、神の存在を信じる人の方が、信じない人よりも多かったという事実も報告されています（どちらとも言わない人を除くと）。これは著名な科学者が多い西欧が、キリスト教圏だということもあるでしょう。
</p>
<p>
これだけ並べ立てたのは、「万物を神の現れ（現したもの）と信じるべきだ」と主張したいからではなく、逆に、最初から「そんなことはない」という先入観を持たずに考えるのがよいと思うからです。<br />
厳密に言えば、科学は、神の存在を肯定も否定もしていないと思います。神の存在も、神の不在も、そのいずれもが科学的に証明はされていません。よって、真に科学的な見地とは、神を信じる自由も、信じない自由も認めるものだと思います。<br />
しかし、 科学が発達しながらもキリスト教文化が浸透している欧米と違って、日本では、科学は神の存在を否定しており、「神を信じるのは非科学的である」という誤解があるように思います。よって、神の存在を示唆する科学者やその説が、少なからずあることをご紹介しました。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
11　真の神の奇跡とは、毎日見る生命そのものでは</strong></span>
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<p>
しかし、「自分は駄目だ、自分は生きている価値がない」と考えたり、「あいつは駄目だ、生きている価値はない、死んでしまえばいい」と考えたりする人には、自分や他人を含めた生命存在が、全く奇跡的なものであって、神仏の御業ではないかという視点は、とても重要だと思います。<br />
特に、「自分は駄目だ」、「あいつは駄目だ」という考えは、これまでも繰り返し述べてきたように、一面的な価値観で自分と他人を比較して、自分が劣っていると考える思い込みから来ます。そして、そういった人の中には、苦しみに耐えかね、自殺する人もいれば、一攫千金の奇跡を妄想する人が多くいます。そして、ちまた巷の宗教の中には、その宗教を信じさえすれば（人格を磨く努力もなしに）、お金が入る、成功する、願望がかなう、奇跡が起こる、と主張するものもあります。<br />
しかし、科学者の見解や、本来の宗教的真理が語ることは、この世の最大の奇跡とは、私たちが毎日毎日、目にしている、人間を含めたすべての生命存在自体です。そして、それを包み育む大自然・大宇宙自体の存在です。それは、すべての人が共有できる、いやすでに共有している奇跡にほかなりません。<br />
そして、そのように感じられるようになれば、自分や他人という人間存在の価値を再認識できていますから、この世の最大の奇跡である生命を、自殺などで破壊したり、自己中心的な願望をかなえるために、まやかしの宗教が説く奇跡まがいにだまされたりすることもないと思います。
</p>
<p>
しかし、現代社会では、多くの人が、そのように考え、感じることができていません。それを乗り越えるためには、人と人の違いは優劣ではなく、個性・役割分担であり、自分の欠点の裏に長所があると考える訓練は望ましいと思います。<br />
人それぞれに与えられている個性・役割は、宗教的に表現すれば、この世のすべてを現す神仏によって、一人に一つずつ、この世で唯一のものとして与えられたものであり、他と比較する必要のない貴重なものです。これは、先ほど述べた「サムシング・グレート」が、人の体の中の無数の細胞の一つ一つに、それぞれの役割、全体に対する役割を与えていると全く同じ感覚です。<br />
そして、生命や自然が神仏の現れ（現したもの）という思想は、すべての生命・自然の尊重の根拠となって、人類社会全体の調和や、地球環境問題の緩和といった視点からも、２１世紀社会に役立つと思います。<br />
こうして、科学的に証明されきったものではありませんが、この思想は、決して非科学的・非合理的ではない上に、個々人の心を豊かにし、社会・地球全体の調和のために役立つ点で、信じるに値する思想だと感じています。また、美しい思想とも表現したらよいかもしれません。<br />
そして、大自然に親しんだ古代の人々や、古き良き宗教の求道者は、これを直感的に感じ取ったのではないでしょうか。また、現代の科学の最先端を行く人々の中にも、それと共通する何かを感じている人たちがいるのではないでしょうか。
</p>
<p>
最後に、卑屈・慢心・寂しさ・孤独を乗り越えるため、自分と他人を含めた万物を、神聖なものとして尊重する知性を育むことは、一朝一夕にできることではないと思います。しかし、日々のこつこつとした努力は、すぐにではなくて、徐々にではあっても、着実に確実に、実を結んでいくと信じています。
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<span style="font-size: large"><strong>第三章　怒り・憎しみを超え、自己反省と利他に生きる教え</strong></span>
</p>
<p>
<br />
他に対する怒りをほどく三つの教えについて話したいと思います。これは仏陀の教えに基づくものですから、怒りというものは、現象を完全には正しく見ることができない人間の無智・錯覚による、という思想に基づいています。
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong><br />
１　第一の教え</strong></span><br />
--悪いことをした人がいても、その人だけが原因で、悪いことがなされたわけではない（自と他の区別を超える弥勒菩薩の教えより）
</p>
<p>
そのうちの一つは、ある人が悪いことをしたとしても、その人だけが原因で、その人が悪いことをするようになったのではないという事実です。これは、落ち着いて考えれば、誰もが認めざるを得ない事実だと思います。<br />
というよりも、その悪いことをする人自体が、その人だけの力で生まれて育ったのではなく、両親に産み落とされ、その後のさまざまな環境に大きな影響を受けて、今現在に至っています。そして、両親もまた、その両親によって産まれ、その環境に影響を受けています。<br />
この因果関係は、突き詰めれば、時間的には、人類の先祖を超え、宇宙の始まりまでさかのぼり、また、空間的には、養育環境&rarr;社会環境&rarr;人類社会&rarr;地球&rarr;宇宙全体にまで広がります。こうして、この宇宙のいかなる存在も、良い人も悪い人も、良い行為も悪い行為も、合理的に考えると、宇宙の巨大な時空全体とつながって、その一部として生じています。よって、その中の何者かだけに、功績や罪があるわけではありません。<br />
イメージとしては、火山から噴出するものが、その源は、火山の下だけにあるのではなく、地球の地殻全体に広がっており、それが火山を出口として現れるだけだというのと似ているかもしれません。また、がん細胞とも似ています。がんは、その人の遺伝子・体質・生活習慣・精神的な要素等によって生じ、がん細胞が、がん細胞を作り出すのではありません。そのため、がん細胞を手術で摘出しても、再発することが多くあります。<br />
釈迦牟尼は、この世界観を「縁起の法」として説きました。縁起の法とは、万物が相互依存によって存在しており、何者も他から独立して存在してはいないという普遍的な道理を説くものです。大乗仏教の華厳宗では、この宇宙の全体が、その中のすべての微少な部分と密接不可分に交流していると説きます（じゅうじゅう重々むじん無尽えんぎ縁起）。これは、最新科学の量子力学等の世界観ともよく似ています。
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><br />
</span><span style="font-size: medium"><strong>２　心理学が説く、自分の暗部の投影としての怒りの対象</strong></span>
</p>
<p>
さらに、ユング心理学には、影＝シャドウの理論があります。それは、他に対して激しい怒りが生じる場合、その人自身が普段から見ようとしていない自分自身の暗部の投影であるという考え方です。他の心理学では鏡理論といわれることがあるかもしれません。それらの理論を私なりに解釈・改訂したものをまとめて言えば、<br />
<br />
①現代人は、競争社会の中で、自と他を比較して「他に優位に立ちたい」という欲求を<br />
持っているため、自分の悪いところは見ずに忘却し、実際の自分ではない仮面の自分を<br />
自分だと思いこむ傾向がある（仮面人間）、<br />
②そのため、実際は、自分と他人は、同じ社会に住む人間で、似たような欠点を持って<br />
いるにもかかわらず、自分ではなく、他人にだけ、その欠点があるように錯覚してしま<br />
い（自と他の区別）、<br />
③そして、他人に欠点を見ると、その欠点は、普段から「自分の中には見たくない」と強く思っている（強く否定している）ものだから、その反動で、その他人に、激しい怒りが生じる（近親憎悪的な怒り）。<br />
④さらに、類似性を持っているがゆえに、自分が置かれている条件が変わると、不遇を経験したり、誘惑があると、自分の怒りの対象だった他人と同じ行為を自分が犯したりする可能性がないとはいえない<br />
というようになります。
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><br />
</span><span style="font-size: medium"><strong>３　怒りの対象を反面教師と見て、内省に役立てる</strong></span>
</p>
<p>
こう考えていくと、自分にとって賢明な行為は、他人に対する怒りを持つのではなく、他人を反面教師としてとらえることになります。実際に、心理学でも、鏡理論というのがあって、他人が自分の鏡になっているという理論があるそうです。<br />
仏陀の教えでも、さまざまな苦しみは、神の御使いという思想があります。この世には、良いことをする人も悪いことをする人もいるが、それらは皆、自分の教師ないしは反面教師という側面があると考えて、怒りを取り除き、自省を深めます。そして、他人を反面教師と見て、自分を振り返るならば、自分が未来に同じようなことをなさないように自戒することができます。<br />
これは非常に価値があると思います。なぜならば、同じ社会に生き、縁があった他人には、自分でも気づかないうちに、自分とのつながり、なんらかの共通性・類似性がある可能性があって、仮に自分が、その他人と同じような生まれ、育ち、境遇、誘惑などの社会的な条件に至れば、同じようなことをしてしまう可能性があるからです。<br />
例えば、悪いことをする人を見て、仮に、自分が、この社会の中で、その人と同じ境遇に生まれたならば、同じ遺伝子で、同じ環境で、全く同じ条件で生まれたならば、自分自身もそうなったのではないか、と考えてみます。<br />
そして、この社会に、その人が育った諸条件があることは、最初は乳児だったその人（だけ）の責任ではなく、この社会・宇宙全体にかかわることであり、自分も、その社会・宇宙の一部であると考えればどうでしょう。例えば、自分が輪廻するならば、いつかは自分も、同じ条件に生まれる可能性があり、また、輪廻を信じない人ならば、自分の子孫が同じ条件に生まれる可能性もあると考えてみたらどうでしょう。
</p>
<p>
また、自分が生まれてからこれまでになした悪いことを、すべて十分に念入りに思い出してみます。そうして、普段忘れている自分の暗部を含めて、自分の全体を認識すると、怒りの対象である他人と自分の間に、程度の違いはあっても、何らかの類似性が見つかることが多いものです。それが見つかれば、その分、怒りは減少していきます。<br />
実際に、人は誰しも、自分が思い出したくないような悪行、ないしは、悪いとわかっていてもやめられないことが、一つは二つあるものではないでしょうか。それを忘れないでおくと、他に対する怒りが和らぎ、寛大な心が持ちやすくなります。ひかりの輪では、これを内省・内観・懺悔の修行などと呼んでいます。<br />
ただし、これは自分が悪い人だと思い、自己嫌悪に陥る訓練ではありません。自分の慢心を和らげ、他人とつながっている自分という存在をよく理解し、怒りを取り除くための修行・訓練です。ただし、普段から、卑屈やコンプレックスに悩む人は、自分の暗部を見ることが辛いかもしれません。また、慢心を抱いている人も、これを嫌がるかもしれません。<br />
しかし、そういった目先の辛さを乗り越えて、真実の自分をよく知ることは、長期的に、総合的に、大きな利益があります。どんな場合でも、真の幸福が、物事をありのままに見る智慧に支えられることは、自明の理だからです。
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<br />
<span style="font-size: medium"><strong>４　反面教師として内省する方が、他人の悪行も止めやすい</strong></span>
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<p>
さて、ここで、誤解がないように説明しておきたいことがあります。まず、これまでの教えについての反論として、「他人に対する怒りを取り除くことで、悪いことを止められなくなるのではないか」ということがあるかもしれません。<br />
しかし、私が言っていることは、自分の内面の怒り・憎しみ・恨みを取り除くことであって、悪いことを受容することではありません。そして、自分の心を怒りから解放した方が、逆に、その人に悪行を反省させ、脱却させる力があるというものです。この理由については後で述べます。<br />
また、もう一つ誤解がないように説明しておくと、悪い行為を減らすために、悪い行為をなしたならば、その人が批判・責任追及・処罰される仕組みを作っておくことは、未来の悪行を抑止する意味や、害を受けた人の感情への配慮として、非常に重要なことだと思います。<br />
しかし、それとは別に、いくら犯罪者を処罰しても、社会から犯罪がなくならないように、悪い行為は、それをなした人だけに原因があるわけではないため、その人が属する集団・社会全体に広がっている原因を十分に分析して、それを取り除く努力をすることが、抜本的な解決には必要だと思います。これは、「罪を憎んで人を憎まず」というのと近いと思います。
</p>
<p>
さて、話を元に戻して、悪い行為をやめさせるためには、怒りを乗り越えた方がよいということについてです。<br />
まず、本当の意味で、悪い行為をやめさせるためには、悪い行為をなした動機・原因を十分に理解しなければなりません。しかし、単に怒っている人は、悪行の動機・原因を十分には理解していません。それは、人が怒るときに、「なぜこのようなことをするのか」ということが多いことからもわかります。こうして、原因がわかっていませんから、その人ができることは、原因を取り除くことではなく、否応なく、単純な批判・攻撃に限定されてしまいます。<br />
また、例えば、いらいらしている人の近くに行くと、自分もいらいらするということがあるように、人と人の心には、一定の連動性があると思います。すると、他人を見て自戒している人の方が、他人を同じ反省に導きやすいことになります。逆に、単純に怒っている人に対しては、相手も、へそ曲がりの反発をしたり、心を閉ざして表面的な反省を示したりするだけの可能性もあります（もちろん、これはケースバイケースではありますが）。
</p>
<p>
それに対して、同じ社会ないし集団に生きる、他人と自分とのつながりを踏まえて、他人を反面教師にして自己を内省することが、悪行の原因を理解する上では、非常に有効になると思います。<br />
例えば、自分と他人の類似した部分を検討するために、仮に自分が、その他人と同じような生まれ・育ち・境遇・誘惑などの社会的な条件に至れば、同じようなことをしてしまう可能性がないかを検討します。自分が過去になした悪行の中で、程度の差は大きくても、同じような本質を持ったものがないかなども検討します。<br />
こうして、これまで気づかなかった自分の暗部の要素を理解すると、その自分の暗部と類似した他人の悪行の原因を、自分の経験に基づいて、よりよく理解することができます。これと同じように、仏教では、「まず己を知れ。さすれば、他人の心もわかる」と説かれることがあります。<br />
そして、原因を理解できれば、それを取り除く手段も見つかりやすくなり、悪行をなしている他人が、反省・改心・脱却する手伝いをしやすくなります。ないしは、未来に自分や自分の周囲において、同じ問題が起こらないような努力を行います。<br />
これは、他に対する働きかけでありますが、同時に、未来の自分を救うことにもなります。なぜならば、他人を脱却させることができるならば、未来において自分が同じ悪行をなし、苦しむことはなくなるからです。
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<strong><br />
<span style="font-size: medium">５　怒りより、哀れみ・慈悲の方が、他人の悪行を止めやすい</span></strong>
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この際にもう一つ重要なことは、悪いこと（他を害すること）が、他人を傷つけるだけでなく、悪いことをする人自身を不幸にするという確信だと思います。なお、いかに悪行＝利己的な行為が、他人を害するだけでなく、その本人を苦しめるかについては、次項で詳しく述べます。<br />
そして、これを理解している人は、悪行をなす人に対する怒りが和らぎ、哀れみ・慈悲を持ちやすくなります。逆に、その理解がない人は、哀れみ・慈悲ではなく、怒りを持ちやすくなります。<br />
そして、その理解がない場合は、その点においては、自分と怒りの対象が、部分的に共通点を持っていることになります。双方とも、悪い行為は、その本人を苦しめる点を理解できていないからです。<br />
よって、哀れみよりも怒りが強い場合には、まず自省することが望ましいことがわかります。多くの人は、たいていの場合、悪いことをしている人を見て、哀れみよりも怒りが先立ちます。例えば、お金を盗む人を見た場合は、悟った人ならば、人はお金では本当には幸福にならないのに、犯罪まで行ってお金に執着することを哀れむでしょう。<br />
しかし、普通はたいてい、自分もお金にとらわれているために、怒りが生じることの方が多いと思います。この場合、自分の心に生じているものは、場合によっては、相手のずるさに対する怒りである可能性もあります。それを突き詰めると、自分が上手く誘惑されたり、やっても処罰されることはないと思ったりしたときには、同じお金に対する執着によって、自分も同じ罪を犯してしまうおそれがあるということになります。
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<p>
そして、この哀れみ・慈悲は、自分が同じ問題を犯さない力になるだけでなく、他人に悪行を思いとどまらせる強い力を持つと思います。<br />
なぜならば、人は皆、自分の幸福を求め、悪いことをする人も、それが自分の幸福のためになると錯覚して、それを行うからです。よって、それを反省に導く者が、それとは逆に、悪いことはその本人を苦しめるという鮮明な認識（＝智慧）を持ち、それを言葉や心で熱心に相手に伝えて感化することが望ましいと思います。それによって、相手の悪行の動機を根底から取り除くことができる可能性が出てきます。<br />
そうではなく、他人を害したことだけを単に責めるだけの場合は、そもそも悪いことをする人は、自己中心的な意識が強いわけですから、十分な説得にならない場合があります。批判・追求・処罰によって、表面的には変わっても、内面は本当には改心していないかもしれません。<br />
実際に、何度も処罰を受けても、悪いことを繰り返す人が多くいることからも、これが理解できます。一方、本人が、本当の意味で、悪いことが自分の不利益・苦しみをもたらすことを理解したならば、繰り返すことがないことは自明の理です。
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<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>６　憎しみは憎しみではなく、愛によって終わる</strong></span>
</p>
<p>
そして、こういったことを背景として、仏陀は「憎しみは憎しみによっては終わらない。愛によってのみ終わる」と説いたのではないかと思います。これは、悪行は、悪行をなした人に対する怒り・憎しみではなく、その人をよく理解する智慧と慈悲によってのみ、本当に終わるのであると解釈できるのではないかと思います。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>７　第二の教え</strong></span><br />
--悪行をなす人は、悪い人だからではなく、無智だから悪いことをなす<br />
（善人・悪人の二分化を超える観音菩薩の教えより）
</p>
<p>
では、第二の教えですが、そのエッセンスをかいつまんでお話しすると、以下のようになります。<br />
①人は皆、幸福を求めており、悪いことをする人は、真に幸福になる道がわからないために、悪いことをしているだけで、悪い人だから悪いことをしているのではない。<br />
②こうして無智によって悪いことをする人は、他人を傷つけつつ、自分でも苦しんでいき、ある段階で、悪いことでは幸福にならないと気づいて、正しい道に目覚めることになる。<br />
③その意味で、人は間違いながら成長する存在であり、今の悪人も、将来は善人となる準備段階にあって、すべての生き物は、遠い未来には仏陀になる。
</p>
<p>
まず、悪いことをしている人は、悪い人だから悪いことをしているのではない、という点について考えてみたいと思います。落ち着いて考えてみれば、誰しも、悪いことをしたいから悪いことをしているのではなくて、皆と同じように幸福になりたいだけであることは理解できると思います。<br />
しかしながら、悪いことをする人は、無智のために、少なくとも悪いことに走るその瞬間は、幸福になる正しい道がわからずに、悪いこと（例えば他から奪うこと）が、幸福の道だと錯覚しています。逆に、良いこと（例えば他から奪わずに他を利する）は、利益がない、損であると考えています。<br />
なぜこうなるかというと、悟っていない人の目から見れば、善行・利他の行為などは、（目先は）労苦をともなう道に見え、悪行・利己的な行為の方が、（目先は）喜びが多いと見えるからです。そして、これは、よく考えれば、多かれ少なかれ、悟っていないすべての人に当てはまることだと思います。その意味で、ここまでが悪い人で、ここからが良い人として、区別する明確な境界はありません。
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<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>８　他を害することは、本人に不利益がある</strong></span>
</p>
<p>
しかし、実際には、前にもお話ししたように、快楽の貪りの裏にはさまざまな苦しみがあり、逆に、労苦の裏にはさまざまな喜びがあります。よって、本当に幸福になる道に気づくためには、悪行（利己的な行為）が、目先はよく見えるものの、本当は（長期的・総合的には）苦しみをもたらす、という麻薬的な要素があることを見抜く智慧が必要です。たとえて言えば、舌先には甘いが体には悪いのが悪行であり、良薬は口に苦いということです。<br />
例えば、自分の欲望にとらわれて他を害すならば、
</p>
<p>
①ますます欲望のとりこになって、さまざまな苦しみの元になる（具体的には「四苦八苦の教え」を参照のこと）。<br />
②人の幸福に最も重要な、他への愛・優しさ・慈悲の心は冷え、重く、暗くなっていく。<br />
③「自分が他から害される」という不安・恐怖に悩まされることが多くなる。<br />
自分が他人にすることから、他人が自分にすることを推測するのが人間心理だから。<br />
④実際に他の恨みを買い、「類は友を呼ぶ」で悪縁が増え、他人に傷つけられることになる<br />
と思います。このほかにも、さまざまな苦しみがあるでしょう。
</p>
<p>
しかし、多くの人は、悪いことをすれば他人を害することはわかっていても、それだけでなくて、それをなす本人こそが苦しむ（ことになる）という点は、よく認識できていないと思います。よって、一般に、悪いことというのは、他人を害しながら自分だけは得をしようとする行為と認識されており、言い換えると、「ずるい行為だ」と錯覚されています。本当は、自分も、いや自分こそが苦しむ愚かな行為なのです。よって、仏陀は、悪業が苦しみをもたらすと説いたのです。<br />
これを理解していないと、前にも述べましたが、悪いことをした人への怒りはわいても、哀れみ・慈悲はわきません。それだけでなく、自分を取り巻く条件が変わって、自分が悪いことに巧みに誘惑されるなどすれば、他人について批判していたことを、自分自身がしてしまうおそれもあります。<br />
そこで、悪いことが本人を苦しめ、良いことは本人を幸福にするという理解をしっかりと固める必要があります。これは、仏陀の説いたカルマの法則でもあります。悪行（利己的な行為）が苦しみを、善行（利他の行為）が幸福をもたらす。他への怒りではなく、哀れみ・悲しみ・慈悲を育むことになり、自分が同じ過ちに陥らない智慧となります。
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<br />
<span style="font-size: medium"><strong>９　悪い人もいつかは変わると説く、仏教の思想</strong></span>
</p>
<p>
次に、こうして無智によって悪いことをする人が、ある段階で、悪いことでは幸福にならないと気づき、正しい道に目覚めることになるという教えについてお話ししたいと思います。<br />
まず、悪いことをする原因は、それが一見して喜びを満たすように見え、実際には（総合的・長期的には）さまざまな苦しみを招くものであることがわからないからでした。これを言い換えれば、悪い行為が苦しみを招くということに気づけば、それから脱却することになります。<br />
しかし、人は、それほど簡単には、悪い行為が苦しみを招くとは理解できません。自分がなしてきた悪い行為と、現在の苦しみの関係を理解することは容易ではありません。それどころか、悪い行為は循環する性質があります。<br />
それは、過去の悪い行為のために、今苦しんでいても、その苦しみ・ストレスをごまかすために、さらに悪いことして、それが新たな苦しみを招く場合です。現代の多くの人は、日常生活のストレスとその解消の中で、多かれ少なかれ、この悪循環にはまっているのではないでしょうか。
</p>
<p>
しかし、仏陀の教えを解釈すると、この悪循環は永久に続くのではなく、正しい道（善行・利他の行為）に至る段階があるとされています。すなわち、悪いことを重ねる中で、経験による学習によって、それでは本当には幸福になれないと気づいて、転機を迎えるということです。<br />
これは、経典において、苦しみによって正しい教えへの信仰が生まれるとも表現されています。実際に、仏陀自身が、過ちによる苦しみから成長して悟った人です。具体的には、①生まれて30年ほど、王子として快楽を満たす人生を送る中で、人生の無常に気づいて苦しみ、その結果として修行に入った。②その後、極端な苦行に走って、その経験から、その過ちに気づいて、中道の教えを悟ったとされています。<br />
こうして、仏陀自身が、生まれつき悟っていたのではなく、王子時代の欲楽の生活と極端な苦行という、二度の間違いを経て、その間違いによる苦しみから、悟った人です。
</p>
<p>
では、仏陀や菩薩や仏弟子に限らず、すべての人が、このように悪い行為の累積による苦しみから、いつかは正しい道に入っていくのでしょうか。それともいくら悪いことを繰り返しても、変わらない人がいるのでしょうか。<br />
これについては諸説ありますが、チベット密教や、日本の大乗仏教の主流の教えでは、うれしいことに、すべての人々・生き物が、輪廻転生の中で、ついには正しい道に気づく段階が来て、最終的には、皆が仏陀になると説いています（一切衆生しっかい悉皆じょうぶつ成仏といいます）。<br />
この教えを信じる論理的な根拠を解釈しますと、
</p>
<p>
①一生の間では、悪いことが苦しみをもたらすと気づかない人はいるが、そういった人も、転生を重ねるうちに、それに気づく時が来る。過去世の記憶・印象は、表層意識では忘れているが、潜在意識には記憶されているので、意識の深い部分では、学習が進んでいき、気づく時がくる。<br />
②苦しみをさらなる悪いことでごまかせている間は、気づかないかもしれないが、その悪　循環の中で悪行と苦しみの累積が徐々に増大し、ごまかすことができない本当に行き詰まった状態に至って、その時には、正しい道以外には幸福になる道はないということに気づく（それ以外は幸福になることができないから）。<br />
③縁起の法が説くように、宇宙のすべてが相互依存であり、万物がつながっている以上は、釈迦牟尼のように仏陀になる者と、それ以外の者の間にも、本質的な区別はないはずである。よって、仏陀が徐々に増えていくならば、仏陀とつながっている全宇宙も徐々に向上していき、時間の問題で、すべての存在が仏陀になるはずである<br />
といった根拠が考えられます。
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong><br />
10　今の悪行が、苦しみを経て未来の善行の準備になるという思想</strong></span>
</p>
<p>
さて、このように信じるならば、今の悪い行為は、最終的には、未来の良い行為につながっていく、ということになります。幸福を求める人間は、経験とともに成長しますが、それは、失敗からの学習、失敗を成功の元にする形をとるということです。その意味で、今の悪い行為は、その過程で、自分と他人を苦しめつつも、最終的には、善い行為に至るに必要な精神的な準備のプロセスとも解釈できます。<br />
そして、この延長上に、すべての生き物は、遠い未来には、釈迦牟尼と同様に、仏陀になるという考えが生まれます。大乗仏教では、一切の衆生はことごとく仏陀になる可能性を有する（一切衆生しつ悉う有仏性）、一切の衆生がことごく仏陀になる（一切衆生悉皆成仏）と表現して説きます。<br />
このような人間観に立つと、悪い行為と良い行為を二分化し、悪人と善人を二分化する固定観念が弱まっていき、その結果として、怒りが和らいでくると思います。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>11　第三の教え--悪行をなした人は慈悲＝仏から遠ざかるが、害された人は慈悲＝仏に近づける可能性がある　（苦楽の二分化を超える釈迦牟尼の教えより）</strong></span>
</p>
<p>
傷つけられる、害されるという経験は、場合によっては、本当に辛いものですが、しかし、それをどう受け止めるか、どう解釈するかまでは、傷つける側が強いることはできません。逆に言えば、傷つけられた側が、自分の意志で、それを決めることができる可能性があります。<br />
もちろん、そうした場合、怒り・憎しみの感情に影響されるのが人間です。しかし、誰かに悪意を持たれて、傷つけられた場合、その傷つけた者に、怒り・憎しみを持ち続ければ、その否定的な感情によって、傷つけた者の悪意の通りに、自分が不幸になっていくおそれがあります。<br />
そこで、仏陀やイエスといった偉大な宗教家は、傷つけられた苦しみを、傷ではなく、智慧や慈悲といった貴重な財産に転換する教えを説きました。それによって、怒り・憎しみを和らげ、智慧や慈悲といった、人としての本当の幸福を深める教えです。具体的に言えば、前項に書いた、苦しみを喜びに変えていくさまざまな教えの実践です（これについては、前項を参照してください）。<br />
これに関連して、仏陀は、「憎しみは憎しみによっては終わらない。愛によってのみ終わる」と説きました。イエスは、「汝の敵を愛せ」と説きました。大乗仏教では、敵対者を、自分の智慧や慈悲を育む教師としてとらえ、敵こそ教師であると説きます。大乗仏教の六つの完成（六波羅蜜）の教えでは、誹謗中傷などに耐える忍辱（忍耐）の修行が重要視されています。<br />
一方、傷つけられた方ではなく、傷つけた方は、それを怒りや憎しみで行う以上は、とうてい智慧と慈悲を培うことはできません。その怒りや憎しみの悪業によって苦しまなければなりません。智慧や慈悲を培うことができるのは、その苦しみを経験して、深く反省した後になります。<br />
もちろん、こういった心の訓練は、すぐにできるものではないでしょう。よって、すぐにできるようになる必要はないと考えて、焦らず弛まず、こつこつと訓練していこうと考えればよいと思います。そして、安直に達成されるものではなくて、地道なこつこつとした努力によって達成されるものこそ、真の価値を持ったものだと思います。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
12　怒りを超える＝許しの恩恵</strong></span>
</p>
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ここで、怒りを超えて、他を許すこと、慈悲を持つことの恩恵を考えてみたいと思います。<br />
第一に、怒りを超えることは、心と体に安らぎをもたらします。東洋医学・心療内科などでは、怒りの持つ弊害がよく指摘されています。逆に感謝の心は、前も述べましたが、ストレスの低下から免疫力の向上をもたらすといわれ、がんなどの治療にも有効だという説があると聞いています。ある東洋医学の先生は、「人を病にさせる最大の原因は、許せない心だ」とも言っていたと聞きます。<br />
また、怒りを超えることと不離一体なのが、これまでも述べてきた自己反省の謙虚な心です。これは、自分自身が同じ間違いをすることを防止するのに役立つとともに、自分を通して他人を理解し、他人の悪行を止める資質を得ることができます。<br />
そして、他を許す人は、自分も許すことができます。逆に、他人を許せない人は、自分が失敗・過ちを犯したときも、自分を許すことができず、深い自己嫌悪に陥ります。それがバネになればいいのですが、場合によっては、身動きが取れなくなり、鬱になってしまいます。他を許さない心の刃が、自分の心も切ることになるのです。こうして、他人を許す心は、挫折・過ちの際に、自分が立ち直ることを助けます。<br />
また、失敗した自分を許せない場合に、自己嫌悪に陥るのではなく、失敗したことを受け入れずに、無理に自己を正当化し、失敗を他人のせいにすることもあります。ひどい場合は被害妄想です。こうして、自己嫌悪から鬱になるか、他人を逆恨みし被害妄想になるのです。こうして、自分も他人も愛せなくなり、これが、心身を痛める原因にもなります。<br />
他人と自分を許す人は、挫折・失敗を率直に受け入れ、自己反省を行うことができます。そして、それによって、最終的には成功することができます。なぜならば、失敗は成功の元であり、失敗の際に、自分も他人も責めすぎることなく、努力をし続ける限り、徐々に成功の道が開けてくるからです。こうして、他への許し・愛は、他人だけではなく、自分への許し・愛となって、他人と自分の双方の成長を促すものとなります。<br />
そして、許すことの延長上に、仏教的な悟りがあると思います。仏教的な教えに基づいて考えると、大宇宙は、その中のすべての存在をその寿命の範囲で認めている（許している） とも解釈できます。こうして、許しは、宇宙と一体化する精神的な体験（心が落ち着き広がっていく体験）と深く連動すると思います。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>13　一元法則の復習と一元的な信仰心</strong></span><br />
<br />
最後に、ひかりの輪が説く一元の法則をまとめて、一元の法則に基づいた信仰心のあり方、すなわち一元的な信仰心について考えてみたいと思います。これは、あらゆる者に対する怒りを超える究極的な教えでもあります。<br />
まず、ここで、一元的な信仰心とは何かというと、大雑把に言えば、この世の万物を神聖な存在であると信じることです。例えば、大乗仏教では、仏の境地、究極の悟りの境地から見れば、すべての衆生が仏であり、この世は仏が集う浄土に見えるとされています。わかりやすく言えば、万物が信仰対象とも表現できるでしょう。これについて具体的にお話ししたいと思います。
</p>
<p>
第一に、ひかりの輪で、「釈迦牟尼の一元法則」と呼んでいるのが、苦と楽を二分化しない教えであり、苦と楽の双方を含めて、この世の万物に感謝して恩返しをするというものです。具体的には、与えられている幸福に気づいて感謝し、苦しみの裏側にも喜びを見いだして、苦と楽の双方を神仏の祝福と考えることです。こうして、万物に感謝し、その恩返しとして、万物に慈悲の心を持って生きるという教えです。ここでは、「万物は、神仏が現した私たちを、育み成長させる祝福」と位置づけられます。
</p>
<p>
第二に、ひかりの輪で、「観音菩薩の一元法則」と呼んでいるのが、善悪・優劣の二分化を越える教えであり、万物を平等な仏性の現われと尊重して育むというものでした。具体的には、人の優と劣、長所と短所、善と悪は、本質的に表裏であり、万物が未来に仏陀になる平等な可能性を持つというものです。煩悩も菩提心（仏陀の心）と表裏であり、大煩悩は大解脱をもたらす可能性があり、大悪人も大善人になる可能性があるという教えです。ここでは、「万物が、平等に未来の仏、仏の子であり、ゆえに仏である」と位置づけられています。
</p>
<p>
第三に、ひかりの輪で、「弥勒菩薩の一元法則」と呼んでいるのが、自と他の区別を超える教えであり、自と他を含めた万物を一体と見て、他と苦楽を分かち合う大慈悲の実践をするというものです。具体的には、万物は、自分とつながり合って一体として存在しており、そのため、他者は自分の善業・悪業を映す鏡であり、教師ないしは反面教師であるという教えです。よって、それから学んで、万物に感謝し、そして、自分を救う意味でも、他人を救う、他と幸福と不幸を分かち合う大慈悲の実践をするものです。ここでは、「万物は、自分の学びの対象」であり、その意味で、神仏の与えた導き手と位置づけられています。
</p>
<p>
こうして、一元の法則によって見方を改めるならば、この世のすべては一体であり、平等に神仏の現れであると見ることができます。
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&nbsp;
</p>
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<span style="font-size: large"><strong>第四章　宗教を学ぶ姿勢--２１世紀の新しい宗教・思想の創造</strong></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>１　事実と信仰の区別、手段としての信仰</strong></span>
</p>
<p>
２１世紀の新しい宗教のあり方を考えると、信仰者が、客観的な事実である教えと、そうではない教えをしっかりと区別できるかという大きな課題があると思います。これを言い換えると、知っていることと、信じているにすぎないことの区別です。<br />
そして、信じているにすぎない教えについては、それを信じる場合には、絶対真理として無条件に信じるのではなくて、十分な工夫が必要です。具体的には、それを信じることで、自分や他人が、より正しく生きて、幸福になるものかをよく考えて、幸福になる手段として、その解釈や使い方を考えた上で、信じるべきだと思います。<br />
ここで、手段という言葉は、決して宗教やその教義の価値を否定するものではありません。仏教開祖である釈迦牟尼も、手段という意味を持つ「方便」という概念を使って、教えを手段と考え、人によって説く教えを変えたといわれています。また、「ちゃくほう択法かくし覚支」といって、時と場合・条件によって、実践する法則を選択するように説いたといわれています。<br />
その一例として、例えば、仏教徒が信じる輪廻転生をあげて説明したいと思います。輪廻転生は、科学的には少なくとも完全には証明されておらず、（それゆえに）他宗教が共有しているものでもありません（なお、私は仏教を尊重しており、適切なやり方で輪廻思想を信じることを進める立場なのですが）。<br />
例えば、輪廻思想は、来世を説きますから、「今生で悪いことをしても見つからなければよい」といった誘惑を超える手段として、（それを信じる人には）有効だと思います。「悪いことをして今生でその罰が下らなくても、来世には下ることになる」と考えるからです。「輪廻があるかどうかは（科学的には）わからないが、もし輪廻があったらならば、悪いことをしていると、来世で大変苦しむことになる」と考えて、欲望を抑制する目的のための手段として信じるわけです。<br />
しかし、輪廻を絶対真理とすれば、それに基づいて、殺してもどうせ生まれ変わるからといって、今生（の生命）を軽視したり、殺人を肯定したりする論理の土台にするおそれもあります。また、輪廻を信じない他宗教を、正しい教えではないと軽蔑する結果を招くおそれもあります。<br />
これは、客観的に見れば、輪廻という観念に人の心が支配されて、教えを幸福の手段として使っているのではなく、教えに逆に支配されている状態だと思います。そういった場合には、（もし輪廻があればと考えた）先ほどとは逆に、もし輪廻がなければ、そういった論理や軽蔑は、大変な過ちとなると考えるべきだと思います。<br />
従来の宗教では、教義は絶対化しやすく、客観的な事実と、単に信じていることが区別されにくくなっています。<br />
そして、よく考えるならば、自分の信じている宗教の教義は、科学の法則のような客観的な事実でないがために、すべての人が信じていないにもかかわらず、そうではなくて、「自分たちが、信じていない人よりも優れているから、それを信じている（信じることができる）のだ」と錯覚する面があると思います。すると、その教義を信じることによって、メリットだけでなく、密かに満たされてしまう「虚栄心」というデメリットが生じます。<br />
よって、２１世紀の新しい宗教のあり方としては、信じることによるメリットを巧みに残しつつ、いかに盲信による虚栄心などの弊害をなくすか、ということを考える必要があります。そのためには、客観的な事実と、信じていることを区別して、信じているにすぎない教義を絶対視せずに、それを幸福の手段と見て、柔軟に解釈する智慧が重要だと思います。<br />
これは非常に重要だと思いますが、盲信の強いタイプの宗教にとっては、大きな課題となると思います。しかし、これを実現できれば、本来は人のためにあるべき宗教が、人を支配してしまうという大きな問題から脱却できると思います。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>２　信じることと知っていることの違い</strong></span>
</p>
<p>
さて、ここで「信じる」ということは、どういう意味を持つのか、について考えてみましょう。「知っている」という場合は、大雑把にいえば、その対象は、誰もが認める客観的な事実であって、例えば、科学的に証明されるものです。信じているというのは、誰もが認める客観的な事実ではなく、いわば、その人が正しいと思っている、ということだと思います。<br />
もちろん、正しいと思うには一定の根拠がありますが、誰もが認めるほどの客観的な根拠があるわけではなく、場合によっては、間違っているかもしれない可能性を含むものだと思います。こうして、正しい可能性と間違っている可能性がある中で、正しいと思うわけですから、自分でも気づかないなんらかの理由で、「正しいと思いたい」という個人の好き嫌いの感情が入っているという推測が成り立ちます。<br />
しかしながら、多くの宗教の信者は、「信じる＝正しいと思いたいこと」を、「知っている＝正しいこと」と混同してしまう場合があると思います。例えば、「自分の信仰は正しい」、「自分たちの信仰こそ正しく、他の信仰は間違っている」と主張する人がいます。<br />
しかし、「自分の信仰は正しい」という主張を、先ほどの考えた「信じること＝正しいと思いたいこと」という分析に基づいて解釈すると、「自分が正しいと思いたいことは、正しい」と主張していることになります。ここに、現代社会で、宗教を嫌う人が、宗教の信者に感じる傲慢・独善の本質があるのは明らかではないかと思います。<br />
では、信じるという行為は、単に傲慢な行為にしかならないのかというと、そうではないと思います。それは、信じる人が、信じるという行為と知っているという行為を区別して、傲慢にならないように努めつつ、自分や他人を幸福にするために、信じるという行為を手段（＝方便）として使う場合だと思います。<br />
例えば、仏教が説く輪廻転生思想ですが、生まれ変わりを信じることで、「今生悪いことをしても、見つからなければいい」という考えを押さえ込み、「来世に罰を受けないように、今生悪いことはしないようにしよう」と考えることは、輪廻転生思想を、自分や他人を利する手段として使っている一例だと思います。<br />
しかし、生まれ変わりを信じる人が、生まれ変わりとは、「自分が正しいと思いたいこと」にすぎないのではなく、「絶対真理である」と錯覚すれば、オウム真理教のように、他人を殺しても来世があるからよい（高い世界に生まれ変わらせればいい）と考えたり、イスラム原理主義のように、自爆テロをした者はその功徳で天界に転生できると考えたりする原因になる可能性があります。もし、「自分が正しいと思いたいこと」にすぎないと考えるならば、それによって、他人の貴重な生命を奪うテロ行為は正当化できないでしょう。<br />
また、神仏の存在を信じること自体もそうです。例えば、人は、依然として宇宙の仕組みのすべてを知っているわけではなく、また自分一人の力で生きているわけでもなく、万物に支えられて生きています。よって、こういった謙虚さや感謝の気持ちを深めるために、一人一人の人間を超えた大きな力として、ないしは、自分を支える万物の根源として、神仏の存在を信じて、手を合わせることは健全だと思います。<br />
人が自分の力だけで生きていると錯覚すれば、傲慢な人間中心主義に陥って、自らを地球・宇宙の支配者＝神と錯覚し、例えば、自然を開発の対象とのみ考えて、昨今の地球環境問題などの原因を増大させるおそれもあると思います。<br />
しかし、神仏の存在を信じる中で、自分が何かしらの神仏のヴィジョンを見たり、啓示を受けたりしたとして、「自分こそが、自分だけが、絶対神の化身である」などと主張する教祖がいますが、そうなると、逆に、神仏を信じることで、傲慢・誇大妄想を増大させてしまいます。こういった自己中心的なヴィジョン・啓示は、それを見る人の自己中心的な心の働きが作り出す幻影と考えて、十分に注意する必要があるでしょう。
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さて、こういった考え方に対する反論として、「信じる」ことを、単に「自分が信じたいと思いたいこと」にすぎないと自覚してしまうと、それほど強く信じることはできなくなるために、信じることによるメリットもなくなるのではないか、という反論があると思います。例えば、上記の生まれ変わりの場合は、生まれ変わりがなければ、今生悪いことをしてはいけないという気持ちが薄れてしまうということです。<br />
しかし、私は、信じていることは、単純に信じたいと思っているだけのまやかしにすぎないと主張しているのではありません。一部にはそういった教義もあるでしょうが、宗教の教義の多くは、完全な科学的な証明はなくても、逆に全く根拠がないわけでもありません。<br />
例えば、生まれ変わりについては、誰もが認める十分な科学的な証明まではありませんが、その存在を示唆する諸々の事実はあります。例えば、前生を記憶していると主張する人たちの記憶を実際に検証した科学者の研究はあります（反論として、それは超能力で知っただけではという見解もある）。<br />
また、仏教・ヨーガの行者が体験するサマディと呼ばれる仮死状態＝臨死体験的な瞑想体験や、手術中の患者の臨死体験などで、体の外に意識が出ていったといった体験（体外離脱体験）の事例も、私個人も含めて、少なからずあります（もちろん本当に一度死んで体が分解した人が、再び蘇ってきて、あの世の体験を語ったことはありませんが）。<br />
よって、生まれ変わりがあるという十分な科学的な証明はありませんが、逆に、ないという科学的な証明もなく、その可能性は否定できないわけです。こうして、純粋に科学的に考えると、生まれ変わりがある可能性と、生まれ変わりがない可能性の二つがあります。よって、それを信じる自由と信じない自由の双方があるということになります。<br />
よって、生まれ変わりがある可能性を使って、悪いことをしたら今生見つからなくても、来世に罰を受ける可能性があると考えて、それは避けようと考えることができると思います。また、それと同時に、生まれ変わりがない可能性を使って、他人を殺す行為は絶対に正当化しないようにすることができると思います。こうして、自分一人の中で、信じる自由と信じない自由の双方を使いこなすわけです。<br />
これが、宗教の教義を、自と他の幸福の手段として使うということです。神仏の存在を信じることについても同様です。信じることで、感謝や謙虚さが増大する形で神仏の存在を信じ、逆に、自己中心的なヴィジョンを見たときには、それは神仏によるものとは信じないのです。<br />
こうして、信じることの対象は、たいていは、それがあるともないとも、正しいとも正しくないとも断定できないものです。すなわち、存在する（正しい）可能性と、存在しない（正しくない）可能性の双方があります。よって、信じる自由と信じない自由の双方があります。<br />
この両面性の事実を使って、自分や他人のために、信じることがよい場合は、それが存在する（正しい）可能性を使い（すなわち信じ）、信じることが悪い場合には、それが存在しない（正しくない）可能性を使うことはできる、と思います。
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<span style="font-size: medium"><strong>３　信仰に逆支配されないために</strong></span>
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次に、宗教・信仰に人が逆支配される現象と、その背景を考えてみたいと思います。まず、誰もが認める客観的な事実がなく、何かを信じるということは、必ず、それを信じる人と、信じない人が出てきます。よって、人類の歴史で、どんな大きな宗教でさえ、その信者と非信者が存在します。<br />
例えば、キリスト教が世界最大の宗教だとして、その信仰の中核といわれるのは、イエスが復活したことを信じるかどうか（信じる者がキリスト教徒）だと思いますが、世界人類全体から見れば、これは誰もが認める客観的な事実ではないために、キリスト教徒とそうではない人たちがいます。<br />
仮に、イエスが、すべての人類の前で、毎日のように、死と復活を含めたさまざまな奇跡を見せ続ければ、ほとんどの人はキリスト教徒になると思います（その場合は、信仰というより、イエスの奇跡現象が、宇宙の普遍的な（科学的な）真実の一部として認められる）。<br />
よって、信じる人がいれば、必ず信じない人が出ます。そして、ここで問題なのは、信じる人と、信じない人の間で、場合によっては激しい対立が生じることです。そして、それが、２１世紀の人類を危うくさせている事実です。<br />
なぜそうなるかというと、信じる人は、信じることを絶対的に正しいことと錯覚するからです。そもそもが、信じることは、誰もが認める客観的な事実ではなく、知っていることとは違うにもかかわらず、それを信じてしまうと、あたかも知っているかのように錯覚する。そして、多くの場合、信じることができる自分は、信じることができない人たちより優れているという錯覚が生じます。<br />
本来は、信じない人がいるのは、そもそもは、誰もが認める客観的な事実がないからで、信じない人が劣っているからではありません。しかし、非常に多くの場合、信じる人は、「信じない人よりも、自分は優れている」と強く思います。そして、場合によっては、信じない人を「悪業をなしている人だ、地獄に堕ちる」などと決めつけ、自分が気づかないうちに、実は、無智・傲慢になっていきます。これは盲信でしょう。<br />
そして、こうした妄信的な信仰者には、自分では気づかないうちに、さまざまな苦しみが生じます。それは、本来は自分の幸福のためであった信仰に、自分が逆支配されるといってよいかもしれません。<br />
例えば、自分たちの信仰を否定する人たちと、単に意見が対立するのではなく、お互いの存在を排除・抹殺するために、戦わなければならない場合もあります。このひどい場合が、宗教戦争・宗教テロであり、多くの血が流されてきた原因です。<br />
こうして、自分の信仰を否定する他人と対立しながらも、どんな敬虔な信仰者にも、自分の内側には、疑念があります。これは非常に矛盾していることですが、事実です。外側にも内側にも、自分の信仰を否定する存在がいるのです。それを一生懸命に抑圧して隠してはいても、心の奥には（潜在意識には）しっかりと存在しています。<br />
実際、キリスト教の開祖で唯一の神の子と呼ばれるイエスさえ、十字架の上にはりつけ磔になった時には、「神よ、なぜ私を見捨てたもうたか」とつぶやいたとされます。こうして、信仰と疑念はセットで存在しています。知っているのではなく、信じているだけなのですから、人の心の働きからして、これは自然で必然的なことです。<br />
そして、自分に疑念が出たときに、信仰者は非常に苦しまなければなりません。それは、普段から疑念を悪いことだと強く否定しているからです。相当に疑問を抱いても、信仰をやめた場合の恐怖があるため、なかなかやめることができません。それまで自分が、信じない人たちを否定してきたことが、自分に返ってきて、「やめれば、地獄に堕ちるのではないか」という恐怖・不安が出てきます。<br />
これが盲信の結果です。こうして、自分が幸福になると思ったから信仰したにもかかわらず、客観的に見ると、盲信的な信仰は、逆に自分が不自由・不幸を感じる一面が出てくるのです。これを私は、盲信によって、宗教に人が逆支配された状態と呼んでいます。しかし、それはほかでもない自分自身がやっている事ですから、他人のせいにはできません。<br />
さて、宗教に関する自由といえば、17世紀の市民革命以来、確立した基本的な人権の概念として、「自分の好きな宗教」を信じる自由と、「自分が好きでない宗教」を信じない自由を「信仰の自由」といいます。ただ、これは自分と他人の関係の中での信仰の自由です。<br />
しかし、今までお話ししてきたことを考えると、これだけでは、真の信仰の自由を得たとはいえないと思います。そのためには、自分自身の中における信仰の自由が必要です。すなわち、自他の幸福の手段として、自分の関わる信仰を、自在に使える柔軟な智慧があってこそ、真の信仰の自由を得たということができると思うのです。
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<span style="font-size: medium"><strong>４　象徴としての崇拝対象</strong></span>
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宗教には崇拝対象というものがあります。例えば神とか、仏、そして、経典、さらには、その宗教の開祖などです。そして、崇拝対象についても、手段（方便）としての信仰という考え方が当てはまります。<br />
まず、何かの崇拝対象を信じるとか、帰依するという行為の本質を考えてみたいと思います。崇拝対象とは、普通、絶対性を持っています。しかし、落ち着いて考えれば、どんな人間も不完全ですから、自分の崇拝対象が絶対・完全だと知る能力はありません。<br />
ところが、これまでもお話ししたように、従来の宗教の信者は、自分の崇拝対象を信じていくうちに、それが絶対であると（あたかも知っているように）思うようになります。そして、自分の崇拝対象を否定する者が現れると、絶対・完全な存在を否定する者として、「真実を知らない愚か者」と軽蔑するばかりか、場合によっては、「他の何よりも悪いことをしている者だ」と思うようになります（そのように教えられることもあります）。わかりやすく言うと、神・仏を否定しあらがう、悪魔・魔となるのです。<br />
典型的な例が、その宗教で、その崇拝対象が唯一絶対のもので、他の（宗教の）神は邪神であるとされている場合です（これを唯一神教というのでしょうか）。また、現代社会でよく見られるのが、特定の人物を神と見る場合です。この場合、その人物を神と同等と信じる信者と、そう信じない外部社会の間で、対立が起こる場合があります。<br />
それは、信者は、その人物を神の化身などと感じられるのに対して、外部社会には、神ではない人間としての色々な疑惑が感じられる場合でしょう。この場合、信者には、その外部社会の疑惑は、事実無根（の陰謀）であるとか、全く無視するようにと教えられます。そして、ご存じの通り、いわゆるカルト宗教とされるものに、このタイプのものがよくあります。<br />
そもそも、不完全な人間である信者は、客観的な視点から見れば、他の人間＝教祖を完全であると判断する能力はないと言わざるを得ないでしょう。そして、不完全な人間である信者が、（同様に不完全であろうと思われる）特定の人物を完全だと信じるのは矛盾であり、盲信に他ならず、精神的に不健全であるという見方は、私も合理的だと思います。<br />
それはともかく、次に、宗教の信者がなぜ、客観的には絶対でない者を、絶対と信じるようになるかについて、自分の経験から説明し、その上で、それを乗り越える方法をお話ししたいと思います。<br />
まず、オウムにおいて、信者が、その開祖を神の化身だとか、絶対だと思うようになった主だった理由は、①（一般の人と比較すれば相対的に高い）教祖の霊能力（超能力）、②教祖の与えた修行で得た神秘体験、③教団を挙げての神格化の宣伝、④グルを絶対とする密教の教義の誤用などだったと思います。<br />
まず、超能力・霊能力については、世間一般に、それを過大視・特別視する傾向があるのではないかと思います。そういった能力を持っている人は、決して一人だけではなく、それを持っていたとしても、神の化身の証明ではないと思います。<br />
例えば、普通の人でも、母が娘の心が手に取るようにわかるとか、正夢だとか、第六感とかいわれるように、人間の自然な能力として、多かれ少なかれ誰もが持っているものだと思います。実際、人間よりも、野生の動物の方が、遠くの自然現象を察知するなど、ある意味で超能力を持っているということもできます（いわゆる「動物的な勘」）。<br />
そういった能力が、一般の人より相対的に顕著である人が、霊能者・超能力者といわれたり、宗教の開祖になったりしますが、私の知る限りでは、それはあくまで比較の問題であって、完全・絶対の超能力を持っている人は存在しないと思います。もし仮に存在すれば、そして、すべての人々の前で絶対的な超能力を今日も昨日も見せる人がいれば、その人はすでに世界中の人々の教祖になっているでしょうから。<br />
さらに、自分の経験では、霊能力・超能力が強くても、それが優れた人格や真実の悟りとは、必ずしも結びつかないと思います。オウムの開祖は、自分が神の化身であるという慢心に陥って、手段を選ばない布教を正当化し、例えば、隠して薬物を与えることで信者に神秘体験をさせ、それが自分の力によるものだと思わせるといった、いわば演出をしました。こういった演出は、他の宗教でも、よく疑われる場合があります。<br />
しかし、こうしたバランスの取れた宗教に関する知識がない人たち（特に若者など）にとっては、自分が出会ったカリスマ的な人物が、非常に特別な人に見えてしまい、これによって盲信が始まります。要するに、人は神秘的なものにうぶなために、それに弱いという傾向があると思います。<br />
これは、神秘体験についても同じです。私の経験上、神秘体験は、唯一絶対の人物である教祖の力がなければ得られないものではありません。ヨーガの行法や薬物の力で体験する場合もあります。また、神秘体験が直ちに、高い人格や悟りに結びつくとはいえません（それを手段として活かすことはできますが）。<br />
しかし、霊能力・超能力と同様に、神秘体験について、こうしたバランスの取れた知識がない人の場合は、神秘体験の価値を過大視したり、教祖の力で体験をしたと錯覚したりする可能性があります。<br />
さらに重要なこととして、信者は、自分の崇拝対象について、意図的に、それが神聖なものであると信じる努力をすることがあります。それが、先輩からも、信仰（帰依）を深めることだと教えられます。<br />
そして、そういった修習をすると、信者の心の中には、その崇拝対象を思えば、神聖なイメージが生じるという仕組みができあがります。ここで重要なことは、崇拝対象に神聖さを感じるようになった信者は、それが自分の努力で作り出された心の中の連想システムではなくて、崇拝対象が真に神聖であることの証と受け取ります（受け取るように教えられる）。<br />
しかし、合理的・科学的に考えると、人が感じるものは、すべて自分の心の中の現象であり、脳内の情報処理にほかなりません。よって、何か神聖なものを感じている場合には、それは、その人自身の心・脳の中に存在していると考えられます。この考え方は、科学的な視点に限らず、仏教の唯識思想とも一致します。<br />
よって、崇拝対象を意識すると神聖なものを感じるようになった信者は、外側の崇拝対象を、自分の中にある神聖な意識を連想によって引き出すきっかけ（＝象徴）とする訓練をしたのであって、その意味で、神聖なものの本質は、自分の内側にあるということができます。<br />
よって、何かの崇拝対象をきっかけに、神聖な体験をしたとしても、その外側の崇拝対象が、唯一絶対であるという証明にはなりません。神聖なものを感じるすべての人々について、その神聖なものの本質は、自分の中に存在していると考えられます。<br />
これを象徴的に言い換えると、自分の中に神仏がいるという思想になりますが、これと同じ考え方が、大乗仏教の中にあって、すべての人々には、自分の中に仏性（仏陀になる可能性）があると説いています。また、ヨーガが説く真我の思想にも通じています。ニュー・サイエンスでは、ハイアーセルフ（至高我）などといわれているようですね。<br />
なお、チベット密教では、生きている人間をグルとして崇拝対象にする一面があります。しかし、このグルというのも、本質的には、弟子の仏性を引き出す助力をする者であって、仏性のない弟子に、自分の仏性を与える存在ではないとされています。<br />
そして、チベット密教が説く、グルを仏の化身等として絶対的な存在と見なす修行は、オウムで信じられたように、グルが他人の生命を奪ってもよい絶対的な存在であるということを意味しているのではありません。そう考えることによって、グルを自分の仏性を引き出す象徴とするものだと思います（他にも、グルに対して謙虚になることで、弟子が自己のエゴを弱める手段とすることもあると思いますが）。<br />
こうして、外側の崇拝対象とは、自分の中の神聖な意識を引き出すための象徴であって、その意味で、これも、方便・手段だと考えることができます。<br />
そして、この考え方であれば、それぞれの人が、自分にあった象徴（としての崇拝対象）を持つことを認めることができます。それぞれの人の中に、神仏の性質が存在しており、外側のものは、それを引き出す象徴であるという考え方です。しかし、崇拝対象を、自分の仏性を引き出すための象徴と考えず、それ自体が絶対と考えると、さまざまな問題が起こります。<br />
まず、崇拝対象に対する依存症に陥り、手放したくても手放せなくなり、それを奪い合ったり、それを否定する者（神聖だと思わない者）と強く対立したりします。この場合、信者ではない人から見ると、信者が、その崇拝対象を神聖だと思いこむ、自己マインドコントロールのプロセスにはまってしまったと思えるでしょう。これを回避するには、何かを信じるとか、何かの信仰を深めるといった行為とは、自分の中の神聖な意識を、連想で引き出すための象徴を作る行為であると理解する方法があると思うわけです。<br />
最後に、私個人が、オウム・アレフから脱却する中で、自分の（仏性の）象徴としているものの一つは、聖徳太子にまつわる著名な仏像である国宝・弥勒菩薩半跏思惟像があります。この仏像の前では、非常に印象深い神聖な体験をしました。また、聖徳太子との縁を感じるさまざまな宗教的な体験をしました。<br />
もちろん、象徴は、人それぞれあってよいのですが、日本のほとんどの人が受け入れ不可能な人物を崇拝対象とした過去のある私にとっては、日本国民の精神的な支柱であり続けてきた仏像や人物が象徴であるならば、大勢の人たちとの対立を招かなくて済み、日本社会全体に広がる意識を培いやすい点で、その良さを感じています。<br />
この意味では、どのような象徴を選ぶかということも重要です。象徴とは、その人がどんな思想・教えを求めているかに従って、探し求めれば、与えられるものだとも思います。言い換えると、その人が選ぶ象徴には、その人が潜在的に望んでいるものが反映することにもなると思います。
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<span style="font-size: medium"><strong>５　釈迦牟尼という特徴的な宗教家</strong></span><br />
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日本で釈迦牟尼と呼ばれている人物（本名：ゴータマ・シッダールタ）は、自分の最も好きな宗教家の一人です。昔からインドに行くことが多く、その中で、釈迦牟尼ゆかりの聖地巡礼を繰り返し行いました。ひかりの輪でも、祭壇の中央に掲げているのも釈迦牟尼であり、その生誕地であるネパールから、法具を購入しています。<br />
そして、最近、従来の宗教を超えた、２１世紀の新しい宗教のあり方を考え、その中で、幸福の手段としての信仰という理念を固める上でも、釈迦牟尼の生き方は非常に大きな助けとなっています。自分の持つ２１世紀のための新しい宗教のあり方と、釈迦牟尼の教えや実践との共通点は、以下の通りです。
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<span style="font-size: small"><strong>（１）自灯明・法灯明</strong></span>
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釈迦牟尼は、信者に自分（＝釈迦牟尼）を崇めずに、自己と法を拠り所にすることを強調した。いわゆる自灯明・法灯明ともいわれる。これは、ひかりの輪の「人を神（＝絶対）としない」という原則に一致する。<br />
また、自己を拠り所にせよという意味は、自分の中の神聖なもの、仏性、慈悲の心を大切にせよという意味だと解釈できる。
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<span style="font-size: small"><strong>（２）方便自在・対機説法・択法覚支</strong></span>
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釈迦牟尼は、何かの唯一絶対の法則を説くのではなく、人によって、機会によって、説く教えを自在に変えた（対機説法）。弟子には、時々の条件に応じて、修習する法則を選択すべきとも説いた（択法覚支）。さまざまな法則を方便（＝手段）として自在に操った（方便自在）。これは、宗教（の教義）を絶対真理として盲信するのではなく、幸福の手段と位置づける、ひかりの輪の思想に通じる。
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<span style="font-size: small"><strong>（３）無記と現世指向</strong></span>
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釈迦牟尼は、他の宗教家が、どんな議論しても正しいか間違っているかの決着のつかない形而上学的（哲学的・宗教的）な議題を持ちかけると、回答しない、どちらとも決めない（無記）という姿勢を取った。そして、そういった抽象的な問題ではなく、実際の現実の苦しみを（法の実践で）取り除くことを強調した（現世指向）。これは、ひかりの輪が重視する、盲信の超越（合理性の重視）と通じる。
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これらの教えや実践から私が感じる釈迦牟尼のイメージは、その巨大なカリスマ性に反して、非常に冷静な、理知的な、合理的な思考・精神の持ち主というものです。<br />
輪廻転生についてでさえ、釈迦牟尼の言説を研究する学者の中には、釈迦牟尼は、仏教以前からインド民衆に浸透していた輪廻転生観を説きつつも、それを絶対真理とは考えておらず、方便として用いたのではないか、という見解さえもあるようです。釈迦牟尼のさまざまな前生を説く輪廻転生談（ジャータカ）も、学術的な研究では、釈迦牟尼の直説ではなく、後世の作だという見方が強いようです。<br />
また、釈迦牟尼（そして仏教）は、宇宙の創造や、創造主・絶対神も説いていません。他の宗教のほとんどは、宇宙の創造神・絶対神といったものも説きます。しかし、よく考えれば、創造神・絶対神の存在とは、合理的には肯定も否定もしきれるものではありませんから、釈迦牟尼が、それをどちらとも決めない無記の事項の範疇と見なしたとすれば、それも彼の合理的な精神の一端かと思います。<br />
それに代えて、釈迦牟尼は、この世の道理を現す「ダルマ（法）」を強調しました。よって、仏教は、初めはダルマ信仰であって、ブッダ（仏陀）信仰ではなかったといわれています。学術的には、釈迦牟尼が神格化されたり、釈迦牟尼を超える絶対的な仏が説かれたりしたのは、後世のことである（大乗仏教の経典においてである）といわれています。<br />
このダルマとは、深く考えるならば、誰もが、この理性で確認できる道理だと思います。釈迦牟尼は、縁起の法や無我の法を説きました。この縁起の法とは、事物が条件によって（他に依存して）生起することで、万物が相互に依存し合って存在していることをいいます。また、無我の法とは、永久不変の自分（ないしは他から独立した固定した実体を持つ自分というもの）は、存在しないという教えです。
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これらの法則は、論理的な観察と分析によって確認できるものだと思います。そして、それに習って、ひかりの輪でも、自分とは他者から独立した存在ではなく、万物は一体であり、真の自分とは、無限の宇宙全体に広がっていると説いています。
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<span style="font-size: medium"><strong>６　盲信の原因である虚栄心の問題を超える</strong></span>
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次に、盲信の背景にある虚栄心について考えてみたいと思います。万人が認めない教義を自分たちだけが絶対真理と信じる（盲信する）人には、自分たちが優れているために、他人が信じていないものを信じることができる、という心理が働くことが多いと思います。これは、慢心・虚栄心のエゴだと思います。<br />
そもそも、客観的に見れば、人間は誰しも不完全であり、不完全な人間である信者が、ある宗教やその開祖を完全であると判断する能力があるとはいえないでしょう。にもかかわらず、それらを完全と考えること自体が、すでに慢心・虚栄心が生じているおそれがあるわけです。<br />
しかし、自分の信仰を絶対視するようになった信者は、この単純な事実に気づきません。「他人が理解できない絶対真理を自分は見つけた、理解できた」という思考パターンになることが非常に多いと思います。しかし、客観的には、万人が信じない理由は、誰もが認める客観的な根拠に基づいていないからでしょう。キリスト教が人類全体を信者にできなかったのも、イエスの復活が客観的な事実とはいえないからでしょう。<br />
そして、「自分たちが信じているものは絶対真理」と考えるうちに、自分たちでも気づかないうちに、「自分たちが絶対真理である」という心理が働き始めるおそれがあります。こうして、盲信的な信者は、自分の宗教の神や開祖を絶対と信じる中で、気づかないうちに、自分自身を絶対化していくおそれがあるのです。<br />
私の過去の経験からしても、「自分が重要な存在になりたい」とか、「他より優れた存在になりたい」という欲求が、こうしたタイプの信仰にはまり込んだ一因だと思います。そして、これはエリート・勝ち組と呼ばれる人にも、負け組と呼ばれる人にも、その双方に起こります。エリートは、「さらに勝ち組になりたい」という欲求があり、負け組は、「挽回したい」という欲求があるからです。<br />
なお、現代の競争社会で自ずと培われるこういった欲求（自分が重要な存在、優れた存在になりたい）は、それ自体は、自己向上欲求ですから、悪くはないと思います。仮に、それが、現実の世界とマッチした形で満たされれば、自と他を利する可能性があると思います。<br />
しかし、妄信的な宗教の場合は、自分たちの宗教を絶対視するという独善的な妄想でそれを満たそうとすることで、さまざまな問題が起こります。よって、単に自分が優れた存在になりたいという欲求だけでなく、なにかしら妄想的な性格があると、それにはまる可能性が高くなると思います。<br />
例えば、宗教には、瞑想体験、神秘体験、超能力、霊性といった要素があります。こういったものの価値をバランス良く考えられずに、（自己の虚栄心を満たすためにも）過大視する傾向のある人は、一つ間違えば、宗教的な真理の世界ではなく、妄想の世界に陥るおそれがあるのです、<br />
だたし、現代社会では、この妄想的な世界は、宗教に限らず、非常に大きく広がっています。漫画、アニメ、映画、そして、パソコンゲーム、匿名・仮装のやりとりのネットの世界、飲酒・薬物など。これは、競争主義・個人主義・金銭主義の中で、現実の自分の人生に、十分な価値・意義が感じられず、精神的な渇きが深くなっているからではないかと思います。<br />
そして、この渇き・苦しみに対する癒しの一つの形態として、歪んだ形ではあるけれども、妄信的な宗教があるのではないでしょうか。その意味では、社会が妄信的な宗教を生み出す土壌となっていますから、単純に妄信的な宗教を否定して、それを禁じようとしても、同じ問題が別の形を取って出てくるでしょう。地下に潜る形の宗教・秘密結社的グループになったり、別の妄想的な世界に溺れたり。これでは根本的な解決にはなりません。<br />
しかも、現実的には、どこからどこまでが妄信的な宗教かの区別も難しいですから、禁じることはできないでしょう。例えば、日本では少し前まで政権与党を支えていた某巨大宗教団体さえも、教祖の個人崇拝や排他的な性質などによって、フランスではカルト団体に指定されていました。人によっては、戦前の国家神道・大日本帝国の体制が、カルト宗教国家だったとも批判しますが、大日本帝国の思想・体制についての宗教的な総括も、まだ十分にはできていません。<br />
こうして、妄信的な宗教を単純に忌み嫌い批判したとしても、根本的な解決にならず、かつ現実的に何の成果も産まないと思います。根本的な解決となる現実的な道として、私個人は、妄信的な宗教から、盲信を超えた新しい宗教・思想のモデルを創造していく道を選択して、ひかりの輪を創設しました。そして、これらの問題を解決するには、努めて自分の虚栄心を自覚し、自分の信仰を絶対視せず、幸福のための手段として柔軟に活かしていく智慧を育む必要があると思います。<br />
最後に、先ほど、エリートも、いっそう勝ち組になりたいと考えて、妄信的な宗教にはまる可能性があると言いました。そして、宗教に限らず、バブルのマネーゲームにはまったエリートにも、同じような妄想的な傾向があったと思います。バブル経済とは非常に危険な状態なのに、自分だけ成功する、損しない、といった妄想です。その中では、時代の寵児ともいわれる人たちが次々と違法行為で逮捕されていきました。<br />
それはともかく、こうした虚栄心を背景として、いったん宗教に帰属すると、その宗教の世界の中での名誉・称賛に対する欲求も、作用してきます。すなわち、その世界では、より深く信じること、すなわち、客観的に見れば、盲信を深めることが、より良い人・良い信者であると評価されるからです。これによって、さらに盲信が深まります。これは私の経験でもあります。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
７　盲信の原因となる依存心の問題を超える</strong></span>
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さて、自分の宗教を絶対真理として信じるもう一つの背景として、依存心があると思います。これも、私の経験なのですが、特に若い人の場合は、学校の勉強で、先生や教科書を絶対に正しい存在として従う訓練ばかりしています。また、親が今ひとつ権威を失って、親自身が迷って苦しんでいることが多い現代社会の若者の場合は、何かの自分の見本となる確たる権威を求める欲求があると思います。そこで、宗教に巡り会って、開祖がカリスマ的であれば、それを絶対として見習っていく、依存していく可能性があると思います。<br />
この問題の根底には、人生経験が乏しいことによる無智があると思います。人は誰しも絶対ではなく、人から学ぶ場合は、絶対視せずに学ぶべきであるという智慧がないのです。これは、前に書いた、超能力や神秘体験に対するうぶ・無智と同じことであり、先生という存在に対するうぶ・無智と表現できるかもしれません。ただ、これは、本来的には依存心が強くなくても、それまでの人生経験の未熟から、依存する場合といってもいいでしょう。<br />
一方、人によっては、より依存心が強い場合もあると思います。言い換えれば、自分に自信がなく、誰かを頼って幸福になりたいと考える傾向です。また、そこに一攫千金・大逆転を求める欲求も加わるかもしれません。そして、この傾向の根本には、自信がないというよりは、本質的な努力を嫌う傾向＝楽して幸福になりたいという欲求があり、その結果として、自信がないという状態になると思います。<br />
こういった欲求がある場合は、自分が巡りあった宗教が絶対真理であり、それを信じさえすれば、自分は（他の人が得られないほどに）幸福になると考えることは、非常に魅力的なものとなりますから、それによって盲信に陥ると思います。<br />
本来は、宗教に限らず、科学の世界でもそうであるように、人間という不完全なものは、何が正しくて何が正しくないかを完全に理解することは不可能であって、それを踏まえた上で、一歩一歩、向上・前進するように努めるのが、本当の意味での真理の探求であると思います。<br />
それに対して、何かを絶対真理と信じると、何が正しいか正しくないかをもう葛藤する必要がなくなりますから、楽をしているのですが、信者は必ずしも、楽をしているとは感じません。その楽と引き替えに、その宗教に従う努力が課せられるからです。しかし、これは、学校で先生（＝教祖）の言うとおりに勉強する生徒（信者）の努力であって、社会に出て、自分の人生の道を暗中模索する努力との違いでしょうか。<br />
そして、ここで妄信的な宗教が信者に説くことは、信者は無智であるから、それを自覚して、傲慢にならず、絶対である開祖やその教義を疑ってはならないということです。それは、いわゆる神への不信・疑念という悪業となると説くのです。<br />
しかし、客観的に見れば、不完全な人間である信者が、開祖を含めた何者かを絶対視する、すなわち、絶対だと判断する能力があると考える方が傲慢であり、さらには、自分の信じた開祖を絶対と見ることで、ついには自分自身を絶対と見る思考パターンに陥るということがあります。<br />
この傲慢には、妄信的な宗教とその信者は気づかないと思います。こうして、信者は開祖やその宗教に対しては謙虚に振る舞いつつ、自分では気づかない傲慢を形成します。それは、主に、先ほど述べたように、信じない人たちを強く見下す傲慢となって現れます。
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<span style="font-size: medium"><strong>８　正しい学び方・狭き門から入れ</strong></span>
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しかし、当然のことですが、人が何かの道で成長する上では、それが宗教の開祖であれ、学校の先生であれ、その道の先達から謙虚に十分に学ぶことは必要だし、望ましいと思います。誰からも学ばないというのは、明らかに傲慢ですし、その人の進歩を遅らせる結果になると思います。<br />
「人」という文字が示すように、何かで成功することはおろか、生きていくことさえ一人ではできない存在です。よって、全く他に依存せず、他から学ばず、自分は成功すると考えるのは、妄信的な宗教の信者とは、逆の形を取ってはいるものの、同じように、傲慢・無智なことだと思います。<br />
特に、妄信的な宗教を含め、何かにはまった人が、それをやめた後に、それがトラウマになって、その後は、他から全く学ぶことができなくなる場合があります。これは、傲慢な性格で盲信した後に、それと同じ傲慢な性格で、全く他から学ばなくなるという意味で、両極端に振れているおそれがあると思います。<br />
よって、結論としては、正しい学びの姿勢とは、この双方の極端から離れたバランスの取れたものだと思います。具体的にいえば、相手を絶対視しないで、かつ謙虚に学ぶ。すべてが正しいとは思わずに学ぶ、何か間違っているかもと思い、悪いところは受け流せるように、注意をもって学ぶことです。<br />
なお、宗教やその開祖が不完全であって、間違っているかもしれないということは、必ずしも、その宗教や開祖自体の価値を否定しているのではありません。例えば、開祖にとって良い教えも、違う人間である開祖から学ぶ人には、最善ではないかもしれません。また昔は良かった教義も、今の時代には合わないかもしれません。<br />
日本の伝統文化の中に守・破・離というのがあり、それは、師の教えをしっかりと守り、その次に、師の教えを破り離れるという意味だそうです。これも、師から謙虚に学びつつも、最終的には、自分なりの最善の道を確立するという意味だと思います。<br />
こうして、一つ一つの時代の一人一人に、それぞれの幸福の道や、悟りの道があるとすれば、正しい学び方とは、他から謙虚に十分に学びつつ、最終的には、自分や自分たちの時代に最善なものを、自分で見つける覚悟が必要だということになります。<br />
これは、「ふる故きをたず温ねて新しきを知れ」という言葉に通じると思います。既存のものの良さを吸収・維持しつつ、それを進化させることを許すものであり、歴史上の特定人物が未来永劫、絶対化・神格化するのとは違います。また、単純に時代とともに進歩する科学の理論と違って、宗教的な悟りとか達成は、人の数だけ存在するのではないか、と思います。<br />
そして、師は、自分が自然に縁を感じて選ぶもので、他人に、自分の師や宗派を義務化するのは不自然だと思います。個々の個性にあった師を選び、個性が磨かれる中で自立していき、結果の悟りも、他人の悟りと比較するべきでも、比較できるものでもなく、その人だけのこの世で唯一のものです。<br />
最後に、こうしたバランスを取った学び方は、難しいと感じられるかもしれません。しかし、難しいからこそ、真の価値があり、最初に苦労することで、後が楽になる。「急がば回れ」ということでしょうか。一方、絶対視して学ぶことは、最初は楽ですが、間違いを無防備に吸収し、後が大変になると思います。<br />
こうしてみると、結局は、結論は、努力してこそ幸福になる、甘えていては幸福にならないという普遍的な真理なのだと思います。これをもって、イエスは、「狭き門から入れ」と説いたのだと思います。<br />
また、大乗仏教では、ダルマの教えを理解することの難しさに耐えることや、ダルマの教えは達成が容易ではないと見えても、強い決意をもって精進すべきことが説かれています。「ローマは一日にして成らず」。「急がば回れ」。真の幸福を得るためには、一生こつこつと努力し続ける必要があると思います。
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※今回は、２１世紀の新しい宗教・思想の創造に関して、主に宗教を学ぶ人の心構えについてお話ししましたが、２１世紀の教団のあり方については、2010年の夏期セミナーの特別教本や、その解説をした講話の録画動画がありますので、合わせて御覧下さい。
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<strong><span style="font-size: medium">《付録》　関連教材リスト</span></strong>
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<span style="font-size: medium"><strong>◎特別教本</strong></span>
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以下は、今回の講義に関連する、これまでのひかりの輪の特別教本のリストです。ご活用ください。
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『三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜、２１世紀の宗教の革新』（2010年夏期セミナー）<br />
『一元の法則とその悟りの道程、金剛薩埵の内省修行』（2010年ＧＷセミナー）<br />
『現代人の一元の法則』（2009～2010年末年始セミナー）<br />
『循環の法則と密教加行』（2009年夏期セミナー）<br />
『内観、唯識、縁起のエッセンス』（2009年ＧＷセミナー）<br />
『仏教講義・悟りの道程１　縁起の法』（2008年9月）<br />
『仏教講義・悟りの道程２　悟りへの道と大乗の教え』（2008・2009年 年末年始セミナー）<br />
『大乗仏教・六仏の教え』（唯識、内観の部分）（2009年2月）<br />
『ひかりの輪　密教加行の儀式次第』（2009年8月）
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<span style="font-size: medium"><strong>◎内省・内観修行の関係</strong></span>
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代表メッセージ（ひかりの輪会員サイト「上祐代表講話」）<br />
『第１回　金剛薩埵の内省修行における 金剛薩埵への祈願など』2010年03月26日<br />
『第２回　金剛薩埵に関連する教えと修行』2010年03月26日<br />
『第１回　世尊ヴァジュラサットヴァ』2009年08月28日<br />
『64．すべての人々を神仏の現れと見る--日々の実践や儀式の修行』2008年12月13日
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>◎修行テキスト（ひかりの輪会員サイト「瞑想・修行テキスト」）</strong></span><br />
<br />
『内観の具体的なやり方』（2009/04/15）
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   </content>
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<entry>
   <title>【仏教講義】2011年　GWセミナー特別教本『ひかりの輪と日本と「輪の思想」』</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/lecturetext/012010/0038gw.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2011:/lecturetext//31.2363</id>
   
   <published>2011-08-18T13:11:59Z</published>
   <updated>2011-08-27T10:23:41Z</updated>
   
   <summary> 2011年春に行われたＧＷセミナーの特別教本です。テーマは、『ひかりの輪と日本...</summary>
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         <category term="【動画あり】21世紀のための仏教講義" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/lecturetext/">
      <![CDATA[<p>
<span style="font-size: small">2011年春に行われたＧＷセミナーの特別教本です。</span><span style="font-size: small">テーマは、『ひかりの輪と日本と「輪の思想」』です。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small">セミナーでは、各章ごとに、全7回の上祐史浩による教本解説の講義が行われ、すべてＵstreamでネット生中継されましたので、動画をご覧いただきながら、教本を読み進めていただくことができます。</span>
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<strong><span style="font-size: small">◎動画の内容（全７回）</span></strong>
</p>
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<strong><span style="font-size: small">第1回　『輪の思想について』<br />
第2回　『第1章 ひかりの輪「輪の法則」とはの解説』<br />
第3回　『日本の「輪の思想」とひかりの輪』</span></strong>
</p>
<p>
&nbsp;<a href="http://www.joyus.jp/movie/00200911/0977_4648gw20115_13.html"><span style="font-size: small">＞＞動画はこちらでご覧いただけます。</span></a>
</p>
<p>
<strong><span style="font-size: small"><br />
第4回　『第4章 競争社会を輪と和の精神で生きる、真の大和魂・和魂洋才』<br />
第5回　『第5章 太古から続く輪の思想の系統とひかりの輪』</span></strong>
</p>
<p>
&nbsp;<a href="http://www.joyus.jp/movie/00200911/0978_4950gw20115_45.html"><span style="font-size: small">＞＞動画はこちらでご覧いただけます。</span></a>
</p>
<p>
&nbsp;<strong><span style="font-size: small"><br />
第6回　『第6章ひかりの輪と日本とのシンクロニシティ、第7章ひかりの輪のホー　　リーシンボル（神聖な象徴物）』<br />
第7回　『第8章 正しい神仏への祈願、聖徳太子・ 如意輪観音を象徴として』</span></strong>
</p>
<p>
&nbsp;<a href="http://www.joyus.jp/movie/00200911/0979_5152gw20115_67.html"><span style="font-size: small">＞＞動画はこちらでご覧いただけます。</span></a>
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<strong><span style="font-size: small">&nbsp;2011年GWセミナー特別教本　『ひかりの輪と日本と「輪の思想」』</span></strong>
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<br />
<strong><span style="font-size: large">第一章　ひかりの輪の「輪の法則」とは</span></strong>
</p>
<p>
<br />
<img src="/mt/uploads_files/images/2011kyouzai/2011GW.jpg" alt=" " hspace="8" vspace="8" width="150" height="200" align="left" />
&nbsp;<strong><span style="font-size: medium">１　「ひかりの輪」とは何か</span></strong>
</p>
<p>
&nbsp;
ひかりの輪とは、「輪の教え」ないしは「一元法則」と呼ばれる思想に基づ&nbsp;&nbsp; いた団体である。輪の教え（一元法則）とは、簡単にいえば、万物が輪のように繋がっていて、一体であると見る思想である。<br />
そして、ひかりの輪は、その思想によって、個々人をさまざまな苦しみから解放し、人と人、および、人と大自然の調和を促進し、理想の未来社会へ向かうことを目的としている。一言でいえば、輪の教えによる調和を広める団体である。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
      <![CDATA[<p>
この一元法則は、太古から育まれてきた人類の普遍的な道理・真理である。輪の思想は、日本では縄文時代まで遡り、和（輪）を重視した聖徳太子の思想もそうであり、それゆえに、日本文化の中核にある思想である。また、日本に限らず、世界に広がっており、法輪を象徴とする仏陀の法も、道教の陰陽・太極の思想も、ヒンドゥーの思想も、輪の思想の本質がある。<br />
なお、ひかりの輪という団体名は、団体の発祥の経緯となった、聖地で体験された「太陽の周りの虹のひかりの輪」などに由来している。「ひかり」は、無智の闇を照らす精神的な智慧の光、すなわち、教えという意味があるから、ひかりの輪とは、輪の教えという意味が含まれている。<br />
&nbsp;
</p>
<p>
<strong><span style="font-size: medium">２　輪の法則とは</span></strong>
</p>
<p>
輪の法則とは、万物が輪のように繋がって一体であると説く、さまざまな教えの総称である。そして、輪の法則を言い換えて、一元法則ということがある。一元法則とは、万物が一つの根元を有し、本質的に一体であることを意味している。なお、単純にすべてが同じであるという意味（単一論）ではない。<br />
ひかりの輪において、最も中心的な一元法則は、「三仏の一元法則」と呼ばれている。それは、釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩という三者の仏陀にちなんだものである。それに次いで、「三乗の一元法則」がある。それは、万物が相互に依存しあって存在し（縁起）、同根であり、循環しているという三法のことをいう。<br />
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>３　三仏の一元法則とは</strong></span>
</p>
<p>
まず三仏とは、過去・現在・未来の三世の仏である釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩である。過去世の仏が、２６００年前に現れて入滅した釈迦牟尼である。現在世の仏が、さまざまな人・生きものの姿で現れるとされる観音菩薩である。未来の仏が、仏教で未来仏と信じられている弥勒菩薩である。<br />
次に、その三仏の一元法則とは、三仏に象徴される、三つの一元法則である。なお、過去・現在・未来が連続しているように、三仏は本質的に一体である。よって、この三つの一元法則も、本質的には一体で、言い換えると、同じ普遍的な道理を三つの視点から見たものである。<br />
この三仏の一元法則については、『中道の教え、卑屈と怒りの超越--２１世紀の新しい信仰のあり方』（2010年～11年 年末年始セミナー特別教本）、『三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜--21世紀の宗教の革新』（2010年夏期セミナー特別教本）、『一元の法則とその悟りの道程』（2010年 ＧＷセミナー特別教本）といった、過去の特別教本で詳しく述べてきたので、詳細はそちらを参照されたい。今回は、その要点を簡潔にまとめておく。
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong><br />
４　釈迦牟尼の一元法則--苦楽の輪を悟る</strong></span>
</p>
<p>
釈迦牟尼の一元法則を簡潔にいえば、欲楽と苦しみが輪のように一体であり、欲楽の裏に苦が、苦の裏に楽があると知って、万物を恩恵と見て感謝し、すべての衆生と苦楽を分かち合う大慈悲の実践をする、というものである。<br />
まず、人は、自分だけの喜び（欲楽）を求めて貪っても、さまざまな苦しみを招くことになる。欲望は際限がなく、貪り求めても満ち足りないが、とらわれ・執着を生じさせるので、求めても得られない苦、得たものを失う苦、奪い合う敵対者を作る苦などが生じる。こうして欲楽はさまざまな苦しみをもたらす。<br />
一方、苦しみは、その背景に何らかのとらわれ・執着があるから生じるものであるために、それに慣れるならば、とらわれ・執着が弱まって、苦しみではなくなっていく。その結果として、より広い条件で、幸福でいることができるようになる。<br />
また、苦しみの経験は、特に法則を学んでいる者には、智慧や慈悲の源となる。苦しみの経験によって、欲楽の裏に苦しみがあると悟る智慧が生まれる。さらに、他の苦しみを理解し、取り除く力を育むことも助ける。苦しみが、智慧と慈悲の源となるのである。<br />
こうして、欲楽が苦しみを、苦しみが楽をもたらし、欲楽と苦しみは、輪のように循環して一体となっているのである。<br />
さて、こういった楽と苦の循環は、欲楽を求める場合には生じるが、利他の行為による喜びの場合には生じない。よって、仏教では、これを真の楽（真楽）と呼ぶこともある。この利他の実践とは、簡潔にいえば、他の幸福を助け、他の苦しみを取り除き、他と苦楽を分かち合うことである。<br />
この実践をする者は、他と幸福を分かち合う中で、自ずと、自らの欲楽にとらわれて他と奪い合いをするなどの苦しみはなくなる。その一方で、他の幸福を助けることは、他が支えている自分の幸福も支えることになる。<br />
また、他と苦しみを分かち合う中で、自分が苦しみに強くなる。他の苦しみは自分の潜在的な苦しみ（未来の苦しみ）であるから、それは、自分の未来の苦しみを取り除き、苦しみに強くする。こうして、他を利することは自己を利することであり、自と他の幸福と不幸は一体である。<br />
よって、仏教は、真の幸福（真楽）に到る道として、万物を一体と見る智慧（智恵）に基づいて、万人・万物と苦楽を分かち合う大慈悲（四無量心）の実践を説くのである。
</p>
<p>
以上の考察に基づいて、正しい生き方を考えると、以下のようになる。
</p>
<p>
（１）欲楽を貪らず、今ある楽・幸福に気づいて足るを知り、それを支える万物に感謝する。<br />
（２）苦しみが、智慧と慈悲の源と知って感謝する。<br />
こうして、苦楽を含めた万物が恩恵と知って、万人・万物への感謝と恩返しの心を持つ。<br />
（３）感謝をもって、万人・万物と苦楽を分かち合う（＝大慈悲の）実践をする。
</p>
<p>
以上をまとめていえば、万物への感謝と分かち合い（知足と大慈悲）の実践ということもできるだろう。<br />
<br />
これらの教えを仏教用語で表現すると、自分や自分のものにとらわれずに（自我執着を滅し）、無我や空の悟りの境地に到るとともに、すべての衆生への慈悲の心（四無量心）を体得することである。自分にとらわれず、すべての衆生を愛する意識を培うのである。<br />
この自我執着の根本は、「自分」という存在に対する執着である。誰もが自分の生に執着するがゆえに、老い、病み、死ぬことを恐れる。よって、生・老・病・死を含めた人間の苦しみを仏教では四苦八苦という。しかし、悟りに到った仏道修行者は、必ず死ぬ運命にある無常な生への執着を超えて、老い病み死ぬことへの恐怖をも超えた無我の境地に到達する。これは高度な悟りの段階だが、しかし毎日のコツコツとした修行の延長上にある。<br />
とはいえ、仏教は生を軽視することはない。むしろ人間としての生は宝のように貴重なもので、それを大切にして、悟りを達成し他者を救済するべきであると説く。しかし、生への執着を超えているがゆえに、恐怖なく天寿をまっとうすることができるのである。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>５　観音菩薩の一元法則--善人・悪人の輪を悟る</strong></span><br />
<br />
観音菩薩の一元法則を簡単にいえば、善人と悪人はまったく別々の存在ではなく、本質的には輪のように繋がっていると知って、慢心や卑屈を超えて万人を平等に尊重し、さらには、万人を学びの対象と見て感謝して、大慈悲の実践をすることである。<br />
今、善人とされている者も、慢心を抱いて、悪人とされている者と自分を区別して、内省の心を欠くと、悪人に堕することになる。一方、悪人とされている者も、正しく反省して努力すれば、未来には善人になる。<br />
こうして、自と他を区別し、善人と悪人を区別する限りは、善人と悪人は輪のように循環（輪廻）してしまうことがよくわかるだろう。逆に、謙虚な心をもって、両者を区別しない者は、善人から悪人へと循環（輪廻）していくことはなくなるのである。そして、仏教では、すべての人々・生きものが、今はどうあれ、未来においては仏陀になる可能性（仏性）を有していると説き、謙虚になって万人・万物を尊重することを説く。<br />
なお、これとまったく同じ内容の教えを、観音菩薩（如意輪観音）の化身とされる聖徳太子が、その「十七条憲法」の第十条において説いている。それは、「自分だけが聖人で他は愚かであるということはなく、人は皆賢くもあれば愚かであって、それは耳の輪のようなものである」というものである。ひかりの輪では、「和の思想」で有名な太子の十七条憲法は、その土台に「輪の思想」があると考えている。<br />
また、悪人とされる者も、善人とされる者も、その者だけの原因・力によって、それぞれが悪行や善行をなしているのではない。そもそも、悪人も善人も、人は皆、自分だけの原因・力で生まれ育つのではなく、親から生まれ、その後の環境の影響を受けて育ち、いうなれば、この社会・大自然・宇宙全体によって作られたものである。<br />
こうして、善人を形成した社会は、その一部に悪人を含み、同様に、悪人を形成した社会は、その一部に善人を含んでおり、悪人と善人は、社会・宇宙の一部として、本質的には輪のように一体になって繋がっている。<br />
よって、自と他を区別せずに、悪をなす者を慢心によって嫌悪するのではなく、自分の中の潜在的な悪を投影する存在＝反面教師と見ることが重要である。また、同様に、善をなす者を妬むのではなく、自分の教師・見本と見ることも重要であり、善人・悪人を含めた万物を、自分の教師・反面教師、導き手・鏡と見て、尊重・感謝するのである。<br />
そして、単に他を鏡と見て学ぶだけでなく、他の悪行とそれによる苦しみを、自己の苦しみと考えて悲しみ、それを取り除く手助けをする。他人が悪行を脱却することを手助けするならば、自分が未来に同じ悪行に陥ることを未然に防ぐことができる。また、他人の善行・幸福を手助けすれば、他人に支えられている自分の幸福も増大することになる。<br />
こうして、他の苦しみを取り除くことは自己の苦しみを取り除くことであり、他の幸福を助けることは自己の幸福を助けることになる。他を利することは自己を利することになる。これが仏教が説く大慈悲の実践である（大慈悲の慈とは、他に幸福を与えることで、大慈悲の悲は、他の苦しみを悲しみ、それを取り除くことである）。
</p>
<p>
以上の考察に基づくならば、正しい生き方を考えると以下のようになる。
</p>
<p>
（１）万物を平等に（未来に仏陀になる可能性を有する存在として）尊重する。<br />
（２）万人の善行・悪行を自己の教師・反面教師と見て学んで感謝する。<br />
（３）感謝をもって、他の善行・幸福を助け、他の悪行・苦しみを取り除く、大慈悲の実践をする。
</p>
<p>
まとめていえば、万物の尊重と感謝に基づく分かち合いの実践である。そして、慢心を抱かず、謙虚な智慧をもって、万物を尊重する実践をする者が、真の善人＝菩薩となっていく。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>６　弥勒菩薩の一元法則--自と他の輪を悟る</strong></span>
</p>
<p>
弥勒菩薩の一元法則を簡単にいえば、自と他を含めた万物が、輪のように循環して一体であると知って、自と他を区別せずに、他の幸福・不幸を自己の幸福・不幸と考え、大慈悲の実践をし、真の自己が無限の宇宙であることを悟ることである。<br />
まず、自と他を含めた万物は、輪のように循環して一体となって存在している。例えば、人は、両親を含めた万物・大自然から生まれ、死んでは、自分は、他人を含めた万物・大自然に戻っていく。これは、太陽や地球といった星も同じであり、大宇宙から生まれ、大宇宙に戻っていく。この循環を繰り返している。<br />
体について注目すれば、他者が死んでは、それが自分の体の一部となり、自分が死んでは、それが他者の体の一部となる。また、生きている間も、自分と他者・外界の間では、その体を構成する分子が絶えず交換されており、自分だけの体の分子などない。<br />
また、体に加えて、思考・感情の面でも、自分だけで作った思考や感情などはなく、生まれてからずっと、他者から吸収した言語・知識・情報に基づいてそうしており、自と他の間で絶えず影響を与え合っている。こうして、自分だけの体も思考も存在せず、自と他を含めた万物は、物心両面で、互いの要素を交換・循環させながら、一体となって存在しているのである。<br />
さらに、仏教等が説く輪廻転生説に基づけば、人は死んでは生まれ変わり、生まれ変わっては死ぬという生と死の循環の中にいる。この意味でも、今生において、自分と他人とを区別して、（今生の）自分だけを愛して執着しても、それは死によって無常に消え去っていくものであるから、空しい結果となる。
</p>
<p>
これに基づいて、正しい生き方を考えると、以下のようになる。
</p>
<p>
（１）自他を含めた万物は、輪のように循環し一体であると知る。<br />
（２）他の幸福・不幸を、自己の幸福・不幸と考え、大慈悲の実践をする。<br />
（３）老い病み死ぬ、無常な自我ではなく、無限の宇宙全体が真の自己であることを悟る（宇宙意識）。
</p>
<p>
まとめていえば、万物が一体と見て、分かち合い、万物と同化する実践である。
</p>
<p>
さて、釈迦牟尼が説いた中核の教えとして、「縁起の法」がある。それは、「我があるがゆえに、彼があり、彼があるがゆえに、我がある」という教えである。大乗仏教では、これを解釈して、「万物は相互に依存しあって存在し、他から独立した固定した実体を持つものはない」と説いた。また、これに関連して、固定した実体がないことを「空」であるというが、よって、この世の一切は空であると説く。<br />
そして、特に、私たちが「私」と呼んでいるもの、すなわち、心や体で構成される自我存在には固定した実体がなく、老い病み死んでいく無常なものであるから、それに過剰に執着するべきではないと説くのが、無我の教えである。<br />
この教えは、真の自己とは、本質的には一体である無限の宇宙であると言い換えることもできる。これをぼん梵が我いちにょ一如ともいう（自己の本質と宇宙の根本原理が同一であること）。また、これを宇宙意識と表現することもできる。真の自己を強調するのは、仏教よりも、ヒンドゥー、ヨーガの教え・表現である。<br />
なお、縁起の法と輪の法則は、両者とも、万物が繋がって一体であると説いている点で、本質的に同じものである。本質が同じであるせいか、縁起の法を中核とする仏法は、興味深いことに、法輪（ダルマチャクラ、法則の車輪の意味）というもので象徴される。仏教の教えを説くことを、法輪を転じると表現するのである。<br />
また、輪は円に通じるが、日本語では、円は縁と同じ発音であるところも興味深い。輪・円・縁はすべて、何かと何かが繋がっているという概念である。この縁という概念は、ご存じの通り、日本文化に深く浸透しているものである。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>７　輪が象徴するさまざまな重要な事柄</strong></span>
</p>
<p>
さて、ひかりの輪において、輪という言葉が象徴しているものは、①「輪の法則」や、その悟りの境地だけではない。それは、②宇宙や宇宙の創造原理、さらには、③仏教の根本的な修行体系までを示している。<br />
まず、輪は、「宇宙」も象徴している。輪は、丸い・円という意味を含むが、この輪や円は、さまざまな思想において、宇宙を象徴することがある。例えば、仏教における曼荼羅は、仏の悟りの境地や、真理や宇宙を象徴したものだが、その元の意味は円である。また、禅においても、円相というものがあるが、これも悟りの境地・真理・宇宙を象徴する。<br />
ここで、悟りの境地と真理と宇宙が、同じ一つの輪・円という象徴で表されるのは、悟りの境地が、自と他が一体という輪・円の真理を体得して、心が宇宙と一体となった境地であることに関係しているのだろう。<br />
また、古代人にとっては、宇宙と輪は、不可分のイメージだっただろう。星々が回転する夜空を見ても、太陽が回転する昼間を見ても、宇宙は輪・循環・回転するものだった。現代では、地球も太陽も銀河系も回転することが知られている。そして、インド仏教最後の経典である「カーラチャクラ・タントラ」は、宇宙の根本原理を「時の輪」＝周期的な運動・循環であるとした（カーラチャクラとは時の輪という意味）。<br />
さらに、輪は、「車輪」という三次元的な意味がある。日本語でもそうだし（『広辞苑』など参照のこと）、サンスクリット語で「輪」を意味する「チャクラ」も、車輪という意味がある。先ほども述べたが、仏法の象徴の法輪・ダルマチャクラは、法則の車輪という意味である。<br />
そして、この車輪は、輪の部分と、軸となる直線上の部分、言い換えると、輪と柱の二つの要素の合体で構成されている。そして、これをこの世を構成する「女性原理・男性原理」の象徴と見る思想がある。<br />
例えば、ヒンドゥーのリンガの信仰や、縄文時代のストーンサークル（環状列石）などである。ヒンドゥーのリンガ信仰では、この世の万物は、柱と輪が象徴する男性原理と女性原理の合体によって創造されたとし、その両者が本質的に一体であると解釈する宗派もある。<br />
なお、道教でも、「陰陽」と呼ばれる男性原理・女性原理が万物を展開しており、両者は同根であるとする（両者の根元は「太極」と呼ばれる）。ただし、道教では、柱と輪の合体物ではなく、円の形をした太極図によって、その思想を象徴する（円の中に、陰と陽を組み合わせて表現している）。<br />
最後に、大乗仏教においては、この両者が「智慧（智恵）」と「方便」という、仏陀の境地に到るための二大要素を象徴している。具体的には、方便を男性原理と見て、柱状の法具（金剛杵・ヴァジュラ）で表す。智慧を女性原理と見て、輪状の法具（金剛鈴・ガンター）で表す。<br />
ここで、女性原理である智慧は、空の悟りを示している。男性原理である方便は、手段という意味である。これは、空の悟り＝智慧を得るための手段である。言い換えると、修行法、特に、利他の手段、功徳を積む手段を中心とした修行法を意味する。よって、車輪＝柱と輪は、悟りの境地と、悟りを得る手段・修行法を象徴している。<br />
そして、智慧と方便は不離一体とされる。方便＝修行法の実践が深まると、智慧が深まるだけでなく、智慧が深まれば、また、方便＝修行法の実践が深まるということである。そして、智慧と方便の同時一体の体得が、仏陀の境地とされる。<br />
こうして、輪とは、円・車輪・循環などに通じ、①私たちが学ぶべき一元の法則と、それを体得したときの悟りの境地に加えて、②この宇宙全体やその根本原理、③さらには宇宙の創造原理としての男性原理・女性原理（陰陽）、さらには、④悟りとそれに到る修行法の関係という根本的な修行体系まで、さまざまな重要な概念を包み込んでいるのである。
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<span style="font-size: large"><strong>第二章　日本の「輪の思想」とひかりの輪</strong></span>
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
１　日本の「和の思想」は、縄文の「輪の思想」から</strong></span>
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ここでは、日本民族の根本思想としての「輪」について述べる。ご存じのように、日本の文化の根本には、和の思想がある。そして、じつは、この和の思想の源が、輪の思想であり、それは縄文時代まで遡るという説がある。<br />
その前に、まず、日本人は、自分たちのことを「ワ」と呼び続けてきた。『魏志倭人伝』には、日本人・日本国が、倭人、倭の国と表現されている。これは、当時の日本人が自分たちを「ワ」と呼び、それを聞いた中国人が、それに漢字の倭を当てたというのが有力である。<br />
そして、日本人は一人称に、同じように、我、我々、私など、ワという言葉を当てている。これはどうやら日本語のルーツとなった言語から来たようである。<br />
ワは、日本を表す言葉として今も残っている。国の名前は、倭から大和（やまと）に変わったが、「やまと」に当てられた漢字には、和＝ワが入った。さらに、和洋、和食、和室と、日本のものを和＝ワという音・言葉で表し続けている。<br />
そして、冒頭に述べたように、この倭・我・和などの漢字が当てられたワという言葉の語源は何かというと、一説に、「輪」・「環」ではないかという。それは、縄文時代の集落の形状が輪であったことから来るということである。<br />
いわゆる、環状集落、環状列石（ストーンサークル）と呼ばれる縄文時代の居住形態である。輪の中に広場があり、集会その他の共同活動が行われたのではないかと推察されている。<br />
そして、この輪の居住形態は、単に集落の物理的な形態を意味するだけではなく、万人が平等で一体という共同体の運営理念の現れであり、ここに、今現在も依然として根強く残っている、和を重んじる日本文化の源があるという説である（この説の詳細について、ご関心がある方は、末尾の参考文献・ブログ等を参照されたい）。<br />
これは、要するに、日本のワの文化は、聖徳太子の十七条憲法が始まりではなく、縄文時代の輪状の集団生活に源があるということである。
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<span style="font-size: medium"><strong>２　「和の国」は「輪の山」から、大和政権の発祥地は三輪山</strong></span>
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さて、ここで参考までに、もう一つ不思議な、輪と和の合体がある。それは、倭の後に、日本の国の名前となった「やまと（大和）」についてであるが、この語源にも、なんと、輪が関係している。<br />
やまと（大和）や、やまたい（邪馬台）の語源は、山の麓であるという説があるが、具体的には、大和政権の発祥地になった奈良県のみわやま三輪山の山の麓とされているのである。こうして大和は、三輪山から生まれ、和の国が、輪の山から生まれたことになる。<br />
また、この付近は、学問的に大和政権の発祥の地とされているが、最近は、当地にあるまき纒むく向遺跡の発掘による新発見が相次ぎ、それをさらに遡って、卑弥呼の邪馬台国の地としても非常に有力になりつつある（すなわち、邪馬台国畿内説＝大和朝廷の前身がそのまま邪馬台国であるという説）。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
３　聖徳太子の和の思想は、輪の人間観に立脚している</strong></span>
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さて、一般に和の思想の原点とみられるのが、聖徳太子の十七条憲法であるが、じつは、これにも、「輪の思想」が表現されている。十七条憲法では、最初の第一条で、ご存じのように、和の尊さを強調し、最後の第十七条に、重要なことを決める際に皆で話し合う衆議の重要性を説いている。<br />
そして、そういった指針の根拠として、第十条に、万人平等主義的な人間観・思想が説かれており、それを「輪」という言葉で喩えている。具体的には、「自分だけが聖人で、他が愚かであるということはない」、「人は皆賢くも愚かでもあり、それは、耳の『輪』に端がないようなものである」、「（他に）憤ってはならない」などとしている。<br />
こうして、十七条憲法は、全体として、慢心や自我執着と、それによる他者への軽蔑・怒りを捨てて、他を尊重し、和や衆議を重視せよという内容になっている。<br />
そして、偶然だったのだが、この聖徳太子の「ワ」（輪と和）の思想は、先に述べた、ひかりの輪の教え・活動目的と非常によく似ている。特に、この第十条は、ひかりの輪が説く、観音菩薩の一元法則と呼ばれるものそのものである。<br />
ひかりの輪が重視する大乗仏教の世界観は、優劣の比較が強い現代の競争社会と違って、万人平等主義的な思想である。そして、聖徳太子も、仏教を篤く信仰し、大乗仏教の経典を解釈しているから、同じ人間観を持っており、それを仏教の言葉ではなくて、日本古来の万人平等の思想の象徴である「輪」という言葉で喩えたのだろうか。<br />
いや、より正確に表現すれば、そもそも日本には、仏教伝来より遙か以前の太古から、平等主義的な人間観・世界観である「輪」というものが根本的な精神としてあって、それが太子にも染み込んでいて、外来の思想である仏教は、その日本伝統の思想との共通点があったから、日本文化の中に溶け込むことができたのではないだろうか。<br />
そして、日本に仏教を導入した聖徳太子は、日本の伝統的な思想を無視して仏教を導入したのではなく、両者をマッチングさせて、両者の共通点を強調して、それを導入したのではないかと思う。いわゆる和魂漢才（和魂洋才）・和洋折衷である。<br />
そして、その後も、この傾向は続き、日本の仏教は、万人平等主義の輪・和の思想に合わせて、すべての生きものに仏性（未来の仏陀になる可能性）を認める大乗仏教の考え方が主流となった（これを「一切衆生しつ悉う有ぶっしょう仏性」などという）。<br />
さらには、インドの大乗仏教さえも超えてしまって、生きもの以外の万物・山や川や草や木にまで、仏性を認める日本独自の解釈を生むことになった（さんせんそうもくしつ山川草木悉う有ぶっしょう仏性〔しっかい悉皆じょうぶつ成仏〕）。これは、やおよろず八百万の神などとして、大自然すべてに神性を認める神道にも見られる。<br />
そして、その源は、仏教や神道の歴史をはるかに超えて遡り、縄文時代の輪の精神や、それに基づく精霊信仰などの原初的信仰にあると思われる。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
４　ひかりの輪と聖徳太子の輪の思想</strong></span>
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なお、ひかりの輪の「観音菩薩の一元法則（輪の法則）」と同じ内容の教えを聖徳太子が説いているのは、太子が観音菩薩の化身とされていることもあって興味深い。<br />
さらに太子は、さまざまな形態を有する観音菩薩の中で、「如意輪」観音菩薩の化身とされており、輪を象徴とした観音菩薩の化身である。こうして、輪を象徴とする観音菩薩の化身である太子が説いた輪の教えが、ひかりの輪の観音菩薩の輪の教えと同じ内容だったことになる。<br />
また、繰り返しになるが、十七条憲法が、その全体として、第十条の「輪」の平等主義的な人間観・世界観に基づいて、第一条の「和」を重視する構成となっていることも、ひかりの輪の発足の目的・活動目的の表現とまったく同じである。<br />
具体的には、ひかりの輪の公式サイトには、「新団体『ひかりの輪』では、...すべての人々...の間には、...輪のような繋がりがあり、皆が助け合って生きることが、大切だという...ことを『輪』という言葉で表現したのです。...こうして、新団体『ひかりの輪』は、２１世紀の社会で、...人と人の和合・助け合いが進み、...さらには、人類と大自然・地球との調和が深まることを願っています。」と明記されている。<br />
これらは意図的に一致させようとしたのではまったくなく、ひかりの輪発足から４年を経た今年２０１１年になって聖徳太子の十七条憲法を精査して気づいたことである。不思議なことであるが、日本民族として共有するＤＮＡの影響であろうか。
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<span style="font-size: medium"><strong>◆関連資料１　縄文時代の輪の思想</strong></span>
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１「『わ』の思想の源流－十七条憲法以前の和の思想－佐倉哲」<br />
（http://www.j-world.com/usr/sakura/japan/origin_of_wa.html）<br />
２「環状集落に見る円の思想」（武光誠氏『一冊でつかむ天皇と古代信仰』〔平凡社〕）<br />
３「森の思想」「循環の思想」（梅原猛氏の著書『「森の思想」が人類を救う』〔小学館〕、梅原猛氏、稲森和夫氏『人類を救う哲学』〔PHP研究所〕など）
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<span style="font-size: medium"><strong>◆関連資料２　聖徳太子十七条憲法（第一条、第十条、第十七条）</strong></span>
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<strong><span style="font-size: small">◎第一条：和の重要性</span></strong><br />
一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが) う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。<br />
〔現代語訳〕<br />
一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。
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<span style="font-size: small"><strong>◎第十条：平等主義的人間観--人は皆賢くかつ愚か＝万人に仏性あり、万人は皆凡夫</strong></span><br />
十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖 (いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(ひと)り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙 (おこな)え。<br />
〔現代語訳〕<br />
十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。<br />
（中略）
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<strong><span style="font-size: small">◎十七条：衆議の必要性</span></strong><br />
十七に曰わく、それ事(こと)は独(ひと)り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。故(ゆえ)に、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、辞(ことば)すなわち理(ことわり)を得ん。<br />
〔現代語訳〕<br />
十七にいう。ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。
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<span style="font-size: large"><strong>第三章　日本の国土に育まれた、ひかりの輪の「輪の思想」</strong></span>
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<span style="font-size: medium"><strong>１　「ひかりの輪」という団体名称の由来</strong></span><br />
<br />
繰り返しになるが、ひかりの輪の「輪と和」の思想は、聖徳太子の和（輪）の思想や、縄文時代に始まったと思われる「ワ」の精神を学習したうえで作られたものではない。<br />
それは、私をはじめとする現在のひかりの輪の中心的なスタッフが、日本の聖地・自然や、神社仏閣などに親しむ中で、自ずと育まれてきたものである。その意味で、ひかりの輪の思想は、日本の国土・文化に育まれた自然発生的なものということができる。<br />
それが、その後、以前から重視していた仏教の教えと結びついたのである。<br />
仏教では、仏陀と仏法の象徴として法輪（ダルマチァクラ）がある。また、インド仏教最後の経典には、「時輪タントラ」と呼ばれ、時の輪＝循環を宇宙の根本原理とする教えがある。こうした経緯があって、２００７年の団体の発足の際に、団体名を「ひかりの輪」としたのである。その後、仏教に加えて、道教の陰陽の循環の思想も結びついてきた。<br />
そして、有名な聖徳太子の十七条憲法の「和の思想」の中に、ひかりの輪と同じ「輪の思想」を発見したのは前に述べたが、今年である。２月７日に聖徳太子誕生祭を行ったが、その前後であった。そこで思い直してみると、２００２年に最初の虹の体験をして以来、聖徳太子や日本の縄文文化に見られる輪の思想に、たびたび触れあっていることに気づいたのである。<br />
そして、それらの経緯をまとめてみると、驚くべきことに、縄文時代から現代までの遙かなる時空を超えて、この日本の国土には、輪・和の思想と、その霊的なエネルギーが確固として存在しており、オウム真理教で、それとは正反対の善悪二元論に基づく闘争にはまり込んでいた私たちを、それらが救い出していった結果としてできたのが、「ひかりの輪」ではないかと思うのである。
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<br />
<span style="font-size: medium"><strong>２　麻原への盲信を超える仏教的な気づきとシンクロした、天空の体験</strong></span>
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そこで、私がオウム・麻原信仰から脱却した経緯をざっと振り返ってみたい。<br />
まず、私は、２００２年６月に、大きな転機となる体験をした。それは天空に、太陽の周りに何重もの虹のひかりの輪を見たことである。虹をすべて数えると、全部で七つあったので、七重の虹の体験と呼んでいる。<br />
ただ、重要なのは、その直前に経験した瞑想の内容である。そのとき私は、長年悩んでいた麻原に対する疑問・違和感・嫌悪感に対して、瞑想によって一つの気づきを得て、心が晴れるという体験をしていた。それは、麻原と自分が別ものではなく、同じ条件に置かれれば自分もそうなる可能性があり、自己の潜在的な要素、自己のカルマの投影（としての自業自得）であるというものだった。<br />
この気づきは、私に、麻原の盲信を続けるのでもなく、「自分は騙された」として自己の責任を回避して麻原を憎むのでもなく、自己の責任を自覚して、憎しみなく麻原から自立していく出発点に立つことを可能にした（とはいっても、完全な自立には、それから何年も費やすが）。<br />
そして、当時は気づかなかったが、麻原と自分が別ものではないという仏教的・一元的な気づきと、太陽の周りの虹の「輪」には、興味深い一致点がある。というのは、仏法の象徴が「輪」だからである。<br />
厳密に言えば、仏教では、仏法の象徴を「法輪」（ダルマチァクラ）で表す（法輪の形は団体のシンボルマークに用いられているので表紙のそのマークを参照されたい）。釈迦牟尼の最初の説法も「しょてん初転ぼうりん法輪」と呼ばれ、その中核の教えの「縁起の法」は、万物が互いから独立した存在ではなく、輪のように繋がっていることだとも表現できる。<br />
さらに、インド仏教最後の経典は、「時輪経典」と呼ばれるもので、宇宙の根本原理を「時の輪」（周期的な運動＝循環）と説いた。そして、不思議なことに、私がこの七重の虹を見た日は、私が時輪経典を初めて学んでからちょうど９年後で、時の記念日である６月１０日だった。しかも、この日、私の友人が、私とは別のところで、時輪経典の仏（時輪尊）の形によく似た虹の雲を見たと教えてくれたという事実まであった。<br />
さらに、２００２年の７月には、太陽の周りの虹だけでなく、それにスポークのような直線的な虹の雲が加わったものを見た。これはさらに法輪を連想させるものであった。しかも、それは、私が、仏教の中核の教えである苦楽表裏の教え（苦と楽が輪のように繋がっていること）に基づく瞑想をしていたときのことであった。<br />
こういった経緯から、今現在、ひかりの輪では、この太陽の周りの虹は、天空に表現された法則の象徴、天空の曼荼羅などと解釈されている。そして、ひかりの輪のシンボルマークは、太陽の周りの虹の輪と法輪を融合させたものである。<br />
なお、精神医学者のカール・ユングは、長年の研究の中で、人の内面・心と外界の現象が、偶然にも重要な一致を見る現象があると考えるようになり、それを「シンクロニシティ」と呼んだが、私の瞑想体験と外界の虹の体験や、一般によくいわれる正夢なども、その一種ではないかと思う。
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<span style="font-size: medium"><strong>３　聖徳太子の伝説とシンクロしたヴィジョンや、聖地での体験</strong></span>
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さて、同じ年２００２年の１０月に、私は、啓示的とも思えるヴィジョンを見た。その中には、神聖なエネルギーの回転と、その回転の軸となっている柱と、「大黒柱」というキーワードが含まれていた。また、赤い服の仏教の師が見え、循環するエネルギーの色も、赤が中心の鮮やかなものだった。<br />
そして、そのちょうど１カ月後に、私は、富士山の麓で、このヴィジョンとシンクロするかのような体験をした。そこに現れたのは、言葉で表現するのは難しいほどに、神々しい虹で、それは地から天に向かう柱のように立っていた。やはり赤色が強かった。そして、私は、それを神柱のようだと感じた。<br />
そして、これも後からわかったことだが、この体験をした場所が、偶然にも、聖徳太子伝説において、聖徳太子も虹を見て、聖地であるとした場所だった。そのため、現地には、虹の写真を飾る聖徳寺というお寺が実際にある。しかし、この伝説やお寺の存在を知ったのは、体験してから５年以上後のことだった。<br />
なお、赤い服の仏教の師も、よく考えると、観音菩薩の化身とされる聖徳太子と関連がある。密教上、赤は、観音菩薩の本体である阿弥陀如来のシンボルカラーとされるからだ。よって、阿弥陀・観音の信仰が篤いチベット密教の僧衣は赤である。
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<span style="font-size: medium"><strong>４　輪の思想の原点である縄文遺跡に導かれる</strong></span>
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さて、ヴィジョンと聖地での神柱に影響を受けた私は、他の神柱の聖地を巡礼することにした。その中には、神柱の祭で有名な諏訪大社と、その近くの縄文遺跡や、東北の縄文遺跡（十和田地方の環状列石など）が含まれていた。こうして、当時はまったく気づかない中で、私は日本の輪の思想の原点である、縄文時代に導かれていた。<br />
そして、こうした巡礼を続けているうちに、私は、ふとしたことから聖徳太子との縁を感じ始めた。それは、友人が、私が行く聖地が、つまり、富士・諏訪・東北などが、聖徳太子が伝説の馬（黒駒）で訪れたとされる聖地と非常によく一致していると教えてくれたことがきっかけだった。これがきっかけで、私の聖徳太子探究が始まった。
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<span style="font-size: medium"><strong>５　太子ゆかりの弥勒菩薩半跏思惟像と出会う</strong></span>
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そして、２００６年に、聖徳太子に関係して非常に重要な体験をした。それは、京都の聖徳太子ゆかりの広隆寺での、弥勒菩薩半跏思惟像との出会いである。そこで、私は、麻原・オウムの下での神秘体験・宗教体験を上回る、衝撃的な体験をした。<br />
それは、言葉ではとうてい言い尽くせないが、精妙な智慧と広大無辺の宇宙大の慈悲の空間であり、弥勒の宇宙がそこにあると感じた。そして、この体験は、その前までは依然として残っていた麻原への依存を完全に抜け出して、オウム（アレフ）を脱会する上で非常に大きな役割を果たした。私は、その後、何度も何度も広隆寺に参拝し、翌年２００７年に実際に脱会するにいたった。<br />
ただ、この時期は、仏像の前での体験の素晴らしさに気を取られ、それが聖徳太子ゆかりの仏像であることはあまり意識していなかった。私の中で、聖徳太子とは別に、弥勒菩薩半跏思惟像が存在していた。<br />
しかし、その当時から、その仏像を見ていると、何かが宿っていると感じた。目の錯覚かもしれないが、宗教家や霊能者ならば、霊視体験と呼ぶだろう。そこに何かの霊的エネルギーが込められているように感じた。<br />
そして、昨年２０１０年ごろ、これは、聖徳太子と関係しているのではと思うようになった。というのは、聖徳太子への信仰は日本中に広がっているが、それは、昔の人が、太子に関連して、私と似たような宗教体験をしたからではないかと思ったからである。<br />
さらに、今年２０１１年の３月に、聖徳太子の生誕地とされる飛鳥の橘寺に参拝した際に、そこで広隆寺と似たような体験をした（まったく同じではなかったが）。しかし、橘寺は弥勒菩薩ではなく、太子がその化身とされる観音菩薩（如意輪観音）を祭っている。よって、京都の広隆寺と奈良・飛鳥の橘寺を結ぶものは、太子だけである。<br />
こうして、私の中で、聖徳太子と弥勒菩薩半跏思惟像が結びつくようになり、聖徳太子がその化身とされる観音菩薩と弥勒菩薩が一つになった。また、観音菩薩は「釈迦牟尼の王子時代」ともいわれ、太子は「日本の釈迦」ともいわれるので、釈迦・弥勒・観音の三仏が一つになった。そして、じつは、ひかりの輪は発足以来、釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩の三仏を、最も重要な象徴仏として祭壇に祭っている。
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<span style="font-size: medium"><strong>６　善光寺秘仏と万人平等の思想との出会い</strong></span>
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また、聖徳太子と縁の深い、もう一つ重要な仏像・霊像がある。それは、日本最古の仏像にして、霊験あらたかとしてあまりに有名な、長野の善光寺の秘仏・阿弥陀如来像である。私は、繰り返し巡礼し、時々に素晴らしい宗教体験をさせていただいた。<br />
また、瞑想体験だけでなく、阿弥陀如来の平等主義的な思想を学んだ。善光寺は男女平等・宗派無差別の寺院である。太子とともに、南無阿弥陀仏を唱える浄土宗や、浄土真宗開祖の親鸞と縁が深い。<br />
親鸞は、悪人が（悪人も）救われるとする悪人正機の教えを説いた。それはオウムで大罪をなした私たちの再起を励ましてくれた。また、親鸞は、人間の間の功徳に大差はなく、自分は弟子を一人も取らないと説き、聖徳太子を観音菩薩の化身として信仰した。こういった学びが、万人を平等に尊重する「ひかりの輪の観音菩薩の教え」とも結びついていった。
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<span style="font-size: medium"><strong>７　今年２０１１年になって</strong></span><br />
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そして、今年２０１１年になって、聖徳太子の十七条憲法が、まさに、ひかりの輪と同じ、輪に基づいた和の教えである可能性や、和・輪という日本文化の源は、縄文時代からの輪の精神・文化まで遡る可能性があることを知った。<br />
そして、また不思議な偶然の一致があった。太陽の周りの美しい虹が、奈良の天川や長野の諏訪に出て、それが新聞で報道されたのだが、それらの記事が皆、それを虹の「ひかりの輪」という表現で表していたのである。過去にはそういった表現をとった記事を見た記憶がないが、今年に入って私が知る限りでも三つも出たのである。<br />
この天川や諏訪は、私たちが何度も巡礼をし、虹も見たところだった。今年も、天川には３月に巡礼をし、諏訪にも６月に巡礼する予定である。天川は、「日本」という国名が啓示された地であるという説がある。諏訪についてはすでに述べたが、縄文時代の最大の人口地であり、日本（本州）の地理的な中心である。<br />
さて、最近、最も注目していることは、「輪」とは、古来、一元の法則＝真理を意味するだけではなく、宇宙を意味するということである。輪は、円・丸いに通じるが、仏教には、円を意味する曼荼羅と呼ばれる図画があって、それは、真理や悟りの境地・宇宙を表しているとされる。また、禅には「円相」と呼ばれる図画があるが、この一筆で書いた円も、同じように、悟りの境地・真理・仏性・宇宙を表すという。<br />
輪や円は、循環する中で無限である。また宇宙の万物は、輪のように一体である。それが、輪が宇宙の象徴となった理由かもしれない。そして、弥勒菩薩半跏思惟像の前での瞑想体験のように、輪の法則、一元の法則を体得した境地は、無限の宇宙に広がる広大無辺の慈悲とか、無限の宇宙との一体感などと表現することもできる。宇宙意識とも呼ばれる自我意識・自我執着を超えた境地である。こうして、輪とは、人の心が戻っていくべき宇宙・大自然の象徴ということができる。
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最後に、ここまで述べてきたことをまとめると、この１０年ほどの間に、各地の聖地・自然・神社仏閣・先人先達・人々から、さまざまな体験・学びを重ねてきたが、それらは、どこかで確かに輪のように一つに繋がっており、その中で、日本の国土・自然・聖地・文化に育まれるべくして育まれてきたのが、「ひかりの輪」とその「輪の思想」だということである。
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<span style="font-size: small"><strong>※ご注意いただきたいこと</strong></span>
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ひかりの輪は、特定の人物を絶対視・神格化しないという原理原則を持っている。これは聖徳太子にもあてはまり、太子が日本文化上、神秘的な伝説の持ち主だとしても、やはり一人の人間である客観的な事実を踏まえて、太子の歴史上の言動や、太子伝説や太子信仰といったものすべてを絶対視しないことを原則としている。聖徳太子とは後世に神格化された面があるのではないかという学説も無視していない。<br />
よって、上記の文章の趣旨は、聖徳太子の言動や伝説を含めた日本の和や輪の文化と、私をはじめとするひかりの輪のシンクロ現象の紹介であって、聖徳太子を人として（私個人は）尊敬はしているものの、ひかりの輪として、太子を絶対化して信仰しているというものではまったくない。<br />
なお、日本の文化・仏教の中で、聖徳太子は、観音菩薩の化身とされている面があるが、ひかりの輪では、その「菩薩」という概念についても、それはいまだ如来に至っていない、未完成な存在であるととらえており、その意味でも、太子を絶対視するものではない。
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<strong><span style="font-size: large">第四章　競争社会を輪と和の精神で生きる、真の大和魂・和魂洋才</span></strong>
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<span style="font-size: medium"><strong>１　「大和魂」の真の意味--和魂洋才（和魂漢才）</strong></span>
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ここでは、「輪（和）」の思想に関連して、「大和魂」という言葉と、その本来の意味について述べたい。<br />
今現在の大和魂という言葉のイメージは、第二次世界大戦の軍国主義、突撃精神、無理な精神主義などであろう（その象徴の敗北した軍艦が戦艦大和）。しかし、大和魂の本来の意味は、外国の文化等をそのまま受け入れるのではなく、日本の実情に合わせて応用する力などを意味するものだった。歴史的には、源氏物語にある「和魂漢才」という言葉が始まりとされる。漢才とは中国からの才能などを意味して、これが、後には「和魂洋才」となったのである。
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<span style="font-size: medium"><strong>２　聖徳太子の「十七条憲法」に見られる和魂漢才</strong></span>
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そして、輪と和の思想を表現した聖徳太子の「じゅうしち十七条憲法」は、まさに和魂漢才の精神に基づくものだと私は考えている。<br />
まず、太子の時代に至るまでの日本の歴史的流れは、縄文時代は、前にも述べたとおり、輪と和の時代（平等的な共同体と戦争のない平和な社会）であった。しかし、弥生時代から、大陸の文化が入り、それは、上下の区別＝王権と戦争の文化が特徴となった。<br />
そして、その結果として、太子の十七条憲法は、縄文以来の日本と列島の民族の伝統である輪と和の文化と、大陸から来た王権と戦争の文化の折衷＝和魂漢才であった。<br />
具体的にいうと、前に紹介したように、第一条・第十条・第十七条では、和・輪・衆議の重視などが説かれている。これは縄文時代以来の伝統的な輪の思想である。<br />
しかし、その一方で、第二条は、渡来文化の仏教を重視し、仏・法・僧の三宝を敬うことを説き、第三条は、日本の王である天皇に従うことを説いている。三宝の中で、仏と法は別にしても、僧を敬うことや、天皇に従うことは、万人平等主義の輪の思想とは異なった、渡来の文化であろう。
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<span style="font-size: medium"><strong>３　日本の天皇と特異な性質</strong></span>
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こうした、和魂漢才・和洋折衷の思想の結果として、日本の天皇は、中国の皇帝と違って、（宗教的）権威・象徴ではあっても、権力者では必ずしもなかった。権威と権力の両方を兼ねた絶対権力者ではなく、その意味で、天皇による独裁色は弱く、王の平等性が高かった。<br />
実際に、聖徳太子の時代自体が、実務権力者が摂政である聖徳太子や蘇我馬子などであり、天皇は推古天皇という女帝であった。そして、卑弥呼を含めて、日本が女帝を受け入れたのは、女性が男性と違って権力者になりにくいという安心からではないかという説もある。<br />
その後も、日本の歴史では、天皇・朝廷という宗教的な権威は維持されたまま、貴族や将軍が実際の権力を有する状態が続いた。天皇・朝廷も絶対権力者ではないが、時の権力者である貴族・将軍も、なるべく独裁を避ける傾向があった。<br />
明治体制になり、天皇が憲法上は宗教と政治の双方の権力を有しても、実際の政治の実務に関与せず、「君臨すれども統治せず」という原則があった。そして、昭和以降はまさに象徴天皇制の時代となった。<br />
この日本の天皇のあり方が、他の国の王室と違って、約２千年もの間、同じ王室が続いた背景だともいわれている。他の国では、統治者・権力者が変わる際には、従来の王室は滅ぼされる必要があったが、日本には、それがなかった。<br />
なお、哲学者の吉本隆明が述べているが、日本の歴史上、単に権力者ではなく、天皇を打倒して、自分がこの国の宗教的な権威＝現人神になろうとした人物は、ほとんど見られず、オウム真理教の麻原彰晃は極めてまれな例である（自分が日本のキリストになる予言をし、自らを神聖法皇と名付け、天皇・皇居に対するテロ構想も有していた）。あとは、可能性として、織田信長に、その傾向があったのではないかという説がある。
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<span style="font-size: medium"><strong>４　真の大和魂・真の和魂洋才が必要な、２１世紀の日本</strong></span>
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さて、こうして大和魂という言葉は、本来は和魂漢才・和魂洋才の意味を持っていたが、第二次世界大戦を通して、そのイメージがひどく歪められた。戦後は、大和魂という言葉は非常に誤解され、日本の主流思想ではなくなってしまった。<br />
そして、それと同時に、その本来の意味である和魂漢才・和魂洋才の精神も、戦後の日本社会では、徐々に失われつつあるのではないかと思う。すなわち、時代を追うにつれて、日本は、欧米文化（特にアメリカの文化）を自国に合わせて咀嚼することなく、そのまま輸入しつつあるのではないか。これは、現在の２１世紀の日本に住む私たちの心身に、多大な影響を与えている。<br />
その例として、戦後の昭和期の日本の社会には、平等主義である輪・和の思想の反映ともいうことができる経済体制があったが、今は市場原理主義の導入の下で、崩壊しつつあるということがある。<br />
いわゆる、戦後の昭和期の、終身雇用制・年功序列という平等な雇用体制が、平成に入って、米英中心の弱肉強食・市場原理主義の経済体制の導入などによって、なくなった。そして、勝ち組・負け組という言葉に見られるように、人々の間に、競争とそれによる優劣の区別・貧富の差が強まり、幸福な勝ち組と不幸な負け組という社会の分断が深まりつつある。<br />
それは心の問題に繋がり、負け組の自己否定・絶望からの自殺・欝病の増大を作り出している。そして、勝ち組の方もじつは同様で、慢心・独善からの突然の没落（例えばバブルの崩壊など）などの問題を作り出していると思う。<br />
ここで、私は、現代社会に必要な和魂洋才という意味での、本来の大和魂の実践が必要ではないかと考えている。欧米の競争原理が世界規模で展開されて、日本社会にも浸透する中で、なおかつ日本独自の文化である「輪と和の思想」、すなわち万人を平等に尊重して和合する精神を維持する智慧を見いだすことである。<br />
社会主義の試みが失敗に終わって、資本主義という競争原理に基づく社会を否定することが、少なくとも直ちには非現実的であったとしても、その中で、人の精神と社会の調和を守るために、私たちなりに十分な工夫をして、それに対処するのである。
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<span style="font-size: medium"><strong>５　競争社会を愛で生きる--和魂洋才の実践</strong></span>
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その一つの例として、私は、「競争社会を愛で生きる」という日記エッセイを書いたことがある。それは、仏教的な、一元的な思考に基づいて、どういったものの考え方をして、どういった実践をすれば、競争社会の中で、万人への尊重や愛を失わずに生きることができるかについて述べたものである。それによって、社会の分断を和らげることも意図している。<br />
その要点をいえば、まず、競争の本来の意味とは、互いの切磋琢磨を通じて、全体の幸福・成長を実現する手段であって、勝って幸福になる者と、負けて不幸になる者を選別することではないということである。しかし、現在は、全体の成長・幸福という目的を忘れ、本来は手段である勝ち負けというものが目的化してしまっている。<br />
これを改めるならば、勝った者は、自分が今あるのは、負けた者との切磋琢磨を含めた、全体の支えによってであって、決して自分だけの力によってではないことを絶えず謙虚に認識するべきである。<br />
そして、慢心に陥らないようにして、全体への感謝を忘れず、その恩返しとして、負けた者を含めた全体を慈しみ、苦楽を分かち合うことである。そうせずに、慢心に陥れば、自分を支えていたものが崩れて、中東の独裁者やバブルが崩壊した際の金融エリートのように、没落することになる。<br />
また、負けた者も、競争の本来の意味は、全体の成長・幸福であり、勝者と敗者というのは形上のことであると考えるべきである。そして、真の勝者は、切磋琢磨によって向上した全体であること、すなわち勝者と敗者を含めた全体であると認識することである。<br />
そして、勝者に対して、彼らが先頭に立って全体を引っ張り上げた面があることを認識し、素直にその価値を認めて称賛しつつ、同時に、勝って上に立つことばかりに人の価値や役割があると錯覚してはならない。<br />
勝者の立場にとらわれずに、優れた他人を支えるという立場・役割や、自分の敗者としての経験を活かして、他の敗者の苦しみを理解して、正しく助ける（ともに勝者を妬み憎むという堕落をするのではなく）といった役割にも、勝者と同じだけの価値があることに気づくべきである。<br />
こうして、他を活かすこと、他を助けることができるようになれば、それは集団・組織・国の中で非常に貴重な存在となる。今の世の中では、皆が他に勝とうとし、実際に勝つ人も少なくないが、他を活かす、支える資質を持つ人は、逆に少ないからである。<br />
その結果として、そういった人たちこそ、将来において、真に人の上に立つ存在（真の勝者）となる可能性がある。「分裂すればできることはほとんどなく、団結すればできないことはほとんどない」という言葉があるが、人は勝者であっても、自分一人の力でできることは実際にはほとんどなく、逆に他を活かして支えるなどして団結すれば、できないことはほとんどない。<br />
これとは逆に、単に勝った者を妬み、自らは卑屈になって努力をやめるならば、せっかくの自分の役割・価値を見失ってしまい、その結果として、全体がレベルダウンすることになる。こういった人は、妬みや卑屈の内奥に、じつは努力を嫌がる怠惰を抱えている場合が少なくない。<br />
この教えについて、より詳しいことにご関心がある方は、前にも述べたが、巻末の私の日記（「競争社会を愛で生きる」、「自と他の区別を超える教え」、「妬みを超える教え」など）をご覧いただきたい。
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<strong><span style="font-size: medium"><br />
６　大日本帝国の間違った大和魂</span></strong>
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さて、オウム真理教も、『宇宙戦艦ヤマト』などのパロディを使ったりして、「ヤマト」という言葉に縁があった。しかし、その教えと活動は、大日本帝国と類似していた。<br />
オウムのグルへの帰依に基づく一連の事件への突っ込みも、大日本帝国で用いられた誤った大和魂の精神と似ている。それは、天皇を現人神として、日本は神国だと信じ、軍国主義で、排外的で、合理的ではない無理な精神主義や突撃精神である。戦艦大和の特攻などは、オウム真理教の突っ込みと似た感じがする。<br />
そして、このオウムに投影された大日本帝国の誤った大和魂に対して、オウムを乗り越えんとするひかりの輪の立場から見るならば、日本人が、真の大和魂の精神をよく理解することが、大日本帝国の過去を十分に乗り越えることだと感じられる。<br />
真の大和魂とは、大日本帝国の戦艦大和のイメージではなく、大和＝大いなる和という漢字が表すとおり、日本の本来の思想である、和と輪の精神を中核としたものでなければならない。それは、万人・万国の尊重と、それに基づく平和の実現である。<br />
宗教・思想的にいえば、日本だけが神の国なのではなく、日本が神の国ならば、世界万国も同じように神の国として尊重するといった精神である。それが、本来の日本の輪の精神であり、それを失わずに、外国文化を摂取するのが、真の大和魂であろう。<br />
言い換えれば、明治から第二次世界大戦の日本の思想は、日清戦争・日露戦争などの成功による慢心のためか、日本だけが神の国といった側面が強くなり、気づかないうちに、欧米の思想の模倣になってしまったのではないかと思うのである。<br />
具体的にいえば、欧米は、キリスト教的な思想に基づいて、植民地侵略を神の明白なる天命として正当化し、侵略対象を自分たちと同じ平等な人間と見なさなかった。これと同じように、明治政府は、欧米の強さが、その植民地侵略を正当化するキリスト教の信仰にあると考えて、日本にも同じものを欲し、天皇を絶対神・現人神とする国家神道の体制を作り上げていったとされる。<br />
しかし、欧米の植民地支配は、日本の敗戦とともに、戦後まもなく崩壊したのであって、決して優れたものでも、強い文化でもなかった。第二次大戦は、連合国であろうと、枢軸国であろうと、キリスト教や国家神道やナチズムといった宗教・思想によって、自国を特別視して侵略を正当化し、結果としては自滅・敗北したのである。<br />
これは、万人平等主義の和・輪の思想を根底に持った、聖徳太子や天武天皇以来の日本本来の天皇の意味合いとは違ったものである。輪の思想とは、日本だけが神の国というのではなく、世界のすべての国が神の国という思想のはずである。
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<span style="font-size: medium"><strong>７　東洋と西洋などの二極をバランスさせる思想</strong></span>
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さて、和魂洋才・和洋折衷などで表される真の大和魂のものの考え方は、競争原理などの西洋の思想にそのまま染まることでもなければ、完全に拒絶するものでもない。それは、東洋と西洋の適切な融合・折衷・バランスを重視する思想である。例えば、その一例が、先に述べた、競争原理を否定せずに、いかに万物の尊重・平等の原理を守るかということである。<br />
この二極をバランスさせる思想が、仏教にはある。まず、釈迦牟尼の中核の教えが、「中道」という教えである。それは欲楽にふけるのでもなく、無理な苦行にも陥らず、楽にも苦にも偏らないという思想である。<br />
さらに、大乗仏教における「智慧と方便」という思想がある。智慧と方便は、大乗仏教において、仏陀の境地に到るための二つの重要な要素であるとされている。そして、両者のバランスが重要であり、仏陀はこの二つを同時に一体として体得しているとされる。<br />
まず、智慧とは、万物が他から独立した固定した実体を持たず（空であり）、一体であるという悟りの境地（空の悟り）のことである。これは現世から離れる（現世を超越する）精神的な傾向である。<br />
一方、方便とは、智慧の境地に近づくための修行法であり、特に、利他の手段、功徳を積む手段のことを指している。これは現実の生活の中で行う実践であるから、現世に近づく精神的な傾向である。方便とは手段という意味がある。<br />
そして、この智慧と方便の考え方は、先ほど述べた「競争社会を愛で生きる教え」に活かされている。本来は、社会全体の幸福は一体であり、皆が幸福になったときに一人一人も本当に幸福になるのが真実（＝智慧）である。そして、勝者と敗者を分ける競争のシステムとは、その全体の幸福を実現するための「方便・手段」であって、それ自体が目的ではない。<br />
こうして、東洋思想（輪・和）と西洋思想（区別・競争）や、智慧と方便といった、二つの原理の融合は、ユング心理学などにも見られる。その中では、男性原理と女性原理が、それぞれ善悪を分けて悪を浄化する機能と、善悪無差別にすべてを受容する機能とに位置づけられて、その両者の融合が、最高の精神的な発達段階としている。これをわかりやすくいえば、厳しさと優しさの双方があって、真に人を育てる愛となるといってもよいだろう。<br />
また、道教にも、「陽と陰」という二極があって、その両者のバランス・融合を重視する思想がある。陰陽とは、火と水、男性と女性、西洋と東洋、光と闇、浄化と受容、厳しさと優しさなどである。
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<span style="font-size: medium"><strong>８　「二極一元論」のシンボル--柱と輪</strong></span>
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さて、この二極を本質的に一体と見て、両者のバランス・融合を重視する思想をひかりの輪では、「二極一元論」と呼んでいる。そして、それを「柱と輪」というシンボルで表現している。これは、陽・男性原理が柱に、陰・女性原理が輪に、それぞれ対応している。両者の性器の形とシンクロしているのである。<br />
ここで、今までお話ししてきた「輪」というのは、より精密にいうならば、円いという意味だけではなく、車輪という意味があることに注意してほしい。そして、この車輪を分析すると、輪と軸によって形成されていることがわかる。すなわち、車輪とは、輪と柱が合体した姿ということもできるのである。<br />
この柱と輪の形のシンボルは、さまざまな宗教・文化に見られる。智慧と方便を象徴する大乗仏教の法具であるヴァジュラとガンターや、仏陀や仏法を象徴する法輪（法の車輪を意味する）、さらには、ヒンドゥーの崇拝対象であるリンガとヨニ、そして、縄文時代の環状列石（ストーンサークル）の形状にも共通して現れている。<br />
そして、環状列石などの遺跡は、日本の縄文時代に限らず、環太平洋文明全体に広がっているという説もある。その意味で、「輪」の思想とは、日本の根本思想であるとともに、まだ戦争のなかった頃の太古の人類の共通の財産ではないだろうか。それが、極めて良く保存されているのが、日本という国ではないかと思う。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
９　期待される日本の進化</strong></span>
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最後に、ひかりの輪が、日本の国土に触れつつ再発見してきた輪の思想に基づけば、２１世紀の日本には、以下のような国家理念と宗教の改善が期待される。<br />
第一に、真の和（輪）の国＝大和の国としての再生である。輪の思想に基づく国家観は、ナショナリズム・国粋主義ではなく、万国・万人が平等に尊く一体というものである。<br />
第二に、真の大和魂（和魂洋才）の覚醒である。真の大和魂とは和魂洋才＝東洋と西洋の融合などに本質がある。例えば、欧米の市場原理主義の競争社会を単に輸入するのではなく、輪（和）の思想（＝慈悲）を維持しつつ、それを活かしていく能力である。<br />
第三に、宗教・仏教の改革・再生である。日本の仏教や神道の伝統宗派は形骸化したといわれて久しい。そこで日本伝統の輪の思想の再生に伴い、２１世紀の日本の宗教思想の再生・改革が期待される。<br />
それは、輪の思想に基づく新しいタイプの宗教団体とその実践者の展開であろうし、仏教界においては、平成新仏教・２１世紀新仏教といったものの展開であろう。その意味で、ひかりの輪は、聖徳太子、天武天皇、空海・最澄、法然・親鸞など、その時代々々の宗教・思想の改革者を尊重している。
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<span style="font-size: large"><strong>第五章　太古から続く輪の思想の系統とひかりの輪</strong></span>
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さて、ここでは、縄文時代の日本に限らず、世界の各地で、太古から続いてきた輪の思想について、歴史を振り返って述べたいと思う。
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<span style="font-size: medium"><strong>１　日本--縄文時代からの輪の思想</strong></span>
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まず、日本の輪の思想について、縄文時代から聖徳太子までについて、前章まで述べたことをまとめておく。まず、縄文時代の環状集落や環状列石などから、万人を平等一体と見る輪の思想が生じ、その後の「和の文化」を形成した。それが聖徳太子の十七条憲法にも見られるということであった。<br />
これに関連して付け加えると、縄文土器も、輪・循環の思想を表すという研究がある。例えば、その紋様が月の満ち欠けを模して、生成と消滅の循環を示しているとか、縄文の名称の由来である縄が蛇を象徴し、蛇は脱皮するところから、生と死の循環を示すといった見解などである。また、偶然の一致ではあるが、縄文のなわ縄という言葉が、わ（輪）の音を含むのも興味深い。<br />
そして、ひかりの輪では、①諏訪大社と御柱（下部の周囲が木で囲まれた柱）、②八ヶ岳・諏訪地方の縄文遺跡の環状集落や土器、③東北の十和田地方の縄文遺跡の環状列石などを訪問した。<br />
なお、これらの訪問は、以前にも述べたが、私が「大黒柱の啓示的なヴィジョン」と表現する宗教体験をして、神柱への関心が深まったからであった。ただし、これは、自己や自己の宗派を絶対化することに結びつくような、いわゆる神のお告げ的な意味で用いているのではない。ひかりの輪では、特定個人や宗派を絶対視しない原則がある。<br />
そして、これは科学的にいえば、ユングや、ユングの研究したチベット密教の僧侶が語るように、人が、日常生活であれ、悟りを求める過程であれ、何か精神的な壁にぶつかったときに、精神の統合・進化をもたらすために、その内面から現れる輪・円の要素を含んだヴィジョンに類すると思われる（これが密教の曼荼羅にも関係するという）。そして、当時の私は、オウム・麻原信仰に疑問を感じ、それを乗り越えようとして、精神的な葛藤を始めていた時期であった。<br />
最後に、この縄文文化について一つ特筆すべきことがある。それは、縄文土器が世界最古の土器であるということである。それも１万５千年以上前とされ、氷河期が終結する以前からのものだと推察される。この時期に、東アジア一帯で世界最古期の土器が同時並行的に出現したとみられている。<br />
そして、氷河期の終結といえば、科学的な根拠は乏しく、科学的な考察の対象とはなりえないが、氷河期に存在した高度な文明（氷河期文明）が、氷河期の終焉＝温暖化に伴う急激な海面水位の上昇や気象変動によって水没・滅亡し、それがノアの洪水をはじめとする、世界各地の洪水伝説の源になったのではという話が繋がってくる。<br />
そして、世界最古の土器を持つ縄文文化が、氷河期文明から連続的に生き残った、特別な文化なのではないかと考える人もいる。東北などのストーンサークルや自然ピラミッドを見て、それが単なる文化ではなく、高度な精神的な文明だったとする人もいる。<br />
仮にそうだとするならば、縄文時代の輪の思想も、氷河期文明とその終焉と何かの繋がりがあるかもしれない。例えば、それは、①氷河期文明の思想の一部を引き継いでいるとか、②氷河期文明が破滅したことの反省に基づくものであるとか、③（ノアの洪水のノアのように）氷河期文明を生き残った、全体から見れば僅かな者たちの思想傾向を反映している、などである。科学的な考察の対象にはなりえないが、興味深い話であるので、一応述べておくことにする。
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<span style="font-size: medium"><strong>２　仏教思想--法輪・縁起・輪廻・曼荼羅・円相・時輪</strong></span>
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仏教と輪（チャクラ）は非常に縁が深い。まず、仏陀の説法＝仏法は「法輪」（ダルマチャクラ）と呼ばれ、説法をすることはてん転ぼうりん法輪と呼ぶ。釈迦牟尼の初めての説法はしょてん初転ぼうりん法輪と呼ばれる。そして、釈迦牟尼の中核の法である、縁起の法や中道の教えの本質は、輪の法則である。<br />
例えば、縁起の法の中の「十二縁起の法」は、欲楽への愛著・執着が苦しみをもたらすことを説いており、また、それに付随する経典では、逆に、苦しみが正法への信仰に繋がり、解脱に導くとも説かれている。こうして、楽が苦に、苦が楽に輪のように繋がることが説かれている（先に述べた釈迦牟尼の一元法則に相当する）。また、苦に楽にも偏るなと説く中道の教えも、苦楽が表裏＝輪であるがゆえに、そのように説かれるのである。<br />
また、縁起の法は、自と他が相互に依存しあって存在することも説いている。そして、この思想が、大乗仏教では、この世の万物に拡大適用されて、一切の事物が相互依存（縁起）しており、一切が固定した実体がないという「空の思想」に発展した。<br />
さらに、仏法以前からのインドの伝統であり、仏教にも取り入れられた輪廻転生の思想は、人が、幸福な世界（善趣）と苦しみの世界（悪趣）をグルグルと回るように転生するという思想であり、これも苦楽の輪、善悪の輪の思想であることは明白である。<br />
さらに、ひかりの輪が重視する大乗仏教の思想である唯識思想の中にも、輪の思想が顕著に見られる。唯識思想は弥勒菩薩が説いた教えとされるが、その主たる教えの中には、「あらや阿頼耶しき識縁起」や「さんしょう三性」といった教えがある。<br />
阿頼耶識縁起の教えは、この世の万物は同根であり、根元的な意識である阿頼耶識が現れた（変化した）ものであると説く。また、阿頼耶識が万物として現象化すると、現象化した万物が阿頼耶識を変え、阿頼耶識と現象がお互いを変えあうという循環構造があることを説く。こうして、万物が同根・一体・循環という輪の思想が現れている。<br />
三性の教えとは、縁起の法と同じように、事物は皆相互に依存し合っている性質があると説き（えたき依他起しょう性）、それを完全に体得した境地をえん円じょう成じっしょう実性と呼び、ここでも円・輪という表現が出てくる。<br />
なお、阿頼耶識縁起の教えは、人の意識と外界の現象がシンクロしていることを説いている点で、後に述べるユング心理学のシンクロニシティの概念と共通点がある。それだけでなく、意識が多重構造を持っていることや、万物が共有する根元的な意識が存在すると主張する点も、ユング心理学と共通している。<br />
ただし、人の意識と外界がシンクロしているといっても、唯識思想では、外界というものは実体がないと説く。同じ場所・時間にあっても、それを見る人や生きものによって、異なった外界が体験され、解釈されるように、それぞれの人・生きものが「現実」と呼んでいるものは、それぞれの感覚器官や思考・意識に合わせて作り出される実体がないものと位置づけている。<br />
また、中国において、だるま達磨大師が創始した禅仏教の伝統にも、輪の思想、輪を象徴とした教えが見られる。それは、えんそう円相と呼ばれるものがあり、禅における書画のひとつで、図形の丸（円形）を一筆で描いたものである。「いちえんそう一円相」「円相図」などとも呼ばれるが、これが、悟りや真理、仏性、宇宙全体などを円形で象徴的に表現したものとされる。<br />
さらに、インド仏教の最後の仏教経典となった「カーラチャクラ・タントラ」（時輪経典）にも、輪の思想が見られる。カーラチャクラとは、時の輪という意味であり、この経典は、宇宙の根本原理は、時の輪、周期的な運動・循環であると説く。<br />
宇宙の様相を見ていると、地球も、太陽も、銀河も回転し、そのため、季節や昼夜も循環し、水や空気は天地を巡って循環し、輪廻転生として生と死が循環し、睡眠と覚醒を繰り返し、人間の活動形態も循環している。<br />
なお、時輪経典は、占星学の教えを含むが、ひかりの輪でも用いているインド占星学では、占星学を時の輪の思想と解釈する人もいる。<br />
ひかりの輪は、釈迦牟尼と仏教の教えに縁が深い。まず、祭壇中央には、釈迦牟尼御尊像がある。しかも、この釈迦牟尼の御尊像は、胸の前に「法輪」を持って、ひかりの輪に縁の深い「虹」の色の輪の後光を放っている。ところが、この仏画も、今日のひかりの輪の教義が確立する前から団体にあったものであり、それが偶然にも、その後の教義とぴったり合った図柄だったのである。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
３　道教思想--太極から生じた陰陽二極の循環の思想</strong></span>
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道教は、万物は太極を根元とする陰と陽の二極によって生じ、その陰陽が、互いが互いに転換＝循環すると説く。その思想を表すのが、陰陽の二極を書き込んだ円形の太極図であり、これが陰陽の循環を表している。<br />
道教の思想は、万物が一体であると見る一元論の思想としては、非常に多面的であり、完成されている面がある。道教は、①陰と陽の両者がお互いを支え合っているという「互根」の原理、②両者が同じ根元（太極）を持つという「同根」の原理、③両者がお互いに転換する「転換・転化」の原理などを説いている。<br />
この道教の思想は、詳しくは、過去の特別教本を参照してほしい（『一元の法則とその悟りの道程（2010年ＧＷセミナー特別教本）』、『現代人のための一元の法則（2009年～2010年 年末年始セミナー特別教本）』）。<br />
これは仏教でいうならば、互根は、縁起の法が説く万物の相互依存にあたる。同根は、唯識思想が万物の根元は阿頼耶識であると説いたり、大日如来の経典が万物は大日如来の現れと説いたりすることに相当する。転換・転化は、時輪経典の時の輪・循環の思想に相当する。<br />
こうして、仏教ではさまざまな経典にバラバラに説かれている一元論的な概念が、道教では、その陰陽思想の中でまとめられているのである。そして、ひかりの輪では、互根（縁起の法）、同根（唯識・大日如来の法）、転換（時輪経典の法）という三つの視点に立った一元法則のことを「三乗の一元法則」と呼ぶことがある。<br />
こうして、ひかりの輪は、この道教の教えを取り入れているが、前に述べた大黒柱をキーワードとした啓示的なヴィジョンも、道教思想と関係がある。というのは、この大黒柱という言葉は、道教が説く宇宙の根元である「太極」に由来する「だいごく大極でん殿」の柱から来たものである。<br />
なお、話は脱線するが、この大極殿は、都にある天皇が政治にあたる宮殿の名称である。そして、天皇という名称も、道教が説く太極に存在する絶対神であるてんこう天皇たいてい大帝に由来する。<br />
この天皇という名称や大極殿を創始したのは天武天皇とされているが、同天皇は道教思想に基づきおんみょうりょう陰陽寮も創設した（あべの安倍せい晴めい明などがおんみょうじ陰陽師として所属）。そして、ひかりの輪が訪れる聖地も、同天皇に縁がある場所が多く、天川や吉野などがある。<br />
そして、これは私的な解釈ではあるが、天皇という言葉は、万物の根元としての太極に由来するために、自己を特別視する存在＝独裁者ではなく、万民が自分と同じく太極から出た存在と見る平等主義的な一元思想を持つ王と解釈するべきだろう。<br />
実際に、日本の天皇は、歴史的に見ても、中国の皇帝などと違って、独裁を避け、輪・和・衆議を重んじる傾向があり、時に実権を貴族・将軍・民主政府に委ねたのである。それは、和の王であったと解釈できるのではないだろうか。
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<span style="font-size: medium"><strong>４　ヴェーダ・ヒンドゥーの思想--不二一元論（アドヴァイタ）</strong></span><br />
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ヴェーダ聖典に基づくインド哲学や、それに由来するヒンドゥー教の思想の中にも、輪の思想、一元の思想が多く見られる。その一つが、前にも述べた、ヒンドゥーの崇拝対象であるリンガである。<br />
また、インドの主流の哲学であるヴェーダーンタでは、万物をブラフマンの現れとして同根一体であると説く。これを不二一元論＝アドヴァイタといい、シャンカラがその創始者とされている。この思想は、近代においては、ラーマクリシュナが説き、その弟子であるヴィヴェーカーナンダが欧米にも広めたことが有名である。<br />
特に、ラーマクリシュナは、「万物を神の現れと見て奉仕する」というカルマ・ヨーガと呼ばれる教えを説いた。ひかりの輪は、このカルマ・ヨーガの教えを非常に重視している。ひかりの輪では、万人万物を導き手と見て感謝し、大慈悲の実践をするという観音菩薩の一元法則があるが、これとよく合致している。<br />
なお、一つ興味深いことは、先ほど釈迦牟尼とひかりの輪の縁のところで、法輪を思わせるようなスポークを伴う虹の輪が長時間現れる体験をしたことがあると述べたが、不思議にも、その日は、ちょうどヴィヴェーカーナンダの百年忌の日で、その前後から、私のラーマクリシュナ・ヴィヴェーカナンダの思想の学習も始まったという不思議な縁があった。
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<span style="font-size: medium"><strong>５　近代心理学--ユング心理学：円形のシンボルによる自己治療</strong></span>
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さて、近代心理学の巨頭の一人であるカール・ユングの思想にも、輪の思想が見られ、それは仏教の曼荼羅と結びついている。<br />
彼は、師であるフロイトと決別し、幻覚も伴う精神病理的な状態に陥り、その自分を治療しようとする過程で、わけもなく、円形の図をたくさん描き、それは彼の心の治療に大きな影響を及ぼした。さらに、その経験をもとにして、回復期にある精神病者に絵を描かせてみると、同じように円形の図を描いた。<br />
よって、ユングは、円形の図は、心が分裂の危機状態にあったり、不統合性を感じたりしているとき、それを統合しようとする心の内部の働きとして生じるものと考え、それを真の自己の象徴的な表現と考えた。<br />
そして、その後チベット仏教の文献によって、この円形の図＝マンダラが、宗教的に大きな意義を持つと知ったが、この東と西のシンクロは、大変興味深い発見であった。このマンダラは、円という意味があるが、その語源「マンダ」は心の中心となるもの・本質であり、「ラ」は所有・成就を意味し、本質心髄を有するものという意味にもなる。<br />
ユングは、その著作の中で、チベットの高僧から、マンダラについて、次のような説明を受けている。「マンダラとは...精神の像...で、...一つとして同じものはなく、個々人によって異なる。...それは心の平衡が失われている場合か、ある思想がどうしても心に浮かんでこず、経典を紐解いてもそれを見出すことができないので、自らそれを探し出さなければならない場合などに、（能動的な）想像力によって徐々に心の内に形作られるものである」（C・G・ユング『心理学と錬金術』人文書院）<br />
さて、ユング心理学とひかりの輪の教義は共通点が多い。ひかりの輪は、ユング心理学の思想の中で、嫌悪の対象が自分の暗部の投影であるとする「影の理論」や、心の内面と外界の現象が偶然にも一致する「シンクロニシティ」の理論などを、一元法則の一環として取り入れている。また、ひかりの輪は、ユング心理学と似ているとされる仏教の唯識思想を取り入れている。<br />
また、個人的な話になるが、私は、カール・ユングに親近感を覚える一面がある。ユングが師であるフロイトと決別し精神的な葛藤を経験し始めた年は、私が麻原への疑念を抱えつつ聖地でいろいろと体験しながら模索を始めたのとちょうど同じ、４０歳の時であった。そして、私の場合も、円・輪・循環が、その葛藤を越えるシンボルとなった（たとえば、循環するエネルギーや、太陽の周りの虹のひかりの輪の体験など）。<br />
さらに、ユングの葛藤が、その後４年ほど続いたというのも、私がその４年後にオウム・アレフから脱会・独立を決めたのと似ている。こうして見ると、私の自立のプロセスは、ユングから遅れてちょうど９０年後のことであった。
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<strong><span style="font-size: large">第六章　ひかりの輪と日本とのシンクロニシティ</span></strong>
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<span style="font-size: medium"><strong>１　ひかりの輪の名称・シンボルと、日本の国土のシンクロ</strong></span>
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私たちが聖地巡礼でよく体験した「太陽の周りの虹の輪」は、ひかりの輪の名称とシンボルマークの由来となったことは前に述べたが、それは、日本の国土・文化を非常によく象徴している。<br />
まず、日・太陽は、日本国家とその文化の典型的な象徴である。①日本の国名は日の本、②国旗も太陽を象徴、③神道の主神の天照大神（アマテラスオオミカミ）も太陽神であり、それが日本民族・天皇の先祖たる神となっている。そして、日の本を日出ずる国と解すると、海から太陽が昇る国とも解される。<br />
次に、虹であるが、これは水や龍を象徴する。虹は、天翔る龍とされており、雨と関係するから水の神とも見なされるのである。そして、この水や龍は、日本の国土・自然の最大の特徴を表す象徴にほかならない。<br />
まず、日本は、太平洋と日本海に挟まれた海洋国であり、それによる豊富な水・雨により森林を含めた豊かな自然に恵まれている（よく「水と森の国」といわれる）。そして、国土の形が、龍の形をしているので、極東の龍とも呼ばれることがある。<br />
なお、繰り返しになるが、虹や龍は、水の神の象徴とされる。龍は蛇を神格化したもので、竜宮城に住むとか、雨を降らせる神と信じられており、水の神である。また、虹は、天翔る龍と信じられ、これが蛇と同じ虫偏である理由と思われる。そして、龍神とともに、水の神の象徴である。<br />
話を元に戻すと、天皇家が最初に祭った神が龍神である。具体的には、天照大神とともに唯一大神の称号を持つ大国主神（オオクニヌシノカミ）である。この神を祭る神社が、出雲大社や、日本最古の神社とされる三輪山のおおみわ大神神社である。<br />
なお、付け加えると、太陽と水・龍神に縁が深いのは、釈迦牟尼も同じである。釈迦は、太陽族のまつえい末裔といわれる。そして、釈迦族のトーテムは龍神（ナーガ）とされており、その誕生の時に龍王の灌頂が行われ、龍が、悟った釈迦の弟子となったという。また、釈迦の息子はラーフラというが、これは龍の頭＝ラーフに由来するという説もある。そして、釈迦の説いた教えは、法輪・法の車輪という言葉で象徴された。<br />
こうして、ひかりの輪と日本と釈迦牟尼のシンクロを考えると、輪の思想は、日本とインドという空間的な隔たりを超えて、世界に普遍的な思想であると考えることができるだろう。
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<span style="font-size: medium"><strong>２　ひかりの輪が巡礼した日本の各聖地の、不思議な位置関係</strong></span>
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第二章で詳しく述べたように、ひかりの輪は、日本の国土・文化に育まれた宗教である。輪の教えを掲げて、「ひかりの輪」という名称になったのも、縄文時代以来の日本文化の中核に輪・和の思想があったことを反映していると考えるならば、自然なことであった。<br />
ここでは、今まで述べてきたことに加えて、ひかりの輪が縁を有した日本の各聖地には、不思議なことに、その間を結ぶ特殊なラインが存在している場合が多いことについて述べたい。それによって、ひかりの輪が、日本の国土とその不思議なあり方に深く結びつていることが、いっそうよく理解されるのではないかと思うからである。<br />
さて、不思議なラインとは、例えば、三地点が一直線上にあったり、二地点が真北・真南の関係にあったり、真東・真西の関係にあったりするなどである。ちまたでも、レイラインとか、聖地を結ぶラインがあることがよくいわれるので、馴染みのある方もいるだろう。<br />
まず、ひかりの輪の東京本部と諏訪と大黒岳が一直線に並んでいる。私が本部で大黒柱の啓示的なヴィジョンを見た後に、神柱に関心を持って訪れたのが諏訪大社と大黒岳であったが、その三者がほぼ直線上に並んでいた。詳細は省くが、この二カ所は、ヴィジョンと非常によくシンクロする物や出来事があった。<br />
次に、ひかりの輪の東京本部と日光である。本部と日光東照宮は、正確に南北の関係にある。そして、日光には、その名前をはじめとして、信仰対象も、観音菩薩、大黒様、薬師如来、阿弥陀如来など、ひかりの輪とよくシンクロしている。<br />
なお、日光の真北・真南というのは重要な意味があり、というのは、徳川家康が、自分が死んだら、「北にあって神となり南方を守護する」という趣旨の遺言を残しているからである。<br />
また、東京本部と富士山の虹の聖地と大阪道場が一直線上にある。富士山の虹の聖地とは、私と聖徳太子がともに虹を見て聖地と考えた、神柱のような虹が出た富士山の麓である。それと本部と大阪道場がほぼ一直線上にあり、その大阪道場は大極殿の跡もあるなにわのみや難波宮の跡地の中にある。<br />
また、ひかりの輪がよく巡礼する諏訪と戸隠が、真北・真南にある。よって、諏訪には、道教の太極・北斗信仰に基づいた北斗神社もあり、諏訪から見て、北斗を隠すように見える戸隠山を「斗隠山」と解釈した。この諏訪と戸隠は、諏訪の御頭ミシャグチ総社の御聖木や、戸隠神社奥社のほうきょういんとう宝篋印塔の御聖木など、神柱探しをしてきたひかりの輪の聖地巡礼で代表的な神柱がある。<br />
そして、諏訪大社と鹿島神宮が、東西の位置関係にある。この二社は毎年巡礼している。諏訪の御祭神は建御名方神（タケミナカタノカミ）、鹿島は建御雷神（タケミカヅチノカミ）であるが、両神は、『古事記』の有名な大国主神の出雲の国譲り神話に関連している。<br />
また、出雲大社、諏訪大社、おおあらい大洗いそさき磯前神社が、一直線上であるといわれる。この三社はいうまでもなく、大国主神に由来する。出雲は古来、西にあって、日の沈む国とされ、大洗は、ご来光を拝む聖地として有名である。<br />
最後に重要なのが、中央構造線上の聖地である。日本国土の最大の地層の断層帯である中央構造線の上には、不思議と名だたる聖地が並んでいることがよく知られている。具体的に列挙すると、西から、九州の八代・阿蘇から四国の剣山など、紀伊半島の高野山・吉野天川・伊勢、名古屋の豊川稲荷、長野の分杭峠・諏訪・八ヶ岳、東関東の大洗・鹿島などである。<br />
このうち、吉野・天川・伊勢・分杭峠・諏訪・八ヶ岳・大洗・鹿島などは、すべてひかりの輪で巡礼し、重要な聖地としている。これは、日本の国土の最大の龍脈であり、大黒柱の啓示的なヴィジョンにも出てくる龍やその回転とシンクロしている。<br />
最後に、ひかりの輪の本部道場は、こうした聖地と連動した空間になるように工夫されている。本部道場の神殿は、日光東照宮の奥の院（家康の墓）のちょうど真南にあって、南方を守護するとした家康の遺訓のラインにある。また、前に述べたように、東京本部は、諏訪・大黒岳および、富士山・大阪道場と一直線上にある。<br />
また、本部神殿の基本構造は、重要な聖地とシンクロした造りとなっている。具体的には、本部神殿は、①結界神柱が四方の隅に合計４柱立ち、②弥勒菩薩半跏思惟像が、厨子の中に秘仏として他の神具・法具とともに納められ、③結縁神柱が１柱立ち、それが弥勒菩薩半跏思惟像と御神紐で結びつけられている、という構造である。<br />
まず、①結界神柱は、諏訪大社の御柱とシンクロし、その意味合いは、鎮護国家、そのための四方八方への智慧と慈悲の波動の放射である。②は、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像にならったもので、この仏像は智慧と慈悲の象徴と位置づけている。③は、善光寺の秘仏の前立本尊と結ばれた回向柱や、縁結びの神の笠森観音に見習ったものである。<br />
さらに、この弥勒菩薩半跏思惟像は、各地の聖水・ご神水で修法された上で、聖地の法具・神具とともに厨子に秘仏として納められている。本部神殿には、日本の優れた聖地の祝福を結集させていただいている。
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<span style="font-size: medium"><strong>３　日本の輪の思想の歴史と、ひかりの輪の関係</strong></span>
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次に、日本の国土ではなく、文化・宗教に注目して、日本とひかりの輪のシンクロについて述べたい。そのために、縄文時代に限らず、日本における輪の思想の歴史をざっと振り返って、それとひかりの輪がどう縁を結んできたかをご紹介する。<br />
まず、縄文時代の輪の思想とひかりの輪の思想のシンクロや、ひかりの輪の縄文遺跡の訪問はすでに述べたとおりである。それに付け加えると、この縄文時代には、日本古来の原初的な信仰が生じている。それは、山、木、石などの自然信仰や、精霊信仰であったりした。石棒の信仰も見られる。ひかりの輪は、こうした原初的な信仰にも、諏訪のミシャグチ総社をはじめとする各地の巡礼を通して触れあってきた。<br />
その後、弥生時代に入って、日本人は自分たちを「倭」と称し、それが「和」に繋がっていったが、この源が「輪」だと推察される（なお一人称の「我」「私」も、「輪」を語源としているという説がある）。そして、大和政権と、その前身との説がある邪馬台国が成立する時代に入る。これについて、ひかりの輪は、卑弥呼宮殿跡と推察される纒向遺跡や箸墓古墳、大和朝廷発祥の地である三輪山などを巡礼してきた。また、天照大神に関しては、伊勢神宮を巡礼した。<br />
次に飛鳥時代に入って、聖徳太子が初の憲法によって、和と輪の思想を明らかにする。これについては、飛鳥や斑鳩など、聖徳太子ゆかりの地を巡礼してきた。十七条憲法制定の跡地や、太子誕生の地である橘寺を含めて巡礼した。<br />
その後、天武天皇が、日本という国名や、天皇という名称を設けたとされ、また『古事記』『日本書紀』の編纂を命じるなどして、日本国体をほぼ確立した。その際、道教思想に基づく天皇・大極殿・陰陽寮（占星学）も創始した。ひかりの輪は、その舞台となった奈良の吉野や飛鳥や天川、大極殿の復元された平城京や、その跡地がある大阪道場近くの難波宮を巡礼した。<br />
そして、奈良時代に入っては、聖武天皇が、けごん華厳思想に基づいて東大寺に大仏を建立した。この華厳思想はまさに一元思想であり、また、大日如来も光の仏として、ひかりの輪と縁が深い。ひかりの輪は、東大寺を繰り返し巡礼している。<br />
平安時代になると、最澄・空海が登場し、万人に仏性を認める大乗仏教や密教の教えが展開された。最澄の天台宗は、釈迦・薬師・阿弥陀の三仏を祭るが、それは最澄が三つの光の輪を体験したことに由来しており、これは、ひかりの輪や、その三仏とシンクロしている。<br />
また、万人に仏性を認める彼の思想は、万人平等主義の輪の思想でもある。空海の大日如来やこんごう金剛しょ杵の信仰も、ひかりの輪の信仰や密教修行とシンクロしている。こうした、最澄や空海の世界には、ひかりの輪は、比叡山・高野山などを巡礼して触れあってきた。<br />
鎌倉時代になると、法然・親鸞らが登場した。彼らは、万人を救う新しい仏教（鎌倉新仏教）を展開した。法然は、万人を救う念仏を説いたが、円光大師・和順大師ともいわれ、その教えも称号もひかりの輪とシンクロしている。<br />
また、親鸞の説いた悪人正機などの教えや、万人の徳に大差を付けぬ思想は、万人平等の輪の思想であり、ひかりの輪の思想・教義との重要な共通点である。これらについては、法然の浄土宗の知恩院や、親鸞の浄土真宗の本願寺や六角堂などを巡礼してきた。<br />
それから鎌倉新仏教としてともに発展した禅仏教にも、円相など、輪の思想がある。これらについては、鎌倉や道元・栄西などの聖地を巡礼して触れあってきた。<br />
なお、宗教家ではないが、忍耐と家臣の和を重視した戦国武将の徳川家康の思想、特にその忍耐を重んじ、怒りを戒める遺訓は、ひかりの輪の「輪の思想」と多くの共通点がある。家康は、戦国の世を終結させ、長期間の平和をもたらしたことと、出生の逸話などから、薬師如来の化身とされる。なお、江戸時代の経済は循環経済とされ、環境保護の視点から昨今見直されてもいる。そして、ひかりの輪は、家康の墓がある日光東照宮などを繰り返し参拝してきた。
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<span style="font-size: medium"><strong>４　オウムと大日本帝国、ひかりの輪と古代日本のシンクロ</strong></span>
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前に、ひかりの輪は、日本の国土・文化に育まれたとした。では、ひかりの輪が反面教師としているオウム・アレフと日本とはどういう関係にあるのか。<br />
私たちひかりの輪のスタッフは、オウム・アレフを総括する中で、事実として日本に生まれたオウム真理教は、日本にとって宇宙からやって来たエイリアンではなく、やはり、日本が生み出した、日本人の教祖と日本人の信者の、日本の団体である以上、日本社会と密接不可分の関係にあると考えた。<br />
そして、自己分析と識者の見解、そして心理学的な分析に基づいて、オウム・アレフが、日本の近代史の暗部である大日本帝国などの投影ではないかと結論している（正確にいえば、大日本帝国が同盟したナチス・ドイツを含めた社会主義的な思想も含まれているが）。これについては、「オウムの教訓サイト」の心理学的な総括のコーナーを参照されたい。<br />
それでは、この視点から、ひかりの輪はどう表現できるか。ひかりの輪は、日本が欧米の影響を受けて軍事国家となる以前の日本、突き詰めると、縄文時代以来の日本の古き良き思想を重視し、それを活かそうとしている。<br />
そして、当然のことながら、それは単純に昔の古代の日本に戻るのではなく、それを学びつつ、現代２１世紀の日本と世界に合わせて活かすことである。それは創造的な再発見、創造的な原点回帰ということができるだろう。いわゆる「古きを温めて、新しきを知る」形である。
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<span style="font-size: large"><strong>第七章　ひかりの輪のホーリーシンボル（神聖な象徴物）</strong></span>
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<span style="font-size: medium"><strong>１　天空曼荼羅「虹のひかりの輪」</strong></span>
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ひかりの輪では、聖地巡礼などでよく現れる太陽の周りの虹のひかりの輪は、天空に現れた法則と解釈しているが、それが象徴するものとしては以下の通りである。
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<span style="font-size: small"><strong>（１）さまざまな法則の象徴</strong></span>
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まず、輪の法則・一元法則を象徴する。無智の闇を照らす智慧の光の輪であり、言い換えると輪の法則＝一元法則を象徴している。<br />
また、これは、仏陀・仏法の象徴である法輪の象徴でもある。形からして太陽の周りの虹のひかりの輪は、法輪と似ている。<br />
さらに、二極一元の真理の象徴（輪を、車輪を意味すると解釈）である。二極一元とは、男性・女性、火と水、陰と陽のように、万物は二極に分かれて現れるものの、その本質は一体であることを意味する。<br />
ここで、太陽は、光・陽・男性原理・方便を示し、虹は、水・陰・女性原理・智慧を示し、太陽の周りの虹のひかりの輪は、その両者の合体・一体性を示す（虹も、水と火の合体で生じるもの）。<br />
また、三乗の一元法則を象徴している。太陽・虹・輪が、それぞれ万物が互根・同根・循環との法則を象徴し、三乗の一元法則を象徴している。第一に、太陽は、大日如来＝万物の根元の象徴として万物同根に関係し、第二に、虹は、万物が連続し一体であることを象徴して万物互根（縁起）に関係し、第三に、輪は、万物が輪の如く循環することを象徴して万物循環（時輪）に関係する。
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<span style="font-size: small"><strong>（２）全宇宙の象徴（宇宙の全時空間・すべての生きもの＝森羅万象を象徴）</strong></span>
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太陽は、ビッグバン＝原初の宇宙の象徴（太陽内部もビッグバンも、水素の核融合でヘリウムができ、原子核と電子が分離した曇った空間の状態で、聖書や道教が説く宇宙の原初の状態である混沌・カオスと一致する）。太陽は大日如来であり、大日如来は宇宙の根元という位置づけがあり、それもビッグバンや道教が説く混沌の太極に通じる。<br />
また、虹の輪は、原子と光による現在の多様な色や形を持つ宇宙を象徴する。仏教の曼荼羅や禅では、円（輪）が宇宙を表す。さらに、虹は、水と光が生むさまざまな生命をも象徴すると考えられる。
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<span style="font-size: small"><strong><br />
（３）平和・調和の（到来の）象徴</strong></span>
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虹は、聖書の文化で、ノアの洪水の後に、神がノアに二度と全人類を滅ぼさないと約束した神と人類の契約の印。厳密には、無智による災厄が収まり＝悪業の清算が終了して、幸福が訪れる時の到来を意味する。幸福な時代の始まり・知らせ。<br />
また、虹は、多様性の下の統一・統合を意味し、戦争反対の平和の旗に用いられている。これは、虹の無数の色は、白色光から分かれた同根のもので、白は平和を象徴する色であることや、虹の含む無数の色は、連続しており境界がなく一体であるからである。
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<span style="font-size: small"><strong>（４）虹と輪は、東北震災や温暖化による水の災厄からの解放の象徴</strong></span>
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東北の震災は、津波を中心とした水の災厄であった。また、原発事故は原子力発電の停滞による温暖化の悪化をもたらすことが懸念されている。そして、この温暖化も、海面水位の急激な上昇＝21世紀のノアの洪水という水の災厄をもたらす恐れがある。<br />
こういった現代文明による水の災厄を乗り越える基本的な精神が、目先の欲楽・便利に溺れず、長期的な幸福を重視する輪の思想である。<br />
今回の震災の後に、防災対策の専門家が口を揃えて述べた反省の中には、次のようなものがあった。それは、国内外で起き続けている最大の災害レベルには対応できないことがわかっていたにもかかわらず、それを「想定外のもの」として考慮しなかったのは、海沿いの町の危険性を直視し、防潮堤の建設には限界があり、移住を含めた都市計画の変更が必要であることを率直に言えば、社会的な影響が大きすぎることを恐れすぎたのではないか、という内容のものであった。<br />
しかし、だとするならば、この問題の責任は、決して専門家や政府だけにあるということはできないだろう。想定している地震の規模が真に十分なものではないとか、防潮堤が不完全であることは、素人でも誰もがちょっと調べればわかることである。<br />
にもかかわらず、これまでに玄人も素人も、従来の防災対策に誰も異を唱えてこなかったことは、海運による物資の運搬などのために便利な海沿いの町を発展させてきた現代文明の流れの中で、社会全体に、その原因・責任があると認めざるをえないのではないだろうか。これは、決して震災の犠牲者・被災者の方々を批判するものではなく、全体の問題として指摘しているのであるが、今回の問題は、政府・専門家から一般市民まで、皆の意識・価値観の総和が引き起こしたというのが事実であろう。<br />
また、原発の事故についても、巨大津波について想定外であった。そして、今回の件で巨大津波に対しての対応を改善したとしても、真に完全なものとはならず、自ずと限界があるだろう。さらに、専門家の分析を見れば、原発には、事故の問題に限らず、例えば、テロ攻撃による破壊の危険があるが、戦争やテロを前提にすると、安全対策などは立てようがない。さらには、原発から出る放射性廃棄物の最終処理場が依然として未確保である問題があって、その意味で、原発が、見切り発車の巨大システムであることはよく知られている。<br />
このような原子力発電に対して依存していることは、やはり、安全な自然的なエネルギーに比べて、原発が、安く大量の電力を供給できるからであるだろうが、これも、地震津波対策と同様に、単に政府や専門家の過ち・陰謀ではなくて、社会全体の選択・責任だと認めざるをえないだろう。原発をやめれば、相当に省エネルギーを進め、かつ高いエネルギー代を払わなければならず、ある専門家は、生活の質を３割落として原発を廃止することは（社会全体として）できないだろうとして、今後のエネルギー政策について万全な方針・方向性は立たない状況であることを新聞紙上で吐露している。
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そして、仏教では、人間の心の働きの中には、短期的・一面的な利益・便利・利得のために、真に長期的な利益・幸福・安定を見失ってしまう傾向が本質的に存在するとしており、仏教用語で、これを無智と呼んでいる。無智は根本的な煩悩だとされている。<br />
これを乗り越えるのが、輪の法則を理解した智慧である。<br />
そして、前にも述べたが、縄文時代は、氷河期の終結による海面水位の急激な上昇を生き延びた存在として、世界でも他に類を見ない性質を持っている。この縄文文化の強さと、その輪の思想の関連性は証明されてはいないが、重要な示唆ではないかと思われる。<br />
さらに、虹は、先に述べたとおり、二度と水の災厄で全人類を滅ぼすことはしないとした神の契約の印である。すなわち、水の災厄からの解放の象徴である。とはいえ、神が約束したのは、全人類を滅ぼすことはないということであって、何の災厄も起こることはないということではない。<br />
人類自身の自業自得もあって、天災とも人災ともいうことができる災害が多くなることが予想される21世紀は、輪の思想・精神とその実践によって、最善の努力をなして、災厄を未然に防ぐべきである。
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<span style="font-size: medium"><strong>２　団体のシンボルマーク「虹のひかりの法輪」</strong></span>
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これは、上記の天空曼荼羅「太陽の周りの虹のひかりの輪」が、天空に現された法則＝法輪であることを表すために作成したものであり、団体の輪の思想と、その発祥の経緯を象徴するマークである。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
３　天空曼荼羅・釈迦牟尼如来御尊像</strong></span>
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これは、ひかりの輪の祭壇中央に掲げている釈迦の生誕地ネパールで描かれた釈迦牟尼御尊像に、上記の天空曼荼羅をだぶらせた御尊像である。釈迦牟尼の背後に、太陽の光と、虹のひかりの輪があり、法輪を、胸の前の手に持っている。<br />
釈迦牟尼は、太陽族の末裔ともいわれ、この御尊像の釈迦牟尼を太陽に置き換えると、天空曼荼羅そのものになる。また、前に述べたとおり、釈迦牟尼は、虹が象徴する龍にも縁がある。そして、この御尊像は、釈迦牟尼を象徴するとともに、輪の法則を象徴し、それに合致する仏教の教え＝法輪を象徴する。
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<span style="font-size: medium"><strong>４　聖徳太子ゆかりの弥勒菩薩半跏思惟像（広隆寺）および、その御尊像</strong></span><br />
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これは、三仏の教えの体現（＝大黒柱）を象徴する霊像と見なしている。言い換えると、自と他、善人と悪人、楽と苦の区別を超えた、無限の宇宙に広がった神聖な智慧と広大無辺の慈悲の心・空間を象徴するものである。<br />
また、この仏像は、弥勒菩薩に限らず、釈迦・弥勒・観音の三仏すべての象徴である。この仏像は、聖徳太子が尊いとして祭るように命じた、太子ゆかりの仏像であるが、太子は日本仏教の父として、日本の釈迦、日本の観音様とされている。
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<br />
<span style="font-size: medium"><strong>５　聖徳太子の本体とされる如意輪観音像</strong></span>
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ひかりの輪と縁のある如意輪観音像は、せい青がん岸とじ渡寺の如意輪観音を第一として、太子ゆかりの飛鳥橘寺・斑鳩中宮寺・京都六角堂などの如意輪観音像がある。<br />
如意輪観音とは、如意宝珠と法輪を持つ観音様であり、いわば輪の仏である。そして、聖徳太子が、救世観音・如意輪観音の化身とされ、同時に、和と輪の教えを説かれていることは、興味深い一致である。<br />
如意輪観音は、現世幸福の仏である観音菩薩の典型である。如意宝珠は、この世の幸福の願いの成就のためであり、法輪は、煩悩を砕く仏法であり、悟りのためである。ただし、如意宝珠によるこの世の幸福は、欲楽を満たすものではなく、正しい願望のみをかなえるものである。<br />
そして、突き詰めれば、それは自分の心の浄化を願うことと切り離されるべきものではなく、言い換えれば、悟りに近づくことと、本当の意味でこの世の幸福を得ることが、本質的には一体であることがわかる。よって、如意宝珠と法輪も、本質的には一体の法具である。この点は、第七章で詳述する。<br />
なお、この如意輪観音の真言は、六字観音の六字真言と同じと解釈される。如意輪観音は、サンスクリット語で、チンター・マニ・チャクラであるが、六字真言では、それを略して、マニとしたと解釈される。<br />
最後に、弥勒菩薩半跏思惟像と如意輪観音像は、双方とも聖徳太子ゆかりの仏像であり、私の体験上は、弥勒菩薩半跏思惟像を祭る広隆寺と、太子の生誕地である如意輪観音を祭る飛鳥・橘寺は同じエネルギーラインであると思われる。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
６　ひかりの輪・神仏輪曼荼羅</strong></span>
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これは、三仏を含めたひかりの輪に縁の深い神仏を象徴する曼荼羅である。釈迦牟尼を中心に十二神仏、十三色身が輪になって配置される。これは、天空曼荼羅（太陽の周りの虹のひかりの輪）や、天空曼荼羅・釈迦牟尼御尊像とシンクロしたものである。<br />
そして、すべての神仏が別々ではなく、輪のように一体であることや、さらには、ひかりの輪の仏教体系が、インド仏教と日本仏教の融合であることを象徴している（向かって左側に日本仏教で篤く信仰されている諸仏が並び、右側にインド・チベット仏教で篤く信仰されている諸仏が並ぶ）。<br />
なお、諸仏の配置は、左右東西に、仏教の教義通りに、弥勒菩薩・薬師如来と観音菩薩と阿弥陀如来を対極に配置し、釈迦牟尼の上下に、大日如来と時輪尊を配置した。大日如来と時輪尊は、ひかりと輪の象徴であり、二つで「ひかりの輪」を現す。
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<br />
<span style="font-size: medium"><strong>７　ひかりの輪・神柱法輪</strong></span>
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この法具は、輪の思想の三次元的な表現である、車輪＝チャクラとしての輪を象徴しており、基本的には、ひかりの輪の総合的な世界観である二極一元論の思想を象徴するが、具体的には、下記のようなさまざまな一元法則を象徴する。
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<span style="font-size: small"><strong>（１）大乗仏教が説く智慧と方便と、両者の一体性を象徴する</strong></span>
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神柱法輪の中の、輪が、空の悟りである智慧（女性原理）を象徴し、柱が、智慧を得るための利他の（功徳を積む）手段である方便（男性原理）を象徴し、両者が一体であることを意味する。<br />
この両者が一体であるというのは、智慧が深まると方便の実践も容易になり、方便の実践を深めると智慧も深まるという循環があり、両者の同時一体の体得が仏陀の境地であるからである。<br />
この方便の基本的な修行法として、八正道をはじめとする七科三十七道品、三学や六つの完成といった修行法があり、その中には、仏・法・僧の三宝帰依がある。そして、この点に関連して、神柱法輪の柱は、精神的な成長のための修行の拠り所としての大黒柱をも象徴している。
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<span style="font-size: small"><strong>（２）男性原理と女性原理による世界の創造原理を象徴する</strong></span><br />
<br />
これは、ヒンドゥー・道教等に見られる思想であり、世界の万物は男性原理（陽）と女性原理（陰）の二極によって生まれたが、その両者は本質的に一体であるとする世界観である。智慧と方便と同様に、女性原理を輪で、男性原理を柱で表す。なお、縄文時代の環状列石も、ほぼ同じ形状であるから、この世界観の表れではないかと推察される。
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<span style="font-size: medium"><strong>（３）宇宙の全時空間と、その一体性を象徴する</strong></span>
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ビッグバンという一点から始まった原初の宇宙が、時とともに輪のように広がったことと、そのすべての一体性を象徴している。輪は、地の一体性（人と人）を象徴し、柱は、天と地の一体性を象徴し、輪と柱の合体が、この両者の一体性を象徴している。
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<br />
<span style="font-size: medium"><strong>８　ひかりの輪・結界四神柱</strong></span>
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この四本の柱は、ひかりの輪の修行法の四本柱、教学・功徳・行法・聖地を象徴している。なお、修行法とは、智慧と方便の中の方便に当たるから、神柱法輪と同様に、柱によって表されている。<br />
また、これは、「四方八方の世界が智慧と慈悲に満ちて幸福になるように」という願いが込められている（鎮護国家）。その神聖な願いの結果として、その内部に結界を構成するが、外敵の侵入を防止する拒絶的な性質・意図はない。<br />
また、上記７の神柱法輪の一本の柱と、この結界の四本の神柱の関係は、密教の五仏と似て、結界の四つの柱を集大成したものが、神柱法輪の一本の柱であり、同時に、帰依の対象である神仏・三宝を示している。
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<span style="font-size: large"><strong>第八章　正しい神仏への祈願、聖徳太子・如意輪観音を象徴として</strong></span>
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<span style="font-size: medium"><strong>１　勝利による幸福の裏側の苦しみと、仏教が説く真の幸福</strong></span>
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仏教は、仏の悟りを得ることが真の幸福の道であると説く。その悟りとは、単に自分だけの幸福ではなく、すべての衆生の幸福のために自己の悟りを求めることから生じる。<br />
より正確にいえば、自分と他人の幸福・不幸の区別をせず、すべての生きものに幸福を与え、その苦しみを取り除くところに、真の幸福があると説く。言い換えると、自分と他人を区別して、自分だけの幸福を求める我欲という心の病こそ、人のさまざまな苦しみの根本原因である、というものである。<br />
なお、すべての衆生の幸福のために自己の悟りを求める心を「菩提心」といい、求めることを決意することを「菩提心をおこ発す」と呼んで、ほつ発ぼだい菩提しん心という。また、他に幸福を与え、苦しみを取り除く心を「慈悲」という。そして、すべての衆生にそうすることを「大慈悲」という。<br />
その意味で、仏教は、個人主義・金銭主義・物質主義・競争原理が強い現代社会において、多くの人が一般に求める幸福とは異なった幸福感を持っている。現代社会における一般的な幸福感が、お金や異性・地位・名誉を含め、自分が他に優位に立って得る幸福、すなわち、勝利による幸福だとすれば、仏教が説く幸福は、他を愛して助けることによる幸福である。<br />
仏教が前者を基本的に否定するのは、その欲望追求は際限がなくて、満ち足りることがなく、求めても得られない苦しみや、得たものを失う苦しみ、奪い合いの苦しみなどを含めて、その幸福の裏側に、とらわれによるさまざまな苦しみが生じ、結局は苦しみに帰結するということである。そして、人生の後半、老い病み死ぬ中で、人は誰しも勝ち組から負け組になっていく。こういった意味で、勝利による幸福は、人生後半は尻すぼみである。<br />
一方、他を愛して助ける幸福、すなわち、他の苦しみを取り除く、他の幸福を助けて喜ぶことによる幸福は、勝利による幸福のような興奮はないが、落ち着いた温かい大きな心を形成していく。また、その裏側に苦しみが生じることはなく、逆に、我欲のとらわれが弱まるから、苦しみに対して、より強くなるのである。
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<br />
<span style="font-size: medium"><strong>２　仏教が認めるこの世の幸福や自分の幸福</strong></span>
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しかしながら、仏教は、菩提心や大慈悲のみを求め、自分の幸福を求めてはならないとはしていない。というのは、実際に菩提心や大慈悲を得るためには、その手段として、早死にしないことを含め、一定の自分の現世における幸福は必要であるし、他人を悟りに導くためには、自分の悟りが必要である。<br />
よって、仏教は、修行によって求める幸福について、①現世の幸福、②自己の悟り、③すべての衆生の救済（発菩提心・大慈悲）という三つがあるとして、修行の動機としては、すべての衆生の救済が一番高度なものではあるが、現世の幸福や自己の悟りも、すべての衆生の救済と別ものではなく、不可分の部分があるから、認めているのである。<br />
ただし、それは、すべての衆生の救済・幸福に繋がる形で自己の悟りを求めるとか、すべての衆生の救済と自己の悟りに繋がる形で現世の幸福を得る、ということでなければ、現世の幸福を得ても、その裏側にはさまざまな苦しみが生じるとする（また、自己だけの悟りでは、悟りはいずれ崩れていく）。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
３　当面の方便として、現世の幸福をかなえる観音菩薩</strong></span>
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悟りに導くだけでなく、現世の幸福をかなえるがゆえに、万能の救済者として、絶大な信仰を集めたのが観音菩薩である。しかし、この観音菩薩による願望成就の御利益も、最終的には悟りに到るための当面の方便という位置づけである。<br />
仮に、他の仏と違って、観音菩薩だけは、自分が信じる人間であれば、その欲楽を満たしたいだけ満たしてやるとしたら、その人間は堕落し、長期的には苦しむのであるから、それは仏ではなく、悪魔である。<br />
よって、観音菩薩に願望成就を祈願する側も、それが正しい願望であるかどうかはよく考えなければならない。仏の立場に立てば、「自分（だけ）が勝ちたい、自分（だけ）が金持ちになりたい」という願いは、仏に対して、「他の人を不幸にしても自分を幸福にしてくれ」と頼んでいるようなものだから、いかがなものであろうか。<br />
その場合は、少なくとも、自分が勝ったら、ないし、金持ちになったら、それによって、他の人々に、どんな恩返しをするのかという誓約がなければ、仏が特定の人間をえこひいきして、他の人間を苦しめることになる。そういった願いを仏がかなえるわけがない。<br />
また、百人が百人、「他に勝ちたい、他より金持ちになりたい」と願っても、皆が皆に勝つ、皆が皆より恵まれることは、現実としてあり得ないから、それは仏の法力をもっても、かなえられない。<br />
こうして、仏に誓願する際には、仏がかなえるわけがない願い、仏がかなえられない願いをかけてはならない。それはまったくの空回りである。しかし、そういった願いをかけることが多いのが我々人間であるから、よく自省するべきである。
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<span style="font-size: medium"><strong>４　正しい願いとは、貪りと怠惰を超えた願い</strong></span>
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では、正しい願いとは何かを考えてみよう。私は、その一つの表現として、貪りと怠惰のない願いということができるのではないかと思う。<br />
まず、貪りのない願いをするためには、願いをかける前に、足るを知る精神を持って、それが本当に自分にとって必要なものなのかを考えるべきであろう。というのは、自分が本当に必要とする以上のものを求める場合は、客観的に見れば、それは他から奪う行為となる場合がある。<br />
お金も仕事も名誉も地位も、多かれ少なかれ奪い合いの対象であり、それに対しては、分かち合いの精神を持って、願いも定めていく必要がある。とかく、人は貪り多く、施し少なく、感謝少なく、不満が多いものであるから、これを自問自答することは重要である。<br />
また、貪りとは逆の願いとして、利他の願いがある。自分の願いが他を利する面がどのくらいあるのかを考えるべきである。仏が望んでいることは、衆生が利他の精神に目覚めることにほかならず、利他の要素の多い願いをすることである。<br />
とはいっても、人の願いは、どうしても自分のための部分があるから、それを踏まえて、その願いに利他の部分をなるべく多く含めるように心がけるというのが、現実としてできることかもしれない。「自分がこうしてもらったら、それによって他にこうします」という誓願をするとか、自分と他人の双方の、ためになることを願うといった具合にである。<br />
良い例かどうかはわからないが、聖徳太子が一つのテーマになっているので、太子の例を出すと、仏教を排除しようとする物部氏と、太子が蘇我氏と連合して戦わなければならなかったときに、仏教の神である四天王に戦勝祈願をする際に、太子は、勝利を与えられれば、必ずや仏教を振興することを誓ったという。<br />
良い例かわからないと述べたのは、戦いに勝つということは、他の生命を奪うということであるからだが、当時はまだ若年の太子としては、現実に、戦いがやむを得なかったのであろうし、そういった場合において、その後に不殺生・非暴力を教える仏教を広めることを誓うことは、一種の贖罪を兼ねた利他行だったとも思われる。<br />
さて、次に怠惰を超えた願いである。人は、よく考えれば、自分が努力して達成すべきことを、十分な努力なく、神仏に祈る場合もある。しかし、智慧と慈悲の神仏は、衆生が努力なく幸福になって、その怠惰で堕落することを望んではいない。<br />
そして、実際この世の中で誰かが楽して幸福になるということは、他人がその負担を背負うことになる（仏が他人にその負担を背負わせることになる）。皆が楽して幸福になりたいが、実際には、皆が楽したら誰も幸福になれないのがこの世の構造である。よって、自分が神仏に祈願するうえで十分に努力しながら、そうしているかは考える必要がある。言い換えれば、人事を尽くして天命を待つ心構えであろう。<br />
とはいえ、無理に焦る必要はないし、実際に、それはできないだろう。神仏は慈悲深いから、私たちの努力には限界があり、私たちが怠惰であることもよくご存じでありながら、そういった私たちを見捨てることはない。<br />
よって、自分なりの努力を尽くし、自分なりに怠惰を超える努力をすればよい。言い換えれば、今までよりも一歩二歩でもいいから努力を深め、今までより一歩でも二歩でもいいから怠惰をなくすという心構えを持ち、それを継続していくことである。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
５　現世の幸福と悟りの願いを一体化させること</strong></span>
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<p>
こうして神仏への正しい願いについて考えていくと、現世の幸福の祈願と悟りの祈願は、じつは不離一体であることがわかってくる。それを一言でいうと、仏道修行者に限らず、実業から武術まで、古今東西のさまざまな分野の達人が言うとおり、無心・無我の境地こそ、願望を成就するうえで最善の境地であるということである。<br />
何かを得ようとする場合、それにとらわれすぎると、逆に得ることはできず空回りばかりして、あたかもその欲を超えた無心・無我の境地こそが、最もよく目的を達成することができる精神状態を形成するというものである。<br />
例えば、仮に、何かの幸福が欲しいとしても、絶えずそれを求めてガツガツしていては、そういった人からは、良い縁も逃げていく。逆に、笑う門には福来たるというように、明るい心の持ち主には、向こうの方から福がやってくるという現象が起こる。<br />
幸福は、自分の力だけでなく、他の人との縁が与えられる中で、貪りの強い人は、類は友を呼ぶ法則に従って、同じような人と縁ができて、奪い合い・騙し合いが起こりやすくなる。逆に、貪り少なく施し多い人には、同じような人と縁ができて、お互いに助けあい、恵まれることになる。また、そういった落ち着いた明るい人には、幸福を得るひらめき・インスピレーションも生じやすい。<br />
だとすると、幸福を得たいならば、幸福が欲しいとばかり貪り求めるのではなく、逆に、そういった貪りから自分の心が解放されるように神仏に祈り、本当に必要な場合に限って、必要な幸福について、しっかりとお願いするべきだということになる。そして、そういったお願いは、多分に他のためになるお願いであろう。
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もう少し具体的にいえば、<br />
①まず、今与えられている幸福の大きさに気づいて、それを与えてくださったとして、神仏に感謝の祈りを捧げて、<br />
②今後も貪りから自分の心が解放されるようにと、自分でそのように努めることを神仏に誓うとともに、そうなるような守護・お導きを神仏に願う（これは誓いと願いの双方を含むから誓願と呼ぶことができるだろう）、<br />
③本当に必要な場合に限って、それが与えられるようにお願いするのである。
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これによって、貪りと怠惰を超えた願いとなる。①と②の③の実践は、いずれも貪りを超えるためであることは、説明しなくてもわかるだろう。怠惰を超える点については、②で、自分の（貪りなどの）心の浄化に励む努力を決意することと、③で、神仏に依存する場合を最小限にすることで、怠惰を超える効果がある。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
６　如意宝珠と法輪を併せ持つ、如意輪観音菩薩への誓願</strong></span>
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こうして、現世の幸福と心の浄化＝悟りは、本質的に繋がっている。その意味で、現世の幸福をかなえる仏の法力を象徴する「如意宝珠」と、煩悩を砕いて悟りを得ることを象徴する「法輪」を併せ持つ如意輪観音は、まさに、現世と悟りの幸福を一つにした、真に正しい祈りをなすにふさわしい仏ではないかと思われる。<br />
よって、如意宝珠と法輪を一つにして、如意輪となる。それが観音菩薩への正しい誓願・祈願のあり方の象徴ではないかと思うのである。
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<span style="font-size: medium"><strong>◆巻末特別資料　上祐史浩・仏法日記エッセイ</strong></span>
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<span style="font-size: small"><strong>１　競争社会を愛で生きる</strong></span>
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<p>
現代社会は競争社会の様相がますます濃くなっていますが、一見して弱肉強食の論理が強いように見えるこの社会でどのようにして、仏教が説くすべての人々への愛を保って生きることができるかについて考えてみたいと思います。<br />
まず、資本主義に見られる競争の本来の目的は、すべての人に平等の価値があることを否定したり、勝つ人＝幸福になる人＝価値のある人と、負ける人＝不幸になる人＝価値のない人、を選別したり、より分けたりするためのものではないと思います。<br />
それは、互いに切磋琢磨して全体がレベルアップするための手段であって、例えば経済競争は、確かに貧富の差を作るけれども、しかし、経済競争がない場合と比べると全体が豊かになるがゆえに肯定されるものだと思います。<br />
スポーツの場合などは、これがよりわかりやすい事例であり、競争がない場合より競争があった方が、切磋琢磨によって技能が上がることは明白だと思います。<br />
こうして競争は、本来お互いを高め合い、全体を幸福にするための手段、すなわち全体への愛・慈悲の手段として位置づけるべきだと思います。しかしながら、競争の中で、勝者だけを肯定し価値を認め、敗者を否定し価値を認めない、という風潮があるように思います。周囲がそうしてしまうこともあるし、自分でそう思いこんでしまう場合もあります。<br />
しかし、当たり前のことをいうようですが、勝者は敗者がいてこそ勝者であり、敗者は勝者がいてこそ敗者であって、お互いが相互に依存し合って存在していることは間違いありません。この、事物が相互に依存しあって存在することを、仏教では「縁起の法」といいます。<br />
勝者は、自分の力だけで勝者になったのではなく、敗者との切磋琢磨を含め、実に多くの人のおかげでそうなったのであり、全体と一体の中で勝者となったのですから、敗者を含めた全体に感謝すべきものだと思います。<br />
敗者も、競争の中の切磋琢磨でレベルアップするのは全体であって、その意味で勝者も敗者も本当は勝者であると考え、健全な自己の価値を見失わないように努めるべきだと思います。<br />
さらに、勝者が勝利は自分の力のみで達成したと考えるならば、それは事実に反した慢心であり、自分を支えた全体に対する感謝と慈しみがなければ、努力し続けることを忘れ、他からの協力が得られなくなり、未来の没落のおそれがあると思います。<br />
現在の日本の競争社会は、競争で負けた者が自己存在意義を失い、そのために競争に参加する活力のある人々が減っているのではないかという問題があります。<br />
鬱病、ひきこもり、その他。その原因は色々あるでしょうが、勝ち組は負け組の上に乗っていますから、負け組が壊れてしまって、競争自体が減少すれば、全体が地盤沈下してしまい、その上に乗っている勝ち組も沈下します。<br />
また、敗者や、下にある者は、柔軟な考え方によって、自分の価値を見いだすことができるし、将来の勝者になる道も開けてくると思います。例えば、敗者は、勝者と違って、自分の実体験から、同じ敗者・下の者の気持ちがわかり、彼らを労ることや手助けができる面があると思います。これは勝者も努力すればできますが、やはり実体験があるかないかは、大きな違いになると思います。<br />
仏教ではこれを大悲の実践といい、これは、他の苦しみを自己の苦しみとして悲しみ、それを取り除く実践です。自己の苦しみは、それを他の苦しみを取り除くことに活かしてこそ、取り除くことができるという教えがあります。<br />
また、敗者や下にある者は、自分が上に立って、自分が主導して物事を進めるのではなく、勝者・上にある者・自分より優れている者を活かしたり、支えたりして、幸福になる方法があると思います。<br />
仏教では、これを喜（随喜）の実践といい、他の功徳・才能・長所・幸福を自分のそれのように喜ぶ実践です。自分一人の喜びを喜びとするより、無数の他人の喜びを自分の喜びとした方が、他と奪い合うのではなく、膨大な喜びを得ることができるという視点があります。<br />
これらの実践は、努力する限りは、敗者・下の者に開かれた可能性であり、勝者・上の者は、不可能ではないが実践しにくいことです。その意味で、敗者・下の者が、①同じ敗者・下の者をいたわって支えること、また、②勝者・上の者を支える・活かすことは、敗者・下の者こそが得られる幸福であり、また、果たせる役割であると思います。こういったことに健全な自負心を持つべきではないかと思います。<br />
優れた他を活かすといいましたが、自分だけの力には限界があるため、他を活かせる人は、究極的な勝ち組になる可能性もあります。昭和期最大の実業家である松下幸之助は、学力がないから他から素直に学び、病弱で体力がないため他に頼む術を身につけ、貧しかったのでお金持ちの元に丁稚奉公に行き、商人の才を覚えたといいます。一般には負け組となる要素を逆転活用したということです。<br />
大乗仏教では、万人が平等に未来に仏陀になる可能性を有する存在として、平等に尊重する教えがあります。比較優劣の分別を越えた思想です。<br />
この教えをさらに解釈すると、人と人の間の違いは、本質的・絶対的な優劣・善悪ではなく、先ほどいったように、敗者・下の者こそが、勝者・上の者よりも、努力すれば、逆に優れている存在になる可能性がある分野があり、こうして劣・悪なるものの裏に優・善の可能性があって、逆に、優・善なるものの裏に劣・悪の可能性があるということだと思います。<br />
言い換えれば、一般には、あまりに一面的な価値観や、今現在の一時的な状態で、善悪・優劣を決めつけ思い込み、そのため他を見下したり、逆に自己嫌悪に陥ったりするということです。<br />
その逆に、真実は、勝者は敗者に、上は下に、敗者は勝者に、下は上に依存し、お互いが助け合って存在しており、言い換えると、全体は一体となって成立しており、その意味で、勝者と敗者、上と下は、それぞれに与えられた貴重な役割であって、両者の間に、本質的な価値の違いはないと考えることができると思います。
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<span style="font-size: small"><strong>２　妬みを超える　第一回</strong></span>
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今回は、仏陀の教えに基づいて、妬みの苦しみを超える考え方について書くことにしました。これは、自と他の比較をして優劣をつける習慣が強い現代の競争社会では、なおさら強くなるのが妬みの感情のように思います。以前に競争社会を愛で生きるという日記を書きましたが、それにも関連したテーマです。<br />
人は誰しも、自分より幸福そうな人を見て妬むということがあると思います。これについて深く考察してみると、それは、自分に与えられている幸福の道を見いだすことができないために、他人の庭を見ている状態だと思います。自分の道を歩むことに専念できている人は、あまり他に対する妬みはないように思います。<br />
自分の道を歩むことに専念できない理由の一つに、既存の幸福・成功のパターンの観念にとらわれて、自分独自の幸福・成功の道が見えない場合です。こういうのが幸福だ、成功だ、という常識、既存の観念、他人の事例などにとらわれてしまって、それとは違った自分なりの道が見えてこない。<br />
自分の幸福の道は、場合によっては、常識的には、自分の欠点・短所とされるものの裏側にあるかもしれません。競争社会では、他に勝つことによる幸福ばかり注目されますが、そうではなく、他の苦しみを取り除いたり、他を活かしたりすることによる幸福があります。<br />
この場合は、自分の欠点・短所が自分の幸福の源になり、勝ち組の人よりも、負け組の人の方が有利な一面があります。自分に色々欠点があったり、自分が負け組であったりする方が、同じような他の苦しみを理解しやすいし、また、優れた他人を活かすことによって幸福になる道に入りやすいからです。<br />
学力・体力・財力のなかった松下幸之助氏が、それを逆に活かして、他から謙虚に学び、体力のある他に頼む術を覚え、お金持ちの元に丁稚奉公に行って成功した例は以前にもお話ししました。これは、まさに欠点を長所に変えた例ですし、また、他を活かして幸福になった例だと思います。<br />
また、知り合いで、病名もつく精神的な不安定を抱えつつ、歌手をしている女性がいるのですが、その問題を共有する人たちのコミュニティをミクシィに開いて、自分の経験を活かして、参加者の手助けをしつつ、同時にその人脈の中から自分のＣＤを買ってもらっている（笑）というたくましい人がいました。自分の病気も仕事に活かした事例です。<br />
そういえば、最近話題になった、「ツレがうつになりまして」というマンガも、自分の家族の鬱を自分の仕事に活かした事例でしょうか。ただ、こういった事例も、他人をそっくりそのまま真似ることはできないのがみそで、精神問題のコミュも、鬱のマンガも、二番煎じは通用せず、欠点を長所にするためには、自分で何かを新たに発見する努力が必要です。<br />
しかし、妬みというのには、既存の幸福・成功のパターンにとらわれるという固定観念に加えて、もう一つの原因があります。そして、それは、今まさに出てきた努力の必要性に関することであり、要するに、妬みの背景に、じつは怠惰がある場合です。<br />
これは、楽して幸福になりたいと思っているために、自分なりに幸福になる道があっても、それに向かうことができず、そのために他がうらやましくばかり見えます。特に一見して楽に幸福になっている人を見ると、ひどく妬みますが、長期的には楽して幸福にはなれないのですから、妬むに値しない人を妬むことにもなります。<br />
こういった場合どうしたらいいか。まずは、楽して幸福にはなれないことを、色々学んだり、色々経験したりしながら理解する必要があります。しかし、こういった怠惰な人は、単に楽しては幸福になれないことを理解してないというよりは、努力するために必要な気力・心身のエネルギーが不足している場合も多いように思います。気持ちの浮き沈みが激しく継続的な努力ができません。<br />
では、必要な気力・心身のエネルギーを得る方法は何かというと、仏教の教えでいうところの功徳を積むことが、それに当たると思います。何が功徳かというと一概にいえませんが、一般にいう、良いことをすることです。<br />
良いことをすると、気持ちが明るく、軽く、温かくなり、悪いことをすると、気持ちが暗く、重たく、冷たくなるという経験則があるのはご存じの通りですが、これは、良いことがエネルギーを強め、悪いことがエネルギーを弱めることになる証明です。<br />
具体的にどんなことが良いかというと、仏教では、さまざまな施し・奉仕や戒律を守ることが説かれています。気力がなく、仕事につけず、お金がない人でも、できることが少なからずあります。何かの小さな奉仕もそうです。また、言葉による善行があります。他に感謝したり、良いところを褒めたり、悪口を慎むことなどです。<br />
次に、ヨーガの身体行法、すなわち、体操（体位法・アーサナ）や呼吸法（調気法・プラーナーヤーマ）は、物理的・霊的にエネルギーを強化する方法です。体内の気の流れをスムーズにして、大気中のプラーナ（生命エネルギー）を取り込んで、心身を強化・浄化します。基本的なものは簡単ですから、それを少しでもやるとよいと思います。<br />
身体行法と関連して、日々の体を作る食事も、エネルギーを高めるものと、そうでないものがあります。これは多分に個人差・民族差・地域差もありますが、一般的にいえば、消化が良く、温かいものは、心身のエネルギーを高める傾向があると思います。ただ、どんな食事が良いかを気にしすぎると、諸宗派や専門家にも見解に相違があり、混乱する可能性がありますので、ほどほどでよいと思います。<br />
また、エネルギーは環境と連動する一面があります。その意味で、部屋の掃除も、善行の一つです。部屋の気の流れを良くして幸福を呼び込む風水の思想では、整理整頓が第一だと聞いたことがあります。松下幸之助氏も仕事ができる社員は整理整頓ができることをあげています。精神的な安定や知的能力と連動しているようです。<br />
チベット仏教では、部屋を整理整頓して、祭壇を設置し、自宅を道場と見なすことを第一の基本修行としています。聖地での修行に効果があるのも同様で、人の内面と環境の連動性を示しています。ひかりの輪では、これらに加えて、伝統的なエネルギーツールである密教の法具や貴石、法具の奏でる聖音の活用を勧めています（詳しくは、http://www.joyus.jp/hikarinowa/shrine/）<br />
また、各地に道場を設けて、聖地と同じように神聖な空間を提供する努力をしています。<br />
また、環境の中で、決して忘れてはならず、多くの意味で最も重要なのは、どんな友人・知人を持つかです。釈迦牟尼は、良き友と交われと言い、出家修行者を初めとする仏教教団（サンガ）に帰依することを説きました。日頃から功徳の実践をし、エネルギーの高い環境を持ち、身体行法等の修行をしている人は、少なからず助けになると思います。<br />
さて、今日は、妬みという話で始まったにもかかわらず、途中から脱線してしまい、いかに努力するための気力・エネルギーを蓄えるかという話になってしまいました。次回は、再び、妬みを超える教えについて話題を戻したいと思います。その中では、妬みを超えた「無量の喜」という仏陀の心についても、お話ししたいと思います。それは、誰しもが願っていること、すなわち、この世界の一切の幸福を得るための教えでもあります。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>３　妬みを超える　第二回</strong></span>
</p>
<p>
妬みについて、それは、固定観念や怠惰によって、自分に与えられている自分なりの幸福への道を見いだしていないゆえに生じる感情ではないかという話を前回しました。<br />
今回は、より本質的なこととして、妬みというのは、仏のような長大な視点から見ると、他の幸福を自己の幸福とする過程にある心理現象ではないかという視点をお話しします。<br />
その前に、妬みを持たないためには、一般的な幸福の価値観にとらわれて、他に勝つことによって幸福になることばかり考えるのではなく、他の苦しみを取り除いたり、優れた他を活かしたりすることによって幸福になる道を考えて、自分なりの幸福への道を見つけるべきであるという話を思い出して下さい。<br />
これは、仏教では慈悲の心といわれ、仏陀の心といわれます。つまり、他の苦しみを自分の苦しみとして悲しみ、それを取り除く心は、「悲」の心といわれ、他の幸福を自分の幸福として喜ぶ心を「喜」の心といわれ、他に幸福を与えて慈しむ心を「慈」の心といいます。そして、人による分け隔てを捨てて、すべての人を平等に愛する心を「捨」といい、この四つを合わせて慈・悲・喜・捨の四無量心といって、これが仏の心とされています。なお、これをもう少し短く、慈悲の心、大慈悲の心というときもあります。<br />
例えば、自分が他に勝って幸福になるのではなく、自分が負け組の立場にあっても、その苦しみを活かして、同じように負け組の立場にある他の苦しみを理解し、それを取り除くことで、幸福になるのは、悲の心による幸福です。前回の日記に書いた自分の精神の問題を活かして、同じ悩みを持つ他を助けたのは、この実例です。<br />
また、例えば、自分が負け組であることにこだわらず、優れた他を活かして幸福になろうとしたならば、それは他の幸福を喜ぶという視点で喜の実践であり、また、その優れた他にさらに幸福を与えるという意味で慈の実践です。松下幸之助氏の実践はこの成功例ですね。<br />
ここから重要なのですが、仏陀の教えの中で、人の苦しみというのは、それを活かして他の苦しみを取り除いたときに、真に癒されるというのがあります。私は、これは絶妙の真理だと思います。苦しみは、それを嫌がるとますます大きくなる面があります。<br />
逆に、それを嫌がらず、同じような苦しみを持つ人の気持ちを理解し、いたわり合い、その苦しみを取り除くために活かすことで、和らいでいくと思います。すなわち、苦しみを人にとって最も重要な慈悲の心を培うための原動力として喜びに変えていくのです。<br />
ここでの重要な真理は、人の苦しみの本質・根本原因は、自と他の区別をすることである、ということです。自と他を区別し、自分の幸福ばかり考えていると、自分の欲楽のために、他と争うばかりで、苦しみが増大するが、自と他を区別しなければ、自分の苦しみも、他の苦しみを取り除く力となって、喜びに変わっていくというものです。<br />
これを突き詰めると、苦しみとは、人がエゴを乗り越えて、慈悲の心に到達していくために、神仏が与える試練・愛の鞭であるという思想も出てきます。<br />
さて、これを土台にして、妬みの心の乗り越え方を考えてみましょう。妬みは幸福そうな他を見た際に生じる苦しみです。これは、自と他を区別して、他と幸福を奪い合おうとすれば、他の幸福は自分の苦しみとなりますが、自と他を区別せずに、他の幸福を自分の幸福と考えれば、逆に喜びになります。すなわち、上記の喜の心の実践によって、妬みの苦しみは逆に喜びの源になっていくのです。<br />
この喜の実践のためには、私たちの真の幸福の道とは何かを熟考する必要があります。人は、どんなに頑張っても、他に打ち勝って、他から奪って、幸福を得ようとしても、限度があります。今まで人類史上、世界全体を支配した王も、世界全体を信者とした教祖もいません。<br />
しかし、人は何かを得ると、もっと欲しくなり、貪りには際限がありませんから、他から奪って幸福になる勝ち組による幸福を得ようとした場合、勝っても勝っても満足できるのは一時的であり、もっともっと勝ち組になろうとして、必ず、勝とうして勝てない苦しみ、勝ち得たものを失う苦しみ、他と奪い合う苦しみが増大していきます。<br />
こうして、他から幸福を奪って幸福になろうとする道＝煩悩を満たすことによる幸福は、満ち足りることがなく、際限のない貪りを招く中で、その裏側に、得られない苦、失う苦、奪い合う苦など、さまざまな苦しみを招くことになるというのが仏陀の教えです（仏教の専門用語では、人の経験するこの苦しみの分析が、私たちが知る「四苦八苦」という言葉の本来の意味としています）。<br />
一方、仮に、自と他を区別せずに、他の幸福を自己の幸福として喜ぶ、他を幸福にすることで自分が幸福になる訓練ができたならば、世界中の60億の人々の、すべての生き物の幸福が自分の幸福となることになります。富で言えば世界一の大富豪、権力で言えば米国の大統領、悟りでいえば仏陀やイエス、彼らの幸福・成功・才能の喜びが自分の喜びになることになります。<br />
これは膨大な幸福です。よって、先ほど、（四）無量心という言葉が出てきました。無量の喜びの心という意味です。言い換えると、世界の、宇宙のすべての幸福が自分の幸福となります。すべての幸福が自分のものになる、正確にいえば、他のものであると同時に、自分のものにもなるのです。<br />
そして、この「すべての幸福が自分のものに（も）なる」ということは、非常に重要なポイントだと思います。先ほど、人の貪りは際限がないといいました。貪りに際限がないということは、人は果てしなく幸福を求める本質があるといってもよいかもしれません。言い換えると、人は宇宙のすべての幸福を手に入れたいと潜在的に思っているのです。<br />
では、宇宙のすべての幸福を手に入れたいとして、その正しい道は何でしょうか。自と他を区別して、他と争って、他を支配し、自分が全宇宙の王・支配者となることでしょうか。それは、先ほども述べたように、不可能なことであり、妄想です。にもかかわらず、道理がわからないために、この過ちを犯しやすいのが人間というものだと思います。<br />
この過ちをなす者を仏教ではマーラ（悪魔）といいます。マーラは、人間の世界を含む欲六界の頂点にあって、それを支配しようとする欲望を持った存在ですが、自分の支配を脅かすように見える者を憎んで妨害しつつ、結局は老い病み死ぬことは避けられず、支配しきることができない中で、地獄に落ちて行くとされています。<br />
こうして、マーラといっても、仏陀から見ると、無智な存在にすぎません。そして、マーラというのが実在するかどうかは、信仰の問題となりますが、仏教の世界観は、人間の世界に投影されていると解釈できます。今崩壊しつつある中東の独裁者や、どこかの政治家の末路は、まさにマーラと似ているかもしれませんね。<br />
では、無智に基づくマーラの間違った道ではなく、宇宙のすべての幸福を手に入れるための正しい道とは何か。私は、それが仏陀の心だと思います。宇宙のすべての幸福を手に入れるためには、それを持つ他者から奪うのではなく、他者の幸福をそのままに自分の幸福・喜びとできるように、自分の心・意識を改革することである。これを悟ったのが仏陀だと思います。<br />
仏陀とマーラ。共に宇宙のすべての幸福を手に入れようとした点では違いがありません。しかし、一方は無智によって徒労の空回りの道、自分も他人も苦しむ道を選んだのがマーラ。そして、自分も他人も幸福になり、すべての人が宇宙のすべての幸福を手に入れる道を歩み、その道を説いたのが仏陀ということになると思います。<br />
よって、先ほどと同様に、妬みの苦しみも、人が、宇宙のすべての幸福を手に入れる上で、その間違った道から正しい道に導くために、神仏が与える愛の鞭・試練であると解釈することもできると思います。妬みの苦しみから、妬みを超えた、真の幸福の道を見いだす可能性があるからです。<br />
さて、実際に、妬みを超えて、他の幸福を自分の幸福と考え、感じることができるように、自分の意識・人格を改革することは容易ではないと思います。それは一朝一夕にできることではないと思います。宇宙のすべての幸福を手に入れることが一朝一夕になったら、その人は仏陀もイエスも超えた超救世主ですから、私も帰依したいくらいです（笑）。<br />
しかし、仏教は常に、仏陀の教えの実践は、焦らず弛まずコツコツと続けることで、徐々にではあるが確実に身についていくと説きます。ローマは1日にしてならず、急がば回れ。安かろう悪かろうであり、すぐ達成できるものには真の価値はありません。<br />
そして、具体的な修練の方法としては、第一に、こうした教えをよく学ぶこと、第二に、その道理・論理を鵜呑みにせずに、自分でよく検討し、心はその状態になりきれなくても、まずは頭ではしっかりと「これが真実の幸福の道だ」と納得すること、第三に、それを繰り返して修習する（＝瞑想する）ことで、実際に心を変えていくこととされています。<br />
これは基本的な教学・思索・瞑想による直接体験という三段階の智慧（智恵）のプロセスですが、これに加えて、密教・ヨーガの世界では、妬みを含めた煩悩を和らげるために役立つ方法として、例えば、１．体操や呼吸法といった身体行法、２．各種の観想・イメージングの瞑想法、そして、３．煩悩と密接に関連する体の中を流れるエネルギーを制御する霊的な修行法などを開発していきました。聖地の巡礼などの環境からのアプローチも、それらの努力の一部です。
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最後に今日の要点をまとめると、<br />
人の苦しみが本当に和らぐのは、それを、他の苦しみを取り除くために活かしたときであり、<br />
人が本当に幸福になるのは、他の幸福を自分の幸福としたときである、
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ということになると思います。
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<span style="font-size: small"><strong><br />
４　妬みを超える　第三回</strong></span>
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今回は、妬みを超えるために、まずできることは、自分が妬んでいる対象があっても、それは自分が思っているほどには幸福ではなく、逆に苦しみも多いのではないかということに気づくことであるというお話をします。<br />
仏陀の教えを学んで気づく重要な人の心の性質は、人の欲望には際限がないということで、何かを得たら、もっと欲しくなり、満ち足りることがなくなるからです。さらには、もっと得れば得るほど、失う可能性のあるものも多くなり、それを失う恐怖や、守るための苦痛＝奪い合う激しさも大きくなります。しかし、人は誰もが常に他に勝てるわけではないし、老・病・死という敵には勝てず、結局はすべてを失うことになります。<br />
すると、自分が妬んでいる人、自分がその人に取って代わりたいと思っている人、その人がいると自分が幸福になれないと思っている人がいたとして、仮に自分が、そういった人に取って代わったとしても、実際には自分は決して満ち足りることはなく、もっともっとという貪りの心は増大する中で、上には上が無限に存在するために、対象は変わっても、妬みがなくなることはなく、逆に、より多くのものを得た分だけ、苦しみ・苦労も増えてしまうことになるのではないでしょうか。<br />
この意味で、自分が妬んでいる人は、自分よりさして幸福ではないし、むしろ、自分より苦が大きい部分もあり、これを言い換えるならば、慈悲の心がなく、単に他に勝つだけ、他に優位に立つことができても、できない場合と比較して、その幸福に大きな違いはないのではないか、ということがわかります。<br />
慈悲なき人の幸福に大差なし、仏の手のひらでドングリの背比べです。よって、真の幸福は、この道理を理解して、他の幸福を妬むのではなくて、他の幸福を自己の幸福として喜んで、それを助けることにあるという気づき・目覚めが必要であると思います、仏陀の教えでは、他に幸福・楽を与えることを慈の心といいます。また、他の幸福を自己の幸福のように喜びとすることを喜の心といいます。こういった意識の改革こそが真の幸福の道と説かれます。<br />
この点をもう少し深めてみるために、すべての幸福を得るための二つの道という視点を考えてみたいと思います。人には際限のない貪りがあるといいましたが、それはある意味で、人が無限の幸福、すべての幸福を得たいという欲求があるとも表現できると思います。そして、すべての幸福を得るためには、二つの道があって、一つは仏の道であり、もう一つは仏教ではマーラ（悪魔）の道といわれるものです。<br />
仏の道は、すべての他人の幸福を自分の幸福と考える意識の改革＝悟りによって、すべての幸福を得ようとします。一方、マーラ（悪魔）の道は、すべての他人に打ち勝ち、すべての他人の上に立ち、すべての他人を支配して、すべての幸福を得ようとします。しかし、このマーラ・悪魔の道は、実際にはすべての幸福を得ることができる道ではありません。マーラの道は、実際には、無智であり、自滅する道とされるのです。<br />
実際に、この世界のすべてを支配した人はいません。イエスや仏陀も地球のすべてを信者にしたわけではなく、米国の大統領も同様です。地球でさえすべてを支配できないのですから、宇宙全体を支配することなど到底できません。<br />
さらには寿命には勝てません。マーラを含めたすべての生き物には寿命があり、老い衰えて、すべてを失い、死んだら、生前の悪行のために、地獄に落ちていくと説かれています。<br />
また、支配欲・妬みが強く、自分の権力・権益を脅かす存在を恐れ、妨害するとされています。イエスや仏陀が悟るときに、悪魔が妨害したのも、彼らの功徳が、自分を上回ることを恐れてだとか、自分の立場を脅かすと恐れてのことだとされています。結局はこの道は他と奪い合いですから、勝つこともあれば、負けることもあり、争っている中で、真に幸福になることはできないのが道理だと思います。<br />
そして、賢明なる皆さんもお気づきのように、この悪魔と仏は、すべての人の心の中に存在します。自分とは別な特別な存在としての悪魔や仏は、信じる人も信じない人もいる宗教的・霊的な存在となりますが、誰しもが持っている心の象徴・比喩としての仏と悪魔は、非常に重要な意味を持つのはおわかりになると思います。悪魔が一時的に他を支配しつつ、必ず没落・自滅に至るという運命は、最近の話では、中東の独裁者の末路を思わせます。<br />
こうしてみると、人間が無限の幸福、宇宙のすべての幸福を欲する本質があるとしても、それを得る唯一の正しい道は、すべての他者の幸福を自己の幸福ととらえなおして喜ぶことにあると思います。智慧ある仏は、他の幸福を自己の幸福となし、すべての幸福を得て、無智な悪魔は、他から幸福を奪ったり、他を支配したりすることで、幸福になると錯覚し、空しく没落していくということです。この意味で、真に幸福になるのは、他の幸福を自己の幸福として喜ぶことだという結論が得られると思います。<br />
さて、妬みを超えるための考え方をもう少し深めておきたいと思います。まず、妬みの対象には、この人がいなければ自分が幸福になれるのにという気持ちが起こっている場合がありますが、視点を変えれば、その人、そういった人たちに、自分がさまざまな恩恵を得ている面があるのが見つかるものではないでしょうか。<br />
例えば、競争において自分を負かした人でも、そういった優れた人がいてこそ、自分も切磋琢磨し、そうではない場合よりも、大きな努力することができます。逆に、仮に、自分のこれまでの人生で、自分より優れていて、妬ましい存在がいなかったならば、どうなっていたかと考えてみると、ある意味で恐ろしいもので、自分が世の中で一番であるかのような錯覚をして、マーラや独裁者のように、慢心に陥り、後に大きな不幸に陥るかもしれません。<br />
また、妬みの対象は、色々な面で、自分を含めた全体を支えている存在である可能性もあります。妬ましいのだが、いてもらわないと自分も困るし、自分がその人の替わりをやって、責任を背負うのは嫌だ・できないという場合もあります。これは甘えに他なりませんが、怠惰な人は妬みが多いということは前にも述べた通りで、こういったパターンが実際には多いと思います。これは自分の中の怠惰が妬みの対象を作り出しているともいうことができますから、なすべきことは努力であって、妬みの苦しみは、怠惰をしては幸福になれないことを戒め、努力を促す神仏のメッセージです。<br />
そして、妬ましい他者の成功・幸福・その他は、実際には、その人だけの力で得られたものではなく、自分もその一端に「貢献」している事実があります。実際、この世界で一人で生きていくことができる人や生命体は皆無であり、どんな人のどんな幸福・成功・長所・喜びも、すべて他者・万物に依存しています。その意味で、他者の幸福は自分に全く無縁のものではなく、どこかで自分がそれに貢献していることであり、本来ならば、同じ地球の一員として、彼の幸福・成功を自分の誉れとしてもよいのではないでしょうか。<br />
例えば、競争で自分が負けたとしても、勝った他人がなした達成は、自分との切磋琢磨の中で、皆で全体で達成したものです。負けた自分が勝った他人の達成に貢献していることは明らかです。このように考えて、妬むのではなく、彼らの幸福を、自分を含めた全体の努力の結果だと考えて、自分の喜びとするように努めることができないでしょうか。<br />
こうしてみると、妬みの対象は、怒りの対象と同様に、本来は感謝と分かち合いの対象にすべきものだと思います。<br />
悪行をなす人への怒りに対しては、その人を貴重な反面教師と見ることで、感謝の対象とすることができるように、妬みの対象の場合も、その人が実際には、さまざまな意味で自分の恩者・助力者であると気づけば、感謝の対象になります。<br />
そして、この感謝に基づいて、苦楽の分かち合いに進みます。他の悪行とそれによる苦しみが、自己の潜在的な悪行と苦しみであると考えて、それを取り除く手伝いをし、他人と自分の苦しみを同時に取り除くように努めます。自己の苦しみも取り除くものだという感謝を持って、他の苦しみを取り除くお手伝いをするのです。<br />
同様に、他の善行・成功・幸福についても、それが自分の善行・成功・幸福に繋がっているものだと気づいて、自分の喜びとします。そして、その他の幸福がさらに大きくなるように手助けし、自分と他人の双方の喜びを増大させるように努めます。自分の幸福も大きくするものだという感謝を持って、他の幸福の手助けをするのです。
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<span style="font-size: small"><strong>５　自と他の区別を超える仏陀の教え　第一回</strong></span>
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前回は、「人の苦しみが本当に和らぐのは、それを他の苦しみを取り除くために活かしたときであり、人が本当に幸福になるのは、他の幸福を自分の幸福としたときである」という、仏陀が説いた、慈悲による幸福の教えについて書きました。<br />
この教えは、世界が全体として幸福になる道理も示していると思います。一人の苦しみを二人で分かち合えば苦しみは半分に減り、一人の喜びを二人で分かち合えば喜びは二倍になる。その意味で、苦しみを60億の人間で分かち合えば、苦しみは限りなく少なくなり、喜びを60億で分かち合えば、喜びは限りなく大きくなる。<br />
仏教では、人間の世界よりもはるかに苦しみが少なく、幸福が大きい世界（欲天ではない高位の天界）があると説かれますが、その世界の住人は皆、互いへの慈悲が深いとされています。仏教的な考えでは、その世界の幸福・不幸は、その世界の住人の心の現れ・報いとされますから、この世界観は、実際にそういった高位の世界の存在が科学的には証明されてはいないといっても、慈悲こそが苦しみを取り除き、喜びを増大させる道理であることを示しているという意味で、十分価値のある話だと思います。<br />
ラクビーの有名な言葉にも、「一人がすべてのために、すべてが一人のために」という言葉がありますが、これも似たような考えだと思います。個々人がエゴを捨て全体に奉仕し、全体が一人一人を大切にするということでしょうか。<br />
さて、今日の本題としては、こうした自と他の区別を超えた慈悲による幸福を支える仏教的な世界観です。他の苦しみを自己の苦しみとし、他の喜びを自己の喜びとする幸福の思想の土台として、仏教にはそもそも、実際に、自と他の間には私たちが日常生活で考えているような区別・境界は実在しないと説きます。これは、幸福観の問題ではなく、実際に科学的・合理的な視点からも、自と他は繋がっており一体であると論じているのです。<br />
まず私たちの体ですが、分子生物学の発見では、体を構成する分子は数年ですべて外界のもの（他者のもの）と入れ替わってしまうことがわかっています。私たちには自分の体だけの分子などはないということになります。その中で、体は絶えず、その大きさ・形を変化させ続け、微小な受精卵から成人の体になっては、老いる中で縮小して、死んでは崩壊します。<br />
よって、分子生物学的な視点からいうと、「過去の自分と全く変わらない何かを維持している一人の私がいる」という観念＝「自己同一性」は、全く幻想であると主張する学者もいます。これは、仏教が、この世界では、私を含めたいかなるものも他から独立しておらず、相互に依存し合って存在し、固定した実体を持っていないと説くのと全くよく似ています。<br />
次に精神面ですが、思考や感情も、その土台となる言語や知識・情報は皆生まれてから他人から吸収したもので、自分だけのものはありませんし、今も他からさまざまな情報を吸収し続け、また、他人にも発信し続けており、自分と他人の間で絶えず情報を交換し合っています。そして、体と同様に、人の思考や感情は絶えず移り変わっており、一生全く同じ考えを持ち続ける人はいないですし、以前の自分の考えが他人のそれになり、またその逆もよく起こります。<br />
自分と他人を考察してみると、自分も他人も、社会・地球・宇宙全体に支えられて生まれ育ち死んでいきます。どんな人も自分自身で生まれることはできず、両親によって生まれ、両親からの遺伝子、その後の養育・教育・社会環境と密接不可分な存在です。<br />
その意味で、ある人が、どんな悪いことをしても、良いことをしても、それは、その人だけが原因となって生じたものではなく、落ち着いて考えれば、社会・地球・宇宙全体が作ったものだということがわかります。言い換えれば、社会・地球・宇宙全体が、その人のところで、その悪いこと良いことを現象化させたといってもよいのではないでしょうか。例えば、火山から出るマグマは、決して火山の下だけにあるものではなく、地球全体の地殻に広がっているのと同じようにです。<br />
その意味では、どんな人の悪いことも、良いことも、社会・地球・宇宙全体が共有する要素の現れだしたものであり、その人だけの欠点や長所、罪や功績ではないと思います。しかし、現代の社会では、この点が見過ごされがちで、悪いことが起こると、誰かだけの責任にして済ませ、良いことも、その人だけの功績とする傾向があります。<br />
すると、他人の悪行を見ては、自分がそれに関係・加担している一面があっても、それに気づかずに、安直に自分と区別して、軽蔑・嫌悪したり、怒りを発したりするということが起こります。また、他人の善行を見ては、それが自分も協力した結果だとは気づかずに、自分とは区別して考え、それを妬むことも起こります。<br />
その結果として、軽蔑や妬みだけでなく、自分と他人を区別して、自分は他人と違って駄目であるという卑屈、自分は他人と違って優れているという慢心が生じます。本来は、自分だけが駄目であることはなく、自分の欠点・問題は多くの他人が共有しているものですし、また、自分だけが優れているということはなく、自分の長所・功績は多くの人によって支えられたものですが、それに気づかないことになります。<br />
仮に、自と他の繋がりを意識するならば、他人の問題は自分にも潜在している問題であると考えて、他人を見下すのではなく、反面教師と見て内省し、他人の問題の解決を手伝うことで、自分の問題を未然に防ぐという智慧と慈悲が生まれます。また、自分の問題は、他も共有している問題だと認識して、卑屈ばかりに陥らず、自分の問題の解決に努力しつつ、それを他の問題の解決に活かすという智慧と慈悲が生じます。<br />
このことが前回の話と繋がってきます。前回は、自分の苦しみを本当に解消するのは、同じような苦しみを持つ他の苦しみを理解し、それを取り除く手伝いをするために活かすときであるという話をしましたが、まさに、これはどんな問題も、自と他の間で共有されている事実を土台にしています。<br />
すなわち、自と他が繋がっているから、他の苦しみを取り除くことが、自分の苦しみを取り除くことになるのです。突き詰めれば、自分と他人の苦しみを区別しない境地です。自他の区別を超えて、すべての衆生の苦しみを取り除かんとする仏陀は、そういった意味では、自分のすべての潜在的な苦しみを取り除くためにも、すべての衆生の苦しみを取り除こうとする、ということになります<br />
さて、これに関連して反面教師という視点について多少加えると、実際に私たちは他人の問題を見ては、自分は絶対にこういうことはしないようにしようと考えるときがあると思います。しかし、それは見方を変えれば、人というものは他の悪行を見て自分がそれを避ける力にしている面が多々あることを示しています。悪いことをした人が、他を害して苦しめ、批判・処罰されたり、本人がそれで自滅したりして苦しむ様を見て、それを教訓とすることは非常に多いと思います。<br />
そして、仮に自分の周囲にそういった反面教師が一切いなかったならばどうでしょう。そういう人が、何か悪に誘惑されたときには、反面教師がいた場合と比べて、それに打ち勝てる力が同じように持てるでしょうか。<br />
その意味で、反面教師が一切持てない境遇というのがあったら、それは恐ろしいことではないでしょうか。そして、こうしたことを突き詰めると、人というのは、他人の悪行を見て学ぶことで、ようやく、かろうじて、自分が悪を避けている部分がないだろうか、という視点も出てくるかと思います。<br />
こういった考察は、安直な自と他の区別から来る慢心・軽蔑・嫌悪・怒りを和らげ、謙虚さと努力という貴重な資質をもたらします。具体的には、他の苦しみを取り除くことが自己の苦しみを取り除くことであるという考えを深め、謙虚さと慈悲が一体化した心境をもたらすと思います。<br />
だいぶ長くなりましたので、今回はこの辺にして、次回、さらにこういった点の考察を深めたいと思います。
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<span style="font-size: small"><strong><br />
６　自と他の区別を超える仏陀の教え　第二回</strong></span>
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今回も引き続いて、慢心・卑屈・妬みといった、自と他を区別・比較するところから生じる心の問題について書きたいと思います。前回は、人は、悪いことをする他人を反面教師として、ようやくかろうじて自分が悪を回避している面が多々あって、それに気づけば、自分が善で、他人が悪といった、他を見下した心の働き（慢心）は超えられるのではないかということを最後に書きました。今回は、この点をさらに深めたいと思います。<br />
それは、悪いことをしている他を見たときに、多くの場合に怒りが生じますが、じつはそれは、その他人と自分が違うことを示しているのではなく、似ている要素があることを示しているということです。これは、カール・ユングという希代の心理学者が唱えた「影」の理論と呼ばれ、人は、自分が見たくない自分の暗部を他人に見ると強い怒りが生じるというものです。<br />
まず、人は、自分の暗部は、それを見たくないために、普段は忘却しており、潜在意識にあります。言い換えると、多くの人は、暗部がない仮面の自分を本当の自分だと思い込んで生きています（仮面人間）。自分を実際よりよく見たいというのは、自己愛に基づく虚栄心・反省・努力を怠る怠惰など色々な原因があると思いますが、比較優劣が強調される現代の社会で、特に自分を良い人だと思いたい欲求が強い面があるのでしょう。よって、ユングは現代人の心の危機として、この問題をとらえました。表層意識に良い自分、潜在意識に悪い自分がいて分裂しています。<br />
しかし、「類は友を呼ぶ」の経験則があるように、自分の周囲には、自分の暗部を共有している他人が現れます。そして、自分の暗部は見えなくても、他人の暗部はよく見えます。自分の問題は理解しにくいが、他人の問題はよくわかるものです。すると、普段から自分が見たくないと思っているものを他人に見るわけですから、その他人に強い嫌悪が生じます。これは、ある意味で、近親憎悪と呼んでもよいでしょう。嫌いな部分の自分と似ているから怒りが生じる状態です。<br />
仏陀の教えに基づいて考えると、悪いことをしている他人に対して生じるべき心の働きは、軽蔑や怒り・嫌悪ではなく、慈悲ということになります。この慈悲は、その他人の悪行と、その悪行による苦しみを他人事ではなく、自分の潜在的な悪行と苦しみととらえて、自分のものとして悲しみ、他人のそれを取り除くことによって、自分の潜在的なものも取り除くという智恵（智慧）に基づく心の働きであると私は考えています。<br />
そして、この軽蔑・怒り・嫌悪が生じる場合と、この慈悲が生じる場合を比べてみると、悪いことをしている人と、その人に慈悲が持てずに軽蔑・怒り・嫌悪が生じる人は、それほど大差がないのではないかという視点が出てきます。<br />
仏陀の教えでは、例えば、何かが本当に悪いことであると理解しているということは、それをなした本人も、それによって苦しむことを理解していなければなりません。いわゆる自業自得です。例えば、お金を盗んだ人は、違法な手段で得をしたずるい人なのではなく、本当には人を幸福にしないお金などにとらわれすぎて、その奴隷となった人であるという認識が必要です。<br />
しかし、単純に怒りが生じる場合は、お金を盗んだ人は、ずるく得をした人であり、それを処罰しなければ、逃げ得であって許せないという意識が根底にあるのではないでしょうか。その場合は、お金を盗んだ人も、それに怒っている人も、どちらもお金にとらわれているという点では、似た価値観を有していることになります。<br />
そして、仮に今怒っている人が、時と場合が変わって、自分が経済的な窮地に陥ったり、決して見つからない・処罰されない・皆がやっているから等と言葉巧みに誘惑されたりしたときには、同じような間違いをしてしまう可能性があるのではないでしょうか。逆にいえば、自分が軽蔑や怒りを持っている対象は、条件を変えたときの未来の自分を投影している可能性があります。<br />
さらにいえば、この金銭欲についていうと、悪人とされる人たちの悪い行為と、善人とされる人たちの行為が繋がっている場合があります。善人の行為が悪人の行為の原因の一部になっている場合です。例えば、この社会では、合法的にお金を儲けることは良いこととされ、それができる人は優れた人として評価されます。<br />
しかし、その合法的な経済活動の中では、さまざまな物欲や金銭欲を刺激する多大な宣伝等の活動がなされます。その宣伝によって欲望が増大するわけですが、世の中の一部には、心の弱い人がいて、そうして欲望が刺激されると、他の人と違って、悪い行動を抑制できない人たちがいます。<br />
例えば、性欲を刺激する情報が合法的に社会に波乱する中で、性犯罪が発生する構造は、この一例だと思います。実際には、多くの事業が、人の欲望を刺激する面がある中で、それが一部には害悪になっている場合は、多く存在すると思います。<br />
実際、良心的な事業家の場合は、自分がやっていることが一般では評価されていても、その中に何か他を害する部分、社会の悪に繋がっている部分があることを自覚しているのではないでしょうか。そして、多額の収益を上げている企業によく求められる社会貢献とか慈善活動などは、その罪を償う・相殺する意味でなされるべきものではないかと思います。<br />
これは、自己の悪人の部分を理解してこそ、それを相殺するために、善行に励む謙虚な心構えができるという教えです。わたしは、この考え方が好きで、神仏とその教えを語る宗教家は、慢心に陥りやすいことを自覚し、というよりは、基本的に慢心型の一面がある人格であることをよく自覚し、それが酷くなり過ぎないように努めつつ、その欠点を相殺するような他者への尊重と奉仕に励むべきだと思います（例えば人々を神仏の表れと見て奉仕するなど）。これは親鸞聖人の悪人正機の教えの一つの解釈でもあり、言い直せば、「自己が悪人であると自覚した者こそ正しい教え・仏の救いに巡り会う機会がある」というものです。<br />
この点に関連して、そもそも、自分が悪を回避しているのは、自分が偉いのではなく、たまたま自分がそういった条件に恵まれ、他人が条件に恵まれなかった部分があるのではないか、という視点を持つことも有益だと思います。仮に自分が悪いことをしている人と、似たような親・遺伝子、似たような養育・教育・社会環境に育ったとしたら、どうだろうかと考えてみることです。すると、その場合は、自分も同じようなことをする可能性があるのではという気持ちになれると思います。<br />
そう考えると、たまたま条件に恵まれていた自分が、条件に恵まれなかった他人を単純に軽蔑し見下したり、怒ったり嫌悪することは、ある意味で、慢心の一面があるということになります。そして、その慢心の問題は、その他人を反面教師として自分を内省・自戒をする機会を失うがために、未来において自と他の条件が変われば、自分が似た悪いことをしかねないということです。<br />
むしろ自分がなすべきは、条件が良かったことに感謝して、条件が悪かった他人を反面教師として内省のために活かして、さらには、その他人を悪行から救い出すことによって、自分自身の中にもある潜在的な悪行の可能性を事前に摘み取っておくことではないかと思います。<br />
ここで、他人をある問題から救えば、自分も同じ問題から救われるという視点が出てきます。例えば、何かの知識・技能のない他人に対して、それを教える立場にある人は、自分が教えることによって、自分自身が学ぶという経験をよくします。自分がわかっていると思っても、実際に教えてみるとわかっていないことも多く、教える中で気づくことも多いものです。同じように、他を何かの悪行とそれによる苦しみから救うことは、自分がその悪行のもたらす苦しみをよりよく理解し、それから脱却する道もよりよく理解することに繋がります。
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こうして、まとめてみると、
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１　悪行をなす他人を見たときに、単純に軽蔑したりするのは、自分と他人の真の関係を理解すれば、慢心の一面があるもので、それは、悪をなす他人と大差ない愚かさを自分も有している状態であり、
</p>
<p>
２　真に智恵（智慧）のある者になろうとするならば、謙虚さ（という最高の智慧）をもって、自と他に繋がりがあることを悟って、感謝の心を持ちながら、他を救うことで自己も同時に救う実践をするべきである、
</p>
<p>
ということになると思います。そして、この点にまさに、仏陀・菩薩と呼ばれる智慧ある人が、すべての衆生を救おうとする慈悲を持つ背景があると思います。自分と他人が繋がっている（大差がない）という智慧が自と他を一体として救おうという慈悲をもたらすということです。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>７　自と他の区別を超える仏陀の教え　第三回</strong></span>
</p>
<p>
前回は、主に、自と他を区別して他を見下す慢心と、それに連動する軽蔑・嫌悪・怒りという問題を取り上げました。そして、その答えとして、自と他の繋がりを見る謙虚な智慧と、それから来る感謝と慈悲について書きました。<br />
さて、ここで出てくる感謝というのは、慢心の強い人にも、卑屈・妬みの強い人にも、そのどちらも重要な実践だと思います。そして、感謝が深まると、自ずと恩返しの心が生じ、それが苦楽を分かち合う慈悲に繋がってきます。大乗仏教の教えでも、衆生済度に励む菩薩の修行をする人の動機はすべての衆生に対する感謝と恩返しなのです。<br />
ここで、感謝と恩返しがなく、他を救おうとする場合は、他人を救ってやるという傲慢な意識が背景にあります。しかし、真に他を救うことは自分を救うことでもあるという視点があると、感謝と慈悲は一体化します。自分と他人を同時に救うという智恵（智慧）が生じます。<br />
こうして、自と他を区別しない智慧から、感謝を伴う慈悲、自分の成長と一体となった利他の実践という概念が生じます。私も、説法会などでは、皆さんに教えについて語ることで、自分も皆さんから学ぶ、ないし皆さんと共に学ぶ＝教えを分かち合い温め合う、という心構えで望みたいと思っています。<br />
さて、慢心を乗り越えるために、自と他の区別をしないで、感謝をすることについて書いてきましたが、それをもう少し深めたいと思います。<br />
慢心に陥っている人は、自分の幸福・成功が、実際には、他に支えられている、全体に支えられているということが理解できないケースが多いと思います。そのため、今まで自分を支えていたものを徐々に失って、近い将来に没落するパターンを取ります。独裁者などの盛衰、勃興と没落は、このパターンだと思います。そして、これを乗り越えるのが、自分を支える多くの存在・全体への感謝の実践であることは明らかですね。<br />
最近、世の中では勝ち組と負け組というのがありますが、私は、勝ち組と負け組を二分化するのは慢心と卑屈をもたらすと考えています。勝ち組といっても、彼らは自分たちの力だけ成功したのではなく、全体に支えられていますし、負け組にさえ支えられています。<br />
実際に、勝ち組は負け組になった人たちを含めた他者との競争＝切磋琢磨によって、勝ち組の状態・立場に至っています。勉強でも、スポーツでも、企業の経済競争でも、他と切磋琢磨し競争することで、全体のレベルが引き上がり、その中で勝者と敗者に分かれるとしても、敗者なくして勝者なしが事実です。勝ち組とは、負け組を含めた全体の力で作り出した存在なのです。<br />
しかし、今の社会で心配なのは、勝ち組とされる人が、自分の力だけで勝ち組になったと錯覚し、また、周囲からもそのように位置づけられて称賛される中で、負け組を含めた全体からの支えへの感謝を見失い、本来感謝に基づいて恩返しするべき立場にあるにもかかわらず、慢心を抱いて、それをなさないために、没落してしまうことです。<br />
先ほども出ましたが、最近の中東などの独裁者の突然の没落は、これまでの成功に慢心を抱き、自分が全体に支えられていることを見失い、民衆への利益の還元を忘れて、権力や富を独占した結果だと思います。<br />
この慢心の問題は現代の社会を揺るがしていると思います。社会のエリート層がもたらしたバブルとその崩壊による世界規模の不況がありました。その中で、一時は時代の寵児ともてはやされたＩＴ事業家、ファンド事業家、銀行事業家などが、次々と逮捕されていきました。<br />
宗教界では、オウムこそが、一時的な成功による慢心がもたらした狂気でした。教団を聖とし、社会を邪として、世界を二分化する教義・物の考え方に、慢心が潜んでいました。実際には社会に支えられて教団が成立・成功していたのが実際なのに、その社会を否定・破壊して、理想の社会を作るという誇大妄想を抱いた結果、実際には、社会とともに、自らを破壊した形になりました。<br />
そのため、私はひかりの輪の教えを展開していく中で、いかにして慢心を超えるかについて考察する必要に迫られました。そもそも宗教は、神仏に近づくものであるという意味で、慢心に陥りやすい本質があることをよく自覚し、いかにその良さを残して、悪さを取り除くことができるかについて工夫する必要があると考えています。<br />
こうして、勝ち組・上に立つ立場の者にこそ、最初にお話しした、感謝と恩返し＝苦楽の分かち合い・慈悲の実践が必要であることがわかります。その実践こそが、他を利するだけでなく、他が支えている自分を支え続ける土台となります。ここでも、他を利すること＝自己を利することという、自と他を区別しない一元的な価値観が出てきます。<br />
さて、勝ち組の慢心ではなく、負け組の卑屈・妬みについても、じつは、感謝と分かち合い＝慈悲が必要だと私は思います。卑屈な人は、自分は駄目だと思っていますが、同時に感謝が少ない場合が多いと思います。<br />
しかし、実際には、人には上には上があり、下には下があり、上も下も際限がありません。つまり、自分が恵まれていない、負け組であるといっても、それは比較の問題であって、自分よりも下の人は無数にいます。この世界には60億の人間がいて、その全体から見ると日本人は全くの勝ち組です。健康長寿で、戦争もなく安全で、豊かな日本人は、途上国の人から見ると皆が王侯貴族に見えると聞いたことがあります。<br />
しかし、この日本で自殺者が年間数万人、鬱の人も100万もいて、自分が恵まれていない、負け組だと考えるのは、比較の対象が自分よりも上であるからであることは明らかでしょう。人はたいてい、自分に近い存在と自分を比べたり、少し前の自分と自分を比べたりして、比較によって、幸福や不幸を感じます。ですから、全体から見れば大変幸福な人も、比較の対象が自分よりも上ばかりであれば、卑屈や妬みばかりとなります。<br />
辞書を引くと、善い悪いとは、比較して優れている様、劣っている様と定義されています。つまり、善い悪いとか、幸福とか不幸とは、人の心の比較が作り出す実体のないものです。同じ外的な環境条件にあっても、幸福な人と不幸な人がいるのはこのためです。<br />
善いもの、優れたものも、それ以上に善いもの、優れたものに比べたら、悪いもの、劣ったものに感じられるのが、人間の生理的な感覚の不思議なところです。逆に、悪いもの、劣ったものも、比較の対象によっては、善いもの、優れたものに感じられるようになります。こうして、善悪・優劣から来る幸福・不幸には実体がありません。それは心が作り出すものです。<br />
私は、これが、仏教を含めたインド思想が説いた自業自得という教え、すなわち、自分の業＝行為が、自分の幸福・不幸を決めるという教えの真の意味だと思っています。<br />
では、どんな心が幸福を作り出し、どんな心が不幸を作り出すかというと、自分に与えられている幸福の大きさを考え、それに感謝する心が幸福感を作り出し、自分に与えられていない物ばかりを見て、不満を持つ心が不幸を作り出します。<br />
そして、不満を持ち、自分が不幸であると感じる人は、当然、卑屈＝自己嫌悪を抱き、同時に、そういう自分の状態を他人のせいにもすることが多く、他に対する不満・嫌悪も強くなります。こうして、卑屈＝自己嫌悪の強い人は、他への嫌悪も強く、自と他両方が嫌いになります。<br />
一方、自分が得ている幸福をよく見て、感謝の心が強い人は、その自分の幸福を支えている他への感謝の心も強くなり、こうして、自分と他人の双方を肯定的に見て、愛することができます。そして、感謝に基づく恩返しとして、他と苦楽を分かち合う、利他・慈悲の実践をする傾向が強まります。<br />
というのは、感謝の実践をすると、上ばかりを見ずに、下を含めたこの世界の全体をバランスよく見ることができるようになりますから、その結果として、自分よりも不幸な人が無数に存在する現実に気づくからです。その結果として、利他・慈悲の実践をする傾向が強まると、当然のこととして、多くの他から愛され、（神仏の祝福・守護も受けて）、さらに恵まれることになります。<br />
よって、卑屈・妬みが強い場合は、自分に与えられている幸福を見て感謝して、他と苦楽を分かち合う慈悲の実践をすることが重要だと思います。そして、この感謝と分かち合いは、先ほど述べたように、くしくも、慢心の強い人がなすべき実践と不思議にも同じなのです。その意味で、いかに感謝と分かち合い・慈悲が、大切かがわかります。<br />
なお、ここで、自己の現状に不満を抱くのがいけないといっても、それが、自分をさらなる努力に駆り立てて、自身への叱咤の手段となっている場合は、問題はあまりないと思います。しかし、最近のケースは、感謝が少なく、不満が多い結果として、ひどく卑屈・自己嫌悪に陥って、努力をしない、あきらめてしまうケースが多いというのが問題ですね。<br />
この背景に、前の日記にも書きましたが、単に卑屈・妬み深いのではなく、努力せずに楽して幸福になりたいという怠惰が潜んでいる場合もあると思います。その場合は、根本原因は卑屈ではなく、怠惰です。人によっては、自分は（努力しても）駄目だと自ら思い込むことで、さらなる努力をしないことを正当化するケースもあると思います。これは卑屈で怠惰を正当化している状態で、努力したくない怠惰が、努力しても無駄という卑屈を口実として利用している状態です。<br />
こういった場合は、怠惰自体を解決しなくてはならないと思いますが、それは以前の日記に書いたとおり、楽しては幸福になれない道理を理解しつつ、怠惰の背景にある心身のエネルギーの不足を段階的に解消する必要があると思います。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【仏教講義】2011年　夏期セミナー特別教本『輪の思想と新しい宗教の信仰のあり方』</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/lecturetext/012010/00392011.html" />
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   <published>2011-10-20T11:26:29Z</published>
   <updated>2012-01-11T04:27:04Z</updated>
   
   <summary> 2011年夏に行われた夏期セミナーの特別教本です。 セミナーでは、各章ごとに、...</summary>
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         <category term="【動画あり】21世紀のための仏教講義" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/lecturetext/">
      <![CDATA[<p>
<span style="font-size: small">2011年夏に行われた夏期セミナーの特別教本です。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small">セミナーでは、各章ごとに、全7回の上祐史浩による教本解説の講義が行われ、すべてＵstreamでネット生中継されましたので、動画をご覧いただきながら、教本を読み進めていただくことができます。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><br />
<strong>◎動画の内容（全７回）</strong></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>第1回　『輪の思想とその歴史』<br />
&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;
『上祐代表・ひかりの輪の聖地巡礼の体験 』<br />
</strong></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>第2回　『２１世紀のための新しい宗教の信仰のあり方』<br />
&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;
『自分の中の神＝仏性・神性とは 』<br />
</strong></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>第3回　『仏陀の智慧による新しい幸福の発見法』<br />
&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;
『未来に争い求める幸福と、今に気づき与える幸福 』<br />
</strong></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>第4回　『釈迦牟尼の智恵から学ぶ真の幸福の道』<br />
&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;
『観音菩薩の教えから学ぶ幸福の道』<br />
</strong></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>第5回　『日本人の精神性・宗教性の素晴らしさ』<br />
&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;
『正しい願望をかなえる如意宝珠の教え』<br />
</strong></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>第6回　『仏陀の智恵で説く、今後の日本のあり方・ヴィジョン』<br />
&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;
『幸福をもたらす功徳とカルマの教え』<br />
</strong></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>第7回　『詳説：聖地とは何か？』</strong></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><a href="http://www.joyus.jp/movie/00200911/00151620_2010_6.html">＞＞動画は、こちらでご覧になれます。</a></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>2011年　夏期セミナー特別教本『輪の思想と新しい宗教の信仰のあり方』&nbsp;</strong></span>
</p>
<p>
<strong><span style="font-size: large">第一章　輪の思想の歴史と輪の法則の概説</span></strong>
</p>
<p>
&nbsp;<br />
<img src="/mt/uploads_files/images/2011kyouzai/2011kaki.jpg" alt=" " hspace="8" vspace="8" width="150" height="200" align="left" />
&nbsp;&nbsp;
ここでは、これまでも解説してきた輪の思想（一元思想）とその歴史、及び、それに基づいて、ひかりの輪が説いている各種の輪の法則（一元の法則）についてまとめておく。
</p>
<p>
<br />
<strong><span style="font-size: medium">１．輪の思想の発祥と歴史：人類普遍の思想</span></strong>
</p>
<p>
&nbsp;<strong><span style="font-size: small">（１）縄文時代の輪の思想から聖徳太子まで</span></strong>
</p>
<p>
&nbsp;
輪の思想とは、文字通り、万物が輪のように一体であるという意味である。
</p>
]]>
      <![CDATA[<p>
言い換えると、一元思想ということができる。 この輪の思想は、縄文以来の日本の文化であり、また、人類の普遍的な思想であると思われる。<br />
縄文時代は、人々は家を輪のように形成し（環状集落）、学者の研究によると、上下身分の区別がなく、万人平等主義だったといわれている。また、石を丸く並べた環状列石（ストーンサークル）と呼ばれる宗教施設を作り、万物に精霊が宿ると信じる精霊信仰があったとされる。<br />
この縄文の輪の思想は、それ以降も日本文化の中核となった。有名な聖徳太子の十七条憲法で、「和を持って尊しとなす」（第一条）、「人は皆、賢くもあれば愚かでもある、それは端のない輪のようなものだ」（第十条）とされ、万人を平等に見る輪の人間観に基づき、調和を重んじる和の文化が形成された（輪と和の思想）。<br />
また、日本は自分たちの国を、倭国、倭人、和、大和と呼び、一人称も私・我など、ワと発音する言葉を用いるが、その源は（縄文時代の）輪・環であるという学者の見解がある。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（２）仏教の輪の思想</strong></span>
</p>
<p>
さて、聖徳太子の時代の前後に日本に導入された仏教も、本質的に輪の思想である。仏陀の説いた中核の思想も、万物が相互依存して一体となって存在しているとする縁起の法である。また、象徴としても、仏陀の説法を法輪（ダルマチァクラ・法の車輪）と呼び、最初の説法は初転法輪と呼ぶ。<br />
また、生き物が高い世界から低い世界までをグルグルと転生するという六道輪廻の思想や、インド仏教最後の経典である時輪経典（カーラチァクラ経典）が宇宙の根本原理を「時の輪」（周期的な運動）とする思想も同様である。<br />
さらに、密教が真理・悟り・宇宙の象徴とする曼荼羅（マンダラ）も、原意は円という意味であり、禅にも同じような象徴として円相（一筆書きで円を描いたもの）がある。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>（３）道教の思想</strong></span>
</p>
<p>
仏教と並んで日本文化に影響を与えた道教の思想も、基本的に輪の思想ということができる。道教は、世界は陰と陽によって現れているとするが、両者とも太極から生じたとする一元思想であり、さらに陰と陽は互いに転化し循環しているとする。この原理を表す（陰陽）太極図というものは円の形をしている。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（４）近代心理学の研究</strong></span>
</p>
<p>
近代の心理学者カール・ユングは、自分や自分の患者の体験から、円状・輪状の図形に人の精神を癒す効果を見出した（日本人も「手のひらに円を描いて飲み込め」というように同じ経験則がある）。彼は、その後、仏教の曼荼羅に巡りあい、自分の体験と曼荼羅の思想が一致していると感じた。<br />
そして、世界の諸宗教・諸文化を研究し、それらに共通する輪の形のシンボルがあることを見出した。仏教や道教に限らず、キリスト教などにも、イエスの背景に輪の形の図がよく描かれる。神道では鏡などが輪状である。さらに、石器時代に遡っては、太陽の車輪と呼ばれる図形が見られるという。<br />
こうして、輪・円は、人類普遍のシンボルであることが発見された。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（５）車輪としての輪</strong></span>
</p>
<p>
さて、これまで輪と表現してきたが、この輪という言葉には、円・丸いという意味と、車輪という意味がある。法輪も法の車輪という意味である。<br />
そして、私の見解では、円に加えて、この車輪の形も、人類にとって本質的・根本的なシンボルだと思う。車輪は、棒状の軸＝柱と輪の合体であり、それが形状として男性性器と女性性器の合体を象徴する。<br />
実際に、縄文の環状列石・ストーンサークルは、石を丸く並べつつ、その中心に柱が立っており、男性原理と女性原理の象徴とされる。同様に、ヒンドゥーの崇拝対象のヨニとリンガも、柱と輪であり、同じく男性原理と女性原理の象徴である。また、仏教・密教で仏陀の象徴とされる金剛杵と金剛鈴も、男性原理（方便）と女性原理（智慧）の象徴とされるが、柱と輪という同じ形状をしている。<br />
そして、柱と輪の合体は、男性原理と女性原理の統合を意味し、それが生命・宇宙の誕生・創造から、悟りの実現（両原理の合体による人格の完成）までを象徴する。<br />
この男性原理と女性原理の統合・調和を重視する思想は、道教にも見られ、陰と陽がそれぞれ女性原理・男性原理である。また、ユング心理学でも、女性原理・男性原理の統合、無意識と意識の統合が人格の完成と位置づける思想がある。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>２．ひかりの輪の説く輪の法則：三世と三乗と三性</strong></span>
</p>
<p>
さて、ひかりの輪は、上記のさまざまな輪の系統の思想・宗教を研究し、そのエッセンスを現代社会に生きる人たちにとって、その日常の苦しみを和らげ、さらには悟りの境地に近づくために役立つように表現した。<br />
それは、輪の思想（一元思想）としては、上記の各宗教・思想が説く主立った一元思想をすべて含んだ総合的なものである。また、現代人にとって容易に理解できて、有益であるように、現代的・革新的な表現に再生されたものと自負している。<br />
その詳細については、これまでの特別教本（『現代人のための一元の法則』『一元の法則とその悟りの道程、金剛薩?の内省修行』『三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜　21世紀の宗教の革新』『ひかりの輪と日本と「輪の思想」』等）を参照されたい。
</p>
<p>
まず、ひかりの輪の「輪の法則（一元法則）」の概略を述べると、以下の三つに分類することができる。
</p>
<p>
１．三世の仏陀の法則：釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩の教え<br />
教えの要点：万物が恩恵（感謝）、平等、一体である。
</p>
<p>
２．三乗の仏陀の法則：小乗・大乗・金剛乗の教え<br />
教えの要点：万物が相互依存し、同根で、循環している。
</p>
<p>
３．車輪の法則：男性・女性・中性原理の思想<br />
男性原理と女性原理の統合・調和が、生命・宇宙・悟りを生み出す。
</p>
<p>
それでは、以下にそれぞれの教えの概略を述べたい。その詳細は、この特別教本の第三章や、他の特別教本に詳しく述べているので、それを参照されたい。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（１）三世の仏陀の法則（三仏の一元法則）：釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩</strong></span>
</p>
<p>
三世の仏陀の法則とは、釈迦牟尼（過去の仏陀）、観音菩薩（現在の仏陀）、弥勒菩薩（未来の仏陀）を象徴とした、三つの法則である。この三つとも、万物は輪のように一体であると説く一元の法則である。よって、三仏の一元法則と呼ぶ場合もある。その概略は以下の通りである。
</p>
<p>
①釈迦牟尼の法則：万物に感謝：知足と慈悲
</p>
<p>
苦と楽は、輪のように一体で表裏であり、<br />
欲楽を貪らず（少欲知足）、苦の裏の幸福を見出し、<br />
万人・万物に感謝し、恩返しとして、<br />
万人・万物に、苦楽の分かち合い・大慈悲の実践をする。<br />
知足と慈悲、感謝と分かち合いの教え。
</p>
<p>
②観音菩薩の法則：万物は平等：ぶつ仏も母・慈母の教え
</p>
<p>
人は、善と悪、優と劣に二分化すべきものではなく、<br />
長期的・多面的な視点からは、善悪・優劣とされるものも、<br />
輪のように一体で表裏であるから、よって、<br />
万人・万物を平等な価値を持つものと尊重し慈しむ。<br />
仏教的にいえば、万人・万物を平等な仏性の顕現、すなわち、<br />
未来の仏・仏の子として慈しむ仏の母の教え（慈母観音菩薩）
</p>
<p>
③弥勒菩薩の法則：万物は一体：宇宙意識・菩提心
</p>
<p>
自と他を含めた万物は輪のように一体であるから、<br />
自と他を区別して自我に執着する心を超え、<br />
真の自分は無限の宇宙に広がるものと悟り（宇宙意識）<br />
真の自分の家族は宇宙全体だという視点を持って、<br />
万人・万物と苦楽を分かち合い（大慈悲の実践）、<br />
万人万物と共に幸福を目指す（弥勒菩薩の菩提心）。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（２）三乗の仏陀の法則（三乗の一元法則）：小乗・大乗・金剛乗</strong></span>
</p>
<p>
三乗の仏陀の法則とは、仏教の歴史上の三つのタイプ・時期の教えである小乗仏教（原始仏教）、大乗仏教、金剛乗仏教（密教）を象徴とした、三つの法則である。この三つとも、万物は輪のように一体であると説く一元の法則である。よって、三乗の一元法則と呼ぶ場合もある。その概略は以下の通りである。<br />
<br />
①小乗の仏陀の法則：万物縁起　※象徴仏は釈迦牟尼<br />
<br />
万物は相互に依存しあって存在し（縁起）、一体である。<br />
この世の如何なるものも、他から独立して存在していない。<br />
※仏教で、相互依存のことを縁起という。
</p>
<p>
②大乗の仏陀の法則：万物同根　※象徴仏は大日如来<br />
<br />
万物は同根であり、一体である。<br />
万物は、ビッグ・バンから生まれた同根のもので、<br />
すべての人々・生き物は、地球・宇宙全体を源として<br />
生まれてくる。
</p>
<p>
③金剛乗の仏陀の法則：万物循環　※象徴仏は時輪尊
</p>
<p>
万物は循環しており、一体である。<br />
宇宙は、銀河も太陽系も地球も回転・循環し、<br />
生命は、四季・昼夜・食物・水・空気の循環の下で生まれ、<br />
体の分子も、思考の中の知識も、自己と他者の間で、<br />
密接不可分に交換・循環している。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（３）車輪の法則：男性・女性・中性原理</strong></span>
</p>
<p>
この宇宙や生命の創造から、悟りの達成にわたって、<br />
男性原理と女性原理の二極の統合・調和（中性原理）が重要で、<br />
二極は本質的に一体である（二極一元論）。<br />
男性原理と女性原理は、道教の陽と陰、ヒンドゥーのリンガとヨニ。<br />
大乗仏教の方便と智慧、心理学上の意識と無意識にあたる。<br />
<br />
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<strong><span style="font-size: large">第二章　ひかりの輪の信仰のあり方：新しい宗教の創造のため</span></strong>
</p>
<p>
ここでは、ひかりの輪が考える、21世紀の新しい宗教・思想において、神仏とは一体何か、神仏への信仰とはどうあるべきか、という信仰上の根幹となる思想について説明する。これらの思想は、釈迦牟尼など、いにしえの聖者の智慧に基づいているが、同時に、現代の合理的な知性・理性とも矛盾することがなく、盲信を超えた宗教・思想の基礎となるものと自負している。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>１．内の神、万物の中の神という思想</strong></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（１）さまざまな宗教に見られる内なる神</strong></span>
</p>
<p>
ひかりの輪では、それぞれの人・生き物の中にも、神仏がいるという思想を説いている。<br />
この内側にもいる神、内なる神というものは、あまりに聞き慣れないだろうが、実際には、さまざまな宗教に見られる。
</p>
<p>
日本の宗教・文化についていえば、その発祥となった縄文の精霊信仰も、万物に精霊が宿るという思想である。神道も八百万の神として、生き物に限らず万物に神の存在を認めているし、男の子・女の子を意味する彦・姫という言葉は、いずれも神の子を意味している。<br />
大乗仏教には、仏性思想があり、すべての衆生は、仏性（＝未来に仏陀になる可能性）を有し、仏の胎児であり、本質的には仏陀であるが一時的な汚れに覆われているとする。<br />
その大乗仏教は、日本に入る中で、日本らしく変容（進化）して、生き物に限らず万物に仏性を認めるようになった（山川草木悉有仏性）。<br />
ヒンドゥー教・ヨーガの思想も、自己の本質としての真我（アートマン）を説き、それが宇宙の根本原理・創造者であるブラフマンと一体・同一であるとした（梵我一如の思想）。
</p>
<p>
そして、科学的・合理的に考えると、有史以来、多くの神が語られ、宗教が生まれてきたが、神を体験したのは、他でもなく人間の心・意識・脳である。よって、人の語る神とは、合理的にはあくまで人の意識・脳の中の神体験であり、宗教を作ったのも合理的に考えれば（神ではなく）人間である。<br />
こうして、人の心・意識・脳の働きの中にないものは、人が体験できるはずがないから、人の中に神の要素・神性・仏性があると考えるのが合理的なのである。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（２）万物が平等で一体で神性なものという信仰</strong></span>
</p>
<p>
それぞれの人の中にも、生き物の中にも、神仏がいるという思想は、必然的に、万人・万物を平等に尊重する思想となる。例えば、大乗仏教では、この世の万物が平等な仏性の顕現であり、不必要なものは一切ないと説く。<br />
これを言い換えれば、宇宙の万物が信仰対象となるのである。この際、一元法則に基づいて、この宇宙の万物は一体であるから、宇宙の万物を平等かつ一体である神聖なものとして信仰するということになる（聖なる一体への信仰）。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（３）自灯明・法灯明：釈迦から学ぶ新しい宗教の基本</strong></span>
</p>
<p>
さて、内なる神の思想をさらに具体化するために、釈迦牟尼の重要な教えである自灯明・法灯明について考えたい。釈迦牟尼は遺訓として、他人ではなく自己を拠り所として法を拠り所とせよと説き、そうする者が自分の最高の法友であると説いた。また釈迦牟尼は、釈迦牟尼自身を神と崇めることを戒めたとされる。<br />
私は、この仏陀の教えの意味するところは、法・教えの実践によって、自分の中の仏性・神性が覚醒していくことだと解釈している。こうして、自分の中に仏性・神性を認めつつ、それを覚醒させるには、自分の中の要素だけにこだわるのではなく、自分の外の法・教えを学び、修習するというものである。<br />
自分の中には仏性・神性もあるが、同時に欲望・煩悩もある。また、自分の中の力だけで悟ることができると考えるのは慢心であろう。<br />
また、そもそも、一元法則に基づいて考えれば、自分の中と外は繋がっており、自分と他人は実際には区別できないものである。よって、幸福・悟りを求める場合も、自力と他力の双方を一つにして活かすのが、自然かつ道理にかなっている。<br />
こうして、自力だけなら慢心だが、逆に、他力だけなら過剰な依存である。釈迦牟尼は、法・教えを学ぶときは、釈迦牟尼が言っているからと、それを盲信するのではなく、まずは疑い、自分でよく考え吟味し、納得したら修習するようにと説いている。<br />
よって、外側のものを無視する慢心も避け、盲信・絶対視する依存も避け、自と他の力のバランスを取ることが、信仰・修行実践においても、重要である。
</p>
<p>
なお、ここで正確を期するために説明しておくが、自分の内側だけにいる神は存在しない。逆にいえば、自分の外側だけに存在する神も存在しない。<br />
仏性・神性が覚醒するということは、一元の思想・法則の真理を悟るということであり、自と他の区別を超えた意識を体得するということである。そして、神仏や完全に覚醒した意識とは、人の内側と外側を貫き、宇宙全体に遍在・遍満する存在である。言い換えれば、神仏は、自分の内にも外にもいて、その内の神と外の神は、本質的に一体である。<br />
これまで、人それぞれの中に神がいるとか、内の神仏といった表現を使ったのは、神仏というと、たいていは、自分とは別の外側の絶対的な存在を想定してしまうため、その固定観念を和らげるための表現手段（方便）である。よって、正確にいえば、神仏は自分の内側にも（外側にも）存在し、自分の内側にも存在する神仏を信仰するという表現が正しいであろう。<br />
なお、仏教の思想に関連することとしては、釈迦牟尼の自灯明・法灯明という教えは、大乗仏教の智慧と方便の教えに通じるものがあると思われる。智慧と方便とは、大乗仏教が説く仏陀の境地に至るための条件である。智慧は空の悟りを意味し、方便は（智慧を得るために必要な）利他の手段・功徳を積む手段である。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>２．シンボル：象徴としての外の神</strong></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（１）法の三つの形態とシンボル</strong></span>
</p>
<p>
仏教では、教え・悟りの境地が伝わる上では、三つの形態があると説く。それは、言葉による教え、象徴・シンボル、直感（以心伝心）である。この教本は、いうまでもなく、言葉によって皆さんに教えを伝えようとしている。一方、言葉を媒介・手段としない教え・悟りの境地の伝達として、象徴・シンボルによるもの、そして全く無媒介の直感・霊感・以心伝心がある。<br />
象徴・シンボルとは、私の解釈では、それを見たり触れたり聞いたりすることで、神聖な意識、仏性の覚醒が促されるものである。例えば、先ほども出たが、曼荼羅がある。曼荼羅の中には、仏陀の姿や仏陀の象徴の神性文字や仏陀の象徴の法具が描かれている。<br />
また、同様に、仏陀の御姿を描いたご尊像や仏陀を象徴する神性文字も、単独でそれ自体が象徴・シンボルである。また、二次元的・平面的なものに限らず、神聖な意識を引き出す仏像（霊像）、仏陀を象徴する密教の法具（金剛杵や金剛鈴）などもそうである。<br />
さらに、見るものだけに限らず、五感全体にわたって、神聖な意識を引き出すものはシンボルであると私は考えている。すなわち、密教における真言（マントラ）や、密教法具の奏でる聖音、ある種の瞑想音楽もそうであろう。<br />
さらには、手に持ったり、身につけたりする法具も、それによって神聖な意識を引き出す効果があれば、シンボルの一つである。ひかりの輪の考え方では、仏陀の御尊像の中にも描かれているが、数珠の形のブレスレッドやネックレスがそうである。<br />
そして、神聖な意識を引き出す効能のある聖水・御神水や、特別なお香といった、味覚・嗅覚を通したシンボルもあるだろう。<br />
また、これまで人工物だけについて述べてきたが、シンボルには、聖地などの大自然も含まれる。その光景を見ると不思議と神聖な意識が生じるような聖地の自然は、シンボルにほかならない。<br />
ひかりの輪では、その発祥の経緯において、聖地での修行で重要な気づきなどがあった時に不思議と虹を見ることが多く、特に太陽の周りの虹のひかりの輪（日暈・にちうん）については、それが仏陀・仏法の象徴の法輪とも形が似ていることもあって、天空に表現された法則のシンボル・象徴として、天空曼荼羅と位置づけてきた。<br />
また、各地に聖地巡礼に行く中で、特に神聖な意識が生じる場所やその写真も、神聖な意識を引き出すシンボルとして位置づけてきた。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（２）内と外の神仏：外の神仏はシンボル：宗教的な対立を超える</strong></span><br />
<br />
さて、先ほど、仏陀の御尊像や仏像といったシンボルについて述べた。ここで重要なことは、ひかりの輪の思想としては、本来は神仏にとっては名前も形も本質的ではなく、名前や形を持った神仏ないしは崇拝対象とは、人の信仰を助けるための方便・手段であるというものである。<br />
例えば、それに触れることで、神聖な意識を引き出すためには、普通の人には、名前や姿が必要･有効な場合がある。先ほども、教え・悟りの境地は、言葉と象徴と直感で伝わるとした。直感・以心伝心だけで、すべての教え・悟りの境地が伝わるならば、名前や形は必要ないだろうが、ほとんどの人にとっては、それは不可能であろう。
</p>
<p>
そして、この思想に基づいて、次に重要なことは、名前や形を持った神仏（のイメージ・観念）は、神聖な意識を引き出すシンボルではあるが、それ自体が唯一絶対のものではないということである。<br />
しかし、多くの宗教において、自分の宗教・宗派が説く名前と姿を持った神仏が唯一無二・唯一絶対のものであるとして、他を排除・否定するという考え方を持っている場合が少なくない。その結果は、歴史が示すとおり、宗教対立・宗教紛争である。
</p>
<p>
これに対して、ひかりの輪では、名前や形を持った神仏というのは、神聖な意識のシンボルであり、それは尊いものではあっても、唯一絶対のものがあるわけではなく、人それぞれに神聖な意識が引き出されるシンボルが違ってよいという考え方を持っている。<br />
よって、ある人にとっては仏陀釈迦牟尼が、ある人にはイエス・キリストが、ある人にとってはマホメットがシンボルであってよいのであり、自分に縁のあるシンボルを見つければいいのである。こう考えれば無用な宗教対立・宗教戦争がなくなるだろう。<br />
言い換えれば、すべての宗教は、人の内側にもある神性・仏性を引き出すためのシンボルが違うだけであって、本質的には同じものであり、宗教・宗派の違いは、信仰者の個性の違いであって、善悪、聖邪の違いではないとして、互いに認め合うとよいのではないかと思う。
</p>
<p>
ここで、これまで話してきたことをわかりやすくまとめるために、あえて「内側の神仏」と「外側の神仏」という表現をとるならば、
</p>
<p>
１「内側の神仏」とは、それぞれの人の中の「神性・仏性」であり、<br />
それには名前や形はなく、<br />
２「外側の神仏」とは、その「内側の神仏」を引き出す・覚醒させるための<br />
「神仏のシンボル」であり、それは多くの場合、名前や形を持って表現される。
</p>
<p>
とすることができるだろう。<br />
そして、この「外側の神仏」は、あくまでも象徴・シンボルであって、人の中の神聖な意識＝内側の神仏を引き出す象徴・手段であり、その意味で尊いものではあるが、それ自体が神仏なのではなく、唯一絶対なのでもない。人それぞれの個性に応じて多様な「外側の神」が存在してよいのである。
</p>
<p>
※注１<br />
上記の考え方は、多様性の下の統合という概念であり、さまざまな人種・宗教の違いを超えて平和を推進する人たちの間でも重視されてきている概念である。また、その平和運動の象徴として、無数の色が境界なく連続して一つに融合している虹が用いられることがある。
</p>
<p>
※注２<br />
神仏に名前や形を与える理由としては、シンボルとして有効にするため以外に、他の神仏と区別するという目的があるだろう。しかし、これは、神仏は本来は一体であるところ、そのさまざまな力・働きのそれぞれに名前・形を与えたにすぎないとも解釈できる。<br />
実際に、一元の法則を学べば、この世界の万物は、異なる名前や形がついているために別々に見えるが、本当は一体として存在していることがわかる。よって、神仏であろうとなかろうと、この世のものは、名前や形が別であっても、本質的には一体である
</p>
<p>
※注３<br />
仏教は、自己の中の仏を仏性（仏陀になる可能性）というが、それに加えて、三身の仏陀の思想がある。人の心が完全に（仏陀と同じように）浄化された状態を「ほっ法しん身」と呼び、その人の言葉が完全に浄化されたものを「ほう報じん身」と呼び、その人の体が完全に浄化された場合を「おう応じん身」と呼ぶ。
</p>
<p>
<br />
<strong><span style="font-size: medium">３．ひかりの輪のシンボルの概要</span></strong>
</p>
<p>
さて、ここでひかりの輪でも主に用いているシンボルについて紹介しておこう。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（１）太陽の周りの虹の光の輪（日暈）：自然のシンボル</strong></span><br />
天空曼荼羅と呼んでいる。これを図画にしたものが天空曼荼羅図
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（２）法輪（ダルマチァクラ）：仏教での仏陀・仏法のシンボル</strong></span><br />
ひかりの輪でも採用している
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（３）虹の光の法輪：ひかりの輪のシンボルマーク</strong></span><br />
天空曼荼羅図と法輪を合体させたデザイン
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（４）仏陀の御尊像</strong></span><br />
祭壇に掲げている釈迦牟尼・観音菩薩（千手観音）・弥勒菩薩を含め、<br />
主に用いる仏陀の御尊像は、十二神仏の十三色身であり、釈迦牟尼の<br />
生誕地であるネパール製の御尊像・タンカである。<br />
具体的には、上記の三仏に加え、大日如来・阿弥陀如来・薬師如来、<br />
金剛薩?、緑多羅・大黑天・地蔵菩薩・六字観音・時輪尊・弁才天。<br />
<br />
※「虹輪釈迦牟尼御尊像」<br />
ネパール製の釈迦牟尼の御尊像を天空曼荼羅図と融合させたもの<br />
※「ひかりの輪神仏輪曼荼羅」（表紙の写真）<br />
上記の十二神仏の十三色身のすべてを描いた曼荼羅であり、<br />
ひかりの輪の信仰・教義体系の全体を表すものである。<br />
①中央横の三仏：三世の仏陀：釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩<br />
これは同時に三身の仏陀、仏法僧の三宝も象徴する。<br />
②中央縦の三仏：三乗の仏陀：釈迦牟尼・大日如来(上)・時輪尊(下)<br />
③救いの三仏：大日如来・薬師如来・阿弥陀如来
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（５）霊像と思われる仏像の御写真</strong></span><br />
&nbsp;&nbsp;&nbsp; ①京都太秦の広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像の御写真<br />
②奈良斑鳩の中宮寺の如意輪観音像の御写真<br />
③熊野那智の青岸渡寺の如意輪観音像の御写真<br />
<br />
※この霊像に関連して、ひかりの輪においては、聖徳太子を<br />
シンボルとする仏像・聖地・その他の霊性という考えがある。<br />
詳細は、第５章の聖徳太子に関する事項を参照されたいが、<br />
上記の霊像御尊像は結界＝神聖な空間の形成にも用いる
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（６）車輪の法則のシンボル</strong></span><br />
男性原理・女性原理の統合・合一を象徴するシンボル。<br />
具体的には以下のものがある。
</p>
<p>
①神柱法輪<br />
神柱（男性原理）と法輪（女性原理）を組み合わせた<br />
ひかりの輪における最も重要な法具のシンボル。<br />
環状列石やリンガとヨニを参考にしたもの。
</p>
<p>
②結界輪神柱<br />
四方を結界するための円柱の柱：４本<br />
縄文の神柱や諏訪大社の神柱を参考にしたもの。
</p>
<p>
③金剛杵と金剛鈴：ヴァジュラとガンター<br />
金剛杵が男性原理、金剛鈴が女性原理。<br />
密教伝統の男性原理と女性原理の象徴。
</p>
<p>
④如意宝珠<br />
正しい願望をかなえる仏の法力を象徴する法具であるが、<br />
同時に、個人と宇宙、意識と無意識の融合を象徴している。<br />
また、聖徳太子がその化身とされる如意輪観音の象徴法具でもあり、非常に重要である。
</p>
<p>
⑤如意宝珠法輪<br />
如意宝珠（男性原理）と法輪（女性原理）の組み合わせ<br />
※如意宝珠が現世の幸福、法輪が悟り・煩悩止滅を象徴
</p>
<p>
⑥如意宝珠蓮華円台<br />
如意宝珠（男性原理）と蓮華円台（女性原理）の組み合わせ。<br />
※観音菩薩の六字真言（マニパドメ）とシンクロした法具。
</p>
<p>
⑦金剛杵蓮華円台<br />
金剛杵（男性原理）と蓮華円台（女性原理）の組み合わせ。<br />
※下記のツォンカパの金剛薩?の瞑想で用いるシンボル。
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><br />
</span><span style="font-size: medium"><strong>４．具体的な修行実践における柱</strong></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（１）法友・先達の重要性：三宝帰依</strong></span>
</p>
<p>
仏教には三宝帰依という教えがある。三宝とは、仏・法・僧、サンスクリット語で、ブッダ、ダルマ、サンガの三つである。<br />
ひかりの輪の解釈では、仏は、内外の仏であり、法は、輪の法則全体、そして、僧は、広義には仏教教団を意味し、狭義には出家教団を意味する。<br />
前者の広義の解釈は、一般に法友の重要性、すなわち、皆で集団で修行することの必要性・有効性を示す。宗教に限らず、武術その他学問でも、互いに切磋琢磨する法友と、その場となる道場は非常に貴重である。<br />
特に、現代の資本主義・競争主義の社会の中では、エゴ・欲望が肥大化し、二元的な思考・情報が非常に強くなっている。そういった環境の中で、一元の思想・法則を温めていくには、一人・単独で行うには困難が伴う。<br />
それは都市文明が発達してきた釈迦牟尼の時代でも、本質的には同じで、そのため、釈迦牟尼は、仏・法・僧を拠り所とするように指導したのであった。<br />
また、後者の狭義の解釈は、在家で修行する者にとって、修行に専従している出家修行者・修行の先達・仏道修行の指導者の指導・導きを受けることの重要性を示す。<br />
ただし、ひかりの輪では、特定の人物を絶対視することを否定している。指導者との関係については、普通の健全な生徒と先生の関係のように、絶対視したり過剰に依存したりせずに、謙虚に学ぶことを原則としている。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（２）具体的な修行法：ひかりの輪の修行の四本柱</strong></span><br />
<br />
ひかりの輪では、教学、功徳、行法、聖地の四つを、修行の四本柱としている。
</p>
<p>
①教学：正しい教えを学ぶこと。具体的には、講話会の参加、<br />
各種の教本の読書、教学用の動画･ＣＤの視聴など。<br />
※思考からの浄化をすすめるもの。
</p>
<p>
②功徳：日々の生活で善行をなし、悪行をさけること。<br />
指針として大乗仏教の六つの完成の教えを説いている。<br />
※日々の言動からの浄化を進めるもの。
</p>
<p>
③行法：ヨーガや気功の身体行法から仏教・密教の儀式・瞑想まで。<br />
※身体・五感を通した浄化を進めるもの。
</p>
<p>
④聖地：道場や自然の聖地におもむく。自宅の浄化も。<br />
※環境からの浄化を進めるもの。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（３）シンボルを用いた密教の基本修行について</strong></span><br />
<br />
ひかりの輪では、さまざまなシンボルを用いた密教の瞑想修行を行っているので、その一部、特に基本的な修行について以下に紹介する。
</p>
<p>
①三密加持
</p>
<p>
身・口・意において、仏の象徴を修習する密教の伝統の瞑想である。<br />
１）仏の象徴である座法・手印を組んで身体の面で仏に近づき、<br />
２）真言を唱えて言葉の面で仏に近づき、<br />
３）仏の御姿の観想をなすことで意識の面で仏に近づき、<br />
こうして、身・口・意の三業（＝三密）において、仏と相通じ（三密相応）、<br />
そうすると、仏が、仏の境地（仏性の顕現）を修行者に与え（加）、<br />
それを行者が体感する（持）、という修行である。
</p>
<p>
②具体的な三密加持の法<br />
<br />
ひかりの輪においては、主に、釈迦牟尼、観音菩薩、弥勒菩薩、金剛薩?などの仏との三密加持の修習を行っている。そのための真言・座法・手印・観想・思索の指導がある。その詳細は、直接指導を受けるのが望ましいが、一応、以下に説明する。
</p>
<p>
１）釈迦牟尼<br />
手印：定印（金剛杵を置いた金剛定印が最善）<br />
真言：オー・ムニ・ムニ・マハー・ムニ・スワハー<br />
観想：（虹輪）釈迦牟尼像<br />
思索：釈迦牟尼の法則（第一章参照）
</p>
<p>
２）観音菩薩<br />
手印：蓮華印（中にマニ宝珠を入れたマニ宝珠蓮華印が最善）<br />
真言：オー・マニ・パドメ・フーム<br />
観想：六字観音像・千手観音像・（各種の）如意輪観音像<br />
思索：観音菩薩の法則（第一章参照）
</p>
<p>
３）弥勒菩薩<br />
手印：水瓶印<br />
真言：オー・マイトレーヤ・スワハー<br />
観想：弥勒菩薩像・弥勒菩薩半跏思惟像<br />
思索：弥勒菩薩の法則（第一章参照）
</p>
<p>
４）金剛薩?<br />
手印：金剛薩?印（最善は、右手に金剛杵、左手に金剛鈴）<br />
真言：オー(ン）・ヴァジュラサットヴァ・フーム<br />
観想：金剛薩?像<br />
思索：悪行の懺悔
</p>
<p>
③五感の仏のシンボルを用いた瞑想<br />
<br />
ひかりの輪では、五感全般にわたって、神聖な意識を引き出す仏のシンボルを用いた瞑想修行を行っている。また、これらは日常生活でも使用することでさらに効果が高まる。<br />
具体的には以下の通りである、
</p>
<p>
１）視覚からの浄化<br />
各種の御尊像・曼荼羅などのシンボルを使用した瞑想
</p>
<p>
２）味覚からの浄化<br />
聖音水：法具の奏でる聖音で特別に浄化した水
</p>
<p>
３）聴覚からの浄化<br />
聖音を奏でる密教の法具の各種を用いた瞑想
</p>
<p>
４）触覚からの浄化<br />
心身が浄化される各種の守護法具を身につける<br />
<br />
５）チベット・ブータン香<br />
瞑想に適した最善のお香を選択して道場空間を浄化<br />
<br />
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: large"><strong>第三章　三世の仏陀の法則を立体的に理解する</strong></span>
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>１．釈迦牟尼の法の立体的な理解</strong></span><br />
<span style="font-size: medium"><strong>--苦楽の輪、知足と慈悲、万物への感謝と分かち合い</strong></span><br />
<br />
釈迦牟尼の教えは、楽と苦が輪のように互いに繋がって一体であるという真理に基づいている。<br />
具体的には、まずは、欲楽の裏に苦しみがあることを悟って、欲楽を貪らずに足るを知る（少欲知足）。次に、苦の裏に幸福があることを悟って、苦を喜びに変える。<br />
そして、これらの理解に基づいて、万人・万物を恩恵と見て感謝し、万人・万物と苦楽を分かち合うこと（大慈悲）が、真の幸福をもたらす、というものである。<br />
これを一言でいえば、苦と楽が輪のように一体であることに基づき、知足と慈悲、万物への感謝と分かち合いの実践である。
</p>
<p>
ではまず、苦と楽が輪であることを理解しよう。具体的には、苦と楽が輪であるとは、楽が苦に変わり、苦が楽に変わるということであるから、この点を考察する。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（１）楽の裏に苦がある構造を理解する</strong></span>
</p>
<p>
第一に、楽を貪ることで、その裏に、さまざまな苦しみが生じる。それは以下のように分析できる。<br />
①楽を貪り求めても際限がない。<br />
得ても得ても満足できず、もっともっとという欲求＝苦しみが生じる。<br />
②得たものには執着が生じ、失う不安や、失った場合の苦しみが生じる。<br />
得ても満足できないのに、失うことは苦しみになる。<br />
③求めても得られない時に苦しみが生じる。<br />
貪りには際限のないので、その中で、得られない場合が必ず来て苦しむ。<br />
④執着・とらわれが生じるから、それを損なう出来事・対象に怒りが生じる。<br />
例えば、貪れば必ず奪い合いが始まり、妬み・怒り・憎しみが生じる。<br />
そして、貪りが深まるほど、怒りの対象や敵が増える。
</p>
<p>
これを立体的に理解できるように図にしてみよう。こうすると、欲楽を貪ると、それが得られても得られなくても、結局はすべて苦しみに帰結する構造があることがわかる。この構造の理解は重要である。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<img src="/mt/uploads_files/images/image23.gif" alt=" " width="438" height="198" />
<p>
<br />
&nbsp;<span style="font-size: small"><strong>（２）仏教の教えから学ぶ苦楽の輪</strong></span>
</p>
<p>
なお、この点に関連して、仏教には、苦楽表裏という教えや、一切皆苦という教えがある。一切皆苦とは、すべての欲楽の裏には必ず苦しみがあるという意味である。なお、苦しみに帰結する欲楽と違って、苦しみを伴わない真楽というものがある。<br />
<br />
また、仏教は、人間の感じる喜びの裏側にある苦しみを詳しく分析している四苦八苦という教えがある。まず、仏教の専門用語としての四苦八苦とは、生・老・病・死と、ぐ求ふ不とく得く苦、あい愛べつ別り離く苦、おん怨ぞう憎え会く苦、ご五しゅ取うん蘊く苦の八つの苦しみのことをいう。
</p>
<p>
まず、生・老・病・死の苦とは何かというと、老・病・死が苦であることは説明不要だろうが、生が苦しみであるというのは、出産の際の母子の苦しみをいう。<br />
そして、この教えの要点は、人は、自分＝自我に執着するが、その裏側には、自分の生・老・病・死の際の苦しみがあるということである。こうして、自我に執着する喜びの裏には、それゆえのさまざまな苦しみがあることがわかる。
</p>
<p>
次に、求不得苦、愛別離苦、怨憎会苦、五取蘊苦については、まずその意味合いは以下の通りである。<br />
１．求不得苦＝求めて得られない時の苦しみ<br />
２．愛別離苦＝愛する者と別離する苦しみ<br />
３．怨憎会苦＝怨み憎む者と会う苦しみ<br />
４．五取蘊苦＝自我（五蘊）にとらわれることによる一切の苦しみ<br />
※仏教では自我を構成するものを色・受・想・行・識の五蘊という。
</p>
<p>
これらの苦しみもすべて、楽の裏にあるものである。求不得苦は、求めて得る時の喜びの裏にある、得られない時の苦しみである。愛別離苦は、愛著の喜びの裏にある、愛著の対象と別れる時の苦しみである。怨憎会苦は、愛著の喜びの裏にある、愛著の対象を損なう、奪う者を怨み憎む苦しみである。<br />
これらの三つの苦しみは、「自分・自我」へのとらわれに加えて、「自分のもの」にとらわれた結果の苦しみである。仏教では、「自分へのとらわれ」を「我執」、「自分のものへのとらわれ」を我所執という。「自分･自我」へのとらわれの結果として、好ましく感じるものを「自分のもの」にしようとするとらわれが生じ、その結果、奪い合いなどによる苦しみが生じるのである。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（３）苦しみの裏側に喜びがある構造を理解する</strong></span>
</p>
<p>
次に、反対に、苦しみの裏にある楽について検討すると、次のようになる、
</p>
<p>
①苦しみを経験すると、普通はそれから逃げようとするが、その逃げる行為は、将来に再び苦しみをもたらす行為（新たな悪業）になり、長期的には、苦しみは減らない。これは苦しみの根本原因であるとらわれが、逃げている間は減らないからである。
</p>
<p>
②しかし、苦しみから逃げられない場合（ないし法則の理解に基づき、意図して逃げずに乗り越えようとする場合）は、その苦しみに慣れて、苦しみが減少する。これは苦しみの根本原因である、とらわれ・悪業が減少するからである。これを悪業の清算という。悪業が苦しみの原因であり、悪業の清算は苦しみの解消である。
</p>
<p>
③ただし、②によって苦しみが減少しても、それは一時的なものになる場合が多い。とらわれ・悪業が減って、苦しみが減少し、楽になると、人は、再び欲楽を貪り、とらわれ・悪業が増大する。その結果、再び苦しみが増大する。こうして、人は、苦と楽の間を循環するものである。これが、仏教が説く六道輪廻の思想、すなわち、幸福な状態（善趣）と不幸な状態（悪趣）の間の循環である。
</p>
<p>
④しかし、③の循環を繰り返し経験する中で、欲楽の貪り・とらわれが苦しみをもたらすことを真に深く悟る段階に至る。これを、仏教では(現象をありのままに見る）智慧という。釈迦牟尼は、この点について、苦によって（正法への）信が生じると説いた。
</p>
<p>
⑤そして、智慧が生じると、同時に、欲楽を貪り他から奪うことではなく、その逆に、他に幸福を与え、他の苦しみを取り除くこと（＝慈悲）が、真の幸福の道と悟る。こうして、苦しみの最終的な結果として、智慧と慈悲が生じる。
</p>
<p>
この点を立体的に理解できるように図にしてみよう。こうすると、苦しみが苦しみに繋がる段階を経て、苦しみが最終的に、智慧と慈悲の幸福をもたらすことがわかる。
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/image22.gif" alt=" " width="467" height="246" />
&nbsp;
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（４）苦しみの裏に喜びを見出す逆転の発想の智慧</strong></span>
</p>
<p>
さて、ここまでは、苦しみの裏に喜びがあるという点について、仏教の教義に基づいて、抽象的に、苦しみの経験の中で、その苦しみの根本原因であるとらわれが解消され、最終的に智慧と慈悲という真の幸福（真楽）が生じると説いた。<br />
しかし、ここでいうとらわれの減少・解消とは、さまざまな意味、さまざまなレベルのことを含んでいる。<br />
確かに、もっと高度な次元においては、それは自我へのとらわれ＝自我執着全体を意味する。すなわち、自我にとらわれない境地を深め（無我の悟り）、自と他の区別を超えて、宇宙全体・すべての衆生に慈悲の実践をする菩薩・仏陀の境地である。この場合、自分の生・老・病・死にさえ、頓着しない不動の境地・平安が達成される。
</p>
<p>
ただし、そういった高度な次元でのとらわれの解消ではなく、もう少し身近な意味で、苦しみを経験した結果、従来の貪り・とらわれが減少して、逆に幸福になるという場合もある。<br />
例えば、一病息災という言葉があるが、これは一つくらい病気がある方が、体を労るので、長生きするというものである。病気という苦しみが長寿という喜びに繋がっているという意味で、苦しみの裏に喜びがある。<br />
逆に、病気が一つもないと、欲楽へのとらわれ・貪りが減らず、体を労らずに無理するので、逆に早く死んでしまう。これは喜びの裏に苦しみがある一例である。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（５）病苦・経済苦・中傷・失敗の裏にある幸福</strong></span>
</p>
<p>
これは、病の苦しみだけでなく、経済的な苦しみ、誹謗・中傷される苦しみ、さまざまな失敗・挫折の苦しみなどを含めた、さまざまな苦しみに当てはまる。
</p>
<p>
例えば、経済的な苦しみは、物欲を和らげ、質素に少ない財で生きる能力を養う。また、自己の財物ではなく、皆が共有する大自然などの価値に目覚める可能性を与える。<br />
逆に、経済的な苦しみが少ないと、質素倹約の能力は培えず、物欲が肥大化し、人生の浮沈の中で突然に没落すると、激しく苦しむ（人によっては自殺しかねない）。また自己所有物にとらわれて、共有物の大いなる価値には目覚めない。
</p>
<p>
誹謗・中傷は、それが正しければ、自己の慢心を諫める貴重な助言であり、将来の成功の源となる。間違っていても、自己愛を超えて、不動の精神を養う試練であり、冷静に対処すれば、逆に自分の評価が上がる機会である。逆に、誹謗・中傷が乏しいと、慢心や欠点が解消されず、ないしは自己愛が強いままになり、精神的に脆くなる。
</p>
<p>
失敗・挫折は、あきらめずに努力する限りは、その経験から智慧が深まり、最終的に成功の元になる（失敗は成功の元）。言い換えると、過程の失敗・挫折は、それでは成功しないと知るという「成功のプロセス」である。<br />
仏教的にいえば、失敗とは、成功を阻んでいる悪業・無智を清算して、成功のための智慧（智恵）を生じさせるプロセスであるということができる。よって、失敗の苦しみを喜びとして、努力し続けることが、成功に至る業を速やかに形成するのである。
</p>
<p>
逆に、挫折・失敗が乏しく、多少の成功をしてしまうと、慢心が強くなって、自己過信から無理をしたり、改善の努力を怠ったりして、長期的には失敗する可能性がある。また、自己愛のために、挫折・失敗を恐れ過ぎ、チャレンジできない場合も、経験による智慧が増えないため、大した成功を得ることはできない。<br />
こうしてみると、苦しみは、自分の心身を引き締め、成長させる面があるということができる。「苦労は買ってでもしろ」、「かわいい子には旅をさせよ」、といった言葉の由縁である。
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<p>
<span style="font-size: small"><strong>（６）あらゆる苦しみは慈悲の源となる</strong></span>
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<p>
これに加えて、苦しみのタイプによらず、すべての苦しみは、慈悲の源となる。というのは、自分がさまざまな苦しみを経験してこそ、同じような苦しみを持つ人の気持ちを理解し、それを取り除こうとする慈悲が生じるからである。<br />
観音菩薩は慈悲から生まれた慈悲の化身とされる。その観音菩薩の誕生は、さまざまな激しい苦しみを抱えた生涯を送った後、その最期の時に、来世以降、この苦しみの経験を縁として、同じように苦しむ他の人々を救っていこうと決意したことによるとされている。こうして、まさに苦しみこそ慈悲の源である。<br />
仮に苦しみの経験が一切ない人は、他の苦しみを理解することは不可能である。その意味で、苦しみが一切ない状態というのは、ある意味で非常に恐ろしい状態である。それは、心身を引き締めて鍛え、智慧と慈悲を培う機会を逸する恐れがあるからである。
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<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>（７）求めて得る幸福と気づき与える幸福</strong></span><br />
<br />
ここで、釈迦牟尼の法をよりよく理解するために、「求めて得る幸福」と「気づき与える幸福」という二つの対極的な幸福について考えてみよう。<br />
まず、求めて得る幸福とは、現代社会において一般的な幸福観であり、現状の自分にはないものを得ることを欲求し、それを未来に得ることで喜びを感じるというタイプの幸福観である。それは、自分を取り巻く外的な条件を変えるものであり、財、称賛・名誉、地位・権力などを求めるものである。<br />
一方、気づき与える幸福とは、今すでに与えられている幸福の大きさに気づいたり、苦しみの裏にも幸福があると気づいたりすること、そして、それらの気づきに基づき、他に幸福を与えることによって、幸福になる価値観である。これは、自分の内側＝心の持ち方を変えるものであり、外的条件を変えようとするものではない。また、これはいうまでもなく、仏陀の教えが説く、知足と慈悲による幸福への道に通じるものである。
</p>
<p>
まず、求めて得る幸福は、その性質として、不満と奪い合いがある。なぜ不満かというと、自分にないものを求めて得たとしても、欲求には際限がないから、もっと欲しくなり、満ち足りることがないからである。そして、求めても得られない苦や、得たものにとらわれて、失う不安や苦しみがある。<br />
さらに、求めるがゆえに他と奪い合わねばならないために、憎まれたり憎んだり、妬んだり妬まれる苦しみがある。これは前に分析したとおりである。こうして、不満と奪い合いが特徴になる。
</p>
<p>
これに対して、気づき与える幸福は、その性質として、感謝と分かち合いがある。今すでに与えられている幸福の大きさに気づくならば、必然的に感謝の心、足るを知る心が生起する。<br />
また、これは、他との苦楽の分かち合い・慈悲の実践に繋がる。自分の得ている幸福の大きさに気づくプロセスの中で、自ずと、自分よりはるかに恵まれない無数の存在に気づくことになる。<br />
また、苦しみの裏に幸福があることに気づくプロセスの中で、自分の苦しみの経験こそが、他の苦しみを理解する慈悲の心を培う源だと知る。こうして、気づき与える幸福は、分かち合い＝慈悲の実践に結びついていく。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（８）今ここの幸福、今ある幸福に気づく</strong></span><br />
<br />
こうして、求めて得る幸福は、今得ていない幸福を見て（＝不満）、未来に求めるものである（奪い合い）。気づいて与える幸福は、今得ている幸福を見て（感謝）、それに基づき、分かち合うことである。<br />
こうして、前者は未来に幸福を期待するが、後者は今に幸福を見出そうとする。そして、後者の幸福を仏教の禅宗などでは、「今ここの幸福」などと表現する。それは、今のこの瞬間を幸福に感じる道と説く。<br />
一方、前者の方は、今には不満を抱き、未来に期待とその裏側の不安を抱くことになる。また、不満の現状を作った過去にも不満・後悔がある。こうして、普通の人は、常に、過去に後悔、現状に不満、未来に不安を抱えている。そのため、下手をすれば死ぬまで、本当に楽しんだ時のない人生を送りかねないのである。
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<p>
<span style="font-size: small"><strong>（９）幸福を見るか、不幸を見るか</strong></span>
</p>
<p>
また、前者は、今得ていない幸福を見て、後者は、今得ている幸福を見ているという違いがある。よって、前者と後者の違いは、同じ条件の中で、前者は不幸を見て、後者は幸福を見ているという違いである。<br />
これに関連して、この両者の違いを苦しみに対するアプローチから見てみよう。まず、前者は、苦しみを単純に嫌がり、それを全面的に避けようとする（苦しみに嫌悪）。後者は、苦しみの裏の幸福に気づいて、それに感謝しようとする。<br />
こうして、前者は、苦しみを不幸としてだけ見るが、後者は、苦しみの裏の幸福もあることを見るのである。よって、先ほどと同じように、この場合も、同じ条件の中で、前者は不幸を見て、後者は幸福を見ている。
</p>
<p>
また、前者は、今得ていない幸福を未来に得ることで幸福になるとばかり考えており、得ることによって逆に不幸になる側面を見ていない。しかし、実際には、得ることによる苦しみと、得ていないことによる幸福がある。<br />
例えば、得れば得るほど、さらに欲しくなって満ち足りないのに、守らなければならないもの（失いたくないもの）が増えてしまい、いざ失う時の苦しみは大きくなり、また、得る分だけ、他との奪い合いの輪の中に入るために、妬み妬まれる、憎み憎まれる苦しみも増えていく。
</p>
<p>
こうして、恵まれている人にも、恵まれていない人にも、平等に幸福と不幸がセットで存在している。また、先ほど述べたように、喜びの裏には苦しみが、苦しみの裏には喜びがあるから、どんな出来事にも、平等に幸福と不幸がセットで存在している。<br />
こうして、どんな人にも、どんな出来事にも、幸福と不幸がセットで存在する中で、前者は不幸を見て不幸となり、後者は幸福を見て幸福となる。これを言い換えるならば、幸福を見る者は幸福になり、不幸を見る者は不幸になるということになる。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（10）幸福は、心の持ち方で決まる。</strong></span><br />
<br />
よって、気づき与える幸福というのは、自分の心の持ち方を変えて幸福になる道であり、自分の内側・心から幸福が生まれるという思想である。求めて得る幸福は、それとは逆に、自分の外側・外的条件を変えることで幸福になろうとするものである。<br />
そして、後者の考え方が、真の幸福の道だと理解するならば、幸福・不幸は、自分の内側・心の持ち方によって決まるということができる。これがまさに、仏教が説く自業自得の法理である。
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/imag25.gif" alt=" " width="472" height="167" />
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（11）奪い合いを超えた幸福の道</strong></span>
</p>
<p>
最後に、求めて得る幸福が、奪い合いになる面があるのに対して、気づいて与える幸福は、奪い合いによらぬ幸福である点を検討する、<br />
まず、第一に、気づき与える幸福は、他から奪うことなしに、今得ている幸福の大きさに気づいて感じるものである。さらに、自分より苦しんでいる者が多く存在していることに気づいて、彼らとの分かち合いによって、幸福になるものである。<br />
第二に、気づき与える幸福は、全体に対して与えられている自分の役割を見出して、幸福になる道である。言い換えれば、自分の真の個性を活かして幸福になる道である。しかし、それは場合によっては、自分が他に劣っていること、自分の短所・欠点の裏側に、自分の長所・役割を見出して、幸福になる道も含んでいる。<br />
具体的にいえば、①優れた他を活かして支えることによる幸福（仏教が説く四無量心でいう慈の心）、②自分と同じように劣っていることで苦しむ他人を理解し、その苦しみをやわらげることによる幸福（四無量心の悲の心）、そして、③他の幸福を自分の喜びと考える、感じることによる幸福（四無量心の喜の心）である。これは、仏教が説く四無量心、慈・悲・喜・捨の心に通じている。
</p>
<p>
そして、このような実践をしている者が、長期的に見れば、実際の人の輪の中では、真の勝者になるという側面がある。その良い例が、昭和の希代の実業家である松下幸之助である。彼は、体力がないから他に頼む術を覚え、学力・学歴がないから他から謙虚に学ぶことができ、お金がないから丁稚奉公で商人の才を得たと語っている。<br />
これは、まさに自分の恵まれていない部分・欠点に腐らずに、それを逆に活用して、自分より恵まれた人の力を活かして幸福になったという事例であり、欠点を長所にしてしまったのである。<br />
そして、自分が他に勝つだけの能力よりも、多くの人の能力を活かし、その苦しみを和らげ、その幸福を願うという能力と人格は、彼が大会社のリーダーとなったことが示すように、この競争社会・資本主義社会においても、彼を真の勝者にしたのであった。<br />
これと比較すると、学業・体力・容姿・財力など、社会が一般に評価することにおいて他との競争に勝って幸福になるという道は、画一的な幸福の道であり、自分の個性を本当に活かした幸福の道とはいえないだろう。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>（12）競争に関する考え方：万人を幸福にする手段として</strong></span>
</p>
<p>
なお、気づき与える幸福は、競争を全面的に否定するものではない。幸福の奪い合いは否定するが、競争自体は、それを行う者の心構えによっては、勝って幸福になる者と負けて不幸になる者をより分けるものではなくて、皆が幸福になるための切磋琢磨の手段となり得るものだからである。<br />
しかし、競争が皆が幸福になるための手段として機能するためには、その競争のシステムの中で一番になった者が価値があると考えるのではなく、競争による切磋琢磨を手段として、①全体がレベルアップすることを喜び、②そのために、それぞれが自分に与えられた個性を活かして磨きあげること、言い換えれば、優れた切磋琢磨を実現する上での自分なりの役割を見出すことを重視するべきだろう。<br />
こうして、全体として優れた切磋琢磨が実現して、全体のレベルが上がるならば、①勝った者も負けた者も全体が勝者であり、全体がそれに平等に貢献しているから、平等の価値があるし、②また、その切磋琢磨の中で、それぞれが自分の個性を磨くことからも、皆が同じように自己の価値を見出すことができるだろう。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（13）大乗仏教の最高の境地は、気づいて得られる幸福</strong></span>
</p>
<p>
最後に、大乗仏教が説く最高の境地、すなわち、仏陀の境地の悟りとは、気づき与える幸福の極致である。というのは、この仏陀の境地とは、この世界がそのままに仏の集う仏の浄土と悟るからである。<br />
言い換えると、仏陀をどこかに探し求めたり、仏陀の浄土に行くことを望んだりするのではなく、自分たちの心を浄化し、感謝の心などが極限まで深まることで、今この世界がそのままに仏陀の集う仏陀の境地であることに気づくこと、これが仏陀の境地の悟りなのである。<br />
よって、偉大な聖者であるミラレパは「仏陀など、探して見つかるわけがない。よって己の心を注視せよ」という言葉を残している。また、釈迦牟尼も、その遺訓として、「他人ではなく自己を拠り所として、法を拠り所とする者が、わが最高の法友である」という趣旨の言葉を残している。こうして、真の幸福は、自分の内側、心の持ち方によって生じるということである。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>２．観音菩薩の法の立体的な理解<br />
--善悪の輪、優劣善悪の二分化を超え、万人を平等に尊重し愛す</strong></span>
</p>
<p>
観音菩薩の法則は、普通私たちが人々の間に感じる善悪・優劣の違いは長期的・多面的な視点から見れば輪の如く繋がって表裏であって、本質的には存在せず、それは単なる個性・役割の違いであるという視点に基づいている（善悪・優劣の輪）。<br />
そして、これに基づいて、万人・万物を平等な仏性の顕現（＝未来の仏・仏の子）と見て尊重し、慈しむべきであるという教えである。よって、これを、すべての衆生を仏の子と慈しむ仏の母・ぶつ仏も母・慈母の教えとも表現する（慈母観音菩薩）。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（１）長期的な視点で善悪・優劣の転換・循環を見る</strong></span>
</p>
<p>
さて、それでは、善悪・優劣が輪の如く一体であるという点について考えてみよう。そのためには、まず長期的な視点で考える必要がある。
</p>
<p>
まず、これまで善行をなし幸福な人がいても、仏陀の教えに基づいて考えると、真に智慧と慈悲に目覚めていなければ、それがそのまま続くことはない。たいていは、自分の幸福に執着し、また、今の自分の状態がそのまま続くという慢心・自己満足によって、努力を怠る。その結果、徐々に悪行が増えていき、その結果、不幸になっていく。<br />
仏教の六道輪廻の思想では、過去の功徳で（人間よりはるかに大きな）幸福の絶頂にある欲天の住人も、この慢心によって、徐々に功徳が減り、悪業が増大し、地獄・餓鬼・動物といった悪趣と呼ばれる人間以下の世界に落ちていくとされている。<br />
これを信じるか信じないかは別にして、これと本質的に同じことが、人間の世界でも確実に起こっている。日米のバブル経済の崩壊は、金融界の超エリート集団の過信・慢心によるものにほかならず、一時は一世を風靡した堀江氏・木村氏・村上氏らも、今は囚人の身であり、安全神話を誇った日本の原子力発電も同様である。<br />
これらを避けるためには、仏陀の教えに基づけば、幸福の絶頂の時に、自己の幸福に執着せずに、他に幸福を分け与え、また、慢心・油断を避けて、努力をし続けなければならない。これが真の智慧と慈悲であるが、いわゆる菩薩と呼ばれる人以外は、ほとんど、一時的に幸福になると、智慧ではなく無智に基づく慢心が増大し、他への慈悲ではなく自己の幸福に執着してしまう。<br />
こうして、善・優とされていた人が、悪・劣の状態になる構造があるのである。私たちが今尊敬している人達も、将来どのように変化していくかは、注意して見なければならないのである。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（２）善が悪に、悪が善に転換する</strong></span>
</p>
<p>
一方、これまでに悪行をなし苦しんでいる人がいても、それが一定の段階に行き着くと、その苦しみのために悪行を反省し、善行をなすようになる。仏陀は、悪業による苦しみから正法に対する信仰が生まれると説いた。<br />
よって、悪・劣とされていた人が、反省・改心の結果として、時を経て、善・優の状態になる構造があるのである。よって、先ほどとは逆に、今劣っている人・悪いとされている人が、将来どう変化していくかも、謙虚な心を持って、よく注意して見なければならないだろう。<br />
ただし、たいていの場合は、この反省・改心が永続しない。反省・改心によって、徐々に幸福になると、そこで先ほど述べた慢心・執着が生じてしまうのである。よって、人は、長期的に見ると、善から悪に、悪から善になるという循環を繰り返すことになる。<br />
これが、仏教の思想にもある六道輪廻である。生き物が善行の多い幸福な世界（善趣）と、悪行が多く不幸な世界（悪趣）をグルグルと生まれ変わるというのである。そして、六道輪廻を信じようと信じまいと、私たちの人間の世界の中でも、これと本質的に同じことが起こっている。長い人生の中で度々、慢心・油断と反省・改心を繰り返し、さまざまな浮き沈みを経験するのが人間である。<br />
しかし、この循環を空しく繰り返す中で、徐々に、この循環の真理を深く悟り、それを乗り越えるのが菩薩である。循環を悟った菩薩は、その深い智慧と慈悲をもって、幸福になっても執着や慢心を避け、他に幸福を分け与え、善行を積む努力をし続ける。よって、悪趣に生まれ変わることなく、人々の救済のために生まれ変わり続けるとされる。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（３）大煩悩大解脱、解脱前後で優劣・善悪が転換する</strong></span>
</p>
<p>
そして、この菩薩になっていくプロセスでは、もう一つ重要な、善悪・優劣の循環が生じる。それは、大煩悩大解脱という教えである。これは、煩悩が大きい者は、改心したならば、大きな解脱（高い解脱）をするという意味である。<br />
これにはいくつか根拠がある。煩悩が大きいとは、エネルギーが大きいという面があり、それゆえに、解脱した場合は、そのエネルギーが良い方向に使われるために、大きな解脱をするということである。よって、大悪業をなした者が解脱して大善業をなしたという記載が仏典にはある。<br />
また、大乗仏教には、煩悩即菩提という教えがある。これは煩悩と菩提心（仏の悟りの心・大慈悲）は、本質的には別のものではないという意味である。ヨーガ・密教の教えでは、性欲などの煩悩が、解脱によって昇華されると、慈悲のエネルギーに変わるとされている。よって、大煩悩が大解脱に通じ、大煩悩が大慈悲（大菩提）に通じることになるのである。<br />
また、煩悩が大きい・強い者は、その分だけ深く苦しみ、悟りも遅れることになる。しかし、苦しみは慈悲の源である。自分と同じように煩悩が強く、深く長く苦しむ者の気持ちを理解し、救おうとする慈悲の心も強くなる。煩悩が弱い者は、その分苦しみが少なく悟りも早いだろうが、逆に、自分の実体験を通して煩悩の強い者の苦しみを理解し救おうという動機は形成し得ない。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（４）人の差異は、優劣の違いではなく個性・役割の違い</strong></span>
</p>
<p>
よって、煩悩が強く解脱が遅いというのは、一つの個性であって、煩悩が弱く解脱が早い者と比べて、劣った存在であるのではない。また、同時に、煩悩が強いがゆえに大解脱するというのは、一つの個性であって、煩悩が弱く大解脱しない者に比べて、優れているのではない。<br />
言い換えると、これは、皆が助けあって幸福になる上において、全体に対する個々人の役割の違いである。煩悩が弱く早く解脱する者は、煩悩が強く後から解脱する者にとっての先駆者・道しるべ・見本として手助けとなる。<br />
そして、後から解脱する者は、自分と同じく煩悩の強い者たちを含めて多くの人を導き、その意味で先駆者の手伝いをする。こうして、助けた者が助けられ、助けられた者が助けるという構造がある。<br />
仏典において、この典型的な例が、いち早く悟って仏法を地上に広めた釈迦牟尼と、釈迦牟尼から遅れること56億7千万年後に悟るとされている弥勒菩薩の教えであろう。遅れて悟る弥勒菩薩は、しかしながら、（釈迦牟尼ができなかった）全人類を四向四果といわれるステージに導く偉業をなし、釈迦牟尼をおおいに助ける（補う）仏とされている。<br />
こうして、人と人の間の差異は、優劣・善悪の違いではなく、それぞれの個性、全体に対する役割の違いなのである。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（５）長所と短所は裏表、よって優劣・善悪は転換する</strong></span>
</p>
<p>
ここまで仏教の例を挙げて説明してきたが、これらを一般的な表現でわかりやすくいえば、短所と長所はセットであり、短所の裏に長所、長所の裏に短所があるということである。よって、それは本質的にいえば短所でも長所でもなく、その人の個性であり、その人は、その個性の長所の側面を磨いて、全体のために発揮することが、その役割である。<br />
一般的にいえば、何かに優れているということは、その裏に別の面では劣っているということがある。例えば、自分が優れていると、優れている他人を支える徳性は培いにくいし、また、実体験がないから、劣っている人の気持ちを理解し、それを手助けする能力・動機も弱くなる。そもそも、優れているがゆえに、（容赦なく）他に勝つことに慣れてしまうと、負けて苦しんでいる者への慈悲は培いようがない。<br />
こうして、長期的・多面的な視点で見ると、人の短所と長所はセット・裏表であり、善の裏に悪、悪の裏に善があるとわかる。こうして、やはり人と人の差異は、本質的には、優劣・善悪ではなく、その人の個性・役割の違いということができる。<br />
よって、私たちは、一時的・一面的な視点で、人と人の間に安直に善悪・優劣の二分化をするべきではないだろう。私たちが今見下している人たちが、将来大きく脱皮していく可能性を踏まえ、すべての人に対して平等に、謙虚な心をもって見つめる必要がある。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（６）敵が味方に：宗教の最奥儀の一つ</strong></span>
</p>
<p>
最後に、一つ付け加えるが、大煩悩大解脱、煩悩即菩提という教えを前提にすると、そこでもう一つ出てくるのが、宗教上の敵が、時を経て、大きな味方に変わっていくという重要な教えである。<br />
すなわち、最初は、煩悩によって法則・真理が理解できないために、それを説く者に対して、その強いエネルギーで激しく攻撃することがあるが、時期が来て改心したならば、非常に有力な助力者になるという事実である。<br />
実際に宗教には、例えばイエスを弾圧していたパウロがその後改心してからは最も有力な弟子となった事実、仏陀を殺そうとしていたアングリマーラが仏陀に出会って改心した後は高弟となった事実、同じく仏陀の教団を分裂させたデーヴァダッタが改心した後は仏教の護法神となった説話、そして日本でも、例えば親鸞上人を殺そうとした男がその有力な弟子になったという事実などがある。<br />
この宗教上の敵が味方に変わっていくということは、善悪・優劣の転換の最も興味深い事例であろう。
</p>
<p>
<br />
<strong><span style="font-size: small">（７）善悪・優劣転換の構図</span></strong>
</p>
<p>
では、ここで図によって、優劣・善悪の転換・循環の構造を明確にしておこう。<br />
</p>
<p>
&nbsp;
<img src="/mt/uploads_files/images/image32.gif" alt=" " width="436" height="261" />
<br />
<br />
<br />
<span style="font-size: small"><strong>（８）人と人を優劣善悪に二分化した場合の苦しみ</strong></span>
</p>
<p>
最後に、人と人の間を優劣・善悪で二分化した場合、どのようなマイナスの心の働きが生じるかを解説しておこう。まず、自分が他より優れている錯覚＝慢心、そして、それに基づく他への軽蔑（を含んだ嫌悪）。また、自分が他より劣っているという錯覚＝自己嫌悪・卑屈、そして、自分より優れている人と錯覚する対象への妬み・嫉妬である。<br />
こうして、善悪・優劣を二分化すると、自分も他人も愛せない心の状態になる。まず、負け組、卑屈優位な人は、自己嫌悪が強いから、自分を愛せないが、同時に、嫌いな自分を取り巻く周囲・他人に対しても不満・嫌悪がある。自分の不幸を他人のせいにする傾向があるのである。自分が不幸だと感じている以上、他人への感謝も生じない。<br />
また、勝ち組は慢心優位であるが、しかし、上には上がいるから、その人なりの卑屈・自己嫌悪・現状への不満がある。また、慢心で他を見下していると、その慢心のために、将来に自分が没落した時に生じる卑屈・自己嫌悪は非常に強く深くなる。こうして、勝ち組・慢心優位な人も、本当の意味では自分も他人も愛せないのである。<br />
こうしてみると、自分と他人の双方を本当の意味で愛するには、自分と（いかなる）他人の間も優劣で二分化することなく、個々人の違いは個性・役割の違いであり、万人が平等な尊い価値を持つ存在として尊重する場合であるということがわかる。<br />
仏教では、これを万人・万物が平等な仏性の顕現であると表現する。そして、すべての衆生を平等に愛する心（四無量心の捨の心）を培うように説いている。
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong><br />
３．弥勒菩薩の法の立体的な理解--自と他の輪、万物を一体と悟って愛す</strong></span>
</p>
<p>
弥勒菩薩の法則は、自己と他者を含めた万物が別々の存在ではなく、輪のように一体であるという真理に基づいて、万物を一体として愛するというものである。<br />
それに基づいて、自と他を区別して、自分だけに執着する自我執着を超え、真の自分は宇宙全体であり、真の自分の家族は宇宙全体であるという視点を持って、すべての生き物・万物の幸福・不幸を自分の幸福・不幸と考え（大慈悲）、共に幸福になることを目指すという教えである（弥勒菩薩の菩提心）。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（１）自と他が輪のように一体</strong></span>
</p>
<p>
それでは自と他が輪のように一体であるという点を検討してみよう。それには、以下のような分析が可能である。<br />
まず、自分の生は他の生き物の死に支えられている。つまり、他の生（他の体）が、自分の生（自分の体）になっている。また、時が来れば、自分の死が、他の生を支える。すなわち、自分の体が他の体になる。いわゆる食物連鎖の循環（＝輪）である。<br />
言い換えると、この世の生命体は、自分だけで独立して生きておらず、他と生命・身体を交換し合いなら生きている。これは、地球の生命圏の絶対の摂理であり、仮に人間が死ななくなれば、人口爆発や食物連鎖・生態系のバランスが崩壊して大破局が訪れる。<br />
こうして、自分の生を支えるために、他者が自己になり、お返しに自分が死んで、自己が他者になるというバランスの中で存在しているのであるから、自分だけに執着することは、自然の摂理に反し、真の自分は宇宙全体に広がっているという視点が出てくる。<br />
第二に、自分と他人が輪のように一体であるという事実は、生と死の際に限らず、生きている間にも絶えず起こっている。私たちの体を構成する分子は、少なくとも数年単位で、全部入れ替わってしまう。こうして、自分と外界・他者の間でめまぐるしい分子の交換・循環が生じている。<br />
また、身体面だけでなく、精神面においても、私たちの思考を形成する情報や知識は、自分と他人の間でめまぐるしく交換・循環している。私たちは自分だけで形成した情報や知識は有していない。そもそも思考の土台となる言語自体から、すべて他者から学習したものである。<br />
さらに、まだ科学的にはよくわかっていないが、我々の精神に関係する脳を構成する分子も、他者の分子と完全に入れ替わっていくから、この意味でも、精神的に、自分と他人の間で密接不可分な交換・交流が生じている。
</p>
<p>
では、最後に、この点を図にして理解してみよう。
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<img src="/mt/uploads_files/images/image31.gif" alt=" " width="226" height="193" />
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<br />
<br />
<span style="font-size: large"><strong>第四章　仏教が説く真の幸福の道</strong></span>
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<br />
<span style="font-size: small"><strong>１．法則の日記１：今ここの幸福　求める幸福と気づく幸福<br />
（2011年6月21日の日記の改訂版）</strong></span>
</p>
<p>
仏陀の教えを含めた普遍的な道理で、少欲知足・足るを知るというのがあります。これをわかりやすく表現しなおすと、今ここにある幸福を見つけることだと思います。
</p>
<p>
人は、多かれ少なかれ現状に不満で、特に経済成長至上主義ともいうべき現代社会の価値観の中では、それが強くなっていると思います。<br />
そのため、現状にいろいろと不満を持ち、その反対の感謝が乏しく、その現状を作っている過去にいろいろと後悔を抱き、さらに未来に対しても現状の不満が解消してほしいと願いつつ、そうならない不安や、より悪くなることに不安を持つ。<br />
こうして、現状に不満、未来に不安、過去に後悔、といった心の働きを常に持って、それが頭の中をいっぱいにしているのです。
</p>
<p>
そして、この精神状態がただ続いていけば、いつまで経っても幸福になれず、寿命を迎えてしまい、一生本当に楽しんだ時間のないままに人生が終わります。<br />
というか、最近は、寿命を迎える前に、この精神状態のために、うつ病など、人生に途中で疲れてしまう人が多くいるようです。昔なら未来への希望に燃えるべきとされる若者の中にも、すでに疲れている人も。<br />
人は、未来や過去に生きているのではなく、今この瞬間に生きているにもかかわらず、その今現在を十分に楽しめずに、さまざまな不満・苦しみが多い。<br />
それに輪をかけて、頭の中にしか存在しない未来と過去にも不安と不満があるというのでは、二重三重のストレス。
</p>
<p>
こうしてみると、この問題を緩和するには、今現在にいかにして幸福を感じるか、すなわち、今現在にいかに幸福を見つけるか、ということが重要になると思います。<br />
これは言い換えると、幸福には、<br />
１．今ないものを未来に求めて得る幸福と、<br />
２．今すでにあるものに気づいて得る幸福<br />
という二つがあることがわかります。
</p>
<p>
そして、前者だけでなく、後者をいかにして得るかが大切です。少なくとも、両者の間の一定のバランスをとることが重要だと思います。そして、このためには、<br />
１．欲楽は求めても求めても際限がなく、その裏にさまざまな苦しみが生じるという本質があることを理解しつつ、<br />
２．今ある幸福に気づくように努めるとともに、今経験している苦しみの裏側にも幸福を見出すこと<br />
が非常に有効だと思います。
</p>
<p>
次回はこの点について少し書きたいと思います。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>２．法則の日記２　幸福を見る人が幸福になる<br />
（2011年６月23日の日記の改訂版）</strong></span>
</p>
<p>
前回は、多くの人が、「もっともっと（欲しい）」と、未来に欲望を投げかけつつ、その裏で、それが得られないのではという不安、今あるものさえ失うのではという恐れ、また、得られなかった過去や現在についての後悔や不満に悩んでいるお話をしました。<br />
そして、それを言い換えて、「現状に不満、未来に不安、過去に後悔」で頭をいっぱいにしていると表現しました。
</p>
<p>
これでは、いつまでも幸福になれず、死ぬときに振り返っても、本当に人生を楽しんだことは一瞬もなかったということにもなりかねません。これはおかしいと思います。<br />
最近は、ある意味でこれに気づいたのか、若者の中にさえ、人生に途中で疲れ、燃え尽き、絶望し、鬱・自殺に到る人も多い。これは悲しいことです。<br />
未来に不安、過去に後悔といっても、人は、未来や過去ではなく、今この瞬間に生きている。未来や過去は頭の中にあるだけで、実際にあるのは一瞬一瞬の今のこのときだけ。にもかかわらず、未来や過去の不安や後悔で、今楽しめない。これは残念なことです。
</p>
<p>
これを乗り越えるには、今現在に、いかに幸福を感じるか、すなわち、今現在に、いかに幸福を見つけるか。言い換えると、幸福には、<br />
１．今ないものを未来に求めて得る幸福と、<br />
２．今すでにあるものに気づいて得る幸福<br />
という二つがあることになります。
</p>
<p>
求めて得る幸福は、求めても得られない場合の不幸が、その裏にあります。そして、その本質は、他と奪い合う幸福ですね。すなわち、求め争って、得られる人と得られない人がいるという幸福（と不幸です）。<br />
さらに言い換えるならば、他の不幸の犠牲の下の幸福。他の不幸とセットの幸福ということになります。現代の競争社会では慣れきってしまっていることですが、毎日の生活に単に流されずに、これが本当の幸福への道だといえるかについては、よく考えてみる必要があると思います。
</p>
<p>
一方、気づいて得る幸福は、気づく努力をすれば、必ず得られる幸福です。他から奪う必要のない幸福であり、皆が得られる幸福であり、他の不幸の犠牲・他の不幸とのセットではない幸福です。これこそ本当の幸福ではないでしょうか。
</p>
<p>
それからもう一つ。求める幸福と、気づく幸福があるとは、言い換えるならば、環境・条件を変えて得る幸福と、視点を変えて得る幸福があるということになります。<br />
視点を変えて得る幸福とは、言い換えると、幸福とは、幸福を見る人に訪れるものであり、不幸とは、不幸を見る人に訪れるものだ、という考え方。
</p>
<p>
よく考えると、どんな人にも、どんな出来事にも、幸福と不幸の二つの側面があることがわかります。例えば、どんなに恵まれていても、もっと欲しいと思い、ストレスがあるのが人間。高いところに行くほど、失いたくない、落ちたくないという不安は逆に多くなる。さらに、自分を妬む人、敵も増え、奪い合いの中に深く入る。
</p>
<p>
だから、他人が思っているほど、その人自身は幸福ではない。恵まれた人には、恵まれていない人にはない苦しみがあり、持たない人には、持っている人にはない軽い心がある。<br />
こうして万事、幸福と不幸は裏表、輪のように繋がっていると考えると、幸福・不幸というものは、幸福を見るか、不幸を見るかで決まってくるとわかる（※ひかりの輪の「輪」は、この苦楽・万物が一体という意味を含んでいます）。<br />
<br />
これが、釈迦牟尼が説いた自業自得の本当の意味の一つではないでしょうか。つまり、幸福、不幸は、それぞれの人の心の持ち方、視点が作り出しているものである。だから、同じ条件でも、幸福を感じる人、感じない人がいる。<br />
そして、他人を含めた環境が、自分の思い通りにならない以上（ないしは、自分の思い通りにしようとすれば他人を苦しめ、自分も本当に幸福にならない以上）、自分の心の持ち方・視点を変える方が、真の幸福に至る賢い生き方である。これは、覚者（目覚めた人）といわれた釈迦牟尼らしい幸福観ではないでしょうか。
</p>
<p>
とはいえ、この心の持ち方、視点を変えることが、人にはなかなか難しいものです。そもそも、多くの人、ほとんどの人に、幸福を求めて、他に勝って得ようとする習慣が根付いています。おおよそ都市文明が始まって以来そうなのでしょうが、特に現代の資本主義・競争社会では、そのような傾向が非常に強い。<br />
教育からして、知識や技能を学び、競争に備える学習はしても、心の持ち方を変える、心をコントロールする術などは全く学ぶ機会がない。だから、競争に負けて、絶望した人が自殺や心の病気にかかることも多くなっています（一方、勝ち組は安直に慢心に陥り、非常に不安定に見えます）。
</p>
<p>
よって、心の持ち方を変えよう、視点を変えようと考えてから、それがある程度できるようになるまで時間がかかります。しかし、焦らず弛まず練習すると、徐々にできるようになるのが、これがまた人間に備わった能力です。練習＝良い習慣は徐々に結果をもたらす、まさに継続は力なりです。<br />
そして、心の持ち方・視点を変える力は、身につければ、それは一生の財産になります。<br />
外側のものは、いったんは得ても、いつかは失う定め。どんなに勝っても、年を取り、老いる中では、いつかは負け組になり、失います。しかし、自分の内側に養った智慧と愛の精神は、年を取るにつれ、逆にますます成熟し、老熟の境地をもたらします。
</p>
<p>
その練習とは、具体的には、それに役立つ考え方を学んで、日常生活で活かすのがまず基本です。<br />
そして、さらにスピードを速めるためには、心に多大な影響がある身体の浄化を含めたアプローチが有効です。それが行法といわれるもので、例えば、ヨーガの体操・呼吸法、そして瞑想などです。<br />
そして、最後に、自分の周囲の環境を浄化する、整えることも重要です。自宅を掃除したり、霊的に浄化したりすること、そして聖地に行くなど。<br />
こうして、ひかりの輪では、①教学（正しい考え方を学ぶ）、②功徳（正しい日々の行動）、③行法、④聖地（聖なる環境）という四つを修行の柱にしています。
</p>
<p>
さて、どんな人が、心の持ち方を変える道に入るのでしょうか。それは、幸福を貪り求めたあげく、完全に行き詰まった人かもしれない。生来、貪り求める幸福・競争の幸福が、肌に合わない人かもしれない。皆が幸福になることを強く求めている人かもしれない。
</p>
<p>
人生の行き詰まりか、社会一般の競争の価値観への疑問か、真の幸福・愛への希求かは別にして、何かの苦しみを感じた人が、転機を迎えるようです。お釈迦様の教えでいえば、苦しみがあってこそ、正法への信仰が生まれるという教えがあります。
</p>
<p>
でも、21世紀、経済成長至上主義、競争主義の世の中が揺らいでいます。資源・エネルギー・環境の問題が露呈させた東北震災と原発事故。そして、ひたひたと近づいてくる地球温暖化問題があります。<br />
人間の自然・地球を開発する（貪る）活動が限界に来ているともいわれる中で、人類全体が、求めて得る幸福の追求には、行き詰まりを感じ始めた時代ではないでしょうか。<br />
そういった時代には、幸福は気づいて得るもの、幸福な人は幸福を見る人、という教えは、さらに重要になると思います。
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<span style="font-size: small"><strong>３．法則の日記３：万人から学ぶ幸福を得る法<br />
（2011年6月24日の日記の改訂版）</strong></span>
</p>
<p>
前回は、今ここに幸福を感じる、見出す生き方についてお話をしました。そして、その中で、求めて得る幸福だけではなく、今すでにあることに気づいて得る幸福が大切だとお話ししました。<br />
さらに、それを言い換えれば、どんな人にも、どんなことにも、深く考えれば、幸福と不幸の二つの側面があるから、幸福を見る人は幸福になり、不幸を見る人は不幸になるというお話をしました。<br />
<br />
今回は、それに基づいて、善い人を見ても、悪い人を見ても、利益＝幸福を得ることができる考え方についてお話ししたいと思います。<br />
善い人、悪い人という表現は、わかりやすいものの、人は神でも悪魔でもなく、どんな人にも善悪の双方がある以上、あまりに単純化することは避けて、善いことをしている人、悪いことをしている人と言い換えましょう。
</p>
<p>
普通、善いことをしている人からは、私たちは利益を得ることができると考え、悪いことをしている人には腹が立ち、嫌な思いをすると考えます。<br />
しかし、これは固定観念であり、善いことをしている人を見ても、悪いことをしている人を見ても、自分の考え方を訓練するならば、利益＝幸福を得ることもできます。同時に、下手をすると、どちらを見ても、不幸になる場合があります。
</p>
<p>
善いことをしている人は、その善行によって、本人は幸福になると思います。しかし、それを見る側の私たちは、<br />
１．その人を自分の見本として喜び、見習う努力をすれば利益になりますが、<br />
２．単に愛著し、依存・盲信すれば、無智と怠惰を増やす不利益になるし、<br />
３．妬む場合は、いうまでもなく、不幸になります。<br />
<br />
２の依存・盲信とは、よく誰かの「取り巻き連中」などといわれる人などが、その中心人物を見習い学ぶのではなく、その中心人物の徳を自分の徳と錯覚して、中心人物に依存してプライドを満たしている場合などがあるでしょう。
</p>
<p>
一方、悪いことをしている人は、その悪行によって、本人は不幸になると思います。しかし、それを見る側の私たちは、<br />
１．その人を自己の反面教師として反省すれば、大きな利益になりますが、<br />
２．自分と区別して、嫌悪・怒りを抱くだけなら利益にはならず、不利益になるし、<br />
３．その悪を真似する場合は、いうまでもなく、不幸になります。
</p>
<p>
悪いことをしている人を反面教師にすることは、他人の欠点はよく見えるが、自分の欠点を見ることは苦手な私たちにとって、相当に難しいことです。常々、自と他を区別し、虚栄心・慢心にとらわれがちですから。
</p>
<p>
しかし、例えば、身近に反面教師が存在することで、初めて、自分自身がその反面教師のなしている悪いことを避けるように努力できる場合が非常に多いと思います。最近は、親子関係、夫婦関係の問題がよくいわれますが、親や配偶者を見て、自分は絶対こんな事ことしたくないと思うとか。
</p>
<p>
人は皆弱いもので、身近に反面教師がいて、自分の代わりに身をもって悪いことをした結果の大きな苦しみ・惨めさを具体的に示す存在がない場合、自分が初めて悪いことに誘惑されることになります。その場合は、反面教師がいる場合と比べて、同じ弱い心を持った人間として、どのくらい悪の誘惑に対抗できるものか。こう考えると、反面教師は貴重です。
</p>
<p>
こうしてみると、善いことをしている人、そして悪いことをしている人を見た時に生じる利益・不利益、幸福・不幸は、その人たちのせいではなくて、自分が選んでいる、自業自得のものであるということができると思います。
</p>
<p>
そして、ここでのポイントは、どちらを前にしても、自分が幸福になるには、その人と自分を区別せずに、自己の教師、ないし反面教師として活かす努力をすることであることがわかります。
</p>
<p>
善いことをしている人に依存したり、妬んだり、悪いことをしている人を嫌悪する人は、他人と自分を区別している点が共通しています。<br />
自と他の区別をせず、善人も悪人も、自己の潜在的な可能性であるとわかれば、善人が自分が見習うべき見本であるだけでなくて、悪人さえも自分の貴重な反面教師であることがわかる。
</p>
<p>
こうして、どちらを前にしても、そういった努力すれば、教師・反面教師として、すべての人を自分の導き手として、幸福になる場合が多くなり、逆に、その努力をしなければ、どちらを前にしても、利益がないか、不幸になる場合が多くなります。
</p>
<p>
大乗仏教では、悟った人には万人が仏に見えると説かれますが、万人が教師ないし反面教師であるならば、万人が、仏が私たちの成長のために与えた存在＝仏の現れと見ることもできると思います。
</p>
<p>
<br />
●参考：大乗仏教の教義
</p>
<p>
１．すべての衆生に仏性あり<br />
すべての衆生に仏性＝未来に仏陀になる可能性がある。すべての衆生が成仏する。<br />
悪業をなしている者も、その苦しみから反省し、未来に仏陀になる可能性がある。<br />
釈迦も、その弟子たちも、かつては悪をなして、改心して、悟った。
</p>
<p>
２．すべての衆生が仏の現れ<br />
大乗仏教では、<br />
①すべては平等な仏性の現れであり、不必要なものは一切ないと説き、<br />
②また、悟った人には、すべてが仏と浄土に見えると説く。<br />
一部の経典では、宇宙のすべてが根元仏である大日如来の現れとされ、<br />
この宇宙が法界であると説く（重々無尽縁起・法界縁起）。
</p>
<p>
３．その他の参考の考え方<br />
①善をなす人は、他の見本となることはできるが、悪をなす人と違って、<br />
その実体験によって、悪をなす人の苦しみを理解して救うことはできない。<br />
②逆に、悪をなす人は、最初は他の見本となることはできないが、<br />
その悪業による苦しみを味わい、改心して成長すれば、同じ悪をなす人を<br />
理解して救う力は、そういった経験のない人よりも大きくなる。<br />
③こうして、万人が成長して、未来に仏陀になるという視点からは、<br />
今善をなしている人も、今悪をなしている人も、長い目で見れば、<br />
人を救う上での時期や役割の違いがあるだけで、その違いは<br />
優劣ではなく個性であって、両者は平等な価値を持つ。
</p>
<p>
<br />
４．法則の日記４：正しい神仏への祈願--如意宝珠をシンボルとして<br />
（2011年7月13日の日記の改訂版）
</p>
<p>
聖徳太子にまつわる仏像や霊性のお話をしてきましたが、聖徳太子は観音菩薩の化身とされています。特にぐぜ救世観音とか、如意輪観音の化身といわれます。
</p>
<p>
そして、この如意輪観音が持っている法具が如意宝珠です。法隆寺の聖徳太子を模したとされる救世観音（如意輪観音）の御写真を見ると、確かに両手の上に如意宝珠を持っています。なお、この写真の如意宝珠〈http://tera-q.com/butuzou/b_5.html〉は、宝珠の上に炎が昇っています。<br />
<br />
また、如意宝珠は、日本の神社仏閣には相当に浸透していて、上部が尖っている球形の造作は、いたる所で見受けられます。よって、皆さんも気づかないうちに、よく見ているものなのです。<br />
この如意宝珠とは、意のままに願いをかなえる宝珠という意味です。サンスクリット語では、チンター・マニ。チンターが如意（意のままに）、マニが宝珠。<br />
これは、意のままに願いをかなえる仏の法力を象徴しているとも解釈できます。すなわち、仏陀の境地の悟りに到達した者の精神的な力の象徴です。
</p>
<p>
しかし、かなう願いは、よこしま邪な願いではなく、正しい願いに限られるとされています。観音菩薩は、悟りだけでなく、現世の幸福もかなえる仏ですが、それは、本当の幸福(＝悟り）に至らしめるための当面の方便であって、人の欲望を満たすためではないわけです。<br />
よって、観音様は、人から願いを受けると、その願いが正しい願いかどうかを判断するとされます。それがかなうことで、その人や他の人が本当の意味で幸福になるか、ならないかを判断し、かなえるかどうかを決めます。<br />
つまり、正しい願いは必ずかなう（意のままにかなえる）という意味での如意宝珠です。よって、正しい願いとそうではない願いを見分けて、前者を実現する法力だということもできるでしょう。<br />
<br />
さて、これは観音様の法力の話ですが、しかしよく考えると、これは私たちの心の仕組みのことを説いているとも解釈できます。すなわち、正しい願い、すなわち、私たちが本当に純粋な心で願うことはかないやすく、不純な願いはかないにくいということです。<br />
正しい清らかな願いは、その人の心の全体が、それをかなえようとします。それは、その人の中の良心、その人の中の仏（＝仏性）も、それをかなえようとするからです。こうして、心全体が集中すれば、大きな力が発揮されます。私は、これが、如意宝珠の意味ではないかと思うのです。
</p>
<p>
これを心理学的にいえば、表層意識と潜在意識の全体が一つになり、すべての精神的なエネルギーが集中する状態です。ユング心理学でいえば、表層意識に加え、集合無意識やセルフといったものが働く。経験則的にいえば、火事場の馬鹿力などもこの一種だと思います。<br />
ちょうど、如意宝珠は尖っている部分のある球の形をしていますが、球が、宇宙全体ないし人の膨大の潜在意識(集合無意識）を表し、尖った先端が、個人ないし人の表層意識を表しているともされます。<br />
よって、如意宝珠全体で、個人と宇宙の合一、表層意識と潜在意識の合一を象徴しているということもできるのです。この表層意識と潜在意識の合一をもって、悟り、仏性の覚醒ともいわれます。<br />
<br />
一方、邪な願いの場合は、その人の心全体が、その実現を欲しているとはいえないでしょう。どんなに潜在意識・無意識に埋もれてしまっていても、どんな人にもある良心、その人の中の仏・仏性は、それに抵抗していると思います。さわやかに、一生懸命に願うことはできないでしょう。
</p>
<p>
では、正しい願いとは何かというと、仏教が説く心の三毒、根本的な煩悩である無智・貪り・怒りのない願いだと思います。この無智・貪り・怒りを超えた正しい願いとは、わかりやすくいえば、<br />
</p>
<p>
１．神仏に依存して自分の努力を怠ることなく、<br />
人事を尽くした上でのお願いであり、<br />
<br />
２．必要以上のものを欲張る貪りのお願いではなく、<br />
必要な分だけのお願いであり、<br />
<br />
３．他に対する怒り・憎しみによるお願いではなく、<br />
他への愛を土台とした（ないし他のことも配慮した）お願い、
</p>
<p>
といったように表現できるのではないかと思います。<br />
<br />
とはいえ、私たち人間は、仏のように完全ではなく、無智・貪り・怒りを完全に滅することはできません。仏はそれを十分にご存じで慈悲深いので、私たちに完全は求められません。求められるのは最善を尽くすことまでだと思います。<br />
無理なことではなく、できることの最善を尽くす。よって、今よりも一歩でも二歩でもいいから、無智・貪り・怒りから離れながら、お願いすることだと思います。
</p>
<p>
私のこれまでの経験からすると、このように正しい祈願ができた時は、本当によく願いがかないます。この自分の経験に基づいて、皆さんにこのお話をすることにしました。<br />
よって、これは、いわば観音様の如意宝珠の教えです。<br />
ただ、正しい願いですから、そんなに頻繁にやるものではありません。一年に何回かでしょうか。必要な時に限って、必要なだけ、自分の努力の改善を決意しつつ、お願いします。そして、記憶している限りでは、必ずかなっています。<br />
そして、これは、人の心の中に眠る潜在的な力であって、すべての人の中にある仏性の力だろうと思います。その尊い力を象徴し、それを引き出すシンボルとして、仏教修行者の歴史の中で信じられたのが、如意宝珠なのだと思います。
</p>
<p>
最後に、ひかりの輪では、釈迦牟尼の生誕地のネパールにあるヒマラヤの水晶を材料として、特別に注文した如意宝珠を入手しました。日本製の物の方が加工の精密度は上でしょうが、触ったときの感じ（エネルギー）が違います。自分の純粋な気持ちを引き出してくれるシンボルとして適切なのでしょう。しっくり来るというか、何かの力がこもっているので、とても気に入っています。
</p>
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<br />
５．基本仏教講義：幸福をもたらす功徳とカルマの教え<br />
（2011年7月21日 専従スタッフ向け代表講義より）
</p>
<p>
●功徳とは何か
</p>
<p>
仏教では、功徳によって幸福になるという。また、大乗仏教が求める仏陀の境地の悟りも、功徳を集積していくこと（方便の実践）が、その条件の一つとなっている。では、この功徳という言葉は、具体的には何を意味しているかについて、述べたいと思う。言葉は知っていても、その意味を知らないことがよくあるからである。
</p>
<p>
岩波仏教辞典などを見れば、功徳とは、①善行（自体）、②善行に備わった良い性質、③善行によって人に備わった徳性、④善行の果報や利益といった多様な意味がある。<br />
まず、①は、「その行為は、功徳ですか、悪行ですか」などという場合にあたる。②には、「悟りのためには、功徳が必要です」などという場合である。善行を積み重ねることで生じる目に見えない力を意味している。③は、「あの人は功徳がある。徳人である」などという場合。④は、「今幸福なのは、過去の功徳のおかげ」などという場合である。
</p>
<p>
●カルマとは
</p>
<p>
さて、功徳に関連して、カルマ（業）という言葉の意味も解説しておく。業は、サンスクリット原語ではカルマン。そして、よく善いカルマ・善業、悪いカルマ・悪業などといわれる。<br />
業というのは、単に何かの行為だけを意味する概念ではなく、その行為の後に残存する、未来に何かをもたらす潜在的な力を含んだ言葉である。<br />
そもそも、インドの思想では、何かの行為は、その行為が終わって、目には見えなくなっても、その後に残る潜在的な力があるという思想があったのだろう。よって、善いカルマという言葉と、功徳という言葉は非常に近い意味を持つ。
</p>
<p>
●善業・悪業の存在
</p>
<p>
次に、善業ないし功徳や、悪業といったものが、実在するかどうかについてである。これは目に見えないものであり、輪廻転生を前提として今生の善業や悪業が来世に現れるという思想の場合は、立証のしようがない。しかしながら、依然として、仏教が説く善業・悪業という概念は、解釈の仕方によっては、現代人にとっても理性的で重要な価値を持つ思想となりうると思う。
</p>
<p>
まず、現代人でも、科学的には立証できなくても、善業・悪業を経験則的に感じている部分がある。その経験則とは、善いことをすると、心が軽く暖かく明るくなり、悪いことをすると、心が重く冷たく暗くなるといった経験則である。これは、善業・悪業というのが、心（と身体）に影響を与える一種のエネルギー（精神的・霊的なエネルギー）である可能性を示している。<br />
そして実際に、仏教の中でも密教やヨーガ、そして道教・仙道の世界では、人の体には、目に見えないエネルギーとその流れる道があるとしている。気や経絡、ヨーガのクンダリニーとナーディ、密教の管・風・心滴といった概念である。<br />
そして、これらの思想では、善い行為によってエネルギーは上昇し強くなり、悪い行為によって下降し減少するとされる。善い行為でエネルギーが上昇し強くなるから、心が軽く暖かく明るくなると感じ、悪い行為でエネルギーが下降し弱るから、心が重たく冷たく暗くなると感じるのである。
</p>
<p>
●幸福をもたらす功徳
</p>
<p>
これに基づくと、功徳が幸福をもたらし、悪業が不幸をもたらすということも、ある程度理解できるだろう。軽く暖かく明るい心は、それ自体が幸福な状態ということができるし、そういった精神状態であれば、物事を適切に判断する智恵（智慧）も高まり、何かを達成する力も強くなる。また、さらに善い行為を積み重ねることもでき、人から愛される人格を形成するだろう。一方、重く冷たく暗い心は、その逆であろう。<br />
そして、こう考えると、大乗仏教が、功徳の集積が現象をありのままに見る力＝智慧の源となると説くことや、功徳が幸福をもたらす力となると説くことも理解できるだろう。功徳が仏陀の境地に至る条件、幸福になるための条件、願望をかなえるエネルギーというのである。
</p>
<p>
なお、大乗仏教では、功徳を積むと智慧が増大し、智慧が増大するといっそう功徳を積むことができるとして、功徳と智慧の循環を説いている。逆に言えば、悪業は無智を増大させ、無智が悪業を増大させる一面があるのである。<br />
ただし、この悪循環は永久に続くものではない。というのは、悪業がある段階まで積もると、それによる苦しみが激しくなり、悪業が苦しみの原因であることに気づいて、無智が和らぎ、善業に向かうというプロセスがあるからである。
</p>
<p>
●功徳は人格・身体・環境に現れる
</p>
<p>
さらに、伝統の仏教思想では、功徳が、人の心・精神・人格だけでなく、身体や環境に影響を及ぼすとしている。悪業の多い人は、その精神が歪むだけでなく、身体にも苦しみが多く、悪い環境に生まれるというのである。<br />
この思想を安直に使うと、今苦しんでいる人たちは、悪い（ことをした）人たちであるという差別思想になってしまうので注意が必要である。しかし、自分自身が幸福に生きるためには、善業・悪業と、身体・環境の関係に注目することは非常に有益である。<br />
というのは、最近は医学においても、以前より広く認められてきているように、心と身体には密接な関係がある。心療内科、心身症、精神病に伴う肉体の変調など、心と体は決して別のものではない。<br />
先ほど、密教・ヨーガ・仙道などでは、身体には、人の心の働きに左右される目に見えないエネルギーの流れがあり、善い行為はエネルギーを上昇させ強くし、悪い行為が下降させ弱くすると述べた。この点をさらにいうと、エネルギーの流れがスムーズで強いと健康になり、滞って弱いと（その部分が）不健康になるとされている。<br />
そして、病気という言葉は、まさにこの思想を表した言葉である。というのは、病気は「気の病」と書くが、これは、体の病気が気持ちの問題に関係しており、より詳しくいえば、心の働きに左右される「気」という目に見えないエネルギーの流れにトラブルが生じることに原因があることを意味しているのである。
</p>
<p>
さらに、身体に限らず、善業・悪業の影響は環境にも及ぶと考えることができる。ここで出てくるのが、「類は友を呼ぶ」という経験則である。つまり人の世界は、似たもの同士が集まる一面があるというものである。<br />
これも科学的に立証されたものではないが、我々の経験からいって、同じような精神的な傾向を持つ人と縁ができやすい、惹かれやすいという事実は、それがすべてではないにしても、そういった一面が確かにあることは、納得しやすいであろう。<br />
だとすれば、善業をなす人は、善業をなす人と縁ができやすく、悪業をなす人は悪業をなす人と縁ができやすいということになる。よって、善業・悪業は、その人の人間関係＝環境にも影響を与えるということができる。
</p>
<p>
●身・口・意の三業<br />
<br />
次に、伝統の仏教では、カルマ（業）の種類を三つに分ける場合がある。すなわち、身体･行動における業、言葉における業、意識における業である。よって、身体・行動における善業・悪業（非善悪業）、言葉の善業・悪業（非善悪業）、意識の善業･悪業（非善悪業）がある。そして、この三つの業を身・口・意の三業という。<br />
そして、密教の修行では、三密加持という修行があり、これは、修行者が、その瞑想修行において、仏の身・口・意の象徴とされる座法・手印・真言・観想を行うことによって、仏と相通じて、仏の境地に近づこうとする修行である。ここでの三密とは、身・口・意の三業のことを意味している。
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●何が善業、何が悪業になるか
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最後に、ある意味で順序が逆になったが、一体どういう身・口・意の行為が、善行・善業となり、どういった行為が、悪行・悪業となるのであろうか。<br />
それを一言でいうならば、現象をありのままに見る智慧と、それに基づく慈悲が増大するような結果をもたらす身・口・意の行為が、善行・善業である。逆に、現象をありのままに見ない無智と、それに基づく貪り・怒りが増大するような結果をもたらす身・口・意の行為が、悪行・悪業ということができる。
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<p>
仏教では、さまざまな煩悩の源となる根本的な煩悩は、無智・貪り・怒りであるとする。そして、煩悩を強めるのが悪業である。ここで重要なことは、煩悩とは、悪業の積み重ね、悪習慣によって生じるとしていることである。悪い行為を重ねると、それが習慣となって、煩悩を増大させ、望ましくない人格を形成し、逆に善い行為は、煩悩を和らげ、望ましい人格を形成するのである。
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さて、ここでいう無智は、現象をありのまま見ることができない状態である。現象をありのままに見ることができないというのは、仏陀の説いた縁起の法を含めた真理が理解できないということである。これをひかりの輪の表現を使えば、万物が輪のように一体であることが理解できない、輪の法則・一元法則が理解できない状態である。<br />
その結果として、万物が一体であるという智慧と、それに基づく万人万物への愛（大慈悲）が損なわれる。そうすると、自分と他人を区別し、他より自分に愛著する（自己愛著・自我執着）。そして、私たち人間は（仏陀といわれる人を除いては）ほとんどすべてこの状態であるのである。
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そして、この無智の結果として、貪り（愛著）と怒り（嫌悪）が生じる。具体的には、自我執着の欲求を満たすことのできる対象には、貪り・執着の感情が生起する。逆に、その欲求を損なう対象には、怒り・嫌悪が生起する。その他の存在には、冷淡・無関心となる。これが、無智から生じる、貪りと怒りという三つの根本煩悩である。<br />
そして、この三つの根本煩悩から、さまざまな煩悩が派生していく。さまざまな執着、卑屈・妬み・慢心、物欲・性欲・食欲・名誉欲・権力欲・支配欲など。仏教では、108とも分類されるさまざまな煩悩が説かれる。
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そして、仏教では、特に十不善（十悪）という教えがある。これは、特に人にとって悪業になりやすい十の身・口・意の行為のことである。それは、身体の業として、殺生・偸盗・邪淫、言葉の行為として妄語（嘘）・綺語（必要のない言葉）・悪口（わるぐち）・両舌（仲違いさせる言葉）、意識の悪業として、無智・貪り・怒りである。<br />
また、こうしたことから、一言でどのような行為が悪業となるかを言おうとすれば（正確かつ十分にいうのは難しいが）、自己中心、エゴの物の考え方や、それに基づく行為であるということができるだろう。
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<p>
では、どういったことが善業になるか。それは、悪業の場合と正反対に、無智を弱めて智慧を強め、貪りや怒りを弱め慈悲を強める結果となる身・口・意の行為である。言い換えれば、この善業を積み重ねる善い習慣が、無智・貪り・怒りを和らげ、智慧と慈悲を生じさせるのである。<br />
そして、その善業の一例が、先ほど述べたこの十の悪行・悪業をなさないように戒める十戒の実践である。さらに、単にこの十の悪行・悪業をなさないだけでなく、その正反対の実践を積極的に行うことを十善ともいう。<br />
それは、例えば、殺生せずに生き物を慈しむ、偸盗せずに他に施す、邪淫をせずに清らかな人間関係を作る、嘘を言わず真実を語り、必要ない言葉を避けて重要なことを語り、悪口を避けて他を正しく褒め、両舌を避けて人と人を結びつけるように語り、無智・貪り・怒りを抑えて、智慧と慈悲を培うなどである。<br />
また、功徳を積むための教えとして、菩薩になる道を説く大乗仏教では、六つの完成という教えがある。それは、智慧＝仏陀の境地に至るための次の六つの修行であり、具体的には、①布施（他に財物と安寧と法則を施す）、②持戒（戒律を守る、例えば十戒）、③忍辱（物質的困窮・批判誹謗・法則の理解の難しさといった苦しみに耐える）、④精進（法則の実践を強い決意で始め、遅らせることなく、弛まず努力し続ける）⑤禅定（瞑想修行）、そして、⑥智慧である。
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●業を変える修行とは
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では、これまでの悪業の習慣を和らげ、善業の習慣を形成していくには、具体的に何をしたらよいのかというと、ひかりの輪においては、①教学、②功徳、③行法、④聖地という修行の４本の柱を説いている。<br />
まず、第一に、教学によって、何が善業・功徳、何が悪業・功徳になるかを含め、正しい考え方を学ぶ。これによって、善業をなし、悪業を避けるための基本的な理解と動機を得ることができる。そして、これは意識における功徳になる。<br />
第二に、第一の教学で学んだことを活かし、日常生活において、身・口・意の功徳を積む。例えば、十悪を避けて、十善をなし、布施・持戒・忍辱・精進といった六つの完成の実践をする。<br />
第三に、行法。これは、ヨーガ・密教等の行法を実践して、身・口・意の功徳を積むものである。そして、この実践は、身体を含めて自己の心身を浄化し、日常生活でも功徳を積みやすい状態を作る効果がある。すなわち、教えを学ぶだけでなく、行法によって心身を浄化して、功徳を積みやすい状態を作るのである。<br />
第四に、聖地。これは、自宅を浄化し、道場に通い、自然の聖地に親しむことで、環境面から功徳を積みやすい心身の状態を作ることである。<br />
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<span style="font-size: large"><strong>第五章　ひかりの輪と聖徳太子にまつわる霊性の不思議</strong></span>
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※以下は 2011年7月8日の日記を改訂したものです
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<span style="font-size: small"><strong>（１）聖徳太子にまつわる霊性</strong></span>
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これは、私や私の周りのひかりの輪の人たちの体験ですが、私は、「聖徳太子にまつわる霊性」ともいうべきものがあると感じることが多くあります。もう少し具体的にいえば、聖徳太子をシンボルとした聖地・神社仏閣・仏像・物事に現れてくる霊性といった程の意味です。<br />
私は理系出身で、釈迦牟尼が説いたような合理的・理知的な教義を好む傾向がありますが、これについて理屈では説明できないものです。また、すべての人が、私と同じように、聖徳太子にまつわる霊性を体験するかというと、それはまた別で、縁というものがあると思います。
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<span style="font-size: small"><strong>（２）聖人「聖徳太子」に対する学術研究</strong></span>
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ただし、日本では、古事記・日本書紀が成立する中で、聖徳太子がすでに聖人化され、さまざまな神秘的・奇跡的なエピソード（太子伝説）とともに、太子信仰が全国に広がり、太子堂などが建立されました。<br />
学術的には、聖徳太子という人物は、後に神格化されたのであって、伝説の通りではないという見解があります。太子の本名は、厩戸（うまやど、うまやと）皇子といい、その人物が後に神格化されたというものです。<br />
とはいえ、いくら政治的な意図があっても、何のカリスマ性もなかった人間をゼロから神格化することも無理があるように思いますから、何らかの意味で傑出した人物であって、神格しやすかったのだろうと思います。<br />
また、信仰が全国に広がる上では、いろいろな人に太子にまつわる不思議な体験が起こったとされています。そして、私が体験したことも、ある意味でそれと似たものなのかもしれない、だから信仰が広がったのかもしれないと思うところがあります。
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<span style="font-size: small"><strong>（３）聖徳太子の虹の聖地での体験</strong></span>
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では、私の体験をお話ししますと、私がオウム・アレフを脱会・独立してひかりの輪に到る動機となった体験の中に、結果として、聖徳太子にまつわる不思議かつ神聖な体験が多いのです。<br />
私は2002年ごろから、後に（2007年に）オウム・アレフを脱会するに到る自分独自の宗教的な体験を始めました。それは、それまでのオウム・麻原の宗教体験とは異質のものでした（そのこともあって、後に教団分裂の事態にもなります）。<br />
ある時、私は、不思議な夢を見ました。その中に、観音菩薩の化身である人物を意味すると解釈した赤い服を着た仏教の師を見て、同時に、爆発する火山、水の中の赤い龍と、赤を中心とした神聖な循環するエネルギー、さらには、大黒柱（神柱）というキーワードが出てきました。<br />
その後、私は、富士山の麓で、この夢とシンクロしていると感じる体験をしました。夕日で真っ赤な富士山を背景に、天に向かって立ち上る、赤が強い非常に神々しいイメージの虹の柱を見たのです。虹は天かける龍といわれます。また富士山と周辺の湖には龍神伝説があります。神々しい柱のような虹は、神柱のように感じました。
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さて、それからしばらくして、その場所のごく近くに、聖徳太子を祭る聖徳寺というお寺があることを知りました。ご存じかと思いますが、聖徳太子は観音菩薩（救世観音）の化身とされています。<br />
そして、その祭壇には、なぜか虹の写真がありました。不思議に思って、そこで住職さんに話を聞くと、なんと「昔この場所で聖徳太子が虹を見て、聖地であるといわれた伝承（聖徳太子の黒駒の伝説）があるので、太子を祭る寺を建て、虹の写真を飾った」と言われました。これは、なんとも印象的な不思議な一致でした。
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<span style="font-size: small"><strong>（４）聖徳太子と自分の聖地巡礼のシンクロ</strong></span>
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さて次に、私とひかりの輪の聖地巡礼と聖徳太子の縁について書きたいと思います。私が聖徳太子に初めて関心を抱いたのは、知人から、私が上記のヴィジョンや聖地での虹の体験をした後に始めた聖地巡礼が、聖徳太子伝説の中で聖徳太子が黒駒という馬に乗って訪れたとされる場所とよく似ていると聞いたことからでした。<br />
聖徳太子は、黒駒と呼ばれる黒い馬に乗って、富士山を訪れて登山し、その後信州（長野）の各地に行かれたとされています。私も富士山の虹の体験の後は、長野の聖地である諏訪、乗鞍などを回っていました。<br />
それ以来、すでに約10年経ちましたが、ひかりの輪でよく訪れる聖地が、不思議と聖徳太子や、その愛馬と縁がある場所なのです。具体的には、長野県では、諏訪の諏訪大社、長野市の善光寺や戸隠、上高地、そして、茨城県の鹿島神宮などがあります。<br />
そして、この諏訪大社の御祭神のタケミナカタノミコトと、鹿島神宮の御祭神のタケミカヅチノミコトが、聖徳太子の愛馬である黒駒や、もう一つの愛馬の天津速駒（白駒ともいわれる白い馬）の生まれに深い縁があります。<br />
まず、天津速駒はまさにタケミカヅチノミコトの化身とされているのです。そして、黒駒は、タケミナカタノミコトが父親の大国主命を祭った駒ヶ岳から生まれたとされています。しかし、私たちはそのような縁は知らず、全く別の意味で、諏訪や鹿島を巡礼するようになりました。<br />
なお、戸隠や善光寺と聖徳太子の縁については、後で善光寺の秘仏のところで述べたいと思います。
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<span style="font-size: small"><strong>（５）弥勒菩薩半跏思惟像の体験</strong></span>
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<p>
さて次に、京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像と聖徳太子について述べたいと思います。この国民的に有名な仏像は、私にとって、オウム・麻原信仰の脱却に、大きな影響を与えました。<br />
その仏像の前での瞑想は、非常に素晴らしく、微細かつ広大無辺な慈悲の波動を感じました。この体験は、オウム・アレフでの宗教体験・神秘体験への執着が残っていた私にとって、それから解き放たれる大きな力となりました。<br />
そして、ご存じの通り、この仏像は、聖徳太子が「尊い仏」として、その側近に祭らせたものです。日本の仏像の中で国宝第一号であり、教科書などにもよく掲載され、その美しさから東洋のモナリザともいわれます。
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<p>
ただ、私自身は、仏像の素晴らしさ自体に魅入られ、これが聖徳太子ゆかりの仏像であることはあまり意識しませんでした。ただ、その仏像を見ていると、その仏像に何か霊的な力・魂が込められているような印象を受け（いわゆるよく霊視ともいわれる体験）、深い意識に誘われるので、これは何なのだろうと思っていました。<br />
しかし、その５年後の今年になって、私は、この広隆寺での体験と聖徳太子の繋がりを強く感じました。というのは、なんと聖徳太子の生誕地とされる奈良飛鳥の橘寺のお堂の中で、広隆寺とよく似た瞑想体験をしたのです。他では似たような体験をすることはありませんでした。橘寺には弥勒像はありませんから、この橘寺と広隆寺の共通点としては、聖徳太子ゆかりということ以外には思いつきません。<br />
なお、つい最近になって、出羽山の羽黒山神社の鏡池で、広隆寺や橘寺と似たような体験をしました。そこは、聖徳太子の従兄弟である蜂子皇子が、羽黒山修験の開祖として祭られていますが、彼が出羽山に行ったのも、彼の父親である崇峻天皇が蘇我馬子に殺された際に、聖徳太子に言われて都での難を逃れようとしたためです。そして、羽黒山神社は、神仏習合の伝統では、聖徳太子がその化身とされる観音菩薩を祭っています。
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<span style="font-size: small"><strong>（６）ひかりの輪の道場と聖徳太子との縁</strong></span>
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さて、次にひかりの輪の道場と聖徳太子の縁についてです。私は、去年ごろから、ひかりの輪の長野小諸道場近くにある真楽寺というお寺が気に入り、何度か行くようになりました。<br />
その理由は、観音菩薩を祭るお堂の周辺に特別に良い気の流れを感じるからです。また、そのお堂に刻まれた「慈母観音菩薩」という言葉が、ひかりの輪の仏教教義の解釈とぴったりくるということもありました。仏とは、すべての生き物を仏の子として慈しむ愛を持った宇宙の母の如きものという思想です。<br />
そして、つい最近になって、そのお寺は太子の父（用明天皇）が建てたもので、太子が立ち寄られたという伝承があることがわかりました。他に長野でこういった伝承を持つお寺は今のところ見つかっていません。<br />
また、建立の理由が、近くの浅間山が大噴火した際に、それを鎮めるためであり、観音菩薩に加え、（火山を鎮めるためか水の神である）龍神と水分神が祭ってあります。これは、先ほど書いた、私が2002年に見たヴィジョンと非常にシンクロしています。これもまた非常に不思議なことです。
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さらに、ひかりの輪の大阪道場も、偶然にも、太子縁の聖地のごく近くにあります。しかも、これも最初は全く知らなかったもので、つい最近になって後からわかったことでした。<br />
具体的には、道場は大阪市中央区の玉造のごく近くにあるのですが、太子が日本に仏教を導入するために物部氏と戦った際に、その戦勝を神仏に祈願して戦勝の徴候を得たとされるのが、この玉造の岡であったとされ、現在は玉造稲荷神社があります。そして、その神社の分社は、なんと大阪道場ビルの目の前にあります。
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<span style="font-size: small"><strong>（７）ひかりの輪が推奨する仏像と聖徳太子</strong></span>
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次に、ひかりの輪で特に霊像として推奨している仏像と、聖徳太子の縁についてです。ひかりの輪では、先に述べた①広隆寺の弥勒像と、法隆寺の近くの②中宮寺（聖徳太子の母の発願による建立と伝わる）の如意輪観音像と、③熊野の那智の滝近くの青岸渡寺の如意輪観音像を推奨しています。<br />
この三つの仏像の御写真は、ひかりの輪が2007年に始まって以来、ずっと推奨していますが、そうし始めたのは、聖徳太子ゆかりの仏像だからではなく、私や私の法友の多くが、特別に神聖な感覚を感じたからでした。<br />
特に広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は、その写真を丁重に自室や道場に飾ると、その周辺の空間も神聖になる感覚・印象を受けることが多くありました。それゆえに、これは道場や自宅を神聖な状態に保つ、いわゆる結界の効能があるとも考えています。<br />
そして、今年になって、聖徳太子が如意輪観音の化身であると知り、青岸渡寺の如意輪観音像を含め、三つの仏像のすべてが、太子にまつわるものと解釈できることに気づきました。<br />
他にも神聖な体験をした仏像はいくつかあるのですが、団体として、そのお写真を推奨しているのは、この三つだけです。他の良い仏像の中には、写真自体が手に入らないものもあり、それを含めて御縁といえばよいのでしょうか。
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<span style="font-size: small"><strong>（８）善光寺の秘仏と聖徳太子</strong></span>
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仏像といえば、もう一つ決して外せないのが、長野・善光寺の秘仏です。阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊像ですが、日本最古の仏像で、秘仏であり、「牛に引かれて善光寺」といった故事があるとおり、大変霊験あらたかとされ、古来篤い信仰を集めてきました（現在でも年間参拝客600万人）。絶対の秘仏ですから、お姿は拝めませんが（写真もありません）が、噂に違わぬというか、私自身も、この仏像が納められている前の空間（内陣）で、良い瞑想体験を得ました。<br />
そして実は、この仏像も太子縁の仏像です。伝説として伝わるその神秘的な発祥の経緯は、仏教を理解しない人々によって池の中に捨てられていたところ、まず聖徳太子の前に神秘的な形で現れ出たとされます（ただし、その時は再び池の中に隠れ、その後、本田善光という人の前に現れ出て、善光寺に納められ、現在の善光寺に到ります）。
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<br />
<span style="font-size: small"><strong>（９）ひかりの輪が共鳴した親鸞上人と聖徳太子</strong></span>
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この善光寺は、浄土真宗開祖である親鸞上人と縁があり、彼の銅像がありますが、この親鸞上人を含め、私やひかりの輪がオウム・麻原信仰を脱却する中で共鳴した日本の歴史上の宗教家が何人かいます。そして、これも不思議なことに、それらの宗教家のすべてが、聖徳太子を崇敬している人ばかりです。<br />
その中の主な人物を挙げると、先ほどの親鸞上人とその師である法然上人、そして比叡山天台宗の開祖である伝教大師最澄、そして高野山真言宗の開祖である弘法大師空海などです。
</p>
<p>
まず、親鸞上人は（自己を）悪人（と自覚した者）こそ救われる機会があるという悪人正機の教えを説かれました。私たちは、オウムの過去がありますから、この教えに大変励まされ、それは団体の重要な精神となりました。<br />
また、ひかりの輪が毎年巡礼し、多くを学んでいる聖地の中に、長野の善光寺・戸隠・鹿島神宮があります。そして、これも後から気づいたのですが、これらは皆、親鸞上人ゆかりの聖地で、上人ゆかりの場所があるのです。<br />
さらに、親鸞上人の師匠の法然上人（浄土宗開祖）は、別名を円光大師といい、名前がひかりの輪とシンクロしているようにも感じます。<br />
そして、この親鸞上人は、太子を観音菩薩の化身と信じていた人でした。比叡山での長年の修行に行き詰まった際に、彼は、京都で聖徳太子の念持仏・如意輪観音を祭っている六角堂というお寺に毎夜通って祈りを捧げました。その結果、聖徳太子の夢のお告げを得て、師となる法然上人に出会い、大きな転機を得ることになりました。<br />
他にも、日本仏教のあり方に大きな改革をもたらした彼の宗教家として新境地は、太子の夢のお告げを受けた結果のものという伝承があります。聖徳太子に対する崇敬の念を表す歌を多数残しています。
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<span style="font-size: small"><strong>（10）伝教大師最澄と聖徳太子</strong></span>
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次に、伝教大師最澄についてですが、彼は、比叡山を総本山とする(日本）天台宗の開祖です。そして、その天台宗においては、釈迦牟尼・阿弥陀如来・薬師如来の三仏が祭られていますが、これは、実は伝教大師が三つの「光の輪」を見て、それをこの三仏と信じたからだそうです。<br />
なお、ひかりの輪も、天台宗と同じように三仏を祭っていますが、それは、釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩ですから多少違います。しかし、阿弥陀如来と観音菩薩は一体とされ、また、薬師如来はあ阿しゅく?如来と同一視され、その阿?如来と弥勒菩薩が同一とされるため、本質的には同じということもできます。<br />
また、伝教大師は、すべての人に平等に仏性（未来に仏陀になる可能性）があるという思想を広めた人で、自分たちだけを特別視したオウム真理教の教義を超えるために、ひかりの輪の思想の中核になりました。<br />
また、天台宗が江戸時代に活性化させた日光東照宮を含む日光山には、「死後は神として北にあって南を守る」との遺訓を残した徳川家康が薬師如来の化身として祭られる中で、その家康の御廟の全く正確に真南に、ひかりの輪の本部道場があるという不思議な縁があります。おまけに、日光のお寺は輪王寺といい（光と輪）、これもシンクロしています。<br />
聖徳太子は伝教大師が中国に留学して学んだ天台宗の始祖の（師の）生れ変わりとされており、伝教大師はそれを信じ、自分を太子の弟子と位置づけ、熱烈な崇敬の念を表す歌を残しています。
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<span style="font-size: small"><strong>（11）弘法大師空海と聖徳太子</strong></span>
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最後に弘法大師空海について。まず、ひかりの輪は、密教法具を多用していますが、これを日本で最初に行ったのは、中国で密教を学んできた弘法大師です。彼は中国から多数の曼荼羅や金剛杵などの法具を持ち帰ってきました。なお、この曼荼羅＝マンダラの原意は「円」・「丸い」で、これは、ひかりの輪の「輪」と通じます。<br />
また、私は、高野山の弘法大師の御廟に繰り返し行っています。その空間は、非常に明るく神聖に感じられ、気に入っているのですが、そこで非常に不思議な神秘的な体験をしたことがあります。<br />
それは、手の平の上に金剛杵をおいて瞑想していた時のことですが、まず霊的なエネルギーが腕を通して入ってきて、首から頭の上に抜けていき、その後、（私が自覚する限りでは、私が意図して動かしてはいないのに）、ひとりでに金剛杵が小刻みに震動を始めたのでした。<br />
何かの霊的な力で金剛杵がひとりでに動いている、という感じです。非常に不思議なことだったので、こういったことが起こるから、日本人が広く弘法大師を信仰する歴史ができたのかな、とも思ったものでした。そして、これはひかりの輪で行っている弥勒金剛法具エンパワーメントと呼ばれる密教儀式に影響を与えました。<br />
さて、この弘法大師も、聖徳太子を崇敬した人です。若き日に、太子信仰のメッカである四天王寺や太子の御廟（現在の叡福寺）を参拝したといわれ、真言宗では、弘法大師は聖徳太子の生れ変わりだと信じられています。<br />
なお、弘法大師は、四天王寺で夕日を見ながら行なうにっ日そう想かん観という修行を行なったとされていますが、これは何となく、ひかりの輪の聖地巡礼で出る太陽の周りの虹の光の輪の現象を思わせるものです。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>（12）ひかりの輪の教えと聖徳太子の十七条憲法</strong></span>
</p>
<p>
さて、次に、思想・教えの面での聖徳太子とひかりの輪の興味深いシンクロについてお話しします。<br />
太子の十七条憲法は、その第一条にある「和を持って尊しとなす」という言葉がよく知られていますが、その第一条の言葉の土台として、第十条は、万人平等の思想を「輪」という言葉を喩えとして説いています。<br />
そして、これが、ひかりの輪が説いている観音菩薩の教えと、その内容も喩えの使い方も、非常によく似ているのです。しかし、この一致も、今年になってわかったことで、最初からわかっていて、そういった教えや表現をしたのではありません。この発見も実に興味深いことでした。<br />
そして、前に述べたとおり、一部の学者の研究では、太子は、この万人が平等一体という「輪の人間観」に基づいて、有名な「和をもって尊しとなす」という訓戒を示したとされます。万人が平等に尊いという人間観から、他人に対して謙虚に和睦の精神をもって対処せよということです。<br />
そして、この日本古来の「輪と和の思想」は、遡ること、縄文時代の輪の精神・思想に源泉があるという説があります。縄文時代は、人々は、皆の住居が輪のように配置されていて（環状集落）、上下身分の区別・差別のない共同体だったと推察されているのです。また、宗教施設としては、環状列石（石を輪のように並べたもの。ストーンサークル）があります。<br />
こうしたことから、私は、「聖徳太子にまつわる霊性」を感じ、そして、そのルーツは、日本文明の原点である縄文時代の輪の精神・思想に源泉があると感じています。それは、日本の国土（の中の特に聖地）、日本文明の根底、日本民族の心の深層に秘められた「輪の霊性」ともいうべきものではないかと思います。
</p>
<p>
※注<br />
ひかりの輪では、特定の人物を絶対視することを否定しています。よって、聖徳太子を含め、歴史上に実在した人物を絶対だとは考えていません。また、そもそも、観音菩薩の「菩薩」という言葉は、如来になるために修行している未完の存在を意味することがあります。<br />
こういった意味で、日記の中でも「聖徳太子」ではなく、「聖徳太子にまつわる霊性」と表現しました。それは、聖徳太子という特定の人物自身という意味というより、聖徳太子をキーワード・シンボル・縁としたものに現れてくる霊性、例えば、聖徳太子ゆかりの仏像や聖地・神社仏閣などに現れてくる霊性といったような意味です。<br />
また、ひかりの輪では、特定の人物だけでなく、仏像自体を仏と見なしていません。仏像や仏画・曼荼羅などは、それぞれの人の中にある仏性（仏の如く神聖な心・智慧や慈悲）を引き出す手段・象徴・シンボルととらえています。<br />
これは釈迦牟尼の説いた自灯明・法灯明という教え・遺訓に関連します。すなわち、他ではなく、自己を拠り所として、法を拠り所とせよという訓戒です。私は、この教えを、自己の中の仏性を覚醒させるために、(自己の意志を正しく働かせて）法の実践をせよ、という意味だと解釈しています。<br />
そして、その法の実践の一部として、象徴物を活用した瞑想があると考えているのが、仏教の中でも、密教の宗派です。仏像・仏画、曼荼羅、法具といった（仏の）象徴物を多用します。その中に聖音を奏でるものもあります。<br />
この背景は、人間が言葉による教えだけではなかなか神聖な意識を体得するのが難しい（悟ることができない）中で、そういった象徴物を用いて、五感を通しても神聖な意識に近づこうとするものです。日本では古くは弘法大師空海などもこの系統です。これは、釈尊が入滅した後、釈尊の手法だけではなかなか悟れない人たちが、苦労して編み出した修行実践ではないかと思います。
</p>
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   <title>【仏教講義】2011年～2012年 年末年始セミナー特別教本『三仏心経の教え――感謝と尊重と愛の実践』</title>
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   <published>2012-04-06T04:01:49Z</published>
   <updated>2012-04-07T10:11:28Z</updated>
   
   <summary> 2011年～2012年の年末年始に行われた年末年始セミナーの特別教本です。 テ...</summary>
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         <category term="【動画あり】21世紀のための仏教講義" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/lecturetext/">
      <![CDATA[<p>
2011年～2012年の年末年始に行われた年末年始セミナーの特別教本です。
</p>
<p>
テーマは、『三仏の教え－感謝と尊重と愛の実践』です。
</p>
<p>
この教本は、ひかりの輪で、毎日の中心的な修行実践としている「三仏心経」を解説したものです。
</p>
<p>
「三仏心経」とは、「万物恩恵　万物感謝、万物仏　万物尊重、万物一体<br />
万物愛す」という短い経文で、文字そのままなのですが、「万物を恩恵と見て感謝する、万物を仏と同等に平等に尊重する、万物を一体と見て愛す」という意味合いがあります。
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これまで、ひかりの輪の説いてきた一元思想で、大乗仏教の思想に見られるものですが、それを現代語の短い言葉で表したものとなっています。
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昨年の夏、出羽三山での修験道体験の中で、「般若心経」の読経を集中的に行う機会があったのですが、その経験から、ひかりの輪の独自のお経が生まれていきました。
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セミナーでは、各章ごとに、全6回の上祐史浩による教本解説の講義が行われ、すべてＵstreamでネット生中継されましたので、動画をご覧いただきながら、教本を読み進めていただくことができます。
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◎動画の内容（全７回）</strong>
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<strong>第1回講話 『現代の２つの生き方について』</strong>
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<strong>第2回講話 『宗教が説く、あまねく実践について』</strong>
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<strong>第3回講話 『質疑応答を中心とした講話』</strong>
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<strong>第4回講話 『ひかりの話独自のお経「三仏心経」』</strong>
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<strong>第5回講話 『年末年始セミナー特別教本第２章「釈迦牟尼の法則・<br />
&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 万物恩恵・万物感謝」の解説』</strong>
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<strong>第6回講話 『年末年始セミナー特別教本第３章「観音菩薩の法則・<br />
&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 万物仏・万物尊重」の解説』</strong>
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<strong>第7回講話 『年末年始セミナー特別教本第４章「弥勒菩薩の法則・<br />
&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; 万物一体・万物愛す」の解説』</strong>
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<strong><a href="http://www.joyus.jp/movie/00200911/09997076.html" target="_blank"><br />
＞＞動画はこちらでご覧いただけます。</a></strong>
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<strong>2011年～2012年</strong><br />
<strong>年末年始セミナー特別教本</strong>
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<strong>三仏心経の教え<br />
感謝と尊重と愛の実践</strong>
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<strong>第一章　三仏心経の由来</strong>
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「三仏心経（さんふつしんきょう、さんぶつしんぎょう）」は、ひかりの輪オリジナルのごく短いお経である。それは、これまでにひかりの輪で説かれてきた釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩の三世の仏陀（＝三仏）の教えのエッセンスである。「心経」とは、心髄の教えという意味で、「般若心経」の場合も、般若経典の中の心髄の教えという意味である。<br />
この教えが生まれた一つの背景は、それ以前にひかりの輪で実践されてきたサンスクリット原語のマントラ（真言）が、日本人一般にとっては馴染みにくいということがあった。まず、日本語ではないので意味がわからないこと、さらには正確には発音しにくく、日本語訛りになることなどである。<br />
それとは別に、このお経が生まれるもう一つの背景として、ひかりの輪が長年行ってきた日本各地の聖地巡礼があった。その一つに、昨年2010年に、島根県におおくにぬしの大国主かみ神を祭る出雲大社を巡礼した。この出雲大社の御祭神の大国主神は、日本の神道の神話上、日本列島に最初に国を作った国造りの神とされる（神武天皇による大和朝廷以前）。<br />
この大国主命は、出雲と周辺諸国を治める上で、人々の心を歌で惹き付けたとされ、そのため、歌の神ともされる。そして、これは日本の「歌」であるから、和歌や短歌というように、韻を踏んだリズミカルな言葉であろうというのが、私の解釈である。そして、この韻を踏んだリズミカルな言葉というのが、「三仏心経」にも活かされている。<br />
さて、その後、今年2011年になって、羽黒山修験道で有名な出羽山（出羽三山）を巡礼した。その際、現地の修験道の先達に習って修験道の勤行を行ったが、その中に含まれていたのが、般若心経の読経であった。<br />
般若心経は、大乗仏教が中心の日本の仏教において宗派を問わず広く唱えられている。読経される経典としては、間違いなく日本で一番人気のある、突出して人気のあるお経である。そのお経は漢訳の経典で、「しきそくぜくう色即是空・くうそくぜしき空即是色」という言葉で有名で、四字熟語などを中心とし、読んでみるとリズミカルな経典で、この、読んだときの調子・リズムによる心地よさが人気の原因ではないかと私は感じた。<br />
しかし、色即是空・空即是色を含め、全体が漢語であるため、ほとんどの人には、読経はできても、ある程度仏教用語を知っている人でも、意味を理解することは難しい。ましてや一般の人の場合はなおさらで、意味がさっぱりわからないだろう。よって、読経自体はリズミカルだが、その教えの意味が、心に入ってくるのは難しいだろう。<br />
そういった経緯の中で、韻を踏んだ語句によって読経するのにリズミカルで、かつ現代の日本人の皆さんにも、わかりやすい経典を独自に作れないかという視点から生まれたのが、この三仏心経である。<br />
それは、「三仏心経」という題名を合わせると全部で27文字で、般若心経（約270文字）の十分の一の短さであり、しかも、現代日本語で表現されているので、誰にでもわかりやすいものとなった。四字熟語を中心に、韻も踏んだ語句となっている。<br />
とはいえ、これは、世界の普遍的・根本的な道理とする思想、すなわち万物を輪のように平等一体と見る思想（輪の法則、一元法則）を、ひかりの輪が表したものである。その普遍的な道理は、現代社会の日常の意識・常識を越えた法則であり、よって、その理解のためには十分な解説が必要となる。その理解ができていれば、すでに一定の悟りの段階（推理智）に来ているともいうことができるからである。本書の主な目的は、その解説である。
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<strong>第二章　釈迦牟尼の法則：万物恩恵・万物感謝</strong>
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<strong>１　三仏心経</strong>
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三仏心経は、以下の通りである。
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ばんぶつ万物おんけい恩恵、ばんぶつ万物かんしゃ感謝<br />
ばんぶつほとけ万物仏、ばんぶつ万物そんちょう尊重<br />
ばんぶつ万物いったい一体、ばんぶつ万物あい愛す
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簡単に意味を示せば、以下の通りである。<br />
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万物を恩恵と見て、万物に感謝する。<br />
万物を仏と見て、万物を尊重する。<br />
万物を一体と見て、万物を愛する。
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そして、この三行は、それぞれが釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩の教えの悟りを表しており、以下の通りになる。
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釈迦牟尼の法則：万物恩恵、万物感謝<br />
観音菩薩の法則：万物仏、万物尊重<br />
弥勒菩薩の法則：万物一体、万物愛す
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そして、このお経は、教えを説いたお経でもあるが、同時に、このような心境に至るように自ら努めるとともに、神仏にその達成を祈願するためのものであるから、「誓願の言葉」とも言われている（三仏の悟りの誓願の言葉）。
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<strong>２　釈迦牟尼の法則「万物恩恵・万物感謝」の解説</strong>
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では、「万物恩恵、万物感謝」という教えの意味合いを解説する。<br />
まず、日ごろ、私たちが体験するものは、好きなもの、嫌いなもの、無関心なものの三つに分類することができる。そして、好きなものには、それをもっともっと欲しいと感じ、嫌いなものには、それから逃げようとか、それを排除・破壊しようと感じ、無関心なものには何も感じない。<br />
この一つ目の心の働きを仏教では貪りと言い、二つ目の心の働きを怒りと言い、この二つを含めて、貪り・怒り・無智の三つを心の三つの毒（三毒）と呼ぶ。伝統的には、とん貪・じん瞋・ち癡の三毒と言われることが多い。<br />
しかし、こうした心の働きは、私たちが本来感じることのできる幸福を非常に少なくしてしまう。それは後ほど詳しく説明するが、例えば、好きなものがあっても、「もっともっと」という心の働きが強いと、それは際限がないために、満ち足りることはなく、その裏側にさまざまな苦しみをもたらす。<br />
また、嫌いなものでも、その裏側には、私たちにとって、大きな恩恵となるものがあるが、それからいたずらに逃げる心が強いと、それを活かせない。そして、普段はまったく無関心な対象も、大きな恩恵をもたらしている事実がある。<br />
その結果として、多くの人が、万物に恩恵を感じ、万物に感謝できる心の状態ではなくて、その逆に、いろいろな不幸・不足を感じ、いろいろな不満を抱く、といった心の状態に陥りがちである。一言で言えば、自分を取り巻く条件が客観的にどうであれ、心が感じる幸福・喜びが少なく、不幸・苦しみが多いという状態である。<br />
それは、客観的に見たら世界最高レベルの長寿と豊かさと安全といった三拍子揃った日本という社会に住んでいながら、年間に三万もの人が自殺し、数百万もの人が精神を病むといった現状が、表している。<br />
よって、この万物恩恵・万物感謝という教えの意味・目的は、心の持ち方、ものの見方を変えることによって、心の感じる幸福・喜びを最大限にしようというものである。その究極的な状態が、万物を恩恵と見て、万物に感謝できる心境である。<br />
そして、それに少しでも近づければ、日常生活で感じる幸福・喜び・恩恵・感謝が、今までの二倍・十倍・百倍となっていく。そして、究極的な状態が、仏陀の四無量心と呼ばれている心の状態で、その中には、無量＝無限の喜びが生じているという。<br />
では、次に、具体的にどのようなものの見方・考え方によって、万物恩恵・万物感謝の境地に近づくことができるかについて、解説する。
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<strong>３　私たちは一体である宇宙の万物に支えられている：無智の捨断</strong>
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（１）万物の支えを意識して感謝する
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万物を恩恵と見て感謝する心を培うために、まず意識するとよいことは、私たちは自分だけの力だけではなく、万物の支えで生きているということである。<br />
それは、具体的に言えば、他の人々の支え、日々の糧となる他の生き物の支え、空気・水などを与える地球の生命圏の支え、太陽からの陽の光を含めた太陽系や、太陽系を支える銀河系、無数の銀河系を相互に支え合っている無限の宇宙と広がっていく。よって、万物を恩恵と見て、万物に感謝する。<br />
このものの見方のメリットは、<br />
①普段はまったく意識しない万物の支えを改めて意識して、感謝の心を培うこと<br />
②狭くなりがちな意識を解放して、宇宙全体に広げること<br />
③自分だけの力で生きて（成功して）いるという慢心とそれによる苦しみを減らすこと<br />
などがある。<br />
なお、この教えを伝統的な仏教的な方便（表現）で解説するならば、釈迦牟尼が説いた縁起の法にあたる。縁起の法の「縁起」とは、「いんねん因縁しょうき生起」の略であり、万物が、他から独立して、自分だけの力で生じるのではなくて、他に依存して、他を原因・条件として、生起しているという事実を説くものである（因＝原因、縁は条件といった意味がある）。<br />
よって、縁起の法は、人の思考の対象となる宇宙の万物は相互に依存し合って存在し、固定した実体がなく、本質的に一体であることを意味している。なお、ひかりの輪は、仏教開祖・釈迦牟尼を尊敬し、仏教のさまざまな教えを採用しているが、仏教とその教えを絶対視してはおらず、あくまでも、それを方便・手段として活かそうとしている。<br />
よって、教えの解説においては、まず現代の誰もがわかる日本語の言葉で解説し、その後、その教えが、伝統仏教の教え（ないしはその他の宗教の教え）においては、どのような教えと関係するかを付け加える形で紹介するスタイルをとることにする。
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（２）万物を一体と気づいて、平等な感謝と愛を培う
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さて、次に考えるべきことは、私たちが得ている万物の支えというものが、平等で一体であるということである。私たちの毎日の生活や、幸福の探究を支えているのは、自分が日常の中で好きだと感じる人・ものだけでなく、嫌いと感じる人・ものや、普段は無関心な人・ものも含めた万物である。<br />
日常の感覚では、好きと感じる以外のものは、あたかも必要がない存在のように錯覚しているが、実際には、嫌いと感じるものや、無関心なものに支えられなければ、私たちは生きていくことはできない。客観的に見れば、好きなものよりも、むしろ、嫌いなものと無関心なものを合わせたものの方が、実際に私たちの毎日を支えている割合は、圧倒的に多いだろう。<br />
さらに重要なことは、好きなもの、嫌いなもの、無関心なものを含めた万物は、お互いに切り離すことができない、相互に依存し合った関係にある。すなわち一体として存在している。<br />
例えば、人類社会は、今や非常に進化した分業のシステムの中にある。普段はまったく意識しない地球の裏の国の産業活動も、私たちの毎日の経済生活に直接関係するほど、人類社会の一体性が深まっている。普段意識する存在に支えられている割合の方が、全体の中では、圧倒的に少ないだろう。<br />
また、嫌いなものに支えられている場合も非常に多い。自分が嫌いな人や、ないしは会えば必ず嫌いになるであろうタイプの人が働く会社の製品・サービスに、毎日大変助けられていたり、自分が日常生活で最も嫌いだと感じている人が、自分の最愛の人を産んだ人であったりする場合も多いようだ（嫁と姑の問題）。多くの場合、好きなものが嫌いなものを、嫌いなものが好きなものを作っている。<br />
また、私たちを育む地球の生命圏・大自然も相互依存の一体性の中に存在する。今日の私たちにとっては嫌に感じられる雨も、農家にとっては必須の「恵みの雨」であり、その農産物がなければ、私たちも生きていくことができない。逆に、晴天の日の心地よさも、雨乞いをする農家には、恨めしいものである。快適なものが不快なものを、不快なものが快適なものを作り出している。<br />
こうしてみると、私たちは一体である万物の中の一部分を見ては好きだとか、嫌いだとかと感じているが、それらは一体である全体の一部であって、他から独立した存在ではないことがわかる。<br />
そして、ここで重要なことは、このことを意識すると、万物を一体と見て、万物に平等に感謝する心を養っていく第一歩となることである。その意味で、万物を一体として恩恵と見て、万物に平等に感謝するのである。<br />
ここでも、この教えに関して、伝統の仏教的な方便・表現による解説を加えておこう。大乗仏教の教えでは、「平等心」という言葉がある。これは、普段好きだとか嫌いだとかとして、区別している対象を等しく平等に愛する心の働きであり、仏陀の心の働きの一つであるとされる。万物を平等に愛するのが、仏陀の心なのである。<br />
そして、さらに重要なことは、仏陀の平等な愛は、万物への平等な感謝から生じるということである。感謝に基づいた愛なのである。これは、詳しくは後に述べるが、すべての衆生を救済するために、仏陀の境地に至ろうと決意する「発菩提心」と呼ばれる教えに関係してくる。
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<strong>４　貪りを越えて慈悲を培う感謝（貪りの捨断）</strong>
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資本主義を中心とした現代社会に生きる私たちは、日常生活の中で、快楽は、それを必要以上に際限なく貪ろうとし、その逆に、苦しみには嫌悪して、それを避けようとばかりする傾向が少なくない。<br />
しかし、昨今行き詰まりを見せつつある資本主義の中で、今こそ、この快楽と苦しみといったものの本質について、正しく知る智恵（智慧）が必要である。すなわち、人が感じる楽と苦というものの本質を深く考察してみるのである。すると、自分が日常生活に流される中で、いままで理解していなかった、私たちの心の働きの真理を理解することができるのである。<br />
その心の働きの真理の中で、まず第一に重要なことは、苦楽表裏という事実である。これは、楽を貪ると、苦しみも増えて、楽の裏に苦があるということ、そして、逆に、苦しみの裏には、楽もあるということである。<br />
まず、快楽の貪りは、際限がない。そのため、決して真の満足は得られない。例えば、私たちは、世界全体から見れば、長寿・豊か・安全と三拍子揃った日本社会に生きている。しかし、日本社会の中から見れば、年間三万人が自殺し、数百万人の人が精神を病み、停滞する経済と少子高齢化により、多くの人が現状への不満と、将来への不安を抱えている。これはなぜだろうか。<br />
貪りの心は、何かを得ても、喜びや感謝の気持ちは最初だけで、すぐにそれを当然のものとして、さらに求める性質がある。その一方で、いったん得たものには執着が生じ、得る前はそれ無しでいられたのに、得た後に失うと、非常に辛く感じられる。そして、より多くを求める中で、ないし得たものを守ろうとする中で、他との奪い合い、妬み・恨みなどが生じる。こうして快楽の貪りの裏には、さまざまな苦しみがあるのである。<br />
これを伝統の仏教的な方便・表現で解説すると、四苦八苦という教えである。仏教の専門用語の「四苦八苦」とは、我々が日常的に用いる特別に苦しい状態を意味する言葉ではなく、貪りや執着のため、人間が陥りやすい一般的な苦しみを八つに分類したものである。<br />
こうして、貪りには際限がなく、それが強くなると、決して満ち足りず、絶えず不満が生じ、感謝の心が弱まる。よって、「万物恩恵・万物感謝」ではなく、「万物不足・万物不満」といった意識状態になる。<br />
そして、貪りの心は、非常に偏狭な視野に陥っている心の状態である。それは、自分が得ていないもの、自分より恵まれている人ばかりを見ており、世界全体を見ていない。その結果として、自分の幸福の大きさを客観的には見ることができない状態である。<br />
この貪りの落とし穴に気づくには、今与えられている幸福の大きさを努めて考えるようにして、それに気づいて感謝し、足るを知る心を持つことである。そうすると、人の感じる幸福感とは、じつは、お金や名誉の量といった外的な条件よりも、心の持ち方によって、心から生まれるものであることがわかる。<br />
言い換えると、同じ環境にあっても、心の持ち方で幸福な人もいれば不幸な人もおり、どんな場合でも、心の持ち方によっては、幸福を見いだすことができるが、貪りにとらわれると、どんな場合でも、不満が生じることがわかる。幸福は心が感じるものだから、幸福感は、心が中心となって生み出している。これに気づくと、万物恩恵・万物感謝の心境に近づくことができる。<br />
そして、感謝は、人にとって最も重要な宝ともいうことができる「慈悲の心」をもたらす。感謝によって、貪りが静まると、自ずと、自分と世界がありのままに見えてくる。すなわち、世界の中で自分の得ている幸福の大きさに気づくのである。<br />
その中から自ずと、自分よりはるかに苦しんでいる、恵まれていない者たちが、この世界には、無数に同時に存在している事実に気づき、他への慈悲の心が生じる。そして、ひいては、貪りとは正反対の分かち合いの重要性に気づくことになる。<br />
この慈悲の心というのは、「仏の心」ともされるが、人の心の働きの中で、貪りや怒りとは違って、非常に大きな安定した幸福感を与えるものである。感謝と結びついた慈悲の心は、その意味では、人にとっての最大の宝であろう。<br />
一方、現代の日本社会に生きる我々の日常の状態は、多くの場合、このしや視野きょうさく狭窄の状態に近いのではないだろうか。自分の生きている周囲の世界がほとんど見えていない状態で、自分のことばかりを考え、そして、自分がまだ得ていないもの、自分より恵まれているものばかりを見ている。そこから、現状への不満と将来への不安が生じる。<br />
それは、仏陀の視点から見るならば、自分よりはるかに苦しむ無数の存在に対して、非常に無慈悲な心の状態だろう。<br />
さて、無慈悲という言葉を使ったが、この貪りの心の本質は、しっかりと分析するならば、そもそもが、他から幸福を奪おうとする心の働きなのである。<br />
そして、奪うために生じるのが、嘘や悪口、盗みや不当な手段での取得、場合によっては殺しといった、さまざまな悪行や犯罪行為である。しかし、この悪行は、長期的には、当然、さまざまな苦しみをその本人にもたらすことになる。<br />
この点について詳しく分析してみよう。際限のない貪りは、必ず、自分と他人を比較して、他よりも多く得よう、他に優位に立とうという心の働きを含んでいる。よって、必ず他との奪い合いの一面がある。<br />
お金持ちになることや、名誉、地位、権力を得ることは、皆が得られるものではなく、他との比較・競争・奪い合いの一面がある。そもそも、お金持ちとは、他と比較して多くのお金を持っていることだし、名誉や地位や権力も同様である。<br />
その意味で、自分が快楽を貪る裏側には、必ず他の苦しみが存在している。自己の快楽の裏に他の苦しみ、他の快楽の裏に自己の苦しみが存在する。言い換えると、貪りとは、どこかで自分のことだけを考え、他の苦しみを無視しなければ、できないのである。気づかないうちにか、気づいて自覚的に行なうかは別にして、貪りとは、「無慈悲になる」という大きな代償を必要とするものである。<br />
こうして、貪りは、そもそもが、他から幸福を奪おうとする無慈悲な本質があるから、他から奪う過程で、前にも述べたとおり、嘘や悪口、盗みや不当な手段の取得といった悪行を犯すことにもつながっていく。私たちの世界の中で、富や権力の追求において、これは非常によくあることだろう。<br />
ここでもう一つ重要なことは、貪りの心の働きがあると、自分より恵まれていると思われる人への妬みが強くなる。しかし、その妬みの対象は、自分が想像しているようには、実際には幸福ではないのである。それは、自分の貪りのために、その人が自分よりも幸福だと錯覚しているだけにすぎない。真実は、慈悲こそが真の幸福の道である。<br />
自分より多くを得ていても、貪りは際限がなく、真の満足をもたらさない一方で、より多くを得たがゆえに、それを失う不安や恐れも多く、奪い合いにも深入りして、妬みや恨みを買うことも多い。さらに言えば、奪い合いの中で悪に手を染めている場合も多い。<br />
それでは、本人は決して幸福ではない。しかし、貪りの心が強いと、こういったことがわからず、実際には、妬む必要がないのに、妄想の中に入ったかのように、妬みの感情に苦しんでしまうのである。<br />
なお、別のケースとして、妬みの対象が、快楽を貪るものではなく、真に精神的に優れた存在である場合があるが、その場合は、そういった存在は、自分の幸福への障害・邪魔なのではなく、切磋琢磨して自分が向上するための貴重な助力者である。ただ、名誉や地位への貪りは、それがわからなくなる原因となる。<br />
こうして、この貪りの落とし穴に陥らないために、感謝と分かち合いが必要である。感謝がないと、足るを知って貪りを静めることが難しい。そして、他への無慈悲や、自分の力で幸福になっているという慢心が生じる。それは、他の幸福を奪う、他を苦しめる悪行が増大する原因となる。<br />
一方、感謝に基づき、自ずと生じるのが慈悲の心である。そして、慈悲の心は、貪りや奪い合いの悪行とは正反対の行為である分かち合いの実践をもたらす。他と苦楽を分かち合う行為である。<br />
最後に、こうして、私たちが日常生活で感じているさまざまな苦しみが、実は貪りの心によって生じているものであることに深く気づくならば、そういった苦しみの経験は、貪りを反省し、智恵（智慧）と慈悲を育むために、神仏が与える愛の鞭と考えることができるようになる。<br />
すなわち、苦しみを恩恵として感謝できる心境である。こうするならば、苦にも楽にも感謝し、この意味でも、万物恩恵、万物感謝の心境に近づくことができる。よって、この点について、次に詳しく述べることとしたい。
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<strong>５　苦しみの裏にある喜びに気づいて感謝する（怒りの捨断）</strong>
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さて、次に快楽への貪りではなく、苦しみに対する嫌悪について考えてみよう。普通、人は、苦しみを嫌がり、快楽を求める。しかし、深く考えてみるならば、快楽や喜びばかりの人生は、恐ろしいものであり、逆に、一定の苦しみの経験は、先ほども述べたが、慈悲という大きな宝の源になり得ることがわかる。<br />
まず、苦しみが慈悲の源であることについて考えてみよう。人のさまざまな苦しみの根元は、自分と他人を区別し、自分のみを偏愛し、自分のために、さまざまな快楽を貪ることによって生じることは、先ほど述べたとおりである。<br />
この苦しみの真の原因に気づく（＝智慧が生じる）ならば、自と他を区別せずに、万物を平等に愛する慈悲の心、すなわち、苦楽を分かち合う心の働きが生じ、それによる最高の精神的な幸福を得ることができる。<br />
その意味では、自己の苦しみというのは、私たちを智慧と慈悲に導く愛の鞭であるということができる。例えば、自己の苦しみの経験があってこそ、それを活かして、他の苦しみを理解し同情し、それを分かち合おう、取り除こうという温かい心の働きも生じる。また、自己の苦しみの経験があってこそ、他が苦しみから脱却して、幸福になることを本当に喜ぶ心の働きも生じる。<br />
逆に苦しみの経験が少なく喜びの経験が多い者は、他の苦しみを理解することはできない。美貌・才能・財産・名誉・地位などすべてを得ていたマリー・アントワネットが、それがゆえに、民衆の餓えの苦しみをまったく理解できず、命を落とした話は有名である。<br />
一方、慈悲の化身とされる観音菩薩は、その前生において、さまざまな苦しみが連続する悲惨な生涯を送ったが、「その苦しみを縁として、他の苦しみを救っていこう」と決意したことによって誕生したという説話がある。こうして、苦しみの体験が、まさに慈悲の化身を生み出したのである。<br />
伝統的な仏教的な表現では、この、他の苦しみを自己の苦しみのように悲しみ、他の喜びを自己の喜びのように喜ぶ心の働きを「慈悲」という。詳しくは、他の苦しみを悲しみ、取り除く心を「悲」といい、他に幸福・楽を与える心を「慈」の心という。<br />
次に、苦の裏には楽があるという理解をもう少し深めるために、いろいろな具体的な事例を見ることにしよう。<br />
まずは、物理的な苦しみに関してである。病気は苦しみであるが、一病息災という言葉があるが、これは一つくらい病気があった方が、体を労り、長寿になるという意味である。確かに、病気の中には、普段の不摂生が原因のものも多い。それを反省し、改めて節制して、体を労るならば、逆に健康に良く、長く生きることができるだろう。一方、健康が自慢の人は、体を労ることがなく、ある時ぽっくりと逝ってしまう場合もある。<br />
また、病気になったとき、ないしは病弱な人の場合は、慢心を抱きにくいという長所もある。病気になって、自分が多くの人に支えられて生きていることがわかり、感謝の心を持つことができたという話は多い。<br />
また、松下幸之助は、病弱であったがゆえに、他に頼む術を身につけたという。彼は同様に、財力がないからお金持ちの元に丁稚奉公に行って若くして商人の才を育み、学力がなかったから、他から謙虚に学ぶことができたと語っている。<br />
こうして、自分の体力、財力、学力が乏しいという苦しみを、優れた他の力を活かすという形で逆に活用して、喜びに変えたのである。これも、自己の苦しみを、他を活かす慈悲の源にして、自と他の双方を幸福にするという一つのパターンである。<br />
伝統的な仏教的な教義では、老い、病み、死ぬという身体の苦しみは、究極的には、無常である自分というものにとらわれず、自我執着から心を解放する（悟りを得る）ために、逆に活かすべきであると考える。<br />
すなわち、他から独立した固定した実体を持つ自分などは、実際には存在しないことを悟り（無我の悟り）、自分への執着を捨てて、すべての衆生を平等に愛する大慈悲の体得などに活かすのである。ヨーガ的に表現すると、真実の自分は無限の宇宙であるという悟り（宇宙意識）の体得である。<br />
次に、経済的な不安の裏にある恩恵についても考えてみよう。病気の一病息災と同じように、経済的な不安は、贅沢・浪費を反省し、質素倹約や勤労の習慣を身につけ、長期的な経済的な安定を得る機会ともなる。<br />
そして、究極的には、物質的な幸福の限界を悟って、精神的な幸福に目覚める機会となる。具体的に言えば、例えば、自己が所有する財や富による幸福の限界を悟って、皆が共有する物、例えば大自然などにこそ、真の豊かさがあることに気づくなどである。これも、仏教的にいえば、自我執着から無我・大慈悲・宇宙意識への進化ということができる。<br />
次に、精神的な苦しみについてである。まず、誹謗・中傷の苦しみである。まず、正しい批判ならば、それは、今は辛くても長期的には自分の成長を促し、結果として逆に称賛・名誉をもたらす愛の鞭である。逆に、まったく批判されない場合には、将来は非常に暗いと言わざるを得ない。<br />
一方、間違った批判は、それに落ち着いて耐えることで、しばらくすれば、逆に評価されるようになるものだし、智慧と慈悲の目で見るならば、それは批判している者の心の歪み・苦しみを知る機会ともなる。<br />
そして、究極的に言えば、称賛・名誉・権力に対する貪りが強い我々にとっては、誹謗・中傷は、それに落ち着いて対応することで、そういった貪り・欲望から自己を解放して、智慧と慈悲を培う良い機会ともなる。ある仏教の経典では、誹謗・中傷等に耐えることが、慈悲を目指す大乗仏教において非常に重要だと説いている。<br />
また、現代社会の中で多いのが、自己嫌悪・卑屈・妬み・寂しさといった感情であろう。物質的に満たされた今の社会では、称賛・名誉・地位・権力といった欲求、自己の存在価値を認めてもらいたい欲求が強い。それがゆえに、それが認められない状態、自分が他に劣っている、価値がない、愛されていないといった感情に悩む人も多い。<br />
しかし、自分がそういった苦しみを経験してこそ、他の苦しみを理解できる者となることや、優れた他を活かして自分も幸福になることを考えるならば、苦しみを喜びにすることができるだろう。これは文字通り、他と苦と楽を分かち合う実践である。<br />
コンクリート・ジャングルとも呼ばれる現代社会は、愛情欲求・認知欲求は満たされずに、多くの人の中にいながら、心は寂しいという人も多い。それは、自分の苦しみに没入せずに、それを活かして、同じような苦しみ、ないしは自分以上の苦しみを持ちながらも、この世界に同時に生きている無数の者たちへの慈悲によって、和らげることができるだろう。<br />
妬みの苦しみについて言えば、先ほど述べたように、妬みの対象が、実際には、自分が思うほどには幸福ではないことに気づくための試練である。貪りの追求において、自分より勝った他者が、幸福に見えるのは錯覚である。人の心を真に幸福にするものは、貪りではなく、慈悲だからである。<br />
また、妬みの対象が、真に優れた存在である場合は、それが実際には、自分の幸福への障害ではなく、自分の助力者であることに気づく試練であろう。人は、一人ではなかなか成長できるものではなく、優れた切磋琢磨の対象があってこそ、よりよく成長できるからである。<br />
人生における困難や挫折・失敗の苦しみにも、その裏側に喜びを見いだすことができる。まず、困難なく達成できることには、たいてい真の価値はない。困難の経験は、自分が取り組んでいることの価値を示している。<br />
大乗仏教では、教えの理解と体得の難しさに耐えることを説いている。教えの理解と体得は、それほど容易ではない。すぐに身につくものではなく、コツコツと努力する中で、徐々に身につくものだ。逆に、すぐに身につくものは、まやかしや落とし穴が多い。<br />
また、多くの偉人は、成功とは、失敗なく達成できるものではないとしている。失敗こそが成功の元。失敗・挫折なく成功するというのは、自分が抱えている壁を突破したものではないだろう。<br />
イギリスの元首相であるチャーチルは、「成功する能力とは、めげずに何度でも失敗を経験できる能力だ」と言い切っている。自動車のホンダ（本田技研工業）の創業者は、「皆が成功を求めるが、自分にとっての成功とは、度重なる失敗と反省を通してのみ、得られるものだ」という趣旨のことを述べている。<br />
エジソンは、1000回の実験で白熱電球を発明した際に、「999回は失敗ではなく、これでは成功しないということを知った成功へのステップだった」という趣旨のことを語っている。<br />
仏教的に言えば、人は皆、神ではなく、不完全な人間として生まれるときに、万事を正確に理解できない無智・悪業と共に生まれてくる。その無智・悪業は、実際に挑戦し、失敗の体験を通して、それでは成功しないと知ってこそ、晴れていくと考える。無智の悪業の清算によって、智慧（智恵）と成功が生じるというのである。<br />
よって、悟りの道程も、本を読んでも、指導者から学んでも、すべてが計算通り、目算通りには行かない。個人によって違う紆余曲折がある。よって、苦しみによって、正法に対する信仰が生じるとも説かれている。
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<strong>６　苦と楽の双方に偏らない釈迦牟尼の中道の教え</strong>
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（１）中道の教え
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さて、現代の日本人に非常に参考になると思われる教えが、釈迦牟尼の中道の教えというものである。これは、快楽主義も苦行主義も双方を否定した教えなので、「中道」と言われる。双方の極端を否定した道である。<br />
そして、これは、楽の裏に苦があり、苦の裏に楽があるという真実に基づけば、自然な結論となる。苦しめば悟るという苦行主義は、合理性がなく前近代的であろう。しかし、楽を貪り、苦をいたずらに厭うのも意味がない。<br />
よって、①与えられている楽＝恵みの大きさに気づいて感謝することで、貪りを静めて足るを知り、②さらには、経験する苦しみ（＝与えられていない楽）については、その裏にある恩恵にも気づいて感謝し、こうして、万物を恩恵と見て、万物に感謝する実践をするのである。
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（２）感謝と慈悲（分かち合い）のつながり
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さらには、貪りが静まり足るを知った状態において、感謝と共に出てくるのが、他者への慈悲の心である。慈悲の心は、他者との苦楽の分かち合いに結びつく。よって、キーワードを言えば、仏教的に表現すると「知足と慈悲」、現代的に表現すると「感謝と分かち合い」ということになる。そして、この慈悲・分かち合いが、人の心にとって、最も安定した大きな幸福感を与えるものである。<br />
この背景には、先ほど述べたように、快楽を貪ると、さまざまな苦しみを招くが、自己の苦しみと共に、他の苦しみも生じているという事実がある。貪りは無慈悲なのである。よって、この貪りを静める中道の道は、知足と慈悲、感謝と分かち合いの道は、自分の幸福だけでなく、他の幸福の道でもある。<br />
そして、感謝と慈悲は、不離一体で、互いが互いを強め合うものである。感謝で貪りが静まると、自分の得ている恵みと無数の他の苦しみに気づき、慈悲の心が深まる。そして、慈悲の心が深まると、自分のさまざまな苦しみは、じつは貪りから生じていると気づき、苦しみさえも、自分を慈悲に導く恩恵として感謝できるようになる。こうして、感謝が慈悲をもたらし、さらに、慈悲が感謝を深めることになる。
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（３）今後の日本社会のために
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そして、現代の日本人は、苦しいといっても、一般的にいって、途上国の一部のように飢えているわけではない。それどころか、長寿・豊か・安全と三拍子揃った、現在の人類社会でも希な社会である。<br />
先日、九州の阿蘇や高千穂に行ったが、その際に、ある神社の宮司さんが、「現在の日本社会は、人類史上最も恵まれた社会です」と語っているのを聞いた。もちろん、これは、物質面や民主主義体制といった視点から見た場合であろう。しかし、少なくとも、大日本帝国の時代や士農工商の江戸時代に戻りたいという人は極めて少ないだろう。<br />
その社会の中では、釈迦牟尼の説いた、苦にも楽にも偏らない実践は、過剰な貪りを抑制して、バランスを取るために非常に重要ではないかと思う。貪りは際限がなく、満ち足りることない中で、求めても得られない苦、執着したものを失う苦、奪い合いの苦など、さまざまな苦しみを招く。よって、絶えず現状への不満と将来への不安がある。<br />
そのため、先ほども述べたように、日本社会は、客観的には恵まれているのに、その中の人は、幸福観に乏しいのではないだろうか。それは、国際比較・世論調査などを見てもそうである。<br />
逆に、途上国でありながら、一説によると、国民の97％が幸福であると感じているのがブータンという国である。その前国王は、経済力＝ＧＮＰを幸福の指標にするのではなく、人の感じる幸福感の大きさを重視し、ＧＮＨ（国民総幸福感）を唱えた。このブータンは、自然環境を重視する仏教国である。<br />
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2005年5月末に初めて行われたブータン政府による国勢調査では、「あなたは今幸せか」という問いに対し、45.1%が「とても幸福」、51.6%が「幸福」と回答した。<br />
(中略）<br />
ブータン国立研究所所長である、カルマ・ウラはGNHについて次のように述べている。<br />
「経済成長率が高い国や医療が高度な国、消費や所得が多い国の人々は本当に幸せだろうか。先進国でうつ病に悩む人が多いのはなぜか。地球環境を破壊しながら成長を遂げて、豊かな社会は訪れるのか。他者とのつながり、自由な時間、自然とのふれあいは人間が安心して暮らす中で欠かせない要素だ。金融危機の中、関心が一段と高まり、GNHの考えに基づく政策が欧米では浸透しつつある。GDPの巨大な幻想に気づく時が来ているのではないか。」（以上ウィキペディアより）<br />
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こうした状況を考えると、恵まれた環境でも、幸福観の乏しい日本人のためには、万物を恩恵と見て、万物に感謝し、慈悲・分かち合いの喜びを培う教えと実践が、今後非常に重要ではないかと思う。
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<strong>第三章　観音菩薩の法則：万物仏・万物尊重</strong>
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さて、釈迦牟尼の法則に続いて、観音菩薩の法則は、「万物を仏と見て、万物を尊重する」というものである。<br />
なお、前提として、この教本では、「万物」を仏と見るというところまでは範囲を広げず、「万人」を仏と見て尊重するという点に、力点をおいて解説する。究極的に言えば、人と他の生き物や、それを取り巻く大自然は一体不可分のつながりを持っているので、万物を仏と見る教えがあるのだが、今回の目的には、そこまでの解説は必要がないため、省略する。<br />
まず、現代社会に生きる人は、競争社会の中に生きる中で、万人を尊重するということは非常に難しい精神状態に置かれている。むしろ、知力・財力・容姿などの基準で、人の間に優劣を設け、卑屈・妬み・慢心といった感情に悩むことが多い。その意味で、自分も他人も、本当の意味では、尊重・尊敬・愛することができない人が多い。<br />
さらに、日本人について言えば、親への尊敬も、他の先進国と比較しても、突出して低いということがわかっている。自分を産んだ親への尊敬の欠如は、自分自身を良い意味で価値のある存在と考えることができるかにもつながってくるので、重要な問題である。<br />
では、そういった中で、どのようにしたら、他に対する尊重の心を育むことができるかについて、考察するのが、この章の目的である。
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<strong>１　他者が与えている恩恵を十分に考えること</strong>
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まず、第二章で述べたように、人は万物に支えられながら生きている。自分一人で生きることができる人はいない。これは対人関係においても同様で、「自分」は自分一人の力で生きているのではなく、多くの他人に支えられて生きている。<br />
特に、分業が非常に進化した現代社会は、全体が一体となって機能しているから、この社会を構成する万人に支えられながら、私たち一人一人は生きている。しかし、日常生活では、自分の力だけで生きているという錯覚＝慢心を抱くことも少なくない。そうならないように気をつけて、他への感謝や尊重を培うべきである。<br />
また、自分が尊敬して大切にしている人も、そうでない人も、実際には、皆が一体となって存在している。自分が尊敬する人も、尊敬できない人を含む万人・万物に支えられてこそ存在しているのである。それは、釈迦牟尼、ゴータマ・シッダールダのような人についても変わらない。尊敬する人を支えている存在も、感謝の対象にするのである。<br />
また、これに関連して、拝金主義とも言われる現代社会であるから、「お客様は神様です」と言うように、お金をくれる人だけを尊重したり、自分で稼いで生きているのだから、他人のやっかいにはなっていないといった錯覚に陥ったりすることがある。しかし、自分自身も、自分に仕事をくれる会社も、お金を払うお客さんも、万人・万物が、一体となって支えているものである。お金に惑わされて、万人・万物の価値を見失わないようにする必要がある。<br />
それから、人は、貪りがあるために、自分がすでに与えられている恩恵は当然のことだと思って、感謝の心が持てないということがある。よって、他人からすでに与えられている恩恵について、改めてその大きさをよく考えて、十分に気づく必要がある。<br />
また、親などの場合を含めて、自分と他人を比較して、自分が得ている恩恵が少ないと考えて、比較をしなければ、事実としては、大きな恩恵を得ているのにもかかわらず、比較によって、感謝どころか、逆に不満を持つという場合もある。こういった場合にも気をつけて、比較を越えて、実際に与えられている恩恵について考えるべきである。
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<strong>２　謙虚になれば、万人が仏と同等に学びの対象であることに気づく</strong>
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まず、重要なこととして、他人が、自分にとってどのような価値を持つかは、他人が決めるのではなく、自分が決めているということがある。例えば、悪いことをしている人について、その人を自分の反面教師と見て、自己の向上に役立てる人と、単に軽蔑の対象とする人では、まったく違った価値を持つ。<br />
また、同じように、優れている人について、その人を自分の見本や切磋琢磨の対象と見て、自分の向上に役立てる人と、単に妬みの対象、すなわち自分の幸福への障害・邪魔と見る人とでは、まったく違った価値を持つ。<br />
こうして、自分の心の持ち方によっては、すべての人が、仏と同等に、自分の学びの対象、自分の向上のための手助けになる。逆に言えば、心の持ち方によっては、向上の手助けになっている人さえも、邪魔者に見えるのである。<br />
もう少し詳しく述べるならば、普通、他人が悪行をなしているのを見ると、私たちには軽蔑や嫌悪の心の働きが生じる。しかし、よく考えれば、この社会の中で、人と人は密接不可分につながって存在している。<br />
よって、他人がなしている悪行は、自分を取り巻く条件が変わったならば、自分が将来犯す可能性がないとは言い切れないものである。だとすれば、その人は、自分にとって、貴重な反面教師の一面があるということになる。<br />
そして、そのように考えて、他人の悪行を見ては、謙虚に自戒する人の方が、安直に軽蔑・嫌悪して見下す人に比べて、同じ過ちを犯す可能性は低いことは間違いない。言い換えると、謙虚で向上心の強い場合と、慢心と軽蔑が強い場合では、他人の見え方が違ってくるのである。<br />
特に、身近に悪いことをしている人がいる場合は、それは非常に貴重な反面教師になる。親や親族、近しい友人・知人は、遺伝子を共有していたり、類は友を呼ぶという経験則があったりするように、自分と似た要素を持つ存在である。<br />
そういう人を見ると、人は「自分は絶対にこのようにならないようにしよう」と強く思うことも多い。そして、その思いは、心のどこかで、自分とその対象が似ていることを理解しており、言い換えるならば、油断すれば同じことをしてしまう可能性を感じるがゆえに、「同じようにならないように」という、強い思いも生じるのだろう。<br />
こうしたことを考えると、悪行をなしている他人というのは、自分に代わって、悪行をなすと、いかに他を苦しめ、自分も苦しみ、ぶざまであるかについて、自分に詳しく教えてくれている貴重な存在である。<br />
仮に、こういった反面教師がまったく自分の周囲にいなかったとして、自分が初めて悪に誘惑されたとしたならば、自分はすべての誘惑に打ち勝つことができるだろうか。反面教師がいてこそ、かろうじて、自分が同じ悪を避けることができている場合も多いのではないだろうか。<br />
一般的に言っても、人は、そもそも多かれ少なかれ無智であり、皆が仏陀の手のひらの中で、ドングリの背比べであるという視点もある。また、悪を避ける上でも、一人の智恵や力には限りがある。こういったことを考えるならば、謙虚な向上心があればあるほど、反面教師の貴重さを理解することができるだろう。<br />
そして、悪行を戒める法を説く諸仏・諸菩薩は、確かに宝である。しかし同時に、悪行の苦しみを教える実例も、非常に貴重な存在であり、それを十分に活かしてこそ、他の悪行を止める力も増やしていけるのではないだろうか。こう考えるならば、万人が仏と同等に、自分の学びの対象であると考えることができるだろう。<br />
次に、他人が悪行をなしているのではなく、善行をなしているのだが、妬みの感情によって、それが自分の向上を手助けする存在とは感じられずに、自分の幸福の邪魔に見える場合について述べる。<br />
これも、自分と他人の関係というものを正確に見ることが重要である。繰り返しになるが、自分一人の力というものには限りがある。自分より優れた存在からの刺激、優れた切磋琢磨があってこそ、自分も、よりよく向上していくことができる。<br />
仮に、自分の周囲に、自分より優れた存在がまったくいなかったならば、自分が（一時的に）トップになることはできても、それは本当の意味で、長期的な意味で、自分の人生にとって幸福なことであろうか。<br />
人は一人では、慢心や怠惰に打ち勝って、最大限の努力をするのは難しい。このことを考えたならば、他人の努力や向上が、自分の努力や向上に密接に関連していることがわかるだろう。先ほどは、他人の悪行が、将来の自分の悪行になる可能性について述べたが、それと同じように、他人の善行が、自分の善行に関連しているのである。<br />
よって、先ほどと同じように、謙虚な向上心を持つならば、妬みを越えて、優れた存在をありのままに見て、それから学び取り、向上することができるようになるだろう。また、これも同じように、経典で説かれる諸仏・諸菩薩は確かに宝であるが、現実の人生の中で、実際に自分の見本となる対象、切磋琢磨の対象は、仏陀に等しく、非常に価値のある存在である。<br />
なお、これまでに述べた他人の悪行と自分の悪行、他人の善行と自分の善行をつながったものと見る考えは、一元の思想の一環である。この見方の根底には、万物が本質的に一体であるという思想がある。<br />
そして、これに関連して、ひかりの輪には、三乗の法則と呼ばれる教えがある。それは、<br />
自分と他人というものが、相互に依存し合って存在し、同根であり、循環していると説く法則である。これについては、詳しくは後述する。<br />
最後に、大乗仏教の究極の悟りとして、悟った者には、この世界が仏の集う仏の浄土であると感じるという教えについて述べておく。これも、現実とは、それを見る者の心の持ち方で、まったく違った感じられ方をするものであるという思想に基づいている。<br />
この思想は、大乗仏教では、唯識思想といわれている。厳密に言えば、私たちが現実と呼んでいるものは、何か定まったものではなく、それを見る側の五感や意識との組み合わせで作り出される意識の中の印象（脳内の情報処理）である。だから、同じ時に同じ所にいても、違った生き物には、ないしは違った人には、まったく違った現実が現れてくる。<br />
よって、心が完全に浄化された仏陀にとっては、この世界が、普通の人とはまったく違って感じられ、普通の人には軽蔑すべき悪人も多いこの世界が、仏の集う仏の浄土と見える、というのである（大乗仏教で、輪廻即浄土・輪廻即涅槃と呼ばれる教え）。
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<strong>３　万人は平等に、未来に仏陀になる存在であるという思想<br />
＝人類社会は、未来に仏の浄土のように大きく進化すること</strong>
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（１）人は皆、未来に仏陀になるという思想
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次に、仏教の人間観に基づいて、人＝人類は、無智ゆえに悪業をなして失敗しつつも、その反省に基づいて、諸法に目覚め、解脱する（仏陀になる）存在であるという人間観を紹介する。<br />
まず、仏教の人間観として、苦しみがあって、初めて正法に対する信仰があるという思想がある。これは、悪業による苦しみから反省し正法に目覚めるということである。これは、人が成長するという思想に他ならない。<br />
そして、煩悩を持った凡夫が、菩提心を持った仏になるという思想がある。ここで凡夫というのは普通の人という意味で、仏とは仏陀、真理に目覚めた人・覚醒者という意味である。また菩提心とは、仏の悟りの心といったほどの意味である。<br />
そして、すべての生き物は、未来に＝来世のいつかで、仏陀になるという思想がある。仏教は基本として、輪廻転生思想を説くから、何度も生まれ変わる中で、遠い未来ではあるが、釈迦牟尼のように、すべての生き物は悟るという思想である。<br />
特に、仏性思想というものがあり、仏性とは、未来に仏陀になる可能性を意味しており、すべての衆生・生き物が仏性を持っているとされる（一切衆生しつ悉う有ぶっしょう仏性）。そして、その仏性がいずれ覚醒し、すべての衆生が未来に仏陀になるという思想がある（一切衆生しっかい悉皆じょうぶつ成仏）という思想がある。<br />
これと関連して、弥勒如来の伝説というものがある。これは、56億7千万年の後に、弥勒菩薩が仏陀・如来となって降誕し、その際に、その際の人類のすべてとも思われる非常に多くの人を救うというものである。具体的には、一度に90億人近くの人を四向四果と呼ばれる一定の悟りに導くことを三度行なうという。その際の人類の平均の寿命は8万年にも及んでいるという。これは仏教の一種の理想的な人類社会の予言であろう。<br />
なお、これとシンクロするものとして、弥勒菩薩を象徴する法具である「水瓶」と同じキーワードを持つ、占星学における未来の理想の人類社会の到来の預言がある。それは、「水瓶座の時代」と呼ばれており、それは、万人が平等に尊重される高い精神性の時代と解釈されている。
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（２）人は皆、平等の価値を持つという思想
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さらに、大乗仏教の思想では、万人は、未来の仏として、平等の価値を有している。正確に言えば、万人というよりも、万物・森羅万象が、平等な仏性の顕現という思想である。万物・万人が、平等に、未来に仏陀になる可能性の現れであるという思想である。<br />
ここで重要なことは、万人・万物の間に、優劣の比較・区別がないことだ。万物が皆、仏陀と同等に尊いものであるという世界観である。これを私なりに噛み砕いて解釈して、解説するならば、私たちが認識する個々人の違いは、本質的には、優劣ではなくて、個性・役割の違いと解釈すべきものである。<br />
それを私たちが優劣の違いと認識することは、私たちの価値観が一面的・一時的な基準に偏っているからではないかと思う。例えば、学校での偏差値などの知能、財力、容姿、スポーツの能力などで、現在の社会は、人を比較して、優劣をつけてしまう。競争社会だから、人との競争に勝てる者、資本主義社会だから、よりお金を生み出す者を優れた者とする傾向も強い。<br />
しかし、本質的には、そういった能力だけが、人にとって価値があり、優れた人の条件かは非常に疑わしい。そもそも、経済力優先の価値観、たとえばＧＮＰ優先の価値観自体がすでに疑われ始めている（第二章のＧＮＨ・国民総幸福感を参照）。<br />
仏陀が説くように一切は無常に移り変わるこの世の中で、人類の社会の価値観も移り変わってきた。日本にしても、100年前は経済力より軍事力中心の世界、200年前は士農工商の鎖国の社会であった。その意味で、現代社会が重視する優劣の基準が、これから100年後にそのままである可能性はむしろ非常に低いだろう。<br />
そして、深く考えるならば、いかなる長所も短所とセットであり、苦楽と同様に、優劣も裏表であるという事実があると思う。<br />
例えば、一般的に、欲望の追求において、他との競争に勝つ能力は、他の苦しみを思いやる慈悲の能力と相反する一面がある。前にも述べたが、貪りの追求は、他に優位に立って、他から幸福を奪う性質があるために、それに邁進するタイプの人は、他に無慈悲な心を形成する一面がある（なお、この例外としては、お互いに尊重し合い、お互いの成長のための切磋琢磨として、競争を位置づけている場合があるかもしれない）。<br />
さらに深く考えるならば、何かに優れている人というのは、それに劣っている人の気持ちを、実体験を通しては理解できない。劣っている人こそが、実体験を持って、同じように劣っている人の気持ちを理解し、それを乗り越える手助けをする能力と気持ちを持ちやすい。こうして、他に勝つ能力と他を助ける能力というものを考えると、長所の裏に短所、短所の裏に長所があることがわかる。<br />
また、何かに劣っている人こそが、それに優れている人を支える能力や気持ちを持ちやすいということもあるだろう。優れている者同士では、それぞれが自分自身を中心に置いて、闘争になることも多い。他に勝つ能力と、他の良さを活かす能力も、相反する一面があるだろう。<br />
また、宗教的にいえば、大乗仏教などでは、煩悩が少なく、そのために解脱も早いことが絶対善とはされていない。煩悩が強く、そのために解脱が遅い者も、煩悩が強いということは、解脱を果たすならば大解脱を果たすという思想がある（大煩悩大解脱）。<br />
これは、煩悩が強いとは、エネルギーが強いということであり、そういった者が解脱を果たすならば、その煩悩のエネルギーが昇華され、強い慈悲の心・エネルギーを持つ者となるという思想である。<br />
そもそも、仏教では、「煩悩即菩提」「凡夫即仏」と説いて、煩悩と菩提心（仏の悟りの心・慈悲の心）はまったく別のものとは位置づけない。密教やヨーガの思想では、煩悩が昇華されたものが菩提心になるとする。<br />
わかりやすく言えば、人は皆幸福になりたいが、最初は、無智や経験の不足のために、自己中心的な行動で幸福になろうとするが、それを繰り返す中で、苦しんで行き詰まり、その経験から、利他の行為によってこそ真に幸福になると気づくということである。<br />
そのため、経典では、大悪人であった者が、改心して大善人になるという物語が少なくない。釈迦牟尼の高弟であるアングリマーラ、チベットで最も敬愛される聖者のミラレパは、初期は大罪を犯した者である。仏陀の教団を分裂させた悪名高きデーヴァダッタも、後に深く改心して、仏教を守護する神（護法神）に生まれ変わったとされる。<br />
釈迦牟尼自身も、釈迦より一つ前の仏陀に初めて出会ったときは、インチキ宗教家と誹謗する悪業をなしたともされるが（仏教では、仏陀への誹謗は大悪業ともされる）、その後改心して修行に励み、次の仏陀になったのである。<br />
イエス・キリストの弟子についても、当初はイエスの教団を弾圧していたパウロが、ある時から改心して、キリスト教が世界宗教になる立役者となった。敵が最大の助力者に変わっていったのである。キリスト教は、イエスの時代のユダヤ教の一新興宗派から、パウロらによって世界宗教の枠組みが整えられたので、パウロが発明した宗教であるとする宗教学者さえいる。<br />
こうしたところから、仏教では「敵こそ教師である」という思想がある。また、イエスは「汝の敵を愛せ」という教えを説いた。これは、仏陀やイエスが、自分の宗教的な敵である者さえ、時とともに変化し、自分たちの偉大な助力者となることを洞察する智恵を持っていたということかもしれない。ともかく、優劣・善悪という視点では、最悪である「敵」という存在が、時を経て、正反対に最大の助力者になるという思想があることがわかる。<br />
また、過去の仏である釈迦牟尼と、未来の仏である弥勒菩薩の物語も興味深い。釈迦牟尼は、「王の菩提心」の持ち主とされ、自分がまず悟って他を導く者である。弥勒菩薩は、「船頭の菩提心」の持ち主とされ、自分と共にすべての衆生を救済の船に乗せて、その船頭として、皆と共に解脱という目的に向かうとされている。<br />
釈迦牟尼は、弥勒菩薩より早く成仏したが、釈迦牟尼自身は人類の全体はおろか、インドの一部に布教し救済するにとどまった。弥勒菩薩は釈迦牟尼より遅れること56億7千万年後に成仏するとされるが、人類全体とも思われる人を一定の悟りの境地に導くとされる。<br />
これを見ると、現代社会の価値観のように、早ければ良い・遅ければ悪いというのではないことがわかる。早く行くものは、新たな道を見つける先駆者の役割を果たす。一種の時代を切り開く天才であろう。<br />
一方、後から来る者は、そういった早く行く能力はないが、その能力がないがゆえに、自分の苦労の中を通して、万人がその道を歩む上での障害を理解して手伝いをする能力を逆に身につける。そのため、万人が、その道を歩むことができるようにする、偉大な普及者としての役割を果たす可能性がある。こうして、釈迦牟尼と弥勒菩薩は優劣ではなく、役割の違いがあり、後から成仏する弥勒菩薩が釈迦牟尼を補い助ける仏とされる。<br />
こうして、大乗仏教の人間観を解釈すると、すべての人がいつかの未来に仏になる中で、それぞれの時期と救済のあり方が異なるが、それは優劣ではなく、それぞれの役割の違いであって、互いが互いを助け合う・補い合う関係にあるということになる。<br />
最後に、この万物を平等と見る思想は、万物が一体であるという思想と密接不可分である。ひかりの輪では、三乗の法則として、万物が、相互に依存し合い、同根であり、循環しており、本質的に一体であるという思想を説いている。万物が一体であるならば、万物が、本質的に平等の価値を持つと考えるのが自然となる。<br />
例えば、現在の宇宙の万物は、皆が同じ根源、すなわちビッグ・バンから生まれた同根のものである。同じように、大乗仏教では、宇宙の万物は、「根源仏とされる大日如来の現れである」とか、「万物の源である根本的な意識であるあらや阿頼耶しき識の現れである」などと説く経典もある。万物が同根であると考えたならば、万物が本質的に平等であるという直感的な理解も得やすいであろう。<br />
また、万物が一体であるという思想から、この宇宙が、一つの巨大な人体のようなもので、宇宙の中のさまざまな部分、すなわち、さまざまな人々や生き物などは、その細胞のようなものであると解釈する思想もある。<br />
例えば、先ほどの大日如来の教えや、ヒンドゥー・ヨーガには、人体と大宇宙がシンクロしていると解釈する思想がある。人の体の中の各細胞や各臓器は、役割の違いはあっても、優劣はなく、お互いに助け合い、お互いを必要としている。同じように、宇宙の万物には、優劣はなく、それぞれの役割があって、お互いに助け合っているという思想である。<br />
そして、人体では、どの細胞も、基本的には同じＤＮＡを有しており、理論的には、どの細胞からも、体全体を再生することがクローン技術によって可能である。すなわち、全体と一部が本質的には等価である。これは、大日如来に関する教えで、華厳経などが説く、宇宙の全体と一部分が等価であり、すべては大日如来の現れであるとする思想と共通している。<br />
最後に、この思想は、すべての衆生を等しく未来の仏、仏の子と見て尊重して慈しむという慈愛の思想に結びつく。そして、仏とは、宇宙のすべての母のような存在であり、未来の仏であるすべての生き物を慈しみ育む存在であるというイメージである。このイメージの仏様には、慈母観音菩薩や、仏母グリーンターラ（観音菩薩の化身）などが存在する。<br />
また、宇宙自体を、すべての衆生を育む母なる仏と見なす思想もある。例えば、大日如来の胎蔵界曼荼羅の思想などがそうである。
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４　現代社会の人間観・人類観・未来観の歪みを越える
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さて、上記の大乗仏教などの思想を前提にすると、人類は成長する存在であり、未来に仏の浄土のような高次元の社会を実現すると解釈できる。<br />
しかしながら、宗教界には、これまでに終末思想的な未来観が繰り返し流行し、その意味では、人類が未来の理想社会に向かって成長する存在であるということに対して、否定的な見方もある。<br />
この否定的な見方の背景にあるものは何かというと、私が思うには、第一に、競争社会においては、妬みなどが強くなり、自と他の幸福は矛盾するもので、幸福は奪い合うものという錯覚が生じるため、万人が成長し幸福になることを信じて、皆で努力しようという心の働きは弱くなることが一因ではないかと思う。そこには、他の成長・成功＝自分の不幸という錯覚さえもあるだろう。<br />
一方、終末思想などは、それを実際の現実の世界に当てはめて解釈すると、競争社会によく似た一面があると思う。終末思想では、大破局が起きて、悪しき大勢の者は滅びて、少数の正しい者（選ばれた者）だけが生き残って、神の王国・理想郷を作るというシナリオである。この場合、皆が共に一体となって成長するのではなく、大勢の者が滅びることが、逆に自分たち（選ばれた者）が幸福になる前提条件になっている。<br />
これは、競争に勝利した者だけが幸福になるといった競争社会の価値観・精神構造と似た部分がある。神の集団と悪魔の集団の対決も描かれており、そこに競争社会と同じように、優劣・善悪の二分化がある。優れた者と劣った者、勝ち組と負け組、幸福になれる者と不幸になる者の二分化である。<br />
これは、本質的には、自と他を比較し、他とは違って優れた自分という存在を求める自己愛、自我執着、虚栄心といったものが背景にあるだろう。そして、終末思想を好む風潮を分析すると、なかなか自分が中心になれない現代社会の中で、大破局が起こり、その中で自分が（選ばれた）特別な存在になるといった、妄想的な欲求、一攫千金的な欲求があるのではと思われる。<br />
こうして、終末思想の流行は、競争社会などが強める、自と他を比較する価値観による影響があると思われる。逆に、万人が一体平等であるという価値観が浸透すれば、そういった思想は好まれなくなるのではないだろうか。<br />
より細かく分析すると、自と他の優劣の比較が強まると、自分の幸福を邪魔すると感じる他人への妬み、自分の方が他より優れていると感じる慢心、それに基づく他人への軽蔑、他に比べ劣っているという自分への卑屈などの感情が強まる。<br />
そうすると、万人の価値を尊重するのではなく、自分も他人も価値のない存在であり、自分も他人も愛せないと感じる心の働きが強まる。そして、他人の成長は妬ましく、その可能性は否定したくなるが、他人の成長の可能性を否定するがゆえに、自分の成長の可能性にも、自信が持てなくなる。<br />
よって、前にも述べたとおり、自と他の優劣を安直に比較せずに、長所と短所は裏表で、個々人の違いは個性・役割の違いで、万人が平等の価値を有するとする人間観である。そして、万人が、未来に向かって、それぞれの個性を活かしつつ、互いに助け合って、成長するといった思想である。<br />
今の風潮では、こうして皆で協力し合って、皆で成長していく可能性を考えることは難しい。互いが互いの価値と成長の可能性を信じ合って、互いに助けあうという風潮は乏しく、競争の中での卑屈や妬みや慢心・軽蔑で、他の成長は信じたくないし、そのために、自分の成長も信じられない傾向が強いからである。<br />
しかし、仮に皆が、従来の貪りに基づく競争ではなく、智慧と慈悲による幸福、感謝と分かち合いによる幸福に目覚めるならば、万人が一体となって成長していく可能性を信じやすくなるだろう。そして、実際に互いの成長を助け合う社会となれば、今よりも精神的にずっと高次元の社会、究極的には、仏の浄土のような社会が実現される可能性も感じられるだろう。<br />
また、現在の経済的な貪りを中心とした幸福観の行き詰まりも、肯定的な未来観を持つことが難しい背景にあるだろう。貪りには際限がなく、満ち足りることはない中で、経済的な貪りは、マネー資本主義の破綻、財政赤字による財政破綻の危機、地球環境問題の危機など、さまざまな問題をもたらしている。<br />
こうして現代社会は行き詰まりつつあり、この価値観の下では、人類全体の未来に希望が見えにくく、このままでは、人類社会が高次元の存在に成長することを信じる気持ちは持ちにくいだろう。よって、前にも述べたように、今後は、経済的な貪りによる幸福という思想を乗り越えて、新しい幸福の思想・価値観に進化する必要があるだろう。それが感謝と分かち合い、知足と慈悲の幸福観である。<br />
また、貪りが強く、感謝が不足すると、これまでの人類の進歩に対して、それを客観的に自覚することも難しくなる。こうした社会では、感謝の不足＝現状への不満を原因として、いろいろな課題は山積するものの、さまざまな意味で進歩してきた人類社会を素直に認識し、先祖・先人に感謝する気持ちも持ちにくい。前に述べたように、現在の日本は人類史上最高の社会の一つであるという感覚は持ちにくい。<br />
よって、今与えられている幸福に努めて気づいて感謝し、また経験している多少の苦しみも、自分を成長させる試練としての恩恵とみなす肯定的な考え方、すなわち、「万物恩恵・万物感謝」の視点を持つと、自分たち人類社会の歩みについても、より肯定的な見方ができて、未来の進歩の可能性も信じやすくなるのではないかと思う。<br />
結論を言えば、人類は、本質的には、高い成長の可能性があると思う。今現在の社会には、行き詰まり感があるが、それは、真の幸福への思想＝智慧と慈悲に目覚める過程としての必要な経験であり、長期的な視点では、一歩一歩進歩しているのだと思う。<br />
その中で、この教本が説く三仏心経の思想は、明るい人類の未来観を支える土台となるものである。第一の「釈迦牟尼の法則」は、智慧と慈悲、感謝と分かち合いといった、新しい幸福観によって、経済的な貪りによって行き詰まった現状を打開するものである。そして、与えられている幸福への感謝は、人類が進歩していくことの可能性を自覚させる。<br />
第二の「観音菩薩の法則」は、万人が平等に貴重な個性・役割があるといった認識を助け、万人がその人なりに成長し、幸福になる可能性があるという認識を助ける。<br />
そして、第三の「弥勒菩薩の法則」は、後で詳しく述べるが、万人が一体となって苦楽を分かち合い、助け合うことで、万人が成長していく、解脱していく可能性・道筋を示すものである。
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<strong>第四章　弥勒菩薩の法則：万物一体、万物愛す</strong><br />
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<strong>１　万物を一体と見る思想<br />
</strong><br />
ここでは、万物を本質的に一体であると見る思想について述べる。これは思想というより、しっかり考えるならば、科学的な事実である。<br />
しかしながら、私たちの日常生活は、さまざまなものを別々なものに位置づける、言葉による思考の影響を深く受けている。名前の違う事物は、実際にはそれが別々ではなく、つながって一体であるにもかかわらず、言葉による思考の深い影響を受けている私たちの意識・心は、それらが、あたかも別々のもののように錯覚してしまうのである。<br />
その中で、最大の区別は、自と他の区別である。自分と他人を区別し、両者の幸福を区別し、自分だけを偏愛して、他から幸福を奪うような自己中心的な行動で、自分が幸福になると錯覚するのである。これは貪りの害悪として述べたとおりである。<br />
よって、貪りなどの欲望の根本には、自と他を区別する、さまざまなものを別々にとらえるという錯覚があるということになる。そして、その錯覚を乗り越える根本的な法則をまとめたものが、ひかりの輪が説く「三乗の法則」と呼んでいるものである。<br />
三乗の法則の三乗とは、仏教の三つのタイプ、すなわち、原始仏教、大乗仏教、密教のことを意味しているが、三乗の法則とは、以下の通りである。
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（１）万物は相互に依存し合って存在し、一体である。<br />
（２）万物は同根であり、一体である。<br />
（３）万物は循環し、一体である。
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この三乗の法則については、詳しくは、『2011年夏期セミナー特別教本　輪の思想と新しい宗教の信仰のあり方』を見ていただくとよいと思うが、ここでは簡潔に解説しておく。<br />
まず、第一に、万物は、よく考察するならば、相互に依存し合って存在し、何物も他から独立して、自分だけで存在することはない。例えば、人間というものも、空気・水・食べ物・陽の光・その他の社会システムから地球の生命圏・宇宙全体のシステムに密接不可分につながって生きている。<br />
それは、科学的にいえば、あたかも人体の中の細胞のようなもので、宇宙・地球の一部であって、それから独立した存在ではない。自分があたかも、宇宙・地球から独立して存在し、その支配者であるかのような意識があれば、それは錯覚であり、妄想である。<br />
あくまで、私たちは、宇宙の一部であり、しかも、宇宙の一部であるとはいっても、密接不可分につながっているので、どこまでが私たちで、どこからが私たちであるかの区別さえ、正確にはつかないのである。例えば、水、空気、食べ物は、自分の中に取り入れる前は、自分のものではないとされるが、取り入れた途端に、自分の一部になり、排泄した途端に、自分のものではなくなる。自分と自分の外の境界は科学的には存在しない。<br />
第二に、万物は、科学的にも、宗教的にも、同根と見ることができる。最新の宇宙物理学は、今の宇宙の万物は、ビッグ・バンという爆発的な膨張から始まったとされる。こうして、宇宙の万物は、科学的に言って、一つの源から始まった同根のものである。<br />
なお、仏教やキリスト教の思想にも、これとシンクロしたイメージがある。聖書にある宇宙は、最初は天と地にさえ分かれておらず、一体であった。神による宇宙の創造の過程で、一体だったものが、いろいろなものに分かれていったと解釈できる。また、その最初の状態は、ビッグ・バン宇宙論が描くのと同じように、水の中のような不透明な状態とされることも、両者の一致点である（最初期の宇宙は、光が直進できず、水の中のような状態である）。<br />
大乗仏教でも、宇宙の根源は一つであるとする思想がある。特に宇宙のすべては根源仏の大日如来の現れであるとする経典や、宇宙の万物は阿頼耶識という根本的な意識の現れであるとする思想がある。<br />
万物が同根であるという認識を持つと、宇宙のあらゆるものと自分が不可分の関係にあるという認識が生まれる。万物は、一つの木の枝葉のようなもので、同じ祖先を持つ同族・家族である。<br />
よって、家族の中の功績や罪は、家族全体の誉れや恥、喜びや悲しみであるように、宇宙の中のあらゆる善も悪も、本質的には、自分たちとすべて無関係のものではなくて、かつては自分たちが一体であったものから生じているものなのである。<br />
この思想は、自と他を区別して、他を妬んだり他を軽蔑したりするのではなく、他の善行と喜びを自己の喜びとして、他の悪行や苦しみを自己の悲しみとする仏陀の境地に結びつくものがある。<br />
第三に、万物は、循環して存在し、一体である。これは特に、私たち生命体の存在についてよく当てはまる。<br />
例えば、私たちの思考を形成する情報・知識は、自分と他人の間を循環している。他人から自分へ、自分から他人へ、日々さまざまな情報・知識が出入りし、交換されている。<br />
よって、自分だけで形成した思考というものは一つもなく、他から学んだ言語に基づき、他から吸収した知識・情報によって形成したものを「自分の考え」と思い込んでいるだけである。実際には、自分と他人を含めた社会の中の膨大な情報の循環の中で、その時々に、さまざまな思考が浮かんでは消えていくにすぎず、厳密な意味で、他とは無関係の自分だけの考えなどと呼べるものはない。実際に、考えが一生すべて変わらない人はおらず、自分と他人の考えが入れ替わる場合さえよくある。<br />
また、体を構成する分子も、数年で完全に外から取り入れたものに入れ替わり、以前のものは排出されてしまう。こうして、自分の体だけの分子など一切なく、人間から植物や微生物に至るまで、さらには、その他の非生物に至るまで、その体を構成する分子を皆で交換し合いながら、共有して使っているのである。<br />
さらに、この循環とは、生と死の循環を含む。すなわち、この地球の生命圏では、多くの生き物が生まれ、多くの生き物が死ぬという生と死の循環によって成立してきた。多くの生き物が生まれるには、多くの生き物が死ぬことが前提である。<br />
死んだ者の体を構成している有機物のほとんどは、新しく生まれる生き物の体を構成するというリサイクル＝再利用の循環が生じている。私たちが毎日生きているのは、他の生き物の犠牲である食べ物があるおかげだが、私たちも死んだ後に、その体を構成した分子は、自然界で他の生き物や非生物の構成要素となるのである。<br />
最後に、万物が循環するという法則は、上記のような生命体の精神的・肉体的な構成要素における循環に限らない。それは、同じように生命活動に密接関係する、水の天地の循環や、植物と動物の間での空気の循環（酸素と二酸化炭素の循環）もある。マクロ宇宙を見ると、これらの地球上の生命と同じように、生成と消滅を繰り返すさまざまな天体を構成する物質も循環している。<br />
また、循環＝回転運動という視点からは、多くの生命の存在を可能にしている地球の自転と公転があり、それによって、毎日の昼と夜そして四季＝春夏秋冬の循環が生じている。また、マクロ宇宙では、その太陽系を支える銀河系の回転運動があり、それとシンクロして、ミクロ宇宙である原子の中の原子核の周囲の電子の回転運動がある。<br />
この循環の法則は、密教の経典である「時輪タントラ」などが、中心の思想としている。時輪とは時の輪、すなわち、周期的な運動を意味する。その経典は、宇宙の根本原理として、この周期的な運動があるとして、これまでに述べた循環から、人の死と再生（輪廻転生の循環）、覚醒と睡眠の循環をも扱っていると解釈される。<br />
なお、こうして大宇宙の運動の中心に循環・回転があることから出てくる霊的科学が占星学である。星々の回転が周期的な影響を人々に与える（星々の周期的な運動が人の周期的な変化とシンクロしている）と考える思想である。<br />
なお、ひかりの輪においては『2009年夏期セミナー特別教本、循環の法則との密教加行』に、循環の法則について詳説したので参照されたい。
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<strong>２　三仏心経の第二部：万物一体の経典</strong>
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さて、三仏心経の第二部として、上記の三乗の法則を含め、万物が一体であるということを表す短い法則を以下に示す。
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ばんぶつご万物互こん根、くらく苦楽いったい一体<br />
ばんぶつ万物どうこん同根、ゆうれつ優劣いったい一体<br />
ばんぶつ万物じゅんかん循環、じた自他いったい一体
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では、これについて説明すると、万物互根の中の互根とは、お互いが根であるという意味であり、相互依存のことである。<br />
よって、万物互根・万物同根・万物循環は、ひかりの輪の説く三乗の法則そのもの、すなわち、万物が相互依存し合って存在し、同根であり、循環しており、一体であるという法則を表している。<br />
次に、右側の列の三つ、すなわち、苦楽一体・優劣一体・自他一体は、ひかりの輪の説く三仏の法則を表している。これと、三仏心経の第一部の関係は、以下の通りである。<br />
第一に、苦楽が一体表裏であり、楽の裏に苦があるから、貪りを静め足るを知るための感謝をなし、また、苦しみの裏に楽があるから、苦しみも恩恵と見て感謝し、こうして、万物を恩恵と見て、万物に感謝するべきである。<br />
第二に、優劣が表裏一体であり、万物を優劣に二分化するのではなく、万物を平等に仏と見て、万物を尊重すべきである。<br />
第三に、自他が表裏一体であり、万物を一体と見て、万物を愛するべきである。
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<strong>３　万物を一体と愛すること</strong>
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さて、万物が一体であるという視点に基づいて、万物一体として愛するというのが弥勒菩薩の教えである。では、この万物を一体として愛するという教えの意味合いについて考えてみよう。<br />
第一に、万物を一体として平等に愛するという意味がある。自分が好きなものも、嫌いなものも、お互いが相互に依存し合って存在しているのだから、それらすべてを一体と見て、すべてを平等に愛するというものである。<br />
第二に、自分と宇宙全体は一体であり、自分は宇宙の一部であって、真実の自分は宇宙全体であるという意識を持って、万物を愛するということである。<br />
自分は外界＝大宇宙から独立して存在しておらず、大宇宙の一部であり、しかも、科学的に見れば、どこまでが自分で、どこからが自分ではないのかの境界は存在しない。これは仏教では無我の教えという。無我とは、他から独立した固定した実体を持つ私・我などは存在しないという意味であり、ゆえに、私・我に対する執着を弱めることを説く。<br />
そして、これを言い換えれば、真実の自分は、宇宙全体に広がっているとも表現することができる。これはヒンドゥー・ヨーガの宗派の一部が説く宇宙意識という概念に結びつく。<br />
また、ヒンドゥー・ヴェーダーンタ学派の説く不二一元論（アドヴァイタ）における梵我一如の思想とも結びつく。梵我一如とは、宇宙の根本原理のブラフマン（梵）と個々人の本質であるアートマンは同一であると悟った解脱の境地である。<br />
第三に、現実の日々の実践としては、他の喜びや苦しみと、自分の喜びや苦しみを一体であると見て、他の幸福を願い喜び、他に喜びを与え、他の苦しみを悲しみ、他の苦しみを取り除くという慈悲の実践をすることを意味する。一言で言えば、他と苦楽を分かち合うということになるだろう。<br />
この実践は、仏教では四無量心と呼ばれる仏の心の実践である。四無量心とは、慈悲喜捨の四つの無量の心という意味である。まず、①他に幸福を与えるのが慈の心、②他の苦しみを悲しみ取り除くのが悲の心、③他の幸福を喜ぶのが喜の心、そして、④分け隔てなくすべてを平等に愛するのが捨の心である。この慈悲喜捨の心の実践をすべての衆生に対して行うので、四つの無量の心＝四無量心と言われている。<br />
そして、一言で言えば、他と苦楽を分かち合う、究極的には宇宙のすべての生き物と苦楽を分かち合うということになる。苦しみは、多くで分かち合えば、その人数の分だけ和らげることができる。喜びは多くで分かち合えば、その人数の分だけ増えることになる。よって、無数の人が苦楽を分かち合うならば、その世界は、苦しみが無限小に小さく、喜びは無限大に大きくなるということができるだろう。<br />
ここでは、自と他、および自と他の幸福と不幸を区別しないことが要点である。よって、他に幸福を与えることは、同時に自分を幸福にすることであり、他の苦しみを取り除くことは、同時に自分の苦しみを取り除くことと位置づけられる。<br />
他に幸福を与えることは、自分が必要以上の快楽を求める貪りとそれによる苦しみを和らげて、慈悲の心が強まることによる幸福につながる。特に、他の喜びを、妬みを越えて自分の喜びにすることで、自分の喜びが増大する。また、多くの場合、自分の幸福は他に支えられており、その、他の幸福は自分の幸福を支え直す、支え返すものである。<br />
他の苦しみを取り除くことは、慈悲の心が強まることによる幸福につながるし、それに加えて、自分も未来に同じ苦しみに陥る可能性を未然に防ぐことができる。苦しむ他人は反面教師でもあるのだ。そして、他に教えることは、自分自身が最も学ぶことになるように、他の苦しみを取り除くときは、自分自身も学んでいるのである。<br />
こうしたことを理解すると、①人が最も幸福になるのは、他の幸福を願い、助け、それを喜びにすることで、宇宙のすべての喜びを自分の喜びとして感じることであり、②人が、そのすべての苦しみを止滅するのは、宇宙のすべての苦しみを自己の苦しみとして悲しみ、取り除くことによってであるということができる。<br />
こうして、他と苦楽を分かち合いながら、最終的に目指すものは、他と共に、自分が最高の幸福＝仏教が説く仏陀の境地の体得（ないしは解脱とか悟りと呼ばれている境地）である。大乗仏教では、すべての衆生を仏陀の境地（仏性の覚醒）へと導くために、自らが仏陀の境地へ至ろうとする心を「発菩提心」と呼んでいる。<br />
発菩提心については、『2010年夏期セミナー特別教本　三仏の一元法則　菩提心と六波羅蜜』、『仏教講義悟りの道程2　悟りへの道と大乗の教え』などに詳しく解説されているので参照されたい。<br />
最後に、弥勒菩薩の菩提心という教えに言及する。弥勒菩薩は、すべての衆生と共に、解脱に向かうという菩提心（仏の悟りの心）を有しているとされる。その菩提心は船頭の菩提心とも呼ばれ、すべての衆生を乗せた船が、解脱という目的に向かっていく中で、その船頭が弥勒菩薩であるという意味である。一方、釈迦牟尼の菩提心は、王の菩提心と呼ばれ、まず自分が解脱してから、他の衆生を導くというものである。<br />
こうして弥勒菩薩の心は、すべての衆生と共に歩むという特徴を持っていて、その意味で、万人万物と一体となって幸福に向かうと解釈することができる。それゆえに弥勒菩薩の教えとして、「万物一体、万物愛す」という言葉がふさわしい。それは、単に万物を一体として愛するというだけでなく、万人・万物が一体となって解脱に向かい、皆で共に幸福を目指そうという優れた平等心の愛の表現である。<br />
そして、弥勒菩薩は、56億7千万年後に、弥勒仏・弥勒如来として降誕する未来仏として信じられている。そして、その時の人類のすべての人口とも思われるほどの非常に多くの人々を悟りに導くといわれている（具体的には、一度に90億人前後を救う救済を三度繰り返すともされる）。<br />
また、この弥勒菩薩を象徴する法具が、水瓶なのであるが、不思議なことに、占星学も、水瓶座の時代と呼ばれる未来に、万人が平等な理想社会が到来するとしている。弥勒菩薩の水瓶の中には、功徳水と呼ばれる聖水が入っているとされるが、この水は、生命の源として慈悲の象徴であり、禊ぎなど浄化・清浄の象徴であるが、さらには、水平と言うように、平等性の象徴となっていると思われる。
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<strong>４　真の利他の条件：他への感謝、尊重、一体の自覚</strong>
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（１）三仏心経と大乗仏教の菩薩道の類似性
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三仏心経の教えの流れは、すべての衆生の済度を目指す大乗仏教の菩薩道・菩提心の教えと、本質的には合致している。その伝統仏教の菩薩道の実践のエッセンスを簡潔に述べるならば、まず、救済の対象となるすべての衆生について、無数の過去世から現在に至るまで、さまざまな形で恩恵を受けた存在＝恩人だと考える。例えば、すべての衆生は、無数の過去世のどこかの生では、自分の母や父となって自分を育み導いてくれたと考える。そして、その恩に対して報いる、恩返しをしようという心を培う。<br />
そして、恩人である衆生が、今さまざまな形で苦しんでいることを見て、その苦しみを悲しみ、その苦しみを自分が引き受けて取り除く決意をして、そのために自らが仏陀の境地に至ることを決意し（発菩提心）、その具体的な修行として六波羅蜜（六つの完成）の教えを実践するという流れである。<br />
こうして、救済対象を恩人と見なし、感謝をなし、その恩返しとして救済するという流れになっていることが重要である。なお、この大乗仏教の菩薩道・菩提心の教えの詳細については、『2010年夏期セミナー特別教本　三仏の一元法則　菩提心と六波羅蜜』や、『仏教講義悟りの道程2　悟りへの道と大乗の教え』などに詳説したので、できれば参照されたい。<br />
なお、ここで、恩人であり、苦しんでいるすべての衆生について、その苦しみの原因は、仏性（未来に仏陀になる可能性）を有しながら、いまだにそれが未覚醒であるからであるという考えであり、彼らを苦しみから真に解放するには、仏性を覚醒させる以外にはなく、自と他と、そのために、自分が仏性を覚醒させる＝仏陀の境地に至るための修行に入ることを決意するのである。<br />
一方、三仏心経は、①万物を恩恵と見て感謝し、②万物を仏として尊重し、③万物を一体として愛するとしているが、これを大乗仏教の菩薩道に当てはめるならば、①すべての衆生を恩人と見て、②その恩人たちは仏性を有している（未来の仏である）と尊重し、③彼らと苦楽を分かち合い、共に解脱に向かっていくという意味である。こうして、大乗仏教の菩薩道の実践と、三仏心経の教えは、基本的な構造が同じである。
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（２）最善の利他の実践のための心構え
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さて、この三仏心経は、最善の利他の実践をする上での重要な心構えを示してもいる教えである。それは以下の通りである。<br />
まず、利他の対象を恩人と見て、感謝に基づいて利他の実践を行うこと。これによって、「自分が他人を救済してやる」といった慢心を慎むことができる。救済ないし利他の実践は、宗教的な救済でも、慈善活動でも、場合によっては、自分が上に立って、「やってあげている」という傲慢な意識に陥る場合がある。これを防ぐのが、対象を恩人と見て感謝に基づく恩返しの一環として行うことである。<br />
次に、対象を、自分と同様に未来の仏として、高い尊重を持って行うことである。これも、慢心・傲慢な意識を避けることができるとともに、対象への高い尊重は、対象への愛そのものを深め、利他の行為を深めることになる。<br />
これは、母親が子供を育てる場合と一部似ている。幼少の子供は、現時点では無智・無力であるが、母親は、その子が未来には自分と同等の立派な大人になること、自分以上に偉大な人物となることを信じ、期待し、励ましながら育てる。<br />
その意味で、仏陀とは、すべての衆生が未来の仏・仏の子と信じ、仏になるまで育み育てる者であるとも解釈できて、そこから慈母観音菩薩、仏母グリーンターラ（観音菩薩の化身でチベットで深く信仰されている女神の菩薩）といった、女性的・母性的な仏の信仰もある。<br />
最後に、対象を自己と一体と見て行うことである。すなわち、対象を利する行為＝利他の行為は、自分を利する行為でもあると認識して行うことである。それを突き詰めて言えば、自分を救うことでもあると考えて、感謝の気持ちを持って、利他の実践をすることである。他を利することがいかに自分を利することであるかは、前に詳しく述べたとおりである。
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<strong>《参考資料》　日本の良さを再発見：日本の聖地<br />
</strong>（上祐史浩オフィシャルブログ・日記から）
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<strong>１　日本の良さを再発見①　聖地とは？（2011年8月18日）</strong>
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今回から、聖地とは？日本の良さを再発見、というテーマで、シリーズ日記を書きたいと思います。このテーマ、夏期セミナーの講話や巡礼でもお話ししましたが、自分なりに聖地巡礼を10年近くやってきて、ある程度まとまったお話ができるようになったと思うので、書くことにしました。
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まず、聖地は、一般的には、ある宗教や宗教の開祖にゆかりのある場所とされます（ウィキペディアなどを見てください）。しかし、日本の聖地は、それとは違った面があります。それは、聖地が宗教を呼ぶのです。すなわち、そもそも、自然の聖地とされていた所に、神社・仏閣・宗教家が集まったのであって、宗教が聖地を作ったのではないということです。
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日本文明･文化の発祥ともいうことができる縄文時代には、万物に精霊を認める精霊信仰があったといわれます。この万物に神が宿るとする思想は、八百万の神という形で神道にも、山川草木悉有仏性（山も川も草木も仏の本性を有する）という教えで、日本仏教にも生きています。こうして、日本人は大自然・万物に神性を見いだしてきました。そして、その中で特に経験的に神聖と感じられる特別な場所が、聖地とされてきたのだと思います。
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では、日本的聖地の条件とは何か？<br />
聖地に関する著作の多い京都大学教授の鎌田東二氏は、昨年のＮＨＫの聖地をテーマとした番組で、私たちも最近巡礼した出羽三山を紹介しつつ、聖なる木、聖なる水、聖なる山などを条件に挙げていました。もちろん、これは、聖地の絶対的な基準ではないと思いますが、一定の理解の手助けになります。
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まず、聖なる木。日本人は、神様を一人・二人ではなく、一柱・二柱と数えます。そして、ご神木・ご聖木という概念があります。木は、その形から、天と地を結ぶものとされます。木を伝わって、神が天から地に降り、人が地から天に昇るといった考えもあります。<br />
ご神木とされる木の中には、人間よりもはるかに寿命が長く、例えば千年以上も生きた巨木もあります。人より長く生き、多くの人間の生死の営みを、その不動のたたずまいで見つめてきた木に対して、人間が崇敬の念を抱くのも不思議ではありません。<br />
さらに、霊的なことをいえば、御神木とされるような寿命の長い木があるということは、東洋思想の霊的な科学の視点からいえば、その周辺の生命エネルギー・気のエネルギーが強いということの証となります。<br />
よって、聖地に聖木あり、聖地が聖木を作り、聖木が聖地を深める、ということになります。
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わたしの好きな御聖木は何かというと、これは一言では言えません。あえて言えば、諏訪の御頭ミシャグチ総社の御聖木は、すばらしく優しい慈悲の波動、仏母・慈母の木だと感じます。また、諏訪には七つの御聖木があるともいわれます。<br />
その諏訪は、諏訪大社の御柱も注目です。山から切り取って、諏訪大社の四方の結界のために立てられた柱ですが、霊的なパワーを感じます。そこで、私は、縄文以来の日本の原初的な信仰であるミシャグチ神のようなものを霊視した！?体験もしました。
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また、戸隠神社奥社の杉並木の参道も素晴らしい。霊気・生気に溢れており、エネルギッシュになります。ここ数年パワースポットとして大変人気になりました。<br />
そして、その参道から少し逸れたところにあるのが、宝篋印塔と、その御聖木。これは御頭ミシャグチ総社にならぶ御聖木。ここは未だ行く人は少ない秘境の聖地です。
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巨木・長寿の木としては、最も有名なものと言えば、世界自然遺産の九州・屋久島の縄文杉ではないかと思います。樹齢数千年、一説には7000年とも。圧倒的な迫力です。<br />
屋久島に最初に行った時には、その木だけではなく、その森と水を中心とした純粋な自然全体が、霊気に溢れ、まさに生きていると感じ、衝撃を受けました。
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とはいえ、非常に重要なこととして、聖地とは、有名なものばかりではありません。名も知れぬ聖地がたくさんあります。それは行ってみないとわからない。つい先日も、長野の小諸道場近くの巡礼で、湯の道の百体観音を巡っていた時に、名も知れぬ聖地を見つけました。こうして、名も知れぬ聖地で、神聖な波動を発する御聖木があります。それは、皆さんがお住まいの近くや、皆さんの故郷や、皆さんが訪れる自然郊外にあるかもしれません。
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<strong>２　日本の良さを再発見②　聖地の聖なる水（2011年8月19日）</strong>
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さて、前回の日記に引き続き、聖地の二つ目の条件として聖なる水があると思います。<br />
水は、そもそも、命の源、人体の７割が水、地球は水の惑星と、人・生命の中心。稲作中心だった日本にとって、水は太陽とともに、日々の糧に必要不可欠。<br />
さらに、浄める、清める、と書くように、水は、清らかなもの、清らかにするものの中心。よって、神社仏閣に見られる手水や、禊ぎといった行為、御神水といった概念がある。
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こうして、水は命を育む慈悲や、浄化力、形無くとらわれのない様の象徴にもなり、お寺の中には、水の素晴らしさを水の功徳と呼び、仏の功徳とだぶらせるところも。<br />
こうして、聖なる土地＝聖地にも、聖なる水がつきものなのが、自然の理となります。<br />
それは、御神水とされている湧き水だったり、清流・渓流・川の流れであったり、または、神話・伝承のある池や湖、そして滝も。
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そして、水の神の象徴として特に多いのが、龍神。龍神の神話のある聖地が多い。仏教でいえば、弁天様が水の神。特に日本は、水と森の国ともいわれ、豊かな降水量と、それが育む森林。そして、国土全体が海に囲まれた水の国です。さらには、その国土の形が、龍と似ているので、極東の龍とも。水神の国。
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天照大神を主神とする太陽の国ではありますが、天照大神と並んで、龍神である大国主命を大国主の大神と呼んで尊ぶ信仰習慣がある。
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風水では、清らかな水の流れは、それとともに生気を運ぶとされます。純粋な自然の中の渓流の側に行くと、なぜか非常に気持ちが良い。ひんやり、涼しげで、心地よい微細な何かを感じ、近くにたたずんでいると、元気が出てくる。また、冷たいが、手や足を水の流れに付けると、一種の禊ぎとなり、心身が浄化された気分になる。
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風水などでは、川の流れが湾曲している場合は、その内側（川の囲まれる側）に、気の流れがたまるという説も。また、二つの川が合流して水が貯まるところも、気の流れがたまる所ではないかと思います。
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具体的な聖地といえば、例えば、奈良の天川。水の神の弁才天信仰のメッカで、天の川と呼ばれる美しい川や大峰修験で有名な山、そして天河弁財天社と、霊気溢れる空間です。近くには御手洗渓谷という渓谷・渓流も。
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前回紹介した、諏訪大社の発祥地である前宮の御神水も素晴らしい。 この水の源は、日本最大の地層の断層帯である中央構造線とフォッサマグナの交点にあるとされます。
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その諏訪の真北にあるのが、前回も登場した戸隠で、ここも龍神を祭る水の神の聖地。戸隠山から流れるご神水があります。
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日本有数の山岳景勝地の上高地。この梓川の水は、アルプスの雪解けの水で、あまりにも透明で美しい。触ると非常に冷たいが、禊ぎにはよいかも。
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諏訪の真東が有名な鹿島神宮。鹿島アントラーズの鹿島。ここには、御水洗池と呼ばれる池と近くに湧き出る御神水があり、非常に神聖。
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神聖な池といえば、出羽三山の羽黒山の山頂の鏡池。日記でも書きましたが、 不思議な体験をしました。長野の真楽寺の池も御神水が湧き出る聖地。
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前回の日記のコメントにあった奈良の三輪山の大神神社にも、有名な御神水があります。大神神社が祭る大国主命は龍神で水の神。近くには弁天様も。
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奈良・京都には、天川、三輪山を始め、水の聖地が多い。京都の貴船神社、賀茂神社なども。水の神の神社のラインがあるとも。
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湖では、日光の中禅寺湖。これは神秘的な美しさ。特に千手ヶ浜。また、近くの華厳滝は、虹が架かるのが有名で、気に入っています。<br />
また、神秘的な湖といえば、東北の十和田湖も同様で、龍神の伝説がある。 龍神の伝説・信仰があるのは、諏訪湖や富士五湖も同じ。
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滝はなんといっても、日本最大の滝、熊野の那智の滝が圧倒的。下り落ちる滝の流れを龍神と見る信仰もあり、滝自体がご神体です。
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とはいえ、こうした名だたる聖地よりも、前回もお話ししたとおり、皆さんの自宅や故郷の、ないしは、偶然訪れたり知ったりした自然の中にこそ、水の聖地があると思います。<br />
私も、先日、偶然、ひかりの輪の長野の道場近くの渓流に、素晴らしいところを見つけました。非常に小さな渓流ですが、近寄ると非常に気持ちが良く、さらに、二つの川の流れが合流する地点があって、その部分が特に最高でした。<br />
次回は、聖地の大地について書きたいと思います。
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<strong>３　日本の良さを再発見③　聖地と大地のエネルギー（2011年8月19日）</strong>
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さて、今回は、木、水に続いて、聖地の条件の三つ目として、その大地のエネルギーについて。
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まず、聖地はだいたい高いところにあるという説があります。標高が、1000～1500m以上のところ。よって、聖地と山というのは深く関連します。そもそも、日本人の場合は、空海や最澄など、古代から宗教家が山に籠もる伝統があります。また、山自体を仏と見る修験道の修行があります。山を仏の母胎と見て、仮に死ぬつもりで入山し、山で浄化され、生まれて変わって下山する。
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山の聖地といえば、山岳仏教や修験道に関連したものを挙げても、高野山、比叡山、日光山、戸隠山、出羽山、富士山、大峰連峰（吉野・天川）など、いろいろ出てきますね。残念ながら、四国と九州の山は研究不足です。
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また、私は小さな山にも注目しており、日本文化の根元に関係する、奈良の大和三山、前回日記に出てきた三輪山、縄文時代に絡めて、東北の黒俣山なども。
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ただ、単に標高が高いのがいいかというと、それもあるのかもしれませんが、山というのは造山運動があってこそ生まれるものですから、その場所の大地の活動が活発であり、エネルギーが強いということになります。
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よって、山ではなくても、大地のエネルギー・活動が活発であるところには、聖地が見られます。その典型が、中央構造線と呼ばれる日本最大の地層の断層帯です。地層の断層帯とは、異なる二つの地層がぶつかり合っているところです。当然、そこは地震が発生しやすい一面があります。中央構造線は、関東の鹿島から、長野の諏訪、三重の伊勢、奈良の吉野、四国、九州の阿蘇を通って、熊本の八代までを貫く、日本最大の断層帯です。
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そして、この中央構造線上に、名だたる聖地が結集しているという説があります。鹿島神宮、諏訪大社、分杭峠（ゼロ磁場地帯）、豊川稲荷、伊勢神宮、吉野金峰山寺、天川、高野山、剣山、幣立神宮など。
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断層帯では、二つの地層のぶつかり合いにより、地磁気が特殊な状態となり、長野の分杭峠のように、ゼロ磁場状態があらわれ、それが人の心身に好影響を与えるという説もあります（ゼロ磁場とは磁場がないのではなく、逆方向の磁場が重なりお互いを相殺した結果とされます）。<br />
また、高地、山、断層帯と出てくると、当然、火山というのが出てきます。聖地の近くに火山あり、ということはできると思います。典型的なのが、富士山、阿蘇山、浅間山、磐梯山など。
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火山は、その噴火は恐ろしいものですが、その裏側に人間にさまざまな恩恵を与えている面があり、例えば、肥沃な大地、湧水、温泉、黒曜石を代表とする鉱物、美しい風景などがあるとされます。湧き水、温泉、美しい風景などは、聖地の条件ですね。
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そして、火山を含めた活発な大地の活動は、湖の形成とも結びつく。富士五湖、猪苗代湖。聖地と湖となれば、諏訪湖、中禅寺湖、十和田湖、宍道湖なども。そして、その湖には水の神の象徴として龍神の信仰・伝承が多い。<br />
私がかつて見た印象的な宗教的なヴィジョンで、火山とその噴火・震動、水（湖？川？）の中の龍神といったものが出てくるものがありました。今思うと、日本の大地・聖地の特徴をよく表したものだと思います。
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そして、大地のエネルギーが活発な所では、温泉の祝福があります。しかし、温泉について話し始めると、今回の日記が終わらなくなるので、機会を改めたいと思います。
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最後に、日本は地震国で、今回は東北の震災で大変な被害を受けました。しかし、今後、私たち日本人が、震災を超えて、前向きに生きていかなければならない中で、地震国である利点も考える必要があると思います。
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仏陀の教えでは、苦楽表裏、苦と楽はセットというのがあります。あらゆる苦しみの裏側には喜び・幸福の源があるというものです。地震・火山・断層帯が多いということは、大地のエネルギーが強いということで、それは、精神的・霊的・宗教的にいえば、聖地に恵まれるということになります。
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また、世俗的・実業的にいえば、美しい風景、湧き水、温泉といった観光資源、肥沃な大地や地熱発電といった資源・エネルギーが与えられる。今後、苦楽表裏を意識して、地震国であるゆえの利点を活かすとよいのではないかと思います。
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一部の統計では、世界の（一定規模以上の）地震の10～20％が日本で起こるともいわれています。また、日本は、世界の７大プレートのうち、３つのプレートの交点にあるとされます。その意味では、地球の地表面のエネルギーの非常に多くの部分が、日本で発散されていることになるわけです。
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日本の国土の地形が龍に似ていることから、日本を極東の龍とする解釈があると述べましたが、龍が水の神の象徴であるように、日本は豊かな水に恵まれるとともに、豊かな大地のエネルギーに恵まれています。<br />
極東の龍は、火と水、熱と水の双方の自然を兼ね備えた類いまれな龍ということができるでしょう。
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<strong>４　日本の良さを再発見④　聖地と温泉（2011年8月21日）</strong>
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聖地の条件シリーズ第４回は、聖地と温泉です<br />
。<br />
前回までに、聖地には、清らかな水があり、エネルギー豊かな大地がある、と書きました。この二つが合体すると温泉の恵みということになります。日本は火山が多いために温泉が多く、温泉はまさに日本の文化の典型で、日本の良さの再発見の一つです。
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また、温泉と宗教は、実は深く結びついています。日本では、温泉地にまつわる神話や開湯伝説の類も非常に多いとされます。<br />
神道では、温泉の神は、大国主命と少彦名命の神。仏教では、薬師如来。傷病を癒やす温泉の力が、病を癒やす薬師如来と結びついて、薬師温泉といった言葉も。そして、大国主命も薬師如来も自分が好きな神仏で、だから温泉が好きなのかも。
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さらに、温泉は、聖地に付随していたのではなく、それ自体が聖地だったようです。<br />
「湯を使う風呂が一般的でない時代には、温泉は怪我や病気に驚くべき効能があるありがたい聖地であった。各温泉の起源伝説には、...動物が傷を癒した伝説や、...仏教の影響で...高名な僧侶が発見した伝説が多い。このような場所は寺や神社が所有していた...。」（ウィキペディア）<br />
「鎌倉時代以降になると、それまで漠然として信仰の存在となっていた温泉に対し、医学的な活用がウェートを占め、実用的...なものになり、一遍らの僧侶の行う施浴などによって入浴が一般化した。江戸時代になると...一般庶民にも親しまれるようになった。」（同上）
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では温泉の効能は何か。日本の温泉の特徴は、医療目的に限らず、体を休める、元気を回復するために、伝統的に用いられてきたようです。
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もう少しスピリチュアルな表現をすれば、温泉入浴で、東洋思想が説く「気」、「生気」といった精神的・霊的なエネルギーが回復すると私は感じます。大地からの火のエネルギーを、温泉を通して吸収しているといってもよいでしょうか。
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また、温泉は、仏教・密教・ヨーガ・仙道等の修行の視点から非常に高度な効果があると思います。<br />
チベット密教では、瞑想で神秘的な体熱を生じさせて悪いカルマ（業）を焼き、エネルギーの流れを整え、悟りの境地とともに万病を癒やすという、チャンダリーという非常に高度な瞑想（究竟次第）に属しますが、この修行と温泉入浴の効能は相通じるところがあると思います。そして、偶然にも、温泉に縁の深い薬師如来の真言には、偶然にも、同じチャンダリーという言葉が入っているのです。
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それから、体を温めるという点では、例えば有名な草津の温泉などには、特筆すべき点があります。普通では入れない高温のお湯に楽に入ることができるからです。その秘密は、温泉の中の硫黄酸化物が、入浴する人の体の表面を被膜のように覆って、火傷を防ぐからだとされています。<br />
このため、火傷せず（苦痛少なく）熱いお湯で体を温めることができ、江戸時代には55℃のお湯にも入ったという説があります。とはいえ、温泉入浴は、無理は禁物です。それぞれの温泉が指導する健康的な入り方を守る必要があります。草津温泉でも、一度にあまり長く入ることは勧められていません。
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さて、私は、温泉好きですが、温泉マニアではなく、全国津々浦々の有名な温泉に行ったことがあるわけではありません。草津温泉、有馬温泉、白浜温泉などは行きましたが。しかし、著名な聖地の温泉に入ったことは多く、日光、会津、諏訪、上高地、天川などの温泉にも入りました。
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温泉の中では、体を休める、エネルギーを回復することに加えて、薬師如来の真言を唱えて、大自然の生み出した温泉の恩恵に感謝したり、仏教的な思索に耽ったりすることがよくあります。温泉の助けを借りて、新たな次元の思考・仏教的な智慧が増大する場合が少なからずありました。
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そして、私がオウム・麻原信仰から脱却していく大きな転機の一つとなった宗教体験をしたのが、薬師如来を祭る草津温泉近くの自然郊外でのことでした。<br />
その時、私は、自分と他人が繋がっているという一元的な瞑想によって、ある気づきを得たのですが、その後に、外に出てみると、合計で七つもの虹が出ており、それは極めて印象深い体験となりました。
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こうして、ひかりの輪は、温泉の聖地の大自然の恵み・導きによって、生まれたということもできる経緯があって、聖地と温泉とひかりの輪の間に深い縁を感じています。
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<strong>５　日本の良さを再発見⑤　宗教の聖地と自然の聖地（2011年8月22日）</strong>
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初回に書きましたが、聖地には、宗教やその開祖が作った聖地と、純粋な自然の聖地で後から宗教家や宗教が集まった聖地があります。<br />
宗教やその開祖が作った聖地の代表例は、例えば、エルサレムでしょう。エルサレムは、ユダヤ教にとってはエルサレム神殿があった所で、キリスト教にとってはイエスが布教し、処刑された所であり、イスラム教にとってはマホメットに関連して岩のドームがある所です。
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一方、純粋な自然の聖地といえば、無名なものもたくさんあるでしょうし、それは皆さんの家や、故郷、ないしは偶然にも訪れた所にあるかもしれません。ただ、私が体験した中では、日本有数の山岳景勝地として、国際的な観光地としても名高い上高地は、まさに純粋な自然の聖地でした。
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まず、その土地は、1500mの高地にあります。にもかかわらず、梓川をはさんで幅１km、長さ10km以上の平らな土地があります。そして、そのすぐ近くに、目の前にそびえるように、アルプスの高峰があります。その一つの奥穂高岳は、日本有数の高峰、富士山に次いで第２位か、第３位かの標高。万年雪をたたえた美しい山です。<br />
また、万年雪の山に加えて、活火山、すなわち火の山があります。焼岳です。大噴火したのは大正時代ですが、今も山頂をよく見ると、少しだけですが、煙が上がっているのがわかります。
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その焼岳の熱によって温泉が湧き出ます。上高地温泉です。これがなかなか良い温泉で、成分が特殊なのです。<br />
そして、温泉という熱の水に加えて、アルプスの雪解けの水が流れるのが、先ほど出てきた梓川。上高地の中心を流れます。その透明な美しさは、他に類を見ないほど。濃淡さまざまなエメラルドグリーンの色をしています。
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さらに、川の周囲に広がるさまざまな植物を抱えた森林地帯。この中を散策することができます。林の中は、ところどころに、清流が流れ、小さな池もあります。<br />
池といえば、大正池という非常に美しい池があります。先ほどの焼岳の大正時代の大噴火で、地形が変わってできた池で、観光名所になっています。こうして、火山は、富士山のように、美しい場所・名所を作る源になる場合が多いですね。
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また明神池という、これまた非常に美しく神秘的な池があります。そびえ立つ明神岳という高峰の麓にあるこの池は、穂高神社の奥宮の中にあって、池自体をご神体と位置づけているように思えます。
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穂高神社があると言いましたが、明神池を参拝する場所があるくらいで、これを含めて、上高地には目立った寺社の建物はありません。そういった意味では宗教色は少ないです。他に祭られている神様というと、山の神様で、その参拝所には、まっすぐに伸びた御神木があります。
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こうして宗教色は薄い上高地ですが、その神聖なまでに純粋な自然の美しさ・素晴らしさのためか、去年の地元の観光促進のポスターには、「この世の聖地 上高地」というコピーが用いられていました。自分は聖地巡礼として上高地を訪れていましたから、「我が意を得たり」と思ったものでした。また、上高地という名前自体が、神が降りる土地という意味で、「神降地」と書く場合もあります。
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そして、上高地は、日本を代表する山岳景勝地として、世界に紹介されています。特に、日本アルプスなどの山を世界中に紹介した英国人登山家ウォルター・ウェストンは、上高地を再発見した人と位置づけられており、また、東北震災の後に日本への観光が安全であることを世界に呼びかけるために、米国の駐日大使が訪問したのも、この上高地でした。
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宗教色は少ない上高地ですが、私は、ここで、仏教的な悟りの境地を垣間見る体験を何度もしました。例えば、自我への執着が弱まって、自我が幻影のように軽く感じられ、自分の中心が自分ではなく自分を囲む大自然・大宇宙の方にあるといった心境になったことがありました。
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また、上高地の自然を見ているうちに、そのさまざまな自然が、我欲がなく互いに調和している様を見て、仏陀や聖徳太子が説いた教えと同じ真理を学び、それと同時に、自分の心が、あたりの大自然一体を包むほどに広大に広がっていく体験をしました。
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修験道などでは、山から学ぶ、自然から学ぶという考え方がありますが、道を求めている人には、様々なことを教え、体験させてくれる聖地だと思います。<br />
さらには、ひかりの輪の聖地巡礼でお馴染みなのが、虹ですが、この上高地は、ひかりの輪の巡礼した聖地の中でも、今までに最も多くの虹が出た聖地の一つだと思います。<br />
また、史実上のことではないのですが、私の好きな聖徳太子とも縁があると感じる出来事も繰り返し起こった聖地です。<br />
こうしたいろいろなことがあって、ひかりの輪にとって最も重要な聖地となっています。
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<strong>６　日本の良さを再発見⑥　五大と五行・自然との調和（2011年8月23日）</strong>
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聖地を題材として、日本の自然の豊かさに焦点を当ててきました。今回は、少し変わった視点から、このテーマについて話したいと思います。
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今年は原子力発電の危険性が認識される年となりました。そこで、少し乱暴かもしれませんが、日本はそもそも、自然と調和する文化が中心。一方、原子力・核兵器・原発とは、原子の構造を変える（破壊する）という意味で、自然を開発（破壊）してきた欧米の文化では？
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その意味では、日本らしいエネルギー政策とは、自然と調和した、自然を活かしたものではないだろうか。江戸時代までは数千万人の人口が、石油の輸入も原発もなく生きていました。<br />
しかし、明治以降、日本も、石油中心の文化となり、米国との戦争の開始も、アメリカの対日石油輸出の禁止とともに始まりました。そして、その戦争の終結は、原子力＝核兵器でした。
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そして、戦後は、石油の枯渇や供給の不安定さを恐れ、また一説には（いざというときには）核武装できるように、原発を導入しました。しかし、それが今回の原発の災厄を招きました。<br />
この意味で、明治維新以来、欧米の文化・産業エネルギー政策を真似し、その恩恵とともに、その裏の負の側面を味わうことになりました。すなわち、西欧文明の模倣は、万能ではありませんでした。
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だとすれば、21世紀は、西欧文化の模倣ではなく、日本らしい文化、社会構造、エネルギー政策の比重を高めることを考えてもよい時期ではないでしょうか。いわゆる、日本人のお家芸、和魂洋才、和洋折衷、融和の才能の発揮です。<br />
日本は豊かな自然があり、それは大きなエネルギー。地震が多い裏には、豊富な地熱エネルギーがあります。水が豊かだから水力エネルギーがあります。もちろん、地熱発電や水力発電の推進は環境保護の問題があるが、原発の環境破壊とは比較にならないでしょう。
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仏教では、地・水・火・風・空の五大元素（五大）を説きます。それは、そのまま、地熱発電、水力発電、火力発電、風力発電にあたります。ただ、ここで、火は、石油などの化石燃料による火力発電だけでなく、火＝陽＝太陽光発電も含まれると思います。<br />
そして、中曽根元首相も新聞社説で述べておられましたが、日本はそもそも日の本の国、日出る国、日の丸、天照大神というように、太陽国家ですから、科学的な根拠はありませんが、太陽エネルギーの活用とは相性がよいのではと感じます。そもそも、日本は、何にしても技術開発が得意ですし。
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さて、地・水・火・風・空の最後の空は何を意味するのでしょうか？<br />
未知の宇宙エネルギー？ 宇宙空間での太陽光発電？<br />
ないしは、仏教の空の悟り・空の智慧＝少欲知足・省エネルギーか？<br />
ともかく、無駄なエネルギー消費を避けることは、重要な智慧に違いなし。この視点からしても、原発は消費地と発電地が遠いため、その送電中のロスが大きい一方で、太陽光発電は逆のため、ロスはゼロに近いといわれます。
</p>
<p>
こうして、日本らしく、自然と調和した、自然を活かしたエネルギー政策が進むといいなと思います。
</p>
<p>
話は変わって、道教思想には、五大元素ではなく、五行があります。五行は、木・火・土・金・水のことをいいます。<br />
しかし、これは、日本の活かせるエネルギー資源ではなく、これまでにお話ししてきた、聖地のさまざまな条件を網羅しているキーワードのように思います。<br />
<br />
具体的には、<br />
１，木＝聖地は、生気が強く、そこには長寿の大木・御神木がある。<br />
２，火＝聖地には、火山・温泉など、熱・火のエネルギーがある。<br />
３，土＝聖地は、高地・山岳・断層帯の上など、エネルギーの強い土地にある。<br />
４，金＝聖地の神社仏閣には、純粋な金属で作られた神具・法具がある。<br />
５，水＝聖地には、清流・湧き水・湖など、清らかな水・聖水・神水がある。<br />
となります。
</p>
<p>
こうして、地・水・火・風・空の五大元素であれ、木・火・土・金・水の五行であれ、豊かな自然との調和を重視する日本の伝統文化が作り出す、自然のエネルギー資源や、自然の聖地が、今後の日本と世界のために、もっと活かされることを期待したいと思います。
</p>
<p>
※注<br />
①地熱発電の適地は、国立公園内に多く、開発に規制があるという情報があります<br />
（読売新聞）。<br />
②水力発電は、大型ダムの適地は少ないが、小型ダムならば非常に多くの適地があるとい<br />
う見解があります（同上）。
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<p>
《参考文献》ひかりの輪の特別教本や小冊子<br />
※各道場にて、販売中です。ご活用ください。
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<br />
<strong>◎今回、教本中で提示したもの</strong>
</p>
<p>
『2010年夏期セミナー特別教本　三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜　21世紀の<br />
宗教の革新』2010年8月<br />
『2009年夏期セミナー特別教本　循環の法則と密教加行』　2009年8月<br />
『仏教講義　悟りの道程２　悟りへの道と大乗の教え』　2008年12月
</p>
<p>
◎その他参考文献
</p>
<p>
『三仏心経--三仏の中核の教え』　2011年11月（無料配布中）<br />
『水瓶座の時代とは--宗教と社会の改革と進化』　2011年10月（無料配布中）<br />
『2011年夏期セミナー特別教本　輪の思想と新しい宗教の信仰のあり方』2011年8月<br />
『2011年ゴールデンウィークセミナー特別教本 輪の思想等』  2011年4月<br />
『2010年～2011年　年末年始セミナー特別教本　中道の教え、卑屈と怒りの超越、<br />
21世紀の新しい信仰のあり方』　2010年12月<br />
『2010年ゴールデンウィークセミナー特別教本　一元の法則とその悟りの道程、<br />
金剛薩捶の内省修行』2010年4月<br />
『2009年～2010年年末年始セミナー特別教本  現代人のための一元の法則』<br />
2009年12月<br />
『2009年ＧＷセミナー特別教本　内観、唯識、縁起のエッセンス』　2009年4月<br />
『2009年2月聖地巡礼セミナー　大乗仏教・六仏の教え』　2009年2月
</p>
]]>
      
   </content>
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<entry>
   <title>【動画（講話等）】第88回～第94回　GWセミナー（2012年5月）特別教本『三仏心経の集中修行(読経瞑想の詳説)』 解説講話</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/movie/00200911/10158894gw20125.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2012:/movie//20.2557</id>
   
   <published>2012-05-18T12:32:47Z</published>
   <updated>2012-05-18T13:24:40Z</updated>
   
   <summary> 2012年のＧＷセミナーにて行われた、上祐史浩の講話全7話の解説講話の動画です...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="上祐史浩・一般向け講話" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/movie/">
      <![CDATA[<p>
2012年のＧＷセミナーにて行われた、上祐史浩の講話全7話の解説講話の動画です。
</p>
<p>
&nbsp;<strong>◆第88回ＧＷセミナー第１回講話（2012年5月2日 97min）</strong>
</p>
<p>
「四つの三昧行」についての説明に沿って、今回のGWセミナーの内容や、ひかりの輪の修行体系について解説されています。
</p>
<p>
<a href="http://www.ustream.tv/recorded/22284794">&gt;&gt;動画は、こちらでご覧なれます。</a>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<strong>◆第89回ＧＷセミナー第2回講話（2012年5月2日 84min）&nbsp;</strong>
</p>
<p>
ひかりの輪のオリジナルのお経である「三仏心経」の全体的な解説の講話となります。
</p>
<p>
<a href="http://www.ustream.tv/recorded/22286999">&gt;&gt;動画は、こちらでご覧になれます。</a>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<strong>◆第90回ＧＷセミナー第3回講話（2012年5月3日 90min）</strong>
</p>
<p>
GWセミナーのテキストの第１章の内容にそって、三仏心経の釈迦牟尼の教えについての詳しい解説。
</p>
<p>
私たちの周りに存在する様々な恩恵の気づき方、感じ方、また、それらに対する感謝の必要性についての講話となります。
</p>
<p>
<a href="http://www.ustream.tv/recorded/22303400">＞＞動画は、こちらでご覧になれます。</a>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<strong>◆第91回ＧＷセミナー第4回講話（2012年5月3日 88min）</strong>
</p>
<p>
<br />
GWセミナーのテキストの第２章の内容にそって、三仏心経の観音菩薩の教えについての詳しい解説。
</p>
<p>
優劣、善悪の正しい理解からの慢心、屈の乗り越え方、四無量心の培い方についての講話となります。
</p>
<p>
<a href="http://www.ustream.tv/recorded/22309748">＞＞動画は、こちらでご覧になれます。</a>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<strong>◆第92回ＧＷセミナー第5回講話（2012年5月4日 100min）</strong>
</p>
<p>
GWセミナーのテキストの第３章の内容にそって、三仏心経の弥勒菩薩の教えについての詳しい解説。
</p>
<p>
自と他を二分化している意識から脱却することが悟りへの第一歩である。<br />
そのため、万物の一体性をいかに体得するかということに力点をおいた講話となっています。
</p>
<p>
<a href="http://www.ustream.tv/recorded/22332212">＞＞動画は、こちらでご覧になれます。</a>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<strong>◆第93回ＧＷセミナー第6回講話（2012年5月4日 98min）</strong>
</p>
<p>
<br />
人間関係における進化についての講話となります。
</p>
<p>
幼少期、青年期における親と子の関係で培われた人間関係が、その後の他の人間関係である上司との関係、配偶者との関係、先生と弟子の関係といったものにも影響を与えるなど、さまざまな例にそっての説明となります。
</p>
<p>
<a href="http://www.ustream.tv/recorded/22346849">＞＞動画は、こちらでご覧になれます。</a>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<strong>◆第94回ＧＷセミナー第7回講話（2012年5月5日 89min）</strong>
</p>
<p>
<br />
GWセミナーのテキストの第５章についての解説が中心。
</p>
<p>
今回のセミナーで取り上げられた三仏心経の別の角度からの解説や、輪の法則について、三宝帰依についてなどの講話となっています。
</p>
<p>
<a href="http://www.ustream.tv/recorded/22360755">＞＞動画は、こちらでご覧になれます。</a>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【動画（講話等）】『居島一平のVS特番 ON Ustream』（ゲスト：上祐史浩）2011年10月29日放送</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/movie/070308/1014vs_on_ustream20111029.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2012:/movie//20.2548</id>
   
   <published>2012-05-10T18:19:35Z</published>
   <updated>2012-05-12T09:33:22Z</updated>
   
   <summary>　「歴史軍人芸人」居島一平氏のネット番組『居島一平のVS特番 ON Ustrea...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="上祐史浩出演のトークショー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/movie/">
      <![CDATA[　<a href="http://ameblo.jp/violentsaturday784/">「歴史軍人芸人」居島一平氏</a>のネット番組『居島一平のVS特番 ON Ustream』に、昨年（2011年）10月29日、上祐代表がゲストとしてお招きを受け、出演しました。

　その動画を以下にアップしましたので、ぜひご覧下さい（制作者様のご許可を得て掲載させていただきました）。

<a href="http://www.ustream.tv/recorded/22487346">●『居島一平のVS特番 ON Ustream』（ゲスト：上祐史浩）2011年10月29日放送</a>

◎内容（制作者様側の宣伝文から）

　元オウム真理教幹部にして、
　現在は、ひかりの輪代表として活動する上祐史浩さんと
　今宵、都内某所のBARで待ち合わせ。

　上祐さんのこれまでの激動の人生を振返りながら、
　日本における今世紀最大のあの事件の裏側―
　今年起こった東日本大震災前後に見る、
　今の日本とこれからの日本について―、
　宗教とは何か、日本人の精神的支柱は今どこにあるのか―、
　人は何と戦い、何に怯えるのか。
　徳川幕府統治下の日本と現代の日本政治に焦点を当てながらも、
　大和魂に沁みいるロング対談。]]>
      
   </content>
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<entry>
   <title>【動画（講話等）】第87回『現代社会の心の歪みと、その脱却の方法2012年4月22日東京51ｍｉｎ』</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/movie/00200911/101387201242251.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2012:/movie//20.2541</id>
   
   <published>2012-04-28T00:37:47Z</published>
   <updated>2012-04-28T00:54:07Z</updated>
   
   <summary> １．現代社会の心の歪みは、大きな視点で物事を見ることができず、一種の視野狭窄の...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="上祐史浩・一般向け講話" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/movie/">
      <![CDATA[<p>
１．現代社会の心の歪みは、大きな視点で物事を見ることができず、一種の視野狭窄の状態がある。<br />
例えば、見方を変えれば、私達は人類史上、最も恵まれた社会・時代に生きていることに気づく。<br />
競争社会も、その真の目的は、全体の向上・成長であり、勝ち負けは、そのための手段に過ぎない。<br />
自己所有にとらわれなければ、お金・名誉・地位などではなく、万人が共有する無限の宇宙こそ最大の宝と気づく。
</p>
<p>
２．このようなことを深く気づき、心の幸福・解放を得るために、ひかりの輪では、教学、功徳、行法、聖地といった修行を行っている。さらに、これを効果的に進めるための具体的な修行法として、三仏心経の三昧行、聖地修行、霊的ヨーガについて、詳しく解説する。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<a href="http://www.ustream.tv/recorded/22032833">＞＞動画は、こちらでご覧になれます。</a>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【動画（講話等）】上祐代表が生出演　BSスカパー!『BAZOOKA!!!』「脱・洗脳ナイト！」（2012年4月16日放送）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/movie/070308/1012bsbazooka2012416.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2012:/movie//20.2540</id>
   
   <published>2012-04-27T03:26:35Z</published>
   <updated>2012-05-12T09:31:30Z</updated>
   
   <summary>　すでに予告しましたとおり、上祐代表は、（2012年）4月16日、BSデジタルテ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="上祐史浩出演のトークショー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/movie/">
      <![CDATA[　<a href="http://www.joyus.jp/hikarinowa/news/news/1021416bsbsbazooka.html">すでに予告しましたとおり</a>、上祐代表は、（2012年）4月16日、BSデジタルテレビ放送「BSスカパー!」の番組『BAZOOKA!!!』に生出演し、約1時間にわたって、"オウムからの脱洗脳"などをテーマに話をさせていただきました。

　上祐代表は、なぜオウム信者が麻原によるマインドコントロールを受け入れて、オウムの信仰に没入してしまったのかを分析した上で、どのようにして上祐代表はそこから脱却してきたのかを述べました。そして、このような問題を防止・解決するための策についても意見を示しました。

　また、番組には、オウム真理教のドキュメンタリー映画『Ａ』『Ａ２』を制作した映画監督・作家の森達也氏も共に出演しました。

　以下に動画がアップされていますので、ぜひご覧下さい。

<a href="http://www.youtube.com/watch?v=dzbAI_fZYsY">●BSスカパー！『BAZOOKA!!!』「脱・洗脳ナイト！」2012年4月16日放送（YouTubeより）</a>]]>
      
   </content>
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<entry>
   <title>【動画（講話等）】第86回『常識の中にある錯覚について2012年4月15日千葉63ｍｉｎ』 </title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/movie/00200911/101186201241563.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2012:/movie//20.2537</id>
   
   <published>2012-04-19T11:36:52Z</published>
   <updated>2012-04-19T11:40:48Z</updated>
   
   <summary> 今の社会の常識の中にある大きな錯覚についての詳しい解説。 常識に隠れた真実を見...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="上祐史浩・一般向け講話" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/movie/">
      <![CDATA[<p>
今の社会の常識の中にある大きな錯覚についての詳しい解説。<br />
常識に隠れた真実を見つけ、本当の幸福になる考え方とは何か。<br />
競争社会の真の目的は全体の成長であり、その中の勝ち負けは、全体の成長のための切磋琢磨の手段であって、幸福になる者、不幸になるものをより分けることが目的ではないなど、常識の中の錯覚から生じる様々な問題を、どう変えていくとよいかで説かれている。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<a href="http://www.ustream.tv/recorded/21855895">＞＞動画は、こちらでご覧になれます。</a>
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【Ｑ＆Ａ】Ｑ＆Ａコーナー、アメブロに移行しました</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/faq/announcement/0000qa.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2007:/faq//8.71</id>
   
   <published>2010-11-18T13:22:21Z</published>
   <updated>2011-04-17T08:00:53Z</updated>
   
   <summary><![CDATA[ このQ&amp;Aコーナーは、 上祐史浩オフィシャルブログ「２１世紀の思想と創...]]></summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="Ｑ＆Ａについて　　ぜひ、ご質問をお寄せください" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/faq/">
      <![CDATA[<p>
<strong><span style="font-size: medium">このQ&amp;Aコーナーは、</span></strong>
</p>
<p>
<strong><span style="font-size: medium"><a href="http://ameblo.jp/joyufumihiro/theme-10027589561.html">上祐史浩オフィシャルブログ「２１世紀の思想と創造」　Ｑ＆Ａコーナー</a></span></strong>
</p>
<p>
<strong><span style="font-size: medium">に移行しました。<br />
<br />
</span></strong>
</p>
<p>
ネットなどでこれまでお寄せいただいた、さまざまなご質問等を参考に、
匿名の形でＱ＆Ａコーナーにまとめています。<br />
多くのさまざまなご質問をいただいております。<br />
<br />
今後は、アメブロのコーナーでの閲覧をよろしくお願いします。<br />
<br />
なお、これまでのＱ＆Ａは、このままこのコーナーにてご覧いただけます。<br />
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong><br />
◆ご質問やご相談はこちらまで</strong></span><br />
<br />
現在、メールやツィッターなどでの、ご質問やご相談をお受けしています。<br />
社会問題に関して、人生の悩みに関してなど、何でも結構です。<br />
<br />
個人的なご相談に関しましては、メールでお答えいたします。（公開はしません）<br />
<br />
メールはこちらまで（本人）<a href="joyu@hikarinowa.net">joyu@hikarinowa.net&nbsp;</a><br />
ツィッターアカウント<a href="http://twitter.com/joyu_fumihiro">joyu_fumihiro</a><br />
<a href="http://ameblo.jp/joyufumihiro/">上祐史浩オフィシャルブログ「２１世紀の思想と創造」</a>メッセージ機能あり
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【Ｑ＆Ａ】ボランティアの心理について</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/faq/0068.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/faq//8.902</id>
   
   <published>2008-04-08T05:06:13Z</published>
   <updated>2008-04-08T12:25:28Z</updated>
   
   <summary>ボランティアの心理についてなんですが、 ボランティアをする人というのは、 ボラン...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/faq/">
      <![CDATA[ボランティアの心理についてなんですが、<br />
ボランティアをする人というのは、<br />
ボランティアをされる側が存在することによって<br />
充実感を得られたり、<br />
満足感を得られたりするという場合があると思うんです。<br />
<br />
<p>
相手より自分の方が優れているから<br />
助けてあげられるという優位性、<br />
自分が存在することで<br />
ボランティアを受ける側が助けられているという、<br />
自己の存在価値の認識。<br />
こういったものが生じると思うんです。<br />
<br />
</p>
<p>
それが、ボランティアを行なう上での<br />
目的になってしまう人がいる。<br />
<br />
</p>
<p>
これについては、<br />
「別に利害関係が一致していればいい」<br />
という意見もありますが、<br />
わたしにとっては、心の問題というか、<br />
心の持ち方というのはすごく重要だと思っているんです。<br />
<br />
</p>
<p>
それで、宗教というと、<br />
他の人を救うという大乗的な思想が含まれているものですし、<br />
そういった偽善的な精神を持ちやすいと思うのですが、<br />
その辺は、上祐さんはどう考えられるのでしょうか。
</p>
]]>
      <![CDATA[<br />
<br />
<p>
<strong>◎真の大乗の実践</strong>
</p>
<p>
非常に高等なご質問だと思います。
</p>
<p>
おっしゃるとおり、私も、慈善活動は良いことだと思いますが、<br />
どんなことも、絶対的な善ではないですから、<br />
慈善活動の裏側や、その少なくとも一部には、<br />
自己の優越感の充足といった側面があるだろうと思います。
</p>
<p>
そして、それに気付いて、<br />
それさえも、心の汚れ、偽善ではないか、と思うことや、<br />
そして、大乗の思想に関心を持っていることは、<br />
あなたが、非常に仏教的な思想・価値観を<br />
良く理解されているという証ではないか、と思います。
</p>
<p>
では、自分が理解する仏教的な一元論的な思想、<br />
すなわち、真の大乗仏教の教えの解釈において、<br />
どのように利他の実践をする際に、<br />
優越感・偽善の心を乗り越えるか、ということについて、<br />
一つの方法を簡単に説明します。
</p>
<p>
まず、すべての人々・生き物から<br />
多大な恩恵を受けてきたことを理解し、悟ります。<br />
わたしたちは一人で生きることはできません。<br />
動物から人間まで無数の生き物に支えられて生きています。
</p>
<p>
また、例えば、今、私たちが、<br />
仏教の法則を学ぶことができるのも、<br />
無数の法則を説き伝えてきた、<br />
古来からの無数の如来・導師・修行者、<br />
それを支えた無数の人々のおかげです。<br />
よって、利他の実践は、恩返しの実践なのです。
</p>
<p>
こうして、利他の実践は、恩返しの実践である、<br />
ある意味で、義務である、と位置づけて、<br />
優越感を超えることができます。
</p>
<p>
他の方便もあります。<br />
輪廻転生思想を前提とするならば、<br />
今生だけでなく無数の過去世について考えるならば、<br />
すべての魂が、過去において、わたしたちの父母などとして、<br />
深い恩恵を与えてくれた生があるはずだ、ということになります。<br />
よって、恩返しの実践をする、と考えます。
</p>
<p>
もう一つ別の考え方もあります。<br />
これは、カルマ・ヨーガと呼んでいますが、<br />
すべての他者から学び取り、心を成熟させる実践です。<br />
それは、他人の悪行を見たら、<br />
自分にもそれがないかと反面教師として自己を内省する機会とし、<br />
他人の善業を見たら、それを見本として見習います。
</p>
<p>
こうして、すべての他者を自分の教師・反面教師と見て学んで、<br />
それに基づいて、他者に対する感謝を深めます。<br />
そして、感謝に基づいて恩返しの実践としての利他の実践を行います。
</p>
<p>
<br />
<strong>◎キーワードは恩返し</strong>
</p>
<p>
こうして、キーワードの一つとして、「恩返し」があります。<br />
自分の方が偉いから、優位だからではなく、<br />
恩を受けているからそれを返すという謙虚な心が生まれます。
</p>
<p>
一言で言うと、わたしたちは一人では生きられず、<br />
成長できず、幸福になれない。<br />
すべての達成は、無数の、いや、すべての生き物の協力によって<br />
与えられているのだという真実があるのです。
</p>
<p>
別の言い方をすれば、<br />
自分が他に対して優位な立場でいて慈善活動をしているとしても、<br />
それ自体が無数の他のおかげである、という真実があるのです。
</p>
<p>
現在の世の中は、エゴが強くなり、<br />
自分と他人を区別し、自己愛が強くなっています。<br />
個人主義、競争社会、自己の存在意義の追求などに満ちています。<br />
自分が他と違って、正しい、偉い、目立っている状況に酔ってしまう、<br />
というマインドコントロールがなされていると思います。
</p>
<p>
そして、その社会が生み出している宗教も、<br />
２１世紀までの状況を見れば、<br />
私がかつて関与したオウム真理教を含めて、<br />
さまざまな宗教戦争・テロリズムがあったように、<br />
独善的な思想・教義を流布する場合があります。<br />
宗教も、いや宗教こそが、変わらなければならないと思います。
</p>
<p>
それから、自分が正しい、偉い、優れている、<br />
という思いを募らせている人は、<br />
そのために、それと逆の状況が生じた場合には、<br />
激しく落ち込み、自己嫌悪・卑屈に陥ってしまいます。
</p>
<p>
こうして、虚栄心と自己嫌悪の間で揺れ動き、<br />
感情の波が激しく、精神的に不安定な人が、<br />
最近は非常に多くなったのではないか、と心配です。<br />
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【Ｑ＆Ａ】人生の意義を知る方法とは？</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/faq/01_1/0067.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/faq//8.897</id>
   
   <published>2008-04-06T22:46:15Z</published>
   <updated>2008-04-06T23:36:24Z</updated>
   
   <summary>自分は何のために生まれてきたのか、とか、 この人生の意義は何なのかっていうのを知...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="Ｑ＆Ａ　人生の意味について" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/faq/">
      <![CDATA[自分は何のために生まれてきたのか、とか、<br />
この人生の意義は何なのかっていうのを知る方法があれば、<br />
教えていただきたいんですけれども。
]]>
      <![CDATA[<br />
<br />
<p>
あなたのような人は、今の社会にいて、<br />
その社会が示している価値観、つまり、<br />
個人主義、競争主義、消費主義、金銭主義、物質主義といったものに、<br />
あまりなじめないのではないか、と思います。
</p>
<p>
だから、何のために生まれてきたのだろうと模索することになる。
</p>
<p>
そういった人の場合、私は、<br />
仏教的な利他の実践の重要性について考えるとよいと思います。
</p>
<p>
そもそもが、この世に生まれた人は、全て、<br />
他の人々や生き物に支えられて、厳しく言うと、<br />
他の人々・生き物に負担・苦しみを与えて生きていますし、<br />
そうせずには生きていけません。
</p>
<p>
この事実を謙虚に受け止めて、それに基づいて、<br />
自分ができる限りの利他の実践について、<br />
それを恩返しとして行う、ということは、<br />
心を豊かに、広がりのあるものにします。
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【Ｑ＆Ａ】地球環境問題をどうお考えですか？</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/faq/08/0066.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/faq//8.892</id>
   
   <published>2008-04-06T00:44:26Z</published>
   <updated>2008-04-06T17:59:58Z</updated>
   
   <summary>現在、科学技術に伴って さまざまな環境問題が出てきていますけれども、 そういった...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="Ｑ＆Ａ  社会" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/faq/">
      <![CDATA[現在、科学技術に伴って<br />
さまざまな環境問題が出てきていますけれども、<br />
そういった地球環境問題について、<br />
どのようにお考えですか？<br />
また、そういった問題は解決できるんでしょうか。
]]>
      <![CDATA[<br />
<br />
<p>
<strong>（上祐）</strong>そうですね。<br />
物質主義、消費主義が、環境を圧迫していると思います。<br />
だから、物質に対するとらわれが弱まれば、<br />
自然と弱まるんじゃないかなと思います。
</p>
<p>
ただ、それと同時にね、<br />
物質に対するとらわれを原因とした奪い合い、<br />
これをもなくしていかなくてはならないと思います。
</p>
<p>
今地球は、<br />
だいたい日本くらいの生活水準にすべての国々がなるとすると、<br />
現在の地球の三倍くらいの容量が必要だと。<br />
だからみんなが日本人みたいに消費を高めると、<br />
今の地球ではパンクしてしまうんですね。
</p>
<p>
だから、たぶんその地球環境問題というのは、<br />
結局、南北問題と密接に関わっていて、<br />
今、温暖化防止の問題が非常によく議論されますけれど、<br />
あのときに出てくるのが、<br />
「先進国がこれだけ出しているのに、なんで途上国はもっと出せないんだ。<br />
先進国がもっと減らして、途上国にパイを分け与えるべきではないか」<br />
という話ですね。
</p>
<p>
<strong>◎価値観が変わらないと難しい</strong>
</p>
<p>
だから、人の心が消費を超え、<br />
そういうもので争わなくて済む幸福を求める価値観が生まれないと、<br />
難しいのではないかなと思います。<br />
つまり、行き詰まってくる。
</p>
<p>
自分たちの生活水準を大きく切り下げてみんなで幸福に生きるよりは、<br />
その他の人間を切り捨ててしまって、<br />
自分たちが生き残る方を選ぶ可能性が出てくるんじゃないかと。
</p>
<p>
今の日本人、ＧＮＰが一％落ちるだけで大騒ぎですから、<br />
途上国と分かち合うために、「三分の一にしてください」と言っても、<br />
うまくいかないと思います。<br />
政治家も、国民世論に左右されますから。
</p>
<p>
そうすると、自国民の意向を反映して、<br />
対外的にだいぶ強行な人が出てくるんじゃないかな、と思うんだよね。
</p>
<p>
ブッシュ政権なども、最近変化はあるようですが、<br />
当初は相当一国主義だったし、環境問題が切迫してくる中で、<br />
ナショナリズム、国益中心か、<br />
国際協調かという問題が出ていると思います。
</p>
<p>
今後は、世の中の流れとして、<br />
そういった国のエゴというものがぶつかり合って、<br />
なかなか環境問題の解決も進まない状態から、<br />
それで行き詰まって、<br />
それからようやく変わっていく流れになるのかなと思います。<br />
今後に期待しています。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<div style="text-align: center">
<img src="/mt/uploads_files/images/aw197_l.jpg" alt=" " width="300" height="300" />
</div>
<br />
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<strong>◎精神的なものが広がればいいが</strong>
</p>
<p>
<strong>（質問者）</strong>では、世界中の人たちが<br />
物質にとらわれないで生活するようになれば、<br />
地球環境問題はどんどん良くなっていくんでしょうか。
</p>
<p>
<strong>（上祐）</strong>それはそうだと思います。<br />
しかし、「物は素晴らしい。消費は素晴らしい。」という欲求と、<br />
「しかし、我慢して分かち合わないと地球は壊れてしまう」という、<br />
その欲求を抑圧する意思が、双方ともある、という状態だけでは、<br />
ある意味で、常に緊張した状態ではないかと思います。
</p>
<p>
そうではなくて、一番いいのは、<br />
物を超えた--物は物として悪くはないのですが--<br />
それを超えた精神的な喜びがあることに多くの人が気づいて、<br />
みんなが、<br />
「物質的な喜びが全てではなく、それよりも、こっちの方がいい」<br />
と感じるようになるのが最高だと思います。
</p>
<p>
そうすると、緊張した状態が幾分かは解消に向かう、<br />
と思います。
</p>
<p>
これが出てこないと、<br />
本質的な問題解決にはならないなと思います。<br />
抑圧されただけでは、どこかで爆発する可能性があるので。
</p>
<p>
つまり、<br />
幸福に関する価値観・幸福感、これが変わっていかないと、<br />
常にぎりぎりのパイの争いが続き、<br />
状況次第によっては、競合する相手を排除する、<br />
すなわち戦争に至る可能性があると思います。
</p>
<p>
だから、できるだけ早くより精神的な価値観が広がって、<br />
その結果、自然とみんなが<br />
過剰な消費・物質主義を超えていける心理状態になるのが<br />
理想だと思います。
</p>
<p>
もちろん、現実はそれほどうまくいかないでしょう。<br />
かなり痛い目に遭わないと、転換が難しいかもしれません。
</p>
<p>
しかし、長い目で見れば、<br />
こういった価値観の転換の流れが出てくると思います。
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【Ｑ＆Ａ】世界の悪の根本原因は？</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/faq/08/0065.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/faq//8.890</id>
   
   <published>2008-04-05T00:44:11Z</published>
   <updated>2008-04-05T00:47:19Z</updated>
   
   <summary>世界には、さまざまな問題、罪や悪がありますが、 この諸悪の根源、悪の根本原因は何...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="Ｑ＆Ａ  社会" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/faq/">
      <![CDATA[世界には、さまざまな問題、罪や悪がありますが、<br />
この諸悪の根源、悪の根本原因は何でしょうか？<br />
上祐さんの意見をお聞かせください。<br />
よろしくお願いします。
]]>
      <![CDATA[<br />
<br />
<p>
それは、人々の中の悪しき心、エゴ、煩悩だと思います。
</p>
<p>
そして、重要なことは、皆が人間として、<br />
多かれ少なかれ似たような悪しき心がある、という認識だと思います。
</p>
<p>
この認識に基づいて、私たちは、互いに対して、怒りや憎悪ではなく、<br />
落ち着いた、慈悲深い心を持つように努力するべきだと思います。
</p>
<p>
それとは反対に、この世の中に、誰か、何者か、<br />
諸悪の根源のようなものがあって、善なる者と、悪なる者が、<br />
二つに明確に分かれている、という世界観は間違っていると思います。
</p>
<p>
例えば、よく言われるように、<br />
フリーメーソンとかユダヤとか、<br />
または、アルカーイダなどといった、<br />
それさえなくなるならばこの世の中が幸福になる、といった、<br />
そういった意味での諸悪の根源は存在せず、<br />
その考え方自体が無智・傲慢によるものだと思います。
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【ＮＥＷＳ】5月26日(土）千葉支部、27日(日）東京本部での上祐史浩説法会（無料ネット生中継あり）と、大学教授による内観の講義のお知らせ</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/announcement/05/036352627.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2012:/announcement//9.2556</id>
   
   <published>2012-05-16T11:10:48Z</published>
   <updated>2012-05-16T11:16:40Z</updated>
   
   <summary> 以下の日時にて、千葉・東京にて上祐史浩の説法会と、大学教授の方による内観の講義...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="今後のイベント" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/announcement/">
      <![CDATA[<p>
以下の日時にて、千葉・東京にて上祐史浩の説法会と、大学教授の方による内観の講義が行われます。
</p>
<p>
5月26日（土）18時30分 ～　千葉支部にて ：上祐史浩説法会<br />
5月27日（日）12時00分 ～　東京本部にて ：上祐史浩説法会（第１部・第２部）と、大学教授の方による内観の講義（第３部）
</p>
<p>
<br />
<strong>今回の講話の内容は以下の予定です。</strong>
</p>
<p>
<br />
１　ヨーガ・気功などの身体行法・霊的修行の奥儀
</p>
<p>
① 身体を流れる目に見えない霊的エネルギー（クンダリニー）の、総合的な説明<br />
② 霊的エネルギーの、上昇と循環のバランスという奥儀（意識の向上と広がり）
</p>
<p>
<br />
２ 平成の新仏教：現代人が実践できる真の幸福・成長・悟りの教え
</p>
<p>
①万人・万物を平等・一体と見る智慧によって、真の幸福・心の幸福、<br />
②真の成長・真の自己の役割、真の悟りを得る教え：三仏心経の解説
</p>
<p>
<br />
そして、今回東京本部の説法会では第３部として、<br />
自己反省法・「内観」について、内観法の国際的な権威であり、ひかりの輪の外部監査委員をお務めになっている大学教授の先生をお招きしての講義が行われます。
</p>
<p>
この「内観」は、ひかりの輪の中心的な実践である『三仏心経』（「万物恩恵・万物感謝、万物仏・万物尊重・万物一体・万物愛す」という経文）の、第一番目の「万物恩恵・万物感謝」についての、理解と実践を深める大きな手助けをいただけるものでもあります。
</p>
<p>
大変貴重な機会となりますので、ご興味のおありの方は、ぜひご参加ください。
</p>
<p>
内観の詳しい説明はこちらから。<br />
<a href="http://www.joyus.jp/hikarinowa/news/05/1026_2.html">http://www.joyus.jp/hikarinowa/news/05/1026_2.html</a>
</p>
<p>
<br />
講話とともに、初めての方でも無理なく出来る簡単な「ヨーガ・気功の行法指導」、<br />
「三仏心経の読経の儀礼」も含まれています。また、講話の後には、ご希望の方と<br />
「上祐史浩の個人面談・個人相談」も受けさせていただいております。
</p>
<p>
<br />
<strong>◎ネットでの公開ライブ中継もあります。</strong>
</p>
<p>
なお、２７日(日)の東京本部での講話は、ネットで公開ライブ中継も行ないます。<br />
Ｕstream　１２時半～約１時間半ほど。<br />
皆さんも、パスワードなしでアクセスできますので、お気軽にご自宅のパソコンなどで、ご視聴いただけます。<br />
アクセスは、<a href="http://www.ustream.tv/channel/hikarinowa">http://www.ustream.tv/channel/hikarinowa</a>まで。
</p>
<p>
<br />
説法会は、会員・一般問わず、どなたでもご参加いただけます。講話の後には、<br />
上祐史浩への質問や、個人的にお話ができる機会も設けていますので、ぜひご参加ください。
</p>
<p>
なお、一般の方で、参加ご希望の方は、事前に下記までご連絡くださるようにお願い致します。<br />
プログラムなどの詳細をお伝えします。
</p>
<p>
<strong>◎<a href="http://ameblo.jp/hikarinowa-chiba/theme-10030343112.html">千葉支部</a></strong><br />
担当：<a href="http://www.joyus.jp/hikarinowa/stuff/0014.html">田渕智子</a><br />
支部窓口電話 ：０４７－４４１－４５４０<br />
担当者携帯電話：０８０－６６４２－７５９９<br />
メールアドレス：<a href="mailto:chiba@hikarinowa.net">chiba@hikarinowa.net</a>
</p>
<p>
<strong>◎<a href="http://ameblo.jp/hikarinowa-tokyo/theme-10030790386.html">東京本部</a></strong><br />
担当：<a href="http://www.joyus.jp/hikarinowa/stuff/0012_1.html">細川美香</a><br />
支部窓口電話：０３－５３１５－２８０５<br />
担当者携帯電話：０８０－３４２４－７０５４<br />
メールアドレス：<a href="mailto:tokyo@hikarinowa.net">tokyo@hikarinowa.net<br />
</a>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【ＮＥＷＳ】6月2日～3日、戸隠・諏訪の聖地巡礼のお知らせ（※写真を追加しました） （2012年05月13日）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/announcement/05/0362623_20120513.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2012:/announcement//9.2553</id>
   
   <published>2012-05-13T12:13:07Z</published>
   <updated>2012-05-14T03:03:52Z</updated>
   
   <summary><![CDATA[ &nbsp; この季節、ひかりの輪では、毎年恒例になりました長野県の戸隠・諏訪...]]></summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="今後のイベント" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/announcement/">
      <![CDATA[<p>
&nbsp; この季節、ひかりの輪では、毎年恒例になりました長野県の戸隠・諏訪聖地巡礼を、６月２日（土）と３日（日）に、一泊二日にて行いますので、お知らせいたします。<br />
&nbsp; この巡礼は、一般の方も参加することができ、毎年多くの方に、ご参加いただいています。<br />
（<u>※一日だけのご参加もできます</u>）。<br />
<br />
この諏訪と戸隠は、聖地の多い信州（＝神州）長野の中でも特級の聖地です。<br />
<br />
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/aiko/120513.01.jpg" alt=" " width="300" height="450" />
</p>
<p>
昨年、諏訪で見た太陽の周りの虹
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
まず、戸隠は、その戸隠神社の奥社が最大の聖地。清水が湧き、龍神を祭る戸隠山の麓にある奥社の素晴らしい杉並木の参道は、霊気・生気に溢れており、歩くだけで清々しく、エネルギッシュになります。ここ数年パワースポットとして大変人気になりました。<br />
<br />
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/aiko/120513.02.jpg" alt=" " width="500" height="333" />
</p>
<p>
戸隠奥社の入り口
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/aiko/120513.03.jpg" alt=" " width="500" height="333" />
<br />
<br />
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/aiko/120513.04.jpg" alt=" " width="500" height="333" />
</p>
<p>
杉並木の中にある随神門<br />
<br />
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/aiko/120513.05.jpg" alt=" " width="500" height="333" />
</p>
<p>
戸隠山（「天の岩戸」と伝わる）
</p>
<p>
<br />
<br />
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/aiko/120513.06.jpg" alt=" " width="500" height="333" />
</p>
<p>
九頭龍社（水の神・九頭龍大神を祭る）
</p>
<p>
<br />
そして、その参道から少し離れたところにある宝篋印塔(ほうきょういんとう)と霊威に満ちた御神木の空間が、奥社の中でも最高の聖地。ここは、いまだ訪れる人の少ない秘境の聖地で、瞑想するにも最高の場所です。<br />
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/aiko/120513.07.jpg" alt=" " width="500" height="333" />
<br />
<br />
<br />
歴史的には、この戸隠は、かつては比叡山に並ぶほどの一大修行場であった場所でもあり、また、戸隠に宿泊する夜は、澄み切った空気の中、満天の星空を望むことができ、無限の大宇宙を感じることも。
</p>
<p>
<br />
<br />
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/aiko/120513.081.jpg" alt=" " width="500" height="333" />
</p>
<p>
戸隠山の麓にある鏡池
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/aiko/120513.082.jpg" alt=" " width="500" height="333" />
</p>
<p>
戸隠巡礼の前には、善光寺もセットでお参りします。
</p>
<p>
<br />
次に、諏訪は、正に聖地の宝庫です。その中でも特に、御頭ミシャグチ総社のご聖木の空間は、すばらしく優しい慈悲の波動、仏母・慈母の御聖木です。
</p>
<p>
<br />
<br />
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/aiko/120513.09.jpg" alt=" " width="500" height="333" />
<br />
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/aiko/120513.10.jpg" alt=" " width="300" height="400" />
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
さらには、諏訪大社の御柱。御柱は、山から切りだして、諏訪大社の四方の結界のために立てられた神柱で、霊的なパワーを感じます。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/aiko/120513.11.jpg" alt=" " width="300" height="451" />
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/aiko/120513.12.jpg" alt=" " width="500" height="333" />
</p>
<p>
諏訪大社上社本宮<br />
<br />
</p>
<p>
特に、古来より、祭祀が行われ続けている諏訪大社の前宮は、美しい自然の中にあって、神柱に加え、大変清らかな水眼の清流という川が流れ、尊いご神水とされています。<br />
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/aiko/120513.13.jpg" alt=" " width="500" height="333" />
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/aiko/130513.14.jpg" alt=" " width="500" height="333" />
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
&nbsp;
この諏訪・戸隠は、ひかりの輪の説く「輪の思想（法則）」の聖地です。<br />
<br />
輪の思想とは、この宇宙と生命と幸福と悟りなどの根本原理であり、「万物は、輪のように循環し、平等で一体」というものですが、これは、諏訪や戸隠を含めた聖地での瞑想や体験があってこそ、生まれたものです。<br />
<br />
特に諏訪の巡礼では、昨年と一昨年の二年連続して、その巡礼の最中に、空に、仏教で吉兆とされる「太陽の周りの虹の光の輪」が現われるという神
秘的なことがありました。そして、こういった自然の聖地では、太陽や昼夜や四季の循環、水や空気の循環も普段にもまして感じられます。
</p>
<p>
<br />
<br />
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/aiko/130513.15.jpg" alt=" " width="500" height="333" />
</p>
<p>
<br />
◎この戸隠や諏訪の過去の巡礼の写真付きのレポートのあるページ<a href="http://www.joyus.jp/hikarinowa/pilgrimage/" target="_blank"><br />
http://www.joyus.jp/hikarinowa/pilgrimage/</a><br />
<br />
◎昨年の巡礼の動画<a href="http://www.joyus.jp/hikarinowa/pilgrimage/1320116/004520116.html" target="_blank"><br />
http://www.joyus.jp/hikarinowa/pilgrimage/1320116/004520116.html<br />
</a><br />
<br />
そして、今回の巡礼は、この万物一体という「輪の悟り」の境地に近づくために、諏訪・戸隠という縁の深い「輪の聖地」を活かして、ひかりの輪の気功・ヨーガ・読経の修行（輪の行法・瞑想）を行なうプログラムが含まれています。<br />
<br />
５月に行われた、ひかりの輪５周年のゴールデンウィークセミナーでは、一般の人にもわかりやすい仏陀の智恵の教えに関する読経や、ひかりの輪オリジナルの気功・ヨーガ行法、さらには、歩行しながらの瞑想（歩行禅）などを行い、多くの方が、その効果を実感されました。<br />
<br />
今回の巡礼では、その「輪の聖地」の霊性に助けられる中で、そういった修行も、最大限の力を発揮すると期待しています。そこでは、ひかりの輪が、輪の思想に基づいて、長い間温めてきた霊的な修行法である「輪のクンダリニーヨーガ」の思想も明確にする予定です。<br />
<br />
今回の巡礼は、皆さんの心身の浄化・リフレッシュ、そして、真の幸福の道である仏陀の智恵の理解（悟り）のために、格別の機会となりますので、会員の方、一般の方を問わず、是非、みなさまのご参加をお待ちしています。<br />
<br />
ご参加希望の方は、ひかりの輪の全国道場の担当者までご連絡下さい。<a href="http://hikarinowa.net/branches/" target="_blank">http://hikarinowa.net/branches/</a>
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【ＮＥＷＳ】5月12日(土）名古屋支部、13日(日）大阪支部での上祐史浩説法会（無料ネット生中継あり）のお知らせ</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/announcement/02/036051213.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2012:/announcement//9.2547</id>
   
   <published>2012-05-08T06:28:46Z</published>
   <updated>2012-05-14T03:03:52Z</updated>
   
   <summary>以下の日時にて、名古屋・大阪にて上祐史浩の説法会が行われます。 5月12日（土）...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="ＮＥＷＳ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/announcement/">
      <![CDATA[以下の日時にて、名古屋・大阪にて上祐史浩の説法会が行われます。
<p>
5月12日（土）18時30分 ～　名古屋支部にて ：説法会<br />
5月13日（日）12時00分 ～　大阪支部にて　 ：説法会
</p>
<p>
<strong>今回の講話の内容は以下の予定です。</strong>
</p>
<p>
１　ヨーガ・気功などの身体行法・霊的修行の奥儀
</p>
<p>
① 身体を流れる目に見えない霊的エネルギー（クンダリニー）の、総合的な説明<br />
② 霊的エネルギーの、上昇と循環のバランスという奥儀（意識の向上と広がり）
</p>
<p>
<br />
２ 平成の新仏教：現代人が実践できる真の幸福・成長・悟りの教え
</p>
<p>
①万人・万物を平等・一体と見る智慧によって、真の幸福・心の幸福、<br />
②真の成長・真の自己の役割、真の悟りを得る教え：三仏心経の解説
</p>
<p>
講話とともに、初めての方でも無理なく出来る簡単な「ヨーガ・気功の行法指導」、「三仏心経の読経の儀礼」も含まれています。また、講話の後には、ご希望の方と「上祐との個人面談・個人相談」も受けさせていただいております。
</p>
<p>
<br />
<strong>◎ネットでの公開ライブ中継もあります。</strong>
</p>
<p>
なお、１３日(日)の大阪支部での講話は、ネットで公開ライブ中継も行ないます。<br />
Ｕstream　１２時半～約１時間半ほど。<br />
皆さんも、パスワードなしでアクセスできますので、お気軽にご自宅のパソコンなどで、ご視聴いただけます。<br />
アクセスは、<a href="http://www.ustream.tv/channel/hikarinowa">http://www.ustream.tv/channel/hikarinowa</a>まで。
</p>
<p>
説法会は、会員・一般問わず、どなたでもご参加いただけます。講話の後には、上祐史浩への質問や、個人的にお話できる機会も設けていますので、ぜひご参加ください。
</p>
<p>
なお、一般の方で、参加ご希望の方は、事前に下記までご連絡くださるようにお願い致します。プログラムなどの詳細をお伝えします。
</p>
<p>
<br />
◎<a href="http://ameblo.jp/hikarinowa-nagoya/">名古屋支部</a>&nbsp;&nbsp; 担当：<a href="http://www.joyus.jp/hikarinowa/stuff/0015.html">山口雅彦</a>
</p>
住所：愛知県豊明市栄町上姥子６－１３９<br />
担当者携帯電話：０９０－６８５２－４９２９（山口）<br />
支部窓口電話　 ：０５６２－９６－００３９<br />
メールアドレス　：<a href="mailto:nagoya@hikarinowa.net">nagoya@hikarinowa.net</a>
<p>
&nbsp;<br />
◎<a href="http://ameblo.jp/hikarinowa-osaka/">大阪支部</a>(関西・中国地区)&nbsp; 担当：<a href="http://www.joyus.jp/hikarinowa/stuff/30/0011.html">田実恵理子</a>
</p>
住所：大阪市中央区上町１－９－６ サンヨービル６F（玄関は５階にあります）<br />
担当者携帯電話：０９０－３８７２－９５２１<br />
支部窓口電話　 ：０６－６７７７－１６１８<br />
メールアドレス&nbsp; ：<a href="mailto:osaka@hikarinowa.net">osaka@hikarinowa.net</a>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【ＮＥＷＳ】ひかりの輪「内観セミナー」開催のお知らせ</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/announcement/05/0359.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2012:/announcement//9.2545</id>
   
   <published>2012-04-30T10:39:43Z</published>
   <updated>2012-05-14T03:03:52Z</updated>
   
   <summary>　ひかりの輪では、オウム時代の反省に立って、2009年以来、自己反省法「内観」を...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="今後のイベント" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/announcement/">
      <![CDATA[　ひかりの輪では、オウム時代の反省に立って、2009年以来、自己反省法「内観」を導入し、組織的に実践して効果をあげてきました（その詳細は、<a href="http://hikarinowa.net/public-info/departure/interaction1/">『内観の研修（家族軽視の教義の反省）の実施』</a>をご覧下さい）。

　そして、本年に入ってからも、<a href="http://hikarinowa-gaibukansa.jp/leading/index.html">ひかりの輪の外部監査委員をお務めになっている犯罪者更生・被害者学専門の大学教授の先生のご指導</a>をいただきながら、その実践を強化しています。先日からは、ひかりの輪の全国各支部で「内観セミナー」を順次開催していますので、会員や一般の皆様にも広くご参加をお勧めいたします。

<strong>●自己反省法「内観」とは？</strong>

　内観とは、もともと、自分を反省するための浄土真宗系の一派の修行「身調べ」から生まれたものです。この身調べから宗教的な要素を取り除いて、誰にでも実践可能な自己探求法・自己反省法として、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E6%9C%AC%E4%BC%8A%E4%BF%A1">吉本伊信氏</a>によって確立され、広く効果が認められているものです。

　これまで、犯罪者更生・更生教育のために、国内外の刑務所や少年院等でも指導されてきており、内観の実践者が5年以内に再び刑務所に入ってくる確率（再入率）は、実践していない人に比べて約50％に低下しているとの報告がなされているほどです。また、内観は、企業研修や学校教育、心理的な治療の場でも用いられています。

　内観では、自分がこれまでの生涯で、

    ①他人からしてもらったこと
    ②他人にして返したこと
    ③他人に迷惑をかけたこと

――の３つについて、時代と対象を区切って丁寧に思い出していくという作業を行います。

　すると、自分は両親をはじめとする周囲の人物から非常にたくさんのことをしてもらっているにもかかわらず、自分は周囲に大したことをして返してあげておらず、むしろ多くの迷惑をかけてきたという事実に気づき、すなわち自分の自己中心性を自覚し、反省し、他者への感謝と奉仕に向かっていくことができるようになります。

　かつてのオウム真理教および現在のアレフ（Aleph）では、特に出家信者と親族との連絡を規制するなど、家族・親族を軽視する傾向が強く、それが一連の事件の原因の一つにもなりました。その点からも、この内観は、オウムの反省を深めるためにも、そして広く人間関係の改善を図るためにも、極めて有用なものといえます。

<strong>●内観セミナーに、ぜひご参加を</strong>

　本来、内観は１週間集中して実践するのが望ましいのですが（「集中内観」といいます）、時間がない方のために、まずは皮切りとして１日だけ実践する方法もあります（「１日内観」といいます）。

　ひかりの輪では、外部監査委員の専門家の先生をお招きして、この「１日内観」を行う内観セミナーを、全国各支部で順次開催しています。

　すでに、4月22日～23日には、ひかりの輪仙台支部で開催し、先生のご指導のもとで、会員の皆様が内観を実施しました。

　今後は、以下の日程で、各支部で開催する予定です。いずれも、外部監査委員の先生の直接のご指導を受けることができます。

・<a href="http://ameblo.jp/hikarinowa-chiba/">5月13日(日)　千葉支部</a>
・<a href="http://ameblo.jp/hikarinowa-tokyo/">5月20日(日)　東京本部</a>
・<a href="http://ameblo.jp/hikarinowa-osaka/">6月17日(日)　大阪支部</a>
・<a href="http://ameblo.jp/hikarinowa-nagoya/">7月 1日(日)　名古屋支部</a>
・<a href="http://ameblo.jp/hikarinowa-nagano/">7月 7日(土)　長野連絡所</a>
・<a href="http://ameblo.jp/hikarinowa-fukuoka/">7月22日(日)～24日(火)　福岡支部</a>

　ご参加を希望になる方は、上記各支部までご連絡下さい（参加者数に制限がありますので、定員に達した場合はご了承下さい）。

　なお、上記の予定以降も、全国各支部で今後開催を続けていきますので、皆様のご参加をお待ちしています。]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【ＮＥＷＳ】5月2日（水）～6日（日） 東京本部ゴールデンウィークセミナーと、 期間中の上祐代表の講話及び 「流体循環気功」「エンライトメントヨーガ」行法のネット公開生中継のお知らせ</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/announcement/02/0357526.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2012:/announcement//9.2543</id>
   
   <published>2012-04-30T10:06:02Z</published>
   <updated>2012-05-14T03:03:52Z</updated>
   
   <summary> ５月２日（水）～６日（日）の期間、東京本部道場において、ひかりの輪ゴールデンウ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="ＮＥＷＳ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/announcement/">
      <![CDATA[<p>
５月２日（水）～６日（日）の期間、東京本部道場において、ひかりの輪ゴールデンウィークセミナーが行われます。
</p>
<p>
<strong><br />
◆一般の方も参加可能</strong>
</p>
<p>
このセミナーは、会員の方に加え、一般の方の参加も可能で、
</p>
<p>
①上祐史浩の仏教講話（説法会）<br />
②ヨーガ・気功の行法、<br />
③三仏心経の読経儀礼・瞑想
</p>
<p>
などが行われます。
</p>
<p>
<br />
<strong>◆上祐史浩の講話</strong>
</p>
<p>
上祐史浩の講話は、仏教の教えに基づいて、日常生活の苦しみを乗り越えたり、<br />
悟りに近づく道を説く内容で、<br />
宗教的な知識のない一般の方にも分かりやすい内容となっており、<br />
毎回参加される一般の方にも好評を頂いております。
</p>
<p>
<br />
<strong>＜上祐史浩講話　日程＞</strong>
</p>
<p>
●２日（水）第１回講話　１２：３０～１４：００<br />
読経瞑想指導（支部等限定の非公開中継）　１４：１５～１４：１５<br />
第２回講話　１９：３０～２１：００
</p>
<p>
●３日（木）第３回講話　１１：３０～１３：００<br />
第４回講話　１９：３０～２１：００<br />
読経瞑想指導（支部等限定の非公開中継）　２１：１５～２２：１５
</p>
<p>
●４日（金）第５回講話　１１：３０～１３：００<br />
第６回講話　１９：３０～２１：００<br />
読経瞑想指導（支部等限定の非公開中継）　２１：１５～２２：１５
</p>
<p>
●５日（土）第７回講話　１１：３０～１３：００<br />
読経瞑想指導（支部等限定の非公開中継）　１３：１５～１４：１５
</p>
<p>
<br />
<strong>◆上祐史浩との個人面談も</strong>
</p>
<p>
また、講話に加えて、講話の後には、<br />
上祐史浩に個人的に面談する特別な機会も設けておりますので、<br />
ご関心、ご機会のある方は、ぜひお気軽にご参加ください。<br />
スタッフ一同、皆さんのお越しをお待ちしております。<br />
講話会などの初回参加料は１０００円となります。<br />
なお、参加希望の方は、事前に<a href="http://ameblo.jp/hikarinowa-tokyo/theme-10030790386.html">東京本部</a>までご連絡ください（下記連絡先まで）。
</p>
<p>
<strong><br />
◆上祐史浩講話、行法のネット生中継</strong>
</p>
<p>
また、直接道場にお越しになれない方のために、<br />
東京本部での上祐史浩の全講話をネットで公開生中継を行います。<br />
また、ヨーガ・気功の行法の一部も中継を行います。<br />
どなたでもパスワードなしでアクセスできますので、<br />
お気軽にご自宅のパソコンなどでご試聴いただけます。
</p>
<p>
★中継URL（講話、行法とも共通）<br />
<a href="http://hikarinowa.net/tv/">http://hikarinowa.net/tv/</a>
</p>
<p>
上祐史浩の公開講話の中では、Ｕstreamのチャット機能を使った質疑応答も行います。この機会にぜひご質問をどうぞ。
</p>
<p>
※講話中に使用するテキストを、毎日直前にＨＰ上に掲示する予定ですのでご利用ください。
</p>
<p>
※また、講話の開始時間５分前に担当者が、上記テキストの件と、ネットによる質疑の仕方に関する説明を行いますので、<br />
講話開始前に余裕を持って中継接続していただくようお願いいたします。
</p>
<p>
<br />
<strong>＜行法内容＞</strong>
</p>
<p>
<strong>●流体循環気功</strong><br />
５月４日（金）１３：３０～１５：３０：担当　山口雅彦
</p>
<p>
簡単な体の動作・呼吸法で気を身体に巡らせ、天地の気と融合させていくことによって、意識を宇宙意識へと広げていくという従来の流体循環気功を、ヨーガの高度な行法と融合させることによって、一段も二段も進化させたものです。<br />
これは気功の欠点を補うものであると同時に、ヨーガの欠点を補うもので、画期的なものです。<br />
これまで以上により大きな意識の広がりと、エネルギー感覚も心地良さを感じます。それによっていっそう、万物一体であることを体感するでしょう。
</p>
<p>
※「流体循環気功」について、くわしくはこちらをご覧ください。<br />
<a href="http://www.joyus.jp/hikarinowa/yogahealing/09_1/0038_20118.html">http://www.joyus.jp/hikarinowa/yogahealing/09_1/0038_20118.html</a>
</p>
<p>
<strong>●エンライトメントヨーガ</strong><br />
５月５日（土）１４：４５～１７：３０：担当　山口雅彦
</p>
<p>
クンダリニー・ヨーガと仏教のヴィパッサナー瞑想を融合させた悟りのためのヨーガ。無理なく易しく身体をほぐし、<br />
エネルギーの通りをよくしたうえで、呼吸法、ムドラーへと順に高度な行法を行い、深い深い瞑想状態に入っていくヨーガ。<br />
気づきと悟りヨーガです。
</p>
<p>
※「エンライトメントヨーガ」について、くわしくはこちらをご覧ください。<br />
<a href="http://www.joyus.jp/hikarinowa/yogahealing/cat63/0000.html" target="_blank">http://www.joyus.jp/hikarinowa/yogahealing/cat63/0000.html</a>
</p>
<p>
<br />
<strong>★ネット生中継のスケジュール</strong>
</p>
<p>
◎５月２日（水）<br />
１２：３０～１４：００　　上祐史浩の講話第１回<br />
１９：３０～２１：００　　上祐史浩の講話第２回
</p>
<p>
◎５月３日（木）<br />
１１：３０～１３：００　　上祐史浩の講話第３回<br />
１９：３０～２１：００　　上祐史浩の講話第４回
</p>
<p>
◎５月４日（金）<br />
１１：３０～１３：００　　上祐史浩の講話第５回<br />
１３：３０～１５：３０　　行法コース：流体循環気功<br />
１９：３０～２１：００　　上祐史浩の講話第６回
</p>
<p>
◎５月５日（土）<br />
１１：３０～１３：００　　上祐史浩の講話第６回<br />
１４：４５～１７：３０　　行法コース：エンライトメントヨーガ
</p>
<p>
<br />
【連絡先】<br />
<a href="http://ameblo.jp/hikarinowa-tokyo/theme-10030790386.html"><strong>◎ひかりの輪本部</strong>（東京支部／東京・埼玉地区）</a><br />
担当：<a href="http://www.joyus.jp/hikarinowa/stuff/0012_1.html">細川美香</a><br />
住所：東京都世田谷区南烏山６－３０－１９　ＧＳハイム烏山１０１<br />
担当者携帯電話：０８０－３４２４－７０５４<br />
支部窓口電話：０３－５３１５－２８０５<br />
メールアドレス：<a href="mailto:tokyo@hikarinowa.net">tokyo@hikarinowa.net</a>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【対外活動】【動画】『居島一平のVS特番 ON Ustream』（ゲスト：上祐史浩）2011年10月29日放送</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/interview/03/0121vs_on_ustream20111029.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2012:/interview//5.2550</id>
   
   <published>2012-05-11T09:54:45Z</published>
   <updated>2012-05-12T09:56:56Z</updated>
   
   <summary>　「歴史軍人芸人」居島一平氏のネット番組『居島一平のVS特番 ON Ustrea...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="ご招待を受けたト-クショ-･講演" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/interview/">
      <![CDATA[　<a href="http://ameblo.jp/violentsaturday784/">「歴史軍人芸人」居島一平氏</a>のネット番組『居島一平のVS特番 ON Ustream』に、昨年（2011年）10月29日、上祐代表がゲストとしてお招きを受け、出演しました。

　その動画を以下にアップしましたので、ぜひご覧下さい（制作者様のご許可を得て掲載させていただきました）。

<a href="http://www.ustream.tv/recorded/22487346">●『居島一平のVS特番 ON Ustream』（ゲスト：上祐史浩）2011年10月29日放送</a>

◎内容（制作者様側の宣伝文から）

　元オウム真理教幹部にして、
　現在は、ひかりの輪代表として活動する上祐史浩さんと
　今宵、都内某所のBARで待ち合わせ。

　上祐さんのこれまでの激動の人生を振返りながら、
　日本における今世紀最大のあの事件の裏側―
　今年起こった東日本大震災前後に見る、
　今の日本とこれからの日本について―、
　宗教とは何か、日本人の精神的支柱は今どこにあるのか―、
　人は何と戦い、何に怯えるのか。
　徳川幕府統治下の日本と現代の日本政治に焦点を当てながらも、
　大和魂に沁みいるロング対談。]]>
      
   </content>
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<entry>
   <title>【対外活動】【動画】上祐代表が生出演　BSスカパー!『BAZOOKA!!!』「脱・洗脳ナイト！」（2012年4月16日放送）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/interview/03/0120bsbazooka2012416.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2012:/interview//5.2549</id>
   
   <published>2012-04-26T09:51:36Z</published>
   <updated>2012-05-12T09:53:11Z</updated>
   
   <summary>　すでに予告しましたとおり、上祐代表は、（2012年）4月16日、BSデジタルテ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="ご招待を受けたト-クショ-･講演" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/interview/">
      <![CDATA[　<a href="http://www.joyus.jp/hikarinowa/news/news/1021416bsbsbazooka.html">すでに予告しましたとおり</a>、上祐代表は、（2012年）4月16日、BSデジタルテレビ放送「BSスカパー!」の番組『BAZOOKA!!!』に生出演し、約1時間にわたって、"オウムからの脱洗脳"などをテーマに話をさせていただきました。

　上祐代表は、なぜオウム信者が麻原によるマインドコントロールを受け入れて、オウムの信仰に没入してしまったのかを分析した上で、どのようにして上祐代表はそこから脱却してきたのかを述べました。そして、このような問題を防止・解決するための策についても意見を示しました。

　また、番組には、オウム真理教のドキュメンタリー映画『Ａ』『Ａ２』を制作した映画監督・作家の森達也氏も共に出演しました。

　以下に動画がアップされていますので、ぜひご覧下さい。

<a href="http://www.youtube.com/watch?v=dzbAI_fZYsY">●BSスカパー！『BAZOOKA!!!』「脱・洗脳ナイト！」2012年4月16日放送（YouTubeより）</a>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【対外活動】【動画】上祐史浩×黒田勇樹氏（元俳優）の『黒田運送(カフェ)』（2011年7月21日）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/interview/03/2011721.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2011:/interview//5.2396</id>
   
   <published>2011-10-18T13:27:24Z</published>
   <updated>2011-10-21T12:58:56Z</updated>
   
   <summary> 2011年7月21日、上祐代表が、ＮＨＫの大河ドラマや仮面ライダー等に出演した...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="ご招待を受けたト-クショ-･講演" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/interview/">
      <![CDATA[<p>
2011年7月21日、上祐代表が、ＮＨＫの大河ドラマや仮面ライダー等に出演した元俳優・黒田勇樹さんのネットテレビに出演し、ご好評いただいた対談の動画を掲載しました。<br />
黒田さんのサイトでの公開期間は７月に終わっていましたので、こちらでの掲載の許可をいただきました。見逃した方、もう一度ご覧になりたい方はぜひどうぞ。
当日、会場は東京・原宿のカフェで、観客は黒田さんの番組の常連さんを中心に30人弱ほどでしたが、ネットを通じて合計1200人ほどが訪れ、常時300人ほどの視聴者となりました。<br />
最初は、上祐代表との質疑応答、そして「日本を元気にするには」というテーマでの話、最後にユニークなアドリブ劇場がありました。
</p>
<p>
<br />
＞＞動画はこちら<a href="http://www.ustream.tv/recorded/17935942">http://www.ustream.tv/recorded/17935942</a><br />
</p>
<br />
<br />
<p>
◎当日の写真レポート<a href="http://hikarinowa.net/public-info/social-contact/pd/post-23.html">http://hikarinowa.net/public-info/social-contact/pd/post-23.html</a>
</p>
<p>
◎黒田さんの当日の日記（ブログ）<a href="http://idaho.yuukikuroda.com/?eid=121">http://idaho.yuukikuroda.com/?eid=121</a><br />
</p>
<p>
◎伊藤栄之進さんの当日の日記（ブログ）<a href="http://blog.livedoor.jp/noshin0724/archives/51862062.html">http://blog.livedoor.jp/noshin0724/archives/51862062.html</a>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【対外活動】上祐史浩が、元俳優・黒田勇樹さんのネットテレビに出演</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/interview/03/0115.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2011:/interview//5.2333</id>
   
   <published>2011-07-24T01:41:57Z</published>
   <updated>2011-07-25T12:23:36Z</updated>
   
   <summary> 7月21日、上祐史浩が、ＮＨＫの大河ドラマや仮面ライダー等に出演した元俳優・黒...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="ご招待を受けたト-クショ-･講演" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/interview/">
      <![CDATA[<p>
7月21日、上祐史浩が、ＮＨＫの大河ドラマや仮面ライダー等に出演した元俳優・黒田勇樹さんのネットテレビに出演しました。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/1.jpg" alt=" " width="200" height="133" />
&nbsp;&nbsp;&nbsp;
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/2.jpg" alt=" " width="200" height="133" />
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/3.jpg" alt=" " width="200" height="133" />
&nbsp;&nbsp; &nbsp;
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/4.jpg" alt=" " width="200" height="133" />
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
会場は東京・原宿のカフェで、観客は黒田さんの番組の常連さんを中心に30人弱ほどでしたが、ネットを通じて合計1200人ほどが訪れ、常時300人ほどの視聴者となりました。
</p>
<p>
最初は、上祐代表との質疑応答、そして「日本を元気にするには」というテーマでの話、最後にユニークなアドリブ劇場がありました。
</p>
<p>
やりとりの全部を録画した動画は、以下の黒田さんのサイトで全部視聴できます。ただし公開期間は原則1週間（7/28まで）なので、ご覧になりたい方はお早めにどうぞ。
</p>
<p>
※黒田さんのサイト『黒田運送(カフェ)』
</p>
<p>
<a href="http://cafe.yuukikuroda.com/">http://cafe.yuukikuroda.com/</a><br />
</p>
<p>
または、<a href="http://www.ustream.tv/recorded/16145958"></a>
</p>
<p>
<a href="http://www.ustream.tv/recorded/16145958">http://www.ustream.tv/recorded/16145958</a>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kataoka/5.jpg" alt=" " width="500" height="333" />
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【対外活動】【動画】上祐史浩の講演『オウム真理教の問題の心理学的な分析』 第269回・人間関係と自主ストローク研究会にて（2011年2月27日98min）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/interview/03/0113_269201122798min.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2011:/interview//5.2245</id>
   
   <published>2011-04-09T12:15:09Z</published>
   <updated>2011-04-09T12:46:52Z</updated>
   
   <summary> 2011年2月27日、上祐史浩が、「東京セルフ研究会」という、30年以上の歴史...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="ご招待を受けたト-クショ-･講演" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/interview/">
      <![CDATA[<p>
2011年2月27日、上祐史浩が、「東京セルフ研究会」という、30年以上の歴史を持つ市民団体の研修会にお招きいただき行った講演の録画です。
</p>
<p>
オウム真理教について、これまであまり分析されることのなかった、根本的な心の問題についての内容です。
</p>
<p>
わたしたちがオウム真理教の信仰をやめるに至った中で行った、内省・総括の作業の中で、心理学的な視点から、麻原がどういった心の問題を抱え、そのもとに集った信者がどのような点を麻原と共有し、ひいては、どういった戦後日本社会の傾向が、そういった信者たちを生み出すにいたったかという点を考察した結果をご紹介しています。
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>&nbsp;</strong></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>『オウム真理教の問題の心理学的な分析』</strong></span><br />
第269回・人間関係と自主ストローク研究会での講演（2011年2月27日98min）
</p>
<object classid="clsid:d27cdb6e-ae6d-11cf-96b8-444553540000" width="480" height="296" id="utv906205" name="utv_n_587330"><param name="flashvars" value="loc=%2F&amp;autoplay=false&amp;vid=13124910&amp;locale=ja_JP&amp;hasticket=false&amp;id=13124910&amp;v3=1" /><param name="allowfullscreen" value="true" /><param name="allowscriptaccess" value="always" /><param name="src" value="http://www.ustream.tv/flash/viewer.swf" /><embed flashvars="loc=%2F&amp;autoplay=false&amp;vid=13124910&amp;locale=ja_JP&amp;hasticket=false&amp;id=13124910&amp;v3=1" width="480" height="296" allowfullscreen="true" allowscriptaccess="always" id="utv906205" name="utv_n_587330" src="http://www.ustream.tv/flash/viewer.swf" type="application/x-shockwave-flash" /></object>]]>
      
   </content>
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   <title>【オウムの総括】「オウムの総括」コーナー移転のお知らせ</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/aum/00_1/0000_1.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2010:/aum//3.1635</id>
   
   <published>2010-03-07T00:24:44Z</published>
   <updated>2010-03-07T00:35:01Z</updated>
   
   <summary>「オウムの総括」コーナー移転のお知らせ</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="このコーナーについて" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/aum/">
      <![CDATA[「オウムの総括」コーナー移転のお知らせ
これまでの、この「オウムの総括」コーナーの内容は、すべて新サイトへ移転いたしました。<br />
今後は、新サイト<a href="http://hikarinowa.net/kyokun">「オウムの教訓　――オウム時代の反省・総括の概要」</a>の中の、<a href="http://hikarinowa.net/kyokun/joyu/">「上祐史浩個人の総括」</a>をご覧ください。<br />
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「オウムの教訓　――オウム時代の反省・総括の概要」<br />
上祐史浩個人の総括<a href="http://hikarinowa.net/kyokun/joyu/">http://hikarinowa.net/kyokun/joyu/</a>
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