2010年の日記
日記コーナー、アメブロに移行しました。 (2010年11月18日)
この「日記プライベート」のコーナーは、
先日開設のブログ、
「上祐史浩オフィシャルブログ 「21世紀の思想の創造」 日記へ移行いたしました。
今後はこちらの方での閲覧をよろしくお願いいたします。
※ブログの更新情報は、当サイトトップページの「更新情報」でご覧いただけます。汝の敵を愛して、キリスト教の誕生 (2010年11月02日)
学術的に言えば、キリスト教は、イエスキリストの教えと言うよりも、
イエスキリストの言行を土台として、パウロらが確立した宗教である
と言われています。よって、学者によっては、パウロによって、
キリスト教が発明されたという刺激的な表現をとる人もいます。そのパウロ、有名な話しとしては、ある宗教体験をして、改心するまでは、
イエスの信者を弾圧しており、しかも、生前のイエスには会ったことがない。
すなわち、キリスト教とは、イエスの信者の敵対者だった者が確立した
宗教である、とも言うことが出来るのです。すなわち、イエスの名言、汝の敵を愛せ、これがそのまま、キリスト教の誕生を
もたらしたということになります。キリスト教と言えば、なんと言っても、イエスの十字架で死と復活ですが、
私個人は、宗教としてのキリスト教の誕生が、その敵にもたらされたという点に、
非常に惹かれています。そして、イエスの様々な予言の中で、一般には予言の的中とされていませんが、
私は、彼が彼の信者に、汝の敵を愛せと語ったことは、素晴らしい予言のように感じます。敵対者であるパウロが、キリスト教確立の立役者になった。
ユダの裏切りをきっかけに、イエスのキリストとしての復活があった。
敵が味方に。死が再生に。人が最も忌み嫌う二つのもの、「敵」と「死」、
これによって、その中核が作られたキリスト教。
さすがに世界最大宗教の誕生は興味深い。ひかりの輪では、大乗仏教の教えをベースにして、
苦しみの裏に喜びがあり、
悪(劣)の裏に善(優)がある、
という一元法則を説いています。前の日記で、苦しみこそ慈悲の源であるとして、苦しみに感謝するお話をしました。
これをひかりの輪では、苦楽表裏として、釈迦牟尼の法則と呼んでいます。これに加えて、人が一見して、自分より劣っていると考えている対象が、
別の面においては、自分より優れており、将来的には、自分が助けられる場合
があります。例えば、イエスの信者にとっては、初期のパウロは、真理を理解しない
悪業多き魂の一人だったのでしょうが、後世のキリスト教徒にとっては、
全ての信者の上に抱く存在となりました。また、仏教では、釈迦牟尼如来の一人前の如来をカッサパ仏と言いますが、
カッサパ仏の時代においては、釈迦牟尼は、カッサパ仏を誹謗中傷したと
も言われています(この生の釈迦牟尼はまだ悟って仏となっていない)。そして、釈迦牟尼が仏となった後には、釈迦牟尼を殺そうとした大悪人が、
改心して、釈迦牟尼の高弟となります。有名なアングリマーラです。さらに、釈迦牟尼教団を一時的に分裂させたデーバダッタが、地獄に堕ちたが、
そこで改心したので、仏教を守る神(護法神)として生まれ変わったと言います。釈迦牟尼遅れて56億7千万年後に悟る弥勒菩薩は、それほど釈迦牟尼に遅れて悟るのに、
釈迦牟尼より遙かに多い人々を悟りに導くとされています。誰かが、最初に劣っていて、間違っているように見えても、
その人が転機を迎えて、転換し、深化していくならば、
その落ち込みが深く、はい上がる高さも高い分だけ、
最初から優れていた人よりも、大きなものを得るのではないかと思います。
仏教的に言えば、煩悩が深い者は、早く悟ることは出来ないものの、
苦闘の末に、それから脱却したならば、煩悩の浅いものよりも、
同じように煩悩が多い者を救うことができるし、救おうとする慈悲も強い、
とも考えられます。大煩悩大解脱(煩悩即菩提)と言われる教えです。これから出てくる教えは、全てを平等に尊重すべきである、というもののです。
仏教的に言えば、万人が、平等な仏性の現われ、
すなわち、平等に未来に仏陀になる可能性を有する、というものです。これは、人は、無知によって、色々な間違いを犯すが、それを経験して学習し、
徐々に成長していく、という人間観と、それに加えて、
人と人の違いは、仏の視点から見ると、優劣ではなく、実は、個性であり、
役割分担の違いで、お互いがお互いを助け合っている、という視点があります。先ほど言ったように、早く悟った釈迦牟尼が、先駆者として仏の教えを広め、
後に悟る弥勒菩薩が、実際に人類全体を救済して、釈迦牟尼を助け補う
というのが、仏教の救済の構造となっています。これは、母が子供を育てる時の心境に似ています。幼少の時の子供は、
母親に24時間苦役を強い、客観的には、母親に最大の敵の一面を呈しますが、
その将来の成長を信じる母親は、子供に最大限の尊重と愛を持って、
育みます。そして、成長した子供は、今度は年老いる母親を助けます。観音菩薩で言えば、慈母観音菩薩、仏母観音菩薩などと言われます。
また、この宇宙は、全ての生き物を育む母なる仏の母胎の中であるとする
胎蔵界曼荼羅の思想などがあります。
キリスト教で言えば、敵を愛せと言ったイエスもそうですが、聖母マリアが
宇宙の母のイメージでしょうか。こうして、宇宙の母のような気持ちで、全ての生き物について、
その一時的な優劣・善悪を超えて、
お互いが助け合う関係にある未来の仏と考えて尊重し、
愛し育むのが、仏陀の智恵と慈悲だと思います。汝の敵を愛せと、今回はキリスト教的になりましたが、
最後はいつもの通り仏教で締めくるならば、
「敵こそは教師である」と説かれます。
宗教は、宗派対立に陥ると、宗教戦争など、敵を増やします。
しかし、現代社会では、敵と戦争をもたらす一面が目立つ宗教ですが、
別の面では、本来は、敵を味方に変え、平和をもたらす思想があります。
21世紀の宗教の創造を目指すひかりの輪では、この平和をもたらす
宗教の力を再生できればと考えています。また、オウム・アレフを脱会して、麻原信仰を脱却したひかりの輪は、
今現在は、麻原信仰を深めるアレフと対立関係にありますが、
アレフの人達が改心して、その苦闘の末に、麻原信仰を脱却する時が
来るならば、そのはまり方が私達より深く、脱却の苦闘が深い分だけ、
より多くの人に、慈悲深くなる可能性があると思っています。それから、公安調査庁の方、彼らは私にとっては愛の鞭としての教師。
我々の反省、改革、深化、忍耐、真の愛を促す、教師です。余談ですが、立ち入り調査の時に、ある調査官から聞いたことは、
調査官の奥さんも、私の公開ネット講話を聞いているそうです。
旦那さんと一緒に教団を監視して夫婦二人三脚のつもりか、
単なる興味本位か、夫婦関係の悩みがあるのか......。
旦那さんの「公開しすぎ」という苦しいコメントから、推して知るべし。そもそもは、ひかりの輪も、アレフも、公安調査庁も、同じ日本人。
一つしかない日本。東京説法会とオフ会終了、今週末は千葉・福岡へ (2010年11月01日)
(2010年11月01日00:59の日記)
本日は、予定通り、東京の説法会とオフ会を行い、今帰宅しました。
今回も、それぞれに数十名の方にお集まりいただき、
スタッフの方、参加された方に。深く御礼申し上げます。
今日は、いつもよりも多くの方々と個人的に面会したり、
ご相談に乗れたことが、良かったなと感じています。
中には大きな人生の転換期の方もいらっしゃり、
住み慣れた関西から単身で引越し、芸能関係の仕事を始める方や、
最近長年付き合った人と別れ、新しい仕事を始めつつある方なども。昼11時半から夜12時近くまで、説法会とオフ会の間の2~3時間を除き、
3回の講話と個別のお話となりましたが、比較的スムーズに運び、
疲労感少なく、充実感のある1日でした。今週末は、4日・5日の木曜・金曜日に、一般の方、会員のとの面会
の予定を入れており、6日・7日の週末は、既にお知らせしたように、
千葉・福岡の説法会・勉強会の予定です。
7日(日)の福岡勉強会の講話はネットで公開生中継も行います。今日と同じように、多くの方との交流と、いろいろな学びの機会が
得られればと思いますが、これらプログラムのお問い合わせ先、
ご連絡先は以下の通りです。4日~5日:東京本部での個人面会
担当者:細川美香
担当者携帯電話:080-3424-7054
メールアドレス:tokyo@hikarinowa.net
6日:千葉説法会、7日:福岡説法会の詳細
http://www.joyus.jp/hikarinowa/news/news/102411.html
苦しみは慈悲の源 (2010年10月29日)
(2010年10月29日の日記)
最近、様々な苦しみが慈悲の心を培う力になることを良く考えます。それに関連する話しで、前にもしましたが、観音菩薩がいます。
慈悲の化身、慈悲から生まれたと言われますが、観音菩薩は
以下のように誕生しjたと言われています。観音菩薩として生まれる前の生で、彼は、大変苦しい人生を送りました。
子供の時に両親と死に別れ、弟と共に売り飛ばされ、島での苦役を強要され、
ぼろぼろになって、そのまま死に至りました。死の直前に、自分達の悲惨な
人生を嘆く弟に対して、「私達は今生、人としての様々な苦しみを味わった。
だから、来世生まれ変わったら、他の苦しみを取り除く人となろう」と語りました。こうして生まれたのが観音菩薩と言われています。
この観音菩薩の誕生のエッセンスは、苦しみの経験が慈悲の心をもたらす
ということだと思います。苦しみを経験してこそ、他の苦しみを理解することが出来る。
苦しみが、人にとって一番大切な慈悲の心の源になる。
また、世俗的な幸福は、多かれ少なかれ奪い合いの様相があって、
お金も、異性も、名誉も、自分が他に勝って、それらを得る喜びの裏には、
負けた他が、それらを失う苦しみがあり、逆に言えば、
自分が負ける苦しみの裏には、他人が得る喜びがある。
慈悲の心があれば、自分の苦しみは、自分が他から奪いすぎないで、
足るを知って生きるために、喜びととらえなおすことが出来る。
この意味でも、苦しみは、慈悲の心の源にすることができる。今の日本、前よりも豊かさが減ったためか、将来への経済的な不安が増大しています。
しかし、世界・地球全体から見ると、やはり、特別に豊かで恵まれた国であって、
飢え死ぬ訳ではない。また、最近は、勝ち組・負け組と言って、自分を負け組と考えて、酷く落ち込む人も多いが、
日本人を含めた先進国の人々は、世界の中で富を独占する存在で、しかも、日本は
長寿で安全な国だから、客観的に見て、勝ち組であることは間違いない。その日本人がかかえる将来の不安とは、本質的に何を意味しているのか。
客観的には、贅沢や勝利に慣れすぎてしまった心の問題の側面がないか。
だとすれば、その程度の不安があったとしても、それは本当に悪いことか。
それとも、慈悲の心を培うよい機会・試練ではないのか?仮にもし全く不安のない人生だったら、どんな人間になるのでしょう。
例えば、他の苦しみを理解できるようになるでしょうか
お金と名誉・勝利に満ち足りて、何の苦しみもない人生とはどんなものでしょう。これについては、有名なフランス王妃マリーアントワネットの話を思い出します。
民衆がパンがなく飢えていた時に、「「パンがないなら、なぜケーキを食べないの」と言って、
民衆の怒りを買って、彼女は自らを滅ぼす結果となりました。
彼女の栄華は一時的だったが、その栄華が彼女を滅ぼす原因となった。また、腹八分目に医者いらずと言うます。
食べ物も、それが過ぎれば、体には毒になるように、
お金や名誉やその他のものも、それが過ぎれば、
心の健康=慈悲には毒にならないか。
ならば、多少の不足・不安くらいは、本当に悪いことなのか。こう考えると、楽にも苦にも感謝して生きる道があると思います。
今、与えられている幸福に感謝すると共に、
今、与えられていない苦しみに対しても、
それを慈悲の源と感謝して、全ての感謝する道。
楽にも苦にも感謝。一切に感謝。
そして、足るを知り、感謝の心がないならば、
絶えず、今得ていないものを未来に求めて生きることになる。
しかし、それは、未来に生きようとしているようなもので、
今現在の人生を楽しむことはできない。
今の楽にも苦にも感謝して、今、ここで、幸せになる。
今、ここの人生を感謝し、楽しむ。
そこには、際限のない貪りから離れた平安な心と、
奪い合いから離れた温かい慈悲の心が存在している。そして、そのような分かち合いの心が生じると、
不思議にも、生きて行くに必要なものは与えられるもの。
それが大自然の摂理であり、神仏の守護・祝福として
信じられてきたものではないか。仏教開祖の釈迦牟尼は、苦と楽のバランスを取る中道の教えを説きました。
自分を痛めつけ過ぎるような苦行(右道)を否定すると共に、
快楽を満たし過ぎる道(左道)を否定しました。
不苦不楽の中道の教え。
これも慈悲の教えと一体のものだと思います。ネットで知り合った人達と面会の毎日 (2010年10月27日)
昨日、今日、明日と、ネットで知り合った人と、私の住む東京世田谷烏山で
面会させていただいています。昨日印象に残ったのは演奏家の方。最近の不況の打撃をもろに受けているのが芸術分野だそうで、軒並み生演奏の機会が減ったとか。
面会で様々な分野・職業の人の話を聞くと、見識が広がるので勉強になります。私の方からは、不況などの不安・困難を逆活用して、 演奏家にも大切な集中力やインスピレーションの強化(雑念を止める)や、心の熟成をはかる仏教的な智恵についてお話ししました。苦楽表裏ですから。
今日印象に残ったのは、20代で霊的なヒーリングをやっている若者。
お父さんも励ましているというしっかり者で、最近のスピリチュアル、ヒーリング、サイキック関係の事情も含めて、勉強になりました。私の方からは、慢心が増大して、他の尊重ができなくなるという霊的修行の落とし穴の問題の話しをしたり、オウムや幸福の科学といった宗教、政治、親子関係など様々な質問に答えました。
よく学び、邪道を振り払って、次代の精神世界を支える人物となるように期待を込めて。明日また、昼・夜と面会をする予定で、その後、お知らせしましたとおり、
横浜説法会、東京説法会、東京オフ会となります。既に多くの一般の方の
参加の予定を聞いており、多くの方と交流できることを楽しみしています。なお、各イベントの連絡先はNEWSに掲載しましたのでご関心があれば。
http://www.joyus.jp/announcement/02/0241.html
智恵のツィート (2010年10月27日)
日常生活を豊かに幸福にするための智恵や、
21世紀の新しい宗教の創造に関するツィートを
テーマ毎に編集して「智恵のツィート」と題して
アメブロに掲示開始しました。
内容は、随時追加の予定です。ご関心があれば、
私のアメブロのブログテーマ「智恵のツィート」のところを御覧下さい、
http://ameblo.jp/joyufumihiro/theme3-10027589572.html#main※追記
アメブロは、今後、智恵のツィートに加えて、
ツィッターでのQ&A集なども掲示したいと思いますので、
よろしくお願いします。アレフ足立施設規制の新条例 (2010年10月22日)
(2010年10月22日の日記)
すでにご存知かと思いますが、足立区にアレフが大規模施設を取得して
問題となっている件で、本日足立区議会が、新しい条例を制定しました。
施設の立ち入り調査、構成員の報告の義務付け、問題活動の改善勧告
やそれに応じない場合の立ち退き命令などを含みます。まだ条文自体はわかりませんが、報道されるところだけを見ると、
団体規正法と似ていますが、活動の改善命令や、立ち退き命令など
部分的には、それ以上に強力な法規のようにも見えますし、
前例のない法規である一面もあると思います。
さて、前回の日記では、アレフの活動の20年のサイクルのお話をしましたが
本日のちょうど20年前に、波野村に進出して大規模施設を取得した
オウムに対して、熊本県警が国土法違反事件で全国一斉の強制捜査
を行ないました。
そして、強制捜査は11月にも2度目が行われ、数名の逮捕者が出て、
起訴され、翌年にかけて、逮捕者の保釈、裁判の開始となりましたそして、現状のさまざまな情報分析と、こうした20年サイクルや占星学
などの鑑定を総合しますと、11月はアレフと社会の対立はより強まる
可能性があると思います。よって、一部の信者が実際に引越しをする時期、
そして、その際の地元住民の方々と摩擦が当面の焦点と思われます。
新条例の導入を受けたアレフがどういう対応をするのか。また、この施設の報告をしていないとアレフを批判している公安調査庁や
新しい法規を導入した足立区、そして、施設を差し押さえることが可能とも
思われる被害者支援機構の反応が注目されます。20年のサイクル (2010年10月22日)
(2010年10月22日の日記)
歴史は繰り返すと言いますが、最近、約20年のサイクルという感じることがあります。
その前に、20年サイクルの親玉は、干支で有名な60年のサイクルですが、
近代日本の60年周期説は、元京大教授・大澤真幸氏などが唱えました。例えば、1935年の大本教事件と1936年の226事件の二つを合わせると、
その60年後の1995年のオウム真理教事件の宗教とテロ事件に似ており、
1941年の真珠湾奇襲攻撃で始まった太平洋戦争は、その60年後の、
空から奇襲攻撃であった911テロ事件で始まった対テロ戦争に似ている
などといったものです。
これは一例で、明治から2000年までの百数十年に60年のサイクルがある
というものです。さて、私の感じる20年周期というのは、社会に流行する思想・宗教のサイクルです。
1990年代は、オウム真理教等の新々宗教が台頭し、オウムのテロ事件が起こりました。
昭和が終わり、バブルがはじけ、旧ソ連などの社会主義も崩壊した時代の変わり目でした。1970年代は、オウムではなく、極左の活動が活発化し、
赤軍の浅間山荘事件が起こりました。
この極左と赤軍の事件は、オウムとテロ事件と良く比較されます。1950年代は、社会主義勢力が台頭し、自民党と社会党の55年体制が形成されました。
これも、戦争が終わり、日本が再独立した時代の変わり目でした。1930年代は、大本教が台頭し、大本教事件と226事件が起こりました。
先ほどの60年周期説で、オウム真理教事件と比較された出来事です。
これも、大恐慌が始まり、大きな時代の変わり目でした。
さて、最後に、最近、アレフの話しをしましたが、これにも、なんとも言えぬ、
20年の因縁がありました。昨年11月、アレフが賠償契約を拒否している理由を知る機会がありました。
それは、被害者側の弁護士の方の一人が、地域住民の集会で、アレフの批判をしたので、それを謝罪しない限り、賠償契約には応じないと主張しているとのことでした。
加害者側が被害者側を批判したのを謝れと言うこと自体が無理な話ですが、
批判された弁護士は、あの坂本弁護士の同僚の方でした(ただ、アレフ
が批判とした話しの内容を聞くと、私には批判とは思えないものでしたが)。このことは、その弁護士の方が後にマスコミにも語っていらっしゃるそうですが、
私が、その話を知ったのは、1989年11月4日発生した坂本弁護士事件の
ちょうど20年後の2009年11月4日でした。
20年を経て、アレフが坂本弁護士の同僚と対立している......。さらに、坂本弁護士事件の翌年の1990年は、あの波野村騒動の年でした。
熊本県波野村に、オウムが、5月頃に大きな土地を購入し建物を建て信者が移住を開始し、地域住民の激しい反対運動が起こり、右翼、住民票の不受理、公共サービスの拒否、そして、国土法違反事件での教団への全国一斉強制捜査が起こりました。そして、20年後の今年2010は、また同じ5月頃、アレフが今までになく大きな施設を足立に購入したことが発覚し、地域住民が反対開始し、自治体が都市ガス提供を拒否するなどしており、今後、信者が足立に移住する際やそれ以降の摩擦が心配されています。
特に引越が予想される来年1年は摩擦の多い年になるのではないかと心配です。もちろん、多くの方も感じているように、アレフが、オウムのような外部に対するテロを行なうとは私も思いません。
彼らは、今社会との融和を拒否してはいるものの、
自分の没入している麻原信仰の世界を守りたいと思っていますから、
その信仰の場である教団を壊すような自滅行為に走ることはないと思います。また、オウムの90年代のテロは、麻原が自分を社会に弾圧され、社会と戦って
キリスト=王になると考えた被害妄想・誇大妄想に基づいたものでしたが、
今のアレフのリーダーは、麻原を信仰し、社会に対しては引きこもるもの、
社会と戦う妄想的ヴィジョンの持ち主ではなく、また、テロ事件の時代に、
テログループには属していない(選ばれていない)類の人達です。麻原が刑死した際に、後追い自殺など、どうなるのかという懸念が一部に
ありますが、死んでもキリストのように麻原を信仰する流れとなるのが大勢でしょうし、内部信者の精神的な健康の問題が生じても、外部社会への暴発につながる可能性は相当に低いと思います。
しかしながら、現状のアレフの問題として、
表向きは教団の防衛のために賠償をいくらか行いつつ、
内側では、一連の事件への麻原や教団の関与を認めずに、
陰謀説を流布しつつ、麻原の絶対性を強調して、
若者を中心に洗脳的な教化をなし、新しい信者を増やすという
問題があります。これは、人の生命には関係はなくても、真実を否定した妄想であり、
また、厳しく言えば違法な行為ですから、こういった歪みがある限りは、
テロ事件は起きないとは思いますが、いずれ何らかの(自己)崩壊を招く
のではないかと懸念しています。だとすれば、その時期は、オウムが一連の事件から麻原の精神状態が
崩壊していった、1995年から1997年の20年後、すなわち、これから
向こう10年くらいの内に、転機が来るのかもしれません。そして、来年は、
その予兆の年となるかもしれません。アレフ足立に引っ越しへ、変化の時近し (2010年10月20日)
(2010年10月20日の日記)
現在、ひかりの輪の本部がある東京世田谷区南烏山は、道路をはさんで、真向かいに、依然として麻原を信奉するアレフの施設があります。このため、一部の人から、私達、ひかりの輪が、アレフを脱会・独立したのは偽装であり、裏で繋がっているのではないかという見られ方をして悩んできました。
一般の人から見れば、道路をはさんで同じ所に施設があれば、そういった疑惑が沸くのも理解できるのですが、私達が他の場所に移らなかった理由は、本質的に、移れなかったのであって、意図して移らなかったのではありません。まず、現在の社会状況では、新しい物件を賃貸しようにも、貸してくれる人がなかなかいません。本部となると規模も条件も特殊ですから、物件自体が山ほどある訳でもありません。次に、規模からして、移転には、敷金礼金と改装費などで一千万ほどの初期投資がかかり、それは被害者賠償を大きく損ないます(毎年の義務となっている賠償額を大きく上まる)。さらに、行った先の方が地域住民の方との問題が和らぐと思われる場所は見つからず、新たな住民問題が起こる点でも、状況が悪化します。
これが実情ですから、(警備・防犯を担当する)警察関係者からさえ、本部の引越は望ましくないという意見を聞いてきました。ところが、同じ公安当局でも、公安調査庁には、具体的な証拠もないのに、一緒の所にいるから、双方が裏で繋がっているという主張をされ、引っ越しても引っ越さなくてもうまくかないジレンマの状況でした(それぞれの当局担当者の仕事としては自然なことでしょうが)。しかし、最近になって、アレフが、来年頭までにも、足立区の大規模施設に引っ越しするという情報が、各方面から入って来るようになってきました。幹部は、信者には引越を指示しつつ、外部には漏らさない口止めしているため、教団が正式に発表したのではありませんが、各方面からの情報なので、確かだと思います。
もちろん、先ほど述べたように、ひかりの輪ではなく、アレフには、大規模施設を賃貸する人がいたわけでありません。公安調査庁によると、アレフが関連会社を名義人として多額の費用(一億ほど)をかけて買った物件とされています。
この結果、私達、ひかりの輪にとっては、同じ場所に同居しているという、長年のジレンマからようやく解放されることになりますが、残念ながら、手放しでは喜べない様々な問題を巻き起こしています。まず、被害者遺族の方にとっては、多額の費用をかけて物件を取得できるなら、なぜ賠償の方に回さないのか、という話しになります。
そもそも、アレフは、ひかりの輪と違って、被害者遺族の団体であるオウム真理教被害者支援機構と、賠償契約を締結することを拒否しています(ひかりの輪は昨年に契約を締結)。アレフは、契約を締結せず、任意に一定額のお金を振り込んでいますが、それには納得できない支援機構とは対立関係が続いてきました。その問題の最中に、多額の費用を掛けて大規模物件を取得したのですから、火に油を注ぐような状況となることが心配されます。なぜ、契約を締結しないことが問題かというと、今現在ある契約は、アレフが私が脱会する前に結んだ2000年、2005年の契約であって、それは、同支援機構が出来る前に賠償業務を担当していた、オウム真理教の破産管財人と結んだ契約であるところ、昨年に破産管財人が賠償業務を同支援機構に引き継いだ後は、同支援機構と今後の賠償支払いの契約を結ぶ必要があるからです。
しかも、2000年、2005年の契約は、全額の賠償を義務づけているものの、支払時期については、最初の10億円弱を定めているだけですから、残りの賠償を時期をもって義務づけていないのです。よって、被害者の方から見ると、全額の賠償を避けるために、新たな契約(実質上の契約の更新)を避けようとしているのではないかと疑われています。もう一つ問題があって、それは、被害者賠償を進める弁護士の方々が、オウムに対する一般債権者に対して、事件の被害者・遺族の賠償・救済を優先させるために、その債権を放棄するように依頼・説得してきたにもかかわらず、その債権放棄が、法律上、被害者側とアレフが、正式な賠償契約を結ばない限りは無効となるという事実があります。
ここで、一般債権者とは、オウムとの商取引で未払い金のある業者や、オウムの一連の重大事件ではない民事問題での賠償金の未払いのある人達のことです。彼らが債権放棄しても、賠償契約が正式に締結されていないと、被害者賠償に使われる法的な保証がありません。そして、今までになく大規模なアレフの施設ができる足立の地域住民の方にとっては、寝耳に水の大きな問題となることは間違いありません。既に、区長を初めとする自治体、地域住民、さらには右翼の反対活動が始まっているとも聞きます。
さて、この問題について、余り一般の方が気づかない点をお伝えしておきたいと思います。まず、そもそも、私とひかりの輪を魔境と考えて否定しているアレフは、私がいる南烏山の物件は、宗教的に望ましくない場所(魔境の場所)と考え、私が脱会する前でさえ、他の場所に物件を探して、南烏山から出て行こうとする動きがあったことです。
これについて、もう少し具体的な経緯を説明しますと、私が、最終的にアレフを脱会して、ひかりの輪を立ち上げる流れに入った起点となったのは、2002年前後から自分に麻原の時代のものとは違った、新しい宗教観・宗教体験が芽生えたからです(ただし、本格的な麻原脱却は、2006~7年にかけて脱会した時であり、2002~3年前後はまだ相当に依存が残った状態でしたが)。
そして、その体験の一部は南烏山で得たものであり、かつ、その体験上は、南烏山は望ましい場所だと解釈されました(かといって、南烏山が唯一絶対の場所で、他に適所があっても引っ越すべきではないとなるような類の体験や話しではありませんので誤解されませんように)。
そのため、南烏山は、アレフの人達にとっては、南烏山は、麻原の教えとは違った考えを私が持ち始め、その活動の足場となった、聖地とは逆の、魔境の場所ということになったのです。そして、実際に、ここ数年、彼らから見て、麻原・教団に帰依の乏しい、問題のある信者を、南烏山に回してくるという人事配置を取ったと思われる事例が多々ありました。その一方、アレフにとっては、今回大規模施設を取得した足立区は、麻原が死刑囚として住む東京拘置所(小菅)に近いという意味で、宗教的に望ましい場所だということができます。実際、アレフの多くの施設は、拘置所に近い足立区や埼玉県に集中しています。
それから大きく外れているのは、南烏山の施設と、在家会員に対応する杉並の施設だけです。こうして、今回アレフが南烏山から足立に引っ越していくのは、ひかりの輪とアレフの宗教的な違いに基づく一面があるのです。
もちろん、宗教的な違いだけが原因なのではなく、自前の物件を取得して、現在の各地の賃貸物件の賃貸費用を節約するなどといった、経済的な理由が大きいのではとも言われおり、私もそれは確かだろうと思います。さて、私の個人的な見解ですが、この引越は、足立の地域住民の方にとっては言うまでもありませんが、最終的には、アレフ信者にとっても、不利益になるのではないかと思います。まず、地域住民の不安を背景に、自治体が既に都市ガス供給に必要な工事を認めないなどの措置を取っていたり、右翼が反対活動をする気配があると聞きます。そうすると、なかなか快適な居住が出来る施設にはならないのではないでしょうか。
また、5月前後の報道によれば、公安調査庁は、アレフが、団体規制法に反して、その施設を公安調査庁に報告していないとして批判している問題があります。公安調査庁は、その施設の所有名義人である会社は、教団の関連会社であって、教団と一体と見たのだと思われます。
事実がこの通りならば違法ですが、ではなぜ報告しないかというというと、教団の資産であると認めてしまうと、賠償金支払いのために、差し押さえられることを懸念しているのではという見方があります。関連会社を所有名義人としたのも、差し押さえを避けるための資産隠し・偽装という見方です。
しかし、違法に報告しないままならば、公安調査庁は、団体規制法に基づき、その施設を団体活動のためには使用できなくする再発防止処分が課せられる恐れがあります。この点について、アレフに昨年までいた元幹部に意見を聞くと、アレフは、当然、それを教団の所有物ではなく、会社の所有物であって、言い換えると、複数の信者個人が出資した結果の資産であると主張するだろうとのことです。ただし、多数の信者のお金を集めた会社で買えば、実質的に教団の資産であり、さもなければ、いくらでも資産隠しが出来るというのが、公安調査庁の見解でしょうが。
また、その元幹部によれば、仮に教団の資産と認定されたとしても、アレフは差し押さえされるとは思っていないだろうと言います。アレフとしては、契約を結ばない形であっても、一定の賠償をしておれば、被害者側の弁護士が、差し押さえできないと考えている、ということです(差し押さえをして、被害者側弁護士が、教団と全面対決をすれば、教団は任意の賠償は一切しなくなるから)。
とはいえ、足立施設が1億円相当の価値があって、一方、アレフの任意の賠償額が最近は額としては減り続けています。また、人は単にお金だけで動くものではなく、これまでの被害者側弁護士の方の感情に加えて、施設をなくして欲しいという足立の地域住民の方の感情を考えると、その思惑通りに行くのでしょうか。
また、再発防止処分については、この処分は、施設が全く使えなくなるのではなく、集会などの団体活動のためには使えなくても、個々人が居住するためには使用できます(できると解釈することができます)。そのため、最悪は住めれば、問題ないと考えているのかもしれません。ただし、出家修行者の大規模な集団居住自体が、団体独自の活動=団体活動と見なされる可能性もあるかもしれません。最後に、アレフ信者が麻原のいる拘置所近くである足立に集結する状況は、当然、徐々に予想され始めている麻原の死刑の執行時期に微妙な影響を及ぼす可能性もあります。昨年、民主党の千葉元法相が死刑の執行を停止した際にも、アレフの教団施設を抱える地域住民の視点から、麻原の死刑執行を止めないように要請する動きがありました。だとすれば、麻原のいる足立にばかりアレフの施設が集中し、その地域住民との問題が悪化すれば、こういった動きがより強くなる可能性があると思います。
誤解されないようにお話しておきますが、私は、麻原の死刑執行は、現行法制下、当然のことであると考えています。また、ひかりの輪は、麻原信仰を脱却しているので、何の問題もありませんし、ひかりの輪が進めている、元・現アレフ信者の麻原信仰の脱却支援の活動は、よりスムーズになると思います。また、オウム問題が一定の転機を迎えるとしたら、その事件の首謀者である麻原の刑死であろうと思います。
その意味で、ひかりの輪にとっては、麻原刑死への世論圧力が高まることに不都合は何もありませんが、一方、アレフの人達が、住民や被害者遺族の利益を考えずに、自分達の利益だけを考えて、足立に引っ越すとしたならば、それが逆の目に出るのではないかと思うのです。
そして、より本質的なことを言えば、いつもお話している仏教的な教えから考えると、人々の利益というのは、互いに分かち合うか、互いに失うかというのが本質だと思います。自分と他人の幸福と不幸は食い違うようで、仏の智慧から見ると実際には一体であって、住民・被害者遺族には不利益だが、アレフにとっては利益があるということは、やはりないだろうと思います。
長野・小諸で一休み、週末は説法会 (2010年10月15日)
(2010年10月13日の日記)
昨日から長野・小諸に来ています。
ここには、ひかりの輪の道場があり(長野・小諸道場)、
この週末に長野で説法会があります。こういった週には、説法会より数日前に この道場に来て、
団体の業務と共に、きれいな空気の中で、近くの神社仏閣を参拝したり、
温泉に入ったりして、運動と修行をするのが恒例です。ただ、今回は、同行者がいつもより多くして、
上高地巡礼→説法会→日光聖地巡礼と続いた、
ハードスケジュールの後で、団体全体としても、
エネルギーの再充電を図っています。
昨日は色々相談事が舞い込んで一睡も出来ず、
おまけにネットも繋がらなくなって、忍耐の日となりましたが、
今日になって、ようやく温泉に入れ、近くの観音菩薩のお寺(真楽寺)、
水の神を祭る水分神社(元諏訪神社)を参拝でき、
ネットも回復し、調子が上がってきました。特に観音菩薩のお寺の気(エネルギー)が非常に良かったです。
全体が森林の中にあり、手前に秘水ともされる池があり、
奥の上ったところにある本堂は、下から上ってくる空気の流れ
のためか、非常に心地よい気があって、数十分滞在すると、
大分、エネルギーを充電できました。そんな中で、日光聖地巡礼の際に、雨の中で撮った写真を見せてもらうと、
沢山の不思議な白い丸い光が映っていました。いわゆるオーブとか、
木の精霊・木霊(こだま)などとも言われている不思議現象ですが、
やっぱり、雨に潤った木々が喜んでいたのかなと感じました。
さて、週末は、16日が長野、17日が仙台での私の説法会となります。
お知らせは、まもなくひかりの輪の公式HPに出ると思いますが、
会員の方に限らず、一般の方も参加されますので、
ご関心がある方は、下記にある長野・仙台の支部道場まで
ご連絡ください。http://www.joyus.jp/announcement/02/0239.html
※オーブ実在性に関する議論と私個人の見通しオーブ写真については、それを科学的に説明しようとする見解がある
ことはご存じの方もいらっしゃると思います(雨の水滴・埃・その他など)
ただ、それだけではとうてい説明できない実例がある、という反論もあります。
分かりやすく言うと、こういったものは、UFOの議論と同じで、
科学的な見解と神秘的な見解は、両立したままになっていくかなと思います。
そして、信じたい人が信じ(科学的は説明でき名事例を探し)、
信じたくない人は信じない(で科学的な説明を試みる)、
ということになるのかなと。
だから、オーブ写真を真剣に信じたり、真剣に否定するよりも、、
ほどよく楽しんでいたただくのはどうかと思います。
追体験、日光の始祖・勝道上人の慈悲の悟り (2010年10月12日)
(2010年10月11日の日記)
日光巡礼が終わった翌日の今日、改めて、今回の巡礼について考えてみたのですが、もしかすると、私達一行は、日光を開山した勝道上人とシンクロした体験をしたのではないかと感じました。日光の開山の伝説とは、勝道上人が、日光の中心的な信仰対象である聖山である、男体山(標高2500弱)に登ろうとして、なかなか登れずに17年が経つ中で、
大黒天の祝福を受けてついに登頂に成功し、その後、その地を観音菩薩の聖地
であると感得したことによる、とされています(千手が浜に千手観音を見た)。そして、その後、男体山は、神道の大国主命と仏教の千手観音菩薩を一体とみて、それをを象徴するものとして信仰されるようになりました(神仏習合の考え方)。
なお、この大国主命は、神仏習合では、開山を助けた仏教の大黒天と同一です。
(大国主命も大黒天は、音読みするとダイコクになるなどから同一されるようになりました)また、日光の大国主命は、厳密には、
大国主命の化身の1つであるオオナムチノ命です。
この神は海蛇であり、大国主命は、龍蛇の神の性質を持ちます。
ここで、龍蛇の神と言って、龍と蛇を一体視しましたが、龍という神は、蛇を神格化したもので、元はインドから伝わった信仰です(インドではナーガと言います)。
龍(ナーガ)は天候を司る神で、具体的には、雨を降らせるので、水の神でもあります。そして、先ほどは述べませんでしたが、日光開山の伝説の一場面には、
龍や蛇が、勝道上人を助ける場面が出てきます。
具体的には、勝道上人が川を渡とうとしても、渡れなかった時に、
龍が現れて助けたとされています。
こうして龍や蛇が出てくるのも、大国主命・オオナムチノ命が龍蛇の神であることと連動しているとも解釈できます。オオナムチノ命、自分自身が蛇の神ですが、同時に、自分の御使いとして、蛇を使います。さて、ここで、神話を分析する学者の方が良くやるように、
これらの伝説・神話を合理的に分析して、
いったいどのような実際の事実・体験から、
このような伝説が生まれたかを推察してみましょう。まず、17年もの間、男体山に登ろうとして登れなかったことについて、
登れなかった理由を合理的に解釈すると、
現在のような山道が無かったということもあるでしょうが、
それ以外としては、現代の登山が正にそうであるあるように、
天候条件が整わなかったこと、すなわち、風雨、風雪などが、
重要な理由の一つだったと考えることができると思います。
特に日光の冬は厳しい。
この解釈は、この登山の障害が、大黒天の守護で取り除かれたという話と
よく整合性が取れます。先ほど述べたように、大黒天=大国主命=
オオナムチノ命=龍蛇の神=天候を司る神です。
すなわち、天候条件が整って登山に成功したことを、
大黒天の守護があったと解釈したのではないかということです。また、勝堂上人が、川を渡れなかった時に、龍が現れて助けたという伝説も、
同じような合理的な解釈が可能です。
つまり、雨などによって水かさが増し、川が渡りにくかったのが、
それが治まって、渡りやすくなったという事実を、
雨・水・天候の神である龍によって助けられた、
と解釈したのではないかということです。このように合理的に神話を生んだ事実を推察してみると、
私達の日光の聖地巡礼での瞑想や体験(詳細は二つ前の日記に)
は、勝道上人の開山の伝説や、その後の日光の神仏習合の信仰と、
非常にシンクロしたもののように感じます。まず、私達が行った瞑想、すなわち、雨で巡礼がしにくい状況で、
雨を観音様の慈雨と考えて、雨に潤う聖地と一体となって喜び、
観音菩薩の心に近づくという瞑想についてです。
この瞑想は、仮に雨を降らせると神がいるとすれば、
その神を観音菩薩と(一体と)見ていることになりますから、
勝堂上人以降の日光の神仏習合の信仰において、
大国主命と観音菩薩を一体と見て信仰するようになったことと、
非常に良くシンクロしていると思います。
そして、その瞑想を始めると、天気予報に反して、雨が止んで晴れ上がり、
勝堂上人が観音菩薩を感得した千手が浜に無事に行くことが出来たことは、
上人が、大黒天(=大国主命)の守護を受けて登山に成功し、その後、
観音菩薩を感得したたことと、よくシンクロしているように思います。その千手が浜では、非常に気持ちの良いお天気雨がぱらぱらと降って、
明るい日差しの中の温かい雨に、正に観音菩薩の慈悲の涙を感じた、
という参加者の方もいました。そして、良く思い出して見ると、私達が体験したシンクロ現象は、
これだけではないように思います。その瞑想と講話を初めて、雨が
上がって晴れるまでの数時間の過程自体が良くシンクロしています。
まず、私達は、雨が止む過程で、中宮祠をお参りしました。
実は、ここには、男体山の登山口があって、大国主命が祀ってあり、
私達は、人生の成功を妨げる内外の障害からの守護を祈願しました。その次に、私達は、勝堂上人が彫ったという千手観音菩薩の仏像と、
上人を助けた大黒天を祀っている中善寺を参拝しました。
そして、そこからは男体山がよく見えるのですが、その時は、
山を横切るような長い雲が、とても美しくかかっていて印象的でした。そして、実は、このような細長い雲は、形が龍と似ているので、
龍雲とも言われることがあります。実際、雲が雨を降らすので、
雨を降らす神と龍を一体視するのは自然ですね。
実際に、参加者の中で、雲が龍に見えた人もいたそうです。その後、華厳の滝に行きました。そこでは、いよいよ日差しが強くなって、
滝の前に虹がかかりました。この虹は、天かける龍という信仰があり、
虹という文字も、虹が蛇(龍)と関係があるために、
おなじ虫へんとなったという説もあります。
この虹に、とても感動した参加者の方がいましたね。こうして、私達の体験が、勝堂上人の開山伝説に出てくる要素と
非常にシンクロしたものだとすると、その理由は何か。勝堂上人と私達は、同じ日光に行った、同じ仏教を奉じる者として、
日光の聖地が持つ、慈悲の教え(観音菩薩の教え)を、
時代・時空を超えて、共有したのだろうか。
いや、それはおこがましい考え方であって、苦節17年を経て、
日光の開山に至った勝堂上人の観音菩薩の慈悲の悟りが、
未だに、その聖地に波動として残留しており、
私達は、その恩恵に授かったのではないか。すなわち、降っている雨を、観音菩薩の慈悲の涙と考え、
自然と一体となって喜び、観音菩薩の心に近づこうと考えたことや、
その後に、急速に天候が改善していったという体験は、
もしかすると、勝堂上人が得た、大黒天の守護と観音菩薩の悟りと
繋がったものではないのか。その恩恵を受けたのではないのか。勝堂上人は、17年の苦闘の修行の中で、
雨を嫌がるような人間の利己的な心の働き・視点を乗り越えて、
多くの生命を無差別平等に育んでいる
水や雨、陽の光、大地といった大自然の中に、
人間が忘れがちな慈悲深き本質を見いだしたのではないか。その結果、上人自身の慈悲の心が深まり、
その心の現れとして、慈悲の心から生まれたとされる観音菩薩を見た、
すなわち、観音菩薩の慈悲を悟ったのではないか。こうして、日本の土着の自然信仰や神道信仰と、
外来宗教である仏教の仏の慈悲の信仰が、
一体となって結実したのではないか。このような思考が浮かんできました。
いずれにせよ、何か時代を超えたシンクロニシティを感じます。
最初は自分で気づいた瞑想だと思っていましたが、本当はそうではなくて、
聖地日光から、勝堂上人から、与えてもらったものだったのだろうと、
今は思います。こういった体験や気づきは、正に聖地修行の醍醐味です。
ここに何か重要な真実があると感じます。最後に改めて、日光の聖地と、仏道修行の偉大な先達に、
心からの感謝と敬意を表したいと思います。
入会せずに学べます (2010年10月11日)
(2010年10月11日の日記)
最近、良く、入会せずにひかりの輪を学べるのですか?と良く聞かれます。
答えは、もちろんイエスです。お寺や神社には、お坊さんや神職さん、そして、職員、檀家など、
そのお寺に帰属している人と、参拝者、参拝客がいるの全く同じです。
ひかりの輪は、新興宗教だから、入会しなければ学べないということは全くありません。既に、ひかりの輪には、1専従スタッフ(専従会員)、2在家会員、そして、
3一般の方で活動に参加している、という三つのパターンがあります。そして、今回の聖地巡礼は、特に多くの一般の方が参加されました。
指導の立場の専従スタッフを除くと、三分の一近くの方がそうだった
と思います。一般の方の動機は、何をやっているか非常に関心があるので見てみたい、
というものから、一般の立場でお寺に参拝したり、お坊さんの話を聞くように、
帰属せずに学んでみたい、といったもの、そして、会員になるつもりはないが、
いわゆるシンパ(ファン)である、というものまで様々です。これもまたお寺・神社の参拝者がどのような動機で参拝するのか、
どれほどの信心を持っているのかいないのかが問われないのと同じです
例外は、悪意で寺社の活動や他人の参拝を害するなどの場合ですね。新興宗教だと、入会・帰属しないと学べないと思いこんでいる人もいるようですが、そんな法律はないし、また、ひかりの輪は、そういった仕組みにはしていません。
ひかりの輪は、21世紀のための新しい宗教・思想の創造を志し、
一般社会に開かれた宗教の学びの場を作るというヴィジョンがありますが、
その一環として、ネットで学べたり、入会せずに学べる仕組みを整えています。今後もそうった視点で、各地の道場での説法会、一般の会議室でのオフ会、
そして、一般公開型の聖地修行を行っていく予定ですので、ご関心のある方は、お気軽に参加下さい。
日光聖地巡礼:山の神の祝福 (2010年10月11日)
(2010年10月10日の日記)
日光の聖地巡礼が終わり、東京に戻ってきました。今回の巡礼で一番印象深かったのは天候=大自然との交流でした。天気予報では二日とも雨。その前も後も晴れなのに。一日目は東照宮などの神社参拝を多くしたので何となったが、二日目は自然の中が中心のプログラム。そこで1日目の夜に瞑想して考えてみました。
出てきた思いは次の通り。
「日光は慈悲の涙を流す観音菩薩の聖地。雨で渇きを癒す日光の自然には恵みの雨・慈雨。自分達だけの利益を考えず、日光の自然と共に雨を喜び、聖地と一体になろう。そうすれば、自然の方も私達に応えてくれる」
これを二日目の朝に参加者の方に呼びかけました。
すると、こうした自然に対する愛の瞑想の結果という証明はありませんが、その後、夕方まで雨だという天気予報に大きく反して、どんどん晴れてきました。
9時頃には、少し晴れ間が出て、見事な景色の男体山が見え、9時半頃に行った華厳の滝では強い日差しを受けて虹がかかり、10時に千手が浜に出発する前には、快晴に近くなって、強い日差しを心配する人まで出る状況に。千手が浜につく頃には天気も気温も絶好状態になり、その日光最高の自然の聖地の美しさを満喫して散策しました。途中で以前からの知り合いだった日光の環境保護の活動をしている地元の人と再会すると、
「(上祐さんのように)日光に思い入れのある人が来ると天気が好転する」、「人は自然には勝てないから、日光の人達も山の神を信じました」
などと、参加した皆さんにありがたい説法。環境保護活動家が、いきなり宗教家のようになったので驚きましたが、もしかしたら観音菩薩が乗り移ったのかも(笑)。
その後、砂浜で瞑想や気功を行ない、神仏への供養の儀式や感謝を捧げて、最後に戦場ヶ原に寄って帰路に着きました。基本的なことだが、人は大自然と繋がった、その一部であり、自然は自分の心の鏡・教師であって、自然・万物は神仏の現われであるとの宗教的な真理を体感した1日でした。
今回は、数十名の会員の皆さんと共に、多くの一般の人に参加いただきました。平野さん一行はもとより、地元栃木の女性の方、オフ会も説法会も一度も来たことがない全く初めての方を含めて、
多くの新しい顔ぶれが新鮮で、印象的でした。日光の自然と共に、参加された皆さんに深く御礼申し上げます。
なお、今回の聖地巡礼の一部の録画(現地の様子と解説・講話など)が、
ユーストリームにアップしてあります(天候の変化などはよく分かります)。
http://www.ustream.tv/channel/hikarinowa【改定】日光聖地巡礼・公開ネット中継のお知らせ (2010年10月08日)
日光聖地巡礼のユーストリームによる公開ネット中継のお知らせ
アクセス:http://www.ustream.tv/channel/hikarinowa御試聴される場合は、以下の点につき、あらかじめお伝え申し上げますので、
ご了承下さい1.各地点での中継時間は、現地の状況・ツァーの運行、天候といった
変動要因があるため、ずれ込む(遅れる)可能性が多分にあります
なお、生で御覧いただけなくても、録画を御覧いただけます。2.当日の電波状況によっては画像・音声に支障をきたす
恐れがあります。
主な中継予定地9日
二荒山神社
日光東照宮・陽明門前
日光東照宮・奥の院
輪王寺
講話(中禅寺湖畔の宿舎から)10日
中宮祠
華厳の滝
中禅寺
千手が浜主な中継時間
9日
1050ごろ:中継1(画像停止気味の可能性)
1300ごろ:中継2
1430ごろ:中継3(電波状況により可能なら)
1615ごろ:中継4
2000ごろ:講話(宿舎から中継)10日
0700~0900の間:(天候不順のため、正確な時刻がお伝えできない状況になっています)
中宮祠、中禅寺、華厳の滝より
中継5、中継6、中継7
1115ごろ:中継8(電波状況により可能なら)ひかりの輪「日光」公開聖地巡礼! (2010年10月05日)
(2010年10月05日の日記)
今週末、10月9日(土)、10月10日(日)に行われるひかりの輪の聖地巡礼は、一般の方にも広く開かれた公開型の聖地巡礼の初めての試みとなりそうです。
会員の方に限らず、これまでオフ会などに来られている一般の方も来られ、ある意味で聖地でのオフ会の様相も呈し始めていますが、さらには、私が参加した先日のトークショーを主催した
ロフトの代表である平野悠氏までも、聖地を撮影するカメラクルーと共に参加されることになり、既に、この件をツィッターに繰り返し言及されており、ムードが高まってきています。ひかりの輪の方も、平野さんに負けじと、当日の聖地の様子をユーストリームで公開生中継する予定です。中継時間などの詳細は後日ご連絡いたいします。
このような次第ですので、一般の皆さんにも、広くご参加を呼びかけたいと思います。
私達は東京から車で出発しますが、日光の現地で合流することも可能です。東京からの同行、現地合流の双方について、ご希望の方がいらっしゃいましたら、下記までご連絡ください。
ひかりの輪東京本部、担当:細川
携帯電話:080-3424-7054
メールアドレス:tokyo@hikarinowa.net
支部窓口電話:03-5315-28059日・10日両日の参加も、どちらか1日だけの参加も可能です。
現地合流の際の集合日時・場所・費用その他は、細川の方からご連絡します。
なお、9日・10日の主な予定(変更の可能性あり)は以下のお通りです。
9日:日光山(日光市内)のシンボル的な神社仏閣を巡礼
東照宮:
陽明門と奥の院(家康の墓)、言わずとしれた日光のシンボル
輪王寺:
阿弥陀・観音三尊像を祀る、日光の仏教信仰の中核
二荒山神社:
日光の原初的・神道的な信仰の中核
瀧尾神社:
日光の発祥地、元日光、神聖な自然の中の聖地 ここで瞑想の予定※9日夜は宿泊先ホテルで、私のお話と座談会などを予定
10日:奥日光の美しい自然の聖地を巡礼
中禅寺湖と中禅寺:
美しい山と湖と、神秘の伝説をもつ観音菩薩像の寺院
華厳の滝:
虹のかかることで著名な滝の聖地
千手が浜:
千手観音が現れた伝説で有名な日光最高の聖地、
非常に美しい湖畔と森の聖地、ここでヨーガと瞑想の予定※平野悠氏のツィート
光の輪(上祐代表)からロフト撮影スタッフの参加の許可が下りた。気功とかヨガとかは大自然の森の中とか海の浜でやると、もの凄く充実するんだ。君は身体の中心を風が通り抜けて行った経験がある?何十年も経験がなかったが。私は何回も経験した。UFOに会えるかも知れないな。
先日私は上裕さんのイベントをネイキッドでやってから(まだUSTのアーカイブに残っています)私は上裕さんの存在感に圧倒されてしまった。彼は苦しいことを色々経験してここまで来た。だからそれを確認するためにも参加しようと思った。絶対ここにも報告しますから期待してください。
今回は日光なんだそうだ。わたしゃ、メールで上裕さんに聞いたね。「私は光の輪の会員でもない。この体験記を私の持っている色々な(数は少ないけど)媒体に書いても良いですか?もし良いなら参加します」と。そうしたら「どうぞお好きに」というメールが帰って来た。
光の輪(上祐代表)から「聖地巡礼に参加されませんか?」というメールが来た。今は完全縁を切ったオウムはそもそもヨガ道場から出発した。私は一応ジムのエクササイズのヨガ(太陽礼拝から~)を10年以上もやっているし UFOと遭遇したことも気功(西野流)も若干かじったし、参加することに決めた。
福岡が終わり、いよいよ日光へ (2010年10月05日)
福岡の説法会と密教的儀式の集いが終わってホテルで一休みしたら、
今、朝の4時過ぎ。もうすぐ東京に戻ります。今週末は、いよいよ、日光に聖地巡礼。会員の方・一般の方を含め、
様々な方が参加する、にぎやかな巡礼となりそうです。
初の試みとして、現地野外からのライブネット中継も、
出来ないかと検討中です。上高地が純粋な自然の聖地ならば、日光は正に完全型の聖地。
それは、聖地としてのあらゆる要素が揃っているからです。まず、神社仏閣。日本随一のきらびやかさの東照宮や二荒山神社から、
阿弥陀如来を祀る輪王寺などの寺院。これは上高地にはない。次に、自然は、東照宮から車まで数十分離れた奥日光。
男体山などの山々、有名な中禅寺湖や華厳の滝、
上高地のように保護された、美しい森林と湖畔の千手が浜など。
さらに、近くには、鬼怒川など温泉地帯も。ひかりの輪との縁も格別で、日光東照宮の家康の墓(奥の院)は、
その正に全く真南に、ひかりの輪の本部道場があります。
正確に真南のところには私の部屋がありますが、何故これに意味があるか
というと、家康は遺言として、自分が死んだら、神となって、北(日光)から、
南(江戸)を守護するとしたことがあったからです。これもあって、
私は、家康(=東照大権現・薬師如来の化身)が好きのところがあります。それだけでなく、そもそもが、日光の光とか、輪王寺の輪とか、
名前からして、ひかりの輪と縁がある。
他にも縁がある理由をあげればきりがないのですが、
ここら辺で遠慮して、聖地巡礼を待ちたいと思います。千葉説法会から福岡勉強会へ (2010年10月03日)
(2010年10月03日の日記)
10月2日は、千葉説法会。今終わりました。一般の方も3名ほど来られて、最近入会した人達と合わせて、
新しい顔ぶれの多い集いとなりました。講話の内容は、最初に、今週末に巡礼する日光を紹介し、
次に、21世紀の新しい宗教のあり方に言及して、
最後は、日光でも祭られている観音菩薩の智恵と慈悲の話しや、
家康に象徴される忍耐・継続的な努力の重要性でした。
説法後は、一般の方、そして会員の方と面談をしました。さて、昨日あたりから、アメブロの掲示を本格化させました。
プロフィールを書き、ミクシィの日記を多少手直しして、
ブログに掲示したりして、まずアメブロになれるための1日でした。
今後、ここには、ミクシィの日記の転載に限らず、
宗教的な思想や教義の紹介のメッセージや、
ツィッターの短い法則や質疑応答を編集したものを
分かりやすく掲示したいと思います。
アクセスは、http://ameblo.jp/joyufumihiro/明日は福岡に行き、3日に勉強会、4日に密教的な儀礼
を行うために、早起きとなります。福岡勉強会、都心の会議室
で行い、一般の方、ミクシィの方も歓迎しております。
ご連絡先は、http://www.joyus.jp/hikarinowa/news/news/1015.html季節の変わり目、体調を崩しがちな人も多いようです。
皆さんご自愛下さい。幸福の手段(方便)としての信仰5 (2010年10月01日)
(2010年10月01日の日記)
幸福の手段(方便)としての信仰5
盲信の原因である虚栄心と依存心を超える
これまで、信仰実践において、自分が信じていることと、知っていること(=誰もが認める客観的なな事実)をしっかりと区別して、単に信じていることについては、絶対真理とはせずに、自他の幸福のためになるように、それを手段として使うことについて書いてきました。しかし、これに対して、そのように考えると、自分の都合の良いように、信仰を解釈してしまい、自分のエゴを弱めることが出来ないのではないか、という反論を頂いたことがあります。逆に言えば、自分が信じる宗教(の教義)を絶対真理として、それに出来るだけ従うことで、自分の欲望を縛る、自分のエゴを抑制する効果があるのではないか、というものです。
しかし、私の考えでは、そういった一面は確かにありますが、それとは正反対に、自分の信仰を絶対視する結果として、信者自身が気づかないうちに、大きなエゴが生じていく問題があることに気づかなければならないと思います。
これについてのお話しを進めると、だいぶ長くなってしまいますが、このテーマにご関心があれば、今回は、長いのを多少辛抱して読んでいただけばと思います。
まず、万人が認めるものではない教義を自分達だけが絶対真理と信じる場合、自分達が、信じていない人よりも優れているために、他の人が信じることができないものを、自分達は信じることができるのだ、という心理が働くことが非常に多いと思います。これは、慢心・虚栄心のエゴということができます。
そもそも、客観的に見れば、人間は誰しも不完全であり、不完全な人間である信者が、ある宗教やその開祖を完全であると判断する能力があるとは言えないでしょう。にもかかわらず、それらを完全と考えること自体が、既に慢心・虚栄心が生じている恐れがある訳です。しかし、自分の信仰を絶対視するようになった信者は、この単純な事実に気づきません。
何かを絶対真理と信じる際は、それが実際には絶対真理ではないことを自覚しつつ、絶対真理であると思い込むのは不可能です。真実として絶対真理であると考えなければ、そうは信じられません。よって、信じる際には、信じていない人達が理解できない絶対真理を自分は見つけた、理解できたという思考パターンになることが非常に多いと思います。
しかし、客観的には、万人が信じない理由は、信じる人達が信じない人達より優れているからではなく、誰もが認める客観的な根拠に基づいていないからでしょう。世界最大の宗教のキリスト教が人類全体を信者に出来なかったのも、その信仰の中核にあるイエスの復活が、誰もが認める客観的・科学的な事実とは言えないからでしょう。
よって、信じている自分達は、信じていない人達より優れているという思考は、虚栄心・慢心だと思いますが、それによって、次に、信じていない人への見下し・軽蔑が生じます。さらに、信じていない人が、信じている自分達の盲信を批判したり、別の宗教を絶対真理だと信じている人達がいると、彼らを(自分達の信じる)神・開祖と矛盾・敵対する存在、いわゆる、悪魔・魔神と見なす思考にも繋がります。
ここで、更に良く考えると、「自分達が信じているものは絶対真理」と考えることは、究極的には、「自分達が絶対真理である」という心理が働き始める恐れがあります。こうして、信者は、その宗教の神や開祖を絶対と信じる中で、気づかないうちに、自分自身を絶対化していく恐れがあるのです。
私の過去の経験からしても、自分が重要な存在になりたいとか、他より優れた存在になりたいという欲求が、こうしたタイプの信仰にはまり込んだ一因だと思います。そして、これはエリート・勝ち組と呼ばれる人にも、負け組と呼ばれる人にも、その双方に起こります。エリートは、さらに勝ち組になりたいという欲求があり、負け組は、挽回したいという欲求があるからです。
なお、現代の競争社会で自ずと培われるこういった欲求(自分が重要な存在、優れた存在になりたい)は、それ自体は、自己向上欲求ですから、悪くはないと思います。仮に、それが、現実の世界とマッチした形で満たされれば、自と他を利する可能性があると思います。
しかし、妄信的な宗教の場合は、自分達の宗教を絶対視するという非現実的な独善的な妄想的な形で満たそうとすることで、様々な問題が起こるのだと思います。よって、単に自分が優れた存在になりたいという欲求だけでなく、なにかしら妄想的な性格があると、妄信的な宗教にはまる可能性が高くなると思います。
例えば、宗教には、瞑想体験、神秘体験、超能力、霊性といった要素があります。こういったものの価値をバランス良く考えられずに、(自己の虚栄心を満たすためにも)過大視する傾向のある人は、一つ間違えば、宗教的な真理の世界ではなく、その妄想の世界に陥る恐れがあると思います。こういったタイプの人は、盲信の危険性があります。
しかし、現代社会では、この妄想的な世界は、宗教に限らず、非常に大きく広がっています。
漫画、アニメ、映画、そして、パソコンゲーム、匿名・仮装のやりとりのネットの世界、飲酒・薬物など。 競争主義・個人主義・金銭主義で精神的な潤いを失った人達が、現実の世界だけでは充足出来ないのだと思います。そして、その苦しみに対する、歪んだ形ではあるけれども、癒し一つの形態として、妄信的な宗教があるのではないでしょうか。その意味では、社会が妄信的な宗教を生み出す土壌となっており、妄信的な宗教を禁じれば、同じ問題が別の形を取って出てくる可能性がありますし、現実としてなくすことは不可能でしょう。
やはり、表面的な解決ではなく、根本的な解決が必要だと思います。その一つとして、私個人としては、妄信的な宗教から、ひかりの輪の団体を持って、盲信を超えた新しい宗教・思想のモデルを創造していく道を選択したことになりますが。
また、先ほどエリートも、妄信的な宗教にはまると言いましたが、宗教に限らず、例えば、バブルのマネーゲームにはまったエリートにも、同じような妄想的な傾向があったのではないかと思います。客観的には、誰が見ても、非常に危ないことをしているのに、自分(だけ)は勝つ、成功する、損しない、間違っていない、といった妄想的な慢心です。
堀氏、村上氏、木村氏、リーマンブラザーズを初めとする国内外の名だたる金融のエリート集団。そして、最近は、証拠を改善する検事など。宗教に限らず、競争社会の中での妄想的な慢心の問題を感じます(なお、80年だから90年代のオウム真理教の隆盛と没落は、ちょうど日本のバブルの形成と没落と同じ時期でした)。
そして、こうした虚栄心を背景として、いったん宗教に帰属すると、その宗教の世界の中での名誉・称賛に対する欲求も、作用してきます。すなわち、その世界では、より深く信じること、すなわち、客観的に見れば、盲信を深めることが、より良い人・良い信者であると評価されるからです。これによって、さらに盲信が深まります。これは私の経験でもあります。これらの問題を回避するためには、努めて自分の虚栄心を自覚して、自分の信仰・宗教を絶対視せずに、それを幸福のための手段として活かしていく姿勢が重要だと思います。そして、その具体的な実践については、前回までに多少なりとも述べました。
さて、自分の宗教を絶対真理として信じるもう一つの背景として、依存心があると思います。これも、私の経験なのですが、特に若い人の場合は、学校の勉強で、先生や教科書を絶対に正しい存在として従う訓練ばかりしています。また、親が今ひとつ権威を失って、親自身が迷って苦しんでいることが多い現代社会の若者の場合は、何かの自分の見本となる確たる権威を求める欲求があると思います。そこで、宗教に巡り会って、開祖がカリスマ的であれば、それを絶対として見習っていく、依存していく可能性があると思います。
この問題の根底には、人生経験が乏しいことによる無智があると思います。人は誰しも絶対ではなく、人から学ぶ場合は、絶対視せずに学ぶべきであるという智恵がない。これは、前に書いた、超能力や神秘体験に対するウブ・無智と同じことであり、先生という存在に対するウブ・無智と表現できるかもしれません。ただ、これは、本来的には依存心が強くなくても、それまでの人生経験の未熟から、依存する場合と言ってもいいでしょう。
一方、人によっては、より依存心が強い場合もあると思います。言い換えれば、自分に自信が無く、誰かを頼って幸福になりたいと考える傾向です。また、そこに一攫千金・大逆転を求める欲求も加わるかもしれません。そして、この傾向の根本には、自信がないというよりは、本質的な努力を嫌う傾向=楽して幸福になりたいという欲求があり、その結果として、自信がないという状態になると思います。
こういった欲求がある場合は、自分が巡り会った宗教が、絶対真理であり、それを信じさえすれば、自分は(他の人が得られないほどに)幸福になると考えることは、非常に魅力的なものとなりますから、それによって盲信に陥ると思います。
本来は、宗教に限らず、科学の世界でもそうであるように、人間という不完全なものは、何が正しくて何が正しくないかを完全に理解することは不可能であって、それを踏まえた上で、一歩一歩、向上・前進するように努めるのが、本当の意味での真理の探求であると思います。
それに対して、何かを絶対真理と信じると、何が正しいか正しくないかをもう葛藤する必要ななくなりますから、楽をしているのですが、信者は必ずしも、楽をしているとは感じません。その楽と引き替えに、その宗教に従う努力が課せられるからです。しかし、これは、学校で先生(=教祖)の言うとおりに勉強する生徒(信者)の努力であって、社会に出て自分の人生の道を暗中模索する努力との違いでしょうか。
そして、ここで妄信的な宗教が信者に説くことは、信者は無智であるから、それを自覚して、傲慢にならず、絶対である開祖やその教義を疑ってはならないということです。それは、いわゆる神への不信・疑念という悪業となると説くのです。
しかし、客観的に見れば、不完全な人間である信者が、開祖を含めた何者かを絶対視する、すなわち、絶対だと判断する能力があると考える方が傲慢であり、さらには、自分の信じた開祖を絶対と見ることで、ついには自分自身を絶対と見る思考パターンに陥るということがあります。
この傲慢には、妄信的な宗教とその信者は気づかないと思います。こうして、信者は開祖やその宗教に対しては謙虚に振る舞いつつ、自分では気づかない傲慢を形成します。それは、主に、先ほど述べたように、信じない人達を強く見下す傲慢となって現れます。
しかし、当然のことですが、人が何かの道で成長する上では、それが宗教の開祖であれ、学校の先生であれ、その道の先達から謙虚に十分に学ぶことは必要だし、望ましいと思います。誰からも学ばないというのは、明らかに傲慢ですし、その人の進歩を遅らせる結果になると思います。
人という文字が示すように、何かで成功することはおろか、生きていくことさえ一人では出来ない存在ですから、全く他に依存せず、他から学ばず、自分は生きていく、成功すると考えるのは、妄信的な宗教の信者とは、逆の形を取ってはいるものの、同じように、傲慢・無智なことだと思います。
特に、妄信的な宗教を含め、何かにはまった人が、それをやめた後に、それがトラウマになって、その後は、他から全く学ぶことができなくなる場合がありますが、これは、傲慢な性格で盲信した後に、同じ傲慢な性格で、全く学ばないという両極端に振れている恐れがあると思います。
よって、結論としては、正しい学びの姿勢とは、この双方の極端から離れたバランスの取れたものだと思います。具体的に言えば、相手を絶対視しないで、かつ謙虚に学ぶ。全てが正しいとは思わずに学ぶ、何か間違っているかもと思い、悪いところは受け流せるように、注意を持って学ぶ。
こうしたバランスを取った学び方は、難しいと感じられるかもしれません。しかし、難しいからこそ、真の価値があり、最初に苦労することで、後が楽になる。急がば回れということでしょうか。一方、絶対視して学ぶことは、最初は楽ですが、間違いを無防備に吸収し、後が大変になると思います。
こうしてみると、結局は、結論は、努力してこそ幸福になる、甘えていては幸福にならないという普遍的な真理ではないかと思います。仏教的に言えば、利他を初めとする善行を積む労苦があって幸福になり、エゴの甘い誘惑に負けて、悪行に堕していれば、不幸になるということだと思います。ローマは1日にして成らず。真の幸福を得たり、真理を探究するためには、一生こつこつと努力し続ける必要があると思います。
なお、その宗教やその開祖が不完全であって、間違っているかもしれないということは、必ずしも、その宗教や開祖自体の価値を否定しているのではありません。例えば、開祖にとって良い教えも、違う人間である開祖から学ぶ人には、最善ではないかもしれません。また昔は良かった教義も今の時代には合わないかもしれません。
日本の伝統文化の中に守・破・離というのがあり、それは、師の教えをしっかりと守り、その次に、師の教えを破り離れるという意味だそうです。これも、師から謙虚に学びつつも、最終的には、自分なりの最善の道を確立するという意味だと思います。
こうして、一つ一つの時代の一人一人に、それぞれの幸福の道や、悟りの道があるとすれば、そもそもが、人は、他から十分に学びつつも、自分や自分達の時代に最善なものを自分で見つける覚悟が必要だと思います。これが、古きを温めて新しきを知れという言葉だと思います。最後に繰り返しとなりますが、妄信的な宗教に陥る原因となる依存心や虚栄心をよく自覚して、それを乗り越えて、真の努力を一生続けていく覚悟をすることが、自分の真の幸福のための手段として、信仰・宗教といったものを活かす道だと思います。
幸福の手段(方便)としての信仰4 (2010年10月01日)
(2010年10月01日の日記)
幸福の手段としての信仰4
釈迦牟尼という特徴的な宗教家
日本で釈迦牟尼と呼ばれている人物(本名ゴータマ・シッダルーダ)は、自分の最も好きな宗教家の一人だと思います。昔からインドに行くことが多く、その中で、釈迦牟尼ゆかりの聖地巡礼を繰り返し行いました。ひかりの輪でも、祭壇の中央に掲げているのも釈迦牟尼であり、その生誕地であるネパールから、法具を購入しています。そして、最近、従来の集光を超えた、21世紀の新しい宗教のあり方を考え、その中で、幸福の手段としての信仰という理念を固める上でも、釈迦牟尼の生き方は非常に大きな助けとなっています。自分の持つ21世紀のための新しい宗教の在り方と、釈迦牟尼の教えや実践との共通点は、以下の通りです。
1自灯明・法灯明
釈迦牟尼は、信者に自分(=釈迦牟尼)を崇めずに、自己と法を拠り所にすることを強調した。いわゆる自灯明・法灯明とも言われる。これは、ひかりの輪の「人を神(=絶対)としない」という原則に一致する。2方便自在・対機説法・択法覚支
釈迦牟尼は、何かの唯一絶対の法則を説くのではなく、人によって、機会によって、説く教えを自在に変えた(対機説法)。弟子には、時々の条件に応じて、修習する法則を選択すべきとも説いた(択法覚支)。様々な法則を方便(=手段)として自在に操った(方便自在)。これは、宗教(の教義)を絶対真理として盲信するのではなく、幸福の手段と位置づける、ひかりの輪の思想に通じる。3無記と現世指向
釈迦牟尼は、他の宗教家が、あの世の存在の有無など、決着のつかない議論を持ちかけると、どちらとも決めない(無記)という姿勢を取った。そして、そういった抽象的な問題ではなく、実際の現実の苦しみを(法の実践で)取り除くことを強調した(現世指向)。これは、ひかりの輪が重視する、盲信の超越(合理性の重視)と通じる。これらの教えや実践から私が感じる釈迦牟尼のイメージは、その巨大なカリスマ性に反して、非常に冷静な、理知的な、合理的な思考・精神の持ち主というものです。
釈迦牟尼の言説を研究する学者の中には、釈迦牟尼は、彼が生まれる以前からインドに浸透していた輪廻転生の世界観を説いているものの、それを絶対真理とは考えておらず、方便として用いたのではないか、という見解もあるようです。釈迦牟尼の様々な前生を説く輪廻転生談(ジャータカ)も、学術的な研究では、釈迦牟尼の直説ではなく、後世の作だという見方が強いようです。
また、釈迦牟尼(そして仏教)は、宇宙の創造や、創造主・絶対神も説いていません。他の宗教のほとんどは、宇宙の創造神・絶対神といったものも説きます。しかし、良く考えれば、創造神・絶対神の存在とは、合理的には肯定も否定もしきれるものではありませんから、釈迦牟尼が、それをどちらとも決めない無記の事項の範疇と見なしたとすれば、それも彼の合理的な精神の一端かと思います。
それに替えて、釈迦牟尼は、この世の道理を現す「ダルマ(法)」を強調しました。よって、仏教は初めはダルマ信仰であって、ブッダ(仏陀)信仰ではなかったと言われています。学術的には、釈迦牟尼が神格化されたり、釈迦牟尼を超える絶対的な仏が説かれたのは、後世のことである(大乗仏教の経典においてである)と言われています。
このダルマとは、深く考えるならば、誰もが、この理性で確認できる道理だと思います。釈迦牟尼は縁起の法や無我の法を説きました。
この縁起の法とは、事物が条件によって(他に依存して)生起することで、万物が相互に依存し合って存在していることを言います。また、無我の法とは、永久不変の自分(ないしは他から独立した固定した実体を持つ自分というもの)は、存在しないという教えです。
これらの法則は、論理的な観察と分析によって確認できるものだと思います。そして、それに習って、ひかりの輪でも、自分とは他者から独立した存在ではなく、万物は一体であり、真の自分とは、無限の宇宙全体に広がっていると説いています。
幸福の手段(方便)としての信仰3 (2010年10月01日)
(2010年10月01日の日記)
幸福の手段(方便)としての信仰3
象徴としての崇拝対象
宗教には崇拝対象というものがあります。例えば神とか、仏、そして、経典、さらには、その宗教の開祖など。そして、今日のお話は、崇拝対象についても、手段(方便)としての信仰という考え方が当てはまるということです。
まず、何かの崇拝対象を信じるとか、帰依するという行為の本質を考えてみたいと思います。崇拝対象とは、普通、絶対性を持っています。しかし、落ち着いて考えれば、どんな人間も不完全ですから、自分の崇拝対象が絶対・完全だと知る能力はありません。
ところが、これまでもお話ししたように、従来の宗教の信者は、自分の崇拝対象を信じていくうちに、それが絶対であると(あたかも知っているように)思うようになります。
そして、自分の崇拝対象を否定する者が現れると、絶対・完全な存在を否定する者として、真実を知らない愚か者と軽蔑されるばかりか、場合によっては、他の何よりも悪いことをしている者だと思うようになります(そのように教えられることもあります)。分かりやすく言うと、神・仏を否定し抗う、悪魔・魔となるのです。
典型的な例が、その宗教で、その崇拝対象が唯一絶対のもので、他の(宗教の)神は邪神であるとされている場合です(これを唯一神教と言うのでしょうか)。また、現代社会でよく見られるのが、特定の人物を神と見る場合です。この場合、その人物を神と同等と信じる信者と、そう信じない外部社会の間で、対立が起こる場合があります。
それは、信者は、その人物を神の化身などと感じられるのに対して、外部社会には、神ではない人間としての色々な疑惑が感じられる場合でしょう。この場合、信者には、その外部社会の疑惑は、事実無根(の陰謀)であるとか、全く無視するように教えられます。そして、ご存じの通り、いわゆるカルト宗教とされるものに、このタイプのものがよくあります。
そもそも、不完全な人間である信者は、客観的な視点から見れば、他の人間=教祖を完全であると判断する能力はないと言わざるを得ないでしょう。そして、不完全な人間である信者が、(同様に不完全であろうと思われる)特定の人物を完全だと信じるのは矛盾であり、盲信に他ならず、精神的に不健全であるという見方は、私も合理的だと思います。
そして、フランス等では、日本のS学会さえも、その教祖の神格化などから、カルトと見られるとも聞いたことがあります(とはいっても、フランスの伝統宗教であるキリスト教も、イエスという人間を神の子として神格化いるわけですが)。
それはともかく、次に、宗教の信者がなぜ、客観的には絶対でない者を、絶対を信じるようになるかについて、自分の経験から説明し、その上で、それを乗り越える方法をお話ししたいと思います。まず、オウムにおいて、信者が、その開祖を神の化身だとか、絶対だと思うようになった主だった理由は、1(一般の人と比較すれば相対的に高い)教祖の霊能力(超能力)、2教祖の与えた修行で得た神秘体験、3教団をあげての神格化の宣伝、4グルと絶対とする密教の教義の誤用などだったと思います。
まず、超能力・霊能力については、世間一般に、それを過大視・特別視する傾向があるのではないかと思います。そういった能力を持っている人は、決して一人だけではなく、それを持っていたとしても、神の化身の証明ではないと思います。
例えば、普通の人でも、母が娘の心が手に取るように分かるとか、正夢だとか、第六感とか言われるように、人間の自然な能力として、多かれ少なかれ誰もが持っているものだと思います。実際、人間よりも、野生の動物の方が、遠くの自然現象を察知するなど、ある意味で超能力を持っていると言うこともできます(いわゆる「動物的な感」)。
そういった能力が、一般の人より相対的に顕著である人が、霊能者・超能力者と言われたり、宗教の開祖になったりしますが、私の知る限りでは、それはあくまで比較の問題であって、完全・絶対の超能力を持っている人は存在しないと思います。もし仮に存在すれば、そして、すべての人々の前で絶対的な超能力を今日も昨日も見せる人がいれば、その人は既に世界中の人々の教祖になっているでしょうから。
さらに、自分の経験では、霊能力・超能力が強くても、それが優れた人格や真実の悟りとは、必ずしも結びつかないと思います。オウムの開祖は、自分が神の化身である、という慢心に陥って、手段を選ばない布教を正当化し、例えば、隠して薬物を与えることで信者に神秘体験をさせ、それが自分の力によるものだと思わせるといった、言わば、演出をしました。こういった演出は、他の宗教でも、よく疑われる場合があります。
しかし、こうしたバランスの取れた宗教に関する知識がない人達(特に若者など)にとっては、自分が出会ったカリスマ的な人物が非常に特別な人に見えてしまい、これによって盲信が始まります。要するに、人は神秘的なものにウブなために、それに弱いという傾向があると思います。
これは、神秘体験についても同じです。私の経験上、神秘体験は、唯一絶対の人物である教祖の力がなければ、得られないものではありません。ヨーガの行法や薬物の力で体験する場合もあります。また、神秘体験が直ちに、高い人格や悟りに結びつくとは言えません(それを手段として活かすことはできますが)。
しかし、霊能力・超能力と同様に、神秘体験について、こうしたバランスの取れた知識がない人の場合は、神秘体験の価値を過大視したり、教祖の力で体験をしたと錯覚する可能性があります。
さらに重要なこととして、信者は、自分の崇拝対象について、意図的に、それが神聖なものであると信じる努力をすることがあります。それが、先輩からも、信仰(帰依)を深めることだと教えられます。
そして、そういった修習をすると、信者の心の中には、その崇拝対象を思えば、神聖なイメージが生じるという仕組みができあがります。ここで重要なことは、崇拝対象に神聖さを感じるようになった信者は、それが自分の努力で作り出された心の中の連想システムではなくて、崇拝対象が真に神聖であることの証と受け取ります(受け取るように教えられる)。
しかし、合理的・科学的に考えると、人が感じるものは、全て自分の心の中の現象であり、脳内の情報処理に他なりません。よって、何か神聖なものを感じている場合には、それは、その人自身の心・脳の中に存在していると考えられます。この考え方は、科学的な視点に限らず、仏教の唯識思想とも一致します。
よって、崇拝対象を意識すると神聖なものを感じるようになった信者は、外側の崇拝対象を自分の中にある神聖な意識を連想によって引き出すきっかけ(=象徴)とする訓練をしたのであって、その意味で、神聖なものの本質は、自分の内側にあるということができます。
よって、何かの崇拝対象をきっかけに、神聖な体験をしたとしても、その外側の崇拝対象が、唯一絶対であるという証明にはなりません。神聖なものを感じる全ての人々について、その神聖なものの本質は、自分の中に存在していると考えられます。
これを象徴的に言い換えると、自分の中に神仏がいるという思想になりますが、これと同じ考え方が、大乗仏教の中にあって、全ての人々には、自分の中に仏性(仏陀になる可能性)があると説いています。また、ヨーガが説く真我の思想にも通じています。ニューサイエンスでは、ハイアーセルフ(至高我)などと言われているようですね。
なお、チベット密教では、生きている人間をグルとして崇拝対象にする一面があります。しかし、このグルというのも、本質的には、弟子の仏性を引き出す助力をする者であって、仏性のない弟子に、自分の仏性を与える存在ではないとされています。
そして、チベット密教が説く、グルを仏の化身等として絶対的な存在と見なす修行は、オウムで信じられたように、グルが他人の生命を奪っても良い絶対的な存在であるということを意味しているのではありません。そう考えることによって、グルを自分の仏性を引き出す象徴とするものだと思います(他にも、グルに対して謙虚になることで、弟子が自己のエゴを弱める手段とすることもあると思いますが)。
こうして、外側の崇拝対象とは、自分の中の神聖な意識を引き出すための象徴であって、その意味で、これも、方便・手段だと考えることができます。
そして、この考え方であれば、それぞれの人が、自分にあった象徴(としての崇拝対象)を持つことを認めることができます。それぞれの人の中に、神仏の性質が存在しており、外側のものは、それを引き出す象徴であるという考え方です。
しかし、崇拝対象を、自分の仏性を引き出すための象徴と考えず、それ自体が絶対と考えると、様々な問題が起こります。
まず、崇拝対象に対する依存症に陥り、手放したくても手放せなくなり、それを奪い合ったり、それを否定する者(神聖だと思わない者)と強く対立したりします。この場合、信者ではない人から見ると、信者が、その崇拝対象を神聖だと思いこむ自己マインドコントロールのプロセスにはまってしまったと思えるでしょう。これを回避するには、何かを信じるとか、何かの信仰を深めるといった行為とは、自分の中の神聖な意識を、連想で引き出すための象徴を作る行為であると理解する方法があると思うわけです。
最後に、私個人が、オウム・アレフから脱却する中で、自分の(仏性の)象徴としているものの一つは、聖徳太子にまつわる著名な仏像である国宝・弥勒菩薩半跏思惟像があります。この仏像の前では、非常に印象深い神聖な体験をしました。また、聖徳太子との縁を感じる様々な宗教的な体験をしました。
もちろん、象徴は、人それぞれあって良いのですが、日本のほとんどの人が受け入れ不可能な人物を崇拝対象とした過去のある私にとっては、日本国民の精神的な支柱であり続けてきた仏像や人物が象徴であるならば、大勢の人達との対立を招かなくて済み、日本社会全体に広がる意識を培いやすい点で、その良さを感じています。
この意味では、どのような象徴を選ぶかということも重要です。そして、それには、その人が潜在的に望んでいることが反映することにもなると思います。
幸福の手段(方便)としての信仰2 (2010年10月01日)
(2010年09月30日の日記)
幸福の手段(方便)としての信仰2
信仰に逆支配されないために前回、自分や他人が幸福になるための方便(手段)として信仰というお話をしました。
まず、信仰の本質を考えるために、信じていることと、知っていることを対比させて考えるならば、信じていることは、誰もが認める客観的な事実ではないから、冷静に考えれば、正しい可能性と正しくない可能性があって、そのため、何かを信じるとは、それを正しいと思いたいという心理が働いているということでした。
そして、信仰の対象を絶対真理と考えるのではなく、正しい可能性と正しくない可能性の双方を意識して、それが自分と他人を幸福にするための手段となる場合には、それが正しい可能性を使って(それを信じるようにし)、望ましくない場合は、それが正しくない可能性を使えばどうか、ということでした。
今回は、これに関連して、宗教・信仰に人が逆支配される現象と、その背景を考えてみたいと思います。まず、誰もが認める客観的な事実が無く、何かを信じるということは、必ず、それを信じる人と、信じない人が出てきます。よって、人類の歴史で、どんな大きな宗教でさえ、その信者と非信者が存在します。
例えば、キリスト教が世界最大の宗教だとして、その信仰の中核と言われるのは、イエスが復活したことを信じるかどうか(信じる者がキリスト教徒)だと思いますが、世界人類全体から見れば、これは誰もが認める客観的な事実ではないために、キリスト教徒とそうではない人達がいます。
仮に、イエスが、全ての人類の前で、毎日のように、死と復活を含めた様々な奇跡を見せ続ければ、ほとんどの人はキリスト教徒になると思います(その場合は、信仰というようり、イエスの奇跡現象が、宇宙の普遍的な(科学的な)真実の一部として認められる)。
よって、信じる人がいれば、必ず信じない人が出ます。そして、ここで問題なのは、信じる人と、信じない人の間で、場合によっては激しい対立が生じることです。そして、それが、21世紀の人類を危うくさせている事実です。
何故そうなるかというと、信じる人は、信じることを絶対的に正しいことと錯覚するからです。そもそもが、信じることは、誰もが認める客観的な事実ではなく、知っていることは違うにもかかわらず、それを信じてしまうと、あたかも知っているかのように錯覚する。そして、多くの場合、信じることが出来る自分は、信じることが出来ない人達より優れているという錯覚が生じます。
本来は、信じない人がいるのは、宗教の信仰というものが、そもそもは、誰もが認める客観的な事実ではないからに過ぎず、信じない人が、信じる人よりも劣っているからではありません。
しかし、非常に多くの場合、信じる人は、信じない人よりも自分は優れていると強く思います。そして、信じない人を悪業をなしている人だ、地獄に堕ちるなど、と決めつけ、自分が気づかないうちに、実は、無智・傲慢になっていくのです。
それと同時に、自分にも苦しみが生じます。それは、本来は自分の幸福のためであった信仰に、自分が逆支配されると言っても良いかもしれません。例えば、場合によっては、自分達の信仰を否定する勢力とは(そうしたくないのに)戦わなければならないという状態に追い込まれる。
また、自分が、その信仰に反していると思うと、非常に不安になる。さらに、相当に疑問を抱いても、やめた場合の恐怖があるため、なかなかやめることが出来ない。それまで自分が、信じない人達を否定してきたことが、自分に返ってきて、やはりやめることは悪業になるのではないか、地獄に堕ちるのではないかという恐怖・不安として出てくる。
その結果、自分が幸福になると思ったから、信仰したにもかかわらず、客観的に見ると、信仰によって、逆に不幸・不自由を感じる一面が出てきます。
さて、宗教に関する自由と言えば、17世紀以来の市民革命以来、確立した基本的な人権の概念として、(自分の好きな宗教)を信じる自由と(自分が好きでない宗教を)信じない自由を「信仰の自由」と言います。ただ、これは自分と他人の関係の中での信仰の自由です。
しかし、今までお話ししてきたことを考えると、これだけでは、真の信仰の自由を得たとは言えないと思います。そのためいは、自分自身の中における信仰の自由が必要です。すなわち、自他の幸福の手段として、自分の関わる信仰を自在に使える柔軟な智恵があってこそ、真の信仰の自由を得たということができると思うのです。
幸福の手段(方便)としての信仰1 (2010年10月01日)
(2010年09月30日の日記)
幸福の手段(方便)としての信仰1
信じることと知っていることの違い従来の宗教のもたらす問題を超えて、21世紀に新しい宗教の在り方を創造する上で、まず、考えるべきことが、信じていることと知っていることの違いだと思います。言い換えれば、信じるということは、どういう意味を持つのか、ということです。
多くの宗教の信者は、その教祖か、ご本尊か何かを信じますが、この信じるということは、知っているということと対比させると、その性質の違いがよく分かると思います。
知っているという場合は、大雑把に言えば、その対象は、誰もが認める客観的な事実であって、例えば、科学的に証明されるもので、信じているというのは、誰もが認める客観的な事実ではなく、言わば、その人が、正しいと思っている、ということだと思います。
もちろん、正しいと思うには一定の根拠がありますが、誰もが認めるほどの客観的な根拠がある訳ではなく、場合によっては、間違っているかもしれない可能性を含むものだと思います。 そして、正しい可能性と間違っている可能性がある中で、正しいと思う訳ですから、これには、自分でも気づかない何らかの理由で、正しいと思いたい、という個人の好き嫌いの感情が入って
いるという推測が成り立ちます。しかしながら、多くの宗教の信者は、信じる=正しいと思いたいことを、知っている=正しいことと混同してしまう場合があると思います。例えば、「自分の信仰は正しい」、「自分達の信仰こそ正しく、他の信仰は間違っている」と主張する人がいます。
しかし、「自分の信仰は正しい」という主張を、先ほどの考えた「信じること=正しいと思いたいこと」という分析に基づいて解釈すると、「自分が正しいと思いたいことは正しい」と主張していることになります。ここに、現代社会で、宗教を嫌う人が、宗教の信者に感じる傲慢・独善の本質があるのは明かではないかと思います。
では、信じるという行為は、単に傲慢な行為にしかならないのか、というと、そうではないと思います。それは、信じる人が、信じるという行為と知っているという行為を区別して、傲慢にならないように努めつつ、自分や他人を幸福にするために、信じるという行為を手段(=方便)として使う場合だと思います。
例えば、仏教が説く輪廻転生思想ですが、生れ変わりを信じることで、今生悪いことをしても、見つからなければいいと考えを押さえ込み、来世に罰を受けないように、今生悪いことはしないようにしようと考えることは、輪廻転生思想を自分や他人を利する手段として使っている一例だと思います。
しかし、生れ変わりを信じる人が、生れ変わりとは、「自分が正しいと思いたいこと」に過ぎないのではなく、「絶対真理である」と錯覚すれば、オウム真理教のように、他人を殺しても来世があるから良い(高い世界に生まれ変わらせればいい)と考えたり、イスラム原理主義のように、自爆テロをした者は、その功徳で天界に転生できると考える原因になる可能性があります。もし、「自分が正しいと思いたいこと」に過ぎないと考えるならば、それによって、他人の貴重な生命を奪うテロ行為は正当化出来ないでしょう。
一方、信仰者の方からは、「信じる」ことを、単に「自分が信じたいと思いたい」に過ぎないと自覚してしまうと、それほど強く信じることはできなくなるため、信じることによるメリットも無くなるのではないか、という反論があると思います。例えば、上記の生れ変わりの場合は、生れ変わりがなければ、今生悪いことをしてはいけないという気持ちが薄れてしまうということです。
しかし、生れ変わりについては、確かに生れ変わりは、誰もが認める客観的な事実=科学的に完全に証明されたものではありませんが、以前として、科学者の研究や古来の聖者の見解など、その存在を示唆するいくらかの事実はある訳です。すなわち、生れ変わりがあるとは断定できないが、逆に、生れ変わりがある可能性は否定できない訳です。
こうして生れ変わりがある可能性とない可能性があるならば、生れ変わりがある可能性を使って、悪いことをしたら、今生見つからなくても、来世に罰を受ける可能性があると考えて、それは避けようと考えることができると思います。また、同時に、生れ変わりがない可能性を使って、他人を殺す行為を正当化しないことが出来ると思います。
そもそも、信じることの対象は、例えば、神を信じると言うように、それがあるともないとも(正しいとも正しくないとも)断定できないものです。すなわち、存在する(正しい)可能性と、存在しない(正しくない)可能性の双方があります。
この両面性の事実を使って、自分や他人のために、信じることがよい場合は、それが存在する(正しい)可能性を使い(すなわち信じ)、信じることが悪い場合には、それが存在しない(正しくない)可能性を使うことはできる、と思います。
さて、次回の日記では、この点をより深めて、自分の信仰に逆支配されないこと、すなわち、真の信仰の自由を得ることについて、お話ししたいと思います。
教師としての大自然 (2010年09月29日)
(2010年09月26日の日記)
上高地に数年前に入った時に感じたことは、教師としての大自然
というものでした。木々も山々も、自分こそが一番になろうという欲望がなく、
大きいものも、小さいものも、全体の中でのそれぞれの役割を果たし、
調和しているように見える。
自然の美しさ(特に日本のそれは)には調和の美がある。和をもって尊しとなせ、というのは、日本の釈迦、観音菩薩の化身と言われた
聖徳太子の言葉ですが、大自然は、この教えの見本かと思います。こうして、大自然を仏の教えの見本として尊重する心が生じた時に、
自分があたり一帯の大自然と繋がって、心が非常に大きく広がり、
一体となった感覚が生じました。現代社会に住む私達は、自然を尊重し、自然と調和して生きた昔と違って、
自然と切り離された都会で、自然を見下した価値観で生きていますが、
際限のない欲望で地球の調和を乱し、地球環境問題などの困難を抱える今、
あらためて自然から学ぶ精神を取り戻すことが大切ではと思います。人間は考える葦(あし)と言われますが、考える葦だからと言って、
考えない葦よりも、優れているかというと、単純にそうではない。何ごとにも、長所の裏に短所ありで、仏典でも、人間には両面性があり、
考える力を悪い方に使えば動物以上に悪いことをなし(地獄に堕ち)、
良い方に使えば、釈迦のように悟るといった主旨が説かれています。そういった意味で、現代の考える葦は、多少なりとも傲慢で、
人間である自分が、他の生き物よりも、優れているという油断があるかも。
それを冷ますためにも、考えない葦から学ぶことが重要かと思います。万物を仏の平等な現れと説き、全てが平等に尊いとする、
大乗仏教の思想も、これと関連すると思います。
人の間もそうですが、この世の万物も、本質的には、一長一短であり、
人が思うほど、大きな違いはなく、互いに助け合って存在している。
さて、最後に、大自然に加えて、人が教師としにくい対象があと二つ。
まず、妬みの対象。真実は自分の見本。努力が嫌な人には嫌に見えるが。
まず、怒りの対象。実は自分の反面教師。傲慢な人には邪魔に見えるが。上高地は終わり、次は? (2010年09月28日)
(2010年09月27日の日記)
上高地の聖地巡礼、会員の方、一般の方を含め、
多くの方に参加いただき、26日午後に解散となりました。
多くの方の参加いただいたことに加えて、
この週末は天候に恵まれたこと、特に本日は朝から快晴で、
その自然を満喫できたことを感謝したいと思います。今週末は、千葉と福岡の説法会となります。双方とも、会員の方に限らず、
一般の方も参加することが出来ますので、お気軽に参加下さい。
特に福岡は、皆さんに便利なように、都心の会議室で行う予定です。さて、上高地の次の聖地巡礼のことを考え始めていますが、
10月は、上高地巡礼のように団体全体で行う大規模なものではないのですが、
ひかりの輪の各支部道場単位で検討している巡礼があります(詳細未決定)。
関東方面では、紅葉で名高く、千手が浜が素晴らしい奥日光など、
関西方面では、縁の深い奈良吉野の金峰山寺、そして、
10月が神在り月となる出雲大社など。皆さんも機会があればご一緒しましょう。
観音菩薩像が復活!不思議なシンクロ現象 (2010年09月28日)
(2010年09月25日の日記)
今、少し興奮しています。いや少しではないかもしれない。以前にも、聖徳太子と縁を感じるという日記を書きました。その聖徳太子について調べ始めたのは2003年でした。その時、まず奈良飛鳥の地を訪れましたが、その時非常に印象に残ったのが、向原寺でした。
向原寺は日本最古のお寺とも言われ、寺になる前は聖徳太子や推古天皇の執政の地でもあり、今もその遺跡が目に見える形で残っています。また、かの有名な長野の善光寺の日本最古の仏像(秘仏の阿弥陀如来三尊像)も、まずここに祭られ、仏教に反対する物部氏に、池に投げ捨てられた後に、本田善光によって長野に祭られたと言われています。
実は、その際に善光寺秘仏と共に投げ捨てられた観音菩薩像があり、それは発見されて以降ずっと、この向原寺のご本尊となっていたのですが、36年前に盗難にあって行方不明となっていました。寺の住職さんは、その観音菩薩像が戻ってくるのを信じてずっと待っていたのですが、なんと、それがついに戻ってきたというニュースが飛び込んできました。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100924/acd1009242044002-n1.htm
しかし、興奮しているのは、これだけが理由ではなく、このニュースが、今日9月24日に上高地にいて私が瞑想して考えていたことと深くシンクロしていたからです。
瞑想の中で、私は、多くの日本人にとって、自分の仏性を引き出す宗教的なシンボルとなり得る人物がいるとすれば、聖徳太子に優る存在はないだろうと考えていました。太子は、日本仏教の始祖とも言える貢献をなし、観音菩薩の化身とも言われて太子信仰という文化さえ生み、古来日本人の精神的な支柱であり続けています。
そして、その太子を日本の観音菩薩という宗教的なシンボルとして、改めて強調すること、いわゆる蘇らせることは有益ではないかと考えていました。そして、私の太子探究の発端となった向原寺のこと、その聖徳太子や観音菩薩像のことを思いだしていました。
その直後に、正に、その向原寺に長らく観音菩薩像が甦った(戻ってきた)というニュースが入ってきたのでした。私には、自分の瞑想・思索と、そのニュースが、共に、観音菩薩(としての聖徳太子)の蘇りという点で共通しているように感じられ、すくなからず興奮を覚えました。こういった人の内面と外側の現象が一致する現象をシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)と心理学では呼ぶのですが、非常に興味深い出来事でした。
もちろん、ひかりの輪は、人を神としない原則がありますから、聖徳太子を自分の仏性を引き出す宗教的なシンボルと考えることは、聖徳太子を神=絶対・完全と見なすことではありません。それは、多くの日本人が持つ聖徳太子にまつわる神聖なイメージを活かし、自分の中の神聖な意識(=仏性)を引き出す方便手段とすることです。また、太子がその化身とされる観音菩薩とは、そもそも、如来ではなく、如来になる途上の菩薩であり、弥勒菩薩と共に、未完=不完全な存在と解釈できます。なお、聖徳太子は、私にオウム・アレフの信仰を脱却する上で大きな影響を与えた、京都は興隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像を祭るように指示した人でもあります(広隆寺は聖徳太子ゆかりの七寺の一つで太子自体を祭っている太子堂もあります)。その仏像の前で、私は非常に神聖な体験をし、それが私の大きな転機となりました。
今思うと、確たる証拠はありませんが、その神聖な体験も、ある意味で、観音菩薩(の化身としての聖徳太子)の祝福とも解釈できるのかなと思いました。深く集中して、半跏思惟像を見ていると、私には、何かの霊魂が宿っているようにも感じられました。
古来、日本の各地で太子信仰が生まれ、太子堂などが出来たのも、私と似たような体験があったからかもしれません。そう言えば、ひかりの輪が重視する悪人正機の教えを説いた浄土真宗開祖親鸞上人も、太子を観音菩薩として信仰し、その夢告に導かれたことで有名です。
さらに、天台宗開祖の最澄も、自分の宗派(中国天台宗)の始祖の生れ変わりが聖徳太子と考え、厚く信仰しました。その他、空海から日蓮まで、日本の多くの仏教宗派の開祖の信仰の対象でありました。
ともかく、今の日本社会は、精神的な支柱がないかのように見えます。人の心はその仏性から離れ彷徨い、様々な苦しみにあるように見えます。その中で、何かしら、人々の精神的な支柱となるものが現れるならばと思います。
それが、古き良き日本の伝統を創造的な再発見する形のものか、全く新しい道なのか、外側の宗教的なシンボルを活用した道か、内側の法則の修習なのかは、人それぞれに、宗教家それぞれに、色々な考え方、感じ方があるでしょうが。
上高地に入る9月23日 (2010年09月24日)
(2010年09月24日の日記)
23日昼、上高地に入りました。この日は、昼からの雨が夕方前にあがり、
濡れた木々の濃い緑色と、霧のような雲で、
神秘的な感じの美しさでした。宿泊所で一休みした後に、
活火山の焼岳の熱による温泉に浸って、
その後、雨上がりの森林の道を歩き、
心身が浄化されていきました。
上高地は、晴れて良し、雨降って良しの聖地
であることを改めて実感しました。
そして、雨は、汚れを浄化したり、、
慈悲の心をもたらす慈雨とも言います。
さて、この上高地には、
地・水・火・風・空の素晴らしさがあります。上高地の土地全体が持つ神聖な波動(地)、
梓川が運ぶ穂高岳の雪解けの清らかな水、
温泉がもたらす大地の熱エネルギー(火)、
無数の生命を抱える森の生命エネルギー(風=ルン)、
高地の突き抜けるような青空。
地・水・火・風・空の純粋な自然と共に、
皆さんのお越しをお待ちしています。
いよいよ上高地へ、週末説法会・オフ会は終了 (2010年09月21日)
(2010年09月21日の日記)
先週末の4連続イベントがようやく終了して、東京に戻りました。
18日は横浜の説法会、19日は昼が東京の説法会で夜はオフ会、
20日は大阪の説法会といったハードスケジュールでした。
オフ会には前回と同じく大勢の方に参加いただき感謝しています。
また、大阪にもミクシィから一般の方が複数参加していただき、にぎわいました。
また、来月も各地の説法会とオフ会を予定していますので、ご機会があれば
ご参加下さい。さて、今週末は、いよいよ長野の上高地の聖地巡礼で、気分が高揚中です。
聖地巡礼というと宗教っぽいですが、それはひかりの輪がここ数年訪問する中で、
上高地が、宗教的・霊的にも、その波動が素晴らしいからそう呼んでいるだけで、
実際の上高地には、穂高神社の奥宮の極小さい施設以外は、神社仏閣はありません。そして、いろいろと説明しているのが、ちょっと恥ずかしいかもしれないほど、
言わずとしれた、世界に誇る北アルプスの名所、日本有数の山岳景勝地。
雪解け水を流す透明な梓川の回りに、1500メーターの高地では
他に類を見ないほどに広がった長さ10キロ・幅1キロほどの場所にあり、
万年雪をたたえつつ眼前に切り立つ日本第三位の高峰である奥穂高岳、
活火山の焼岳と、その噴火が作った美しい大正池や、その熱による温泉、
様々な高山植物を育み、場所によって様相を変える森など、
ともかく純粋極まる自然を誇ります。まずは、こちらに写真がありますのでご覧ください。
http://www.joyus.jp/hikarinowa/pilgrimage/2720087/0080.html
このあまりに純粋な自然が、人に、それを聖地、浄土と思わせるのか、
最近は、ひかりの輪だけでなく、女性誌などでも、パワースポットとして、
紹介されるようになって、ひょっとして世間がひかりの輪に近づいてきたのかも?、
と密かに感じていましたが、その極めつけとなった出来事があり、
それは今年の上高地の公式観光ポスター。それを見ると、なんとずばり、「この世の聖地、遙かなる上高地」
というコピーが入ってました。
これで、聖地巡礼と呼んでも、世間から浮くことはない、公認されたに等しい、
現地の人とも縁ができたからなあ、
と勝手に思いつつ、今年もまた楽しみにしています。機会があったら、一度は行ってみて下さいという全く月並みな言葉でさえ、
ためらいなく言い切れる、日本最高レベルの自然の聖地です。
なお、ミクシィの一般の方でも、ひかりの輪の上高地巡礼に、
ご一緒いただくことが出来、既に複数の方からお申し込み頂いております。
ご希望の方は、担当:細川美香(ひかりの輪東京本部担当指導員)
連絡先: ℡080-3424-7054、tokyo@hikarinowa.net
訪問予定日:
25~26日の土日の週末が、団体としての聖地巡礼ですが、
23~24日、さらに27日(月)も、私個人は上高地にいる予定です。
真言オームとオウムの違い (2010年09月21日)
(2010年09月17日の日記)
一般の方から、ひかりの輪の仏教の修行で使っている真言オームについて、
「ところでオームって言ってるマントラ・、あれは麻原時代のものですか?
あれだけは怖いです。」
というご質問を頂きましたので、この機会に、お答えしておこうと思います。もちろん仏教やヨーガを良く知っている方はよくご存じでしょうが、オームという真言(マントラ)は、麻原独自の(麻原時代からの)ものでは全くありません。
それは、インドのヒンズー・ヨーガ・仏教で数千年間唱えられてきた、最も中心的な真言(マントラ) で、今でもインドやチベットでは、盛んに唱えられています。本当に遡ると数千年前のヴェーダ聖典に由来します。
なお、日本の仏教でも、このオームがオンに訛って、非常に広く唱えられています。しかし、オンという言葉の原語の発音がオームと知る人は余りいないかもしれません。
ひかりの輪では、日本の訛った音=オンよりも、原語(サンスクリット語)の音の方が適切であると考えて、オームと発音して、唱えています。
なお、もう少し正確に言うと、オームの最後の音のムは、アルファベット表記では、muではなく、子音のmだけで、非常に弱い音になるので、日本人にはオーンと聞こえることもあるような音です。よって、日本では訛ってオンとなりました。
オーンと表記すれば、オウム真理教との混同は避けられるかもしれませんが、学術的にはオームの方が正しく、厳密に言えば、日本語では正確には表記できない音です。なお、かつての教団の表記はオウム真理教、オウムであって、オームではなく、表記だけで言えば、同じ言葉を繰り返す鳥の名前のオウムと同じです(笑)。また、科学の抵抗値の単位はオームであって、オウムではありません。以上よろしくご理解下さい。
アレフの洗脳教化 (2010年09月16日)
(2010年09月16日の日記)
最近憂慮していることがあり、それを皆さんにもお知らせして、何か情報がありましたら、ご連絡いただきたいというお願いがあります。
私が三年以上前に脱会したアレフ(旧オウム真理教)が、私の脱会の後、徐々に麻原絶対の方向に先鋭化する中で、布教活動の中で、教団が一連の事件に関与していないという陰謀説を説いて、洗脳的な教化をしているという情報が、最近多く入るようになりました。
最初は、トークショーで、去年脱会した野田氏(元アレフ代表)から、陰謀説の資料まで作成されているという話しを聞いたことがきっかけです。その前後、アレフに入会したが、事件に疑問を持った人から、相談を受けるケースがいくつも出てきました。
それらの情報の中には、15年前の事件を知らない若い子などを入会させた後、事件のことを知るとすぐやめてしまうので、教団は事件をやっていないという陰謀説を説いているのではないか、というものあります。
あくまでも一般論としてですが、統一教会に対する訴訟でも良くあるように、虚偽の事実をもって教化して、お布施や長期の奉仕をさせた場合は、詐欺的な不当行為にあたって、刑事犯罪と民事上の損害賠償責任の双方という爆弾を抱え込んだ布教していることになります。
また、ある事例では、脱会したかったが、長期にわたって、幹部に引き留められ、「脱会してグル(麻原)との縁を傷つけると地獄などに落ちる」などと脅されたというケースもあります。
これは、アレフの信者にとっては、脅しではなく真理なのでしょうが、あくまで一般論としては、陰謀説と同様に客観的な合理的な根拠はない主張による脅しと解釈され、場合によっては、恐喝になる恐れもあります。
他の問題の事例や脱却の事例は以下のページでご紹介しています。
http://hikarinowa.net/public-info/departure/abrogation/そして、事件をやっていないという嘘をついて教化すると、やめられたら困るので脅すという悪循環も出来てしまう恐れがあると心配しています。
もし皆さんの方で、そういった洗脳的な教化の被害者となっている人や、その人とお知り合いの方がいて、脱却の支援をご要望でしたら、また、何か関連する重要な情報がありましたら、下記の窓口までご連絡いただければと思います。
ひかりの輪の公式HPの広報部サイト:アレフ洗脳被害者相談救済窓口
http://hikarinowa.net/public-info/departure/assistance/窓口のメールアドレスkoho@hikarinowa.net
最後に、私は、この被害者救済の取り組みによって、何者かと敵対する意図はなく、洗脳教化は、洗脳される者にとってはもちろん悲惨ですが、洗脳する側にとっても、良く考えれば長期的には自滅的であって悲惨であるという考えに基づいており、それが速やかに抑制・根絶されることを祈っています。
週末の説法会とオフ会のお知らせ (2010年09月15日)
今週末は、横浜、東京、大阪のひかりの輪の支部道場で、私の説法会をさせていただく予定です。18日(土)の夜に横浜、19日(日)の昼に東京、20日(月)の昼に大阪です。
いずれの説法会も、一般の方を歓迎しておりますが、東京と大阪の説法会には、一般の方向けの第一部と、会員向けの第二部があり、二部構成となっています(横浜は二部構成ではありません)。
なお、この東京道場での第一部の説法は、ネットで公開生中継を行ないます。Ustreamで11時30分から。皆さんも、パスワードなしでアクセスできますので、お気軽にご自宅のパソコンなどで、ご試聴いただけます。アクセスは、http://www.ustream.tv/channel/hikarinowaまで。
また、以前もお知らせしましたが、9月19日(日)の東京の説法会の後の夜(午後6時30分)には、ミクシィなどでお知り合いになった方を対象に、第3回のオフ会(懇親会・座談会)を行ないます。内容は、大乗仏教の智恵などの分かりやすいお話と、フリートーク・座談会、リフレッシュのためのヨーガなどで、2~3時間の予定です。場所は、都心の会議室ですが、詳細は、ご参加の可能性のある方に、改めてお知らせします。
それぞれのイベントのお問い合わせ先は以下の通りです。
9月19日(日):
1東京道場での説法会:午前11時から(一般向け説法は午前12時から)
2都内でのオフ会:午後6時30分から
以上の担当者:細川美香
連絡先:メールアドレス:tokyo@hikarinowa.net
9月20日(月) 大阪道場の説法会
担当者:田実恵理子
連絡先:メールアドレス:osaka@hikarinowa.net
9月18日(土) 横浜道場の説法会:午後6時30分から
担当者:太田恵子
連絡先:メールアドレス:yokohama@hikarinowa.net
最後に、説法会のテーマをご紹介しておきます。
第一部:現世幸福・達成のための教え(薬師如来の教え)
悟りに限らず、現世の幸福、現世での達成を得るために、どのようにすればいいか。
神仏への正しい祈願の方法から、人の内側の神=超潜在意識の活かし方、
更には、祈願を超えた神仏の意思に沿った生き方まで分かりやすくお話しします。第二部:
1死と来世の幸福のための教え(阿弥陀如来の教え)
親族の死、自分の死への対処法を分かりやすくお教えします。
自分の死の苦しみ・恐怖を乗り越える様々な教え・瞑想法から、
お坊さんに頼らずに、死亡した親族の来世の幸福を適切に祈願する教え、
それに伴う遺族にも建設的な弔いの教えを分かりやすくお話しします。2盲信を超えた21世紀の新しい宗教(釈迦牟尼の教え)
知っていることと信じていることを区別し、宗教の教義に支配されずに、
人の幸福のために活かす考え方についてのお話しです。
お釈迦様の方便・対機説法から、「人のための宗教」という考え方まで。
事実と信仰の区別、手段としての信仰 (2010年09月14日)
(2010年09月12日の日記)
21世紀の新しい宗教の在り方を考えると、信仰者が、客観的な事実である教えと、そうではない教えをしっかりと区別できるかという大きな課題があると思います。これを言い換えると、知っていることと、信じているにすぎないことの区別です。
そして、信じているに過ぎない教えについては、それを信じる場合には、絶対真理として無条件に信じるのではなくて、それを信じることで、自分や他人が、より正しく生きて、幸福になるものかどうかを考えて、幸福になる手段として、幸福になるような解釈をもって、信じるべきだと思います。
ここで、手段という言葉は、決して非宗教的な言葉・概念ではなく、仏教開祖である釈迦牟尼が用いた方便にあたります。方便とは、本来は嘘という意味ではなく手段という意味です。彼は、教えを手段と考えて、人によって説く教えを変えたと言われています。
その一例として、例えば、仏教徒が信じる輪廻転生をあげて説明したいと思います。輪廻転生は、科学的には少なくとも完全には証明されておらず、(それ故に)他宗教が共有しているものでもありません(なお、私は仏教を尊重しており、適切なやり方で輪廻思想を信じることを進める立場なのですが)。
例えば、輪廻思想は、来世を説きますから、今生で悪いことをしても、見つからなければ良いといった誘惑を超える手段として、(それを信じる人には)有効だと思います。悪いことをして今生でその罰が下らなくても来世には下ることになると考えるからです。輪廻があるかどうかは(科学的には)分からないが、もし輪廻があったらならば、悪いことをしていると、来世で大変苦しむことになると考えて、欲望を抑制する目的のための手段として信じるわけです。
しかし、輪廻を絶対真理とすれば、それに基づいて、殺してもどうせ生まれ変わるからと言って、今生(の生命)を軽視したり、殺人を肯定する論理の土台にする恐れもあります。また、輪廻を信じない他宗教を正しい教えではないと軽蔑する結果を招く恐れもあります。
これは、客観的に見れば、輪廻という観念に人の心が支配されて、教えを幸福の手段として使っているのではなく、教えに逆に支配されている状態だと思います。そういった場合には、(もし輪廻があればと考えた)先ほどとは逆に、もし輪廻がなければ、そういった論理や軽蔑は、大変な過ちとなると考えるべきだと思います。
従来の宗教では、教義は絶対化しやすく、客観的な事実と、単に信じていることが区別されにくくなっています。
そして、良く考えれば、自分の信じている宗教の教義は、科学の法則のような客観的な事実でないがために、全ての人ではなく、自分達だけが信じている面があるにもかかわらず、そうではなく、自分達は、信じていない人よりも正しいから、それを信じていると錯覚する面があると思います。すると、その教義を信じることで、何かが良くなるメリットと共に、万人が信じない教義を信じるからこそ密かに満たされる虚栄心というデメリットが生じます。
よって、21世紀の新しい宗教の在り方としては、信じることによるメリットを巧みに残しつつ、いかに盲信による弊害・虚栄心をなくすか、という、繊細なバランスの取れた狭義の解釈が重要だと思います。これは非常に重要だと思いますが、多くの宗教にとって、相当に困難な課題となると思います。しかし、これを実現できれば、本来は人のためにあるべき宗教が、人を支配してしまうという大きな問題から脱却できると思います。
第3回オフ会(東京)のお知らせ (2010年08月31日)
(2010年08月31日の日記)
誠に勝手ながら、ネットが通じにくい所に出張のため、9月10日頃まで、ネットの活動をお休みいたしますので、よろしくお願いします。
さて、来る9月19日(日)の夜(午後6時30分ごろから)、第3回のオフ会(懇親会・座談会)を行いたいと思います。7月11日、8月1日に引き続き、第3回目となります。色々な方から好評を頂いたこと、また、残念ながらその日には来れなかった方も多くいらっしゃったことがあって、第3回を企画しました。
内容としては、前回同様、私の方から、一般の方にも分かりやすいお話をさせていただき、その後は、参加者の皆さんの間でのフリートーク・座談会の時間として、全体で2~3時間です。
なお、お話の合間には、リフレッシュのために、どなたでもできる簡単なヨーガの体操などをお教えすることも考えております。参加費は1000円(学割あり)となっております。また、会議室の後は、有志の方で、近くのファミレスで、2次会も行なう予定です。
場所は、都心の一般施設の会議室で、お越しになりやすいように、駅からすぐのところにしましたので、お気軽に、ご参加いただければと思います。
なお、場所・日時の詳細は、ご参加の可能性のある方に、改めてお知らせしたいと思いますので、なるべく早めに、オフ会の幹事の細川美香さんに、ご連絡ただければと思います。細川さんのメールアドレスは、以下のとおりです。また、これは、懇親会を目的としておりますので、オフ会自体を取材したいといったような、別の意図をお持ちの方には、ご遠慮いただく場合がありますので、あらかじめご連絡下さい。
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※付記
9月19日は、夜のオフ会だけでなく、昼から、東京道場での説法会も行ないます。一般の方向けの説法や応対の時間もあります。
夜のオフ会は都合がつかない方でも、昼ならばという方や、オフ会より、ひかりの輪について、もう少し深い内容を知りたい方がいらっしゃいましたら、こちらをお勧めします。参加方法のご連絡は、オフ会同様、細川さんまでお願いします。
苦の裏に楽あり一考 (2010年08月25日)
苦しみの裏に喜びがあるという教えの具体的な例を考えてみました。貧乏の利益と批判を受けることの利益です。
なお、大乗仏教の最も重要な教えである六つの完成の修行の中で、忍耐する修行というのがあるのですが、それは、貧乏と、批判と、教えの理解の難しさに耐えよという教えです。貧乏の利益
1.慣れれば質素に生きる力を身につける機会となり、
2.視野を広げて他の貧困を思えば慈悲を培う機会となり、
3.普段気づかない皆が共有する物(例えば大自然)の豊かさを理解する助けとなり、
4.貪らなければ必要なものは(神仏に)与えられると知る助けになる批判を受ける利益
1.正しい批判は謙虚に受け止めれば自己の成長の助けになり、
2.理不尽な批判は冷静に対処すれば逆に自己の名誉を高め、
3.感情的な批判は相手の苦しみを理解するきっかけになり、
4.総じて自己愛を超えた真の慈悲を得る助けとなるさて、もう少し、人の性格や能力も、苦と楽が表裏であることについて。
1.人の性格には、絶対善、絶対悪はない。
全ての性格は長所と短所が裏表。例えば、短気=速い、臆病=慎重、
融通が利かない=まじめ、無鉄砲=大胆・勇気があるなど。2.人の能力にも、絶対善、絶対悪はない。
いかなる能力にも利益と不利益が裏表である。例えば、自分が何かに優れていると、
それが出来ない人の苦しみを理解したり、手助けしたり、また、他の力を活かすことは、
逆に出来なくなる。他に勝つ能力と、他を愛して活かす能力は、合致しない。3.大悪人が大善人となる可能性がある(大煩悩大解脱)
仏陀の教えでは、人は無智によって悪をなすが、その苦しみにより、ついに間違いに気づき、善をなすように変わる。そして、大きな悪をなす人は、そのエネルギーが強いからであり、よって、改心すれば、大きな善をなす人になる可能性がある。
公開ネット講話・第二回のお知らせ (2010年08月25日)
来る8月29日(日曜日)お昼の12時から、完全公開型で私の講話のネット生中継を行ないます(約1時間ほど)。お盆に続いて第二回目となります。
テーマは、日常生活をより豊かに幸福なものとする大乗仏教のさまざまな智恵・教えや、21世紀の新しい宗教のあり方などです。
具体的には、
1.自分の個性を見いだし、自分も他人も大切にする教え、
2.感謝と逆転の発想で、挫折・失敗に強くなる教え、
3.小さな私を超えた、真の自分とは、真の自分の富、真の自分の幸福とは何か、
4.気づいて得る幸福と求めて得る幸福、勝って得る幸福と愛して得る幸福の違い、
5.究極の心の解放・幸福をもたらす悟りを得るために必要な4つの修行法、
6.21世紀のための新しい宗教のヴィジョン、万人に開かれた新しい宗教、などなどです。ご視聴は以下のURLでどなたでも見ることができます(パスワード不要)。お気軽に覗いて見てください。
http://www.ustream.tv/channel/hikarinowa
なお、今後、公開ネット講話に加え、公開ネットヨーガ指導なども行ないたいと思いますので、ご期待下さい。
※プレゼントのお知らせ講話の内容にも関係するものとして、私の2010年の夏期セミナー教本の1部「21世紀のための宗教の革新-新しい宗教の創造」(テキストデータ)をプレゼントすることができます。ご希望の方は、細川美香さん(ひかりの輪、副代表、ネット講話の中継担当)の方に、メッセージをいただければと思います。講話の前後にでも、お読みいただければと思います。
●細川美香さんのメールアドレスtokyo@hikarinowa.net上高地を経て、長野・名古屋の説法会へ (2010年08月21日)
(2010年08月20日の日記)
今日は、長野の上高地に行きました。前にもご紹介した日本有数の
山岳景勝地です。自然の観光地で、神社仏閣はほとんど目立ちませんが、
ひかりの輪では聖地としています。
それは、ここの自然の美しさ・純粋さ・波動の素晴らしさのためです。今日も、非常に透明な雪解けの水が流れる梓川、様々な緑の木々、
万年雪を抱く穂高山や活火山の焼岳、芥川龍之介の小説で有名な河童橋
などの美しさを見ることが出来ました。来月9月25~26日を中心に、ここで聖地自然修行のセミナーを行う予定です。
(一部23日から参加をお受けする場合もあります)
今日はそのうち合わせ・準備の意味もあって訪問しました。午後10時前後に到着し、写真を多少取って、打ち合わせを行い、最後に
散歩と温泉に入りました。温泉は近くの火山からの熱を運び、パワーを
感じました。多少は、夏期セミナーの疲れが取れた感じです。感謝さて、その後、上高地を離れ、諏訪を経由して、いよいよ、明日は、
長野・小諸道場での説法会となります。一般の方、会員の方、双方
お待ちしております。参加ご希望の方の連絡先はこちらをご覧ください。
8月21日(土)18:30~長野支部、上祐代表説法会のお知らせ
夏期セミナー終了、週末は説法会 (2010年08月20日)
(2010年08月15日の日記)
ひかりの輪の夏期セミナーが終了しました。
普通はお盆は休暇なのですが、
ひかりの輪の者には最も忙しい期間でした。それと入れ替わりで、これから4~5日は、
各地の支部活動はお休みとなります。
私や他の指導員・スタッフは、合宿形式で、
疲れを癒し、心身の浄化と修行に入ります。このセミナーの間、直接道場で参加された会員並びに一般の方、
ならびに、ネット生放送などで講話に参加された会員並びに一般の方に、
スタッフ一同に代わりまして、深く御礼申し上げます。さて、今後は、下記の通り、長野・小諸道場の説法会から活動を再開いたします。
既にネットでお知り合いになった方からも、参加のお申し込みをいただいております。
皆さんもご機会があれば、ご参加下さい。お問い合わせは、公式HP
http://hikarinowa.net/branches/contactlist.htmlまで8月
21日(土)長野支部道場
22日(日)名古屋支部道場
28日(土)千葉支部道場
29日(日)福岡ひかりの輪の会の集会
聖徳太子 日本仏教の始祖 (2010年08月13日)
いまさらではありますが、聖徳太子について書こうと思います。これは今まで余り書いていなかったのですが、最近になって、自分が聖徳太子から相当の影響を受けているように思うようになったからです。
まず、自分をオウム・麻原脱却に導いた大きな出来事の一つが、京都広隆寺に祭られている弥勒菩薩半跏思惟像との出会いと瞑想がありました。初めてで会った時の衝撃は今でもはっきり感覚に残っており、言葉で表現するのは難しいですが、非常に神聖で微細で広大な慈悲の波動・空間を感じました。これは今でも自分の求める理想です。
そして、この広隆寺は、聖徳太子縁の寺で、太子が半跏思惟像を祭るように側近の秦河勝という人物に命じたが故に出来たものでした。よって、半跏思惟像と共に、太子の像が祭られていますし、また、近くには、太子自身を祀るお堂があります。広隆寺に行き着いたのも、広隆寺など、太子ゆかりのお寺を回っていたことがきっかけです。
また、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像に次いで、大きなインパクトがある仏像が、ひかりの輪の会員の方ならよくご存じの長野の善光寺の日本最古の秘仏(阿弥陀如来の像)ですが、この善光寺に行き着いたのも、太子ゆかりのお寺である奈良・斑鳩の向原寺(日本最古のお寺)を巡った結果でした。
善光寺の秘仏は、最初は向原寺にあって、廃仏派の物部氏に池に捨てられましたが、後に、本田善幸という人によって長野に祭られました。しかし、そのちょっと前に聖徳太子が、その秘仏を既に見いだしていたという伝説があります。向原寺も、太子の時代は、太子や推古天皇が政治を行った場所でした。
また、ひかりの輪が重視する教えの中に、「(自己が)悪人(であると自覚する者)が正しい教えに巡り会う機縁がある」という親鸞聖人の悪人正機の教えがありますが、この親鸞聖人も、聖徳太子から夢でお告げを受けた結果、後に浄土宗・浄土真宗を展開していきました。親鸞聖人は、聖徳太子を観音菩薩の化身と考えていました。太子は一般にも観音菩薩の化身とされるときがあります。
親鸞聖人も、太子と同様に善光寺に縁があり、その境内には、聖人の像があります。また、善光寺の秘仏は、阿弥陀如来三尊像ですから、本尊の阿弥陀如来に加え、観音菩薩と勢至菩薩で三尊で、ここにも観音菩薩が出てきます。なお、向原寺も観音菩薩を本尊としており、その住職さんの説では、善光寺の秘仏も、観音菩薩ではないかという説もあります(善光寺の秘仏は非常に長い間、誰も見たことがありません)。
そして、不思議なのは、ひかりの輪の聖地での体験で良く出てくる虹と聖徳太子の関係です。私が見た虹の中で、最も印象深かった虹の体験として、富士山を背景とした柱のように立つ虹がありました。ところが、後で調べてみると、聖徳太子の伝説の中に、ちょうど全く同じところで、聖徳太子が虹を見て、ここは聖地だと語ったという話しが見つかりました。そして、実際、底には聖徳寺というお寺があって、本殿には聖徳太子と共に、虹の写真があったのでした。
ところで、そもそも、聖徳太子に関心を持ったのは、2002年から2003年くらいのことでした。その頃、私は、自然・聖地の中で、瞑想の体験や、非常に珍しい虹の現象(七つもの虹が一度に出るなど)を体験し、それまでとは違った宗教観が自己の中に芽生えてきました。
そして、その流れで諏訪・富士・東北十和田などといったところを巡礼したのですが、そういった場所が、聖徳太子伝説の中に出てくる、太子が空飛ぶ黒駒と共に訪れたとされる場所と良く一致していたのでした。そんなところから縁を感じ、まずは奈良の斑鳩から探究してみようとして、向原寺・善光寺・広隆寺と巡っていったのでした。
そして、太子の有名な言葉、和をもって尊しとなす。これは日本文化の最大の特徴である調和の重視だと思いますが、これは、ひかりの輪の最も重要な教えの一つである、「万物は仏の平等の現れ」という教えに通じるものだと考えています。
この教えは、この世界は仏の現れで、万物は仏の一部で、その間に優劣はなく、それぞれが互いを補い合う、仏に与えられた役割・平等の価値がある、といったような意味合いがあると解釈していますが、これは正に調和・和の精神と合致します。
そして、ひかりの輪では、偶然にも、これを観音菩薩の教えと位置づけました。そして、さらに、和というのが、漢字ない古代日本では、同じワの音である、ひかりの輪の「輪」とも通じることもあって、これについても、太子やその思想との因縁を感じました。同音の和と輪は、双方とも、全体の一体性を示す言葉だと思います。
最後に、今後日本は、太子の時代のような国になっていく一面があるように思います。つまり、中国インドなどが大国となっていく中で、アジア第一の大国ではなく、アジアの東端の一国となっていくことです。そういった状況で必要なことは、卑屈にならずに、日本は日本らしく、その個性を活かして、世界に貢献する国際的な国家になっていくことだと思います。
その意味で、1400年前に、巨大帝国の隋の王に対して、日出づる国の王として、大胆にも対等の立場を主張する外交使節を出したことでも有名な聖徳太子は、21世紀日本にも貴重な示唆を与える存在だと思います。
ツィッター開始、フォロワーになる方を歓迎します。 (2010年08月11日)
ツィッターを開始しました。
フォロワーになる方を歓迎します。よろしくお願いします。
ページデザインは、背景写真が、ブログ同様に、長野の上高地です。
ツィッターのページ http://twitter.com/joyu_fumihiroツィッターとブログのデザイン出来ました (2010年08月08日)
(2010年08月08日の日記)
昨日8月7日は、大阪の夏期セミナーに来ました。渋滞に巻き込まれて、9時間ほどかかって大阪にようやく到着、予定より遅れながら、何とか昼の講話を行い、その後は、夜の講話を予定通りに行いました。
講話の前後は、経典の学習やヨーガ行法・瞑想などが指導員の指導の下に行われ、その合間に、希望する方に、密教の法具の聖音や貴石(パワーストーン)などを用いた霊的なヒーリング(エンパワーメント)や、身につける貴石のブレス等の相談を行いました。それから、講話に尋ねてこられた(おそらくネットで知り合った)一般の方がいらっしゃいました。
いつものことながら、スタッフの皆さんは、水野さん・細川さん・田実さん・山口さんなどの指導員・スタッフの方はフル回転の1日となりました。ご苦労様でした。8日も大阪のセミナーは続きます。講話は昼からで、その前後も7日と同じようなプログラムです。
さて、話は変わって、そろそろ、ツィッターと、それと連動させて、アメブロのブログを始めようと考えています。
そのブログのトップページのデザインをデザイナーの方に作ってもらいました。最も好きな自然・聖地の一つである上高地の写真を使ったもので、相当気に入っています。ツィッターの方も、同じコンセプトのデザインをお願いしています。ブログのトップページhttp://ameblo.jp/joyufumihiro/
今はセミナーで忙しいので、ツィッターとブログの開始は、もうちょっとかかるだろうなあと、自分自身の心と体のバイオリズムに相談しています。東京の夏期セミナーで、公開講話をやるときと同時になるかもしれません。事始めには相応しい数字の11日です。
夏期セミナー、講話を公開 (2010年08月07日)
(2010年8月6日の日記)
明日から大阪道場でひかりの輪の夏期セミナーが始まります。本番は11日からの東京本部でのセミナーです。11日から15日まです。そして、今回初めての試みとして、11日から13日まで毎日本部で行なう、私の講話・講義について、会員ではない一般の方でも、視聴を希望する方に、ネットで生中継することになりました。中継はUstream(ユーストリーム)を用います。
また、単に講話を視聴するだけでなく、中継に付随して、質問を送っていただければ、それにもお答えしようと思います。
これは、ひかりの輪が指向する、ネット空間を活用した、万人・社会に開かれた教団、開かれた宗教の学習の場を作る構想「グローバル・スピリチュアル・ネットワーク」の一環です。
なお、今回のセミナーに間に合うかは分かりませんが、今後は、ネットTV会議システムを活用した、質疑応答や意見交換・座談会も出来るようにもしたいと思っています。
さて、講話の内容は、日常生活の心の苦しみを和らげ、幸福になるための大乗仏教の教えなどについてです。心理学や科学の知見も組み合わせて、宗教を知らない一般の方にも分かりやすい、日常の生活に役立つ内容にするつもりです。
また、時間が許せば、私が時々巡礼する各地の聖地、占星学、密教の法具、ヨーガの瞑想といった、スピリチュアルな、霊的な話も、させていただければと考えております。
インターネット上で動画が視聴できるパソコンであれば、どなたでも参加でき、専用ソフトなどの準備は必要ありませんので、お気軽にご参加下さい。参加は無料で、正確な時間など改めてお知らせいたしますが、だいたいは以下の通りです。
11日 第一回:午後1時~ 第二回:夜8時30分~
12日 第三回:午後12時~ 第四回:夜8時30分~
13日 第五回:午後12時~ 第六回:夜8時30分~なお、ご試聴を希望される場合は、こちらから、パスワードなどをお送りする必要がありますので、まずは、メールにて、細川美香さん(ひかりの輪副代表、ネット講話の中継担当)に、視聴を希望される旨、メッセージをいただければと思います。また、講話の際に用いる資料(テキストデータ)も、事前にお送りすることになります。
また、その時間に視聴することができない方は、その日の講話をオンデマンド(動画)で視聴することもできますので、ご希望の方がいらっしゃいましたら、生中継同様、以下までメッセージをいただければと思います。
●細川美香さんのアドレスtokyo@hikarinowa.net
寂しさ・卑屈を超える大乗仏教の智恵5 (2010年08月05日)
さて、今回は、宗教と科学の接点を探りたいと思います。まず、前回、人と人の違いは優劣ではなく、お互いを助け合う上での役割の違いであり、役割分担と考えて、卑屈・寂しさを乗り越える、というお話をしました。そして、それが、人の体の中の各細胞が助け合うのと似ているというお話をしました。
そして、今回は、その人の体の中の各細胞の助け合いと神様の存在のお話です。前にも述べたように、人の体は、一つの受精卵から始まって、細胞分裂を繰り返し、成人の場合60兆もの細胞を持っています。その中には、頭、手、足、各臓器、神経、血管など、様々な細胞があります。
そして、筑波大学の村上教授という人が非常に興味深いことを語っています。最初の一つの細胞から多くの細胞が分裂していく中では、それぞれの細胞が、体のどの細胞になるかを決めて、かつ、それら無数の細胞が常にお互いに助け合って一つの生命体としてまとまるように総合調整するものが必要なわけですが、それが、DNA情報の中にも、他にも、物理的には見つかっていないということです。DNAには、人体の全ての細胞に関する情報はあるのですが、分裂していく無数の細胞を全体としてコントロールするものはなく、それに必要な情報はあまりに膨大なのだそうです。これを言い換えると、細胞分裂による人の成長のプロセスとは、人智を超えたあまりにも見事な(奇跡的な)ものであり、村上教授は、それをなしている、人智を超えた何かを「サムシングレート(何か偉大なもの)」と呼んでいます。
「サムシンググレート」と表現するのは、村上教授の科学者らしい冷静・慎重な姿勢・表現として評価できますが、古典的な表現をとれば、これは、正に神仏を指しています。実際に、宗教では、神仏とは生命の源という考えがあります。
例えば、大乗仏教では、皆さんご存じの「南無阿弥陀仏」の阿弥陀如来という仏がいますが、この仏の別名は、無量寿仏(無量の寿命の仏という意味)であり、この宇宙が無数の生命を育む力を仏の力、仏の法力と見なす思想の結果です。
さて、科学と神仏の接点は、人体の成長のプロセスに限りません。この宇宙が生命を育むようになったこと自体が、それが偶然の物理的な現象としては、余りに奇跡的であり、合理的には説明しがたいという科学的な見解があります。そういった科学者は、仮に、偶然の物理的な現象として、生命が誕生する数学的な確率は、10の300乗分の1ほどしかないとも主張します。
ここでは、偶然に発生する確率が余りに小さい事柄が発生した場合は、それは偶然ではなく、必然的に発生した=誰かが意思してそうした、と考える方が合理的だという考えがあります。これは統計科学での考え方だと思います。例えば、貴方が、家に帰って、テーブルの上にコーヒーが入ったコップが置いてあったならば、それが誰かによって意思され、作られたものではなくて、単なる偶然の現象だとは考えないでしょうか。
仮に、偶然の現象だと考えると、例えば、地震が起こり、戸棚から、コップが上向きにテーブルに落ち、水道から(故障で)水が出て、その下に偶然にもヤカンがあり、その後、何かの原因で(再び地震?)、脇のコンロの上に移動し、何かの原因で(火事?)温められ、その後、何かの原因で(また地震?)、テーブルのコップの上にだけ注がれ、後は全てがきれいに元に戻った、ということになります。これは、余りに無理があることはお分かりでしょう。
そのため、宇宙の中の生命の誕生の原因としては、偶然の物理現象とするよりも、それと意図して誕生させようとした超越的な何かの存在を想定する方が、合理的・科学的である、という見解が出てくるのです。これは宇宙の人間原理説と呼ばれることがあるります。
また、これは、人づてではありますが、宇宙物理学の佐藤勝彦教授(インフレーション理論の提唱者)が、ある講演で、「物理学における最大の難問は神だ。ビッグバンをさかのぼった世界の全ての始まり、特異点を考えるとき、神という既存物理学を超越した作用を思い浮かべずには居れない」と語られたことがあったと聞いたことがあります。
これらの科学者の見解をどのように解釈するかは皆さんにお任せしたいと思います。
しかし、「自分はだめだ、自分は生きている価値がない」と考えたり、「あいつはだめだ、生きている価値はない、死んでしまえばいい」と考える場合には、自分や他人という存在、生命存在が、それ自体が、全く奇跡的なものであって、人智を超えた、神仏の御業ではないか、という視点は、とても重要ではないでしょうか。
特に、自分はだめだ、あいつはだめだ、という考えは、これまでも繰り返し述べてきたように、一面的な価値観で、自分と他人を比較して、自分が劣っていると考える思い込みから来ます。そして、そういった人の中には、苦しみに耐えかね、自殺する人もいれば、一攫千金の奇跡を妄想する人が多くいます。そして、巷の宗教の中には、その宗教を信じさえすれば(人格を磨く努力も無しに)、お金が入る、成功する、願望がかなう、奇跡が起こる、と主張するものもあります。
しかし、私は、科学者の見解や、本来の宗教的真理が語ることは、この世の最大の奇跡とは、私達が毎日毎日、目にしている、人間を含めた全ての生命存在自体です。そして、それを包み育む大自然・大宇宙自体の存在です。それは、すべての人が共有できる、いや既に共有している奇跡に他なりません。
そして、そのように感じられるようになれば、自分や他人という人間存在の価値を再認識できていますから、この世の最大の奇跡である生命を自殺などで破壊したり、自己中心的な願望を子かなえるために、まやかしの宗教が説く奇跡まがいに騙されることもないと思います。
ただし、現代社会では、多くの人が、そのように考え、感じることができていません。
そして、それを取り戻すとすれば、やはり、人と人の違いは、優劣ではなく、個性であり、互いを助け合う役割分担であるという考え方や、自分の欠点・失敗・苦しみの裏に、長所・成功の元・幸福があると考える訓練ををすることが望ましいと思います。
さらに、人それぞれに与えられている個性・役割は、宗教的に表現すれば、この世の全てを現す神仏が、1人1人に与えた、かけがえのない個性・役割・天命であるという考え方まで持てればと思います。一人に一つずつ、この世で唯一のものとして与えられた個性・役割であり、他と比較する必要のないものです。
そして、興味深いことに、これは、先ほど述べた「サムシンググレート」が、人の体の中の無数の細胞の一つ一つに、それぞれの役割、全体に対する役割を与えていると全く同じ感覚です。
さて、こういった思想を表現したのが、この宇宙の森羅万象は、仏の平等な現われ、という大乗仏教の教えだと思います。そして、私は、この思想を、非常に素晴らしいものだと感じています。美しい、と表現したら良いかもしれません。
大自然に親しんだ古代の人々や、古き良き宗教の求道者は、これを直感的に感じ取ったのではないでしょうか。また、現代の科学の最先端の行く人々の中にも、それと共通する何かを感じている人達がいるのでしょう。
現代の合理的な知性の究極と、古代の直感的な知性の究極は、共通して、私達の常識を越えて、生命を含めた宇宙の万物の存在に、人智を超えた神秘を感じ取っているように思います。
最後に、卑屈・慢心・寂しさ・孤独を乗り越えるため、自分と他人を含めた万物を、神聖なものとして尊重する知性を育むことは、一朝一夕に出来ることではないと思います。しかし、それをなるべく育んでいく、日々のコツコツとした努力は、直ぐにではなく、徐々にではありますが、しかし、着実に確実に、実を結んでいくと信じています。
寂しさ・卑屈を超える大乗仏教の智恵4 (2010年08月05日)
さて、前回までに、人と人の間には、違いはあるが、それは優劣ではなく、個性であって、お互いを助け合うための役割の違い、であるというお話をしました。そして、そう考えないと、自分はだめだ、生きている価値がない、と考えてしまい、卑屈・寂しさ・孤独の原因となります。
また、今はそう考えていない人でも、他人を見て、あいつらは、生きている価値がないと考えているならば、将来、自分が挫折・失敗した時などに、他人に向けていたのと同じ思考パターンが、自分に向けられることになります。人生には、誰もが一度や二度の大きな挫折があると思いますが、他人に向けた冷酷な刃が、自分に返ってくるということです。
さて、人と人の違いは、優劣ではなく、個性・役割の違いである、という考え方、そして、その背景にある、自分の欠点・失敗・苦しみは、視点を変えれば、長所・成功の元・幸福になるのだ、という考え方は、その果てに、神や仏の存在という視点が生まれてくることがあります。
逆に言えば、自分がだめだ、生きている価値がない、または、あいつはだめだ、生きている価値がない、世の中は苦しみ一杯だ、と考えている人は、この世に神仏が存在して、万物を神仏が現しているという宗教的な世界観は信じがたいことでしょう。
大乗仏教や神道は、自分や他人を含めた、この世界は、神仏の現れ・神仏の一部・神仏の子であると説き、キリスト教は、この世界は、神仏の創造物であると説きますが、多少の表現・解釈の違いがあっても、宗教の多くは、この世の万物の存在の根元に神仏があります。
それに対して、自分や他人を含め、この世には、だめなやつが多くいて、生きる価値のないものが多いと考えるならば、この世を現した全知全能で慈悲深き神仏などは存在しない、存在しないからこそ、この世はこうなのだ、と考えるのが自然ですね。
こうして、自分や他人といった人間存在を価値あるものとして愛する、尊重することが出来るかどうか、いうことと、人間を含めた万物の根元に神仏が存在すると信じるかどうかは、根底において、繋がっている部分があると思います。
かといって私は、神仏や宗教を信じている人が、自分や他人を愛していると主張しているわけではありません。というよりも、現在の多くの宗教は、必ずしも、そうできていないと思います。場合によっては、自分も他人も本質的に愛することが出来なくなる歪んだ信仰があります。
また、自分や他人を愛している人は、神仏や宗教を信じるはずだとも主張していません。特定の神仏や特定の宗教を信じていなくても、自分や他人を愛することは可能だからです。ただし、そういった人の場合は、広い意味での宗教性、例えば、人智を超えた何かを尊重する謙虚さ、というものがあると解釈できる場合が多いと思います。
そして、日本人の場合は、後者の宗教性は非常に高いと思います。言い換えれば、それこそが、日本的な宗教性であると言うことが出来ると思います。
読売新聞が特集した「日本人の宗教観」という世論調査によると、「宗教を信じている」という人は3割以下にもかかわらず、日本人の半数以上は、「自分たちの宗教心は薄くない」と考えており、さらに、「自然の中に人間の力を超えた何か」を感じ、日々の暮らしでは、「墓参り」「初詣で」などを宗教色を意識せずに受け入れています。
1宗教を信じているかどうか 「信じている」26,1% 「信じていない」71,9%
2日本人は宗教心が薄いと思うか? 「そうは思わない」48,9%、「そう思う」45,1%、
→特定の信仰の有無と、宗教心の有無が一致しない。日本人特有の宗教観。
「そうは思わない」と答えた人が最も多かった年齢層は40歳代の54%。3先祖を敬う気持ちは? 「持っている」が94,0% 「持っていない」4,5%
→年代別でも、「持っている」は、20歳代でも86%、30歳代以上で9割超を記録4自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがあるか? 「ある」56,3%、「ない」は39,2%
→「ある」はすべての年齢で5割超、「宗教を信じていない人」と答えた人でも51%5日常生活の中の宗教的行為
1盆や彼岸などにお墓参りをする 78,3% →「宗教を信じていない」と答えた人でも77%。
2正月に初詣でに行く 73,1% →「宗教を信じていない」と答えた人手も74%。
3しばしば家の仏壇や神棚などに手を合わせる 56,7%6死んだ人の魂については、
「生まれ変わる」29,8%、「別の世界に行く」23,8%、「墓にいる」9,9%、
「消滅する」17,6%。「魂は存在しない」9,0%。
→何らかの形で死後の存在を信じている人が過半数を超えている。皆さんは、どうでしょうか。神や仏の存在を信じていらっしゃるでしょうか。そして、信じているという人は、どういう意味で信じているでしょうか。信じていないという人は、どういう意味で信じていないでしょうか。良く考えると、信じていると考えている人が、別の視点では信じておらず、信じていないとした人も、他人から見ると信じている人に見えるかもしれません。
そして、ひかりの輪は、この日本的な宗教心、宗教性、霊性といったものを大切にしています。例えば、純粋な自然の聖地に行くことがあるのも、その一環です。また、最近は、一般にも、聖地に行く人が多くなっているようですね。
さて、次回は、科学の世界から、神仏の存在との接点をみたいと思います。それは、非常に興味深い内容です。例えば、人智を超えた超越した何か(=神仏?)が、個々の存在が互いを助け合うように役割分担をしているとも解釈できる、科学的事実もご紹介します。
なお、私自身は、早大の大学院を卒業した科学指向と、その後の宗教人生を双方を抱えている人間です。また、オウムでの過ちから、盲信を超えることをテーマとしています。そういった視点から、宗教好きの人も、宗教好きでない人も、どちらの方でも、利益になるお話ができれば、と思います。
※付記
神道と仏教が融合した神仏習合の文化を持つ日本らしく、神と仏を一体と見て、神仏と表現させていただいています寂しさ・卑屈を超える大乗仏教の智恵3 (2010年08月05日)
前回までに、短所と長所は裏表であるということをお話ししました。よって、人は誰も、他人と比べて、優れていたり、劣っていたりはしません。すべての人が、何かに優れ、何かに劣っているのです。
これは、人と人の間には、確かに違いはあるが、その違いは「個性」であって、優劣ではない、という意味を持ちます。そして、更に重要なことは、その個性の違いは、単にその人自身のためのものではなく、その人が、「全体に対して果たす役割」を示し、皆が違うことによって、お互いに助け合っているという考えです。
例えば、前回の例のように、様々な物事において、それを他の人より先に実現できる能力がある人と、様々な障害のために、遅れて実現する人がいます。この場合、後者は、その人と同じように、その実現に障害を持つ人を助ける役割があると解釈できます。そして、前者は、皆の見本・モデル・先駆者となるという役割があると解釈できます。
そして、この両者は互いに助け合っています。前者は見本・モデル・先駆者として、その物事に道筋を作って、後者を助けます。しかし、後者があってこそ、その道筋は、多くの人が進める太い道となり、この世界で、現実に有意義なものとして、確立します。この話は、仏様にさえ当てはまると思います。仏教が説く二人の仏、すなわち、釈迦牟尼と弥勒菩薩もそうです。釈迦牟尼は、2500年ほど前に既に悟った、仏教の開祖です。一方、弥勒菩薩は、それから遙かに遅れて56億7千万年後に悟るとされています。
しかし、弥勒菩薩は、釈迦牟尼より遙かに多くの人達を、悟りに導くと言われています(経典の表現では約270億の人だから、全地球の人口か)。その意味で、先に悟った釈迦牟尼は、仏陀・如来と呼ばれていても、決して完全無欠な存在ではなく、弥勒菩薩を初めとする、その後の無数の仏陀の助けによって、その教えが、真に全ての人々・生き物を救うものとしての価値を発揮していきます。
よって、弥勒菩薩は、釈迦牟尼を補完する仏陀とも言われます。これは、釈迦牟尼が弥勒菩薩より優れているということでもなければ、その逆に、弥勒菩薩が釈迦牟尼より優れているということでもなく、両者には、それぞれの役割があって、お互いを助け合っていると解釈できます。
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こうして、人と人の間の違いが、優劣ではなくて、お互いを助け合う上での役割の違いである、という考え方は、人の体の中の各細胞の働きとよく似ています。
成人した人間には約60兆もの細胞があると言われていますが、その中には、頭、手、足、そして、各臓器など、様々な細胞があります。そして、これらの細胞は、例えば、頭があれば、手や足は要らないということにはなりません。皆が互いを互いに助け合っており、互いがあるからこそ、互いが存在しています。
そもそも、この60兆の細胞は、皆が一つの細胞(父親の精子と母親の卵子が結合した受精卵)から細胞分裂して生じたものであり、同根です。同じ一つのものから発生し、今でも、お互いがお互いを助け合って、一体となって存在しています。お互いがなければ、お互いが存在しないほど、密接不可分に助け合っています。
そして、仏教やヨーガの思想には、この人間の体と小宇宙とみて、大宇宙と相似形と考える思想があります。良く考えると両者は、ともに一点から成長した点でよく似ています。人間の体は受精卵から、大宇宙はビッグ・バンから。
そして、宇宙の万物も、人の体の中の細胞のように、互いに助け合って、互いがあるからこそ、存在しています。例えば、人は、自分だけで生きることは出来ません。空気・水・他の生き物の犠牲である食べ物に、支えられて生きています。地球・宇宙全体に支えられています。
また、自分も死ねば、その体を構成していた有機物が、他の生き物の体に使われます。再利用、リサイクルされるわけですが、そのリサイクル率は、ある科学者によれば99.9%という非常に高いものだそうです。こうして、自分の生は、他の生き物の死に支えられ、自分の死が他の生き物の生を支え、お互いを支え合っている関係であることが分かります。
では、次回は、この点をもう少し深めてみたいと思います。これは非常に興味深いテーマです。なぜなら、そこに、神とか、仏とされるものが、宗教と科学が融合した形で、かいま見えてくるからです。
※参考 事物が相互に依存していること(縁起の法)万物が相互に依存してあって存在するというのは、仏教の根本教理であり、縁起の法(えんぎのほう)と言います。これは、一般には、縁起が良い、縁起が悪いなどと言いますが、この言葉の本来の意味は、縁が条件、起が生起するという意味であり、(あらゆる)事物は、そのものだけでは生起せず、何かの条件を得て生起しており、言い換えれば、相互に依存し合って生起する、という意味です。
寂しさ・卑屈を超える大乗仏教の智恵2 (2010年08月04日)
寂しさを超える大乗仏教の智恵の第二回目として、善と悪、ないしは、優と劣の区別・二分化を超える教えのご紹介です。ひかりの輪では、これを観音菩薩の教えと呼んでいます。
現代の社会は、競争社会のため、優れている人と劣っている人を強く区別するのが普通になっています。最近は、勝ち組・負け組といった言葉も良く聞かれます。
その中で、自分はだめだ、自分には価値がない、自分は誰にも愛されていない、必要とされていない、自分は生きていていいのだろうか、と思う人が増え、卑屈・自己嫌悪・絶望感に悩み、鬱になったり、自殺する人が増えていると思います。これが、強い寂しさの原因となるのは間違いありません。
優と劣の区別・二分化を超える教えとは、そもそも、真実の眼差しで、この世界を見るならば、優れている者と、劣っている者の区別・違いなどは存在せず、あらゆる存在が、それぞれ、全体に対する役割を持っており、尊い存在である(=神仏の現われ、ないし、神仏の一部)、というものです。仏教的には、「万物・森羅万象は、平等な仏の現れ(仏性の顕現)」と言います。
一方、ご存じのように、私達の常識は、「この世界は、優れている者と劣っている者、良い者と悪い者があるに決まっている」と考えています。しかし、そういった常識に流されずに、純粋な知性で、深く考えてみると、優劣の区別は、私達が日常で考えているようには、存在しないことが分かるのです。
では、具体的には、どのような考え方によって、全てが平等に尊いと考えられるかについて説明したいと思います。
第一に、一般に劣っているとされる人は、同じように劣っている人の気持ちが分かります。しかし、優れている人は、その人達の気持ちは分かりません。場合によっては、他に勝つことばかりしていると、冷たい人間になる恐れがあります。こうして、他の苦しみを理解できる人になる、優しい人になろうとすれば、単純に優れていることが有利ではありません。
第二に、劣っている人が、諦めずに努力して、その欠点を克服すると、同じように劣っている人が、欠点を克服することを手助けする力が備わります。しかし、優れている人は、劣っている人が、どういった具体的な困難・障害を抱えているかを体験的に理解できませんから、それは難しいと思います。
この一つの例ですが、先日会ったある男性が、「自分は物覚えが悪く、人の何倍も時間がかかりますが、そのためか、会社で新人研修の担当のなることが多いのです。他人がどこで分からなくなるか、というのが、できの悪い自分は、全部分かるからです。」と語っていました。こうして、多くの他を助けることができる人間になろうとすれば、単純に優れていることが有利ではありません。、
第三に、自分の力が劣っている人は、物事を成就させる上で、優れている他の力を活かすことができる可能性があります。自分の力が優れている人は、自分で出来てしまいますから、他の力を活かすことが出来ない可能性があります。こうして、他を活かして幸福になろうとするならば、単純に優れていることが有利ではありません。
その好例が、私が好きな、昭和期最大の実業家である松下幸之助氏で、彼は、「自分は学が無かったから、他から謙虚に学べた。体が弱かったから、他に頼むこと・活かすことを覚えた。お金がないから、(お金持ちのところに)丁稚奉公に行って早く商人の才を得た」と語っています。こうして、学力・体力・財力に劣っていた人が、他の学力・体力・財力を活かして、昭和経済界の頂点に立ちました。
こうして、他に勝って、他に優位に立って幸福になろうとすると、自分が劣っていると思いこんで、苦しみますが、そうではなく、他の苦しみを理解し、他を手助けし、他を活かすことによって、幸福になろうとすると、自分の欠点が、逆に長所でもあることに気づきます。
よって、欠点と長所は裏表に過ぎず、裏に長所のない欠点はなく、裏に欠点のない長所もない、ということになります。絶対的な長所や短所はないということにあります。しかし、物の考え方が一面的だと、(絶対的な)欠点とか、(絶対的な)長所がある、という錯覚が生じて、卑屈・自己嫌悪に陥ったり、逆に慢心に陥ってしまう、という心の歪みがあるということです。
そして、言い換えれば、劣っている人・優れている人という区別は、客観的に実在するものではなく、人の心の中の、偏った考え方が作り出しているに過ぎない一種の幻影、実体のないものと考えられます。
次回は、この点を更に深く考察してみたいと思います。
寂しさ・卑屈を超える大乗仏教の智恵1 (2010年08月04日)
寂しい人が多いと思います。皆さんはどう思われるでしょう。
もちろん、寂しい人の大半は、自分が寂しいとは言わないし、
一部の人は、寂しさに気づいていません。
また、寂しさを背景に、他人にかみつく人もいます。
ネットであらす人なども、そういう人が多いと思います。
ところで、ひかりの輪では、大乗仏教の法則と心理学などを土台とし、
現代の人に分かりやすく表現した教えとして、一元の法則というものを
説いていますが、この教えに基づいて、寂しさを乗り越える考え方
をご紹介したいと思います。この法則には、三つの切り口があり、それぞれ、
楽と苦の区別・二分化、善(優)と悪(劣)の区別・二分化、
自と他の区別・二分化をし過ぎていることが、
様々な苦しみをもたらしているため、それを乗り越える考え方が、
苦しみを取り除くと考えます。そして、三つの切り口は、それぞれ、釈迦牟尼の教え、観音菩薩の教え、
弥勒菩薩の教えと呼んでいます。最初の苦と楽の区別・二分化を超える教えとは、
今得られていない他人の愛や幸福を考えてばかりいるのではなく、
与えられている愛や幸福に気づいて、その大きさを考えて、
感謝し、それを与えている万物に感謝すること。そして、今経験している苦しみも、実は、その裏に喜びがある、
祝福、導きがある、愛の鞭である、ということを考えて気づく、
言わば、逆転の発想です。これに習熟すると、自分の周囲の全ての現象に感謝が生じて、
ついには、全てがありがたい、という感情に近づきます。寂しさは、自分が受けいられていない、自分が愛されていない、
自分を愛してくれているものを失った、という心の働きから
来ていると思います。
それに対して、上記のように、今自分が得ている愛と幸福や、
苦しみに裏にある喜び、祝福、導きについて考え、
様々な感謝の気持ちを増大させて、乗り越えていきます。しかし、寂しさというのはなかなか強烈な感情ですから、
この法則に加えて、次回以降、他の二つの切り口についても、
続けて、お話ししたいと思います。
※付記:遭難死された日テレ記者北優路さんについて
寂しさいついて書いた後になんですが、北さんは、ひかりの輪を初期の頃、
よく取材されたことがあり、広末副代表の知り合いでした。
団体を代表しまして、心から哀悼の意を表します。
関連する広末副代表・広報部長の日記
出会いと別れの1日--オフ会と日テレ・北記者の死
オフ会 多様な人々との出会い (2010年08月02日)
8月1日の東京での説法会(昼)とオフ会(夜)は、
実に様々な方との出会いがありました。
特にオフ会は、前回よりも更に多くの方に集まっていただき、
50人用の会場がほぼ一杯となりました。宗教に興味のある方や、全くない方、
伝統宗派の方や、以前もオウムに触れたことのある方、
超能力を信じる方や、信じない方など、様々な方の中で、
特に、印象的だったのが、まず、芸能関係の人との出会いでした。シンガーソングライター、グラビアアイドル、元女優の方など。
皆女性の方でしたが、来たいと言われていて、都合のつかなかった方の中には、
男性の方もいらっしゃいました。これは何の縁だろうか?ただ、一つ思いつくことは、宗教家とアーティスト・芸能関係は、
似た部分があるということで、それは、その成功の是非は、自分の努力は
もちろん必要ですが、多分に、神様が決めると言うことです(笑)。
だから、余り他人の真似をせずに、自分に与えられた才能を信じて、
思い切ってやってください、とお話ししました。それから、マスコミ関係の方。ネット関係の著書も多いライターの方、
例のHPに寄稿されているフリーライターの方々のグループ。
これは、昔から報道関係の方には縁があるから、自然な流れか。
そして、私に本を書かないかという話しが、ある大手出版社の方から。
ひかりの輪の関係者では、まず宗形さんの本が既に出ており、次に、
広末さんの本が出る予定です。そろそろ、自分の本の話しも来るかなと
思っていたところでした。ただ、本を書くというのは一仕事ですから、
タイミングを見ると、秋以降か。それ以外にも、様々な方々にお集まりいただき、会議室の後は、
ファミレスでの二次会まで、
夜遅くまで参加いただきました。皆さんに、深く御礼申し上げます。千葉大臣が死刑執行、時代の変わり目 (2010年07月29日)
就任以来、死刑執行を止めていた千葉大臣が、批判に耐えかねた感じで、死刑を執行しました。昨年は、死刑反対の大臣の就任と言うことで、死刑執行の見通しが立たなくなった時期がありましたが、最近の流動的な政治状況の中で、それも変化の時を迎えました。
こうなると、オウム関連では、次なる関心事は、麻原元教祖の死刑の執行がいつになるか、ということです。ある新聞報道では、判決確定後、5~6年が執行時期の平均値だそうですが、麻原の死刑判決の確定は2006年秋、それから、もうすぐ4年となります。
また、最近は、重大な犯罪などは、平均値よりも早く、判決確定後1~3年ほどで執行されるケースもあります。麻原の事件は言うまでもなく、昭和期最大の事件ですから、平均値を上回る可能性もあります。
麻原の弟子達の裁判が未了のために、麻原の執行を止める必要があるのではという見方も、弟子達の裁判がそろそろ全て終わりに近づいており、さらには、本人は証言能力の無い状態のために、だいぶ薄くなってきたようです。今後どうなるかは、神のみぞ知るということになりますが、あえてもう少し何か予測できないかとなれば、出来ることは占星学による予測ぐらいですが、インド占星学で予測した結果では、今年の末から来年以降が、執行の可能性が高いと思われるということでした。
さて、ひかりの輪は、既に麻原信仰からの脱却を終えていますから、スタッフ・会員が、死刑執行に影響を受けることは全くないと思います。麻原の死刑執行は現行法制下では当然のことと受け止めています。ただし、私達が脱会したアレフは、麻原信仰をむしろ強めていますから、その死刑の執行は、一定の精神的な影響を与えると思います。この重要で複雑なテーマは、いずれ議論する機会が来ると思いますので、今日は、なるべく客観的な事実や将来予測だけに、お話を絞りたいと思います。
それはともかく、自分の周囲では、最近は、時代の変わり目にあると思うことがたて続いているように感じます。今年は、年初から、ひかりの輪創設以来3年で、大きな節目と考えていましたが。
今日は、長野の小諸道場にて瞑想しました。前回に引き続き、良い瞑想が出来て、大乗仏教の教義の理解が深まりました。これについては、分かりやすい表現で、説法会などでお話ししたいと思います。
そして、今日も虹が出ました。柱のように立つ美しい虹です。誰が見ても美しく感じる虹は、吉兆と解釈されることが多いでしょう。仏教的には解脱の象徴であり、天かける龍と解釈する文化があります。そして、一説には、変化の時を現すとも言います。
※付記
占星学で予測というと違和感のある方もいらっしゃると思いますが、私も、これを盲信している訳では全くありません。ただし、インド占星学は、インドでは大学で教えられるなど、霊的科学と位置づけられる精密さを持っており、過去の鑑定が的中したかを綿密に検証するなど、統計科学的な色彩を有しています。また、必ず当たると主張する訳でもなく、ある現象が起こりやすい時期を示すとされています。また、これまでの検証から、麻原は、インド占星学上、闘争の意味合いがある火星が強くなる時期に、ちょうど社会と対決状態となる傾向があると思われ、それは何故かというと、一つ前の火星の強い時期が、サリン事件で逮捕された1995年であり、二つ前の火星の強い時期が、ほぼ薬事法で逮捕された時期(オウム真理教を開く前)にあたるからです。そして、今度火星が強くなるのが、今年の年末から来年ということです。
第二回のオフ会を東京で開催 (2010年07月28日)
来る8月1日(日)の午後6時30分から、第二回のオフ会(懇親会・座談会)を行いたいと思います。
7月11日に初めてのオフ会を開きましたが、その際、色々な方から好評を頂いたこと、また、残念ながらその日には来れなかった方も多くいらっしゃったことがあって、この第二回を企画しました。
内容としては、前回同様、私の方から、一般の方にも分かりやすいお話をさせていただき、その後は、参加者の皆さんの間でのフリートーク・座談会の時間として、全体で2~3時間です。
なお、お話の合間には、リフレッシュのために、どなたでもできる簡単なヨーガの体操などをお教えすることも考えております。参加費は1000円(学割あり)となっております。また、会議室の後は、有志の方で、近くのファミレスで、2次会も行なう予定です。
場所は、都心の一般施設の会議室で、お越しになりやすいように、駅からすぐのところにしましたので、お気軽に、ご参加いただければと思います。
なお、場所・日時の詳細は、ご参加の可能性のある方に、改めてお知らせしたいと思いますので、なるべく早めに、オフ会の幹事の細川美香さんに、ご連絡ただければと思います。
tokyo@hikarinowa.net(細川美香)
また、これは、懇親会を目的としておりますので、オフ会自体を取材したいといったような、別の意図をお持ちの方には、ご遠慮いただくことがありますので、あらかじめご了解ください(もちろん、報道関係の方でも、個人的な興味をお持ちである方は大歓迎です)。
それから、今回ご都合の合わない方に、事前にお知らせしておきますと、第三回のオフ会は、9月19日の日曜日に行いたいと思います。今回無理な方がいらっしゃいましたら、ご検討いただければと思います。
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※付記
8月1日は、夜のオフ会だけでなく、昼から、東京道場での説法会も行ないます。一般の方向けの説法や応対の時間もあります。
夜のオフ会は都合がつかない方でも、昼ならばという方や、オフ会より、ひかりの輪について、もう少し深い内容を知りたい方がいらっしゃいましたら、こちらをお勧めします。参加方法のご連絡は、オフ会同様、細川さんまでお願いします。
故郷、福岡での勉強会 (2010年07月26日)
今日は、生まれ故郷の福岡に来て、午前11から会員の方と勉強会を行い、
午後2時から一般の方との座談会を行いました。20畳ほどの道場が、
前回同様一杯となるほど、大勢の方が来られ、賑やかなイベントとなりました。さて、勉強会では、大乗仏教の教え、21世紀のための宗教の改革の話し、
心身を霊的に浄化するための祭壇や法具の使い方などとお話ししました。
また、他地方の会員のために、インターネットで生中継もしました。次の座談会では、来られた一般の方の質問を中心にしてお話ししました。
ヒーリングをやっている方の悩みや、会社での人間関係における怒りや、
ストレスといった、悩みなどとお答えしました。その中で、物事を達成する上での心構え、邪道に走らず無心に取り組む重要性、
自分とよく似た人に怒りが生じやすいという、気づきにくい人の心の仕組み、
心身の緊張をほぐし、エネルギーを充実させるヨーガの体操や呼吸法
などのお話しをしました。一般の方の中では、ネットで知り合った方を含め、全く初めて方が、
3名ほど来られました。その中には、私と同じ年で、私の出生地のごく近くに
お住まいの方がいらっしゃっいました。
私の生まれたところは、福岡県三潴郡で、近くには久留米市などがあり、
ここの出身で同年代で有名な方としては、根強い人気をお持ちの松田聖子さん
などがいらっしゃいます。故郷を離れて東京に移り住んで40年以上経ちますから、だいぶ変わったと
お聞きしましたが、定期的に福岡には勉強会・座談会で来ている中で、今回は、
珍しくも、ふるさとに来たという実感が沸いた1日でした。
暑い中、参加された皆さんに心から感謝いたします。
千葉の説法会とツィッターの勉強 (2010年07月25日)
今日は、千葉道場の説法会に来ています。
千葉道場は普通の一軒家で、講話を行なうのは、
1階の二十畳もない部屋ですが、
ネットで知り合った一般の方(5名ほど)を含めて、
普段より多くの方に来ていただき、満席の状態となりました。講話では、大乗仏教の一元的な思想のお話、21世紀のための宗教の革新のお話、そして、霊的な修行法のお話などをしました。
真夏日と満席といった二つの要素による熱気に汗をかきながら、約2時間ほどの講話を終えて、今ちょうど日記を書いています。明日は、羽田空港から、遠く福岡に行って、一般の方との集いと、ひかりの輪の会員の方の集いの双方を行います。皆さんのお越しをお待ちしています。
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今しばらくしたら、ミクシィに加えて、
ブログとツィッターを始めようかな、と思っています。ツィッターは全くの初心者なのですが、自分の回りも皆初心者なので、
教わる人も余りおらず、今から勉強という段階です。先日、講演したロフトの主宰者の平野さんがツィッターを使っていると聞いたので、彼のツィッターの書き込みなども見ながら勉強していますが、
初心者だとなかなか気づかない、よい使い方があれば、アドバイスいただければ幸いです。
本日、トークショーに出席します (2010年07月21日)
昨日20日は、広島から大阪道場に午前1時頃に戻って休みました。そして、朝10時くらいに大阪も出発して、奈良の平城京を見学し、夜になって、東京に戻りました。
こうした慌ただしさでしたが、東京に帰っても、いわゆる、貧乏ひまなし、という状況が継続しております。まず、深夜にかけて、今週末の24日の千葉道場での説法会と、25日の福岡での勉強会等の打ち合わせを行ないました。
そして、日が変わって、21日になり、今日記を書いていますが、今日21日は、トークセッションに招かれており、それに出席する予定です。会場は既に満席だそうですが、その内容が、ニコニコ生放送とUstreamで、生中継されるようであることを、知人が教えてくれました。以下が、その宣伝内容の転載です。
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日本中に旋律が走った地下鉄サリン事件より15年。カルト新興宗教団体のオウム真理教元幹部、上祐史浩氏が語るオウムの真実!!
あの「オウム真理教」とは何だったのか?分裂したとされる各派の幹部たちを招いての直撃トークセッションを行います!ロフトの席亭・平野悠が各界の著名人を招いて贈るタブー無き突撃トークセッション!まさに予測不可能なイベント。乞うご期待!!【出演】 平野悠(ロフト席亭)、岩本太郎(フリーライター)
【ゲスト】 上祐史浩(「ひかりの輪」代表) 広末晃敏(「ひかりの輪」副代表兼広報部長)
野田成人(元オウム真理教幹部) 鈴木邦男(一水会顧問)
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この21日のトークショーが終わると、週末の説法会に備え、真夏日が続く中、多少休息をとり、エネルギーを充電できれば、と思っています。皆さんも暑い中、ご自愛下さい。
厳島巡礼と広島勉強会 (2010年07月20日)
本日は、真夏日の中で、日本三景で有名な、広島県宮島は厳島神社を参拝しました。
海辺の上に浮かぶ鳥居と境内で有名で、それに合わせて、祭る神も、水の神様、
仏教での名前は弁天様(弁財天)。推古天皇・聖徳太子の時代に始まり、平清盛が造営した、他に類を見ない
小島の海辺にある神社。
午前に到着した時は、引き潮で、鳥居の所まで干上がっており、
夕方前に、再び参拝すると、満ち潮で、鳥居境内が海辺に浮かぶ。
さすがに日本三景の一つ。正に水の神の社でした。その後、近くの聖山、弘法大師空海ゆかりの弥山も登山・参拝。
真夏の日差しに汗だくになりつつ、(それほど大変ではありませんでしたが)、
心身共に暖まり、良い汗をかき、良い修行が出来ました。その夜は、6時から広島の会員と一般の方と共に勉強会。
また広島に行くときには、今回お会いできなかった広島の方にも、
お会いしたいと思います。
大阪道場の説法会 (2010年07月19日)
(2010年7月18日の日記)
今日は、大阪道場での説法会。移転したばかりの新道場で二回目の説法会。多少はスタッフ一同、慣れも出てきたかと思いますが、今後の課題も見えてくるイベントでした。二部構成で、第一部が一般の方向けの講話。ネットで生中継されました。皆さんの中でも聞かれた方がいらっしゃると思います。また、本日も再び、ネットで知り合った方が直接、道場に来られ、参加され、講話の後で、個人的にもお話しする機会を得ました。
二部は会員向けの講話。クンダリニーヨーガを含めた霊的な修行の話し。クンダリニーヨーガの体験プロセスから、自宅の霊的な浄化や、守護法具による心身の霊的な浄化の方法を含めた、霊的なスピリチュアルな内容としました。
梅雨も明けて、真夏日で、数十人が入った道場で、一番大変だったのは、エアコンか。全力フル回転で働いてくれました。今ようやく夕方5時、多少日差しも弱くなってくる頃。あと一息といったところです。
主要イベントは終わったものの、これから会員の方との個人面談・指導が残っており、それは、夜遅くまで続きます。大阪道場は、ひかりの輪の中でも、大きい方の道場で、説法会の日のスケジュールも、夜一杯まで。
そして、明日は、いよいよ広島での集い。その前には日本三景の一つの厳島神社に参拝の予定。集いには、はじめてお会いする方も何名が来られるという連絡が入っており、楽しみにしております。
名古屋の説法会 (2010年07月19日)
(2010年7月17日の日記)
最初、インターネットによる中継システムの不具合で、30分ほど遅れ、一部の方にご迷惑をおかけしましたが、ほどなく回復し、その後は、つつがなく終了いたしました。参加者の中には、ネットで知り合った方も、3人ほど参加されて、興味深い質問や、他宗教の情報も頂いたりして、普段より、新鮮なものとなり、心から感謝いたします。梅雨明けも言われる中、団体を取り巻く変化をを感じます。
さて、講話の中心は、すべての人を平等な仏の現れと見るお話についてですが、これについては、後日、ひかりの輪の公式HPにアップさせていただきと思いますので、ご関心があれば、ご覧下さい。
明日はいよいよ大阪道場となりますが、ここでは一般の方向けの講話を行い、それがネット生中継される予定ですので、よろしくお願いします。
雷と虹、そして、瞑想での気づき (2010年07月19日)
(2010年7月17日の日記)
本日は、名古屋の説法会でした。今、長野の小諸市の道場に来ています。ここは浅間山がよく見え、自然が豊かなので、心身を浄化するために、時々来ます。
今日は日が暮れるまでは、瞑想の日を決め、山間部の温泉に入った上で、くりかえし瞑想をしました。
その間、繰り返し雷が鳴りました。雷鳴と共に、前の山の上に、稲光が輝く。深い思索と連動して、神聖な時間でした。
この瞑想でとても良い気づきがありました。この世の万物は平等な仏の現われ、という大乗仏教の教えについてです。
現代の多くの人が苦しむ、他への嫌悪・怒り・、そして、卑屈・自己嫌悪・妬みから、解放される教えです。今後の説法会などでお話ししたいと思います
経典の言葉は、それを知るだけでは不足で、自分の日常生活に完全に当てはまってこそ、心が解放されると思いますが、それが前より相当よく、実現できた感じがしました。----------------------------------------------
さて、瞑想を終えて、車に乗り帰る途中、水野さん(ひかりの輪の副代表)が、「少し前に目の前に虹が出たので、代表の瞑想がうまくいったのではと思いました」と話してきました。
彼女がこういう理由は、ひかりの輪の修行者は、これまでも、精神的な進化と、虹や雷の天空・自然の現象が連動することが多いからです。そして、そのため、団体のマークにも、虹を使っています。
大自然を母と見る思想がありますが、自分は体験上も、宗教も自然が育むものだ、と感じます。
さて、明日からは、いよいよ長野道場を後にして、17日が名古屋道場の説法会、18日が大阪道場の説法会、そして19日が広島での集会に行きます。それを前にして、良い1日となりました。
そろそろ、平年なら梅雨明けが近づくころ。皆さんの毎日にも、晴れ間が広がるよう、お祈りします。
選挙と社会占星学 (2010年07月19日)
(2010年7月13日の日記)
選挙で、野党が勝ちました。実は、この結果は、ひかりの輪がインド占星学を元にして数ヶ月前から鑑定・予見していたものとほぼ一致していました。具体的には、6月を転機に、選挙は野党が強く、与党は分裂気味で、与党と野党が繋がっているという鑑定でした。ひかりの輪では、専従スタッフの斎藤さん、会員さんなど、インド占星学の専門家がいます。そして、個人の鑑定と、社会・国家の鑑定の双方があります。
しかし、占星学は色々です。研究・実績・根拠の乏しいものも多いですが、インド占星学は、インドの大学ではカリキュラムにもなっているとも聞いており、霊的な科学とも表現されます。
占星術師もいろいろです。根拠もなく、人の運命を断言する、霊能者みたいな人もいます。インド占星学の第一人者は、全てが当たるわけではないと明言しています(婚期の的中率は7割ほどだそうです)。そして、鑑定結果をどう解釈するかもいろいろです。変わらない運命と考える人もいます。インド占星学は、そもそもは、ヨーガの修行を助けるために用いられ、様々な努力で、運命を変えることができるとし、その鑑定チャートも、その人の成長のために、天空に描かれた一種の(神様からの)メッセージと考える人もいます。
最後に、究極の鑑定とは、善・悪、吉兆・凶兆の区別を超えたものだと思います。楽の裏に苦あり、苦の裏に楽あり。好事魔多く、不幸も塞翁が馬。失敗は成功の元で、成功は慢心の元。苦労は買ってでもしろ、といった具合に。どんな人のどんな鑑定も、本質的には、善悪を超えて、その人だけの個性的な人生の輝きを示していると思うのです。大乗仏教の考え、万物は仏の現れと同じ思想です。
その意味で、民主党も、今後の努力いかんによっては、今回負けて反省できて良かったと思える日が来るかもしれませんね。
ともかく、世の中で占星術ブームが続く中、占星学にはまらず、騙されず、一喜一憂せず、自分の成長のために活用する霊的科学の手段として、どうしたらいいか、今後日記の中で多少書いていこうかなと思います。
さて、今週は、週末17日に名古屋道場で説法会、18日に大阪道場での説法会、19日は広島で集まりを行なう予定です。一般の方も、歓迎いたします。ご関心が有れば、ご連絡下さい。
長野道場を後にして、仙台の説法会へ (2010年07月04日)
今日は、朝早くおきまして、長野道場を後にして、仙台道場での説法会に向かいました。
昨日の長野道場は、改装なった道場で、気持ちの良い説法会が出来ました。この一両日で、新しい方も、何人か来道され、また、知人の方の中からも、
今後来たいという話しがあって、道場の改装と共に、その活動にも変化の兆しを感じました。仙台道場は、改装の話しはなく、あったとすれば、新しくエアコンがつきました(笑)。
すごく暑くなるからと、私の来訪に備えて、私の使う部屋にも取り付けたようですが、
本日は、幸か不幸か、非常に涼しく、今のところ、出場機会無しで、午後に気温が上がってくれば、という状況です。そんな仙台より読者の皆様に愛を込めて、
暑中お見舞い申し上げます。
ご自愛下さい。長野道場の改装と上高地の巡礼 (2010年07月04日)
2010年07月03日の日記
今は、ひかりの輪の長野道場に滞在しています。長野は小諸市にあります。滞在しながら、スタッフと共に、道場の改装をしております。古くなった畳の上にござを張り、障子を張り変え、外壁のペンキを塗り替え、ぴかぴかになりつつあります。実は、私は、掃除とか、改装とか、美化することが好きな人間です。占星学でも芸術・美術の象意が強いとなっています。
オウムを脱会し、ひかりの輪となってから、その道場は、少なくとも前よりは、綺麗なものとなりました。その中で、長野の道場は、一番美化が遅れていました。よって、今回、東京・大阪の道場の改装に引き続き、改装となりました。
そして、本日7月4日に、ここで説法会という予定です。ちなみに、この道場の担当者は、斎藤友希さん。占星学やヨーガが得意な女性。
さて昨日は、日本有数の山岳景勝地である上高地に出かけてきました。ひかりの輪では、聖地巡礼という修行があります。しかし、上高地には自然信仰はあっても、特段の神社仏閣はありません。しかし、その純粋な自然があまりにも素晴らしいので、聖地と位置づけています。そして、上高地=神降地と見て、神が降りる地という解釈もあります。
日本第三位の高峰である穂高岳、雪解けの水が美しく透明な梓川、高山植物の様々な緑や花々、活火山である焼岳とその噴火で出来た美しい池や温泉といった純粋な自然が、標高1500Mの高地としては、他に類を見ないほど広々とした空間が広がっています。
ここに来ると、自己中心の心が弱まって、意識が大きく広がります。まさに、自然の中の仏を感じるところです。皆さんも機会が有れば、ぜひお越しください。ひかりの輪としては、9月に団体として訪問する予定です。
東京の説法会 (2010年07月04日)
2010年06月29日の日記
6月27日は、東京本部で説法会を行いました。蒸し暑い1日でしたが、一般の方に10名以上参加いただき、会員の方と共に、盛況となりました。ネット上で知り合った方からも、多くの方がいらっしゃいました。心から御礼申し上げます。第一部では、多少、ヨーガ・気功の行法をご紹介した後で、一般の方向けの講話として、大乗仏教の思想を現代語に噛み砕いた話しをしました。また、これは、ネットの生中継で、自宅で視聴された方もいらっしゃいました。
そして、第二部では、クンダリニーヨーガの霊的な修行の話をして、その後、15分ほど、簡単な密教的な修行をご紹介しました。一般の方の中で、第二部にも参加された方にいらっしゃいましたので、やや専門的ですが、なるべく分かりやすく説明させていただきました。
講話の後は、一般の方と、個人的にお話しする機会を頂きました。自分の旧知の友人から、ヨーガの先生の方、そして、大学生の方まで、様々な方々とお話しする機会を得ることができました。
次は、8月1日に行う予定ですので、皆さんも、ご関心があれば、是非ご参加下さい。東京以外の地区=長野・仙台・名古屋・大阪・福岡・千葉・横浜は7月中に行います。
詳しくはhttp://www.joyus.jp/hikarinowa/news/news/1878.htmlまた、今回の講話の内容は、公式HPの方にまもなく掲示する予定となっていますので、これもご関心があれば、ご視聴いただければと思います。
http://www.joyus.jp/movie/00200911/0012_13_2010627_56min.html週末の説法会の準備の日 (2010年06月26日)
(2010年06月25日の日記)
今日は、週末の説法会に向けた準備をしています。土曜日は、横浜支部道場、日曜日は東京本部道場。こうして、月末は、ひかりの輪の本部での説法会が行われるのが通例となっています。東京道場は、大きな変化が始まりつつあるように感じます。道場の中の御尊像が、一部ですが、追加・改善されると共に、これまでとは道場への入り口ルートが変わります。
さらに、一般の方が相当数、来道される予定があって、普段とは違った時間割と部屋の使い方で対応する必要があり、細川さん(ひかりの輪・東京道場担当指導員)を含めたスタッフは、その準備に大忙しです。
実は、先々週に、福岡の勉強会に行った時、10名ほどの一般の方に参加いただいたのですが、普通のマンションだったもので、部屋が一杯になり、その反省に基づき、十分な空間と時間の確保に努める予定です。
なお、恒例となりましたが、6月27日(日)の東京での説法会は、午後1時より、一般の方向けに、講話をさせていただく時間を設けており、その内容をインターネットで生中継しますので、皆さんの中で、ご関心のある方がいらっしゃればと思い、今回も、お知らせすることにいたしました。講話の内容は、私が、これまで探求してきた、この世界や、人の心の問題の考え方などです。大乗仏教や諸宗教の教えがベースですが、心理学や科学の知見も組み合わせて、宗教を知っている方でも、そうでない方でも、分かりやすく、日常の生活に役立つ内容にしたいと考えております。また、時間が許せば、私が時々巡礼する聖地や、そこでの興味深いスピリチュアルな体験もご紹介させていただければと考えております。
参加は無料で、開始時間は、27日の午後1時ごろから、1時間ほどを考えておりますが、詳細は決まり次第、下記の担当者から、改めてお知らせいたします。また、インターネット上で動画が視聴できるパソコンであれば、どなたでも参加でき、専用ソフトなどの準備は必要ありませんので、お気軽にご参加下さい。
ご試聴を希望される場合は、こちらから、パスワードなどをお送りする必要がありますので、まずは、メールにて、私のマイミクでもある、東京の細川さんに、希望される旨、メッセージをいただければと思います。
また、その時間に視聴することができない方は、その日の講話をオンデマンド(動画)で視聴することもできますので、ご希望の方がいらっしゃいましたら、生中継同様、以下までメールをいただければと思います。
★細川美香(東京支部)のアドレス
tokyo@hikarinowa.net
日記らしい日記を書こう (2010年06月23日)
(2010年06月22日の日記)
週末の土日は、恒例の説法会。今回は名古屋・大阪。特に大阪は、新しい道場の開設記念式典。紆余曲折・大忙しでありましたが、結果として、非常にきれいな道場になり感謝。道場の様子は、公式HPの方でご紹介しています。
http://www.joyus.jp/hikarinowa/news/news/1976.html月曜日に、一路、東京に帰るや、会員の方の個人相談と仏教的な儀礼を経て、全国の支部道場の指導員の方と打ち合わせ。
そして、本日火曜日は、午後から、月刊誌の取材を受け、その中で、早稲田の先輩のライターの方と意義深い議論。その後、27日の東京道場の説法会の打ち合わせ。東京道場はこの度、入り口が変わり、その入り口付近の改装と、松本サリン事件の慰霊集会の打ち合わせを、担当の細川副代表(東京道場担当)と。
また、27日は、一般の方が何名か、新たに説法会に参加される希望が寄せられていることと、それに加えて、これまた、早稲田の学生の方が、5名ほど説法会を「取材」に来るという報告を受けました。
私が、早稲田OBであることを知る人は結構多く、自分が通った早稲田の付属校の高等学院の現役学生の方からも、マイミク申請を繰り返しいただきました。今から思うと、学生時代は、いわゆるバラ色でした。なんか楽しい思い出しか残っていない。
これはなぜだろうかと考えると、その後のオウム真理教の出家生活が、正に天地動乱の日々で、非常に深刻な体験の連続で、その比較の問題で、学生時代が、明るく見えるのではないかと思いつきました。苦楽は表裏。ともかく、27日は、一つの転機。門構えも変わり、過去の反省を深めつつ、後輩の若者達を含め、新しい人と出会い、また一歩前に進んでいきます。
全てを神聖な存在と見ること (2010年06月23日)
(2010年06月22日の日記)
この日記のやりとりの中で興味深いやりとりがありました。それは、宗教や信仰には、どのくらい客観性が必要かと言うことです。具体的に言うと、信仰者が神聖な体験をするときは、ある参加者の方がコメントされたように、何かを神聖なものだと深く信じることから生じるという経験則があります。それを良く表している言葉として、「犬の歯も信心」というのがあります。ある老婆の息子が、本当は犬の歯なのに、それを仏陀の遺骨だと偽って、母に渡したところ、母がそれを熱心に敬った結果として、非常に高い境地を得た、というお話です。
経典では、その老婆の信心に対して、仏陀の祝福が与えられたからである、とされていますが、現代的に、合理的に言えば、対象を深く尊敬することによって、それをきっかけに、その人の自身の中の神聖な要素=その人の中の神や仏の要素が、最大限に引き出されたと言うことになると思います。
そして、チベット密教では、自分の仏教の師=グル・ラマを仏陀の化身と見て信じるという修行があります。この実践の理由を合理的に言えば、師から学ぶとは、師の良いところを吸収することであるから、そのためには、最大限の尊敬・謙虚さをもって学ぶことによって、達成されるということだと解釈できます。尊敬や謙虚さが無いと、他の良さはわかりにくくなりますから。
しかし、オウム真理教では、この教義が暗転しました。麻原を仏陀の化身と見たために、麻原の犯罪の指示も、自分達では分からない何か深遠な意図・神の意志があるのではないかという考えによって、弟子がそれに従ったと言うことです。
よく考えてみれば、自分の信仰の実践のために、他を犠牲にすることは、身勝手であって、自己中心的な行為であり、本来は仏道修行に反することです。しかし、信者は、それに気づかずに、専ら、自分が嫌なことでも、グルの指示なら我慢して行うことが、自分のエゴを滅することだと解釈したのでした。こうして、犬の歯も信心は良いのですが、それを無秩序にやるならば、人を神格化した結果、その人が犯罪・戦争を指示したならば、それに従うことになります。
そして、これは、オウム真理教に限らず、キリスト教・イスラム教、日本では第二次世界大戦の国家神道(日本を神の国と位置づけた)などを含め、ある意味で宗教全般に見られた落とし穴ではないか、と思います。自分達が神聖だと思うものがあって、それを根拠にして、他の存在の価値をひどく否定してしまうのです。
さて、こういったオウム真理教に対する批判があったからだと思いますが、オウム事件の後に、チベット密教では、師を仏陀の化身と見る教えは、自分のエゴを弱めることが目的であって、実際に客観的にチベットの師が完全な人格者であるという主張なのではない、としているようです(ダライ・ラマ法王の日本の代表部などのHPなどから)。
私も、これが正統な解釈だと思います。仏教の教えの多くは(ある意味では全ては)、人の心をエゴから解放し、慈悲に近づける手段であって、それ自体が目的であったり、絶対的なものではありません。人が法則を活かすべきであり、法則の奴隷になるべきではないというのが仏教思想だと思います。
ただし、社会的な視点からは、全く健全な見解なのですが、この見解は、深く信じるということによる効果は減らしてしまう面があるでしょう。本当に完全であるから信じなさいと言われるのではなく、実際には完全ではない対象を、方便として、完全であると信じなさいと言われれても、深く信じられないということになるでしょう。
宗教にとっては、この問題は非常に重要だと思いますが、この問題を解決するために出てきた面があるのが、人ではなく、例えば、仏像などの物を神聖視するという信仰ではないかと思います(神聖な象徴物、仏の象徴物)。
特に、日本の仏教は、人ではなく、専ら仏像を仏様と呼ぶのが普通であることは、皆さんご存じの通りで、その意味では、このパターンを取ってきました。これは、仏像仏教とも言われまています。日本でも、チベット密教のいにしえの聖者のように、古くは弘法大師空海のような、生き神のような人がいたようですが、その後は、そういった人には、余り恵まれなかったために、こうなったのかもしれません。
しかし、この物の場合は、カリスマ的な人物と比較すると、神聖なものだとは信じにくいという問題があります。相当のカリスマ性が、その物にないと、人の信仰心を引き出す、支える力は生じません。
例外としては、現代の人には余り知られていないかもしれませんが、霊験あらたかで有名な日本最高の仏像である善光寺の秘仏などがあるでしょう。私個人は、善光寺の秘仏以外に、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像に深いものを感じた経験があります。
ただ、善光寺の秘仏は、そのカリスマ性ゆえに、その仏像を奪い合うといった歴史も過去にはありましたが(戦国時代)。そして、この神聖な象徴仏に加えて、それ以上に重要な道が、誰か特定の人や物を神聖視することに偏らずに、すべての人・万物を本質的に神聖なものとする考え方だと思います。
この具体的な例として、前回の日記でご紹介したのが、仏陀菩薩を信仰しつつも、全ての生き物が未来の仏陀・菩薩であり、その意味で彼らは仏陀の胎児である、という大乗仏教の思想でした。これによって、特定の人・物だけを絶対視・神聖視する場合に比べると、他の人々や存在をを蔑視してしまい、犯罪や戦争が起こるといった落とし穴にははまりにくくなると思います。自分の信仰対象と、世界の全ての存在が、本質的には同一ですから、全てを尊重し、愛する心を育みやすくなります。
しかし、今度は、実際に実践する上で、すべての人々・存在を神聖と見ることは、特定の存在に限って神聖と見ることよりも相当に難しいという問題が生じます。依存心の強い人は、何かを直ぐに盲信しますが、そういった人でも、いやそういった人こそ、全ての人を神聖に見ることは出来ません。
さらには、悪人も含めて、全てを神聖と見るのは、それこそ間違った思い込み、盲信ではないか、という反論も出てきます。悪い物は悪いとしなければ、何でもありということになるではないかという反論も出てきます。
しかし、私が考えるには、こういった問題は、最終的には、解決が可能だと思います。そのポイントとなるのが、自と他、善と悪、苦と楽などを間違って二分化してしまう人間の思考パターンの癖に気づいて、それを超越することです。
これを言い換えるならば、万物を神聖なものだと思いこむ、盲信するのではなく、そもそもが、純粋に論理的に考えるならば、万物は神聖な要素があることに気づくことであり、日常生活の思考の中では、それを見失っていることに気づくということです。こうして、盲信ではなく、論理的な根拠を持って、全てのものを尊重していく思想です。この具体的な内容については、次回以降にお話ししたいと思います。
母なる仏としての宇宙 (2010年06月20日)
(2010年06月19日の日記)
大乗仏教の世界観で、特に素晴らしいと思うのが、この宇宙が仏の現れである、というものです。そして、これは、この宇宙の中で育まれる全ての生き物が、仏の子であると言う意味を持ちます。もう少し詳しく表現すると、この宇宙が仏の母胎(=子宮)であり、その中で育まれている全ての生き物は、仏の胎児と説かれています(専門用語では、胎蔵とか、如来蔵という)。
すなわち、この宇宙が単なる物質ではなく、生命体であるというのですが、この考え方は、全く非科学的なわけではありません。
もちろん確立された科学理論ではありませんが、宇宙の人間原理という説があって、それが説くところは、まず、宇宙が現在のように生命を育む状態になることは、それが偶然の物理現象の結果として起こったとすると、その数学的な確率は、あまりにも小さい(十の三百乗分の一程とも)ということです。
宇宙が生命を育んでいることは、偶然の結果だとすると、余りに奇跡的な出来事であるから、合理的に考えるならば、偶然ではなく、必然の結果であろう。すなわち、何か超越的な存在が、そうなるように意思した結果であろうというものです。
例えば、貴方が家に帰ったときに、テーブルの上に、沸いたコーヒーが用意されていたら、それが、偶然の物理的な現象ではなく、何者かに意思された結果だと考える方が合理的でしょう。よって、偶然起きる確率が余りに低いことは、必然的なもの、意思されたものと考える方が合理的=科学的だという見解です。
この科学的な視点を踏まえると、この宇宙が物質ではなく、意思を有した巨大な生命体であるということになる、母なる宇宙とか、仏としての宇宙という大乗仏教の思想と矛盾しなくなります。
そして、これから出てくる、もっとも魅力的で、重要な思想は、人間のお母さんの体の中の生き物は、皆動物ではなく、人間であるように、仏として宇宙の中に育まれた生命体は、皆が仏であるというものです。
人間の胎児が、胎児や児の時は、何も分からず、無智で、無力で、わがままであるように、今私達が日頃目にする人々や生き物は、今はとても仏陀には見えないけれど、何回何回も生まれ変わる中で、釈迦牟尼がそうだったように、徐々に仏陀に成長していくという思想です。
釈迦牟尼自身も、仏陀となる前の転生では、修行者ではなく、普通の人だった時期があり、その際は、その時の仏陀を誹謗・中傷するなどの罪を犯したとされています(仏教では、仏陀を誹謗することは大変な悪業とされる)。
こうして、大乗仏教の思想は、全ての生き物は、成長する存在であり、突き詰めると、未来は仏陀になる存在であるという、とても肯定的な生命観・人間観を持っています。そして、その背景として、この宇宙は母なる仏であり、その中の生き物は、仏の胎児であり、長い時間はかかるが、未来に仏になる、仏の胎児であるという世界観があります。
この世界観・生命観に基づいて、全ての生き物を尊重して愛するという大乗仏教の思想が出てくるのですが、私は、これがとても魅力的な思想に感じられます。
成長する存在としての全ての生命、それを育む存在としての無限の宇宙。
未来の仏陀としての全ての生命、母なる仏としての宇宙。人々の間の優劣に集中し、物質主義的な価値観の強く、殺伐とした一面のある現代社会の中に、大きな潤い、生命力をもたらす思想のように感じます。 皆さんはどう思われますか。
よろしければメールでお聞かせください。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jpなお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
活発な意見交換がなされていますので、
よろしければ、のぞいてみてください。名古屋・大阪の説法会です (2010年06月20日)
(2010年06月20日の日記)
昨日は、名古屋で説法会を行い、本日は大阪で説法会を行います。
特に大阪は、新しい道場の開設式(いわゆる道場開き)となります。昨日の名古屋では、会員ではない方も、複数参加され、数時間の間、
講話を聞いていただいたり、ヨーガ・仏教の修行をしたり、
個人面談をさせていただきました。本日の大阪の説法会は、道場開きの前の設営にスタッフが、
奔走しており、大忙しとなっております。
ビルの最上階の6階で、
6階の大きなベランダと、実質占有する屋上7階からは、
大阪市内が360度見渡せる、明るい道場です。なお、大阪と東京の説法会の一部は一般の方も、自宅の
パソコンで、インターネットによる生中継によって、ご視聴
いただけるようになっていますので、ご関心があれば、
ご利用下さい。
(お申し込みの方法は公式HPの説法生中継のコーナーをご覧下さい)。
万物は仏:自分を愛せない人のために (2010年06月18日)
(2010年06月18日の日記)
今日は、万物は仏(の現われ)という大乗仏教の教えについてお話ししたいと思います。この教えに最初に私が巡り会ったときは、何を言っているか全く分かりませんでした。例えば、経典には、仏陀の悟りの境地に至れば、この世界が、仏の浄土(仏の集まる世界)に感じられ、全ての人は、仏に感じられる、などと説かれています。
その後、聖地の巡礼を含め、色々なところで学び、よくよく自分の中で考える中で、ようやく、確かに、現代社会の固定的な観念を超えて、純粋に論理的な思考をするならば、すべての人は仏であると考えることができると、確信するようになりました。
しかし、最近は、自分を愛せない人が非常に多いと思います。たびたび受ける相談でも、「自分は生まれてきて良かったのでしょうか?」とか、「自分は生きている意味があるのでしょうか?」とか、「自分が好きになれない」、「自分が嫌い」といった悩みを多く聞きます。
この原因は、端的に言えば、現代社会で一般化してしまっている自分と他人の比較優劣にとらわれていたり、その比較の土台となる画一的な価値観の影響を受けているからだと思います。そのような固定観念を振り払って、純粋なまなざしで、すべての人を見ると、自分を含めて、一人残らず、尊い存在と考えるための突破口になるのですが。
ただ、この点を詳しくお話しする前に、まず、よく言われる「自分を愛せない」という言葉の意味を正確に理解しておきたいと思います。
私が思うに、こういった人は、本質的には、自分自身に人一倍執着しているものの、現実の今までの自分が、自分の満足できるものではなく、そのために、「自分が嫌い」「好きになれない」と言います。そもそもが自分自身への執着がなければ、自分がどんなであろうと、全く気にならないわけですから、悩むこと自体がありません。
そこで、「自分を愛せない」といった言葉は、「自分が幸福になるために、今のありのままの自分を活かすことが出来ない」というように言い換えることができると思います。
これに対して、大乗仏教の教えは、いかに、神仏に与えられた個々の生命・人生を、他と比較して否定することなく、世界に唯一の個性として活かすことが出来るか、大切に出来るか、ということに集約されると思います。
そして、信仰の立場から言えば、自分を本当に愛している人でなければ、神や仏を信じていると言うことは出来ないと思います。神仏への信仰は、神仏が現した(ないしは神仏がそれに変化した)この世の全てを愛することと同意義となるからです。自分を愛せない、他人を愛せない、だとすれば、神仏も愛せない、信じられないとなります。
これらの前提として、次回に、どうすれば、自分を本当に愛することが出来るようになるかについて考えてみたいと思います。そして、それは、同時に、他人も愛すること、万物を愛することと一体のものです。
それは、自と他の比較・優劣や、勝ち組・負け組といった、一種の妄想から解放されることから、この世界・宇宙自体を巨大な生命体として仏と見なすことまでが、含まれています。
皆さんのご意見をお待ちします。
よろしければメールでお聞かせください。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp負け組の裏に勝ち組の芽 (2010年06月18日)
(2010年06月17日の日記)
今回は、負け組の裏には、勝ち組の要素があり、勝ち組の裏には負け組の要素があると思うことについてお話ししたいと思います。まず、互いに切磋琢磨し、互いに対する尊重が増すような、良い意味での競争ではなくて、他を苦しめて、自分が幸福になる、といった「奪い合い」の場合ですが、そういった勝ち組は、お金や名誉を手に入れたとしても、他に対する優しさという、ある意味で(本当の意味で)、最も大切なものを失ってしまうように思います。
現代のような競争社会ですと、ある意味で、自分では全く気づかないうちに、他に対して冷たい、冷酷な人格が作られていく恐れがあると思います。私は、若い時に、エリートと言われるような状況を体験しましたが、それがばっかりに、一面において、そういった冷たい人格を形成したように思います。
自分が正しいとか、優れているという思いだけに意識が集中してしまって、良く考えると、本当の意味での智恵が欠けており、正しくもなければ、優れてもない。これが、オウム真理教における失敗・過ちの一因になったように思います。また、実際に、人生で成功するためには、確かに最初は、知能・容姿・体力・弁舌・才能などが評価され、有効だと思いますが、最終的には、他の苦しみを理解する力、取り除く力、他を受容する力・忍耐力、他を活かす力といったものが、成功のためにも、重要になって来るように思います。
そして、それらの力は、勝ち組の人が必ずしも身につけられるものではなく、むしろ負け組の人こそが、身につけやすいものではないかとも思います。もちろん、負け組の立場に立ったときに、ふてくされずに素直な努力を続ける場合に限りますから、容易ではありません。
しかし、負け組の人は、すくなくとも潜在的には、第一に、自分と同じ負け組の人の気持ちが体験から分かりますから、受容力や忍耐力を養う可能性を持っていますし、また、自分の力ばかりに頼らず、他人を活かす術を覚えていく可能性もあると思います。もちろん、これは、あくまでも、可能性であって、それが実際の力になるには、努力が必要ですが。この典型的な例として、私が尊敬する昭和期最大の実業家の松下幸之助は、「貧乏だったから、丁稚奉公に行き、商人の際を学べたし、学がなかったから、他人から素直に学べたし、体が弱かったから、他に人に頼むことを覚えることが出来た」と語っています。こうして、彼の場合は、貧乏・無学・病弱といった負け組の要素を全て成功の要素に変えて、大きな成功を得たのでした。
こうしてみると、人生万事塞翁が馬の言葉通り、苦しみの裏に喜びが、欠点の裏に長所が、失敗の裏に成功が、負け組の裏に勝ち組への道があると思います。言い換えれば、一時的な勝ち組、負け組とは、優劣ではなく、人それぞれの「個性」とも表現できるのではないでしょうか。
勝ち組は、成功のために油断・慢心に陥れば、落とし穴にはまってしまい、ついには負け組になり、負け組は、努力し続ければ、真の勝ち組になる可能性がある。よって、自分が今そのどちらであろうとも、それを個性と見て、油断も悲観もせず、努力し続けることが、成功・幸福の道ではないかと思います。
私は、徳川家康が好きなのですが、天才的だった織田信長や豊臣秀吉が道半ばで倒れる中で、彼らほど天才的とは思えないが、辛抱強く努力し続ける性格だった徳川家康が、最終的に戦国の世の覇者となったのも、これと同じ理由ではないかと思います。
また、この話に関係するものとして、大乗仏教の教えの中には、「全ての人々・生き物・万物は、皆が仏の平等の現われ」という教えがあります。これは、全ての存在は、本質的には優劣がなく、皆が平等に仏の現れとして尊く、神聖であるという意味だと解釈しています。
最初に、この教えに巡り会ったときは、なかなか、その意味が理解できませんでした。現代の比較優劣の競争社会の価値観に支配されていたからだと思います。しかし、上記のようなことを良く考えているうちに、人の間の様々な違いは、全て神仏の与えた「神聖な個性」の違いであり、本質的な優劣の違いではないと思うようになり、この教えが理解できるように感じました。
その意味で、自分自身を愛せず、自殺などで命を絶ったり、悲観・絶望して鬱病などに苦しむ人達にも、この教えを知ってもらえればと思います。
皆さんのご意見をお待ちします。
よろしければメールでお聞かせください。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp選択:二つの幸福の道 (2010年06月16日)
自分が思うに、人として、二つの幸福の道があると思います。一つは、他に対して優位に立って、他に勝って、優れて、得る幸福です。お金持ちも、名誉や地位も、他との競争であり、皆が得ることは出来ません。
もう一つは、他を愛すること、他の幸福を喜ぶことによって、得る幸福です(正確に言えば、そのような心を作る訓練をして得る幸福です)そして、この社会で普通に生きていると、生まれたときから、学校、そして、社会に出ても、常に、前者の幸福に駆り立てられると思います。しかし、仏教を学んでよくよく考えてみると、前者の幸福の道は、端的に言えば、年を取れば取るほど少なくなってしまう、「尻すぼみの幸福」であるように思います。
若いときは、健康で、美しく、体力もあり、頭も回りますが、老いていくと、病み、醜くなり、体力も衰え、頭も衰える。これが釈迦牟尼が修行に入った動機とも言われます。
一方、後者の道は、心の訓練によって、年を重ねるほど、増大していく(成熟していく)ため、「尻り上がりの幸福」だと思います。もちろん、真剣な努力を重ねた場合ですが。こうして、人生後半に強いのは後者の幸福だと思うのです。
もちろん、最近は、若い時から、負け組として苦しむ人が多くなっています。そもそも、勝ち組・負け組と分けると、勝ち組は1・2割、負け組が 8・9割の感覚になるかもしれません。自分がエリートであるという意識の人の割合はもっと少ないかもしれませんね。当の私は、最初は、学歴などではエリートだったようなのですが、そのうち、オウム真理教での盲信のため、負け組となって久しいようです(笑)
そして、日本という国自体が、国としては、少子高齢化が進み、先進国の運命とも言える老大国化しつつあると言えるでしょう、20世紀は、人口が増え続け、まずは軍事大国として、次に経済大国として、世界の中の勝ち組でしたが、今後は、中国・インドなど、急激な成長をしている他国が台頭する中で、勝ち組になるのは難しそうですね。
1人あたりの所得も、20年前は世界のトップでしたが、今や20位にも下ろうという様相。今後は、考え方を間違えると、負け組意識が強まるかもしれません。そして、国全体がそんな雰囲気の中ですから、その中の人々は、以前にもまして、ますます負け組意識の強い人が増えると思います。
負け組意識などから、鬱(うつ)になる人が数百万とも言われます(通院・投薬を受けている人だけで百万を超えたという統計が発表されています)。自殺者も3万人レベルで高止まりしています。自殺の寸前は鬱などの精神異常の状態になる人が大半だそうです。
イラク戦争や交通事故よりも多い。イラク戦争、交通戦争ならぬ、自殺戦争。その原因は、心の問題であり、その根本原因として、どのようにして幸福になるかについての考え方の問題があると思います。これだけの問題が起こっている以上、今までのような考え方のままで良いとは思いがたいのです。よって、ひかりの輪をやっています。皆さんは、どのような(どちらの)幸福を求めて生きていらっしゃいますか。前者か、後者か、それとも、両者を併せたハイブリッド型(笑)ですか?
皆さんのご意見をお待ちします。
よろしければメールでお聞かせください。
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よろしければ、のぞいてみてください。他への怒りか、自己への怒りか (2010年06月15日)
(2010年06月11日の日記)
今日からまた少しずつ、私の学んでいる仏教的な心の問題についてお話ししたいと思います。その事始めとして、怒りについて取り上げたいと思います。私が思うに、人は、非常に多くの場合に、自分に対するいらだち・怒り・嫌悪を背景として、他に対して怒ることが多いと思います。しかし、本人は それに気づかない。厳しく言えば、気づきたくないので意識しないようにしている。
例えば、何かの問題があっても、その原因は、少なくとも、自分の努力不足が一因であるにもかかわらず、努力を避けたい弱い心のために、他人のせいにしてしまう。
しかし、他人のせいにするのは、その時は楽だが、それによって、自分が必要な努力をする方向には向かわないので、問題は解決せず、いつまでたっても幸福にはなれない。努力の不足と他への怒りばかりが続いてしまう。
その裏には、楽をして幸福になりたいという甘えがある。しかし、行きはよいよい帰りは怖い、というのが、目先の楽に負けた結果というのは、常に成り立つ道理だと思います。
とはいえ、私は、人というものは、様々な間違いを犯し、その間違いによる苦しみから反省して、正しい道に至る、という主旨を説いた仏陀の考え方が好きなので、怒りを含めて、人間の持つ様々な性質は、未来の進歩に繋がる要素だと考えていますが、皆さんは、他への怒りの背景に、自分に対する怒りがあるという考えはどう思われるでしょう。
皆さんのご意見をお待ちします。
よろしければメールでお聞かせください。
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活発な意見交換がなされていますので、
よろしければ、のぞいてみてください。オウム・アレフの陰謀説が強まる心配 (2010年04月11日)
(2010年3月31日の日記より転載)
昨日、警視庁公安部が、証拠が無く立件できなかった警察庁長官狙撃事件について、オウム真理教の犯行だと断定する異例の発表を行ったことはご存じの方も多いと思います。これについては、様々な識者さえも、警視庁公安部の対応を疑問視したり、批判しており、その中には、狙撃された元長官ご本人や、政府首脳、普段は警察よりの放送関係の識者も含まれ、警視庁がこれほどの批判を浴びるのは、オウム事件の捜査で、かつてなかった異常な事態だと思います。
疑問視したり、批判する意見の方は、主に、捜査権限はあるが、裁く権限はない警察が、逸脱した権力の行使をしたとか、信者の人権侵害の可能性があるとか、捜査に失敗した原因分析などの反省が不足している点などを上げています。
一方、警視庁公安部は、教団が依然として危険であるから、二度ととテロを起こさないこと、国民の安全を守ることを優先して、発表したなどと説明していると思います。私は、ご存じの通り、オウム・アレフの元幹部で、自らオウム・アレフの信仰からの脱却に 苦闘した経験があり、今もオウム・アレフの信者達の脱会に努めている立場から、一つだけ、重要な視点を加えたいと思います。
それは、今回のようなやり方は、公安部の意図に反して、逆に信者のオウム・麻原信仰を強めてしまう結果となり、その結果、テロを防ぐとか、国民の安全を守る上で、逆効果になる恐れがあることです。
なぜかというと、オウム・麻原信仰の中核には、社会は悪で、教団を陥れているという陰謀論があります。その妄想的な陰謀説に基づき、社会への反撃として行なわれたのがオウム真理教のテロであるという側面があるのです。
そして、今でも、私が脱会したオウム・アレフ教団の中では、麻原は無罪・冤罪であるという冤罪説・陰謀説が説かれている部分があります。そういった教団の幹部や信者が、今回のように、確たる証拠がないのに、教団の犯行を断定し、一般の識者にさえ、警察が批判される、といった状況になるのを見るとどうなるかというと、やっぱり麻原が言うとおりだった、と考えてしまうのです。
実際に、アレフの荒木広報部長は、今回の公安部の発表を「一種の冤罪」と批判しており(読売新聞)、法的措置も検討するという報道があります。これでは、以前のオウムが陥った過ち、すなわち、社会が教団に陰謀を企ており、教団は、それに対抗して戦う、という思い込みが、再び蘇ってくる恐れさえあります。
これまで、警視庁は、オウム事件の捜査において、ほぼ完璧な国民の信頼を得てきたと思います。オウム真理教の信者の中で、私を含め、それらの捜査と裁判のあり方を見て、オウム・麻原の陰謀説を含めた信仰から脱却する一助とした者も多いと思います。
それが故に、今回の発表は疑問があります。公安部の考えは、教団が危険だと言うことを発表し、社会の教団への警戒を強めれば、テロを抑止できるということだと思いますが、私は、自らの経験上、陰謀説などの被害妄想や誇大妄想を和らげることが、教団とその信者が、社会を敵視してテロに至る動機そのものを取り除くために、最も重要な対策だと思います。
脱会支援をする際も、陰謀説の盲信が大きな障害であり、その脱却に導くには、精神的な格闘とも言っていいほどに、本当に多大な労苦を要しました。非常に深い思い込みを根底からひっくり返さなければならないからです。陰謀説・冤罪説が、麻原への盲信の一つの核になっているのです。
精神医学においては、被害妄想や誇大妄想といった精神的な病理を持っている人には、その病理が増大しやすい環境を作らないようにすることが鉄則とされていると言います。依然として、麻原を盲信し、陰謀説・冤罪説を信じるアレフ教団の信者にも、この鉄則は当てはまると思います。
よって、単純な警戒感の強化ではなく、犯罪に至る心理構造の分析に基づいた、冷静で科学的な取り組みが、真の犯罪の抑止により効果があると思います。ともかく、今回の発表が、これまでのオウム事件における捜査当局の優れた功績を損なわないことを願ってやみません。 そして、オウム・アレフ信者や、彼らと似て社会や国家権力を敵視するタイプの人達=オウム的な人、1人オウムの人が、今回の発表を冷静に正しく受け止めて、敵対的な感情や闘争的な行動を強めてしまうことがないように祈るとともに、今後とも努力を続けたいと思います。
地下鉄サリン事件15年目の節目を迎えて (2010年03月19日)
明日3月20日をもって、サリン事件から15年となりますが、
これに際して、団体として、以下のようなお詫びと決意の
声明を出させていただきますので、本日記にも、
転載させていただきます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
地下鉄サリン事件15年目の節目を迎えて
ひかりの輪・元オウム信者代表
上 祐 史 浩3月20日に、地下鉄サリン事件から15年目という、大きな節目を迎えるにあたり、まず最初に、元オウム真理教信者として、被害者の方、そして被害者遺族の方々に、心よりお詫び申し上げます。
この3月は、当団体も、現在のAleph(アレフ)教団から脱会して3年目の節目を迎え、この3年間を振り返るとともに、今後のさまざまな償いの決意を新たにしております。
3年前、Aleph教団を脱会し、当団体としてまず最初に行ったのは、オウム真理教時代の総括作業でした。
この総括作業により、元オウム真理教教祖の麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚が、その生い立ちにおいて培った「負の心理・心の闇」が事件を引き起こした大きな要因であったことを認識いたしました。
それは、親や教師、環境などに対する感謝がなく、不足や不満ばかりを見続け歪んだ心が、それらへの恨みをはらすために、「宗教」を利用して仕返ししようとした「負の心理・心の闇」といえるものでした。そして、松本死刑囚に付き従った私たち元オウム信者も、それと同じ心の闇を持っていたことを、昨年複数の専門家の方にご指導いただいた自己反省法「内観」などによって、深く認識するに至りました。
先月末に出版された、当団体役員の一人の著書『二十歳からの20年間--"オウムの青春"という魔境を超えて』の中では、そういった元オウム信者の心の闇の軌跡の一例を、負の教訓として記しております。
このような一人ひとりの心の中にある、負の心理・心の闇を超えていくことが、二度と地下鉄サリン事件のような大惨事を起こさないための、一つの償いになると考え、今後も、さまざまな方々や機関のご指導を賜りながら、元オウム信者一人ひとりの心の根を断つ作業の促進に邁進させていただく所存です。
そして、昨年新たに結ばせていただいた被害者賠償契約に基づく賠償金のお支払いを、心して続けさせていただきます。
最後に、お亡くなりになられた方々のご冥福と、さまざまな被害に遭われた方々の一日も早いご快復を、心よりお祈り申し上げます。
サリン事件から15年 (2010年03月18日)
サリン事件から15年となりました。
改めて、事件の被害者・遺族の方々に、深くお詫びいたします。最近は、報道機関からの取材申し込みが色々あります。
少し前までは、テレビの企画物や週刊誌の取材がメインで、
今日あたりから、新聞社からの問い合わせが殺到し始めたそうです。
そのため、明日は、ひかりの輪として記者会見を開くことになりました。被害者の方々と締結した賠償のこと、オウム真理教時代の反省・総括を
公表するHPや出版物のこと、オウム真理教信仰の脱却支援活動、
そして、脱会したアレフの現状などを報告することになると思います。記者会見の内容は、ひかりの輪の公式HPにも掲示したいと思いますので、
ご関心のある方は、ご覧いただければと思います。また、上記の総括の出版物として、ひかりの輪の役員・指導員の1人である
宗形さんの書籍が三五館から出版されましたので、ご報告いたします。
くわしくは、「オウムの教訓サイト」HPに紹介されています。そして、何より重要だと感じるのが、社会的な問題、公の問題の裏側に、
1人1人の人間の心の問題があることです。昔と今の問題の双方に、
1人1人の現代人の苦しみ・弱さ・挫折・葛藤・努力・再生などの
人間模様を感じます。すべての人々に、仏の加護がありますように。
2009年の日記
釈迦牟尼生誕祭と新たな宗教服 (2009年04月08日)
今日は4月8日、日本仏教で釈迦牟尼の誕生日とされています。
伝統的には、潅仏会(かんぶつえ)と言います。現在、ひかりの輪では、毎月恒例の指導員らの合宿修行中ですが、
今日は、昼から、数十人のスタッフが集まって、本部道場で、
生誕祭を行い、儀式を行いました。その中では、釈迦牟尼の像に、甘茶をかけるという伝統の儀式も
行われました。これは、釈迦牟尼が生誕した際に、竜王が、
釈迦牟尼に甘露をかけたという伝説に基づくものです。
ようやくスタート地点に:観察処分更新 (2009年01月24日)
ひかりの輪も、Alephと共に、観察処分の更新となりました。とはいえ、公安審査委員会は、以下のように、今現在は認められないが、
今後のひかりの輪の活動については、それが認められることができるものなのか
を注視するということを付言しました。これまでは、こういった将来の可能性など
全く言及されませんでした。その意味で、ようやくスタート地点に立てた気がします。
甘えにもなりますが、非常に強力な麻原信仰の中から脱却することは、
非常に無様な形でしかできず、私と共にひかりの輪で麻原脱却の
自己改革を目指した者の中には、大げさに言えば、七転八倒の苦しみを
味わった者もいました。それを言い換えれば、脱却の遅れのために、
多くの方にご迷惑をかけてきました。しかし、そうした濃厚な闇も、徐々に徐々に晴れてきて、前方に
明かりが見え始めてきた感じもしています。今後、公安審査委員会が
指摘した現状の課題・問題点に最大限に取り組み、
さらなる改善に努め、皆さんに安心していただける団体になるように
努めたいと思います。
●公安審査委員会の決定文書より引用「なお、「ひかりの輪」は、松本および同人の説くオウム真理教の教義からの脱却を目指して活動を行っている旨主張している。当委員会としては、「ひかりの輪」の設立経緯等に照らし、未だ脱却が行われたものと認めることはできないが、今後の「ひかりの輪」の活動が、両サリン事件等に対する真の反省に基づき実施されるものであると認めることができるか、また、被害者や周辺住民等の理解を得られるものであると認めることができるかを注視していくことにしたい。」
●読売新聞の記事オウム観察処分、3度目の更新...「ひかりの輪」も対象
団体規制法に基づくオウム真理教に対する観察処分について、公安審査委員会(田中康久委員長)は23日、今月末の期限を2月1日から3年間、期間更新することを決定した。
更新は03年、06年に続き3度目。今回は、上祐史浩元代表(46)が設立した新団体「ひかりの輪」が対象となるかが焦点となったが、公安審は更新の対象とした。
団体規制法は「無差別大量殺人行為の首謀者が団体の活動に影響力を有していること」などを観察処分の要件として定めている。
決定では、ひかりの輪の設立前後に、中心メンバーが、設立の目的を麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚(53)の意思を実現するためと述べていたことなどを指摘して、ひかりの輪の「更新の請求対象にあたらない」とする主張を退けた。
上祐元代表と対立する教団に対しても「幹部構成員らがオウム真理教の教義への絶対的帰依を指導している」と述べ、松本死刑囚が依然として影響力を有していると判断した。
ただ、ひかりの輪については「今後の活動が、(地下鉄・松本)両サリン事件に対する真の反省に基づき実施されるものであるか注視していく」との文言も盛り込まれた。
決定後、記者会見した現教団の荒木浩広報部長(40)は「(公安庁の指摘する)『麻原開祖の主宰する団体』は存在しないという主張が認められず失望した。今後訴訟も検討する」とコメント。上祐元代表は「決定で指摘されたことを生かし、反省を深めていきたい」と話した。
一方、双方の拠点施設がある東京都世田谷区南烏山の住民でつくる「烏山地域オウム真理教(現アレフ)対策住民協議会」の古馬一行事務局長は、「『ひかりの輪』では今も頻繁にセミナーが行われているが、オウムと何が違うのかわからず不安。更新は当然」と、ほっとした様子だった。
(2009年1月23日21時28分 読売新聞)
2008年の日記
46歳のご挨拶 (2008年12月20日)
12月17日2時42分で、46歳になりました。
数え方によっては47歳、気分の方はまだ40歳。
現実とイメージのギャップが進んでいます。
無常を自覚すべき仏道修行者としては反省です。おめでたいのか、一歩あの世に近づいたのか。
それとも、私のような悪人の場合は、あの世に近づいたことが、
周囲に人にとっても、自分にとっても、おめでたいのか。なお、最近は、団体内外の年末年始への対応のため、
なかなかたいした日記が書けずに残念な毎日です。
いつ復活できるか。クリスマスのころまでには復活、
と言えば、キリスト教になってしまいますが、そのクリスマスも終わると、団体の方は、恒例の
年末年始セミナーが大阪で始まり、その後、
東京の本部と、忙しさが続きますが、その間を
ぬって、何とか書こうと思います。不景気を始め、変化の多い年でした。
来年は、その変化の本質が現れる時でしょうね。
焦らず弛まず努力したいと思います。年末にかけて冷え込むことも予想されます。
皆さんご自愛下さい。「負け組」思考から自分を解放する (2008年11月30日)
最近、よく勝ち組、負け組という言葉が使われます。今日はこの点について、特に負け組について、考えてみたいと思います。
負け組になるというのは、誰しも非常に辛いものだと思います。私も、無智のため、かつては、自分たちが一番偉いと主張する宗教(オウム真理教)に属し、勝ち組であるという妄想を抱いていましたが、その後、教団と共に、大きな過ちを犯し、破綻した、という意味では、社会の中で、負け組の中の負け組だと思います。
また、最近社会を見渡しますと、様々な負け組の人たちにあふれていると思います。思い違いをして犯罪に陥った人だけでなく、バブルの幻想のために大失敗した人、借金で首が回らない人、激化する競争社会の中でワーキングプアー状態にあえぐ人や、社会生活自体できず引きこもり・ニート・鬱になった人など。特に若者に多いかもしれません。しかし、考えてみると、負け組は、視点を変えると、勝ち組であるという見方が出てきます。例えば、日本の中にいる大勢の負け組も、日本という世界有数の生活水準と、世界最高の長寿、主要国随一の安全性(犯罪発生率の低さ)を誇る、豊かで長寿で安全な国に住んでいる勝ち組であるという事実があります。長寿や安全性では超大国アメリカをもしのぐ。こういった民族は、60億の中で、たった1億しかいない。
そして、なぜ、日本が豊かなのかというと、それは、国際社会の中の市場競争に勝っているからであり、例えば、日本を含めた先進国は、お金の力で、必要以上の食べ物を国際市場から集めて、飽食の状態にあり、その裏では、お金がないために、食料が調達できず、飢餓にあえぐ途上国という負け組が存在します。今年の春などは、先進国のヘッジファンドなどの影響で、食糧価格が高騰し、途上国の食糧危機が拡大しました。
こうしてみると、日本の中の競争社会の結果として、負け組である人たちも、世界の中では、同じ競争原理のために、知らず知らずのうちに、勝ち組になっており、その恩恵を毎日得ているということに気づきます。気づかないうちに、競争の勝利者としての利益を毎日感じつつ、その一方では敗北者としての苦しみは強く自覚して、感じている。
これを達観して表現するならば、こういった競争社会に身を置いて、自分たちの自覚が乏しくとも現実としては、何らかの形で他を打ち負かして、多くの幸福や豊かさを享受し、その裏で自分たちよりも不幸な人を作っている以上は、その同じ競争の社会の中で、自分が負けて苦しむ場合が出てくるのも必然的だ、とも解釈できます。
その意味で、ここでの問題は、自分が勝ち組である部分は自覚せず、負け組である部分だけを強く自覚する、ということではないか。自分より幸福そうな人には目がいきやすく、自分より遙かに不幸な人の方が、この世界には圧倒的に多いという事実は忘却していることではないか。すなわち、自分が得ているものを見て、感謝することより、得ていないことを見て、不満に思い、自分で、自分を負け組だと位置づけてしまうことではないか、とも思います。
また、負け組が勝ち組であると共に、勝ち組もやはりいつかは負け組になる。最近も、色々な会員さんの相談を受けますが、その中には、60歳で、自分の技術は、もはや若い人には勝てず、使ってもらえず、退職して、田舎に帰って、90歳の母親と二人で暮らす方などがいました。体も不調で、目、肩、腕、背骨、腰など、色々な所が痛い。若いときに、どんなに勝ち組になっても、年を取れば、若者に負けていく。老いと死には、誰も勝てない。
こうしてみると、他に勝つことで幸福になろうとするだけではなく、与えられている幸福をよく考えて、それに感謝し、自分より不幸な人の存在に気づいて(しかも、その存在を自分が作り出している場合もある事実に気づいて)、苦しみを分かち合うという、別の幸福への道が出てくると思います。これが、仏陀が説いた、貪りを超えて、慈悲を培う生き方ではないか。
21世紀は、途上国の急速な経済発展に伴い、地球環境、資源・エネルギー・人口爆発等の問題が地球全体の将来に影を落としていますが、こうした事態であればこそ、なおのこと、今得ていない幸福を得ようとして、もっともっとと求める競争原理、市場原理主義の価値観ばかりではなく、今ある幸福に気づく智恵と、分かち合う慈悲の思想も必要かと思います。
以上、負け組になるのは辛いものの、負け組も勝ち組ではないか、そして、勝ち組も負け組になる人たちではないか、という視点でした。皆さんのご意見をお待ちします。
よろしければメールでお聞かせください。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jpなお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
活発な意見交換がなされていますので、
よろしければ、のぞいてみてください。悪人正機、悪人こそ救われる機会を得るという教え (2008年11月24日)
浄土真宗開祖の親鸞は、悪人正機という教えを説きました。
これは、色々な解釈がありますが、人は、自分が悪人であるという謙虚な自覚がある方が、それがない場合よりも、救われる正しい機会を得やすい、などと解釈されます。
この教えの背景には、親鸞の時代において比叡山のような伝統仏教宗派の僧の多くが堕落し、民衆の救済にも手をさしのべていなかったと言われます。形だけ僧であっても、本質はそうではない、といった自己欺瞞、偽善が広がっていたことがあるとも言われます。
しかし、単にそれだけではなく、この思想には、現代社会に通じる深い思想があるように思われます。
人が良いことをする際に、必ずついて回る偽善的な部分です。良い悪いは、どうしても比較の問題ですから、例えば、良い人間になろうという人は、それを否定しているわけではないのですが、事実として、どうしても、他と比較して良い人になることをもって、良い人という意味になります。
それは自分が他より優れているという優越感、プライドと、他は自分よりも劣っているという軽蔑・見下しが同時に内包され、それが高じると、正しい自分が権力・支配欲を持つべきであるといったように、宗教でも政治でも、あらゆる場合に生じる問題が発生します。
そして、良い人になろうとする気持ちが強すぎれば、自分の中で悪い人の部分は醜くなり、自分の悪い部分=暗部を見ないようにして、忘却してしまいます。現代社会は、地位や名誉が強調されたり、競争が激しいためか、特にこの傾向が強く、精神医学者のユングは、現代人の心の危機であると訴えました。いわゆる仮面人間である、ということです。アメリカのブッシュ政権のイラク戦争は、今や多くの国民が間違った戦争であると考えるようになりました。イラクには大量破壊兵器もなく、アルカイダとの繋がりもなく、アメリカが出て行って平和になるわけでもなかった。被害妄想と自己過信の戦争であったと。
この失敗の背景にも、911テロ事件の後に、アメリカが、自分が、全くのよい人であると考えて対テロ戦争に入ったことがあると思います。私は良く覚えているのですが、911の直後、アメリカ議会と国民に、万雷の拍手で支持されたブッシュ大統領の演説には、アメリカは、全くの良き人で、それを理解しない者たちは無理解であると断言する内容がありました。
今でこそ、イラク戦争を反省し、アメリカが世界で反発を受ける原因を研究する政府・議会の機関ができ、オバマ氏を中心とした、対話を重視する政権が誕生しようとしていますが、7年前はそうではありませんでした。
そういった意味でも、この悪人正機というのは、現代にまで通じる思想ではないかと思います。
例えば、人は生きるだけで、他の生き物を殺さなければなりません。一般的な意味で、幸福になろうとしたら、お金でも、美しい異性でも、多くの良い食べ物でも、名誉でも、地位、権力でも、自分が得れば、他の人が失います。すなわち、一般的な意味での自分の幸福とは、他の人を押しのけた、他を不幸にした結果である側面があります。
皆が幸福になろうと一生懸命努力しているのに、皆が幸福になる世界はいっこうにやってこない。それは、皆が気づいていないところで(正確に言えば、気づかないようにして)、他人を不幸にして、自分だけが幸福になろうと、皆がし合っているから、ということになります
途上国の援助のような、慈善活動についても、良いことなのですが、よく知られていますが、単純に途上国の人を助ければ、彼らは援助に依存する体質となり、意図に反して悪い結果になる恐れがあります。成功すれば、経済発展しますが、そうすると、急速に発展するインドや中国の事例から分かるように、先進国に加えて、地球環境や生態系を破壊する資本主義経済の参加者が増えていく側面があります。
これは、そもそも、先進国が、自分たちの方が、途上国よりも、先進の国=良い国であると思いこんでしまい、自分たちのようになることが、世界全体にとって良いと一方的に思いこんだ結果であるということもできると思います。実際にその状況になったら、良い面だけでなく、悪い面も見えてきた。それは自分たち先進国の悪い面だったのだと思います。
そして、ごく一般的に言って、先ほど書いたように、ごく単純に、自分がよい人になろうとすると、自分が他人より良い人になろうとし、その結果、他人を自分より悪い人に位置づけなければならない、という罠にはまる構造がある、と思います。その際は、無意識的に、自分の良いところと他人の悪いところを見るが、自分の悪いところと他人の良いところは見ない傾向になる恐れがあると思います。それを乗り越えるための一つが、前回の日記で書いた、人の良いところ、悪いところを見て、良いところは自分の見本・教師として、悪いところも、自分にもある要素だと考え、自分の反面教師として学び、すべての人々を導き手として、神や仏の現われと見る=すべての人々に帰依をする、という思想でした。他人の悪いところを見て、自分の中の悪人に気づくという実践です。
他にもあって、それは良いといわれていることを贖罪として行うことです。単純に良いことをするのではなく、自分がこれまでなしてきた悪いことを償うために、それをする。例えば、途上国の支援も、よく考えれば、世界中の冨を先進国が独占・搾取している側面があり、この罪に加担し来たことを自覚して、贖罪として行うというものです。公式HPに掲示している私の講話の動画の中にも、「21世紀を贖罪の世紀に」というタイトルのものがあるのですが、それも、これと同じような視点で行ったものです。
以上、わかりやすく言えば、人は、自分では良い人間である、良いことをしていると思っている場合でも、何か自分に気づかない悪い部分や、無意識的に悪いことをしている面があると思いながら、それを行う謙虚さが重要ではないか、と表現できるかも知れません。
それでは、多少難しテーマになりますが、皆さんの悪人正機についてのお考え、ないしは、自分が良いことをするとか、自分が幸福になる、といったことの本質は何か、ということについてのご意見をお伺いしたいと思います。
皆さんのさまざまなご意見をお待ちします。
よろしければメールでお聞かせください。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jpなお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
活発な意見交換がなされていますので、
よろしければ、のぞいてみてください。すべての人々へ帰依をする (2008年11月17日)
宗教では、信仰ないし帰依の対象というのがあります。例えば、キリスト教ではイエス、イスラム教ではマホメット、仏教では仏陀。しかし、ひかりの輪では、全ての人々(生き物)を帰依・奉仕の対象をとらえる、新しい思想があります。
これはどういう意味かというと、すべての人々から学ぶことができるという考えに基づいています。もちろん、全ての人が全知全能の神であるといった考えでは決してありません。
例えば、その人が悪いことをしていても、その要素は、潜在的には自分にもあると考えて、反面教師として学ぶ。良いことをしていれば、当然、自分の見本、教師として、学ぶ。その意味で、すべての人々のすべての行いは、何らかの学びの対象になる。
また、苦しんでいる他人がいて、その苦しみを自分が取り除いてあげているとしても、その行為の中で、自分も学んでいることがある。例えば、他人に何かを教えると、自分自身もいっそう理解が深まる。
また、人の苦しみは大きな目で見ると似通っており、縁のある人の苦しみは、何かしら自分にも潜在的にはある苦しみで、それを取り除くことは、自分(にも生じうる未来)の苦しみを取り除く智慧を培うことにもなる。
また、自分より遙かに苦しんでいる人、例えば途上国の人などを支援していると、自分に困難・苦しみが訪れた際も、自分が助けている人の苦しみに比べるならば、自分の苦しみはずっと小さいものだから、それに負けるわけにはいかないという強さを得ることができる。
こうして、色々なパターンはあっても、人は他を救いながら、実は自分が救われている面があると思います。
インドの三大聖者の1人と言われる、ラーマクリシュナパラマハンサは、弟子たちに「人々に慈悲を垂れよ」と語った後に、突然瞑想に入り、瞑想から覚めるや、「慈悲を垂れるとはなんと愚かなことか。そうではなく、全ての人を神の現われとみて奉仕することだ」と説いたと言います。
慈悲を持って他の苦しみを取り除くことが、同時に、自分を救うことであるならば、それは、苦しんでいる他人は、宗教的に表現すれば、神が、自分に与えた、自分の苦しみを取り除く奉仕の対象であるとも解釈できますから、ラーマクリシュナのように表現することも可能だと思います。
私の体験では、他人の苦しみと自分の苦しみがつながっていると感じることなどがあると、他人を苦しみを取り除く行為の中で、その他人の後ろに、あたかも仏がいるような感じがすることがあります。これは、あくまで比喩的な表現であって、オカルト的な神秘体験と混同されないようにお願いしたいのですが、それは、神聖な一瞬です。
そこで、皆さんにもご質問をしたいと思います。皆さんは、何らかの信仰・帰依の対象をお持ちでしょうか。もしそうであれば、それは何であって、どのような意味を持つ存在でしょうか。もしあなた自身が、お持ちでなければ、何らかの信仰・帰依の対象を持つ他の人たちについて、どのようにあなたには見えるでしょうか。
そして、これに加えて、皆さんにとって、自分ならぬ、「他人」というのは、日常において、どんな存在でしょうか。
よろしければメールでお聞かせください。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jpなお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
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よろしければ、のぞいてみてください。苦しみをごまかすことと超えること (2008年11月14日)
今日は、苦しみをごまかすことと、超えることの違いについて、
自分が思うことを書きたいと思います。多くの場合、人は苦しみがあった場合、
それをごまかす方向で、処理してしまうと思います。多くの人が、この競争社会の中で、自分の存在意義などの欲求が、
満たされないストレスを感じていると思います。そして、それを様々な享楽で、一時的にごまかす。
酒・たばこ・グルメ・ファッション・ギャンブルなどなど。また、別のパターンのごまかしもあると思います。
一部の宗教では、現実にはいまひとつの人たちが、
その宗教を信じることで、一瞬にして、それを信じない人たちより
優れた存在(選ばれた存在)になり、それで満足する。これは大宗教から、新興宗教、そして、一部の政党にも
働いているメカニズムだと思います。しかし、実際には、
それは、妄想でしかない。この一つが、オウムでした。これは、ごまかしであると同時に、現実からの逃避だと思います。
そのつけは、どこかで回ってくる。社会全体においても、つけが回ってくる。娯楽による消費主義は、
地球環境問題を起こし、バブル経済の原因の根底をなしている。妄想的な宗教世界は、宗教と社会、及び 宗教と宗教の間の摩擦・闘争、
宗教テロなどをもたらす。では、一体何が、本当の苦しみからの解放の道なのか。
それは、もちろん、たった一つしかないものではないでしょうし、
特に言葉で、表現すれば、様々に表現できると思います。しかし、私が行き当たった一つの考えは、
自分の苦しみをごまかして、逃避することではなく、
この世界では、自分だけではなく、多くの人達が、
自分と同じ、いやそれ以上の苦しみの中にいるのだ、
ということを認識することでした。そして、思うだけでなく、できるならば、それを取り除くこと。
これが、仏教で、慈悲と呼ばれることだと思います。この延長として、菩薩とは、自分が苦しいときに、
他の苦しみを思うことが出来る人のことだと思うことを
前にも日記に書きました。自分だけが苦しんでいるかのように錯覚し、
自分のことばかり考えていると、実際よりも、
大きな苦しみを感じると思います。過剰な不安、被害妄想も生じ、人によっては、
客観的には希望があるのに、絶望して自殺する人まで。一方、大慈悲は、まず、自分の心を落ち着かせ、
強いものにしてくれます。そして、静まった心の状態から生じる智恵によって、
困難を突破する道が見えてくる。仏教が説く智慧と慈悲は一体だと思います。
私も、様々な社会的な条件の中で、団体を運営し、
オウム時代の賠償を背負っており、楽ではないのですが、
これは、自分を真の智恵と慈悲に導く、仏の祝福だ、
と考え、喜びにするように努めています。では、いつもの通り、皆さんのご意見をお待ちします。
皆さんは、何が、上記のような現代人の苦しみを取り除く道だ、
とお考えでしょうか?
皆さんのさまざまなご意見をお待ちします。
よろしければメールでお聞かせください。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jpなお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
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よろしければ、のぞいてみてください。宗教嫌いなのに宗教的な社会 (2008年11月07日)
日本では、宗教は嫌いという人が少なくないと思います。しかし、そういった人が、非宗教的であるか、というと、それは非常に疑問に思います。
一言で言えば、宗教を嫌いというわりには、自分でも気づかないうちに、宗教の最大の問題である妄想・幻想を抱く点において、非常に宗教的な人が多いように思います。
例えば、この典型的な例が、共産主義でした。共産主義は、宗教を全面否定しました。しかし、共産主義ほど、宗教的な思想もありません。栗本真一郎氏は、20世紀最大の宗教は共産主義だったと主張しています。
少なくとも、一面では、ソ連は、スターリンの個人崇拝、中国は、毛沢東の崇拝があったし、北朝鮮は、金日成・金正日を独裁的な教祖とするカルト国家とも言う人もいます。オウムと北朝鮮はよく似ていると言われます。
国家神道をベースにした大日本帝国を否定した戦後日本の共産主義、極左の運動、例えば、連合赤軍事件などは、今やよく、オウムと比較されます。自分達こそが正しいという考え方と、それ故に、自分達が世界を制するという予言と、過激主義・暴力主義など。
そして、共産主義に勝利した後に、90年代から、自由主義・資本主義が展開した、市場原理主義のグローバリズムも、マネーゲームで皆が幸福になるという一種の盲信・狂信による暴走であり、多くの人の共同幻想という点では、共産主義とも似た面があったと感じます。
そして、仏教的な価値観から批判すれば、このマネーゲームに対する信仰の裏には、人は、お金で幸福になる、というマネー自体に対する盲信があります。その意味では、マネーゲームだけでなく、今や地球環境を破壊しかねないとも言われる、物資主義・消費主義型の経済自体が、将来的には、盲信・狂信による暴走だったとされる時もあるかもしれません。
マネー信仰と言えば、ライブドアの堀江氏が逮捕されたとき、彼と彼の側近の関係が、オウムの松本氏(麻原彰晃)とその弟子の関係と似ているという報道がありました。彼のお金が全て、お金が絶対という考え、違法な運営へのためらいのなさ、逮捕後に側近が自白する中で、自分の潔白を強弁する姿勢など。
そして、日本の90年代のバブルとその崩壊は、オウムの90年代の拡大と社会との摩擦と崩壊と、時期的に非常によく連動しています。90年初めのバブルの崩壊の開始(東証株価の暴落の開始)は、オウム真理教が総選挙で惨敗し、教団武装化を本格化させた時と重なっているのです。
さらに、最近のスピリチュアルブーム。この背景には、90年代のオウムなどの新々宗教の破綻を見て、宗教団体を回避しつつ、宗教的なもの、精神世界的なものに傾倒しているのではという見方があるようですね。
しかし、宗教団体として、大きな集団を率いる教祖ではないにしても、小さな人間の集まりの中で、小グルがいて、その中で、自分達だけの世界の幻想に浸る面においては、同じような側面があるとも言われています。つまり、オウム的ななるものが、別の形で広がっているのではないかという見方です。
例えば、断定的で刺激的な自分の前生や来世の話などは、オウムにもよくありましたが、自分達の虚栄心を満たす面があると思います。未来の不透明感や不安に基づいた、予言や占いのブームは、オウムの時代と同じか、強まっているかもしれません。
このことが、自分が、宗教を単純にやめるのではなく、従来の宗教を解体するような、21世紀のための新しい思想・宗教を創造しようと考えるようになった理由の一つでした。
もちろん、これが全ての理由ではなく、様々な現実的な理由があって、その中には、ある意味、だらしない理由もありますが。
社会・世界の全体が、何か共同幻想を抱いているという点では、何らかのタイプの宗教=妄想・幻想に染まっているとも言えます。
その中で、オウムは、もっとも先鋭的なものであったと思いますが、やはり、この社会・世界が作りだしたものであって、突然変異体やエイリアンではない、と思わざるを得ない面があります。
そして、宗教団体と社会の動きは別物ではなく、密接に連動しているならば、単純に宗教から離れて、社会に向かうというのではなく、両者を一体と見て、宗教団体の中から、従来の宗教と社会の問題をまとめて乗り越えるという考えになりました。
そこで、皆さんのご意見も、お聞きしたいと思います。
皆さんは、宗教が好きか、宗教が嫌いか、そして、その理由は。また、好き嫌いに関係なく、自分が宗教的だと思うか、宗教的ではないと思うか。さらには、幻想・妄想を抱く傾向があると思うか、抱いていないと思うか、などなど。様々な意見をお待ちします。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jpなお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
活発な意見交換がなされていますので、
よろしければ、のぞいてみてください。観音様が誕生したエピソード (2008年11月05日)
観音菩薩は、私が最も好きな仏の1人です。そして、仏典のお話の中に、その観音菩薩が誕生したエピソードがあるのですが、それには非常に感銘を受けました。
ある時、二人の兄弟いました。彼らは、親と早く死に別れた上に、その後、人に騙されて、ひどく酷使されました。その結果、二人とも、あえなく死を迎えることになりました。この兄が、後の観音菩薩であり、弟が未来の勢至菩薩でした。
その兄は、臨終の間際に、悲嘆する弟に対して、「私達は、今生、人の様々な苦しみを知ったのだから、来世生まれ変わったらならば、人の苦しみを取り除くために生きよう」と語ります。すると、弟は、その悲惨な一生の意味を理解して、初めて心が晴れるのを感じ、兄と共に、安らかに息を引き取った、というお話です。
この話からは、様々なことが学べると思うのですが、私が一番感じたことは、菩薩というのは、自分が正に苦しみのまっただ中にある時に、他の苦しみのことを思い、それを取り除くことを考える者を言うのだな、ということでした。そういった心が生んだものが、そういった慈悲の心の象徴が、観音菩薩なのだなと。
自分の体験からしても、人が苦しむ根本的な原因は、自分の幸福ばかりに執着し、その結果、自分の不幸ばかり嘆くからであると思います。その反対に、無数に存在する他者の無数の苦しみを思い、それを取り除くこうとするならば、そうした者自身が、自我執着から解放されて、真に幸福になるのだと思います。
そして、それが、人の心が有している最高の潜在的な能力である慈悲の心であり、全ての仏教の修行は、この大きな慈悲の心の獲得のためにあると思います。
皆さんにとっては、仏や菩薩というものは、一体どんな存在でしょう?また、慈悲とか博愛といったものは、具体的に何を意味するものでしょう?また、何が人の苦しみの原因であり、何が苦しみからの解放の道でしょうか。様々なご意見を期待してお待ちします。
極楽・天国とは何か? それはあるのか? (2008年11月03日)
(2008年10月29日)
皆さんは、極楽浄土とか、天国といった存在をどうお考えでしょう。日本人の多くが生れ変わりやあの世を信じているという世論調査を前回ご紹介しましたが、だとすれば、仏教の説く極楽浄土や、天国といったものもあるのでしょうか?仮に、あるとすれば、そこには、どこにあって、どうしたらいけるのでしょうかか。
私は、来世やあの世の極楽浄土や天国については、科学的には証明されない事実であることを冷静にわきまえつつも、仏陀・仏典を尊敬する立場から、否定しない立場をとっています。
しかし、それ以上に重要なこととして、この世に生きている人の心の中に、極楽・天国と地獄があると思うことがあります。
他人や環境は、見方によって、善いものにも、悪いものにも見える。例えば、悪いことをしている他人も、それを単純に他人ごとと見ず、自分の潜在的な可能性であると見れば、半面教師としての導き手になる。全ての人が、自分の助力者になると思います。
逆に、自分が不幸であることを他人のせいばかりにしている人は、嫌な人ばかりがいると思い、人生が嫌になったり、引きこもったりして、生き地獄と言えるでしょう。仏典では、孤独な地獄として孤地獄があるとも言われています。
その意味で、他人や環境自体に、善とか悪とかがあるのではなく、人がそれをどのように解釈するかによって、善し悪しが生じるものだと思います。そのため、良い世界、悪い世界、その究極である極楽・天国と地獄というのは、人の心が作り出すものではないかと思うのです。
まずは、人の心の中に生まれ、それが外界に投影されるといったらよいでしょうか。
今、長野の小諸道場にいます。この近くには、以前の日記でも紹介しましたが、極楽浄土の仏で有名な阿弥陀如来が、有名な善光寺に祭られています。あと数日は、小諸にいて、阿弥陀如来やその化身とされる観音菩薩の聖地に行ったりして、来世と現世、浄土・天国と地獄について考えみたいと思います。
極楽浄土とは、仏典において、阿弥陀如来がすむ浄土の名前です。浄土とは、清浄な国土という意味です。そして、この浄土信仰の中にも、浄土は、人の心の中にあるという考え方と、この世ではなく、西方の方角に、極楽と呼ばれる浄土があり、阿弥陀念仏によって、その世界に生まれ変わるという信仰があります。
阿弥陀念仏とは、阿弥陀を念じて、心を込めて、阿弥陀の救済を信じ、阿弥陀の名前を唱える(有名な南無阿弥陀仏、なみあみだぶつ)ことです。日本では、鎌倉時代などに、法然・親鸞による浄土宗・浄土真宗によって、爆発的に広まり、今での伝統仏教の宗派としては日本最大と言われます。
それまでは寺院を寄贈できるような貴族だけに限られていた仏教の救済対象が、庶民にまで大きく広がったことは画期的だったと思われますが、同時に、戦国時代は、一向宗(=浄土真宗)による一向一揆の動きが起こり、織田信長との激突による破局を迎えるなどしました。その際は、一向宗の門徒に対して、(戦いから逃げずに)進めば極楽(に転生でき)、退けば地獄(に落ちる)という教えが説かれたとも言われます。これは極楽浄土が来世にあるという考え方の典型だと思います。今生は戦争だが、来世は極楽ということです。
最近のイスラム過激派の自爆テロでも、若い人が行なうケースが多いそうですが、自爆テロをするならば、来世天国に行けると教えられるそうですが、これも似た考えですね。オウム真理教の世界観も、突き詰めれば、グルに従って、今生は聖戦を行い、来世は高い世界に生まれ変わるということでした。
そういったこともあって、私は、まずは、今生を生きている自分の心を鍛錬して、心の中に幸福=極楽を生み出すように生きるべきであり、そうしてこそ、来世においても、極楽浄土に生まれ変わると考えるべきだと思うようになりました。すなわち、今生と来世の極楽・地獄を区別せず、今生きている世界に浄土を見る、という考えです。
皆さんのさまざまなご意見をお待ちします。
よろしければメールでお聞かせください。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jpなお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
活発な意見交換がなされていますので、
よろしければ、のぞいてみてください。読売調査では来世を信じる方が多数派 (2008年10月25日)
前生、来世はあると思いますか? (2008年10月21日)
10月19日は、大阪道場で、説法会でした。数名の一般の方を含めて、
会員の方とスタッフ合わせて、40名ほどの集会となりました。
その中で、私は、前生を思い出す、いわゆる退行催眠と呼ばれる瞑想や、
幸福な来世の転生のためのチベット密教の瞑想法などについて話しました。最近はスピリチュアルブームで、ちまたでも、
前生や来世の話がよく出ますね。
私がヨーガ・仏教を始めた20年前とは比較にならないほど、
その手の話が、一般の人の中でも、当然のごとく
語られるようになったことは驚きです。20年ほど前に、私は、集中的なヨーガの瞑想修行を通して、
前生とか、来世というテーマを考えていました。ヨーガ・密教の瞑想をすると、前生(とも思われた)さまざまな
ヴィジョンを見たり、瞑想中に、体から意識が抜け出して、
さまざまな世界に行った(と感じた)体験を
することが一度ならずありました。しかし、これは瞑想体験であって、実際の前生や来世に行った
わけではありませんから、文字通り、括弧付きの体験です。
一方、科学的な検証としては、
生れ変わりを検証する科学者の本なども出て、
前生を記憶しているとも思われる子供達の記憶が、
実在する過去の人物のものと一致するかなどの調査が行われており、
立花隆氏などが、NHKの番組などを通して、
このテーマを真剣に調査・報告しています(結論は、あるなし、
どちらの可能性もある、どちらの解釈も可能である、ということ)。
こうして、前生・来世は、仏教文化の広がった日本の中で、
最近のブームもあって、広く語られることでありながら、依然として、
科学的に完全に証明された事実ではなく、
人それぞれで、考え方、信じ方がちがうだろうなと思います。そして、あまり、前生や来世のことを重視すると、
一番肝心な今生のことがなおざりに
なりがちになるという重大な問題も出てきます。
オウムであったようなポワの問題や、イスラム原理主義の自爆テロの問題も、
すべては来世の存在が前提になっています。
また、昔の日本の人々が、極楽浄土への往生を願って、阿弥陀如来への信仰を深めた時などに比べると、
スピリチュアルブームで前生や来世の話がよく出るようになったとはいえ、
来世幸福になりたいから、仏に帰依するという人が増えているという感じは受けません。
ただ、死というテーマに深い関心を持っている人は少ないように感じます。
死ぬことが怖い、死後はどうなるのだろうか、なぜ人は死ぬのだろうかなど。
また、自分の前生が知りたい、また、今生の問題が、もしかすると、
前生にあるのではないだろうか、といったことに関心がある人も
少なくないように思います。そこで、この日記を通じて、皆さんが、前生や来世、輪廻転生について、どのように考えているかを質問してみようと思いました。
どんな考え方、信じ方、意見でも結構ですので、コメントしていただけると幸いです。よろしければメールでお聞かせください。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jpなお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
活発な意見交換がなされていますので、
よろしければ、のぞいてみてください。失敗と成功はセット (2008年10月18日)
失敗は成功のもととよく言いますが、
今日はこのことに関してお話ししたいと思います。
興味深い話として、名前は忘れたのですが、
歴史上のある偉人が、何かの試みに失敗した時に、それによって、
成功しない道が一つ分かったから、失敗ではなく、
成功であると考えると語ったということがあるそうです。論理的に考えても、失敗を恐れすぎずに、いろいろチャレンジする人は、
経験の量が増えて、その意味で智恵が増大しますから、
成功しやすくなると思います。もちろん、何かやる前に何も考えず、むやみやたらに行動してばかりならば、
失敗が智恵に繋がらない可能性があり、
慎重さと勇気のバランスが必要ですが、
よく考えた上でチャレンジして、失敗した(部分があった)としても、
それは、成功に繋がるものだし、いや、先ほどの偉人のように、
見方によっては成功なのだという考え方が必要だと思います。
ただ、多くの場合、何かしようとしたとき、
失敗した場合に対する不安によって、
縮こまってしまうことがあると思います。
それは、何かして失敗するデメリットと、
何もしないことによるデメリットの双方を
公平に比較できていないことによると思います。背景には、失敗せずに成功したいという気持ちがあるのですが、
これは、実際には自分を幸福にしない一種の欲望だと思います。
言い換えれば、自己保全が強すぎる、
努力しないで成功したいという怠惰がある。仏教で、苦と裏が表裏であり、苦の裏に楽があり、
楽の裏に苦がある、と説くのですが、苦の裏に楽がある、
というのが、失敗は成功のもとという考えと同じだと思います。ただし、それは、失敗した後に、
あきらめずに努力し続ければということであり、
仮に、一度目の失敗で、
二度と失敗したくないと思い過ぎるようになると、
それ以上は動きがとれなくなって、鬱状態にもなり、
結果的に挫折で終わってしまう恐れがあると思います。長野戸隠神社に参拝、宝篋印塔の素晴らしさ (2008年10月15日)
11日から、13日まで、ひかりの輪の会員の方などと共に、長野県の戸隠に行きました。
戸隠神社は複数ありますが、その中でも、奥にあって、神聖な雰囲気である神社は、奥社と呼ばれています。
神社と言っても、以前は、神仏習合で、顕光寺として全国にその名を知られ、修験道場として、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めたところです。
近くの善光寺とも関連を強め、参詣者は一度に両寺を共に参詣することが多かったと言われています。明治時代の廃仏毀釈運動のため、顕光寺は寺を分離して神社となりました。
御祭神は、天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)で、神道の神話の安価で、天照大神(あまてらすおおみかみ)が隠れた天岩戸(あまのいわど)をこじ開けた力持ちの神様です。
神話では、この天手力雄命が投げ飛ばした天岩戸が、現在の戸隠山であるとされていますが、その由来通り、戸隠山は立てた戸のように切り立った山です。なお、顕光寺の時代は、慈悲と救済の菩薩とされる、観音菩薩が祭られていました。
マイミクならぬ、マイブッダはどなた? (2008年10月07日)
皆さんは、好きな仏様、神様がいらっしゃるでしょうか。ないしは、最近は仏像ブームで仏像の雑誌も出ていると聞きますから、好きな仏像様などはありませんか?
ひかりの輪では、祭壇中央に釈迦牟尼、右に観音菩薩、左に弥勒菩薩を掲げています。ただし、人を神としないひかりの輪の原則に基づいて、こうして祭壇に掲げていても、釈迦牟尼さえも絶対視はせず、むしろ、釈迦牟尼が「私を拝むまず、自分自身と法を帰依処とせよ」と説いた彼の精神・理念への敬意を示すために、そうしている面があります。
そのため、こういった外側の仏陀・菩薩は、皆、自分達の中の慈悲・仏性を引き出すための神聖な象徴物・シンボルとして位置づけています。
さて、難しい話は別にして、話を元に戻し、自分が気にいっている仏像があって、それは、京都にある弥勒半跏思惟像というものです。国宝の第一号とされ、教科書などにも出てくる有名な仏像です。その美しさは有名で、東洋のモナリザとも言われています。
私は、数年前、その仏像を初めて参拝したときに、非常に素晴らしい精神的・宗教的な体験をしました。それはいわゆる神秘体験とか、変成意識の体験といったものではないのですが、
非常に神聖な意識・エネルギーを感じました。神聖な意識とか、エネルギーといった言葉だけでは、到底言い表せないもので、なんと言えばいいか、そこには宇宙=コスモスのような無限の広がりと、広大でありながら非常に微細で甘みのある慈悲の波動を感じました。
それは、オウムでの霊的な体験が中心だった当時の私に、オウムの中での体験を上回るものがあることを実感させてくれ、その後のオウム・アーレフからの独立を可能とした要因の一つになりました。
私は、救済という名の下で、選挙から教団武装化まで、様々な激しい動き・活動が展開されたオウムの中で生きていました。
しかし、弥勒菩薩半跏思惟像は、1300年の間だ、じっと深く思索し、微動だにせずに静かにたたずみ、その神秘的なまでの美しさと神聖な慈悲の波動・エネルギーによって、何も言わないままに、私を含めた訪れた無数の人達の心を救ってきました。
こういった救済もあるのだなと思いました。それは、私にとっては、救済というもののあり方に関する、ある意味で革命的な意識転換のきっかけをもたらしました。
なかなか、その素晴らしさは言い尽くせませんが、人それぞれですから、自分にあっている仏像なのだろうとも思います。
つい先日、関西方面に行ったときに、再び参拝させていただきましたが、その時は、以前にも増して素晴らしい体験をしました。
仏像は、同じ仏像ですから、自分の内面の変化によって、感じ方が変わった、進化・深化したのだと思います。ある意味で、自分の心を、仏性を映し出す鏡のようになっているのだと実感しました。これからの修練を積みたいと感じました。
これが、私のマイブッダ(正確に言えば、マイ菩薩)ですが、皆さんが好きな仏様、神様、仏像様、ご神体などがあれば、是非とも教えていただきたいと思います。
合宿を行い、善光寺・戸隠を参拝しました (2008年10月05日)
9月29日から続けていた、ひかりの輪の指導員の合宿が終わりました。
この中では、仏教的なダルマの検討、それに基づいたオウム時代の反省
そして、今後の活動の具体的な指針・方針を話し合いました。後半は、ひかりの輪の長野の小諸道場に行って、さらに、その近くの
仏教聖地である長野市の善光寺、そして、さらにその奥に控える、
戸隠に行きました。
あらためてご冥福をお祈りします (2008年09月30日)
今日、マイミク(mixiで友だち登録している人)の方から、
松本サリン事件の被害者である河野さんが、
奥さんを亡くされたことに関連して、インタビューを受け、その中で、
私が生前奥さんをお見舞いしたことに言及されたことを知りました。河野さんが公にされたので、私もお話ししたいと思いますが、
私が奥さんをお見舞いさせていただくことが出来たのは、
お亡くなりになるわずか数日前のことでした。その時は、お医者さんの話によれば、あと三ヶ月以内には危ない
というくらいの話だったので、まさか、そんなに早くお亡くなりになる
とは思いませんでした(思いたくありませんでした)。
もちろん、お見舞いしたのは、それが初めでした。河野さんの旦那さんには、昨年初めてお会いしました。
諸事情によって、ようやく時期を得て、マスコミを避け、
松本市から多少離れた、河野さんの友人のお宅で、
お会いしました。お会いするのもなかなかご迷惑を
おかけするところ、深い配慮をいただきました。今回は、最初は、河野さんの友人とお会いする話から、河野さん
とも再会させていただくことになり、マスコミを含めた状況も、
落ち着いていると判断されたのだろうと思いますが、奥さんを
お見舞いさせていただくことができました。14年も前の事件であり、この14年間のご苦労は筆舌に尽くしがたい
ものだと思いますが、「自分を含めて家族は、妻に支えられています」
という旦那さんの言葉が、深く印象に残りました。旦那さんが奥さんを
奥さんが旦那さんを支え、支え合ってこられたのだろうと思います。そして、お見舞いが、あと数日でも遅かったら、と思うと、
一連の事件を含めたオウム真理教時代の罪を改めて
反省する機会を私に与えてくださったのではないか、
とも感じ、うまく表現する言葉が見つかりませんが、
神仏という言葉さえ不足に感じる、特別な何かを感じます。お見舞いの後に、サリン事件の現場=河野さんの自宅の
すぐ横の駐車場にも立ち寄った時には、当時のオウム教団の
盲信・傲慢・倒錯・無智に基づく活動が改めて思い出される
ように感じました。
今に思うと、旦那さんを支えてきた奥さんに、私も、
救われたのだと思います。お見舞いができたのと、
できなかったのでは、大きな違いがあると思います。今日を機会に、改めて、奥さんのご冥福をお祈りすると共に、
今後は、オウム時代の深い反省に基づいて、ひかりの輪の
活動と、被害者・遺族の方への賠償に努めていきたいと
思います。新装になった本部道場で説法会を行いました (2008年09月29日)
今日は、新装された本部の道場で、説法会を行いました。
ひかりの輪の本部道場は、東京世田谷区烏山にあります。
ひかりの輪の中では最も大きな道場ですが、この度、
内装を改めまして、その新装のお祝いを兼ねた説法会
となりました。仏陀とは、分別がない人です! (2008年09月27日)
私達の日常の常識では、分別とは、物事をわきまえること、すなわち、良い意味で使われますが、この言葉の元になった仏教用語の「分別」は、正反対に、正しくない心の働きのこというのですが、ご存じでしたでしょうか?そして、「無分別智」という言葉があって、仏陀は、分別が無い智慧(ちえ)を有しているというのです。今日は、このパラドクシカルなお話です。
まず、ちょっと難しいですが、岩波仏教辞典から引用します。、
「凡夫のそれ(分別)は、個人の経験によって色づけれた主観と、対象としての事物との主客相対の上に成り立ち、対象を区別し分析する認識判断であるから、事物の正しいありのままの姿の認識ではなく、主観によって組み立てられた差別相対の虚構の認識に過ぎない。それに対し、主客の対立を超えた真理を見る智慧(ちえ)を「無分別智」という。俗には、物事をわきまえることの意に用いられ、無分別といえば思慮の足りないの意義で使われるから、この用法は、本来に意義とは反対の用法である。」
こうして、仏教の思想では、主体と客体、自分と外界の区別を超えたところに真理を見ます。一方、凡夫(普通の人)は、その両者を分けて、自分個人の経験に基づく主観によって、いろいろな対象を(他の対象とは区別して)認識・判断するものだから、物事の真実の姿をとらえていない、というのです。
すごく大雑把にわかりやすく言えば、この世界を色々ものに区別=分別して、認識・判断する通常の私達の主観的な知性の働きは、真に正しい認識ではなく、実際には虚構の認識であるというのです。
例えば、私達は、実際には、自分達だけでは生きていけません。他の生き物を含めた外界に深く依存して、外界と密接不可分に生きています。分子レベルで見ると、一年で、私達の体の分子は全く入れ替わってしまい、その意味で、自分の体と自分の体以外のものを区別=分別などできず、どこまでが私の体であり、どこからが私のからではないと定義することは、物理的には不可能です。
誰かと話していれば、同じ空気を共有し、呼吸を通して、互いの体の中の分子が入れ替わっています。私達は、水や空気や食物の循環(食物連鎖)を中心とした壮大な分子の循環を基本とする地球環境の中に浸りながら、その一部として存在しています。あたかも、地球という巨大な生命体の細胞のように互いに密接不可分です。
でも、私達の日常の主観的な知性は、あたかも、自分は、他の人・生き物・外界とは全く別の存在であるかのような印象を持って生きています。その原因のひとつは、私達の五感が十分に微細で正確ではないから、そのように見えてしまうこと。もう一つは、「私」とか、「他人」「外界」という言葉による思考が、いろいろなものを区別して感じさせることがあります。
だから、言語の発達した都市文明の人の方が、分別が強いということができます。東洋よりも西洋の方が強いと思います。その中で、自分と他人の強い区別に基づいた、個人主義、競争主義、資本主義が、最近も加速しています。科学については、数世紀前のデカルトやニュートンの時代から続く古典的な科学思想において、この傾向が強く、一方、量子力学などの最新科学は、だいぶ違っていると思います。
そして、仏陀の教えでは、人は、自分と他人を区別して、他人よりも自分の方を過剰に愛して、争うところから、色々な悪業をなして、それによって苦しんでいる、と説かれます。その意味で、悪い区別・分別がある、ということになるのです。
もちろん、世の中には様々な事物があり、様々な差異があり、決して均一でも、単一でもありません。そう考えるのは、間違った無分別だと思います。しかし、それらの様々な事物が密接不可分につながっていて、何者も、他から独立しては存在しておらず、この地球・宇宙の一部である、というのが仏陀の教え(縁起の法)です。
そういった意味で、正しい分別・無分別と、間違った分別・無分別があると表現してもいいかもしれません。
それはともかく、21世紀の今、私達は、非常に分別が強い文化の中に生きています。例えば、人々をバラバラにし、互いを比較して、その優劣を決めるといった。競争や切磋琢磨は良いのですが、奪い合いをふくめた、行き過ぎは、相当な精神不安定を招いている一面があると思います。それは、人の社会を含めた、この世界の真実のあり方が分からなくなって、単に、人間の共通の観念の世界の中で生きているのかもしれません。
皆さんは、この分別と無分別の問題、どうお考えでしょうか。
よろしければメールでお聞かせください。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jpまた、この件について、私のmixiの方で、活発な意見交換
がなされていますので、よろしければ、のぞいてみてください。博愛の人も、エゴの人? ではどうすれば? (2008年09月25日)
前回は、欲望と博愛・慈愛が同根の側面があるのでは、
と書きました、
今回は、このテーマの実際な側面として、
私達が、博愛・利他の行為をする場合にも、
動機の中に、自分のためにそれをやっている、
という意味で、エゴと無縁ではないものがあるのでは、
というお話です。宗教家、政治家、慈善活動家でも、人間はたいていが、
自分の存在価値を追求して、その道に入りますから、
利他の実践をすると言っても、その根底には、
自分が重要な人間になりたいから、
利他・博愛の人になろうという心の働きがあるのだと
思います。
その意味では、利他・博愛の行為も、根底では、
自分のための行為=ある種のエゴでもある、
ということになると思います。エゴという言い方が
きつければ、自己向上欲求でしょうか。その意味で、自分が思うには、利他の実践をする場合は、
自分のエゴを自覚した上で、それが悪さをしないように
努めるべきであり、さもなければ、独善的な行為に
陥りかねないと思います(オウム時代の反省です)。最近は、誇大妄想を抱く人が多くなっているようで、
自分が、救世主である、偉人であるという妄想を抱いて、
実際には、他人に迷惑をかけてしまうケースがあり
それを誇大自己症候群と心理学では呼んでいるそうです。
ヒトラーなどは正にそうだったと思います。
ポイントは、現実・周囲に適用して、本当に他のためになることを
するか、独善的な世界にはまって迷惑をかけるかということの
ようです。その一方で、自分が、利他の人、善い人になりたい、といった
タイプのエゴは、それをうまく活用さえすれば、実際に、
他を利する行為に結びつくエネルギーになりますから、
あれもこれも皆エゴだといって否定して、何もしない人間
になろうとするのは、それもまた何らかのエゴであり、
逆の意味で極端な行為でしょう。
そのため、善い人間になりたいと思う自分の心には、
エゴが同居していることを自覚して、なるべく、
その善い面が出て、悪い面が出ないように努める、
ということが、バランスの取れた心の持ち方だ、と思います。皆さんは、この「善い行いをしよう、善い人になろう」と思う私達の
心に潜む問題について、これまでの経験を通して、
どうお考えでしょうか?
よろしければメールでお聞かせください。
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がなされていますので、よろしければ、のぞいてみてください。欲望や怒りと、博愛の本質が同じって信じられますか? (2008年09月24日)
仏教では煩悩即菩提という思想があります。
この解釈は色々ありますが、「煩悩」、すなわち、性欲や怒りといったものと、「菩提(ぼだい)」すなわち、仏陀の悟りの心=慈悲・博愛は、全く別のものではなく、本質的には互いにつながっている、といった程の意味です。皆さん、これを信じられますか?
釈迦牟尼は、煩悩による苦しみを経験して、ダルマ(仏法)に対する信を持つようになり、解脱・悟りに至ると説きました。だから、仏陀の悟りも、その根本原因は、煩悩である、ということです。仏教的な用語では、菩提心も、煩悩を縁として生じる(縁起する)と言います。
これは、基本的な解釈ですが、実はそれだけではありません。私も、ヨーガ・密教の修行をした結果初めて知ったことなのですが、人が経験する、性欲などの欲望や他に対する怒りも、全ての存在を愛そうする慈悲・博愛の心は、本質的には同じ「エネルギー」であるという側面があるのです。
エネルギーとは、最近のスピリチュアルブームで言えば、「気」といわれる目に見えないエネルギーの流れと言っても良いです。そのエネルギーの流れが、体の中をスムーズに流れ、特に、特にヨーガ・密教で重要とされる三本の主要なルートのエネルギーの流れが整っていると、慈悲の心が生じます。
その一方で、それがどこかで滞っていると欲望が生じます。例えば、性器の部分で滞っていると性欲が生じるとか、おなかで滞っている食欲が生じるとか。怒りが生じる場合も、その怒りの種類の応じて、どこかで引っかかります。
そして、ここがポイントなのですが、仏教・ヨーガの教えの深い理解や、精神集中力があると、自分の意思で、そのエネルギーと滞りを解消して、欲望を慈悲のエネルギーに変えることができるのです。その場合、悶々とした性欲が、博愛のエネルギーに昇華されてしまいます。この経験に基づいて、私は、確かに、煩悩即菩提だな、と思うようになりました。
もちろん、これは、容易ではなく、いつでもどこでも簡単にできれば、その人は、神様・仏様になってしまいますから、それはありえません。そして、前提として、ヨーガが説くクンダリニーの目覚め、密教が説く管・風・心滴のヨーガ(究竟次第の瞑想)が必要になります。
しかし、こういった体験をいくらかでもすることで、どんな悪人のどんな邪悪な心も、本質的には、聖人の博愛の心と全く別のものではないのだ、という価値観が形成され、人間の見方を柔らかいものにかえていくために役立っています。
密教でも、これに類する教えがあり、それは、大煩悩大解脱というものです。大きな煩悩を持っている人が、解脱すると大きな解脱をするということですが、これは、エネルギーが大きいから、煩悩も解脱も大きくなると解釈できます。
また、仏教の有名な守護神である聖歓喜天は、かつては大きな悪業を積んでいたが、観音菩薩に教化された後は、大きな善業を積むようになったとされ、こうして、大悪人が大善人になった理由は、そのエネルギーが強かったから、悪いことも良いことも、大きかった、と説かれているそうです。心理学的にも、ヒトラーのような、誇大妄想の人間が、その狂気によって多くの人に迷惑をかけるケースがある一方で、誇大妄想は、偉大な存在になろうとする強いエネルギーの現われである側面があり、妄想に陥らず、うまく現実に適用出来れば、本当に偉人になる可能性があると言われています。
例えば、ヒトラーと闘ったイギリスの英雄であるチャーチル首相は、子供の時、自分は空を飛べるはずだ、と考えて、実際に高いところから飛び降りて、失敗したということがあったそうです。ヒトラーとチャーチルは、元々は、妄想的なまでに、自分が偉大だ、という意識・願望があったところ、チャーチルは、成長過程で、現実に適用できたということでしょう。
こうすると、この世の中に、絶対の善人と絶対の悪人はおらず、条件が変われば、悪人が善人になる可能性がある、善人も悪人になる、という柔らかな人間観が、単なる観念ではなく、具体的な根拠を持って、成立します。
そして、これは、例えば、他人に対する怒りを和らげる効果があると思いますし、その発展的な実践として、自分の他人への怒りの想念を瞑想によって、愛に昇華する境地があります。
ともかく、人間観として、この世には、善人と悪人の別々の存在であり、大雑把には2種類の人間がいるのか、善人と悪人は、条件によって生じる流動的なものなのか、どちらの見方もあると思いますが、皆さんは、どう考えられているでしょうか。
よろしければメールでお聞かせください。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jpまた、この件について、私のmixiの方で、活発な意見交換
がなされていますので、よろしければ、のぞいてみてください。大阪道場で説法会を行いました (2008年09月23日)
21日の日曜日は、大阪道場で説法会を行いました。
内容は、名古屋の時とあまり変わりはありませんが、
説法では、生と死の循環について、仏教の法則を
交えてお話ししました。
人間を含めて、この地球の生命の寿命は有限ですが、そうであればこそ、
人口爆発などを生じずに、地球の生態系はバランスが保たれています。
私達は日々、食べ物などを取って、他の生き物の犠牲の上に生きていますが、
自分達自身も、寿命が来て死に、体が分解されて、他の生き物の体の有機物に
なっていきます。そのリサイクルの比率は99・9パーセント以上だそうです。
こうして、自分の生は他の死に支えられ、そして、自分の死が他の生を
支えており、ここには、生と死の循環があります。名古屋道場で説法会を行いました (2008年09月21日)
昨日は、名古屋道場で説法会を行いました。道場は、名古屋の都心からはちょっと離れた、
住宅街にある一軒家ですが、昨日は、
会員の方に加えて、新しく来られた一般の方を
含めて、仏教の教えの講義や、簡単な儀式
を中心に数時間行いました。
説法では、この世の生は、他の死の上に成り立ち、
私達もまた、他の生のために、いつかは死んでいく
立場にあることや、快楽の裏には苦しみがあり、
苦しみの裏には幸福もある、といった仏教の教え
を解説して、一日一生の心構えで生きることを
お話ししました。大自然こそが仏ではないか (2008年09月21日)
9/13掲載の日記で、読者の方からコメントをいただいたことから、仏としての大自然について、皆さんにお話したくなりました。大自然が仏である、というのは、日本の大乗仏教の教義であり、聖地での自然の中での修行が特長である「ひかりの輪」でも、重視している教えです。
ご指摘の通り、生きていくために必要以上の物を貪り、地球環境を脅かしている人類に比べて、草・木・山・川・石などの自然は、まったく足るを知っています。自分が他に優位になろうとなどせず、他と調和して自分の領分を守り、かつ、その中で多くの生き物を育んでいます。
その意味では、人よりも仏に違い、欲望の超越と慈悲があるという見方もできます。そして、その大自然の中で、人も生まれて、育まれています。
普段、われわれ人間は、自分たちが地球の王様であるかのような錯覚をして、大自然を見下し、破壊・開発・消費の対象としていますが、見方によっては、それが仏に見える。
これは、自然を開発してきた西洋文明ではなく、自然との調和を重んじる日本文化の生んだ素晴らしい伝統だと思います。そして、地球環境問題が深刻化する21世紀において、その価値は大いに見直されるべきだと思います。
私の宗教的(瞑想)体験では、大自然を仏とみて、人間に乏しいその優れた性質から学ぼうとするとき、自分が、(大自然への愛・感謝を取り戻し)大自然に再融合したという感覚を得ることがあります。
そして、自分は、実際は大自然の支配者などではなく、大自然の一部であって、自分の母なる大自然から生まれてきて、母なる大自然に戻る存在である、と感じます。
最近の歌で言えば、「千の風になって」、という歌もありました。
そして、その時は、大自然側こそが、自分の本体で、自分が「私」と呼んでいるものは、それに属する存在と言った感覚がありました。
人とは、水の中の生まれては消える泡のように、母なる大自然の中に生まれては消えていく一瞬の何か。
これが、人間の世界の自己中心的な世界観ではなく、大自然の中の人間というものをありのままに見た姿ではないか、と思います。
そして、仏教では、仏陀は三宝と言われ、宝とされていますが、自分は、大自然こそが、最高の宝だと感じます。例えば、早朝に地平線から光り輝く太陽(ご来光)や、透明な夜空にきらめく星々よりも素晴らしいダイヤモンドなどあるでしょうか。
なによりも、この大自然・大地球・大宇宙よりも素晴らしいマイホームなどあるものでしょうか。
大自然は、誰彼のものではなく、すべての人が共有している最高のもの。最高のものであるから、それが神・仏であって、最高のものは、皆のもの。
いや、皆のものというより、皆自体が、その最高のものの一部であり、だから、皆が仏の一部、仏の子。なんと素晴らしいことか。
そういった感覚の中では、自分だけの財物や名誉を求める、ちんけな欲望が消え去っていきます。
こういった感覚は、仏教の教学をしつつ、聖地とか自然の美しい場所で体験しました。今度、機会があれば、ご紹介したいものです。
※参考大乗仏教には、「一切衆生悉有仏性」という言葉があります。これは、一切の衆生はことごく仏性(=仏陀になる可能性)を有しているという意味です。同じように、一切衆生悉皆成仏は、一切の衆生はことごとく皆仏陀に成る、ということ。
そして、日本の大乗仏教ですが、単に衆生=生き物だけではなく、無生物を含めた大自然全体に、仏性を拡大しました。自然との調和を重視する日本らしい思想ですが、「山川草木悉有仏性」とか、「草木国土悉皆成仏」などと言います。大自然を仏としています。
ファミレスでお話し会 (2008年09月20日)
昨日は、月1回、ファミレスで、お話会をする日でした。埼玉県は越谷地方で、子育て中のお母さんから、
自然農業をやっている人まで、
いろいろな人が集まっての会合でした。会員の人が中心ですが、社会的な事情により、
今現在は会員の籍はない人も含めて、
集まりました。お店の一角を予約して始まりましたが、
しばらくは、お母さんに連れられた元気な
子供たちが主役となり、その後、徐々に、
大人たちの時間となりました。自分の子供の同級生の母親との人間関係での悩み、
仕事をやっていく上での今後の方針での質問、
農業における殺生をどう考えるかに関する質問、
などなど、いろいろなテーマの話し合いとなりました。人はやっぱり、苦労を避け、楽を求めたがるものですが、
それが行きすぎると、いろいろ悩みが出てくるもので、
心身を引き締めながら生きるには、
幸福も腹八分目で、一定の労苦によって、
自分を鍛えて生きていくのがいいのではないか、
と思いました。さて、今日は、名古屋に行き、そして、その後、
大阪に行く予定です。月1回行う、
関西方面の説法会です。
台風一過、皆さんにとって、
良い日となりますように。
本部道場で取材を受ける (2008年09月19日)
9月17日は、本部道場で、普段とは変わった取材を受けました。
死刑廃止の是非をテーマにした演劇の中で、上映するための映像を作るために、私にインタビューしたいということでした。
元からの知り合いが出演するものであり、真剣な意図をもったものなので、その縁で受けさせていただくことにしました。「ぴあ」などを通しても、チケットが発売されると聞いています。
自分は、オウム真理教を通して、元教祖を盲信していた時代には、今刑務所にいる、かつての友人と同じように、仮に、あのときの自分が、絶対とされた元教祖に、指示されていたら、犯罪に手を染めることになっただろうと思って、ひかりの輪として、オウム・松本元教祖から独立して、反省と自己改革の日々を送っています。
当時の教団の中で、盲信に陥った信者には、元教祖は絶対的な存在であり、また、教団は国家権力・社会全般に不当・違法に弾圧されているという被害妄想があって、それと闘わなければならないという認識が広がっており、さらには、その闘いの中で、教祖の指示に反すれば、場合によっては、自分がポワされる(殺される)可能性もある立場でもありました。
自分も、元教祖に、元教祖の非合法路線に従わなければ、出家を辞めて、在家に戻るように言われたことがありますが、教団施設から離れ、在家に戻るということは、教団が製造する計画であった大量破壊兵器の犠牲者になる可能性があるということを意味していました。
「仏陀と凡夫」「神の子と罪人」の違いとつながり (2008年09月18日)
大乗仏教というのは非常に面白い思想です。
特に、その中に、「仏即凡夫」、「凡夫即仏」という思想があります。ここでの「仏」とは、もちろん仏陀のこと。普通の意味は、煩悩を止滅し、迷いの生から目覚めた人という意味です。
「凡夫」とは、普通の人のこと。煩悩を止滅していておらず、仏道修行に入っていない人のことですが、蔑称ではありません。
全体の意味は、凡夫と仏は、互いから独立した全く別のものではなく、つながっており、本質的には不可分であり、それぞれには固定した実体がない、といった程の意味になります。
大乗仏教の前までは、こうではなく、釈迦牟尼のような「仏陀と凡夫」は、「聖と非聖」、「浄と不浄」の存在として、二分化されていたとされています。
そして、これは宗教の常であり、キリスト教で、イエスを神の子として、他の人間と区別して、別の物とするのと同じです。
しかし、大乗仏教は、釈迦の説いた縁起の法を広く解釈して、その違いを乗り越えてしまったのです。
確かに、仏陀も、最初は凡夫であり、苦しみを経験して、成道して、仏陀になりました。最初から仏陀ではなかったのです。
さらに仏陀は、無智という根本的な悪業の結果として、人々は、苦しみを経験するが、それゆえに、時期を得て、ダルマ(仏法)に対する信が生じ、善業を積むようになり、解脱に至る、と説きました(十二支縁起の法などから)。
これは、悪業をなす凡夫が、その悪業が故に苦しみ、その苦しみをきっかけに、仏法に帰依し、解脱して、仏陀となる、という流れがあることを示します。
わかりやすく言えば、誰しもが幸福になりたい中が、その方法が分からないため、悪いことをするが、それは過程であって、その苦しむ結果として、いつか(の生)では、ダルマの実践を始め、その後、解脱を果たす、ということでしょうか。
人間に対する、柔らかく、温かい、肯定的な、前向きな見方だと思います。良い意味で仏教らしい思想です。
さらに、面白い見解があります。
それは、凡夫でも、仏陀の智慧から見ると、仏と見ることが出来るというものです。
たとえば、上記の思想に基づくと、すべての凡夫は、未来の仏陀、仏陀の卵だということになります。これから、如来蔵という思想が生まれました。仏陀の胎児、仏陀の卵という意味です。
また、他人の良いところを見本とし、さらに、それだけではなく、他人の悪いところも、それを自己の半面教師として、自分の反省に活かすことで、全ての人を自分の導き手と考える実践があります。
この場合は、より明確に、すべての人が、自分にとっては、教師=仏陀になります。
宗教では、誰が仏ないし神の子であり、誰がそうではないか、という議論があり、それが、宗教・宗派による対立の大きな要因になりますが、決して決着つきません。
仏教徒は釈迦を奉じ、キリスト教徒はイエスを奉じ、イスラム教は、マホメットです。今でも、オウム真理教(現Aleph)の人は、麻原なのです。
しかし、人間の歴史の中で、いかなる教祖も、自分こそが、絶対者・完成者である、という十分な証明をなし、人類のすべてを信者にすることはできませんでした。
釈迦やイエスやマホメットを古代の遺物とみて、全く尊敬しない人はたくさんいます。そういった人類と宗教の現実の中で、「誰が仏なのか、誰が神の子なのかは、実は、自分達一人一人の心によって、決まることである」という思想は、非常に興味深く思います。
大乗仏教的に言うと、仏陀の智恵を持って見るならば、全ての人が、仏陀のようにありがたい存在として見え、活かすことが出来ます。
一方で、見方が違えば、釈迦牟尼もイエスさえも、仏陀・神の子にも見えず、自分の周囲が悪い者だらけに見える(こういった人が最近多いように思います)。
そのためか、チベット密教の有名な聖者のミラレパは、「仏陀など探しても見つかるわけがない。だから自分の心を見つめなさい」と語ったといいます。
同じように、地獄も天国も、その人の心が作り出すものという解釈があります。すなわち、心の持ち方によっては、この世界は、悪人ばかりの地獄に見えたり、仏が集う浄土として見えたりするということです。
仏教では、苦しみの世界と苦しみのない世界をそれぞれ「輪廻(りんね)」と「涅槃(ねはん)」と言いますが、その両者をまったくの別のものとはせず、見る側の智慧や無智によって現れるという意味で、「輪廻即涅槃」、「涅槃即輪廻」という思想があります。
わかりやすく言えば、「普通の人を正しく見れば、仏だとわかる。この世界を正しく見れば、仏の浄土だと分かる」という思想です。これは、非常にしなやかで、ダイナミックで、肯定的で、明るい人間観・世界観だと思います。
みなさんは、仏や神、凡夫や罪人、涅槃や地獄、天国や地獄、といったものについて、どう考えられるでしょうか。
よろしければメールでお聞かせください。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jpまた、この件について、私のmixiの方で、活発な意見交換
がなされていますので、よろしければ、のぞいてみてください。東北は仙台道場で説法会を行いました (2008年09月17日)
9月16日
昨日は千葉・船橋でしたが、今日は、仙台道場で説法会を行いました。
昨年開いたばかりの一軒家2階建ての道場で、その2階に道場があります。
東北はさすがにもう涼しくて、人が集まった昼の説法会でしたが、
クーラーなしで十分いけました。
船橋の時に引き続いて、
仏陀のダルマをできるだけわかりやすくお話しした後に、
何人かの方の個人面談・指導を行わせていただきました。
千葉・船橋道場で説法会を行いました (2008年09月16日)
9月13日(土)
今日は、ひかりの輪の千葉・船橋道場で、
説法会を行いました。朝まで長野の小諸道場に居ましたが、
車で約3時間半で、船橋まで来ました。
この道場は、東京の本部と比べると、
だいぶ閑寂な地域にあって、
施設自体は、きれいな一軒家で、
1階に道場があり、庭には、家庭菜園もある、
のどかな雰囲気の道場です。道場長というか、支部長は、
ひかりの輪の副代表の細川美香さんが
努めています。やめられない罪 (2008年09月15日)
ある女性からこういった相談を受けたことがあります。
「10年以上の間、不倫を続けて、どうしてもやめられず、
そのやめられない自分をずっと責め続けて、
相当に苦しんできましたが、最近になって、
やめられない自分を受け入れることに
決めたのですが、これで良いと思いますか」
というものです。そして、最後に付け加えられていたことは、
「良いと言って欲しくて、相談しているのだと
思います」ということでした。こういった相談について、普通、単純に言えば、
あきらめずに、今後とも、
やめられるように努力し続けなさいとか、
相手の奥さんのことを考えてみなさい、
といった答えが出てくると思います。ましてや、仏教を学ぶ者として、
不倫は不邪淫戒に反する悪業と
されています。しかし、今の時代、人の心の状態は、
相当、複雑に病んでいる面があると
思います。
悪いことと知りながら、それがやめられない、
そういった精神状態もあるかもしれません。このテーマに関連するかどうかは別にして、
浄土真宗開祖の親鸞は、20年もの間、
比叡山で修行したが、煩悩を振り切ること出来ず、
ある意味で挫折して、
性欲を超えられないので、観音様が現れて、
自分が女性に変身して現れるから、
その女性と結婚するようにと言われて、
妻帯したという話も聞いたことがあります。こうしたエリートとは言えない修行者だった
親鸞は、悪人正機という教えを説きました。
解釈は色々ありますが、
阿弥陀の慈悲はすべての衆生に及ぶから、
善人は当然のこと、悪人をも救われる、
といったような教えです。この相談について、皆さんどう思われるでしょう。
また、皆さんならどう答えられるでしょうか?よろしければメールでお聞かせください。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jpなお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
活発な意見交換がなされていますので、
よろしければ、のぞいてみてください。楽しみと苦しみは別のものか、つながったものか? (2008年09月14日)
よく苦しいことがあるから、楽しいこともあると言います。
これを宗教の教義としたのが釈迦牟尼だと思います。
しかし、釈迦牟尼が説いたことは、一般の人が、
それを言うときのものとは違って、もっと徹底していて、
楽しみと苦しみはセットであり、別々のものではない、
という思想でした。例えば、20万という給料があるとして、
それをもらう人が、
これまでは10万の給料で苦労していれば、
20万という給料は喜びであり、
これまでは30万の給料で楽していれば、
20万という給料は苦しみとなる、
といった具合です。これは苦楽表裏(苦と楽は裏表)とも言われますし、
これまでに日記に書いた縁起の法の
意味の一つでもあります。よく、私達は、大変なときに、「四苦八苦」といいますが、
実は、これは、人間の苦しみを分類して説明した仏教の用語で、
四苦は、生・老・病・死の四つの苦のことであり、
八苦は、これにもう四つが加わったもので、それは、1 求めても得られない苦しみ、
2 愛著したものと別れる(を失う)苦しみ、
3 嫌なものに会う(を経験する)苦しみ、
4 一切の作られたもの苦しみである(この部分は諸説あり)、
というものです。
これを噛み砕いて、自分なりに説明すると、
誕生日おめでとうと生まれたことを喜ぶが、
出産するのは苦しいし、生きる喜びは、
老いて病んで死ぬという苦しみと不可分であり、さらに、
何かを求めて得ることは楽しいが、
得られなければ苦しいし、
得てしまうと愛著・執着するから、
失ってしまう苦しみが生じるし、また、好きなものを追求すれば、
その反対の嫌いものも生じてくるし、
こうして、一切のものについて、
苦しみを伴わない楽しみはない、
ということになると思います。このように、仏陀の思想には、
楽しみと苦しみは別々のものではない、
という考え方があるようです。もし、楽しみと苦しみがセットなら、
普通、私達が、ひたすらに、
苦しみを避け、楽しみを求めることに、
どういった意味があるのか?苦しみと楽しみという視点からは、
人は何を求めて生きるべきか?
そして、そもそも、皆さんは、
楽しみと苦しみは別々のものだと
おもわれますか、それとも、
それは連動した、
表と裏だと思われますか?仏陀は、
通常の苦楽を完全に表裏と考え、
真の幸福(真楽)は別にあるとし、、
それを涅槃と呼んだと、
私は解釈していますが。よろしければメールでお聞かせください。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jpなお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
活発な意見交換がなされていますので、
よろしければ、のぞいてみてください。自分を少し離れたところから見る (2008年09月13日)
(mixiの日記より)
同じ物に対して、それぞれの人が、
違った認識を持つ。ということや、
人間の五感や意識といったものが、
必ずしも、真実をありのままに伝えない、
といったことをお話ししてきました。こういった考える延長上に、
仏教の四念処といった瞑想があるのですが、
今日、私が話したひかりの輪の会員さんですが、「こうした瞑想をしていくと、
今まで自分が「自分」と思っていたたものから、
一歩距離をおいたような意識が出てきて、
自分と他人を平等に見ることができる感じがした」という感想を伝えてきました。
私もその感覚がわかるので、興味深く感じました。
これは、特別な変成意識の体験ではなく、
精神的な体験であり、心境です。もしかすると、皆さんの中にも、
こうした、自分自身から、
一歩離れた感じの意識を
体験されたことがある方が
いらっしゃるのでは、
と思い、書いてみました。
※参考:四念処の瞑想
この中には、「受は苦なり」という瞑想があって、
「受」=人間の五感や日常の意識は、
人を真実の世界のあり方を正しく認識させない故に、
苦しみをもたらす、という意味合いがあります。この訓練は、自分の心に生じる外界の近くに、
一歩距離を置いて、冷静に見るという効果が
あると思います。なお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
活発な意見交換がなされていますので、
よろしければ、のぞいてみてください。長野・小諸道場へ来てます (2008年09月12日)
今日は長野県の小諸市にあるひかりの輪の道場に来ています。
先日、大自然のすばらしさについて書きましたが、
この長野・小諸道場は、ひかりの輪の中では、
最も、自然豊かな場所にある道場で、
普通の一軒家場で、こじんまりとしてるのですが、
会員にとっては、自然に浸って修行できる道場です。近くには、地元の神社寺院に加えて、
悠然とそびえる浅間山と田圃の緑が、
あたりいっぱいに広がっています。昨日と今日の「私」は、真に同一の存在なのか? (2008年09月11日)
(mixiの日記より)私たちは、昨日の私と今日の自分が同一のものである、と考えています。
しかし、科学的には、そう思いこんでいるだけだという見解もあるようです。
たとえば、記憶については、記憶が貯蔵される脳内の分子は
見つかっていないそうです。
それどころか、脳を含めた体の細胞の分子は、頻繁に入れ替わっており、
どこかの分子に貯蔵されたら、それが外に出て行ってしまう。そして、実際、記憶自体が全く正確に維持されるかというと、
10年前のことと、今思い出す場合と、5年前に思い出す場合とでは、
厳密に言えば、内容がちがってくることを考えると、
記憶自体も少しずつ変質していると考えるのも合理的です。同じ分子がずっと脳内に存在せず、絶えず入れ替わっているので、
分子と分子の繋がり方に、記憶が保存されるメカニズムがある、
という見解もあるようです。この場合、厳密に言えば、
つながり方が保存されると行っても、つながる分子自体は
新しいものに入れ替わっていくため、保存のされ方は、
大まかであり、分子の入れ替えの影響で、微妙に変化していく、
とも考えられます。
こうしてみると、昨日の私と今日の私の間で、
これが全く同じだというものは何一つない、
という不思議な事実が浮かび上がってくるように思います。
体も、心も、記憶も、全てが、厳密に言えば、一瞬一瞬
変化し続けている。だからこそ、人は、過去の自分の状態を文字として記録したりする。
約束したときに、契約書を作る(作る必要がある)のも、
これが原因ですね。そのため、仏教では、単純に「心」という言い方をせずに、
絶えず変化し続けている心を、無数の心が連続していると見なして、
心(意識)の連続体という表現を使います。
こういった「私」とか、「私の心」に対する見方は、
「私」というものを一つの固定的なものを見ることで、
「私」に対する執着が強くなりすぎて、
それが、人の最大の苦しみの原因である、
という仏陀の思想に通じるものです。皆さんは、この自己同一性というものについて、
そして、それがもたらす幸福と不幸についてl
どう考えられるでしょうか?メールでのご意見お待ちしています。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jpなお、この日記を載せている、私のmixiの方で、
活発な意見交換がなされていますので、
よろしければ、のぞいてみてください。
何が「私」か?、どこからどこまでが「私」か? (2008年09月10日)
最近、分子生物学者の本を読んだのですが、
私達は、日常で、「私」というものを「他人」というものから、
強く区別して、いろいろな争いがある、と思うのですが、
科学の目から見ると、それは、あまり合理的なことでは
ないようです。というのは、人の細胞を構成する分子は、一年ほどで、
全部、食べ物などで取り入れたものに入れ替わってしまい、
分子レベルでは、自分と他人の区別がないそうなのです。
つまり、自分だけの分子とか、他人だけの分子とかはなく、
この地球環境の中を壮大なレベルで循環している分子が、
ある時は、Aさんに、ある時は、Bさんに、ある時は、
他の生き物に、そして、無生物になる。その分子生物学者によると、「私」というのは、
その壮大な分子の循環の中で、地球の長い歴史から見ると、
ほんの一瞬寄り集まったものが、生じさせている
一種の効果である、としています。
一瞬寄り集まっていると言っても、その数十年間の間、
絶えず、その中身の分子は入れ替わり、
そして、一瞬一瞬、厳密に見ると、姿形大きさが、
変わっている。そういった意味では、様々な生き物は、厳密には、
互いに独立して生きているのではなく、
人間の中の各細胞のように、各々は確かに生きているが、
一人で生きているのではなく、相互に依存し合って生きている。
その意味で、地球生命圏という巨大な生命体があり、
その中の細胞として、それぞれの生き物が存在している、
という解釈が成り立つのではないか、と思います。爪も髪も、切る前は自分の物で、切った後は自分の物ではなくなる。
体内の酸素・窒素も、体内に有れば生き物の一部となり、
外に出れば無生物となる。どこまでが自分で、どこからが、
自分ではないか、明確な境界がない。だとすれば、私達が日常生活で意識している、
他人や外界とは別の「私」という存在は、実際にあるというよりも、
人間の脳の中で、「私」という言葉などによって作られている、
一種の観念・概念ではないか、とも考えられます。これが、仏陀の説いた無我という思想だと思いますが、
現代の科学によって、それがより具体的になってきたように、
私には思えます。みなさんは、私たちの最大の関心の対象である、
この「私」とは、いったい何だと思いますか?なお、この日記を載せている、私のmixiの方で、活発な意見交換がなされていますので、
よろしければ、のぞいてみてください。メールでもご意見お待ちしています。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp※上記の分子生物学者とは、福島伸一(青山学院大学教授)など。
福岡に出張 (2008年09月09日)
9月7日、今日は、
自分の故郷である福岡に行きました。
ここには、ひかりの輪の指導員(役員)の
山口さんの住居があり、そこは時々、
会員が集う場となっています。
福岡空港から30分弱で到着できる
ところです。そして、今日は私も山口さんの住居に行き、
10名前後の会員・スタッフと集い、
いろいろな話をしました。
エンパワーメントと呼ばれる密教的な修行の話、
この日記でも出てくる仏陀のダルマ・縁起の法の話、
そして、ある会員さんの健康相談です。
私のやっているmixiの方の
マイミクの方の中にも、福岡県出身
在住の方が多くいらっしゃいます。また、自分と同じ1962年生まれで
同じ福岡県久留米市周辺で生まれたのが、
松田聖子さんだったと思います。
若いときのアイドルスター時代から、
今現在も息の長い活動をされている
ことに、非常に尊敬しています。
自分は、徳川家康を含めて、
息の長い、粘り強い人が好きで、
その中の1人です。ということで、仏陀のダルマから一転して、
今日のテーマは、九州・福岡でした。今後の福岡の発展を祈りたいと思います。
私たちは何を愛しているのか? (2008年09月08日)
今、仏教の縁起の法について研究しています。その中でも、出てくる興味深い世界観が、
私たちは、この世の中で、
食べ物にしても、異性にしても
いろいろなものを好きになったり、
または、嫌いになったりするのですが、
それは、私たちの外側にあるものを
直接好きになったり嫌いになったりしているのではなく、
それらのものについて、自分の脳が感じているもの、
つまり、自分の脳の感じ方を
好きになったり、嫌いになったりしているだけ
という事実です。だから、同じ対象を見たり、感じたりしても、
人によって、まったく好き嫌いが違ってくる。
こうして、自分たちの外にある対象自体には、
善し悪しの実体はなく、
それを見る自分の内側の要素いかんによって、
善し悪しが現れる。
その意味で、世界は、現実は、
人の数だけ、脳の数だけ存在する
ということもできる。これが、仏陀が説いた、縁起の法や、
大乗仏教の空の思想の
少なくとも一部だと、自分は解釈しています。でも、私たちは、日常生活で、自分たちが感じていることが、
外側に実際に存在していると、思い込んでいることが多い。
単に、自分の脳の感じ方にすぎないとは思わない。
しかし、その結果として、場合によっては、
非常に強い好き嫌いが起こり、
さまざまな争い、戦争までも起こる。
こうして、人間が存在していると感じているものが、
実際に存在しているものとは違っている。
これが、苦しみの根本原因だと、仏教は説く。皆さんは、この考え方、思想について、
どう思われるでしょう?よろしければメールでお聞かせください。
メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jpまた、この件について、私のmixiの方で、活発な意見交換
がなされていますので、よろしければ、のぞいてみてください。長野・高峰高原に行きました (2008年08月01日)
今、長野県の小諸市にある、ひかりの輪の道場に滞在しています。
主たる目的は、最近ここで始めた団体の指導員の教学・修行の手助けや、
お盆に、ここで予定されている団体の出家修行者の修行の準備などです。
本部道場などと比べると一軒家でこじんまりとしていますが、
自然豊かな場所柄もあって、感じが良いので気に入っています。とはいえ、一日中、道場施設の中での修行だけではと思い、
小諸道場近くの高峰高原にて
いつものパターンで、近くの優れた自然の中に行ってみました。
長野・上高地に行きました (2008年07月31日)
7月19日から21日まで長野の上高地に行きました。
日本有数の景勝地として有名で、すばらしい自然がありました。
サリン事件から13年に際して (2008年03月19日)
明日3月20日をもって、サリン事件から13年となりますが、
これに際して、団体として、以下のようなお詫びと決意の
声明を出させていただきますので、本日記にも、
転載させていただきます。地下鉄サリン事件13年目を迎えて
2008年3月19日
ひかりの輪・元オウム信者代表 上祐史浩
地下鉄サリン事件から明日で13年目を迎える今、あらためて事件のご遺族・被害者の皆さまに対して、深くお詫び申し上げます。
事件に遭われた大変多くの方々の苦しみ、今も続く苦痛を心に刻み込み、二度と同じ過ちを繰り返さない決意を重ねていたいと思います。
そのために、今後とも、被害者の方々への賠償金のお支払いという経済的な償いはもちろん、事件総括を通じて、精神的な償いもいっそう強めていきたいと考えております。
その中で、事件の背景要因となった、元教祖の神格化や善悪二元論的な世界観といった教義に加え、元教祖だけではなく、個々の信者が、自分の教祖を安直に絶対化するに至った原因である、無智、虚栄心、依存心などを深く反省しております。
この反省に立ち、松本死刑囚の著作等のオウム真理教の教材を破棄する一方で、事件に至った教団や信者一人一人の実態、心理状態を分析して総括し、その解決案を一般に呈示して、私たちのみならず、今後の同じような過ち・悲劇が二度と繰り返されないように全力を尽くし、ささやかながらも、せめてもの償いとさせていただければ、と考えております。
最後に、亡くなられた方々のご冥福と、負傷された方々の一日も早いご快復をお祈り申し上げます。
※被害者賠償金のお支払いについて明日、当団体は、被害者賠償金として金200万円をオウム真理教破産管財人の口座にお振り込みさせていただく予定です。これからも全力でお支払いに努めることをお誓いいたします。
本日記者会見をとり行います (2008年03月13日)
本日、3月13日、記者クラブの記者を対象に、
オウム・アーレフの脱会から一年経ったことを機会として、
記者会見を行う予定です。この一年で、どのように変わったのかについて、
相当に詳しい資料をもって、説明したいと考えています。さて、記者会見での説明する内容や資料は、
皆さんがご覧になれるように、
公式HPにも、掲示を始めております。
ご関心があれば、ご覧ください。
公式HPの「改革の取り組み」というコーナーの中で、
過去一年の改革の状況と今後の方針と題された、
新しい記事が、それにあたります。http://www.joyus.jp/hikarinowa/aboutaum/
また、後日となりますが、当日の記者会見の様子も
動画情報として掲示したいと考えております。実際に、報道関係者が伝えることができるのは、
実際の記者会見の内容のごく一部にならざるを
得ません。そのためにも、一般の皆さんにHPで、
その内容を公開させていただきたい、
と思います。アーレフ脱会から一年経ちました (2008年03月07日)
今日3月7日で、オウム・アーレフを脱会し、
ちょうど一年が経ちました。
この一年、実にいろいろなことがありましたが、
この場を借りまして、
ひかりの輪の専従スタッフの方々、
ならびに会員の方々、
そして、外部から応援いただいたすべての方々に、
深く御礼申し上げます。これを機会に、改めて、
精進に努める所存ですので、
今後とも、よろしくお願いし申し上げます。会津巡礼 (2008年03月03日)
昨日と一昨日、関東地方の会員の方々と共に、
会津に巡礼に行きました。
猪苗代湖畔にて 背後の山は、会津磐梯山
生と死、そして、輪の思想 (2008年02月24日)
一昨日は、ある方の質問に答えて、生と死がセットだと思うことを書きました。昨日はは、ひかりの輪の長野小諸道場で、会員・信徒の方に、説法会を開いて、
その中でも、この二つのセットのお話しをしました。そして、実は、このテーマは、ひかりの輪の「輪」に関係しています。
仏教では、不二という教えがあり、それは、普通、
人が二つに分けて考えるものが、
本質的には一つである、と説くものです。生と死が、その一例ですが、
これは、単にセットとか、不二いうだけでなく、
私の考えでは、「輪」を形成しています。仏教を含めたインド哲学の輪廻を信じる人は、文字通り、
生きて、死んで、生まれ変わることを無限に繰り返す様を
輪廻の輪と呼ぶことをご存じでしょう。輪廻を信じない人も、昨日お話ししたように、
食物連鎖や、人口バランスの維持について考えるならば、
他の死に支えられて生き、自分の死は、他の生命を支える、という、
生命体の間で、果てしない生命の与え合い、奪い合いの輪がある、
と考えることができる、と思います。そして、輪といっても、単なる静止した輪ではなく、
循環する輪ですね。人で言えば、生、死、生、死を繰り返す、循環の輪。
自然で言えば、昼と夜、春夏秋冬の季節の輪。そして、仏陀の説いた、楽と苦の輪。
それは、煩悩・欲望に関する輪。
欲する物を得た時の快楽があれば、それと当時に、
得られない時、得たものを失う時、欲しない物を経験する苦しみも、
同時に生じる。
この楽と苦のセット、楽と苦の無限の輪。私の考えでは、仏陀が説いたことは、
普通、人が、生や楽として認識しているものは、
真実は、生と死、楽や苦という循環の輪の一部であるが、
そうは意識せず、あたかも、死と別の生、苦とは別の楽がある、
と錯覚しているが、この錯覚を超えて、
循環を超えた静かな安らぎの境地(=涅槃寂静)を
真実の幸福、悟り、とした、と解釈しています。仏教では、仏陀の教えの象徴として、
法輪(ダルマ・チャクラ)、というものがあります。
法の車輪を意味します。
その形は、ひかりの輪のシンボルマークにも使われているので、
公式HPをご覧頂ければ、その形がわかります。通常の学説では、それは、
仏陀の法が、車輪のように転がり、
広まることを意味する、などと解説されるようですが、
私は、それよりも、ある意味で、重要なことは、
仏陀の法の意味合い自体が、正に、輪の教えであるから、
法輪が、その素晴らしい象徴ではないか、と考えています。なお、ひかりの輪のシンボルマークは、
仏教伝統の法輪の形に、虹の色を加えたもので、
虹の色の部分は、オリジナルですので、
その点、ご承知おき下さい。今日は、東京の本部での説法会、
ダブルヘッダーで、会員・信徒、一般の方向けのものと、
いわゆる出家者向けのものが、それぞれ昼と夜にある、
一ヶ月で一番忙しい日となりますが、
人の輪を見るのは、嬉しいことです。なぜ人は死ぬのか (2008年02月23日)
今日、あるミクシィの方から、興味深い質問を受けました。
それは、死ぬとはどういうことか、なぜ死ぬのか?という質問でした。
彼は、まず、死ぬとはどういうことか、と問いました。
そして、なぜ死ななければならないのか、と問いました。
酒、女、友、学、空、星、花などがある、
この素晴らしい世界から、あと数十年たつと、
自分はどこかに消えてしまう。
これはなぜだろうか、と問いました。
彼は、「私は死にたくない」と言います。
これについて、常に悩んで生きているそうです。
私は、自分の宗教的な実践の視点から、次のように答えました。なぜ、あなたは死ぬか。それは、あなたが生きるからです。
なぜなら、生と死はセットだから。
生きるために、あなたは、食べ物などで、
必然的に、他の生命を奪います。
美味しい食べ物は、他の生き物の犠牲の結果。
こうして、人が生きる、ということは、他の生命が死ぬ、ということ。
その業の結果、いつかは、自分の生命も奪われる。
これは、ある意味で、公平なことです。
もう一つあります。
あなたのように、死ぬ人がいるから、
生まれてくる赤ん坊が、生きることが出来ます。
人類が、これまで存続してきたのは、
死ぬ人と、生きる人のバランスがあるから。
もしそうでなければ、人口が爆発して、
人類はとうの昔に滅びています。
大自然の営みは、生と死のバランス、
生と死の循環によって続いています。
そして、仏教では、人は死ぬと、生まれ変わる、と説きます。
老いた体が、死ぬことで、新しい体が、生まれてくる。こうして、生と死はセット
あなたが生きるから、あなたのために死ぬ生き物たちがいる。
そして、生きるということは、死に近づくこと。
あなたが死ぬから、、
生まれてくる人が、生きることが出来る。
そして、死んでいくことは、新しい生に近づくこと。
生きていくことは、死んでいくこと。
死んでいくことは、生きていくこと。生と死を超越した、真の幸福は、
人生の一面だけを見て、一時的な快楽に耽るのではなく、
生と死、快楽と苦しみがセットである、という真実を理解した後に、
得ることができる境地だ、と思います。
それは、生と死によっては、壊れない類の幸福です。
それによって、死に対する恐怖は和らぎ、
消えていく、と思います。
このように答えました。
週刊誌フラッシュにスクープされる? (2008年02月19日)
今日発売の週刊誌フラッシュを見ると、
「上祐史浩自称皇族教祖との密談現場を撮った」
との記事が出ていました。
そして、なんと、私が、ひかりの輪が立ちゆかないので、
その皇族教祖と「新団体設立に動いた」という内容。実際は、この教祖の方は、
一教団の教祖というよりも、
国際宗教連盟という、宗教家や政治家が加盟する
国際的な連合体のトップである、という紹介を受けたので、
他の宗教・宗派と融和する、という意味でも、
お会いすることになった経緯があります。自称皇族と表現されていますが、その方によると、
いわゆる、南北朝における、南朝の後継者だ、
ということだそうです。
要するに、南朝の天皇陛下。
自分は、こういった話しには、門外漢であり、
ただただ、聞くばかりでした。いったい、なぜ、このような縁が出来たのか?
南朝と言えば、奈良吉野の天川が、
南北朝時代の南朝の人たちを保護した
という史実ありますが、
私は、公式HPにも出していますが、
天川が好きで、何度も行っているので、そのため、
こんな風になったのかな、
と思っています。
記事内容については、公式HPや、ミクシィなどで、
私をよく知る方には、あえてコメントする必要がない
類のものだと思いますが、ともかく、少なくとも、教団が危険である、
という類の報道ではなかったので、
一安心でしょうか。
虹の話 第3回 救いと虹 (2008年02月17日)
虹のお話の第三回目です。
宗教では、虹は神聖なイメージがあります。
神、仏陀、救い、といったイメージでしょうか。旧約聖書では、ノアの洪水の後、
神が、今後は、人間を滅ぼさないと約束した
際の契約の印として虹があります。
その意味で、正に平和のシンボル。仏教では、釈迦が、天上界から、
降りてきた際に、虹が出てきます。虹のお話の続編 シンクロ現象 (2008年02月16日)
虹のお話の続編です。
私が聖地巡礼などに行くと、
虹がよく出ることは
以前もお話ししましたが、その中で、
一つ気づいていたことがありました。
それは、全てのものは繋がっている、という、
一元的な世界観に基づく思索をしていると、
その際に虹が出ることが多い、ということです。
しかし、この内側の一元的な思索と、
外側の虹の間には、
何の具体的な繋がりも見えませんでした。虹は7色ではなく (2008年02月15日)
自分が聖地に行くと、虹がよく出るので、自称、虹男である、
と書いたことがありました。
そして、最近、虹というのは、平和のシンボルとして、
世界各地で、戦争反対の運動に使われていることを知りました。それを平和の旗と言います。
虹は、7色と言われていますが、実際は、無限の色を含んでおり、
各色の間には境界がないことから、多様性の下での統一を意味し、
調和・平和のシンボルとして用いられるようになったとのこと。そして、もう一つ。
この多様性の中の統一とは、仏教的な一元論の世界観と似ています。
仏教の説く縁起の法は、その教えの一部に、
世界には様々な違ったものがあるように見えても、
実際は、何一つとして、他から独立して存在するものはなく、
全ては相互に依存しあっている、という見方を含んでいます。
ひかりの輪は、
オウムの事件を否定し、宗教宗派、宗教と社会の融合を目指し、
仏教的な一元思想を掲げています。そして、昨年、新団体立ちあげの時に採用した、
シンボルマークは、仏法の象徴の法輪を用いて、
それを虹色にしたものなので、
団体の思想によくあったシンボルマークにできたようで、
この点、嬉しく思いました。
ひかりの輪のシンボルマーク
虹は、7色ではなくて、無限の色を含み、
しかも、それが連続的で、一体である、
という視点は、日常の固定観念を超えた、
とても、興味深い視点だと、と思います。
関連記事上祐史浩のメッセージ 虹の教え
節分前夜2月2日、天河・鬼の宿へ (2008年02月06日)
天川に到着して、最初に感じたのは、
その澄んだ空気とプラーナでした。
神事が行われる宮司宅前にて
その後、鬼神事の儀式に出席しましたが、
いろいろと自分の内省が深まりました。
また、儀式に使われる真言や、般若心経の唱和のリズムが、
心地よく感じられ、学ぶところが多くありました。
瞑想していると、何と表現したらよいか、
いきいきとした水の精のイメージと言えばいいか、
そのようなヴィジョンが見えましたが、
水の神の弁財天らしい体験でした。
(→さらに詳しいレポートはこちらへ)
社殿へ続く参道年末年始 (2008年02月02日)
年末年始は、ひかりの輪のセミナーを行っておりました。
5泊6日の充実したセミナーでしたが、
ヨーガや仏教の修行や、密教的な儀式を行い、
さらに、京都・東京の聖地を巡礼しました。
年末は、京都は、比叡山延暦寺、日吉大社、
賀茂神社、京都御所、東寺、広隆寺、松尾神社など。
年越しは、東京の本部に戻って、年末年始の儀式を
行ない、年越しそばなどを食べ、
年が明けて、東京で、日枝神社、
浅草寺、寛永寺、上野東照宮、
清水観音、増上寺などを巡礼しました。45歳になりました (2008年01月31日)
2007年の12月17日をもって45歳になりました。
この日は、京都の聖地を巡礼しました。
まず、京都の東北にある、
比叡山の麓の日吉神社、
そして、 天台宗総本山である、
名高い比叡山延暦寺。
国立博物館で大徳川展を見て(2007年12月6日) (2008年01月29日)
12月1日に、上野の国立博物館に行って、大徳川展を見ました。
「大」徳川展と銘打たれ、二度は無いという宣伝でしたが、確かに、各地から取り寄せた、徳川家の物品が展示されていました。
その中で、一番印象に残ったのは、徳川家光が見た、徳川家康の霊夢を家来に書かせた絵でした。
何故、印象に残ったかというと、それが、12月17日という自分の誕生日に書かれていたものだったからです。
もちろん絵は何枚もあり、他の日付のものもありましたが、12月17日付けのものだけは2枚あり、同じ日に二つの霊夢を見たようです。
2007年の日記
聖地巡礼日記13 天川、弁財天社、龍泉寺 (2007年08月05日)
天川の信仰体系を説明しますと、古くは神前崇拝の視点から、多くの川の水源として聖地とされていました。
そして、その後、修験道の開祖である役行者が、この近くの弥山の山に弁財天を祀りました。
そして、仏教では、高野山を開山する、弘法大師空海が、この地を修行の場としました。そのため、天川弁財天社のすぐ近くに、それにまつわるお寺があり、まさに神仏習合の聖地でした。
さて、弁財天社から車で十五分くらいのところには、修験道の聖地である龍泉寺があります。修験道の修行者が、ここを拠点として、その聖山である大峰山に登山していくために、古来から修験道のセンターとなってきました。聖地巡礼日記12 天川と弁財天社 (2007年08月02日)
今回は、奈良の天川を御紹介します。
天川は、著名な聖地・行場である、高野山、熊野山、吉野山といった紀伊三山のちょうど中間にあります。
美しい川と森林に囲まれ、多くの川の水源となっており、古来から秘境的な聖地とされてきました。 名の通り、天川という美しい川がありますが、ここには、有名な天川弁財天社があります。天川弁財天社は、弁財天を祀る日本の寺社の筆頭です。
聖地巡礼日記11 日光最高の聖地、瀧尾神社 (2007年07月30日)
さて、今回は、「日光」の聖地巡礼日記の最終回です。
今日は、瀧尾神社をご紹介します。
瀧尾神社は、ちょうど日光東照宮の裏山にある、といった位置関係にありますが、東照宮が出来るまでは、
長年、ここが日光山の信仰の中心でした。
そして、重要なことは、ここが、日光最大の聖地と言われていることです。
私は、6月に初めて行ってみましたが、やはり素晴らしいところでした。
地理的には、東照宮や二荒山神社などから、歩いて30分くらいなのですが、この神社の周りは、一面が森林で、全くの自然の中となります。賑やかな東照宮などの施設のあるところとは、全くの別世界です。
聖地巡礼日記10 日光の観音信仰と中禅寺との出会い (2007年07月27日)
さて、今回は、日光の観音信仰の拠点である寺院を紹介したいと思います。
最大の拠点は、なんと言っても、日光山の輪王寺であり、東照宮のすぐ横にあります。
そこには、非常に大きい阿弥陀三尊像を収められていてて、確か、日本有数の大きさである、と記憶しています。
三像とは、阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音の三仏であり、これら三仏は、それぞれ、神道の三つの神、日光の三つの山に対応しています。
なお、輪王寺は天台宗のお寺で、本殿の横の寺社では、時々護摩法(火を使った密教の供養の儀式)などが行われているのを見ることが出来ます。聖地巡礼日記9 日光・観音信仰の発祥地 千手が浜 (2007年07月25日)
今回ご紹介するのは、勝道上人が、観音菩薩を見た場所として知られる、中禅寺湖の、千手が浜です。
この千手が浜と言われるのは、勝道上人が見た観音菩薩が、千の手を持つとされる、千手観音の姿だったためです。
そして、この地で、勝道上人が観音菩薩を見たからこそ、日光を観音の聖地として開山して、今日に至るわけですから、ここは、日光の貫の信仰の発祥の地とも言うべき聖地でしょう。
さて、前回、ひかりの輪と日光の不思議な地理的関係についてお話ししましたが、千手観音と言えば、ひかりの輪が祭壇に掲げいてる三つの仏陀の一つです。釈迦、弥勒、観音の三仏を掲げていますが、観音は、千手観音の御尊像を飾っています。聖地巡礼日記8 日光の自然信仰・神道信仰 (2007年07月23日)
日光の原初の信仰として、中禅寺湖の近くの男体山などを聖山とした山岳信仰と結びついた神道の信仰があ
ります。
これは、日本の各地に見られる形態ですが、男体山は、2400メートル以上の標高で、印象深い形をした山で、見るものを惹き付ける力があります。特に、天気の良い日には、非常に美しく見える山です。地元の人は、関東一の名山と呼んでいましたが、その気持ちも分かります。聖地巡礼日記7 日光とひかりの輪 (2007年07月20日)
さて、今回からは、シリーズで、「日光」をご紹介をしたいと思います。
なぜ、シリーズでご紹介かというと、私個人、そして、ひかりの輪にとっては、この日光は、様々な意味で、非常に縁のある特別な聖地だからです。
よって、多少なりとも、我田引水的な、というか、パーソナルな聖地紹介となってしまう面もありますが、この日記は、結局は、私の日記ですから、それはしょうがないだろうと思っていただければ幸いです。
さて、第一回は、当然の如く、日光で、最も有名な日光東照宮となります。徳川幕府は、徳川家康の死後、彼を東照大権現という名の神として祀ったのが、東照宮です。聖地巡礼日記6 榛名神社、水沢観音 (2007年07月19日)
今回は、7月12日に参拝した榛名神社の紹介です。
榛名神社は、以前、友人から、パワースポットである、と聞いて、書籍などで読む内に関心を持っていたのですが、今回は、ちょうど参拝する機会が得られました。
この神社が祀る神は、火産霊神(ほむすびのかみ)と埴山毘売神(はにやまひめのかみ)です。火と土の神とされていますが、それ加えて、雨乞いをした神様もいるので、土=地、水、火の三神が揃っています。
また、古来から修験道(山岳仏教)の聖地ともされてきたそうです。聖地巡礼日記5 鹿島神宮 (2007年07月18日)
今回は、7月11日に訪れた茨城県の鹿島神宮をご紹介します。
鹿島神宮は、タケミカヅチノミコトを祀り、大和政権の初期に建立された、非常に古い伝統を誇る神社です。昔は、神宮と呼ばれる神社は、鹿島神宮と伊勢神宮を含めて、三社しかない時代もありました。
さて、この参拝直前の朝、鹿島神宮の参拝と連動してか、波乱含みを思わせる現象が起こりました。
まず、私たちの車のうち、2台の車のタイヤがパンクして、予定時刻に出発ができません。さらに、天気も雨模様で、雷雨の予報まで出て、行くべきかどうか、さらに迷いが生じます。同時に、訪問するメンバーの中で、とあることから怒り・嫌悪の感情の問題を話し合う必要が生じました(人は皆、発展途上ですから)。聖地巡礼日記4 春日大社 (2007年07月15日)
さて、奈良東大寺のすぐ隣に、有名な春日大社があります。春日大社は、東大寺と共に世界文化遺産で、7月6日に私は訪問しました。
その神社は藤原氏の氏神を祀っていますが、それはタケミカヅチノミコトです。イザナギノミコトが、イザナミノミコトの息子であるカグツチを斬ったときに生まれた神で、また、大和政権側が出雲の国を大国主命から譲り受けたという有名な国譲りの神話の中で、大国主命と話し合った神様です。名前の通り、雷の神とも言われています。
奈良のたくさんの寺社の中から、東大寺の次に春日大社を選んだきっかけは、我田引水ながら、藤原氏への関心と、この神社の大きな祭り(若宮祭)が自分の誕生日の12月17日だということでした。聖地巡礼日記3 東大寺・不空羂索観音 (2007年07月14日)
さて、今回は、7月5日に、大仏の後に参拝した、同じ東大寺の中にある法華堂(別名3月堂)の不空羂索観音をご紹介したいと思います。
私が東大寺に行こうと思ったのは、最初は、その大仏を見るためではなく、この不空羂索観音像を見たいと思ったからでした。
動機は、単純で、観音菩薩が好きな上に(ひかりの輪の祭壇に飾っている三仏の内の一つ)、このシリーズ日記の一回目にも、ご紹介したように、不空羂索観音と、ミクシィなどのネットが結びついたからでした。
羂索とは、あみとつなという意味で、英語で言えば、正にネットですし、「けんじゃく」と読むので、ネット用語の検索に音が似ていることもあり、不空羂索観音=ネットの観音様、というイメージが沸いたのでした。聖地巡礼日記2 東大寺大仏 (2007年07月11日)
本日は、東大寺参拝の第2回目で、いよいよご本尊の大仏様を取り上げます。
東大寺の大仏、通称奈良の大仏は、仏教用語では、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、サンスクリット語では、ヴァイローチャナと言います。大きさは、高さ15メートル近く、重さ380トン、ご存じのように日本最大の仏像です。
7月5日の午前中、私は、同行するひかりの輪のメンバーと共に、鹿が沢山いる公園を通って、大仏殿に向かいました。
すると、私達が聖地巡礼に行くときに、不思議とよく起こることなのですが、雲間から虹が現れました。聖地巡礼日記1 奈良東大寺 (2007年07月10日)
本日より、ひかりの輪で行っている、聖地巡礼の旅を日記にしたいと思います。
見ようによっては、人が忙しい間に、遊んでいるのではないか、という
ご批判を受けるかも知れません。
しかし、ひかりの輪としては、松本氏から脱却した思想・宗教を古来からの聖地・大自然に求めて、真剣に取り組んできました。 この点、よろしくご理解願いします。
さて、今回は、7月5日に行った、奈良東大寺を取り上げます。6月5日 日光 (2007年06月06日)
6月4日、5日と、団体のメンバーと、
日光に行きました。
団体では、
聖地巡礼と呼んでいる活動の一環です。
日光が、私の住んでいる、
世田谷烏山の真北にあることは、
前に書いたことがありましたが、
これまでは、主に、
尊敬する家康の東照宮や、
観音菩薩を祀る輪王寺などの参拝が中心でした。4月15日 大阪にて (2007年04月16日)
今日は大阪に来ています。昨日は名古屋でした。
信徒・会員の人と会うためですが、旧教団の活動で
傷ついた一般の方ともお会いしました。いろいろ思案しなければならないことが多い毎日です。
旧団体の総括の後半部分の書き方とか、
新団体の立ち上げ時期とか、
連休のセミナーのこととか。ともかく、焦らず、弛まずで進んでいこう、
と思っています。ところで、自分は、織田、豊臣、徳川の中では、
あまり一般に人気のない、徳川家康が好きなのですが、
皆さんはどうでしょう。天才的で革新的だった織田信長、
実力もあり自信家でもあった豊臣、
に比べると、家康は地味ですが。ともかく、家康の言葉、
人生重き荷物を背負いて長い道を行くがごとし、
焦るべからず。
不自由を常と思えば不足なし。これには感銘を受けました。
ある時、ひょんなことから調べてみると、
自分の世田谷区南烏山の3LDKの住居が、
その真北に約百キロメーター行くと、
日光東照宮の家康の墓があることが分かり、
大変驚きました。詳細な経度が出るパソコンソフトで、
精密に調べましたので、
数メーター単位で正確です。不思議なことがあるものです。
4月12日 (2007年04月14日)
先の週末は、千葉の船橋と仙台に出張し、
その他は、旧団体オウムの総括・払拭と、
新団体の準備におわれている感じです。
週末は、名古屋・大阪です。私の周りでは、大変化の最中ですから、
色々な人に、色々なことが起こっています。
そういった中、先日、なんとか仕事が切れたので、
近くの川(といっても多摩川)に行き、
エネルギーを回復してきました。4月10日は、新団体参加予定の出家信者多数を集めて、
オウムの総括・反省のための長時間の会議を行いました。今から思えば……だが、あの時はああなってしまった……
ということが多い、とみんな感じていたと思います。会議は、もう一度行なって、そのの結果は、
新団体のサイトの方に、月末までに発表される予定です。自分個人の総括・反省は徐々にやっていますが、
他人(松本氏)のせいにせずに、
しっかりと自分の反省として書くことを
心がけようとしています。 (言うは易し行なうは難し)。
新団体の基本的なイメージ・プログラムも、
皆で、一歩一歩、考えています。
5月中には、とりあえずの発足になる、
と思います。島田裕巳氏の中沢氏批判の本について2──両氏に対するお詫びを兼ねて (2007年04月01日)
前回、このテーマについて日記を書きましたが、実際に刊行された本(『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』亜紀書房)を読んで、少なからず驚きました。
それは、島田裕巳氏がこの本を書いた二つの理由の一つとして、他ならぬ私自身が、中沢新一氏の『虹の階梯』が、オウム・アーレフの信者が松本智津夫氏への信仰を脱却したり事件を反省したりする上で障害となっていると考えている、ということが挙げられていたからです。
島田氏の中沢氏批判について (2007年03月28日)
島田裕巳氏が、かつて一時的に松本氏を擁護した中沢新一氏とその著作である『虹の階梯』を批判する著作(中沢新一批判ないし宗教的テロリズム)を近日中に発刊する、という話を聞きました。
中沢氏は、日本のチベット密教研究者(ならびに修行者)として第一人者であると思います。そして、チベット密教ニンマ派の教義と瞑想修行を解説した『虹の階梯』は非常に有名になりました。
地下鉄サリン事件から12年目を迎えて (2007年03月20日)
上祐代表・新団体準備グループ一同
2007年3月20日
地下鉄サリン事件から12年目を迎えた今日、私たちは、事件のご遺族・被害者の皆さま、そして多大なご迷惑をおかけした公的機関、一般国民の皆さまに対して、あらためて深くお詫びを申し上げます。
振り返るに、私たちのこの12年間は、事件に対する真の反省からは、ほど遠いものでした。先日、宗教団体アーレフから脱会した私たちも、アーレフにいた長らくの間は、かつての元教祖などへの愛着のあまり、事件から目を背け、ご遺族・被害者の皆さまの苦しみに目をつむり、真剣な反省を回避してきたことを、ここに正直に懺悔しなければなりません。
一人の人間を神と見立てて絶対視し、「教団を善・社会を悪」と見立てる善悪二元論的な考えにとらわれた結果、私たちは無智と傲慢に覆われ、地下鉄サリン事件のような残虐な事件を引き起こす教団を作ってしまいました。
さらには、その後も、その考えからなかなか抜けられなかったため、真の反省に至ることができず、ご遺族・被害者の皆さまをはじめとする多くの方々の心を傷つけ続けてきてしまいました。
私たちのグループは、各々の経験や反省に基づいて話し合いを続けた結果、この約2年半のうちに、ようやく上記のような総括の入口に至ることができました。それは、あまりにも遅すぎる歩みでした。この間、私たちは、アーレフの信者全体への説得も続けましたが、不徳のゆえ力及ばず、今般脱会して、過去の反省に基づく新しい道を歩ませていただくこととしました。私たちはかつて、皆の力で誤った信仰に陥ってしまい、多くの方々を不幸にしてしまいました。
ですから、今度は、皆の力をあわせて、外部の方々の厳しいご意見・ご指導を頂戴しながら、かつての失敗を組織的・体系的に教訓化し、決して対立や闘争や事件を生み出さない新しい考えに基づき、行動してまいります。そうすることによって失敗から立ち直り、償いを果たしていきたいと思います。そして、まことに申し訳なくも停滞している被害者賠償のお支払いを全力をもって進めさせていただくとともに、許されることならば、ご遺族・被害者の皆さまへの直接のお詫びを進めていきたいと考えております。
最後に、亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、関係者の皆さまに深くお詫び申し上げるとともに、いっそうの贖罪に努めていくことを決意させていただきます。
3月18日 (2007年03月18日)
3月18日
昨日は名古屋、今日は大阪に来ています。例によって、信者ならびに道場を訪ねてこられた方と話すためです。
サイトには、オウムの総括の最初の部分の掲示が始まりました。ご関心あればご一読下さい。今後も内容が増えていく予定です。一度には書ききれませんので。
新団体発足までには、自分の責任を明らかにするためと、社会全体にお伝えする重要性がある、と思うことについては、だいたいの部分を書き終えなければならない、と考えています。
3月15日の日記 (2007年03月16日)
今日は、他の宗教の教祖の方と話す機会がありました。いろいろ、学ばさせてもらいました。
高齢の女性で、病弱で学校にも行けず、しかし、20年くらい前に信仰に目覚め、他を許し、他に与えることを中心に実践されているそうです。ともかく、男性・大学出・健康体の私とは全く違うキャラクターでした。
しかし、現在、宗教が互いに争って世界をおかしくしており、宗教が変わらなければならない、という点では、意見は一致しました。その最たるものが自分が没入したオウムでした。
ところで、最近マスコミにも出て、そして、ミクシィを初めて、感じることですが、私が批判されるのは、過去の罪のためとしていいのですが、しかし、私以外の人と人の間でも、互いに批判し合うことが、相当に多いなあ、と思いました。
私と違って、ミクシィやその他のネット世界に参加されている人は、みな、オウムのようなテロリストではないし、もしかしたら、ちょっと警察に捕まっちゃった経験があっても、私たちよりずっときれいな人たちの集合体ですから、互いをほめ合ってもいい人たちだと思います。
私たちは、とうていほめられるべき人間ではないのですが、だからこそ、いっそう、他の方々は互いにほめられて良い人間だ、と思うんですよね。
それとも、ネットだと、批判はしやすいが、称賛はしにくいのだろうかなあ。いや、やっぱり称賛より批判をする方が、パソコン以外の日常生活でも多くて、生活全体が、社会全体が、批判優位になっているのかもしれないな、と思います。
実際、やってみると、称賛するのは、批判するより難しい面もある。相手の良いところを見つける力がないと、まとまな称賛はできないし、自分にストレス、いらだち、卑屈、嫉妬があると難しい。
ただ、全く称賛がないと、成長するのが難しい人は、少なからずいる、と思います。自分の団体代表としての反省からそう思います。
記者会見を終えました (2007年03月09日)
3月9日
とりあえず記者会見を終えました。
その記者会見でも説明しましたが、オウム事件の反省を背景としながら、なぜ、解散をせずに、新団体としての再出発となったのかについて、自分の宗教的視点ではなく、社会的な視点から、「新団体について」のコーナーに改めてまとめてみました。大切なことだと思うので、読んでいただければ幸いです。
今の心境としては、ようやく、新しい道が始まったな、という感じです。今までは、オウム時代の流れを断ち切れず、ある意味で、まともなことは何もできなかった、事件以来の12年間でした。皆さんにも多大な迷惑をおかけしましたことを改めてお詫び申し上げます。
とはいえ、12年間の間、色々経験しました。男性の一番弟子として、オウム・麻原氏への没入が激しかった分だけ、それから脱却し始めるのは時間がかかりましたが、同時に、それは、脱却し始めるために払った努力も多かったことを意味しており、今後の努力のいかんによっては、全く無駄ではない面もあるか、と思います。
なお、今後、出来るだけ多くの方と意見交換をしたい、と思い、いま噂のミクシーも始めました。
URLはこちらです。 http://mixi.jp/show_profile.pl?id=10236634本日のご報告 (2007年03月06日)
3月5日
今日は公安調査庁に行って、まもなく脱会する旨説明しました。
また、新団体としては、住民の不安の除去を最優先し、
観察処分に協力する意思を伝えました。それから、賠償を行なっている破産管財人にも面会しました。
新団体としても、賠償を継続することを約束しました。
新団体設立後に、管財人と賠償契約を結びます。その後、同じマンションに同居する住民の方々に、説明会を行いました。
愛著による妄信 (2007年03月04日)
3月4日
昨日お話ししたことは、私だけでなく、
多くの信者もそうだ、と思います。信者の中には、元代表が、
世の中で一番自分を愛してくれた存在だ、
元代表が、一番自分のことをわかってくれた、
と思う人が少なからずいます。
一般の方から見れば、
それは何とも理解しがたいことでしょう。あれほど悪しき事件を起こした
悪鬼のような元代表に、
なぜ、信者はそう感じることがあるのか。単に元代表に一定の超能力やカリスマ性があり、
気配りが効いて、面倒見が良い、
だけで愛著するだろうか。
私はそうではないと思います。私は、アーレフの代表として、多くの信者を見てきました。
信者の中には、子供の時の傷、家族との傷、学校での傷、
社会での傷がある人が、当然います。
少なくありません。
いや多いと言うこともできます。出家した信者は、家族・学校・職場の
人間関係を捨てた人たちです。私自身は、エリートコースでしたから、
自分の自覚としては、現世に苦しみがあったとか、
傷があったとは思いません。しかし、私の周りの信者には、傷のある人が多くいます。
だから、自分についても、
自分で気づいていないだけかもしれません。私は、小学生のころから、
父親と別居する家庭環境にありましたから、
その結果、元代表が、文字通り、父親代わりになりました。元代表がそのように表現していましたし。
元代表の妻も、
元代表が私をそのように見ていると語っていました。この元代表と私の親密な関係は、
教団の中でも知られています。
でも、それは私に特別なことではないかもしれません。
教団の中で、元代表を
父親代わりにしている人は少なくないようです。
いわゆる父性への欲求でしょうか。
智恵・力・安定・愛への欲求。信者の中で、
一般の人の目を気にしなければならない場所において、
元代表を隠語で、お父さんと呼ぶ人もいます。自分のことはともかく、
生い立ちに傷がある人の話をよく聞きます。
家族の問題、学校での問題、社会での問題。ともかく、自分たちが経験した、
家族、学校、社会の中では、
それが未熟で狭い範囲の経験であったとしても、
少なくとも、元代表を超えるものがない、と感じたのでしょう。もちろん、それは偏った見方でしょう。
親の愛、学校の先生の愛、
友人の愛、会社の同僚・上司の愛。それは元代表のようなカリスマ性はなくても、
心から感謝すべきものがあった、と思います。しかし、大変申し訳ないけれど、
事実として、そう感じることができなかった。人によっては、元代表に会うまで、
誰一人として自分を愛してくれない、
という被害妄想的な孤独感、寂しさを
感じていた人もいるでしょう。
そして、彼らにとっては、
世界の中で、唯一自分を愛してくれた人が、
ないしは、世界の中で最も自分を愛してくれた人が、
世界の中で、最悪のテロ事件を起こしてしまった。そういう現実が、元代表が逮捕された後に、
目の前に立ち現れました。
このような信者の心境を
ある程度察する立場にある自分には、
何とも言いようがない状態です。そして、元代表以外については、
親を含めた多くの人が、
むしろ自分自身で苦しんでいて、
元代表のようには、自分を成長させることができない、
と感じてしまった。そして、元代表に強く愛著し、
そうしている自分自身に強く愛著していると、
元代表と自分がなした悪いことも、否定・反省できなくなる。それが、事件を否定できない信者の
心理の根底にあるものだと思います。そう、私は思うようになりました。
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さて、今、私のいる世田谷の教団施設では、
毎日、公安当局の方々が、教団信者を監視しています。新団体ができることもあって、
表情が以前よりも、若干厳しくなったようです。私は、あまり接することはないですが、ある信者が、
最近、あんまり公安の人たちが、挨拶を返さなくなってきた、
と言っていました。公安当局の皆さんが、日本の国民のために、
教団を監視して、教団の問題点を批判し、
必要な圧力をかけるのは、当然のことだと思います。
しかし、信者が変わっていくために必要なのは、
本当に必要なのは、
甘えだとは思いますが、
元代表以上に、彼らを愛してくれる何か、
そう感じる何か
かも知れません。人は、厳しさだけでは、導けない、と思います。
悪いことを罰する厳しさ、
悪いことをしないように見張る監視だけでなく、
同時に、辛抱強く、愛を持って、
変化・成長を促し、励ます導きが、
必要だと思います。
この点については、私自身の不徳を強く感じます。
代表派・新団体の構成員は、全教団の2割弱だ、と思います。これは、代表である私の力量の不足、
愛の不足であることは明白です。まず、自分の反省と努力が第一です。
しかし、同時に、オウムの問題を解決するには、
多くの方々の力が必要なことも事実だ、と思います。すべての日本の人々のために、
信者のためにも、一般の人のためにも、
皆さんの力を貸してください。
長らく元代表から自立できなかった理由 (2007年03月03日)
3月3日
なぜ、これまで、元代表から自立できなかったのか。
これを一言で説明することは難しい。まず、元代表は、私のかつての宗教的な、精神的な父親です。
元代表は、あれほどの悪しき事件を起こしました。
しかし、私にとっては、私を愛してくれた、
評価してくれた存在でした。個人的な対応においても、
教団での評価においてもそうでした。
私は、男性の弟子の中で、最高位にあり、
特別な宗教名を与えられました。よくよく考えたあげく、私は次のように思うようになりました。
私は、私にとって、最も私を愛してくれた存在だと思うが故に、
元代表を否定することができなかったのではないかと。しかし、こう一言で表現できるようになったのは、
ある意味、最近のことです。ながらく、私は、元代表に帰依することが正しいから、
私は、帰依している、と考えてきました。
帰依することが正しいから、私は正しいことをしているのだ。しかし、実体は、まず、最初に、元代表の愛著に基づいて、
自分がしたいことが、
元代表を肯定することだったのだと思います。その後に、元代表が正しいという論理を作り出す思考が生じます。
もちろん、元代表には、面倒見の良さ以外に、
カリスマ性がありました。
いわゆる超能力とか、神秘力と言われるものです。しかし、高弟たちは、元代表が神ではなく、
人であることを知っています。
全知全能ではなく、
事実に反する推察をする場合も経験しています。
高弟たちだけでなく、すべての信者も、知っています。
例えば、元代表の預言が成就しなかったことを知っています。よって、客観的には、元代表のカリスマ性は、
人を殺すまでのことを正当化する理由にはなりません。しかし、超能力のある人、神秘的な人でも、
人は人であり、神や神の化身ではない、
という理解がありませんでした。超能力・神秘力のある元代表=神の化身である、
という構図になったのです。それは、超能力、神秘体験、瞑想体験、宗教に
対する無痴でしょう。
未熟で免疫がなかった、ということもできるでしょう。いや、本当の理由は、そうではないかもしれません。
本当の理由は、経験不足、免疫の不足などではなく、
元代表に強く愛著した私たち信者は、
元代表を否定したくないために、
元代表を絶対化、神格化したように思います。
本当は、絶対ではないと知っている面があっても、
絶対であってほしかった。よって、信者が、
元代表の超能力、神秘力というものを口実に、絶対化した。
ないしは、信者が、
自分たちの得た宗教的な体験を肯定するために、絶対化した。元代表を絶対化したいから、絶対化した。
否定したくないから、否定しなくていいように、絶対化した。それは、突き詰めれば、自分を愛しているからです。
自分を否定したくないからです。人が最も愛しているのは自分自身。
自分自身の実践した宗教を否定したくない。
自分自身を最も愛してくれたと感じる教祖を否定したくない。これが、事件を起こした理由。
そして、長らく、それを反省しなかった理由だと思います。これが、今になって思うと、感じることです。
もちろん、元代表が私を愛してくれた、という言葉の意味には、
今思えばですが、元代表が私のエゴを満たしてくれた、
という部分が多分にあることに気づきます。自己の存在意義を求める欲求。
愛情、名誉、地位・権力への欲求。
超能力や神秘的な体験、宗教的な瞑想体験への欲求。
そして、世紀末世界の救済といった、一種のロマン。自分が最も愛する「自分」の
様々な欲求を充足したのが「元代表」でした。
20年目の独り立ち (2007年03月02日)
3月2日
一時代前でも、オウム・アーレフでは、
個々人が脱会することはありました。
しかし、今回ほど、多くの信者の集団が、
脱会することはありませんでした。しかも、元代表のすべての教材や、
その信仰システムを捨ててです。ましてや、新しい宗教、思想を目指すことは考えられませんでした。
それは、教団が破綻しようと、考えられませんでした。
ブログをはじめました。 (2007年02月27日)
このたび、ブログをはじめました。
まもなく、私は、アーレフを脱会します。
それは、旧教団を乗り越えて、新しい道を歩み始めるためです。
それに先立ち、皆さんにいろいろなことをお伝えしたいと思います。
脱会は、3月中にも行なう予定です。
私と共に、新しい道を歩むために、
新団体を立ち上げる友人たちも脱会します。
新団体は、4月から5月にかけて、立ち上げる予定です。
これまでの経緯から、私や新団体に対して、
厳しい見方もある、と思います。
そして、それは、自分たちが本当に変わるために、
大切なものだ、と思います。
そのため、このブログで、自分や、新団体について、
できるだけのことをお伝えし、
皆さんからも、いろいろな方々の意見を聞かせていただければ、
と思います。
私たちは、変わっていく決意をしました。
どうかよろしくお願いします。
2月27日 上祐史浩