日記の性格・性質に関するご説明

  • 宗教ではなく、宗教哲学であること (2014年10月29日)

    このコーナーの日記・メッセージの一部には、宗教や信仰に関する考察がありますが、これは、別項の「ひかりの輪とは」のコーナーでもご説明している通り、何か特定の宗教・信仰をすすめるものではまったくありません。

    ひかりの輪は、宗教団体ではなく、東西の幸福の智恵、思想哲学の学習教室です。

    では、なぜ、宗教・信仰のテーマを扱うかというと、宗教には、盲信という弊害がありますが、その一方で、その一部には、盲信を必要とせずに、理性に基づいて納得できるものが少なからず存在し、それらは、人の幸福のために、合理的でかつ奥深い智恵・人生哲学です。

    こうして、宗教の弊害を避け、その一部から、幸福の智恵を抽出することは、人生の宝となると考えています。これが、一部の日記で、宗教・信仰をテーマに取り上げた趣旨です。

    なお、こうして、理性が納得できるように宗教を解釈・活用することを、宗教・信仰ではなく、「宗教哲学」などと呼ぶ場合もあります。

最近の日記(2011年以降)

2010年までの日記

  • 幸福の手段(方便)としての信仰5 (2010年10月01日)

    (2010年10月01日の日記)

    幸福の手段(方便)としての信仰5
    盲信の原因である虚栄心と依存心を超える


    これまで、信仰実践において、自分が信じていることと、知っていること(=誰もが認める客観的なな事実)をしっかりと区別して、単に信じていることについては、絶対真理とはせずに、自他の幸福のためになるように、それを手段として使うことについて書いてきました。

    しかし、これに対して、そのように考えると、自分の都合の良いように、信仰を解釈してしまい、自分のエゴを弱めることが出来ないのではないか、という反論を頂いたことがあります。逆に言えば、自分が信じる宗教(の教義)を絶対真理として、それに出来るだけ従うことで、自分の欲望を縛る、自分のエゴを抑制する効果があるのではないか、というものです。

    しかし、私の考えでは、そういった一面は確かにありますが、それとは正反対に、自分の信仰を絶対視する結果として、信者自身が気づかないうちに、大きなエゴが生じていく問題があることに気づかなければならないと思います。

    これについてのお話しを進めると、だいぶ長くなってしまいますが、このテーマにご関心があれば、今回は、長いのを多少辛抱して読んでいただけばと思います。

    まず、万人が認めるものではない教義を自分達だけが絶対真理と信じる場合、自分達が、信じていない人よりも優れているために、他の人が信じることができないものを、自分達は信じることができるのだ、という心理が働くことが非常に多いと思います。これは、慢心・虚栄心のエゴということができます。

    そもそも、客観的に見れば、人間は誰しも不完全であり、不完全な人間である信者が、ある宗教やその開祖を完全であると判断する能力があるとは言えないでしょう。にもかかわらず、それらを完全と考えること自体が、既に慢心・虚栄心が生じている恐れがある訳です。しかし、自分の信仰を絶対視するようになった信者は、この単純な事実に気づきません。

    何かを絶対真理と信じる際は、それが実際には絶対真理ではないことを自覚しつつ、絶対真理であると思い込むのは不可能です。真実として絶対真理であると考えなければ、そうは信じられません。よって、信じる際には、信じていない人達が理解できない絶対真理を自分は見つけた、理解できたという思考パターンになることが非常に多いと思います。

    しかし、客観的には、万人が信じない理由は、信じる人達が信じない人達より優れているからではなく、誰もが認める客観的な根拠に基づいていないからでしょう。世界最大の宗教のキリスト教が人類全体を信者に出来なかったのも、その信仰の中核にあるイエスの復活が、誰もが認める客観的・科学的な事実とは言えないからでしょう。

    よって、信じている自分達は、信じていない人達より優れているという思考は、虚栄心・慢心だと思いますが、それによって、次に、信じていない人への見下し・軽蔑が生じます。さらに、信じていない人が、信じている自分達の盲信を批判したり、別の宗教を絶対真理だと信じている人達がいると、彼らを(自分達の信じる)神・開祖と矛盾・敵対する存在、いわゆる、悪魔・魔神と見なす思考にも繋がります。

    ここで、更に良く考えると、「自分達が信じているものは絶対真理」と考えることは、究極的には、「自分達が絶対真理である」という心理が働き始める恐れがあります。こうして、信者は、その宗教の神や開祖を絶対と信じる中で、気づかないうちに、自分自身を絶対化していく恐れがあるのです。

    私の過去の経験からしても、自分が重要な存在になりたいとか、他より優れた存在になりたいという欲求が、こうしたタイプの信仰にはまり込んだ一因だと思います。そして、これはエリート・勝ち組と呼ばれる人にも、負け組と呼ばれる人にも、その双方に起こります。エリートは、さらに勝ち組になりたいという欲求があり、負け組は、挽回したいという欲求があるからです。

    なお、現代の競争社会で自ずと培われるこういった欲求(自分が重要な存在、優れた存在になりたい)は、それ自体は、自己向上欲求ですから、悪くはないと思います。仮に、それが、現実の世界とマッチした形で満たされれば、自と他を利する可能性があると思います。

    しかし、妄信的な宗教の場合は、自分達の宗教を絶対視するという非現実的な独善的な妄想的な形で満たそうとすることで、様々な問題が起こるのだと思います。よって、単に自分が優れた存在になりたいという欲求だけでなく、なにかしら妄想的な性格があると、妄信的な宗教にはまる可能性が高くなると思います。

    例えば、宗教には、瞑想体験、神秘体験、超能力、霊性といった要素があります。こういったものの価値をバランス良く考えられずに、(自己の虚栄心を満たすためにも)過大視する傾向のある人は、一つ間違えば、宗教的な真理の世界ではなく、その妄想の世界に陥る恐れがあると思います。こういったタイプの人は、盲信の危険性があります。

    しかし、現代社会では、この妄想的な世界は、宗教に限らず、非常に大きく広がっています。
    漫画、アニメ、映画、そして、パソコンゲーム、匿名・仮装のやりとりのネットの世界、飲酒・薬物など。 競争主義・個人主義・金銭主義で精神的な潤いを失った人達が、現実の世界だけでは充足出来ないのだと思います。

    そして、その苦しみに対する、歪んだ形ではあるけれども、癒し一つの形態として、妄信的な宗教があるのではないでしょうか。その意味では、社会が妄信的な宗教を生み出す土壌となっており、妄信的な宗教を禁じれば、同じ問題が別の形を取って出てくる可能性がありますし、現実としてなくすことは不可能でしょう。

    やはり、表面的な解決ではなく、根本的な解決が必要だと思います。その一つとして、私個人としては、妄信的な宗教から、ひかりの輪の団体を持って、盲信を超えた新しい宗教・思想のモデルを創造していく道を選択したことになりますが。

    また、先ほどエリートも、妄信的な宗教にはまると言いましたが、宗教に限らず、例えば、バブルのマネーゲームにはまったエリートにも、同じような妄想的な傾向があったのではないかと思います。客観的には、誰が見ても、非常に危ないことをしているのに、自分(だけ)は勝つ、成功する、損しない、間違っていない、といった妄想的な慢心です。

    堀氏、村上氏、木村氏、リーマンブラザーズを初めとする国内外の名だたる金融のエリート集団。そして、最近は、証拠を改善する検事など。宗教に限らず、競争社会の中での妄想的な慢心の問題を感じます(なお、80年だから90年代のオウム真理教の隆盛と没落は、ちょうど日本のバブルの形成と没落と同じ時期でした)。

    そして、こうした虚栄心を背景として、いったん宗教に帰属すると、その宗教の世界の中での名誉・称賛に対する欲求も、作用してきます。すなわち、その世界では、より深く信じること、すなわち、客観的に見れば、盲信を深めることが、より良い人・良い信者であると評価されるからです。これによって、さらに盲信が深まります。これは私の経験でもあります。

    これらの問題を回避するためには、努めて自分の虚栄心を自覚して、自分の信仰・宗教を絶対視せずに、それを幸福のための手段として活かしていく姿勢が重要だと思います。そして、その具体的な実践については、前回までに多少なりとも述べました。


    さて、自分の宗教を絶対真理として信じるもう一つの背景として、依存心があると思います。

    これも、私の経験なのですが、特に若い人の場合は、学校の勉強で、先生や教科書を絶対に正しい存在として従う訓練ばかりしています。また、親が今ひとつ権威を失って、親自身が迷って苦しんでいることが多い現代社会の若者の場合は、何かの自分の見本となる確たる権威を求める欲求があると思います。そこで、宗教に巡り会って、開祖がカリスマ的であれば、それを絶対として見習っていく、依存していく可能性があると思います。

    この問題の根底には、人生経験が乏しいことによる無智があると思います。人は誰しも絶対ではなく、人から学ぶ場合は、絶対視せずに学ぶべきであるという智恵がない。これは、前に書いた、超能力や神秘体験に対するウブ・無智と同じことであり、先生という存在に対するウブ・無智と表現できるかもしれません。ただ、これは、本来的には依存心が強くなくても、それまでの人生経験の未熟から、依存する場合と言ってもいいでしょう。

    一方、人によっては、より依存心が強い場合もあると思います。言い換えれば、自分に自信が無く、誰かを頼って幸福になりたいと考える傾向です。また、そこに一攫千金・大逆転を求める欲求も加わるかもしれません。そして、この傾向の根本には、自信がないというよりは、本質的な努力を嫌う傾向=楽して幸福になりたいという欲求があり、その結果として、自信がないという状態になると思います。

    こういった欲求がある場合は、自分が巡り会った宗教が、絶対真理であり、それを信じさえすれば、自分は(他の人が得られないほどに)幸福になると考えることは、非常に魅力的なものとなりますから、それによって盲信に陥ると思います。

    本来は、宗教に限らず、科学の世界でもそうであるように、人間という不完全なものは、何が正しくて何が正しくないかを完全に理解することは不可能であって、それを踏まえた上で、一歩一歩、向上・前進するように努めるのが、本当の意味での真理の探求であると思います。

    それに対して、何かを絶対真理と信じると、何が正しいか正しくないかをもう葛藤する必要ななくなりますから、楽をしているのですが、信者は必ずしも、楽をしているとは感じません。その楽と引き替えに、その宗教に従う努力が課せられるからです。しかし、これは、学校で先生(=教祖)の言うとおりに勉強する生徒(信者)の努力であって、社会に出て自分の人生の道を暗中模索する努力との違いでしょうか。

    そして、ここで妄信的な宗教が信者に説くことは、信者は無智であるから、それを自覚して、傲慢にならず、絶対である開祖やその教義を疑ってはならないということです。それは、いわゆる神への不信・疑念という悪業となると説くのです。

    しかし、客観的に見れば、不完全な人間である信者が、開祖を含めた何者かを絶対視する、すなわち、絶対だと判断する能力があると考える方が傲慢であり、さらには、自分の信じた開祖を絶対と見ることで、ついには自分自身を絶対と見る思考パターンに陥るということがあります。

    この傲慢には、妄信的な宗教とその信者は気づかないと思います。こうして、信者は開祖やその宗教に対しては謙虚に振る舞いつつ、自分では気づかない傲慢を形成します。それは、主に、先ほど述べたように、信じない人達を強く見下す傲慢となって現れます。

    しかし、当然のことですが、人が何かの道で成長する上では、それが宗教の開祖であれ、学校の先生であれ、その道の先達から謙虚に十分に学ぶことは必要だし、望ましいと思います。誰からも学ばないというのは、明らかに傲慢ですし、その人の進歩を遅らせる結果になると思います。

    人という文字が示すように、何かで成功することはおろか、生きていくことさえ一人では出来ない存在ですから、全く他に依存せず、他から学ばず、自分は生きていく、成功すると考えるのは、妄信的な宗教の信者とは、逆の形を取ってはいるものの、同じように、傲慢・無智なことだと思います。

    特に、妄信的な宗教を含め、何かにはまった人が、それをやめた後に、それがトラウマになって、その後は、他から全く学ぶことができなくなる場合がありますが、これは、傲慢な性格で盲信した後に、同じ傲慢な性格で、全く学ばないという両極端に振れている恐れがあると思います。

    よって、結論としては、正しい学びの姿勢とは、この双方の極端から離れたバランスの取れたものだと思います。具体的に言えば、相手を絶対視しないで、かつ謙虚に学ぶ。全てが正しいとは思わずに学ぶ、何か間違っているかもと思い、悪いところは受け流せるように、注意を持って学ぶ。

    こうしたバランスを取った学び方は、難しいと感じられるかもしれません。しかし、難しいからこそ、真の価値があり、最初に苦労することで、後が楽になる。急がば回れということでしょうか。一方、絶対視して学ぶことは、最初は楽ですが、間違いを無防備に吸収し、後が大変になると思います。

    こうしてみると、結局は、結論は、努力してこそ幸福になる、甘えていては幸福にならないという普遍的な真理ではないかと思います。仏教的に言えば、利他を初めとする善行を積む労苦があって幸福になり、エゴの甘い誘惑に負けて、悪行に堕していれば、不幸になるということだと思います。ローマは1日にして成らず。真の幸福を得たり、真理を探究するためには、一生こつこつと努力し続ける必要があると思います。

    なお、その宗教やその開祖が不完全であって、間違っているかもしれないということは、必ずしも、その宗教や開祖自体の価値を否定しているのではありません。例えば、開祖にとって良い教えも、違う人間である開祖から学ぶ人には、最善ではないかもしれません。また昔は良かった教義も今の時代には合わないかもしれません。

    日本の伝統文化の中に守・破・離というのがあり、それは、師の教えをしっかりと守り、その次に、師の教えを破り離れるという意味だそうです。これも、師から謙虚に学びつつも、最終的には、自分なりの最善の道を確立するという意味だと思います。

    こうして、一つ一つの時代の一人一人に、それぞれの幸福の道や、悟りの道があるとすれば、そもそもが、人は、他から十分に学びつつも、自分や自分達の時代に最善なものを自分で見つける覚悟が必要だと思います。これが、古きを温めて新しきを知れという言葉だと思います。

    最後に繰り返しとなりますが、妄信的な宗教に陥る原因となる依存心や虚栄心をよく自覚して、それを乗り越えて、真の努力を一生続けていく覚悟をすることが、自分の真の幸福のための手段として、信仰・宗教といったものを活かす道だと思います。


  • 幸福の手段(方便)としての信仰4 (2010年10月01日)

     

    (2010年10月01日の日記) 

     


    幸福の手段としての信仰4
    釈迦牟尼という特徴的な宗教家


    日本で釈迦牟尼と呼ばれている人物(本名ゴータマ・シッダールタ)は、自分の最も好きな宗教家の一人だと思います。昔からインドに行くことが多く、その中で、釈迦牟尼ゆかりの聖地巡礼を繰り返し行いました。

    そして、最近、従来の宗教を超えた、21世紀の新しい宗教のあり方を考え、その中で、幸福の手段としての信仰という理念を固める上でも、釈迦牟尼の生き方は非常に大きな助けとなっています。自分の持つ21世紀のための新しい宗教の在り方と、釈迦牟尼の教えや実践との共通点は、以下の通りです。

    1自灯明・法灯明
    釈迦牟尼は、信者に自分(=釈迦牟尼)を崇めずに、自己と法を拠り所にすることを強調した。いわゆる自灯明・法灯明とも言われる。これは、ひかりの輪の「人を神(=絶対)としない」という原則に一致する。

    2方便自在・対機説法・択法覚支
    釈迦牟尼は、何かの唯一絶対の法則を説くのではなく、人によって、機会によって、説く教えを自在に変えた(対機説法)。弟子には、時々の条件に応じて、修習する法則を選択すべきとも説いた(択法覚支)。様々な法則を方便(=手段)として自在に操った(方便自在)。これは、宗教(の教義)を絶対真理として盲信するのではなく、幸福の手段と位置づける、ひかりの輪の思想に通じる。

    3無記と現世指向
    釈迦牟尼は、他の宗教家が、あの世の存在の有無など、決着のつかない議論を持ちかけると、どちらとも決めない(無記)という姿勢を取った。そして、そういった抽象的な問題ではなく、実際の現実の苦しみを(法の実践で)取り除くことを強調した(現世指向)。これは、ひかりの輪が重視する、盲信の超越(合理性の重視)と通じる。

    これらの教えや実践から私が感じる釈迦牟尼のイメージは、その巨大なカリスマ性に反して、非常に冷静な、理知的な、合理的な思考・精神の持ち主というものです。

    釈迦牟尼の言説を研究する学者の中には、釈迦牟尼は、彼が生まれる以前からインドに浸透していた輪廻転生の世界観を説いているものの、それを絶対真理とは考えておらず、方便として用いたのではないか、という見解もあるようです。釈迦牟尼の様々な前生を説く輪廻転生談(ジャータカ)も、学術的な研究では、釈迦牟尼の直説ではなく、後世の作だという見方が強いようです。

    また、釈迦牟尼(そして仏教)は、宇宙の創造や、創造主・絶対神も説いていません。他の宗教のほとんどは、宇宙の創造神・絶対神といったものも説きます。しかし、よく考えれば、創造神・絶対神の存在とは、合理的には肯定も否定もしきれるものではありませんから、釈迦牟尼が、それをどちらとも決めない無記の事項の範疇と見なしたとすれば、それも彼の合理的な精神の一端かと思います。

    それに替えて、釈迦牟尼は、この世の道理を現す「ダルマ(法)」を強調しました。よって、仏教は初めはダルマ信仰であって、ブッダ(仏陀)信仰ではなかったと言われています。学術的には、釈迦牟尼が神格化されたり、釈迦牟尼を超える絶対的な仏が説かれたりしたのは、後世のことである(大乗仏教の経典においてである)と言われています。

    このダルマとは、深く考えるならば、誰もが、この理性で確認できる道理だと思います。釈迦牟尼は、縁起の法や無我の法を説きました。

    この縁起の法とは、事物が条件によって(他に依存して)生起することで、万物が相互に依存し合って存在していることを言います。また、無我の法とは、永久不変の自分(ないしは他から独立した固定した実体を持つ自分というもの)は、存在しないという教えです。

    これらの法則は、論理的な観察と分析によって確認できるものだと思います。そして、それにならって、ひかりの輪でも、自分とは他者から独立した存在ではなく、万物は一体であり、真の自分とは、無限の宇宙全体に広がっていると説いています。

  • 幸福の手段(方便)としての信仰2 (2010年10月01日)

    (2010年09月30日の日記)


    幸福の手段(方便)としての信仰2
    信仰に逆支配されないために

    前回、自分や他人が幸福になるための方便(手段)として信仰というお話をしました。

    まず、信仰の本質を考えるために、信じていることと、知っていることを対比させて考えるならば、信じていることは、誰もが認める客観的な事実ではないから、冷静に考えれば、正しい可能性と正しくない可能性があって、そのため、何かを信じるとは、それを正しいと思いたいという心理が働いているということでした。

    そして、信仰の対象を絶対真理と考えるのではなく、正しい可能性と正しくない可能性の双方を意識して、それが自分と他人を幸福にするための手段となる場合には、それが正しい可能性を使って(それを信じるようにし)、望ましくない場合は、それが正しくない可能性を使えばどうか、ということでした。

    今回は、これに関連して、宗教・信仰に人が逆支配される現象と、その背景を考えてみたいと思います。

    まず、誰もが認める客観的な事実が無く、何かを信じるということは、必ず、それを信じる人と、信じない人が出てきます。よって、人類の歴史で、どんな大きな宗教でさえ、その信者と非信者が存在します。

    例えば、キリスト教が世界最大の宗教だとして、その信仰の中核と言われるのは、イエスが復活したことを信じるかどうか(信じる者がキリスト教徒)だと思いますが、世界人類全体から見れば、これは誰もが認める客観的な事実ではないために、キリスト教徒とそうではない人達がいます。

    仮に、イエスが、全ての人類の前で、毎日のように、死と復活を含めた様々な奇跡を見せ続ければ、ほとんどの人はキリスト教徒になると思います(その場合は、信仰というより、イエスの奇跡現象が、宇宙の普遍的な(科学的な)真実の一部として認められる)。

    よって、信じる人がいれば、必ず信じない人が出ます。そして、ここで問題なのは、信じる人と、信じない人の間で、場合によっては激しい対立が生じることです。そして、それが、21世紀の人類を危うくさせている事実です。

    何故そうなるかというと、信じる人は、信じることを絶対的に正しいことと錯覚するからです。そもそもが、信じることは、誰もが認める客観的な事実ではなく、知っていることは違うにもかかわらず、それを信じてしまうと、あたかも知っているかのように錯覚する。そして、多くの場合、信じることが出来る自分は、信じることが出来ない人達より優れているという錯覚が生じます。

    本来は、信じない人がいるのは、宗教の信仰というものが、そもそもは、誰もが認める客観的な事実ではないからに過ぎず、信じない人が、信じる人よりも劣っているからではありません。

    しかし、非常に多くの場合、信じる人は、信じない人よりも自分は優れていると強く思います。そして、信じない人を悪業をなしている人だ、地獄に堕ちるなど、と決めつけ、自分が気づかないうちに、実は、無智・傲慢になっていくのです。

    それと同時に、自分にも苦しみが生じます。それは、本来は自分の幸福のためであった信仰に、自分が逆支配されると言ってもよいかもしれません。例えば、場合によっては、自分達の信仰を否定する勢力とは(そうしたくないのに)戦わなければならないという状態に追い込まれる。

    また、自分が、その信仰に反していると思うと、非常に不安になる。さらに、相当に疑問を抱いても、やめた場合の恐怖があるため、なかなかやめることが出来ない。それまで自分が、信じない人達を否定してきたことが、自分に返ってきて、やはりやめることは悪業になるのではないか、地獄に堕ちるのではないかという恐怖・不安として出てくる。

    その結果、自分が幸福になると思ったから、信仰したにもかかわらず、客観的に見ると、信仰によって、逆に不幸・不自由を感じる一面が出てきます。

    さて、宗教に関する自由と言えば、17世紀の市民革命以来、確立した基本的な人権の概念として、(自分の好きな宗教)を信じる自由と(自分が好きでない宗教を)信じない自由を「信仰の自由」と言います。ただ、これは自分と他人の関係の中での信仰の自由です。

    しかし、今までお話ししてきたことを考えると、これだけでは、真の信仰の自由を得たとは言えないと思います。そのためいは、自分自身の中における信仰の自由が必要です。すなわち、自他の幸福の手段として、自分の関わる信仰を自在に使える柔軟な智恵があってこそ、真の信仰の自由を得たということができると思うのです。

  • 幸福の手段(方便)としての信仰1 (2010年10月01日)

    (2010年09月30日の日記)

    幸福の手段(方便)としての信仰1
    信じることと知っていることの違い


    従来の宗教のもたらす問題を超えて、21世紀に新しい宗教の在り方を創造する上で、まず、考えるべきことが、信じていることと知っていることの違いだと思います。言い換えれば、信じるということは、どういう意味を持つのか、ということです。

    多くの宗教の信者は、その教祖か、ご本尊か何かを信じますが、この信じるということは、知っているということと対比させると、その性質の違いがよく分かると思います。

    知っているという場合は、大雑把に言えば、その対象は、誰もが認める客観的な事実であって、例えば、科学的に証明されるもので、信じているというのは、誰もが認める客観的な事実ではなく、言わば、その人が、正しいと思っている、ということだと思います。

    もちろん、正しいと思うには一定の根拠がありますが、誰もが認めるほどの客観的な根拠がある訳ではなく、場合によっては、間違っているかもしれない可能性を含むものだと思います。 そして、正しい可能性と間違っている可能性がある中で、正しいと思う訳ですから、これには、自分でも気づかない何らかの理由で、正しいと思いたい、という個人の好き嫌いの感情が入っているという推測が成り立ちます。

    しかしながら、多くの宗教の信者は、信じる=正しいと思いたいことを、知っている=正しいことと混同してしまう場合があると思います。例えば、「自分の信仰は正しい」、「自分達の信仰こそ正しく、他の信仰は間違っている」と主張する人がいます。

    しかし、「自分の信仰は正しい」という主張を、先ほどの考えた「信じること=正しいと思いたいこと」という分析に基づいて解釈すると、「自分が正しいと思いたいことは正しい」と主張していることになります。ここに、現代社会で、宗教を嫌う人が、宗教の信者に感じる傲慢・独善の本質があるのは明かではないかと思います。

    では、信じるという行為は、単に傲慢な行為にしかならないのか、というと、そうではないと思います。それは、信じる人が、信じるという行為と知っているという行為を区別して、傲慢にならないように努めつつ、自分や他人を幸福にするために、信じるという行為を手段(=方便)として使う場合だと思います。

    例えば、仏教が説く輪廻転生思想ですが、生れ変わりを信じることで、今生悪いことをしても、見つからなければいいと考えを押さえ込み、来世に罰を受けないように、今生悪いことはしないようにしようと考えることは、輪廻転生思想を自分や他人を利する手段として使っている一例だと思います。

    しかし、生れ変わりを信じる人が、生れ変わりとは、「自分が正しいと思いたいこと」に過ぎないのではなく、「絶対真理である」と錯覚すれば、オウム真理教のように、他人を殺しても来世があるからよい(高い世界に生まれ変わらせればいい)と考えたり、イスラム原理主義のように、自爆テロをした者は、その功徳で天界に転生できると考える原因になる可能性があります。もし、「自分が正しいと思いたいこと」に過ぎないと考えるならば、それによって、他人の貴重な生命を奪うテロ行為は正当化出来ないでしょう。

    一方、信仰者の方からは、「信じる」ことを、単に「自分が信じたいと思いたい」に過ぎないと自覚してしまうと、それほど強く信じることはできなくなるため、信じることによるメリットも無くなるのではないか、という反論があると思います。例えば、上記の生れ変わりの場合は、生れ変わりがなければ、今生悪いことをしてはいけないという気持ちが薄れてしまうということです。

    しかし、生れ変わりについては、確かに生れ変わりは、誰もが認める客観的な事実=科学的に完全に証明されたものではありませんが、依然として、科学者の研究や古来の聖者の見解など、その存在を示唆するいくらかの事実はあるわけです。すなわち、生れ変わりがあるとは断定できないが、逆に、生れ変わりがある可能性は否定できないわけです。

    こうして生れ変わりがある可能性とない可能性があるならば、生れ変わりがある可能性を使って、悪いことをしたら、今生見つからなくても、来世に罰を受ける可能性があると考えて、それは避けようと考えることができると思います。また、同時に、生れ変わりがない可能性を使って、他人を殺す行為を正当化しないことが出来ると思います。

    そもそも、信じることの対象は、例えば、神を信じると言うように、それがあるともないとも(正しいとも正しくないとも)断定できないものです。すなわち、存在する(正しい)可能性と、存在しない(正しくない)可能性の双方があります。

    この両面性の事実を使って、自分や他人のために、信じることがよい場合は、それが存在する(正しい)可能性を使い(すなわち信じ)、信じることが悪い場合には、それが存在しない(正しくない)可能性を使うことはできる、と思います。

    さて、次回の日記では、この点をより深めて、自分の信仰に逆支配されないこと、すなわち、真の信仰の自由を得ることについて、お話ししたいと思います。

  • 教師としての大自然 (2010年09月29日)

    (2010年09月26日の日記)

    上高地に数年前に入った時に感じたことは、教師としての大自然
    というものでした。

    木々も山々も、自分こそが一番になろうという欲望がなく、
    大きいものも、小さいものも、全体の中でのそれぞれの役割を果たし、
    調和しているように見える。
    自然の美しさ(特に日本のそれは)には調和の美がある。

    和をもって尊しとなせ、というのは、日本の釈迦、観音菩薩の化身と言われた
    聖徳太子の言葉ですが、大自然は、この教えの見本かと思います。

    こうして、大自然を仏の教えの見本として尊重する心が生じた時に、
    自分があたり一帯の大自然と繋がって、心が非常に大きく広がり、
    一体となった感覚が生じました。

    現代社会に住む私達は、自然を尊重し、自然と調和して生きた昔と違って、
    自然と切り離された都会で、自然を見下した価値観で生きていますが、
    際限のない欲望で地球の調和を乱し、地球環境問題などの困難を抱える今、
    あらためて自然から学ぶ精神を取り戻すことが大切ではと思います。

    人間は考える葦(あし)と言われますが、考える葦だからと言って、
    考えない葦よりも、優れているかというと、単純にそうではない。

    何ごとにも、長所の裏に短所ありで、仏典でも、人間には両面性があり、
    考える力を悪い方に使えば動物以上に悪いことをなし(地獄に堕ち)、
    良い方に使えば、釈迦のように悟るといった主旨が説かれています。

    そういった意味で、現代の考える葦は、多少なりとも傲慢で、
    人間である自分が、他の生き物よりも、優れているという油断があるかも。
    それを冷ますためにも、考えない葦から学ぶことが重要かと思います。

    万物を仏の平等な現れと説き、全てが平等に尊いとする、
    大乗仏教の思想も、これと関連すると思います。
    人の間もそうですが、この世の万物も、本質的には、一長一短であり、
    人が思うほど、大きな違いはなく、互いに助け合って存在している。

    さて、最後に、大自然に加えて、人が教師としにくい対象があと二つ。
    まず、妬みの対象。真実は自分の見本。努力が嫌な人には嫌に見えるが。
    まず、怒りの対象。実は自分の反面教師。傲慢な人には邪魔に見えるが。

     

  • 苦の裏に楽あり一考 (2010年08月25日)

    苦しみの裏に喜びがあるという教えの具体的な例を考えてみました。貧乏の利益と批判を受けることの利益です。
    なお、大乗仏教の最も重要な教えである六つの完成の実践の中で、忍耐の実践というのがあるのですが、それは、貧乏と、批判と、教えの理解の難しさに耐えよという教えです。

    貧乏の利益
    1.慣れれば質素に生きる力を身につける機会となり、
    2.視野を広げて他の貧困を思えば慈悲を培う機会となり、
    3.普段気づかない皆が共有する物(例えば大自然)の豊かさを理解する助けとなり、
    4.貪らなければ必要なものは(神仏に)与えられると知る助けになる

    批判を受ける利益
    1.正しい批判は謙虚に受け止めれば自己の成長の助けになり、
    2.理不尽な批判は冷静に対処すれば逆に自己の名誉を高め、
    3.感情的な批判は相手の苦しみを理解するきっかけになり、
    4.総じて自己愛を超えた真の慈悲を得る助けとなる

    さて、もう少し、人の性格や能力も、苦と楽が表裏であることについて。

    1.人の性格には、絶対善、絶対悪はない。
    全ての性格は長所と短所が裏表。例えば、短気=速い、臆病=慎重、
    融通が利かない=まじめ、無鉄砲=大胆・勇気があるなど。

    2.人の能力にも、絶対善、絶対悪はない。
    いかなる能力にも利益と不利益が裏表である。例えば、自分が何かに優れていると、
    それが出来ない人の苦しみを理解したり、手助けしたり、また、他の力を活かすことは、
    逆に出来なくなる。他に勝つ能力と、他を愛して活かす能力は、合致しない。

    3.大悪人が大善人となる可能性がある(大煩悩大解脱)
    仏陀の教えでは、人は無智によって悪をなすが、その苦しみにより、ついに間違いに気づき、善をなすように変わる。そして、大きな悪をなす人は、そのエネルギーが強いからであり、よって、改心すれば、大きな善をなす人になる可能性がある。


  • 寂しさ・卑屈を超える大乗仏教の智恵5 (2010年08月05日)

    さて、今回は、宗教と科学の接点を探りたいと思います。まず、前回、人と人の違いは優劣ではなく、お互いを助け合う上での役割の違いであり、役割分担と考えて、卑屈・寂しさを乗り越える、というお話をしました。そして、それが、人の体の中の各細胞が助け合うのと似ているというお話をしました。

    そして、今回は、その人の体の中の各細胞の助け合いと神様の存在のお話です。前にも述べたように、人の体は、一つの受精卵から始まって、細胞分裂を繰り返し、成人の場合60兆もの細胞を持っています。その中には、頭、手、足、各臓器、神経、血管など、様々な細胞があります。

    そして、筑波大学の村上教授という人が非常に興味深いことを語っています。最初の一つの細胞から多くの細胞が分裂していく中では、それぞれの細胞が、体のどの細胞になるかを決めて、かつ、それら無数の細胞が常にお互いに助け合って一つの生命体としてまとまるように総合調整するものが必要なわけですが、それが、DNA情報の中にも、他にも、物理的には見つかっていないということです。

    DNAには、人体の全ての細胞に関する情報はあるのですが、分裂していく無数の細胞を全体としてコントロールするものはなく、それに必要な情報はあまりに膨大なのだそうです。これを言い換えると、細胞分裂による人の成長のプロセスとは、人智を超えたあまりにも見事な(奇跡的な)ものであり、村上教授は、それをなしている、人智を超えた何かを「サムシングレート(何か偉大なもの)」と呼んでいます。

    「サムシンググレート」と表現するのは、村上教授の科学者らしい冷静・慎重な姿勢・表現として評価できますが、古典的な表現をとれば、これは、まさに神仏を指しています。実際に、宗教では、神仏とは生命の源という考えがあります。

    例えば、大乗仏教では、皆さんご存じの「南無阿弥陀仏」の阿弥陀如来という仏がいますが、この仏の別名は、無量寿仏(無量の寿命の仏という意味)であり、この宇宙が無数の生命を育む力を仏の力、仏の法力と見なす思想の結果です。

    さて、科学と神仏の接点は、人体の成長のプロセスに限りません。この宇宙が生命を育むようになったこと自体が、それが偶然の物理的な現象としては、余りに奇跡的であり、合理的には説明しがたいという科学的な見解があります。そういった科学者は、仮に、偶然の物理的な現象として、生命が誕生する数学的な確率は、10の300乗分の1ほどしかないとも主張します。

    ここでは、偶然に発生する確率が余りに小さい事柄が発生した場合は、それは偶然ではなく、必然的に発生した=誰かが意思してそうした、と考える方が合理的だという考えがあります。これは統計科学での考え方だと思います。例えば、貴方が、家に帰って、テーブルの上にコーヒーが入ったコップが置いてあったならば、それが誰かによって意思され、作られたものではなくて、単なる偶然の現象だとは考えないでしょうか。

    仮に、偶然の現象だと考えると、例えば、地震が起こり、戸棚から、コップが上向きにテーブルに落ち、水道から(故障で)水が出て、その下に偶然にもヤカンがあり、その後、何かの原因で(再び地震?)、脇のコンロの上に移動し、何かの原因で(火事?)温められ、その後、何かの原因で(また地震?)、テーブルのコップの上にだけ注がれ、後は全てがきれいに元に戻った、ということになります。これは、余りに無理があることはお分かりでしょう。

    そのため、宇宙の中の生命の誕生の原因としては、偶然の物理現象とするよりも、それと意図して誕生させようとした超越的な何かの存在を想定する方が、合理的・科学的である、という見解が出てくるのです。これは宇宙の人間原理説と呼ばれることがあるります。

    また、これは、人づてではありますが、宇宙物理学の佐藤勝彦教授(インフレーション理論の提唱者)が、ある講演で、「物理学における最大の難問は神だ。ビッグバンをさかのぼった世界の全ての始まり、特異点を考えるとき、神という既存物理学を超越した作用を思い浮かべずには居れない」と語られたことがあったと聞いたことがあります。

    これらの科学者の見解をどのように解釈するかは皆さんにお任せしたいと思います。

    しかし、「自分はだめだ、自分は生きている価値がない」と考えたり、「あいつはだめだ、生きている価値はない、死んでしまえばいい」と考える場合には、自分や他人という存在、生命存在が、それ自体が、全く奇跡的なものであって、人智を超えた、神仏の御業ではないか、という視点は、とても重要ではないでしょうか。

    特に、自分はだめだ、あいつはだめだ、という考えは、これまでも繰り返し述べてきたように、一面的な価値観で、自分と他人を比較して、自分が劣っていると考える思い込みから来ます。そして、そういった人の中には、苦しみに耐えかね、自殺する人もいれば、一攫千金の奇跡を妄想する人が多くいます。そして、巷の宗教の中には、その宗教を信じさえすれば(人格を磨く努力も無しに)、お金が入る、成功する、願望がかなう、奇跡が起こる、と主張するものもあります。

    しかし、私は、科学者の見解や、本来の宗教的真理が語ることは、この世の最大の奇跡とは、私達が毎日毎日、目にしている、人間を含めた全ての生命存在自体です。そして、それを包み育む大自然・大宇宙自体の存在です。それは、すべての人が共有できる、いや既に共有している奇跡に他なりません。

    そして、そのように感じられるようになれば、自分や他人という人間存在の価値を再認識できていますから、この世の最大の奇跡である生命を自殺などで破壊したり、自己中心的な願望をかなえるために、まやかしの宗教が説く奇跡まがいに騙されることもないと思います。

    ただし、現代社会では、多くの人が、そのように考え、感じることができていません。

    そして、それを取り戻すとすれば、やはり、人と人の違いは、優劣ではなく、個性であり、互いを助け合う役割分担であるという考え方や、自分の欠点・失敗・苦しみの裏に、長所・成功の元・幸福があると考える訓練ををすることが望ましいと思います。

    さらに、人それぞれに与えられている個性・役割は、宗教的に表現すれば、この世の全てを現す神仏が、1人1人に与えた、かけがえのない個性・役割・天命であるという考え方まで持てればと思います。一人に一つずつ、この世で唯一のものとして与えられた個性・役割であり、他と比較する必要のないものです。

    そして、興味深いことに、これは、先ほど述べた「サムシンググレート」が、人の体の中の無数の細胞の一つ一つに、それぞれの役割、全体に対する役割を与えていると全く同じ感覚です。

    さて、こういった思想を表現したのが、この宇宙の森羅万象は、仏の平等な現われ、という大乗仏教の教えだと思います。そして、私は、この思想を、非常に素晴らしいものだと感じています。美しい、と表現したらよいかもしれません。

    大自然に親しんだ古代の人々や、古き良き宗教の求道者は、これを直感的に感じ取ったのではないでしょうか。また、現代の科学の最先端の行く人々の中にも、それと共通する何かを感じている人達がいるのでしょう。

    現代の合理的な知性の究極と、古代の直感的な知性の究極は、共通して、私達の常識を越えて、生命を含めた宇宙の万物の存在に、人智を超えた神秘を感じ取っているように思います。

    最後に、卑屈・慢心・寂しさ・孤独を乗り越えるため、自分と他人を含めた万物を、神聖なものとして尊重する知性を育むことは、一朝一夕に出来ることではないと思います。しかし、それをなるべく育んでいく、日々のコツコツとした努力は、直ぐにではなく、徐々にではありますが、しかし、着実に確実に、実を結んでいくと信じています。

  • 寂しさ・卑屈を超える大乗仏教の智恵4 (2010年08月05日)

    さて、前回までに、人と人の間には、違いはあるが、それは優劣ではなく、個性であって、お互いを助け合うための役割の違い、であるというお話をしました。そして、そう考えないと、自分はだめだ、生きている価値がない、と考えてしまい、卑屈・寂しさ・孤独の原因となります。

    また、今はそう考えていない人でも、他人を見て、あいつらは、生きている価値がないと考えているならば、将来、自分が挫折・失敗した時などに、他人に向けていたのと同じ思考パターンが、自分に向けられることになります。人生には、誰もが一度や二度の大きな挫折があると思いますが、他人に向けた冷酷な刃が、自分に返ってくるということです。

    さて、人と人の違いは、優劣ではなく、個性・役割の違いである、という考え方、そして、その背景にある、自分の欠点・失敗・苦しみは、視点を変えれば、長所・成功の元・幸福になるのだ、という考え方は、その果てに、神や仏の存在という視点が生まれてくることがあります。

    逆に言えば、自分がだめだ、生きている価値がない、または、あいつはだめだ、生きている価値がない、世の中は苦しみ一杯だ、と考えている人は、この世に神仏が存在して、万物を神仏が現しているという宗教的な世界観は信じがたいことでしょう。

    大乗仏教や神道は、自分や他人を含めた、この世界は、神仏の現れ・神仏の一部・神仏の子であると説き、キリスト教は、この世界は、神仏の創造物であると説きますが、多少の表現・解釈の違いがあっても、宗教の多くは、この世の万物の存在の根元に神仏があります。

    それに対して、自分や他人を含め、この世には、だめなやつが多くいて、生きる価値のないものが多いと考えるならば、この世を現した全知全能で慈悲深き神仏などは存在しない、存在しないからこそ、この世はこうなのだ、と考えるのが自然ですね。

    こうして、自分や他人といった人間存在を価値あるものとして愛する、尊重することが出来るかどうか、いうことと、人間を含めた万物の根元に神仏が存在すると信じるかどうかは、根底において、繋がっている部分があると思います。

    かといって私は、神仏や宗教を信じている人が、自分や他人を愛していると主張しているわけではありません。というよりも、現在の多くの宗教は、必ずしも、そうできていないと思います。場合によっては、自分も他人も本質的に愛することが出来なくなる歪んだ信仰があります。

    また、自分や他人を愛している人は、神仏や宗教を信じるはずだとも主張していません。特定の神仏や特定の宗教を信じていなくても、自分や他人を愛することは可能だからです。ただし、そういった人の場合は、広い意味での宗教性、例えば、人智を超えた何かを尊重する謙虚さ、というものがあると解釈できる場合が多いと思います。

    そして、日本人の場合は、後者の宗教性は非常に高いと思います。言い換えれば、それこそが、日本的な宗教性であると言うことが出来ると思います。

    読売新聞が特集した「日本人の宗教観」という世論調査によると、「宗教を信じている」という人は3割以下にもかかわらず、日本人の半数以上は、「自分たちの宗教心は薄くない」と考えており、さらに、「自然の中に人間の力を超えた何か」を感じ、日々の暮らしでは、「墓参り」「初詣で」などを宗教色を意識せずに受け入れています。

    1宗教を信じているかどうか 「信じている」26,1%  「信じていない」71,9%

    2日本人は宗教心が薄いと思うか? 「そうは思わない」48,9%、「そう思う」45,1%、
    →特定の信仰の有無と、宗教心の有無が一致しない。日本人特有の宗教観。
    「そうは思わない」と答えた人が最も多かった年齢層は40歳代の54%。

    3先祖を敬う気持ちは?   「持っている」が94,0% 「持っていない」4,5%
    →年代別でも、「持っている」は、20歳代でも86%、30歳代以上で9割超を記録

    4自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがあるか? 「ある」56,3%、「ない」は39,2%
    →「ある」はすべての年齢で5割超、「宗教を信じていない人」と答えた人でも51%

    5日常生活の中の宗教的行為
    1盆や彼岸などにお墓参りをする 78,3% →「宗教を信じていない」と答えた人でも77%。
    2正月に初詣でに行く 73,1% →「宗教を信じていない」と答えた人手も74%。
    3しばしば家の仏壇や神棚などに手を合わせる 56,7%

    6死んだ人の魂については、
    「生まれ変わる」29,8%、「別の世界に行く」23,8%、「墓にいる」9,9%、
    「消滅する」17,6%。「魂は存在しない」9,0%。
    →何らかの形で死後の存在を信じている人が過半数を超えている。

    皆さんは、どうでしょうか。神や仏の存在を信じていらっしゃるでしょうか。そして、信じているという人は、どういう意味で信じているでしょうか。信じていないという人は、どういう意味で信じていないでしょうか。良く考えると、信じていると考えている人が、別の視点では信じておらず、信じていないとした人も、他人から見ると信じている人に見えるかもしれません。

    そして、ひかりの輪は、この日本的な宗教心、宗教性、霊性といったものを大切にしています。例えば、純粋な自然の聖地に行くことがあるのも、その一環です。また、最近は、一般にも、聖地に行く人が多くなっているようですね。

    さて、次回は、科学の世界から、神仏の存在との接点をみたいと思います。それは、非常に興味深い内容です。例えば、人智を超えた超越した何か(=神仏?)が、個々の存在が互いを助け合うように役割分担をしているとも解釈できる、科学的事実もご紹介します。

    なお、私自身は、早大の大学院を卒業した科学指向と、その後の宗教人生を双方を抱えている人間です。また、オウムでの過ちから、盲信を超えることをテーマとしています。そういった視点から、宗教好きの人も、宗教好きでない人も、どちらの方でも、利益になるお話ができれば、と思います。


    ※付記
    神道と仏教が融合した神仏習合の文化を持つ日本らしく、神と仏を一体と見て、神仏と表現させていただいています

     

  • 寂しさ・卑屈を超える大乗仏教の智恵3 (2010年08月05日)

    前回までに、短所と長所は裏表であるということをお話ししました。よって、人は誰も、他人と比べて、優れていたり、劣っていたりはしません。すべての人が、何かに優れ、何かに劣っているのです。

    これは、人と人の間には、確かに違いはあるが、その違いは「個性」であって、優劣ではない、という意味を持ちます。そして、更に重要なことは、その個性の違いは、単にその人自身のためのものではなく、その人が、「全体に対して果たす役割」を示し、皆が違うことによって、お互いに助け合っているという考えです。

    例えば、前回の例のように、様々な物事において、それを他の人より先に実現できる能力がある人と、様々な障害のために、遅れて実現する人がいます。この場合、後者は、その人と同じように、その実現に障害を持つ人を助ける役割があると解釈できます。そして、前者は、皆の見本・モデル・先駆者となるという役割があると解釈できます。

    そして、この両者は互いに助け合っています。前者は見本・モデル・先駆者として、その物事に道筋を作って、後者を助けます。しかし、後者があってこそ、その道筋は、多くの人が進める太い道となり、この世界で、現実に有意義なものとして、確立します。

    この話は、仏様にさえ当てはまると思います。仏教が説く二人の仏、すなわち、釈迦牟尼と弥勒菩薩もそうです。釈迦牟尼は、2500年ほど前に既に悟った、仏教の開祖です。一方、弥勒菩薩は、それから遙かに遅れて56億7千万年後に悟るとされています。

    しかし、弥勒菩薩は、釈迦牟尼より遙かに多くの人達を、悟りに導くと言われています(経典の表現では約270億の人だから、全地球の人口か)。その意味で、先に悟った釈迦牟尼は、仏陀・如来と呼ばれていても、決して完全無欠な存在ではなく、弥勒菩薩を初めとする、その後の無数の仏陀の助けによって、その教えが、真に全ての人々・生き物を救うものとしての価値を発揮していきます。

    よって、弥勒菩薩は、釈迦牟尼を補完する仏陀とも言われます。これは、釈迦牟尼が弥勒菩薩より優れているということでもなければ、その逆に、弥勒菩薩が釈迦牟尼より優れているということでもなく、両者には、それぞれの役割があって、お互いを助け合っていると解釈できます。

    -------------------------------------

    こうして、人と人の間の違いが、優劣ではなくて、お互いを助け合う上での役割の違いである、という考え方は、人の体の中の各細胞の働きとよく似ています。

    成人した人間には約60兆もの細胞があると言われていますが、その中には、頭、手、足、そして、各臓器など、様々な細胞があります。そして、これらの細胞は、例えば、頭があれば、手や足は要らないということにはなりません。皆が互いを互いに助け合っており、互いがあるからこそ、互いが存在しています。

    そもそも、この60兆の細胞は、皆が一つの細胞(父親の精子と母親の卵子が結合した受精卵)から細胞分裂して生じたものであり、同根です。同じ一つのものから発生し、今でも、お互いがお互いを助け合って、一体となって存在しています。お互いがなければ、お互いが存在しないほど、密接不可分に助け合っています。

    そして、仏教やヨーガの思想には、この人間の体と小宇宙とみて、大宇宙と相似形と考える思想があります。良く考えると両者は、ともに一点から成長した点でよく似ています。人間の体は受精卵から、大宇宙はビッグ・バンから。

    そして、宇宙の万物も、人の体の中の細胞のように、互いに助け合って、互いがあるからこそ、存在しています。例えば、人は、自分だけで生きることは出来ません。空気・水・他の生き物の犠牲である食べ物に、支えられて生きています。地球・宇宙全体に支えられています。

    また、自分も死ねば、その体を構成していた有機物が、他の生き物の体に使われます。再利用、リサイクルされるわけですが、そのリサイクル率は、ある科学者によれば99.9%という非常に高いものだそうです。こうして、自分の生は、他の生き物の死に支えられ、自分の死が他の生き物の生を支え、お互いを支え合っている関係であることが分かります。

    では、次回は、この点をもう少し深めてみたいと思います。これは非常に興味深いテーマです。なぜなら、そこに、神とか、仏とされるものが、宗教と科学が融合した形で、かいま見えてくるからです。


    ※参考 事物が相互に依存していること(縁起の法)

    万物が相互に依存してあって存在するというのは、仏教の根本教理であり、縁起の法(えんぎのほう)と言います。これは、一般には、縁起が良い、縁起が悪いなどと言いますが、この言葉の本来の意味は、縁が条件、起が生起するという意味であり、(あらゆる)事物は、そのものだけでは生起せず、何かの条件を得て生起しており、言い換えれば、相互に依存し合って生起する、という意味です。

     

  • 寂しさ・卑屈を超える大乗仏教の智恵2 (2010年08月04日)

    寂しさを超える大乗仏教の智恵の第二回目として、善と悪、ないしは、優と劣の区別・二分化を超える教えのご紹介です。

    現代の社会は、競争社会のため、優れている人と劣っている人を強く区別するのが普通になっています。最近は、勝ち組・負け組といった言葉も良く聞かれます。

    その中で、自分はだめだ、自分には価値がない、自分は誰にも愛されていない、必要とされていない、自分は生きていていいのだろうか、と思う人が増え、卑屈・自己嫌悪・絶望感に悩み、鬱になったり、自殺する人が増えていると思います。これが、強い寂しさの原因となるのは間違いありません。

    優と劣の区別・二分化を超える教えとは、そもそも、真実の眼差しで、この世界を見るならば、優れている者と、劣っている者の区別・違いなどは存在せず、あらゆる存在が、それぞれ、全体に対する役割を持っており、尊い存在である(=神仏の現われ、ないし、神仏の一部)、というものです。仏教的には、「万物・森羅万象は、平等な仏の現れ(仏性の顕現)」と言います。

    一方、ご存じのように、私達の常識は、「この世界は、優れている者と劣っている者、良い者と悪い者があるに決まっている」と考えています。しかし、そういった常識に流されずに、純粋な知性で、深く考えてみると、優劣の区別は、私達が日常で考えているようには、存在しないことが分かるのです。

    では、具体的には、どのような考え方によって、全てが平等に尊いと考えられるかについて説明したいと思います。

    第一に、一般に劣っているとされる人は、同じように劣っている人の気持ちが分かります。しかし、優れている人は、その人達の気持ちは分かりません。場合によっては、他に勝つことばかりしていると、冷たい人間になる恐れがあります。こうして、他の苦しみを理解できる人になる、優しい人になろうとすれば、単純に優れていることが有利ではありません。

    第二に、劣っている人が、諦めずに努力して、その欠点を克服すると、同じように劣っている人が、欠点を克服することを手助けする力が備わります。しかし、優れている人は、劣っている人が、どういった具体的な困難・障害を抱えているかを体験的に理解できませんから、それは難しいと思います。

    この一つの例ですが、先日会ったある男性が、「自分は物覚えが悪く、人の何倍も時間がかかりますが、そのためか、会社で新人研修の担当のなることが多いのです。他人がどこで分からなくなるか、というのが、できの悪い自分は、全部分かるからです。」と語っていました。こうして、多くの他を助けることができる人間になろうとすれば、単純に優れていることが有利ではありません。、

    第三に、自分の力が劣っている人は、物事を成就させる上で、優れている他の力を活かすことができる可能性があります。自分の力が優れている人は、自分で出来てしまいますから、他の力を活かすことが出来ない可能性があります。こうして、他を活かして幸福になろうとするならば、単純に優れていることが有利ではありません。

    その好例が、私が好きな、昭和期最大の実業家である松下幸之助氏で、彼は、「自分は学が無かったから、他から謙虚に学べた。体が弱かったから、他に頼むこと・活かすことを覚えた。お金がないから、(お金持ちのところに)丁稚奉公に行って早く商人の才を得た」と語っています。こうして、学力・体力・財力に劣っていた人が、他の学力・体力・財力を活かして、昭和経済界の頂点に立ちました。

    こうして、他に勝って、他に優位に立って幸福になろうとすると、自分が劣っていると思いこんで、苦しみますが、そうではなく、他の苦しみを理解し、他を手助けし、他を活かすことによって、幸福になろうとすると、自分の欠点が、逆に長所でもあることに気づきます。

    よって、欠点と長所は裏表に過ぎず、裏に長所のない欠点はなく、裏に欠点のない長所もない、ということになります。絶対的な長所や短所はないということにあります。しかし、物の考え方が一面的だと、(絶対的な)欠点とか、(絶対的な)長所がある、という錯覚が生じて、卑屈・自己嫌悪に陥ったり、逆に慢心に陥ってしまう、という心の歪みがあるということです。

    そして、言い換えれば、劣っている人・優れている人という区別は、客観的に実在するものではなく、人の心の中の、偏った考え方が作り出しているに過ぎない一種の幻影、実体のないものと考えられます。

    次回は、この点を更に深く考察してみたいと思います。

     

  • 寂しさ・卑屈を超える大乗仏教の智恵1 (2010年08月04日)

    寂しい人が多いと思います。皆さんはどう思われるでしょう。
    もちろん、寂しい人の大半は、自分が寂しいとは言わないし、
    一部の人は、寂しさに気づいていません。
    また、寂しさを背景に、他人にかみつく人もいます。
    ネットであらす人なども、そういう人が多いと思います。

    ところで、ひかりの輪では、大乗仏教の法則と心理学などを土台とし、
    現代の人に分かりやすく表現した教えとして、一元の法則というものを
    説いていますが、この教えに基づいて、寂しさを乗り越える考え方
    をご紹介したいと思います。

    この法則には、三つの切り口があり、それぞれ、
    楽と苦の区別・二分化、善(優)と悪(劣)の区別・二分化、
    自と他の区別・二分化をし過ぎていることが、
    様々な苦しみをもたらしているため、それを乗り越える考え方が、
    苦しみを取り除くと考えます。

    そして、三つの切り口は、それぞれ、苦楽の輪の教え、優劣の輪の教え、
    自他の輪の教えと呼んでいます。

    最初の苦と楽の区別・二分化を超える教えとは、
    今得られていない他人の愛や幸福を考えてばかりいるのではなく、
    与えられている愛や幸福に気づいて、その大きさを考えて、
    感謝し、それを与えている万物に感謝すること。

    そして、今経験している苦しみも、実は、その裏に喜びがある、
    祝福、導きがある、愛の鞭である、ということを考えて気づく、
    言わば、逆転の発想です。

    これに習熟すると、自分の周囲の全ての現象に感謝が生じて、
    ついには、全てがありがたい、という感情に近づきます。

    寂しさは、自分が受けいられていない、自分が愛されていない、
    自分を愛してくれているものを失った、という心の働きから
    来ていると思います。

    それに対して、上記のように、今自分が得ている愛と幸福や、
    苦しみに裏にある喜び、祝福、導きについて考え、
    様々な感謝の気持ちを増大させて、乗り越えていきます。

    しかし、寂しさというのはなかなか強烈な感情ですから、
    この法則に加えて、次回以降、他の二つの切り口についても、
    続けて、お話ししたいと思います。

    ※付記:遭難死された日テレ記者北優路さんについて

    寂しさいついて書いた後になんですが、北さんは、ひかりの輪を初期の頃、
    よく取材されたことがあり、広末副代表の知り合いでした。
    団体を代表しまして、心から哀悼の意を表します。

    関連する広末副代表・広報部長の日記
    出会いと別れの1日--オフ会と日テレ・北記者の死

     

  • 全てを神聖な存在と見ること (2010年06月23日)

    (2010年06月22日の日記)

    この日記のやりとりの中で興味深いやりとりがありました。それは、宗教や信仰には、どのくらい客観性が必要かと言うことです。具体的に言うと、信仰者が神聖な体験をするときは、ある参加者の方がコメントされたように、何かを神聖なものだと深く信じることから生じるという経験則があります。

    それをよく表している言葉として、「犬の歯も信心」というのがあります。ある老婆の息子が、本当は犬の歯なのに、それを仏陀の遺骨だと偽って、母に渡したところ、母がそれを熱心に敬った結果として、非常に高い境地を得た、というお話です。

    経典では、その老婆の信心に対して、仏陀の祝福が与えられたからである、とされていますが、現代的に、合理的に言えば、対象を深く尊敬することによって、それをきっかけに、その人の自身の中の神聖な要素=その人の中の神や仏の要素が、最大限に引き出されたと言うことになると思います。

    そして、チベット仏教では、自分の仏教の師=グル・ラマを仏陀の化身と見て信じるという実践があります。この実践の理由を合理的に言えば、師から学ぶとは、師の良いところを吸収することであるから、そのためには、最大限の尊敬・謙虚さをもって学ぶことによって、達成されるということだと解釈できます。尊敬や謙虚さが無いと、他の良さはわかりにくくなりますから。

    しかし、オウム真理教では、この教義が暗転しました。麻原を仏陀の化身と見たために、麻原の犯罪の指示も、自分達では分からない何か深遠な意図・神の意志があるのではないかという考えによって、弟子がそれに従ったと言うことです。

    よく考えてみれば、自分の信仰の実践のために、他を犠牲にすることは、身勝手であって、自己中心的な行為であり、本来は仏道修行に反することです。しかし、信者は、それに気づかずに、専ら、自分が嫌なことでも、グルの指示なら我慢して行うことが、自分のエゴを滅することだと解釈したのでした。こうして、犬の歯も信心は良いのですが、それを無秩序にやるならば、人を神格化した結果、その人が犯罪・戦争を指示したならば、それに従うことになります。

    そして、これは、オウム真理教に限らず、キリスト教・イスラム教、日本では第二次世界大戦の国家神道(日本を神の国と位置づけた)などを含め、ある意味で宗教全般に見られた落とし穴ではないか、と思います。自分達が神聖だと思うものがあって、それを根拠にして、他の存在の価値をひどく否定してしまうのです。

    さて、こういったオウム真理教に対する批判があったからだと思いますが、オウム事件の後に、チベット仏教では、師を仏陀の化身と見る教えは、自分のエゴを弱めることが目的であって、実際に客観的にチベットの師が完全な人格者であるという主張なのではない、としているようです(ダライ・ラマ法王の日本の代表部などのHPなどから)。

    私も、これが正統な解釈だと思います。仏教の教えの多くは(ある意味では全ては)、人の心をエゴから解放し、慈悲に近づける手段であって、それ自体が目的であったり、絶対的なものではありません。人が法則を活かすべきであり、法則の奴隷になるべきではないというのが仏教思想だと思います。

    ただし、社会的な視点からは、全く健全な見解なのですが、この見解は、深く信じるということによる効果は減らしてしまう面があるでしょう。本当に完全であるから信じなさいと言われるのではなく、実際には完全ではない対象を、方便として、完全であると信じなさいと言われれても、深く信じられないということになるでしょう。

    宗教にとっては、この問題は非常に重要だと思いますが、この問題を解決するために出てきた面があるのが、人ではなく、例えば、仏像などの物を神聖視するという信仰ではないかと思います(神聖な象徴物、仏の象徴物)。

    特に、日本の仏教は、人ではなく、専ら仏像を仏様と呼ぶのが普通であることは、皆さんご存じの通りで、その意味では、このパターンを取ってきました。これは、仏像仏教とも言われています。

    日本でも、チベット仏教のいにしえの聖者のように、古くは弘法大師空海のような、生き神のような人がいたようですが、その後は、そういった人には、余り恵まれなかったために、こうなったのかもしれません。

    しかし、この物の場合は、カリスマ的な人物と比較すると、神聖なものだとは信じにくいという問題があります。相当のカリスマ性が、その物にないと、人の信仰心を引き出す、支える力は生じません。

    例外としては、現代の人には余り知られていないかもしれませんが、霊験あらたかで有名な日本最高の仏像である善光寺の秘仏などがあるでしょう。私個人は、善光寺の秘仏以外に、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像に深いものを感じた経験があります。

    ただ、善光寺の秘仏は、そのカリスマ性ゆえに、その仏像を奪い合うといった歴史も過去にはありましたが(戦国時代)。

    そして、この神聖な象徴仏に加えて、それ以上に重要な道が、誰か特定の人や物を神聖視することに偏らずに、すべての人・万物を本質的に神聖なものとする考え方だと思います。

    この具体的な例として、前回の日記でご紹介したのが、仏陀菩薩を信仰しつつも、全ての生き物が未来の仏陀・菩薩であり、その意味で彼らは仏陀の胎児である、という大乗仏教の思想でした。

    これによって、特定の人・物だけを絶対視・神聖視する場合に比べると、他の人々や存在をを蔑視してしまい、犯罪や戦争が起こるといった落とし穴にははまりにくくなると思います。自分の信仰対象と、世界の全ての存在が、本質的には同一ですから、全てを尊重し、愛する心を育みやすくなります。

    しかし、今度は、実際に実践する上で、すべての人々・存在を神聖と見ることは、特定の存在に限って神聖と見ることよりも相当に難しいという問題が生じます。依存心の強い人は、何かを直ぐに盲信しますが、そういった人でも、いやそういった人こそ、全ての人を神聖に見ることは出来ません。

    さらには、悪人も含めて、全てを神聖と見るのは、それこそ間違った思い込み、盲信ではないか、という反論も出てきます。悪い物は悪いとしなければ、何でもありということになるではないかという反論も出てきます。

    しかし、私が考えるには、こういった問題は、最終的には、解決が可能だと思います。そのポイントとなるのが、自と他、善と悪、苦と楽などを間違って二分化してしまう人間の思考パターンの癖に気づいて、それを超越することです。

    これを言い換えるならば、万物を神聖なものだと思いこむ、盲信するのではなく、そもそもが、純粋に論理的に考えるならば、万物は神聖な要素があることに気づくことであり、日常生活の思考の中では、それを見失っていることに気づくということです。こうして、盲信ではなく、論理的な根拠を持って、全てのものを尊重していく思想です。この具体的な内容については、次回以降にお話ししたいと思います。

  • 母なる仏としての宇宙 (2010年06月20日)


    (2010年06月19日の日記)
    大乗仏教の世界観で、特に素晴らしいと思うのが、この宇宙が仏の現れである、というものです。そして、これは、この宇宙の中で育まれる全ての生き物が、仏の子であると言う意味を持ちます。

    もう少し詳しく表現すると、この宇宙が仏の母胎(=子宮)であり、その中で育まれている全ての生き物は、仏の胎児と説かれています(専門用語では、胎蔵とか、如来蔵という)。

    すなわち、この宇宙が単なる物質ではなく、生命体であるというのですが、この考え方は、全く非科学的なわけではありません。

    もちろん確立された科学理論ではありませんが、宇宙の人間原理という説があって、それが説くところは、まず、宇宙が現在のように生命を育む状態になることは、それが偶然の物理現象の結果として起こったとすると、その数学的な確率は、あまりにも小さい(十の三百乗分の一程とも)ということです。

    宇宙が生命を育んでいることは、偶然の結果だとすると、余りに奇跡的な出来事であるから、合理的に考えるならば、偶然ではなく、必然の結果であろう。すなわち、何か超越的な存在が、そうなるように意思した結果であろうというものです。

    例えば、貴方が家に帰ったときに、テーブルの上に、沸いたコーヒーが用意されていたら、それが、偶然の物理的な現象ではなく、何者かに意思された結果だと考える方が合理的でしょう。よって、偶然起きる確率が余りに低いことは、必然的なもの、意思されたものと考える方が合理的=科学的だという見解です。

    この科学的な視点を踏まえると、この宇宙が物質ではなく、意思を有した巨大な生命体であるということになる、母なる宇宙とか、仏としての宇宙という大乗仏教の思想と矛盾しなくなります。

    そして、これから出てくる、もっとも魅力的で、重要な思想は、人間のお母さんの体の中の生き物は、皆動物ではなく、人間であるように、仏として宇宙の中に育まれた生命体は、皆が仏であるというものです。

    人間の胎児が、胎児や児の時は、何も分からず、無智で、無力で、わがままであるように、今私達が日頃目にする人々や生き物は、今はとても仏陀には見えないけれど、何回何回も生まれ変わる中で、釈迦牟尼がそうだったように、徐々に仏陀に成長していくという思想です。

    釈迦牟尼自身も、仏陀となる前の転生では、修行者ではなく、普通の人だった時期があり、その際は、その時の仏陀を誹謗・中傷するなどの罪を犯したとされています(仏教では、仏陀を誹謗することは大変な悪業とされる)。

    こうして、大乗仏教の思想は、全ての生き物は、成長する存在であり、突き詰めると、未来は仏陀になる存在であるという、とても肯定的な生命観・人間観を持っています。そして、その背景として、この宇宙は母なる仏であり、その中の生き物は、仏の胎児であり、長い時間はかかるが、未来に仏になる、仏の胎児であるという世界観があります。

    この世界観・生命観に基づいて、全ての生き物を尊重して愛するという大乗仏教の思想が出てくるのですが、私は、これがとても魅力的な思想に感じられます。

    成長する存在としての全ての生命、それを育む存在としての無限の宇宙。
    未来の仏陀としての全ての生命、母なる仏としての宇宙。

    人々の間の優劣に集中し、物質主義的な価値観の強く、殺伐とした一面のある現代社会の中に、大きな潤い、生命力をもたらす思想のように感じます。 皆さんはどう思われますか。

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  • 万物は仏:自分を愛せない人のために (2010年06月18日)


    (2010年06月18日の日記)
    今日は、万物は仏(の現われ)という大乗仏教の教えについてお話ししたいと思います。

    この教えに最初に私が巡り会ったときは、何を言っているか全く分かりませんでした。例えば、経典には、仏陀の悟りの境地に至れば、この世界が、仏の浄土(仏の集まる世界)に感じられ、全ての人は、仏に感じられる、などと説かれています。

    その後、聖地の巡礼を含め、色々なところで学び、よくよく自分の中で考える中で、ようやく、確かに、現代社会の固定的な観念を超えて、純粋に論理的な思考をするならば、すべての人は仏であると考えることができると、確信するようになりました。

    しかし、最近は、自分を愛せない人が非常に多いと思います。たびたび受ける相談でも、「自分は生まれてきて良かったのでしょうか?」とか、「自分は生きている意味があるのでしょうか?」とか、「自分が好きになれない」、「自分が嫌い」といった悩みを多く聞きます。

    この原因は、端的に言えば、現代社会で一般化してしまっている自分と他人の比較優劣にとらわれていたり、その比較の土台となる画一的な価値観の影響を受けているからだと思います。そのような固定観念を振り払って、純粋なまなざしで、すべての人を見ると、自分を含めて、一人残らず、尊い存在と考えるための突破口になるのですが。

    ただ、この点を詳しくお話しする前に、まず、よく言われる「自分を愛せない」という言葉の意味を正確に理解しておきたいと思います。

    私が思うに、こういった人は、本質的には、自分自身に人一倍執着しているものの、現実の今までの自分が、自分の満足できるものではなく、そのために、「自分が嫌い」「好きになれない」と言います。そもそもが自分自身への執着がなければ、自分がどんなであろうと、全く気にならないわけですから、悩むこと自体がありません。

    そこで、「自分を愛せない」といった言葉は、「自分が幸福になるために、今のありのままの自分を活かすことが出来ない」というように言い換えることができると思います。

    これに対して、大乗仏教の教えは、いかに、神仏に与えられた個々の生命・人生を、他と比較して否定することなく、世界に唯一の個性として活かすことが出来るか、大切に出来るか、ということに集約されると思います。

    そして、信仰の立場から言えば、自分を本当に愛している人でなければ、神や仏を信じていると言うことは出来ないと思います。神仏への信仰は、神仏が現した(ないしは神仏がそれに変化した)この世の全てを愛することと同意義となるからです。自分を愛せない、他人を愛せない、だとすれば、神仏も愛せない、信じられないとなります。

    これらの前提として、次回に、どうすれば、自分を本当に愛することが出来るようになるかについて考えてみたいと思います。そして、それは、同時に、他人も愛すること、万物を愛することと一体のものです。

    それは、自と他の比較・優劣や、勝ち組・負け組といった、一種の妄想から解放されることから、この世界・宇宙自体を巨大な生命体として仏と見なすことまでが、含まれています。

    皆さんのご意見をお待ちします。
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  • 負け組の裏に勝ち組の芽 (2010年06月18日)


    (2010年06月17日の日記)
    今回は、負け組の裏には、勝ち組の要素があり、勝ち組の裏には負け組の要素があると思うことについてお話ししたいと思います。

    まず、互いに切磋琢磨し、互いに対する尊重が増すような、良い意味での競争ではなくて、他を苦しめて、自分が幸福になる、といった「奪い合い」の場合ですが、そういった勝ち組は、お金や名誉を手に入れたとしても、他に対する優しさという、ある意味で(本当の意味で)、最も大切なものを失ってしまうように思います。
    現代のような競争社会ですと、ある意味で、自分では全く気づかないうちに、他に対して冷たい、冷酷な人格が作られていく恐れがあると思います。私は、若い時に、エリートと言われるような状況を体験しましたが、それがばっかりに、一面において、そういった冷たい人格を形成したように思います。

    自分が正しいとか、優れているという思いだけに意識が集中してしまって、良く考えると、本当の意味での智恵が欠けており、正しくもなければ、優れてもない。これが、オウム真理教における失敗・過ちの一因になったように思います。

    また、実際に、人生で成功するためには、確かに最初は、知能・容姿・体力・弁舌・才能などが評価され、有効だと思いますが、最終的には、他の苦しみを理解する力、取り除く力、他を受容する力・忍耐力、他を活かす力といったものが、成功のためにも、重要になって来るように思います。

    そして、それらの力は、勝ち組の人が必ずしも身につけられるものではなく、むしろ負け組の人こそが、身につけやすいものではないかとも思います。もちろん、負け組の立場に立ったときに、ふてくされずに素直な努力を続ける場合に限りますから、容易ではありません。

    しかし、負け組の人は、すくなくとも潜在的には、第一に、自分と同じ負け組の人の気持ちが体験から分かりますから、受容力や忍耐力を養う可能性を持っていますし、また、自分の力ばかりに頼らず、他人を活かす術を覚えていく可能性もあると思います。もちろん、これは、あくまでも、可能性であって、それが実際の力になるには、努力が必要ですが。

    この典型的な例として、私が尊敬する昭和期最大の実業家の松下幸之助は、「貧乏だったから、丁稚奉公に行き、商人の際を学べたし、学がなかったから、他人から素直に学べたし、体が弱かったから、他に人に頼むことを覚えることが出来た」と語っています。こうして、彼の場合は、貧乏・無学・病弱といった負け組の要素を全て成功の要素に変えて、大きな成功を得たのでした。

    こうしてみると、人生万事塞翁が馬の言葉通り、苦しみの裏に喜びが、欠点の裏に長所が、失敗の裏に成功が、負け組の裏に勝ち組への道があると思います。言い換えれば、一時的な勝ち組、負け組とは、優劣ではなく、人それぞれの「個性」とも表現できるのではないでしょうか。

    勝ち組は、成功のために油断・慢心に陥れば、落とし穴にはまってしまい、ついには負け組になり、負け組は、努力し続ければ、真の勝ち組になる可能性がある。よって、自分が今そのどちらであろうとも、それを個性と見て、油断も悲観もせず、努力し続けることが、成功・幸福の道ではないかと思います。

    私は、徳川家康が好きなのですが、天才的だった織田信長や豊臣秀吉が道半ばで倒れる中で、彼らほど天才的とは思えないが、辛抱強く努力し続ける性格だった徳川家康が、最終的に戦国の世の覇者となったのも、これと同じ理由ではないかと思います。

    また、この話に関係するものとして、大乗仏教の教えの中には、「全ての人々・生き物・万物は、皆が仏の平等の現われ」という教えがあります。これは、全ての存在は、本質的には優劣がなく、皆が平等に仏の現れとして尊く、神聖であるという意味だと解釈しています。

    最初に、この教えに巡り会ったときは、なかなか、その意味が理解できませんでした。現代の比較優劣の競争社会の価値観に支配されていたからだと思います。しかし、上記のようなことを良く考えているうちに、人の間の様々な違いは、全て神仏の与えた「神聖な個性」の違いであり、本質的な優劣の違いではないと思うようになり、この教えが理解できるように感じました。

    その意味で、自分自身を愛せず、自殺などで命を絶ったり、悲観・絶望して鬱病などに苦しむ人達にも、この教えを知ってもらえればと思います。


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  • 他への怒りか、自己への怒りか (2010年06月15日)

    (2010年06月11日の日記)
    今日からまた少しずつ、私の学んでいる仏教的な心の問題についてお話ししたいと思います。その事始めとして、怒りについて取り上げたいと思います。

    私が思うに、人は、非常に多くの場合に、自分に対するいらだち・怒り・嫌悪を背景として、他に対して怒ることが多いと思います。しかし、本人は それに気づかない。厳しく言えば、気づきたくないので意識しないようにしている。

    例えば、何かの問題があっても、その原因は、少なくとも、自分の努力不足が一因であるにもかかわらず、努力を避けたい弱い心のために、他人のせいにしてしまう。

    しかし、他人のせいにするのは、その時は楽だが、それによって、自分が必要な努力をする方向には向かわないので、問題は解決せず、いつまでたっても幸福にはなれない。努力の不足と他への怒りばかりが続いてしまう。

    その裏には、楽をして幸福になりたいという甘えがある。しかし、行きはよいよい帰りは怖い、というのが、目先の楽に負けた結果というのは、常に成り立つ道理だと思います。

    とはいえ、私は、人というものは、様々な間違いを犯し、その間違いによる苦しみから反省して、正しい道に至る、という主旨を説いた仏陀の考え方が好きなので、怒りを含めて、人間の持つ様々な性質は、未来の進歩に繋がる要素だと考えていますが、皆さんは、他への怒りの背景に、自分に対する怒りがあるという考えはどう思われるでしょう。

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  • 「負け組」思考から自分を解放する (2008年11月30日)

    最近、よく勝ち組、負け組という言葉が使われます。今日はこの点について、特に負け組について、考えてみたいと思います。

    負け組になるというのは、誰しも非常に辛いものだと思います。私も、無智のため、かつては、自分たちが一番偉いと主張する宗教(オウム真理教)に属し、勝ち組であるという妄想を抱いていましたが、その後、教団と共に、大きな過ちを犯し、破綻した、という意味では、社会の中で、負け組の中の負け組だと思います。

    また、最近社会を見渡しますと、様々な負け組の人たちにあふれていると思います。思い違いをして犯罪に陥った人だけでなく、バブルの幻想のために大失敗した人、借金で首が回らない人、激化する競争社会の中でワーキングプアー状態にあえぐ人や、社会生活自体できず引きこもり・ニート・鬱になった人など。特に若者に多いかもしれません。

    しかし、考えてみると、負け組は、視点を変えると、勝ち組であるという見方が出てきます。例えば、日本の中にいる大勢の負け組も、日本という世界有数の生活水準と、世界最高の長寿、主要国随一の安全性(犯罪発生率の低さ)を誇る、豊かで長寿で安全な国に住んでいる勝ち組であるという事実があります。長寿や安全性では超大国アメリカをもしのぐ。こういった民族は、60億の中で、たった1億しかいない。

    そして、なぜ、日本が豊かなのかというと、それは、国際社会の中の市場競争に勝っているからであり、例えば、日本を含めた先進国は、お金の力で、必要以上の食べ物を国際市場から集めて、飽食の状態にあり、その裏では、お金がないために、食料が調達できず、飢餓にあえぐ途上国という負け組が存在します。今年の春などは、先進国のヘッジファンドなどの影響で、食糧価格が高騰し、途上国の食糧危機が拡大しました。

    こうしてみると、日本の中の競争社会の結果として、負け組である人たちも、世界の中では、同じ競争原理のために、知らず知らずのうちに、勝ち組になっており、その恩恵を毎日得ているということに気づきます。気づかないうちに、競争の勝利者としての利益を毎日感じつつ、その一方では敗北者としての苦しみは強く自覚して、感じている。

    これを達観して表現するならば、こういった競争社会に身を置いて、自分たちの自覚が乏しくとも現実としては、何らかの形で他を打ち負かして、多くの幸福や豊かさを享受し、その裏で自分たちよりも不幸な人を作っている以上は、その同じ競争の社会の中で、自分が負けて苦しむ場合が出てくるのも必然的だ、とも解釈できます。

    その意味で、ここでの問題は、自分が勝ち組である部分は自覚せず、負け組である部分だけを強く自覚する、ということではないか。自分より幸福そうな人には目がいきやすく、自分より遙かに不幸な人の方が、この世界には圧倒的に多いという事実は忘却していることではないか。すなわち、自分が得ているものを見て、感謝することより、得ていないことを見て、不満に思い、自分で、自分を負け組だと位置づけてしまうことではないか、とも思います。

    また、負け組が勝ち組であると共に、勝ち組もやはりいつかは負け組になる。最近も、色々な会員さんの相談を受けますが、その中には、60歳で、自分の技術は、もはや若い人には勝てず、使ってもらえず、退職して、田舎に帰って、90歳の母親と二人で暮らす方などがいました。体も不調で、目、肩、腕、背骨、腰など、色々な所が痛い。若いときに、どんなに勝ち組になっても、年を取れば、若者に負けていく。老いと死には、誰も勝てない。

    こうしてみると、他に勝つことで幸福になろうとするだけではなく、与えられている幸福をよく考えて、それに感謝し、自分より不幸な人の存在に気づいて(しかも、その存在を自分が作り出している場合もある事実に気づいて)、苦しみを分かち合うという、別の幸福への道が出てくると思います。これが、仏陀が説いた、貪りを超えて、慈悲を培う生き方ではないか。

    21世紀は、途上国の急速な経済発展に伴い、地球環境、資源・エネルギー・人口爆発等の問題が地球全体の将来に影を落としていますが、こうした事態であればこそ、なおのこと、今得ていない幸福を得ようとして、もっともっとと求める競争原理、市場原理主義の価値観ばかりではなく、今ある幸福に気づく智恵と、分かち合う慈悲の思想も必要かと思います。

    以上、負け組になるのは辛いものの、負け組も勝ち組ではないか、そして、勝ち組も負け組になる人たちではないか、という視点でした。皆さんのご意見をお待ちします。
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  • 苦しみをごまかすことと超えること (2008年11月14日)

    今日は、苦しみをごまかすことと、超えることの違いについて、
    自分が思うことを書きたいと思います。

    多くの場合、人は苦しみがあった場合、
    それをごまかす方向で、処理してしまうと思います。

    多くの人が、この競争社会の中で、自分の存在意義などの欲求が、
    満たされないストレスを感じていると思います。

    そして、それを様々な享楽で、一時的にごまかす。
    酒・たばこ・グルメ・ファッション・ギャンブルなどなど。

    また、別のパターンのごまかしもあると思います。

    一部の宗教では、現実にはいまひとつの人たちが、
    その宗教を信じることで、一瞬にして、それを信じない人たちより
    優れた存在(選ばれた存在)になり、それで満足する。

    これは大宗教から、新興宗教、そして、一部の政党にも
    働いているメカニズムだと思います。しかし、実際には、
    それは、妄想でしかない。この一つが、オウムでした。

    これは、ごまかしであると同時に、現実からの逃避だと思います。
    そのつけは、どこかで回ってくる。

    社会全体においても、つけが回ってくる。娯楽による消費主義は、
    地球環境問題を起こし、バブル経済の原因の根底をなしている。

    妄想的な宗教世界は、宗教と社会、及び 宗教と宗教の間の摩擦・闘争、
    宗教テロなどをもたらす。

    では、一体何が、本当の苦しみからの解放の道なのか。

    それは、もちろん、たった一つしかないものではないでしょうし、
    特に言葉で、表現すれば、様々に表現できると思います。

    しかし、私が行き当たった一つの考えは、
    自分の苦しみをごまかして、逃避することではなく、
    この世界では、自分だけではなく、多くの人達が、
    自分と同じ、いやそれ以上の苦しみの中にいるのだ、
    ということを認識することでした。

    そして、思うだけでなく、できるならば、それを取り除くこと。
    これが、仏教で、慈悲と呼ばれることだと思います。

    この延長として、菩薩とは、自分が苦しいときに、
    他の苦しみを思うことが出来る人のことだと思うことを
    前にも日記に書きました。

    自分だけが苦しんでいるかのように錯覚し、
    自分のことばかり考えていると、実際よりも、
    大きな苦しみを感じると思います。

    過剰な不安、被害妄想も生じ、人によっては、
    客観的には希望があるのに、絶望して自殺する人まで。

    一方、大慈悲は、まず、自分の心を落ち着かせ、
    強いものにしてくれます。

    そして、静まった心の状態から生じる智恵によって、
    困難を突破する道が見えてくる。

    仏教が説く智慧と慈悲は一体だと思います。

    私も、様々な社会的な条件の中で、団体を運営し、
    オウム時代の賠償を背負っており、楽ではないのですが、
    これは、自分を真の智恵と慈悲に導く、仏の祝福だ、
    と考え、喜びにするように努めています。

    では、いつもの通り、皆さんのご意見をお待ちします。

    皆さんは、何が、上記のような現代人の苦しみを取り除く道だ、
    とお考えでしょうか?
    皆さんのさまざまなご意見をお待ちします。
    よろしければメールでお聞かせください。
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  • 極楽・天国とは何か? それはあるのか? (2008年11月03日)

    (2008年10月29日)

    皆さんは、極楽浄土とか、天国といった存在をどうお考えでしょう。

    日本人の多くが生れ変わりやあの世を信じているという世論調査を前回ご紹介しましたが、だとすれば、仏教の説く極楽浄土や、天国といったものもあるのでしょうか?仮に、あるとすれば、そこには、どこにあって、どうしたらいけるのでしょうかか。

    私は、来世やあの世の極楽浄土や天国については、科学的には証明されない事実であることを冷静にわきまえつつも、仏陀・仏典を尊敬する立場から、否定しない立場をとっています。

    しかし、それ以上に重要なこととして、この世に生きている人の心の中に、極楽・天国と地獄があると思うことがあります。

    他人や環境は、見方によって、善いものにも、悪いものにも見える。例えば、悪いことをしている他人も、それを単純に他人ごとと見ず、自分の潜在的な可能性であると見れば、半面教師としての導き手になる。全ての人が、自分の助力者になると思います。

    逆に、自分が不幸であることを他人のせいばかりにしている人は、嫌な人ばかりがいると思い、人生が嫌になったり、引きこもったりして、生き地獄と言えるでしょう。仏典では、孤独な地獄として孤地獄があるとも言われています。

    その意味で、他人や環境自体に、善とか悪とかがあるのではなく、人がそれをどのように解釈するかによって、善し悪しが生じるものだと思います。そのため、良い世界、悪い世界、その究極である極楽・天国と地獄というのは、人の心が作り出すものではないかと思うのです。

    まずは、人の心の中に生まれ、それが外界に投影されるといったらよいでしょうか。

    今、長野の小諸教室にいます。この近くには、以前の日記でも紹介しましたが、極楽浄土の仏で有名な阿弥陀如来が、有名な善光寺に祭られています。あと数日は、小諸にいて、阿弥陀如来やその化身とされる観音菩薩の聖地に行ったりして、来世と現世、浄土・天国と地獄について考えみたいと思います。

    極楽浄土とは、仏典において、阿弥陀如来がすむ浄土の名前です。浄土とは、清浄な国土という意味です。そして、この浄土信仰の中にも、浄土は、人の心の中にあるという考え方と、この世ではなく、西方の方角に、極楽と呼ばれる浄土があり、阿弥陀念仏によって、その世界に生まれ変わるという信仰があります。

    阿弥陀念仏とは、阿弥陀を念じて、心を込めて、阿弥陀の救済を信じ、阿弥陀の名前を唱える(有名な南無阿弥陀仏、なみあみだぶつ)ことです。日本では、鎌倉時代などに、法然・親鸞による浄土宗・浄土真宗によって、爆発的に広まり、今での伝統仏教の宗派としては日本最大と言われます。

    それまでは寺院を寄贈できるような貴族だけに限られていた仏教の救済対象が、庶民にまで大きく広がったことは画期的だったと思われますが、同時に、戦国時代は、一向宗(=浄土真宗)による一向一揆の動きが起こり、織田信長との激突による破局を迎えるなどしました。

    その際は、一向宗の門徒に対して、(戦いから逃げずに)進めば極楽(に転生でき)、退けば地獄(に落ちる)という教えが説かれたとも言われます。これは極楽浄土が来世にあるという考え方の典型だと思います。今生は戦争だが、来世は極楽ということです。

    最近のイスラム過激派の自爆テロでも、若い人が行なうケースが多いそうですが、自爆テロをするならば、来世天国に行けると教えられるそうですが、これも似た考えですね。オウム真理教の世界観も、突き詰めれば、グルに従って、今生は聖戦を行い、来世は高い世界に生まれ変わるということでした。

    そういったこともあって、私は、まずは、今生を生きている自分の心を鍛錬して、心の中に幸福=極楽を生み出すように生きるべきであり、そうしてこそ、来世においても、極楽浄土に生まれ変わると考えるべきだと思うようになりました。すなわち、今生と来世の極楽・地獄を区別せず、今生きている世界に浄土を見る、という考えです。

    皆さんのさまざまなご意見をお待ちします。
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  • 失敗と成功はセット (2008年10月18日)

    失敗は成功のもととよく言いますが、
    今日はこのことに関してお話ししたいと思います。

    興味深い話として、名前は忘れたのですが、
    歴史上のある偉人が、何かの試みに失敗した時に、それによって、
    成功しない道が一つ分かったから、失敗ではなく、
    成功であると考えると語ったということがあるそうです。

    論理的に考えても、失敗を恐れすぎずに、いろいろチャレンジする人は、
    経験の量が増えて、その意味で智恵が増大しますから、
    成功しやすくなると思います。

    もちろん、何かやる前に何も考えず、むやみやたらに行動してばかりならば、
    失敗が智恵に繋がらない可能性があり、
    慎重さと勇気のバランスが必要ですが、
    よく考えた上でチャレンジして、失敗した(部分があった)としても、
    それは、成功に繋がるものだし、いや、先ほどの偉人のように、
    見方によっては成功なのだという考え方が必要だと思います。

    ただ、多くの場合、何かしようとしたとき、
    失敗した場合に対する不安によって、
    縮こまってしまうことがあると思います。
    それは、何かして失敗するデメリットと、
    何もしないことによるデメリットの双方を
    公平に比較できていないことによると思います。

    背景には、失敗せずに成功したいという気持ちがあるのですが、
    これは、実際には自分を幸福にしない一種の欲望だと思います。
    言い換えれば、自己保全が強すぎる、
    努力しないで成功したいという怠惰がある。

    仏教で、苦と裏が表裏であり、苦の裏に楽があり、
    楽の裏に苦がある、と説くのですが、苦の裏に楽がある、
    というのが、失敗は成功のもとという考えと同じだと思います。

    ただし、それは、失敗した後に、
    あきらめずに努力し続ければということであり、
    仮に、一度目の失敗で、
    二度と失敗したくないと思い過ぎるようになると、
    それ以上は動きがとれなくなって、鬱状態にもなり、
    結果的に挫折で終わってしまう恐れがあると思います。 

  • 博愛の人も、エゴの人? ではどうすれば? (2008年09月25日)

    前回は、欲望と博愛・慈愛が同根の側面があるのでは、
    と書きました、

    今回は、このテーマの実際な側面として、
    私達が、博愛・利他の行為をする場合にも、
    動機の中に、自分のためにそれをやっている、
    という意味で、エゴと無縁ではないものがあるのでは、
    というお話です。

    宗教家、政治家、慈善活動家でも、人間はたいていが、
    自分の存在価値を追求して、その道に入りますから、
    利他の実践をすると言っても、その根底には、
    自分が重要な人間になりたいから、
    利他・博愛の人になろうという心の働きがあるのだと
    思います。

    その意味では、利他・博愛の行為も、根底では、
    自分のための行為=ある種のエゴでもある、
    ということになると思います。エゴという言い方が
    きつければ、自己向上欲求でしょうか。

    その意味で、自分が思うには、利他の実践をする場合は、
    自分のエゴを自覚した上で、それが悪さをしないように
    努めるべきであり、さもなければ、独善的な行為に
    陥りかねないと思います(オウム時代の反省です)。

    最近は、誇大妄想を抱く人が多くなっているようで、
    自分が、救世主である、偉人であるという妄想を抱いて、
    実際には、他人に迷惑をかけてしまうケースがあり
    それを誇大自己症候群と心理学では呼んでいるそうです。
    ヒトラーなどは正にそうだったと思います。
    ポイントは、現実・周囲に適用して、本当に他のためになることを
    するか、独善的な世界にはまって迷惑をかけるかということの
    ようです。

    その一方で、自分が、利他の人、善い人になりたい、といった
    タイプのエゴは、それをうまく活用さえすれば、実際に、
    他を利する行為に結びつくエネルギーになりますから、
    あれもこれも皆エゴだといって否定して、何もしない人間
    になろうとするのは、それもまた何らかのエゴであり、
    逆の意味で極端な行為でしょう。

    そのため、善い人間になりたいと思う自分の心には、
    エゴが同居していることを自覚して、なるべく、
    その善い面が出て、悪い面が出ないように努める、
    ということが、バランスの取れた心の持ち方だ、と思います。

    皆さんは、この「善い行いをしよう、善い人になろう」と思う私達の
    心に潜む問題について、これまでの経験を通して、
    どうお考えでしょうか?

    よろしければメールでお聞かせください。
    メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

    また、この件について、私のmixiの方で、活発な意見交換
    がなされていますので、よろしければ、のぞいてみてください。

     

  • 欲望や怒りと、博愛の本質が同じって信じられますか? (2008年09月24日)

    仏教では煩悩即菩提という思想があります。

    この解釈は色々ありますが、「煩悩」、すなわち、性欲や怒りといったものと、「菩提(ぼだい)」すなわち、仏陀の悟りの心=慈悲・博愛は、全く別のものではなく、本質的には互いにつながっている、といった程の意味です。皆さん、これを信じられますか?

    釈迦牟尼は、煩悩による苦しみを経験して、ダルマ(仏法)に対する信を持つようになり、解脱・悟りに至ると説きました。だから、仏陀の悟りも、その根本原因は、煩悩である、ということです。仏教的な用語では、菩提心も、煩悩を縁として生じる(縁起する)と言います。

    これは、基本的な解釈ですが、実はそれだけではありません。私も、ヨーガ・仏教の実践をした結果初めて知ったことなのですが、人が経験する、性欲などの欲望や他に対する怒りも、全ての存在を愛そうする慈悲・博愛の心は、本質的には同じ「エネルギー」であるという側面があるのです。

    エネルギーとは、最近のスピリチュアルブームで言えば、「気」といわれる目に見えないエネルギーの流れと言っても良いです。そのエネルギーの流れが、体の中をスムーズに流れ、特に、特にヨーガ・仏教で重要とされる三本の主要なルートのエネルギーの流れが整っていると、慈悲の心が生じます。

    その一方で、それがどこかで滞っていると欲望が生じます。例えば、性器の部分で滞っていると性欲が生じるとか、おなかで滞っている食欲が生じるとか。怒りが生じる場合も、その怒りの種類の応じて、どこかで引っかかります。

    そして、ここがポイントなのですが、仏教・ヨーガの教えの深い理解や、精神集中力があると、自分の意思で、そのエネルギーと滞りを解消して、欲望を慈悲のエネルギーに変えることができるのです。その場合、悶々とした性欲が、博愛のエネルギーに昇華されてしまいます。この経験に基づいて、私は、確かに、煩悩即菩提だな、と思うようになりました。

    もちろん、これは、容易ではなく、いつでもどこでも簡単にできれば、その人は、神様・仏様になってしまいますから、それはありえません。そして、前提として、ヨーガが説くクンダリニーの目覚め、仏教が説く管・風・心滴のヨーガが必要になります。

    しかし、こういった体験をいくらかでもすることで、どんな悪人のどんな邪悪な心も、本質的には、聖人の博愛の心と全く別のものではないのだ、という価値観が形成され、人間の見方を柔らかいものにかえていくために役立っています。

    仏教でも、これに類する教えがあり、それは、大煩悩大解脱というものです。大きな煩悩を持っている人が、解脱すると大きな解脱をするということですが、これは、エネルギーが大きいから、煩悩も解脱も大きくなると解釈できます。

    また、仏教の有名な守護神である聖歓喜天は、かつては大きな悪業を積んでいたが、観音菩薩に教化された後は、大きな善業を積むようになったとされ、こうして、大悪人が大善人になった理由は、そのエネルギーが強かったから、悪いことも良いことも、大きかった、と説かれているそうです。

    心理学的にも、ヒトラーのような、誇大妄想の人間が、その狂気によって多くの人に迷惑をかけるケースがある一方で、誇大妄想は、偉大な存在になろうとする強いエネルギーの現われである側面があり、妄想に陥らず、うまく現実に適用出来れば、本当に偉人になる可能性があると言われています。

    例えば、ヒトラーと闘ったイギリスの英雄であるチャーチル首相は、子供の時、自分は空を飛べるはずだ、と考えて、実際に高いところから飛び降りて、失敗したということがあったそうです。ヒトラーとチャーチルは、元々は、妄想的なまでに、自分が偉大だ、という意識・願望があったところ、チャーチルは、成長過程で、現実に適用できたということでしょう。

    こうすると、この世の中に、絶対の善人と絶対の悪人はおらず、条件が変われば、悪人が善人になる可能性がある、善人も悪人になる、という柔らかな人間観が、単なる観念ではなく、具体的な根拠を持って、成立します。

    そして、これは、例えば、他人に対する怒りを和らげる効果があると思いますし、その発展的な実践として、自分の他人への怒りの想念を瞑想によって、愛に昇華する境地があります。

    ともかく、人間観として、この世には、善人と悪人の別々の存在であり、大雑把には2種類の人間がいるのか、善人と悪人は、条件によって生じる流動的なものなのか、どちらの見方もあると思いますが、皆さんは、どう考えられているでしょうか。

    よろしければメールでお聞かせください。
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  • 大自然こそが仏ではないか (2008年09月21日)


    9/13掲載の日記で、読者の方からコメントをいただいたことから、仏としての大自然について、皆さんにお話したくなりました。

    大自然が仏である、というのは、日本の大乗仏教の教義であり、聖地での自然の中での学習が特長である「ひかりの輪」でも、重視している教えです。

    ご指摘の通り、生きていくために必要以上の物を貪り、地球環境を脅かしている人類に比べて、草・木・山・川・石などの自然は、まったく足るを知っています。

    自分が他に優位になろうとなどせず、他と調和して自分の領分を守り、かつ、その中で多くの生き物を育んでいます。

    その意味では、人よりも仏に違い、欲望の超越と慈悲があるという見方もできます。そして、その大自然の中で、人も生まれて、育まれています。

    普段、われわれ人間は、自分たちが地球の王様であるかのような錯覚をして、大自然を見下し、破壊・開発・消費の対象としていますが、見方によっては、それが仏に見える。

    これは、自然を開発してきた西洋文明ではなく、自然との調和を重んじる日本文化の生んだ素晴らしい伝統だと思います。そして、地球環境問題が深刻化する21世紀において、その価値は大いに見直されるべきだと思います。

    私の瞑想体験では、大自然を仏とみて、人間に乏しいその優れた性質から学ぼうとするとき、自分が、(大自然への愛・感謝を取り戻し)大自然に再融合したという感覚を得ることがあります。

    そして、自分は、実際は大自然の支配者などではなく、大自然の一部であって、自分の母なる大自然から生まれてきて、母なる大自然に戻る存在である、と感じます。

    最近の歌で言えば、「千の風になって」、という歌もありました。

    そして、その時は、大自然側こそが、自分の本体で、自分が「私」と呼んでいるものは、それに属する存在と言った感覚がありました。

    人とは、水の中の生まれては消える泡のように、母なる大自然の中に生まれては消えていく一瞬の何か。

    これが、人間の世界の自己中心的な世界観ではなく、大自然の中の人間というものをありのままに見た姿ではないか、と思います。


    そして、仏教では、仏陀は三宝と言われ、宝とされていますが、自分は、大自然こそが、最高の宝だと感じます。

    例えば、早朝に地平線から光り輝く太陽(ご来光)や、透明な夜空にきらめく星々よりも素晴らしいダイヤモンドなどあるでしょうか。

    なによりも、この大自然・大地球・大宇宙よりも素晴らしいマイホームなどあるものでしょうか。

    大自然は、誰彼のものではなく、すべての人が共有している最高のもの。最高のものであるから、それが神・仏であって、最高のものは、皆のもの。

    いや、皆のものというより、皆自体が、その最高のものの一部であり、だから、皆が仏の一部、仏の子。なんと素晴らしいことか。

    そういった感覚の中では、自分だけの財物や名誉を求める、ちんけな欲望が消え去っていきます。

    こういった感覚は、仏教の教学をしつつ、聖地とか自然の美しい場所で体験しました。今度、機会があれば、ご紹介したいものです。


    ※参考

    大乗仏教には、「一切衆生悉有仏性」という言葉があります。これは、一切の衆生はことごく仏性(=仏陀になる可能性)を有しているという意味です。同じように、一切衆生悉皆成仏は、一切の衆生はことごとく皆仏陀に成る、ということ。

    そして、日本の大乗仏教ですが、単に衆生=生き物だけではなく、無生物を含めた大自然全体に、仏性を拡大しました。自然との調和を重視する日本らしい思想ですが、「山川草木悉有仏性」とか、「草木国土悉皆成仏」などと言います。大自然を仏としています。

     

  • やめられない罪 (2008年09月15日)

    ある女性からこういった相談を受けたことがあります。
    「10年以上の間、不倫を続けて、どうしてもやめられず、
    そのやめられない自分をずっと責め続けて、
    相当に苦しんできましたが、最近になって、
    やめられない自分を受け入れることに
    決めたのですが、これで良いと思いますか」
    というものです。

    そして、最後に付け加えられていたことは、
    「良いと言って欲しくて、相談しているのだと
    思います」ということでした。

    こういった相談について、普通、単純に言えば、
    あきらめずに、今後とも、
    やめられるように努力し続けなさいとか、
    相手の奥さんのことを考えてみなさい、
    といった答えが出てくると思います。

    ましてや、仏教を学ぶ者として、
    不倫は不邪淫戒に反する悪業と
    されています。

    しかし、今の時代、人の心の状態は、
    相当、複雑に病んでいる面があると
    思います。
    悪いことと知りながら、それがやめられない、
    そういった精神状態もあるかもしれません。

    このテーマに関連するかどうかは別にして、
    浄土真宗開祖の親鸞は、20年もの間、
    比叡山で修行したが、煩悩を振り切ること出来ず、
    ある意味で挫折して、
    性欲を超えられないので、観音様が現れて、
    自分が女性に変身して現れるから、
    その女性と結婚するようにと言われて、
    妻帯したという話も聞いたことがあります。

    こうしたエリートとは言えない修行者だった
    親鸞は、悪人正機という教えを説きました。
    解釈は色々ありますが、
    阿弥陀の慈悲はすべての衆生に及ぶから、
    善人は当然のこと、悪人をも救われる、
    といったような教えです。

    この相談について、皆さんどう思われるでしょう。
    また、皆さんならどう答えられるでしょうか?

    よろしければメールでお聞かせください。
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  • 楽しみと苦しみは別のものか、つながったものか? (2008年09月14日)


    よく苦しいことがあるから、楽しいこともあると言います。

    これを宗教の教義としたのが釈迦牟尼だと思います。

    しかし、釈迦牟尼が説いたことは、一般の人が、
    それを言うときのものとは違って、もっと徹底していて、
    楽しみと苦しみはセットであり、別々のものではない、
    という思想でした。

    例えば、20万という給料があるとして、
    それをもらう人が、
    これまでは10万の給料で苦労していれば、
    20万という給料は喜びであり、
    これまでは30万の給料で楽していれば、
    20万という給料は苦しみとなる、
    といった具合です。

    これは苦楽表裏(苦と楽は裏表)とも言われますし、
    これまでに日記に書いた縁起の法の
    意味の一つでもあります。

    よく、私達は、大変なときに、「四苦八苦」といいますが、
    実は、これは、人間の苦しみを分類して説明した仏教の用語で、
    四苦は、生・老・病・死の四つの苦のことであり、
    八苦は、これにもう四つが加わったもので、それは、

    1 求めても得られない苦しみ、
    2 愛著したものと別れる(を失う)苦しみ、
    3 嫌なものに会う(を経験する)苦しみ、
    4 一切の作られたもの苦しみである(この部分は諸説あり)、
    というものです。

    これを噛み砕いて、自分なりに説明すると、
    誕生日おめでとうと生まれたことを喜ぶが、
    出産するのは苦しいし、生きる喜びは、
    老いて病んで死ぬという苦しみと不可分であり、

    さらに、
    何かを求めて得ることは楽しいが、
    得られなければ苦しいし、
    得てしまうと愛著・執着するから、
    失ってしまう苦しみが生じるし、

    また、好きなものを追求すれば、
    その反対の嫌いものも生じてくるし、
    こうして、一切のものについて、
    苦しみを伴わない楽しみはない、
    ということになると思います。

    このように、仏陀の思想には、
    楽しみと苦しみは別々のものではない、
    という考え方があるようです。

    もし、楽しみと苦しみがセットなら、
    普通、私達が、ひたすらに、
    苦しみを避け、楽しみを求めることに、
    どういった意味があるのか?

    苦しみと楽しみという視点からは、
    人は何を求めて生きるべきか?

    そして、そもそも、皆さんは、
    楽しみと苦しみは別々のものだと
    おもわれますか、それとも、
    それは連動した、
    表と裏だと思われますか?

    仏陀は、
    通常の苦楽を完全に表裏と考え、
    真の幸福(真楽)は別にあるとし、、
    それを涅槃と呼んだと、
    私は解釈していますが。

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  • 自分を少し離れたところから見る (2008年09月13日)

    mixiの日記より)

    同じ物に対して、それぞれの人が、
    違った認識を持つ。ということや、
    人間の五感や意識といったものが、
    必ずしも、真実をありのままに伝えない、
    といったことをお話ししてきました。

    こういった考える延長上に、
    仏教の四念処といった瞑想があるのですが、
    今日、私が話したひかりの輪の会員さんですが、

    「こうした瞑想をしていくと、
    今まで自分が「自分」と思っていたたものから、
    一歩距離をおいたような意識が出てきて、
    自分と他人を平等に見ることができる感じがした」

    という感想を伝えてきました。

    私もその感覚がわかるので、興味深く感じました。

    これは、特別な変成意識の体験ではなく、
    精神的な体験であり、心境です。

    もしかすると、皆さんの中にも、
    こうした、自分自身から、
    一歩離れた感じの意識を
    体験されたことがある方が
    いらっしゃるのでは、
    と思い、書いてみました。


    ※参考:四念処の瞑想

    この中には、「受は苦なり」という瞑想があって、
    「受」=人間の五感や日常の意識は、
    人を真実の世界のあり方を正しく認識させない故に、
    苦しみをもたらす、という意味合いがあります。

    この訓練は、自分の心に生じる外界の近くに、
    一歩距離を置いて、冷静に見るという効果が
    あると思います。

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  • 昨日と今日の「私」は、真に同一の存在なのか? (2008年09月11日)


    mixiの日記より)

    私たちは、昨日の私と今日の自分が同一のものである、と考えています。

    しかし、科学的には、そう思いこんでいるだけだという見解もあるようです。
    たとえば、記憶については、記憶が貯蔵される脳内の分子は
    見つかっていないそうです。
    それどころか、脳を含めた体の細胞の分子は、頻繁に入れ替わっており、
    どこかの分子に貯蔵されたら、それが外に出て行ってしまう。

    そして、実際、記憶自体が全く正確に維持されるかというと、
    10年前のことと、今思い出す場合と、5年前に思い出す場合とでは、
    厳密に言えば、内容がちがってくることを考えると、
    記憶自体も少しずつ変質していると考えるのも合理的です。

    同じ分子がずっと脳内に存在せず、絶えず入れ替わっているので、
    分子と分子の繋がり方に、記憶が保存されるメカニズムがある、
    という見解もあるようです。この場合、厳密に言えば、
    つながり方が保存されると行っても、つながる分子自体は
    新しいものに入れ替わっていくため、保存のされ方は、
    大まかであり、分子の入れ替えの影響で、微妙に変化していく、
    とも考えられます。

    こうしてみると、昨日の私と今日の私の間で、
    これが全く同じだというものは何一つない、
    という不思議な事実が浮かび上がってくるように思います。
    体も、心も、記憶も、全てが、厳密に言えば、一瞬一瞬
    変化し続けている。

    だからこそ、人は、過去の自分の状態を文字として記録したりする。
    約束したときに、契約書を作る(作る必要がある)のも、
    これが原因ですね。

    そのため、仏教では、単純に「心」という言い方をせずに、
    絶えず変化し続けている心を、無数の心が連続していると見なして、
    心(意識)の連続体という表現を使います。

    こういった「私」とか、「私の心」に対する見方は、
    「私」というものを一つの固定的なものを見ることで、
    「私」に対する執着が強くなりすぎて、
    それが、人の最大の苦しみの原因である、
    という仏陀の思想に通じるものです。

    皆さんは、この自己同一性というものについて、
    そして、それがもたらす幸福と不幸についてl
    どう考えられるでしょうか?

    メールでのご意見お待ちしています。
    メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

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  • 何が「私」か?、どこからどこまでが「私」か? (2008年09月10日)


    最近、分子生物学者の本を読んだのですが、
    私達は、日常で、「私」というものを「他人」というものから、
    強く区別して、いろいろな争いがある、と思うのですが、
    科学の目から見ると、それは、あまり合理的なことでは
    ないようです。

    というのは、人の細胞を構成する分子は、一年ほどで、
    全部、食べ物などで取り入れたものに入れ替わってしまい、
    分子レベルでは、自分と他人の区別がないそうなのです。
    つまり、自分だけの分子とか、他人だけの分子とかはなく、
    この地球環境の中を壮大なレベルで循環している分子が、
    ある時は、Aさんに、ある時は、Bさんに、ある時は、
    他の生き物に、そして、無生物になる。

    その分子生物学者によると、「私」というのは、
    その壮大な分子の循環の中で、地球の長い歴史から見ると、
    ほんの一瞬寄り集まったものが、生じさせている
    一種の効果である、としています。
    一瞬寄り集まっていると言っても、その数十年間の間、
    絶えず、その中身の分子は入れ替わり、
    そして、一瞬一瞬、厳密に見ると、姿形大きさが、
    変わっている。

    そういった意味では、様々な生き物は、厳密には、
    互いに独立して生きているのではなく、
    人間の中の各細胞のように、各々は確かに生きているが、
    一人で生きているのではなく、相互に依存し合って生きている。
    その意味で、地球生命圏という巨大な生命体があり、
    その中の細胞として、それぞれの生き物が存在している、
    という解釈が成り立つのではないか、と思います。

    爪も髪も、切る前は自分の物で、切った後は自分の物ではなくなる。
    体内の酸素・窒素も、体内に有れば生き物の一部となり、
    外に出れば無生物となる。どこまでが自分で、どこからが、
    自分ではないか、明確な境界がない。

    だとすれば、私達が日常生活で意識している、
    他人や外界とは別の「私」という存在は、実際にあるというよりも、
    人間の脳の中で、「私」という言葉などによって作られている、
    一種の観念・概念ではないか、とも考えられます。

    これが、仏陀の説いた無我という思想だと思いますが、
    現代の科学によって、それがより具体的になってきたように、
    私には思えます。

    みなさんは、私たちの最大の関心の対象である、
    この「私」とは、いったい何だと思いますか?

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    よろしければ、のぞいてみてください。

    メールでもご意見お待ちしています。
    メールアドレスjoyus2007@yahoo.co.jp

    ※上記の分子生物学者とは、福島伸一(青山学院大学教授)など。

  • 私たちは何を愛しているのか? (2008年09月08日)

      今、仏教の縁起の法について研究しています。

    その中でも、出てくる興味深い世界観が、
    私たちは、この世の中で、
    食べ物にしても、異性にしても
    いろいろなものを好きになったり、
    または、嫌いになったりするのですが、
    それは、私たちの外側にあるものを
    直接好きになったり嫌いになったりしているのではなく、
    それらのものについて、自分の脳が感じているもの、
    つまり、自分の脳の感じ方を
    好きになったり、嫌いになったりしているだけ
    という事実です。

    だから、同じ対象を見たり、感じたりしても、
    人によって、まったく好き嫌いが違ってくる。
    こうして、自分たちの外にある対象自体には、
    善し悪しの実体はなく、
    それを見る自分の内側の要素いかんによって、
    善し悪しが現れる。
    その意味で、世界は、現実は、
    人の数だけ、脳の数だけ存在する
    ということもできる。

    これが、仏陀が説いた、縁起の法や、
    大乗仏教の空の思想の
    少なくとも一部だと、自分は解釈しています。

    でも、私たちは、日常生活で、自分たちが感じていることが、
    外側に実際に存在していると、思い込んでいることが多い。
    単に、自分の脳の感じ方にすぎないとは思わない。

    しかし、その結果として、場合によっては、
    非常に強い好き嫌いが起こり、
    さまざまな争い、戦争までも起こる。

    こうして、人間が存在していると感じているものが、
    実際に存在しているものとは違っている。
    これが、苦しみの根本原因だと、仏教は説く。

    皆さんは、この考え方、思想について、
    どう思われるでしょう?

    よろしければメールでお聞かせください。
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  • なぜ人は死ぬのか (2008年02月23日)

    今日、あるミクシィの方から、興味深い質問を受けました。

    それは、死ぬとはどういうことか、なぜ死ぬのか?という質問でした。
    彼は、まず、死ぬとはどういうことか、と問いました。
    そして、なぜ死ななければならないのか、と問いました。

    酒、女、友、学、空、星、花などがある、
    この素晴らしい世界から、あと数十年たつと、
    自分はどこかに消えてしまう。
    これはなぜだろうか、と問いました。

    彼は、「私は死にたくない」と言います。
    これについて、常に悩んで生きているそうです。


    私は、自分の宗教的な実践の視点から、次のように答えました。

    なぜ、あなたは死ぬか。それは、あなたが生きるからです。
    なぜなら、生と死はセットだから。

    生きるために、あなたは、食べ物などで、
    必然的に、他の生命を奪います。
    美味しい食べ物は、他の生き物の犠牲の結果。

    こうして、人が生きる、ということは、他の生命が死ぬ、ということ。
    その業の結果、いつかは、自分の生命も奪われる。
    これは、ある意味で、公平なことです。

    もう一つあります。
    あなたのように、死ぬ人がいるから、
    生まれてくる赤ん坊が、生きることが出来ます。
    人類が、これまで存続してきたのは、
    死ぬ人と、生きる人のバランスがあるから。

    もしそうでなければ、人口が爆発して、
    人類はとうの昔に滅びています。
    大自然の営みは、生と死のバランス、
    生と死の循環によって続いています。

    そして、仏教では、人は死ぬと、生まれ変わる、と説きます。
    老いた体が、死ぬことで、新しい体が、生まれてくる。

    こうして、生と死はセット
    あなたが生きるから、あなたのために死ぬ生き物たちがいる。
    そして、生きるということは、死に近づくこと。

    あなたが死ぬから、、
    生まれてくる人が、生きることが出来る。
    そして、死んでいくことは、新しい生に近づくこと。
    生きていくことは、死んでいくこと。
    死んでいくことは、生きていくこと。

    生と死を超越した、真の幸福は、
    人生の一面だけを見て、一時的な快楽に耽るのではなく、
    生と死、快楽と苦しみがセットである、という真実を理解した後に、
    得ることができる境地だ、と思います。

    それは、生と死によっては、壊れない類の幸福です。
    それによって、死に対する恐怖は和らぎ、
    消えていく、と思います。

    このように答えました。

  • 愛著による妄信 (2007年03月04日)

    3月4日

    昨日お話ししたことは、私だけでなく、
    多くの信者もそうだ、と思います。

    信者の中には、元代表が、
    世の中で一番自分を愛してくれた存在だ、
    元代表が、一番自分のことをわかってくれた、
    と思う人が少なからずいます。


    一般の方から見れば、
    それは何とも理解しがたいことでしょう。

    あれほど悪しき事件を起こした
    悪鬼のような元代表に、
    なぜ、信者はそう感じることがあるのか。

    単に元代表に一定の超能力やカリスマ性があり、
    気配りが効いて、面倒見が良い、
    だけで愛著するだろうか。


    私はそうではないと思います。

    私は、アーレフの代表として、多くの信者を見てきました。

    信者の中には、子供の時の傷、家族との傷、学校での傷、
    社会での傷がある人が、当然います。
    少なくありません。
    いや多いと言うこともできます。

    出家した信者は、家族・学校・職場の
    人間関係を捨てた人たちです。

    私自身は、エリートコースでしたから、
    自分の自覚としては、現世に苦しみがあったとか、
    傷があったとは思いません。

    しかし、私の周りの信者には、傷のある人が多くいます。
    だから、自分についても、
    自分で気づいていないだけかもしれません。

    私は、小学生のころから、
    父親と別居する家庭環境にありましたから、
    その結果、元代表が、文字通り、父親代わりになりました。

    元代表がそのように表現していましたし。
    元代表の妻も、
    元代表が私をそのように見ていると語っていました。

    この元代表と私の親密な関係は、
    教団の中でも知られています。
    でも、それは私に特別なことではないかもしれません。


    教団の中で、元代表を
    父親代わりにしている人は少なくないようです。
    いわゆる父性への欲求でしょうか。
    智恵・力・安定・愛への欲求。

    信者の中で、
    一般の人の目を気にしなければならない場所において、
    元代表を隠語で、お父さんと呼ぶ人もいます。

    自分のことはともかく、
    生い立ちに傷がある人の話をよく聞きます。
    家族の問題、学校での問題、社会での問題。

    ともかく、自分たちが経験した、
    家族、学校、社会の中では、
    それが未熟で狭い範囲の経験であったとしても、
    少なくとも、元代表を超えるものがない、と感じたのでしょう。

    もちろん、それは偏った見方でしょう。
    親の愛、学校の先生の愛、
    友人の愛、会社の同僚・上司の愛。

    それは元代表のようなカリスマ性はなくても、
    心から感謝すべきものがあった、と思います。

    しかし、大変申し訳ないけれど、
    事実として、そう感じることができなかった。

    人によっては、元代表に会うまで、
    誰一人として自分を愛してくれない、
    という被害妄想的な孤独感、寂しさを
    感じていた人もいるでしょう。


    そして、彼らにとっては、
    世界の中で、唯一自分を愛してくれた人が、
    ないしは、世界の中で最も自分を愛してくれた人が、
    世界の中で、最悪のテロ事件を起こしてしまった。

    そういう現実が、元代表が逮捕された後に、
    目の前に立ち現れました。


    このような信者の心境を
    ある程度察する立場にある自分には、
    何とも言いようがない状態です。

    そして、元代表以外については、
    親を含めた多くの人が、
    むしろ自分自身で苦しんでいて、
    元代表のようには、自分を成長させることができない、
    と感じてしまった。

    そして、元代表に強く愛著し、
    そうしている自分自身に強く愛著していると、
    元代表と自分がなした悪いことも、否定・反省できなくなる。

    それが、事件を否定できない信者の
    心理の根底にあるものだと思います。

    そう、私は思うようになりました。


    ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎


    さて、今、私のいる世田谷の教団施設では、
    毎日、公安当局の方々が、教団信者を監視しています。

    新団体ができることもあって、
    表情が以前よりも、若干厳しくなったようです。

    私は、あまり接することはないですが、ある信者が、
    最近、あんまり公安の人たちが、挨拶を返さなくなってきた、
    と言っていました。

    公安当局の皆さんが、日本の国民のために、
    教団を監視して、教団の問題点を批判し、
    必要な圧力をかけるのは、当然のことだと思います。


    しかし、信者が変わっていくために必要なのは、
    本当に必要なのは、
    甘えだとは思いますが、
    元代表以上に、彼らを愛してくれる何か、
    そう感じる何か
    かも知れません。

    人は、厳しさだけでは、導けない、と思います。
    悪いことを罰する厳しさ、
    悪いことをしないように見張る監視だけでなく、
    同時に、辛抱強く、愛を持って、
    変化・成長を促し、励ます導きが、
    必要だと思います。


    この点については、私自身の不徳を強く感じます。
    代表派・新団体の構成員は、全教団の2割弱だ、と思います。

    これは、代表である私の力量の不足、
    愛の不足であることは明白です。

    まず、自分の反省と努力が第一です。
    しかし、同時に、オウムの問題を解決するには、
    多くの方々の力が必要なことも事実だ、と思います。

    すべての日本の人々のために、
    信者のためにも、一般の人のためにも、
    皆さんの力を貸してください。

  • ブログをはじめました。 (2007年02月27日)

    このたび、ブログをはじめました。
    まもなく、私は、アーレフを脱会します。

    それは、旧教団を乗り越えて、新しい道を歩み始めるためです。
    それに先立ち、皆さんにいろいろなことをお伝えしたいと思います。

    脱会は、3月中にも行なう予定です。
    私と共に、新しい道を歩むために、
    新団体を立ち上げる友人たちも脱会します。
    新団体は、4月から5月にかけて、立ち上げる予定です。

    これまでの経緯から、私や新団体に対して、
    厳しい見方もある、と思います。
    そして、それは、自分たちが本当に変わるために、
    大切なものだ、と思います。

    そのため、このブログで、自分や、新団体について、
    できるだけのことをお伝えし、
    皆さんからも、いろいろな方々の意見を聞かせていただければ、
    と思います。

    私たちは、変わっていく決意をしました。
    どうかよろしくお願いします。

    2月27日  上祐史浩

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