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   <title>上祐史浩オフィシャルサイト</title>
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   <title>【日記 プライベート】日記コーナー、アメブロに移行しました。</title>
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   <published>2010-11-18T12:38:37Z</published>
   <updated>2010-11-18T13:07:42Z</updated>
   
   <summary> この「日記プライベート」のコーナーは、 先日開設のブログ、 「上祐史浩オフィシ...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/diary/">
      <![CDATA[<p>
<span style="font-size: medium"><span style="font-size: small">この「日記プライベート」のコーナーは、</span><strong><br />
</strong><span style="font-size: small">先日開設のブログ、</span><strong><br />
</strong></span>
</p>
<span style="font-size: medium"><strong><a href="http://ameblo.jp/joyufumihiro/theme-10024388449.html"><br />
「上祐史浩オフィシャルブログ 　「２１世紀の思想の創造」　日記</a></strong></span>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong><span>へ移行いたしました。</span></strong></span><br />
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: small">今後はこちらの方での閲覧をよろしくお願いいたします。</span><span style="font-size: small"><br />
</span><span style="font-size: small"><br />
※ブログの更新情報は、当サイト<a href="http://www.joyus.jp/">トップページの「更新情報」</a>でご覧いただけます。</span>
</p>
]]>
      
   </content>
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   <title>【日記 プライベート】汝の敵を愛して、キリスト教の誕生</title>
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   <published>2010-11-02T03:27:05Z</published>
   <updated>2010-11-18T12:56:30Z</updated>
   
   <summary> 学術的に言えば、キリスト教は、イエスキリストの教えと言うよりも、 イエスキリス...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/diary/">
      <![CDATA[<p>
学術的に言えば、キリスト教は、イエスキリストの教えと言うよりも、<br />
イエスキリストの言行を土台として、パウロらが確立した宗教である<br />
と言われています。よって、学者によっては、パウロによって、<br />
キリスト教が発明されたという刺激的な表現をとる人もいます。
</p>
<p>
そのパウロ、有名な話しとしては、ある宗教体験をして、改心するまでは、<br />
イエスの信者を弾圧しており、しかも、生前のイエスには会ったことがない。<br />
すなわち、キリスト教とは、イエスの信者の敵対者だった者が確立した<br />
宗教である、とも言うことが出来るのです。
</p>
<p>
すなわち、イエスの名言、汝の敵を愛せ、これがそのまま、キリスト教の誕生を<br />
もたらしたということになります。
</p>
<p>
キリスト教と言えば、なんと言っても、イエスの十字架で死と復活ですが、<br />
私個人は、宗教としてのキリスト教の誕生が、その敵にもたらされたという点に、<br />
非常に惹かれています。
</p>
<p>
そして、イエスの様々な予言の中で、一般には予言の的中とされていませんが、<br />
私は、彼が彼の信者に、汝の敵を愛せと語ったことは、素晴らしい予言のように感じます。
</p>
<p>
敵対者であるパウロが、キリスト教確立の立役者になった。<br />
ユダの裏切りをきっかけに、イエスのキリストとしての復活があった。<br />
敵が味方に。死が再生に。
</p>
<p>
人が最も忌み嫌う二つのもの、「敵」と「死」、<br />
これによって、その中核が作られたキリスト教。<br />
さすがに世界最大宗教の誕生は興味深い。
</p>
<p>
ひかりの輪では、大乗仏教の教えをベースにして、<br />
苦しみの裏に喜びがあり、<br />
悪（劣）の裏に善（優）がある、<br />
という一元法則を説いています。
</p>
<p>
前の日記で、苦しみこそ慈悲の源であるとして、苦しみに感謝するお話をしました。<br />
これをひかりの輪では、苦楽表裏として、釈迦牟尼の法則と呼んでいます。
</p>
<p>
これに加えて、人が一見して、自分より劣っていると考えている対象が、<br />
別の面においては、自分より優れており、将来的には、自分が助けられる場合<br />
があります。
</p>
<p>
例えば、イエスの信者にとっては、初期のパウロは、真理を理解しない<br />
悪業多き魂の一人だったのでしょうが、後世のキリスト教徒にとっては、<br />
全ての信者の上に抱く存在となりました。
</p>
<p>
また、仏教では、釈迦牟尼如来の一人前の如来をカッサパ仏と言いますが、<br />
カッサパ仏の時代においては、釈迦牟尼は、カッサパ仏を誹謗中傷したと<br />
も言われています（この生の釈迦牟尼はまだ悟って仏となっていない）。
</p>
<p>
そして、釈迦牟尼が仏となった後には、釈迦牟尼を殺そうとした大悪人が、<br />
改心して、釈迦牟尼の高弟となります。有名なアングリマーラです。
</p>
<p>
さらに、釈迦牟尼教団を一時的に分裂させたデーバダッタが、地獄に堕ちたが、<br />
そこで改心したので、仏教を守る神（護法神）として生まれ変わったと言います。
</p>
<p>
釈迦牟尼遅れて５６億７千万年後に悟る弥勒菩薩は、それほど釈迦牟尼に遅れて悟るのに、<br />
釈迦牟尼より遙かに多い人々を悟りに導くとされています。
</p>
<p>
誰かが、最初に劣っていて、間違っているように見えても、<br />
その人が転機を迎えて、転換し、深化していくならば、<br />
その落ち込みが深く、はい上がる高さも高い分だけ、<br />
最初から優れていた人よりも、大きなものを得るのではないかと思います。<br />
<br />
仏教的に言えば、煩悩が深い者は、早く悟ることは出来ないものの、<br />
苦闘の末に、それから脱却したならば、煩悩の浅いものよりも、<br />
同じように煩悩が多い者を救うことができるし、救おうとする慈悲も強い、<br />
とも考えられます。大煩悩大解脱（煩悩即菩提）と言われる教えです。
</p>
<p>
これから出てくる教えは、全てを平等に尊重すべきである、というもののです。<br />
仏教的に言えば、万人が、平等な仏性の現われ、<br />
すなわち、平等に未来に仏陀になる可能性を有する、というものです。
</p>
<p>
これは、人は、無知によって、色々な間違いを犯すが、それを経験して学習し、<br />
徐々に成長していく、という人間観と、それに加えて、<br />
人と人の違いは、仏の視点から見ると、優劣ではなく、実は、個性であり、<br />
役割分担の違いで、お互いがお互いを助け合っている、という視点があります。
</p>
<p>
先ほど言ったように、早く悟った釈迦牟尼が、先駆者として仏の教えを広め、<br />
後に悟る弥勒菩薩が、実際に人類全体を救済して、釈迦牟尼を助け補う<br />
というのが、仏教の救済の構造となっています。
</p>
<p>
これは、母が子供を育てる時の心境に似ています。幼少の時の子供は、<br />
母親に２４時間苦役を強い、客観的には、母親に最大の敵の一面を呈しますが、<br />
その将来の成長を信じる母親は、子供に最大限の尊重と愛を持って、<br />
育みます。そして、成長した子供は、今度は年老いる母親を助けます。
</p>
<p>
観音菩薩で言えば、慈母観音菩薩、仏母観音菩薩などと言われます。<br />
また、この宇宙は、全ての生き物を育む母なる仏の母胎の中であるとする<br />
胎蔵界曼荼羅の思想などがあります。<br />
キリスト教で言えば、敵を愛せと言ったイエスもそうですが、聖母マリアが<br />
宇宙の母のイメージでしょうか。
</p>
<p>
こうして、宇宙の母のような気持ちで、全ての生き物について、<br />
その一時的な優劣・善悪を超えて、<br />
お互いが助け合う関係にある未来の仏と考えて尊重し、<br />
愛し育むのが、仏陀の智恵と慈悲だと思います。
</p>
<p>
汝の敵を愛せと、今回はキリスト教的になりましたが、<br />
最後はいつもの通り仏教で締めくるならば、<br />
「敵こそは教師である」と説かれます。<br />
<br />
宗教は、宗派対立に陥ると、宗教戦争など、敵を増やします。<br />
しかし、現代社会では、敵と戦争をもたらす一面が目立つ宗教ですが、<br />
別の面では、本来は、敵を味方に変え、平和をもたらす思想があります。<br />
２１世紀の宗教の創造を目指すひかりの輪では、この平和をもたらす<br />
宗教の力を再生できればと考えています。
</p>
<p>
また、オウム・アレフを脱会して、麻原信仰を脱却したひかりの輪は、<br />
今現在は、麻原信仰を深めるアレフと対立関係にありますが、<br />
アレフの人達が改心して、その苦闘の末に、麻原信仰を脱却する時が<br />
来るならば、そのはまり方が私達より深く、脱却の苦闘が深い分だけ、<br />
より多くの人に、慈悲深くなる可能性があると思っています。
</p>
<p>
それから、公安調査庁の方、彼らは私にとっては愛の鞭としての教師。<br />
我々の反省、改革、深化、忍耐、真の愛を促す、教師です。
</p>
<p>
余談ですが、立ち入り調査の時に、ある調査官から聞いたことは、<br />
調査官の奥さんも、私の公開ネット講話を聞いているそうです。<br />
旦那さんと一緒に教団を監視して夫婦二人三脚のつもりか、<br />
単なる興味本位か、夫婦関係の悩みがあるのか......。<br />
旦那さんの「公開しすぎ」という苦しいコメントから、推して知るべし。
</p>
<p>
そもそもは、ひかりの輪も、アレフも、公安調査庁も、同じ日本人。<br />
一つしかない日本。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
      
   </content>
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   <title>【日記 プライベート】東京説法会とオフ会終了、今週末は千葉・福岡へ </title>
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   <published>2010-11-01T13:26:24Z</published>
   <updated>2010-11-18T12:56:30Z</updated>
   
   <summary> （2010年11月01日00:59の日記） 本日は、予定通り、東京の説法会とオ...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/diary/">
      <![CDATA[<p>
（2010年11月01日00:59の日記）<br />
<br />
本日は、予定通り、東京の説法会とオフ会を行い、今帰宅しました。<br />
今回も、それぞれに数十名の方にお集まりいただき、<br />
スタッフの方、参加された方に。深く御礼申し上げます。<br />
<br />
今日は、いつもよりも多くの方々と個人的に面会したり、<br />
ご相談に乗れたことが、良かったなと感じています。<br />
中には大きな人生の転換期の方もいらっしゃり、<br />
住み慣れた関西から単身で引越し、芸能関係の仕事を始める方や、<br />
最近長年付き合った人と別れ、新しい仕事を始めつつある方なども。
</p>
<p>
昼１１時半から夜１２時近くまで、説法会とオフ会の間の２～３時間を除き、<br />
３回の講話と個別のお話となりましたが、比較的スムーズに運び、<br />
疲労感少なく、充実感のある1日でした。
</p>
<p>
今週末は、４日・５日の木曜・金曜日に、一般の方、会員のとの面会<br />
の予定を入れており、６日・７日の週末は、既にお知らせしたように、<br />
千葉・福岡の説法会・勉強会の予定です。<br />
７日（日）の福岡勉強会の講話はネットで公開生中継も行います。
</p>
<p>
今日と同じように、多くの方との交流と、いろいろな学びの機会が<br />
得られればと思いますが、これらプログラムのお問い合わせ先、<br />
ご連絡先は以下の通りです。
</p>
<p>
<strong>４日～５日：東京本部での個人面会</strong><br />
担当者：細川美香<br />
担当者携帯電話：０８０－３４２４－７０５４<br />
メールアドレス：<a href="mailto:tokyo@hikarinowa.net">tokyo@hikarinowa.net</a><br />
<br />
</p>
<p>
<strong>６日：千葉説法会、７日：福岡説法会の詳細</strong><br />
<a href="http://www.joyus.jp/hikarinowa/news/news/102411.html">http://www.joyus.jp/hikarinowa/news/news/102411.html</a><br />
<br />
<br />
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【日記 プライベート】苦しみは慈悲の源</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/diary/022010/1049.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2010:/diary//2.1951</id>
   
   <published>2010-10-29T12:12:03Z</published>
   <updated>2010-11-18T12:56:30Z</updated>
   
   <summary> （2010年10月29日の日記） 最近、様々な苦しみが慈悲の心を培う力になるこ...</summary>
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         <category term="2010年の日記" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/diary/">
      <![CDATA[<p>
（2010年10月29日の日記）<br />
<br />
最近、様々な苦しみが慈悲の心を培う力になることを良く考えます。
</p>
<p>
それに関連する話しで、前にもしましたが、観音菩薩がいます。<br />
慈悲の化身、慈悲から生まれたと言われますが、観音菩薩は<br />
以下のように誕生しｊたと言われています。
</p>
<p>
観音菩薩として生まれる前の生で、彼は、大変苦しい人生を送りました。<br />
子供の時に両親と死に別れ、弟と共に売り飛ばされ、島での苦役を強要され、<br />
ぼろぼろになって、そのまま死に至りました。死の直前に、自分達の悲惨な<br />
人生を嘆く弟に対して、
</p>
<p>
「私達は今生、人としての様々な苦しみを味わった。<br />
だから、来世生まれ変わったら、他の苦しみを取り除く人となろう」
</p>
<p>
と語りました。こうして生まれたのが観音菩薩と言われています。
</p>
<p>
この観音菩薩の誕生のエッセンスは、苦しみの経験が慈悲の心をもたらす<br />
ということだと思います。
</p>
<p>
苦しみを経験してこそ、他の苦しみを理解することが出来る。<br />
苦しみが、人にとって一番大切な慈悲の心の源になる。<br />
<br />
また、世俗的な幸福は、多かれ少なかれ奪い合いの様相があって、<br />
お金も、異性も、名誉も、自分が他に勝って、それらを得る喜びの裏には、<br />
負けた他が、それらを失う苦しみがあり、逆に言えば、<br />
自分が負ける苦しみの裏には、他人が得る喜びがある。<br />
<br />
慈悲の心があれば、自分の苦しみは、自分が他から奪いすぎないで、<br />
足るを知って生きるために、喜びととらえなおすことが出来る。<br />
この意味でも、苦しみは、慈悲の心の源にすることができる。
</p>
<p>
今の日本、前よりも豊かさが減ったためか、将来への経済的な不安が増大しています。<br />
しかし、世界・地球全体から見ると、やはり、特別に豊かで恵まれた国であって、<br />
飢え死ぬ訳ではない。
</p>
<p>
また、最近は、勝ち組・負け組と言って、自分を負け組と考えて、酷く落ち込む人も多いが、<br />
日本人を含めた先進国の人々は、世界の中で富を独占する存在で、しかも、日本は<br />
長寿で安全な国だから、客観的に見て、勝ち組であることは間違いない。
</p>
<p>
その日本人がかかえる将来の不安とは、本質的に何を意味しているのか。<br />
客観的には、贅沢や勝利に慣れすぎてしまった心の問題の側面がないか。<br />
だとすれば、その程度の不安があったとしても、それは本当に悪いことか。<br />
それとも、慈悲の心を培うよい機会・試練ではないのか？
</p>
<p>
仮にもし全く不安のない人生だったら、どんな人間になるのでしょう。<br />
例えば、他の苦しみを理解できるようになるでしょうか<br />
お金と名誉・勝利に満ち足りて、何の苦しみもない人生とはどんなものでしょう。
</p>
<p>
これについては、有名なフランス王妃マリーアントワネットの話を思い出します。<br />
民衆がパンがなく飢えていた時に、「「パンがないなら、なぜケーキを食べないの」と言って、<br />
民衆の怒りを買って、彼女は自らを滅ぼす結果となりました。<br />
彼女の栄華は一時的だったが、その栄華が彼女を滅ぼす原因となった。
</p>
<p>
また、腹八分目に医者いらずと言うます。<br />
食べ物も、それが過ぎれば、体には毒になるように、<br />
お金や名誉やその他のものも、それが過ぎれば、<br />
心の健康＝慈悲には毒にならないか。<br />
ならば、多少の不足・不安くらいは、本当に悪いことなのか。
</p>
<p>
こう考えると、楽にも苦にも感謝して生きる道があると思います。<br />
今、与えられている幸福に感謝すると共に、<br />
今、与えられていない苦しみに対しても、<br />
それを慈悲の源と感謝して、全ての感謝する道。<br />
楽にも苦にも感謝。一切に感謝。<br />
<br />
そして、足るを知り、感謝の心がないならば、<br />
絶えず、今得ていないものを未来に求めて生きることになる。<br />
しかし、それは、未来に生きようとしているようなもので、<br />
今現在の人生を楽しむことはできない。<br />
<br />
今の楽にも苦にも感謝して、今、ここで、幸せになる。<br />
今、ここの人生を感謝し、楽しむ。<br />
そこには、際限のない貪りから離れた平安な心と、<br />
奪い合いから離れた温かい慈悲の心が存在している。
</p>
<p>
そして、そのような分かち合いの心が生じると、<br />
不思議にも、生きて行くに必要なものは与えられるもの。<br />
それが大自然の摂理であり、神仏の守護・祝福として<br />
信じられてきたものではないか。
</p>
<p>
仏教開祖の釈迦牟尼は、苦と楽のバランスを取る中道の教えを説きました。<br />
自分を痛めつけ過ぎるような苦行（右道）を否定すると共に、<br />
快楽を満たし過ぎる道（左道）を否定しました。<br />
不苦不楽の中道の教え。<br />
これも慈悲の教えと一体のものだと思います。
</p>
]]>
      
   </content>
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<entry>
   <title>【日記 プライベート】ネットで知り合った人達と面会の毎日</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/diary/022010/1048.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2010:/diary//2.1948</id>
   
   <published>2010-10-27T14:00:14Z</published>
   <updated>2010-11-18T12:56:30Z</updated>
   
   <summary> 昨日、今日、明日と、ネットで知り合った人と、私の住む東京世田谷烏山で 面会させ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="2010年の日記" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/diary/">
      <![CDATA[<p>
昨日、今日、明日と、ネットで知り合った人と、私の住む東京世田谷烏山で<br />
面会させていただいています。
</p>
<p>
昨日印象に残ったのは演奏家の方。最近の不況の打撃をもろに受けているのが芸術分野だそうで、軒並み生演奏の機会が減ったとか。<br />
面会で様々な分野・職業の人の話を聞くと、見識が広がるので勉強になります。
</p>
<p>
私の方からは、不況などの不安・困難を逆活用して、　演奏家にも大切な集中力やインスピレーションの強化（雑念を止める）や、心の熟成をはかる仏教的な智恵についてお話ししました。苦楽表裏ですから。
</p>
<p>
今日印象に残ったのは、２０代で霊的なヒーリングをやっている若者。<br />
お父さんも励ましているというしっかり者で、最近のスピリチュアル、ヒーリング、サイキック関係の事情も含めて、勉強になりました。
</p>
<p>
私の方からは、慢心が増大して、他の尊重ができなくなるという霊的修行の落とし穴の問題の話しをしたり、オウムや幸福の科学といった宗教、政治、親子関係など様々な質問に答えました。<br />
よく学び、邪道を振り払って、次代の精神世界を支える人物となるように期待を込めて。
</p>
<p>
明日また、昼・夜と面会をする予定で、その後、お知らせしましたとおり、<br />
横浜説法会、東京説法会、東京オフ会となります。既に多くの一般の方の<br />
参加の予定を聞いており、多くの方と交流できることを楽しみしています。
</p>
<p>
なお、各イベントの連絡先はＮＥＷＳに掲載しましたのでご関心があれば。<br />
<br />
<a href="http://www.joyus.jp/announcement/02/0241.html">http://www.joyus.jp/announcement/02/0241.html<br />
<br />
<br />
</a>
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【代表メッセージ】「上祐史浩のメッセージ」コーナーは、アメブロ「智慧のツィート」に移行しました</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/message/00/0012.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/hikarinowa/message//26.595</id>
   
   <published>2011-01-05T04:50:23Z</published>
   <updated>2011-01-05T05:02:40Z</updated>
   
   <summary>この「上祐史浩のメッセージ」コーナーは、上祐史浩オフィシャルブログ--２１世紀の...</summary>
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   </author>
         <category term="このコーナーについて" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/message/">
      <![CDATA[この「上祐史浩のメッセージ」コーナーは、<a href="http://ameblo.jp/joyufumihiro/">上祐史浩オフィシャルブログ--２１世紀の思想と創造</a>の<a href="http://ameblo.jp/joyufumihiro/theme-10027589572.html">智慧のツィート</a>のコーナーに移行しました。<br />
これまでのメッセージはそのままこちらでご覧になれます。２１世紀に必要な思想・宗教、さまざまな教えについて語ります。左に、カテゴリー分けしています。<br />
<br />
<br />
]]>
      
   </content>
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<entry>
   <title>【代表メッセージ】感謝と分かち合い３――すべての人を幸福にする道</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/message/cat243/0053.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/message//26.1298</id>
   
   <published>2008-12-09T04:00:32Z</published>
   <updated>2008-12-09T05:01:21Z</updated>
   
   <summary> 「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上...</summary>
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   </author>
         <category term="会員向けメッセージ・特別公開" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/message/">
      <![CDATA[<p>
<br />
「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上祐史浩（ひかりの輪代表）のメッセージを、公式サイトにも掲載することになりました。
ご紹介するメッセージが、皆さまの日々の生活に少しでもお役に立つことができればと願っています。
なお、メンバーズサイトは、会員の方に限らず、真面目なご関心のある方にも、ご利用いただいています。
</p>
<p>
お問い合わせは<a href="mailto:mail@hikarinowa.net">mail@hikarinowa.net</a>まで。
</p>
-----------------------------------------------------------<br />
<br />
<p>
<strong>●幸福・不幸は、他との比較の問題</strong><br />
<br />
さて、今回は、感謝と分かち合いこそが、すべての人々を幸福にする道だと思うことについて述べたい。
</p>
<p>
例えば、ここに３人の人がいて、それぞれの給料が２０万、２５万、３０万だとする。普通の場合は当然のことだが、２０万の人は、２５万や３０万の人を見て、自分の給料に不満を抱き、自分の給料がもっと上がるように欲求する。
</p>
<p>
しかしながら、この世の中のお金は有限だから、誰かの給料が上がるためには、誰かの給料が下がらなければならないときがある。
</p>
<p>
それは好景気のときには当てはまらない、と言うかもしれない。しかし、先ほどの３人の給料が、好景気のために、それぞれ二倍になり、４０万、５０万、６０万となっても、３０万の人の欲求は変わらない。
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/pokkarikumo-thumb-250x187.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="250" height="187" align="right" />
人の感じる幸福・不幸は、「他との比較」の問題であって、いくらであれば幸福で、いくらならば不幸である、といった具合に、額自体で決まるのではないのだ。実際に、お金持ちとは、いくら以上の所得の持ち主である、と定義されるのではなく、単に「他の人より」お金を持っている人という意味にすぎない。つまり、お金持ちになるには、他の人に貧しくなってもらわなければならないのである。
</p>
]]>
      <![CDATA[<p>
<strong>●経済動向から見た分かち合いの必要性</strong>
</p>
<p>
さらに、景気にはいつも波がある。好景気において、貪りにとらわれ、金に目がくらんだ人は、正常な判断能力を失い、過剰な投資・生産によって、不景気がやってくるのが常である。
</p>
<p>
それだけではなく、最近は、適度な好景気と不景気が循環するいわゆる景気サイクルを逸脱し、世界一二の経済大国である米国と日本で、バブルの崩壊といった、大きな問題が起き、世界を巻き込んで、不景気と物価高を招き、食糧価格と原油高騰は世界中の弱者の生活を直撃していた。
</p>
<p>
そして、短期的な経済動向に限らず、長期的に見ても、今後の地球のさまざまな資源・エネルギー・環境の問題を考えるならば、各国が自由に経済・消費を成長させてよい時代は終わりつつあるように思う。すなわち、一つしかない地球を人類全体で、いや地球の生き物全体で分かち合わなければならないのである。<br />
<br />
</p>
<p>
<strong>●今の時代に幸福になるには</strong><br />
<br />
こうした時代、どうしたらすべての人々が幸福になれるのだろうか。それは、やはり、自分たちに「今すでに与えられている幸福」に気付き、それに感謝して、喜びとすることではないか、と思う。
</p>
<p>
これは何も金銭に関しての問題に限らない。いや、現代の日本人の悩みは、金銭というよりも、「自己存在意義」の欲求ではないかと思う。社会の中で、いかに自己の存在が重要であるか、といった欲求、言い換えれば、自己愛、プライド、地位・名誉などいったものである。
</p>
<p>
しかしながら、この精神的な欲求についても、結局は奪い合いになることは間違いない。自己の存在の重要性とは「他との比較」に基づくからである。それを追求し続けるならば、現代風に言えば、「世界・宇宙のヒーロー」にならないと気がすまない。
</p>
<p>
それが現実の世界では不可能だから、多くのアニメやパソコンゲーム、インターネットなどのフィクションの世界が展開されているが、青少年が、こういった世界に没入して現実から逃避したり、妄想・空想の精神病理的な状態に陥ったり、現実とフィクションが区別できなくなって、犯罪を含めた問題の一因になっているともいわれている。
</p>
<p>
一方、「感謝」によるメリットとは、「皆が得ている幸福」に気付くことだ。先ほどの２０万、２５万、３０万のケースで言えば、この３人は、皆が１５万以上の給料を得ている。それは、所得水準が日本の十分の一以下である発展途上国の人たちから見れば、王侯貴族の所得水準であり、仮に、彼らが日本に来て、それを得れば、大変大きな喜びとなるものだ。
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/nijinowa-thumb-250x187.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="250" height="187" align="left" />
こうして、皆が、「自分が得ていない幸福」ではなく、「すでに得ている幸福」に目をやって、その幸福の「大きさ」に感謝するならば、貪りによる奪い合いではなく、皆が幸福を感じることができるだろう。
</p>
<p>
そして、その感謝と同時に、自分たちよりもはるかに不幸な人たちの苦しみを理解し、彼らと幸福を分かち合うことができるようになれば、世界の幸福はさらに増大するだろう。
</p>
<p>
例えば、先ほどの例では、仮に日本で生きていく上には１５万以上は必要ないとすれば、２０万の人が５万、２５万の人が１０万、３０万の人が１５万を発展途上国の人たちと分け合えば、合計で３０万の支援ができるが、所得水準が日本の１０分の１以下の国の人たちには、３０万は３００万ほどの価値に感じられるものだ。
</p>
<p>
こうして、今すでに自分に与えられている幸福に目をやり、その「大きさ」に気付いて、感謝をなし、そして、自分よりもはるかに不幸な人たちと自分の幸福を分かち合う、という実践は、皆が幸福になる輪（ひかりの輪）が広がっていく。
</p>
<p>
一方、貪りにとらわれ、常に今与えられていない幸福ばかりに目をやり、常に不満を抱き、それを得ようと貪るとともに、自分より幸福に見える人たちに嫉妬を抱き、奪い合いをするならば、皆が不幸になる輪が広がっていく。これは、市場原理主義の競争が激しさを増し、勝ち組・負け組の問題や、精神病・異常犯罪が増える現代社会の一側面ではないか。
</p>
<p>
<br />
<strong>●貪りの捨断と布施の実践＝感謝と分かち合い</strong>
</p>
<p>
最後に、私たち自身がすでに得ている幸福について、仏教的な教義に基づいて考えてみよう。まず、私たちは、他の生き物ではなく、「人間」に生まれた。これは単純に数学的な確率で見ると非常にわずかなことである。
</p>
<p>
次に、「日本」という豊かなだけでなく、他の先進国に比べても安全で長寿の国に生まれたこと。これは６６億のうち１億２千万だから、６０分の１くらいの確率だ。
</p>
<p>
さらに、その日本の中で、貪りと奪い合いに明け暮れるのではなく、感謝と分かち合いを含めた、「仏陀の法」による幸福に対して、縁があって、それを学び、実践する機会に恵まれているのである。
</p>
<p>
これらの幸福に気付いて、自分よりはるかに不幸な多くの生き物や人々の苦しみ・不幸を考えて、自分たちの幸福の大きさをよくかみしめるならば、日常感じている自分たちの苦しみ・不幸は、自分たちの過剰な欲望＝貪りが作り出した幻影のようなものであり、「本当の苦しみ・不幸ではない」と感じられるようになるだろう。
</p>
<p>
そして、それが進めば、自分たちよりもはるかに不幸な人たちに対して、自分たちが非常に冷たかったこと、慈悲がなかったことに気付く。また、自分たちの幸福が、場合によっては、他の幸福の上に成り立っている一面にも気付く。繰り返すが、煩悩的な欲求の追求には、奪い合いの構図があって、自分の幸福の裏側には、他人の不幸があることが多い。
</p>
<p>
例えば、日本を含めた先進国の物質的な繁栄は、その一面において途上国の貧困の上に成り立っているのだ。例えば、世界の食糧が有限である中で、今現在の途上国の食糧不足は、先進国や新興国の飽食に一因があることは、昨今マスメディアでも、よく指摘されるようになった。
</p>
<p>
これに気付いて、自分たちよりはるかに不幸な人たちと、自分たちの幸福を分かち合うことになれば、すなわち、仏教的に言えば、「布施の実践」がなされれば、多くの人が幸福になるだろう。これは、「貪りの捨断」と「布施の実践」であり、言い換えれば、「感謝と分かち合い」の実践である。
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【代表メッセージ】感謝と分かち合い２</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/message/cat243/0052.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/message//26.1281</id>
   
   <published>2008-12-07T12:05:30Z</published>
   <updated>2008-12-09T05:07:49Z</updated>
   
   <summary> 「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="会員向けメッセージ・特別公開" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/message/">
      <![CDATA[<p>
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</p>
<p>
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</p>
----------------------------------------------------------<strong><br />
<br />
<p>
●感謝と分かち合いと、不満と奪い合い</strong><br />
</p>
<p>
前回に引き続き、感謝と分かち合いについて述べたい。
</p>
<p>
「感謝と分かち合い」とは、すでに与えられている幸福で「足る」を知り、それに「感謝」し、その自分の幸福を他と「分かち合う」ことである。その背景には、欲望には際限がなく、足るを知らずに、もっともっと求めて貪ったとしても、幸福にならないことを悟った智恵がある。
</p>
<p>
その反対は、貪りに基づく「不満と奪い合い」の実践である。それは、現在の状態に不満を抱き、まだ与えられていないものを得ようと欲求して、例えば、お金・物、
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/birusora-thumb-250x187.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="250" height="187" align="right" />
プライド、名誉、地位といった外的な条件を良くしようとして、それが際限なく肥大化していくプロセスである。
</p>
<p>
これは、仏教的な表現では、「貪り」であるが、この貪りにとらわれてしまうと、多くの場合、それがうまくコン トロールできなくなって、欲求が肥大化し、他の人との「奪い合い」になる。これは、煩悩的な欲求の対象は有限であって、それを求めることは、本質的には、他との奪い合いの構図を形成してしまうからだ。
</p>
]]>
      <![CDATA[<p>
現在、食料・エネルギー・環境などにおいて、深刻な地球規模の問題を発生させているのも、人類の「消費主義」という貪りと奪い合いであり、へたをすれば、将来は国家間の戦争という激しい闘争・奪い合いに至りかねない。<br />
<br />
</p>
<p>
<strong>●良い意味での欲求も、行き過ぎは害悪となる</strong><br />
<br />
なお、人々を幸福にする向上欲求、改善欲求というものも、貪りではないか、という考え方がある。これは、ある意味ではそうであって、貪りというのは、絶対悪ではない、ということもできる。例えば、私は、上記の深刻な地球規模の問題を作り出した主たる原因である、現代の資本主義文明を全面的に否定するつもりはまったくない。それによって、人類が受けた恩恵は多大である。
</p>
<p>
しかし、すでに誰の目にも明らかであるが、その「貪り」という心の働きの欠点は、それがコントロールできず、際限がなくなり、いわば「貪りの中毒」になってしまい、本人を逆に支配し、破滅に至らせる可能性があることだ。すなわち、人の幸福のための手段であった欲求・貪りなのに、「目的」と「手段」が入れ替わり、人が欲求・貪りの奴隷になってしまうのである。これでは逆の結果になりかねない。
</p>
<p>
よって、修行や衆生済度を含めて、良い意味での向上を求める欲求も、その欲求にとらわれ過ぎると、自分の思う通りにいかないがゆえの、焦りや怒りが生じてしまう。これは空回りを生じさせたり、状況を悪化させたり、悪くすると、大きな問題を起こす。
</p>
<p>
例えば、スポーツや武術でも、適度に力を抜くことや、「勝つと思うな、思えば負けよ」という無我・無心の境地が説かれるのもそのせいである。また、修行でも、身体操作を使う霊的な修行は急ぎすぎると危険である。
</p>
<p>
善を実現する衆生済度・世直し・社会改革といった運動も、焦るあまりに、本人たちは「善」を目指しているつもりなのに、結果的には「悪」になってしまって、自滅するケースもよくある。善を欲求する場合であっても、何ごとも「行き過ぎ」は、害悪となり、冷静に流れを見極めることが重要であり、欲求の奴隷になってはならない。
</p>
<p>
そのためにも、「感謝と分かち合い」は重要である。すなわち、現状が完璧ではなくても、与えられている良い部分・幸福があるはずだから、それに感謝する心のゆとりを持つことが重要である。
</p>
<p>
そして、感謝に基づく分かち合いにおいて、この感謝の精神を多くの人と分かち合っていくことである。これが、過剰な貪り・欲求・不満・奪い合いを回避することになる。
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【代表メッセージ】感謝と分かち合い</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/message/cat243/0051.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/message//26.1280</id>
   
   <published>2008-12-07T10:05:28Z</published>
   <updated>2008-12-09T05:12:26Z</updated>
   
   <summary> 「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="会員向けメッセージ・特別公開" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/message/">
      <![CDATA[<p>
「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上祐史浩（ひかりの輪代表）のメッセージを、公式サイトにも掲載することになりました。
ご紹介するメッセージが、皆さまの日々の生活に少しでもお役に立つことができればと願っています。
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</p>
<p>
お問い合わせは<a href="mailto:mail@hikarinowa.net">mail@hikarinowa.net</a>まで。
</p>
----------------------------------------------------------<br />
<br />
<p>
仏陀の教えを考え直してみると、貪り・怒り・無智を死滅して、「智恵と慈悲」を深めることにその本質があるということがわかる。そして、そのための具体的な実践としては、どうしても「感謝と分かち合い」というものが出てくると思う。
</p>
<p>
貪りとその裏にある怒りを捨断するということは、「足る」を知って、「もっと、もっと」という欲望が満たされない ことによる不満・怒りを抑えることだから、そのためには、「与えられているものの大きさを理解し、なるべく感謝する」という実践がとても有効になると思う。
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/himawarinooka-thumb-250x187.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="250" height="187" align="right" />
そして、それが進んでくれば、「自分のために、もっと、もっと」という気持ちが薄れて、「他のために、自分の持っているものを分かち合う」ということが出てくると思う。これが仏教が説く布施の実践であろう。<br />
<br />
現代社会は、不満と奪い合いの傾向が強まっているように見える。個々人の自己愛や消費の欲望は肥大化し、社会システム全体としても、個々人の精神状態にしても、行き詰まりつつあるように見える。
</p>
<p>
それを超えるための教えは、この「感謝と分かち合い」の実践ではないだろうか。不満と奪い合いは、貪り・怒り・無智の三毒に基づいたもので、感謝と分かち合いは、言い換えれば、「智恵と慈悲」の実践である。
</p>
<p>
感謝と分かち合い。単純ではあるが、非常に本質的な教えではないかと思う。個人としても、団体としても、日常の幸福のためにも、悟りの境地に近づくためにも、今後できるだけ実践していきたいと思う。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【代表メッセージ】王侯貴族の日本人――今の幸福に気づいて分かち合う</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/message/cat243/0050.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/message//26.1278</id>
   
   <published>2008-12-03T01:30:01Z</published>
   <updated>2008-12-03T09:40:34Z</updated>
   
   <summary> （2008年06月29日会員向けメッセージより転載） ●日本人は不幸か幸福か-...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="会員向けメッセージ・特別公開" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/message/">
      <![CDATA[<p>
<br />
（2008年06月29日会員向けメッセージより転載）<br />
<br />
<strong>●日本人は不幸か幸福か--比較による感覚</strong>
</p>
<p>
毎日、新聞で秋葉原などの最近の犯罪などを見ると、日本の国の中では、多くの人が自分が不幸であると感じているように見える。「若年層の派遣労働」や「ワーキングプア」の問題、市場原理主義が強化された社会での「負け組」、毎年７０００人にもおよぶ「経済苦を動機とした自殺」など。
</p>
<p>
しかし日本の中で、自分は貧しいと思っている人でも、途上国の人たちから見ると「王侯貴族」に見えるという話を聞いた。それは確かなことだろう。日本の平均年収は数万ドルにおよび、途上国は、その十分の一から、場合によっては百分の一に近いところさえある。
</p>
<p>
「結局、人は地球全体を見て、自分が幸福か不幸か、ないし裕福か貧しいかを認識するのではなく、近いしい他人と比較してそれを判断するものだ」とある社会学者が述べていたが、それは事実であろう。実際には、近い他人との比較に加え、例えば以前の自分と今の自分の比較などもある。前より豊かになったら「幸福」だし、落ちぶれたら「不幸」と感じるのだ。
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/ani07-thumb-200x133.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="200" height="133" align="right" />
これは、「幸福・不幸」「裕福・貧困」の絶対的な基準があるのではなく、すべては、相対的なものであるということである。すなわち「幸福・不幸」は、人の心が比較によって作り出す主観的なものであり、客観的なものではなく、その意味で実体がない。
</p>
]]>
      <![CDATA[<p>
この「実体がない」という言葉は、仏教では「空」と言われており、「一種の幻影のようなもの」という意味がある。「他と独立して存在する実体がない」という意味で、常に、他との相互関係（例えば上記のように比較）の中でしか存在しないということだ。<br />
<br />
</p>
<strong>●日本人は不幸か幸福か--地球生命圏全体から見て</strong><br />
<p>
では、日本人が幸福か不幸かについて、自分の近くの日本人と比較するのではなく、地球生命圏全体から、客観的に見てみるとどうなるだろうか。
</p>
<p>
地球生命圏には無数の生き物が存在している。一人の足の下には百万の生物がいるともいわれる。その中で、私たちは６６億しかいない「人間」に生まれている。動物に生まれれば、家もなく、雨ざらしで、毎日の食べ物も保障されない。
</p>
<p>
その６６億の中で、私たちは、十数億人しかいない「先進国」に生まれている。途上国には、動物と同じように、家のない人もおり、饑餓や貧困、感染症や戦争による死の危険に常に苦しむ人たちが非常に多い。
</p>
<p>
さらに、私たち日本人は、その先進国の人たちの中で、１億２０００万人の「日本人」の一人として生まれている。この国は、世界最高水準の豊かさに加えて、他の先進国にはない幸福がある。それは、「世界一の寿命（と優れた医療技術）」、そして、主要国では突出した「安全性・治安の良さ（犯罪率の低さ）」である。
</p>
<p>
昨今の無差別殺人などの印象があるので、治安の良さも色あせたように見えるが、まだまだ人種差別などがある欧米各国に比べると、日本は統一のとれた民族性と優秀な警察機構などのおかげで、犯罪率は非常に低い。
</p>
<p>
この日本に生まれる確率は、全人類の中でも６６分の１の「幸運」、地球上の全生命の中では、まさに限りなく「ゼロ」に近い、「奇跡」に近い確率である。
</p>
<p>
その意味で、日本人は地球生命圏の生態系の「最上位・頂点」に位置し、その中のまさに「王侯貴族」であるというのが客観的な事実である。さらに、この文章を読んでいる多くの人は、「五体満足」であることを含めて、日本の中でも恵まれた人たちに入るだろう。<br />
<br />
</p>
<p>
<strong>●日本人のすべてが、幸福・感謝を培う道<br />
</strong><br />
こうして、客観的には、日本人とは、「宝くじに当たったような人生」を得ているわけであるが、１億２０００万人の中で、この奇跡的な幸運に対して、喜びと感謝に満ちあふれた毎日を送っている人はほとんど見当たらない。
</p>
<p>
先進国の搾取などに苦しむ途上国の人たちなどから見れば、本来は「自分たちだけがこんなに幸福でいいのだろうか」と申し訳なく思う面もあってしかるべきだろうが、この国の中では、「自分が不幸である」と感じている人が相当にいる。
</p>
<p>
最近は「負け組」とか「ワーキングプア」というが、それは「日本王侯貴族」の間での話であり、途上国の人たちから見ると、「王族たちの内輪もめ」のたぐいに映るだろう。
</p>
<p>
もちろん私は、こういった日本国内の社会問題を軽んじるつもりはない。市場原理主義による行きすぎた貧富の格差は、適切に是正されなければならないと思う。お金持ちの味方をするつもりなどない。
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/2238021554.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="165" height="132" align="left" />
しかし、今ここで指摘したいことは、ご理解いただけると思うが、そういった「次元」の問題ではない。国内での貧富の格差にかかわらず、日本人のすべてが意識すべき、地球の中での自分たちの位置づけである。それは、日本人のすべてが、人によらず、自分の幸福を感じ、感謝という明るい心を培う道である。
</p>
<p>
一方、貪り・欲望には際限がない。自分より不幸な無数の人たちを見るのではなく、自分より幸福な人たちを見れば、いつまでたっても「幸福」とは感じない。地球生命圏の頂点に立っていても、自分より上ばかりを見れば、自分の「幸福」には一生気づかない。<br />
これは実に恐ろしいことだ。心の病が作り出す「不幸」としかいいようがない。
</p>
<p>
そして、何かを得れば「もっと欲しく」なり、また「それを求める」という無限のサイクルにはまる。これを抜け出すのは、麻薬から抜け出すようなもので大変である。求めても得られない場合や、得ていたものを失うと大きな苦しみを感じる。<br />
特に、何かを得れば、得るまではなしでもいられたのに、得たとたんに生じる執着により、なしではいられなくなるという不思議なことが起こる。
</p>
<p>
日本人が不幸を感じる場合には、こういった、際限のない貪りの中で、前に言ったように、近しい他との比較や、以前の自分との比較によって、そう感じているだけなのである。<br />
これはまさに、貪り・欲望というものに翻弄されている状態ではないだろうか。
</p>
<p>
２１世紀は、「地球規模の問題」に覆われている。資源・エネルギー・環境の問題。先進国を中心とした貪り、過剰な消費は、途上国の人々や他の生物に対して、非常に強い圧迫になっている。
</p>
<p>
よって、いまこそ日本人は、たぐいまれな豊かさ・幸福の元に生まれた事実を自覚し、自分たちの地球の中での真実の位置づけに気づいて、過剰な欲望の追求＝貪りを静めて、地球の無数の人たち、無数の生き物との「分かち合い」の実践に入るべきではないだろうか。
</p>
<p>
具体的な実践のステップを仏教的な言葉で表現すると
</p>
<p>
１．正観・正見解（正しい観察を行う、正しい見解を持つこと）<br />
地球における自分の存在をありのままに見る実践をなし、今の自分の幸福・幸運に気づくこと。
</p>
<p>
２．感謝・ザンゲ（反省）・知足・分かち合い<br />
今の自分の幸福に対する感謝と、その幸福の裏側にある他の生き物・人々に与えている苦しみを反省（ザンゲ）し、貪りを滅して足るを知り、分かち合いの実践をすること。
</p>
<p>
ということになるだろう。
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【仏教講義】仏教講義Ⅰ　第１章　縁起の法　</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/lecturetext/21/post_1.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2010:/lecturetext//31.1936</id>
   
   <published>2011-01-01T03:46:14Z</published>
   <updated>2011-08-20T02:44:54Z</updated>
   
   <summary> 第１章 縁起の法 １　縁起の法の定義 「縁起（えんぎ）の法」は、釈迦牟尼の悟り...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="21世紀のための仏教講義" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/lecturetext/">
      <![CDATA[<p>
<strong>第１章 縁起の法</strong>
</p>
<p>
<strong>１　縁起の法の定義</strong>
</p>
<p>
「縁起（えんぎ）の法」は、釈迦牟尼の悟りの本質といわれる。
</p>
<p>
「縁起」のサンスクリット原語は、「プラティーティヤ・サムトパーダ」であるが、これを解釈すると、「一切のものは種々の因（原因・直接原因）や縁（条件・間接原因）によって生じる」という考えを表す。
</p>
<p>
よって、縁起の法は、「すべての事物は、そのもの自体で独立して存在しているのではなく、他を原因・条件として（他に依存して、他との関係に基づいて）、生起している」と説くものである。
</p>
<p>
なお、ここで「因」と「縁」という言葉が出てきたが、「縁起」は「因縁生起」の略である、とする文献もある。
</p>
]]>
      <![CDATA[<p>
さて、この法の意味をわかりやすく言えば、Ａというものがあったとしても、それは、他のＢなどがあればこそ存在しており、「ＢがなければＡは存在しない」ということになる。
</p>
<p>
言い換えると、「この世のすべてのものは、相互依存によって存在しており、相互の関係によってのみ、現象している」という意味となり、「他から独立して、自分だけでは存在していない」ということである。
</p>
<p>
縁起の「縁」（pratyaya〈プラティヤヤ〉）とは、広い意味では、因と区別せずに用いられ、原因一般、あらゆる条件をいう。
</p>
<p>
一方、狭い意味では、「縁」は、「因」と区別されて用いられ、「因」（hetu〈ヘートゥ〉）が、結果を引き起こすための直接的・内的原因を意味し、「縁」が、これを外から補助する間接的原因をいう。
</p>
<p>
この意味で、縁起の法は、後に詳しく述べるが、因果の法、カルマの法則と同じである側面もある。
</p>
<p>
しかし、縁起の法は、「過去の原因のために未来の結果がある」といった時間的な因果関係に限った法則ではなく、「時間と空間」を含めた、あらゆる事物にかかわる法則として解釈されている。
</p>
<p>
<br />
<strong>２　縁起の法と空など</strong>
</p>
<p>
縁起の法は、ナーガールジュナ（龍樹）などが展開した大乗仏教が強調する、「空（くう）」「無自性（むじしょう）」「仮（け）」という概念と密接に関係し、一体となっている。
</p>
<p>
「空」とは、「固定的実体のない」「実体性を欠いている」という意味である。
</p>
<p>
縁起の法は、「すべてのものは独立して存在せず、他を条件として生起する」と説くが、これは「すべてのものは、それを生起させている条件がなくなれば消滅すること」を意味する。<br />
<br />
そして、縁起の法に基づいて、「すべてのものは、固定的な実体がない＝空である」という結論が導き出される。これは、大乗仏教において、非常に重要な教義である。
</p>
<p>
また、「無自性」とは「自性がない」という意味であり、自性とは「それ自身で独立している実体、孤立的に存在する本体」をいう。
</p>
<p>
そして、縁起の法に基づいて、「すべてのものは無自性である」という結論が導き出される。
</p>
<p>
「仮」とは「仮設・施設（けせつ・せせつ）」とも表現されるが、これは、「仮に設定されたもの」「現象として仮にあること」をいう。
</p>
<p>
より詳しく言えば、「本当にあるものではなく、何らかの基体の上に、仮に設定されたもの、ないしは、その基体に仮に名前を付けられただけのもの」を意味する。
</p>
<p>
そして、縁起の法に基づいて「すべては実体を持って存在しているのではなく、仮に設定されたものである、仮に現象したものである」という結論が導き出される。
</p>
<p>
なお、仏教用語としての「縁起」は、物事の原因（＝結果の前兆）に関する言葉であるため、そこから転じて、「縁起を担ぐ」「縁起が良い悪い」などという風俗や習慣が生じ、神社仏閣が作られた歴史的な背景・伝説を指す言葉にもなった。
</p>
<p>
<br />
<strong>３　私たちのとらえる「現実」は、縁起の法に基づいている</strong>
</p>
<p>
さて、縁起の法が言わんとするところをよく理解するために、私たちが日常生活で「現実」と呼んでいるものが、いかに縁起の法に基づいているかを考察してみよう。
</p>
<p>
私たちが、日常において感じているものは、実際に外界に存在しているものを直接とらえたものではなく、私たちの独自の「五感」を通して入ってきた情報を脳で処理し、それを日常の知性で解釈したものにすぎない。
</p>
<p>
それは、「自分の五感と脳による情報処理」であって、「実際に外界に存在しているもの自体」ではないのである。よって、同じ対象を見ても、「人間の目」で見た場合と、「他の生き物の目」で見た場合は違って感じられるし、「顕微鏡」「電子顕微鏡」で見た場合は大きく違う。
</p>
<p>
仏典では、「同じ水を見ても、神々と人間と餓鬼では大きく違う」と説かれるが、これも同じことである。
</p>
<p>
この意味で、生き物が経験している「現実」というものは、一つしかないものではなく、それをとらえる生き物の側の、さまざまな肉体的・精神的な条件によって、さまざまに作り出されるものである。よって、「現実とは、生き物の数だけ存在する」ということになる。
</p>
<p>
これを言い換えれば、「現実」とは、その「現実」を「観察する側」から独立した実体を有しておらず、「観察する側」が変わるとまったく変わってしまう、固定的な実体を有していないものなのだ。それは、「観察する側」（主体）と「観察される側」（客体）との相互関係によって現れてくるものにほかならない。
</p>
<p>
よって、縁起の法は、「すべての事物は相互に依存しあって存在し、独立した実体を有さない」と説くのである。
</p>
<p>
また、これを理解すれば、「私たちが経験している世界の現実は、私たちの心の現れである」と説く仏教の思想（例えば唯識派の思想）もよく理解できるだろう。私たちがとらえる「現実」とは、私たちの「外」にあるのではなく、私たちの「五感と脳の中の情報処理」の結果として生じる効果にほかならないからである。
</p>
<p>
もちろん、この場合でも、外界には、何もないというわけではない。そこには何かがある。しかし、少なくとも、私たちが感じているものは「外界そのもの」ではない。「私たちが感じているようには、実際の外界は存在していない」のである。
</p>
<p>
この点に関して、参考になる講話として、ラマ・ケツン・サンポ師のチベット密教ニンマ派の経典の解説を引用しておく。
</p>
<p>
「ふつう、人間が現実と呼んで、その中で泣いたり笑ったりしているこの世界は、貪り、瞋り、愚かさなどに汚された人間の心が、つくりだした幻影、夢、かげろうなのである。それなのに人間は、五感や思考がとらえる現実こそが、唯一のよりどころだと思いこんでいる。ところが、現実とはもっと多層的につくられているものなのだ。
</p>
<p>
人間とはちがう心のありようをしているものたち、例えば動物や餓鬼や地獄の住人には、現実がまったくちがう相貌をしている。人にはただの河と見えるものが、餓鬼には膿の河に見える、とヴァスヴァンドゥ（世親）も書いている。現実とは、それぞれの生き物が、彼らの生命条件にあわせて、自らつくりだしているものなのである。
</p>
<p>
現実とは心がつくりだすものである。そうであってみれば、いまあなたがいるこの場所も、三悪趣にいるものたちの心をもって見れば、たちどころに三悪趣の現実に変貌してしまう。同じように、ありきたりの人間の心に束縛されていれば、この場所が同時に浄土であることがわからない。」
</p>
<p>
「私たちが五感でとらえ、日常的な知性でとらえているこの世界は、さまざまな姿、形、現象であふれている。この形やあらわれでつくりだされた現実を、私たちは確かな実体のあるものだと思いこんでいる。ところがその現実とは、水に映った月、幻影、蜃気楼のようなもので、実際その場にはなんの実体もないものなのである。
</p>
<p>
しかしこの虚像にすぎないものが、生き物たちをあざむく恐るべき力をふるっている。目に映る形、耳にきく音、鼻に感ずる匂い、舌の味覚、身体の触感などがあたえる感覚にひきずられ、実体のない現実のふるう幻影にほんろうされ、生き物たちは輪廻におちこんでしまう。それは出口のない鎖の輪のようなもので、生き物たちはその中で浮沈をくりかえしているのだ。」
</p>
<p>
<strong><br />
４　縁起の法の解釈の歴史的な推移</strong>
</p>
<p>
縁起の法は、原始仏教から大乗仏教・密教に至る仏教の変遷の中で、その解釈も大きく変化してきた。
</p>
<p>
まず、原始仏教の時代の縁起説は、「十二支縁起(十二因縁)説」が代表的なものであり、それは、「生き物の苦しみの原因（とその滅尽の方法）」を説くものであった。これは後に詳しく述べる。
</p>
<p>
次に、部派仏教時代には、「業感縁起説（ごうかんえんぎせつ）」が説かれた。これは、縁起の法を「過去世・現在世・未来世の三世にわたる業（カルマ）の因果関係を表すもの」として見る教えとされる。これは後に詳しく述べる。
</p>
<p>
なお、部派仏教時代には、「人（にん）」には実体がないが、人などを構成する物質や心といった客観的な事物「法（ほう）」には実体があるとした。
</p>
<p>
なお、ここでの「人」は、「輪廻の主体」を表すサンスクリット語の漢訳であり、「法」とは、「ダルマ」の漢訳で、このダルマの中には、「事物」という特殊な意味がある。
</p>
<p>
<br />
<strong>５　大乗仏教での縁起の法の拡張--　一切は空</strong>
</p>
<p>
一方、『般若経』などの大乗仏教では、「一切は空」（一切の事物は空である）として、実体的な存在は何一つないとした。ここでの「空」とは、固定的な実体がない、という意味の仏教用語である。そこで、「人」も無我だし、「法」（＝事物）も無我である、と説かれた。
</p>
<p>
なお、ここでの「無我」とは、「我」が、永久不変の本質という意味で、「無我」が、永久不変の本質が「無い」ことであり、すなわち、固定的な実体がないこと＝空と同じ意味となる。そして、この法則は、「人無我」「法無我」といわれる。
</p>
<p>
そして、この空の理論の大成は、ナーガールジュナらによって果たされた。
</p>
<p>
ナーガールジュナは、「あらゆる存在が、縁起によって成立している（すなわち相互に依存しあって存在している）」と明確に論じた。そして、「あらゆる存在を表現する言葉自体まで、縁起によって成立している」とした。
</p>
<p>
こうして、すべての事物において、独立の実体（＝自性）を完全に否定して、「すべては空であり、無自性である」ことを徹底した。
</p>
<p>
<br />
<strong>６　チベット密教が説く、３つのレベルの縁起の法</strong>
</p>
<p>
チベット密教ゲールク派で説かれる縁起の法には、３つのレベルがある。
</p>
<p>
まず、第１のレベルの縁起は、ある原因の結果として生じる事物・現象に関する縁起の法である。すなわち、因果関係のある事物・現象に関するものである。
</p>
<p>
縁起の法の表現に従って言い換えると、ある現象がある原因に依存して生起するという場合の縁起の法であり、具体的に言えば十二支縁起の法である。
</p>
<p>
この十二支縁起の法は、輪廻の中で行われた行為（原因）とその結果を説明するものである。
</p>
<p>
そして、この「十二支」とは、無智（無明）、行為（行）、意識（識）、名称と色形（名色）、６つの（感覚）領域（六処）、接触（触）、感受作用（受）、欲求（愛）、執着（取）、生存（有）、誕生（生）、老衰と死（老死）の１２の項目のことである。<br />
この縁起の法については、後に詳しく述べることにする。
</p>
<p>
なお、この第１のレベルの縁起は、「因果関係にある事物」に適用されるために、「無常な事物」にのみ適用される。しかし、これから述べる第２レベル以降の縁起は、「無常な事物」にも、「常なる事物」にも適用できるものである。
</p>
<p>
<br />
<strong>７　第２レベルの縁起の法</strong>
</p>
<p>
第２のレベルの縁起は、あらゆる事物は、それを構成している部分に依存して（部分を条件として）仮設されたものである、というものである。
</p>
<p>
より詳しく説明すると、まず、この世の現象は、それが精神的なものであれ、物質的なものであれ、部分を持たない事物は存在しない。そして、あらゆる事物は、その部分に依存して、仮に設定（仮設）されたものである、ということである。
</p>
<p>
なお、ここで、「仮設されたもの」という意味を確認すると、本当にあるものではなく、何らかの基体の上に仮に設定されたもの、ないしはその基体に仮に名前を付けられただけのものということである。
</p>
<p>
例えば、「私」というものを例に取ってみると、「私」という全体は、その肉体や心といった部分に依存して存在しており、「私」とは、それらの部分の集合体の総称として、「私」という名前をもって、仮に設定された概念にすぎない。
</p>
<p>
ところが、こうして仮に設定されたものにすぎないのに、実際の人間の感じ方においては、その全体である「私」というものが、あたかも、その部分から独立して存在する、確かな実体のあるものであるかのように錯覚している。<br />
しかし、実際には、全体は、部分から独立して存在しておらず、部分がなくなれば全体もなくなってしまう。例えば、「私」という全体から、「私の身体」や「私の心」といった部分を取り除いていったら、何も残らない。始めから「私」というものがあって、それに属するものとして、「私の心」「私の身体」といった部分があるのではないのである。
</p>
<p>
さらに、その「私」の中の「心」についても同様である。心は、実際には、絶え間なく変化し、一瞬一瞬違う心が現れている。そして、「私の心」とは、それらの無数の心を総称するものとして、仮に設定した概念にすぎない。しかし、通常私たちは、それらの無数の心から独立した、一つの実体のある「私の心」なるものが存在するかのように錯覚している。
</p>
<p>
ところが、厳密に考察するならば、「私の心」の中には、絶えず変化する心を貫いて、まったく変わらない要素は何もない。思考も、感情も、そして、記憶さえも刻々と変化しているのである（記憶が変化していることについては、この章の最後の資料を参照）。
</p>
<p>
こうして、厳密には何の同一性も見いだせない、これらの絶え間なく変化する無数の心を総称して、「私の心」というものを仮に設定した結果、あたかも、これらの無数の心から独立した、一つの実体のある「私の心」なるものが存在するかのように錯覚しているのである。
</p>
<p>
しかし、実際には、「私の心」なるものから、これらの無数の心を取り除いたならば、何も残らない。始めから他から独立した「私の心」があって、その中に、これらの無数の心が属しているわけではないからである。
</p>
<p>
同じように、「昨日の私」と「今日の私」と「明日の私」は、正確に見れば、心身ともに、「すべて違った存在」であって、これらの部分を総称する「私」という全体は、仮に設定された概念にすぎない。しかし、通常私たちは、それらの部分から独立した、一つの実体のある「私」なるものが存在するかのように錯覚している。
</p>
<p>
そして、この錯覚が、大きな問題を引き起こす、と仏教は説く。
</p>
<p>
仮に設定された概念にすぎない「私」を、他から独立した実体を有するものと錯覚してしまう結果として、「私」に対する執着が生じてしまい（我執）、それが、さまざまな苦しみの原因となるのである。
</p>
<p>
なお、仏教教義においては、一般には、「私」とは「色・受・想・行・識」と呼ばれる５つの集まり（＝五蘊）の集合体であり、「私」とは、この五蘊に基づいて、仮に設定された概念にすぎないとする。この中で「色」が肉体にあたり、それ以外の４つが心にあたる。
</p>
<p>
また、物質現象も精神的な現象も、必ず、その部分に分けることができる。肉体を含めて、物質的なものは、必ず、一定の空間を占めており、その空間は、必ず、さらなる「部分」に分けることができる。
</p>
<p>
また、「心」のように精神的なものも、一定の時間を占めているから、例えば、「昨日の私の心」「今日の私の心」などとして、時間において、必ず、それを構成する「部分」に分けることができる。
</p>
<p>
<br />
<strong>８　第３のレベルの縁起の法</strong>
</p>
<p>
さて、第３のレベルの縁起は、「深層のレベルの縁起」とされ、あらゆる事物は、ある基体の上に、「言語」や「概念」によって（「言葉」や「概念」に依存して）仮設されたものにすぎないということを説く。
</p>
<p>
例えば、仮に、「私」と「外界」といった「言葉」をまったく知らない人がいたならば、その人には、「外界」とは別の「私」という認識は生じない。
</p>
<p>
なぜなら、後で詳しく述べるが、物理的に言えば、「私」と「外界」との間には、確たる境界は存在しないからである。両者は、実際には、密接不可分であり、どこまでが私で、どこからが私ではない、といった境界などは存在しない。
</p>
<p>
実際には、「私」というものは、前に述べたとおり、「五蘊」という基体の上に、「私」という言葉によって、仮に設定された概念にすぎない。しかし、「私」という言葉によって、人の意識に生じる概念的・観念的な思考においては、この実在しない区別が、実在するかのように感じられてしまうのである。
</p>
<p>
「山」と「平地」という言葉があるが、物理的には、どこまでが山で、どこまでが平地であるという境界は存在しない。これらの言葉による概念的・観念的な思考が、「山」と「平地」といった事物を、別々のものとして感じさせているのである。
</p>
<p>
このように、ある事物は、その名前によって、あたかも他の事物とは別の存在であるかのように、仮に区別されて設定されているのである。しかし、実際には、すべての事物は、縁起の法が説くように、相互に依存しあって存在しており、他から独立した実体などないのである。
</p>
<p>
そして、ここでの問題は、実際には、言葉によって、仮に区別されて設定されたにすぎないのに、他から独立した固定的な実体を持っているかのように錯覚すると、その対象に執着してしまい、さまざまな苦しみが生じるということである。
</p>
<p>
例えば、「私」というものが、「他」から独立した、固定的な実体を持っていると錯覚するから、「私」に執着して、さまざまな苦しみが生じたり、「他人」よりも「私」を優先して、さまざまな悪業を積んだりするのである。
</p>
<p>
この点に関連して参考になる講話として、ラマ・ケツン・サンポ師のチベット密教ニンマ派の経典の解説を引用しておく。
</p>
<p>
「この世界のあらゆるものは、互いに依存しあって存在している。何ひとつとしてそれだけで孤立しているものはない。だから、この現象の世界には、そのものという固定した実体をもつものなど、一つもないのである。
</p>
<p>
ところが、私たちは言葉を使ってこの現象の世界に名前をあたえようとする。あれは山であり、あれは木であり、これは私であるというように。そのこと自体はこの現象の世界にあらわれている、ありのままの差異をとらえようとする根源的智慧の働きのあらわれであると考えることができる。
</p>
<p>
しかし、いったん名前があたえられると、それだけで山や木や私が、何か固定した実体をもっているように思えてくるのである。言葉を口に出して言わなくとも、それが心にひらめいた瞬間、私たちは世界を固定してとらえる危険に踏み込んでしまう。でも固定した「私」なんていったいどこにあるのだろう。どこからが山で、どこで山が終わるというのだろう。
</p>
<p>
言葉や観念は私たちをとらえて、ありのままの世界とはちがう、こわばった世界をつくりあげる力をもっている。私たちはそこで固定した「私」に執着するようになる。「私」が年老いて死んでいくことを、恐いと思うようになる。愛していたものが消えていくことを深く悲しむ。
</p>
<p>
でもそれは、ありのままの世界に素手でふれあうことができず、夢や幻影のような観念の世界にとらわれていることから起こる恐れであり、悲しみである。この幻影のベールをとりのぞくことができた時、私たちの前には、つねに動いてやむことのない、ありのままの世界の壮大な光景がたちあらわれてくる。そこには限りない喜びがあふれている。」
</p>
<p>
この点については、「私の体」、「私の心」といった事例をあげて、後でさらに詳しく述べたいと思う。
</p>
<p>
<br />
<strong>９　十二支縁起</strong>
</p>
<p>
仏陀は、『稲竿経（とうかんきょう）』において、次の３通りの表現を用いて、十二支縁起を詳述しているという。
</p>
<p>
（１）これがあることによって、かれがある。
</p>
<p>
（２）これが生じることによって、かれが生じる。
</p>
<p>
（３）無智によって、行為（行）が生じ、行為によって、意識（識）がある。意識によって名前と色形（名色）がある。名前と色形によって６つの感覚領域（六処）がある。６つの感覚領域によって接触（触）がある。接触によって感受作用（受）がある。感受作用によって欲求（愛）がある。欲求によって執着（取）がある。執着によって「生存」と呼ばれる成熟した業（有）がある。生存によって誕生（生）がある。誕生によって老衰と死（老死）がある。
</p>
<p>
これは、仏教思想の特徴を示している。仏教は、この世の現象を創造したものとして、絶対神を主張（強調）したり、この世に永久不変なものが存在するとは説いたりしない。インドのサーンキャ哲学が説く、永久不変である真我と自性などは説かない。
</p>
<p>
代わりに、一切の現象は、原因・条件によって生じた（＝縁起した）ものであると説き、この世のすべての現象は、無常な原因によって生じている、無常な現象であるといった考え方を採る。
</p>
<p>
そして、具体的に輪廻の事物は、どのような無常な原因や条件によって生じているか、というのを説明したのが、「十二支縁起」である。
</p>
<p>
<br />
<strong>10　「無智（無明）」は輪廻の根本原因</strong>
</p>
<p>
さて、十二支縁起の最初の「無智（無明）」とは、諸事物（諸法）の実相を理解していないこと、すなわち、「すべてのものが空（くう）であること（空性）」を理解していないことを意味する。
</p>
<p>
言い換えると、これは、「ものが現実にはいかに存在しているか」についての無智であり、物事をその真の様相とは反対のものとして認識する誤った意識である。
</p>
<p>
ナーガールジュナは、「原因と条件によって生じたにすぎない事物を真実に存在するものである、と執着する意識は、仏陀によって&quot;無智&quot;と呼ばれている。この無智から縁起の十二支が生じるのである。」と述べている。
</p>
<p>
無智に覆われていると、この世のものは、確たる存在であるように感じられる。しかし、真実は、空＝固定的な実体がないのである。すべてのものは、そのもの自体で独立して存在せず、他の原因や条件に依存しており、そのため、絶えず変化している、無常で固定した実体のないものである。
</p>
<p>
なお、ここでの「空」とは、まったく何もない、まったく存在しない、という意味ではない。それは、「実体を持って存在しているのではない」という意味である。よって、それは、「幻影のようなもの」であって、目には確かに見えても、そこには実体はなく、執着に値しないものである、ということになる。
</p>
<p>
<br />
<strong>11　２つの無智</strong>
</p>
<p>
無智は、２つのタイプに分けられる。
</p>
<p>
１つ目は、「私」などと呼ばれる、「輪廻の主体」が、実体的な存在である、と錯覚する無智である。これを「人我執」（にんがしゅう）という。なお、ここで、人我執の「人」は「輪廻の主体」を意味し、「我」は「実体的な存在」を意味する特殊な訳語である。
</p>
<p>
もう一方のタイプの無智は、「あらゆる事物」を、実体的な存在であると錯覚する無智である。これを「法我執」という。なお、ここで、法我執の「法」は「事物」を意味する特殊な訳語であり、「我」は上記のとおり、「実体的な存在」を意味する。
</p>
<p>
先に解説したが、部派仏教などでは、「輪廻の主体に実体性を認める意識」（人我執）は否定する一方で、「事物に実体性を認める意識」（法我執）は肯定したが、大乗仏教は両方とも否定した。
</p>
<p>
さて、「輪廻の主体に実体性を認める意識」は、「心身を構成する５つの集まり（五蘊）である身を、実体的な存在であるととらえる誤った見解」（有身見）を含むものである。
</p>
<p>
これについて、ナーガールジュナは、「自分の身体を、なにものからも自立して存在するものとする、生来の誤った見解＝有身見が、輪廻の根本的な原因である。それは、（中略）&quot;自己&quot;という名前が付けられる基体となっている、心身を構成する５つの集まり（五蘊）を、実体的な存在として錯覚し、執着するところから生じるものである。」と述べた。
</p>
<p>
<br />
<strong>12　仏教の漢訳語としての「我」「法」の特殊な意味</strong>
</p>
<p>
なお、ここでの「我」という言葉は、「私」とか「私たち」といった普通の意味ではなく、サンスクリット語の「アートマン」（atman）の漢訳語であり、「実体的な存在」とか、「ある存在を、そのものたらしめている永久不変の本質」のことを意味することである。いわゆる「真我・真実の自己」とも呼ばれるものである。
</p>
<p>
そして、仏教以外のインドの哲学（ヒンドゥー・ヨーガなど）においては、個人の根本として、永久不変の「アートマン」（我）を認めたが、仏教は、そのような「我」は否定したのである。仏教では、「実際には、一切は空であり、そういった&quot;我&quot;は、一切存在しない」と説いたのである。
</p>
<p>
ただし、後で詳しく述べるが、アートマン・真我の存在の否定は、仏教の伝統的な主流の教義においての話であって、釈迦牟尼自身がアートマン・真我を否定したか、という点になると、当時の釈迦牟尼の言説を調査・研究する専門家の間で、異論を唱える人たちが少なからずいる。
</p>
<p>
次に、ここでの「法」とは、教えとか法律という意味ではなく、「事物」を意味する漢訳語であり、サンスクリット語では「ダルマ」である。
</p>
<p>
というのは、サンスクリット語のダルマには２つの意味があり、１つが、よく知られている「仏陀の教え」としてのダルマ・法則という意味であり、もう１つが、「あらゆる存在・事物」という意味なのである。ただし、中国の漢字の「法」という文字には、一般には、後者の意味（存在・事物）はない。仏教用語の「法」のみに、後者の意味があるのである。
</p>
<p>
これに関連して、仏教には「諸法無我」という教えがあるが、これは「すべての仏陀の教えには、私はない」という意味では決してない。それは「すべての存在・事物には、永久不変の本質はない、実体はない」という意味である。
</p>
<p>
<br />
<strong>13　五蘊について</strong>
</p>
<p>
ここで、心身を構成する５つの集まり（五蘊）について解説しておこう。<br />
<br />
五蘊とは、「５つの集まり」といった意味で、仏教では、心身を構成する５つの集まりをいい、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊と漢訳されている。
</p>
<p>
「色蘊」とは、「色の集まり」という意味だが、この「色」とは、色・形あるもの、という意味で、仏教では、物質的存在の総称である。よって、例えば「肉体や血液など」を意味する。
</p>
<p>
「受蘊」とは、「感覚の集まり」の意である。「受」とは、眼（視覚）・耳（聴覚）・鼻（嗅覚）・舌（味覚）・身（触覚）・意識を通して生じる苦楽等の感覚・印象のこと。いわば「知覚作用」とも表現できる。
</p>
<p>
「想蘊」とは、「表象作用の集まり」の意である。「想」とは、心の働きの一つで、事物の形象を心の中に思い浮かべることを意味する。「表象作用」とか「イメージ」と訳することができる。
</p>
<p>
「行蘊」は、訳が難しいが、ダライ・ラマ法王は、「形成力の集まり」と訳されている。
</p>
<p>
この「行」は、「行為」とも訳されることがあるが、この「行為」と「形成力」は不可分のものであり、何らかの行為がなされた際に、その行為の後も、未来において何らかの現象を形成する潜在的な力（＝形成力）が生じる、と考えられている。
</p>
<p>
これは、まさに、仏教に限らず、インド哲学の一般が説く、業（カルマ）の法則のことであるが、仏教教学では、行は、業（カルマ）の一部とされることがある。<br />
<br />
この「行」と訳されるサンスクリット原語は多数あるが、この文脈の「行」の原語は、samskara（〈サンスカーラ〉形成力、形成されているもの）とか、samskrta（〈サンスクリタ〉形成されたもの、有為）と思われる。
</p>
<p>
「識蘊」の訳としては、ダライ・ラマ法王などは、識を「意識」と訳し、「意識の集まり」と訳されている。ただし、この「意識」という訳は必ずしも一般的ではなく、「識別」と訳される場合もある。
</p>
<p>
『岩波仏教辞典』（岩波書店、第二版版、2002）によれば、「識」の原語は、「（区別して）知ること」などを意味するとされている。こうして、「識」という言葉のニュアンスとして、人が、言葉などで、何かを他から区別して認識する作用が含まれていると思われる。そのため、『岩波仏教辞典』では、識を「認識作用」などと訳している。
</p>
<p>
<br />
<strong>14　欲望や怒りの原因に、自己の実体視・固定化がある</strong>
</p>
<p>
仏教では、私たちの欲望や怒りを吟味すると、それらが、自分自身を、非常に固定したものとして考えて、「自分」に執着すること（我執）から生じていることがわかる、と説く。
</p>
<p>
その「自分」の「固定化」のため、自と他の間に、強い「線引き」が行われ、ある者に愛着を感じ、他の者に怒りを覚えるようになる。
</p>
<p>
仮に、自分自身というものが、老い、病み、死んでいく、無常で、固定的な実体がないものであることを深く理解し、自分自身に執着していなければ、その自分のために、他と争って、がつがつとお金や名誉・地位を得ようとすることはないことがわかるだろう。
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<p>
こうして、このように「欲望」や「怒り」は、「自分」を「固定した実体のある確たる存在」として「過大視」し、執着することに根本的な原因がある。
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<p>
ただし、たとえ「自分には、固定的な実体がない」とはいっても、「自分」「私」といった行為の主体、すなわち、業を積む主体が存在することは事実である。そして、この「私」が、これらの業の結果として、苦その他もろもろの結果を引き受けている。
</p>
<p>
しかし、問題は、私たちの心が、実際に存在しているもの以上に、実体的な「私」を感じてしまっていることである。
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<p>
実際には、「私」というものは、単に「心身を構成する５つの集まり」（五蘊）に依存して、「私」という名前が付けられて、仮に設定されたものにすぎない。
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<p>
それ自身が他から独立した固定的な実体を持っているわけではない。しかし、人は、日常において、あたかもそのように感じてしまっているのである。
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<br />
<strong>15　身体に実体がないこと</strong>
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<p>
では、「私」というものが、他から独立した固定的な実体を持っているわけではない、という点について、より深く考えてみよう。まず、私を構成する五蘊＝色・受・想・行・識のうち、身体に相当する「色蘊」について検討する。
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<p>
私たちが、自分の五感と日常の意識でとらえている「身体」は、「肉体」と呼ばれているように、「一つの肉や骨などの固まり」であると感じられる。
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<p>
一方、仏教では、身体は「色蘊」と言われ、その意味は、さまざまな物質的な要素（＝色）の集まり（＝蘊）を意味する。
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<p>
そして、身体を厳密に観察すれば、確かに、それらは、「一つの肉や骨などの固まり」ではなく、さまざまな物質的な要素の集まりであることがわかる。特に、現代に生きる私たちは、この点を理解する上では、釈迦牟尼の時代よりも恵まれており、科学の知識や科学の目の力を借りることができる。
</p>
<p>
私たちの身体は、実際には、「さまざまな細胞の集まり」からできている。この様子は、顕微鏡を通して見ることができる。そもそも、私たち人間の「肉眼」というものは、あまり正確・厳密な観察・認識をする能力はない。これは重要なことで、肉眼に限らず、私たちの五感は、正確・厳密な観察ができず、それどころか「錯覚」を与える。
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<p>
そして、細胞は、生まれてから死ぬまで、まったく変わらないかというと、当然そうではない。体の中の細胞の多くが壊れ、新しい細胞が作られている。科学者によれば、人間には約６０兆の細胞があり、毎日３０００億から４０００億の細胞が死んで、同じ数の細胞が生まれている。
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なお、神経細胞のように、一生再生されない細胞もあるが、しかし、その細胞を構成している分子自体は、絶えず入れ替わっており、科学者によると、１年ほどすると、私たちを構成している細胞の分子はすべて入れ替わってしまうという。
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<p>
こうして、私たちの身体は、分子レベルでは、非常に流動的で、固定的ではないことがわかる。すなわち、「私の身体」と言ったとしても、「私の身体」を構成する「私だけの分子」というものは存在しないのである。
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私たちは、地球生命圏を循環する無数の分子を、他の生き物と絶えず交換・共有しながら生きており、「私だけの身体の分子」などは、持っていないのである。
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こうしてみると、「私」というものが、他から独立した固定的な実体を持っているわけではない、という仏教の教えがよく理解できるだろう。「私」と「他者」の区別はつかず、しかも、非常に流動的で非固定的な存在なのである。
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<p>
さて、分子レベルよりもさらに根源的な「素粒子」のレベルで身体を観察すると、この分野を探求する量子力学によれば、すべの物質は、物質性・粒子性だけではなく、宇宙全体に広がる波動性を有しているとも主張する。そうなると、「私」と「他人の身体」の区別はますますなくなってくる。
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こうして、私たちは、日常において、「自分の身体」が、「他の身体」と独立した、固定的な実体を有していると感じているが、実際にはそうではないのである。
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<p>
それは、私たちの感覚器官が、粗雑で不完全であり、対象を厳密に認識できないことや、私たちの日常的な知性が、「私」といった言葉や観念にとらわれてしまっていることから生じている「錯覚」なのである。
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<br />
<strong>16　無智の本質＝人の世界の感じ方と、世界の実際のあり方の違い</strong>
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<p>
こうして、「私」というものは、私たちが普段感じているようには、実際には存在していないのである。それは、普段は、実体のある具体的なものと感じられるが、考察すれば実体がないものだとわかる。
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これに関連して、仏教では「人生は幻である」というが、正確には「幻と似ている」ということである。すなわち、何も存在しないというのではなく、「人が感じるようには存在していない」という意味なのである。
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科学の世界では、人の感じ方と、実際の事物の存在の仕方が大きく違うということは、よく認識されていることである。しかし、日常の私たちは、このことによく気づいておらず、自分たちの五感と日常の知性で感じている世界が、実際の世界である、実在していると思い込んでいるのである。
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<p>
こうした、私たちの世界の感じ方と、実際の世界のあり方の違いの中には、さまざまなものがあり、これが、人の苦しみの原因となる。
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その中でも、例えば、実際には「苦しみの源」である煩悩が、一見すると「快楽の源」と見える、ということは非常に重要である。
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煩悩的な欲求の対象は、一見すると、私たちに「快楽」を与えてくれるように見えるが、実際には、その快楽は「苦しみの源」になるのである。
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すなわち、快楽は、快楽だけで独立して存在し、苦しみと関係がないものではなく、快楽は苦しみと相互に依存しあって存在している。すなわち、苦しみがあるから快楽があり、快楽があるから苦しみがあるという構造になっている。
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さらに、時を経て、快楽は苦しみに、苦しみは快楽の原因に変わっていく。こうして、快楽や苦しみは、相互を原因として縁起したものであり、実体がないのである（これについては後で詳しく述べる）。
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<p>
また、実際には「無常なもの」なのに、「永久のもの」と見えるということがある。特に、人の感覚器官は、ゆっくりとした変化は認識できないから、あたかも、変化しないもの、無常ではないものと「錯覚」してしまうのである。
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こうして、非常に重要なこととして、事物の真実のあり方と、人の感じ方の間には違いがあり、これが仏陀が説いた「無智」の本質である。すなわち、無智とは、人は、事物が実際に存在しているようには感じないという問題なのである。
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修行者は、これをよく理解し、自分が事物を実際とは違ったように感じているということに努めて注意し、教えに基づいて、できるだけ事物をありのままに理解する努力をするべきである。それが、仏陀が説いた、無智を止滅し、煩悩と苦しみを止滅する修行の本質である。
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<br />
<strong>17　人の五感と日常の思考の作り出す錯覚</strong>
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こうしてみると、人の五感と日常的な意識・思考が、私たちに、世界のありのままの理解を妨げている部分があることがわかる。
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そして、十二支縁起の法では、この五感と意識は、六処（６つの感覚領域）と呼ばれている。そして、それは、無明（無智）に基づく、行（行為）と識（意識）と名色（名称と色形）によって生じるとされている。<br />
すなわち、人の五感と日常的な意識・思考は、そもそもが「無明に基づくカルマ」によって作られたものであると位置づけられている。よって、当然だが、それは、信頼できないし、執着に値しないのである。
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そして、十二支縁起は、六処が形成された後について、次のように説いている。
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<p>
まず、六処が、外界と接触することを「触」という。その結果生じるのが、「受」（五感と意識を通した知覚作用）である。それは対象に対する好き嫌いの感情を含んだものである。
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<p>
そして、その結果、対象を求める「愛（欲求）」が生じ、対象にとらわれる「取（執着）」が生じ、その後の苦しみの原因を作るのである。
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<p>
こうして、人の五感と日常的な意識・思考は、欲求・執着をもたらし、苦の原因を作る、とされている。そして、その原因は、その人の五感と日常的な意識が形成された根本原因が、無明（無智）のカルマだからである。
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<p>
実際に、科学的に考察してみても、先ほど言ったように、人間の五感による認識は、非常に粗雑であり、対象の実態を正確に把握できない面がある。
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<p>
例えば、肉眼で肉体を見ても、肉体の「色形」は認識できるが、それを構成している分子の存在や、その分子の活発な出入りの動きは認識できない。そのため、自分と外界、自分と他の生き物が、同じ分子を絶えず共有・交換しているということはまったくわからない。
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<p>
このため、自分が他から独立して存在しているように思えてしまい、すべての事物が、相互に依存しあっており、他から独立していないと説く、縁起の法の真実がわからなくなる。
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自と他の区別がないことは、あらゆる対象に当てはまる。この世界はすべて原子・分子でできており、自分と他人はおろか、生物と無生物といったものの間にさえ、実際には、明確な境界などは存在しない。縁起の法が説くように、すべては相互に依存しあって存在している。しかし、人間の五感は、これが認識しにくいのである。
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<p>
また、人間の五感や意識はその対象が変化しているという事実についても、十分緻密に認識できない性質がある。特に、その変化が微小である場合や、変化は大きくても、そのスピードが遅い場合である。
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そのため、縁起の法や空の思想が説く、すべての事物には固定した実体がない、という点を理解しにくい性質がある。
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例えば、人の目には、人の体は、今日と１日前では、まったく変わっていないように見えるが、微細・緻密な観察をすれば、分子レベルに限らず、より粗雑なレベルにおいても、人の体は、刻一刻と相当に変化している。
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<p>
ところが、人の肉眼による認識は、ある程度の変化があって初めて、変化を認識する性質があり、そのため、例えば「あの人は近ごろ、急に老けた（ふけた）」とか、「まだまだ若いと思っていたが、近ごろ急に体力がなくなったと感じる」といったことがある。
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<p>
また、この逆に、対象の変化が早すぎても、その対象の実態を理解できない場合がある。例えば、１秒間に２４コマのフィルムが連続して映写されると、それが２４コマのフィルムであるとは見ることができず、一つの物が動いていると錯覚する。これが、動画映像の原理である。
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<p>
こうして、縁起の法によれば、すべてのものは、①他から独立しておらず（非独立）、②固定的な実体がない（流動的）にもかかわらず、私たちの五感は、①独立していないものを独立しているように錯覚し、②固定的ではないものを固定的であるかのように錯覚するというゆがみがある、ということである。
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<p>
そして、私たちは、①自と他の区別などないのに区別があると錯覚して、自分だけに執着し、②さらに、無常である外界を固定的なものであると錯覚し、その中の何かに愛著したり怒ったりする、ということが起こっているのである。
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<p>
よって、私たちは、人間の五感と日常の意識というものが、自分たちを欺く傾向がある、ということを理解しなければならない。そして、これを修習するための瞑想法が、今解説している十二支縁起の法であり、また四念処・五蘊無我の中の「受（感覚）は苦なり」といわれる教えである。
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<br />
<strong>18　四念処・五蘊無我</strong>
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<p>
「四念処」は、①身体、②感覚、③心、④もろもろの事物について、それをよく考察して、それぞれが不浄であり、苦しみであり、無常であり、固定した実体がないということを観想し、それらに対する執着を止滅する瞑想である。
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<p>
まず、「身体」については、身体が「不浄」であることを瞑想する。
</p>
<p>
私たちは、自分や異性の身体（肉体）に執着するが、それをよく考察すると、若く美しい身体でさえ、その内部には、さまざまな臓器がグロテスクに詰まっており、便・尿・汗などの汚物が排出される事実がある。
</p>
<p>
また、時とともに、どんなに美しい人の体も、老い、病み、しわくちゃになり、醜くなって、さまざまな苦しみをもたらしながら、最後には、死んで骨だけが残る。
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<p>
こうして、私たちが、肉体について、日常の意識では見ていない「苦しみの部分」をしっかりと意識することで、肉体に対する執着を取り除くのである。
</p>
<p>
次に、「感覚」については、感覚が「苦しみ」であることを瞑想する。
</p>
<p>
まず、先ほども述べたが、人の感覚は、実体のない現象に実体を錯覚させるという問題がある。
</p>
<p>
十二支縁起が説くように、感覚は、そもそも無明のカルマが作った六処（６つの感覚領域）によるものであって、それを通した錯覚によって、私たちは、欲求・執着を生じさせて、さまざまな苦しみをもたらす。
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<p>
また、感覚を通して、私たちは、快楽を感じるが、同時に、嫌いなものを感じなければならない。快楽を貪るならば、「苦しみ」も強くなるのが貪りである。
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<p>
そして、老い病む中で、感覚は徐々に弱くなり、感覚による快楽は失われ、逆に、「苦しみ」が増大し、最後には、死に至ることになる。
</p>
<p>
そして、「心」については、心が「無常」であることを瞑想する。
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<p>
人は、「私の心」などといって、自分の心を固定的にとらえているが、実際には、心は絶えず移り変わっている。
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<p>
心に浮かぶ自分の思いも考え方も、常に移り変わっており、これが「私の心である」と呼べるような一つの心などはない。
</p>
<p>
そして、快楽を満たした場合の心の働きを見ると、その時は心に喜びが生じるが、その喜びは、確実に「苦しみ」に変わっていく。なぜならば、もっと快楽を求めようとする心や、手に入れた快楽を失いたくないという執着などが生じるからである。
</p>
<p>
そして、人の意識の対象となる「もろもろの事物」については、それらが「無我」であることを瞑想する。
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<p>
すなわち、あらゆる事物は、他から独立した固定した実体がなく、永久不変の本質を有さない。これについては、まさに縁起の法が説くところである。
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<p>
それらに実体があるように感じられたとしても、それは、五感や言葉に基づく日常的な思考によって、実体があるように錯覚しているにすぎない。
</p>
<p>
さて、「五蘊無我」の場合は、瞑想の対象が、「私」を構成している五蘊＝色・受・想・行・識になる。
</p>
<p>
すなわち、私の「肉体」「感覚・知覚作用」「イメージ・表層作用」「行為の結果の潜在的な形成力」「意識・識別・認識作用」である。
</p>
<p>
そして、その５つのそれぞれについて、無常であり、苦しみであり、固定した実体がなく（空）、永久不変の本質を有さない（無我・非我）ことを瞑想するのである。
</p>
<p>
<br />
<strong>19　「心」にも固定した実体はない</strong>
</p>
<p>
さて、先ほどは、「私」を構成する五蘊の中で、色蘊＝身体について考察したが、それ以外の４つ＝受・想・行・識について、同じように考察してみよう。この４つは、身体ではなく、心を構成するものだとされている。
</p>
<p>
まず、私たちは、日常の感覚では、「私の心」というように、「私」には、「一つの心」があるかのように感じている。
</p>
<p>
しかしながら、心を正確に考察すれば、心は、絶えず変化している。私たちの思考や感情は、絶えず変化しており、いっときも以前と同じではない。
</p>
<p>
また、心を上記のように、受・想・行・識の４つの要素に大別して考察しても、その４つの要素は、それぞれが絶えず変化しており、それ故に、「無数の要素の集まり」であることがわかる。そもそも、五蘊の「蘊」とは「集まり」という意味である。
</p>
<p>
釈迦rs2.jpg　「受」（蘊）とは、五感と意識を通した外界の知覚作用のことであるが、この知覚作用は、絶えず変化している。いっときたりとも、同じことを知覚し、同じことを感じることはない。こうした「多くの知覚作用の集まり」を「受蘊」と呼んでいるのである。
</p>
<p>
「想」（蘊）とは、外界の知覚作用ではなく、心の中のイメージ（表層作用）のことであるが、人が心の中に何かのイメージを抱く場合、厳密に考察すれば、いっときたりとも同じイメージを抱いていることはなく、それは瞬間瞬間に変化していることがわかる。この「多くの表層作用の集まり」を「想蘊」というのである。
</p>
<p>
「行」（蘊）とは、先ほど説明した、何らかの行為がなされた際に生じる形成力のことであるが、これも絶えず繰り返される行為（身体、言葉、意識の行為）の数だけあり、絶えず変化しており、この「多くの行為の集まり」を「行蘊」と呼んでいるのである。
</p>
<p>
「識」（蘊）とは、先ほど説明したように、意識・識別・認識作用のことであるが、いうまでもなく、この意識・識別も、絶えず変化しており、この「多くの意識・識別・認識作用の集まり」を「識蘊」と呼んでいるのである。
</p>
<p>
こうして、人の心・精神的な要素を分析すれば、「これが私の心である」と呼べるような、一つの固定的な心があるのではなく、絶えず変化し続ける無数の心があり（詳しくは、無数の知覚作用・表層作用・形成力・意識〈識別〉があり）、固定的な実体はないことがわかる。
</p>
<p>
それだけではなく、もう一つ重要な事実として、「私の心」と「他の心」の間には明確な境界はないということができる。
</p>
<p>
すなわち、縁起の法が説くように、「自分の心」についても、他から独立した固定した実体はないのである。これについて考えてみよう。
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<p>
<br />
<strong>20　他と独立した「私だけの心」というものもない</strong>
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<p>
まず、私の思考は私だけで作ったものではない。生まれてから今までに、他から与えられた、さまざまな教育・情報に基づいて形成されたものである。
</p>
<p>
そもそもが、人の思考の土台となっている言語自体が、親をはじめとする他人から与えられたものであり、そうして習った言語を土台に、さまざまな情報を外から取り込んで、人は思考している。よって、いかなる人にも、自分だけの思考などは存在しない。
</p>
<p>
そして、この言葉による思考というものが、先ほど述べたように、実際には他から独立した実体などないものを、独立した実体があるかのように錯覚させるのである。すなわち、私たちは、幼少のころから、親たちと同じように、言葉による誤った認識をするように教育されているのである。
</p>
<p>
その意味で、私たちと、私たちの親の心の働きは、ともに言葉による概念的・観念的な思考による影響を受けており、私たち自身は、親とは違った心の働きを持っていると思っているが、両者は、仏陀の目からすれば、非常に似通った性質を持っている、ということになる。
</p>
<p>
こうして、私たちは、他の人々、言葉による概念的・観念的な思考を共有しつつ、それに加えて、さまざまな思考・情報が、言葉や文字を通して、絶えず、「他」から「自分」に入ってくるし、「自分」からも、「他」に対して出ていくのである。
</p>
<p>
こうして、「自分」と「他人」の思考・情報は、互いの中で、絶えず混じりあって、人類の歴史の中で、思考・情報の交換は、ずっと続いてきた。その意味で、私たちの社会の中では、無数の人間が、互いにさまざまな影響を与えあい、いわば反響しあって、渾然一体となって存在しているのである。
</p>
<p>
よって、自分と他人の思考・心の関係は、個々人が自覚するよりも、実際には、はるかに深い「つながり」がある。
</p>
<p>
さらに、人の思考や感情といった精神的な要素は、言葉や文字を通さずに、人と人の間で、直接交わりあう性質を持っている。
</p>
<p>
例えば、言葉によらず気持ちが伝わる「以心伝心」や、多くの人々がいる場全体の「空気」や、ある場所の「エネルギー」の影響を受ける、といった私たちの体験は、人をはじめとする生き物の「心」・「精神的なエネルギー」が、言葉を媒介とせず、そのもの自体で交わりあう性質があることを示している。
</p>
<p>
さらに、物質によっても心が交わりあう、という見解がある。「記憶する心臓」などに関する見解や、仏教・密教の秘儀伝授の教えによれば、その人の肉体を構成する物質は、その人の精神・性格のデータを宿している。
</p>
<p>
よって、日々、呼吸・飲食・排泄などで、無数の原子分子を自分と他人の間で交換する中で、私たちの心は互いに交わりあっており、すべての人々・生き物が、心においても、地球全体に広がっている何らかの精神的な要素を共有している、ということになる。
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<p>
こうして、普段「これが私の心である」と思っているものも、実際には、自分だけのものではなく、他の人・生き物と交わったものであり、地球（ないし宇宙）全体の生き物たちの心が、互いに影響しあっている。
</p>
<p>
これが、例えば、その時代の「社会の空気」とか、「時代精神」と呼ばれるものを作り出しているのではないだろうか。
</p>
<p>
こうして、思考や心においても、実際には、「私」と「私以外」の区別・境界は存在せず、その意味で、他から独立した私の考え・私の心といったものは存在しない。私の考え・私の心は、常に他のそれと連動して、絶えず変化しているものである。
</p>
<p>
にもかかわらず、日常生活の中で、私たちは「これは、私の考えであり、他の考えではない」といった思い込みを持っている。これは、「私」「私の考え」という言葉を用いる中で、あたかもそれが存在するかのように錯覚してしまっているのである。
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<p>
それは実在せず、「私」という言葉や概念に基づく思考をする人間の心の中にのみ現れる観念であって、錯覚なのである。
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<p>
<strong><br />
21　無智が、欲望と怒りを生み出す</strong>
</p>
<p>
「欲望」（貪り）には、さまざまな種類や段階がある。
</p>
<p>
最初の段階では、対象は単純に意識に現れる。このときには「欲望」はまだ生じておらず、単に「認識」されている。次に、「これは本当にいいものだ」と感じ、「それが欲しい」という感情が生まれる。さらに、「その品物を買おう」と決めて、買って、それを自分のものとして愛玩するようになると、これが３番目の段階になる。
</p>
<p>
最初の段階では、対象が（実際には実体はないが）「実体的な存在」として意識に現れ、２番目の段階では、「対象に実体があるという認識」に基づいて、「欲望」を引き起こし、３番目の段階で、「自分のもの」としたときに、意識は、それを「非常に価値のあるものである」と思い、「強力な所有観念」に巻き込まれる。
</p>
<p>
３番目の段階では、２つの無智から生じる執着が一体となるので、執着・欲望が高まることになる。その２つとは、「対象に、実体を錯覚して素晴らしいと思う執着」（我所執〈がしょのしゅう〉）と、「自分自身に、実体を錯覚して愛著する執着」（我執〈がしゅう〉）である。
</p>
<p>
同じことは「怒り」にも当てはまる。第１に、対象が「実体的な存在」として意識に現れ、第２に、その「実体を錯覚した意識」に基づいて、「これは本当に悪いものだ」と思い、「怒り」が生じる場面に至り、第３に、それが「自分自身に害をもたらす可能性がある」ように思われたとき、さらに、「より強い怒り」へと展開する。
</p>
<p>
こうして、対象が実体として存在していると思い込む「無智」は、「欲望」と「怒り」の両方を助長する。このように無智（無明）は他の煩悩の根本となっている。仏教の三毒（無智・貪り・怒り）の根本には無智がある、ということである。
</p>
<p>
<br />
<strong>22　行（行為）、識（意識）、名色（名称と色形）などについて</strong>
</p>
<p>
このような無智によって、十二支縁起の２番目の項目「行為」が生じる。行為は苦しみ、楽しみなどといった効果を生み出すので「形成力」とも呼ばれる。行為は新しい結果を生み出す一連の流れの端緒となる。
</p>
<p>
命あるものによって行為がなされると、それは心に「潜在力」（習気〈じっけ〉）を生じる。この「潜在力」（ないし「その行為が過去のものとなった状態」）は、その結果を生じるまでは消滅することなく、潜在的に存続し続ける。
</p>
<p>
行為は、いったんなされるや、その結果を生じるまで、消滅することなく、意識中に潜在的に存続し続ける。今生から来世に向けてつながっている「意識の連続体」（心相続）は、この潜在力を、その行為が成熟して結果を生み出すときまで運び続ける。
</p>
<p>
この「行為」が、未来のわれわれの体験を決定する「潜在力」を「意識（識）」（縁起の３番目の項目）の中に形成する。<br />
なお、「識」を「意識」ではなく、「識別」と訳す立場からは、行（行為）の結果として、識別が生じると解釈することができる。識を「意識」と訳す立場においても、その意識は、純粋な仏陀の意識ではなく、識別を有する意識のことである。
</p>
<p>
なお、前にも述べたが、この行（行為）は、インド哲学が説く業（カルマ）である（正確に言えば、行は、業（カルマ）の一部と定義されることがある）。
</p>
<p>
こうして、仏教は、「一切に実体がなく、無常である」と説く一方で、同時に、インド哲学の「カルマの法則」を継承している。
</p>
<p>
そのため、具体的には、行＝行為は、「生じては滅する無常なもの」であるが、行が滅した後に、「潜在力」（習気）が生じ、それが、意識の中に蓄積され、その意識が、今生から来世まで連続していき、「来世において結果が生じる」と説く。
</p>
<p>
さて、次は、「意識（識）」の結果として、「名称と色形（名色）」が形成される。
</p>
<p>
この「名称（名）」は、五蘊のうちの４つ、すなわち、「心を構成する４つの集まり」を指す。それは、感覚（受）、表象作用（想）、行為（行）、意識（識）である。また、「色形（色）」は、「体を構成する集まり（色蘊）」である。よって、「名称と色形」（名色）とは、五蘊のことを意味する。
</p>
<p>
これを人間の生成と関係づけるならば、「名称」と「色形」の時期は、受胎した胚が五感を生ずるまでに成長する期間にあたっていると解釈されることがある。
</p>
<p>
さて、「名称と色形」（名色）の結果として、「６つの感覚領域（六処）」が生じ、それが外界と「接触（触）」すると、「感覚（受）」が生じ、その結果として、外界の対象に対する「欲求（愛）」が生じ、それにとらわれて「執着（取）」が生じるが、このプロセスについては、先ほど述べたとおりである。<br />
その後は、「生存（有）」「誕生（生）」というプロセスがあるが、これは、「生存」が、胎児が生まれようとしている段階で、「誕生」が出産と解釈されることがある。
</p>
<p>
こうした「十二支縁起」のプロセスを経て、人は誕生するが、誕生すれば、その潜在力に応じて、老・病・死を含めた、さまざまな苦しみを経験することになる。
</p>
<p>
そして、これらの苦しみの根本原因には「無智」がある、と説くのが、この「十二支縁起の法」であり、よって、「無智を取り除く修行」が、苦しみを取り除く根本となる。
</p>
<p>
<br />
<strong>23　大乗仏教の一元論</strong>
</p>
<p>
さて、大乗仏教が到達した縁起の法の究極の解釈について述べることにする。
</p>
<p>
まず、部派仏教までの縁起の法は、悟りの世界は、縁起の法の対象に含まれておらず、悟りは、「縁起の滅した世界」とされた。
</p>
<p>
すなわち、「悟った仏」と「煩悩にまみれた凡夫」、「仏陀の悟りの心である菩提心」と「凡夫の煩悩」、「悟りの境地・世界である涅槃」と「生死を繰り返す輪廻の世界」は、別のものであり、縁起によって成立していない（相互に依存しあって存在していない）としていた。
</p>
<p>
これは、ある意味では、善悪二元論の人間観・世界観である。すなわち、仏・菩提心・涅槃という浄（善）なる存在と、凡夫・煩悩・輪廻という不浄（悪）の２つに、この人間や世界が区別される、ということである。
</p>
<p>
ところが、大乗仏教に至って、悟りの世界も、空・無自性とする『般若経』の縁起観が広がった。そこでは、「悟り」も「迷い」も、固定的な実体、自性を持たないもの、とされたのである。
</p>
<p>
そして、「凡夫即仏」「煩悩即菩提」「生死即涅槃（しょうじそくねはん）」といった解釈が行われた。
</p>
<p>
これはどういう意味かというと、「凡夫」と「仏」、「煩悩」と「菩提心」、「生死・輪廻」と「涅槃」とは、互いに独立した、まったく別のものではなく、縁起の法に従って、相互につながった、本質的には一体のものである（不二、相即〈そうそく〉）という意味なのである。
</p>
<p>
こうして、大乗仏教は、それ以前の二元論的な人間観・世界観から、一元論的な人間観・世界観に変わっていったのである。
</p>
<p>
<br />
<strong>24　生死即涅槃（輪廻即涅槃）</strong>
</p>
<p>
「生死即涅槃」（ないし「輪廻即涅槃」）とは、悟った仏の智から見たならば、迷える衆生の生死の世界（輪廻の世界）そのものが、不生不滅の清浄な涅槃の境地であって、そこには、厭うべき生死もなく、求むべき涅槃もないといった意味になる。
</p>
<p>
先ほど述べたが、私たちの世界には、多くの生き物が存在して、その生き物それぞれに生と死があるように見える。
</p>
<p>
しかし、縁起の法の理解を深めるならば、前に述べたように、実際には、すべての生命存在は一体であって、「私」や「他の生き物」といった存在は、仮に設定された概念であり、実体のないものである。実際には、この世界において、どこまでが私で、どこからが私ではない、といった境界などはない。
</p>
<p>
また、同様に、生と死についても同様であり、生と死といった言葉による概念的・観念的な思考によって、生と死が別々のものとしてあるように錯覚している。実際には、その両者の明確な境界などない。
</p>
<p>
そして、人間の五感や思考ではなく、科学の目でこの世界を見るならば、それは、私や彼が生きたり死んだりしている世界ではなく、絶えず流動している壮大な原子・分子の集合体の世界と見える。
</p>
<p>
その中で、一部の分子が、一時的に寄り集まっては離散していく現象を仮に「私」と名付けているだけで、分子自体には生も死もなく、特定の「私」だけに属する分子などもなく、地球・宇宙をダイナミックに循環しているのである。
</p>
<p>
こうして、縁起の法を悟った智慧によって、この世界をありのままに見れば、そもそもが、生まれて死んでいく私や他者といったもの自体が、単に仮に設定された概念であって、この世界自体が、生も死もない涅槃の世界である、ということができる。
</p>
<p>
その意味で、涅槃とは、この世界を智慧によって正しく見た場合のことであり、逆に、輪廻とは、この世界を無智によって見た場合のことである、と表現することができる。
</p>
<p>
すなわち、輪廻も涅槃も、それを見る人の心の状態に依存して生起するものであって、見る人と無関係に、この世界が、輪廻であるとか、涅槃であるとか、ということは決まらないということである。これは、まさに縁起の法である。ここにおいて、輪廻即涅槃、涅槃即輪廻という教えが成立する。
</p>
<p>
そして、この教えに基づけば、この世には存在しない涅槃を求めて、輪廻から解放されること、すなわち再生しない状態を求めるのではなく、この世にあって、この世に執着せずに、利他の実践をなし、輪廻と涅槃は本質的には同一である、という大乗仏教の悟りを求める実践が出てくるのである。
</p>
<p>
<br />
<strong>25　煩悩即菩提</strong>
</p>
<p>
「煩悩即菩提」とは、煩悩と菩提心（仏陀の悟りの心）は、互いに独立したものではなく、煩悩がそのまま悟りの縁（原因・条件）となるということである。
</p>
<p>
この教えは、大乗仏教の思想であるが、釈迦牟尼が説いた教えの中で、これと結びつくものとしては、「苦あって信あり」という教えであろう。それは、人は苦しみを経験した結果として、解脱に導く仏法に対する信を持つというものだ。
</p>
<p>
そして、解脱に導く因が、苦しみであるならば、苦しみの因は、無明を根本とした煩悩であるから、解脱の源に煩悩があるということになるから、煩悩と菩提にはつながりがある、ということができる。
</p>
<p>
また、密教の教えにおいては、「大煩悩大解脱」というものがある。これは、煩悩が大きいほど、解脱を果たせば、その解脱も大きい、といった思想である。
</p>
<p>
これと類似する話が、仏教の守護神である聖歓喜天であり、かつては大悪業をなしていたところ、観音菩薩の教化の後には、大善業をなすようになったが、なぜ、大悪業をなしていた者が、大善業をなすようになったかという理由は、エネルギーが強いために、悪業をなすにも善業をなすにも、大きくなったとされている。
</p>
<p>
こうして、煩悩も菩提心も、人の心の働きをエネルギーであると見るならば、その本質は一つであるということができるだろう。
</p>
<p>
そして、これを実際に体得することができるのがクンダリニー・ヨーガとか、密教の究竟次第の瞑想（管・風・心滴のヨーガ）である。精神集中等によって、エネルギーをコントロールすることによって、性欲や怒りといった煩悩のエネルギーが昇華されて、菩提心になっていくのである。<br />
その意味もあって、密教では、煩悩を活用して、仏陀の境地、菩提心に近づいていくという修行があると思われる。
</p>
<p>
また、これを逆に言えば、菩提心の状態から、エネルギー状態が変化すれば、それが煩悩として生起することもある、ということになるだろう。
</p>
<p>
そして、これと同じように、悟った「仏陀」と煩悩にまみれた「凡夫」についても、互いが独立した別のものではない、ということができ、「凡夫即仏」が成立するのである。
</p>
<p>
<br />
<strong>26　凡夫即仏、煩悩即菩提の教えの重要性</strong>
</p>
<p>
私は、凡夫即仏、煩悩即菩提の教えの重要性は、宗教が陥りやすい傲慢、善悪二元論を防ぐ点にもあると思う。
</p>
<p>
煩悩即菩提、凡夫即仏とすることで、いかなる人・生き物にも、仏性（未来に仏陀に至る可能性）を認める思想が生まれてくる。これによって、すべての人々・生き物を尊重して愛する心を培うことができる。
</p>
<p>
そうではなく、煩悩と菩提心を完全に区別し、仏と凡夫を完全に区別すると、場合によっては、善悪二元論の世界観に陥るのではないかと思う。例えば、特定の人物を安直に絶対視して愛著・依存・盲信したり、逆に、煩悩が強いと思われる人を嫌悪・軽蔑したりである。
</p>
<p>
さらに、他の欠点に対する嫌悪が強い人は、自己嫌悪が強い傾向があり、自分の煩悩について、卑屈になりすぎて、その卑屈のために、浄化されない場合がある。そういった場合は、煩悩を絶対悪と考えず、菩提心の源・エネルギーであるから、それを昇華すればいいという柔らかい考えを身につけることで、よりよく浄化される場合が多い。
</p>
<p>
また、煩悩は菩提心の源として大切なものであると考えることで、性欲が生じたときも、それを安易に漏らさずに、怒りが生じたときも、安易に発散せずに、できるだけ昇華していく実践がしやすくなるのではないかと思う。
</p>
<p>
ただし、「凡夫と仏陀は同じだ」「煩悩と菩提心は同じだ」と考えて、仏陀の教えを実践しなくなれば、この教えの悪用である。この教えは、両者が同じである、というものではなく、両者にはつながりがある、といったほどの意味である。すべての法則は、良き目的を実現する手段として使わなければならない。
</p>
<p>
なお、凡夫と仏陀、煩悩と菩提心が、まったく別のものではなくて、凡夫が仏陀になり、煩悩が菩提心になる、とするならば、理論上は、仏陀が凡夫になり、菩提心が煩悩になる、ということもあり得る、ということになるが、この点について、違和感がある人もいるかもしれない。
</p>
<p>
この点については、仏教では、釈迦牟尼の死後、釈迦牟尼の神格化が行われ、人間存在を超えた永久不滅の釈迦牟尼や、釈迦牟尼を超えた大日如来などの神格が現れたため、一般に、仏陀・如来という言葉には、絶対者というイメージがあるかもしれない。
</p>
<p>
しかし、仏教辞典などによれば、仏陀という言葉は、そもそもは、目覚めた人（覚者）という意味で、当時のインドの宗教一般においては、優れた修行者・聖者に対する呼称であった。よって、絶対者を意味する言葉ではなかったと思う。
</p>
<p>
そして、実際には、釈迦牟尼も人間であって、彼自身が、信者が彼を拝むことを否定したし、また、一時期は自身の教団の分裂という問題も抱えた人である。さらに、伝統的な仏教の悟りの境地、すなわち、涅槃の教義においても、生きている間は、肉体の汚れ・制約の中にあるとして、それを有余涅槃と呼び、肉体を止滅させた（入滅した）状態での無余涅槃と区別している。
</p>
<p>
そして、ひかりの輪では、これまでの宗教的実践の教訓に基づいて、釈迦牟尼を含めて、特定の人を絶対者・神とはしない、という思想を原理原則としたのである。
</p>
<p>
これらを前提にして、「凡夫即仏」の教えを解釈すると、「どんなに仏陀の悟りの境地に近づいた修行者であっても、一面においては、凡夫と同じ煩悩を有しているのだから、慢心・油断を努めて避けて精進し続けよ」という戒めが出てくる。<br />
<br />
また、これを信者側から言うならば、自分の先生・師からは積極的に学びつつも、誰かを絶対視、絶対者として、過剰に依存することは避け、釈迦牟尼が説いたように、自己と法を帰依処とするべきである、という戒めが出てくる。
</p>
<p>
そして、これらの思想をまとめて、率直に表現すれば、人間とは、どんな人にも、良いところと悪いところがあり、すなわち、どんな人にも、仏陀と凡夫、菩提心と煩悩の両面があるのだから、誰かを絶対悪として全面否定したり、誰かを絶対善として過剰に依存したりせずに、すべての人々の存在を適切に尊重すべきである、ということになる。
</p>
<p>
<br />
<strong>27　大乗仏教の多様な縁起説</strong>
</p>
<p>
そして、大乗仏教の一つの特徴として「如来蔵（＝仏性）」の思想があるが、それに関連して、この世界は如来蔵が現れたものと説く「如来蔵縁起」がある。如来蔵のことを真如とも呼ぶので、「真如縁起」とも言う。
</p>
<p>
これは、ある意味で、宇宙の根本原理をブラフマンとして、それが展開したのが宇宙であり、個々人の本質であるアートマンとブラフマンは本質的に同じものである、と説く、インド哲学のヴェーダーンタと似ている面がある。
</p>
<p>
しかし、両者の異なる点は、ヴェーダーンタは、ブラフマンとアートマンに、永久不変の本質を認めるのに対して、如来蔵縁起では、あくまでも、その如来蔵に、永久不変の独立した実体を認めない点である。
</p>
<p>
また、華厳宗では、華厳経に基づいて、「法界縁起」(重々無尽縁起〈じゅうじゅうむじんえんぎ〉)が説かれる。これは、現象界が、そのまま真如であると説くものとされる。
</p>
<p>
そして、この中には、「一即一切・一切即一」という教えがあり、一部分がそのまま全体であり、全体がそのまま一部分である、といった意味である。これは、この世界のおのおのの現象が、限りなくかかわりあい、一体的であることを意味しているが、この世界観は、最新の科学理論と共通する点があり、物理学者などにも注目されている。
</p>
<p>
さらに、唯識派が説く「阿頼耶識縁起説（あらやしきえんぎせつ）」というものがあり、これは、人の意識の深層には、業が蓄積された「阿頼耶識」があって、この世は、その阿頼耶識が現れたものである、という考えである。
</p>
<p>
<br />
<strong>---------------------------------<br />
＜参考資料＞　分子生物学者の見解と仏教的な教えの共通点<br />
---------------------------------</strong>
</p>
<p>
以下に、これまでに述べた仏教的な人間観と非常によく似ている、分子生物学者（福岡伸一 青山学院大学教授）の見解を紹介する。
</p>
<p>
（田中裕二・太田光・福岡伸一『爆笑問題のニッポンの教養11 生物が生物である理由 分子生物学』講談社、2008）
</p>
<p>
<strong><br />
●生物の細胞を構成する分子が絶え間なく入れ替わっている</strong>
</p>
<p>
つまりネズミの体っていうのは、ミクロなプラモデルみたいに部品がカチッとしているものではなくて、絶え間なく合成と分解が入れ替わっていて、食べ物の分子がそのままネズミの体の一部になって、そしてネズミの体を構成していた分子はどんどん外へ抜けていく。まさに分子のレベルではグルグルグルグル、ネズミの中で回っているわけです。
</p>
<p>
そういうその非常にダイナミックな在り方が、ネズミの体の中で起きている。つまり生命というのは、常に動きながらも、バランスを取っている。そこでそういう状態を彼は「動的平衡」と呼んだわけです。私はそれが生命を解く上で、もう一度光を当てなければいけない大事な概念じゃないかと思うわけなんです。（p.49）
</p>
<p>
<strong><br />
●細胞が置き換わるだけでなく、細胞を構成する分子が置き換わる</strong>
</p>
<p>
もちろん細胞が死ねば新しい細胞が出来て、細胞の中身は入れ替わりますけれども、細胞が生きているままでも、細胞の中にある分子は、常に分解されて捨てられる。食べ物から来た分子がそこに置き換わっているんです。
</p>
<p>
だから生きている状態の中で、別に細胞１個１個が死んで、それが再生される必要はなくて、細胞は生きながらにして、中が入れ替わっているわけです。細胞が死ぬ以前に、細胞の中の分子が食べ物の分子と入れ替わっている。（p.55）
</p>
<p>
<br />
<strong>●１年もたつと、人間の体の分子はすっかり入れ替わる</strong>
</p>
<p>
（捨てられた分子は）一つは排泄されます。尿やふんになって排泄されます。それから、捨てられたものは燃やされて、エネルギーになった後、二酸化炭素や水になって捨てられます。だから、その１年もたつと、私たちの体っていうのは、もとあった原子や分子はすっかり入れ替わっているんです。（p.56）
</p>
<p>
<br />
<strong>●地球の中を循環する分子が、一瞬寄り集まるのが人間というもの</strong>
</p>
<p>
だから地球全体の元素の量っていうのは、実はほぼ一定で、それがグルグル回って、ある時には太田さん、ある時には田中さん、ある時にはミミズ。
</p>
<p>
（中略）それがガーッと流れているのが地球環境で、ある一瞬寄り集まって、太田さんを作っている、田中さんを作っているっていう状態が、生命現象なんですが、長い時間で見ると、それはグルグル回りながら、食べ物と交換されているし、一瞬そういう形を作っている。（p.58－59）
</p>
<p>
<br />
<strong>●人間は長い時間単位で見ると、ガスの集まりのようなもの</strong>
</p>
<p>
今、私たちは何か固体だと思っているけど、むしろそういう長い時間を取ってみると、ガスなんです。
</p>
<p>
ゆっくり緩やかに分子が集まっている状態で、分子を混ぜただけでは生命はできなくて、この要素がある一瞬入れ替わりながらも、ある一瞬を形作っている効果が生命っていうことなんです。（p.60）
</p>
<p>
<strong><br />
●「自分」とは、一瞬分子が集まったときに現れている特殊な効果</strong>
</p>
<p>
それもそうですよね。自己も、この体の分子が自己を支えているんじゃない。分子はものすごい速度で入れ替わっているし、その分子は元どこか持ち主が別にいて、それが入り込んで、自分の中でそういう図柄を支えているわけですよね。
</p>
<p>
そうすると、自分自身というのも、実は非常に動的平衡の中ではあやふやな存在で、たまたま分子が今この一瞬、微分的な一瞬が集まっている時に現れている特殊な効果が自己ですよね。（p.119）
</p>
<p>
<br />
<strong>●実際は、「私」は絶えず変化しているのに、「一人の同じ私がいる」と思う「自己同一性」とは、幻想みたいなもの</strong>
</p>
<p>
去年の私と今年の私は、同じ私のように見えても、分子のレベルではすっかり「お変わりありまくり」なわけですよね。
</p>
<p>
それでも自己同一性が保たれているっていうことは不思議なことですけれども、それは幻想みたいなものです。今そう思っている、そういう効果なわけですよね。（p.119）
</p>
<p>
<br />
<strong>●人間の脳には癖があり正確な認識ができない（受は苦なり）</strong>
</p>
<p>
そうなんですよね。っていうか、人間は実は脳の癖っていうのがあるわけですよ。例えば虹を見れば、七色に見える。あるいは五色に見える民族もいますよね。でも虹っていうのは、実は色が連続しているので、そんな切り分けられないし、線も何もついていないわけです。
</p>
<p>
あるいは何か天井を見たら、そこに顔の染みが見えるとか、常にいろいろな自然を加工して見てしまう癖があるわけです。
</p>
<p>
これはある意味で、遺伝子が私たちに強制している一定の枠組みですよね。で、ついそれを信じて、いろいろな行動が生まれてしまうわけですよ。
</p>
<p>
でもそこから自由にできることも生物は用意されているわけですよね。だから虹は実は七色じゃないと。連続しているスペクトルで、どこにも線がないっていうのは、やっぱり勉強しないと分からないことですよ。
</p>
<p>
虹が実は連続した線だということが分かれば、そこに新しい言葉、あるいは新しい詩が生まれるわけです。そのために実は学問というのはあるわけです。（p.110）
</p>
<p>
<br />
<strong>●人の記憶は物質レベルでは保存されていないあやふやなもの</strong>
</p>
<p>
（&rarr; 物質レベルでは、「自分」が一人の同じ人間であるという自己同一性・アイデンティティを支えるものはない）
</p>
<p>
もし記憶というのが物質レベルで脳の中に保存されているとすれば、ミクロな何かビデオテープみたいなものが脳の中にあるとすれば、それをいつも再生して、記憶が呼び出されているかっていうとそうじゃないわけです。
</p>
<p>
なぜかというと、人間の体の中の分子はすべて動的平衡のグルグル代謝回転の中にあるわけなんで、そういうものがたとえあったとしても、その分子はすごい速度で入れ替わっているわけですよね。そうすると、やっぱり記憶っていうのは物質レベルでは担保するものが何もないわけです。
</p>
<p>
なのに私たちは、記憶っていうのを何となく持っているように思いますよね。そこが大きな謎ですけれども、記憶がもうちょっと上のレベル、物質よりも上の細胞のレベル、あるいは細胞のつながりのレベルで保存されているとすれば、そのジグソーパズルのモデルっていうのがあるんですけれども。
</p>
<p>
ジグソーパズルってピース一つひとつを仮に古いピースを新しいピースに入れ替えても、絵柄としては全体としては変わらないでいることができますよね。そういうふうに、分子レベルで入れ替わっても、絵柄全体として、あるいは細胞と細胞の何か連絡網として記憶が保存されているという考え方もあります。
</p>
<p>
それから、もっとドラスチックな考え方は、記憶っていうのは別に分子でも細胞のレベルでも保存されてるんじゃなくて、すべてが今作られているものだと。今、あれを思い出すっていう思考が作り出している何か幻想みたいなものですよ。
</p>
<p>
だから、自分の記憶で、小さい頃の記憶で非常にビビッドに覚えている何か美しい記憶があったとしますよね。それは、その記憶がガチッと脳の中にあるんじゃなくて、実はその記憶は、その人にとって繰り返し繰り返し思い出しているペットのような記憶で、何回も思い出しているからビビッドなんです。<br />
<br />
それが今もまた再構成されているにすぎない、そういう考え方もできますよね。物質レベルで私たちのアイデンティティを支えているものは何もないわけです。（p.116）
</p>
<p>
<br />
<strong>●現実と夢との境界はない</strong>
</p>
<p>
現実も私たちの五感が、まあ作り出している効果ですよね。夢もまあそうです。だから本当にどっちがリアルなものか。どっちが大切なものかっていうのは、本当の意味で線引きはない。
</p>
<p>
だから生物学にこういう理論があって、実は私たちがあくせく働いているのは、夢を見るためだと。つまり夢が本当のもので、現実の部分は夢を支えるものだって言っている人もいるぐらいです。
</p>
<p>
だからそういう境界は何もないし、私たちの体の分子は常に振動しながら流れているので、それ故に私たちは外部に文明を作ったり、約束を作ったり、法律を作ったりして、何とか自己同一性っていうものを付託する、記憶させるものを作ってきたわけですよね。そういうふうに考えると、むなしくもあり、でも面白くもあるわけです。（p.125）
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【仏教講義】２０１０年 夏期セミナー特別教本『三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜――２１世紀の宗教の革新』</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/lecturetext/012010/00372010.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2011:/lecturetext//31.2181</id>
   
   <published>2011-03-10T03:12:22Z</published>
   <updated>2011-08-20T02:44:53Z</updated>
   
   <summary> 2010年夏に行われた夏期セミナーの特別教本です。 テーマは、『三仏の一元法則...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="【動画あり】21世紀のための仏教講義" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/lecturetext/">
      <![CDATA[<p>
<span style="font-size: small">2010年夏に行われた夏期セミナーの特別教本です。<br />
</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small">テーマは、『三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜--２１世紀の宗教の革新』です。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small">セミナーでは、各章ごとに、全６回の上祐史浩による教本解説の講義が行われ、すべてＵstreamでネット生中継されましたので、動画をご覧いただきながら、教本を読み進めていただくことができます。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>◎動画の内容(全６回)</strong></span>
</p>
<p>
<strong><span style="font-size: small">第１回講話 『釈迦牟尼の教え--苦楽表裏について』<br />
第2回講話  『観音様の教え--すべての人を愛すること』<br />
第3回講話  『弥勒菩薩の教え--自分と他人の区別を超え幸福になる<br />
第4回講話 『真の利他心・菩提心とは』<br />
第5回講話 『大乗仏教の幸福への智恵--六つの完成』<br />
第6回講話 『21世紀の宗教の革新、３つのポイント』</span></strong>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
&nbsp;<span style="font-size: small"><a href="http://www.joyus.jp/movie/00200911/00151620_2010_6.html">＞＞動画はこちらでご覧いただけます。</a></span>
</p>
<p>
<span style="color: #000000">&nbsp;</span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<span style="font-size: small"><strong>2010年夏季セミナー特別教本</strong></span><br />
<p>
<span style="font-size: small"><strong>『三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜--２１世紀の宗教の革新』</strong></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
&nbsp;
&nbsp;
</p>
<p style="background-color: #ffffff">
&nbsp;
<img src="/mt/uploads_files/images/2011kyouzai/2010kaki.h.jpg" alt=" " width="150" height="214" align="left" />
<strong><span style="font-size: large; color: #000000">第一章　一元法則の理解を深める</span></strong>
</p>
<p>
&nbsp;
ここでは、従来から説かれている「三仏の一元法則」の理解をさらに深めることにする。なお、これまで説かれてきた一元法則の基礎は、特に『ひかりの輪 2010年ゴールデンウィークセミナー特別教本 一元の法則とその悟りの道程、金剛薩?の内省修行』にまとめられているから、ぜひ読んでいただきたい。ただし、本稿は、それを読んでいない人も、一定の理解ができるようには説明している。
</p>
&nbsp;
]]>
      <![CDATA[<strong><span style="font-size: medium">１　釈迦牟尼の一元法則--苦と楽の区別・二分化を超える</span></strong>
<p>
&nbsp;<span style="font-size: small"><br />
<strong>１．楽の裏に苦がある</strong></span>
</p>
<p>
苦と楽は、表裏一体である。楽の裏に苦があり、苦の裏に楽がある。まず、楽の裏に苦があるとは、例えば、快楽に貪りとらわれれば、その裏に、さまざまな苦しみが生じることである。
</p>
<p>
仏教では、自分や自分のものに対するさまざまなとらわれによって、四苦八苦と呼ばれる苦しみが生じると説く。四苦八苦の中にある最初の四苦とは、生・老・病・死の４つの苦しみである。釈迦牟尼が説いた「十二縁起の法」によれば、人は、意識と五感を通して、何かに愛著してとらわれる結果、この世に転生し、生・老・病・死の苦しみを経験するという。
</p>
<p>
これを言い換えれば、人は、自分自身やこの世の快楽に対して執着するほど、老い、病み、死ぬことが苦しみとなる。そして、最後の死の際には、一切を失うという苦しみを経験する。
</p>
<p>
また、次に、四苦八苦の他の４つの苦とは、貪りには際限がない中で、求めても得られない苦、愛著・執着するものを失う（と別れる）苦、奪い合う苦（敵対者と会う苦）など、さまざまなとらわれによる苦しみをいう。こうして、苦と楽が表裏であることを理解し、絶えず貪り求めることをやめて、足るを知ることが重要である。<br />
そして、そのためには、今すでに得ている幸福の大きさに気づいて、それを支えている万物に感謝することが重要である。
</p>
<p>
&nbsp;<br />
<span style="font-size: small"><strong>２．苦の裏に楽がある</strong></span>
</p>
<p>
次に、苦の裏に楽があるとは、上記と逆のプロセスである。例えば、苦しみの経験を経る中で、それに慣れてくるが、それは、とらわれが減少したことを示している。その結果、その人の苦しみの範囲が減り、喜びの範囲が増える。
</p>
<p>
一般にも、苦しみ・労苦は、その人の心身を鍛える、愛の鞭である、試練であるなどといわれる。そして、大乗仏教には、六つの完成の忍辱(にんにく)の修行のように、自己を批判する敵対者も、自分の修行を進める教師として、感謝する教えがある。
</p>
<p>
それだけでなく、苦しみの経験は、慈悲の心を深める可能性がある。それによって、同じ苦しみを持つ人の気持ちがわかり、自分がその苦しみを乗り越えれば、他者がその苦しみを取り除く手助けをすることもできる。そうなれば、その人は、慈悲による幸福を得ることができる。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>３．他に優位にある喜びと、他を愛することによる幸福の違い</strong></span>
</p>
<p>
ここで考えたいことは、喜び・幸福には２つのタイプがあることだ。一つは、現代の社会における一般的な喜びとは、他に勝つ、他に優位に立つことによって得る喜びであって、仏教的に見れば利己的な喜びである。お金持ちになる喜び、魅力的な異性を得る喜び、地位や名誉・権力を得る喜びは、皆が他との競争である。<br />
もう一つは、他を愛することによる幸福感、四無量心による幸福というものがある。四無量心とは、慈・悲・喜・捨という４つの計り知れない大きな心という意味である。慈とは、他に幸福・楽を与える心であり、悲とは、他の苦しみを悲しみ、それを取り除く心、喜とは他の幸福を喜ぶ心、捨とは、分け隔てなく平等に他を愛する心である。
</p>
<p>
そして、重要なことは、他に優位になって喜びを得ようとする視点からは、苦しみに感じられる事柄が、他を愛して幸福になるという視点からは、逆に、幸福の原因となるということである。例えば、先ほども述べたように、他に勝つことができないという苦しみは、同じような弱者の苦しみを理解し、それを手助けしたり、自分ではなく、他の能力を活かしたりするという力になる。
</p>
<p>
そして、他に優位に立つことによる幸福は、その裏にさまざまな苦しみをもたらし、それに加えて、いつかは失う無常なものである。これは、四苦八苦の教えと本質的に同じであり、勝てない苦しみ、さらに負けて失う苦しみ、敵対者を作る苦しみなどがある。そして、老い、病み、死ぬ中で、すべては苦しみに変わる。仮に人生の前半は勝ち組でも、後半は、死に神に負け、すべてを失う。その意味で、この、他に勝つことによる幸福は、尻すぼみの無常な幸福となる。
</p>
<p>
その一方、他を愛することによる幸福は、その心の修練を積み重ねるほど、成熟していく。老い病み、死ぬことで衰えることがない。自己に対するとらわれも薄まり、死の恐怖も超越する。さらに、心に培った徳性は、死後、来世においても継続するので、死によって失われることはない。その意味で、これは尻上がりの継続する幸福である。
</p>
<p>
よって、仏陀は、人生が無常であることをふまえ、さまざまな利己的な執着を放棄して、慈悲を培うように説いた。そして、その具体的な実践は、大乗仏教で六つの完成といわれる。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>４．苦しみに感謝すること</strong></span>
</p>
<p>
そして、先ほど述べたとおり、苦しみの経験は、その人の慈悲を深める可能性がある。詳しく言い直せば、利己的な視点における苦しみの裏に、他を愛する視点における喜びがある。この意味でも、やはり、苦しみの裏に喜びがある。
</p>
<p>
こうして、苦の裏には、とらわれの減少や、慈悲の心の増大による楽・喜びがあると理解することが重要である。そして、それに基づいて、今経験している苦しみや、苦しみを与える存在に対して、感謝することが重要である。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
５．万物に恩恵・恩人として感謝すること</strong></span>
</p>
<p>
以上をまとめると、<br />
① 楽の裏に苦があることを理解し、今すでに得ている幸福と、それを支える万物に感謝し、かつ、<br />
② 苦の裏に楽があることを理解し、苦しみと、それを与えるものに感謝することが重要である。
</p>
<p>
そして、この２つを合わせて実践すれば、最終的に、森羅万象・万物が、自分にとって恩恵となっており、万人が恩人であることに気づき、万物に感謝する境地が生まれてくる。わかりやすくいえば、自分の経験している「すべてがありがたい」と感じる境地である。
</p>
<p>
そして、このすべての衆生に対する感謝に基づいた恩返しの実践が、すべての衆生の苦しみを取り除き、彼らに幸福を与えようとする「大慈悲・四無量心」であり、それに基づく「発(ほつ)菩提(ぼだい)心(しん)」、すなわち、すべての衆生の済度のために、仏陀の境地に至ろうとする心である。
</p>
<p>
<strong><br />
《参考》釈迦牟尼が説いた法則--縁起の法</strong>
</p>
<p>
釈迦牟尼が説いた中核の教えである「縁起の法」とは、「此（これ）があるから、彼（あれ）があり、彼（あれ）があるから、此（これ）がある」というものである。これは、事物が相互に依存し合って存在していることをいう。そして、大乗仏教では、これをすべての事物に当てはめて、「万物は相互に依存し合って存在し（一体であり）、他から独立した固定した実体はない（空である）」とした。
</p>
<p>
そして、人は、この法理を悟っていない無智（＝無明）のために、無智に加えて、貪り・怒りの３つの根本煩悩（三毒）を有しており、そのために、さまざまな苦しみが生じる。例えば、先ほども述べたように、無智（無明）に基づく貪り・愛著によって、生・老・病・死の苦しみが生じるプロセスを説いたのが、「十二縁起の法」と呼ばれる教えである。
</p>
<p>
また、事物が相互に依存し合って存在し、固定した実体がないということは、言い換えると、無常であるということである。この世の万物は無常であり、人も必ず、老い、病み、死ぬものである。よって、それに執着しても、失われるものだから、苦しみを招く。これも重要な釈迦牟尼の教えである。
</p>
<p>
そして、この無明をわかりやすい言葉で表現すると、楽と苦、善と悪、自と他の区別・二分化などと表現できる。これを乗り越える教えが、ひかりの輪の説く三仏の一元法則である。そして、特に、楽と苦の区別・二分化を超える教えを、ひかりの輪では、釈迦牟尼の一元法則と呼んでいる。これは、上記のとおり、実際には、楽の裏に苦があり、苦の裏には楽があるという教えである。
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<p>
&nbsp;
</p>
<span style="font-size: medium"><strong>２　観音菩薩の一元法則--善と悪・優と劣の区別・二分化を超える</strong></span>
<p>
&nbsp;<span style="font-size: small"><strong>１．善と悪、優と劣はセットで、時と場合によって変化する</strong></span>
</p>
<p>
善と悪、優と劣は、実は表裏・一体である。そもそも、善とは、他と比較して良い、というものであり、何かを善とすれば、必ず何かが悪となる。全く同じように、何かを悪とすると、何かが善となる。こうして、善と悪は常にセットで存在している。
</p>
<p>
こうして、善悪は、比較の問題であるから、ある善があっても、より大きな善の中では、それは悪とみなされる。そして、ある悪があっても、より大きな悪の中では、それは相対的に善となる。こうして、善と悪は、時と場合によって変化する。すなわち、固定した実体のないものである。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><br />
<strong>２．善と悪、優と劣、短所と長所は、表裏であること</strong></span>
</p>
<p>
さらに、善の裏に悪、優の裏に劣がある。言い換えると、短所の裏に長所があり、長所の裏には短所がある。<br />
例えば、何かに優れている人は、それに劣っている人に比べて、同じく劣っている人の気持ちを理解したり、それを乗り越える手助けをしたりすることは難しい。また、自分が優れているがゆえに、逆に他を活かすということは難しくなる。<br />
言い換えるならば、他に勝つ上での優秀性と、他を愛する上での優秀性は、大きく違っている。先ほども述べたように、現代の社会における一般的な喜びは、他に勝つ、他に優位に立つことによって得る喜びであるが、これとは違って、他を愛することによる幸福感がある。<br />
そして、他に優位になって喜びを得ようとする視点からは優れている人が、他を愛して幸福になるという視点からは、逆に劣っている場合がある。そして、他に優位になる喜びは、その裏にさまざまな苦しみをもたらし、無常であるが、他を愛することによる幸福は、そうではないのである。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>３．人と人の違いは、それぞれの個性・役割の違いである</strong></span>
</p>
<p>
こうして、長所の裏に短所があり、短所の裏に長所があると考えるならば、人と人の間の違いは、善悪や優劣に単純に二分化できるものではなく、個性の違いであることがわかる。<br />
もう少し言えば、それぞれの、全体に対して果たすべき役割の違いである。そして、この世の万物は、その違いによって、お互いが補い合う形で助け合って、相互に依存し合って存在している。<br />
そして、短所の裏に長所があると理解して、努力によってそれを活かすならば、卑屈を乗り越えることができる。また、逆に、長所の裏に短所があると理解するならば、慢心によって落下することがなく、絶えず努力する謙虚さを培うことができる。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>４．悪人が、苦しみの経験を経て、善人になっていくこと</strong></span>
</p>
<p>
さらに、仏教の教えで貴重なものとして、悪人はいつまでも悪人ではなく、徐々に善人になっていくという人間観である。<br />
この人間観を具体的に説明すると、まず、人は、悪人だから悪をなすのではなく、幸福になりたいのに、幸福を得る真の道（＝利他）がわからないがゆえに悪をなす。しかし、悪を積み続けているうちに、悪は苦しみをもたらすから、苦しみが増大して、行き詰まる時が必ず来る。よって、ある時点で、自分の過ちに気づいて、真の幸福の道、すなわち、善の道に入っていくというものである。<br />
実際に、釈迦牟尼も、仏となる前の生には、カッサパ如来（釈迦牟尼以前の仏）を誹謗中傷したこともあったとされる。仏教では、如来の誹謗中傷は、最も大きな罪とされるが、その大罪をなした者が、後に仏になったのである。<br />
他にも、９９９人の人を殺した後に、釈迦牟尼に巡り会い、改心して悟りを得たというアングリマーラや、数十人の親族を呪殺した後に、師に巡り会い、大成就者となったというミラレパなどの聖者が有名である。他にも、仏教は、悪人・悪神が、仏陀・聖者・善神になったという話が多い。<br />
これは、罪を憎んで人を憎まずの精神でもある。人は悪をなすが、それは、その人が純粋に絶対的に悪人だからではなく、無智だからにすぎない。そして、その無智は、悪をなして苦しむ経験からの学習によって、徐々に解消されていくという考えである。<br />
その意味で、悪い行為とは、無智のために一時的に生じるもので、善に至る過渡的な試行錯誤である。それは、無智な者が、失敗から成功を得ていく過程のものである。この意味で、悪と善はつながっており、現在の悪は、未来に善に行き着く、苦しみを伴う準備過程とも解釈できる。<br />
よって、大乗仏教では、「すべての衆生は、未来に仏陀になる可能性＝仏性を有し、未来の仏であり、仏の胎児であり、仏の子であるがゆえに仏である」と説く。そして、「この宇宙全体が仏であり、その中で育まれているすべての衆生は、仏の子であって、母なる仏である宇宙が、その母胎の中で仏の子を育んでいる」と考える。これは、胎蔵界曼荼羅の思想と呼ばれる。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><br />
<strong>５．万物は平等な仏の現れ、という教え</strong></span>
</p>
<p>
次に、こうした教えを土台として、いよいよ、大乗仏教が説く究極的な教えである、「万物は平等な仏の現れ（ないし平等な仏性の顕現）」という教えについて考えてみよう。より詳しくいえば、大乗仏教は、「この世の万物は、根源仏（例えば大日如来）の現れであって、その中の万物は当然、平等な仏の一部であり、平等な仏の現れである」と考える。
</p>
<p>
これは、常識的な価値観では理解しがたいが、上記で学んだように、<br />
① 優劣は表裏一体で、人の違いは優劣ではなく、個性・役割の違いであり、<br />
② すべての衆生は、過ちの経験を経て悟り、未来に仏陀になる存在であるということを理解するならば、この教えも理解しやすいだろう。
</p>
<p>
そして、このそれぞれの異なる個性・役割は、すべて仏のさまざまな要素の一部であって、それらは皆、仏の現れである、と考えるのである。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>６．万物を平等な仏の現れ（仏性の顕現）として育む</strong></span>
</p>
<p>
以上の法則をよく理解するならば、結論として、優劣を設けずに、万物を平等な仏の現れ（仏性の顕現）として尊重して、それを育むべきである、という考え方が出てくる。<br />
そして、「仏の現れとして育む」とは、具体的には、すべての衆生の仏性を覚醒させる＝仏陀の境地に至る上でのお手伝いをする、ということである。そして、すべての衆生の仏性の覚醒を助けるために、自ら仏陀の境地に至らんと決意するのが、大乗仏教が説く「発菩提心」という心構えである。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><br />
<strong>７．大煩悩が大解脱をもたらす可能性</strong></span>
</p>
<p>
善と悪（優と劣）の区別・二分化を超える教えについて、もう少し深めておこう。まず、「大煩悩大解脱」といわれる教えについてである。これは、煩悩が大きい者が解脱したならば、その解脱も大きい、という考えである。<br />
その一つの例が、大悪業をなしていたガネーシャ神が、観音菩薩に教化されて、聖歓喜天に進化した後は、大善業をなすようになったといわれる話である。この話の中では、過去の悪業も今の善業も大きいのは、エネルギーが強いからだと説かれている。これは、ヨーガ・タントラの思想でいえば、煩悩も菩提心も、その源は生命エネルギーである。よって、煩悩が強い場合には、その煩悩が菩提心に昇華した後は、菩提心も強いという考えが成り立つのである。<br />
これは、チベットの大聖者であるミラレパにも当てはまるのではないかと思う。ミラレパは屈強な身体を持ち、師に巡り会う前は、数十人の親族を呪殺する悪業をなした。これは、強いエネルギーがあったからであろう。そして、その後、改心したミラレパは、修行に励み、大成就者となり、深い智慧と慈悲、そして、さまざまな神秘力を有した、チベットで最も敬愛される大聖者となった。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><br />
<strong>８．悟りの遅い者が得る、大きな慈悲の可能性--先駆者と普及者の役割分担</strong></span>
</p>
<p>
次に、煩悩が強く、そのため解脱が遅い者が、大きな慈悲を得る可能性についてである。論理的に考えれば、煩悩が強く、そのため解脱が遅いとしても、そういった者が、解脱を果たしたならば、その経験からして慈悲も深いと考えられる。<br />
なぜならば、自己の体験上、煩悩による苦しみや、煩悩から脱却する上での困難を深く経験しているために、自分のように煩悩が強い者に対する慈悲は深くなり、そういった者を助ける力も強いと考えられるからである。<br />
その一例であるかどうかは確かではないが、仏教が説く釈迦牟尼と弥勒菩薩では、釈迦牟尼の方がはるかに早く解脱する。弥勒菩薩は、釈迦牟尼に遅れること５６億７千万年後に解脱するといわれている。しかし、弥勒菩薩は、釈迦牟尼よりもはるかに多くの人々を悟りに導くとされている。<br />
こうして、釈迦牟尼は、弥勒菩薩の導き手・先駆者となる一方で、弥勒菩薩は、衆生済度において、釈迦牟尼の不足を補い、釈迦牟尼の仏教の教えを全人類に広める。実際に、弥勒菩薩は、釈迦牟尼を補完する仏と位置づけられる場合がある。<br />
こうして、先に解脱する者と後に解脱する者が、お互いに助け合って存在している。先に解脱する者は先駆者として、後に解脱する者の道筋を作る。後に解脱する者は、その道を太くして、多くの者が通れるようにし、その普及者となる。これは、どちらが優れているというのではなく、まさに役割分担であり、助け合いであろう。<br />
言い換えるならば、両者は、互いに独立した存在ではなくて、先に助けて後に助けられたり、先に助けられて後から助けたりする、といった相補的（相互依存）な関係にあり、両者が一つの大きな流れの中でつながっている。
</p>
<p>
<br />
<strong>《参考》観音菩薩の教え</strong>
</p>
<p>
ひかりの輪では、観音菩薩の法則として、その瞑想伝授教本である『観音菩薩の瞑想』の中の教えを重視している。それは、「すべての衆生は、悟りの境地から見れば、観音菩薩であり、この世界は、観音菩薩の本体である阿弥陀如来の極楽浄土である」というものである。<br />
未来に仏陀になる存在を菩薩というが、大乗仏教が説く、「すべての衆生は、仏性（未来に仏陀になる可能性）を有し、今は一時的に煩悩に曇らされているが、未来には仏性が覚醒し、未来に仏陀になる存在である」という思想に基づいて考えると、すべての衆生は菩薩であると考えることができる。<br />
そして、上記でも述べたが、大乗仏教では、「すべての衆生は、仏陀の胎児（＝如来蔵）である」と考え、人間の胎児が人間であるように、仏陀の胎児は本質的には仏陀自体にほかならず、「悟りの境地から見れば、すべての衆生は仏陀であり、仏陀・菩薩の集うこの世界は、仏陀の浄土（例えば阿弥陀如来の極楽浄土）である」と考えることができる。<br />
そして、観音菩薩は、同時に、慈悲の化身ともいわれる。これは、すべての衆生が、本質的には仏であり、仏性を有しながらも、それが未覚醒のために、今現在は大変苦しんでいる。これを深く悲しみ、それを取り除こうとする心（大慈悲）の象徴が観音菩薩とされているからである。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>&nbsp;３　弥勒菩薩の一元法則--自と他の区別・二分化を超える</strong></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>１．自と他は、物理的に精神的に一体であり、循環していること</strong></span>
</p>
<p>
自と他は、よく考えれば、本質的に一体のものである。実際に、自己は他に支えられ、自己も他を支えており、独立して存在してはいない。自分というものは、その身体も思考も、他に支えられて、相互に依存し合って存在している。
</p>
<p>
例えば、人は、生きるためには、毎日他の生き物の犠牲である食べ物を取り、そのため、自分の体を構成する分子は、絶えず他の生き物のそれと入れ替わり続けている。こうして、地球の生命圏を循環している分子を、自分も他の生き物も共有している。
</p>
<p>
思考においても、自分だけで作った考えなどはなく、他から得た大量の情報の結果でできており、逆に、自分の言動も、絶えず他に影響を与え、他の思考に関わっている。こうして、自分と他人の思考は、互いに独立したものではなく、自分も他人も、社会全体を循環する膨大な情報・思考を共有している。
</p>
<p>
また、地球の生態系・食物連鎖の中では、自己の生が、他の生き物に支えられているだけではなく、自己の死も、他の生を支えることになる。科学者によれば、ある生き物が死ぬと、その体の有機物は、他の生命体にほとんど再利用されるという。
</p>
<p>
実際に、地球は生命が誕生して以来３６億年もの間、無数の生命を育んできたが、これが可能であったのは、無数の生命が死んだからである。死がなければ、新たな生命が生まれることはない。人が死ななかったならば、人口爆発によって、とうの昔に人類は滅びている。こうして、地球の生態系とは、生まれる者と死ぬ者のバランス、生と死の循環によって、成り立っている。こうして、自と他は、物心両面で、相互に依存し合って存在し、相互に循環し、一体不可分となっている。
</p>
<p>
なお、輪廻転生を信じる立場からは、自分の生と死の間にも循環が生じる。生まれた者は必ず死ぬが、死んだ者は新たな生を受ける。この自分の生と死も表裏であり、生と死が循環している。自分の今生の体を失った後は、他の体を得る。
</p>
<p>
こうして、自分が死んだ後、自分の体の分子は、無数の他の生き物などを構成するものとなる。また、自分の心は、他の体に転生していく。よって、自分の真の身体とは、この無限の宇宙全体に広がっているもの、と解釈できるだろう。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>２．弥勒菩薩が説いた唯識思想における、自と他の区別を超える教え</strong></span>
</p>
<p>
ここでは、弥勒菩薩が説いた唯識と呼ばれる教えに基づいて、自と他の区別を超える教えをさらに深く広く理解してみよう。自と他の区別を超えるという視点から、特に重要な唯識の教えは以下のとおりである。
</p>
<p>
（１）三性の法則、特に、依他起(えたき)性(しょう)
</p>
<p>
これは、万物は他に依存して生起している、という教えであり、上で述べたことと一致する。
</p>
<p>
（２）主客同一、一人一宇宙
</p>
<p>
これは、外界の体験と呼ばれているものは、よく考えれば、実際には、外界の直接的な体験ではなく、自分の心の中の体験（脳の中のさまざまな情報処理の結果）である事実を重視した教えである。すなわち、他人とか外界といっても、それは、自分の心の中に現れた他人・外界にすぎず、あくまでも自分の中のものであるということである。
</p>
<p>
もう少し精密に説明すれば、五感や意識（六処）が違う生命体は、同じ場所にいても、体験する外界が大きく違う。その意味で、外界には、何か固定した実体のあるものが存在するのではなく、それは、外界をきっかけとしつつも、個々の生命体の五感と意識が作り出すものである。
</p>
<p>
そして、そこで感じる苦や楽も、外界をきっかけとしつつも、その主たる原因は、自分の中に内包されていた悪業（苦しみの原因）や善業（喜びの原因）が引き出されて生じるものである。実際、同じ場所・環境で、それを喜びと感じる人と、苦しみと感じる人がいる。これは、自分の心・業の現れである。これを言い換えれば、一人に一つの宇宙の体験があるということになる。
</p>
<p>
（３）阿頼耶識縁起
</p>
<p>
これは、世界の万物は、（すべての生命体が共有する）「阿頼耶(あらや)識(しき)」という根源的な意識が変化して現れたものであり、万物は阿頼耶識の変化したものとして、まさに同根であって一体である、といった教えである。
</p>
<p>
この思想は、心理学や科学に通じる面がある。例えば、ユング心理学では、すべての人々の意識は、多重構造をなしており、その最も深い部分に、通常は気づかない「集合的無意識」というものがあって、それは、すべての人々が共有している、自と他の区別を超えた意識であるとしている。これは、上記の阿頼耶識と非常によく似た概念なのである。
</p>
<p>
また、科学的な宇宙観でも、この世の万物は、ビッグ・バンから生じたもので、宇宙の創生期は、すべては一体であったとも解釈できる。さらに、量子力学では、万物は波動の性質を有しており、万物は波動レベルでは、宇宙全体に広がって重なり合い、一体として存在しているとも表現できる。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><br />
<strong>３．万物を一体と見て、愛すること</strong></span>
</p>
<p>
こうして、自と他の区別は、実際には存在しないことを理解して、万物が本質的には一体であると認識したならば、万物・すべての衆生を自己と区別せずに愛するという教え（四無量心）が出てくる。<br />
具体的には、他の苦しみは、他だけのものでなく、他とつながっている自分にとっても、その潜在的な苦しみ、過去や未来の苦しみを現していると考える。よって、他の苦しみを自己の苦しみと同じように悲しみ、それを取り除く心の働きを持つ。これを大悲という。
</p>
<p>
同じように、他の喜びは、他だけのものではなく、他とつながっている自分の喜びである。よく考えれば、自分の幸福は万物に支えられており、他の幸福は自分を支える力となる。また、他の幸福は、自分が他の良いところを見習うならば、自分の未来の幸福となるものである。よって、他に幸福を与える心を培う。これを大慈という。
</p>
<p>
よって、自と他を含めた万物を一体と見たならば、他の苦しみを取り除き、他に幸福を与えるという、大慈悲の実践をすることが、自分の苦しみを取り除き、幸福を高める道であることがわかる。これが、大乗仏教が説く、大慈悲、ないし四無量心の実践である。
</p>
<p>
なお、大慈悲ではなく、四無量心という場合には、慈と悲に加えて、喜と捨という心の働きが加わる。喜とは、他の幸福を喜ぶ心であり、捨とはわけ隔てなくすべてを平等に愛する心である。慈・悲・喜・捨の４つを合わせて四無量心という。
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong><br />
<span style="font-size: small">４．弥勒菩薩の船頭の菩提心</span></strong></span>
</p>
<p>
上記の唯識の教えに加えて、弥勒菩薩には、「船頭の菩提心」という教えがある。菩提心とは、すべての衆生を救うために仏陀の境地に至らんとする心である。そして、船頭の菩提心とは、弥勒菩薩が、すべての衆生を乗せて、解脱という目的地に向かう救済の船の船頭である、という意味である。
</p>
<p>
そして、そのポイントは、弥勒菩薩は、すべての衆生を先導しながら、すべての衆生とともに、解脱を果たすという意味があることである。これは、まさに自と他の区別を超えた心構えであり、解脱においても、すべての衆生と自分を区別することなく、それを同時に達成するといった心である。
</p>
<p>
また、自と他の区別を超えた視点からは、先ほど述べたように、真の自己（の身体）は、無限の宇宙に広がっていると解釈できる。また、真の自己の家族は、すべての衆生であり、真の自己の家は、宇宙全体であるとも表現できる。そして、すべての衆生とともに解脱する救済の船の船頭である弥勒菩薩にとって、真の自己の教団は、無限の宇宙そのものにほかならないのであろう。
</p>
<p>
そして、これは、自と他のすべてを平等に愛し、無限の宇宙に広がる意識（宇宙意識）を得る教えである。これにふさわしく、弥勒菩薩の原語のマイトレーヤは、慈愛の教師という意味がある。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
５．悪人は自己の反面教師</strong></span>
</p>
<p>
さて、万物は一体であるとか、万物が同根であるという視点で考えるならば、悪業をなす人がいたとしても、それは、自己の反面教師である意味を持っている。ここで注意すべきことは、自分が「悪い」と認識する存在も、同じ地球・社会にいる以上は、自分と全く無関係なのではなく、どこかしら自分とつながった存在であるということである。
</p>
<p>
よく考えれば、悪とされるいかなる存在も、そのものだけで生まれてきて、そのものだけが原因となって、悪をなすことはないことがわかる。この世が、本質的には一体である以上、社会や宇宙といった全体が、それを生み出し、育む中で、悪をなすに至っている。
</p>
<p>
この事実から、自分が悪と認識しているものが、自分や社会全体の問題を投影している反面教師、ないしは自分の鏡であることに気づくことができる。そして、自分を含めた全体の努力がなくて、単純にある特定の存在を悪として批判・排除したとしても、同じ類の悪が生まれ続けるという問題があることにも気づくことができる。<br />
なお、誤解がないように述べておくが、悪とされるものを反面教師と見るということは、当然のことながら、悪行を肯定しているのではなく、まったくその逆である。当然のこととして、悪行を戒め、善行は推奨すべきである。
</p>
<p>
<br />
そして、悪を減らしていくためにも、すでに他がなしてしまった悪行は、それが全体との関係で生じたことをふまえ、反面教師として自分と全体の向上のために活かすことが、同じ類の悪行を減らしていくために重要である。<br />
さらに、この考えによって、善い人は見本として、悪い人は反面教師として、すべてを憎しみなく受け止めて、すべてを愛する土台ができる。この愛の心が、多くの悪い行為を防ぐことはいうまでもない。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>４ 三仏の一元法則のまとめ</strong></span>
</p>
<p>
では最後に、三仏の一元法則をまとめておこう。
</p>
<p>
<br />
（１）釈迦牟尼の法則--苦と楽は表裏・一体であり、万物は恩恵・恩人である
</p>
<p>
よって、万物に感謝し、恩返しをすること。
</p>
<p>
<br />
（２）観音菩薩の法則--善悪・優劣は表裏・一体であり、万物に優劣はなく、仏の平等な現れである
</p>
<p>
よって、万物を尊重し、仏として育むこと。※個々の違いは、相互に助け合う上での役割の違い。
</p>
<p>
<br />
（３）弥勒菩薩の法則--自と他は本質的に一体であり、万物は一体である
</p>
<p>
よって、万物の苦しみ・喜びを自己の苦しみ・喜びとし、大慈悲の実践をすること。
</p>
<p>
<br />
そして、現代の多くの人は、①苦楽が表裏であることがわからず、快楽を貪り、苦しみを厭い、②優劣には実体がないとわからず、卑屈・自己嫌悪や、慢心と軽蔑に陥り、③自と他が一体であると理解できず、怒り・妬み・卑屈などさまざまな苦しみを抱え、自と他の双方への嫌悪があって、自己も他者も双方を愛せないのである。
</p>
<p>
しかし、心が浄化されて、すべての存在が、自分にとって恩恵であり、等しく尊い価値・役割があって、さらには、すべてが一体であると理解できれば、自分と他人の双方を含めた、万物を愛することができるのである。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<strong><span style="font-size: medium"><br />
５　補足説明--苦楽・善悪・自他が、表裏で循環すること</span></strong>
</p>
<p>
ここでは、一元法則のより正確な理解のために、苦と楽、善と悪、自と他といったものが、表裏であって、かつ、循環していることについて、補足説明して整理しておこう。
</p>
<p>
<strong><span style="font-size: small"><br />
１．苦と楽の表裏・循環</span></strong>
</p>
<p>
苦と楽の表裏・循環については、これまでも説いてきたとおりである。快楽を貪れば、快楽にとらわれることで、求めても得られない苦しみや、得たものを失う苦しみや、奪い合いの苦しみなどを含め、四苦八苦と呼ばれる苦しみが生じる。逆に、苦しみの経験は、その結果、快楽へのとらわれが静まることで、とらわれによる苦しみが減って、楽が生じる。こうして、楽が苦に、苦が楽に循環している。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
２．善と悪、優と劣の表裏・循環</strong></span>
</p>
<p>
前に述べたように、一面的な視点からは、善・優であるものが、別の視点からは、悪・劣となる。言い換えるならば、短所の裏に長所があり、長所の裏に短所がある。こうして、善悪・優劣は表裏である。
</p>
<p>
そして、これに基づいて、悪・劣が善・優に、善・優が悪・劣に循環する現象がある。例えば、悪・劣とされた者は、上記のように、①同じ苦しみを持つ者の気持ちを理解したり、②努力して苦しみを乗り越えて、同じ苦しみを持つ者を手助けしたり、③自分にこだわらずに、他を活かすことで、成長する可能性がある。
</p>
<p>
その一方で、善・優とされる者は、①そうではない者の苦しみを理解できず、②彼らを手助けすることができず、③自分の力に頼って、他を活かすことができない場合がある。これを言い換えると、他に冷淡であったり、ワンマン的になって、慢心によって落下したりするというケースである。
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<p>
<span style="font-size: small"><strong>３．自と他の表裏・循環</strong></span>
</p>
<p>
そもそも、無思考の状態では、自と他の区別は存在しない。自と他を区別して認識する意識が存在しない。それが、人が思考を始めると、その思考の中で、自と他の区別をして、自己という概念を認識すると、それと同時に、他という概念も生じる。同じように、逆に、他という概念を認識すると同時に、自己という概念も生じる。こうして、自と他という概念・認識は、表裏一体である。
</p>
<p>
また、前に述べたように、人は、自分の身体も思考も、他の身体と思考に支えられて存在しており、身体を構成する分子も、思考に影響を与える情報も、自分と他人の間を絶えず循環している。さらに、自己の生は、他者の死によって支えられ、また、逆に、自己の死は、他の生を支えることになり、他者が自己になり、自己は他者になり、互いが互いに循環している。
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<span style="font-size: medium"><strong>６　三仏の一元法則が一体であることの理解</strong></span>
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ここでは、楽と苦、善と悪（優と劣）、自と他の区別・二分化を超える、という三つの一元法則が、実際には、互いに表裏をなしており、密接不可分の関係があることを説明する。これは、そもそも、三仏の一元法則というものが、それぞれ別々のものではなく、一つの根本的な道理を三つの切り口で見た、表現の違いであるからと説明することもできる。では、一部は、これまでの繰り返しになる部分があるが、この点を説明しよう。
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<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
１．何が苦で、何が楽かは、自と他を区別する視点と、区別しない視点では、正反対になる</strong></span>
</p>
<p>
何が楽であり、何が苦であるかは、自と他を区別する視点と、自と他を区別しない視点では、正反対であるほど、大きく違ってくる。これは、苦と楽の区別を超える法則が、自と他の区別を超える法則と、表裏の関係にあることを示している。
</p>
<p>
まず、ここで、自と他を区別する視点とは何かというと、自と他を区別して、自己に愛著する、自己を偏愛する視点であり、仏教教義から見れば、利己的な視点である。これは、自分が他に勝って、他より優位に立つことで、幸福になるという考えである。この場合は、幸福は自分と他人の間で奪い合うものである、という考えになる。競争主義の現代社会では、これが一般的な幸福であり、幸福観である。
</p>
<p>
一方、ここで、自と他を区別しない視点とは、自と他を平等に愛する視点である。これは他に勝つのではなく、他を幸福にすることで、幸福になろうという考えである。この場合は、幸福は奪い合うものではなく、自と他の幸福は同時に強まるという考えである。
</p>
<p>
これは、仏教教義では、四無量心といわれている。四無量心とは、慈・悲・喜・捨の４つの心であり、具体的には、①すべての他者を慈しむ心（慈）、②すべての他者の苦しみを悲しみ、それを取り除く心（悲）、③すべての他者の幸福を喜ぶ心（喜）、④すべての他者をわけ隔てなく愛する心（捨）である。
</p>
<p>
さて、自と他を区別した利己的な視点において幸福とされるものは（現代の社会では、これが一般的に幸福といわれる場合が多いが）、自分の幸福の裏には、他の不幸があるということになる。
</p>
<p>
例えば、お金持ちになる、魅力的な異性を得る、おいしいものを食べる、名誉・地位・権力を得るといった幸福の裏には、他の苦しみがある。お金持ちとは、一般の平均よりお金を持っていることであり、自分が他人より多く持つということは、他人はその逆になるということである。
</p>
<p>
魅力的な異性も、実際には同性の間での奪い合いの対象であり、おいしい食べ物は他の生き物の犠牲によるものである。地位や名誉・権力は、ごく一部の人が得てこそ、意味を持つもので、その意味でやはり競争の対象である。
</p>
<p>
よって、自と他を区別せずに、他を幸福にすることで、幸福になろうとする四無量心の視点から見るならば、こういった利己的な（一般的な）幸福を得るということは、本当の幸福ではなくて、逆に苦しみとなる（おそれがあるものである）。
</p>
<p>
例えば、他との幸福の奪い合いに勝つということは、その裏側で、他の苦しみに対して冷淡になり、他の苦しみを取り除く力が弱り、また、他の幸福を喜んで、他と幸福を分かち合い、他を活かすという力が弱るということである。すなわち、四無量心による幸福を得る力は弱るということになる。
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<p>
その逆に、自と他の区別をする利己的な（一般的な）視点から、苦しみと感じられるものは、自と他の区別をしない四無量心の視点からは、幸福・楽になる可能性がある。
</p>
<p>
例えば、自分が他と比較して、いろいろ恵まれなかったり、他との競争に負けたりするといった苦しみを経験するならば、同じ苦しみを持つ他の気持ちを理解する力が生じる。また、その苦を取り除く手伝いをする力を培うことができる。そして、自分がある能力において、他人より劣っている場合の方が、自分が優れている場合よりも、他の能力を活かす力を培いやすい場合がある。
</p>
<p>
この典型的な例が、昭和の著名な実業家である松下幸之助氏であり、彼は、学がなかったから、他から謙虚に学び、体が弱かったから他人に頼むことを覚え、お金がなかったから丁稚奉公に行って商人の才を得たという。こうして、彼の場合は、自分の（他と比較して）乏しい学門・体力・財力が、他人の学門・体力・財力を活かす力へと変わり、大勢の人々の力を活かし、大きな企業の成功へとつなげたのである。
</p>
<p>
最後に、死のとらえ方も、自と他の区別をする視点と区別しない視点では大きく違う。自と他を区別する利己的な（一般的な）視点からは、最大の苦しみの一つとなるものが、自分の死である。しかし、これを自と他を区別しない四無量心の視点から見るならば、自分が死ぬことは、他の生を支えるものである、という全く別の見方が出てくる。
</p>
<p>
地球は生命が誕生して以来３６億年もの間、無数の生命を育んできたが、これは無数の生命が死んだからであり、死がなければ、新たな生命が生まれることはできない。人が死ななかったならば、人口爆発によって、とうの昔に人類は滅びている。地球の生態系は、生まれる者と死ぬ者のバランスで、成り立っているのである。
</p>
<p>
そして、私たちは、他の生き物の生命を犠牲にして、日々の糧を得て生きており、いわば、他の生き物の身体の供養を受けている。よって、自と他を区別せず、平等に愛する視点からは、日々自分が生きる上で、その犠牲となっている他の生き物に感謝するように努め、そして、自分が天寿を全うする時が来たならば、これまでの恩返しとして、他の生き物に自分の身体を捧げる（返す）つもりで、死んでいくという考えが出てくるだろう。
</p>
<p>
これは、死に対する嫌悪・恐怖を乗り越える考え方である。これは、決して自分の命を粗末にするという意味ではなく、天寿を全うして死ぬことを恐怖せずに、それを恩返しと位置づけて、喜びに変えるものである。
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<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
２．何が楽で何が苦かは、善と悪、優と劣を区別する視点と区別しない視点でも正反対になる</strong></span>
</p>
<p>
何が楽であり、何が苦であるかは、善と悪（優と劣）を区別する視点と区別しない視点の間でも、正反対になる。これは、苦と楽の区別を超える法則が、善と悪（優と劣）の区別を超える法則と、表裏の関係にあることを示している。
</p>
<p>
第一に、善と悪・優と劣の区別をする視点から見て、一時的に楽と感じられるものは、善と悪の区別をしない視点から見れば、一時的には楽であっても、長期的には楽ではなく、苦の因となり得るものである。<br />
例えば、優れているとされる人は、劣っている人の苦しみを理解したり、手助けをしたりする力は弱くなる。また、自分が優れていると、他人の力を活かす力は培えない場合もある。そして、劣っているとされる人に対して冷淡で、自分の力を過信するワンマン的なタイプになるおそれがある。
</p>
<p>
何でも自分の力でできると思い込み、いかなる成功や達成も、他の支えがあってこそ得られる、ということがわからず、謙虚な心や感謝の心が薄くなり、他を活かし、助け合ってこそ、自分も幸福になるということがわからない。これは、本質的に無智な状態である。
</p>
<p>
第二に、これとは逆に、善と悪・優と劣の区別をする視点からは、一時的に苦と感じられるものは、善と悪の区別をしない視点からは、長期的には苦ではなく、楽の因となる可能性がある。<br />
例えば、劣っているとされる者は、同じ苦しみを持つ者の気持ちを理解し、その手助けをしたり、また、自分にこだわらずに、他を活かしたりすることで、成長していく可能性がある。
</p>
<p>
昔からよく、苦労は買ってでもしろ、といわれるように、最初から優れていて、楽に幸福になることが、長期的には、逆に、不幸を招く可能性がある。美人薄命というのも、美人であれば、人格的な努力をせずに、幸福になれてしまうことが、長期的に不幸をもたらすことを意味しているのであろう。
</p>
<p>
よって、そうならないように、かわいい子には旅をさせよ、ということになる。逆に、さまざまな欠点・不遇があっても、人間万事塞翁が馬というように、それが幸福をもたらす可能性がある。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
３．自と他の区別は、楽と苦の区別や善と悪（優と劣）の区別によって生じる</strong></span>
</p>
<p>
自と他の区別をする意識の土台には、楽と苦の区別をする意識がある。しかし、仏教の法則は、楽と苦の区別はなく、苦楽は表裏であると説く。すなわち、善行を積む努力＝労苦によって、真に幸福になり、煩悩による一時的な快楽は、不幸をもたらすと説く。
</p>
<p>
しかし、人は、多くの場合、楽して幸福になりたいと考える。これは、楽と苦を区別する法則で、努力・労苦なくして幸福になりたいという意識である。そして、この楽と苦を区別する意識によって、自と他を区別する意識にも陥ることになる。
</p>
<p>
この典型的なパターンが、自分の悪い部分があっても、それを直視して、乗り越える努力を回避し、そうではなく、それを忘却しようとする場合である。この場合、他人に、自分と同じ悪い部分を見ても、それが自分の投影とは理解できずに、怒りが生じることになる。
</p>
<p>
また、他人の幸福や良い部分を見たときに、それに嫉妬がわくのも同じである。人は、それぞれの個性・役割を与えられており、努力をするならば、自分の個性・役割を活かして、幸福になることができる。しかし、努力を厭う人は、個々人に幸福になる道があるとはわからない。そのため、他人の幸福を見ても、それが自分の幸福とはつながらず、嫉妬という形で、自と他の区別が生じるのである。
</p>
<p>
また、この自と他を区別する心の原因として、努力を嫌がる心に加えて、もう一つあるのが、善と悪・優と劣を区別する意識である。<br />
自分の悪い部分を見ることは辛いことだが、善と悪を区別せずに、悪の裏に善があると理解できれば、その辛さがやわらぐ。自分の短所や失敗に関して、それを長所や成功の元として前向きにとらえ直すことができる。
</p>
<p>
逆に、それを理解できなければ、悪い部分は単に悪い部分でしかないから、それを直視することは、より難しくなる。こうして、善と悪の区別をしなければ、悪の裏に善があると理解できて、自分を善としたいがために、自分の暗部を見ずに、自と他を区別してしまう問題はやわらぐ。
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<span style="font-size: large">&nbsp;</span>
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<span style="font-size: large"><strong>第二章　発菩提心と六波羅蜜（六つの完成）</strong></span>
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&nbsp;
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ここでは、大乗仏教の最も重要な実践課題である発菩提心と六つの完成について述べたいと思う。これは、大乗仏教が目指す仏陀の境地、智慧と慈悲を獲得するためのものである。
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<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<strong><span style="font-size: medium">１　六つの完成とは何か</span></strong>
</p>
<p>
六波羅蜜は、六つの完成という意味である。仏教の伝統では、大乗仏教で、すべての衆生の済度のために、仏陀の境地に至ろうと決意し（発菩提心）、菩薩の道を歩む者がなすべき実践項目である。具体的には、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの修行を完成させていくことである。
</p>
<p>
六つの完成の修行の恩恵は、煩悩を鎮め、現象・事物をありのままに理解する力＝智慧を増大させ、すべてを愛する大慈悲・四無量心を増大させるものである。これを仏教の専門用語で言い換えると、六つの完成とは、仏陀の境地に至る条件とされる「智慧」と「方便」を形成することである。智慧とは、縁起・空といった法則の悟りであり、方便とは、利他・功徳を積む手段のことである。
</p>
<p>
そして、六つの完成でいえば、先に述べた、布施から禅定までが、普通は方便とされて、最後が智慧となる。この智慧と方便は、お互いを助け合って増大していき、智慧と方便が一体として体得された境地を仏陀の境地という。ただし、智慧の修行という場合、縁起・空をはじめとする法理を教学・思索して修習＝瞑想する修行、すなわち思考上の修行をいい、方便の修行といえば、実際の行為によって徳を積む修行をいう場合もある。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>２　六つの完成の前行</strong></span>
</p>
<p>
六つの完成を実践する前に、チベット仏教などでは、次の修行を行なう。これは、六つの完成の土台となり、非常に重要である。六つの完成とは、衆生済度を目指す菩薩の実践であるが、この前行は、それが、独りよがりで高慢な「済度もどき」にならないように、その健全な土台を作る。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>１．平等心の瞑想</strong></span>
</p>
<p>
これは、人間関係は無常であり、輪廻転生の中で、味方が敵に、敵が味方に変わってきたということを考え、すべての人々・生き物を平等に見る瞑想である。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>２．因果の七つの秘訣の瞑想</strong></span>
</p>
<p>
これは、以下の七つの瞑想である。
</p>
<p>
① すべての衆生は、無数の過去世のいずれかにおいては、自分の母などであったこと<br />
があり、または、敵対者として自分が法則に向かう動機を与えてくれた存在となっ<br />
ており、<br />
② こうして、すべての衆生に多大な恩を受けたと考え、<br />
③ すべての衆生の恩に報いる（恩返しをする）心を培い、<br />
④ すべての衆生を（恩人とみなして）愛し、<br />
⑤ その恩人たる衆生の現在の苦しみを悲しみ、<br />
⑥ 自分がその苦しみを引き受ける決意をし、<br />
⑦ その救済のために、自分が仏陀の境地に至ろうとする心<br />
＝菩提心を起こす（発菩提心）
</p>
<p>
なお、この修行の前に、上記の平等心の瞑想によって、すべての衆生を平等に見る心を培い、この瞑想と合わせて、すべての衆生を平等に恩人と見るように努める。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
３．自他平等利他行の瞑想</strong></span>
</p>
<p>
これは、人が通常は、自と他を区別し自分だけを愛する傾向があることに対して、①自己だけを愛する不利益と、②他を利する利益をよく考え、③自分の幸福のすべてを他に与え（大慈）、④すべての他の苦しみを自分が引き受ける（大悲）ことができるようになる祈願をするものである。
</p>
<p>
ここで、自と他は、別々の存在のようで、実際には密接不可分であることを考え、他の幸福は自己の幸福につながり、他の苦しみも自己の苦しみにつながり、自と他の幸福と不幸が、本質的には一体であることを修習するとよいだろう。
</p>
<p>
なお、この点の参考教材としては、『ひかりの輪の密教儀式（密教加行の儀式次第・増補改訂版）』の中の発菩提心の瞑想や、特別教本の『仏教講義・悟りの道程２　悟りへの道と大乗の教え』などがあるので参照されたい。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>４．三仏の一元法則が大慈悲・発菩提心を支える</strong></span>
</p>
<p>
以上が、伝統仏教における六つの完成の前行である。しかし、ひかりの輪においては、三仏の一元法則の修習が、この前行と同じ効果（ないしそれ以上）を持つと考えている。この法則と、六つの完成の前提である大慈悲・発菩提心が、以下のように深い関係があるからである。
</p>
<p>
第一に、釈迦牟尼の法則は、楽と苦の区別・二分化を超える教えであるが、それは、楽の裏に苦があり、苦の裏に楽があるという意味である、よって、その結果は、①快楽を貪らずに、足るを知り、与えられたものに感謝し、②苦しみを喜びととらえ直して感謝するという実践に結びつく。
</p>
<p>
そして、これは、万物に感謝する教えである。与えられている幸福に感謝し、かつ苦しみに感謝するならば、万物・森羅万象に感謝することになる。なお、釈迦牟尼の法則とは別に、前回の特別セミナーの教本の中に、「感謝の法則」として、①知足の感謝、②転換の感謝、③万物の感謝の三つの感謝を説いたことを思い出されたい。これと同じことである。
</p>
<p>
そして、万物に感謝することが、発菩提心の前提として、すべての衆生を恩人として感謝すること（因果の七つの秘訣の第二）と結びつく。すべての衆生をかつての母親などの親族・友人として、また、かつての敵対者として感謝するのである。
</p>
<p>
母親などに感謝するには、彼らに与えられた幸福の大きさを考え感謝すること（足るを知る感謝）がポイントである。内観の実践などは、この具体的な実践である。足るを知らず、貪りが多く、常に自分と他人（自分の親と他人の親）を比較するなどして不満の多い人は、親にも感謝が少ない。
</p>
<p>
また、敵対者に感謝するためには、苦しみを喜びととらえ直すことが必要であることはいうまでもない。敵対者の与える苦しみは、私たちが真理に向かう動機となり、心身を引き締め強くし、自我執着を放棄するといった実践を促す愛の鞭となり、六つの完成の中の重要な実践である忍辱の実践において、必要不可欠なものである。こうして、敵対者は、日常生活において、神仏の与える、悟りの試練ということもできるだろう。
</p>
<p>
第二に、観音菩薩の法則は、善と悪（優と劣）の二分化・区別を超えて、すべての衆生・万物を仏の平等な現れとして尊重する教えである。これは、すべての衆生は平等に仏性があって、未来の仏陀である、という理解である。
</p>
<p>
そして、発菩提心の教えでは、①すべての衆生に仏性を認めつつも、②その仏性がいまだ覚醒していないために、すべての衆生が苦しんでいることを悲しみ、③ 彼らを救うために、その仏性を覚醒させるしかないが、その手伝いをするためには、まず、自分が仏性を覚醒させること＝仏陀の境地を得る以外にはないと理解し、④仏陀の境地を求める心＝菩提心をおこすのである（発菩提心）。
</p>
<p>
よって、すべての衆生が仏性を有し、未来の仏陀であるという理解がなければ、すべての衆生を救うために、まず自らの仏性を覚醒させる（仏陀の境地に至ろうとする）決意をする意味はまったくない。
</p>
<p>
また、衆生済度は、表現を変えると、すべての衆生の仏性の覚醒のための奉仕である。それは、宇宙が仏の現れであり、その中のすべての衆生は、母なる仏に育まれている仏の胎児であり、私たちは、母なる仏とともに、仏の胎児が一人前の仏に成長するように、奉仕するのである。
</p>
<p>
これは、仏の胎児が仏になるための奉仕であるから、哀れみとか衆生済度といった言葉を使っていても、その対象を見下しているのではなく、奉仕の対象に対して、最大限の尊重を持った考え方であることに注意する必要がある。
</p>
<p>
第三に、弥勒菩薩の法則は、自と他の区別・二分化を超えて、万物を一体と見る教えである。これと発菩提心の教えとの関係は、因果の七つの教えの第六や、自他平等利他行の教えに出てくる、他の苦しみを自己の苦しみとして引き受ける点である。
</p>
<p>
自と他を含めたこの世の万物が一体であれば、自分と他人の幸福と不幸も一体であり、他の苦しみを取り除くことが、自分の（未来の）苦しみを取り除くことであり、自分の幸福を他に与えることが、（他の幸福が支える）自分の（今後の）幸福につながることになる。
</p>
<p>
これをわかりやすくいえば、この世界で本当に幸福になる条件は、この世界のすべてが幸福である以外にはなく、自分だけが幸福であればいいとか、今だけ幸福であればよいというのは、本当の幸福には至ることができない無智・慢心・怠惰である。
</p>
<p>
まとめるならば、
</p>
<p>
（１）釈迦牟尼の一元法則--苦楽の区別・二分化の超越
</p>
<p>
&rarr; 万物を恩恵、万人を恩人と見て感謝<br />
&rarr; 感謝に基づく恩返しとしての大慈悲<br />
&rarr; 発菩提心
</p>
<p>
（２）観音菩薩の一元法則--善悪（優劣）の区別・二分化の超越
</p>
<p>
&rarr; 万物を平等な仏（仏性）の現れとして尊重<br />
&rarr; その仏性の覚醒を手伝う大慈悲<br />
&rarr; 発菩提心
</p>
<p>
（３）弥勒菩薩の一元法則--自他の区別・二分化の超越
</p>
<p>
&rarr; 万物が一体であると認識<br />
&rarr; 他の苦を自己の苦と見て取り除く大慈悲<br />
&rarr; 発菩提心
</p>
<p>
ということになる。
</p>
<p>
こうして、大慈悲・発菩提心の心は、三仏の法則を土台としており、万物への感謝、万物への尊重、万物を一体と知る実践を日々培うべきである。
</p>
<p>
また、弥勒菩薩は、自己の未完を自覚し、５６億７千万年の巨大な時を天界で修行した後に、如来として降誕するという。これは、仏陀の境地に至り、済度の時が来るまで、長い間、謙虚さを保ち、忍辱（忍耐）と精進（努力）をし続け、大きな功徳を積み上げる菩薩の心構えを象徴している。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>３　弥勒菩薩の船頭の菩提心・一元法則の究極</strong></span>
</p>
<p>
ここで、菩提心に関連して、弥勒菩薩の船頭の菩提心という教えについて紹介しておく。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>１．弥勒菩薩とは</strong></span>
</p>
<p>
弥勒菩薩は、釈迦牟尼に次ぐ未来仏とされ、大乗の象徴仏ともされる。５６億７千万年後に地球に下生し、数百億もの人々を悟りに導くという。いまだ仏陀になっていないという意味で、未完の菩薩とよくいわれるが、自己の未完を自覚し、５６億７千万年もの長い間、修行に努めて、いったん下生すれば地球のすべての衆生を悟りに導くという。
</p>
<p>
そして、この弥勒菩薩にちなんで、弥勒菩薩の船頭の菩提心といわれる教えがある。これは、弥勒菩薩は、すべての衆生とともに解脱する菩提心を有しているというものである。船頭の菩提心という理由は、すべての生き物が、解脱に向かう船に乗っているとすれば、その船の船頭という意味である。この教えの重要性は、自分の解脱と、すべての他の解脱を一体・同時達成のものとして、とらえていることである。
</p>
<p>
こうして、仏教における弥勒菩薩の位置づけには、二面性があると私は解釈している。一つは、釈迦牟尼如来に次いで、仏陀・如来となるという、他と比較して非常に優れた存在であるという位置づけである。もう一つは、自己の未完を自覚し、長い間修行に努め、下生した時には、地球のすべての人々を悟りに導くなど、すべての衆生の解脱と自分の解脱が一体・同時という位置づけである。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
２．利他＝利己という思想</strong></span>
</p>
<p>
さて、自と他が一体であるという世界観に基づくと、真の完全な幸福は、この宇宙のすべての苦しみがなくなった時（すべての衆生が仏陀の境地に到達した時）こそ達成される。なぜならば、すべての存在はつながっており、苦しんでいる者がいる限り、この世のどこかに苦しみがある限り、それとつながっている自分も、完全には解放されていないからである。
</p>
<p>
こうして、利他＝利己であるならば、仏教教学においては、利他の教えの大乗と、利己の教えの小乗の区別さえなくなる。小乗の教えは、貪りや怒りといった現世への執着を放棄することによって、一定の条件の下では、苦しみが生じなくなった状態にすぎず、それは決して永続的なものではなく、やはり無常なものであり、小乗には、それを理解しない無智が残っているということになる。
</p>
<p>
こうして、貴方が修行者である場合、本当に利他と利己、大乗と小乗の区別が根絶されるならば、「自分だけ悟れればいい」という意識や、「他人はどうでも今の自分が幸福であればよい」という意識、修行の進歩などにおいて法友と闘争・嫉妬する意識が払拭されていく。
</p>
<p>
よって、仏教教学上の表現をとれば、小乗や、自己満足の強い欲天や、妬みの多い阿修羅といったカルマを超えることになる。そして、法友や他の宗教に対しての闘争心、そして、教団や宗教の世界での名誉欲・権力欲・支配欲、そして、それらが得られないことによる苦しみ、怒り、焦りも滅することになる。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
３．自と他の区別の超越と、楽と苦・善と悪の区別・二分化の超越の同一性</strong></span>
</p>
<p>
なお、自と他の区別をなくすには、それと同時に、善と悪、楽と苦の区別をなくすことを含めた、ひかりの輪の説く、三仏の法則全体の悟りが必要である。まず、自と他の区別を超越して、利他の修行を行なうことは、利他の労苦こそが、真の楽の道であることを理解することにほかならない。これは楽と苦の区別を超えている状態である。
</p>
<p>
逆に、楽と苦の区別をして、目先の楽にとらわれる者は、長い時をかけて利他の実践をすることが、自分の真の楽の道であることが、まだよく理解できていない。より正確にいえば、長い時間をかけても他を救う道の方が、自分の目先の楽にとらわれて、いつまでも真の幸福に至れない迷路にはまるよりも、本当はより早く、より楽に幸福になれる道であることがわかっていないのである。
</p>
<p>
次に、自と他の区別を超越して、利他の修行を行なうことは、当然に、善と悪の区別を超え、すべての衆生が未来の仏陀であるという認識と一体である。すべての衆生に仏性があり、未来の仏陀であるという考えがなければ、利他の行為は空しいものとなる。
</p>
<p>
また、逆もまた真なりである。善と悪の区別を超えて、すべての衆生が未来の仏陀であると考えるならば、すべての衆生は未来に仏陀に至る一本の道を歩んでいると考えられるから、自と他の区別もなくなっていくのである。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>４．真の自己は無限の宇宙、真の家族はすべての生き物という思想</strong></span>
</p>
<p>
なお、自他の区別を超えた状態では、真の自己は無限の宇宙であり、真の自分の家族・教団・会社・国は、無限の宇宙となり、そのすべてを平等に愛する意識となる。その中では、自我執着に基づいた、家族・教団・会社・国などといった集団の中にまつわる、自我意識に関連する名誉欲・権力欲・支配欲は止滅していく。
</p>
<p>
そして、真の教団は宇宙である以上、宇宙全体＝すべての衆生が導きの対象である。ひかりの輪という私たちの教団でさえ、今生を超えた延々と続く輪廻転生の中では、一時的な組織にすぎない。こうした、広大無辺な心と永遠の精進の心を培うべきである。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>５．真の救済・奉仕とは、仏＝宇宙の時空間の流れに沿った奉仕</strong></span>
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衆生への奉仕・衆生済度の実践は、宇宙こそが衆生を育む仏の現れであるから、宇宙の時空間の流れが仏の救済活動そのものである。よって、その時空の流れ＝仏の意思に沿って、仏が今、自分に与えている役割は何かを推し量りつつ、その奉仕・救済活動のお手伝いを、遠大な時の間、焦らず弛まず延々と行なうのである。
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しかし、自我執着に基づく自分の活動を仏の救済活動と取り違えている場合は、権力欲・支配欲が生じることになる。衆生済度を仏＝宇宙によるものではなく、自分がするものと錯覚し、自分の救済活動＝自分の教団の活動だと錯覚して行なうならば、「そこで自分が早くうまく救済したい」という欲求や、そうならない場合の怒り・いらだち・焦りが生じる。
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これは、自と他の区別・自我執着であり、楽と苦の区別・楽して救済したいという無智であり、権力欲・支配欲等の煩悩につながる。そして、オウム真理教の麻原元教祖のように、善悪の区別も含まれた意識でもある。よって、延々と流れている宇宙の時空の神への帰依は重要である。
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<span style="font-size: small"><strong><br />
６．時の神、時空の神との一体化の重要性</strong></span>
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よって、他者への奉仕・衆生の済度においては、焦らずに、時の流れと一体化することが重要である。衆生の心の進化のスピードは、単純に、それが速いことが善であり、遅いことは悪なのではない。自分が、仏である大宇宙の流れ（大宇宙の意思）と合致することが大切である。
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なお、時は、非常に偉大である。時を経て、すべては無常に移り変わる。苦が楽に、楽が苦に、善が悪に、悪が善に、自己が他に、他が自己に変化・循環していく。そして、時を経てなすさまざまな経験が、すべての衆生の心を徐々に成熟させていき、凡夫を仏陀に育てていく。
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その意味で、時の神である、マハーカーラ（サンスクリット語で大いなる時という意味、日本語では大黒天）、カーラチャクラ（時の輪という意味）が、ひかりの輪の神仏曼荼羅に出てくるのである。マハーカーラは、大黒柱のヴィジョンにも関係する。
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さらに、未完の菩薩・未来仏として、５６億７千万年の時を、謙虚に辛抱強く修行するとされる弥勒菩薩も、この時の神の系統であると解釈できるだろう。そして、ひかりの輪の神仏曼荼羅で、その弥勒と同じ系統である薬師如来も、時と関係のある仏さまである（月光菩薩・日光菩薩を脇侍とし、時に関係する十二神将を従える）。そして、ひかりの輪と縁がある薬師如来の化身とされた徳川家康も、忍耐を強調した遺訓を残した。
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また、ひかりの輪の宗教的な流れの原点となる宗教的な体験の一つに、私の草津での瞑想修行と七重の虹の体験がある。それは、６月１０日の時の記念日のことであった。その時に、天空に、太陽の周りに虹の輪が現れるとともに、カーラチャクラ尊の形によく似た彩雲も現れた。また、その草津の温泉は、薬師如来の祝福・聖地である。
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また、現在ひかりの輪の東京世田谷・烏山の本部と、正確な南北の位置関係にある聖地である日光は、開山された際に、大黒天の守護があったという伝説があり、神道の聖地としても、大黒天と一体視される大国主命が信仰対象となっている。
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そして、この時の神と一体化した精神で、善悪の区別、苦楽の区別、自他の区別を超えて、衆生への奉仕・救済のお手伝いをしなければならない。すなわち、煩悩が少ない者と多い者によって、善悪の区別をせず、調御しやすい者と調御し難い者によって、苦楽の区別をせず、教団の内と外によって、自と他の区別をせずに、奉仕するのである。
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<span style="font-size: medium"><strong>&nbsp;４　六波羅蜜（六つの完成）と十八の実践</strong></span>
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では以下に六つの完成自体の説明を行なう。六つの完成とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの修行を完成することである。一つ一つ説明する。
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<span style="font-size: small"><strong>１．布施--三つの布施</strong></span>
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第一の布施は、財施である。これは、財物を施すことである。また、広くは労働を奉仕することも含む。財物は人を真に幸福にしないにもかかわらず、現代社会は財物のとらわれが強く、物欲にあふれ、拝金主義の世界であるから、それから解放されるためには、この実践は非常に重要である。
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第二の布施は、無畏施(むいせ)である。これは、文字通り解釈すれば、畏れ（恐れ）の無い状態を施す、という意味である。言い換えると、他を恐れから守ることである。そして、これは、その裏に、怒りによって他を攻撃することを避けるという意味がある。
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第三の布施は、法施である。これは、法則を施すということである。法則を施す＝教えると、自分の理解も深まるため、自己の悟りと利他を求める者にとって重要な実践である。
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さて、法施とは、ちまたでいわれる宗教団体の自己拡大欲求に基づくものではなく、すべての衆生を自分の恩人・未来の仏陀と見て、自分と他者を区別せずに、法則を分かち合おうとする心に基づいて、行なうべきものである。その意味で、今生において法則に縁のある人たちすべてに対して、（千手観音菩薩のように）手をさしのべるくらいの心構えが必要である。
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もちろん、手をさしのべた結果として、縁があって法則を学ぶかどうかは、もっぱら相手に委ねられる。仏教の教えの達成は、自発的な意志が重要視されるから、当然のことだが、ちまたでいわれるような宗教団体の無理な勧誘などは全く意味がない。
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では具体的には、どのような法施を行なうかについては、後述する「２１世紀のための宗教の革新」のところを見ていただきたい。会員を増やして教団を膨張させるということを主眼としたのではなく、人類社会全体・万人に開かれた新しいタイプの教団・修行の場を作るのである。
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話を元に戻すと、自分の怠惰のために、他と法則を分かち合う実践ができなければ、「自分だけが法則によって幸福であればいい」という、自己中心的な心の働きを乗り越えることができない。法則を、縁あるすべての人と分かち合うことにより、広く大きな心を作るのである。
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なお、法施がしにくいと感じる場合は、まず、自と他を区別しないことを含めた教学が不足していると考えるとよいだろう。あらためて、教本を教学したり、発菩提心を含めた密教儀式などをしっかりと行じたりするとよいと思う。
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最後に、布施の実践は、法施に限らず、財物や精神的な安寧(あんねい)について、他と分かち合うことであるから、「自分だけ良ければいい」とか、「自分が独占したい」という心の働きを弱めることができる。こうして、自と他の区別を和らげ、利他の心を培うことになるから、智慧と慈悲を体得するために重要な法則である。そして、布施以下の持戒・忍辱・精進・禅定・智慧も、本質的には、これと同じ恩恵がある。
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<span style="font-size: small"><strong>２．持戒--三つの根本戒と十戒</strong></span>
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持戒は、例えば、仏陀の説いた十戒（＝十悪をなさないこと）を護持することである。十悪とは、①殺生、②偸盗(ちゅうとう)（盗み）、③邪淫、④妄語（嘘）、⑤綺語（必要のない言葉）、⑥悪口(あっこう)、⑦両舌（仲違いさせる言葉）、⑧貪り、⑨怒り、⑩無智（仏法を理解せず、現象をありのままに見ることができない）である。
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この十戒の根本は、最後の三つの心に関する戒（貪り・怒り・無智＝三毒を避ける）ということができる。この三毒は、根本的な煩悩であるとされ、これから他の悪行も生じるのである。例えば、殺生は主に怒り、偸盗は主に貪り、邪淫は主に無智が原因となることが多い。また、妄語・綺語は主に無智、悪口・両舌は主に怒りが原因となることが多い。
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<span style="font-size: small"><strong>３．忍辱--三つの忍辱</strong></span>
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忍辱の第一は、物質的な困窮に耐えることである。第二は、非難・批判に耐えることである。第三は、法則の理解の難しさに耐えることである。
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この忍辱の実践は、大乗の修行の中でも非常に重要だといわれている。大乗の実践は、その根幹に、万物への感謝がある。そして、忍辱は、単に苦しみに対する忍耐とか、とらわれの放棄といったものにとどまらず、苦しみを喜びとして、苦しみに感謝するという教えが含まれている（転換の感謝）。それでこそ、敵対者を含めた万物への感謝が生じ、万物を恩人と見た発菩提心の土台となるのである。
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なお、三つの忍辱と三つの布施は密接につながっている（表裏である）。財物を施すことは、物質的な困窮に耐えることと表裏であり、怒らずに他を恐れから守ることは、他からの非難・批判に対して怒らずに耐えることと関係し、法則を施すことは、法則の理解（及び法則を理解させること）の難しさに耐えることと表裏である。
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さらに、布施と持戒と忍辱には共通点がある。三つの布施と三つの忍辱がつながっているが、この三つの布施と忍辱は、三つの根本戒と合致している。というのは、財施は、貪りを弱め（財物は貪りの原因）、無畏施は、怒りを弱め（怒らずに守るから）、法施は、無智を弱める（法則は無智を弱めるから）。よって、三つの布施・三つの戒・三つの忍辱で、三毒を和らげることができる。
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なお、布施・持戒・忍辱の実践と、本質においてよく似ているのが、修行者が悟る上でなすべき三つの放棄である。三つの放棄とは、いろいろな表現が可能だが、仏教用語でいえば、①我所執(がしょのしゅう)（自分のものに対するとらわれ）、②我執(がしゅう)（自分に対するとらわれ）、③邪見（間違った考えに対するとらわれ）である。邪見が、我執・我所執を形成する源であることに注意されたい。
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また、ヨーガのチャクラの概念でいえば、①下位の三つのチャクラ（財物・異性・食べ物）の放棄、②虚栄心（プライド）や妬みの放棄（アナハタ・ヴィシュッダに関係）、③間違った善悪の観念のとらわれの放棄（アージュニァーに関係）と表現できるだろう。
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一つ目は物欲などの放棄で財施・貪りの止滅と関連し、二つ目の我執ないし虚栄心・プライドは、怒りの原因となることが多いから、無畏施・怒りの止滅と関連し、三つ目の間違った考え方や善悪の観念は、法施・無智の止滅に関連する。
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<span style="font-size: small"><strong><br />
４．精進--三つの精進</strong></span>
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精進の第一は、決起の精進である、これは、困難を感じても、決意してダルマの実践に入ることである。人は概して、「楽して幸福を得たい」と思うものだが、ダルマが説く真理は、真の幸福とは、善行を積み上げる努力を経て達成されるものである。よって、常に楽を求める精神からは、ダルマの実践は困難に思えるが、実際にはそれが真の幸福の道であるから、これを乗り越える決起の精進が必要である。
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第二は、実行の精進である。これはダルマの実践を遅らせないことである。人は、「今さえ楽であればいい」と考えがちだが、今日できることを明日に延ばすほど、実際には苦しみが増大していくのであることを理解し、今日できることは今日実行する精進が必要である。
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第三は、継続の精進である。これは、たゆまずダルマを実践することである。人は、何ごとにつけても、ある程度修行が進むと、途中で気を緩め、修行から離れてしまう傾向があるので、これを乗り越えるのが、継続の精進（たゆまぬ精進）である。
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この精進は、法則の実践において、とてもよく問題となる無智・怠惰・慢心を滅するものである。第一の決起の精進は、「楽して幸福になりたい」という無智を超えるものである。第二の実行の精進は、「今さえ楽であればよい」という無智を超えるものである。そして、第三の継続の精進は、「焦らず弛まず努力せずに楽をしたい」という無智を超えるものである。
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また、精進とは、発菩提心に基づいた六つの完成の中の実践であるから、それは、すべての衆生の仏性の覚醒への奉仕に対する精進であることはいうまでもない。そして、私たちが、一元の法則の教学をなして、それを現実世界で行為として実現するのが、精進をはじめとする功徳の実践である。
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よって、精進の実践とは、教学・行法などによって、自と他、善と悪、楽と苦を区別せずに、すべての衆生の苦しみを取り除くことが、自己の苦しみを完全に取り除くことだと理解し、その教えに、自分たちの日々の実践を合致させて、未来永劫、焦らず弛まず、ひたすら衆生への奉仕・衆生済度を行なうことである。
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<span style="font-size: small"><strong>５．禅定--三つの禅定</strong></span>
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禅定の第一は、未真理の瞑想である。これは、まだ、十分にダルマの真理に基づいた瞑想に至っていない段階の瞑想である。教学がしっかりとできていないと、与えられる瞑想をなしても、その深い意味がわからず、瞑想上の気持ちよさなどに意識を取られる場合が、この場合である。
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第二は、真理の論理的な瞑想である。これは、ダルマの真理に基づいた瞑想をしているが、それが依然として論理的な思考に基づくものであって、ダルマの真理を直接体験している段階には至っていない。相当に高い段階ではあるが、まだ、煩悩が十分に滅してはいない。
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第三は、真理を直接体験している瞑想である。これは、ダルマの真理を直接体験している瞑想であり、論理・思考によらない瞑想である。
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<span style="font-size: small"><strong><br />
６．智慧--三つの智慧</strong></span>
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智慧の実践の第一は、教学による智慧である。教学といっても、この段階は、ダルマの真理を知識として吸収しているにすぎない段階である。知識としては吸収しているが、まだ十分な思索・分析がなされておらず、ダルマの正しさを論理的にも体験的にも理解していない。
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<p>
第二が、推理智（論理智）の智慧の段階である。これはダルマの真理を論理的に分析・思索し、十分に納得している段階である。しかし、この理解は、ダルマの真理の直接体験による理解ではなく、論理によって間接的に、ダルマの正しさを理解した＝推理した段階である。
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第三が、真理を直接体験している智慧である。これはダルマの真理を（瞑想によって）直接体験して得られた智慧である。
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なお、上記のように、禅定と智慧は連動している。これは、禅定＝瞑想の結果、心が静まると、智慧が生じるからである。これは、止観の教えの中にも出てくる。すなわち、瞑想によって心が静まる（＝止）と、正確な観察が生じる（＝観）という教えである。
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<p>
以上、六つの完成・十八の実践は、煩悩を止滅し、利他の心を培い、仏陀の境地に至るために、私たちの修行に欠かせない重要な実践項目であることをわきまえ、日々励行(れいこう)するべきである。
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<span style="font-size: medium"><strong>５　付記--オウム真理教の六波羅蜜の解釈の過ちを正すこと</strong></span>
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六波羅蜜（六つの完成）は、大乗仏教の伝統である素晴らしい教えであるが、オウム真理教でも六波羅蜜を「六つの極限」と称して実践した点を考慮して、ひかりの輪の六つの完成の解釈が、どのようにオウム真理教の問題を解決し、大乗仏教の伝統の正しい解釈であるかを以下に示すことにする。
</p>
<p>
それは、六つの完成を実践する準備修行と位置づけられている、①平等心の瞑想、②因果の七つの秘訣の瞑想、③自他平等利他行の瞑想といった、三つの前行に端的に表れている。このことを以下に具体的に説明しておく。この三前行の教えのエッセンスは、まさに三仏の法則と同じでもあり、その意味で、三仏の法則こそが、オウム真理教の間違いを解決する重要なポイントである。
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まず、平等心の瞑想では、輪廻の中では、敵味方が頻繁に入れ替わり、各生での人間関係には、固定的な実体がないことを修習する。これに対して、オウム真理教の教えでは、この世界は、過去世から麻原元教祖の集団と悪の集団があるかのようなイメージがあり、これが一連の事件を支える信者の精神構造の一部となった面がある。
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しかし、実際には、かつての弟子たちは、私たち自身を含めて大半が脱会し、元教祖を否定するに至ったのが、今生でも確認できる事実である。また、性急に日本の王となろうとし、サリン散布などの非人道的な暴力行為に出た後に、弟子の告発にあって逮捕された元教祖の人格は、比叡山の焼き討ちをなし、明智光秀の裏切りにあった戦国時代の織田信長の性格ともよく似て、部下・家来に裏切られて破滅するタイプであり、その主従関係は、離反が相次ぐ、非常に不安定＝無常なものになるはずである。
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次に、因果の七つの秘訣の瞑想は、すべての衆生・万物に対する感謝と恩返しを養う教えである。これは、オウム真理教の際に陥った、社会を善業多き魂である自分たちと、悪業多き魂である他者に分けて、「社会が自分たちを弾圧している」という被害妄想や、「その中でキリストの集団となる」という誇大妄想とは、正反対の教えであることは明らかであろう。
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そして、この被害妄想の背景になったものと推察されるのが、元教祖の幼少期における不遇であるが、親や周囲に対する不満・被害妄想といった人格の歪みも、法則に基づいて、感謝の実践を行なうならば解消される（例えば、知足・転換・万物の三つの感謝の法則や、内観法などがその実践の具体的な例である）。
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<p>
よって、貪りを超えて、足るを知り、与えられてきた幸福に感謝すること、そして、苦しみを喜びとして敵対者にも感謝するといった教えは、貪りや怒りの捨断とともに、謙虚さや愛を育んで、誇大妄想や被害妄想を予防することに役立つのである。
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<p>
最後に、自他平等利他行の瞑想は、自と他の区別を超えた教えである。伝統的な自他平等利他行の思索は、ダライ・ラマ法王などの書籍（『ダライ・ラマ瞑想入門』）によれば、一般的に、利他の行為の利益と、利己・エゴの行為の不利益を考えるというもので、ある意味で道徳的な感じのものである。
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それに対して、ひかりの輪の自他平等利他行は、より徹底的なもので、具体的には、三仏の法則などの修習によって、自と他は本質的に一体であるという世界観に基づいて、利他＝利己、真の自己＝全宇宙・万物、といった認識を確立する。
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この教えによって、オウム真理教に見られた、非信者＝社会の悪業を、教祖や信者＝教団の悪業とは別物と見て、非信者を消去することで（オウム真理教の用語でポアと呼ばれた行為）、この世界を理想の世界にするという発想を乗り越えることができる（なお、オウム真理教でのポアという言葉の使い方は、チベット密教のポアという言葉の使い方と異なる面があるので注意されたい）。
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そして、社会の悪業は、自分たちの悪業とつながったもの、投影したものであると考えて、謙虚さを保って、自らの努力を深めることが、社会を浄化することにつながるという考え方を持つことができる。これは、一元の法則を理解する智慧に基づいて、長い間かけて衆生済度を実現するという、忍辱（忍耐）と精進の修行にほかならない。
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それから、六つの完成の無畏施についてであるが、ひかりの輪が、教団として行なうべき無畏施がある。それは、オウム真理教時代の問題に起因する、社会の教団への不安を和らげるために、団体全体を挙げて、過去の反省・総括、教団教義と活動の改革、賠償・テロ防止の社会貢献、ならびに団体の現状に関して適切に公表・広報・出版していくといった努力をすることである。
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これに加え、今後、各支部の活動における無畏施を考えなくてはならない。それは、少なくとも、①法則を求める一般の人がなるべく不安を持たなくてすむあらゆる工夫をすること、②来道・入会した人を社会的な問題からなるべく守るための努力をすること、③社会が重視するオウム真理教信仰の脱却支援活動として、元信者を導く努力などが含まれるだろう。
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また、忍辱の実践とは、現実世界での自我執着の放棄であり、これは、ゾクチェンやマハームドラーの修行の中でも説かれる、現実の試練によって悟りを深める修行に属する。
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ただし、オウム真理教のマハームドラーの試練の教義の間違いは、他者＝社会を犠牲にした形で、自己満足の世界の中で、自己放棄の修行をしようとしたことであった。この点に十分留意して、反省総括をする必要がある。そして、この自己放棄の修行を、麻原のように社会を犠牲することなしにできてこそ、真の自立の成就でもある。
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<span style="font-size: large"><strong>&nbsp;第三章　２１世紀のための宗教の革新--新しい宗教の創造</strong></span>
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ここでは、私が現段階で構想している、２１世紀のための宗教の革新について述べたい。２０世紀までの宗教は、人を救う面があったとともに、例えば、盲信・狂信の非合理性、他宗派・社会との対立・紛争、そして、組織の閉鎖性などといったさまざまな問題を抱えているのは明らかである。そういった問題を乗り越えた、２１世紀の人類社会のための新しい宗教のあり方の一例を示したい。
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<span style="font-size: medium"><strong>１　盲信を超える</strong></span>
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--依存・怠惰と傲慢を超える、宗教と科学の融合、釈迦牟尼の教えから
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<p>
まず、特定の人物を絶対視しないこと。言い換えると、学びの基本は、絶対視せずに、かつ、謙虚に学ぶことである。また、特定の人物（自己の宗派の教祖・開祖）を絶対視しないのと同様に、自己の宗派とその教義などを絶対視しないことである。
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誰か他人を絶対視することは、楽して幸福になりたいという依存の欲求と、自分が信じた人を絶対と位置づけることにより、気づかないうちに自分自身の判断能力を絶対視することになり、怠惰と虚栄心・慢心の煩悩が増大する恐れがある。
</p>
<p>
その一方、絶対視できる相手がいないならば、誰からも学ばないという反動的な考えに陥る場合があるが、それも、形を変えた怠惰と慢心にほかならない。よって、絶対視せずに、謙虚に学ぶという、バランスの取れた考え方が必要である。
</p>
<p>
これは、一般にいわれる先生と生徒、先達と後輩の関係にも似ている。自分の教えの師（先生）からは、謙虚な心で十分に、その先人・先達の智慧を吸収しつつも、それを絶対視はせずに、自分の知性・理性で、その教えをよく吟味し、自分で納得できたならば、それを修習することである。
</p>
<p>
これは、釈迦牟尼が説いた学びの方法であった。釈迦牟尼は、「私（＝釈迦牟尼）を崇めるな」と戒め、修行者が、自己と法を帰依の拠り所にすることを説いた（自灯明・法灯明）。ただし、これは、他人から学ぶなという意味では決してない。実際、釈迦牟尼は、自ら法則を説いたし、また、仏・法・僧の三宝に対する帰依を説いた。重要なことは、師から教えられた法を、自分の知性・理性でその是非をよく吟味し、自分なりによく咀嚼(そしゃく)して、修習することである。
</p>
<p>
実際に、インドの仏教の伝統では、自分の師に対する深い敬意を持ちつつ、その師の教えを絶対に正しいと考えることは、その敬意とは別のものだとされてきた。よって、真実を見極める科学者が行なうように、師の教えを客観的に分析・評価し、必要ならば批判する態度も許容されたという。
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<p>
なお、盲信の背景にある依存・怠惰は、楽して幸福になりたいという欲求である。これは、釈迦牟尼の一元法則である、苦楽表裏、楽の裏に苦があるという教えの無理解から来るといってもよい。教えをよく吟味するのは労苦であるが、目先の楽のために盲信に走れば、後に、盲信による大きな苦しみのつけが回ってくるのである。
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<p>
なお、盲信をしないためには、客観的な事実に基づかず、単に信じていることと、客観的な事実に基づいて、信じていること（＝知っていること）をきちんと区別することが重要である。人は、自分が特定の人物や教義を信じる場合に、客観的に見れば、それが十分な証明・根拠に基づいていないにもかかわらず、それが正しいと思いこむ傾向がある。
</p>
<p>
客観的には、それは、その人が好きで信じている範疇であるにもかかわらず、当人は正しいと思い込んでいる。これが、いわゆる「はまる」「突っ込む」という状態である。その背景には、上記の依存・怠惰の欲求や、自己愛著・虚栄心・慢心といったものがある。特に後者は、その対象の正しさを信じることが、自分の正しさを信じることと一体不可分に結びついてしまった状態である。
</p>
<p>
科学分野の師弟関係では、自分の先生を絶対視しないことは当たり前となっている。その一方で、先人・先達・先輩に対する敬意は深い。ニュートンの万有引力の法則が、その後に現れたアインシュタインの相対性理論に比べて不正確な理論であったとしても、アインシュタインを含めた多くの科学者にとって、ニュートンは、深く尊敬すべき先人・先達であることに変わりはない。ニュートンは、彼らの学びの対象であり、ニュートンのおかげで、その後の物理学の発展があり、その中で、アインシュタインの功績も生まれたのである。
</p>
<p>
今後は、宗教の教義・思想も、科学の分野のごとく、どのように偉大な先人の教えであっても、それを絶対視せずに、謙虚に学び、それを吸収したならば、それよりも優れた教義・思想を生み出すべく、絶えず努力するべきであろう。こうして、科学の理論と同じように、宗教の教義・思想も、絶えず改善・成長し続けるならば、宗教が、科学とともに、人類の叡智という地位を回復するだろう。
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<span style="font-size: medium"><strong>２　善悪二元論と闘争を超える</strong></span>
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--世界の調和、真の民主主義の実現、観音菩薩の教えから
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<p>
従来の多くの宗教においては、自分が信じる宗教の世界の中において、「神・仏・聖」とされるものと、「魔・邪」とされるものを、非常に強く区別してしまう問題がある。そして、そのため、異なる宗教・宗派や、宗教と社会の間で、自分たちを神の側、他者を悪魔の側と位置づけて、対立・闘争・戦争が繰り返され、今日に至っている。
</p>
<p>
そして、これを乗り越える教えとして、第一章で、善と悪、優と劣の区別・二分化を超える観音菩薩の一元法則を解説した。それは、この世の万物には、本質的に優劣があるのではなく、それは、それぞれの個性であり、お互いを助け合う上での役割の違いであって、万物はすべて、神仏の平等な現れ（平等な一部）であると説いた。
</p>
<p>
しかし、これを本当に実現して、宗教による対立をなくすためには、第一章でも触れたように、自分の信じる宗教の世界で聖とされるものと、邪とされるものの間にも、本質的には、優劣の区別はないという思想にたどり着かなければならない。これができるかが、分かれ道となる。
</p>
<p>
そして、まさにこれに関連する大乗仏教の教えとして、凡夫と仏を二分化しない「凡夫(ぼんぷ)即仏(そくほとけ)」という教えがある。すべての凡夫は仏性を有し、釈迦牟尼がそうであったように、時とともにさまざまな経験を経て成長し、未来に仏になる存在である。その意味で、仏の胎児であって、仏と本質的に区別される存在ではない（仏の子であるならば、本質的には、仏にほかならない）。
</p>
<p>
釈迦牟尼も、仏となる前の生には、カッサパ如来（釈迦牟尼以前の仏）を誹謗中傷したこともあったとされる。仏教では、如来の誹謗中傷は、最も大きな罪とされるが、その大罪をなした者が、後に仏になったのである。他にも、９９９人の人を殺した後に、釈迦牟尼に巡り会い、改心して悟りを得たというアングリマーラや、数十人の親族を呪殺した後に、師に巡り会い、大成就者となったというミラレパなどの成就者がいた。
</p>
<p>
ここでは、時の作り出す変化（無常性）を理解することがポイントである。すなわち、悪人も時とともに、善人に変わると考えて、善人と悪人を二分化せずに、すべての人々・生き物を未来の仏、仏の子と考えるのである。時はすべてを変えていく大きな力を持っている。
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<p>
そして、これに加えて、煩悩が大きい者が、未来には大いなる解脱をする可能性があること（大煩悩大解脱）、煩悩が強く悟るのが遅れる者が、悟ったならば大きな慈悲を持つ可能性があることについても、第一章で述べたとおりである。
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<p>
先に仏になった釈迦牟尼と、後に仏になる弥勒菩薩の間にも、優劣があるのではなく、その違いは、先駆者と普及者といったような役割の違いであって、その違いによって、互いに助け合う・補い合う関係にあると解釈するのである。
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<p>
さて、これに関連して、凡夫と仏陀を二分化しないことと同じように、大乗仏教には、凡夫の煩悩と仏の菩提心（慈悲の心）を二分化しない教えがある。それを「煩悩即菩提」という。凡夫の煩悩も、それが土台となって、菩提心が生まれる。煩悩による苦しみが、重要な経験となって、菩提心の正しさに目覚めるのである。
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<p>
最後に、大乗仏教では、仏教が苦しみの世界とする（私たちが生きている）輪廻の苦界と、絶対の世界とする「涅槃」を区別しない教えがある。また、同じように、輪廻の世界と、仏の集う「仏の浄土」を区別しない教えもある。それぞれを「輪廻即涅槃」、「輪廻即浄土」という。
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輪廻と涅槃や、輪廻と仏の浄土は、大乗仏教の唯識思想が説くところでは、本質的に別々の世界ではない。それは、それぞれの人の心（意識と五感）の違いによって、同じ世界が、輪廻・涅槃・仏の浄土といったように、さまざまに違って見える（現れ出してくる）ものである。
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<p>
この思想は非常に重要で、宗教が対立・闘争する中で抱えている一つの問題が、この現実世界・現世の軽視である。どんな宗教でも、この世以外の世界を認める面がある。しかし、それが行き過ぎれば、この世よりも、あの世の方をずっと重視してしまう場合がある。
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<p>
すると、オウム真理教のポアのように、「宗教的に対立する他人を殺しても、高い世界に生まれ変わるのだから問題はない」、「現在の悪い社会をハルマゲドンで滅ぼして、その後にキリストの千年王国を作る」という発想や、イスラム原理主義のように、「悪い者をやっつけるために自爆テロをすれば、天界に生まれ変わって幸福になれる」といった発想も生じてくる。
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<p>
これは、本質的には、オウムやイスラムに限らず、あの世を強調する宗教のすべてに当てはまる潜在的な危険性である。例えば、織田信長との対立では、浄土真宗（一向宗）も、信者に対して、「進めば天国、退けば地獄」と説き、織田信長との戦いに立ち向かうことを求めた。
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こうして、この世を軽視したり、この世の生を軽視する教えの場合は、それが、宗教的な対立・紛争の際に、他者を殺したり、信者に命の犠牲を求めるなどして、現実世界を破壊し、地獄にしてしまう可能性をはらんでいる。
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そして、これを乗り越えるのが、先ほど述べた、「輪廻即涅槃」、「輪廻即浄土」の教えである。すなわち、この世界が良い世界か悪い世界かは、それを見る人の心によって変わってくるもので、天界から地獄といった世界は、本質的に人の心の中に存在するという思想である。
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<p>
以上をまとめるならば、①人についての善悪の二分化を超えること、②人の心についての善悪の二分化を超えること、③世界についての善悪の二分化を超えることによって、宗教が、対立・闘争を乗り越えることができると思われる。
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最後に、この宗教的な思想は、実は、真の民主主義の土台となるものである。民主主義は、その思想の発祥においては、民が主(しゅ)＝神であるという思想がある。
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それ以前は、一人の人間＝王が、主＝神であった。すなわち、王権神授説に基づき、王が神の代理人であったのだ。それに取って代わった民主主義の本来の意味は、一人一人の民が主である、一人一人の民は神の一部であるという意味を持つ。実際、ユダヤ教では、多数決において、多数の方に神の意思が現れるという思想があるそうで、民主主義という政治形態と宗教教義が融合している。
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しかしながら、現在の民主主義社会では、投票権においては確かに一人一票とされて、万人が平等に扱われているが、人の心の中では、ご存じのとおり、万人が平等・等価値とは、全くなっていない。優劣の区別が激しくなされ、自己を否定して卑屈に陥ったり、他人を否定する慢心に陥ったりしている。こうして、自分の価値を否定したり、他人の価値を否定したりすれば、すべての民が、それぞれ主＝神の一部であるという認識には全く至らない。
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これを乗り越える一元法則を普及させることは、投票権に限られた、現在の形ばかりの民主主義ではなく、すべての人が本当の意味で尊重し合う、真の民主主義の社会の土台となる思想である。言い換えれば、良い意味での、宗教的な叡智と政治の融合である。
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なお、アメリカ合衆国が、世界初の民主主義国家として誕生し、その後、民主主義を深めるために、黒人奴隷の解放を含めた人種差別を乗り越えてきた歴史があるが、現代社会で民主主義を深めるためには、個々人と社会が、自分の心の中の優劣の二分化の奴隷にならないようにすべきであろう。
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<span style="font-size: medium"><strong>３　教団と社会の壁を越える</strong></span>
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<span style="font-size: small"><strong>--地球全体に開かれた宗教の実現、弥勒菩薩の教えから</strong></span>
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多くの宗教団体は、救われるには、信者・会員にならなければだめだと説き、教団とその外部には相当な壁がある。しかし、実際には、本質的には、信者と非信者に明確な境界はなく、信者にも疑念が、非信者にも何らかの宗教心はあり、教団とその外部は、密接不可分の関係にある。
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また、現在の宗教団体は、精神的・物理的・地理的な制約によって、その信仰・修行の実践の場が、多かれ少なかれ、万人に開かれたものだとは言い難く、一部の教団では、その施設内部のみで、修行・信仰が行われ、隠された形となっており、外部の人にとっては、それも障害・不安となっている。
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そこで、教団の内外の区別をなるべく和らげた、開かれた宗教を実現する。そのために具体的には、信者・非信者を問わず、誰もが参加できるネット空間や、公の聖地・施設を、思い切って、その修行・信仰の実践の場とすることが考えられる。
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<p>
<br />
特に、ネット空間を大胆に最大限に活用することによって、それは、地球全体に広がる精神的な向上のためのネットワークとなる。世界中どこにいても、信者にならなくても、オンライン参加者として参加できる。名付ければ、グローバル・スピリチュアル・ネットワークとしての、ひかりの輪の創造である。
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<p>
このひかりの輪のネットワークは、２１世紀の社会のための新しい宗教の創造であり、宗教の革新と、社会の価値思想の革新を促すものである。具体的には、一元の法則という新しい幸福観・思想と、その実践方法を普及し、なおかつ、上記のとおり、その具体的な実践の場、今までにない新しい開かれたシステムを構築する。
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<p>
なお、ネットに加えて、自然豊かな聖地に集まって修行を行なうことも有益であろう。ネットも聖地も、特定団体に属さない、万人の共有物であり、これは、地球・宇宙全体が、真の教団である、という思想に合致するものである。また、公の施設を使って行なうイベントも活用していく。
</p>
<p>
これは、自と他の区別を超える弥勒菩薩の法則の実践であり、言い換えると、真の自己は宇宙全体であり、真の家族は宇宙のすべての衆生であり、真の自分の教団・社会・国は、宇宙全体である、という思想である。
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<strong>《付記》今後、ひかりの輪が構築する予定の、具体的な新しい修行の場・システム</strong>
</p>
<p>
今後構築する具体的な新しい修行の場・システムとしては、例えば以下のものがある。
</p>
<p>
１　ネット上で、講話や儀式・他の修行を自宅に頻繁に生中継する（Ustream)<br />
２　ネット上で、複数の人の自宅を結んで、勉強会や個人面談を行う<br />
（NetＴＶ会議システム）<br />
３　道場以外の場として、オフ会や聖地修行に、一般の人も参加できるようにする。<br />
４　教材や法具も、ネットを通じて購入できるように整える。
</p>
<p>
なお、現状のひかりの輪の公式ＨＰは、上記のネット教団の前段階のものであり、すでに、以下の機能を有しているが、今後その機能を拡充・改善する。
</p>
<p>
１　代表の支部道場での講話の生中継（Ustream)、代表・指導員の講話の動画、<br />
２　法具聖音・瞑想音楽の音声データ、ヨーガ等の行法・聖地修行の動画・テキスト、<br />
３　代表・指導員による法則のテキスト、会員や一般の方々の修行体験談、<br />
教材・法具の紹介<br />
４　各支部道場や指導員のご紹介など
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<strong>《付録》　関連教材リスト</strong>
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以下は、今回の講義に関連する、これまでのひかりの輪の特別教本のリストです。<br />
ご活用ください。
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<p>
『一元の法則とその悟りの道程、金剛薩?の内省修行』（2010年ＧＷセミナー）
</p>
<p>
『現代人の一元の法則』（2009～2010年末年始セミナー）
</p>
<p>
『循環の法則と密教加行』（2009年夏期セミナー）
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<p>
『内観、唯識、縁起のエッセンス』（2009年ＧＷセミナー）
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<p>
『仏教講義・悟りの道程１　縁起の法』（2008年9月）
</p>
<p>
『仏教講義・悟りの道程２　悟りへの道と大乗の教え』<br />
（2008・2009年 年末年始セミナー）
</p>
<p>
『大乗仏教・六仏の教え』（唯識、内観の部分）（2009年2月）
</p>
<p>
『ひかりの輪　密教加行の儀式次第』（2009年8月）
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<p>
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</p>
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</p>
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   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【仏教講義】２０１０年～１１年　年末年始セミナー特別教本『中道の教え、卑屈と怒りの超越――21世紀の新しい信仰のあり方』</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/lecturetext/012010/003820101121.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2011:/lecturetext//31.2184</id>
   
   <published>2011-03-10T11:12:43Z</published>
   <updated>2011-08-20T02:44:53Z</updated>
   
   <summary> 2010年～11年の年末年始にかけて行われた、年末年始セミナーの特別教本です。...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="【動画あり】21世紀のための仏教講義" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/lecturetext/">
      <![CDATA[<p>
<span style="font-size: small">2010年～11年の年末年始にかけて行われた、年末年始セミナーの特別教本です。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small">テーマは、『中道の教え、卑屈と怒りの超越--21世紀の新しい信仰のあり方』 です。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small">セミナーでは、各章ごとに、全７回の上祐史浩による教本解説の講義が行われ、すべてＵstreamでネット生中継されましたので、録画された動画をご覧いただきながら、教本を読み進めていただくことができます。</span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>◎動画の内容（全７回）</strong></span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>第1回　『釈迦牟尼の教え１--中道の教えによる幸福な人生』<br />
第2回　『釈迦牟尼の教え２--中道の教えによる幸福な人生』<br />
第3回　『卑屈・妬みを超える慈悲・四無量心の教え』<br />
第4回　『怒り・憎しみを超え、自己反省と利他に生きる教え』<br />
第5回  『自我執着を超える縁起・無我の教え・瞑想』<br />
第6回　『宗教を学ぶ姿勢1--21世紀の新しい宗教・思想の創造』<br />
第7回　『宗教を学ぶ姿勢2-21世紀の新しい宗教・思想の創造』</strong></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><a href="http://www.joyus.jp/movie/00200911/00533238_20101121_7.html">&nbsp; ＞＞動画はこちらでご覧いただけます。</a></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<span style="font-size: small"><strong>2010年～11年年末年始セミナー特別教本</strong></span>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>『中道の教え、卑屈と怒りの超越--21世紀の新しい信仰のあり方』</strong></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<img src="/mt/uploads_files/images/2011kyouzai/2011nensi.h.jpg" alt=" " width="150" height="212" align="left" />
<span style="font-size: large"><strong>第一章　中道の教えによる幸福な人生</strong></span>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong><br />
１　釈迦牟尼の中道の教え--苦にも楽にも偏らない幸福</strong></span>
</p>
<p>
仏教開祖の釈迦牟尼は、「中道」と呼ばれる教えを説きました。中道とは、自分の心身を痛めつけ過ぎるような苦行にも、快楽を追求する道にも、どちらにも片寄らない修行の道のことです。なお、苦行主義は右道と呼ばれ、快楽主義は左道と呼ばれ、この中道は不苦不楽の道ともいわれます。<br />
</p>
]]>
      <![CDATA[<p>
そして、釈迦牟尼は、この不苦不楽の中道を特徴とする「八正道」という教えの実践によって悟りに到達し、初めて行った説法（初転法輪）も、この中道・八正道を説いたとされます。<br />
では、この不苦不楽の中道の教えを、現代に生きる私たちにも役立つ思想として検討し直してみたいと思います。まず、苦行に片寄らないという点は、皆さん、すぐに飲み込めるのではないかと思います。戦前・戦中までの日本では、いたずらに苦行主義に走る潮流・文化があったかもしれませんが、現在の日本はそういうことはないと思います。<br />
逆に、快楽に片寄らないという点については、どこかで頭ではわかっているが、豊かになった日本社会の中では、ほとんど忘れられつつある重要な思想だと思います。しかし、それによって、逆に、豊かな社会の中で、苦しみや不安が増大しています。<br />
では、不苦不楽の中道という思想を現代的に表現すれば、人が幸福になる最善の道は、苦しみばかり求めても良くないが、楽ばかり求めても良くない。そうではなく、苦と楽のバランスが取れた生き方が最善だということです。<br />
これを一言で言い換えれば、「足るを知る」と表現できるかもしれません。足るを知るとは、実に深い教えだと思います。というのは、これは、多少の不足を感じても満足するように努めるという消極的な意味だけではなく、多少の不足・苦しみは、ないよりもあった方が良いのだという積極的な意味があります。そして、今回考えてみたいのは、後者の積極的な意味合いの方です。<br />
例えば、「腹八分目に医者いらず」という言葉があります。これは、多少の満腹感の不足があった方が、健康には良いという意味ですね。また、「一病息災」という言葉もあります。これは、一つくらい病気があった方が、体をいたわるため、長生きするという意味です。こうして、何一つ病気がないよりは、少し病気があった方が、全く健康であるより良い場合がある、という意味になります。<br />
「こうじ好事魔多し」というのも、同じかもしれません。良いことばかりがあると、その後が怖いという経験則。例えば好調が続き、慢心・油断に陥り、気がゆるむと、大けがすることもある。
</p>
<p>
「若いうちは苦労を買ってでもしろ」というのは最近身にしみます。若いころ過保護で甘やかされ、わがまま・甘え・忍耐力が不足している自己愛型人格が増えているともいわれています。人間関係が上手くできず、引きこもり、仕事が続かない、夫婦関係・育児の困難を抱えるといった問題が広がっています。<br />
今広がっている新型の鬱病の一因もこれではないかと疑われています。旧型の鬱は頑張りすぎ、新型の鬱はゆるみ過ぎが原因だといわれます。そして、両者の合体型もあるようです。二つの鬱病の原因から見ても、幸福への道は、無理せず怠けず、焦らず弛まず、すなわち、釈迦牟尼の中道と同じです。<br />
また、高齢者は、生活習慣や食生活が乱れ、規則的な運動・作業や、頭を使う機会がないと、認知症になる危険性が高まるとされています。こうして見ると、退職して悠々自適の年金暮らしが、高齢者雇用によって労苦を背負い続ける人よりも、必ずしも幸福とはいえないということになります。<br />
お金はどうか。あればあるだけ良いのか。それともあり過ぎると不幸になるか。お金に多少不足を感じる方が、質素倹約・無駄遣いの抑制の習慣が身につき、少ないお金で生きていくことができます。また、稼ぐ上での苦労が、智慧や忍耐力を育み、育ててくれた親やさまざまな人たちへ感謝したり、世界中の貧困の苦しみを理解できて、感謝や愛や智慧や忍耐という、人にとって一番大切なものを培ったりすることもできるかと思います。<br />
逆に、何一つ不自由・苦しみがない生活というのは、本当に良いのか。フランス王妃マリー・アントワネットが、パンもなく飢えていた貧しい民衆の気持ちが理解できず、「パンがないなら、なぜケーキを食べないのか」と言って怒りを買って、命を落としたという有名な話もあります。<br />
彼女の不幸は、自分に不自由がなかったために、他の苦しみがわからなかったことでした。こうして、全く不自由・苦しみのない生活とは、まるで悪魔の誘惑のように、大変恐ろしいものではないでしょうか（なお、学術的には、これはマリーではなく、他の王室の女性のことだという説もあります）。<br />
誰もが不自由はしたくないと思いますが、世界の中で１０億人以上が飢餓や絶対的な貧困に悩み、昨今は先進国にも不況が広がる今日、そう思い過ぎるならば、客観的には、自分が幸福であればそれでいいと考えていることになるかもしれません。<br />
それでは、あの有名な『蜘蛛の糸』の話のように、慈悲の心を軽視して、自分だけは救われたいと願っても、それで地獄に堕ちるかどうは別にして、慈悲の心から遠くなった心は救われないことは明白です。まず、慈悲の心を目指すべき仏道修行者・宗教家としては非常に危険でもあります。<br />
よく形骸化しているといわれる日本の伝統宗派。徳川幕府の導入した檀家制度で、民衆は皆どこかの宗派に属することになり、修行・布教しなくても、冠婚葬祭などのお布施でお金に困らなくなりましたが、彼らにとって本当に良かったかは疑問です。<br />
最近は、形骸化にともなって、檀家が離れ、葬式にお金をかけない人が増え、危機感を持った若い僧侶の方の相談を、私などさえ受けることもあります。一度たるんで喪失した伝統を取り戻すことは、非常に困難で絶望視する人もいます。最澄・空海が頑張ったとき、&nbsp;彼らは檀家を持たない新興宗教でした。<br />
よって、大乗仏教の菩薩道の修行である「六つの完成（六波羅蜜）」の教えでは、忍辱（忍耐）の修行の第一として、物質的な困窮に耐えるというのがあります。物質的な困窮が全くなくて、仏教が説く智慧と慈悲が身につくだろうかということです。<br />
また、称賛・名誉・地位はどうか。人は弱い者で、成功・評価されてしまうと、満足・慢心・油断が生じ、以前のようには努力がしにくくなる。逆に批判は人を鍛える力にもなり、正しい批判は、自分の改善に役立ち、理不尽な批判は不動の心を培い、感情的な批判は、批判する人の苦しみを理解する機会となり、批判は未来の成長・名誉を生み出すように逆利用ができます。<br />
早く成功したいというのは人情ですが、一番大切なのは、最終的に成功し、幸福になれるかどうか。しかし、若いときに一気に成功して、人・物・金が集まって、その後、落とし穴にはまったケースは多い。９０年代の日本のバブルの崩壊と、最近の米国発のバブルの崩壊で、多くのエリート集団が失敗した話をよく聞きます。<br />
失敗せずに成功したいという気持ちは皆が持ちますが、人は生まれながらに不完全で、多くの成功は、失敗を元にして生まれるのが真実。失敗を恐れず、失敗を成功の元と考え努力を続ける人が、エジソンのように成功し、失敗を恐れる人は、経験が増えずに成功する可能性が少なくなる。<br />
自分の経験でも、宗教家も、あまり苦労なく、２０～３０代前半などで若くして成功するのは危険かもしれません。成功で舞い上がって慢心を抱き、傲慢になって落とし穴にはまる。経典を見ると、真の智慧・慈悲がなく超能力などが身につくのは、魔の働きとも説かれています。<br />
戦国の覇者も、人生前半はさまざまな苦労・忍耐をした家康でした。天才的な信長は破竹の勢いの途中で足下をすくわれ、秀吉は天下統一後の慢心で後が続かなかった。家康の耐えた労苦は、それに値する果報をもたらしたと思います。<br />
その意味で、オウムを出自とする私とひかりの輪は、今も社会の厳しい目の下にあるとはいっても、それを愛の鞭と考えれば、継続的な自己研磨の原動力となると思います。おそらくは一生、気を緩められない境遇だとは思いますが、それも視点を変えれば、一生努力できるということであり、応援してくださる皆さんも少なくなく、人一倍幸福といえるかもしれません。<br />
そして、前にも言及しましたが、大乗仏教の六波羅蜜の忍辱（忍耐）の修行の第二として、誹謗・中傷に耐える教えがあります。実際に、称賛・名誉ばかりで、批判されない人が、真の強い精神、智慧、慈悲といったものが培えるかと説いているのです。<br />
さらに、大きな達成を得ようとすれば、長期的な継続的な努力・労苦に耐える必要があります。逆に言えば、労苦をともなうことこそ、本当の価値があるということ。いっかく一攫千金というのは、たいていが、邪道・魔の道です。最近は、入ればたちまち救われるとする宗教だけでなく、短期間であなたは変われると宣伝するセミナーもあるようですが、心配しています。<br />
よって、大乗仏教の忍辱（忍耐）の修行の第三として、仏陀の教え（ダルマの真理）を理解する上での困難に耐えることが説かれています。イエスの有名な言葉で言えば、「狭き門から入れ」、「滅びに至る道は広い」ということですね。「急がば回れ」、「ローマは一日にして成らず」で、焦らずコツコツ努力しましょう。<br />
しかし、苦労しているときは、苦労の価値はなかなかわからないものです。それを成し遂げた後に、落ち着いた視点で振り返ってみたり、苦労しなかった＝苦労できなかった人の不幸などを見たりして、ようやく気づくというパターンが多いのが普通だと思います。<br />
このあたりが、人の本質的な問題で、目先の幸福にとらわれやすく、長期的な幸福のために努力する価値は見失いやすい。これを仏教では無智といいますが、幸福への最大の障害だと思います。よって、教えをなるべく学び、先輩の経験を分かち合うことが非常に重要ですね。<br />
善行・利他をなすのは、労苦であるが、本当の幸福をもたらします。悪行・利己的な行為は、目先は楽であっても、後には不幸をもたらします。因と果の法則、いわゆるカルマの法則です。この基本的・根本的・普遍的な道理を深く理解できれば、すでに高い悟りを得たといえるほどに、重要な教えだと思います。
</p>
<p>
<strong><br />
<span style="font-size: medium">２　苦楽表裏の教え--苦しみの裏側に喜びがあるという教え</span></strong>
</p>
<p>
さて、苦しみにも楽にも片寄らないという中道の教えの背景にある考え方が、苦楽表裏、すなわち、楽の裏に苦しみがあり、苦しみの裏に楽があるという教えだと思います。ここで、この教えを詳しく検討しながら、中道の教えの理解を深めてみましょう。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><br />
<strong>（１）楽の裏に苦しみがある--とらわれや自我執着による苦しみの増大</strong></span>
</p>
<p>
楽の裏に苦しみがあるという教えは、これまでの特別教本でも詳しく解説しました。これに関する代表的な仏教の教えが、「十二縁起」の教えと「四苦八苦」の教えと呼ばれるものです。それは、快楽に執着・とらわれを持つ人間が、この世に生まれて、老・病・死を含めた、さまざまな苦しみを経験することを説いています。<br />
具体的には、十二縁起は、人間が苦しみを経験するプロセスを分析したものです。また四苦八苦の教えは、そうして人間がこの世で経験する苦しみを八つほどに分類して説いたものです。なお、この文脈では、四苦八苦という言葉は仏教の専門用語であって、大変苦しい状態を意味する日常用語としての四苦八苦とは意味が違っていますのでご注意下さい。
</p>
<p>
この四苦八苦の教えの中で、楽の裏側に苦しみがあるという今回のテーマに最も関係する教えとは、生・老・病・死以外の四つの苦とされるものです。それは、
</p>
<p>
①求めても得られない苦（ぐ求ふとっ不得く苦）、<br />
②愛している者など、とらわれの対象と別れる、失う苦しみ（愛別離苦）、<br />
③嫌いなものと会う苦しみ（おんぞう怨憎えく会苦）、<br />
④（ごうん五蘊が構成する）自我に執着することによる苦しみ（五蘊じょう盛く苦または五取蘊苦）<br />
などです。なお、「五蘊」とは、人の肉体や精神的な要素を五つに分類したものですが、詳しくは他の特別教本や、ひかりの輪の『基本用語集』などをご参照下さい。
</p>
<p>
そして、この四つの苦しみをわかりやすく言い換えると、<br />
①快楽の貪りは、際限なく続き、とらわれれば、求めても得られない苦しみが生じる、<br />
②得た快楽にはとらわれが生じるので、それを失うときに苦しみが生じる、<br />
③快楽へのとらわれや奪い合いによって、敵対者などの嫌悪の対象に出会う苦しみが生<br />
じる、<br />
④快楽にとらわれた結果として生じる自我に対する執着が、さまざまな苦しみをもたら<br />
す、と表現できると思います。
</p>
<p>
こうして、快楽を貪っても、決して満ち足りることがないのに、欲求は際限がなく続き、得られないときの苦しみや、とらわれた対象を失う苦しみ、快楽を貪りとらわれて奪い合うがゆえに、さまざまな敵・嫌悪の対象を作る苦しみが生じるわけです。また、快楽を貪りとらわれる中で、すべての存在を愛するのではなく、自分だけを偏愛する意識（自我執着）が生じ、これによってさまざまな苦しみが生じます。
</p>
<p>
<br />
<strong><span style="font-size: small">（２）苦の裏に喜びがある--とらわれの減少と智慧・慈悲の増大による幸福</span></strong>
</p>
<p>
では、逆に、苦しみの裏には、どんな喜びがあるについて述べたいと思います。<br />
第一に、苦しみは、その状態に慣れれば、苦しみではなくなっていきます。これは、快楽への貪りを満たすと、それにとらわれてもっと欲しくなるのと対照的な現象です。これは、とらわれが減少して、それ以前より広い条件で幸福でいられるということになります。これも、貪りを満たしてとらわれ、それなしではいられなくなるのと対照的な現象です。<br />
紆余曲折のある人生を長い目で見れば、今の苦しみに耐え、とらわれが減るならば、その後の人生で、再び落ち込みがあっても、安定していることができます。とらわれが少なくなるとは、苦しみに強くなることです。<br />
この忍耐力は大きな宝だと思います。最近は、少子化・過保護・ゆとり教育など、若いときの苦労・鍛錬の不足から、わがままで忍耐力が乏しく甘えが強い、いわゆる自己愛型人格の人が増えていると心配されています。労働、夫婦関係、育児等は、忍耐力が必要です。それらの維持に多大な困難を感じる人が増えているようです。<br />
なお、釈迦牟尼の教えは、中道といって、バランスを重視し、無理な苦行は否定します。無理せず怠けず、焦らず弛まず、コツコツ努力することです。苦しみの経験が宝であるといっても、無理し過ぎは、怠けることと同じようによくありません。そして、何が無理で何が怠惰かは、当然のこととして、その人の条件に合わせてケースバイケースとなります。<br />
長年苦しみから逃げて心身がたるんでいる場合は、急に頑張ると無理が来て、息切れしたり、反動が来たりする場合もあります。その場合は、焦らずに、急がば回れの精神で、こつこつと改善するのが、空回りしない秘訣だと思います。ただし、無理しないということを口実に、怠惰を続けてはいけません。<br />
これを考えると、早いうちから、無理せず怠けず、コツコツと忍耐力を培うことが重要です。大乗仏教の六波羅蜜の教えでは、今日できることを明日に回さないで精進すべきであると説いています。「思い立ったら吉日」、「鉄は熱いうちに打て」というように、今日からコツコツ努力しましょう。
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第二に、苦しみは、それから逃げ出さずに努力する限りは、智慧を磨く機会となると思います。これは仏教的に言えば、苦しみは悪業の清算であり、悪業は無智の原因であるため、苦しみに耐えて努力する中で、無智が晴れていく状態です。<br />
例えば、失敗を成功に、欠点を長所に、不遇を財産に変えていく智慧があります。格言でいえば、「ピンチの裏にチャンスあり」、「短所の裏に長所あり」、「失敗は成功の元」、「万事さいおうがうま塞翁が馬」といった諸々の経験則です。<br />
例えば、昭和の希代の実業家である松下幸之助氏は、学歴がなかったから他人から謙虚に学べ、体が悪かったから他人に頼む術を覚え、お金がなかったからでっち丁稚ぼうこう奉公に行って若くして商人の機微を覚えたと語っています。彼は長寿でしたが、体が悪かったから、健康に気をつけたのでしょう。<br />
松下氏のやり方は、自分が劣っているという短所を、優れた他人を活かすという長所に変えています。自分が学歴・健康・お金がないから、他人の学歴・健康・お金を活かす。自分が優れている人は、これがなかなかできません。自分が劣っていた彼だからこそ、他人を活かす方向性を見いだしました。<br />
これは学校の成績に関係する知性とは必ずしも同じではなく、しなやかで粘り強い知的・精神的な能力で、智慧と呼びたいと思います。そして、例えば、挫折・困難に強い人は、これが上手だと思います。言い換えれば、挫折・困難を経験しないと、こういった智慧は培えないのです。<br />
よって、これも、苦しみの経験の裏にある喜びであると思います。とはいえ、単に苦しみを経験しても、あきらめずにコツコツ努力し続けない人は、この智慧というものを磨けません。あくまでもあきらめず努力する人が、苦しみを通して得るものが智慧だと思います。そして、この智慧は、次に述べる慈悲に関係します。
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第三に、苦しみは、他の苦しみを理解する力、優しさ、いたわり、慈悲の源になります。自分で苦しみを経験しない人は、実体験がありませんから、その分、他の苦しみを理解することは難しいと思います。自分が苦しみを経験することで、同じ苦しみを持つ他人をよりよく理解し、慈悲を持って手助けする心の働きが強くなります。
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そして、他の苦しみを理解する慈悲の心が生じると、この世界では、自分の幸福の裏には他人の不幸があることを深く理解するようになり、それが、さらに、足るを知る精神、忍耐力を深めることになります。世俗的な幸福は、多かれ少なかれ奪い合いの様相があります。<br />
お金も、異性も、名誉も、自分が他に勝って、それらを得る喜びの裏には、負けた他が、それらを失う苦しみがあります。逆に、自分が負ける苦しみの裏には、他人が得る喜びがあります。これは誰しも頭のどこかではわかってはいても、自分が調子が良くて勝ち組であるときは、気にせず見ないものです。自分が苦しみを経験して初めて、これを深く認識するようになることが多いと思います。<br />
そして、その慈悲の心からは、松下氏のように、他に勝ってではなく、他を活かして自分が幸福になるという発想も生まれてくることになります。自分の幸福の裏に他人の不幸があるということは、逆に、自分の不幸の裏には、他の幸福があるということですから、自分が劣っていることを逆に活用して、優れた他人を活かして幸福になる発想、そういった道があることも気づくわけです。
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<strong>（３）慈悲の化身・観音菩薩の誕生の説話--苦しみこそが慈悲の源</strong></span>
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さて苦しみの裏側に喜びがあるとしました。苦しみの経験を活かして得ることができる最高の宝は、慈悲の心だと思います。そして、その慈悲の心から生まれた、慈悲の化身といわれているのが、観音菩薩です。そして、観音菩薩の誕生のエピソードは、まさに観音菩薩が自己の苦しみの経験を活かして慈悲を培ったことを示していますので、ご紹介しましょう。
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観音菩薩と勢至菩薩は、その前生で、そうり早離とそくり即離という名前の幼い兄弟でした。その生で、二人は若くして父母を亡くしました。二人が悲しんでいると、人さらいがやってきて、「親に会わせてやる」と騙し、小さな無人島に連れていきました。そこで二人は、労働に酷使されて、疲れと飢えのために命を落とすことになりました。<br />
その際、弟の即離は、自分たちの薄命を嘆きましたが、兄の早離は、弟をなだめながら、「私も初めはそう思ったが、どうにもならない。でも、この世で親に死に別れて、人に欺かれる悲しさと、飢えと疲れの苦しさを知った。だから、今度この世に生まれてきたら、この苦しみの体験を縁として、同じ悲しみに泣く人たちを救ってゆこう。他を慰めることが、自分が慰められる道理であることを学んだではないか」と、諭しました。<br />
これを聞いた弟の即離は、初めて心が晴れて、兄弟してこの誓いを胸にして、息を引き取りました。その時、二人の顔には、静かで明るい微笑みが浮かんでいたといいます。この兄の早離が観音菩薩で、弟の即離が勢至菩薩だと南伝大蔵経の『華厳経』は伝えています。<br />
このように、他の苦しみを取り除くことが、自分の苦しみを取り除くことになります。
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それがゆえに、苦しみは慈悲の源なのです。この道理を理解する智慧と、それに基づく慈悲が、観音菩薩であり、勢至菩薩の心であるということができます。
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<strong>（４）慈悲の心の素晴らしさ</strong></span>
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仏教では、慈悲の心は、仏の心の働きそのものであり、人にとって一番大切なものだとしています。慈悲の心による幸福とは何でしょうか。<br />
第一に、他の幸福を喜び、苦しみを悲しむ慈悲の心は、その人の心を温かく、明るく、軽く、広くします。逆に、自己中心で他を害する人の心は、冷たく、暗く、重たく、狭くなります。そして、自己中心の人は、自分も他に害されるのではないかという不安に苦しみますが、慈悲の心のある人は、心が安らぎ、解放されています。<br />
第二に、単に温かく広いだけでなく、智慧に富み、とらわれが少なく、苦しみに強い心を作ります。日頃から多くの他人の苦しみを考えて取り除こうとしますから、智慧が深まります。足るを知って他から奪いすぎずに生きようとしますから、とらわれが減り、苦しみに強くなります。逆に、自己中心の人は、他人の苦しみを考えないため、それによって逆に、自分の苦しみに弱くなります。<br />
今の日本は、前よりも豊かさが減ったためか、将来への経済的な不安が増大しています。しかし、世界・地球全体から見ると、やはり、特別に豊かで恵まれた国であって、ほとんどの人は、飢え死ぬわけではありません。また、最近は、勝ち組・負け組といって、自分を負け組と考えて、ひどく落ち込む人も多いですが、日本人を含めた先進国の人々は、世界の中で富を独占する存在で、しかも、日本は長寿で安全な国だから、客観的に見て、勝ち組であることは間違いありません。<br />
その日本人が抱える将来の不安とは、本質的に何を意味しているのでしょうか。客観的には、贅沢や勝利に慣れすぎてしまった心の問題の側面がないでしょうか。だとすれば、その程度の不安があったとしても、それは本当に悪いことか、それとも、慈悲の心を培う良い機会・試練ではないかということは、よく考えてみる必要があると思います。<br />
仮に、もし全く不安のない人生だったら、どんな人間になるのでしょう。例えば、他の苦しみを理解できるようになるでしょうか。マリー・アントワネットの話を思い出します。途上国の人たちから見ると、日本人は皆がマリー・アントワネットのように、王侯貴族に見えるそうです。気をつけたいものです。
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第三に、慈悲の心は、精神面だけでなく、人間関係や物質面においても、さまざまな幸福をもたらします。利他の精神に満ちた慈悲の心の強い人が、多くの人に愛されるのは当然のことでしょう。その結果として、物質面でも、生きていくに必要なものは与えられることになります。<br />
これは、他を愛して与えるから、他に愛され与えられるということですが、さらに言えば、「類は友を呼ぶ」というように、自分と同じように慈悲＝分かち合いの心の強い人との縁ができるのだと思います。これを言い換えれば、慈悲深い人は、慈悲そのものである神仏の祝福を得るということもできると思います。これが宇宙の道理、大自然の摂理であり、神仏の守護・祝福として信じられてきたものではないかと思います。<br />
今回のセミナーでは、神仏・三宝などとの良縁を深めるために、縁結びの儀式を行います。その前提となるのが、皆さんが慈悲の心を培おうとする決意です。良縁とは、自分の善行に基づいて形成されるものですから、神仏の心である慈悲の心が、縁結びの成功に重要です。
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<strong>（５）二つのタイプの幸福--他に勝利する幸福と慈悲による幸福</strong></span>
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これまで、喜びと苦しみは表裏であると述べてきました。これを言い換えると、二つのタイプの幸福の道があるということになります。<br />
一つは、他に対して優位に立って、他に勝って、優れて、得る幸福です。お金持ちも、名誉や地位も、他との競争であり、皆が得ることはできません。言い換えると、他を苦しめてでも、自分が幸福になろうとする側面があります。もう一つは、他を愛すること、他の幸福を喜び、他の苦しみを取り除くことによって、得る幸福です。慈悲の心による幸福です。<br />
そして、すぐにわかると思いますが、前者にとって喜びであることは、後者にとっては苦しみになる恐れがあり、前者にとって苦しみであることは、後者にとって喜びに転換できるものです。こうして、喜びの裏に苦しみが、苦しみの裏に喜びがあるということになります。
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そして、この社会で普通に生きていると、生まれた時から、学校、そして、社会に出ても、常に、前者の幸福に駆り立てられると思います。しかし、仏教を学んでよくよく考えてみると、前者の幸福の道は、端的に言えば、年を取れば取るほど少なくなってしまう「尻すぼみの幸福」であるように思います。若いときは、健康で、美しく、体力もあり、頭も回りますが、老いていくと、病み、醜くなり、体力も衰え、頭も衰える。これが釈迦牟尼が修行に入った動機ともいわれます。<br />
一方、後者の道は、心の訓練によって、年を重ねるほど、増大していく（成熟していく）ため、「尻上がりの幸福」だと思います。もちろん、真剣な努力を重ねた場合ですが。こうして、人生後半に強いのは後者の幸福だと思うのです。
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もちろん、最近は、若いときから、負け組として苦しむ人が多くなっています。そもそも、勝ち組・負け組と分けると、勝ち組は１・２割、負け組が８・９割かもしれません。自分がエリートであるという意識の人の割合はもっと少ないかもしれませんね。当の私は、最初は、学歴などでは、エリートだったようなのですが、その後の宗教的な盲信のために、負け組となって久しいようですが（笑）、いまはそれを活かして智慧と慈悲を培う原動力にしています。<br />
そして、日本という国自体が、国としては、少子高齢化が進み、先進国の運命ともいえる老大国化しつつあるといえるでしょう。２０世紀は、人口が増え続け、まずは軍事大国として、次に経済大国として、世界の中での競争に勝ってきました。<br />
しかし、今後は、中国・インドなど、急激な成長をしている他国が台頭する中で、単純に、今までのようにアジアの中で経済の一人勝ちをするのは難しそうです。今後は、考え方を間違えると、負け組の意識が強まるかもしれません。国全体がそんな雰囲気の中ですから、その中の人々は、以前にも増して、負け組の意識の強い人が増える心配があります。<br />
実際に、鬱を病む人が、通院・投薬を受けている人だけで百万を超えたという統計が発表されています。自殺者も３万人レベルで高止まりしています。これまでのイラク戦争の米国軍の戦死者や、年間の交通事故死亡者の総数よりも多く、交通戦争ならぬ、自殺戦争ともいうべき深刻な状態があります。<br />
これらの問題を和らげるには、競争に勝つこと以外の幸福があることを理解し、心の持ち方を変えることが必要です。そのために、私は、ひかりの輪を通して、新しい幸福への道をお伝えする努力をしています。
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<strong><span style="font-size: small">（６）健全な資本主義社会の維持のためにも</span></strong>
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そして、この二つの幸福の考え方は、両者を組み合わせることができます。勝利による幸福という考え方だけだと、それが果たせず挫折を経験すると、人生に絶望しかねません。そのときに、慈悲による幸福を知っていれば、その苦しみを喜びに転換することができ、大きな救い・助けとなります。<br />
実際、競争に勝つためには、挫折に強い、粘り強い安定した精神が必要です。そのためにも、一つだけより、二つの幸福の道を知っている方が有利であることは間違いありません。その分だけ、苦しみを和らげ、幸福を感じる選択肢が多くなるからです。<br />
私は、勝者と敗者をともなう競争をすべて否定しているのではありません。それが、他を苦しめて自分だけが幸福になる形のものではなくて、お互いを尊重して切磋琢磨する形のものであれば、自と他双方を幸福にするものとして、形を変えた慈悲の実践と考えることができると思います。<br />
競争原理に基づく資本主義社会も、本来の目的は、健全・活発な競争によって、社会全体の富・幸福・技術が向上することです。しかし、それは健全・活発な競争が続くことが前提となっています。<br />
ところが、その中で、現在のように、心身を壊してしまい、競争できなくなる人が増えるならば、その人たちが不幸になるだけでなく、競争の参加者が減って、活発な競争は維持できません。よって、政府は、失業した人のケアや、一度倒産・破産してもやり直せる経済の仕組みを作る努力をしています。<br />
しかし、そういった物質面での努力に加えて、精神面でのフォローが必要だと思います。
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なぜならば、幸福・不幸、希望・絶望は、心が感じるものだからです。よって、現在の社会を支えるためにも、単なる競争に基づく価値ではなく、慈悲に基づく新しい幸福の価値観が必要だと思います。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
３　日常のさまざまな苦の裏にある幸福を見つける</strong></span>
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ここでは、日常のさまざまな苦の裏にある幸福を見つける考え方について述べたいと思います。
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（１）経済の不安--質素倹約・精神的な幸福の気づき・慈悲の芽生え</span></strong>
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今日本は不況で、自分の将来の経済に不安を感じる人が多くいます。しかし、絶対的な貧困や飢餓にあえぐ途上国の人達の貧困や飢餓から見ると、日本の人は皆、王侯貴族に見えるといいます。確かに、経済に不安を感じるといっても、それは、途上国のように、生きてはいけない絶対的な貧困や飢餓ではありません。<br />
日本には生活保護を含めた社会福祉制度があり、（行政・法律は完全ではありませんから例外はあるでしょうが）おおむねそのような事態を防いでいます。よって、経済の不安とは、生きていくためのお金が全く不足しているという事実ではなく、前ほどはお金がない、将来に備えて十分なお金があるとかどうかわからないといった、多分に精神的な苦しみであることがわかります。よって、経済の不安の裏側にある喜び・幸福について考えてみましょう。
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第一に、お金が減ったことを前向きに考えると、贅沢・無駄遣いを見直す機会となり、より少ないお金でやっていく方法や別の形でお金を稼ぐ方法を求めて、智慧を絞って工夫する機会となります。これは欲望を減らし、忍耐力を強め、智慧を深めることにつながります。<br />
そして、景気の浮き沈みは常にあり、質素倹約の力を身につけられれば、今後とも安定した経済生活が営めることになります。これは、仏教の教義で言えば、苦しみに慣れて、悪業が清算され、とらわれが減って、無智が減って智慧が増大し、より広い条件で幸福になるという教えです。
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第二に、この経済不安の経験を活かせば、慈悲の心を培うことができます。今まで理解しようとしたことがなかった、同じように経済に苦しむ多くの人たちの気持ちを理解し、慈悲を培うことができます。世界中に、私たちよりもはるかに貧しい人がいますし、日本の中にも大勢いるでしょう。人はやはり自分で不安・苦しみを経験しないと、他の苦しみを実感することは難しいものです。これは、仏教の教えにおいて、苦しみが慈悲を培う手助けになるというものです。<br />
そして、それは、現象をありのままに見る智慧にも結びつくと思います。すなわち、豊かさとか貧しさといったことを含め、人の感じる幸福・不幸は、比較によって生じる実体のないものだということです。自分と自分に近い人の比較、今の自分と前の自分の比較で幸福・不幸を感じるのであって、比較対象が変わると、不幸が幸福に、幸福が不幸に入れ替わってしまいます。外にあるお金や名誉が幸福・不幸を作るのではなく、心の中の比較が作ります。仏教の教えでは、智慧と慈悲は一体であり、最も重要な修行の目的です。<br />
さらに突き詰めていくと、ざんげ懺悔の心、謙虚な心を培うことができます。自分たちのこれまでの豊かさが、世界中の貧困の犠牲の上に立っている事実にも目覚めます。日本などの先進国が経済力で世界の富を独占しています。世界には全人類に十分な食べ物があるといわれますが、その配分が偏っているために、飽食の先進国と飢餓の途上国があります。日本などの先進国が、食糧などの物資を国際市場で買い付ける行為は、その分だけその市場価格を上昇させ、貧しい国は十分に買うことができません。これは、仏教の教えにおいて、自分の（煩悩的な）喜びの裏には、他人の苦しみがあると説かれているものです。<br />
このようなことを考えているうちに、経済的な貪りが静まり、自分が経験している多少の経済の不安は苦しみとは感じなくなるでしょう。そして、私たちが経済の不安を感じているのは、常日頃私たちが自分たちのことばかりを考えて、もっともっと欲しいという欲求が強い社会の中にいるためであることがわかります。これは仏陀が説いた、自己の苦しみが自己の中の原因でもたらされるという自業自得の教えでもあります。<br />
このように考えてみれば、私たちが経験している経済の不安は、私たちが知らず知らずのうちに陥っている、自分中心の考え方・貪りに気づいて目を覚まし、慈悲を培う貴重な機会になると思います。
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第三に、自分のお金が減ったときは、逆に、お金以外のもの、お金以上に大切なものに気づく機会でもあります。<br />
例えば、お金が儲かっているときは、もっともっとお金を求め、お金に執着するために、お金以外のもの、お金以上に素晴らしいものに気づかないことも多いと思います。例えば、上記の智慧や慈悲も、その一部であるということができます。<br />
それに加えて、自分のお金や所有物ではなくて、例えば、毎日私たちの目の前で展開する大自然・大宇宙の営みといった、皆が共有するものの豊かさ・素晴らしさに気づく機会だと思います。自分と他人を区別し、自分を偏愛する自我執着の心は、すべて苦しみの原因ですが、自分のお金が減ったことを機会に、そのとらわれを弱めるならば、皆が共有するものの素晴らしさを楽しむことができるのです。<br />
また、「時は金なり」といいますが、給料とともに仕事が減るならば、今まで仕事でできなかった他のことができます。それを有意義なことに使えば、仕事では培えない豊かな人格を形成する機会となります。最近不況で仕事が減って、男性の家庭サービスが増えているという興味深い報道がありましたが、これは愛の増大といえるかもしれません。
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こうして、経済の不安の裏側にはさまざまな幸福があります。そして、大乗仏教における重要な教えである六波羅蜜（六つの完成）の中には、物質的な困窮に耐えるという教えがあります。これは、それによって、自己や自己の所有物に対するとらわれが和らぎ、智慧や慈悲が高まっていくという意味があります。
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最後に、こうして経済の不安を逆に喜びとして前向きに生きていくならば、逆に経済的に恵まれるという教えがあります。いわゆる、「笑う門には福来たる」という経験則です。七福神の一人であり、財物の神である大黒様は、常に微笑んでいます。<br />
これは神秘的な話のようですが、合理的な話でもあります。落ち着いて考えれば、経済の不安に悩み、深刻な雰囲気の人と比較すれば、不安を逆活用して喜びにしている明るい人の方が、他人に好かれるのは間違いありません。よって、良い仕事、良い顧客、良い取引先が得られるでしょう。<br />
また、「類は友を呼ぶ」ということを考えると、経済の不安に深く悩んで、必要以上にお金にガツガツしている人は、似た人と縁ができて、そういった人たちの輪の中では、お互いに与え合うことがあまりありません。逆に、あまり悩まず、ガツガツしていない人は、お互いに与え合うから、お互いに豊かになります。<br />
これは、国の経済が、皆が寛大にお金を使ってお金の流通が増えると全体に活性化して、逆になって、流通が減ると全体に停滞するのと似ています。私の経験でも、お金の心配をあまりしない人の方が、お金の入りがよいのです。<br />
この「類は友を呼ぶ」というのは、縁というものを重視する仏教の法則に通じます。ここでの縁とは、共通のカルマ・精神的な傾向といったほどの意味で、これがあると結びつくのです。また、自分がなしたことが、他から返ってくると説くカルマの法則にも通じます。<br />
そして、こうして法則の実践をしていると、神仏の祝福・守護というか、宇宙法則（ダルマ）の存在というか、そういったものを感じるようになります。生きていくに必要なものは不思議と（神仏に）与えられるとか、（法に従って）回ってくるという体験をするようになります。私自身、団体を創設して以来、こうした体験を何度もしており、そのため社会的な苦況にあっても、今まで続いています。<br />
よって、大黒様などにお祈りするときには、そのふくよかな笑いが、私たちが見習うべき、重要な実践であることを意識するとよいでしょう。
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<strong><span style="font-size: small">（２）批判・中傷--学びの場としての人間関係を</span></strong>
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批判を受けるというのは、誰にとっても辛いものですが、万事、苦しみの裏に喜びありとの視点から、批判を受ける裏側にある利益を考えてみましょう。<br />
まず、第一に、正しい批判は、謙虚に受け止めれば、自己の成長の大きな助けとなることはいうまでもないと思います。しかし、これを素直に実践するためには、今の自分を評価してほしいという欲求を超えて、常に自分を向上させようという欲求が必要だと思います。<br />
客観的にはまだまだ未熟な自分であるのに、自分でも気づかないうちに、楽して早く幸福になりたいという怠惰・甘えに支配されると、現状の自分は問題がないという錯覚が強くなります。すると、謙虚に学ぶ意欲が弱り、批判を活かすことができなくなります。これには絶えず注意しておかなければなりません。<br />
こうして、厳密に言えば、批判自体が苦しみをもたらすのではありません。それを受ける側が、成長欲求を持っていれば、批判とは、助力と感じられます。自己保全欲求を持っていれば、自分の幸福を邪魔するものと感じられるということだと思います。<br />
よって、毎日の人間関係の意味合いとして、自分への評価を求める場ではなくて、自己を成長させるための学び・自己研磨の場と考えるとよいと思います。こうして、感謝すべき学びの場と位置づければ、批判に対して過敏になることがなくなり、だいぶ楽になる人も多いのではないでしょうか。<br />
なお、この学びの場という考え方は、日常の人間関係全体を有意義なものにするために、非常に重要な教えです。単に批判に対してだけでなく、良いことをしている人、悪いことをしている人を見ては、自分の教師・見本、反面教師として学びの対象とするのです。すると、すべての人々が、神仏が自分に与えた導き手のように感じられるようになります。
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第二に、間違った批判についてですが、これは冷静に対処すれば、逆に自分の名誉・評価を高める機会になることが多いと思います。特に、理不尽で感情的な批判を受ける場合は、第三者が見れば、批判されている方に同情心が生じるのが普通でしょう。そういった批判にも冷静・誠実に対応するならば、逆に尊敬されることが多いと思います。<br />
また、そういった理不尽な批判は、現代社会の人々の苦しみを洞察する良い機会となります。そういった批判は、実際には、自分の中の苦しみのため、他人に噛みつき、注目を集めようとする（愛してもらおうとする）場合が多いと思います。いわゆる屈折した愛情欲求です。<br />
最近はこれが相当に多くなったと思うのですが、そうした人への洞察力を高めるならば、批判に対して心が動じず強くなるし、そうして隠していた苦しみを理解し、受け止めることができると、相手が敵から味方になる場合が少なくありません。これは、深い意味での智慧と慈悲だと思います。<br />
最後に、そういった間違った批判について、自分の反面教師と見て、自分を振り返り、自分も過去においてそうしたことや、時と場合によってはそうする可能性があることに気づいて、自戒を深めると、よりいっそう心が成熟すると思います。
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こうして、批判を受けることは、心も持ち方、視点を変えると、自分を成長させ、他の苦しみを理解し、評価を高め、味方を増やす機会となり得るものです。そのため、先ほども述べた大乗仏教の六波羅蜜（六つの完成）の教えには、物質的な困窮に耐えることに加えて、批判に耐えることという修行があります。
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また、この意味で、仏陀が説く「敵こそ教師である」という教えや、イエスの言葉である「汝の敵を愛せ」というのは、まさに人としての智慧と愛の結晶だと思います。実際、イエスや仏陀は、敵を愛し、敵を味方にしてきた人でした。<br />
例えば、キリスト教の教義体系は、イエスというよりも、弟子のパウロらが確立したといわれていますが、パウロは、イエスに関する宗教体験をして改心するまでは、イエスの信者を弾圧していました。すなわち、キリスト教は、以前は敵対者だった者が確立した宗教という一面があります。「汝の敵を愛せ」という言葉がそのまま、キリスト教の誕生をもたらしたということになります。<br />
また、イエスはユダの裏切りをきっかけに刑死しましたが、それがキリストとしての奇跡の復活につながりました。こうして、敵が味方になったという話や、裏切りによる死が復活の奇跡につながったという話は興味深いものです。人が最も忌み嫌う、敵、裏切り、死といった苦しみが、世界最大宗教となったキリスト教の中核を作ったわけです。<br />
仏教でも、同じような話があります。まず、釈迦牟尼如来のひとり前の如来をカッサパ仏といいますが、カッサパ仏の時代においては、釈迦牟尼自身が、一度は、カッサパ仏を誹謗中傷したともいわれています（この生の釈迦牟尼はまだ悟って仏陀とはなっていませんでした）。<br />
そして、釈迦牟尼が仏となった後には、釈迦牟尼を殺そうとした大悪人が、改心して、釈迦牟尼の高弟となります。有名なアングリマーラです。さらに、釈迦牟尼教団を一時的に分裂させたデーヴァダッタは、いったん地獄に堕ちましたが、そこで改心して、仏教を守る神（護法神）として生まれ変わったといいます。
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さて、これは私の仮説ですが、パウロが初期にイエスに帰依できなかったことは、彼が世界宗教として発展するようなキリスト教の教義体系を確立する際に役立ったのかもしれないと思いました。人は、自分自身がなかなか帰依できないという経験があれば、同じように帰依できない人の気持ちを理解でき、なるべく多くの人が帰依・実践できるように、教義などを工夫すると思うからです。<br />
また、これと少し似た話として、釈迦牟尼に遅れること５６億７千万年後にようやく悟るとされている弥勒菩薩が、逆に釈迦牟尼よりはるかに多い人々を悟りに導くとされています。これは、煩悩が多く早く悟ることはできない者が苦闘の末に悟ったならば、煩悩が少なく早く悟る者に比べて、自分と同じように煩悩が多く苦闘する者を救う力は強く、いっそう多くの者を救うことができるからとも考えることができます。<br />
こうして、誰かが、最初は間違っていたり、劣っていたりしても、それは、落ち込みが深い分だけ、はい上がる高さも高いということであって、その人が成長したならば、最初から正しく優れていた人よりも、大きな達成を得る一面があるのではないでしょうか。<br />
これに関連して、仏教では、大煩悩大解脱とか、「大悪人が大善人になるという教えがあります。これは、煩悩が強い者はエネルギーが強い者であって、そのために、解脱を果たしたならば、エネルギーが強い分だけ大きな解脱を果たし、大きな善行をなすというものです。<br />
そして、これから出てくる教えは、すべてを平等に尊重すべきである、というものでしょう。これを仏教的にいえば、万物が平等な仏性の現われ（平等に未来に仏陀になる可能性を有する）という教えがあります。<br />
この教えは、私が解釈するに、人と人の違いは、仏の視点から見ると、優劣ではなく、個性であって、役割の違いであり、お互いがお互いを助け合っているという思想です。早く悟った釈迦牟尼が、先駆者として仏の教えを広め、後に悟る弥勒菩薩が、実際に人類全体を救済して、釈迦牟尼を助け補います。<br />
これは、母が子供を育てるときの心境に似ています。幼少の時の子供は、母親に２４時間苦役を強い、客観的には、母親に最大の敵の一面を呈しますが、その将来の成長を信じる母親は、子供に最大限の尊重と愛を持って、育みます。そして、成長した子供は、今度は年老いる母親を助けます。<br />
よって、仏をすべての生命の母と見立てて、慈母観音菩薩といったり、観音菩薩の化身のグリーンターラーを仏母と位置づけることがあったり、この宇宙をすべての生き物をはぐくむ仏の母胎とする「胎蔵界曼荼羅」という教えが、仏教にはあります。キリスト教で言えば、聖母マリアが宇宙の母のイメージでしょうか。<br />
こうして、宇宙の母のような気持ちで、すべての生き物について、一時的な敵味方の関係や、善悪・優劣の区別に惑わされずに、真実は皆がお互いが助け合う関係にある未来の仏であると考えて、愛しはぐくむのが、仏陀の智慧と慈悲です。よって、イエスが、「汝の敵を愛せ」と説き、仏教は「敵こそは教師である」と説きます。
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一方、今現在は、宗教が、敵と戦争をもたらす一面が目立っています。しかし、本来は、宗教には、敵を味方に変え、平和をもたらす思想があります。２１世紀の宗教の創造を目指すひかりの輪では、この平和をもたらす宗教の力を再生できればと考えています。<br />
また、麻原信仰を脱却し、アレフ（旧オウム）を脱会・独立したひかりの輪は、今現在は、麻原信仰を深めるアレフと対立関係にあります。しかし、アレフの人たちが成長し改心して、その苦闘の末に、麻原信仰を脱却したならば、苦闘が長く深い分だけ、より多くの人に、慈悲深くなる可能性もあると思います。<br />
また、団体を監視する公安当局も、私たちの脱却・脱皮・進化を促す愛の鞭とも考えられます。そもそもは、ひかりの輪も、アレフも、公安当局も同じ日本人であって、一つの日本しかありませんから、「汝の敵を愛せ」、「敵こそ教師である」という教えは素晴らしいと思います。
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<strong><span style="font-size: small">（３）挫折・失敗--失敗は成功の元と考え、目標を達成する強さを得る</span></strong>
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挫折・失敗も辛いものですが、「失敗は成功の元」という言葉は真実だと思います。仏教の教義では、人は皆、善業だけでなく、なんらかの悪業を背負って生まれて育ち、それゆえに、物事を完全には正しく見ることができない無智の状態にあるとされます。<br />
よって、真の幸福に至るためには、悪業の清算という苦しみに耐えて、悪業によって形成されている無智を減少させる必要があるとされています。そのため、大乗仏教の教えでは、苦しみに耐える忍耐の修行が課せられています。特に、法則を理解し、悟ることについての難しさに耐えろと教えられています。<br />
そして、これは、悟りの達成に限らず、世俗の物事の達成についても当てはまります。物事の達成には、物事を正しく見る智慧が必要なことは言うまでもありませんが、人は、その悪業と無智によって、そうできない場合があります。その場合、失敗・挫折を経験します。<br />
しかし、その失敗・挫折は、それでは成功しないということを知ったという意味では、成功に向けて一歩前進したことになります。それは、失敗の苦しみによって悪業が清算され、その分だけ無智の闇が晴れたということもできるのです。
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実際に、「失敗は成功の元」という言葉の生みの親ともいわれる発明王エジソンは、電球の発明までに９９９回も失敗したといわれていますが、彼は、その９９９回について、失敗ではなく、「これでは成功しないと知った成功だった」とか、「成功へのステップだった」と語ったといわれています。<br />
同じように、成功ばかりを欲求し失敗を恐れることは、正しい成功の道ではないことを端的に表現したのが、ホンダの創始者の本田宗一郎氏の言葉で、「多くの人が成功を夢見ている。私にとって成功とは、数多くの失敗と自己反省を繰り返した末に初めて手に入るものだ。」と語っています。<br />
少し古いですが、私の好きな日本人としては、戦国の覇者の徳川家康も、人生前半は捕虜になっていたり、戦では戦うたびに負けを繰り返したりしました。しかし、その経験が、人生後半で活かされたといわれています。<br />
最も敬愛された米国大統領エイブラハム・リンカーンは、初めて州議会に立候補して落選した後、それから合計８回の選挙に落選したとされます。大統領になった後の南北戦争などで発揮された忍耐強い性格は、こういった若いときの苦労から生まれたのではないかと思います。<br />
自動車王であるヘンリー・フォードも、自動車会社が成功するまでに７度の失敗、５度の破産をしているし、ウォルト・ディズニーは、想像力に欠けるとされ、新聞社を解雇され、ディズニーランドを建てる前に何度も破産したといいます。
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こうして、真の成功は、失敗したくないという自己保全があると、得られないことがわかります。無鉄砲ではいけませんが、よく考えたならば、実行に移すことです。その結果が失敗であっても、それは成功の元であり、何もしなければ、成功どころか、成功の元さえ得られません。よって、成功にとらわれすぎて、失敗を恐れれば、成功しないというのが法則です。<br />
成功にとらわれすぎる背景心理には、失敗が悪いことだという固定観念、失敗による不名誉を嫌がる自己愛・自己保全、そして、失敗を経ずに早く成功したいという怠惰などがあるかもしれません。しかし、真の成功は、目先の楽である怠惰や名誉を超えて、長期的な視点に立った、継続的な忍耐・努力によって生まれるものだと思います。<br />
成功にとらわれるもう一つパターンとして、最初成功したがために、その成功体験にとらわれてしまうことがあります。しかし、あらゆる物事は絶えず変化していますから、状況に応じた改善努力を怠るならば、最初の成功が逆に失敗の元となるといわれています。<br />
こうして、継続的な努力をする限りは、失敗は成功の元になり、それがなければ、成功さえも失敗の元になるということができます。言い換えれば、努力をする人には、成功と成功の元があり、努力をしなければ、失敗と失敗の元があります。<br />
最後に、ヒトラーに打ち勝った第二次世界大戦最大級の英雄・イギリス首相のウィンストン・チャーチルは、子供のころに、言語障害があって何年も苦労し、士官学校に入るのにも３度も落ちていますが、そのチャーチルの言葉として、「成功とは、意欲を失わずに失敗に次ぐ失敗を繰り返すことである。」というのがあるそうです。<br />
これは、物事を達成する上では、一種の悟りの境地かと思います。成功を求めつつ、（目先の）成功にとらわれず、成功の元となる失敗を含めた多くの経験をひたすら積み重ねて、最終的に成功を達成するという心構えです。ある意味で、無心・無我の境地で、物事に望む悟りの境地に通じます。<br />
私自身も、人生前半がああでしたから、これからの人生後半、失敗を成功の元にすべく、生きていきたいと思います。
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<span style="font-size: medium"><strong>４　今この瞬間を楽しむ生き方</strong></span>
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宗教的な真理の中に、すべてがありがたいとの境地があります。これは一つの悟りであるともいわれます。<br />
そして、苦しみの裏側に喜びがあることを理解すると、その極致として、この心境が出てきます。それは、今この瞬間を楽しむ生き方だということができます。<br />
しかし、普通の人は、たいてい、今現在の自分の境遇に関しては、なんらかの不満・苦しみを抱いています。そして、未来については、現状の不満が解消される期待と、その逆になる不安を抱いています。そして、過去に関して、不満のある今現在の自分を作った部分において、なんらかの後悔を抱くことが多いと思います。<br />
それに対して、今現在の自分の境遇のすべてを受容・感謝すれば、今この瞬間を楽しんで生きることができるということになります。これは、道教などの東洋思想では、その時々に自分の境遇に合わせて生きる、無為自然の生き方とされるものです。<br />
そのためには、①今得られていないものではなく、自分に得られている幸福をよく考えて、それに感謝する、②今の苦しみについても、この前お話ししたように、その裏にある利益を発見して、その苦しみは悪いことではなく、（今は少し辛くても長期的・総合的には）良いことだと考えて感謝することが必要です。これを言い換えれば、今得ていることにも、得ていないことにも、感謝することであり、現在の自分の条件のすべてに感謝という、全面肯定の生き方になります。
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この心境が深まると、絶えず際限なく貪り求める心が静まって、心が落ち着いてきます。そして、前回お話ししたように、自分の苦しみの経験を他の苦しみを理解することにつなげていきますから、心が温かく広がった状態になっていきます。<br />
静まった心と広がった心、寂静と慈悲、これが仏陀の心だと、私は解釈しています。そして、この静まった広がった心による幸福は、今この瞬間に存在し、今この瞬間瞬間を楽しむことができます。今この瞬間の自分と自分を取り巻く世界を楽しむことができます。<br />
しかし、普通は、際限のない貪りにとらわれ、もっともっととばかり考えて、自分が得ている幸福や、それを支える人への感謝が乏しい。そして、得ていないことを苦しみ・悪いことだとばかり考えます。その心には、現在の不満と、未来への期待と不安が渦巻いています。今の自分や他人は嫌だ、未来はこうあってほしいけど、そうならないのは嫌だと。<br />
これでは、今この瞬間瞬間を幸福に生きることなく、半分は、今はまだ存在しない未来における期待と不安に生きているようなものです。そして、そのままずっと行って、気づいたときには、一度も与えられているものに感謝して楽しむことなく、死を迎えてしまいます。
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さて、ここで、皆さんからはこういった反論ができるかもしれません。今現在の自分に不満を抱き、未来がもっと良くなるようにと求めてこそ、人間は今より幸福になるのではないか。それが人間を進歩させてきたのではないか。それに対する私の答えは二つあります。<br />
第一に、現在への不満が未来に向かっての改善努力に建設的に前向きに働いているのであればいいのですが、最近は、逆に改善努力ができなくなって、自己否定・卑屈・諦め・怠惰・鬱状態を招くケースが多いのです。この場合は、現状への感謝によって、気持ちを切り替え明るくし、心身のエネルギーを回復して、努力し続ける状態を得ることが有効です。<br />
特に、挫折の時には、失ったものばかり見て悲嘆せず、「自分にはまだこれだけある」と考えて感謝したり、逆転の発想によって、挫折を成功の元ととらえなおし感謝したりする発想が非常に有効だと思います。挫折に強く、継続的な努力ができれば、長期的には必ず成功するものだと思います。<br />
第二に、何かの目的を達成する場合にも、目的達成を焦ってばかりいるのではなく、足るを知る、一切に感謝する精神で、心が静まる方が、むしろ逆に、その目的としていたことを達成することができる、という逆説的な事実です。逆に言うと、欲しい欲しいと思って、どうしたらいいかと思い悩むばかりでは、空回りをしてしまい、上手くいかないということです。これについては、次項でお話しします。<br />
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さて、第一について、もう少し詳しく述べたいと思います。繰り返しになりますが、自分が前向きに生きるための手段として、現状への不満・自分への叱咤を使えているうちはよいのですが、心が現状への不満そのものとなってしまい、自己と周囲を否定するばかりとなれば、破壊的なものとなります。<br />
例えば、大きな挫折をしたり、何か大切なものを失ったりしたときなどは、場合によっては、希望を失い、落ち込み、やる気がなくなり、身動きが取れない場合もあります。そういった状況では、視点を変えて、「依然として、広い目で見ると自分は恵まれているのではないか」、「まだこれだけ持っているではないか」という発想が有効です。<br />
例えば、世界的な視点から見れば、長寿・安全・経済大国の日本人ですから、苦況・逆境でも、依然として、相当なものをいただいています。昨今は不況で、お金や仕事を失う人も多いでしょうが、依然として、自分を支えようとしている家族・友人・知人、五体満足な健康と残りの寿命が残っています。また、より大きな視点で見れば、途上国と違って、飢餓・民族紛争はなく、福祉・医療制度・治安が整った社会が自分の周りにはあります。<br />
こうして、いまだあるもの、今でも与えられているものが相当にあることを考えたり、その裏側に、自分よりはるかに苦しんでいる人たちが無数にいることを考えたりして、自分がそれらの幸福を当然のものと考えて感謝が足りなかったことなどを反省するなどすると、自分の落ち込んだ気持ちを徐々に立て直すことができると思います。<br />
すなわち、改善努力が重要だとしても、それを長期的に続けていくためには、現状に対する受容＝感謝と改善努力の間でバランスを取ることが必要です。他人を育てる場合に、優しさと厳しさのバランスが重要であると同じように、自分が成長していく上でも、現状の受容（感謝）と改善の努力のバランスです。<br />
例えば、いきなりすべて達成しようという焦りがあると、それができない不満によるストレスが強くなり過ぎ、一方、現状の受容だけだと、現状の改善は起こらない。現状に感謝しつつ、改善の努力をするといったバランスを取ることです。理想としては、時の流れに沿ってこつこつ前進することですが、これをもう少し高度にすると目的達成に無心の境地で向かうということになります。これについては次項でお話しします。<br />
さて、こうして、今ある幸福を見いだし感謝した上で、挫折の苦しみの裏側の喜び・利益を見いだす逆転の発想を行います。これについては、別項で述べますので、ここでは省略します。
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最後に、感謝のさまざまな効用をまとめておきたいと思います。まず、感謝は、智慧・謙虚さ・愛を強め、心を明るく温かく軽くします。<br />
感謝の訓練をすると、自分の得ている幸福の大きさに気づきます。そして、さまざまな人々・万物が自分の幸福を支えてくれている事実に気づきます。自分の幸福のために、さまざまな存在が犠牲を払っていることに気づき、懺悔の気持ちも出てきます。こうして謙虚さ・智慧が増大します。さらに、感謝の気持ちが強まると、多くの存在・万物への愛が増大し、恩返しとして、利他の実践を行なう土台を培うことができます。<br />
感謝の心は、苦しみに強い心も作ります。上記のように、挫折・失敗・喪失の際にも、自分に与えられているものの大きさを理解して、前向きになる力です。また、感謝に基づき、万物への愛が増大し、自分よりもはるかに苦しんでいる人への慈悲が強まると、これも苦しみに強い心の状態を作ります。他者の苦しみに比べて、自分の苦しみが小さく感じられるからです。<br />
そして、心の利益に限らず、感謝は、一部の医療関係者が主張するように、がんや免疫力の低下の原因であるストレスを和らげる可能性があります。これによって、身体・健康維持にも利益があります。さらに、不満が少なく感謝の心が大きい人は、自ずと、人にも好かれ愛されますから、良縁に恵まれ、物質的にも恵まれることになります。こうして、感謝は、心、体、物質のすべての面での恩恵があると思います。
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<strong><span style="font-size: medium"><br />
５　目標達成のための最高の境地--無心の境地</span></strong>
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皆さんは、人生において何か目的・目標をお持ちでしょう。それが何であれ、私の考えでは、それを達成する上で、最善の心の持ち方・精神状態は、無心、無我、無欲の境地などと呼ばれるものです。<br />
何かの目標・目的を持っていたとしても、単にその達成を欲求するばかりで、焦ったり、達成できないのではと不安に悩んだりしていると、空回りして逆に上手くいかないことは、経験上、なんとなくおわかりいただけるかと思います。<br />
これは、仏教に限らず、幅広くあらゆる分野に通じる経験則です。例えば、武術の達人が、「勝つと思うな、思えば負けよ」といいます。無心の境地こそが無敵の境地であるといわれます。スポーツの世界では、追い詰められて「なるようになれ」と開き直ったら上手くいったとか、肩の力が抜けたら上手くいったというのも同じです。さらには身近なところでは、「果報は寝て待て」、「笑う門には福来たる」、「急がば回れ」などいった格言も、同じことを言っているものだと思います。<br />
欲求と不安で心が乱れていると、正確な観察や思索ができません。さらには、これは不思議な人間の精神的な能力ですが、心が静まっているときでなければ、直感的な智慧・インスピレーション（言い換えれば超高速度の精神活動でしょうか）は生じません。<br />
例えば、私は、数時間の講話をするときも、最近は原稿を一切用意しません。昔はある程度のメモ書きを用意していたのですが。講話の前には、なんとなく話す内容のイメージはありますが、具体的に何をどう話すかは、話しながら考えているというか、実際に話している間に、次々と浮かんできたことを話しています。<br />
普段から修習している教えが、空っぽの心の状態の中に、順々にわいてきたのを話しているという感じでしょうか。さらに、話している間に、それまで考えてもなかったこと、そのとき初めて気づいたことを話すことも度々あります。話しながらひらめく、気づく、学ぶといった感じでしょうか。<br />
そして、講話の前に、上手く話そうと思い過ぎると、上手くできないのではないかという不安が生じることがあります。そうしたときは、上手く話そうと思えば、逆に上手く話せないということを経験上よく知っているため、その欲求を意図して放棄し、思考を空っぽにするようにしています。<br />
そうして静まった心の状態であれば、普段から考えていた教えに関して、それなりに上手く話すことができます。昔は、これが上手くできないこともありましたが、最近はだいぶ上達してきて、そういった余計な欲求・雑念は、比較的すぐに静めることができるようになりました。<br />
特に、目的を達成する上で、相手のある場合は、自分の欲求ばかりが頭にあると、相手を洞察することもできません。相手を理解する直感も働きません。講話や質疑応答でも、一番上手くいくのは、自分が上手く話したいというよりは、相手に集中している場合だと思います。<br />
武術・スポーツでは自分が勝とうと思い過ぎれば、相手が見えにくくなって、逆に負けてしまうとされます。そして、ビジネス・交渉も、恋愛・夫婦・育児まで、これは、万事に当てはまると思います。自分がこうしたいと思い過ぎると、相手のことはわからなくなって、結果として、上手くいかなくなってしまうわけです。<br />
これは、さまざまな分野の達人が気づいた真実だと思います。「一芸は百芸に通じる」という格言も、無心・無我の境地こそ、百芸のために最高の境地だという意味だと思います。また、剣術と仏教の禅定（瞑想）は一つの如しとする「剣禅一如」という言葉も同じです。<br />
仏教では、「止と観」という教えがあります。サマタとヴィパサナーとサンスクリット語では言いますが、これは、止まった心が現象を正確に観察するという意味があります。これと同じものが、「禅定と智慧」という教えで、禅定＝瞑想で心が静まると現象がありのままに見える智慧が生じるという意味です。正確な観察と智慧があれば、物事の達成は容易となります。
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さて、この無心・無我・無欲の境地を達成するために、さまざまな雑念を含め、「心の働きを止滅すること」をヨーガといいます。この日本人にもよく聞かれるようになったヨーガという言葉は、独特の体操や呼吸法のこと（だけを意味するの）ではありません。<br />
数千年前に、ヨーガの発祥の地であるインドのある哲学派において、ヨーガという言葉が、心の働きを止滅することと定義され、この定義をした哲学派の名前自体がヨーガとなりました（ヨーガという言葉の原意は、つなぎ止めるといったような意味があると記憶しています）。<br />
しかし、ヨーガは、インドの一哲学派を超えて、他のインドの哲学派や、仏教や密教の世界にも広まり、今や世界中に広まりました。それは、皆さんが今知る、体操（体位法・座法）、呼吸法（調気法）、瞑想などといった、ヨーガのさまざまな実践手段が、非常に有用であったからです。それは、インドの宗教＝ヒンドゥー教全体、そして、仏教・密教に取り入れられたとされています。
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そして、仏教・密教・ヒンドゥー教には、さまざまなタイプのヨーガ＝心の働きを止滅する方法・教えがあります。<br />
例えば、（正しい道理に基づく）思索によって心を静めるヨーガがあります。足るを知ること、一切に感謝すること、慈悲を持つことなどは、この一部です。<br />
次に、神聖なシンボルを観想・イメージするヨーガ、心を静める神聖な言葉（マントラ・真言）を唱えるヨーガ、心を静める身体操作、例えば、座法等の姿勢や、呼吸法などがあります。これらは、人の心が、その思考、イメージ、言葉、呼吸、姿勢などの身体の状態と連動していることを使って、心を静めようとするものです。<br />
また、目に見えない、霊的なエネルギーを活性化・浄化・制御して、心を静めるといった霊的なヨーガもあります。この霊的エネルギーが心と密接不可分に連動しているからです。この目に見えないエネルギーは、仙道・気功で「気」と呼ばれ、ヨーガではクンダリニーエネルギー、チベット密教では風（ルン）のエネルギー等と呼ばれています。<br />
さらに、心を静めるために役立つ戒律（ヤマ・ニヤマ）＝生活規律や、心を静めやすい環境作りがあります。例えば、自宅に祭壇を設置して神仏を供養すること（バクティヨーガ）、さらには、神聖な聖地を巡礼して、心を静めるといった方法があります。これらは、心が、生活規律や環境・土地の影響を受けることを考慮したものです。<br />
ひかりの輪では、こうしたヨーガを組み合わせて、心を静める実践をこつこつと進めることを皆さんにお勧めしています。
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第二章　卑屈・妬みを超える慈悲・四無量心の教え</strong></span>
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ここでは、卑屈・コンプレックスを乗り越える教えについて述べたいと思います。物質的な苦しみが和らいだ、現代の先進国社会では、精神的な苦しみが最大の苦しみだと思います。そして、精神的な苦しみの根本原因は、自分と他人を区別し、自分だけを愛する自我執着にあります。最近は、仏教の教義に限らず、心理学の世界でも、自己愛型人格の問題が、現代人の問題としてよく言われるようになりました。<br />
自分が重要な存在でありたい、他より優れた存在でありたい、他人から認められたい、愛されたいという欲求が強くなる中で、それが満たせないために、卑屈、コンプレックス、妬み、寂しさ、孤独感に苦しむ人は相当に多いと思います。ここでは、この問題について扱います。
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<span style="font-size: medium"><strong>１　優劣の区別がない大乗仏教の世界観--万物は平等な仏性の現れ</strong></span>
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大乗仏教では、万物・森羅万象が、平等な「仏性」の顕現であるとしています。仏性とは未来に仏陀になる可能性のことです。よって、万人が、未来に仏陀になる平等な可能性が有するのです。わかりやすく言えば、優れている者と劣っている者の区別は、本質的には存在せず、すべてが平等に尊く、未来のブッダに向かって成長する可能性があるという教えです。<br />
一方、私たちの常識は、「この世界は、優れている者と劣っている者、良い者と悪い者があるに決まっている」と考えています。しかし、そういった常識的な固定観念に流されずに、純粋な知性で深く考えてみると、優劣の区別は、私たちが日常で考えているようには存在しないことがわかります。では、具体的には、どのような考え方によって、すべてが平等に尊い存在であると考えられるかを説明したいと思います。
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<span style="font-size: medium"><strong>２　視点を変えると、優劣が表裏であること</strong></span>
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そのエッセンスを一言で言えば、自分が他に勝つという視点で見れば優れている人も、他を助けるという視点で見ると劣っている可能性があり、逆に、自分が他に勝つという視点で見れば劣っている人も、他を助けるという視点で見ると優れている可能性があるということです。<br />
よって、これは、前章でお話しした、苦しみの裏側に喜びがある、という考え方と同じ本質を持っています。その際は、他に勝って幸福になるという視点では喜びであることが、他を助けて幸福になるという視点では苦しみになり、また、その逆も成り立つということをお話ししたと思います。<br />
視点を変えてみると、苦しみが喜びに、喜びが苦しみになるということです。そして、今回もそれと同様に視点を変えてみると、優れていることが劣っている可能性に、劣っていることが優れている可能性になるのです。では具体的に、どのように考えられるかを羅列してみたいと思います。
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第一に、一般に劣っているとされる人は、優れている人たちよりも、その気になれば、自分と同じように劣っている人の気持ちを理解する能力があります。同じ苦しみの実体験があるからです。もちろん、自分の苦しみに没入して嘆いてばかりいるならば駄目ですが、他の苦しみを理解できる人間になろうとすれば、劣っているとされる人が、逆に有利な部分があります。<br />
一方、優れている人は、実体験がないために、たとえ努力したとしても、同じようには理解することができません。また、多くの場合、優れているとされる人は、他に勝つことができるがあまり、競争に没入してしまい、負けて苦しむ人たちの気持ちが理解できない冷たい人間になるおそれもあります。こうして他の苦しみを理解する力、思いやり、優しさを持った人間になろうとすれば、単純に他よりも優れていることが有利ではなく、他よりも劣っているならば、それを逆に活かすことができます。
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第二に、何かに劣っている人が、あきらめずに努力して、その欠点を克服したならば、同じように劣っている人が、欠点を克服することを手助けする力を備えることができます。また、そもそも、劣っている人の気持ちを深く理解できますから、手助けしようという動機も、優れている人よりも強くなる可能性があります。<br />
しかし、優れている人は、劣っている人がどういった具体的な問題を抱えており、それをどう乗り越えるべきかということを実体験できませんから、同じように手助けすることは難しいと思います。また、その苦しみを同じように深く理解することは難しいので、その分、手助けする際の動機も弱くなる可能性があります。<br />
この一つの例ですが、先日会ったある男性が、「自分は物覚えが悪く、人の何倍も時間がかかりますが、そのためか、会社で新人研修の担当になることが多いのです。他人がどこでわからなくなるかというのが、出来の悪い自分は、全部わかるからです。」と語っていました。
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第三に、自分の力が劣っている人は、意識を転換して、自分の力で物事を成就させることにこだわらずに、優れている他の力を活かすことに努力するならば、他の力を活かすことができる人になる可能性があります。しかしながら、自分の力が優れている人は、自分でできてしまうがために、逆に、他の力を活かす努力をしない場合が多いと思います。こうして、他を活かして幸福になろうとするならば、単純に自分が優れていることが有利ではありません。<br />
この好例が、私が好きな昭和期最大の実業家である松下幸之助氏で、彼は、「自分は学がなかったから、他から謙虚に学べた。体が弱かったから、他に頼むこと・活かすことを覚えた。お金がないから、（お金持ちのところに）丁稚奉公に行って早く商人の才を得た」と語っています。こうして、学力・体力・財力に劣っていた人が、他の学力・体力・財力を活かして、昭和経済界の頂点に立ちました。<br />
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こうして、他に勝って、他に優位に立って幸福になろうとすると、自分が劣っていると思いこんで苦しみますが、そうではなく、①他の苦しみを理解し、②他の苦しみを取り除く手助けをし、③他の力を活かすことによって、幸福になろうとすると、自分の欠点が、逆に長所となる可能性に気づきます。
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<span style="font-size: medium"><strong>３　優劣を超えるには、努力が前提</strong></span><br />
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ですから、自分はそもそも駄目だ、劣っているとか、彼はそもそも恵まれていて、優れている、と言うことはできないことになります。皆がそれぞれに平等に幸福になる可能性があることになります。<br />
とはいえ、欠点が長所になるとは、潜在的な可能性であって、粘り強い努力で、それを実際に引き出さなければなりません。万物が平等な仏性の顕現とは、すべての存在が平等に仏陀になる可能性があるという意味であって、その可能性を活かすためには、粘り強い努力が必要です。<br />
よって、私が思うに、自分を否定する人の中には、努力を嫌がる心の働き＝怠惰・甘えある場合があると思います。表面的には、自分は駄目だと思ったり、言ったりするのですが、本質的には、（自分でも気づかない場合もあるでしょうが）駄目ではなくなるまでの努力はしたくないという意識が根底にあるのです。<br />
これは、卑屈・コンプレックスの問題ではなく、怠惰・甘えの問題です。「楽して幸福になりたい」という本質的な欲求です。<br />
この本質的な欲求は、前章でもお話ししましたが、幸福を妨げる本質的な無智です。本当に幸福になるためには善行＝利他が必要で、悪行＝利己では幸福は得られないのに、楽して幸福になりたいと考える無智があると、目先の喜びをもたらす悪行と、目先は労苦もともなう善行を見て、麻薬中毒のように、前者を選択してしまいます。<br />
ただし、この経験を繰り返していくうちに、徐々に悪行の麻薬性を理解し、真の幸福は善行による以外にはないことを体験的に理解していくのが、人の成長のプロセスであるとお話ししました。
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それはともかく、努力を避けようとする欲求を前提にせずに、粘り強い努力をするこを前提とすれば、優れている者と劣っている者の区別は本質的には存在せず、皆が平等に幸福になる可能性（＝皆が平等に仏陀になる可能性）があるということになります。<br />
そして、これを言い換えれば、欠点と長所は裏表であって、裏に長所のない欠点はなく、裏に欠点のない長所もないということです。絶対的な長所や絶対的な短所はないのです。ところが、ものの見方が一面的であったり、努力を避ける意識があったりすると、（絶対的な）優劣の違い、（絶対的な）長所と短所があるという錯覚が生じます。これが、卑屈・自己嫌悪に陥ったり、逆に慢心に陥ったりしてしまうプロセスです。
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<span style="font-size: medium"><strong>４　慢心の苦しみ</strong></span>
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ここで、多少、自分が他より優れているという錯覚＝慢心に陥る人について言及します。この人たちは、実際には、自分が他より絶対的に優れていたり、絶対的な長所を有していたりするわけではないのに、あたかもそう思いこんでしまいます。よって、慢心の状態になります。<br />
その結果として、過信に陥り、努力を怠り、油断するおそれがあります。すなわち、ウサギとカメの話と同じです。最近の不況は、エリート中のエリートが、金融バブルを形成して、それが崩壊した結果ですが、これは慢心・過信による没落であることは間違いありません。時代の寵児が次々と逮捕・起訴されましたが、これも同じだと思います。<br />
また、慢心に陥っている人が、一転して卑屈になる場合があります。慢心に陥っている間は、他人を見下し、その価値を否定していますから、自分が挫折・失敗したときなどに、その他人に向けていたのと同じ思考パターンが、自分に向けられるのです。人生には、誰もが一度や二度の大きな挫折があると思いますが、他人に向けた冷酷なやいば刃が、自分に返ってくるということです。
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<span style="font-size: medium"><strong>５　卑屈を超えて、四無量心の教えに至る</strong></span>
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なお、これに関連する教えとして、大乗仏教では、仏の心は「四無量心」であると説いています。四無量心とは、慈・悲・喜・捨の四つの広大無量の心です。<br />
「慈」とは、他を慈しむ・育む心、「悲」とは、他の苦しみを（自己の苦しみのように）悲しみ取り除こうとする心、「喜」とは、他の喜び・幸福・功徳を（自分のことのように）喜ぶ心、「捨」とは、すべての生命を分け隔てなく愛する心のことをいいます。<br />
よって、劣っている人が努力することで、他の苦しみを理解して取り除く手助けをすることは、四無量心でいえば、悲の心です。他の優れた力を妬まずに、それを活かそうとすることは、慈の心や喜の心にあたると思います。長所と短所は裏表であると見て、優劣の区別・差別を超えて、万人を尊重するといった実践は、捨の心にあたると思います。<br />
こうして、優劣が表裏であるという教えは、まさに四無量心の教えです。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
６　人と人の間の違いは個性であり、役割の違い</strong></span>
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さて、今まで述べてきたことは、言い換えれば、人と人の間には違いは、「個性」であって優劣ではない、とも表現できます。そして、この個性の違いは単にその人自身のためのものではなく、その人が、「全体に対して果たす役割」を示し、皆が違うことによって、お互いに助け合っているという考えです。<br />
例えば、前回の例のように、さまざまな物事において、他の人より先に実現する能力がある人と、さまざまな障害のために、遅れる人がいます。この場合、後者は、その人と同じように障害を持つ人を助ける役割があると解釈できます。前者は、皆の先駆者となる役割があると解釈できます。<br />
そして、この両者は互いに助け合っています。前者は先駆者として、その物事に道筋を作り、後者を助けます。後者は、その道筋を多くの人が進める太い道として、その道の価値を確立します。
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この話は、仏様にさえ当てはまると思います。仏教が説く二人の仏、すなわち、釈迦牟尼と弥勒菩薩もそうです。釈迦牟尼は、２６００年ほど前にすでに悟った、仏教の開祖です。一方、弥勒菩薩は、それからはるかに遅れて５６億７千万年後に悟るとされています。<br />
しかし、弥勒菩薩は、釈迦牟尼よりはるかに多くの人たちを、悟りに導くといわれています（経典の表現では約２７０億人だから、全地球の人口だと思います）。その意味で、先に悟った釈迦牟尼は、仏陀・如来と呼ばれていても、決して完全無欠な存在ではなく、弥勒菩薩をはじめとする、その後の無数の仏陀の助けによって、その教えが真にすべての人々・生き物を救うものとしての価値を発揮していきます。<br />
よって、弥勒菩薩は、釈迦牟尼を補完する仏陀ともいわれます。これは、釈迦牟尼が弥勒菩薩より優れているということでもなければ、その逆に、弥勒菩薩が釈迦牟尼より優れているということでもなく、両者には、それぞれの役割があって、お互いを助け合っていると解釈できます。
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<span style="font-size: medium"><strong>７　性格の違いも、個性であり優劣ではない</strong></span>
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さて、卑屈と慢心に関連して、人の性格について、「性格が良い、性格が悪い」と表現することがよくあります。しかし、実際には、絶対的に良い性格や絶対的に悪い性格があるわけではなく、すべての性格は、やはり個性であって、短所と長所は裏表だと思います。以下に例を挙げますので、検討してみてください。
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<p>
短気＝素早さ、　のんき＝落ち着き、　感情的＝情熱的<br />
大雑把＝おおらか、　神経質＝繊細、　反抗的＝自立心がある<br />
頑固＝意志が強い、　いい加減＝おおらか、　あきらめが悪い＝「粘り強い」<br />
興奮しやすい＝情熱家、　仕切りたがる＝リーダーシップがある<br />
八方美人＝誰にでも好かれる、　くるくる変わる＝臨機応変<br />
慎重さに欠ける＝楽観的、　目移りが激しい＝好奇心旺盛<br />
お節介＝世話好き、　引っ込み思案＝控えめ・謙虚、　口べた＝聞き上手<br />
迎合型＝協調性、　優柔不断＝柔軟、　甘やかす＝包容力<br />
気が弱い＝繊細、　なあなあ＝平和主義、　自分を責める＝まじめ<br />
鈍感＝辛抱強い、　頭でっかち＝思慮深い、　理屈っぽい＝理論家<br />
神経質＝気がつく、　臆病＝慎重、　視野が狭い＝集中・一途<br />
冷たい＝冷静、　融通利かぬ＝厳格、　消極的＝控えめ<br />
傲慢＝自信家、　保守的＝堅実な、　落ち着きがない＝行動的<br />
批判的＝分析力、　しつこい＝粘り強い
</p>
<p>
こうして、自分の性格が善し悪しではなく個性であると考えると、私たちがなすべきは、自分の性格を否定して、他の性格をうらやむことではなく、自分の個性をいかに活かすかということになります。言い換えれば、その性格が、自分と他人のためになるように工夫・努力し、自分と他人を害さないように工夫・努力するということでしょう。
</p>
<p>
さて、こうして、人と人の間の違いが、優劣ではなくて、お互いを助け合う上での役割の違いであるという考え方は、人の体の中の各細胞の働きとよく似ています。<br />
成人した人間には約６０兆もの細胞があるといわれていますが、その中には、頭、手、足、そして、各臓器など、さまざまな細胞があります。そして、これらの細胞は、例えば、頭があれば、手や足は要らないということにはなりません。皆が互いを互いに助け合っており、互いがあるからこそ、互いが存在しています。<br />
そもそも、この６０兆の細胞は、皆が一つの細胞（父親の精子と母親の卵子が結合した受精卵）から細胞分裂して生じたものであり、同根です。同じ一つのものから発生し、今でも、お互いがお互いを助け合って、一体となって存在しています。お互いがなければ、お互いが存在しないほど、密接不可分に助け合っています。<br />
そして、仏教やヨーガの思想には、この人間の体を小宇宙と見て、大宇宙と相似形と考える思想があります。よく考えると両者は、ともに一点から成長した点でよく似ています。人間の体は受精卵から、大宇宙はビッグバンから。<br />
そして、宇宙の万物も、人の体の中の細胞のように、互いに助け合って、互いがあるからこそ、存在しています。例えば、人は、自分だけで生きることはできません。空気・水・他の生き物の犠牲である食べ物に支えられて生きています。地球・宇宙全体に支えられています。<br />
また、自分も死ねば、その体を構成していた有機物が、他の生き物の体に使われます。再利用、リサイクルされるわけですが、そのリサイクル率は、ある科学者によれば99.9％という非常に高いものだそうです。こうして、自分の生は、他の生き物の死に支えられ、自分の死が他の生き物の生を支え、お互いを支え合っている関係であることがわかります。
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<br />
<span style="font-size: medium"><strong>８　優劣を超えて、神の存在を感じる</strong></span>
</p>
<p>
さて、こういった考え方を突き詰めていくと、その果てに、神や仏の存在という視点が生まれてくることがあります。<br />
神道には、人はすべて「神の子」という思想があります。大乗仏教は、すべての衆生が「仏の胎児（未来の仏）」であると説きます。キリスト教は、この世界の万物は「神仏の創造物」であると説きます。これらは、多少の表現・解釈の違いがあっても、宗教の多くは、この世の万物の根元として神仏があります。万物が神仏の現れ、ないし、現したものという思想があります。<br />
しかし、「自分は駄目だ、生きている価値がない」、または、「あいつは駄目だ、生きている価値がない、世の中は苦しみいっぱいだ」と考えている人は、この世に慈悲深き神仏が存在して、我々を含めた万物を神仏が現しているという宗教的な世界観は信じがたいでしょう。慈悲深き神仏が存在し、それが万物を現したとするならば、「なにゆえこの世には、自分や他人など、駄目なやつが多いのだ」などと思うからです。<br />
これに対して、万人の間には、本質的には優劣はなく、それぞれが幸福（仏陀）になる可能性を与えられており、その違いは個性であって、全体に果たす役割の違いにすぎないと考えるならば、それぞれに個性や役割を与えた存在としての神仏を信じる土台が形成されるのです。<br />
こうして、自分や他人といった人間存在を価値あるものとして愛する、尊重することができるかどうかということと、人間を含めた万物の根元に神仏が存在すると信じるかどうかは、根底において、つながっている部分があると思います。
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<br />
<span style="font-size: medium"><strong>９　日本人の優れた宗教性</strong></span>
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かといって私は、神仏や宗教を信じている人が皆、自他・万物を愛していると主張しているわけではありません。というよりも、現在の多くの宗教は、他宗派を悪魔視するなど、必ずしも、そうできていないと思います。場合によっては、宗教的な意見の相違から、宗教戦争などを行う場合さえあります。<br />
また、自他・万物を愛している人は、特定の神仏や宗教を信じるはずだとも主張していません。特定の神仏や特定の宗教を信じていなくても、自分や他人を愛することは可能だからです。ただし、そういった人の場合でも、広い意味での宗教性、例えば、一人では生きることさえできない自分というものを支えてくれる、この世の万物・大自然に対する感謝や、人智を超えた何か大きな力を尊重する謙虚さ、というものがある場合が多いと思います。<br />
そして、日本人の場合は、この広い意味での宗教心は非常に高いと思います。言い換えれば、それこそが、日本的な宗教性なのでしょう。読売新聞が特集した「日本人の宗教観」という世論調査によると、「宗教を信じている」という人は３割以下にもかかわらず、日本人の半数以上は、「自分たちの宗教心は薄くない」と考えており、さらに、「自然の中に人間の力を超えた何か」を感じ、日々の暮らしでは、「墓参り」「初詣」などを、宗教色を意識せずに受け入れています。以下に具体的なデータを紹介します。
</p>
<p>
（１）宗教を信じているかどうか　　「信じている」26,1%　　「信じていない」71,9%<br />
（２）日本人は宗教心が薄いと思うか？　　「そうは思わない」48,9%、「そう思う」45,1%、<br />
&rarr;　特定の信仰の有無と、宗教心の有無が一致しない。日本人特有の宗教観。<br />
（３）先祖を敬う気持ちは？　　　「持っている」が94,0%　「持っていない」4,5%<br />
&rarr;　年代別でも、「持っている」は、20歳代でも86%、30歳代以上で9割超を記録<br />
（４）自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがあるか？<br />
「ある」56,3%、「ない」は39,2%<br />
&rarr;　「ある」はすべての年齢で5割超、「宗教を信じていない人」と答えた人でも51%<br />
（５）日常生活の中の宗教的行為<br />
①盆や彼岸などにお墓参りをする　78,3%<br />
&rarr;　「宗教を信じていない」と答えた人でも77%。<br />
②正月に初詣に行く　73,1%　&rarr;「宗教を信じていない」と答えた人でも74％。<br />
③しばしば家の仏壇や神棚などに手を合わせる　56,7%<br />
（６）死んだ人の魂については、<br />
「生まれ変わる」29,8%、「別の世界に行く」23,8%、「墓にいる」9,9%、<br />
「消滅する」17,6%。「魂は存在しない」9,0%。<br />
&rarr;　何らかの形で死後の存在を信じている人が過半数を超えている。
</p>
<p>
皆さんは、どうでしょうか。神や仏の存在を信じていらっしゃるでしょうか。そして、信じているという人は、どういう意味で信じているでしょうか。信じていないという人は、どういう意味で信じていないでしょうか。よく考えると、信じていると考えている人が、別の視点では信じておらず、信じていないとした人も、他人から見ると信じている人に見えるかもしれません。<br />
そして、ひかりの輪は、この日本的な宗教心、宗教性、霊性といったものを大切にしています。例えば、純粋な自然の聖地に行くことがあるのも、その一環です。また、最近は、一般にも、聖地に行く人が多くなっているようですね。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
10　科学に見られる神仏の存在の示唆</strong></span>
</p>
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さて、前に、人と人の違いは、お互いを助け合う上での役割の違いであり、それが人の体の中の各細胞が助け合うのと似ているというお話をしました。人の体は、一つの受精卵から始まって、細胞分裂を繰り返し、成人の場合、６０兆もの細胞を持っています。その中には、頭・手・足・各臓器・神経・血管など、さまざまな細胞があります。<br />
そして、筑波大学の村上和雄名誉教授が非常に興味深いことを語っています。最初の一つの細胞から多くの細胞が分裂していく中では、それぞれの細胞が、体のどの細胞になるかを決めて、かつ、それら無数の細胞が常にお互いに助け合って一つの生命体としてまとまるように総合調整するものが必要なわけですが、それが、ＤＮＡ情報の中にも、他にも、物理的には見つかっていないということです。<br />
ＤＮＡには、人体のすべての細胞に関する情報はあるのですが、分裂していく無数の細胞を全体としてコントロールするものはなく、それに必要な情報はあまりに膨大なのだそうです。これを言い換えると、細胞分裂による人の成長のプロセスとは、人智を超えたあまりにも見事な（奇跡的な）ものであり、村上教授は、それをなしている、人智を超えた何かを「サムシング・グレート（何か偉大なもの）」と呼んでいます。<br />
「サムシング・グレート」と表現するのは、村上教授の科学者らしい冷静・慎重な姿勢・表現として評価できますが、古典的な表現をとれば、これは、まさに神仏とか、宇宙を貫く法ということになるでしょう。実際に、宗教では、神仏とは生命の源という考えがあります。ですから、神仏という表現をとれば、個々の細胞に個々の役割を配分して、調整しているのは、神仏であるということになります。<br />
例えば、大乗仏教では、皆さんご存じの「南無阿弥陀仏」の阿弥陀如来という仏がいますが、この仏の別名は、無量寿仏（無量の寿命の仏という意味）です。それは、この宇宙が無数の生命を育む力を、仏の力、仏の法力と見なしているからです。
</p>
<p>
さて、科学と神仏の接点は、人体の成長のプロセスに限りません。この宇宙が生命を育むようになったこと自体が、それが偶然の物理的な現象としては、あまりに奇跡的であり、合理的には説明しがたいという科学的な見解があります。なお、これはあくまで説であって、これに対する反論もあるかもしれませんので、あくまでも一つの説として受け止めてください。<br />
そういった科学者は、仮に、偶然の物理的な現象として、生命が誕生する数学的な確率は、１０の３００乗分の１ほどしかないとも主張します。そして、偶然に発生する確率があまりに小さい事柄は、偶然ではなく、必然的に発生した＝誰かが意思してそうした、と考える方が合理的だということになります。例えば、あなたが、家に帰って、テーブルの上にコーヒーが入ったコップが置いてあったならば、それが「誰かによって意思され作られたものではなくて、単なる偶然の現象だ」とは考えないでしょう。<br />
仮に、偶然の現象だと考えると、例えば、地震が起こり、戸棚から、コップが上向きにテーブルに落ち、水道から（故障で）水が出て、その下に偶然にもヤカンがあり、その後、何かの原因で（再び地震？）、脇のコンロの上に移動し、何かの原因で（火事？）温められ、その後、何かの原因で（また地震？）、テーブルのコップの上にだけ注がれ、後はすべてがきれいに元に戻った、ということになります。これは、あまりに無理があることはおわかりでしょう。<br />
そのため、宇宙の中の生命の誕生の原因としては、偶然の物理現象とするよりも、それと意図して誕生させようとした超越的な何かの存在を想定する方が、合理的・科学的である、という見解が出てくるのです。これは宇宙の人間原理説と呼ばれることがあります。
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<p>
また、これは、人づてではありますが、宇宙物理学の佐藤勝彦教授（インフレーション理論の提唱者）が、ある講演で、「物理学における最大の難問は神だ。ビッグバンをさかのぼった世界のすべての始まり、特異点を考えるとき、神という既存物理学を超越した作用を思い浮かべずにはおれない」と語られたことがあったと聞いたことがあります。<br />
また、あるジャーナリストが、ノーベル賞級の科学者数十名にアンケートしたところ、神の存在を信じる人の方が、信じない人よりも多かったという事実も報告されています（どちらとも言わない人を除くと）。これは著名な科学者が多い西欧が、キリスト教圏だということもあるでしょう。
</p>
<p>
これだけ並べ立てたのは、「万物を神の現れ（現したもの）と信じるべきだ」と主張したいからではなく、逆に、最初から「そんなことはない」という先入観を持たずに考えるのがよいと思うからです。<br />
厳密に言えば、科学は、神の存在を肯定も否定もしていないと思います。神の存在も、神の不在も、そのいずれもが科学的に証明はされていません。よって、真に科学的な見地とは、神を信じる自由も、信じない自由も認めるものだと思います。<br />
しかし、 科学が発達しながらもキリスト教文化が浸透している欧米と違って、日本では、科学は神の存在を否定しており、「神を信じるのは非科学的である」という誤解があるように思います。よって、神の存在を示唆する科学者やその説が、少なからずあることをご紹介しました。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
11　真の神の奇跡とは、毎日見る生命そのものでは</strong></span>
</p>
<p>
しかし、「自分は駄目だ、自分は生きている価値がない」と考えたり、「あいつは駄目だ、生きている価値はない、死んでしまえばいい」と考えたりする人には、自分や他人を含めた生命存在が、全く奇跡的なものであって、神仏の御業ではないかという視点は、とても重要だと思います。<br />
特に、「自分は駄目だ」、「あいつは駄目だ」という考えは、これまでも繰り返し述べてきたように、一面的な価値観で自分と他人を比較して、自分が劣っていると考える思い込みから来ます。そして、そういった人の中には、苦しみに耐えかね、自殺する人もいれば、一攫千金の奇跡を妄想する人が多くいます。そして、ちまた巷の宗教の中には、その宗教を信じさえすれば（人格を磨く努力もなしに）、お金が入る、成功する、願望がかなう、奇跡が起こる、と主張するものもあります。<br />
しかし、科学者の見解や、本来の宗教的真理が語ることは、この世の最大の奇跡とは、私たちが毎日毎日、目にしている、人間を含めたすべての生命存在自体です。そして、それを包み育む大自然・大宇宙自体の存在です。それは、すべての人が共有できる、いやすでに共有している奇跡にほかなりません。<br />
そして、そのように感じられるようになれば、自分や他人という人間存在の価値を再認識できていますから、この世の最大の奇跡である生命を、自殺などで破壊したり、自己中心的な願望をかなえるために、まやかしの宗教が説く奇跡まがいにだまされたりすることもないと思います。
</p>
<p>
しかし、現代社会では、多くの人が、そのように考え、感じることができていません。それを乗り越えるためには、人と人の違いは優劣ではなく、個性・役割分担であり、自分の欠点の裏に長所があると考える訓練は望ましいと思います。<br />
人それぞれに与えられている個性・役割は、宗教的に表現すれば、この世のすべてを現す神仏によって、一人に一つずつ、この世で唯一のものとして与えられたものであり、他と比較する必要のない貴重なものです。これは、先ほど述べた「サムシング・グレート」が、人の体の中の無数の細胞の一つ一つに、それぞれの役割、全体に対する役割を与えていると全く同じ感覚です。<br />
そして、生命や自然が神仏の現れ（現したもの）という思想は、すべての生命・自然の尊重の根拠となって、人類社会全体の調和や、地球環境問題の緩和といった視点からも、２１世紀社会に役立つと思います。<br />
こうして、科学的に証明されきったものではありませんが、この思想は、決して非科学的・非合理的ではない上に、個々人の心を豊かにし、社会・地球全体の調和のために役立つ点で、信じるに値する思想だと感じています。また、美しい思想とも表現したらよいかもしれません。<br />
そして、大自然に親しんだ古代の人々や、古き良き宗教の求道者は、これを直感的に感じ取ったのではないでしょうか。また、現代の科学の最先端を行く人々の中にも、それと共通する何かを感じている人たちがいるのではないでしょうか。
</p>
<p>
最後に、卑屈・慢心・寂しさ・孤独を乗り越えるため、自分と他人を含めた万物を、神聖なものとして尊重する知性を育むことは、一朝一夕にできることではないと思います。しかし、日々のこつこつとした努力は、すぐにではなくて、徐々にではあっても、着実に確実に、実を結んでいくと信じています。
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&nbsp;
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<span style="font-size: large"><strong>第三章　怒り・憎しみを超え、自己反省と利他に生きる教え</strong></span>
</p>
<p>
<br />
他に対する怒りをほどく三つの教えについて話したいと思います。これは仏陀の教えに基づくものですから、怒りというものは、現象を完全には正しく見ることができない人間の無智・錯覚による、という思想に基づいています。
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong><br />
１　第一の教え</strong></span><br />
--悪いことをした人がいても、その人だけが原因で、悪いことがなされたわけではない（自と他の区別を超える弥勒菩薩の教えより）
</p>
<p>
そのうちの一つは、ある人が悪いことをしたとしても、その人だけが原因で、その人が悪いことをするようになったのではないという事実です。これは、落ち着いて考えれば、誰もが認めざるを得ない事実だと思います。<br />
というよりも、その悪いことをする人自体が、その人だけの力で生まれて育ったのではなく、両親に産み落とされ、その後のさまざまな環境に大きな影響を受けて、今現在に至っています。そして、両親もまた、その両親によって産まれ、その環境に影響を受けています。<br />
この因果関係は、突き詰めれば、時間的には、人類の先祖を超え、宇宙の始まりまでさかのぼり、また、空間的には、養育環境&rarr;社会環境&rarr;人類社会&rarr;地球&rarr;宇宙全体にまで広がります。こうして、この宇宙のいかなる存在も、良い人も悪い人も、良い行為も悪い行為も、合理的に考えると、宇宙の巨大な時空全体とつながって、その一部として生じています。よって、その中の何者かだけに、功績や罪があるわけではありません。<br />
イメージとしては、火山から噴出するものが、その源は、火山の下だけにあるのではなく、地球の地殻全体に広がっており、それが火山を出口として現れるだけだというのと似ているかもしれません。また、がん細胞とも似ています。がんは、その人の遺伝子・体質・生活習慣・精神的な要素等によって生じ、がん細胞が、がん細胞を作り出すのではありません。そのため、がん細胞を手術で摘出しても、再発することが多くあります。<br />
釈迦牟尼は、この世界観を「縁起の法」として説きました。縁起の法とは、万物が相互依存によって存在しており、何者も他から独立して存在してはいないという普遍的な道理を説くものです。大乗仏教の華厳宗では、この宇宙の全体が、その中のすべての微少な部分と密接不可分に交流していると説きます（じゅうじゅう重々むじん無尽えんぎ縁起）。これは、最新科学の量子力学等の世界観ともよく似ています。
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><br />
</span><span style="font-size: medium"><strong>２　心理学が説く、自分の暗部の投影としての怒りの対象</strong></span>
</p>
<p>
さらに、ユング心理学には、影＝シャドウの理論があります。それは、他に対して激しい怒りが生じる場合、その人自身が普段から見ようとしていない自分自身の暗部の投影であるという考え方です。他の心理学では鏡理論といわれることがあるかもしれません。それらの理論を私なりに解釈・改訂したものをまとめて言えば、<br />
<br />
①現代人は、競争社会の中で、自と他を比較して「他に優位に立ちたい」という欲求を<br />
持っているため、自分の悪いところは見ずに忘却し、実際の自分ではない仮面の自分を<br />
自分だと思いこむ傾向がある（仮面人間）、<br />
②そのため、実際は、自分と他人は、同じ社会に住む人間で、似たような欠点を持って<br />
いるにもかかわらず、自分ではなく、他人にだけ、その欠点があるように錯覚してしま<br />
い（自と他の区別）、<br />
③そして、他人に欠点を見ると、その欠点は、普段から「自分の中には見たくない」と強く思っている（強く否定している）ものだから、その反動で、その他人に、激しい怒りが生じる（近親憎悪的な怒り）。<br />
④さらに、類似性を持っているがゆえに、自分が置かれている条件が変わると、不遇を経験したり、誘惑があると、自分の怒りの対象だった他人と同じ行為を自分が犯したりする可能性がないとはいえない<br />
というようになります。
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><br />
</span><span style="font-size: medium"><strong>３　怒りの対象を反面教師と見て、内省に役立てる</strong></span>
</p>
<p>
こう考えていくと、自分にとって賢明な行為は、他人に対する怒りを持つのではなく、他人を反面教師としてとらえることになります。実際に、心理学でも、鏡理論というのがあって、他人が自分の鏡になっているという理論があるそうです。<br />
仏陀の教えでも、さまざまな苦しみは、神の御使いという思想があります。この世には、良いことをする人も悪いことをする人もいるが、それらは皆、自分の教師ないしは反面教師という側面があると考えて、怒りを取り除き、自省を深めます。そして、他人を反面教師と見て、自分を振り返るならば、自分が未来に同じようなことをなさないように自戒することができます。<br />
これは非常に価値があると思います。なぜならば、同じ社会に生き、縁があった他人には、自分でも気づかないうちに、自分とのつながり、なんらかの共通性・類似性がある可能性があって、仮に自分が、その他人と同じような生まれ、育ち、境遇、誘惑などの社会的な条件に至れば、同じようなことをしてしまう可能性があるからです。<br />
例えば、悪いことをする人を見て、仮に、自分が、この社会の中で、その人と同じ境遇に生まれたならば、同じ遺伝子で、同じ環境で、全く同じ条件で生まれたならば、自分自身もそうなったのではないか、と考えてみます。<br />
そして、この社会に、その人が育った諸条件があることは、最初は乳児だったその人（だけ）の責任ではなく、この社会・宇宙全体にかかわることであり、自分も、その社会・宇宙の一部であると考えればどうでしょう。例えば、自分が輪廻するならば、いつかは自分も、同じ条件に生まれる可能性があり、また、輪廻を信じない人ならば、自分の子孫が同じ条件に生まれる可能性もあると考えてみたらどうでしょう。
</p>
<p>
また、自分が生まれてからこれまでになした悪いことを、すべて十分に念入りに思い出してみます。そうして、普段忘れている自分の暗部を含めて、自分の全体を認識すると、怒りの対象である他人と自分の間に、程度の違いはあっても、何らかの類似性が見つかることが多いものです。それが見つかれば、その分、怒りは減少していきます。<br />
実際に、人は誰しも、自分が思い出したくないような悪行、ないしは、悪いとわかっていてもやめられないことが、一つは二つあるものではないでしょうか。それを忘れないでおくと、他に対する怒りが和らぎ、寛大な心が持ちやすくなります。ひかりの輪では、これを内省・内観・懺悔の修行などと呼んでいます。<br />
ただし、これは自分が悪い人だと思い、自己嫌悪に陥る訓練ではありません。自分の慢心を和らげ、他人とつながっている自分という存在をよく理解し、怒りを取り除くための修行・訓練です。ただし、普段から、卑屈やコンプレックスに悩む人は、自分の暗部を見ることが辛いかもしれません。また、慢心を抱いている人も、これを嫌がるかもしれません。<br />
しかし、そういった目先の辛さを乗り越えて、真実の自分をよく知ることは、長期的に、総合的に、大きな利益があります。どんな場合でも、真の幸福が、物事をありのままに見る智慧に支えられることは、自明の理だからです。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>４　反面教師として内省する方が、他人の悪行も止めやすい</strong></span>
</p>
<p>
さて、ここで、誤解がないように説明しておきたいことがあります。まず、これまでの教えについての反論として、「他人に対する怒りを取り除くことで、悪いことを止められなくなるのではないか」ということがあるかもしれません。<br />
しかし、私が言っていることは、自分の内面の怒り・憎しみ・恨みを取り除くことであって、悪いことを受容することではありません。そして、自分の心を怒りから解放した方が、逆に、その人に悪行を反省させ、脱却させる力があるというものです。この理由については後で述べます。<br />
また、もう一つ誤解がないように説明しておくと、悪い行為を減らすために、悪い行為をなしたならば、その人が批判・責任追及・処罰される仕組みを作っておくことは、未来の悪行を抑止する意味や、害を受けた人の感情への配慮として、非常に重要なことだと思います。<br />
しかし、それとは別に、いくら犯罪者を処罰しても、社会から犯罪がなくならないように、悪い行為は、それをなした人だけに原因があるわけではないため、その人が属する集団・社会全体に広がっている原因を十分に分析して、それを取り除く努力をすることが、抜本的な解決には必要だと思います。これは、「罪を憎んで人を憎まず」というのと近いと思います。
</p>
<p>
さて、話を元に戻して、悪い行為をやめさせるためには、怒りを乗り越えた方がよいということについてです。<br />
まず、本当の意味で、悪い行為をやめさせるためには、悪い行為をなした動機・原因を十分に理解しなければなりません。しかし、単に怒っている人は、悪行の動機・原因を十分には理解していません。それは、人が怒るときに、「なぜこのようなことをするのか」ということが多いことからもわかります。こうして、原因がわかっていませんから、その人ができることは、原因を取り除くことではなく、否応なく、単純な批判・攻撃に限定されてしまいます。<br />
また、例えば、いらいらしている人の近くに行くと、自分もいらいらするということがあるように、人と人の心には、一定の連動性があると思います。すると、他人を見て自戒している人の方が、他人を同じ反省に導きやすいことになります。逆に、単純に怒っている人に対しては、相手も、へそ曲がりの反発をしたり、心を閉ざして表面的な反省を示したりするだけの可能性もあります（もちろん、これはケースバイケースではありますが）。
</p>
<p>
それに対して、同じ社会ないし集団に生きる、他人と自分とのつながりを踏まえて、他人を反面教師にして自己を内省することが、悪行の原因を理解する上では、非常に有効になると思います。<br />
例えば、自分と他人の類似した部分を検討するために、仮に自分が、その他人と同じような生まれ・育ち・境遇・誘惑などの社会的な条件に至れば、同じようなことをしてしまう可能性がないかを検討します。自分が過去になした悪行の中で、程度の差は大きくても、同じような本質を持ったものがないかなども検討します。<br />
こうして、これまで気づかなかった自分の暗部の要素を理解すると、その自分の暗部と類似した他人の悪行の原因を、自分の経験に基づいて、よりよく理解することができます。これと同じように、仏教では、「まず己を知れ。さすれば、他人の心もわかる」と説かれることがあります。<br />
そして、原因を理解できれば、それを取り除く手段も見つかりやすくなり、悪行をなしている他人が、反省・改心・脱却する手伝いをしやすくなります。ないしは、未来に自分や自分の周囲において、同じ問題が起こらないような努力を行います。<br />
これは、他に対する働きかけでありますが、同時に、未来の自分を救うことにもなります。なぜならば、他人を脱却させることができるならば、未来において自分が同じ悪行をなし、苦しむことはなくなるからです。
</p>
<p>
<strong><br />
<span style="font-size: medium">５　怒りより、哀れみ・慈悲の方が、他人の悪行を止めやすい</span></strong>
</p>
<p>
この際にもう一つ重要なことは、悪いこと（他を害すること）が、他人を傷つけるだけでなく、悪いことをする人自身を不幸にするという確信だと思います。なお、いかに悪行＝利己的な行為が、他人を害するだけでなく、その本人を苦しめるかについては、次項で詳しく述べます。<br />
そして、これを理解している人は、悪行をなす人に対する怒りが和らぎ、哀れみ・慈悲を持ちやすくなります。逆に、その理解がない人は、哀れみ・慈悲ではなく、怒りを持ちやすくなります。<br />
そして、その理解がない場合は、その点においては、自分と怒りの対象が、部分的に共通点を持っていることになります。双方とも、悪い行為は、その本人を苦しめる点を理解できていないからです。<br />
よって、哀れみよりも怒りが強い場合には、まず自省することが望ましいことがわかります。多くの人は、たいていの場合、悪いことをしている人を見て、哀れみよりも怒りが先立ちます。例えば、お金を盗む人を見た場合は、悟った人ならば、人はお金では本当には幸福にならないのに、犯罪まで行ってお金に執着することを哀れむでしょう。<br />
しかし、普通はたいてい、自分もお金にとらわれているために、怒りが生じることの方が多いと思います。この場合、自分の心に生じているものは、場合によっては、相手のずるさに対する怒りである可能性もあります。それを突き詰めると、自分が上手く誘惑されたり、やっても処罰されることはないと思ったりしたときには、同じお金に対する執着によって、自分も同じ罪を犯してしまうおそれがあるということになります。
</p>
<p>
そして、この哀れみ・慈悲は、自分が同じ問題を犯さない力になるだけでなく、他人に悪行を思いとどまらせる強い力を持つと思います。<br />
なぜならば、人は皆、自分の幸福を求め、悪いことをする人も、それが自分の幸福のためになると錯覚して、それを行うからです。よって、それを反省に導く者が、それとは逆に、悪いことはその本人を苦しめるという鮮明な認識（＝智慧）を持ち、それを言葉や心で熱心に相手に伝えて感化することが望ましいと思います。それによって、相手の悪行の動機を根底から取り除くことができる可能性が出てきます。<br />
そうではなく、他人を害したことだけを単に責めるだけの場合は、そもそも悪いことをする人は、自己中心的な意識が強いわけですから、十分な説得にならない場合があります。批判・追求・処罰によって、表面的には変わっても、内面は本当には改心していないかもしれません。<br />
実際に、何度も処罰を受けても、悪いことを繰り返す人が多くいることからも、これが理解できます。一方、本人が、本当の意味で、悪いことが自分の不利益・苦しみをもたらすことを理解したならば、繰り返すことがないことは自明の理です。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>６　憎しみは憎しみではなく、愛によって終わる</strong></span>
</p>
<p>
そして、こういったことを背景として、仏陀は「憎しみは憎しみによっては終わらない。愛によってのみ終わる」と説いたのではないかと思います。これは、悪行は、悪行をなした人に対する怒り・憎しみではなく、その人をよく理解する智慧と慈悲によってのみ、本当に終わるのであると解釈できるのではないかと思います。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>７　第二の教え</strong></span><br />
--悪行をなす人は、悪い人だからではなく、無智だから悪いことをなす<br />
（善人・悪人の二分化を超える観音菩薩の教えより）
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では、第二の教えですが、そのエッセンスをかいつまんでお話しすると、以下のようになります。<br />
①人は皆、幸福を求めており、悪いことをする人は、真に幸福になる道がわからないために、悪いことをしているだけで、悪い人だから悪いことをしているのではない。<br />
②こうして無智によって悪いことをする人は、他人を傷つけつつ、自分でも苦しんでいき、ある段階で、悪いことでは幸福にならないと気づいて、正しい道に目覚めることになる。<br />
③その意味で、人は間違いながら成長する存在であり、今の悪人も、将来は善人となる準備段階にあって、すべての生き物は、遠い未来には仏陀になる。
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まず、悪いことをしている人は、悪い人だから悪いことをしているのではない、という点について考えてみたいと思います。落ち着いて考えてみれば、誰しも、悪いことをしたいから悪いことをしているのではなくて、皆と同じように幸福になりたいだけであることは理解できると思います。<br />
しかしながら、悪いことをする人は、無智のために、少なくとも悪いことに走るその瞬間は、幸福になる正しい道がわからずに、悪いこと（例えば他から奪うこと）が、幸福の道だと錯覚しています。逆に、良いこと（例えば他から奪わずに他を利する）は、利益がない、損であると考えています。<br />
なぜこうなるかというと、悟っていない人の目から見れば、善行・利他の行為などは、（目先は）労苦をともなう道に見え、悪行・利己的な行為の方が、（目先は）喜びが多いと見えるからです。そして、これは、よく考えれば、多かれ少なかれ、悟っていないすべての人に当てはまることだと思います。その意味で、ここまでが悪い人で、ここからが良い人として、区別する明確な境界はありません。
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<span style="font-size: medium"><strong>８　他を害することは、本人に不利益がある</strong></span>
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しかし、実際には、前にもお話ししたように、快楽の貪りの裏にはさまざまな苦しみがあり、逆に、労苦の裏にはさまざまな喜びがあります。よって、本当に幸福になる道に気づくためには、悪行（利己的な行為）が、目先はよく見えるものの、本当は（長期的・総合的には）苦しみをもたらす、という麻薬的な要素があることを見抜く智慧が必要です。たとえて言えば、舌先には甘いが体には悪いのが悪行であり、良薬は口に苦いということです。<br />
例えば、自分の欲望にとらわれて他を害すならば、
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①ますます欲望のとりこになって、さまざまな苦しみの元になる（具体的には「四苦八苦の教え」を参照のこと）。<br />
②人の幸福に最も重要な、他への愛・優しさ・慈悲の心は冷え、重く、暗くなっていく。<br />
③「自分が他から害される」という不安・恐怖に悩まされることが多くなる。<br />
自分が他人にすることから、他人が自分にすることを推測するのが人間心理だから。<br />
④実際に他の恨みを買い、「類は友を呼ぶ」で悪縁が増え、他人に傷つけられることになる<br />
と思います。このほかにも、さまざまな苦しみがあるでしょう。
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しかし、多くの人は、悪いことをすれば他人を害することはわかっていても、それだけでなくて、それをなす本人こそが苦しむ（ことになる）という点は、よく認識できていないと思います。よって、一般に、悪いことというのは、他人を害しながら自分だけは得をしようとする行為と認識されており、言い換えると、「ずるい行為だ」と錯覚されています。本当は、自分も、いや自分こそが苦しむ愚かな行為なのです。よって、仏陀は、悪業が苦しみをもたらすと説いたのです。<br />
これを理解していないと、前にも述べましたが、悪いことをした人への怒りはわいても、哀れみ・慈悲はわきません。それだけでなく、自分を取り巻く条件が変わって、自分が悪いことに巧みに誘惑されるなどすれば、他人について批判していたことを、自分自身がしてしまうおそれもあります。<br />
そこで、悪いことが本人を苦しめ、良いことは本人を幸福にするという理解をしっかりと固める必要があります。これは、仏陀の説いたカルマの法則でもあります。悪行（利己的な行為）が苦しみを、善行（利他の行為）が幸福をもたらす。他への怒りではなく、哀れみ・悲しみ・慈悲を育むことになり、自分が同じ過ちに陥らない智慧となります。
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<span style="font-size: medium"><strong>９　悪い人もいつかは変わると説く、仏教の思想</strong></span>
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次に、こうして無智によって悪いことをする人が、ある段階で、悪いことでは幸福にならないと気づき、正しい道に目覚めることになるという教えについてお話ししたいと思います。<br />
まず、悪いことをする原因は、それが一見して喜びを満たすように見え、実際には（総合的・長期的には）さまざまな苦しみを招くものであることがわからないからでした。これを言い換えれば、悪い行為が苦しみを招くということに気づけば、それから脱却することになります。<br />
しかし、人は、それほど簡単には、悪い行為が苦しみを招くとは理解できません。自分がなしてきた悪い行為と、現在の苦しみの関係を理解することは容易ではありません。それどころか、悪い行為は循環する性質があります。<br />
それは、過去の悪い行為のために、今苦しんでいても、その苦しみ・ストレスをごまかすために、さらに悪いことして、それが新たな苦しみを招く場合です。現代の多くの人は、日常生活のストレスとその解消の中で、多かれ少なかれ、この悪循環にはまっているのではないでしょうか。
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しかし、仏陀の教えを解釈すると、この悪循環は永久に続くのではなく、正しい道（善行・利他の行為）に至る段階があるとされています。すなわち、悪いことを重ねる中で、経験による学習によって、それでは本当には幸福になれないと気づいて、転機を迎えるということです。<br />
これは、経典において、苦しみによって正しい教えへの信仰が生まれるとも表現されています。実際に、仏陀自身が、過ちによる苦しみから成長して悟った人です。具体的には、①生まれて30年ほど、王子として快楽を満たす人生を送る中で、人生の無常に気づいて苦しみ、その結果として修行に入った。②その後、極端な苦行に走って、その経験から、その過ちに気づいて、中道の教えを悟ったとされています。<br />
こうして、仏陀自身が、生まれつき悟っていたのではなく、王子時代の欲楽の生活と極端な苦行という、二度の間違いを経て、その間違いによる苦しみから、悟った人です。
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では、仏陀や菩薩や仏弟子に限らず、すべての人が、このように悪い行為の累積による苦しみから、いつかは正しい道に入っていくのでしょうか。それともいくら悪いことを繰り返しても、変わらない人がいるのでしょうか。<br />
これについては諸説ありますが、チベット密教や、日本の大乗仏教の主流の教えでは、うれしいことに、すべての人々・生き物が、輪廻転生の中で、ついには正しい道に気づく段階が来て、最終的には、皆が仏陀になると説いています（一切衆生しっかい悉皆じょうぶつ成仏といいます）。<br />
この教えを信じる論理的な根拠を解釈しますと、
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①一生の間では、悪いことが苦しみをもたらすと気づかない人はいるが、そういった人も、転生を重ねるうちに、それに気づく時が来る。過去世の記憶・印象は、表層意識では忘れているが、潜在意識には記憶されているので、意識の深い部分では、学習が進んでいき、気づく時がくる。<br />
②苦しみをさらなる悪いことでごまかせている間は、気づかないかもしれないが、その悪　循環の中で悪行と苦しみの累積が徐々に増大し、ごまかすことができない本当に行き詰まった状態に至って、その時には、正しい道以外には幸福になる道はないということに気づく（それ以外は幸福になることができないから）。<br />
③縁起の法が説くように、宇宙のすべてが相互依存であり、万物がつながっている以上は、釈迦牟尼のように仏陀になる者と、それ以外の者の間にも、本質的な区別はないはずである。よって、仏陀が徐々に増えていくならば、仏陀とつながっている全宇宙も徐々に向上していき、時間の問題で、すべての存在が仏陀になるはずである<br />
といった根拠が考えられます。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
10　今の悪行が、苦しみを経て未来の善行の準備になるという思想</strong></span>
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さて、このように信じるならば、今の悪い行為は、最終的には、未来の良い行為につながっていく、ということになります。幸福を求める人間は、経験とともに成長しますが、それは、失敗からの学習、失敗を成功の元にする形をとるということです。その意味で、今の悪い行為は、その過程で、自分と他人を苦しめつつも、最終的には、善い行為に至るに必要な精神的な準備のプロセスとも解釈できます。<br />
そして、この延長上に、すべての生き物は、遠い未来には、釈迦牟尼と同様に、仏陀になるという考えが生まれます。大乗仏教では、一切の衆生はことごとく仏陀になる可能性を有する（一切衆生しつ悉う有仏性）、一切の衆生がことごく仏陀になる（一切衆生悉皆成仏）と表現して説きます。<br />
このような人間観に立つと、悪い行為と良い行為を二分化し、悪人と善人を二分化する固定観念が弱まっていき、その結果として、怒りが和らいでくると思います。
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<span style="font-size: medium"><strong>11　第三の教え--悪行をなした人は慈悲＝仏から遠ざかるが、害された人は慈悲＝仏に近づける可能性がある　（苦楽の二分化を超える釈迦牟尼の教えより）</strong></span>
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傷つけられる、害されるという経験は、場合によっては、本当に辛いものですが、しかし、それをどう受け止めるか、どう解釈するかまでは、傷つける側が強いることはできません。逆に言えば、傷つけられた側が、自分の意志で、それを決めることができる可能性があります。<br />
もちろん、そうした場合、怒り・憎しみの感情に影響されるのが人間です。しかし、誰かに悪意を持たれて、傷つけられた場合、その傷つけた者に、怒り・憎しみを持ち続ければ、その否定的な感情によって、傷つけた者の悪意の通りに、自分が不幸になっていくおそれがあります。<br />
そこで、仏陀やイエスといった偉大な宗教家は、傷つけられた苦しみを、傷ではなく、智慧や慈悲といった貴重な財産に転換する教えを説きました。それによって、怒り・憎しみを和らげ、智慧や慈悲といった、人としての本当の幸福を深める教えです。具体的に言えば、前項に書いた、苦しみを喜びに変えていくさまざまな教えの実践です（これについては、前項を参照してください）。<br />
これに関連して、仏陀は、「憎しみは憎しみによっては終わらない。愛によってのみ終わる」と説きました。イエスは、「汝の敵を愛せ」と説きました。大乗仏教では、敵対者を、自分の智慧や慈悲を育む教師としてとらえ、敵こそ教師であると説きます。大乗仏教の六つの完成（六波羅蜜）の教えでは、誹謗中傷などに耐える忍辱（忍耐）の修行が重要視されています。<br />
一方、傷つけられた方ではなく、傷つけた方は、それを怒りや憎しみで行う以上は、とうてい智慧と慈悲を培うことはできません。その怒りや憎しみの悪業によって苦しまなければなりません。智慧や慈悲を培うことができるのは、その苦しみを経験して、深く反省した後になります。<br />
もちろん、こういった心の訓練は、すぐにできるものではないでしょう。よって、すぐにできるようになる必要はないと考えて、焦らず弛まず、こつこつと訓練していこうと考えればよいと思います。そして、安直に達成されるものではなくて、地道なこつこつとした努力によって達成されるものこそ、真の価値を持ったものだと思います。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
12　怒りを超える＝許しの恩恵</strong></span>
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ここで、怒りを超えて、他を許すこと、慈悲を持つことの恩恵を考えてみたいと思います。<br />
第一に、怒りを超えることは、心と体に安らぎをもたらします。東洋医学・心療内科などでは、怒りの持つ弊害がよく指摘されています。逆に感謝の心は、前も述べましたが、ストレスの低下から免疫力の向上をもたらすといわれ、がんなどの治療にも有効だという説があると聞いています。ある東洋医学の先生は、「人を病にさせる最大の原因は、許せない心だ」とも言っていたと聞きます。<br />
また、怒りを超えることと不離一体なのが、これまでも述べてきた自己反省の謙虚な心です。これは、自分自身が同じ間違いをすることを防止するのに役立つとともに、自分を通して他人を理解し、他人の悪行を止める資質を得ることができます。<br />
そして、他を許す人は、自分も許すことができます。逆に、他人を許せない人は、自分が失敗・過ちを犯したときも、自分を許すことができず、深い自己嫌悪に陥ります。それがバネになればいいのですが、場合によっては、身動きが取れなくなり、鬱になってしまいます。他を許さない心の刃が、自分の心も切ることになるのです。こうして、他人を許す心は、挫折・過ちの際に、自分が立ち直ることを助けます。<br />
また、失敗した自分を許せない場合に、自己嫌悪に陥るのではなく、失敗したことを受け入れずに、無理に自己を正当化し、失敗を他人のせいにすることもあります。ひどい場合は被害妄想です。こうして、自己嫌悪から鬱になるか、他人を逆恨みし被害妄想になるのです。こうして、自分も他人も愛せなくなり、これが、心身を痛める原因にもなります。<br />
他人と自分を許す人は、挫折・失敗を率直に受け入れ、自己反省を行うことができます。そして、それによって、最終的には成功することができます。なぜならば、失敗は成功の元であり、失敗の際に、自分も他人も責めすぎることなく、努力をし続ける限り、徐々に成功の道が開けてくるからです。こうして、他への許し・愛は、他人だけではなく、自分への許し・愛となって、他人と自分の双方の成長を促すものとなります。<br />
そして、許すことの延長上に、仏教的な悟りがあると思います。仏教的な教えに基づいて考えると、大宇宙は、その中のすべての存在をその寿命の範囲で認めている（許している） とも解釈できます。こうして、許しは、宇宙と一体化する精神的な体験（心が落ち着き広がっていく体験）と深く連動すると思います。
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<span style="font-size: medium"><strong>13　一元法則の復習と一元的な信仰心</strong></span><br />
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最後に、ひかりの輪が説く一元の法則をまとめて、一元の法則に基づいた信仰心のあり方、すなわち一元的な信仰心について考えてみたいと思います。これは、あらゆる者に対する怒りを超える究極的な教えでもあります。<br />
まず、ここで、一元的な信仰心とは何かというと、大雑把に言えば、この世の万物を神聖な存在であると信じることです。例えば、大乗仏教では、仏の境地、究極の悟りの境地から見れば、すべての衆生が仏であり、この世は仏が集う浄土に見えるとされています。わかりやすく言えば、万物が信仰対象とも表現できるでしょう。これについて具体的にお話ししたいと思います。
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第一に、ひかりの輪で、「釈迦牟尼の一元法則」と呼んでいるのが、苦と楽を二分化しない教えであり、苦と楽の双方を含めて、この世の万物に感謝して恩返しをするというものです。具体的には、与えられている幸福に気づいて感謝し、苦しみの裏側にも喜びを見いだして、苦と楽の双方を神仏の祝福と考えることです。こうして、万物に感謝し、その恩返しとして、万物に慈悲の心を持って生きるという教えです。ここでは、「万物は、神仏が現した私たちを、育み成長させる祝福」と位置づけられます。
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第二に、ひかりの輪で、「観音菩薩の一元法則」と呼んでいるのが、善悪・優劣の二分化を越える教えであり、万物を平等な仏性の現われと尊重して育むというものでした。具体的には、人の優と劣、長所と短所、善と悪は、本質的に表裏であり、万物が未来に仏陀になる平等な可能性を持つというものです。煩悩も菩提心（仏陀の心）と表裏であり、大煩悩は大解脱をもたらす可能性があり、大悪人も大善人になる可能性があるという教えです。ここでは、「万物が、平等に未来の仏、仏の子であり、ゆえに仏である」と位置づけられています。
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第三に、ひかりの輪で、「弥勒菩薩の一元法則」と呼んでいるのが、自と他の区別を超える教えであり、自と他を含めた万物を一体と見て、他と苦楽を分かち合う大慈悲の実践をするというものです。具体的には、万物は、自分とつながり合って一体として存在しており、そのため、他者は自分の善業・悪業を映す鏡であり、教師ないしは反面教師であるという教えです。よって、それから学んで、万物に感謝し、そして、自分を救う意味でも、他人を救う、他と幸福と不幸を分かち合う大慈悲の実践をするものです。ここでは、「万物は、自分の学びの対象」であり、その意味で、神仏の与えた導き手と位置づけられています。
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こうして、一元の法則によって見方を改めるならば、この世のすべては一体であり、平等に神仏の現れであると見ることができます。
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<span style="font-size: large"><strong>第四章　宗教を学ぶ姿勢--２１世紀の新しい宗教・思想の創造</strong></span>
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<span style="font-size: medium"><strong>１　事実と信仰の区別、手段としての信仰</strong></span>
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２１世紀の新しい宗教のあり方を考えると、信仰者が、客観的な事実である教えと、そうではない教えをしっかりと区別できるかという大きな課題があると思います。これを言い換えると、知っていることと、信じているにすぎないことの区別です。<br />
そして、信じているにすぎない教えについては、それを信じる場合には、絶対真理として無条件に信じるのではなくて、十分な工夫が必要です。具体的には、それを信じることで、自分や他人が、より正しく生きて、幸福になるものかをよく考えて、幸福になる手段として、その解釈や使い方を考えた上で、信じるべきだと思います。<br />
ここで、手段という言葉は、決して宗教やその教義の価値を否定するものではありません。仏教開祖である釈迦牟尼も、手段という意味を持つ「方便」という概念を使って、教えを手段と考え、人によって説く教えを変えたといわれています。また、「ちゃくほう択法かくし覚支」といって、時と場合・条件によって、実践する法則を選択するように説いたといわれています。<br />
その一例として、例えば、仏教徒が信じる輪廻転生をあげて説明したいと思います。輪廻転生は、科学的には少なくとも完全には証明されておらず、（それゆえに）他宗教が共有しているものでもありません（なお、私は仏教を尊重しており、適切なやり方で輪廻思想を信じることを進める立場なのですが）。<br />
例えば、輪廻思想は、来世を説きますから、「今生で悪いことをしても見つからなければよい」といった誘惑を超える手段として、（それを信じる人には）有効だと思います。「悪いことをして今生でその罰が下らなくても、来世には下ることになる」と考えるからです。「輪廻があるかどうかは（科学的には）わからないが、もし輪廻があったらならば、悪いことをしていると、来世で大変苦しむことになる」と考えて、欲望を抑制する目的のための手段として信じるわけです。<br />
しかし、輪廻を絶対真理とすれば、それに基づいて、殺してもどうせ生まれ変わるからといって、今生（の生命）を軽視したり、殺人を肯定したりする論理の土台にするおそれもあります。また、輪廻を信じない他宗教を、正しい教えではないと軽蔑する結果を招くおそれもあります。<br />
これは、客観的に見れば、輪廻という観念に人の心が支配されて、教えを幸福の手段として使っているのではなく、教えに逆に支配されている状態だと思います。そういった場合には、（もし輪廻があればと考えた）先ほどとは逆に、もし輪廻がなければ、そういった論理や軽蔑は、大変な過ちとなると考えるべきだと思います。<br />
従来の宗教では、教義は絶対化しやすく、客観的な事実と、単に信じていることが区別されにくくなっています。<br />
そして、よく考えるならば、自分の信じている宗教の教義は、科学の法則のような客観的な事実でないがために、すべての人が信じていないにもかかわらず、そうではなくて、「自分たちが、信じていない人よりも優れているから、それを信じている（信じることができる）のだ」と錯覚する面があると思います。すると、その教義を信じることによって、メリットだけでなく、密かに満たされてしまう「虚栄心」というデメリットが生じます。<br />
よって、２１世紀の新しい宗教のあり方としては、信じることによるメリットを巧みに残しつつ、いかに盲信による虚栄心などの弊害をなくすか、ということを考える必要があります。そのためには、客観的な事実と、信じていることを区別して、信じているにすぎない教義を絶対視せずに、それを幸福の手段と見て、柔軟に解釈する智慧が重要だと思います。<br />
これは非常に重要だと思いますが、盲信の強いタイプの宗教にとっては、大きな課題となると思います。しかし、これを実現できれば、本来は人のためにあるべき宗教が、人を支配してしまうという大きな問題から脱却できると思います。
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<span style="font-size: medium"><strong>２　信じることと知っていることの違い</strong></span>
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さて、ここで「信じる」ということは、どういう意味を持つのか、について考えてみましょう。「知っている」という場合は、大雑把にいえば、その対象は、誰もが認める客観的な事実であって、例えば、科学的に証明されるものです。信じているというのは、誰もが認める客観的な事実ではなく、いわば、その人が正しいと思っている、ということだと思います。<br />
もちろん、正しいと思うには一定の根拠がありますが、誰もが認めるほどの客観的な根拠があるわけではなく、場合によっては、間違っているかもしれない可能性を含むものだと思います。こうして、正しい可能性と間違っている可能性がある中で、正しいと思うわけですから、自分でも気づかないなんらかの理由で、「正しいと思いたい」という個人の好き嫌いの感情が入っているという推測が成り立ちます。<br />
しかしながら、多くの宗教の信者は、「信じる＝正しいと思いたいこと」を、「知っている＝正しいこと」と混同してしまう場合があると思います。例えば、「自分の信仰は正しい」、「自分たちの信仰こそ正しく、他の信仰は間違っている」と主張する人がいます。<br />
しかし、「自分の信仰は正しい」という主張を、先ほどの考えた「信じること＝正しいと思いたいこと」という分析に基づいて解釈すると、「自分が正しいと思いたいことは、正しい」と主張していることになります。ここに、現代社会で、宗教を嫌う人が、宗教の信者に感じる傲慢・独善の本質があるのは明らかではないかと思います。<br />
では、信じるという行為は、単に傲慢な行為にしかならないのかというと、そうではないと思います。それは、信じる人が、信じるという行為と知っているという行為を区別して、傲慢にならないように努めつつ、自分や他人を幸福にするために、信じるという行為を手段（＝方便）として使う場合だと思います。<br />
例えば、仏教が説く輪廻転生思想ですが、生まれ変わりを信じることで、「今生悪いことをしても、見つからなければいい」という考えを押さえ込み、「来世に罰を受けないように、今生悪いことはしないようにしよう」と考えることは、輪廻転生思想を、自分や他人を利する手段として使っている一例だと思います。<br />
しかし、生まれ変わりを信じる人が、生まれ変わりとは、「自分が正しいと思いたいこと」にすぎないのではなく、「絶対真理である」と錯覚すれば、オウム真理教のように、他人を殺しても来世があるからよい（高い世界に生まれ変わらせればいい）と考えたり、イスラム原理主義のように、自爆テロをした者はその功徳で天界に転生できると考えたりする原因になる可能性があります。もし、「自分が正しいと思いたいこと」にすぎないと考えるならば、それによって、他人の貴重な生命を奪うテロ行為は正当化できないでしょう。<br />
また、神仏の存在を信じること自体もそうです。例えば、人は、依然として宇宙の仕組みのすべてを知っているわけではなく、また自分一人の力で生きているわけでもなく、万物に支えられて生きています。よって、こういった謙虚さや感謝の気持ちを深めるために、一人一人の人間を超えた大きな力として、ないしは、自分を支える万物の根源として、神仏の存在を信じて、手を合わせることは健全だと思います。<br />
人が自分の力だけで生きていると錯覚すれば、傲慢な人間中心主義に陥って、自らを地球・宇宙の支配者＝神と錯覚し、例えば、自然を開発の対象とのみ考えて、昨今の地球環境問題などの原因を増大させるおそれもあると思います。<br />
しかし、神仏の存在を信じる中で、自分が何かしらの神仏のヴィジョンを見たり、啓示を受けたりしたとして、「自分こそが、自分だけが、絶対神の化身である」などと主張する教祖がいますが、そうなると、逆に、神仏を信じることで、傲慢・誇大妄想を増大させてしまいます。こういった自己中心的なヴィジョン・啓示は、それを見る人の自己中心的な心の働きが作り出す幻影と考えて、十分に注意する必要があるでしょう。
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さて、こういった考え方に対する反論として、「信じる」ことを、単に「自分が信じたいと思いたいこと」にすぎないと自覚してしまうと、それほど強く信じることはできなくなるために、信じることによるメリットもなくなるのではないか、という反論があると思います。例えば、上記の生まれ変わりの場合は、生まれ変わりがなければ、今生悪いことをしてはいけないという気持ちが薄れてしまうということです。<br />
しかし、私は、信じていることは、単純に信じたいと思っているだけのまやかしにすぎないと主張しているのではありません。一部にはそういった教義もあるでしょうが、宗教の教義の多くは、完全な科学的な証明はなくても、逆に全く根拠がないわけでもありません。<br />
例えば、生まれ変わりについては、誰もが認める十分な科学的な証明まではありませんが、その存在を示唆する諸々の事実はあります。例えば、前生を記憶していると主張する人たちの記憶を実際に検証した科学者の研究はあります（反論として、それは超能力で知っただけではという見解もある）。<br />
また、仏教・ヨーガの行者が体験するサマディと呼ばれる仮死状態＝臨死体験的な瞑想体験や、手術中の患者の臨死体験などで、体の外に意識が出ていったといった体験（体外離脱体験）の事例も、私個人も含めて、少なからずあります（もちろん本当に一度死んで体が分解した人が、再び蘇ってきて、あの世の体験を語ったことはありませんが）。<br />
よって、生まれ変わりがあるという十分な科学的な証明はありませんが、逆に、ないという科学的な証明もなく、その可能性は否定できないわけです。こうして、純粋に科学的に考えると、生まれ変わりがある可能性と、生まれ変わりがない可能性の二つがあります。よって、それを信じる自由と信じない自由の双方があるということになります。<br />
よって、生まれ変わりがある可能性を使って、悪いことをしたら今生見つからなくても、来世に罰を受ける可能性があると考えて、それは避けようと考えることができると思います。また、それと同時に、生まれ変わりがない可能性を使って、他人を殺す行為は絶対に正当化しないようにすることができると思います。こうして、自分一人の中で、信じる自由と信じない自由の双方を使いこなすわけです。<br />
これが、宗教の教義を、自と他の幸福の手段として使うということです。神仏の存在を信じることについても同様です。信じることで、感謝や謙虚さが増大する形で神仏の存在を信じ、逆に、自己中心的なヴィジョンを見たときには、それは神仏によるものとは信じないのです。<br />
こうして、信じることの対象は、たいていは、それがあるともないとも、正しいとも正しくないとも断定できないものです。すなわち、存在する（正しい）可能性と、存在しない（正しくない）可能性の双方があります。よって、信じる自由と信じない自由の双方があります。<br />
この両面性の事実を使って、自分や他人のために、信じることがよい場合は、それが存在する（正しい）可能性を使い（すなわち信じ）、信じることが悪い場合には、それが存在しない（正しくない）可能性を使うことはできる、と思います。
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<span style="font-size: medium"><strong>３　信仰に逆支配されないために</strong></span>
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次に、宗教・信仰に人が逆支配される現象と、その背景を考えてみたいと思います。まず、誰もが認める客観的な事実がなく、何かを信じるということは、必ず、それを信じる人と、信じない人が出てきます。よって、人類の歴史で、どんな大きな宗教でさえ、その信者と非信者が存在します。<br />
例えば、キリスト教が世界最大の宗教だとして、その信仰の中核といわれるのは、イエスが復活したことを信じるかどうか（信じる者がキリスト教徒）だと思いますが、世界人類全体から見れば、これは誰もが認める客観的な事実ではないために、キリスト教徒とそうではない人たちがいます。<br />
仮に、イエスが、すべての人類の前で、毎日のように、死と復活を含めたさまざまな奇跡を見せ続ければ、ほとんどの人はキリスト教徒になると思います（その場合は、信仰というより、イエスの奇跡現象が、宇宙の普遍的な（科学的な）真実の一部として認められる）。<br />
よって、信じる人がいれば、必ず信じない人が出ます。そして、ここで問題なのは、信じる人と、信じない人の間で、場合によっては激しい対立が生じることです。そして、それが、２１世紀の人類を危うくさせている事実です。<br />
なぜそうなるかというと、信じる人は、信じることを絶対的に正しいことと錯覚するからです。そもそもが、信じることは、誰もが認める客観的な事実ではなく、知っていることとは違うにもかかわらず、それを信じてしまうと、あたかも知っているかのように錯覚する。そして、多くの場合、信じることができる自分は、信じることができない人たちより優れているという錯覚が生じます。<br />
本来は、信じない人がいるのは、そもそもは、誰もが認める客観的な事実がないからで、信じない人が劣っているからではありません。しかし、非常に多くの場合、信じる人は、「信じない人よりも、自分は優れている」と強く思います。そして、場合によっては、信じない人を「悪業をなしている人だ、地獄に堕ちる」などと決めつけ、自分が気づかないうちに、実は、無智・傲慢になっていきます。これは盲信でしょう。<br />
そして、こうした妄信的な信仰者には、自分では気づかないうちに、さまざまな苦しみが生じます。それは、本来は自分の幸福のためであった信仰に、自分が逆支配されるといってよいかもしれません。<br />
例えば、自分たちの信仰を否定する人たちと、単に意見が対立するのではなく、お互いの存在を排除・抹殺するために、戦わなければならない場合もあります。このひどい場合が、宗教戦争・宗教テロであり、多くの血が流されてきた原因です。<br />
こうして、自分の信仰を否定する他人と対立しながらも、どんな敬虔な信仰者にも、自分の内側には、疑念があります。これは非常に矛盾していることですが、事実です。外側にも内側にも、自分の信仰を否定する存在がいるのです。それを一生懸命に抑圧して隠してはいても、心の奥には（潜在意識には）しっかりと存在しています。<br />
実際、キリスト教の開祖で唯一の神の子と呼ばれるイエスさえ、十字架の上にはりつけ磔になった時には、「神よ、なぜ私を見捨てたもうたか」とつぶやいたとされます。こうして、信仰と疑念はセットで存在しています。知っているのではなく、信じているだけなのですから、人の心の働きからして、これは自然で必然的なことです。<br />
そして、自分に疑念が出たときに、信仰者は非常に苦しまなければなりません。それは、普段から疑念を悪いことだと強く否定しているからです。相当に疑問を抱いても、信仰をやめた場合の恐怖があるため、なかなかやめることができません。それまで自分が、信じない人たちを否定してきたことが、自分に返ってきて、「やめれば、地獄に堕ちるのではないか」という恐怖・不安が出てきます。<br />
これが盲信の結果です。こうして、自分が幸福になると思ったから信仰したにもかかわらず、客観的に見ると、盲信的な信仰は、逆に自分が不自由・不幸を感じる一面が出てくるのです。これを私は、盲信によって、宗教に人が逆支配された状態と呼んでいます。しかし、それはほかでもない自分自身がやっている事ですから、他人のせいにはできません。<br />
さて、宗教に関する自由といえば、17世紀の市民革命以来、確立した基本的な人権の概念として、「自分の好きな宗教」を信じる自由と、「自分が好きでない宗教」を信じない自由を「信仰の自由」といいます。ただ、これは自分と他人の関係の中での信仰の自由です。<br />
しかし、今までお話ししてきたことを考えると、これだけでは、真の信仰の自由を得たとはいえないと思います。そのためには、自分自身の中における信仰の自由が必要です。すなわち、自他の幸福の手段として、自分の関わる信仰を、自在に使える柔軟な智慧があってこそ、真の信仰の自由を得たということができると思うのです。
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<span style="font-size: medium"><strong>４　象徴としての崇拝対象</strong></span>
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宗教には崇拝対象というものがあります。例えば神とか、仏、そして、経典、さらには、その宗教の開祖などです。そして、崇拝対象についても、手段（方便）としての信仰という考え方が当てはまります。<br />
まず、何かの崇拝対象を信じるとか、帰依するという行為の本質を考えてみたいと思います。崇拝対象とは、普通、絶対性を持っています。しかし、落ち着いて考えれば、どんな人間も不完全ですから、自分の崇拝対象が絶対・完全だと知る能力はありません。<br />
ところが、これまでもお話ししたように、従来の宗教の信者は、自分の崇拝対象を信じていくうちに、それが絶対であると（あたかも知っているように）思うようになります。そして、自分の崇拝対象を否定する者が現れると、絶対・完全な存在を否定する者として、「真実を知らない愚か者」と軽蔑するばかりか、場合によっては、「他の何よりも悪いことをしている者だ」と思うようになります（そのように教えられることもあります）。わかりやすく言うと、神・仏を否定しあらがう、悪魔・魔となるのです。<br />
典型的な例が、その宗教で、その崇拝対象が唯一絶対のもので、他の（宗教の）神は邪神であるとされている場合です（これを唯一神教というのでしょうか）。また、現代社会でよく見られるのが、特定の人物を神と見る場合です。この場合、その人物を神と同等と信じる信者と、そう信じない外部社会の間で、対立が起こる場合があります。<br />
それは、信者は、その人物を神の化身などと感じられるのに対して、外部社会には、神ではない人間としての色々な疑惑が感じられる場合でしょう。この場合、信者には、その外部社会の疑惑は、事実無根（の陰謀）であるとか、全く無視するようにと教えられます。そして、ご存じの通り、いわゆるカルト宗教とされるものに、このタイプのものがよくあります。<br />
そもそも、不完全な人間である信者は、客観的な視点から見れば、他の人間＝教祖を完全であると判断する能力はないと言わざるを得ないでしょう。そして、不完全な人間である信者が、（同様に不完全であろうと思われる）特定の人物を完全だと信じるのは矛盾であり、盲信に他ならず、精神的に不健全であるという見方は、私も合理的だと思います。<br />
それはともかく、次に、宗教の信者がなぜ、客観的には絶対でない者を、絶対と信じるようになるかについて、自分の経験から説明し、その上で、それを乗り越える方法をお話ししたいと思います。<br />
まず、オウムにおいて、信者が、その開祖を神の化身だとか、絶対だと思うようになった主だった理由は、①（一般の人と比較すれば相対的に高い）教祖の霊能力（超能力）、②教祖の与えた修行で得た神秘体験、③教団を挙げての神格化の宣伝、④グルを絶対とする密教の教義の誤用などだったと思います。<br />
まず、超能力・霊能力については、世間一般に、それを過大視・特別視する傾向があるのではないかと思います。そういった能力を持っている人は、決して一人だけではなく、それを持っていたとしても、神の化身の証明ではないと思います。<br />
例えば、普通の人でも、母が娘の心が手に取るようにわかるとか、正夢だとか、第六感とかいわれるように、人間の自然な能力として、多かれ少なかれ誰もが持っているものだと思います。実際、人間よりも、野生の動物の方が、遠くの自然現象を察知するなど、ある意味で超能力を持っているということもできます（いわゆる「動物的な勘」）。<br />
そういった能力が、一般の人より相対的に顕著である人が、霊能者・超能力者といわれたり、宗教の開祖になったりしますが、私の知る限りでは、それはあくまで比較の問題であって、完全・絶対の超能力を持っている人は存在しないと思います。もし仮に存在すれば、そして、すべての人々の前で絶対的な超能力を今日も昨日も見せる人がいれば、その人はすでに世界中の人々の教祖になっているでしょうから。<br />
さらに、自分の経験では、霊能力・超能力が強くても、それが優れた人格や真実の悟りとは、必ずしも結びつかないと思います。オウムの開祖は、自分が神の化身であるという慢心に陥って、手段を選ばない布教を正当化し、例えば、隠して薬物を与えることで信者に神秘体験をさせ、それが自分の力によるものだと思わせるといった、いわば演出をしました。こういった演出は、他の宗教でも、よく疑われる場合があります。<br />
しかし、こうしたバランスの取れた宗教に関する知識がない人たち（特に若者など）にとっては、自分が出会ったカリスマ的な人物が、非常に特別な人に見えてしまい、これによって盲信が始まります。要するに、人は神秘的なものにうぶなために、それに弱いという傾向があると思います。<br />
これは、神秘体験についても同じです。私の経験上、神秘体験は、唯一絶対の人物である教祖の力がなければ得られないものではありません。ヨーガの行法や薬物の力で体験する場合もあります。また、神秘体験が直ちに、高い人格や悟りに結びつくとはいえません（それを手段として活かすことはできますが）。<br />
しかし、霊能力・超能力と同様に、神秘体験について、こうしたバランスの取れた知識がない人の場合は、神秘体験の価値を過大視したり、教祖の力で体験をしたと錯覚したりする可能性があります。<br />
さらに重要なこととして、信者は、自分の崇拝対象について、意図的に、それが神聖なものであると信じる努力をすることがあります。それが、先輩からも、信仰（帰依）を深めることだと教えられます。<br />
そして、そういった修習をすると、信者の心の中には、その崇拝対象を思えば、神聖なイメージが生じるという仕組みができあがります。ここで重要なことは、崇拝対象に神聖さを感じるようになった信者は、それが自分の努力で作り出された心の中の連想システムではなくて、崇拝対象が真に神聖であることの証と受け取ります（受け取るように教えられる）。<br />
しかし、合理的・科学的に考えると、人が感じるものは、すべて自分の心の中の現象であり、脳内の情報処理にほかなりません。よって、何か神聖なものを感じている場合には、それは、その人自身の心・脳の中に存在していると考えられます。この考え方は、科学的な視点に限らず、仏教の唯識思想とも一致します。<br />
よって、崇拝対象を意識すると神聖なものを感じるようになった信者は、外側の崇拝対象を、自分の中にある神聖な意識を連想によって引き出すきっかけ（＝象徴）とする訓練をしたのであって、その意味で、神聖なものの本質は、自分の内側にあるということができます。<br />
よって、何かの崇拝対象をきっかけに、神聖な体験をしたとしても、その外側の崇拝対象が、唯一絶対であるという証明にはなりません。神聖なものを感じるすべての人々について、その神聖なものの本質は、自分の中に存在していると考えられます。<br />
これを象徴的に言い換えると、自分の中に神仏がいるという思想になりますが、これと同じ考え方が、大乗仏教の中にあって、すべての人々には、自分の中に仏性（仏陀になる可能性）があると説いています。また、ヨーガが説く真我の思想にも通じています。ニュー・サイエンスでは、ハイアーセルフ（至高我）などといわれているようですね。<br />
なお、チベット密教では、生きている人間をグルとして崇拝対象にする一面があります。しかし、このグルというのも、本質的には、弟子の仏性を引き出す助力をする者であって、仏性のない弟子に、自分の仏性を与える存在ではないとされています。<br />
そして、チベット密教が説く、グルを仏の化身等として絶対的な存在と見なす修行は、オウムで信じられたように、グルが他人の生命を奪ってもよい絶対的な存在であるということを意味しているのではありません。そう考えることによって、グルを自分の仏性を引き出す象徴とするものだと思います（他にも、グルに対して謙虚になることで、弟子が自己のエゴを弱める手段とすることもあると思いますが）。<br />
こうして、外側の崇拝対象とは、自分の中の神聖な意識を引き出すための象徴であって、その意味で、これも、方便・手段だと考えることができます。<br />
そして、この考え方であれば、それぞれの人が、自分にあった象徴（としての崇拝対象）を持つことを認めることができます。それぞれの人の中に、神仏の性質が存在しており、外側のものは、それを引き出す象徴であるという考え方です。しかし、崇拝対象を、自分の仏性を引き出すための象徴と考えず、それ自体が絶対と考えると、さまざまな問題が起こります。<br />
まず、崇拝対象に対する依存症に陥り、手放したくても手放せなくなり、それを奪い合ったり、それを否定する者（神聖だと思わない者）と強く対立したりします。この場合、信者ではない人から見ると、信者が、その崇拝対象を神聖だと思いこむ、自己マインドコントロールのプロセスにはまってしまったと思えるでしょう。これを回避するには、何かを信じるとか、何かの信仰を深めるといった行為とは、自分の中の神聖な意識を、連想で引き出すための象徴を作る行為であると理解する方法があると思うわけです。<br />
最後に、私個人が、オウム・アレフから脱却する中で、自分の（仏性の）象徴としているものの一つは、聖徳太子にまつわる著名な仏像である国宝・弥勒菩薩半跏思惟像があります。この仏像の前では、非常に印象深い神聖な体験をしました。また、聖徳太子との縁を感じるさまざまな宗教的な体験をしました。<br />
もちろん、象徴は、人それぞれあってよいのですが、日本のほとんどの人が受け入れ不可能な人物を崇拝対象とした過去のある私にとっては、日本国民の精神的な支柱であり続けてきた仏像や人物が象徴であるならば、大勢の人たちとの対立を招かなくて済み、日本社会全体に広がる意識を培いやすい点で、その良さを感じています。<br />
この意味では、どのような象徴を選ぶかということも重要です。象徴とは、その人がどんな思想・教えを求めているかに従って、探し求めれば、与えられるものだとも思います。言い換えると、その人が選ぶ象徴には、その人が潜在的に望んでいるものが反映することにもなると思います。
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<span style="font-size: medium"><strong>５　釈迦牟尼という特徴的な宗教家</strong></span><br />
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日本で釈迦牟尼と呼ばれている人物（本名：ゴータマ・シッダールタ）は、自分の最も好きな宗教家の一人です。昔からインドに行くことが多く、その中で、釈迦牟尼ゆかりの聖地巡礼を繰り返し行いました。ひかりの輪でも、祭壇の中央に掲げているのも釈迦牟尼であり、その生誕地であるネパールから、法具を購入しています。<br />
そして、最近、従来の宗教を超えた、２１世紀の新しい宗教のあり方を考え、その中で、幸福の手段としての信仰という理念を固める上でも、釈迦牟尼の生き方は非常に大きな助けとなっています。自分の持つ２１世紀のための新しい宗教のあり方と、釈迦牟尼の教えや実践との共通点は、以下の通りです。
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<span style="font-size: small"><strong>（１）自灯明・法灯明</strong></span>
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釈迦牟尼は、信者に自分（＝釈迦牟尼）を崇めずに、自己と法を拠り所にすることを強調した。いわゆる自灯明・法灯明ともいわれる。これは、ひかりの輪の「人を神（＝絶対）としない」という原則に一致する。<br />
また、自己を拠り所にせよという意味は、自分の中の神聖なもの、仏性、慈悲の心を大切にせよという意味だと解釈できる。
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<span style="font-size: small"><strong>（２）方便自在・対機説法・択法覚支</strong></span>
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釈迦牟尼は、何かの唯一絶対の法則を説くのではなく、人によって、機会によって、説く教えを自在に変えた（対機説法）。弟子には、時々の条件に応じて、修習する法則を選択すべきとも説いた（択法覚支）。さまざまな法則を方便（＝手段）として自在に操った（方便自在）。これは、宗教（の教義）を絶対真理として盲信するのではなく、幸福の手段と位置づける、ひかりの輪の思想に通じる。
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<span style="font-size: small"><strong>（３）無記と現世指向</strong></span>
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釈迦牟尼は、他の宗教家が、どんな議論しても正しいか間違っているかの決着のつかない形而上学的（哲学的・宗教的）な議題を持ちかけると、回答しない、どちらとも決めない（無記）という姿勢を取った。そして、そういった抽象的な問題ではなく、実際の現実の苦しみを（法の実践で）取り除くことを強調した（現世指向）。これは、ひかりの輪が重視する、盲信の超越（合理性の重視）と通じる。
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これらの教えや実践から私が感じる釈迦牟尼のイメージは、その巨大なカリスマ性に反して、非常に冷静な、理知的な、合理的な思考・精神の持ち主というものです。<br />
輪廻転生についてでさえ、釈迦牟尼の言説を研究する学者の中には、釈迦牟尼は、仏教以前からインド民衆に浸透していた輪廻転生観を説きつつも、それを絶対真理とは考えておらず、方便として用いたのではないか、という見解さえもあるようです。釈迦牟尼のさまざまな前生を説く輪廻転生談（ジャータカ）も、学術的な研究では、釈迦牟尼の直説ではなく、後世の作だという見方が強いようです。<br />
また、釈迦牟尼（そして仏教）は、宇宙の創造や、創造主・絶対神も説いていません。他の宗教のほとんどは、宇宙の創造神・絶対神といったものも説きます。しかし、よく考えれば、創造神・絶対神の存在とは、合理的には肯定も否定もしきれるものではありませんから、釈迦牟尼が、それをどちらとも決めない無記の事項の範疇と見なしたとすれば、それも彼の合理的な精神の一端かと思います。<br />
それに代えて、釈迦牟尼は、この世の道理を現す「ダルマ（法）」を強調しました。よって、仏教は、初めはダルマ信仰であって、ブッダ（仏陀）信仰ではなかったといわれています。学術的には、釈迦牟尼が神格化されたり、釈迦牟尼を超える絶対的な仏が説かれたりしたのは、後世のことである（大乗仏教の経典においてである）といわれています。<br />
このダルマとは、深く考えるならば、誰もが、この理性で確認できる道理だと思います。釈迦牟尼は、縁起の法や無我の法を説きました。この縁起の法とは、事物が条件によって（他に依存して）生起することで、万物が相互に依存し合って存在していることをいいます。また、無我の法とは、永久不変の自分（ないしは他から独立した固定した実体を持つ自分というもの）は、存在しないという教えです。
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これらの法則は、論理的な観察と分析によって確認できるものだと思います。そして、それに習って、ひかりの輪でも、自分とは他者から独立した存在ではなく、万物は一体であり、真の自分とは、無限の宇宙全体に広がっていると説いています。
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<span style="font-size: medium"><strong>６　盲信の原因である虚栄心の問題を超える</strong></span>
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次に、盲信の背景にある虚栄心について考えてみたいと思います。万人が認めない教義を自分たちだけが絶対真理と信じる（盲信する）人には、自分たちが優れているために、他人が信じていないものを信じることができる、という心理が働くことが多いと思います。これは、慢心・虚栄心のエゴだと思います。<br />
そもそも、客観的に見れば、人間は誰しも不完全であり、不完全な人間である信者が、ある宗教やその開祖を完全であると判断する能力があるとはいえないでしょう。にもかかわらず、それらを完全と考えること自体が、すでに慢心・虚栄心が生じているおそれがあるわけです。<br />
しかし、自分の信仰を絶対視するようになった信者は、この単純な事実に気づきません。「他人が理解できない絶対真理を自分は見つけた、理解できた」という思考パターンになることが非常に多いと思います。しかし、客観的には、万人が信じない理由は、誰もが認める客観的な根拠に基づいていないからでしょう。キリスト教が人類全体を信者にできなかったのも、イエスの復活が客観的な事実とはいえないからでしょう。<br />
そして、「自分たちが信じているものは絶対真理」と考えるうちに、自分たちでも気づかないうちに、「自分たちが絶対真理である」という心理が働き始めるおそれがあります。こうして、盲信的な信者は、自分の宗教の神や開祖を絶対と信じる中で、気づかないうちに、自分自身を絶対化していくおそれがあるのです。<br />
私の過去の経験からしても、「自分が重要な存在になりたい」とか、「他より優れた存在になりたい」という欲求が、こうしたタイプの信仰にはまり込んだ一因だと思います。そして、これはエリート・勝ち組と呼ばれる人にも、負け組と呼ばれる人にも、その双方に起こります。エリートは、「さらに勝ち組になりたい」という欲求があり、負け組は、「挽回したい」という欲求があるからです。<br />
なお、現代の競争社会で自ずと培われるこういった欲求（自分が重要な存在、優れた存在になりたい）は、それ自体は、自己向上欲求ですから、悪くはないと思います。仮に、それが、現実の世界とマッチした形で満たされれば、自と他を利する可能性があると思います。<br />
しかし、妄信的な宗教の場合は、自分たちの宗教を絶対視するという独善的な妄想でそれを満たそうとすることで、さまざまな問題が起こります。よって、単に自分が優れた存在になりたいという欲求だけでなく、なにかしら妄想的な性格があると、それにはまる可能性が高くなると思います。<br />
例えば、宗教には、瞑想体験、神秘体験、超能力、霊性といった要素があります。こういったものの価値をバランス良く考えられずに、（自己の虚栄心を満たすためにも）過大視する傾向のある人は、一つ間違えば、宗教的な真理の世界ではなく、妄想の世界に陥るおそれがあるのです、<br />
だたし、現代社会では、この妄想的な世界は、宗教に限らず、非常に大きく広がっています。漫画、アニメ、映画、そして、パソコンゲーム、匿名・仮装のやりとりのネットの世界、飲酒・薬物など。これは、競争主義・個人主義・金銭主義の中で、現実の自分の人生に、十分な価値・意義が感じられず、精神的な渇きが深くなっているからではないかと思います。<br />
そして、この渇き・苦しみに対する癒しの一つの形態として、歪んだ形ではあるけれども、妄信的な宗教があるのではないでしょうか。その意味では、社会が妄信的な宗教を生み出す土壌となっていますから、単純に妄信的な宗教を否定して、それを禁じようとしても、同じ問題が別の形を取って出てくるでしょう。地下に潜る形の宗教・秘密結社的グループになったり、別の妄想的な世界に溺れたり。これでは根本的な解決にはなりません。<br />
しかも、現実的には、どこからどこまでが妄信的な宗教かの区別も難しいですから、禁じることはできないでしょう。例えば、日本では少し前まで政権与党を支えていた某巨大宗教団体さえも、教祖の個人崇拝や排他的な性質などによって、フランスではカルト団体に指定されていました。人によっては、戦前の国家神道・大日本帝国の体制が、カルト宗教国家だったとも批判しますが、大日本帝国の思想・体制についての宗教的な総括も、まだ十分にはできていません。<br />
こうして、妄信的な宗教を単純に忌み嫌い批判したとしても、根本的な解決にならず、かつ現実的に何の成果も産まないと思います。根本的な解決となる現実的な道として、私個人は、妄信的な宗教から、盲信を超えた新しい宗教・思想のモデルを創造していく道を選択して、ひかりの輪を創設しました。そして、これらの問題を解決するには、努めて自分の虚栄心を自覚し、自分の信仰を絶対視せず、幸福のための手段として柔軟に活かしていく智慧を育む必要があると思います。<br />
最後に、先ほど、エリートも、いっそう勝ち組になりたいと考えて、妄信的な宗教にはまる可能性があると言いました。そして、宗教に限らず、バブルのマネーゲームにはまったエリートにも、同じような妄想的な傾向があったと思います。バブル経済とは非常に危険な状態なのに、自分だけ成功する、損しない、といった妄想です。その中では、時代の寵児ともいわれる人たちが次々と違法行為で逮捕されていきました。<br />
それはともかく、こうした虚栄心を背景として、いったん宗教に帰属すると、その宗教の世界の中での名誉・称賛に対する欲求も、作用してきます。すなわち、その世界では、より深く信じること、すなわち、客観的に見れば、盲信を深めることが、より良い人・良い信者であると評価されるからです。これによって、さらに盲信が深まります。これは私の経験でもあります。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
７　盲信の原因となる依存心の問題を超える</strong></span>
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さて、自分の宗教を絶対真理として信じるもう一つの背景として、依存心があると思います。これも、私の経験なのですが、特に若い人の場合は、学校の勉強で、先生や教科書を絶対に正しい存在として従う訓練ばかりしています。また、親が今ひとつ権威を失って、親自身が迷って苦しんでいることが多い現代社会の若者の場合は、何かの自分の見本となる確たる権威を求める欲求があると思います。そこで、宗教に巡り会って、開祖がカリスマ的であれば、それを絶対として見習っていく、依存していく可能性があると思います。<br />
この問題の根底には、人生経験が乏しいことによる無智があると思います。人は誰しも絶対ではなく、人から学ぶ場合は、絶対視せずに学ぶべきであるという智慧がないのです。これは、前に書いた、超能力や神秘体験に対するうぶ・無智と同じことであり、先生という存在に対するうぶ・無智と表現できるかもしれません。ただ、これは、本来的には依存心が強くなくても、それまでの人生経験の未熟から、依存する場合といってもいいでしょう。<br />
一方、人によっては、より依存心が強い場合もあると思います。言い換えれば、自分に自信がなく、誰かを頼って幸福になりたいと考える傾向です。また、そこに一攫千金・大逆転を求める欲求も加わるかもしれません。そして、この傾向の根本には、自信がないというよりは、本質的な努力を嫌う傾向＝楽して幸福になりたいという欲求があり、その結果として、自信がないという状態になると思います。<br />
こういった欲求がある場合は、自分が巡りあった宗教が絶対真理であり、それを信じさえすれば、自分は（他の人が得られないほどに）幸福になると考えることは、非常に魅力的なものとなりますから、それによって盲信に陥ると思います。<br />
本来は、宗教に限らず、科学の世界でもそうであるように、人間という不完全なものは、何が正しくて何が正しくないかを完全に理解することは不可能であって、それを踏まえた上で、一歩一歩、向上・前進するように努めるのが、本当の意味での真理の探求であると思います。<br />
それに対して、何かを絶対真理と信じると、何が正しいか正しくないかをもう葛藤する必要がなくなりますから、楽をしているのですが、信者は必ずしも、楽をしているとは感じません。その楽と引き替えに、その宗教に従う努力が課せられるからです。しかし、これは、学校で先生（＝教祖）の言うとおりに勉強する生徒（信者）の努力であって、社会に出て、自分の人生の道を暗中模索する努力との違いでしょうか。<br />
そして、ここで妄信的な宗教が信者に説くことは、信者は無智であるから、それを自覚して、傲慢にならず、絶対である開祖やその教義を疑ってはならないということです。それは、いわゆる神への不信・疑念という悪業となると説くのです。<br />
しかし、客観的に見れば、不完全な人間である信者が、開祖を含めた何者かを絶対視する、すなわち、絶対だと判断する能力があると考える方が傲慢であり、さらには、自分の信じた開祖を絶対と見ることで、ついには自分自身を絶対と見る思考パターンに陥るということがあります。<br />
この傲慢には、妄信的な宗教とその信者は気づかないと思います。こうして、信者は開祖やその宗教に対しては謙虚に振る舞いつつ、自分では気づかない傲慢を形成します。それは、主に、先ほど述べたように、信じない人たちを強く見下す傲慢となって現れます。
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<span style="font-size: medium"><strong>８　正しい学び方・狭き門から入れ</strong></span>
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しかし、当然のことですが、人が何かの道で成長する上では、それが宗教の開祖であれ、学校の先生であれ、その道の先達から謙虚に十分に学ぶことは必要だし、望ましいと思います。誰からも学ばないというのは、明らかに傲慢ですし、その人の進歩を遅らせる結果になると思います。<br />
「人」という文字が示すように、何かで成功することはおろか、生きていくことさえ一人ではできない存在です。よって、全く他に依存せず、他から学ばず、自分は成功すると考えるのは、妄信的な宗教の信者とは、逆の形を取ってはいるものの、同じように、傲慢・無智なことだと思います。<br />
特に、妄信的な宗教を含め、何かにはまった人が、それをやめた後に、それがトラウマになって、その後は、他から全く学ぶことができなくなる場合があります。これは、傲慢な性格で盲信した後に、それと同じ傲慢な性格で、全く他から学ばなくなるという意味で、両極端に振れているおそれがあると思います。<br />
よって、結論としては、正しい学びの姿勢とは、この双方の極端から離れたバランスの取れたものだと思います。具体的にいえば、相手を絶対視しないで、かつ謙虚に学ぶ。すべてが正しいとは思わずに学ぶ、何か間違っているかもと思い、悪いところは受け流せるように、注意をもって学ぶことです。<br />
なお、宗教やその開祖が不完全であって、間違っているかもしれないということは、必ずしも、その宗教や開祖自体の価値を否定しているのではありません。例えば、開祖にとって良い教えも、違う人間である開祖から学ぶ人には、最善ではないかもしれません。また昔は良かった教義も、今の時代には合わないかもしれません。<br />
日本の伝統文化の中に守・破・離というのがあり、それは、師の教えをしっかりと守り、その次に、師の教えを破り離れるという意味だそうです。これも、師から謙虚に学びつつも、最終的には、自分なりの最善の道を確立するという意味だと思います。<br />
こうして、一つ一つの時代の一人一人に、それぞれの幸福の道や、悟りの道があるとすれば、正しい学び方とは、他から謙虚に十分に学びつつ、最終的には、自分や自分たちの時代に最善なものを、自分で見つける覚悟が必要だということになります。<br />
これは、「ふる故きをたず温ねて新しきを知れ」という言葉に通じると思います。既存のものの良さを吸収・維持しつつ、それを進化させることを許すものであり、歴史上の特定人物が未来永劫、絶対化・神格化するのとは違います。また、単純に時代とともに進歩する科学の理論と違って、宗教的な悟りとか達成は、人の数だけ存在するのではないか、と思います。<br />
そして、師は、自分が自然に縁を感じて選ぶもので、他人に、自分の師や宗派を義務化するのは不自然だと思います。個々の個性にあった師を選び、個性が磨かれる中で自立していき、結果の悟りも、他人の悟りと比較するべきでも、比較できるものでもなく、その人だけのこの世で唯一のものです。<br />
最後に、こうしたバランスを取った学び方は、難しいと感じられるかもしれません。しかし、難しいからこそ、真の価値があり、最初に苦労することで、後が楽になる。「急がば回れ」ということでしょうか。一方、絶対視して学ぶことは、最初は楽ですが、間違いを無防備に吸収し、後が大変になると思います。<br />
こうしてみると、結局は、結論は、努力してこそ幸福になる、甘えていては幸福にならないという普遍的な真理なのだと思います。これをもって、イエスは、「狭き門から入れ」と説いたのだと思います。<br />
また、大乗仏教では、ダルマの教えを理解することの難しさに耐えることや、ダルマの教えは達成が容易ではないと見えても、強い決意をもって精進すべきことが説かれています。「ローマは一日にして成らず」。「急がば回れ」。真の幸福を得るためには、一生こつこつと努力し続ける必要があると思います。
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※今回は、２１世紀の新しい宗教・思想の創造に関して、主に宗教を学ぶ人の心構えについてお話ししましたが、２１世紀の教団のあり方については、2010年の夏期セミナーの特別教本や、その解説をした講話の録画動画がありますので、合わせて御覧下さい。
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<strong><span style="font-size: medium">《付録》　関連教材リスト</span></strong>
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<span style="font-size: medium"><strong>◎特別教本</strong></span>
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以下は、今回の講義に関連する、これまでのひかりの輪の特別教本のリストです。ご活用ください。
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『三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜、２１世紀の宗教の革新』（2010年夏期セミナー）<br />
『一元の法則とその悟りの道程、金剛薩埵の内省修行』（2010年ＧＷセミナー）<br />
『現代人の一元の法則』（2009～2010年末年始セミナー）<br />
『循環の法則と密教加行』（2009年夏期セミナー）<br />
『内観、唯識、縁起のエッセンス』（2009年ＧＷセミナー）<br />
『仏教講義・悟りの道程１　縁起の法』（2008年9月）<br />
『仏教講義・悟りの道程２　悟りへの道と大乗の教え』（2008・2009年 年末年始セミナー）<br />
『大乗仏教・六仏の教え』（唯識、内観の部分）（2009年2月）<br />
『ひかりの輪　密教加行の儀式次第』（2009年8月）
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<span style="font-size: medium"><strong>◎内省・内観修行の関係</strong></span>
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代表メッセージ（ひかりの輪会員サイト「上祐代表講話」）<br />
『第１回　金剛薩埵の内省修行における 金剛薩埵への祈願など』2010年03月26日<br />
『第２回　金剛薩埵に関連する教えと修行』2010年03月26日<br />
『第１回　世尊ヴァジュラサットヴァ』2009年08月28日<br />
『64．すべての人々を神仏の現れと見る--日々の実践や儀式の修行』2008年12月13日
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<span style="font-size: medium"><strong>◎修行テキスト（ひかりの輪会員サイト「瞑想・修行テキスト」）</strong></span><br />
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『内観の具体的なやり方』（2009/04/15）
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   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【仏教講義】2011年　GWセミナー特別教本『ひかりの輪と日本と「輪の思想」』</title>
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   <published>2011-08-18T13:11:59Z</published>
   <updated>2011-08-27T10:23:41Z</updated>
   
   <summary> 2011年春に行われたＧＷセミナーの特別教本です。テーマは、『ひかりの輪と日本...</summary>
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   </author>
         <category term="【動画あり】21世紀のための仏教講義" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/lecturetext/">
      <![CDATA[<p>
<span style="font-size: small">2011年春に行われたＧＷセミナーの特別教本です。</span><span style="font-size: small">テーマは、『ひかりの輪と日本と「輪の思想」』です。</span>
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<span style="font-size: small">セミナーでは、各章ごとに、全7回の上祐史浩による教本解説の講義が行われ、すべてＵstreamでネット生中継されましたので、動画をご覧いただきながら、教本を読み進めていただくことができます。</span>
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<strong><span style="font-size: small">◎動画の内容（全７回）</span></strong>
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<strong><span style="font-size: small">第1回　『輪の思想について』<br />
第2回　『第1章 ひかりの輪「輪の法則」とはの解説』<br />
第3回　『日本の「輪の思想」とひかりの輪』</span></strong>
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&nbsp;<a href="http://www.joyus.jp/movie/00200911/0977_4648gw20115_13.html"><span style="font-size: small">＞＞動画はこちらでご覧いただけます。</span></a>
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<strong><span style="font-size: small"><br />
第4回　『第4章 競争社会を輪と和の精神で生きる、真の大和魂・和魂洋才』<br />
第5回　『第5章 太古から続く輪の思想の系統とひかりの輪』</span></strong>
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&nbsp;<a href="http://www.joyus.jp/movie/00200911/0978_4950gw20115_45.html"><span style="font-size: small">＞＞動画はこちらでご覧いただけます。</span></a>
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&nbsp;<strong><span style="font-size: small"><br />
第6回　『第6章ひかりの輪と日本とのシンクロニシティ、第7章ひかりの輪のホー　　リーシンボル（神聖な象徴物）』<br />
第7回　『第8章 正しい神仏への祈願、聖徳太子・ 如意輪観音を象徴として』</span></strong>
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&nbsp;<a href="http://www.joyus.jp/movie/00200911/0979_5152gw20115_67.html"><span style="font-size: small">＞＞動画はこちらでご覧いただけます。</span></a>
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<strong><span style="font-size: small">&nbsp;2011年GWセミナー特別教本　『ひかりの輪と日本と「輪の思想」』</span></strong>
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<strong><span style="font-size: large">第一章　ひかりの輪の「輪の法則」とは</span></strong>
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<img src="/mt/uploads_files/images/2011kyouzai/2011GW.jpg" alt=" " hspace="8" vspace="8" width="150" height="200" align="left" />
&nbsp;<strong><span style="font-size: medium">１　「ひかりの輪」とは何か</span></strong>
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ひかりの輪とは、「輪の教え」ないしは「一元法則」と呼ばれる思想に基づ&nbsp;&nbsp; いた団体である。輪の教え（一元法則）とは、簡単にいえば、万物が輪のように繋がっていて、一体であると見る思想である。<br />
そして、ひかりの輪は、その思想によって、個々人をさまざまな苦しみから解放し、人と人、および、人と大自然の調和を促進し、理想の未来社会へ向かうことを目的としている。一言でいえば、輪の教えによる調和を広める団体である。
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]]>
      <![CDATA[<p>
この一元法則は、太古から育まれてきた人類の普遍的な道理・真理である。輪の思想は、日本では縄文時代まで遡り、和（輪）を重視した聖徳太子の思想もそうであり、それゆえに、日本文化の中核にある思想である。また、日本に限らず、世界に広がっており、法輪を象徴とする仏陀の法も、道教の陰陽・太極の思想も、ヒンドゥーの思想も、輪の思想の本質がある。<br />
なお、ひかりの輪という団体名は、団体の発祥の経緯となった、聖地で体験された「太陽の周りの虹のひかりの輪」などに由来している。「ひかり」は、無智の闇を照らす精神的な智慧の光、すなわち、教えという意味があるから、ひかりの輪とは、輪の教えという意味が含まれている。<br />
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<strong><span style="font-size: medium">２　輪の法則とは</span></strong>
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輪の法則とは、万物が輪のように繋がって一体であると説く、さまざまな教えの総称である。そして、輪の法則を言い換えて、一元法則ということがある。一元法則とは、万物が一つの根元を有し、本質的に一体であることを意味している。なお、単純にすべてが同じであるという意味（単一論）ではない。<br />
ひかりの輪において、最も中心的な一元法則は、「三仏の一元法則」と呼ばれている。それは、釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩という三者の仏陀にちなんだものである。それに次いで、「三乗の一元法則」がある。それは、万物が相互に依存しあって存在し（縁起）、同根であり、循環しているという三法のことをいう。<br />
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<span style="font-size: medium"><strong>３　三仏の一元法則とは</strong></span>
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まず三仏とは、過去・現在・未来の三世の仏である釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩である。過去世の仏が、２６００年前に現れて入滅した釈迦牟尼である。現在世の仏が、さまざまな人・生きものの姿で現れるとされる観音菩薩である。未来の仏が、仏教で未来仏と信じられている弥勒菩薩である。<br />
次に、その三仏の一元法則とは、三仏に象徴される、三つの一元法則である。なお、過去・現在・未来が連続しているように、三仏は本質的に一体である。よって、この三つの一元法則も、本質的には一体で、言い換えると、同じ普遍的な道理を三つの視点から見たものである。<br />
この三仏の一元法則については、『中道の教え、卑屈と怒りの超越--２１世紀の新しい信仰のあり方』（2010年～11年 年末年始セミナー特別教本）、『三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜--21世紀の宗教の革新』（2010年夏期セミナー特別教本）、『一元の法則とその悟りの道程』（2010年 ＧＷセミナー特別教本）といった、過去の特別教本で詳しく述べてきたので、詳細はそちらを参照されたい。今回は、その要点を簡潔にまとめておく。
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<span style="font-size: medium"><strong><br />
４　釈迦牟尼の一元法則--苦楽の輪を悟る</strong></span>
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釈迦牟尼の一元法則を簡潔にいえば、欲楽と苦しみが輪のように一体であり、欲楽の裏に苦が、苦の裏に楽があると知って、万物を恩恵と見て感謝し、すべての衆生と苦楽を分かち合う大慈悲の実践をする、というものである。<br />
まず、人は、自分だけの喜び（欲楽）を求めて貪っても、さまざまな苦しみを招くことになる。欲望は際限がなく、貪り求めても満ち足りないが、とらわれ・執着を生じさせるので、求めても得られない苦、得たものを失う苦、奪い合う敵対者を作る苦などが生じる。こうして欲楽はさまざまな苦しみをもたらす。<br />
一方、苦しみは、その背景に何らかのとらわれ・執着があるから生じるものであるために、それに慣れるならば、とらわれ・執着が弱まって、苦しみではなくなっていく。その結果として、より広い条件で、幸福でいることができるようになる。<br />
また、苦しみの経験は、特に法則を学んでいる者には、智慧や慈悲の源となる。苦しみの経験によって、欲楽の裏に苦しみがあると悟る智慧が生まれる。さらに、他の苦しみを理解し、取り除く力を育むことも助ける。苦しみが、智慧と慈悲の源となるのである。<br />
こうして、欲楽が苦しみを、苦しみが楽をもたらし、欲楽と苦しみは、輪のように循環して一体となっているのである。<br />
さて、こういった楽と苦の循環は、欲楽を求める場合には生じるが、利他の行為による喜びの場合には生じない。よって、仏教では、これを真の楽（真楽）と呼ぶこともある。この利他の実践とは、簡潔にいえば、他の幸福を助け、他の苦しみを取り除き、他と苦楽を分かち合うことである。<br />
この実践をする者は、他と幸福を分かち合う中で、自ずと、自らの欲楽にとらわれて他と奪い合いをするなどの苦しみはなくなる。その一方で、他の幸福を助けることは、他が支えている自分の幸福も支えることになる。<br />
また、他と苦しみを分かち合う中で、自分が苦しみに強くなる。他の苦しみは自分の潜在的な苦しみ（未来の苦しみ）であるから、それは、自分の未来の苦しみを取り除き、苦しみに強くする。こうして、他を利することは自己を利することであり、自と他の幸福と不幸は一体である。<br />
よって、仏教は、真の幸福（真楽）に到る道として、万物を一体と見る智慧（智恵）に基づいて、万人・万物と苦楽を分かち合う大慈悲（四無量心）の実践を説くのである。
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以上の考察に基づいて、正しい生き方を考えると、以下のようになる。
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（１）欲楽を貪らず、今ある楽・幸福に気づいて足るを知り、それを支える万物に感謝する。<br />
（２）苦しみが、智慧と慈悲の源と知って感謝する。<br />
こうして、苦楽を含めた万物が恩恵と知って、万人・万物への感謝と恩返しの心を持つ。<br />
（３）感謝をもって、万人・万物と苦楽を分かち合う（＝大慈悲の）実践をする。
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<p>
以上をまとめていえば、万物への感謝と分かち合い（知足と大慈悲）の実践ということもできるだろう。<br />
<br />
これらの教えを仏教用語で表現すると、自分や自分のものにとらわれずに（自我執着を滅し）、無我や空の悟りの境地に到るとともに、すべての衆生への慈悲の心（四無量心）を体得することである。自分にとらわれず、すべての衆生を愛する意識を培うのである。<br />
この自我執着の根本は、「自分」という存在に対する執着である。誰もが自分の生に執着するがゆえに、老い、病み、死ぬことを恐れる。よって、生・老・病・死を含めた人間の苦しみを仏教では四苦八苦という。しかし、悟りに到った仏道修行者は、必ず死ぬ運命にある無常な生への執着を超えて、老い病み死ぬことへの恐怖をも超えた無我の境地に到達する。これは高度な悟りの段階だが、しかし毎日のコツコツとした修行の延長上にある。<br />
とはいえ、仏教は生を軽視することはない。むしろ人間としての生は宝のように貴重なもので、それを大切にして、悟りを達成し他者を救済するべきであると説く。しかし、生への執着を超えているがゆえに、恐怖なく天寿をまっとうすることができるのである。
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<span style="font-size: medium"><strong>５　観音菩薩の一元法則--善人・悪人の輪を悟る</strong></span><br />
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観音菩薩の一元法則を簡単にいえば、善人と悪人はまったく別々の存在ではなく、本質的には輪のように繋がっていると知って、慢心や卑屈を超えて万人を平等に尊重し、さらには、万人を学びの対象と見て感謝して、大慈悲の実践をすることである。<br />
今、善人とされている者も、慢心を抱いて、悪人とされている者と自分を区別して、内省の心を欠くと、悪人に堕することになる。一方、悪人とされている者も、正しく反省して努力すれば、未来には善人になる。<br />
こうして、自と他を区別し、善人と悪人を区別する限りは、善人と悪人は輪のように循環（輪廻）してしまうことがよくわかるだろう。逆に、謙虚な心をもって、両者を区別しない者は、善人から悪人へと循環（輪廻）していくことはなくなるのである。そして、仏教では、すべての人々・生きものが、今はどうあれ、未来においては仏陀になる可能性（仏性）を有していると説き、謙虚になって万人・万物を尊重することを説く。<br />
なお、これとまったく同じ内容の教えを、観音菩薩（如意輪観音）の化身とされる聖徳太子が、その「十七条憲法」の第十条において説いている。それは、「自分だけが聖人で他は愚かであるということはなく、人は皆賢くもあれば愚かであって、それは耳の輪のようなものである」というものである。ひかりの輪では、「和の思想」で有名な太子の十七条憲法は、その土台に「輪の思想」があると考えている。<br />
また、悪人とされる者も、善人とされる者も、その者だけの原因・力によって、それぞれが悪行や善行をなしているのではない。そもそも、悪人も善人も、人は皆、自分だけの原因・力で生まれ育つのではなく、親から生まれ、その後の環境の影響を受けて育ち、いうなれば、この社会・大自然・宇宙全体によって作られたものである。<br />
こうして、善人を形成した社会は、その一部に悪人を含み、同様に、悪人を形成した社会は、その一部に善人を含んでおり、悪人と善人は、社会・宇宙の一部として、本質的には輪のように一体になって繋がっている。<br />
よって、自と他を区別せずに、悪をなす者を慢心によって嫌悪するのではなく、自分の中の潜在的な悪を投影する存在＝反面教師と見ることが重要である。また、同様に、善をなす者を妬むのではなく、自分の教師・見本と見ることも重要であり、善人・悪人を含めた万物を、自分の教師・反面教師、導き手・鏡と見て、尊重・感謝するのである。<br />
そして、単に他を鏡と見て学ぶだけでなく、他の悪行とそれによる苦しみを、自己の苦しみと考えて悲しみ、それを取り除く手助けをする。他人が悪行を脱却することを手助けするならば、自分が未来に同じ悪行に陥ることを未然に防ぐことができる。また、他人の善行・幸福を手助けすれば、他人に支えられている自分の幸福も増大することになる。<br />
こうして、他の苦しみを取り除くことは自己の苦しみを取り除くことであり、他の幸福を助けることは自己の幸福を助けることになる。他を利することは自己を利することになる。これが仏教が説く大慈悲の実践である（大慈悲の慈とは、他に幸福を与えることで、大慈悲の悲は、他の苦しみを悲しみ、それを取り除くことである）。
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以上の考察に基づくならば、正しい生き方を考えると以下のようになる。
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（１）万物を平等に（未来に仏陀になる可能性を有する存在として）尊重する。<br />
（２）万人の善行・悪行を自己の教師・反面教師と見て学んで感謝する。<br />
（３）感謝をもって、他の善行・幸福を助け、他の悪行・苦しみを取り除く、大慈悲の実践をする。
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まとめていえば、万物の尊重と感謝に基づく分かち合いの実践である。そして、慢心を抱かず、謙虚な智慧をもって、万物を尊重する実践をする者が、真の善人＝菩薩となっていく。
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<span style="font-size: medium"><strong>６　弥勒菩薩の一元法則--自と他の輪を悟る</strong></span>
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弥勒菩薩の一元法則を簡単にいえば、自と他を含めた万物が、輪のように循環して一体であると知って、自と他を区別せずに、他の幸福・不幸を自己の幸福・不幸と考え、大慈悲の実践をし、真の自己が無限の宇宙であることを悟ることである。<br />
まず、自と他を含めた万物は、輪のように循環して一体となって存在している。例えば、人は、両親を含めた万物・大自然から生まれ、死んでは、自分は、他人を含めた万物・大自然に戻っていく。これは、太陽や地球といった星も同じであり、大宇宙から生まれ、大宇宙に戻っていく。この循環を繰り返している。<br />
体について注目すれば、他者が死んでは、それが自分の体の一部となり、自分が死んでは、それが他者の体の一部となる。また、生きている間も、自分と他者・外界の間では、その体を構成する分子が絶えず交換されており、自分だけの体の分子などない。<br />
また、体に加えて、思考・感情の面でも、自分だけで作った思考や感情などはなく、生まれてからずっと、他者から吸収した言語・知識・情報に基づいてそうしており、自と他の間で絶えず影響を与え合っている。こうして、自分だけの体も思考も存在せず、自と他を含めた万物は、物心両面で、互いの要素を交換・循環させながら、一体となって存在しているのである。<br />
さらに、仏教等が説く輪廻転生説に基づけば、人は死んでは生まれ変わり、生まれ変わっては死ぬという生と死の循環の中にいる。この意味でも、今生において、自分と他人とを区別して、（今生の）自分だけを愛して執着しても、それは死によって無常に消え去っていくものであるから、空しい結果となる。
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これに基づいて、正しい生き方を考えると、以下のようになる。
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（１）自他を含めた万物は、輪のように循環し一体であると知る。<br />
（２）他の幸福・不幸を、自己の幸福・不幸と考え、大慈悲の実践をする。<br />
（３）老い病み死ぬ、無常な自我ではなく、無限の宇宙全体が真の自己であることを悟る（宇宙意識）。
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まとめていえば、万物が一体と見て、分かち合い、万物と同化する実践である。
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さて、釈迦牟尼が説いた中核の教えとして、「縁起の法」がある。それは、「我があるがゆえに、彼があり、彼があるがゆえに、我がある」という教えである。大乗仏教では、これを解釈して、「万物は相互に依存しあって存在し、他から独立した固定した実体を持つものはない」と説いた。また、これに関連して、固定した実体がないことを「空」であるというが、よって、この世の一切は空であると説く。<br />
そして、特に、私たちが「私」と呼んでいるもの、すなわち、心や体で構成される自我存在には固定した実体がなく、老い病み死んでいく無常なものであるから、それに過剰に執着するべきではないと説くのが、無我の教えである。<br />
この教えは、真の自己とは、本質的には一体である無限の宇宙であると言い換えることもできる。これをぼん梵が我いちにょ一如ともいう（自己の本質と宇宙の根本原理が同一であること）。また、これを宇宙意識と表現することもできる。真の自己を強調するのは、仏教よりも、ヒンドゥー、ヨーガの教え・表現である。<br />
なお、縁起の法と輪の法則は、両者とも、万物が繋がって一体であると説いている点で、本質的に同じものである。本質が同じであるせいか、縁起の法を中核とする仏法は、興味深いことに、法輪（ダルマチャクラ、法則の車輪の意味）というもので象徴される。仏教の教えを説くことを、法輪を転じると表現するのである。<br />
また、輪は円に通じるが、日本語では、円は縁と同じ発音であるところも興味深い。輪・円・縁はすべて、何かと何かが繋がっているという概念である。この縁という概念は、ご存じの通り、日本文化に深く浸透しているものである。
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<span style="font-size: medium"><strong>７　輪が象徴するさまざまな重要な事柄</strong></span>
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さて、ひかりの輪において、輪という言葉が象徴しているものは、①「輪の法則」や、その悟りの境地だけではない。それは、②宇宙や宇宙の創造原理、さらには、③仏教の根本的な修行体系までを示している。<br />
まず、輪は、「宇宙」も象徴している。輪は、丸い・円という意味を含むが、この輪や円は、さまざまな思想において、宇宙を象徴することがある。例えば、仏教における曼荼羅は、仏の悟りの境地や、真理や宇宙を象徴したものだが、その元の意味は円である。また、禅においても、円相というものがあるが、これも悟りの境地・真理・宇宙を象徴する。<br />
ここで、悟りの境地と真理と宇宙が、同じ一つの輪・円という象徴で表されるのは、悟りの境地が、自と他が一体という輪・円の真理を体得して、心が宇宙と一体となった境地であることに関係しているのだろう。<br />
また、古代人にとっては、宇宙と輪は、不可分のイメージだっただろう。星々が回転する夜空を見ても、太陽が回転する昼間を見ても、宇宙は輪・循環・回転するものだった。現代では、地球も太陽も銀河系も回転することが知られている。そして、インド仏教最後の経典である「カーラチャクラ・タントラ」は、宇宙の根本原理を「時の輪」＝周期的な運動・循環であるとした（カーラチャクラとは時の輪という意味）。<br />
さらに、輪は、「車輪」という三次元的な意味がある。日本語でもそうだし（『広辞苑』など参照のこと）、サンスクリット語で「輪」を意味する「チャクラ」も、車輪という意味がある。先ほども述べたが、仏法の象徴の法輪・ダルマチャクラは、法則の車輪という意味である。<br />
そして、この車輪は、輪の部分と、軸となる直線上の部分、言い換えると、輪と柱の二つの要素の合体で構成されている。そして、これをこの世を構成する「女性原理・男性原理」の象徴と見る思想がある。<br />
例えば、ヒンドゥーのリンガの信仰や、縄文時代のストーンサークル（環状列石）などである。ヒンドゥーのリンガ信仰では、この世の万物は、柱と輪が象徴する男性原
