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   <title>日記 プライベート</title>
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   <title>【日記 プライベート】日記コーナー、アメブロに移行しました。</title>
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   <published>2010-11-18T12:38:37Z</published>
   <updated>2010-11-18T13:07:42Z</updated>
   
   <summary> この「日記プライベート」のコーナーは、 先日開設のブログ、 「上祐史浩オフィシ...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/diary/">
      <![CDATA[<p>
<span style="font-size: medium"><span style="font-size: small">この「日記プライベート」のコーナーは、</span><strong><br />
</strong><span style="font-size: small">先日開設のブログ、</span><strong><br />
</strong></span>
</p>
<span style="font-size: medium"><strong><a href="http://ameblo.jp/joyufumihiro/theme-10024388449.html"><br />
「上祐史浩オフィシャルブログ 　「２１世紀の思想の創造」　日記</a></strong></span>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong><span>へ移行いたしました。</span></strong></span><br />
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: small">今後はこちらの方での閲覧をよろしくお願いいたします。</span><span style="font-size: small"><br />
</span><span style="font-size: small"><br />
※ブログの更新情報は、当サイト<a href="http://www.joyus.jp/">トップページの「更新情報」</a>でご覧いただけます。</span>
</p>
]]>
      
   </content>
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   <title>【日記 プライベート】汝の敵を愛して、キリスト教の誕生</title>
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   <published>2010-11-02T03:27:05Z</published>
   <updated>2010-11-18T12:56:30Z</updated>
   
   <summary> 学術的に言えば、キリスト教は、イエスキリストの教えと言うよりも、 イエスキリス...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/diary/">
      <![CDATA[<p>
学術的に言えば、キリスト教は、イエスキリストの教えと言うよりも、<br />
イエスキリストの言行を土台として、パウロらが確立した宗教である<br />
と言われています。よって、学者によっては、パウロによって、<br />
キリスト教が発明されたという刺激的な表現をとる人もいます。
</p>
<p>
そのパウロ、有名な話しとしては、ある宗教体験をして、改心するまでは、<br />
イエスの信者を弾圧しており、しかも、生前のイエスには会ったことがない。<br />
すなわち、キリスト教とは、イエスの信者の敵対者だった者が確立した<br />
宗教である、とも言うことが出来るのです。
</p>
<p>
すなわち、イエスの名言、汝の敵を愛せ、これがそのまま、キリスト教の誕生を<br />
もたらしたということになります。
</p>
<p>
キリスト教と言えば、なんと言っても、イエスの十字架で死と復活ですが、<br />
私個人は、宗教としてのキリスト教の誕生が、その敵にもたらされたという点に、<br />
非常に惹かれています。
</p>
<p>
そして、イエスの様々な予言の中で、一般には予言の的中とされていませんが、<br />
私は、彼が彼の信者に、汝の敵を愛せと語ったことは、素晴らしい予言のように感じます。
</p>
<p>
敵対者であるパウロが、キリスト教確立の立役者になった。<br />
ユダの裏切りをきっかけに、イエスのキリストとしての復活があった。<br />
敵が味方に。死が再生に。
</p>
<p>
人が最も忌み嫌う二つのもの、「敵」と「死」、<br />
これによって、その中核が作られたキリスト教。<br />
さすがに世界最大宗教の誕生は興味深い。
</p>
<p>
ひかりの輪では、大乗仏教の教えをベースにして、<br />
苦しみの裏に喜びがあり、<br />
悪（劣）の裏に善（優）がある、<br />
という一元法則を説いています。
</p>
<p>
前の日記で、苦しみこそ慈悲の源であるとして、苦しみに感謝するお話をしました。<br />
これをひかりの輪では、苦楽表裏として、釈迦牟尼の法則と呼んでいます。
</p>
<p>
これに加えて、人が一見して、自分より劣っていると考えている対象が、<br />
別の面においては、自分より優れており、将来的には、自分が助けられる場合<br />
があります。
</p>
<p>
例えば、イエスの信者にとっては、初期のパウロは、真理を理解しない<br />
悪業多き魂の一人だったのでしょうが、後世のキリスト教徒にとっては、<br />
全ての信者の上に抱く存在となりました。
</p>
<p>
また、仏教では、釈迦牟尼如来の一人前の如来をカッサパ仏と言いますが、<br />
カッサパ仏の時代においては、釈迦牟尼は、カッサパ仏を誹謗中傷したと<br />
も言われています（この生の釈迦牟尼はまだ悟って仏となっていない）。
</p>
<p>
そして、釈迦牟尼が仏となった後には、釈迦牟尼を殺そうとした大悪人が、<br />
改心して、釈迦牟尼の高弟となります。有名なアングリマーラです。
</p>
<p>
さらに、釈迦牟尼教団を一時的に分裂させたデーバダッタが、地獄に堕ちたが、<br />
そこで改心したので、仏教を守る神（護法神）として生まれ変わったと言います。
</p>
<p>
釈迦牟尼遅れて５６億７千万年後に悟る弥勒菩薩は、それほど釈迦牟尼に遅れて悟るのに、<br />
釈迦牟尼より遙かに多い人々を悟りに導くとされています。
</p>
<p>
誰かが、最初に劣っていて、間違っているように見えても、<br />
その人が転機を迎えて、転換し、深化していくならば、<br />
その落ち込みが深く、はい上がる高さも高い分だけ、<br />
最初から優れていた人よりも、大きなものを得るのではないかと思います。<br />
<br />
仏教的に言えば、煩悩が深い者は、早く悟ることは出来ないものの、<br />
苦闘の末に、それから脱却したならば、煩悩の浅いものよりも、<br />
同じように煩悩が多い者を救うことができるし、救おうとする慈悲も強い、<br />
とも考えられます。大煩悩大解脱（煩悩即菩提）と言われる教えです。
</p>
<p>
これから出てくる教えは、全てを平等に尊重すべきである、というもののです。<br />
仏教的に言えば、万人が、平等な仏性の現われ、<br />
すなわち、平等に未来に仏陀になる可能性を有する、というものです。
</p>
<p>
これは、人は、無知によって、色々な間違いを犯すが、それを経験して学習し、<br />
徐々に成長していく、という人間観と、それに加えて、<br />
人と人の違いは、仏の視点から見ると、優劣ではなく、実は、個性であり、<br />
役割分担の違いで、お互いがお互いを助け合っている、という視点があります。
</p>
<p>
先ほど言ったように、早く悟った釈迦牟尼が、先駆者として仏の教えを広め、<br />
後に悟る弥勒菩薩が、実際に人類全体を救済して、釈迦牟尼を助け補う<br />
というのが、仏教の救済の構造となっています。
</p>
<p>
これは、母が子供を育てる時の心境に似ています。幼少の時の子供は、<br />
母親に２４時間苦役を強い、客観的には、母親に最大の敵の一面を呈しますが、<br />
その将来の成長を信じる母親は、子供に最大限の尊重と愛を持って、<br />
育みます。そして、成長した子供は、今度は年老いる母親を助けます。
</p>
<p>
観音菩薩で言えば、慈母観音菩薩、仏母観音菩薩などと言われます。<br />
また、この宇宙は、全ての生き物を育む母なる仏の母胎の中であるとする<br />
胎蔵界曼荼羅の思想などがあります。<br />
キリスト教で言えば、敵を愛せと言ったイエスもそうですが、聖母マリアが<br />
宇宙の母のイメージでしょうか。
</p>
<p>
こうして、宇宙の母のような気持ちで、全ての生き物について、<br />
その一時的な優劣・善悪を超えて、<br />
お互いが助け合う関係にある未来の仏と考えて尊重し、<br />
愛し育むのが、仏陀の智恵と慈悲だと思います。
</p>
<p>
汝の敵を愛せと、今回はキリスト教的になりましたが、<br />
最後はいつもの通り仏教で締めくるならば、<br />
「敵こそは教師である」と説かれます。<br />
<br />
宗教は、宗派対立に陥ると、宗教戦争など、敵を増やします。<br />
しかし、現代社会では、敵と戦争をもたらす一面が目立つ宗教ですが、<br />
別の面では、本来は、敵を味方に変え、平和をもたらす思想があります。<br />
２１世紀の宗教の創造を目指すひかりの輪では、この平和をもたらす<br />
宗教の力を再生できればと考えています。
</p>
<p>
また、オウム・アレフを脱会して、麻原信仰を脱却したひかりの輪は、<br />
今現在は、麻原信仰を深めるアレフと対立関係にありますが、<br />
アレフの人達が改心して、その苦闘の末に、麻原信仰を脱却する時が<br />
来るならば、そのはまり方が私達より深く、脱却の苦闘が深い分だけ、<br />
より多くの人に、慈悲深くなる可能性があると思っています。
</p>
<p>
それから、公安調査庁の方、彼らは私にとっては愛の鞭としての教師。<br />
我々の反省、改革、深化、忍耐、真の愛を促す、教師です。
</p>
<p>
余談ですが、立ち入り調査の時に、ある調査官から聞いたことは、<br />
調査官の奥さんも、私の公開ネット講話を聞いているそうです。<br />
旦那さんと一緒に教団を監視して夫婦二人三脚のつもりか、<br />
単なる興味本位か、夫婦関係の悩みがあるのか......。<br />
旦那さんの「公開しすぎ」という苦しいコメントから、推して知るべし。
</p>
<p>
そもそもは、ひかりの輪も、アレフも、公安調査庁も、同じ日本人。<br />
一つしかない日本。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
      
   </content>
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<entry>
   <title>【日記 プライベート】東京説法会とオフ会終了、今週末は千葉・福岡へ </title>
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   <published>2010-11-01T13:26:24Z</published>
   <updated>2010-11-18T12:56:30Z</updated>
   
   <summary> （2010年11月01日00:59の日記） 本日は、予定通り、東京の説法会とオ...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/diary/">
      <![CDATA[<p>
（2010年11月01日00:59の日記）<br />
<br />
本日は、予定通り、東京の説法会とオフ会を行い、今帰宅しました。<br />
今回も、それぞれに数十名の方にお集まりいただき、<br />
スタッフの方、参加された方に。深く御礼申し上げます。<br />
<br />
今日は、いつもよりも多くの方々と個人的に面会したり、<br />
ご相談に乗れたことが、良かったなと感じています。<br />
中には大きな人生の転換期の方もいらっしゃり、<br />
住み慣れた関西から単身で引越し、芸能関係の仕事を始める方や、<br />
最近長年付き合った人と別れ、新しい仕事を始めつつある方なども。
</p>
<p>
昼１１時半から夜１２時近くまで、説法会とオフ会の間の２～３時間を除き、<br />
３回の講話と個別のお話となりましたが、比較的スムーズに運び、<br />
疲労感少なく、充実感のある1日でした。
</p>
<p>
今週末は、４日・５日の木曜・金曜日に、一般の方、会員のとの面会<br />
の予定を入れており、６日・７日の週末は、既にお知らせしたように、<br />
千葉・福岡の説法会・勉強会の予定です。<br />
７日（日）の福岡勉強会の講話はネットで公開生中継も行います。
</p>
<p>
今日と同じように、多くの方との交流と、いろいろな学びの機会が<br />
得られればと思いますが、これらプログラムのお問い合わせ先、<br />
ご連絡先は以下の通りです。
</p>
<p>
<strong>４日～５日：東京本部での個人面会</strong><br />
担当者：細川美香<br />
担当者携帯電話：０８０－３４２４－７０５４<br />
メールアドレス：<a href="mailto:tokyo@hikarinowa.net">tokyo@hikarinowa.net</a><br />
<br />
</p>
<p>
<strong>６日：千葉説法会、７日：福岡説法会の詳細</strong><br />
<a href="http://www.joyus.jp/hikarinowa/news/news/102411.html">http://www.joyus.jp/hikarinowa/news/news/102411.html</a><br />
<br />
<br />
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【日記 プライベート】苦しみは慈悲の源</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/diary/022010/1049.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2010:/diary//2.1951</id>
   
   <published>2010-10-29T12:12:03Z</published>
   <updated>2010-11-18T12:56:30Z</updated>
   
   <summary> （2010年10月29日の日記） 最近、様々な苦しみが慈悲の心を培う力になるこ...</summary>
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         <category term="2010年の日記" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/diary/">
      <![CDATA[<p>
（2010年10月29日の日記）<br />
<br />
最近、様々な苦しみが慈悲の心を培う力になることを良く考えます。
</p>
<p>
それに関連する話しで、前にもしましたが、観音菩薩がいます。<br />
慈悲の化身、慈悲から生まれたと言われますが、観音菩薩は<br />
以下のように誕生しｊたと言われています。
</p>
<p>
観音菩薩として生まれる前の生で、彼は、大変苦しい人生を送りました。<br />
子供の時に両親と死に別れ、弟と共に売り飛ばされ、島での苦役を強要され、<br />
ぼろぼろになって、そのまま死に至りました。死の直前に、自分達の悲惨な<br />
人生を嘆く弟に対して、
</p>
<p>
「私達は今生、人としての様々な苦しみを味わった。<br />
だから、来世生まれ変わったら、他の苦しみを取り除く人となろう」
</p>
<p>
と語りました。こうして生まれたのが観音菩薩と言われています。
</p>
<p>
この観音菩薩の誕生のエッセンスは、苦しみの経験が慈悲の心をもたらす<br />
ということだと思います。
</p>
<p>
苦しみを経験してこそ、他の苦しみを理解することが出来る。<br />
苦しみが、人にとって一番大切な慈悲の心の源になる。<br />
<br />
また、世俗的な幸福は、多かれ少なかれ奪い合いの様相があって、<br />
お金も、異性も、名誉も、自分が他に勝って、それらを得る喜びの裏には、<br />
負けた他が、それらを失う苦しみがあり、逆に言えば、<br />
自分が負ける苦しみの裏には、他人が得る喜びがある。<br />
<br />
慈悲の心があれば、自分の苦しみは、自分が他から奪いすぎないで、<br />
足るを知って生きるために、喜びととらえなおすことが出来る。<br />
この意味でも、苦しみは、慈悲の心の源にすることができる。
</p>
<p>
今の日本、前よりも豊かさが減ったためか、将来への経済的な不安が増大しています。<br />
しかし、世界・地球全体から見ると、やはり、特別に豊かで恵まれた国であって、<br />
飢え死ぬ訳ではない。
</p>
<p>
また、最近は、勝ち組・負け組と言って、自分を負け組と考えて、酷く落ち込む人も多いが、<br />
日本人を含めた先進国の人々は、世界の中で富を独占する存在で、しかも、日本は<br />
長寿で安全な国だから、客観的に見て、勝ち組であることは間違いない。
</p>
<p>
その日本人がかかえる将来の不安とは、本質的に何を意味しているのか。<br />
客観的には、贅沢や勝利に慣れすぎてしまった心の問題の側面がないか。<br />
だとすれば、その程度の不安があったとしても、それは本当に悪いことか。<br />
それとも、慈悲の心を培うよい機会・試練ではないのか？
</p>
<p>
仮にもし全く不安のない人生だったら、どんな人間になるのでしょう。<br />
例えば、他の苦しみを理解できるようになるでしょうか<br />
お金と名誉・勝利に満ち足りて、何の苦しみもない人生とはどんなものでしょう。
</p>
<p>
これについては、有名なフランス王妃マリーアントワネットの話を思い出します。<br />
民衆がパンがなく飢えていた時に、「「パンがないなら、なぜケーキを食べないの」と言って、<br />
民衆の怒りを買って、彼女は自らを滅ぼす結果となりました。<br />
彼女の栄華は一時的だったが、その栄華が彼女を滅ぼす原因となった。
</p>
<p>
また、腹八分目に医者いらずと言うます。<br />
食べ物も、それが過ぎれば、体には毒になるように、<br />
お金や名誉やその他のものも、それが過ぎれば、<br />
心の健康＝慈悲には毒にならないか。<br />
ならば、多少の不足・不安くらいは、本当に悪いことなのか。
</p>
<p>
こう考えると、楽にも苦にも感謝して生きる道があると思います。<br />
今、与えられている幸福に感謝すると共に、<br />
今、与えられていない苦しみに対しても、<br />
それを慈悲の源と感謝して、全ての感謝する道。<br />
楽にも苦にも感謝。一切に感謝。<br />
<br />
そして、足るを知り、感謝の心がないならば、<br />
絶えず、今得ていないものを未来に求めて生きることになる。<br />
しかし、それは、未来に生きようとしているようなもので、<br />
今現在の人生を楽しむことはできない。<br />
<br />
今の楽にも苦にも感謝して、今、ここで、幸せになる。<br />
今、ここの人生を感謝し、楽しむ。<br />
そこには、際限のない貪りから離れた平安な心と、<br />
奪い合いから離れた温かい慈悲の心が存在している。
</p>
<p>
そして、そのような分かち合いの心が生じると、<br />
不思議にも、生きて行くに必要なものは与えられるもの。<br />
それが大自然の摂理であり、神仏の守護・祝福として<br />
信じられてきたものではないか。
</p>
<p>
仏教開祖の釈迦牟尼は、苦と楽のバランスを取る中道の教えを説きました。<br />
自分を痛めつけ過ぎるような苦行（右道）を否定すると共に、<br />
快楽を満たし過ぎる道（左道）を否定しました。<br />
不苦不楽の中道の教え。<br />
これも慈悲の教えと一体のものだと思います。
</p>
]]>
      
   </content>
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<entry>
   <title>【日記 プライベート】ネットで知り合った人達と面会の毎日</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/diary/022010/1048.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2010:/diary//2.1948</id>
   
   <published>2010-10-27T14:00:14Z</published>
   <updated>2010-11-18T12:56:30Z</updated>
   
   <summary> 昨日、今日、明日と、ネットで知り合った人と、私の住む東京世田谷烏山で 面会させ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="2010年の日記" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/diary/">
      <![CDATA[<p>
昨日、今日、明日と、ネットで知り合った人と、私の住む東京世田谷烏山で<br />
面会させていただいています。
</p>
<p>
昨日印象に残ったのは演奏家の方。最近の不況の打撃をもろに受けているのが芸術分野だそうで、軒並み生演奏の機会が減ったとか。<br />
面会で様々な分野・職業の人の話を聞くと、見識が広がるので勉強になります。
</p>
<p>
私の方からは、不況などの不安・困難を逆活用して、　演奏家にも大切な集中力やインスピレーションの強化（雑念を止める）や、心の熟成をはかる仏教的な智恵についてお話ししました。苦楽表裏ですから。
</p>
<p>
今日印象に残ったのは、２０代で霊的なヒーリングをやっている若者。<br />
お父さんも励ましているというしっかり者で、最近のスピリチュアル、ヒーリング、サイキック関係の事情も含めて、勉強になりました。
</p>
<p>
私の方からは、慢心が増大して、他の尊重ができなくなるという霊的修行の落とし穴の問題の話しをしたり、オウムや幸福の科学といった宗教、政治、親子関係など様々な質問に答えました。<br />
よく学び、邪道を振り払って、次代の精神世界を支える人物となるように期待を込めて。
</p>
<p>
明日また、昼・夜と面会をする予定で、その後、お知らせしましたとおり、<br />
横浜説法会、東京説法会、東京オフ会となります。既に多くの一般の方の<br />
参加の予定を聞いており、多くの方と交流できることを楽しみしています。
</p>
<p>
なお、各イベントの連絡先はＮＥＷＳに掲載しましたのでご関心があれば。<br />
<br />
<a href="http://www.joyus.jp/announcement/02/0241.html">http://www.joyus.jp/announcement/02/0241.html<br />
<br />
<br />
</a>
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【代表メッセージ】「上祐史浩のメッセージ」コーナーは、アメブロ「智慧のツィート」に移行しました</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/message/00/0012.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/hikarinowa/message//26.595</id>
   
   <published>2011-01-05T04:50:23Z</published>
   <updated>2011-01-05T05:02:40Z</updated>
   
   <summary>この「上祐史浩のメッセージ」コーナーは、上祐史浩オフィシャルブログ--２１世紀の...</summary>
   <author>
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   </author>
         <category term="このコーナーについて" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/message/">
      <![CDATA[この「上祐史浩のメッセージ」コーナーは、<a href="http://ameblo.jp/joyufumihiro/">上祐史浩オフィシャルブログ--２１世紀の思想と創造</a>の<a href="http://ameblo.jp/joyufumihiro/theme-10027589572.html">智慧のツィート</a>のコーナーに移行しました。<br />
これまでのメッセージはそのままこちらでご覧になれます。２１世紀に必要な思想・宗教、さまざまな教えについて語ります。左に、カテゴリー分けしています。<br />
<br />
<br />
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【代表メッセージ】感謝と分かち合い３――すべての人を幸福にする道</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/message/cat243/0053.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/message//26.1298</id>
   
   <published>2008-12-09T04:00:32Z</published>
   <updated>2008-12-09T05:01:21Z</updated>
   
   <summary> 「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="会員向けメッセージ・特別公開" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/message/">
      <![CDATA[<p>
<br />
「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上祐史浩（ひかりの輪代表）のメッセージを、公式サイトにも掲載することになりました。
ご紹介するメッセージが、皆さまの日々の生活に少しでもお役に立つことができればと願っています。
なお、メンバーズサイトは、会員の方に限らず、真面目なご関心のある方にも、ご利用いただいています。
</p>
<p>
お問い合わせは<a href="mailto:mail@hikarinowa.net">mail@hikarinowa.net</a>まで。
</p>
-----------------------------------------------------------<br />
<br />
<p>
<strong>●幸福・不幸は、他との比較の問題</strong><br />
<br />
さて、今回は、感謝と分かち合いこそが、すべての人々を幸福にする道だと思うことについて述べたい。
</p>
<p>
例えば、ここに３人の人がいて、それぞれの給料が２０万、２５万、３０万だとする。普通の場合は当然のことだが、２０万の人は、２５万や３０万の人を見て、自分の給料に不満を抱き、自分の給料がもっと上がるように欲求する。
</p>
<p>
しかしながら、この世の中のお金は有限だから、誰かの給料が上がるためには、誰かの給料が下がらなければならないときがある。
</p>
<p>
それは好景気のときには当てはまらない、と言うかもしれない。しかし、先ほどの３人の給料が、好景気のために、それぞれ二倍になり、４０万、５０万、６０万となっても、３０万の人の欲求は変わらない。
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/pokkarikumo-thumb-250x187.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="250" height="187" align="right" />
人の感じる幸福・不幸は、「他との比較」の問題であって、いくらであれば幸福で、いくらならば不幸である、といった具合に、額自体で決まるのではないのだ。実際に、お金持ちとは、いくら以上の所得の持ち主である、と定義されるのではなく、単に「他の人より」お金を持っている人という意味にすぎない。つまり、お金持ちになるには、他の人に貧しくなってもらわなければならないのである。
</p>
]]>
      <![CDATA[<p>
<strong>●経済動向から見た分かち合いの必要性</strong>
</p>
<p>
さらに、景気にはいつも波がある。好景気において、貪りにとらわれ、金に目がくらんだ人は、正常な判断能力を失い、過剰な投資・生産によって、不景気がやってくるのが常である。
</p>
<p>
それだけではなく、最近は、適度な好景気と不景気が循環するいわゆる景気サイクルを逸脱し、世界一二の経済大国である米国と日本で、バブルの崩壊といった、大きな問題が起き、世界を巻き込んで、不景気と物価高を招き、食糧価格と原油高騰は世界中の弱者の生活を直撃していた。
</p>
<p>
そして、短期的な経済動向に限らず、長期的に見ても、今後の地球のさまざまな資源・エネルギー・環境の問題を考えるならば、各国が自由に経済・消費を成長させてよい時代は終わりつつあるように思う。すなわち、一つしかない地球を人類全体で、いや地球の生き物全体で分かち合わなければならないのである。<br />
<br />
</p>
<p>
<strong>●今の時代に幸福になるには</strong><br />
<br />
こうした時代、どうしたらすべての人々が幸福になれるのだろうか。それは、やはり、自分たちに「今すでに与えられている幸福」に気付き、それに感謝して、喜びとすることではないか、と思う。
</p>
<p>
これは何も金銭に関しての問題に限らない。いや、現代の日本人の悩みは、金銭というよりも、「自己存在意義」の欲求ではないかと思う。社会の中で、いかに自己の存在が重要であるか、といった欲求、言い換えれば、自己愛、プライド、地位・名誉などいったものである。
</p>
<p>
しかしながら、この精神的な欲求についても、結局は奪い合いになることは間違いない。自己の存在の重要性とは「他との比較」に基づくからである。それを追求し続けるならば、現代風に言えば、「世界・宇宙のヒーロー」にならないと気がすまない。
</p>
<p>
それが現実の世界では不可能だから、多くのアニメやパソコンゲーム、インターネットなどのフィクションの世界が展開されているが、青少年が、こういった世界に没入して現実から逃避したり、妄想・空想の精神病理的な状態に陥ったり、現実とフィクションが区別できなくなって、犯罪を含めた問題の一因になっているともいわれている。
</p>
<p>
一方、「感謝」によるメリットとは、「皆が得ている幸福」に気付くことだ。先ほどの２０万、２５万、３０万のケースで言えば、この３人は、皆が１５万以上の給料を得ている。それは、所得水準が日本の十分の一以下である発展途上国の人たちから見れば、王侯貴族の所得水準であり、仮に、彼らが日本に来て、それを得れば、大変大きな喜びとなるものだ。
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/nijinowa-thumb-250x187.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="250" height="187" align="left" />
こうして、皆が、「自分が得ていない幸福」ではなく、「すでに得ている幸福」に目をやって、その幸福の「大きさ」に感謝するならば、貪りによる奪い合いではなく、皆が幸福を感じることができるだろう。
</p>
<p>
そして、その感謝と同時に、自分たちよりもはるかに不幸な人たちの苦しみを理解し、彼らと幸福を分かち合うことができるようになれば、世界の幸福はさらに増大するだろう。
</p>
<p>
例えば、先ほどの例では、仮に日本で生きていく上には１５万以上は必要ないとすれば、２０万の人が５万、２５万の人が１０万、３０万の人が１５万を発展途上国の人たちと分け合えば、合計で３０万の支援ができるが、所得水準が日本の１０分の１以下の国の人たちには、３０万は３００万ほどの価値に感じられるものだ。
</p>
<p>
こうして、今すでに自分に与えられている幸福に目をやり、その「大きさ」に気付いて、感謝をなし、そして、自分よりもはるかに不幸な人たちと自分の幸福を分かち合う、という実践は、皆が幸福になる輪（ひかりの輪）が広がっていく。
</p>
<p>
一方、貪りにとらわれ、常に今与えられていない幸福ばかりに目をやり、常に不満を抱き、それを得ようと貪るとともに、自分より幸福に見える人たちに嫉妬を抱き、奪い合いをするならば、皆が不幸になる輪が広がっていく。これは、市場原理主義の競争が激しさを増し、勝ち組・負け組の問題や、精神病・異常犯罪が増える現代社会の一側面ではないか。
</p>
<p>
<br />
<strong>●貪りの捨断と布施の実践＝感謝と分かち合い</strong>
</p>
<p>
最後に、私たち自身がすでに得ている幸福について、仏教的な教義に基づいて考えてみよう。まず、私たちは、他の生き物ではなく、「人間」に生まれた。これは単純に数学的な確率で見ると非常にわずかなことである。
</p>
<p>
次に、「日本」という豊かなだけでなく、他の先進国に比べても安全で長寿の国に生まれたこと。これは６６億のうち１億２千万だから、６０分の１くらいの確率だ。
</p>
<p>
さらに、その日本の中で、貪りと奪い合いに明け暮れるのではなく、感謝と分かち合いを含めた、「仏陀の法」による幸福に対して、縁があって、それを学び、実践する機会に恵まれているのである。
</p>
<p>
これらの幸福に気付いて、自分よりはるかに不幸な多くの生き物や人々の苦しみ・不幸を考えて、自分たちの幸福の大きさをよくかみしめるならば、日常感じている自分たちの苦しみ・不幸は、自分たちの過剰な欲望＝貪りが作り出した幻影のようなものであり、「本当の苦しみ・不幸ではない」と感じられるようになるだろう。
</p>
<p>
そして、それが進めば、自分たちよりもはるかに不幸な人たちに対して、自分たちが非常に冷たかったこと、慈悲がなかったことに気付く。また、自分たちの幸福が、場合によっては、他の幸福の上に成り立っている一面にも気付く。繰り返すが、煩悩的な欲求の追求には、奪い合いの構図があって、自分の幸福の裏側には、他人の不幸があることが多い。
</p>
<p>
例えば、日本を含めた先進国の物質的な繁栄は、その一面において途上国の貧困の上に成り立っているのだ。例えば、世界の食糧が有限である中で、今現在の途上国の食糧不足は、先進国や新興国の飽食に一因があることは、昨今マスメディアでも、よく指摘されるようになった。
</p>
<p>
これに気付いて、自分たちよりはるかに不幸な人たちと、自分たちの幸福を分かち合うことになれば、すなわち、仏教的に言えば、「布施の実践」がなされれば、多くの人が幸福になるだろう。これは、「貪りの捨断」と「布施の実践」であり、言い換えれば、「感謝と分かち合い」の実践である。
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【代表メッセージ】感謝と分かち合い２</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/message/cat243/0052.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/message//26.1281</id>
   
   <published>2008-12-07T12:05:30Z</published>
   <updated>2008-12-09T05:07:49Z</updated>
   
   <summary> 「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="会員向けメッセージ・特別公開" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/message/">
      <![CDATA[<p>
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</p>
<p>
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</p>
----------------------------------------------------------<strong><br />
<br />
<p>
●感謝と分かち合いと、不満と奪い合い</strong><br />
</p>
<p>
前回に引き続き、感謝と分かち合いについて述べたい。
</p>
<p>
「感謝と分かち合い」とは、すでに与えられている幸福で「足る」を知り、それに「感謝」し、その自分の幸福を他と「分かち合う」ことである。その背景には、欲望には際限がなく、足るを知らずに、もっともっと求めて貪ったとしても、幸福にならないことを悟った智恵がある。
</p>
<p>
その反対は、貪りに基づく「不満と奪い合い」の実践である。それは、現在の状態に不満を抱き、まだ与えられていないものを得ようと欲求して、例えば、お金・物、
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/birusora-thumb-250x187.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="250" height="187" align="right" />
プライド、名誉、地位といった外的な条件を良くしようとして、それが際限なく肥大化していくプロセスである。
</p>
<p>
これは、仏教的な表現では、「貪り」であるが、この貪りにとらわれてしまうと、多くの場合、それがうまくコン トロールできなくなって、欲求が肥大化し、他の人との「奪い合い」になる。これは、煩悩的な欲求の対象は有限であって、それを求めることは、本質的には、他との奪い合いの構図を形成してしまうからだ。
</p>
]]>
      <![CDATA[<p>
現在、食料・エネルギー・環境などにおいて、深刻な地球規模の問題を発生させているのも、人類の「消費主義」という貪りと奪い合いであり、へたをすれば、将来は国家間の戦争という激しい闘争・奪い合いに至りかねない。<br />
<br />
</p>
<p>
<strong>●良い意味での欲求も、行き過ぎは害悪となる</strong><br />
<br />
なお、人々を幸福にする向上欲求、改善欲求というものも、貪りではないか、という考え方がある。これは、ある意味ではそうであって、貪りというのは、絶対悪ではない、ということもできる。例えば、私は、上記の深刻な地球規模の問題を作り出した主たる原因である、現代の資本主義文明を全面的に否定するつもりはまったくない。それによって、人類が受けた恩恵は多大である。
</p>
<p>
しかし、すでに誰の目にも明らかであるが、その「貪り」という心の働きの欠点は、それがコントロールできず、際限がなくなり、いわば「貪りの中毒」になってしまい、本人を逆に支配し、破滅に至らせる可能性があることだ。すなわち、人の幸福のための手段であった欲求・貪りなのに、「目的」と「手段」が入れ替わり、人が欲求・貪りの奴隷になってしまうのである。これでは逆の結果になりかねない。
</p>
<p>
よって、修行や衆生済度を含めて、良い意味での向上を求める欲求も、その欲求にとらわれ過ぎると、自分の思う通りにいかないがゆえの、焦りや怒りが生じてしまう。これは空回りを生じさせたり、状況を悪化させたり、悪くすると、大きな問題を起こす。
</p>
<p>
例えば、スポーツや武術でも、適度に力を抜くことや、「勝つと思うな、思えば負けよ」という無我・無心の境地が説かれるのもそのせいである。また、修行でも、身体操作を使う霊的な修行は急ぎすぎると危険である。
</p>
<p>
善を実現する衆生済度・世直し・社会改革といった運動も、焦るあまりに、本人たちは「善」を目指しているつもりなのに、結果的には「悪」になってしまって、自滅するケースもよくある。善を欲求する場合であっても、何ごとも「行き過ぎ」は、害悪となり、冷静に流れを見極めることが重要であり、欲求の奴隷になってはならない。
</p>
<p>
そのためにも、「感謝と分かち合い」は重要である。すなわち、現状が完璧ではなくても、与えられている良い部分・幸福があるはずだから、それに感謝する心のゆとりを持つことが重要である。
</p>
<p>
そして、感謝に基づく分かち合いにおいて、この感謝の精神を多くの人と分かち合っていくことである。これが、過剰な貪り・欲求・不満・奪い合いを回避することになる。
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【代表メッセージ】感謝と分かち合い</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/message/cat243/0051.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/message//26.1280</id>
   
   <published>2008-12-07T10:05:28Z</published>
   <updated>2008-12-09T05:12:26Z</updated>
   
   <summary> 「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上...</summary>
   <author>
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   </author>
         <category term="会員向けメッセージ・特別公開" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/message/">
      <![CDATA[<p>
「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上祐史浩（ひかりの輪代表）のメッセージを、公式サイトにも掲載することになりました。
ご紹介するメッセージが、皆さまの日々の生活に少しでもお役に立つことができればと願っています。
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</p>
<p>
お問い合わせは<a href="mailto:mail@hikarinowa.net">mail@hikarinowa.net</a>まで。
</p>
----------------------------------------------------------<br />
<br />
<p>
仏陀の教えを考え直してみると、貪り・怒り・無智を死滅して、「智恵と慈悲」を深めることにその本質があるということがわかる。そして、そのための具体的な実践としては、どうしても「感謝と分かち合い」というものが出てくると思う。
</p>
<p>
貪りとその裏にある怒りを捨断するということは、「足る」を知って、「もっと、もっと」という欲望が満たされない ことによる不満・怒りを抑えることだから、そのためには、「与えられているものの大きさを理解し、なるべく感謝する」という実践がとても有効になると思う。
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/himawarinooka-thumb-250x187.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="250" height="187" align="right" />
そして、それが進んでくれば、「自分のために、もっと、もっと」という気持ちが薄れて、「他のために、自分の持っているものを分かち合う」ということが出てくると思う。これが仏教が説く布施の実践であろう。<br />
<br />
現代社会は、不満と奪い合いの傾向が強まっているように見える。個々人の自己愛や消費の欲望は肥大化し、社会システム全体としても、個々人の精神状態にしても、行き詰まりつつあるように見える。
</p>
<p>
それを超えるための教えは、この「感謝と分かち合い」の実践ではないだろうか。不満と奪い合いは、貪り・怒り・無智の三毒に基づいたもので、感謝と分かち合いは、言い換えれば、「智恵と慈悲」の実践である。
</p>
<p>
感謝と分かち合い。単純ではあるが、非常に本質的な教えではないかと思う。個人としても、団体としても、日常の幸福のためにも、悟りの境地に近づくためにも、今後できるだけ実践していきたいと思う。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【代表メッセージ】王侯貴族の日本人――今の幸福に気づいて分かち合う</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/message/cat243/0050.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2008:/message//26.1278</id>
   
   <published>2008-12-03T01:30:01Z</published>
   <updated>2008-12-03T09:40:34Z</updated>
   
   <summary> （2008年06月29日会員向けメッセージより転載） ●日本人は不幸か幸福か-...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="会員向けメッセージ・特別公開" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/message/">
      <![CDATA[<p>
<br />
（2008年06月29日会員向けメッセージより転載）<br />
<br />
<strong>●日本人は不幸か幸福か--比較による感覚</strong>
</p>
<p>
毎日、新聞で秋葉原などの最近の犯罪などを見ると、日本の国の中では、多くの人が自分が不幸であると感じているように見える。「若年層の派遣労働」や「ワーキングプア」の問題、市場原理主義が強化された社会での「負け組」、毎年７０００人にもおよぶ「経済苦を動機とした自殺」など。
</p>
<p>
しかし日本の中で、自分は貧しいと思っている人でも、途上国の人たちから見ると「王侯貴族」に見えるという話を聞いた。それは確かなことだろう。日本の平均年収は数万ドルにおよび、途上国は、その十分の一から、場合によっては百分の一に近いところさえある。
</p>
<p>
「結局、人は地球全体を見て、自分が幸福か不幸か、ないし裕福か貧しいかを認識するのではなく、近いしい他人と比較してそれを判断するものだ」とある社会学者が述べていたが、それは事実であろう。実際には、近い他人との比較に加え、例えば以前の自分と今の自分の比較などもある。前より豊かになったら「幸福」だし、落ちぶれたら「不幸」と感じるのだ。
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/ani07-thumb-200x133.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="200" height="133" align="right" />
これは、「幸福・不幸」「裕福・貧困」の絶対的な基準があるのではなく、すべては、相対的なものであるということである。すなわち「幸福・不幸」は、人の心が比較によって作り出す主観的なものであり、客観的なものではなく、その意味で実体がない。
</p>
]]>
      <![CDATA[<p>
この「実体がない」という言葉は、仏教では「空」と言われており、「一種の幻影のようなもの」という意味がある。「他と独立して存在する実体がない」という意味で、常に、他との相互関係（例えば上記のように比較）の中でしか存在しないということだ。<br />
<br />
</p>
<strong>●日本人は不幸か幸福か--地球生命圏全体から見て</strong><br />
<p>
では、日本人が幸福か不幸かについて、自分の近くの日本人と比較するのではなく、地球生命圏全体から、客観的に見てみるとどうなるだろうか。
</p>
<p>
地球生命圏には無数の生き物が存在している。一人の足の下には百万の生物がいるともいわれる。その中で、私たちは６６億しかいない「人間」に生まれている。動物に生まれれば、家もなく、雨ざらしで、毎日の食べ物も保障されない。
</p>
<p>
その６６億の中で、私たちは、十数億人しかいない「先進国」に生まれている。途上国には、動物と同じように、家のない人もおり、饑餓や貧困、感染症や戦争による死の危険に常に苦しむ人たちが非常に多い。
</p>
<p>
さらに、私たち日本人は、その先進国の人たちの中で、１億２０００万人の「日本人」の一人として生まれている。この国は、世界最高水準の豊かさに加えて、他の先進国にはない幸福がある。それは、「世界一の寿命（と優れた医療技術）」、そして、主要国では突出した「安全性・治安の良さ（犯罪率の低さ）」である。
</p>
<p>
昨今の無差別殺人などの印象があるので、治安の良さも色あせたように見えるが、まだまだ人種差別などがある欧米各国に比べると、日本は統一のとれた民族性と優秀な警察機構などのおかげで、犯罪率は非常に低い。
</p>
<p>
この日本に生まれる確率は、全人類の中でも６６分の１の「幸運」、地球上の全生命の中では、まさに限りなく「ゼロ」に近い、「奇跡」に近い確率である。
</p>
<p>
その意味で、日本人は地球生命圏の生態系の「最上位・頂点」に位置し、その中のまさに「王侯貴族」であるというのが客観的な事実である。さらに、この文章を読んでいる多くの人は、「五体満足」であることを含めて、日本の中でも恵まれた人たちに入るだろう。<br />
<br />
</p>
<p>
<strong>●日本人のすべてが、幸福・感謝を培う道<br />
</strong><br />
こうして、客観的には、日本人とは、「宝くじに当たったような人生」を得ているわけであるが、１億２０００万人の中で、この奇跡的な幸運に対して、喜びと感謝に満ちあふれた毎日を送っている人はほとんど見当たらない。
</p>
<p>
先進国の搾取などに苦しむ途上国の人たちなどから見れば、本来は「自分たちだけがこんなに幸福でいいのだろうか」と申し訳なく思う面もあってしかるべきだろうが、この国の中では、「自分が不幸である」と感じている人が相当にいる。
</p>
<p>
最近は「負け組」とか「ワーキングプア」というが、それは「日本王侯貴族」の間での話であり、途上国の人たちから見ると、「王族たちの内輪もめ」のたぐいに映るだろう。
</p>
<p>
もちろん私は、こういった日本国内の社会問題を軽んじるつもりはない。市場原理主義による行きすぎた貧富の格差は、適切に是正されなければならないと思う。お金持ちの味方をするつもりなどない。
</p>
<p>
<img src="/mt/uploads_files/images/kouwa/2238021554.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="165" height="132" align="left" />
しかし、今ここで指摘したいことは、ご理解いただけると思うが、そういった「次元」の問題ではない。国内での貧富の格差にかかわらず、日本人のすべてが意識すべき、地球の中での自分たちの位置づけである。それは、日本人のすべてが、人によらず、自分の幸福を感じ、感謝という明るい心を培う道である。
</p>
<p>
一方、貪り・欲望には際限がない。自分より不幸な無数の人たちを見るのではなく、自分より幸福な人たちを見れば、いつまでたっても「幸福」とは感じない。地球生命圏の頂点に立っていても、自分より上ばかりを見れば、自分の「幸福」には一生気づかない。<br />
これは実に恐ろしいことだ。心の病が作り出す「不幸」としかいいようがない。
</p>
<p>
そして、何かを得れば「もっと欲しく」なり、また「それを求める」という無限のサイクルにはまる。これを抜け出すのは、麻薬から抜け出すようなもので大変である。求めても得られない場合や、得ていたものを失うと大きな苦しみを感じる。<br />
特に、何かを得れば、得るまではなしでもいられたのに、得たとたんに生じる執着により、なしではいられなくなるという不思議なことが起こる。
</p>
<p>
日本人が不幸を感じる場合には、こういった、際限のない貪りの中で、前に言ったように、近しい他との比較や、以前の自分との比較によって、そう感じているだけなのである。<br />
これはまさに、貪り・欲望というものに翻弄されている状態ではないだろうか。
</p>
<p>
２１世紀は、「地球規模の問題」に覆われている。資源・エネルギー・環境の問題。先進国を中心とした貪り、過剰な消費は、途上国の人々や他の生物に対して、非常に強い圧迫になっている。
</p>
<p>
よって、いまこそ日本人は、たぐいまれな豊かさ・幸福の元に生まれた事実を自覚し、自分たちの地球の中での真実の位置づけに気づいて、過剰な欲望の追求＝貪りを静めて、地球の無数の人たち、無数の生き物との「分かち合い」の実践に入るべきではないだろうか。
</p>
<p>
具体的な実践のステップを仏教的な言葉で表現すると
</p>
<p>
１．正観・正見解（正しい観察を行う、正しい見解を持つこと）<br />
地球における自分の存在をありのままに見る実践をなし、今の自分の幸福・幸運に気づくこと。
</p>
<p>
２．感謝・ザンゲ（反省）・知足・分かち合い<br />
今の自分の幸福に対する感謝と、その幸福の裏側にある他の生き物・人々に与えている苦しみを反省（ザンゲ）し、貪りを滅して足るを知り、分かち合いの実践をすること。
</p>
<p>
ということになるだろう。
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【仏教講義】２００９年　ＧＷセミナー特別教本　内観、唯識、縁起のエッセンス</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/lecturetext/21/0011.html" />
   <id>tag:www.joyus.jp,2010:/lecturetext//31.2043</id>
   
   <published>2010-12-31T05:59:08Z</published>
   <updated>2011-03-03T11:44:52Z</updated>
   
   <summary> ２００９年のＧＷセミナーで使用された特別教本です。 内観と仏教修行についてや、...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="21世紀のための仏教講義" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/lecturetext/">
      <![CDATA[<div align="center">
<div align="left">
<img src="/mt/uploads_files/images/2011kyouzai/2009gw_naikan_yuisiki_engi_hyousi.jpg.jpg" alt=" " hspace="10" vspace="10" width="150" height="212" align="left" />
<br />
<br />
<br />
２００９年のＧＷセミナーで使用された特別教本です。<br />
内観と仏教修行についてや、現代社会の親子関係の問題など、感謝と恩返しの思想が説かれてい
ます。<br />
<br />
<br />
<br />
</div>
<div align="left">
&nbsp;
</div>
<div align="left">
&nbsp;
</div>
<div align="left">
<br />
<br />
<br />
<div align="center">
&nbsp;
-----------------------------------------------------------
</div>
</div>
<br />
<strong>２００９年　ひかりの輪<br />
ＧＷセミナー特別教本<br />
内観、唯識、縁起のエッセンス<br />
</strong>
</div>
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１　ひかりの輪の内観：仏教と融合した新しい内観修行の思想<br />
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<strong>（１）仏教と内観の一致点</strong><br />
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<strong>１．自分が多くの人に支えられていることや、多くの幸福を与えられていることを認識し、感謝すること</strong><br />
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&nbsp; 仏教の教義と内観が一致するところは、日頃認識することが少ないが、実際には、自分が、肉親・友人知人をはじめとして、多くの人々に支えられて生きていること、多くの幸福をすでに与えられていることを理解することである。これは、仏教の教義においては、縁起の法、唯識の依他起性（えたきしょう）の教義に関係する。<br />
<br />
現代社会に生きると、恒常的に欲求不満を作り出す構造を持つ資本主義社会の中で、「もっともっと」と求める（＝貪る）心が強くなりがちで、すでに与えられているものの大きさを認識し、それに感謝することが非常に乏しい。こうして、感謝・満足よりも、貪り・不満が強くなってしまうのである。<br />
<br />
]]>
      <![CDATA[仏教的に言えば、これは、修行上の重要な課題である貪りの止滅である。それは生きていく上で必要以上のものを貪らず、他と分かち合う（他に施す）ことである。そして、この貪りを止滅するためには、まず、貪りに際限がなく、執着をもたらすがゆえに、苦しみであることを理解する必要がある。<br />
<br />
まず、貪りに際限がない理由は、人が感じる幸福・不幸が、比較によって生じる幻影であるからだ。例えば、今まで１０万円の給料だった人が、給料が２０万に上がると、上がった直後は喜びを感じるが、それに慣れてしまうと、それが当然のことになり、喜びがなくなり、もっともっとと求める心が生じる。再び喜びを感じようとして、もっと高い給料を欲するのであるが、その欲求が満たせないと苦を感じる。<br />
<br />
さらに、給料が元の１０万に戻ると、大きな苦しみを感じる。最初は１０万円で足りていたのに、得たものに対する執着が生じるがために、失う時には、苦しみが生じるのである。これは、四苦八苦の教えに説かれているものである。<br />
<br />
こうして、貪りは際限がなく、執着をもたらすがゆえに、苦しみをもたらす。このことを理解したならば、もっともっとと求めるのではなく、すでに与えられているものに感謝して貪りを止滅することが、真の幸福の道であることがわかる。<br />
<br />
さらに付け加えると、単に与えられていることへの感謝と貪りの止滅だけではなく、自分より恵まれない他者と分かち合う慈悲の実践によって、貪りはさらに止滅していく。<br />
<br />
そして、内観によって、いかに自分が支えられ、いかに多くの幸福を与えられてきたかについて、客観的に自分自身を調べて、それに感謝することは、貪りを和らげ、慈悲・利他の心を培うために、非常に有効な修行である。<br />
<br />
<br />
<strong>２．感謝に基づいて恩返しの心構えを持つこと</strong><br />
<br />
感謝の実践が深まれば、それに伴い自ずと生じてくることが、恩返しの実践である。自分が支えられ、多くを与えられていることを認識すれば、自然と、自分も同じように他を支えて、与えることを考えるようになる。<br />
<br />
ところが、人は、親については、支えてもらう、養ってもらうことを当然としているために、自分が親にして返したことについて考えてみると、驚くほど少ないことに気づく場合が多い。これは、親と同様に、自分が依存すること、甘えることを当然としている対象に対しても生じやすい。<br />
<br />
よって、内観によって、親や親に類する依存の対象について、何をして返したかについて、客観的に自分自身を調べることは有効である。<br />
<br />
また、仏教では、慈悲・利他の実践が強調されるが、その実践が、他を見下した傲慢な心の働きによって行われる場合がある。この場合、物質的な意味では、他に施しをしたとしても、慢心の貪りを生じさせている。<br />
<br />
これを防ぐためにも、自分は様々な意味で他に支えられてきたのに、他にして返したことが乏しいことを自覚することが有効である。こうすることで、自分が偉いから他を利するというのではなく、他に多くを与えられてきたことに対する恩返しとして、他を利するという実践をすることができるからである。<br />
<br />
そして、この実践は、内観によって、自分が他に迷惑をかけたことについて、客観的に調べることによってさらに深まっていく。感謝が少なく、不満が多い場合は、知らず知らずに、自己中心・身勝手な心によって、他に迷惑をかけているものである。<br />
<br />
また、他に文字通り迷惑をかけていなくとも、他から与えられていること自体が、それは、他がなんらかの労苦を背負っているわけであり、他に迷惑をかけていると解釈することもできる。仏教の教義では、ある人の（煩悩的な）幸福は、多くの場合、その裏で他の苦しみが伴う場合が多いと説いている。<br />
<br />
こうして、自分が他にかけた迷惑を認識すると、傲慢な気持ちで慈悲・利他の実践をすることはおろか、恩返しとしてそうすることさえも超えて、いわゆる贖罪＝悪業の清算として善業を積ませていただくという極めて謙虚な心構えが実現する。<br />
<br />
これは、非常に仏教的な生き方の実践となる。仏教においては、慈悲・利他の実践とか、善業・功徳を積む実践とは、それまでに自己中心的な心の働きによって積み重ねてきた悪業を清算して、自我執着を弱め、悟りのための土台を作る、自己の浄化の実践にほかならない。<br />
<br />
<br />
<strong>３．三つのレベルの内観：仏教と内観の融合</strong><br />
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ひかりの輪では、一般の内観をさらに発展させて、三つのレベルの内観のステージがあると考えている。<br />
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まず、第一のレベルの内観が、通常の内観であり、肉親や友人・知人について、してもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたことを調べて、彼らに対する感謝と恩返しの実践を深めることである。<br />
<br />
しかし、仏教的な悟りを求める場合には、このレベルの感謝と恩返しを超えて、第二のレベルとして、人類社会全体への感謝と恩返しの実践に入る必要がある。<br />
<br />
私たちは、日々生活する上で、友人知人に限らず、無数の人々に支えられている。特に現代社会では、分業が進んでいるから、無数の人が互いに支え合って生活しており、自分や知人の力だけでは、１日として生活することはできない。<br />
<br />
自分の衣食住から通勤・通学、そして修行実践などを支えている存在は、単に日本の１億人にとどまることなく、遠く外国から輸入される様々な食料や製品、物資や資源・エネルギーから、そして日本の輸出品を買う多数の外国、そして、モノに限らず、世界中を結ぶ金融・情報のネットワークに至るまで、経済のグローバル化が進んだ今現在は、地球の６０億全体が相互に支え合って生きていると言っても過言ではない。<br />
<br />
大昔は、東京がなんらかの原因で壊滅しても、日本の他の地域の人達は生活に困らなかっただろうが、今は東京の壊滅は日本全体の崩壊に繋がるだろうし、実際にアメリカの金融危機は、世界中を同時に大不況に陥れるほどに、人類社会の相互依存が深まっているのである。まさに、人類社会全体が相互依存の状態、相互に縁起・依他起性の状態である。<br />
しかしながら、こうして人類社会全体に支えられているにもかかわらず、日本をはじめとする先進国においても、自国の利益の追求＝貪りが強まっているために、人類社会全体に対する感謝の気持ちや、それに基づく恩返しは乏しい状態である。それは、１０億ほどの先進国が世界の富や財の多くを独占し、飽食にふける中で、それと同じほどの途上国が貧困と飢餓・病苦などに苦しんでいることからも明白である。<br />
<br />
さらに、仏教的な悟りを求めるためには、第三のレベルの内観として、全ての生き物、全ての衆生、万物への感謝と恩返しの実践が必要である。私たち人間は、人間社会だけで生きることができているのではなく、地球の生態系の中で、多くの生き物の犠牲の上に生きている。<br />
<br />
それは、生き物に限らず、空気・水を含めた地球の生命圏全体、そして、遠くは太陽の光も必要不可欠であり、それを支える太陽系、そして太陽系の支える銀河系・宇宙の全体に支えられて生きている。<br />
<br />
こうした大自然・大宇宙・万物に支えられて生きているという認識は、仏教が説く縁起の法や唯識の依他起性の教えや、大宇宙を、衆生を育む仏陀の母胎であると説く胎蔵界の思想にも通じるものである。<br />
<br />
この認識が深まると、自分というものが、宇宙・万物・全体から生み出され、全体に支えられ、全体の一部として、全体と一体になって存在しており、自然の与える寿命が来たならば死んで、自分の体は他の生き物の体になっていく、といった認識が生じる。<br />
<br />
これによって、自我に対する執着が弱まり、自と他の区別を超えて、無限の全体こそが本当の自分ではないか、といった認識も生じ、万物への愛・慈悲が深まっていく。こうした自我執着の弱まりと慈悲の増大こそが、まさに仏教の悟りのプロセスである。<br />
<br />
そして、全ての衆生・万物への感謝に基づいて、万物に恩返しようとする心の働きは、大乗仏教で最も重要な心構えである菩提心と関係してくる。菩提心とは、全ての衆生の幸福のために、仏陀の境地を求めようとする菩薩の心である。<br />
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<strong>４．内観と聖地修行の融合</strong><br />
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以上のように、内観を発展させると、大宇宙・大自然への感謝と一体感に行き着くが、これを体験的に培うのが、聖地自然修行であり、発展的な内観の修行と組み合わせることが望ましい。<br />
<br />
発展的な内観によって、理性を使って、自己存在の土台・根源として、大自然・大宇宙をとらえなおした上で、感謝と一体感をもって、大自然と向き合うならば、大自然と融合する仏教的な悟りの意識状態に近づきやすいということができる。<br />
<br />
現代社会に生きる人は、実際には大宇宙・大自然に支えられ、その一部として生きているにもかかわらず、そういった自覚がなく、自分と自然を切り離して区別し、自分だけの力で生きているかような錯覚をなしている。<br />
<br />
その結果として、他人や他の生き物・自然を害するような、自己中心的な生き方をして、地球環境問題まで起こしてしまっている現状がある。よって、仏教的な悟りを得るためには、こういった、自と他を区別し、自分と大自然を区別する心の働きを浄化し、大自然の一部としての自分を再認識することが望ましい。<br />
<br />
そして、私の体験上は、例えば、上高地などの純粋な自然・聖地は、現代社会の人々が陥りやすい、そういった自己利益の貪りや、貪りに基づく争いの心が静まって、純粋な自然が有している、他との調和・慈愛の心を培う体験をしやすいと思う。<br />
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<strong>（２）内観と親子関係の問題</strong><br />
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<strong>１．オウム真理教と親子問題</strong><br />
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ひかりの輪においては、昨年、オウム真理教事件の総括を行い、その中で、元教祖や弟子たちの親子関係に関する問題が、オウムの問題の背景にあったのではないかという分析をなした。さらに、今年に入って、親子関係を含めた内観の修行を行ない、スタッフ・会員が抱える親子関係の問題が、より明確になってきたように思う。<br />
<br />
そもそも、オウム真理教の麻原元教祖は、その幼少期に親との関係において、不遇を経験したと思われる。ジャーナリストが幼少期の元教祖を取材した内容を出版しているが、そこには、全盲ではないのに、無理に全寮制の盲学校に転校させられた不満、学校の友達と違って親が休日に会いに来ることがなかった事実、親が自分に対する国の交付金を生活費に回そうとしたことへの怒り、元教祖が師事した宗教団体の代表に漏らした親への憎しみなどの事実が報告されている。<br />
<br />
実際に、オウム真理教は、聖母（聖父）といった宗教的な概念がない。釈迦を生んだマハーマーヤ夫人や、イエスを生んだ聖母マリアといったような開祖の親を尊重する教義がない。実際に、マハーマーヤという宗教名は、麻原元教祖の妻（松本知子氏）に一時期与えられるなどしたが、元教祖を釈迦とダブらせるのならば、釈迦の母の名前は、元教祖の母に与え、知子氏には最初から妻の名前を与えただろう。<br />
<br />
また、１９９０年頃、元教祖は両親に会い、「父親は地獄、母親は餓鬼の世界に転生するから、父親を地獄ではなく餓鬼に、母親を餓鬼ではなく動物に転生するようにポアしておいた。今生はもう会うことはないだろう」と私に語ったことがあった。<br />
<br />
オウム真理教において、地獄・餓鬼・動物の三悪趣に転生する魂は、悪業多き魂とされている。元教祖が解釈したヨハネ黙示録では、キリスト（＝元教祖）に従い、キリスト千年王国に入る、善業多き魂である聖徒（オウム真理教の信者）と、キリストと対立して地獄に堕ちる悪業多き魂が存在するが、元教祖の両親は、善業多き魂には含まれないことになる。<br />
<br />
普通の宗教では、救世主を生んだ親は当然の如く尊重されるし、仏教教義でも、出家者を生んだ親には大きな功徳が返るという。オウム真理教でも、元教祖の子供を生んだ女性達は大きな功徳を積んだとされた。これらの事実からしても、元教祖自身を生んだ両親が、三悪趣に落ちるという位置づけであるのは特別に思われる。そこには、元教祖の両親に対する特定の思いが現れているとは考えられないだろうか。<br />
<br />
そして、オウム真理教の教義の大きな特徴であり、最初の社会との対立の主因となったのが、苛烈な出家制度であった。（少なくとも成就者になるまで）親と子の連絡を禁じたこともあって、出家した子供の親による激しい反対活動が起こり、それがオウム真理教の一連の犯罪の原点ともいわれる坂本弁護士事件にも繋がった。坂本氏は、出家した子供の親達のために、教団を批判する活動をしたからである。<br />
<br />
そして、オウム真理教が大量の出家者を得たということは、元教祖だけの人格によるものではなく、その信者となって出家した者においても、その全てではないが、元教祖と同様とまではいかなくても、親に対する感謝や尊重ではなく、否定的な感情があったのではないかと思われる。これは私が知る多くの出家者がそうだからである。<br />
<br />
また、教団と親の対立は、そのまま、教団と社会全体との対立に繋がるものであった。親を含めた社会は悪業多き魂の集団であり、それを脱却してキリストたる元教祖に帰依し従う出家者こそが聖徒であり、救われるとされたからである。<br />
<br />
<br />
<strong>２．現代社会全体に広がる親子問題</strong><br />
<br />
しかし、私の経験上、この親子関係の問題は、オウム真理教の信者だけの問題ではなく、日本社会全体を覆っている問題に違いないと思われる。むしろ、日本社会全体に広がる親子関係の問題の一部をオウム真理教の信者があぶり出したにすぎないだろう。<br />
<br />
また、私のロシアに関する体験からすると、日本だけではなく、現代の人類社会全体に広がっている可能性もある。彼らの多くは、親子関係が昔よりも悪化していると証言しているからである。<br />
<br />
もちろん、統計を取って、昔と比較したのではないから、昔と比べて多いとは断言できない。しかし、親子の人間関係に問題がある人の割合は非常に多いように思える。そして、子供側に親に対する尊敬・感謝が乏しいと思われる。<br />
それを裏付ける１つのデータとして、読売新聞が昨年末に実施した全国世論調査の結果<br />
によると、親を尊敬していない子は５６％、一方、尊敬している子は３７％となっているデータがある。半数以上が尊敬していないのだから、親を尊敬しない子の方が普通になっているのである。<br />
<br />
特に、日本ではこの傾向が顕著なようだ。戦後に価値観が崩壊し、天皇や国家の権威とともに、親の権威が崩壊したことも一因かもしれない。財団法人日本青少年研究所による日・米・中・韓で中・高校生を対象にしたアンケート調査（２００８年９～１０月）によると、<br />
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①「親の意見に従う」と回答した子どもは、日６５．５％、米８３．６％、中８８．６％、韓８３．３％で、日本の低さが際立ち、<br />
②「親によく反抗する」は、日５７．０％、米２６．２％、中１１．０％、韓４４．９％で、逆に日本が一番高くなっており、<br />
③「親はよく私を叱る」は、日６６．５％、米３６．３％、中３３．５％、韓３４．３％で、日本の子どもはよく保護者から叱られていると認識されており、<br />
④「親はよく私をほめたり励ましたりする」では、日５７．８％、米８２．９％、中７３．４％、韓７４．７％で、４カ国中で最低となっており、<br />
⑤「親を尊敬している」は、日６４．１％、米８９．８％、中９７．０％、　韓８４．２％で日本が最も低く、<br />
⑥「親は私を大切にしてくれる」も、日８３．７％、米９２．４％、中９５．５％、韓９１．９％と日本だけが９割を下回っており、<br />
⑦「自分はダメな人間だと思う」と回答した中学生の割合は、日５６．０％、米１４．２％、中１１．１％、韓４１．７％で、日本は５割を超えている。<br />
<br />
歴史や文化が違えば、子育てや親子関係の在り方も異なると言え、以上の調査では、日本の子どもは、親を尊敬できず、自分自身も尊敬できないという結果が出ている。<br />
<br />
<br />
<strong>３．心理学や内観などを通した親子問題の分析</strong><br />
<br />
私が、親子関係について、心理学的な分析や内観などを通した経験からして、問題となる親子関係のパターンには、以下のようなものがあると思う。もちろん、これが全てではなく、一部であろうが、最近の指導の体験上、印象深かったものをまとめてみた。<br />
<br />
１．親への尊敬・感謝が乏しく、他に絶対的な存在を求め、それに過剰に依存・服従する。<br />
２．親への尊敬・感謝が乏しく、他にも誰も尊敬・尊重せずに、反抗ばかりする。<br />
３．親に過剰に依存し（絶対視し）、自分に劣等感、自己嫌悪を抱く。<br />
４．親への過剰な依存・絶対視は止めたが、逆に親が自分を不幸にしたと恨みを抱く。<br />
５．親に対する期待が十分に満たされずに、常に不満・怒りを持つ。<br />
<br />
まず、１については、オウム信者に多くみられるパターンだと思う。何かしらの理由で、親への尊敬、感謝がなく、恨みはなくても、多かれ少なかれ、親に失望している。<br />
<br />
この背景としては、心理学によると、子供は、誰しも幼少の時には、自分が絶対的な存在、特別な存在、世界の中心でありたいといった、誇大妄想的な願望があり（専門用語では誇大自己とも言う）、その願望を満たしてくれる存在として親に深く依存をする、という説がある。<br />
<br />
そして、この願望は、幼少の時に、親がそれを適度に満たしてあげて、成長するにつれて、自分も親も絶対・特別ではないという現実を徐々に受け入れさせ、それを卒業させるのが、子供の健全な発達には良いというのが心理学的な見解のようである。<br />
<br />
幼児であれば、自己中心的な世界観で、あれこれ親に要求しても、それは昔からある自然なものであるし、そうした欲求も、親との狭い世界の中であれば、充足させることが可能である（例えば、子供がアニメのヒーローや、キリストになった、という遊びをするのに、親が付き合うなど）。そして、親に絶対的に依存するのも、自分では何もできない子供にとっては、生きるためにも自然なことであろう。<br />
<br />
しかしながら、心理学的な見解では、幼少の時に、親にこうした願望を満たしてもらえないケースにおいて、大人になっても、誇大妄想的な願望を引きずって、現実的な向上欲求ではなく、誇大妄想的な傾向に陥る場合があるという（心理学的には誇大自己症候群と呼ばれる）。<br />
<br />
そして、親の代わりに、自分が誇大妄想的な願望を満たすことができると思う対象を求めて、誰かがそうだと思いこめば（すなわち盲信するならば）、その対象に絶対的に服従し、そうでなければ、誰も尊重せずに反抗する傾向を示すという。<br />
<br />
こうして反抗するのが、２のケースである。その理由は、その子供は、自分の絶対者願望を満たしてくれる存在のみに、価値を見いだしているからである。<br />
<br />
もし、誇大妄想的な願望ではなくて、現実的な向上心がある場合は、対象が絶対ではなくとも、重要なことを学ぶことができる者ならば十分に尊重できるし、親についても、完璧ではなくとも、その良い点を認めて、一定の感謝・尊敬ができる。<br />
<br />
しかし、誇大妄想的な願望が強いと、そういった健全な学習の姿勢や、他者への尊敬・感謝を持つことは難しくなるというのである。<br />
<br />
また、現代社会では、様々なメディアの情報が、こうした誇大妄想的な欲求を増大させているという問題がある。例えば、アニメ・漫画・ＳＦ映画のフィクションの世界もそうだし、バランスを欠いた超能力・神秘主義や、破滅予言・陰謀論などを扱う精神世界の雑誌や書籍もそうであろう。最近は、パソコンゲームやインターネットでも、そういった大量の妄想的なフィクションの情報が増えている。<br />
<br />
こういった情報が氾濫する現代社会の子供・若者は、場合によっては大人も、妄想的な世界観に陥りやすくなっていると思われる。<br />
<br />
そして、オウム真理教の教義には、こうした妄想的な概念が多く盛り込まれていた。絶対神の化身であり、最終解脱者である教祖がいて、教祖に帰依すれば、自分が解脱者・超能力者になり、ユダヤ・フリーメーソンを中心とした悪魔が支配する社会との戦いに勝利して、２０世紀末にハルマゲドンで滅ぶ世界を生き残って、キリスト千年王国に入ることができる選ばれた存在になる、といった教義である。<br />
<br />
世紀末の予言が外れた今から思うと、これらの教義は妄想的と思えるが、当時信者となった者達はなぜ信じたのであろうか。自分のケースでもあるが、それは、教祖がキリストであるという確実な根拠を得たからではなく、オウム真理教に巡り会う前から、そもそもが、そういった世界に対する強い欲求・願望があったからではないかと思われる。<br />
<br />
つまり、十分に信じる根拠があったから信じたのではなく、そういった世界があり、そういった教祖がいてほしかったので、それがオウム真理教にあると信じたということではないかと思うのである。<br />
<br />
このオウム真理教の事例からもわかるように、子供の誇大妄想的な願望は、親と子だけが作り出している問題ではなく、親子を取り巻く社会全体の環境が影響していることはいうまでもない。親と子と社会の三者があいまって、問題を作り出しているのである。<br />
<br />
次のケースは、親に失望するのではなく、親を過剰に肯定（絶対視）するケースであり、これが３のケースである。<br />
<br />
１と２のケースは、なんらかの理由で、幼少の頃に、親によって、誇大妄想的な願望を満たせない場合に起こると述べたが、３のケースは、正反対に、大人になっても、親が、子供にとって、絶対的な存在であり続けるというケースである。<br />
<br />
このケースは、子供の親に対する依存が強く、親の子供に対する支配欲が強い場合に起こりやすいと思われる。子供が親に依存するだけでなく、親がいつまでも子供を自分に縛り付けるのである。<br />
<br />
この背景として、親は、子供を支配することで、自己存在意義を満たしている面があり、親の方も、実は子供に依存している心理状態にある。すなわち、親離れしない子供と、子離れしない親の組み合わせである。<br />
<br />
よって、一見そうは見えないものの、親の本質的な性格が、子供と似ているのではないかと私は思う。この場合は、親がまず子離れをする必要があり、子供に自信を持たせたり、自分への過剰な依存・甘えを抑制したりするべきである。ところが、こうした親の場合、子供が自分に依存するように誘導している場合もあるかもしれない。<br />
<br />
そして、このケースにおいては、例えば、実際には親が悪いのに、自分が悪いと思って、自分を責め、その結果、自分に不合理な劣等感を抱く場合がある。こうして、不当に自分を責める背景には、自分の存在意義を深く親に依存してしまっていて、親を否定すると、自分の存在意義が無くなるような場合である。<br />
<br />
例えば、親に認められることで、自分の存在意義を満たしてきた子供は、親が間違っているとなれば、自分の存在意義を根底から否定しなければならない。よって、親を否定するよりも、自分を一部でも否定した方が、相対的には、自己存在意義を守ることができるのである。<br />
<br />
この背景には、先ほども述べたが、なんらかの理由で、自分の存在意義を自分自身の価値・判断ではなく、親の価値・判断に委ね過ぎていることがある。<br />
<br />
そして、それから抜け出せない理由としては、①抜け出すためには、親によって満たしてきた自己の存在意義は放棄しなければならないが、それが放棄できないこと。②親の価値・判断から自立して、自分の価値・判断で生きる上での自信のなさ・卑屈、その奥にある依存・怠惰などがあるだろう。<br />
<br />
さて、先ほども述べたように、幼少の頃には、誰もが、親を絶対視し、親の価値・判断に自己を深く委ね、親も子供を良い意味で支配することが必要であり、自然であり、健全であるから、問題の核心は、子供が大きくなっても、依然としてそれを卒業しないということに尽きる。<br />
<br />
心理学的には、子供が健全な発達過程をたどる場合は、反抗期というものを経て、子供は親の絶対性を否定し、自分の価値・判断で、自立して生きる過程を経る。その中で、重要なことは、子供は、親の絶対性を否定するだけでなく、自分自身も、多くの人間の一人であることを受け入れて、自己を相対化していくプロセスがある。<br />
<br />
これによって、妄想的な絶対者願望ではなく、現実的な健全な自己向上欲求を持つようになる。そして、親に対しても現実的に見て、不完全ではあっても、自分を育てた存在として健全な感謝の心を持つようになるのである。<br />
<br />
しかし、３のケースでは、子供や親の要因によって、この自立のプロセスがうまくいかないのである。そして、３０歳、４０歳になっても、親に依存し続ける場合がある。<br />
<br />
さらに、このケースは、肉親の親に限らず、親の代わりに依存の対象とした者にも当てはまる。<br />
<br />
例えば、前回の１のケースなどで、親以外に、自分の願望を満たす存在を見つけ、それに過剰に依存・服従する場合は、その存在について、同じことが起こる。例えば、実際には相手が悪いのに、自分が悪いなどと考えるのである。<br />
<br />
これは、言うまでもなく、オウム真理教の信者と元教祖の関係に当てはまる。例えば、元教祖が主導した事件について、少なからぬ信者が、自分たちのカルマが悪いから、元教祖が事件を起こさざるを得なかったのだと考えるケースがあった。<br />
<br />
これは、信者にとっては、元教祖を否定すれば、自分の信仰＝自分の存在意義の根本を否定することになるから、それよりも、元教祖を否定せずに、自分の一部を否定する方が、自己を守ることができたからである。<br />
<br />
また、信者がこの状態から抜け出せない背景も、親への依存から抜け出せない子供の理由と同じであり、①抜け出すためには、元教祖によって満たしてきた自己存在意義は放棄しなければならないが、それが放棄できないこと。②元教祖の価値・判断から自立して、自分の価値・判断で生きる上での自信の不足があるが、その奥には、自信がつくほどに必要な努力をしない依存・甘え・怠惰などがある。<br />
<br />
具体的に言えば、元教祖に対する絶対的な帰依によって与えられるとされていた、キリストの弟子・選ばれた魂になること、解脱者になること、三悪趣に落ちず高い世界へ転生することといった願望について、それを放棄するか、ないしは、別の手段で得ようとする努力が必要となる。<br />
<br />
そして、元教祖の教義としては、信者は汚れており、正しい判断ができず、グルに絶対的に帰依することによってのみ救われ、自分で判断してはならず、グルを裏切ると三悪趣に落ちる、などというものがあって、これが信者を呪縛し、その自立を妨げる要素となっている。<br />
<br />
しかし、根本的な原因は、元教祖の教義が根本的な原因ではなく、必要な努力をなす労苦を嫌がる信者側の依存・甘え・怠惰である。依存したい者には、依存するべきであるという教義は、都合が良いものであるからだ。<br />
<br />
しかし、依存・甘え・怠惰という煩悩の本質は、最初は楽だが、後からつけが回ってくるというものである。一方、自立は、最初は努力が必要で労苦があるが、後は楽になるというものであろう。これを踏まえて、自分の弱さに打ち勝たなければならない。<br />
<br />
さて、このケースの１つの変形版として、ずっと依存状態が続くのではなくて、親の目から見ると、ある段階から突然、服従から反抗に移行する場合があるようだ。これが、４のケースである。<br />
<br />
すなわち、段階的に反抗期を経験し、段階的に親も自分も相対化し、親への一定の感謝や尊敬をもって、健全な自立をするのではなく、ある段階まで全く反抗期がなくて、親から見ると、何でも言うことを聞く、とても素直で良い子であったのが、いきなり、反抗や非行に移行するケースである。<br />
<br />
この場合、子供は、長らく、親に認められたいために（親に従って自己存在意義を満たそうとしてきたがために）、無理して自分を抑圧してきたことが、ある段階から、恨みのような感情に変わり、爆発する場合もあるようだ。<br />
<br />
客観的に見ると、子供が自らの意思で親に依存してきた場合も、子供の方は、親が自分を無理に抑圧してきたという印象を形成する場合があるようだ。他人から見れば、過剰な責任転嫁であるが、こういったことは、子供に限らず、大人の世界にもよくある。<br />
<br />
そして、これも、子供と親に限らず、オウム真理教の元信者と元教祖のケースにも当てはまる。自分の意思で元教祖に帰依したにもかかわらず、元教祖を否定した後は、自分が安直に信じた責任は十分に自覚せず、もっぱら教祖にのみ責任を転嫁し、教祖を一方的に恨むというケースである。<br />
<br />
しかし、（特に幹部信者などの場合は）単純に騙されたと主張するばかりで、自分が安直に信じて教祖を祭り上げたという反省がなければ、本当の意味で自分が変わることはできない。<br />
<br />
帰依している時は、教団を弾圧する社会が悪いと安直に主張して、帰依をやめたら、自分を騙した教祖が悪いとばかり主張するならば、今も昔も、常に自分は被害者の位置づけであって、問題を他人のせいにしてばかりである。<br />
<br />
こうして、脱会しても、人格は変わらないという問題はよくみられる。わかりやすく言うと、オウムは脱会したが、オウム人格は変わらないという現象である。脱会するのは、一瞬の手続きだが、本質的に人格を変えるのは辛抱強い努力が必要である。<br />
<br />
この背景には、先ほどのケースと同じように、やはり依存・甘え・怠惰があるといわざるをえない。真に幸福になるには、自分の問題点を反省して、辛抱強く努力して、成長していくほかはないのである。<br />
<br />
最後に５番目のケースは、親を絶対視してはいないが、親に対する期待が十分に満たされないために、常に強い不満・怒りを持つ場合である。<br />
<br />
２のケースとの違いは、親に失望し、突き放しているのではなく、依然として期待していることである。４のケースとの違いは、４のケースは恨みであるから、もう相手への期待はないが、２のケースの不満・怒りは、依然として強い期待が背景にある。<br />
<br />
そして、私の経験上、こうして、常に不満・怒りを持っていると、場合によっては、憎しみのレベルにまで至る場合があるようだ。<br />
<br />
しかし、実際に、どんな親も不完全な人間であるから、いろいろな欠点があるのは仕方がないことである。そして、先ほど言ったような状態で、精神が歪みやすい現代社会においては、相当に人格が崩れている親もいるだろう。そして、その親のもとで育った子供が親になり、その子供がまた親になっている時代である。<br />
<br />
具体的には、会員や一般の人の相談を受けていると、父親で言えば、女癖・酒癖が悪い、母親や自分に暴言を吐く、暴力を振るうとか、いろいろな事例が出てくる。<br />
確かに、そういった問題はない方がいいに決まっている。しかし、私が相談を受けた体験上は、そういった親の人格は、直ちには改善されそうにない場合も少なくない。<br />
<br />
さらには、子供が単に不満や怒りをもって親を責めても、親にもいろいろあるだろうから、必ずしも良い方向には行かない場合がある。仏教的なカルマの法則からすれば、自分の不満や怒りの心・波動が相手に伝わって、相手に投影され、相手からも反発が返るだけとなる場合もある。それでは、建設的・前向きな行為ではないだろう。<br />
<br />
そもそも、本当に相手を変えようとする場合は、相手をよく理解し、辛抱強く賢いアプローチ＝慈悲の実践が必要であり、その中には、相手の向上を祈りつつも、無理な期待はしないという心構えが含まれる。<br />
<br />
子供にとって、これは大変なようだが、ポイントは、本当の意味で大人になるには、必要な努力であるということだ。親に求めるばかりで、自分側の努力がない場合は、子供はいつまでも子供であり続ける。<br />
<br />
そして、その背景には、繰り返しになるが、必要な努力を避ける依存・甘え・怠惰があり、それから脱却できないならば、その自分の未熟な人格の投影を親に見続けることになりかねないのである。<br />
<br />
さて、この５のケースも、親以外の強い期待・依存の対象に当てはまるものである。例えば、団体の内部での法友同士の関係にも、これが当てはまらないかについて、よく検討してもらいたい。<br />
<br />
<br />
<strong>４．内観と親子問題の緩和</strong><br />
<br />
次に、こういった問題に対する内観の修行の効果を考えてみよう。まず、この５のケースにおいては、特に内観が有効であると思われる。<br />
<br />
というのは、確かに、親にはいろいろな欠点があるだろうが、内観を通して、自分が親に実に様々なことをしてもらってきたことや、自分も親にいろいろ迷惑をかけてきたことなどを認識することによって、バランスの取れた見方ができるようになることが期待されるからである。<br />
<br />
逆に言えば、通常は、強い期待を背景に、普段は、親のしてくれないこと、親の欠点ばかり見ており、内観の修行でもしなければ、親の長所・恩恵を客観的に見たり、自分側の欠点を客観的に見たりすることはなかなかできないと思われる。<br />
<br />
自分の欲求が強いと、与えられていない部分ばかりを見て不満に思うが、仏教的には、それは貪りの心の働きである。また、その場合は、相手と同様に、自分にも欠点があることが理解できなくなるが、それは、自他を区別する無智である。<br />
<br />
相手の問題について、自分では正しいことを言っているつもりでも（仮に言っていること自体は正しいとしても）、その時の心の働きが、無智・貪りに基づいており、相手のことを思って（慈悲に基づいて）いない場合が少なくない。<br />
<br />
この場合は、相手の反応も、自分の心の投影として否定的なものになる可能性があるし、何よりも、こうした期待を背景とした不満・怒りを募らせるだけでは、自分自身がなかなか成熟していかないという不利益がある。<br />
<br />
次に、１と２と４のケースにおいても、内観は有効であると思われる。その前に、もう一度、１と２と４のケースを列挙すると、以下の通りである。<br />
<br />
１．親への尊敬・感謝が乏しく、他に絶対的な存在を求め、それに過剰に依存・服従する。<br />
２．親への尊敬・感謝が乏しく、他にも誰も尊重せずに、反抗ばかりする。<br />
４．親への過剰な依存・絶対視は止めたが、逆に親が自分を不幸にしたと恨みを抱く。<br />
<br />
これらのケースの根底には、自己の誇大妄想的な願望が背景としてあることは、前に述べた通りである。１のケースは、教祖などに依存し、その願望を満たそうとしており、２のケースは、満たすための依存の対象が見つかないので、誰も尊敬しない状態であり、３のケースは、依存したが満たされなかったことによる恨みの状態である。<br />
<br />
しかし、この誇大妄想的な願望は、前にも述べたとおり、子供の時ならばともかく、成長する過程では、卒業すべきものである。言うまでもなく、現実の社会では、幼稚で、妄想的で、傲慢で、自己中心的なものである。<br />
<br />
これに対して、内観の修行は（特にひかりの輪の仏教的な内観修行は）、自分が、いかに実際に肉親や知人を含めた他に支えられているか、いかに万物に支えられているかという事実を理解していくから、自己の絶対性ではなく、自己の相対性（他との支え合いで自分が成り立っていること）の理解を促進する面がある。<br />
<br />
すなわち、内観とは、物の考え方において、子供から大人になる効果があると思われる。妄想的な自己存在意義を求めて、自分や特定の他者を絶対視・特別視するのではなく、自分を多くの人間の一人として受け入れて、その中で健全な自己向上欲求を持つことである。これは、内観の権威である人も述べていることである。<br />
<br />
こうして、内観に基づいて、他への感謝と謙虚さを培うならば、自己中心を脱却して、他と調和した生き方をするきっかけとなる可能性がある。そして、前にも述べたが、この考え方は、仏教では、縁起の法や、唯識の依他起性の思索・瞑想でもあり、自我意識を弱めて、全体と一体化する効果を持つ。<br />
<br />
最後に、３のケースであるが、これは、内観修行上は特殊なケースである。この人の場合は、親や、親に準じる依存の対象に対して、普通とは逆の偏りを形成している。<br />
<br />
すなわち、普通は、してもらっていることの多さ、して返したことの少なさ、迷惑をかけたことの多さを十分に認識しないために、それを調べていけばいいのであるが、このケースにおいては、逆に、①してもらっていないことも、してもらっていると考えたり、②して返していることがあっても、過小評価していたり、③迷惑をかけていない場合も、迷惑をかけていると思いこむといった場合がある。<br />
<br />
これは、通常のケースでは、自己中心的な意識が働くところ、３のケースは、相手が、自己の存在意義になっているために、その相手を中心とした意識が働いてしまい、相手に偏った見方をしているからである。<br />
<br />
よって、私の見解としては、通常とは逆の方向性で内観をする必要がある。<br />
<br />
<br />
<strong>５．内観で培う健全な親への認識と悟りの関係</strong><br />
<br />
さて、内観によって、両親をはじめとする人々に対して、感謝や尊重といった、健全で肯定的な心を培うことは、仏教の悟りを得る上で非常に重要である。<br />
<br />
というのは、大乗仏教の教えの核心は、全ての衆生を愛する四無量心であり、それに関連して、全ての衆生に仏性があると説くことにある。<br />
<br />
そして、全ての衆生を愛する四無量心を培う上で、いにしえの聖者方は、弟子たちに、自分の両親が自分をいかに愛してくれたかを思い出させ、全ての衆生が自分の過去世の母や父であったことを瞑想させてきた。<br />
<br />
また、大乗仏教には、この宇宙が全ての衆生を育む仏陀の母胎の中であると考え、その仏に合一する教えがある。宇宙を自分の母であり、仏であると見ているのであるが、この思想を理解する上でも、今生の自分を生み育てた母親や父親に対する感情がバランスの取れたものであることは重要である。<br />
<br />
また、全ての衆生に仏性があるという教えは、全ての生き物は、本質的には、慈悲という仏陀の心を有しているという意味であって、どんな悪人でも、例えば我が子を育もうとする瞬間には、慈悲・利他の心を現すといった事実が指摘される。<br />
<br />
簡単に言えば、仏教の教えとは、全ての人、全ての生き物に価値を認め、それを愛することであるから、自分を生み出した、自分が今生初めて接した人間である親を愛することは、非常に重要な課題となる。<br />
<br />
ところが、現代では親子関係が歪んでおり、親を尊敬していない子供が多くなっている。よって、この親子の問題を乗り越えなければ、仏教の教えの根幹が損なわれる。<br />
一方、オウム真理教は、この問題を解決せずに、この問題を逆手にとった宗教であると思われる。すなわち、末法の世には悪業多き魂が多いとして、教団を肯定しない親は強く否定し、出家制度によって子供を親から隔絶し、教祖のもとに集中させることで、子供が救われるとし、親をはじめとする社会と敵対し、戦って勝利することを教義とした。<br />
<br />
よって、この問題を乗り越えることは、現代における仏教修行の困難を克服することであるとともに、オウム真理教を乗り越えることとも深く関連している。<br />
<br />
そこで内観の修行の重要性が出てくる。確かに昔に比べて親の問題が増えているのだろうと思う。しかし、昔も相対的に不徳な親は多くいたはずであり、そういった場合は子供がどのような眼差しで親を見るかで、親への感情が大きく変わるはずである。そこに、内観修行の重要性がある。<br />
<br />
また、悪化しているのは親だけでなく、子供の友人、学校の教師、マスコミの情報を含めた、子供を取り巻く社会全体であろうから、それによって、子供側が親を見る目が歪んでいることもあるはずである。<br />
<br />
そして、内観の修行では、客観的に、親に受けた恩恵や親に迷惑をかけたことを調べていく。そうすることによって、現代の親でも、依然として我が子を思う気持ちは決して少なくない、という事実が浮かび上がってくるのではないかと私は思う。<br />
<br />
もちろん、人によっては、例えば、浮気、離婚、酒癖、女癖、暴言、暴力と、親の問題がいろいろあるだろうが、それであっても、親が子供になす自己犠牲の奉仕は膨大であるという事実もあるはずである。それらをありのままに認識し、親に合格点を与えられないものであろうか。<br />
<br />
また、親に捨てられた子供の場合も、捨てたくて捨てたのではない親の苦しみに気づいたり、親代わりになってくれた人への感謝を深めたりすることで、自分の心を癒して浄化し、他者への愛というかけがえのない心の働きを深めることで、悟りの土台ができるのではないだろうか。<br />
<br />
<br />
<strong>―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――<br />
２　唯識思想のエッセンス：科学との接点と一元の思想<br />
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――<br />
</strong><br />
&nbsp;<br />
<strong>(１)　唯識の世界観と科学の接点</strong><br />
<br />
まず、唯識の思想への理解を深めるために、その教義が、現代科学の発見や理論と類似している面があることについて解説する。<br />
<br />
<br />
<strong>１．万物は、心（正確には阿頼耶識（あらやしき）という根本心）が変化したものという思想</strong><br />
<br />
最新科学の知見は、以前の科学の見解よりも、物質的な存在と非物質的な存在の境界が曖昧であることを発見しつつある。例えば以下のような事実がある。<br />
<br />
①物質と波動が二分化されないこと<br />
全ての物質は波動を有しており（物質波）、その波動は局在せずに、宇宙に（その波が到達する距離の範囲では）遍在するものである。また、物質ではなく波動のように見えた光（電磁波）にも、物質・粒子の性質（光粒子）があることが発見された。<br />
<br />
②不確定性原理<br />
微少な物質は、その位置と速度が同時に正確には観測できないという事実がある。これに基づいて、そもそもが、位置と速度は、観測するまでは決まっておらず、波動関数によってのみ表される、という見解がある。<br />
こうして、微少な世界では、通常はどこかに存在する（局在する）物質が、局在せずに遍在する波動と区別しにくいものとなっている。これからも、物質的な存在と非物質的な存在の区別が不明確なものに感じられるが、これは唯識思想に通じるものである。<br />
<br />
③観測者問題<br />
電子などの素粒子と呼ばれる微少な物質は、人が、その位置を観測すると、一点に局在する粒子として現れるが、そうしなければ、波動のように、局在しないものとして現れるという実験結果がある。これも、物質的存在と非物質的存在の区別が不明確なものに感じられる事例であり、唯識思想と通じるものである。<br />
<br />
④人の意識が物理現象に関与する<br />
なお、上記の不確定性原理や観測者問題は、解釈によっては、観測の前後で物質の状態が変化することから、観測しようとする人の意思・意識が、物理現象に関与しているのではないかという仮説を生んでいる。しかし、この見解はあくまで仮説であり、科学的に十分に証明されたことではなく、人の意識が関与しない場合でも、観測者問題のような現象が起こる事例もあると言われている。<br />
また、科学者には一般に認められていないが、念力などの超能力は、それが事実だとするならば、人の意識が物質現象に関係していることを示す事例となる。ただし、科学においては、偶発的で再現性のない超能力的な現象は認められていない。<br />
<br />
<br />
さて、以上の科学の発見を参考にすると、①唯識の説く阿頼耶識の中のしゅうじ種子が、科学でいう宇宙に遍在する全ての物質の波動データであると考え、②それぞれの場所に局在する物質は、その阿頼耶識の種子である波動が現象化し、物質化・粒子化したものと考えると、唯識思想が、科学の見解に矛盾しないようにも解釈できる。<br />
<br />
ただし、仏教が説く阿頼耶識とは、物質存在の源としての波動にすぎないものではなく、根本の識、根本心であり、巨大な根源の意識である。それは、種子が現象（変化）し、物質的な存在になる部分だけではなく、その物質存在を認識する側、すなわち、無数の生命体の身体と意識をも現象させる点に注意する必要がある。<br />
<br />
<br />
<strong>２．全ての衆生が、深層心理において、全てを生み出す阿頼耶識を有するという思想</strong><br />
<br />
全ての生命の奥深い意識に、全てを生み出している阿頼耶識が存在するという唯識の思想は、物質全てに波動が存在するという物質波の考え方と似ている面がある。というのは、物質波の概念は、この宇宙の至る所に、宇宙の全ての存在の波動が、（それが到達する範囲においては）存在するということになるからである。<br />
<br />
これは、宇宙全体が、宇宙の中のあらゆる微少な部分と、密接不可分に関係している、と説く華厳経のじゅう重じゅう々む無じん尽縁起の思想とも繋がる思想である。<br />
<br />
また、ユング心理学において、人には、各人が持つ表層や潜在意識の自我意識に加えて、その深層心理において、万人が共有する自と他の区別がない集合無意識があるとするが、それと唯識の心理構造の思想は非常に良く一致する。具体的には、以下の通りである。<br />
<br />
唯識思想　　　ユング心理学<br />
――――――――――――――――――<br />
意（意識）&rarr;　表層意識<br />
末那識（まなしき）　　&rarr;　潜在意識の自我意識<br />
阿頼耶識　&rarr;　深層の集合無意識<br />
<br />
また、比喩的ではあるが、人体の構造も、これとよく似ている一面があり、その各細胞に、人体の全情報（ＤＮＡ情報）が存在している。そして、ヨーガの思想では、この人体は、小宇宙として、大宇宙と連動していると見なされているので、人体の構造から、大宇宙の構造を考えることは、全く無意味ではないだろう。<br />
<br />
人体には、６０兆ほどの細胞があり、その１つ１つに、人体の全情報であるＤＮＡ情報が存在するが、それは、各細胞が、他の細胞の情報を内包しているということである。そして、各細胞では、自分の有するＤＮＡの情報のほんの一部の情報だけを使用して、自分の細胞を形成（現象化）している。<br />
<br />
この人体の構造は、唯識やユング心理学が説く、宇宙の各存在の奥に、宇宙の全ての情報を含んでいる阿頼耶識（ないし集合無意識）がある、とする世界の構造によく似ている面がある。<br />
<br />
なお、こういった部分が全体に、全体が部分に密接に関連している（投影されている）という概念は、他にも、複雑系の世界やホログラフィーの現象にも見られ、一元論的な思想を形成している。<br />
<br />
<strong><br />
３．自と他の双方を生み出すとされる阿頼耶識の概念と夢を作る意識の類似性</strong><br />
<br />
唯識思想では、自分と他人やそれを取り巻く自然環境（き器せけん世間）の全ては、唯識という根本心が作り出しているが、個々人の表層意識は、それに気づいていないとしている。<br />
<br />
これをわかりやすく言えば、自と他は双方とも同じ根本の意識＝阿頼耶識から生じているが、自分と他人も、その表層意識は、その事実に気づいておらず、ヨーガの瞑想で深層心理を経験してこそ、理解することができるというのである。<br />
<br />
一見して信じがたいこの思想は、よく考えれば、私達の日常の夢の中の体験と非常によく似ている。夢の中の体験は全て、実際には、自分の意識（脳の活動）が作り出しているが、夢の中の自分は、夢の中の他人を自在に操ることは出来ず、時には、悪夢のように、他人に苦しめられることもある。<br />
<br />
これは、夢の中の自分は、自分と他人の双方を作り出している、自分の根本の意識に気づいていないからにすぎない。唯識思想の表現を借りれば、夢の中の阿頼耶識に気づいていないからである。しかし、それが夢であると気づいた人は、その夢を終わりにしたり、人によっては、好きな夢に変えることもできる。こうして、夢の中での苦しみから完全に解放される。<br />
<br />
こうして、夢であると気づいたときに、夢を止めたり、夢の内容を変えたりすることができるのは、論理的に考えて、夢を作り出している根本の意識を変えることができる状態になったからにほかならない。<br />
<br />
そして、唯識思想が説くことは、私達が日常体験しており、現実と呼んでいるものも、夢と同じように、自と他の双方を作り出している根本心である阿頼耶識によって現し出されたものにすぎないということである。<br />
<br />
その意味で、唯識思想を学ぶならば、仏陀という言葉が、目覚めた人という意味を持つのが、非常によくわかる。悟った人である仏陀は、「現実という夢」から目覚めた人という意味合いがあるのである。<br />
<br />
これに基づくと、仏陀とは、①私たちが現実と呼んでいる体験を自在に止滅できる（自在に涅槃に入ることができたり、自在に現実の体験を再開したりできる（再生・転生の世界に戻ることができる）、②現実の世界を自在に変えることができる（仏陀の神通自在の能力）ということになる。<br />
<br />
そして、このような能力は、全ての現象を作り出している阿頼耶識の存在を悟って、それを変えることができれば、可能であるということになる。<br />
<br />
この意味で、科学的には検証不能であろうが、大聖者が発揮するといわれる自在の神通は、唯識思想の証明となる。それは、人の意識・意思が、現象を自在に変えることができるということであるから、現象の源に意識があることになるからである。<br />
<br />
<br />
<strong>(２)　唯識の思想を通して、一元の悟りを深める<br />
<br />
１．全ての体験は自分の心の中の体験であると自覚し、三毒を超え、万物に感謝する。<br />
</strong><br />
私たちは、実際には、外界を直接体験しているのではなく、あくまで、外界を縁（条件・きっかけ）として形成された心の中の体験をしているにすぎない。<br />
<br />
この点をもう少し精密に表現すると、私達の意識は、外界を知覚した感覚器官が脳の中に生じさせることを体験していたり、それにともない脳の中に生じる思考や感情を体験しているだけである。<br />
<br />
よって、人の感じる幸福・不幸も全ては、人の心・意識の中の体験であって、縁起の法に即して表現するならば、外界はあくまでも条件＝きっかけであり、意識が直接体験しているのは、そのきっかけによって、意識の内側に形成されたものであって、外界そのものではない。そもそもが、外界を直接体験できる構造にはなっていない。<br />
<br />
ところが、日常の我々は、そのように厳密な正しい認識をしていない。例えば、目を開いて何かを見るときも、実際に私たちが見ている影像は、「私たちの目の前にある影像」ではなく、「私たちの意識の中に作られた影像」、より厳密には「視床下部という目の奥にある脳に起因する影像」である。<br />
<br />
しかし、この時に、「私は、私の前にある&times;&times;を見ている」といった言葉による思考が生じると、自分が体験しているものが、自分の意識の中にあるものではなく、自分の外＝目の前＝外界にあるものだという錯覚が生じる。<br />
<br />
この時点で、人は、自分とは別に存在する外界というものを体験しているという錯覚が生じる。これを意識が、外界に実体を錯覚すると表現する。しかし、実際には、自分と無関係に存在する外界など存在しない。外界とは、それを観察する人から独立して、そのものだけで存在する（＝固定した実体のある）ものではないのである。<br />
<br />
例えば、異なる感覚器官を持つ生き物には、同じ場所が、全く違って見える。人間同士であっても、厳密には、それぞれの感覚器官は異なっているし、なによりも、意識が異なっているから、同じ場所でも、全く同じ体験することはあり得ない。こうして、１０人がいれば、その１０人の意識の中で、１０の世界を体験するだけであり、全く同じ外界の体験を１０人が共有することはあり得ないのである。<br />
<br />
このように、外界に実体があると錯覚することを無智と呼ぶが、外界に実体を錯覚すると、その外界に（自分の心とは無関係に）喜び・苦しみが存在するという錯覚も生じてしまう。それによって生じるのが、貪りと怒りの心の働きである。これは、自分の心とは関係なく外界に喜び・苦しみがあると錯覚するから、外側の何かを求めて貪り、外側の何かを厭い怒るという心の働きに陥ってしまうのである。<br />
<br />
しかし、実際には、その喜び・苦しみは、外界をきっかけにはしていても、自分の心の内側の要素が作り出している喜び・苦しみを感じているにすぎない。具体的に言えば、外界をきっかけとして、私達の心の奥に潜在していた阿頼耶識の種子が引き出されて現象化して、それを感じているのである。その際に、その引き出された種子が、善業ならば幸福を感じ、悪業ならば不幸を感じる。<br />
<br />
この点について、前に、内観のところで述べた事例を再び引用して、分析してみよう。<br />
先ほどの事例とは以下の通りである。<br />
<br />
「まず、貪りに際限がないのは、人が感じる幸福・不幸が、比較によって生じる幻影であるからだ。例えば、今まで１０万円の給料だった人が、給料が２０万に上がると、上がった直後は喜びを感じるが、それに慣れてしまうと、それが当然のことになり、喜びがなくなり、もっともっとと求める心が生じる。再び喜びを感じようとして、もっと高い給料を欲するのであるが、その欲求が満たせないと苦を感じる。<br />
<br />
さらに、給料が元の１０万に戻ると、大きな苦しみを感じる。最初は１０万円で足りていたのに、得たものに対する執着が生じるがために、失う時には、苦しみが生じるのである。これは、四苦八苦の教えに説かれているものである。」<br />
<br />
この中で、「今まで１０万円の給料だった人が、給料が２０万に上がると、上がった直後は喜びを感じる」というのは、その人が、それ以前までは、１０万円で足るを知ってきたというデータ（貪り捨断の功徳）があって、それが引き出されたがために、２０万円が喜びに感じられたと解釈できる。<br />
<br />
しかし、「それに慣れてしまうと、それが当然のことになり、喜びがなくなり」というのは、２０万に慣れる過程で、先ほどの１０万で足るを知った功徳は滅して、２０万が必要であるというデータ（貪りの悪業の種子）が生じて、そのように阿頼耶識が変化したことを示している。<br />
<br />
参考までに付け加えると、阿頼耶識は絶えず変化している。深層心理の阿頼耶識にある種子が表層意識に引き出されて現象化すると、そこで生じる現象に応じて、今度は阿頼耶識が変化していく。こうして、深層の阿頼耶識と表層意識が相互に変化を与え合い続けながら、人は生きているのである。<br />
<br />
最後に、「さらに、給料が元の１０万に戻ると、大きな苦しみを感じる。」というのは、最初に１０万円で足りていた時の状態とは阿頼耶識が変化しており、２０万円が必要であるというデータ（貪りの悪業の種子）が引き出されるために、苦しみを感じるのである。<br />
<br />
このプロセスをわかりやすく言えば、人の幸福・不幸は、外界によって決まるのではなく、比較によって決まると表現できることはわかるだろう。すなわち、１０万だと常に不幸で、２０万円だと常に幸福であるということはなく、例えば、今の自分の給料と、以前の自分の給料の比較とか、自分の給料と近しい友人の給料などの比較によって、決まるのである。<br />
<br />
そして、これを厳密に言えば、私達の意識において、今の外界の条件が２０万円の給料であって、それに伴い引き出される阿頼耶識の種子が、１０万円で足るを知ってきたというデータなら喜びを感じ、３０万必要であるというデータなら苦しみを感じるということである。<br />
<br />
以上からして、幸福・不幸は、自分の心の要素とは無関係に外界に存在するのではなくて、外界を条件としつつも、その主たる原因は、心の中の要素（唯識においては阿頼耶識の種子と呼ばれる）によって生じるものであり、その意味で、自業自得であるということができる。<br />
<br />
これを言い換えるならば、全ての体験は、何らかの自分の内面の要素を現し出す鏡であって、外界の何かをきっかけとして、苦しみが生じた時には、その真実の原因が、外界ではなく、内側にあることを認識するならば、外界の対象は、自分の心の汚れを教えてくれた鏡として、感謝する実践を行なうことができるだろう。<br />
<br />
<br />
<strong>２．阿頼耶識と夢の構造の類似性を考え、万物の根源が１つと理解し、万物を愛する</strong><br />
<br />
先ほど説明したように、夢の中で、自分と他人を作り出す根本の意識があるように、唯識思想は、現実の世界の自分と他人やそれを取り巻く自然環境（器世間）の全てを作り出しているものが阿頼耶識であり、ゆえに根本心ともいわれる。<br />
<br />
この阿頼耶識という根本心は、自分も他人も、全ての衆生が、その意識の最も奥深いところで共有しているものであり、自と他の区別を超えた広大な意識である。よって、万物は、表面的には別々に見えるが、本質的には、この阿頼耶識から生じており、万物が同根であるということである。<br />
<br />
この阿頼耶識の存在の理解を阻んでいるものは、自と他の区別を行なう表層や潜在の自我意識であるが、その働きを止滅する修行によって、阿頼耶識に到達するならば、万物を１つの根から生まれた多くの枝のように、分け隔てせずに愛する境地を得ることができるだろう。<br />
<br />
ただし、阿頼耶識に到達する瞑想体験をしなくても、次の依他起性の教えを考えれば、万物と共に一体になって生きている事実を理解することはできる。<br />
<br />
なお、この阿頼耶識縁起の思想と類似した思想は、本質的には非常に多い。例えば、世界の全ては、真如の現れであると説く真如縁起・如来蔵縁起の思想と類似する（これは、阿頼耶識自体を真実・真如と解釈したものと表現してもよい）。<br />
<br />
また、大乗仏教では、世界の全ては平等に仏の現れと説くものがあり、華厳経、大日経、金剛頂経では、具体的には、世界の一切は、大日如来の現れとする。<br />
また、世界の全てはブラフマンが展開したものと説くヴェーダーンタの不二一元論とも類似する。その違いは、阿頼耶識は実体がないものとされるのに対し、ブラフマンは絶対原理とされている点である（仏教は、真如とか大日如来にも実体を認めないことが特徴である）。<br />
<br />
さらに、思い切って思考を飛躍させれば、世界の全ては、創造主の被創造物であるとするキリスト教の教義とも類似するということができなくはない。<br />
<br />
その違いは、阿頼耶識は、ある意味で万物の創造主であるが、同時にそれ自身が作られた側の被創造物にもなる（変化する）点である。すなわち、創造するものと創造された物の区別がなく、どちらも阿頼耶識なのである。<br />
<br />
<strong>３．依他起性の教えで、自と他の区別を超え、万物に価値を認め、万物に感謝する。</strong><br />
<br />
依他起性の教えとは、万物が、そのものだけでは存在せず、他の力に依存して生起しているという見方である。よって、これは縁起の法の見方と同じである。<br />
<br />
この教えに基づいて、この世界を見ると、内観のところで述べたように、自分という存在は、肉親や知人をはるかに超え、日本社会、人類社会、地球の生命圏、太陽系・銀河系といった無数の存在に支えられて存在していることがわかる。そして、自分を含めた全ての存在は、無数の他の存在と、相互に依存し合って存在していることがわかる。<br />
<br />
さらには、この相互依存の関係の中で、それぞれの存在が、全体における何らかの役割を持ち、それを果たし合いながら存在している。例えば、生き物（衆生）を見ても、地球の生態系というシステムの中で、まさに、食物連鎖などで相互に依存し合いながら、それぞれの役割を果たして、生態系のバランスを保ちながら生存している。<br />
<br />
これは、人体の各細胞が、それぞれの役割を果たしながら、全体を支えているのとよく似ている。先ほどは、阿頼耶識とＤＮＡ情報の類似点を説明したが、阿頼耶識が現す個々の存在と、ＤＮＡが形成する個々の細胞は、ともに、それぞれが、全体に対する役割を有しており、全てが互いに互いを支え合う形になっている。<br />
<br />
実際に、大乗仏教では、宇宙の全ては、仏の平等な現れであり、一切無駄なものはなく、全てに価値があると説く教えがある。また、悟りの境地からは、万物が、実際に、仏陀、仏陀の声、仏陀の浄土に見えると説く教えもある。<br />
<br />
以上をまとめてみると、①自分は、この世界全体に支えられて存在しており、②万物は、それぞれが全体に対する役割・価値を有し、それをもって互いが互いを支え合っており、③これらに基づいて、万物に感謝し、万物を尊重する心を育むべきである。<br />
<br />
<br />
<strong>４．依他起性の教えで、自と他の区別、自と他の比較による苦しみを超える</strong><br />
<br />
依他起性の教えに基づいて考えると、実際には、自分の幸福や自分の誇りとするものがあったとしても、他人とは無関係に得られている物など何一つなく、実に無数の他の力に支えられていることがわかる。その意味で、他に支えられていない自分だけの長所などは存在せず、これを十分に意識して、他に感謝するならば、慢心を和らげることができる。<br />
また、他人の不幸や他人の欠点・短所・罪などについても、その人だけが、その原因であることなどはない。同じように、実に無数の力が働いて、それが生じていることがわかる。これを十分に意識して、慈悲の心を培い、他の不幸・欠点が、自分に無関係ではないことを理解し、軽蔑・怒り・憎しみを超えるべきである。<br />
<br />
同様に、他人が一人で得た幸福・長所などはないから、それに嫉妬せずに、皆で実現している皆の幸福であると考えて喜ぶべきである。また、これを認識すると特定の個人を過剰に優れていると思い込んで、過剰に依存することもなくなる。<br />
<br />
さらに、自分だけの不幸・欠点もないことを理解すれば、過剰な卑屈・自己嫌悪に陥ることを避けることができ、同じ不幸・欠点を有している他人のことも考えて、共にそれから脱却できることを志すことができる。<br />
<br />
なお、この教えは、特定の人を何かの善行で称賛・表彰したり、何かの罪で批判・処罰するということを否定するものではない。それは、社会において、そのような善行を増大させ、罪を抑制する１つの手段として、適切に用いられる限りは、正しいと思われる。<br />
<br />
ただし、本質的に、誰か一人だけが、何かの功績や問題の全ての原因であると考えるのは、事実に反している。例えば、問題の原因を特定個人のみに帰せるならば、その間違った原因分析によって、原因の全てを取り除けず、同じ問題が、繰り返されることになる。<br />
しかし、現代社会の風潮は、特定人物の称賛や批判が多く、そのために、真実の原因と結果の関係がわからなくなるおそれもある。そして、個々人において、慢心、卑屈、嫉妬、依存、怒りなどが生じやすくなっていることには、よく注意すべきである。<br />
<br />
この教えは、阿頼耶識について考えるならば、さらに深めることができる。というのは、全ての衆生には、その深層心理において、全ての現象の源を含む阿頼耶識が内在している。よって、全ての衆生は、潜在的には、宇宙の全ての要素を包含しているが、実際に、自分において現象化しているのは、その要素のごく一部である。<br />
<br />
これは、人体の各細胞が、人体全体のＤＮＡ情報を有しつつ、各細胞で使用され、現象化する情報は、そのごく一部であることと似ている。個々の存在が、潜在的には他の全ての要素を内包しつつ、個々において現象化しているものは、それぞれにおいて違うという構造である。潜在的には全てを共有しつつ、それぞれが顕在化させているものは違うというだけである。<br />
<br />
この意味で、自分にとって、他という存在は、潜在的には、自己にも存在する阿頼耶識の要素を投影している存在であり、他の善も悪も、自分の善や悪と無縁ではなく、自分の教師・反面教師となるものである。<br />
<br />
<br />
<strong>―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――<br />
３　縁起の法を中心とした仏法のエッセンス<br />
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――</strong><br />
<br />
<br />
仏教の教義は、その様々な教えを単に知るだけでは効果が薄い。それら全てのエッセンスを把握して、それを修習することである。<br />
<br />
そして、新団体では、これまで、様々な仏教の思想が説かれてきたので、それを縁起の法という仏法の中核を軸にして、以下にまとめておくことにしたい。<br />
<br />
<br />
<strong>(１)　各種の縁起の法について<br />
<br />
<br />
１．根源的な縁起の法</strong><br />
<br />
釈迦牟尼が説いたとされる、「彼があれば此があり、此があれば彼がある」という教えである。事物が、他の条件（縁）によって生起し、それ自体の力で、他から独立しては生起しないという思想である。<br />
<br />
特に大乗仏教では、人間の思考の対象となる事物（諸法）は、全て縁起しており、相互に依存し合って存在し、固定した実体がない（空）と説かれた（諸法無我・一切皆空）。<br />
<br />
日常生活において、様々な事物が別々に存在すると感じるのは、五感や言葉に基づく思考の中で、仮に区別したにすぎないものを実在する区別だと錯覚しているにすぎない。<br />
<br />
<br />
<strong>２．十二支縁起</strong><br />
<br />
縁起の法の中で、釈迦牟尼が直接説いたもので、無明を根本原因として、人の苦しみが生起していく十二の段階を説いたものである。具体的には、外界に実体があると錯覚する無明（無智）に基づいて、貪り・怒りといった煩悩が生起し、それによって、苦しみに至るという教えである。<br />
<br />
そのポイントは、人の不幸（幸福）の根本的な原因は、外界にはなく、外界は単なるきっかけ（条件）にすぎず、それによって引き出される、自分の内側の無智・貪り・怒りなどの悪業（善業）が、不幸（幸福）の根本的な原因ということである。よって、これは、幸福・不幸は、自業自得であることを意味する。<br />
<br />
この法則に基づいて、人の幸福・不幸は、比較によって生じるとか、貪りには際限がなく、四苦八苦をもたらし、幸福をもたらさないという法則も導き出される。<br />
<br />
<br />
<strong>３．業感縁起</strong><br />
<br />
十二支縁起が説く自業自得の果報が、過去・現世・未来の三世を通して現れて、感受されるという思想である。自分の業を感受するという意味で業感とする。<br />
<br />
<br />
<strong>４．重々無尽縁起（法界縁起）</strong><br />
<br />
世界の全てが、他の全てのものと、密接不可分に関連しているという、究極的な相互依存の関係を説く世界観であり、華厳経に見られる。一切即一、一即一切という言葉でも表されるが、宇宙全体と宇宙のあらゆる微少な部分も密接不可分に関連しているという意味である。<br />
<br />
これは、自と他の区別を超える世界観の一つの究極であるが、現代科学や思想の中にも、量子力学・複雑系・ホログラフィーなどで、似たような世界観が見られる。なお、こうした性質を持つ世界自体を法界と見るので、法界縁起ともいわれる。<br />
<br />
<br />
<strong>５．真如縁起（如来蔵縁起）</strong><br />
<br />
世界の万物が、真如（真理）の現れであるという教え。ただし、仏教では一切に実体がないとする点で、真如も実体視しない。よって、世界が滅すれば、真如も滅するとする。<br />
<br />
世界は大日如来の現れであるとする大乗仏典や密教経典の世界観は、この縁起説に通じるものがあると思われる。<br />
<br />
<br />
<strong>６．阿頼耶識縁起</strong><br />
<br />
この世界の万物が、阿頼耶識という根本心の現れ（変化したもの）であり、現れた万物が、また阿頼耶識を作り変えていくという世界観である。ただし、阿頼耶識自体も、実体視しない。<br />
<br />
<br />
<strong>(２)　縁起の法から派生する重要な教義<br />
<br />
<br />
１．諸法無我・一切皆空</strong><br />
<br />
この世の一切の事物（法）は、縁起しているがゆえに、永久不変の本質（我）はなく、固定した自体はない（空である）と説く教えである。仏教と非仏教を区別する、三法印の１つである。<br />
<br />
<br />
<strong>２．諸行無常</strong><br />
<br />
この世の現象は、全て無常であると説く教え。全ての現象が無常であるのは、全ての現象が縁起しているからである。すなわち、それ自体の力で生じたのではなく、他の原因によって生じた結果であるために（因果関係の中で生起するために）、生じる原因となったものが無常であれば、その結果も、また無常であるということになる。<br />
<br />
例えば、私たち人間は、食べ物となる他の生き物などを条件（縁）として生きているが、これをより厳密に考察すれば、地球に生きる私たちの生命は、他が死んで自分が生きる、自分が死んで他が生きるという、自と他の間の生と死の循環を基本とする相互依存の原則によって成り立っている生態系のシステムに依存している。こうして、生命も、縁起の法が説く相互依存によって生じており、相互に縁起しているがゆえに、相互が無常となる。<br />
<br />
<br />
<strong>３．自我執着の否定（無我・非我の教え）</strong><br />
<br />
無我・無常の教えの中で、一番重要なものは、「私」という自我存在も、他から独立した固定した実体はなく（＝無我）、生まれても、老い病み死んでいく無常なものであるということである。これを人無我ともいう。<br />
<br />
よって、仏教では、「私」、「自我」に対する執着から離れることを説き、特に大乗仏教では、自我執着の対極として、万物を愛して利する慈悲を培うことを説く（小乗的な教えでは、貪り・執着を断ち、輪廻を止滅し、涅槃を説く）。<br />
<br />
なお、自我に執着しないとは、言い換えれば、実際には、自と他の区別は実在しないことを認識し、「私」と呼んでいるものが、万物・宇宙全体と不可分・一体であり、その一部にすぎないと理解することだといってもよい。<br />
<br />
<br />
<strong>４．全ての衆生が仏性を有する（一切衆生悉有仏性（いさいしゅじょうしつうぶっしょう））</strong><br />
<br />
仏性とは、「衆生が本来有しているところの、仏陀としての本性にして、かつまた、仏陀になる可能性の意」である。言い換えると、衆生に本来備わる清浄な心であり、「凡夫や悪人といえども所有しているような仏心（慈悲心）」といわれる。なお、仏性と如来蔵は同義である。<br />
<br />
この全ての衆生が仏性を有するという教えは、全ての生き物を尊重し、愛する上で、決定的に重要な教えである。特に、仏陀を信仰する仏教徒にとっては、自分の信仰対象が、全ての衆生に内在するということになるがゆえに決定的ともいうことができる。そこで、今回は、全ての衆生に仏性があるとする論理的な根拠を検討しておこう。<br />
<br />
まず、釈迦牟尼如来は、かつては自己も凡夫であったと説き、さらに、縁起の法の中で、衆生は、無明による苦しみを経験して、正法に信を持ち、その後に解脱に至ると説いた。また、大乗仏教では、釈迦牟尼の縁起の法を発展させ、一切が縁起し、相互に依存していると説き、如来と凡夫も別々の存在ではないとした。<br />
<br />
また、仏性とは、平易に言えば、凡夫や悪人といえども所有しているような仏心（慈悲心）といわれるが、確かに、どんな悪人でも、仏法を知らない凡夫でも、その人格・言動の一部においては、慈悲・利他心を発現することがあるのは事実であろう。<br />
<br />
さらに、すべての人には、幸福になろうとする欲求があるが、真に幸福になる道は、無明に基づく煩悩の充足ではなく、慈悲・利他心であるから、幸福になりたいという欲求は、ついには、その者を最終的には慈悲・利他の道に導くことになると考えることができる。<br />
<br />
これに関連して、誰もが、他との奪い合いに帰結する煩悩・エゴの充足によってではなく、他を利する慈悲の心によって、幸福を感じる能力・体験がある。もちろん、今現在は、無智・無明のために、真に幸福になる道は、慈悲・利他であることに十分に気がついておらず、多くの場合に、煩悩・エゴ・利己で、幸福になると錯覚し、間違った行動をとることが多い。<br />
<br />
しかし、この失敗の苦しみの経験が、その後に成功を生む。というのは、人は、間違いによって、苦しみを経験すると、その経験から学習し、徐々にではあるが、それを正して、幸福を得ようとする能力があるからである。<br />
<br />
これは、仏性の顕現を阻んでいる煩悩に対する執着にも当てはまり、煩悩による苦しみの経験を繰り返すことで、正法に信を持つ時期が来て、その結果として、解脱に至る智慧が生じるのである。また、これが、先ほど述べた、無明による苦しみを経験して、正法に信を持ち、解脱に至るという仏陀の説いた人の成長のプロセスでもある。<br />
<br />
仏教の輪廻思想では、これは、一生の間に限定されず、延々と続く輪廻の中で、その心の連続体が、様々な経験によって、少しずつ成熟・成長していくととらえる。また、ヨーガにおいても、少なくとも、そういった考えを持つ宗派がある（パラマハンサヨーガナンダの思想など）。<br />
<br />
なお、また輪廻思想を前提としなくとも、人類全体を１つの種として見た際に、先人の体験に基づいて、人類が少しずつ賢くなっているという見方・事実も、これに類するものである。<br />
<br />
もちろん、宗教や神話には、洪水伝説のように、人類が一直線に進歩しているのではなく、定期的に滅亡を繰り返しているという考えもある。しかし、それが仮に事実であったとしても、非常に長い目で見れば、人類が進歩する可能性を否定しない。<br />
<br />
というのは、そういった失敗の経験が種としての人類の記憶に（宗教や神話の形で）残っていることが、最終的には同じ失敗を乗り超える智慧が生じる時が来ることを信じる根拠となるからである。<br />
<br />
個々の衆生の場合も、死によって生前のことは、ほとんど忘却するものの、潜在意識には記憶は残り、生と死を繰り返す体験を経る中で、死を含めた自我の無常を悟る力は増大していくと考えられるが、人類という種全体もそうであろう。<br />
<br />
さて、こうした根拠があるにもかかわらず、私たちが、日常生活で、全ての人々・衆生に仏性を認めることができないのは、仏性のない人・生き物があるのではなく、自分たち側の無智・貪り・怒りなどの心の汚れによるものである。例えば、誰かについて、自分の利害を損なうとか、たいていの人は、自分の利害とは関係ないといった思い込みによって、対象に仏性を認められなくなるという心理が働いている。<br />
<br />
よって、これまで述べてきた様々な法則によって、万物への感謝・尊重を深めるなどして、こういった汚れを取り除いていけば、全ての衆生の仏性が見えてくるし、自分の仏性も顕現していくだろう。<br />
<br />
最後に、仏性＝如来蔵の概念は、『究竟一乗宝性論（くきょういちじょうほうしょうろん）』『仏性論』などの経典においては、以下のように精密に解釈されているので付け加えておく。<br />
<br />
(1)所摂蔵（しょしょうぞう）<br />
衆生は、如来の胎児として、如来の内に蔵せられている。<br />
&rarr;衆生は、宇宙大の如来の法身に包摂されており、その一部であるという意味。<br />
<br />
(2)隠覆蔵（おんぷくぞう）<br />
衆生が胎児として、真如（真理）たる如来そのものを宿している。<br />
&rarr;衆生は如来と同じ本性(真如）を有するという意味。<br />
<br />
(3)能摂蔵（のうしょうぞう）<br />
衆生の胎児は、如来性という将来如来たるべき因に他ならない。<br />
&rarr;衆生は、如来の因（＝仏性）を有するものという意味。<br />
<br />
<br />
５．凡夫即仏・輪廻即涅槃・煩悩即菩提<br />
<br />
この教えには、二つの解釈があると思われる。まず、第一に、自分が煩悩を滅して、仏陀の悟りの境地に入れば、凡夫も仏に見え、輪廻の世界も仏の浄土（涅槃の世界）と見え、その意味で、煩悩の働きも菩提心の働きに見えるというものである。<br />
<br />
これは、悟りの境地に至らなくても、カルマ・ヨーガに基づいて、全ての存在を教師・反面教師の導き手と見ることを徹底するならば、こういった心境に近づくことが、可能であると思われる。<br />
<br />
次に、凡夫は、その煩悩の苦しみを経て、ダルマに信を持ち、菩提心を得て、ついには仏陀になり、そのような凡夫の生きる輪廻の世界は、涅槃に至る道である、という解釈である。これは、凡夫＝仏というのではなく、凡夫＝未来の仏、煩悩＝未来の菩提心、輪廻＝涅槃への道という意味となる。<br />
<br />
&nbsp;
]]>
   </content>
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   <title>【仏教講義】２００８年　夏期お盆セミナー瞑想テキスト</title>
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   <id>tag:www.joyus.jp,2010:/lecturetext//31.2046</id>
   
   <published>2010-12-31T10:35:09Z</published>
   <updated>2011-03-03T14:01:25Z</updated>
   
   <summary><![CDATA[ 第１章  縁起の法 &nbsp; １　縁起の法の定義 「縁起（えんぎ）の法」は...]]></summary>
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         <category term="21世紀のための仏教講義" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[<p>
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<span style="font-size: large"><strong>第１章  縁起の法</strong></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>１　縁起の法の定義</strong></span>
</p>
<p>
「縁起（えんぎ）の法」は、仏陀の悟りの本質といわれ、釈迦牟尼は、「縁起を見る者は法を見る、法を見る者は私（仏陀）を見る」と語ったとされる。
</p>
<p>
同時に、釈迦牟尼は、「この法は自分独自の法ではなく、普遍的な真理である」と考えていたようであり、「この甚深なる法は 私が作ったものでもなければ、他人が作ったものでもなく、如来が世に出ても出なくても、それに関係なく、法として定まっている」と語ったとされる。
</p>
]]>
      <![CDATA[<p>
さて、「縁起」の原語であるサンスクリット語は、「pratiitya-samutpaada（プラティーティヤ・サムトパーダ）」であり、『岩波 仏教辞典』（岩波書店）によって、この原語の意味を解釈すると、「一切のものは種々の因（原因・直接原因）や縁（条件・間接原因）によって生じる」という考えを表すという。
</p>
<p>
また、この解釈に沿った見解として、「縁起」は、「因縁生起」の略である、とする文献もある。
</p>
<p>
縁起の「縁」（pratyaya〈プラティヤヤ〉）とは、広い意味では、原因一般、あらゆる条件をいう。狭い意味では、「縁」は「因」と区別されて用いられ、「因」（hetu〈ヘートゥ〉)が、結果を引き起こすための直接的・内的原因を意味し、「縁」が、これを外から補助する間接的原因をいう。
</p>
<p>
また、「因縁」という言葉があるが、これは因と縁を「同じ意味」と見て、１つに結びつけたものであり、原因一般をさす。さらに、「因縁生」という言葉は、「すべては因縁によって生じている」と説くもので、これは「縁起」と同じ意味になる。
</p>
<p>
縁起の法は、因果の法、カルマの法則と同じである側面もある。しかし、縁起の法は、過去の原因のために未来の結果がある、といった「時間的な」因果関係に限った法則ではなく、「時間と空間」を含めた、あらゆる事物に関わる法則として解釈されている。
</p>
<p>
その中で、縁起の法は、「すべてのものは、そのもの自体で独立して生じている（存在している）のではなく、他を原因・条件として（他に依存して、他との関係に基づいて）、生起している」というように解釈される。<br />
これは、Ａというものがあったとしても、それは他のＢなどがあればこそ存在しており、「ＢがなければＡは存在しない」ということである。言い換えると、「この世のすべてのものは、相互依存によって存在し、相互の関係性によってのみ現象している」という意味となる。よって、「自分だけで、個別に独立的には存在しない」ということである。
</p>
<p>
この思想は、『華厳経』などの大乗仏典になると徹底的に拡張されて、宇宙の微少な一部分に対して、宇宙全体が関連している（一即一切・一切即一〈いちそくいっさい・いっさいそくいつ〉）といった解釈にまで発展した。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>２　縁起の法と空など</strong></span>
</p>
<p>
この縁起の法は、ナーガールジュナ（龍樹）などが展開した大乗仏教が強調する、「空（くう）」「無自性（むじしょう）」「仮（け）」という概念と密接に関係し、一体となっている。
</p>
<p>
「空」とは、「固定的実体のない」、「実体性を欠いている」という意味である。
</p>
<p>
それに対して、縁起の法は、「すべてのものは独立して存在せず、他を条件として生起する」と説いており、これは、すべてのものは、それを生起させている条件がなくなれば消滅することを意味するから、縁起の法に基づいて、「すべてのものは、固定的な実体がない＝空である」という結論が導き出される。
</p>
<p>
「無自性」とは、「自性がない」という意味である。自性とは、「それ自身で独立している実体、孤立的に存在する本体」をいう。
</p>
<p>
これに対して、縁起の法は、「すべてのものは独立して存在せず、他を条件として生起する」と説くから、「すべてのものは、独立した実体はない」（＝無自性である）という結論が導き出される。
</p>
<p>
「仮」とは、「真とか実ではなく、現象として仮にあること」をいう。「仮」は、仮説・施説（けせつ・せせつ）とも表現されるが、これは仮に設定されたものといったほどの意味であり、「すべては実体を持って存在しているのではなく、仮に現象したもの」という意味であろう。
</p>
<p>
なお、仏教用語としての「縁起」は、物事の原因（＝結果の前兆）に関する言葉であるため、そこから転じて、「縁起を担ぐ」、「縁起が良い悪い」などという風俗や習慣が生じ、神社仏閣が作られた歴史的な背景・伝説を指す言葉にもなった。
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong><br />
３　縁起の法の解釈の歴史的な推移</strong></span>
</p>
<p>
縁起の法は、原始仏教から大乗仏教・密教に至る仏教の変遷の中で、その解釈も大きく変化してきた。まず、原始仏教の時代の縁起説は、生き物の苦しみの原因を説く「十二支縁起(十二因縁)説」が代表的なものであった。
</p>
<p>
次に、部派仏教時代には、「業感縁起説（ごうかんえんぎせつ）」を説いた。これは、過去世・現在世・未来世の三世にわたる業（カルマ）の因果関係として、縁起の法を見る教えとされる。
</p>
<p>
なお、この時代の主流の縁起の法の解釈は、後世の大乗仏教とは違う点がある。それは、「私」と呼ばれる、主観的な「我」は、実体がないとするが、物質や心といった、客観的な事物の類型＝「法」には実体がある、とした点である。これを「我空法有（がくうほうう）」、「人空法有（にんくうほうう）」などという。
</p>
<p>
一方、『般若経』などの大乗仏教では、「一切を空」として、一切の実体的な存在を排除し尽くした。すなわち、人も無我だし、法も無我である（人無我・法無我）。この空の理論の大成は、ナーガールジュナらによって果たされた。
</p>
<p>
ナーガールジュナは、「あらゆる存在が、それらを表現する言葉自体まで、縁起によって成立している（すなわち相互に依存しあって存在している）」と明確に論じ、すべてにおいて、独立の実体＝自性を完全に否定し、「無自性」であり、「空」であることを徹底したのである。
</p>
<p>
また、部派仏教までの縁起の法は、悟りの世界(無為)は、縁起の法の対象に含まれておらず、悟りは、「縁起の滅した世界」とされた。
</p>
<p>
ところが、大乗仏教に至って、悟りの世界も空・無自性とする『般若経』の縁起観が基盤となった。そこでは、「迷いも悟りも、固定的な自性を持たないもの」とされた。そして、「煩悩即菩提」、「生死即涅槃（しょうじそくねはん）」といった解釈がおこなわれた。
</p>
<p>
これは、「煩悩」と「菩提心」や、「生死・輪廻」と「涅槃」とは、一見して別に見えるが、実際には、互いに独立した別のものではなく、縁起の法に従って、本質的には一体である（不二、相即〈そうそく〉）という意味である。
</p>
<p>
「煩悩即菩提」とは、煩悩と悟りとは本来は不二であり、煩悩がそのまま悟りの縁となるということであるが、これは、「煩悩による苦があるがゆえに解脱に至る信が生じる」とか、「煩悩が昇華されて慈悲になる」とか、「大煩悩大解脱」といった思想に通じる面がある。<br />
「生死即涅槃」とは、悟った仏の智から見たならば、迷える衆生の生死の世界そのものが、不生不滅の清浄な涅槃の境地であり、厭うべき生死もなく、求むべき涅槃もないという意味である。
</p>
<p>
また、大乗仏教の１つの特徴として、 「如来蔵（＝仏性）」の思想があるが、それに関連して、この世界は、如来蔵が、縁に従って現れたものと説く「如来蔵縁起」がある。
</p>
<p>
また、華厳宗が説く「法界縁起」(重々無尽縁起〈じゅうじゅうむじんえんぎ〉)では、「一即一切・一切即一」という言葉があり、これは、一部分がそのまま全体であり、全体がそのまま一部分であるといった意味で、この世界のおのおのの現象が、限りなく関わりあい、一体的であることを意味している。
</p>
<p>
さらに、唯識派が説く「阿頼耶識縁起説（あらやしきえんぎせつ）」というものがあり、これは、人の意識の深層に、業が蓄積された「阿頼耶識」があり、この世は、その阿頼耶識が現れたものである、という考えである。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>４　３つのレベルの縁起の法</strong></span>
</p>
<p>
チベット密教ゲールク派で説かれる縁起の法には、３つのレベルがある。
</p>
<p>
まず、第１のレベルの縁起は、「ある原因の結果として生じる事物」、「因果関係にある事物」に関する縁起の法である。具体的には、輪廻の中で行われた行為（原因）とその結果を説明する「十二支縁起」の教えである。
</p>
<p>
そして、この「十二支」とは、無智（無明）、行為（行）、意識（識）、名称と色形（名色）、六つの領域（六処）、接触（触）、感受作用（受）、欲求（愛）、執着（取）、生存（有）、誕生（生）、老衰と死（老死）の十二の項目のことである。
</p>
<p>
この第１のレベルの縁起は、「因果関係にある事物」に適用されるために、「無常な事物」にのみ適用されるが、第２レベル以降の縁起は、「無常な事物」にも、「常なる事物」にも、適用できる思想である。
</p>
<p>
第２のレベルの縁起は、「あらゆる事物が、それを構成している部分に依存している」ということである。「部分を持たない事物」は存在せず、あらゆる事物は、その部分に依存して「仮に設定（仮説）」されたものであるということを説く。
</p>
<p>
例えば、「私」というものを例にとってみると「私」という「全体」は、その肉体や心といった「部分」に依存して存在しており、「私」とは、さまざまな要素の集合体である。逆にいえば、「私」という単一の独立したものが存在していて、それ以上の部分に分けることができない、ということはない。
</p>
<p>
第３のレベルの縁起は、「深層のレベルの縁起」とされ、人の思考の対象となるあらゆる事物は、ある基体の上に、「言語」や「概念」によって「仮説されたもの」にすぎないということを説く。
</p>
<p>
これは、逆にいえば、「言語」や「概念」なしには、思考の対象となる事物は生起しえない、という意味である。人の思考自体が、「言語」に基づく以上、これは明らかであろう。
</p>
<p>
例えば、仮に、「私」とか、「外界」という言葉をまったく知らない人がいたとすれば、その人には、「私」と「外界」といった認識は生じないだろう。また、「山」と「平地」という言葉を知らない人も同様である。どこまでが、山でどこまでが平地かという境界などは、実際にはないからである。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>５　十二支縁起</strong></span>
</p>
<p>
仏陀は、『稲竿経（とうかんきょう）』において、十二支縁起を詳述している。そのエッセンスをまとめると、以下の通りである。
</p>
<p>
（１）これがあることによって、かれがある。これが生じることによって、かれが生じる。
</p>
<p>
（２）無智によって、行為（行）が生じ、行為によって、意識（識）がある。意識によって名前と色形（名色）がある。名前と色形によって六つの感覚領域（六処）がある。六つの感覚領域によって接触（触）がある。接触によって感受作用（受）がある。感受作用によって欲求（愛）がある。欲求によって執着（取）がある。執着によって「生存」と呼ばれる成熟した業（有）がある。生存によって誕生（生）がある。誕生によって老衰と死（老死）がある。
</p>
<p>
これは、仏教思想の特徴を示している。仏教は、「この世の現象を創造したものとして、絶対神を主張（強調）」したり、「この世に永久不変なものが存在する」とは説いたりしない。インドのサーンキャ哲学が説く、「永久不変である真我と自性」などは説かない。
</p>
<p>
代わりに、一切の現象は、「原因・条件によって生じた（＝縁起した）ものである」と説き、この世のすべての現象は、「無常な原因によって生じている、無常な現象である」といった考え方を採る。
</p>
<p>
そして、具体的に輪廻の事物は、どのような無常な原因や条件によって生じているか、というのを説明したのが、「十二支縁起」である。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>６　「無智（無明）」は輪廻の根本原因</strong></span>
</p>
<p>
十二支縁起の最初の「無智（無明）」は、諸事物（諸法）の実相を理解していないこと、「すべてのものが空（くう）であること（空性）」に暗いことを意味する。
</p>
<p>
すなわち、「ものが現実にはいかに存在しているか」についての無智であり、ものごとをその真の様相とは反対のものとして認識する誤った意識である。
</p>
<p>
ナーガールジュナは、「原因と条件によって生じたにすぎない事物を真実に存在するものである、と執着する意識は、仏陀によって&quot;無智&quot;と呼ばれている。この無智から縁起の十二支が生じるのである。」と述べている。
</p>
<p>
無智に覆われていると、この世のものは、確たる存在であるように感じられるが、真実は、「空である（固定的な実体がない）」というのである。すべてのものは、「そのもの自体で独立して存在せず、他の原因や条件に依存し、絶えず変化し続けている無常なものであり、実体がない」ということである。
</p>
<p>
よって、空とは、まったくない、まったく存在しない、という意味ではなく、「実体をもって存在しているのではない」という意味であり、「幻影のようなもの」であって、「目には確かに見えるが、実体はないから、執着に値しないものである」ということである。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>７　２つの無智</strong></span>
</p>
<p>
無智は、２つのタイプに分けられる。１つ目は、「輪廻の主体」（人）が、実体的な存在（我）であると錯覚する無智である。もう一方のタイプの無智は、「あらゆる事物」（法）を実体的な存在（我）であると錯覚する無智である。
</p>
<p>
これは、それぞれ「輪廻の主体に、実体性を認める意識」（人我執〈にんがしゅう〉）、「事物に実体性を認める意識」（法我執）と呼ばれる。
</p>
<p>
先に解説したが、部派仏教の最大宗派では、「輪廻の主体に実体性を認める意識」（人我執）は否定したが、「事物に実体性を認める意識」（法我執）は肯定して、「人空法有」という説を主張したが、大乗仏教は、両方とも否定したのである。
</p>
<p>
さて、「輪廻の主体に実体性を認める意識」とは、「輪廻の主体」が、実体として存在していると考える意識である。これは、「刹那ごとに壊れる心身を構成する五つの集まり（五蘊）である身を、実体的な存在であるととらえる誤った見解」（有身見）を含む。
</p>
<p>
この点について、ナーガールジュナは、「自分の身体を、なにものからも自立して存在するものとする、生来の誤った見解＝有身見が、輪廻の根本である。それは、（中略）&quot;自己&quot;という名前が付けられる基体となっている、心身を構成する五つの集まり（五蘊--心、肉体など）を、実体的存在として執着するところから生じるものである。」と述べた。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>８　仏教の漢訳語としての「我」「法」の特殊な意味</strong></span>
</p>
<p>
ここで注意すべきは、ここでの「我」という言葉は、「私」とか、「私たち」といった普通の意味ではなく、サンスクリット語の「アートマン」（atman）の漢訳語であり、「実体的な存在」とか、「ある存在を、そのものたらしめている永久不変の本質」のことを意味することである。いわゆる「真我・真実の自己」とも呼ばれるものである。
</p>
<p>
そして、仏教以外のインドの哲学（ヒンドゥー・ヨーガなど）においては、個人の根本として、永久不変の「アートマン」（我）を認めたが、仏教は、そのような「我」は否定したのである。仏教では、実際には、一切は空であり、そういった「我」は一切存在しない、と説いたのである。
</p>
<p>
ただし、後で詳しく述べるが、アートマン・真我の存在の否定は、仏教の伝統的な主流の教義においての話であって、釈迦牟尼自身がアートマン・真我を否定したか、という点になると、当時の釈迦牟尼の言説を調査・研究する専門家の間で、異論を唱える人たちが少なからずいる。
</p>
<p>
次に、ここでの「法」とは、教えとか法律という意味ではなく、「事物」を意味する漢訳語であり、サンスクリット語では「ダルマ」である。
</p>
<p>
というのは、サンスクリット語のダルマには２つの意味があり、１つが、よく知られている「仏陀の教え」としてのダルマ・法則という意味であり、もう１つが、「あらゆる存在・事物」という意味なのである。ただし、中国の漢字の「法」という文字には、一般には、後者の意味（存在・事物）はない。仏教用語の「法」のみに、後者の意味があるのである。
</p>
<p>
これに関連して、仏教には「諸法無我」という教えがあるが、これは、「すべての仏陀の教えには、私はない」という意味では決してない。それは、「すべての存在・事物には、永久不変の本質はない、実体はない」という意味である。<br />
<strong><br />
<br />
<span style="font-size: medium">９　五蘊について</span></strong>
</p>
<p>
ここで、心身を構成する五つの集まり（五蘊）について解説しておこう。<br />
<br />
五蘊とは、「五つの集まり」といった意味で、仏教では、心身を構成する五つの集まりをいい、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊と漢訳されている。
</p>
<p>
「色蘊」とは、「色の集まり」という意味だが、この「色」とは、いろ・形あるもの、という意味で、仏教では、物質的存在の総称である。よって、例えば、肉体や血液などを意味する。
</p>
<p>
「受蘊」とは、「感覚の集まり」の意である。「受」とは、眼（視覚）・耳（聴覚）・鼻（嗅覚）・舌（味覚）・身（触覚）・意識を通して生じる苦楽等の感覚・印象のこと。いわば、「知覚作用」とも表現できる。
</p>
<p>
「想蘊」とは、「表象作用の集まり」の意である。「想」とは、心の働きの１つで、事物の形象を心の中に思い浮かべることを意味する。「表象作用」とか「イメージ」と訳することができる。
</p>
<p>
「行蘊」は、訳が難しいが、ダライ・ラマ法王は、「形成力の集まり」と訳されている。この「行」と訳されるサンスクリット原語は多数あるが、この文脈の「行」の原語は、samskaara（〈サンスカーラ〉形成力、形成されているもの）とか、samskrta（〈サンスクリタ〉形成されたもの、有為）と思われる。
</p>
<p>
「識蘊」の訳としては、ダライ・ラマ法王などは、識を「意識」と訳し、「意識の集まり」と訳されている。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>１０　刹那生滅と心相続</strong></span>
</p>
<p>
さて、「刹那ごとに壊れる心身を構成する五つの集まり」（五蘊）という点についてであるが、仏教哲学では、「刹那滅」（刹那生滅）という考えがある。
</p>
<p>
これは、この世の変化というものは、前の瞬間と次の瞬間で少しずつ変化しているのではなく、「一瞬一瞬、前の瞬間のすべてが滅して、次の瞬間のすべてが生じている」という見方である。
</p>
<p>
今の瞬間Ａに生じている現象Ａは、その瞬間に現象化する原因Ａの結果Ａであり、次の瞬間Ｂにおいては、前の瞬間Ａの原因Ａと結果Ａはすべて消滅し、そこで現象化するのは、瞬間Ｂに現象化するべき原因Ｂの結果Ｂであると解釈するものだ。
</p>
<p>
そして、これは身体や心に当てはまり、私たちは、普通、自分の身体や心は「１つのものである」と考えるが、「刹那生滅」の説は、身体と心は「瞬間瞬間に生成と消滅を繰り返しており、１つの何かが続いているのではない」と考える。
</p>
<p>
なお、瞬間瞬間において、前の心は滅し、次の心が生まれるが、記憶やカルマは、「前の心」から「次の心」に継承されると考え、これを「意識の連続体」「心相続〈しんそうぞく〉」などと呼んでいる。
</p>
<p>
こうして、仏教では、「肉体を離れて死後も存在している（とされる）霊魂」、あるいは「神秘体験によって直感される自己の深奥にある（とされる）真の自我」などは認めない。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>１１　欲望や怒りの原因に、自己の実体視・固定化がある</strong></span>
</p>
<p>
仏教では、私たちの「欲望」や「怒り」を吟味すると、それらが、自分自身を「非常に固定したもの」として考えることから生じていることがわかる、と説く。
</p>
<p>
その「固定化」のため、自と他の間に、強い「線引き」が行われ、ある者に愛着を感じ、他の者に怒りを覚えるようになる。
</p>
<p>
こうして、このように「欲望」と「怒り」は、自分を「固定した実体のある確たる存在」として、「過大視」することを基礎にしている。
</p>
<p>
確かに、世俗的な意味で、「自分」「私」といった行為の主体、すなわち、業を積む主体が存在することは事実である。この「私」が、これらの業の結果として苦その他もろもろの結果を引き受けている。
</p>
<p>
しかし、問題は、私たちの心が、実際に存在しているもの以上に、実体的な「私」を認めている＝感じてしまっていることである。実際には、「心身を構成する五つの集まり（五蘊）」の上に「私」と名付けられただけにすぎない。
</p>
<p>
ところが、単に「心身を構成する五つの集まり」（五蘊）に依存して、単に「私」という名前が付けられたもの、とは見えずに、あたかも、それ自身が独立した実体を持っているかのように感じている。
</p>
<p>
これをさらにわかりやすくいえば、私たちは、「私」と言ったり、考えたりするときに、何か単一、単体の「私」というものが存在し、その意味で、「私」に実体がある、と感じている。
</p>
<p>
しかし、実際には、「心身を構成する五つの集まり」を総称して「私」と名付けているだけである。これを例えるならば、「５つの別々の会社」を総称して、「私」と呼んでいるうちに、「５つの会社」とは関係なく、あたかも、「私」という１つの会社があるかのように錯覚している、ということである。この意味で、「私」という会社には、実体がないのである。
</p>
<p>
また、この五つの集まりのそれぞれを観察しても、それらも皆、また「実体がない」ことがわかる。例えば、私たちの肉体は、刻一刻と変化し、老い病み死んでいく、無常で「固定した実体のないもの」である。思考・感情といった精神的な要素も、絶えず生じては滅し、無常であり、「固定した実体」は存在しない。
</p>
<p>
これを再び前の例えでいうならば、「私」という会社がないだけでなく、「肉体」を含めた５つの会社も、実際には、それぞれが、多くの会社の集まりを総称して名付けられたものにすぎず、「肉体」という１つの会社はないのである。
</p>
<p>
これが、「五蘊無我」といわれる法則である。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>１２　人の世界の感じ方と世界の実際のあり方の違い＝無智の本質</strong></span>
</p>
<p>
こうして、「私」というものは、私たちが普段感じているようには、実際には存在していないのである。それは、普段は、「実体のある具体的なもの」と感じられるが、考察すれば、「実体がないもの」だとわかる。
</p>
<p>
これに関連して、仏教では、「人生は幻である」というが、正確には「幻と似ている」ということである。すなわち、何も存在しないというのではなく、「人が感じるようには存在していない」という意味なのである。
</p>
<p>
例えば、実際には「無常」なのに、「常住」（永久のもの）と見えるとか、実際には「苦しみの源」である煩悩が、一見すると「快楽の源」と見えるとか、実際には「実体はない」のに、「実体がある」ように見えるということである。
</p>
<p>
こうして、事物の「真実のあり方」と、「人の感じ方」の間には違いがあり、これが無智の本質である。すなわち、無智とは、「人は、事物が実際に存在しているようには、存在していると感じない」という状態のことなのである。
</p>
<p>
このことに努めて注意し、事物をありのままに理解することが、無智を止滅し、煩悩と苦しみを止滅する修行の本質である。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>１３　無智が、欲望と怒りを生み出す</strong></span>
</p>
<p>
「欲望」（貪り）には、さまざまな種類や段階がある。
</p>
<p>
最初の段階では、対象は単純に意識に現れる。このときには「欲望」はまだ生じておらず、単に「認識」されている。次に、「これは本当にいいものだ」と感じ、「それが欲しい」という感情が生まれる。さらに、「その品物を買おう」と決めて、買って、それを自分のものとして愛玩するようになると、これが３番目の段階になる。
</p>
<p>
最初の段階では、対象が（実際には実体はないが）「実体的な存在」として意識に現れ、２番目の段階では、「対象に実体があるという認識」に基づいて、「欲望」を引き起こし、３番目の段階で、「自分のもの」としたときに、意識は、それを「非常に価値のあるものである」と思い、「強力な所有観念」に巻き込まれる。
</p>
<p>
３番目の段階では、２つの無智から生じる執着が一体となるので、執着・欲望が高まることになる。その２つとは、「対象に、実体を錯覚して素晴らしいと思う執着」（我所執〈がしょのしゅう〉）と、「自分自身に、実体を錯覚して愛著する執着」（我執〈がしゅう〉）である。
</p>
<p>
同じことは「怒り」にも当てはまる。第１に、対象が「実体的な存在」として意識に現れ、第２に、その「実体を錯覚した意識」に基づいて、「これは本当に悪いものだ」と思い、「怒り」が生じる場面に至り、第３に、それが「自分自身に害をもたらす可能性がある」ように思われたとき、さらに、「より強い怒り」へと展開する。
</p>
<p>
こうして、対象が実体として存在していると思い込む「無智」は、「欲望」と「怒り」の両方を助長する。このように無智（無明）は他の煩悩の根本となっている。仏教の三毒（無智・貪り・怒り）の根本には無智がある、ということである。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>１４　「行為（行）」が未来の経験を決定する</strong></span>
</p>
<p>
このような無智によって、十二支縁起の２番目の項目「行為」が生じる。行為は苦しみ、楽しみなどといった効果を生み出すので「形成力」とも呼ばれる。行為は新しい結果を生み出す一連の流れの端緒となる。
</p>
<p>
命あるものによって行為がなされると、それは心に「潜在力」（習気〈じっけ〉）を生じる。この「潜在力」（ないし「その行為が過去のものとなった状態」）は、その結果を生じるまでは消滅することなく、潜在的に存続し続ける。
</p>
<p>
行為は、いったんなされるや、その結果を生じるまで、消滅することなく、意識中に潜在的に存続し続ける。今生から来世に向けてつながっている「意識の連続体」（心相続）は、この潜在力を、その行為が成熟して結果を生み出すときまで運び続ける。
</p>
<p>
この「行為」が、未来のわれわれの体験を決定する「潜在力」を「意識（識）」（縁起の３番目の項目）の中に形成する。
</p>
<p>
こうして、仏教は、「一切に実体がなく、無常である」と説く一方で、同時に、インド哲学の「カルマの法則」を継承しており、具体的には、行＝行為は、「生じては滅する無常なもの」であるが、行が滅した後に、「潜在力」（習気）が生じ、それが、意識の中に蓄積され、その意識が、今生から来世まで連続していき、「来世において結果が生じる」と説く。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>１５　受胎した直後に「名称と色形（名色）」が生じる</strong></span>
</p>
<p>
次の「名称（名）」は、五蘊の内の４つ、すなわち、「心を構成する４つの集まり」を指す。それは、感覚（受）、表象作用（想）、行為（行）、意識（識）である。
</p>
<p>
一方、「色形（色）」は、「体を構成する集まり（色蘊）」である。
</p>
<p>
これを人間の生成と関係づけるならば、「名称」と「色形」の時期は、受胎した胚が五感を生ずるまでに成長する期間にあたっていると解釈されることがある。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>１６　苦しみを乗り越えるには</strong></span>
</p>
<p>
こうした「十二支縁起」のプロセスを経て、人は誕生するが、誕生すれば、その潜在力に応じて、老・病・死を含めた、さまざまな苦しみを経験することになる。
</p>
<p>
そして、それらのすべての苦しみの原因は、「無智」に起源を発していると説くのが「十二支縁起の法」であり、よって、「無智を取り除く修行」が、苦しみを取り除く根本となる。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>１７　付属解説・資料</strong></span>
</p>
<p>
<strong>（１）「全体が部分に依存して存在していること」の科学的な分析：肉体を事例として</strong>
</p>
<p>
先ほど、「第２のレベルの縁起」の解説として、あらゆる事物が、それを構成している部分に依存しており、部分を持たない事物は存在せず、その部分に依存して「仮に設定されたもの」であるという教えを解説した。
</p>
<p>
その例として、「私」という「全体」は、その肉体や心といった「部分」に依存して存在しており、さまざまな要素の集合体であって、「私」という単一の独立したものが存在していて、それ以上の部分に分けることができない、ということはない、と述べた。
</p>
<p>
<br />
この点について、例えば、私たちの「肉体」を例にとって考えてみよう。私たちが、五感と日常の意識でとらえている「肉体」は、「肉の体」と呼ばれているように、「肉や骨などの固まり」であると感じられるものである。
</p>
<p>
しかし、それを厳密に観察すれば、それらは、「肉や骨などの固まり」ではなく、「さまざまな要素の集合物」であることがわかる。この際、現代の私たちは、釈迦牟尼の時代よりも恵まれていて、科学の知識や科学の目の力を借りることができる。
</p>
<p>
私たちの肉体は、私たちの肉眼には、一見して「肉の固まり」のように見えるが、実際には、「さまざまな細胞の集まり」からできている。その細胞の集まりを私たちは顕微鏡を通して見ることができる。では、細胞の集まりが、私たちの体の実体・根源であるかというと、そうではない。
</p>
<p>
こうして、私たちの肉体は、顕微鏡を通した目には、一見して「細胞の集まり」のように見えるが、実際には、「原子・分子の集まり」からできている。この原子・分子の集まりを私たちは電子顕微鏡で見ることができる。では、原子・分子が、私たちの体の実体・根源であるかというと、そうではない。
</p>
<p>
こうして、私たちの肉体は、電子顕微鏡を通した目には、一見して「原子・分子の集まり」のように見えるが、実際には、「さらに微少な存在の集まり」からできている。これを観測するに、最新の観測装置が必要になる。
</p>
<p>
さて、物理学では、物質の最小単位を意味する言葉として、「素粒子」という言葉を設定した。そして、最初は「ハドロン」と呼ばれるものが素粒子だと考えられていた。しかし、その後、ハドロンは、さらに「クオーク」や「レプトン」と呼ばれるものから構成されていることがわかった。<br />
今のところ、実験的事実からは、クオークやレプトン以上に微少な存在は発見されていないので、この２つが素粒子とされているが、理論的には、それらを構成する「サブクォーク」というものが議論されており、もし、発見されれば、それが素粒子に取って代わる。<br />
<br />
こうして、私たちは、日常において、「１つの私の肉体がある」と感じているが、実際に存在しているものは、それとは大きな違いがあり、まさに、「さまざまな要素の集合体」にすぎないのである。
</p>
<p>
<strong><br />
（２）「人間の感じ方と実際の存在の違い」が「現実とは実体がない」ことを示す</strong>
</p>
<p>
実際に物が存在するあり方と、人間の感じ方が違うことを述べたが、科学的に考察すれば、これは、ある意味で当たり前のことである。
</p>
<p>
実際に、私たちが、日常において感じているものは、実際に外界に存在しているものを直接とらえたものではなく、「五感」を通して入ってきた情報を脳で処理し、それを日常の知性で解釈したものにすぎない。それは、「自分の脳の中の情報処理」であって、「実際に外界に存在しているもの自体」ではない。
</p>
<p>
よって、同じものを見ても、「人間の目」で見た場合と、「他の生き物の目」で見た場合は違うし、「顕微鏡、電子顕微鏡」で見た場合は大きく違う。「同じ水を見ても、神々と人間と餓鬼では大きく違う」という仏典の話も、これと同じことである。
</p>
<p>
この意味で、生き物が経験している「現実」というものは、１つしかないものではなく、それをとらえる生き物の側の、さまざまな肉体的・精神的な条件によって、さまざまに作り出されるものである。
</p>
<p>
これを言い換えれば、「外界にはこれがある」というものは、本質的には存在せず、外界を観察する側と外界との相互関係の中から、観察する側に、「これがある」という意識が生じるにすぎないのだ。
</p>
<p>
こうして、私たちが、「外界に存在していると感じているもの」は、実際に存在しているもの自体ではなく、それを観察する側の条件によってまったく変化してしまう「実体のないもの」なのである。
</p>
<p>
そして、これは、「すべての事物は相互に依存しあって存在し、独立した実体を有さない」と説く、縁起の法そのものである。
</p>
<p>
というのは、外界には、外界を観察する側から独立して、「確かにこれがある」という実体のあるものはなく、観察する側と外界が相互に依存しあって、観察する側の条件に応じて、「これがある」という感覚を生じさせているにすぎないからである。
</p>
<p>
また、これを理解すれば、「私たちが経験している世界の現実は、私たちの心の現れである」と説く仏教の思想（例えば唯識派の思想）もよく理解できるだろう。
</p>
<p>
例えば、私たちが知覚している「現実」という本質とは何かといえば、それは、私たちの「外」にあるのではなく、私たちの「脳の中の情報処理」の結果だからである。五感から送られた情報を、私たちの脳が処理した結果が、私たちが感じている「現実」なのである。
</p>
<p>
もちろん、この場合でも、外界には何もないわけではない。そこには何かがある。しかし、少なくとも、私たちが感じているものは、「外界そのもの」ではない。それは、「私たちの五感や意識が、外界と相互作用して、作り出したもの」にすぎないのである。よって、生き物の数だけ、外界・現実は存在し、作り出されるのである。
</p>
<p>
<br />
<strong>（３）「縁起の法」や「空」に関する密教経典の解説</strong>
</p>
<p>
今回の教学の参考になる講話として、ラマ・ケツン・サンポ師のチベット密教ニンマ派の経典の解説を引用しておく。
</p>
<p>
<br />
<strong>① 現実とは、心が作り出す、幻影のようなものである</strong>
</p>
<p>
ふつう、人間が現実と呼んで、その中で泣いたり笑ったりしているこの世界は、貪り、瞋り、愚かさなどに汚された人間の心が、つくり出した幻影、夢、かげろうなのである。それなのに人間は、五感や思考がとらえる現実こそが、唯一のよりどころだと思いこんでいる。ところが、現実とはもっと多層的につくられているものなのだ。
</p>
<p>
人間とはちがう心のありようをしているものたち、例えば動物や餓鬼や地獄の住人には、現実がまったくちがう相貌をしている。人にはただの河と見えるものが、餓鬼には膿の河に見える、とヴァスヴァンドゥ（世親）も書いている。現実とは、それぞれの生き物が、彼らの生命条件にあわせて、みずからつくりだしているものなのである。
</p>
<p>
現実とは心がつくり出すものである。そうであってみれば、今あなたがいるこの場所も、三悪趣にいるものたちの心をもって見れば、たちどころに三悪趣の現実に変貌してしまう。同じように、ありきたりの人間の心に束縛されていれば、この場所が同時に浄土であることがわからない。<br />
<strong><br />
② 言葉や観念が、現象に実体があるという錯覚を引き起こす</strong>
</p>
<p>
この世界のあらゆるものは、互いに依存しあって存在している。何ひとつとしてそれだけで孤立しているものはない。だから、この現象の世界には、そのものという固定した実体をもつものなど、一つもないのである。
</p>
<p>
ところが、私たちは言葉を使ってこの現象の世界に名前をあたえようとする。あれは山であり、あれは木であり、これは私であるというように。そのこと自体はこの現象の世界にあらわれている、ありのままの差異をとらえようとする根源的智慧の働きのあらわれであると考えることができる。
</p>
<p>
しかし、いったん名前があたえられると、それだけで山や木や私が、何か固定した実体をもっているように思えてくるのである。言葉を口に出して言わなくとも、それが心にひらめいた瞬間、私たちは世界を固定してとらえる危険に踏み込んでしまう。でも固定した「私」なんていったいどこにあるのだろう。どこからが山で、どこで山が終わるというのだろう。
</p>
<p>
言葉や観念は私たちをとらえて、ありのままの世界とはちがう、こわばった世界をつくりあげる力をもっている。私たちはそこで固定した「私」に執着するようになる。「私」が年老いて死んでいくことを、恐いと思うようになる。愛していたものが消えていくことを深く悲しむ。
</p>
<p>
でもそれは、ありのままの世界に素手でふれあうことができず、夢や幻影のような観念の世界にとらわれていることから起こる恐れであり、悲しみである。この幻影のベールをとりのぞくことができた時、私たちの前には、つねに動いてやむことのない、ありのままの世界の壮大な光景がたちあらわれてくる。そこには限りない喜びがあふれている。
</p>
<p>
<br />
<strong>③ 五感などがとらえる現実は虚像にすぎず、実体は何もない</strong>
</p>
<p>
ホー<br />
水に映る月のようなさまざまな虚像にひきずられ<br />
輪廻の鎖の輪を浮沈する生き物たち<br />
彼らすべてがリクパに光輝く法界に安らうことができるよう<br />
四無量心こめて菩提心を発こします
</p>
<p>
「ホー」は感嘆詞で、まあなんと、という驚きがこめられている。私たちが五感でとらえ、日常的な知性でとらえているこの世界は、さまざまな姿、形、現象であふれている。この形やあらわれでつくりだされた現実を、私たちは確かな実体のあるものだと思いこんでいる。ところがその現実とは、水に映った月、幻影、蜃気楼のようなもので、実際その場にはなんの実体もないものなのである。
</p>
<p>
しかしこの虚像にすぎないものが、生き物たちをあざむく恐るべき力をふるっている。目に映る形、耳に聞く音、鼻に感ずる匂い、舌の味覚、身体の触感などがあたえる感覚にひきずられ、実体のない現実のふるう幻影にほんろうされ、生き物たちは輪廻におちこんでしまう。それは出口のない鎖の輪のようなもので、生き物たちはその中で浮沈をくりかえしているのだ。 &nbsp;
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: large"><strong>&nbsp;第２章　自我執着を越える法則</strong></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>１　無我の法--仏教は「私」には実体がないと説く</strong></span>
</p>
<p>
仏教では、縁起の法が説くように、「私」と呼ばれるものにも実体がない、と説く。言い換えれば、「私」の中には、永久不変の実体は存在しない、ということである。この教えは、「無我・非我」ともいわれる。
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<p>
人の苦しみの根本原因は、さまざまな事物に実体があると錯覚する無智であるが、その中でも、「私」というものに実体があると錯覚して執着すること（我執、自我執着）がある。また、「我執」に基づいて、「私のもの」に対する執着が生じる（＝我所執〈がしょのしゅう〉）。
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<p>
例えば、ほとんどの人は、悪口を言われて傷つくことがあるが、それは、「私」なるものが、実在すると錯覚して執着しているからである、と仏教は分析する。反対に、その錯覚を取り除き、執着を滅すれば、苦しみは生じず、悟りに近づく。
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<p>
心理学では、現代社会を覆う大きな問題として、「自己愛が強い」と指摘されているが、その意味では、仏教の修行は、現代社会に生きる人々の苦しみを和らげるために重要だと思われる。
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<br />
<span style="font-size: medium"><strong>２　仏教では、真我（アートマン）は認めない</strong></span>
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仏教では、他のインドの哲学（ヒンドゥー教）が主張する、「永久不変の真の自己」（真我・アートマン）の存在を認めていない。
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ただし、先ほども述べたが、これは、伝統的な仏教の主流の教義であって、釈迦牟尼自身がどう考えていたかとなると、一部の研究家の中では、異論がある。
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<p>
その中には、釈迦牟尼自身は、アートマン・真我の存在を否定も肯定もしていないとか、釈迦牟尼が否定したのは、「自我」であり、「真我」ではない、とする見解もある。
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この違いとも関連して、仏教で出てくる「アナートマン」（anatman）という言葉の解釈についても、２通りの解釈がある。
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<p>
アナートマンという言葉は、基本的には、「アートマン」に対する否定の言葉であるのだが、これを「アートマンがない」と解釈する考え方（無我説）と、「アートマンではない」と解釈する考え方（非我説）がある。
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<p>
「真我が無い」というならば「無我」という解釈となる。一方、真我が無いのではなく、自我の諸要素に言及して、「それは真我ではない」という意味ならば、「非我」（真我に非ず）という解釈となる。
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<p>
さて、釈迦牟尼自身の直説がどうだったかはともかく、伝統的な仏教の思想では、「自己には実体がない」ことが強調される。そして、「霊魂」とか、「真我」は認めず、それは、自己に実体を錯覚して執着する過ち（人我執）と説かれる。
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<p>
ただし、「輪廻転生」や「カルマの法則」は仏教も説くため、肉体の生死を超えて、「心の連続体」なるものが、続いていくとする。しかし、ここでのポイントは、それにも「実体がない」としている。
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<strong><br />
<span style="font-size: medium">３　釈迦牟尼の実際的な考え方</span></strong>
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先ほど、釈迦牟尼自身は、「真我の存在」を、肯定も否定もしなかったという見解がある、と述べた。
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これに関連する重要な釈迦牟尼の特徴として、無用な論争を避け、「苦しみからの解放」という本来の目的を見失わないために、形而上学的な問題について、判断を示さず沈黙を守ることがあった、といわれる（これは「無記」といわれる）。
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<p>
例えば、世界が永遠であるか否か、有限であるか否か、生命と身体は同一のものであるか否か、人は死後存在するか否かという問題について、釈迦牟尼が何も語らなかったことがあった。この理由について、釈迦牟尼は、以下のような巧みな例えをもって説明している。
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<p>
「毒矢にいられ、苦しむ人を前にして、医者が、患者の身分、階級、弓の種類、矢の種類などについて知られない間は治療しないとしたら、その人は死ぬ。世界が永遠であろうとなかろうと、有限であろうとなかろうと、生命と身体が同一であろうとなかろうと、人が死後存在しようとしまいと、人は生まれ、老い、死に、嘆き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩む。」
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<p>
こうして、釈迦牟尼は、「現実の苦しみを止滅すること」を第一義の目的とした人だったと思われる。<br />
<br />
<br />
<span style="font-size: medium"><strong>４　真我の有無を論争する空しさ</strong></span>
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<p>
「真我」があるか無いかについては、仏教派とヨーガ派の間で、さまざまな論争があったといわれているが、あまり論争したとしても、それは「空しいもの」ではないかと私は思う。
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<p>
まず、私の体験を含めて、ヨーガの修行で、その神秘体験の中で体験・直感する「真我」とは、「言葉による思考」を超えた境地に立ち現れてくるものである。しかし、「論争」は言葉に基づく思考によって行われる。そもそも、存在するとか存在しないという概念自体が、「言葉による思考」を前提とした概念である。
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<p>
「思考を超えた境地」に対して、「思考」を前提とする概念を当てはめること自体に、矛盾はないか。思考して言葉で表現し始めた段階で、その人が論じる「真我」とは、行者が体験する実際のそれとは違った、概念的・観念的なものである。
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<p>
一方、ヨーガの行者が、自分が一時的に体験したからといって、永久不変の「真我」が絶対にある、と主張するのも、矛盾があるように思う。なぜなら、「一時的な体験」は、永久不変のものの存在の「証明」にはなりえないからだ。それは、「信仰」として守ればいいのである。
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<p>
こうして考えていくと、実際的・現実的な精神の持ち主であった釈迦牟尼が、「真我の有無」について、肯定も否定もしなかった、という説は、納得がいく面がある。
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<br />
<span style="font-size: medium"><strong>５　仏教の無我説とヨーガの真我説の比較</strong></span>
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一方、釈迦牟尼は、相手に合わせて、説く法を変え（対機説法）、方便を多用したという。
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そこで、「無我説」と「真我説」のどちらが正しいかではなく、両者を悟りに至るための方便・手段として見た場合には、それぞれが、どんなメリットとデメリットがあるかについて考えてみよう。
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まず、「真我」を否定する場合は、どんなに深いレベルまで突き詰めても、「私」には、永久不変の実体などはまったくないと考えることで、「自我に対する執着」を弱めやすい利点がある。
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一方、「真我」を認める場合は、真実の私は永久不変であると考えることで、人間が執着しやすい「肉体や心など」について、それが永久不変ではないことを根拠とし、執着を弱めやすいという利点がある。
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<p>
ただし、ヨーガの場合は、オウムのように、自分が、「真我」や「絶対神」などの絶対的な存在と合一したと錯覚して、「誇大妄想」（自我の肥大・増上慢）に陥る恐れがあることが指摘されている。そして、この問題を回避するためには、自己の内部に絶対的な存在（真我）を認めない「仏教」の考え方がよいという見解がある。
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もちろん、これは、誇大妄想に陥りやすい人の場合であって、ヨーガの価値を全面否定するものでは当然ない。ただし、心理学者によれば、現代人には、強い「自己愛・誇大妄想」の傾向が増大しているといわれるので、重要なポイントと考えざるをえない。
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また、偉大なヨーガの聖者の中には、慢心・誇大妄想を防ぐための優れた教えを説いている人が多い。例えばラーマクリシュナ・パラマハンサ、ヴィヴェーカーナンダが説いた、すべての人々を神の現れと見て奉仕する「カルマ・ヨーガ」などである。
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<p>
また、パラマハンサ・ヨガナンダの伝記を見ると、彼自身も、彼のグルも、そして、根本グルのマハー・ババジも実に「謙虚な姿勢」を持っていることがわかる。逆に、仏教の修行者でも、個人的には「自我の肥大」「増上慢」に陥った体験例などが報告されている。
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<p>
こうして、ヨーガと仏教の双方が、多くの偉人・聖者を輩出した以上、仏教とヨーガのどちらが優れているかを論議するのではなく、それぞれの教え方のメリット・デメリットをよく把握し、どちらからも、その優れた点を学ぶべきだろう。
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<p>
よって、仏教における真我の存在を「盲信」しない姿勢の利点を踏まえつつ、「カルマ・ヨーガ」などを含めて、優れたヨーガの教えも採用していくべきではないか、と考える。
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<br />
<strong>６　仏教における「私」の考え方</strong>
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<p>
インド哲学の体系では、「アートマン」と呼ばれる、永久で、単一で、かつ独立した自我を設定した。一方、仏教では、無常な心や体の集まりの中から、何かを「私」ないし「自我」として設定する。
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<p>
唯識派は「すべてのものの根底にある意識」（阿頼耶識）を「私」として設定し、別の学派では、蘊の連続体を「私」として設定している。
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<p>
中観帰謬論証派（ちゅうがんきびゅうろんしょうは）では、「私」は、「心身を構成する五つの集まり（五蘊）」に基づいて仮に設定されたものと説いて、これらの要素の中に、「私」という実体は、どこにも見いだすことはできないと説く。<br />
念のために説明するが、この中観帰謬論証派の見解は、「私」あるいは「自我」という言葉の対象が、まったく存在せず、「私」とは「幻」である、というものではない。
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<p>
「私」が指し示す対象は、確かに存在しているが、その対象は、「私」という名前なしに、それ自身の力で、自己を設定して存在しておらず、ただその名前によって、概念的な存在として、「仮に設定（仮説）された存在」にすぎない、という意味である。
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<p>
言い直すと、まったく存在しないという意味ではなく、事物は存在はしているものの、「それ自身の力で、それ自身の本質によって、それ自身の実体によって、存在しているのではない」という意味である。
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<p>
こうして、大乗仏教では、「私」を含めて、すべての事物は、「縁起の法」に基づいて生起していると考える。そのため、「空」という概念や、「仏陀の悟り」さえも、「実体がない」とするのである。
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<p>
しかし、「私」に「実体がない」としても、今生の行為の結果が来世に果をもたらすためには、なした行為の潜在力（＝業）がどこかに蓄積され、来世に持っていかれなければならない。
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<p>
そのため、五蘊の上に仮設された単なる「私」というものの連続体を、その潜在力が蓄積される基体とし、今生の中で一時的に潜在力が蓄積される基体は、「意識」であるとするのである。
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<br />
<strong>７　タントラの学説が説く「私」について</strong>
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<p>
タントラ（真言乗）の学説では、これらの「五つの集まり」には、「粗大なレベル」と「微細なレベル」があって、死の際に粗大なレベルは分解し、「微細なレベル」が、来世に連続していくとしている。
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<p>
詳しくは、息を引き取る最後の日に、「光明である末期の意識」が現れてきて、これは最も微細な心であって、この意識が、私たちを来世へと導いていき、この微細な「心身を構成する五つの集まり」が、時を超えて連続していき、また、私たちを仏陀の境地に導くものともなる、としている。
</p>
<p>
<br />
<strong>８　無我の悟りのための瞑想１--死と無常の瞑想</strong>
</p>
<p>
「私」というものは「実体がない」と悟る瞑想としては、「私」が、必ず死ぬ無常なものであることを熟考する、死と無常の瞑想が最も基本的なものだ。<br />
<br />
「執着」の原因は、現象が実際に存在するようには見ることができないこと（感じることができないこと）＝「無智」であることはすでに述べたが、その一環として、私たちは、日常生活の中で、それを知っていたとしても、「見たり、考えたりすることを避けているもの」がある。
</p>
<p>
その最大のものが、「私」というものは「必ず死ぬ」という事実である。よって、死についてよく考え、「私」や「私のもの」が、無常であり、実体がないことを修習することが、自我執着を弱めることになる。
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<p>
まず、人は必ず死に、死を避けることは誰にもできない。「私」だけが死なないことなどありえない。どんな偉人も聖者も、釈迦牟尼を含めて、死を避けることはできなかったのである。
</p>
<p>
そして、今この一瞬一瞬において、「私」は死に向かって生きており、生きることは、死に近づくことでもある。こうして、生のプロセスとは、死のプロセスでもあり、生と死を分けることはできないのである。
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<p>
さらに細かいことを言えば、実際には、どこからどこまでが「生」であり、どこからが「死」であるかさえ、明確な「境界」はない。生とは、受胎の時からか、出産の時からか、また、死とは、脳死の時点か、心臓死の時点か、といった問題に対する完全な答えはない。単に法律上、便宜的な定義をしているだけである。
</p>
<p>
別の意味でも、「生」と「死」はセットである。人間は、食べ物などで、他の生命を奪いながら生きる。人の「生」は、他の生き物の「死」とセットである。カルマの法則に基づけば、他の生命を奪えば、自分の生命も奪われる。
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<p>
こうして、自分が「生きるために必要なこと」が、自分が「死ぬための原因」を作ってしまい、生きる限りは、死を避けられないのが、人間の宿命的なカルマなのである。
</p>
<p>
また、人は、「自分は、まだまだ長く生きるだろう」と考える。しかし、天寿をまっとうせず、突然の事故や病気・天災で死ぬ人もいる。自分は、まだ長く生きるだろう、という考えに科学的な根拠などはまったくない。それは単なる我田引水の期待にすぎない。
</p>
<p>
天寿をまっとうできず、事故や病気で、早く死ぬ人は少なくないが、どんなに努力しても、その可能性を「ゼロ」にできる人はいない。事故や天災に遭わなくても、時はあっという間に経ち、年老いたある日突然に、残りの寿命がわずかであることを告げられる場合も多い。<br />
こうして、「私」というものは、いつ死ぬかさえわからない、あやふやなものだ。
</p>
<p>
実際、今、あなたが４０歳であろうが、５０歳であろうが、これまでの人生は、あっという間に過ぎたはずだ。残りの人生も、長いように思えても、あっという間に終わっていく。これまでが、あっという間だったのだから、これからはもっとそうである。若いときよりも、年をとった後の方が時間は早く経つように感じる、とよくいわれる。
</p>
<p>
その死に際して、私たちは、一切を失う。財産・異性・名誉・地位・肉体のすべてを失う。それは、ちょうど夢から覚めたときのように、死の際に、それらすべては、消え去ってしまう。こうして、「私」、そして「私の人生」とは、「無常であり、不確かであり、生じては滅する、実体がないもの」である。
</p>
<p>
この死を含めた無常な「私」による苦しみに対して有効なものは、仏陀の説いた「ダルマの教え」の実践である。それによって、生きている間に、自我執着を静め、静かな安らぎの境地（悟りの境地）に近づき、来世も幸福な転生を得ることができるのである。
</p>
<p>
<br />
<strong>９　無我の悟りのための瞑想２--刹那生滅の法</strong>
</p>
<p>
縁起の法は、「私」というものが、「他から独立した存在ではなく、実体がない」と説くが、私たちの日常の感覚では、「他の体とは別の、私の体がある」という認識がある。これが、「自分」とか、「自分の体」というものに執着する一因となっている。
</p>
<p>
しかし、「体」を科学的に分析するならば、「他の体」と「自分の体」の間に、明確な「境界」はない。生物学者などによれば、人の体の細胞は、わずか３カ月のサイクルで、「食べ物として摂取した新しいもの」に入れ替わるという。
</p>
<p>
こうして、「自分の体の細胞」は、「他の生き物の細胞」と絶えず入れ替わっている。自分と他の生き物は、肉体・物質の面では、頻繁に入れ替わりながら存在しているのである。
</p>
<p>
また、私たちの日常の感覚では、「私の体という、１つの体がある」と思っている。しかし、仏教の教えでは、私たちの心や体は、絶えず変化しており、それは、「瞬間瞬間に、古い心や体が滅して、新しい心や体が生じている」とも解釈する。
</p>
<p>
そして、先ほどの生物学者の見解は、表現を変えれば、人間の体を構成する細胞が、「刻一刻と滅しては、新たに生じている」とも表現できるから、この仏教の考え方に通じるものがある。
</p>
<p>
この教えは、刹那生滅（せつなしょうめつ）といわれているが、これは、人の心や体というものが、瞬間瞬間（＝刹那）に生じては滅することを繰り返しており、「私の１つの心」とか「私の１つの体」というものが、続いて存在してはいないと説くものである。
</p>
<p>
<br />
<strong>１０　自我執着を越える瞑想１--四念処・五蘊無我</strong>
</p>
<p>
「四念処」や「五蘊無我」の瞑想は、「自我」を構成する諸要素について瞑想することで、自我執着を薄める瞑想法であり、仏教伝統のものである（七科三十七道品の一部である）。
</p>
<p>
まず、「四念処」は、身体は不浄であり（身念処）、感覚は苦しみであり（感念処）、心は無常であり（心念処）、法（＝さまざまな事物）は実体がない（法念処）、と説く。そして、修行者は、これをしっかり瞑想することで、「自我に対する執着」を取り除く。
</p>
<p>
多少具体的に言うならば、身体の中を見れば、さまざまな臓器がグロテスクに詰まっており、さらに、便・尿・汗その他のさまざまな汚れた排出物が出るから、身体は不浄である。また、感覚は、その喜びにとらわれるほど、その裏に苦しみも増大し、苦しみを伴わない感覚はない。心は、無常に移り変わるものであり、（人の思考の対象である）さまざまな事物にも、一切実体がない。
</p>
<p>
次に、「五蘊無我」では、自我を「五蘊」に分けて瞑想する。五蘊とは、すなわち、色・受・想・行・識である。仏典では、これら五つの要素が、それぞれ、無常であり、苦しみであり、空であり（固定した実体がなく）、非我である（永久不変の本質を有さない）と説いている。修行者は、これをしっかり瞑想して、「自我執着」を取り除く。<br />
なお、この色・受・想・行・識の各要素の説明については、十二縁起の法（上記「第１章 縁起の法」）を参照されたい。
</p>
<p>
<strong><br />
１１　自我執着を越える瞑想２--人は大自然の一部であること</strong>
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<p>
縁起の法が説くように、この世界のすべてのものは、実際には、相互に依存しあって存在しており、他から独立した、固定した実体を有するものはない。
</p>
<p>
しかし、ほとんどの人は、「私」は、「他人」、「環境」とは別のものである、と思いこんでいる、しかし、ありのままに観察すれば、この世界のすべての生き物は、その環境とともに、相互に依存しあって存在しており、他から独立して存在するものなど何一つない。
</p>
<p>
ところが、人間の思考の上では、例えば、「自分」と「他人」、「人」と「自然」といった、言葉による区別のために、自分が、他者や外界と独立した「別のもの」であるかのように錯覚している。こうして、われわれの心・思考は、言葉による区別のため、さまざまなものが別々に、独立しているかのように錯覚していることに、注意しなければならない。
</p>
<p>
人と大自然・大宇宙の関係に関して言えば、人は、「大自然・大宇宙の一部」である。しかし、現代人は、大自然・大宇宙は「物」にすぎず、自分たち「人間」は、その上に君臨するこの世界の王であって、それをいかようにも開発・利用できる、といった傲慢な思い込みの中にいる。この「傲慢な思い込み」は、地球環境問題の深刻化で徐々に否定されていくだろう。
</p>
<p>
そもそも、明治前の日本には、人間や人工物と区別する意味での「自然」（しぜん）という言葉はなく、「人間・人工物」と「自然」を区別する概念がなかった。「自然」（しぜん）とは英語の「ネイチャー」の訳語として後から作られたものにすぎない。実際には、人間は、「大自然の生態系の一部」であり、無数の生物や無生物と、密接不可分に存在している。
</p>
<p>
人間は、水や空気、他の生き物からできた食べ物を取り入れずには生きることはできないし、人間の排出物や死体は、他の生き物のものになる。科学者は、「人間の体を構成しているものは、数カ月単位で、他の生物や無生物の分子やアミノ酸と入れ替わる」と報告している。こうして、「自分の体」と「自分の体以外のもの」を区別する「境界」などまったくない。
</p>
<p>
境界がないのは、これは生物の間だけに限らず、「生物」と「無生物」の間にも当てはまる。生物と無生物も相互に依存しあって存在し、生物と無生物に明確な「境界」などはない。日本の大乗仏教のよき伝統は、山川草木など、無生物を含めたすべてに「仏性」を認め、万物を尊重し、万物を愛する思想を展開した。
</p>
<p>
そもそも、水、酸素、窒素の分子は、体外では「無生物」とされるが、体内に取り込まれて、例えば、タンパク質などといった体の一部となると、途端に「生物の一部」とされる。髪や爪は切る前は「生物の一部」で、切った直後から「物」とされるのも同様である。「生物」と「無生物」という言葉に幻惑され、それらが互いに「別々のもの」だと錯覚しているにすぎない。
</p>
<p>
こうして、言葉などによる錯覚を超えて、この世界を正しく考察すれば、人間と他の生物と無生物は、密接不可分であり、「一体」となって存在している。人は、大自然・大宇宙と密接不可分な、その「一部」なのである。
</p>
<p>
これを言い換えれば、どこまでが「自分の体」であり、どこからが「自分の体の外」なのか、という「境界」が実際には存在せず、われわれ生き物たちの真の身体は、「地球生命圏」ないし「大宇宙全体」ということができる。すなわち、地球全体・宇宙全体が、われわれすべての生き物が共有する「身体」なのである。
</p>
<p>
そして、この見方に基づいて、自と他を区別せずに、地球・宇宙の万物を愛することを修習するべきである。
</p>
<p>
<br />
<strong>１２　自我執着を越える瞑想３--輪廻と生態系論から</strong>
</p>
<p>
「輪廻の教え」と「生態系のシステム」を熟考すれば、自分と他人を区別して、自我に執着する心の働きを取り除くことができる。
</p>
<p>
伝統的な「輪廻転生」の思想は、今私たちが見ている、すべての人々や生き物は、私たちの無数の前生のいずれかにおいて、父母・兄弟・子孫であったことがあるはずだと気づいて、すべての人々・生き物を愛するように説く。<br />
<br />
そして、その者が悪業をなしていたり、自分を傷つけたりしても、その行為は、どこかで、私たち自身の過去世と「深いつながり」があるかもしれない。多くの親が、自分の今生の子供の悪業・非行に対して、自分の責任を感じるが、私たちに責任があるのは、決して今生の自分の子供・家族・親族だけではないのである。
</p>
<p>
また、今生だけに限っても、似たような事実がある。
</p>
<p>
私たちは、生きる中で、さまざまな言葉を語り、行動をなして、他人にさまざまな影響を与えるが、その影響は、またさまざまな形で他人から他人へ伝わり、自分の想像を超えて、社会の中に広がっていく。だとすれば、自分の過去になした言動の中には、単に他に影響を与えるものだけではなく、回り回って、なんらかの形で、自分自身に返ってくるものもあるはずである。
</p>
<p>
この意味で、社会の中では、無数の人間が、互いにさまざまな影響を与えあい、いわば、反響しあって、渾然一体となって存在しており、自分と他人の関係は、個々人が自覚するよりも、実際には、はるかに深い「つながり」がある。
</p>
<p>
この社会の中での人間相互の関係に関する見方に、「輪廻転生の教え」を組み合わせるならば、今生巡り会っている人々と私たちは、無数の過去世の中で、互いが互いに、非常に深い「影響」を延々と与えあってきた関係にある、ということもできる。
</p>
<p>
以上は、主に精神的な側面から見た、自分と他人の「深いつながり」であるが、物質的な側面からのつながりも深い。
</p>
<p>
まず、私たちは、他の生き物を食物として摂取して生きる中で、「他の生き物の体」の原子・分子と、「自分の生き物の体」の原子・分子を絶えず交換しながら生きている。<br />
<br />
さらに、人間の体のほとんどは、その死後、さまざまな「他の生き物の体」となるが、だとすれば、前生で「自分の体」だったものが、その後、地球の生命圏を循環し、「さまざまな生き物の体」になっており、今、自分が見る「他の生き物の体」は、「前生の自分の体」であった、ということになる。<br />
<br />
こうして、自と他の「つながり」は、私たちが普段想像しているよりも、実際には、はるかに深いのである。これを踏まえて、自と他の区別を超えて、すべての衆生・万物を愛する実践に努めるべきであろう。
</p>
<p>
最後に、参考として、最近の医学者の報告で、「物質的なつながりが、精神的な影響を与える」という報告がある。
</p>
<p>
それは、「心臓移植を受けた人が、移植元の人の性格・記憶まで受け継ぐ」という話である。これと似た概念として、密教の教えの世界でも、「人の体が、その人の精神・性格のデータを宿しており、悟りの境地を伝える手段になる」という考え方がある。
</p>
<p>
だとすれば、私たちは、生きて死ぬ中で、食物などを通して、多くの生き物の精神の影響を受け、死後に他の生き物の体になる中で、多くの生き物の精神に影響を与えている、ということになる。
</p>
<p>
さまざまな意味で、自分と他人はつながっているのである。
</p>
<p>
<br />
<strong>１３　自我執着を越える悟りの前の試練</strong>
</p>
<p>
自我執着を越えて、悟りを得ようとする場合に、単に瞑想修行をするのではなく、現実の世界において、試練を超える必要がある、といわれる。
</p>
<p>
この「試練」では、自分が執着しているもの、例えば、地位や名誉が相当に失われる場合もあって、それは、「社会的な死」とでもいうべき状態である、と説かれることがある。
</p>
<p>
特に、チベットのカギュ派や、ニンマ派の教えにおいても、よく説かれている。この社会的な死を超えて、新しい自分に再生した者は、自我執着が相当に止滅し、悟りに近づくと考えられる。
</p>
<p>
そして、この試練を乗り越えるためには、日頃から、できるだけ教学して、すべての苦しみは「自我執着」によって生じていることを理解し、「苦しみ」を悟りのためのプロセスとして「喜び」にする修習が必要である。この点について、経典には、「苦しみは導き手であると考えよ」と説かれている。
</p>
<p>
そして、この日頃の実践・準備があれば、試練の際の苦しみも、法則によって乗り越えることができて、悟りに近づくことができるだろう。&nbsp;
</p>
<br />
<br />
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>第３章　因果の法則、自業自得</strong></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<strong>１　縁起の法と因果の法--幸福への道</strong>
</p>
<p>
今回は、別の切り口で「縁起の法」を説く。
</p>
<p>
これまでは、「この世界の実相は空である」ことを説く点を中心に、縁起の法を解説した。すなわち、「すべての事物は、独立した実体を有しておらず、相互に依存しあって存在している」と説いた。
</p>
<p>
今回は、「人が幸福になるにはどうしたらよいか」という点を中心に、縁起の法を解説する。
</p>
<p>
まず、「縁起」の意味を確認すると、それは「因縁生起」の略とも解釈できるもので、「因」が、結果を引き起こすための直接的・内的原因を意味し、「縁」が、これを外から補助する間接的原因をいい、「縁起」とは、すべての事物・現象が、「因」と「縁」によって生じる、というものであった。
</p>
<p>
そして、因と縁を細かく区別せず、双方とも単に「原因」とする解釈もあり、その場合は、縁起の法は、「すべての事物・現象は、原因（因縁）によって生じる」という意味となり、これを言い換えれば、「原因によって結果が生じる」となるから、仏教が説く、別の重要な法則である「因果の法則」と通じることになる。
</p>
<p>
<strong><br />
２　因果の法則</strong>
</p>
<p>
因果の法則は、釈迦牟尼より以前の紀元前８世紀頃に、すでにインドで定着していた法則であり、それを仏教が採り入れたものである。
</p>
<p>
『岩波 仏教辞典』によれば、「因果」とは、「原因と結果」のこと。結果を生み出すものを「因」といい、その因によって生じたものが「果」である。すべての現象は、原因があれば結果があるというのが、因果の道理である。あらゆる法則がこの因果の法則によって成り立つという。
</p>
<p>
特に倫理的な立場から人間がなす善・悪の行為について、善の行為（善因）には善い結果としての報い（善果）が、悪い行為（悪因）には悪い結果としての報い（悪果）が、因果の法則によって生じる（因果応報）という。
</p>
<p>
なお、因果の法則は、よく「カルマの法則」といわれるものと実質上は同じだと考えてもよいと思われるが、カルマとは、サンスクリット語の「カルマン」であり、その漢訳語は「業」であるから、カルマの法則とは、「業の法則」という意味となり、「因果の法則」という意味ではない。
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<p>
<strong><br />
３　カルマ（業）の法則</strong>
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<p>
では、業（カルマン）とは何かというと、これも仏教独自の法則ではなく、インド思想で広く用いられ、仏教が採り入れたものである。
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<p>
「業」の原語カルマンの基本的な意味は、「なすこと、なすもの、なす力」などで、作用、行為などを表す語としてインド思想一般で広く用いられた。輪廻転生説と結びついた後は、「輪廻」を生じさせる一種の「力」として、ある行為の後に残り、ある結果が生じるまでは、潜在的に存在する、その行為の余力として働くものとされた。
</p>
<p>
なお、「縁起の法」と「業」の接点としては、「業感縁起説（ごうかんえんぎせつ）」がある。
</p>
<p>
この「業感」とは、業による報いを感受することであるが、業を生じさせる原因を「惑（わく）」と呼び、惑によって「業」が生じ、業によって「苦しみ」が生じると説いて、この惑&rarr;業&rarr;苦の循環において輪廻する縁起のあり方を「業感縁起説」と呼んだ。<br />
<br />
なお、この中で、「業」にあたるのは、十二支縁起の中の「行」と「有」であるとし、その業を生じさせる「惑」にあたるのは、行の前の「無明」と、有の前の「受・取」であるとし、その他の七つを「苦」と分類している。
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<p>
<br />
<strong>４　自業自得の法とその問題点</strong>
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<p>
さて、縁起の法に加え、因果の法、カルマの法則などのインド古代哲学を取り入れて発展した、仏教思想の特徴を表す１つの言葉が「自業自得」である。自業自得とは、文字通り、自らなした行為の果報を自ら受けるということである。
</p>
<p>
しかしながら、この思想は、現代人の価値思想とは、大きく食い違っている。仏教を信じない人の多くは、科学的な裏付けのない迷信と感じられる。それだけではなく、信じている人によって、「悪用・誤用・誤解」される場合も多い。<br />
<br />
よって、この法則を単純に信じるのではなく、仏陀自身が説いたように、仏陀の説いた法則だとしても、それを十分に吟味して、自分なりに咀嚼する必要がある。それによって、現代社会にも通じる新しい解釈をこの思想に与えてみようと思うのである。
</p>
<p>
<br />
<strong>５　自業自得の法の２つの解釈</strong>
</p>
<p>
まず、仏教が説く「自業自得の法」は、次の２つの意味として、解釈することができると思われる。
</p>
<p>
１つ目は、伝統的な解釈である。それは、自分の幸福・不幸を左右する、自分の身体・人間関係・環境等の条件は、過去世を含めた「自分の過去の業の結果」である、というものである。
</p>
<p>
２つ目は、人の幸福は、内的な原因と外的な条件の双方によって決まるが、外的な条件よりも、「内的な原因」の方が、より本質的な要因である、というものである。
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<p>
この２つの解釈は、双方とも、縁起の法に基づいている。
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<p>
まず、縁起の法を解釈すれば、人の幸福・不幸を含めたすべての現象は、①直接的・内的原因である「因」と、②それを外から補助する間接的な原因＝条件である「縁」の結合によって生じるとしている。
</p>
<p>
１つ目の解釈は、内的原因である「因」とは、その人自身の「業」のことであり、その業の現れが、外的な原因である「縁」であり、その「業の現れ」によって、幸福・不幸を感じる、というものである。
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<p>
２つ目の解釈は、人の幸福は、内的な原因（因）と外的な条件（縁）の双方によって決まるが、その外的な条件が、内的な原因の現れ＝結果であるかについては、必ずしも言及しないという解釈である。
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<p>
<br />
<strong>６　自分を取り巻く外的条件は「自分の業の結果」とする解釈（第１の解釈）について</strong>
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<p>
１つ目の解釈は、伝統的な解釈であり、その人を取り巻く外的な条件は、その人の過去世からの「業」に「応じたもの」が与えられる、ということを説く（因果応報）。
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<p>
その人が良き友人や、快適な生活環境といった外的な条件に恵まれているならば、それは、その人の過去世の行為＝業が「善い」からである、という解釈である。
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<p>
また、逆に、過去世において、自分が他になした「悪業」のために、今生、自分が他人に傷つけられるとか、自分の生活環境が不快なものになる、と説かれるものである。
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<p>
そして、これを信じることができる限りにおいては、例えば、自分が傷つけられたときなども、その相手に対して、怒り・憎しみ・恨みを持たずにすむ（ましてや、復讐するといった悪業をなすことを避けることができる）。
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<p>
また、恵まれた人を見て、嫉妬・ねたみの感情を持って、引きずり落とそうとする悪業を避け、見習うことができる。
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<p>
<br />
<strong>７　「過去世の業」を今生の不幸の原因とする考え方の問題点</strong>
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<p>
しかし、実際に、自分が、他に傷つけられたときなどには、仏教を信じている人の中でさえ、それを「自分の過去の業の結果」と信じ切れないことも少なくない。皆さんも日常生活で、この問題に直面することが多々あるだろう。
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<p>
さらに問題なのは、仏教を信じていない人の場合であり、彼らには、ひどい誹謗・中傷に聞こえるだろう。単なる過去の行為ではなく、「過去世の業」となれば、検証しようがない。過去世を見る神秘体験も、科学的に証明しうる類のものではない。
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<p>
さらに、自業自得の法が「悪用」される場合がある。その例が、オウムにおいて、一連の事件の後に、被害者遺族に対して、その苦しみは、過去世の悪業の結果であり、松本氏や教団は悪くない、といった考え方をする信者のケースである。
</p>
<p>
すべての法則の目的は、自分のエゴ・自我執着を弱めて、慈悲の心を培い、悟りに至ることであるから、自分たちの悪業を「正当化」するために、自業自得の法を使うのは、その「悪用・誤用」である。
</p>
<p>
仏教の悟りの本質は、無智・貪り・怒りを根本とした、「自我に対する執着」を止滅することであるから、自分が他に傷つけられたときに、他への憎しみ・恨みを静め、自分が悪業を積まないために、自業自得の法を用いることはよいだろう。
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<p>
しかし、自分が他人を傷つけた場合に、自業自得の法を用いれば、自分が悪業をなしたことを「正当化」してしまい、自我執着が増大する。そして、何よりも、「同じ悪業を繰り返してなす可能性」を高めてしまう。
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<p>
その背景には、自分の悪業を覆い隠そうとする心の働き（虚栄心）があり、（現象がありのままに理解できない）無智を増大させる。これでは、悪業を減らすために自業自得の法を説いた釈迦牟尼の意図と、その法の目的にまったく逆行してしまう。
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<p>
もちろん、世の中でも通常認められているように、親が子に対して、ないしは先生が生徒に対して、子（生徒）の悪行を正して善導するために、愛を持って、適度に叱ったり、適度な試練を与えたりする場合は、その際に子（生徒）が受ける苦しみについて、「自業自得」の論理をもって説明することは、必ずしも間違いではないだろう。
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<p>
その場合は、両者の間の信頼関係（縁の深さ）、その行為の動機が「愛」であること、その試練の形態が「適度なもの」であること（当然、合法的な範囲のもの）といったさまざまな条件を満たしている必要があるだろう。
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<p>
しかし、オウムの場合は、信者と被害者遺族という両者には信頼関係がまったくなく、信者には（自分でも気づいていない場合もあるが）「自己正当化」「プライド」などの動機が潜んでおり、何よりも、その行為が、重大な犯罪行為を正当化するものであるから、肯定しえないものである。
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<strong><br />
８　自業自得の法に関して、釈迦牟尼の真意を探る</strong>
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<p>
この自業自得の法の問題に関して、釈迦牟尼ならば、どう考えるであろうか。
</p>
<p>
まず、第１に、釈迦牟尼は、時々の条件に合わせて、実践する法則を「選択」すべきである、という教えを説いた（択法覚支）。また、相手によって説く法則を柔軟に変える「対機説法」を用いたことが知られている。
</p>
<p>
「言葉」という不完全な道具で表現された法則である以上、いかなる優れた法則でも、「どんな場合にでも役立つ」という絶対的なものはない。そのため、ある法則を絶対視するのではなく、その法則の目的や、その時や場合といった条件を考えて、その法則を用いることが適切かどうかや、どの法則を用いることが適切かをしっかり考える必要がある。
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<p>
その意味で、自分が傷つけられたときにも、自分が他人を傷つけた際にも、同じように自業自得の法を単純に用いることは、釈迦牟尼の精神に「合致しないもの」だろう。
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また、一部の専門家の間では、釈迦牟尼は、当時のインドで確立していた「輪廻転生の思想」に対し、否定はしなかったが、積極的に肯定したわけではない、とする解釈がある。実際に、輪廻転生は、釈迦牟尼や仏教の独自の思想ではなく、それ以前からインド哲学が説いていたものを仏教が採り入れたものである。<br />
なぜ、専門家の間にこういった解釈が出てくるのかというと、私の見解では、前にも述べたが、釈迦牟尼は、人々の「実際・現実の苦しみ」を取り除くことを第一と考えて、「死後の世界の存在」を含めて、「宗教的な世界観」に関する無用な議論・論争を避ける場合があった、とされることがあったのではないか、と思われる。
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<p>
それに合わせて、研究家の中では、最初期の経典を見ると、「信仰のたぐい」は説いていない、とする見解さえある。すなわち、仏陀の本意は、独自の宗教・信仰を説くことではなくて、実際に人が幸福になる普遍的な真理を説くことだったのではないか、ということである。
</p>
<p>
そして、「輪廻転生に基づく自業自得の法」は、最近は生まれ変わりに関する科学的な研究などがあるとはいっても、依然として科学的に完全には「証明できないもの」である。その意味で、すべての人を納得させることができる「普遍的な真理」とまでは言えず、「信仰」以上のものではない。
</p>
<p>
そうしてみると、あなたが、輪廻転生とそれに基づく自業自得の法を信じることができる仏教徒であるとしても、「仏教を信じていない人」が傷つけられたときなどにおいて、それを「過去世の悪業の結果である」と言うことは、一般的な意味で「不適切」であるだけでなく、実際の人々の苦しみを取り除くことを重視した釈迦牟尼の精神からしても、「不適切」ではないだろうか。
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<p>
<br />
<strong>９　自業自得の法の効用--自と他の区別を越える</strong>
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<p>
しかしながら、仏教が、「自分の苦しみは、自分の過去世の悪業の結果である」と説いてきた背景には、その法によって、「救われた人」が多く存在することも間違いない。
</p>
<p>
私の布教の体験からしても、仏教を学んで、自業自得の法を知って、自分の苦しみの原因がわかり、心が晴れたり、また、他に対する怒り・恨み・憎しみが消え、心が解放されたりして、「幸福になった」という人は少なくない。
</p>
<p>
実際に、なんらかの理由で、「自分を苦しめた他人の悪業が、自分の悪業の投影である」と思うことができて、怒り・恨み・憎しみから解放されれば、その人自身が幸福になることは確かだろう。
</p>
<p>
それは、許された側と許した側が、ともに幸福になるということでもある。
</p>
<p>
よって、輪廻を信じる人が、「自分が他人を傷つけたとき」ではなく、「自分が他人に傷つけられたとき」に、それを用いることは、とても良いことだと思う。<br />
では次に、輪廻転生を信じない人を含めて、すべての人に役に立つ仏陀の法の「解釈」はあるだろうか。私はあると思う。それを以下に述べる。
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<p>
それは、「過去世の悪業」といった証明できない話は抜きにしても、自分と他人の関係を客観的に見ると、「他人と同じ悪業・欠点が、自分にもある場合が非常に多い」という事実に注目することから始まる。
</p>
<p>
これは、ユングなどの心理学者も指摘しているし、「類は友を呼ぶ」という日常の経験則があることからもわかるだろう。
</p>
<p>
ところが、そういった場合さえも、他人の悪業が、自分の悪業・欠点と結びつかない場合が多い。それは、その他人が自分を傷つけている場合だけでなく、そうでない場合にも起こり、例えば、「怒り」が生じることが多いのである。
</p>
<p>
すなわち、自分にある悪業・欠点はよく理解できず、他人の悪業・欠点には目ざとい。「自分が他人を傷つけたこと」はすぐ忘れ、「他人に傷つけられたこと」はずっと覚えている、といった傾向である。そして、現代人は、その傾向がますます強くなっていると指摘されている。
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<p>
<br />
<strong>１０　他人の悪業を「自分の悪業の投影」と見る方法--ザンゲの重要性</strong>
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<p>
こうして、他人の悪業を見ても、自分の悪業と結びつけられない原因はなんであろうか。
</p>
<p>
その背景の１つとしては、「自己に対する執着」が強く、強いプライド・虚栄心があり、他人と自分を区別して、「自分の方が正しく、他人が間違っている」と考える心の働きがある。
</p>
<p>
この傾向は、現代社会において非常に強くなっている。心理学でいえば、現代は、自己中心的な人格傾向が強まり、専門用語では、それを「自己愛型社会」などと呼んでいる。自分の悪業は見ようとせず、すぐに忘れる一方で、他人の悪業には目ざとく、一生忘れない。ひどくなると、他に対する「被害妄想」、自己に関する「誇大妄想」となる。
</p>
<p>
こういった問題を乗り越えるためには、絶えず自分を謙虚に見つめ、「自分の悪業」をしっかりと把握することが重要である。そして、これは、仏教的な表現でいえば、「ザンゲの実践」である。
</p>
<p>
人は、プライド・虚栄心のために、自分の悪業・欠点はすぐ忘れ、他人の悪業・欠点に目ざとく、忘れないものである。これを自覚して、努めて「自分の悪業・欠点」を認識するようにして、それをザンゲするべきである。
</p>
<p>
その際に、自分を客観視することが重要である。「類は友を呼ぶ」、「五十歩百歩」といわれるように、第三者から見ると、自分と「自分に近い他人」は、相互によく似ている、と思われる場合が多い。ユング心理学においても、人が「嫌悪」する他人の問題は、その人の「暗部＝影」を投影したものである、と説いている（影の投影の理論）。
</p>
<p>
そして、自分が今生なした「最大の悪業」を認識することは重要である。そうすれば、他人の大きな悪業も「自分の悪業」とダブって見えてくる。また、悪いと気づいているのに、自分の弱さのために変えることができない悪業も認識することは重要である。これも、「他人と自分」がダブって見えてくる要因となる。
</p>
<p>
こうした悪業はついつい、「見たくない」「忘れたい」という心が働いてしまい、その結果として、他人の悪業と自分の悪業がダブって見えなくなってしまう場合が多い。そうではなく、それを直視して、他の悪業と自分を結びつけて、「他への怒り」を滅して、慈悲の心を培う努力をするべきである。
</p>
<p>
人は皆、不完全であり、多くの悪業を抱えている。それは自分もそうだし、他人もそうなのである。それを直視して受け止め、他への怒りを滅して、慈悲の心を培うことが重要である。そして、「他への怒り」を滅することが、「自分の悪業」を滅していく土台にもなる。
</p>
<p>
<br />
<strong>１１　ザンゲの真の意味＝怒りの止滅</strong><br />
<br />
さて、大乗仏教の経典の中には、ザンゲの意味合いを「怒りを止滅すること」と説いているものがある。ザンゲによって、「自分の悪業」を理解して、謙虚になれば、他人の悪業を見ても、それを許しやすくなる。
</p>
<p>
そして、こうして怒りが止滅することが、ザンゲによる「真の浄化」ではないだろうか。
</p>
<p>
人は、ザンゲして、「自分の罪が許されること」を願うが、実際に、自分の罪が許されたかどうかはなかなかわからない。しかし、ザンゲによって、どのくらい、他人と自分の類似性を理解し、謙虚になり、怒りが減り、「他人の悪業を許すこと」ができるようになったかは、自分でもある程度わかることである。
</p>
<p>
これは、自分と他人を区別する「無智」と、それに基づく「怒り」（とその裏にある貪り）を滅することができたか、ということであるから、三毒の浄化であり、仏教修行の根本的な目標である。<br />
すなわち、ザンゲの修行で、自分の罪が「許されたか」を問うのではなく、自分が他人の罪を「許せるようになったか」を問うのである。これは興味深いことである。
</p>
<p>
それはともかく、ザンゲによって、自業自得の法を理解して、無智・貪り・怒りといった悪業が減少し、智慧と慈悲の「善業」が増大することが最も重要である。悪業が減少し、善業が増大するならば、苦しみも少なくなり、幸福が増大することになるからだ。
</p>
<p>
<br />
<strong>１２　人の幸福は外的条件だけでは決まらない（「自業自得の法」の第２の解釈）</strong>
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<p>
さて、２つ目の「自業自得の法」の解釈を述べる。これは、今の自分の苦しみが、自分の過去・過去世の悪業である、といった法則を使わないものであり、より科学的・心理学的・合理的なものだから、より多くの人が受け入れやすいだろう。
</p>
<p>
その解釈とは、他人を含めた自分の生活環境である外的条件がどうであろうとも、「自分の内側の業＝煩悩」によって、同じ環境が苦しみに感じられたり、喜びに感じられたりする、ということである。
</p>
<p>
わかりやすい例を出せば、２０万円という月給があるとしよう。先月まで１０万円の安月給だった人にとっては、２０万円という月給は非常に高く感じられ、大きな喜びとなる。しかし、先月まで１００万円の高給取りだった人にとっては、２０万円は非常に低く感じられ、大きな苦しみとなる。しかし、外的条件は同じ２０万円なのである。
</p>
<p>
もう１つわかりやすい例を出すと、日本人の平均年間所得は数百万円であるが、平均年間所得が数万から数十万にすぎない、貧しい途上国の人々にとっては、すべての日本人の生活は、「王侯貴族の生活」に見える。彼らは、日本に来て生活できると、少なくとも経済面では、大変な幸福を感じるだろう。
</p>
<p>
しかし、日本人の中には、「自分は豊かではなく貧しい」と感じている人が多く存在している。それどころか、経済苦でうつ病になったり、自殺までしたりする人が毎年１万人近くいる。しかし、日本に来た途上国の人よりも、前から日本にいた日本人の方が、得ている給料の額は、逆に多いのである。
</p>
<p>
こういった例を考えると、人の幸福・不幸は、外的な条件だけで決まるのではなく、その人の「内面の欲求・執着の大きさ」によって決まる面が多い、ということがわかるだろう。
</p>
<p>
これが、２つ目の「自業自得の法」の解釈につながるのである。
</p>
<p>
すなわち、
</p>
<p>
① その人の内面の業、すなわち、煩悩、欲求、執着という「原因」と、<br />
② 生活環境などの外的な「条件」の組み合わせによって、<br />
③ その人がどのくらいの幸福ないし不幸を感じるかという「結果」が決まる、
</p>
<p>
ということである。
</p>
<p>
<br />
<strong>１３　外的条件を変えても本当には幸福にならない</strong>
</p>
<p>
ここで、次の点が重要である。仏陀は、本当に幸福になるためには、その人自身の「内面の業」こそが根本的な原因であることを悟るべきであり、「外的な条件」を変えることで幸福になろうとしても、逆に「苦しみ」を招き、空しい、と説いたのである。
</p>
<p>
まず、仏教的な悟りを求めない一般の人は、自分の生活環境・条件を変えることで、幸福になろうとする。例えば、より多くの財物、より好ましい異性、より高い名誉・地位などを求めて、自分が生きる環境条件を変えることで幸福になろうとする。
</p>
<p>
しかし、仏陀は、（生きていくために必要以上に）そういったものを求めることは、「貪り」であり、それは「さまざまな苦しみ」を生じさせると説いた。
</p>
<p>
例えば、
</p>
<p>
① 得られない場合に、「苦しみ」が生じるだけでなく、<br />
② 得た場合も、得たものに執着が生じ、それを守ったり、失ったりする「苦しみ」が生<br />
じ、<br />
③ 得るために他と争ったり、他から奪ったり、他に奪われたりする「苦しみ」などが生<br />
じ、<br />
④ にもかかわらず、得ても得ても、人の「貪り」は際限がなく、永久に満ち足りること<br />
がない、<br />
⑤ 死の際には、すべてを失う、
</p>
<p>
などである。
</p>
<p>
こうして、「環境条件」を変えることで幸福になろうとしても、それは、よくても「一時的なもの」にすぎず、長期的には、必ず「さまざまな苦しみ」を招くため、本当に幸福になる道ではないのである。
</p>
<p>
そして、以前も述べたが、現象をありのままに理解できず、「貪り」のように、実際には「不幸になる道」を、「幸福になる道」だと錯覚することを「無智」と呼ぶ。貪りは、無智から来ているのである。
</p>
<p>
さて、貪りの裏側の「苦しみ」に話を戻そう。
</p>
<p>
自分の思うままに、外的な環境を変えることができたときは、喜びを感じるが、その裏側で、それに対する「執着」が生じて、前にはなくてもよかったものが、なくてはいられなくなり、その分、その人は苦しみに弱くなってしまう。
</p>
<p>
にもかかわらず、貪りと執着は際限なく拡大し、いつまでたっても満ち足りず、「得られない苦しみ」、「失う苦しみ」が生じる。
</p>
<p>
さらに、他との「奪い合いの輪」に入るため、他と傷つけ合い、憎しみ、恨み、嫉妬し合う苦しみを経験せざるをえない。そうして必死に求め続けても、最後には、死の際にすべてを失うのである。
</p>
<p>
こうして、より好ましい外的条件を求める＝貪るということは、麻薬のような一種の「中毒症状」なのである。それによって大きな苦しみを感じるのに、それなしにはいられなくなってしまうのである。
</p>
<p>
<br />
<strong>１４　三毒に基づく自業自得</strong>
</p>
<p>
よって、仏陀は、貪りを「苦しみをもたらす毒」であると説いて、同じような性質を持つ、怒りと無智とともに、「三毒」と呼んで、「根本的な悪業」「根本的な煩悩」と呼んだ。
</p>
<p>
よって、ここで三毒についてまとめておこう。
</p>
<p>
まず、３つの毒のうち、根本は「無智」とされる。これは文字通り「智慧が無い」状態である。言い換えると、縁起の法を悟っておらず、現象をありのままに見ていない状態である。
</p>
<p>
そのため、例えば、「すべての事物が独立した実体を有さない」ことや、「幸福・不幸の本当の原因」がわからない、ということである。そして、この無智に基づいて、貪りと怒りが生じるのである。
</p>
<p>
「貪り」とは何かというと、無智に基づいて、「外界のなんらかの対象が自分に幸福をもたらす」と錯覚して、それを好み、求め、自分のものにして、執着する、という心の働きである。しかし、実際には、先に述べたように、それは幸福をもたらさず、「執着」や「怒り」を生み、さまざまな苦しみをもたらすのである。
</p>
<p>
「怒り」とは何かというと、無智に基づいて、貪りが生じると、その裏に、必ず生じるのが、怒りである。何かを好み執着すれば、それを失う際、奪われる際に、苦しみが生じ、例えば、奪う者に「怒り」が生じるし、好みと反対のものには「嫌悪」が生じる。
</p>
<p>
こうして、無智に基づいて、貪りと怒りは生じ、貪りが増大すると、その裏で怒りが増大し、怒りが増大するならば、その裏の貪りも増大している。よって、「三毒」は互いに独立しておらず、連動しているのである。
</p>
<p>
この三毒は、それが多ければ多いほど、苦しみ・不幸が増大するものであることは、これまでの説明で理解できるだろう。これが三毒に基づく「自業自得」の教えの解釈である。
</p>
<p>
なお、「現象界のすべては、心の現れである」と説く唯識派などでは、同じ「水」を見ても、人は、それを「水」と見るのに、天人は、すばらしい「甘露」と見て、餓鬼は、「不快な膿のかたまり」と見るなどと説かれることがある。
</p>
<p>
これは、同じ対象でも、「受け取る側の業」が違えば、まったく違ったものに感じる、という教えであって、これまで述べてきたことと本質的には同じことである。
</p>
<p>
<br />
<strong>１５　自業自得の法の重要性</strong>
</p>
<p>
ここまで考えると、仏陀が「自業自得」を説いた理由がわかるだろう。自分の業と外的条件の組み合わせで、幸福・不幸を感じるが、外的条件を変えて幸福になろうとしても、それを貪れば、大きな不幸を招くからである。
</p>
<p>
かといって、私は、外的条件を変えることで幸福になろうとする、現代の西洋文明の幸福の哲学をすべて否定するつもりはまったくない。ただし、少なくとも、現代人は、それにあまりに偏ってしまっている。そのため、仏陀が説いた通り、そのやり方の弊害に直面し、行き詰まっている。
</p>
<p>
社会の問題を見れば、人間の欲望に合わせて、外的環境を変える物質主義・消費主義・自然開発の「行きすぎ」で、資源・エネルギー・環境などで破局的な危機が懸念されている。
</p>
<p>
今後、地球規模の問題の解決のためには、いろんな「辛抱」、「分かちあい」が必要とされるだろう。しかし、それに耐える忍耐力がなければ、奪い合い＝戦争となるのが、人類の歴史であった。これは、仏陀が説いた通り、「貪り」が招く破滅ではないだろうか。
</p>
<p>
また、個々人の問題を見ても、現代人は、物にあふれた社会に住みながら、本当には幸福でない人が多い。日本では、自殺も、精神病も、異常な犯罪も増大してきた。途上国の人の方が、貧しくても生命力がある、という報告も少なくない。
</p>
<p>
これは、内面の貪り・欲求・執着が「肥大化」した結果として、客観的・物質的には、地球の中でこれ以上にないほど恵まれた生活条件の中に住みながら、それでも充足・満足できない精神状態にある、ということである。
</p>
<p>
<br />
<strong>１６　苦しみを受け入れる「忍辱」の重要性</strong>
</p>
<p>
人の感じる幸福・不幸が、その人の貪り・怒り・無智といった煩悩によって決まるということは、今自分が感じている苦しみがあったとしても、それを「外的な条件」を変えるのではなく、「自分の内面」を変えることで、苦しみではなくしてしまうことができる、ということでもある。
</p>
<p>
「苦しみが苦しみでなくなる」ということは、その人の「内面の業」が変化した、すなわち、貪り・怒り・無智などの悪業が減少した、ということである。悪業とは苦しみの因であり、悪業が減少すれば、苦しみが減少する。
</p>
<p>
これが、仏教の説く「忍辱の修行」の意味である。忍辱とは、一般に、苦しみに耐える、と解釈されるが、それには積極的な意味があり、「悪業を消滅させるために、苦しみを積極的に受け止めること」である。
</p>
<p>
よって、経典には、「苦しみを喜びにする」、「苦しみに感謝する」、「苦しみを導き手とする」といった表現がある。
</p>
<p>
この忍辱の実践をするためには、その前提として、「自業自得の法」をよく理解していなければならない。そして、忍辱の修行で苦しみが消えたとき、その人は、体験を通して、自業自得の法を悟るのである。
</p>
<p>
この悟りを得た人は、非常に精神的に強い人となり、苦しみに強く、本当の意味で苦しみが少ない人になる。なぜなら、自分の苦しみは、「自分」が作っており、自分は、自分の努力によって、幸福になることができるようになるからである。
</p>
<p>
そして、私たちがこの悟りを得ようとすれば、私たちが生きていく中で、なんらかの苦しみを経験するときが、「悟りのチャンス」と考えることができる。よって、仏教宗派の一部においては、「悟りが訪れる前には、試練がある」とよくいわれるのである。
</p>
<p>
<br />
<strong>１７　「忍辱の法」の間違った解釈・悪用</strong>
</p>
<p>
ただし、先ほど自業自得の法が「悪用」される場合があると述べたが、この忍辱という修行に関連しても、その法の趣旨を逸脱しないために、オウムが犯した過ちについても反省しておく必要がある。
</p>
<p>
オウムでは、「マハームドラー」といわれた修行があった。それは、松本元教祖を「絶対」とみなし、教祖がなすことには間違いがなく、弟子が教祖の言動・指示により苦しむ場合も、教祖を否定せずに「耐えて」帰依することが、自分の悪業・煩悩を弱めて、悟りに至る重要な修行である、というものである。
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ところが、この教義は、元教祖の犯罪の指示を受けた弟子たちが、その犯罪行為を実行したり、事件を反省しなかったりする結果をもたらした。
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しかし、こういった「忍辱」、「マハームドラー」の考え方は、明らかに、正法を逸脱したものである。
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まず、オウム以外の密教の伝統にも、「グルを完璧と見る修行法」とか、「マハームドラーの試練」というものがあることは確かである。
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しかし、それは、グルが実際に全知全能の絶対者である、と主張するものではなく、グルに対して謙虚になり、「自分のエゴ・自我意識を滅する修行法」にほかならない。
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よって、この修行法は、通常、「師と弟子の間」で展開されるべきものであり、当然、合法的な範囲で行われるべきものである。
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その範疇を逸脱して、悟りのための試練として、「無関係の第三者」の生命・財産を奪うことを肯定することは、それは、自分の悟りのためには、他の生活を破壊してよいという、とんでもなく自己中心的な、「思い上がり」である。謙虚になることとは正反対となる。
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この背景には、オウムの世界観があった。教団が「善業多き魂」であり、社会は「悪業多き魂」であって、教団は不当に社会に弾圧され、教団から現れるキリストが、悪業多き魂をポワして、千年王国を作る、という世界観があった。すなわち、自己中心的なマハームドラーの教義の背景には、「自己中心的な世界観」があったのである。
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これらの点を十分に反省し、仏教で説く「試練に耐える」という重要な教えについて、オウムのような間違いを犯さずに、合法的で社会的な活動の範囲の中で、どのように実践していくかを考える必要がある。
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その結果が、「カルマ・ヨーガ」という教えである。これは、グルではなく、「自分自身」で、自分の外的環境を修行のための試練・学びの場とする修行法である。その意味で、この修行法は、いわば、「セルフ・マハームドラー」とも呼べるだろう。&nbsp;&nbsp;
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<span style="font-size: medium"><strong>第４章　貪りの止滅と施しの実践（感謝と分かちあい）</strong></span>
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<strong>１　仏陀の説いた最高の幸福の境地＝涅槃寂静・不苦不楽</strong>
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『岩波 仏教辞典』によれば、「涅槃」のサンスクリット原語は「ニルヴァーナ」であり、それは、「煩悩の火が吹き消された状態の安らぎ、悟りの境地」であって、「三毒を止滅した状態を涅槃の第一義とする」とある。
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次に、「涅槃寂静（ねはんじゃくじょう）」という言葉があるが、これは、「煩悩の炎の吹き消された悟りの世界（涅槃）は、静やかな安らぎの境地（寂静）」とされる（前掲書）。
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また、寂静（じゃくじょう）とは、「心の静まった状態。執着を離れ、憂いなく、安らかなこと。悟りの境地」とされる。
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なお、オウムでは、「涅槃＝ニルヴァーナ」を、「絶対の世界」と解釈していたが、これは必ずしも、伝統的な仏教の表現・定義ではない。<br />
<br />
そして、仏教が、個人的な意味では、修行の最大の目標としたのが、この「涅槃・涅槃寂静の境地に至ること」である。
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私の体験に基づく考えでは、「涅槃寂静」とは、基本的に、「不苦不楽の状態」と表現できるのではないか、と思う。
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無智に基づいて快楽を貪れば、必ず、同時に苦しみが生起し、怒りも生じる。無智を滅して、貪りと怒りを滅するならば、快楽と苦しみの双方が止滅し、「不苦不楽」の寂静の状態になるということである。
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ここでのポイントは、「悟りを妨げるもの」として人に生じる心の働きが、「不苦不楽」の静かな安らぎの境地では物足りず、快楽を求める欲望、「貪り」である。
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そして、その土台には、現象をありのままに見ることができず、貪りは楽の裏にさまざまな苦しみを招くものであることが、理解できない「無智」がある、ということである。
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これは、日本をはじめとする東洋の伝統的な価値観・文化に通じるところがある。それは、ひたすら欲求の充足を求めるのではなく、「足るを知る」こと、「少欲知足をよしとする」思想である。<br />
最近の地球の状態を考えると、「足るを知り、皆で分かちあわなければならない」ということを示しており、仏教哲学の重要性を示している。
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<br />
<strong>２　貪りは、他から奪うことであり、自と他を苦しめる</strong>
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貪りが、執着をもたらし、自分を苦しめることは、繰り返し述べた。今回は、自分の貪りが他人も苦しめる構図があることについてである。
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縁起の法は、「自分と他人やこの世界の一切のものは、互いに独立しておらず、相互に依存しあって、つながっている」と説くが、よく観察すれば、お金にしても、異性にしても、食べ物にしても、名誉や地位・権力にしても、「自分が貪るならば、他人から奪わなければならない」という事実があることがわかる。
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ただし、この場合の「貪り」の意味・定義とは、大まかに言えば「生きていくのに必要なもの以上を求めて足るを知らない状態」とか、「おのずと自分に与えられるもので満足せずに、それ以上のものを求めて他と争う」といったことであって、「お金やその他を一切放棄して、山にこもって死ぬべきである」と言っているのではない。
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もちろん、生きていくためにも、人は、「他の生き物を殺さなければならない業」を有している。そして、人を含めた大きな生き物は、死んだならば、小動物・微生物の食べ物となる（人体が死後に腐敗するのは微生物の活動の結果である）。これが、この世の生き物が避けることができない「業」である。
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<p>
しかし、仏教における実践的な教義は、こうした、「生きていく上で避けられない業」についてまで、「貪り」として否定することは当然ない。しかし、生きる限りは、他の生き物をなんらかの形で苦しめざるを得ない、という人間の業・矛盾を無視してしまうことなく、「しっかりと直視すること」を説く。
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<p>
その上で、必要以上の欲望を抑制し（持戒）、他に与える苦しみを最小限にして、その一方で、さまざまな形で他の苦しみを取り除き、幸福を増大するために、施し・奉仕をなすことを説く（布施）。
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さらに、他に苦しみを与えて生きている自分が、その業の清算として、他に苦しみを与えられた場合は、それを憎まずに耐えること（忍辱）などを説いている。いわゆる六波羅蜜の実践である。
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こうして、「他に与える苦しみ（悪業）」よりも、「他に与える幸福（善業）」の方をより大きくしようとしているのである。<br />
<br />
<br />
<strong>３　施しは、自と他を幸福にする</strong>
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さて、貪りとは反対に、「施し」は、「施された他」を幸福にするばかりではなく、逆に私たちを、苦しみに対して強くして、苦しみの現象化を防ぐ。
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まず、施しをするということ自体が、貪りを弱めることだから、貪りから来る「執着」を防ぐことになる。さまざまなものを「なしで済ませる」ことができる心身の状態を形成できる。
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さらに、「自分より不幸な人」「苦しんでいる人」のことを考えて、自分の貪りを和らげて布施をするならば、その慈悲の心によって、苦しみに強くなる。「自分よりも、はるかに苦しんでいる人たち」を意識して、その人たちに施し、幸福を分かちあう実践をするならば、彼らの苦しみに比べて、自分の苦しみなどは非常に小さなものに感じるだろう。
</p>
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例えば、途上国の人たちや、動物たちの環境条件を常に考えるならば、自分たちが日本に住んで得ている「幸福の大きさ」や「苦しみの少なさ」を実感できるだろう。このような良い環境に住んで、自分が不幸であると考えること自体が、本来は「おかしなこと」であり、「申し訳ないこと」であると感じるようになるだろう。
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また、こうした、「物の施し」だけでなく、「法則の施し（法施）」についても、まったく同じことが当てはまる。
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まず、豊かな日本のような先進国の中にも、法則を知らない人が多くいる。法則を知らないということは、幸福になるために、外的な条件を変えることばかりを求めるしかないということである。釈迦牟尼が説いた、「内的な原因＝自分の業を変えることによって、本当の意味で幸福になる道」を知らない、ということである。
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しかし、前にも述べたように、それは一時的には良く見えるときはあっても、最終的には行き詰まり、苦しみ・不幸が増えてしまう道である。実際に、そのために、現代社会は、環境問題などのさまざまな危機に瀕しており、個々人においても、ストレス・精神病・異常犯罪の増大や、年間数万人に及ぶ自殺者などが出ているのである。
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一方、仏陀の法則に巡り合った皆さんは、本当の幸福への道を知り、法則を知らない人よりは、苦しみを和らげるすべを知っている。これは非常に大きなことである。そして、普段は意識していないが、日本のような、豊かで安全で長寿である先進国に生まれ、さらに、仏陀の法則を学ぶ「法縁」まで有している、ということはなんと幸運なことであろうか。
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仏陀は、多くの生き物の中で、人として生まれることは極めて珍しく、その中で、仏陀の教えに巡り合い、心が目覚めることは、さらに珍しく難しいとして、法縁のある人生を「宝のような人間転生」と呼んだ。
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こうして、法則を知らない無数の人々の抱える大きな苦しみ・不幸を思い、法則に縁のあった自分の幸福に感謝しつつ、他人にできるだけ法施をなしたり、法の場である道場を維持するために布施をしたりするならば、その分、皆さんは、苦しみに強くなることができるだろう。
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<br />
<strong>４　法施の際に避けるべき慢心</strong>
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<p>
ただし、ここで、オウムのように、自分たちは法縁がある「善業多き魂」であり、一般の人たちは法縁のない「悪業多き魂」であるといった、妄想的なプライドに陥るならば、法縁が深まるのではなく、自と他を区別する無智が増大し、法縁が薄まり、さまざまな苦しみ・不幸の原因となる場合がある。
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<p>
よって、仏陀の法則に高い価値を認めて、その法則との縁を与えられたことに感謝することは大切だが、一方で、自分の法縁を下手に誇れば、法縁を薄くする可能性があることに十分に注意すべきである。実際には、法縁を得て、法則を知りつつも、法則の実践をしきれないのが人間であるから、「法縁に慢心を抱くこと」は努めて避けるべきである。
</p>
<p>
そのためには、具体的には、
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<p>
① 自分も過去には、法縁がなかった時があり、<br />
② 今現在も、法則を知りつつ、法則を実践し切れておらず、その意味で、法縁のない他<br />
人は、自分の投影であり、<br />
③ 今後、謙虚になって、まだまだ浅い自分の法縁を深めるために、法則を実践し、他に<br />
施さないならば、来世には法縁を失いかねず、<br />
④ こうして、今見ている法縁のない他人は、自分の過去・現在・未来を映したもの、
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<p>
と自戒すべきである。
</p>
<p>
そして、自ら法則をさらに深く学ぶとともに、苦しんでいる多くの人と、法による幸福を分かちあう「法施」をなすべきである。教学だけでなく、他に法施をするならば、自分の法の理解が深まる。法施とは「他のため」だけでなく、「自分のため」にも行うべきことだ。そうすれば、法縁を分かちあった他人が幸福になるとともに、自分の法縁を深めることができる。
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<p>
こうして、貪りを抑制して、苦しんでいる人たちに施すことを実践することは、「自と他」を幸福にするのである。
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<p>
一方、施しをせず、貪りを深めている人は、「自分よりも苦しんでいる人たち」のことは考えられない。心は常に、執着と果てしない欲望にとらわれ、自分より幸福な人への嫉妬や、自分から幸福を奪う他人への怒りや、幸福を争う他人との闘争に支配されている。
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<br />
<strong>５　私たちの貪りの贖罪--賠償・途上国支援・法施</strong>
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<p>
さて、オウムの一連の事件の被害者の苦しみは、教団の教祖・信者たちの「プライドの貪り」の結果として生じたものである。今後、一連の事件の被害者・遺族が経験している苦しみを無視し、それを和らげるための具体的な実践として賠償をしなければ、自分もさまざまな苦しみに対して、弱くなっていくであろう。
</p>
<p>
一方、被害者・遺族の苦しみを無視せず、賠償を含めた努力を行うならば、その分、自分自身も人生におけるさまざまな苦難・困難に強い人間になることができるだろう。その中では、被害者の苦しみと対比して、賠償の負担も苦しみではなくなる。
</p>
<p>
また、自分が先進国に生まれて、さまざまな物欲を貪ってきたことが、途上国や多くの生き物たちの苦しみを生じさせている状況を無視して、その苦しみを和らげる途上国の支援をしなければ、贅沢が当たり前となった自国の生活にはまり込んで、苦しみに「弱く」なってしまうだろう。
</p>
<p>
一方、彼らの苦しみを無視せず、その苦しみを和らげる具体的な実践に取り組むならば、自分たちもその苦しみに「強く」なれるだろう。「彼らの苦しみ」を常に思うならば、自分の日常の苦しみなど苦しみと感じず、支援の労苦を厭わない気持ちが出てくるだろう。
</p>
<p>
そして、私の考えでは、途上国や多くの生き物の苦しみを和らげるためには、途上国支援とか環境保護の取り組みだけではなく、日本をはじめとする「先進国の貪りを和らげること」が重要である。
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<p>
単純に途上国を支援するだけでは、長期的にいうならば、成長した途上国を含めた、すべての国々が経済競争に参加して、地球がさまざまな意味でパンクする。ないしは、生き残りをかけた国家間戦争が始まる事態に陥りかねない。
</p>
<p>
これを解決するには、すべての人類社会が「貪りを抑制し、他と分かちあう」という、仏教的・東洋的な智慧を学ぶことが非常に有益ではないかと思う。
</p>
<p>
その意味で、私たちは、世界中の多くの人々と協力し合って、「仏陀の法を分かちあうための奉仕＝法施」をするべきであろう。これは施しではあるが、同時に、先進国に生きてきた者の「贖罪」でもあるだろう。
</p>
<p>
こうして、仏陀の法則は、現代においてますます重要である。
</p>
<p>
<br />
<strong>６　感謝と分かちあい</strong>
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<p>
仏陀の教えを考え直してみると、無智・貪り・怒りを止滅し、「智慧と慈悲」を深めることが重要である。そして、その具体的な実践として、「感謝と分かちあい」があると思う。
</p>
<p>
貪り（とその裏にある怒り）を捨断するためには、「もっと、もっと」という欲望と不満に心を向けず、今現在、与えられている幸福の大きさに気づいて、足るを知り、与えられているものに感謝する実践を繰り返すことが有効だろう。
</p>
<p>
そして、与えられている幸福の大きさに気づく一つの方法として、自分より不幸な人たちの苦しみに目を向けて、それを取り除くために、他と自分の持っている幸福を分かちあうことが有効だ。これが、仏教が説く布施の趣旨の１つであろう。
</p>
<p>
一方、資本主義・競争社会が加速している現代社会は、「欲求不満と奪い合い」の傾向が強まっているように見える。しかし、その結果として、個々人は、過剰な自己愛のために、精神的に苦しみ、社会全体としても、世界中の経済競争と消費の拡大によって、環境などの地球規模の破局的な問題を招き、行き詰まりつつあるように見える。
</p>
<p>
それを超えるための教えは、この「感謝と分かちあい」の実践ではないだろうか。「不満と奪い合い」は、貪り・怒り・無智の三毒に基づいたもので、感謝と分かちあいは、言い換えれば、「智慧と慈悲」の実践である。
</p>
<p>
<br />
<strong>７　向上欲求と貪りの違い</strong>
</p>
<p>
なお、人々を幸福にする「向上欲求」「改善欲求」というものも、貪りではないか、という考え方がある。
</p>
<p>
これは、ある意味ではそうであって、貪りというのは絶対悪ではない、ということもできる。例えば、現代の資本主義文明が、深刻な地球規模の問題を引き起こしつつあるといっても、その文明によって、（人自身が進化したかどうかは別にして）人を取り巻く技術や物質は飛躍的に進化し、それによって人類が受けた恩恵は多大である。<br />
<br />
しかし、その貪りの問題は、それがコントロールできず、際限がなくなり、いわば貪りの中毒・奴隷になってしまうことだ。本人を「幸福」にする追求が、逆に本人を「支配」して、破滅に至らせる可能性があるのである。
</p>
<p>
例えば、人類の「幸福追求の手段」だった資本主義経済が、その一面において、人々を「経済的な利益の奴隷」としてしまい、地球のシステムを壊して、破局をもたらす恐れがある状態まで、人類は暴走しつつあるのだ。
</p>
<p>
こうして、本来は人の幸福のための追求・欲求であったものが、結果として、人がその欲求・貪りの奴隷になってしまい、目的と手段が入れ替わってしまう。これでは逆の結果になりかねない。
</p>
<p>
また、修行や衆生済度を含めて、良い意味での「向上」を求める欲求も、その欲求にとらわれすぎると、自分の思うとおりにいかないがゆえの焦りや怒りが生じてしまう。これは空回りを生じさせたり、状況を悪化させたり、悪くすると、大きな問題を起こす。
</p>
<p>
善を実現する、「衆生済度」「世直し」「社会改革」といった運動も、焦るあまりに、本人たちは「善」を志して実践していたつもりなのに、気づいたときには悪になってしまっていて、自滅するケースもよくある。２０世紀中に「真理の国」を作ろうとして武力革命を図ったオウムにも、これは当てはまるのではないか。
</p>
<p>
また、勝利を求めるスポーツや武術においても、適度に力を抜くことや、「勝つと思うな、思えば負けよ」という「無我・無心の境地」が説かれるのも同様だと思う。
</p>
<p>
こうして、「善」を欲求する場合であっても、何事も「行きすぎ」は、逆効果・害悪となる恐れがある。冷静に心を静めて、地に足をつけて、全体の流れを見極めて行動することが重要であり、欲求の奴隷になってはならない。
</p>
<p>
このためにも、「感謝と分かちあい」は重要である。
</p>
<p>
なぜならば、現状が完璧ではなくても、与えられている良い部分・幸福に対して、努めて感謝する努力をすることで、欲求不満を静めて、心にゆとりを持つことができるからである。
</p>
<p>
<strong><br />
８　「感謝と分かちあい」が、すべての人を幸福にする道</strong>
</p>
<p>
「感謝と分かちあい」は、すべての人々を幸福にする道だと思う。
</p>
<p>
例えば、ここに３人の人がいて、それぞれの給料が２０万、２５万、３０万だとする。普通の場合は、当然のことだが、２０万の人は、２５万や３０万の人を見て、自分の給料に不満を抱き、自分の給料がもっと上がるように欲求する。
</p>
<p>
しかしながら、この世の中のお金は有限だから、誰かの給料が上がるためには、誰かの給料が下がらなければならないときがある。
</p>
<p>
それは好景気の時には当てはまらない、というかもしれない。しかし、先ほどの３人の給料が、好景気のために、それぞれ２倍になり、３０万、４０万、５０万となっても、４０万の人の不満・嫉妬は変わらない。
</p>
<p>
人の感じる幸福・不幸は、「他との比較」の問題であって、いくらであれば幸福で、いくらならば不幸である、といった具合に、額自体で決まるのではない。実際に、「お金持ち」という言葉は、いくら以上ならばお金持ちという定義はなく、「他の人と比較して、お金を持っている人」としか定義できないものだ。
</p>
<p>
しかも、景気にはいつも波がある。好景気で貪りにとらわれ、目がくらんだ人は、正常な判断能力を失い、過剰な投資・生産を行って、不景気がやってくるのが常である。
</p>
<p>
最近は、それがひどくなり、通常の景気サイクルの動きを超えて、バブルの崩壊という大きな問題が、世界最大の経済大国の日本と米国で起きてしまった。それは、全世界を巻き込んだ不景気と物価高を招き、食糧価格と原油高騰は世界中の弱者の生活を直撃している。
</p>
<p>
そして、短期的な経済動向に限らず、長期的に見ても、今後の地球のさまざまな資源・エネルギー・環境の問題を考えるならば、各国が自由に経済・消費を成長させてよい時代は終わりつつあるように思う。すなわち、「１つしかない地球」を人類全体で、いや地球の生物全体で、分かちあわなければならないのである。
</p>
<p>
こうした時代、どうしたらすべての人々が幸福になれるのだろうか。それは、やはり、自分たちに今すでに与えられている幸福に気づき、それに感謝して、喜びとすることではないか、と思う。
</p>
<p>
これは何も金銭に関しての問題に限らない。いや、現代の日本人の悩みは、金銭というよりも、「自己存在意義」の欲求ではないかと思う。「社会の中で、いかに自己の存在が重要であるか」といった欲求、言い換えれば、自己愛・プライド・地位・名誉などといったものである。
</p>
<p>
しかしながら、この精神的な欲求についても、結局は「奪い合い」になることは間違いない。自己の存在の重要性とは、「他との比較」に基づくからである。それを追求し続けるならば、現代風に言えば、世界・宇宙のヒーローにならないと気が済まない。
</p>
<p>
それが現実の世界では不可能だから、多くのアニメやパソコンゲーム、インターネットなどのフィクションの世界が展開されているが、青少年が、こういった世界に没入して現実から逃避したり、妄想・空想の精神病理的な状態に陥ったり、「現実とフィクション」が区別できなくなって、犯罪を含めた問題の一因になっているともいわれている。
</p>
<p>
一方、感謝によるメリットとは、皆が、「自分がすでに得ている幸福」に気づくことである。
</p>
<p>
先ほどの２０万、２５万、３０万のケースで言えば、この３人は、皆が２０万以上の給料を得ている。これは、所得水準が日本の１０分の１以下である発展途上国の人たちから見れば、「王侯貴族」の所得水準であり、仮に、彼らが日本に来てそれを得れば、大変大きな喜びとなるものだ。
</p>
<p>
しかし、奪い合っている間は、例えば、２０万の人ならば、自分と２５万や３０万の人との違いである５万や１０万の部分にしか意識が集中していない。その違いは、合計でも５万＋１０万の１５万でしかない。これを、どう３人が奪い合うかが、３人の幸福を決めてしまうのである。
</p>
<p>
一方で、皆が、「今与えられているもの」に感謝するならば、皆が持っている２０万&times;３人＝合計６０万もの大きな幸福を見て、喜ぶことができる。こうして、「すでに得ている幸福」に目をやれば、その幸福が大きいことに気づき、それに感謝することで、皆が幸福を感じることができるようになる。
</p>
<p>
そして、その感謝と同時に、自分たちよりもはるかに不幸な人たちの苦しみを理解し、彼らと幸福を分かちあうことができるようになれば、世界の幸福はさらに増大するだろう。
</p>
<p>
例えば、先ほどの例では、仮に日本で生きていく上には１５万以上は必要ないとすれば、２０万の人が５万、２５万の人が１０万、３０万の人が１５万を発展途上国の人たちと分け合えば、合計で３０万の支援ができる。
</p>
<p>
そして、所得水準が日本の１０分の１以下の国の人たちには、３０万は３００万にも、３０００万ほどの価値にも感じられるのである。それは、何十人、何百人もの人を救うことができるだろう。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<strong>９　「分かちあい」によって幸福の総量が増大する</strong>
</p>
<p>
また、分け与えた側の日本人は、それによって損するかというと、そうではない。彼らは、「より豊かに」なるのである。
</p>
<p>
なぜならば、彼らは、貪りの中毒・奴隷状態から精神的に解放されて、自分たちが得ている幸福の大きさに気づく。そして、「生きていくのに必要なもの」があれば満足ができるようになって、多少の経済的な困難には動じなくなる。さらには、非常に多くの他人に感謝されることになる。
</p>
<p>
こうして、分け与えた側も、分け与えられた側も、豊かに、幸福になるのである。これは、仏陀の法則、「智慧と慈悲」の根幹である。
</p>
<p>
法則を知らない人は、幸福は、自分と他人の間で奪い合うものと錯覚しているが、本当は、自分と他人は、「同時に」幸福になり、「同時に」不幸になるのである。幸福・不幸においても、自と他の区別はない。
</p>
<p>
奪い合えば、負けた方は苦しむが、勝った方も、果てしない貪り・執着の奴隷になり、必ず苦しむときが来る。分かちあえば、先ほど述べたように、与えられた方だけでなく、与えた方も、豊かになる。<br />
<br />
これを言い換えれば、「与えた者は与えられ、奪った者は奪われる」というカルマの法則そのものである。その意味で、「与える方」と「与えられる方」の区別は、本当は存在しない。形としてはあるが、実際には、両者が与えられているのだ。
</p>
<p>
その意味で、施すことで、「施す側」と「施される側」は、文字通り、ともに幸福を分かちあうことになる。幸福の総量が増大しているともいえる。
</p>
<p>
これは、皆が幸福になる輪（ひかりの輪）が広がっていくことである。一方、貪りにとらわれれば、皆が不幸になる輪が広がっていくのである。
</p>
<p>
<strong><br />
１０　法則を分かちあう「法施」のすばらしさ</strong>
</p>
<p>
さて、分かちあうべきは、物質的なものだけではない。ヨーガでいえば、「物・知識・法則」の３つが説かれると聞く。仏教では、伝統的に、「財施（財を施す）・無畏施（畏れのないことを施す）・法施（法則を施す）」が説かれる。
</p>
<p>
ヨーガが説く、「物・知識・法則」の意味合いは何か。自分の考えでは、人にはまず、必要最低限の食べ物や家などの「物」が必要であり、次の段階で、それを自力で得て守るための教育などを含めた「知識」が必要である。
</p>
<p>
しかし、それだけでは幸福にならず、最後には、不幸の本質的な原因であるエゴを止滅する「法則」の智慧が必要である。
</p>
<p>
仏教が説く、「財施・無畏施・法施」の意味合いは何か。１つの説明としては、これは、「仏教が説く３つの根本的な悪業・煩悩である貪り・怒り・無智の３つを滅する」という意味がある。<br />
<br />
財施は、「財物への執着」という貪りの大きな原因を取り除く。他人の恐れを取り除く無畏施は、他の恐れの原因となる「自分の怒り」を取り除く。法施は、言うまでもなく「無智」を取り除くものである。
</p>
<p>
さて、こういった分かちあいの中でも、私は、とりわけ「法施」という分かちあいの価値を強調したい。
</p>
<p>
なぜならば、生きていく上で必要な物や知識は必要であるが、最終的には、人の幸福・不幸は、その人の「心」によって生み出されるものであるがゆえに、「法則の智慧」がない限りは、本当には幸福にならないと思うからである。
</p>
<p>
いくら物や金や地位や名誉があったとしても、それに対する欲求や貪りは際限がなく、満ち足りることは永久になく、欲求不満が続き、心は静まらない。
</p>
<p>
そして、欲するものが得られないときの苦しみや、得たものに執着してそれを失うときの苦しみ、自分より恵まれている人への嫉妬や、他との奪い合いにおける怒りや憎しみなどが、自分の心を絶え間なく苦しめていく。これは自分も他人も不幸にしていくものだ。
</p>
<p>
これに対して、仏陀の説いた法則は、そういった絶え間ない貪り・欲求不満・執着・嫉妬・怒り・憎しみ・冷淡さから自分を解放し、心の寂静を与えてくれる。
</p>
<p>
また、「まだ得ていない幸福」ではなく、「すでに得ている幸福」の大きさに気づく智慧と、それに対する感謝の「喜び」を与えてくれる。さらに、その感謝に基づいて、他と分かちあう慈悲の「喜び」を与えてくれるのである。すなわち、自分も他人も幸福にしていき、「すべての人々が幸福になる道筋」を与えてくれるのである。
</p>
<p>
私たちは、人に生まれ、豊かで安全で長寿の日本に生まれ、さらに、仏陀の教えと縁がある、という非常にまれな、大きな幸福に恵まれた。これに対して感謝するとともに、その幸福を本当の意味で生かす生き方をすべきではないだろうか。<br />
それは、「感謝と分かちあい」といった、すべての人々が幸福になっていく法則をできるだけ多くの人と分かちあう、「法施」の実践である。
</p>
<p>
<strong><br />
１１　法施に関連した３つの施し--与える・許す・信じる</strong>
</p>
<p>
最後に、向上欲求と貪りの混同について再び述べたい。法を分かちあうために、法施をしようとすることは良いことである。
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しかしながら、宗教において常に、この「布教というものが善とされるがゆえに、強制的になる」などの問題が起こる。その背景を考えると、真の他への奉仕ではなく、さまざまな貪り・煩悩の働きがあることに注意しなければならない。
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<p>
宗教の場合は、まず、「自分たちが唯一正しい存在である」という妄想的なプライドを持つ恐れがある。これに基づいて、「多くの人が（本質的には地球のすべての人が）、自分の宗教の信者になるべきである」という意識が働く。
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<p>
ここではすでに相当の支配欲・権力欲が働いているし、競合する他宗教との闘争心も働いている。そこでは、歴史上、しばしば、強制力・暴力・軍事力も用いられてきた。教団武装化や薬物を使ったオウムも、この一例である。
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こうして、妄想的なプライド・権力欲・支配欲といったものをザンゲしたならば、それに基づいて、私たちは何をすべきであろうか。それは、「他を支配する布教」でなく、「他に奉仕する布教」の実践であろう。
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<p>
この奉仕の考え方をわかりやすく言えば、①与えること、②許すこと、③信じること、ということになるのではないかと思う。
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それを具体的に言えば、第１に、自分が他人に、できるだけ正法を「与えること」、第２に、（程度問題ではあるが）まだ十分に啓蒙されていない段階では、他人が法を受け入れずに、悪業をなしたとしても、（それを自分の投影と見て）「許すこと」、第３に、他人の未来の成長を「信じること」である。
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なお、私は、強制的な支配がすべて悪いといっているのではない。例えば、罰則をもって犯罪を禁じる、法規や道徳規律に従わせる場合でも、それは一種の「支配」である。
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例えば、何でもありという感じで、「人には何も義務づける（強制する）べきではない」という主張は、「自分だけが正しいと考えて、自分の考えを強制する」というのと同じくらいに極端である。こういった場合は、自分の欲望を肯定するために、他人の欲望も肯定している面が多い。
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しかし、どんな場合でも、強制力に偏りすぎると問題が生じる。よって、たとえ善を実現する場合でも、導く側は、「導かれる側に対して、その道理を十分に示す」といった奉仕が必要である。啓蒙・奉仕と強制力の適切なバランスが必要である。
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これを言い換えれば、真の愛の実践には、①悪を取り除いて善を増大させる「浄化」の側面と、②直ちに完全な善になれない不完全な存在である人間をという生き物を受け入れる「受容」の側面が必要ではないかと思う。
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これは、心理学で説かれる、「男性原理と女性原理のバランス」ということもできる。また、これは、密教の教えにも通じるところがある。
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また、ひかりの輪でいえば、オウムの幻想が壊れた今現在は、以前の教え・観念によって、皆が修行できるわけではないから、その意味で、他人が修行するように導く上では、多くの「法施」が必要な段階ではないか、と考える。
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最近、オウム時代の総括が進んできている。その反省とザンゲに基づいて、「一から出直す」くらいの気持ちで、法施の奉仕の実践に励まなければならないと思う。それが、新団体の課題であり、真の、新団体になる道だろう。
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最後に、「他に与える者は、与えられる」という法がある。法を与える者は、自分も法を深く理解し、それによって、悟ることができるのである。&nbsp;
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<span style="font-size: medium"><strong>第５章　すべてが神仏の現れ（カルマ・ヨーガ）</strong></span>
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<strong>１　カルマ・ヨーガについて</strong>
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「カルマ・ヨーガ」とは、インドヨーガの定義では、「すべての人々を神の現れと見て奉仕するヨーガ」であるが、ひかりの輪においては、仏教の教義とも組み合わせて、これを発展的に解釈して、より広い意味で用い、「すべての人々、生き物、ひいては万物に、神仏やその法の現れを見て、学び、感謝し、奉仕するヨーガ」といった意味合いがある。
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ここで、カルマ・ヨーガは、他から学ぶだけではなく、「学べたことに感謝して、恩返しの奉仕をする」ということが含まれる。こうして、「カルマ・ヨーガ」と「慈悲の実践」は結びついているのである。
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では、どのように考えれば、すべてを神仏の現れと見て、学びの対象とできるのだろうか。それには、以下のように、さまざまな考え方が可能である。これらをよく理解して、自分に合ったものからでよいから、早速修習を始めて、徐々にその実践を広げ、深めることが望ましい。
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<strong><br />
２　すべての人を「未来の仏陀」と見る</strong>
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すべての人々（生き物）には、何かしら「善いところ」がある。どんなに悪人といわれる人でも、よく観察すれば、何かしらの善業、何かしらの愛・慈悲の実践をなしている。
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そして、大乗仏教の思想では、それは、その人の「仏性・神性」の働きによるものであって、「仏性」とは、未来に仏陀になる可能性のことであって、「すべての衆生が未来においては仏陀になる」と説く。
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よって、人の善いところを見ては、「その人の中に未来の仏陀がいる」とか、「その人は未来の仏陀である」と考えて、それを敬い、すべての人に奉仕するのである。そして、こうして、「すべての人々」と、自分の信仰対象である「仏陀」を結びつけることで、すべての人々への愛を培う土台を作ることができるのである。
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<p>
なお、これに関連して、大乗経典（例えば『華厳経』など）では、この世界は「仏陀の（大日如来など）の現れ」であり、すべての人々は、仏陀の現れ（現したもの）にほかならない、と説く。中には、観音菩薩が変化自在であることなどから、すべての人々・生き物は「観音菩薩の現れ」である、と説く教えもある。
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また、インド哲学の主流であるヴェーダーンタも、この世界のすべては、宇宙の根本原理である「ブラフマンの現れ」であると説く。
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<strong><br />
３　すべての人を「（仏陀の与えた）カルマの法則を教える者」と見る</strong><br />
<br />
これは、他の人が善業をなして幸福になり、悪業をなして不幸になることを観察して、「彼らは、仏陀が私に与えた、カルマの法則を教える生きた教材である」と考えるというものである。そして、学べることを感謝し、奉仕するのである。
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<br />
<strong>４　すべての人を自分の善業・悪業を教える「教師・反面教師」と見る</strong>
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「自己が他になしたことが、自己に返る」と説く因果の法則、カルマの法則に基づけば、自分が経験する他人の悪業や善業は、自分と無関係ではなく、今現在は自分には現象化していなくても、「過去・過去世における、あるいは未来・来世には現象化する可能性がある、自分の潜在的な善業や悪業を投影したものである」と考えることができる。
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よって、他人の善業を見たときには、それは、自分の潜在的な善業を示した見習うべき「良き見本・教師」であると考えて見習い、その善業を現象化させるようにし、他人の悪業を見たときには、それは、自分の潜在的な悪業を示した「反面教師」として内省し、その悪業が未来に現象化しないように止滅するように努め、これに感謝し、奉仕するのである。
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<p>
人は、今自分に現象化している悪業や善業はわかりやすいが、潜在的な善業や悪業はわかりにくい。しかし、他人の存在を通して、自分の潜在的な悪業・善業を理解することができる。こうして、他人を、「自分の潜在的な業を映し出してくれる（仏陀の与えた）鏡」としてとらえるのである。
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<br />
<strong>５　苦しみを与える人を含めて、「自分の導き手」であると考える</strong>
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仏陀が説いた「カルマの法則」「因果の法則」「自業自得の法」に基づけば、自分の苦しみの根本原因は、自分の悪業である。これは第３章で詳しく述べた。
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それゆえに、自分が他と接して、苦しみを感じたときに、他人を、「苦しみの原因である」と考えるのではなく、自分の悪業に気づかせてくれた存在として「自分の導き手である」と考え、感謝し、奉仕するのである。
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これは、六波羅蜜の「忍辱」や、密教修行で説かれる、悟りに至る過程の「悪業の浄化」の修行にあたる実践である。よって、仏典では、「苦しみに感謝しよう、自分に仇なす者・敵対者に感謝しよう」とも説かれる。
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これは、「カルマの法則」を深く理解してこそ、できる実践であり、悟りにおいて必要不可欠であって、大乗仏教において「最も重要な修行」ともされる。
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<br />
<strong>６　大自然を導き手とする</strong>
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<p>
さまざまな欲望を持つ人間と違って、大自然のあり方に接し、その貪り・怒り・無智のなさから学ぶ。古来、特に、大地・山・川・水・木・石などを人々は敬い、「神・仏」と見なしてきた。
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<p>
それらの自然は、まさにその名の通り、「自然に、あるがままに、与えられるままに」他と調和して存在し、さまざまな他の生命を育んでいるが、これを人に当てはめれば、「貪り・怒り・嫉妬・闘争などを捨断し、他と分かちあい、寂静の境地にあって、他の生命を育む慈悲の実践をなしている」ということができる。
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<p>
こうして、大自然から学び、感謝し、敬い、奉仕する実践も、また、広い意味で、「カルマ・ヨーガ」ということができ、この延長上には、「一切の存在、万物から学んで、感謝する実践」が導き出される。
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なお、念のために説明しておくと、当然のことだが、この教えは、すべての人々が、実際に全知全能とされる絶対神であり、その言葉に従うべきだ、と主張しているのではない。これは、すべての人々は、さまざまな意味において、自分を高めるための学びの対象として、「神仏が、ないし、その意思である宇宙法則が、現し出した」と解釈することができる、ということなのである。
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<br />
<strong>７　怒りが生じた際に、自己の悪業に気づく方法</strong>
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<p>
さて、本章４（※上記「４　すべての人を自分の善業・悪業を教える教師・反面教師と見る」）に関する実践の前提となる問題であるが、他人に接して、苦しみを感じて、怒りや嫉妬が生じたときには、どのようにしたら、その根本的な原因が「自分の悪業」であると考えやすくなるだろうか。
</p>
<p>
まず、他に怒りが生じたときに、自分の悪業に気づく方法として、「怒りの裏には、自己の貪り・執着・無智があることに気づくこと」がある。
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貪りは際限がなく、執着を生み、その結果として、それが奪われるときに、苦しみをもたらす。その際、苦しみが生じるので、奪った対象に「怒り」が生じるが、その苦しみの根本原因は、「自分の執着」であって、「奪った対象が悪い」というのは無智である。
</p>
<p>
無智がなく、智慧があれば、この世の一切は無常であり、生まれたときには裸一貫であり、人は死ぬ際にはすべてを失い、本当の意味で「自分のもの」などはなく、すべては「天から一時的に預かったもの」「仮のもの」であることに気づく。
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こうして、「怒り」の対象は、自分が、「貪り」とそれによる「執着」、そしてその奥にある「無智」にとらわれていることを気づかせてくれるものである。
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<p>
また、怒りの裏にある無智について、このように考えることもできる。無智がなく、智慧があれば、悪業をなしている他人は、その人自身が不幸になる、ということがわかり、そうであれば、「怒り」よりも「哀れみ」が生じるものである。しかし、自分も、無智のために、これを理解していないならば、怒りが生じる。
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<p>
その場合は、「自分はその悪業を抑圧しているのに、他はやっている」という心理が背景にあり、条件が変わって、自分の抑圧が取れる状況になれば、自分でも、同じ悪業をなしてしまう（誘惑に負ける）恐れが多分にある。ここで抑圧されている煩悩的な欲求とは、まさに「貪り」である。
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すなわち、無智に基づいて自分の中にも相手と似た貪りがあるにもかかわらず、それを名誉などの別の煩悩を満たすために、表面的に抑圧しているだけの場合は、怒りが生じるのである。智慧によって、貪りを取り除いていれば、抑圧はなく、怒りも生じず、哀れみが生じる。
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<p>
次に、もう１つの視点を説明すると、無智があるならば、他人の悪業が、「自己の潜在的な悪業の現れ」であると理解できないことがあり、そのために怒りが生じる、ということである。そうではなくて、他の行為が「自分の悪業の清算」である、と気づくならば、他の行為に怒りは生じず、悟りが深まれば、悪業をなしている他への「哀れみ」が生じる。
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<p>
なお、以上のことからわかるように、怒り・貪り・無智の「三毒」は、それぞれが単独では存在していない。３つは連動して存在している。例えば、無智を根本として貪りと怒りが生じ、貪りは、その裏で怒りを生み、怒りは貪りを増大させる、という関係にある。
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<strong>８　嫉妬が生じた際に、自己の悪業に気づく方法</strong>
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<p>
まず、嫉妬の原因が、例えばお金持ちだとか、地位や名誉といった、何か煩悩的な対象に対する嫉妬であるならば、その背景には「無智」がある。
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<p>
すなわち、本来は、「嫉妬に値しないもの」「本当の幸福に導かないもの」であるのに、それに気づかない無智があるがゆえに、嫉妬が生じるのである。すなわち、「無智」とそれによる「貪り」が背景にあって、嫉妬がある。嫉妬の対象は、この無智と貪りに気づかせてくれる対象である。
</p>
<p>
次に、嫉妬の原因が、煩悩的なものではなく、宗教的な対象である場合、例えば、自分より悟っている人への嫉妬などである場合は、それは、努力すれば「皆が」得ることができるものであり、嫉妬する必要はなく、自分が努力すればいいものである。
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お金や名誉など、煩悩的な嫉妬の対象は、「奪い合い」の対象となるが、宗教的な嫉妬の対象は、そうではないのである。
</p>
<p>
では何がこの嫉妬の背景にあるかというと、それは、「努力に対する嫌悪＝怠惰＝無智」である。宗教的に自分よりも優れている人は、努力した場合の「自分の未来」であり、「自分の見本・手助け」であるにもかかわらず、努力を嫌がる怠惰があれば、そのようには感じず、嫉妬を感じる。そして、その根本に「楽して幸福になりたい」という無智がある。
</p>
<p>
この「無智による怠惰」がある人は、努力をせず、依存心が強い。依存心に加えて、卑屈もあるが、本質的には、「できない」というのではなく、「できるようになるまでの努力はしたくない」「楽に幸福になりたい」という無智が根底にあり、その一方で、「他より優れていたい」という欲求（プライド）が強いのである。&nbsp;
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<span style="font-size: medium"><strong>第６章　神仏としての大宇宙・大自然との融合</strong></span>
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<strong>１　大自然と融合する道</strong>
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聖地修行などでは、よく、「大自然と融合する」という境地が説かれる。では、どのようにしたら、このような心境・生理的な感覚を得ることができるのであろうか。
</p>
<p>
私の経験に基づけば、融合の障害は、やはり「自我執着」である。例えば、「貪りを滅して、あるがままに、与えられたままに、自然に生きよう」という心境になった時に、あたたかく大きな意識の広がりが生じ、大自然と融合する感覚が得られた。
</p>
<p>
人間は、普通、「自然に生きる」のではなく、「外的な環境を変えて、もっと快楽を貪りたい」と考えているが、さまざまな山や川、木々や草花などは、外的な条件を「そのままに」受け入れて存在しているように思われる。私は、自分の体験に基づいて、この人間と自然の「あり方の違い」が、融合を阻んでいるのではないか、と思うのである。
</p>
<p>
何かの木や花や山が、「自分が一番になりたい」と考えて、他と争ったりはしない。それでいて、個々の木や花や山が、その大小・美醜にかかわらず、生態系の中で、「自分の役割」を果たしている。人を癒すのも、一番高い山とか、一番大きな木だけではない。
</p>
<p>
川の水は、特定の形を持たず、しなやかに、その流れるところの地形に合わせて進んでいく。幅広くなったり狭くなったり、深くなったり浅くなったり、速くなったり遅くなったりしつつ、淡々と流れて、ついには大海に行き着き、そして、水蒸気となっては、天に昇り、雲となり、雨として降ることを繰り返している。
</p>
<p>
こういった大自然と同じように、私たちが貪りを止滅し、あるがままに生きようとするときに、それと融合した感覚がおのずと得られるのではないか。
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<p>
<br />
<strong>２　現代の精神不安定の原因＝大自然とのつながりの喪失</strong>
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<p>
今は、精神不安定の時代である。精神病や異常な犯罪が増えている。一般社会を見てもそうだし、オウムの妄信的な信仰も、その一環だったと思う。
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<p>
それを乗り越えるために、ひかりの輪は、一元の法則を提唱してきたが、それは、カール・ユングなどの心理学者の見解からしても、根拠のあることである。
</p>
<p>
ユングは、現代人の「心の危機」「魂の危機」を唱え、今日の人類社会の状態を予言していた。彼は、彼の精神病患者の臨床体験などから、その危機の原因は、現代人は、人間存在の根源である「無意識とのつながり」が弱く、本来、表層意識と無意識とを合わせた「総体」が自分であるのに、そのほとんどを「排除」してしまっているからだと主張した。
</p>
<p>
「存在の根源（生命の根源）とのつながり」が弱くなると、人間としての正常な、あるいは健康な状態からは遠くなり、生き生きとした生命力、はつらつとした心が乏しくなると彼は主張した。
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<p>
なぜ、つながりが弱くなっているかというと、それは当然、現代人を覆っている、自と他を区別する強い二元的な意識、「自我意識」である。それは、近代科学思想から資本主義の競争主義に至るまで、浸透している。
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<p>
なお、無意識領域とのつながりの中で、ユングが強調したのは、その中の「Ｓｅｌｆ」と名付けたものである。これは、「自分」という意味ではまったくなく、「すべての中心であり、すべてであるもの」という全体的な概念と定義されている。
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<p>
こう言うと、私たちの根源は、私たちの深層意識にあって、手が届かないように感じるが、私の考えでは、ユングが説いた、「人間存在の根源（生命の根源）」であり、「すべての中心で、すべてであるもの」とは、よく考えれば、「大自然・大宇宙そのもの」ではないかと思う。
</p>
<p>
実際に、大自然こそ人間存在の根源であり、生命の根源である。すべての人々・生き物が生み出される源は、「大自然」である。狭い見方では、生命の根源は、それぞれの母親だろうが、母と子を含めて、すべての生命は、大自然の生態系の中から生み出されて、その中に帰っていくものである。
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<p>
そして、「人の内部の根源と、大自然・大宇宙が同一である」と考える思想は、インド哲学の「アートマンとブラフマンの同一性」（梵我一如）にもある考え方である。
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<strong><br />
３　生きている宇宙・地球--大地母神、ガイア説、胎蔵界曼荼羅</strong>
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古来、人間は自然の中に「神」を見てきた。その典型的な例は、「大地母神」であり、大地、大自然・地球自体が、「生命を育む母なる神」であると感じて、それを信仰する感覚があった。
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また、現代にも、地球が単なる物質ではなく、巨大な生命圏・生命体であるという「ガイア説」というものもある。この「ガイア」は実は大地母神の名前からきている。
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よく考えれば、私たち個々人は、「私たちを包む巨大な生命体」の中で、その一部として、それにつながって存在し、生きている。これは、「母胎」の中の胎児のように、である。
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そして、その「大いなる母」は、自分の母胎の中の「すべて」を慈しんでいる。人間ならば双子だろうと三つ子だろうと、差別せずにすべてを愛している。
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これと似た仏教の思想が、「胎蔵界曼荼羅」である。この宇宙が、「仏陀の母胎」であって、母胎の中に生きるすべての衆生を皆、仏陀は等しく慈悲の心で育み育てる、という思想である。
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昔の人たちは、「自分が大自然の一部である事実・真実」を肌で感じ、その大自然の中にいて自分を生かしている、「大いなる何者か」（＝神仏）を直感的に感じながら生きていた。
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そして、今でも、アメリカやオーストラリア等の先住民の自然と調和した社会には、そういった精神病理的症状は見られないという報告もある。
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<br />
<strong>４　現代人は自分の根源である大自然と、精神的に切り離されている</strong>
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<p>
しかし、現代人は、本来は、自分は大自然の「一部」であるのに、都市生活の中で、「大自然とのつながり」を忘れながら生きている。そして、人間同士の競争の中で、「自我意識」を強め、精神の病が増大している。
</p>
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「大自然」から見れば、都市も「その一部」であり、鳥の巣のように、自然の中の資源から作られたにすぎない。しかし、都市に住む人間は、「自然に対する感謝・敬意」を忘れ、自然破壊、資源の大量消費、生き物の乱獲を行い、あたかも自分が地球の神であるかのように行動してきた。
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<p>
こうして、現代人の精神は、自分の根源である「大自然」から切り離されてしまっており、その心の危機を回復するためには、その「つながり」を回復することが必要である。
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心理学では、精神の病の原因として、幼少期の「親子関係の問題」が指摘されるが、それは、「親と子」だけの問題ではなく、人間全体が、「その親である大自然」との関係が壊れていることが土台にあるのではないか。
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母性の根源は、大自然にある。大自然が持つ「万物を生み出す豊饒さ」が、母性の根源なのである。人間の母親も、これとつながっていてこそ、その母性の役割を正常に果たせるのではないか。
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<br />
<strong>５　すべてを育む仏の慈悲</strong>
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<p>
その意味で、「すべてを育む母なる大地」を崇拝する、大地母神の信仰を含めて、古来の自然信仰には、大きな価値があった。
</p>
<p>
そして、この大自然の有する「すべてを慈しみ、育てる性質」は、仏教が説く「すべての衆生に向けられる、仏の慈悲」と同じであろう。
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<p>
日本人に最も広がった信仰である地蔵菩薩も、仏教における「大地の神」である。そして、地蔵の「蔵」は、胎蔵の「蔵」であり、地蔵菩薩とは、「大地という仏の母胎」を象徴する菩薩とも解釈できる。
</p>
<p>
そして、「大自然」は、すべての人間が共有するものであり、大自然の持つ「すべてを育み育てる根源的な母性」も、すべての人間が、本来は共有しているものである。
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<p>
ユングも、大地母神に相当するものを「グレート・マザー元型」と呼んで、それはすべての人々の心の中にあるとした。そして、「集合的無意識」という領域において、人は、人間同士だけでなく、「自然全体」「宇宙全体」ともつながっており、互いを共有しているとした。
</p>
<p>
最近の例では、私は、上高地において、これを感じた経験がある。それは、上高地の豊かな大自然全体に、あたたかく大きく広がっていた。
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<br />
<strong>６　神仏としての大自然への帰依と融合</strong>
</p>
<p>
「大自然に神を見る」とか、「神仏の現れとして大自然を見る」といった思想・信仰の具体的な実践を考えてみよう。
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<p>
仏教には、単に神仏を敬う・崇めるだけではなく、自分がその教えを実践し、それを見習っていくという「帰依」の実践がある。その帰依の実践によって、密教などの瞑想では、自分が神仏と融合していくのである（例えば、真言宗などでは大日如来との融合を目指す）。
</p>
<p>
では、「大自然に神仏を見て、帰依の対象とし、その教えを実践し、大自然と合一していく」というのは、具体的にはどういうことだろうか。
</p>
<p>
古来、人々は、例えば、大地・山・海・川・水・木・石などを敬い、「神・仏」と見なしてきた。これらの「自然」を見るならば、さまざまな欲望を持つ人間と違って、まさにその名の通りに、「自然に、あるがままに、与えられるままに」他の自然と調和して存在し、さまざまな他の生命を育んでいる。
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<p>
人と違って、山や川や木や石は、「自分が一番に（大きく、偉大に）なりたい」という欲を持って、他と争うことなく、その時々に「与えられた条件」のもとで、他と調和して存在し、そのもとで多くの生命を助けている。
</p>
<p>
これを「人」に当てはめれば、「貪り・怒り・嫉妬・闘争などを捨断し、他と分かちあい、寂静の境地にあって、他の生命を育む慈悲の実践をなしている」ということができる。これは、本質的には釈迦牟尼の教えと同じであるところが興味深い。
</p>
<p>
こうして、大自然のあり方から学ぶこと、すなわち、大自然のあり方を「神仏なる大自然の教え」として実践することが、神仏としての大自然への帰依である。
</p>
<p>
そして、私の体験上、自然と同じように、人が自然に生きるとき、自然と同じように、人が貪りを越えて生きようとするとき、あたたかく広大な慈悲の心を経験したことがある。これは、ある意味で、大自然と「融合」したのだろうと思う。
</p>
<p>
こうして、「自然」が自然に生きるさまを見て、自然を自分の「師」として敬い、その教え（＝自然であること）を実践して帰依することで、自然と融合するのである。
</p>
<p>
大自然は、そもそも自分を「生み出したもの」であり、今でも、自分は大自然とつながっており、自分は大自然の「一部」である。しかし実際には、人は、大自然の一部であっても、人の「心」は、無智によってこのことを忘れ、精神的には大自然と切り離されている。
</p>
<p>
よって、これを改めて、人は、大自然の「一部」であって、大自然は、人の「本体」であることを意識し、大自然・大宇宙を敬い、それから学び、それと融合することが、悟りの道であって、智慧と慈悲をもたらすものではないだろうか。
</p>
<p>
<br />
<strong>７　「自然」という言葉の２つの意味</strong>
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<p>
さて、これまで注意せずに使ってきたが、「自然」という言葉には、２つの意味があることを確認しておこう。
</p>
<p>
まず、西洋的には、自然とは、「人工物ではないもの」を意味する。しかし、東洋的には、自然（しぜん）の由来は、「自然（じねん）」であって、それは、「無為自然」とか、「自然に生きる」というように、「あるがままに」といった意味がある。よって、「草木や山川といった自然は、自然に生きている」という表現ができる。
</p>
<p>
それは、まさに、仏教では「貪り・怒りといった煩悩を越えて」という意味になる。よって、道教やチベット密教のゾクチェンなどでは、「無為自然・無努力」などが最高の境地とされるし、ゾクチェンと縁がある禅にも、似た境地があると思われる。
</p>
<p>
<strong><br />
８　大自然・大宇宙を神仏とした場合の「三宝帰依」の定義</strong>
</p>
<p>
では、大自然を神仏とした場合に、三宝の「新たな定義」とはどうなるのであろうか。その一例としては、次のようになるのではないか、と思うので、皆さんも考えてほしい。
</p>
<p>
まず、第一宝の「ブッダ」（仏陀）とは、大自然・大宇宙をブッダの現れとし、言い換えれば、「神仏としての大自然・大宇宙」という考え方をとる。
</p>
<p>
次に、第二宝の「ダルマ」（法＝仏陀の教え）とは、「大自然・大宇宙のありよう・生きざま」が、その教えであり、それは、釈迦牟尼の正法と一致する。すなわち、三毒の止滅による涅槃寂静・無為自然の境地の体得や、智慧と慈悲の実践である。
</p>
<p>
第三に、「サンガ」（僧＝出家教団）については、サンガは先輩・先達の修行者であり、学びの対象だが、「人は神ではない」という原則に基づいて、絶対視したり、過剰に依存したりせず、「その良い点を積極的に学ぶ対象」とする。
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<p>
<strong><br />
９　真の菩薩の行の実践--自然流の衆生済度</strong>
</p>
<p>
前にも、オウムを含めた宗教における強制的な布教の問題に対しての解決策を述べたが、「大自然と融合していく境地」に基づいて、布教がどうあるべきか、ということについて述べる。それが「自然流・無為自然の境地の布教」ではないか、と思う。
</p>
<p>
それは、法施には全力を尽くしつつも、法則が受け入れられるかどうかは、決して焦らずに、「自然の流れに委ねる」ことであろう。
</p>
<p>
今になって、オウムを見ると、自らが予言した救済を実現するために、常に、非常に急いで焦っていた、という感じがある。地盤もなく、拙速に政治活動に出て、それが失敗すると無謀な武力革命に向かった。その「焦り」の背景には、誇大妄想的なまでのプライド・権力欲・支配欲があったのではないか、ということは前にも述べたとおりである。
</p>
<p>
よって、衆生済度の活動も、与えられるままに、自然の流れに委ねながら行っていくというのが「正法」ではないかと思う。そもそもが、正法の本質に、「貪りの捨断」というのがあるのだから、この本質を踏まえて、法は説かれるべきである。
</p>
<p>
老子・道教の思想の中に、「衆生の教化は、無為自然の境地によって実現する（成功する）」といった教えがある。衆生済度も、この世界を支配する因果の法則に沿って実現するものだから、「自分たちが人々を救済する」というのではなく、「神仏としての大自然・大宇宙の流れの中で人々は救済される」と考え、私たちは、その流れの「お手伝いをする」という心構えを持つべきではないだろうか。
</p>
<p>
釈迦牟尼自身も、「縁なき衆生は度し難し」と説いた。「縁なき」というのは、その時点では、法を受け入れる条件・原因がない、といったほどの意味であろう。こうして、如来である釈迦牟尼さえも、因果の法則に従って、衆生済度を行っていたのである。
</p>
<p>
これに関連したこととして、私たちの団体を取り巻く現在の社会状況には、いろいろな面で、法施における障害となる要素があるが、それについても、自分たちの努力を焦らずたゆまず進める中で、おのずと変化していくままに委ねるべきだと思う。
</p>
<p>
そして、「自然な流れに委ねる」ためには、現状に過度に不満を持ったり、焦ったりすることなく、「今与えられているもの」に対して、十分な感謝をして、心を静めた上で、状態を改善する努力を図るべきだろう。焦っても空回りするばかりである。
</p>
<p>
それは、自分や法友についてもそうであり、自分や他人の悪い面・不足を見て、不満・怒り・焦りを持つばかりでは、空回りするだけであり、すでに自分が「他人から与えてもらっている部分」をよく見て感謝し、心を静めた上で、自分や他人を向上させる道を考えて、実践するべきであろう。
</p>
<p>
そして、これは法則の流布に限らず、あらゆる現実世界での目的・目標の達成においても当てはまることではないかと思う。
</p>
<p>
<br />
<strong>１０　自我肥大・魔境・増上慢の問題を防ぐために</strong>
</p>
<p>
さて、大自然を重視した修行を行う一つの理由は、「魔境の回避」である。
</p>
<p>
宗教学者・心理学者の研究では、修行の過程で、「自分が宇宙や神といった絶対者に合一した」という誇大妄想に陥るケースがあるとされる。これは、いわゆる「魔境」である。仏教では、「マーラ」を「妄想神」ともいうので、マーラにとりつかれた状態かもしれない。
</p>
<p>
心理学者ユングは、これを「自我（自分）とセルフ（全体・絶対者）を混同した状態」と位置づけた。ユングが研究した禅では、この状態を「増上慢」と呼んで、それを防ぐために、禅の僧が、宇宙的な意識を探求しつつも、「それと自我は別のものである」という考え方をする。<br />
<br />
宗教学者・思想家の中沢新一氏によると、ヒンドゥー教・ヨーガでは、大宇宙との合一を目指すために、その神秘体験の結果として、同じような誇大妄想に陥り、「自我が肥大してしまう」恐れがあるとしている。ヨーガは、自己の内部に「真我」（アートマン）という「絶対的な存在」を認めるために、人によっては、自己を「絶対的存在と合一した」と混同しやすいかもしれない。
</p>
<p>
さて、この「魔境」「増上慢」「自我の肥大」の問題には、いろいろな取り組みがなされてきたようである。例えば、日本でいえば、先ほどの「禅」もそうだし、自分を「悪人」と謙虚に自覚する教えを説いた親鸞の「浄土真宗」もある。
</p>
<p>
しかし、世の中に「完全なもの」はないから、禅の修行の中での失敗例が報告されていたりする。また、浄土真宗も、歴史の流れの中で、自宗派を絶対視し、「南無阿弥陀仏を唱えれば、仏となる」と考えたり、徹底的に領土の拡大を推し進めて、織田信長と激突したりした戦国時代（一向宗）があった。
</p>
<p>
よって、２１世紀の宗教・思想には、この問題に対する十分な対策が必要である。
</p>
<p>
中沢氏によれば、こういった「自我の肥大」に対して、仏陀は、「革命的な教え」を説いたとされる。すなわち「自分には実体がない」という教えである。これは、「無我」とか、「非我」とされる。
</p>
<p>
もちろん、偉大なヨーガの修行者は、「真我」という考えを持ちつつも、常に「謙虚であるように努める努力」をしている。ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカナンダの宗派の、「カルマ・ヨーガ」という教えや、パラマハンサ・ヨガナンダが紹介する彼のグル、ユクテスワや、根本グル、マハー・ババジは、「非常に謙虚な人格」を有している。
</p>
<p>
よって、仏陀が説いた「無我」ないし「非我」という教えを重視しつつ、「慢」を防ぐ優れたヨーガの教えを実践するべきだろう。
</p>
<p>
<br />
<strong>１１　自然の中での修行の重要性</strong>
</p>
<p>
そして、これらのさまざまな修行を下支えするものとして、「自然の中での修行」がある。
</p>
<p>
ミラレパなどの仏教の修行者も、大自然の中で修行することで、「自我の肥大」の危険性を防いだといわれる。
</p>
<p>
古来、人は、大自然を前にすると、自分を超えた偉大な何か＝神に対する「畏敬の念」を感じてきた。すなわち人は、「大自然を前にして謙虚になる」という性質がある。
</p>
<p>
一方、現代人は、大自然と切り離された都会生活を送る中で、前に述べたように、傲慢な考え方に陥った。そして宗教も、「大自然に神を見る」のではなく、「人の中に神を見る」宗教が主流となった。
</p>
<p>
それに対して、自然に深く接することで、人は、自然が有する優れた性質に同化していくのではないかと思う。
</p>
<p>
「自然」は、その文字通り、「自然に、あるがままに」生きている。自然のさまざまな要素は、いずれも、自己を絶対化することなく、「他とのバランス・調和」の中で生きている。いかなる山々も、木々も、草花も、足るを知って、互いと調和・尊重して生きている。
</p>
<p>
地球の中で、人類だけが、際限のない貪りを有し、自己の絶対視などの「妄想」に陥る性質がある生き物である。
</p>
<p>
<br />
<strong>１２　自我の肥大を防ぐひかりの輪の教義・修行体系</strong>
</p>
<p>
さて、こうした経緯をふまえて、ひかりの輪では、どのような実践によって、「自我の肥大」を避けて、真実の悟りを求めようとしているのかについてまとめておきたい。
</p>
<p>
第１に、特定人物を絶対者としない人間観である。
</p>
<p>
人は皆、一生「不完全」である。これは、「最終解脱の存在」の否定である。人は、一生、完全になることはなく、悪業のない人はいない、ということだ。
</p>
<p>
よって、特定人物（教祖）を「絶対者・神」としないし、理想の人生とは、「一生の未完成」を自覚して修行することである。<br />
これは、仏教的には「菩薩の道」である。そして、この象徴が未完を自覚し、５６億７千万年も修行し続けるとされる弥勒菩薩である。
</p>
<p>
第２に、全存在を尊重する世界観である。
</p>
<p>
自我が肥大すると、「自分こそが、神と合一した、神の化身である」という傲慢な意識に陥る。よって、それと反対に、すべての人々・存在について、「神仏の現れ」を見いだして、それを尊重する思想を強調するべきである。
</p>
<p>
この具体的な実践としては、すべての人々を神の現れと見て学んで奉仕する「カルマ・ヨーガ」がある。それは、最終的には、人間だけではなく、大自然・大宇宙の万物から学ぶ、といった実践となる。
</p>
<p>
念のために言っておくと、すべての人々が神仏の現れと見て学び尊重することと、特定の人を神・絶対者にしないこととは、まったく矛盾しない。
</p>
<p>
なぜなら、「神の現れと見て学ぶ」とは、いかなる人の中にもある何か善いところを「その仏性の現れ」と見たり、悪いところを「自分の反面教師」として、「神仏に与えられたもの」と考えたりすることであり、誰かを絶対視することではないからだ。
</p>
<p>
第３に、仏教の非我・無我思想の重視である。
</p>
<p>
ひかりの輪では、仏教の無我・非我の思想を重視している。ヨーガの説く「真我」の教義については、その方便としての有用性を認めつつ、真我の存在は科学的には証明できないことや、それにより「自我肥大」に陥る可能性を強調している。
</p>
<p>
第４に、大自然の中での修行の重視である。
</p>
<p>
ひかりの輪は、聖地自然修行を行っている。そして、特定の人間ではなく、大自然に「神仏」を見いだすことや、自然の中のさまざまな生き物が、まさに「自然に生きている」ことに学ぶことや、人は、あくまで「大自然の一部である」と考えることなどが説かれている。
</p>
<p>
ただし、人間が大自然の一部である、とか、人間が大自然と融合する（通じる）という考え方はよいのだが、「自分＝大自然・大宇宙＝神」になってしまうと、まさに「自我の肥大・誇大妄想」となってしまう。
</p>
<p>
それは、自己中心的な意識が、「自分の肉体」を超えて、「大自然の大きさ」にまで拡大したものであり、「自我の肥大」であろう。
</p>
<p>
これについては、仏陀が実践したように、人と大自然の関係を、ありのままに正確に考察することが重要である。そうすれば、自分＝人には「実体がない」ことを悟ることができる。
</p>
<p>
人は、単に「大自然の一部」というだけではなく、人は、大自然から生まれては、あっというまに、大自然の中に消えていく、「実体のない存在」である。例えるならば、人は、水の中の泡のようなものである、ということができる。
</p>
<p>
泡は、水の流れの中から生み出されては、水の流れの中に消えていく。泡と水の流れは密接不可分で、水の流れが泡を生み出す「本体」であり、泡は本体の中に消えていく。こういった瞑想も、自然の中での修行ならば、よく行うことができる。
</p>
<p>
こうした、仏陀の教えに基づく思索によって、大自然と融合し、かつ自我に対する執着が弱まった意識の状態に至ることができる。<br />
<br />
それを、体験に基づいて表現すれば、大自然と融合しつつも、自我が世界の中心ではなく、自我を取り巻く「大自然側に」世界の中心があるといった感覚であった。
</p>
<p>
<br />
<strong>１３　地球が教団であること--宗教の間の分かちあい</strong>
</p>
<p>
聖地自然修行では、素晴らしく美しい自然を堪能できる。一般の人がほとんどいない神聖な静けさの中の聖地を訪れることが多いが、時には、多くの人でにぎわう聖地を経験することもまたよいものである。
</p>
<p>
聖地とその自然が優れていればいるほど、自分たちだけで独占するのではなく、多くの人と分かちあいたい。そこに来る人は、ひかりの輪の修行者であろうとなかろうと、皆が「地球人」である。そして、カルマ・ヨーガの教えに則って、皆が「神仏の現れ」であり、「観音菩薩」である。
</p>
<p>
２１世紀の宗教がどうあるべきかを考える中で、ひかりの輪は、人類のすべてが共有する「大自然・大宇宙」に神仏を見いだし、特定の教祖に限らず、「すべての人々」に神性・仏性を見いだす教えを考えた。その延長上には、教団内外の分け隔てをせず、「地球全体が教団である」という考え方が出てくる。
</p>
<p>
従来の宗教は、自分たちの崇拝する「特定の」神仏・経典が唯一最高であり、それに従う信者とそうでない者の間に、強い区別を置いたが、仏陀の教えに照らせば、これはプライド・独占欲といった「貪り」にあたる恐れがある。
</p>
<p>
そして、本来は、特定の人間や集団が独占しているものではなく、大自然・大宇宙といった「すべての生き物が共有しているもの」にこそ、「最高のもの」があるように思う。それが全体を包含しているからだ。地球（宇宙）が「神仏」であり、地球が「本当の自分の教団」であり、地球のすべての良い教えは皆で共有し、地球全体が奉仕の対象である、といった考え方である。
</p>
<p>
もちろん、宗教としては、これは冒険的なことであり、従来の宗教は、「自分の唯一絶対性・優越性」「信者と非信者の区別」によって、成り立ってきた面がある（少なくとも、多くの宗教団体・宗教家がそうしないと成り立たないと考えてきただろう）。
</p>
<p>
しかし、それは、経済活動の中で企業が行う「自己の差別化」とまったく同じ論理に基づくものである。そういった自己中心的な論理が、環境を含めた地球のさまざまな問題を深刻化させており、今こそ「分かちあいの社会」が必要な時代である。
</p>
<p>
その中で、宗教は、その本来の役割として、社会の「精神性・徳性」をリードする立場であるから、同じ自己中心・競争の論理に陥ることなく、最大限の勇気をもって、２１世紀の「分かちあいの時代」を導くべきだろう。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<br />
<br />
参考文献：『岩波 仏教辞典 第二版』（岩波書店）、『ダライ・ラマの仏教入門』（ダライ・ラマ十四世、光文社）等
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【仏教講義】仏教講義Ⅰ　第１章　縁起の法　</title>
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   <published>2011-01-01T03:46:14Z</published>
   <updated>2011-01-01T08:59:23Z</updated>
   
   <summary> 第１章 縁起の法 １　縁起の法の定義 「縁起（えんぎ）の法」は、釈迦牟尼の悟り...</summary>
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      <![CDATA[<p>
<strong>第１章 縁起の法</strong>
</p>
<p>
<strong>１　縁起の法の定義</strong>
</p>
<p>
「縁起（えんぎ）の法」は、釈迦牟尼の悟りの本質といわれる。
</p>
<p>
「縁起」のサンスクリット原語は、「プラティーティヤ・サムトパーダ」であるが、これを解釈すると、「一切のものは種々の因（原因・直接原因）や縁（条件・間接原因）によって生じる」という考えを表す。
</p>
<p>
よって、縁起の法は、「すべての事物は、そのもの自体で独立して存在しているのではなく、他を原因・条件として（他に依存して、他との関係に基づいて）、生起している」と説くものである。
</p>
<p>
なお、ここで「因」と「縁」という言葉が出てきたが、「縁起」は「因縁生起」の略である、とする文献もある。
</p>
]]>
      <![CDATA[<p>
さて、この法の意味をわかりやすく言えば、Ａというものがあったとしても、それは、他のＢなどがあればこそ存在しており、「ＢがなければＡは存在しない」ということになる。
</p>
<p>
言い換えると、「この世のすべてのものは、相互依存によって存在しており、相互の関係によってのみ、現象している」という意味となり、「他から独立して、自分だけでは存在していない」ということである。
</p>
<p>
縁起の「縁」（pratyaya〈プラティヤヤ〉）とは、広い意味では、因と区別せずに用いられ、原因一般、あらゆる条件をいう。
</p>
<p>
一方、狭い意味では、「縁」は、「因」と区別されて用いられ、「因」（hetu〈ヘートゥ〉）が、結果を引き起こすための直接的・内的原因を意味し、「縁」が、これを外から補助する間接的原因をいう。
</p>
<p>
この意味で、縁起の法は、後に詳しく述べるが、因果の法、カルマの法則と同じである側面もある。
</p>
<p>
しかし、縁起の法は、「過去の原因のために未来の結果がある」といった時間的な因果関係に限った法則ではなく、「時間と空間」を含めた、あらゆる事物にかかわる法則として解釈されている。
</p>
<p>
<br />
<strong>２　縁起の法と空など</strong>
</p>
<p>
縁起の法は、ナーガールジュナ（龍樹）などが展開した大乗仏教が強調する、「空（くう）」「無自性（むじしょう）」「仮（け）」という概念と密接に関係し、一体となっている。
</p>
<p>
「空」とは、「固定的実体のない」「実体性を欠いている」という意味である。
</p>
<p>
縁起の法は、「すべてのものは独立して存在せず、他を条件として生起する」と説くが、これは「すべてのものは、それを生起させている条件がなくなれば消滅すること」を意味する。<br />
<br />
そして、縁起の法に基づいて、「すべてのものは、固定的な実体がない＝空である」という結論が導き出される。これは、大乗仏教において、非常に重要な教義である。
</p>
<p>
また、「無自性」とは「自性がない」という意味であり、自性とは「それ自身で独立している実体、孤立的に存在する本体」をいう。
</p>
<p>
そして、縁起の法に基づいて、「すべてのものは無自性である」という結論が導き出される。
</p>
<p>
「仮」とは「仮設・施設（けせつ・せせつ）」とも表現されるが、これは、「仮に設定されたもの」「現象として仮にあること」をいう。
</p>
<p>
より詳しく言えば、「本当にあるものではなく、何らかの基体の上に、仮に設定されたもの、ないしは、その基体に仮に名前を付けられただけのもの」を意味する。
</p>
<p>
そして、縁起の法に基づいて「すべては実体を持って存在しているのではなく、仮に設定されたものである、仮に現象したものである」という結論が導き出される。
</p>
<p>
なお、仏教用語としての「縁起」は、物事の原因（＝結果の前兆）に関する言葉であるため、そこから転じて、「縁起を担ぐ」「縁起が良い悪い」などという風俗や習慣が生じ、神社仏閣が作られた歴史的な背景・伝説を指す言葉にもなった。
</p>
<p>
<br />
<strong>３　私たちのとらえる「現実」は、縁起の法に基づいている</strong>
</p>
<p>
さて、縁起の法が言わんとするところをよく理解するために、私たちが日常生活で「現実」と呼んでいるものが、いかに縁起の法に基づいているかを考察してみよう。
</p>
<p>
私たちが、日常において感じているものは、実際に外界に存在しているものを直接とらえたものではなく、私たちの独自の「五感」を通して入ってきた情報を脳で処理し、それを日常の知性で解釈したものにすぎない。
</p>
<p>
それは、「自分の五感と脳による情報処理」であって、「実際に外界に存在しているもの自体」ではないのである。よって、同じ対象を見ても、「人間の目」で見た場合と、「他の生き物の目」で見た場合は違って感じられるし、「顕微鏡」「電子顕微鏡」で見た場合は大きく違う。
</p>
<p>
仏典では、「同じ水を見ても、神々と人間と餓鬼では大きく違う」と説かれるが、これも同じことである。
</p>
<p>
この意味で、生き物が経験している「現実」というものは、一つしかないものではなく、それをとらえる生き物の側の、さまざまな肉体的・精神的な条件によって、さまざまに作り出されるものである。よって、「現実とは、生き物の数だけ存在する」ということになる。
</p>
<p>
これを言い換えれば、「現実」とは、その「現実」を「観察する側」から独立した実体を有しておらず、「観察する側」が変わるとまったく変わってしまう、固定的な実体を有していないものなのだ。それは、「観察する側」（主体）と「観察される側」（客体）との相互関係によって現れてくるものにほかならない。
</p>
<p>
よって、縁起の法は、「すべての事物は相互に依存しあって存在し、独立した実体を有さない」と説くのである。
</p>
<p>
また、これを理解すれば、「私たちが経験している世界の現実は、私たちの心の現れである」と説く仏教の思想（例えば唯識派の思想）もよく理解できるだろう。私たちがとらえる「現実」とは、私たちの「外」にあるのではなく、私たちの「五感と脳の中の情報処理」の結果として生じる効果にほかならないからである。
</p>
<p>
もちろん、この場合でも、外界には、何もないというわけではない。そこには何かがある。しかし、少なくとも、私たちが感じているものは「外界そのもの」ではない。「私たちが感じているようには、実際の外界は存在していない」のである。
</p>
<p>
この点に関して、参考になる講話として、ラマ・ケツン・サンポ師のチベット密教ニンマ派の経典の解説を引用しておく。
</p>
<p>
「ふつう、人間が現実と呼んで、その中で泣いたり笑ったりしているこの世界は、貪り、瞋り、愚かさなどに汚された人間の心が、つくりだした幻影、夢、かげろうなのである。それなのに人間は、五感や思考がとらえる現実こそが、唯一のよりどころだと思いこんでいる。ところが、現実とはもっと多層的につくられているものなのだ。
</p>
<p>
人間とはちがう心のありようをしているものたち、例えば動物や餓鬼や地獄の住人には、現実がまったくちがう相貌をしている。人にはただの河と見えるものが、餓鬼には膿の河に見える、とヴァスヴァンドゥ（世親）も書いている。現実とは、それぞれの生き物が、彼らの生命条件にあわせて、自らつくりだしているものなのである。
</p>
<p>
現実とは心がつくりだすものである。そうであってみれば、いまあなたがいるこの場所も、三悪趣にいるものたちの心をもって見れば、たちどころに三悪趣の現実に変貌してしまう。同じように、ありきたりの人間の心に束縛されていれば、この場所が同時に浄土であることがわからない。」
</p>
<p>
「私たちが五感でとらえ、日常的な知性でとらえているこの世界は、さまざまな姿、形、現象であふれている。この形やあらわれでつくりだされた現実を、私たちは確かな実体のあるものだと思いこんでいる。ところがその現実とは、水に映った月、幻影、蜃気楼のようなもので、実際その場にはなんの実体もないものなのである。
</p>
<p>
しかしこの虚像にすぎないものが、生き物たちをあざむく恐るべき力をふるっている。目に映る形、耳にきく音、鼻に感ずる匂い、舌の味覚、身体の触感などがあたえる感覚にひきずられ、実体のない現実のふるう幻影にほんろうされ、生き物たちは輪廻におちこんでしまう。それは出口のない鎖の輪のようなもので、生き物たちはその中で浮沈をくりかえしているのだ。」
</p>
<p>
<strong><br />
４　縁起の法の解釈の歴史的な推移</strong>
</p>
<p>
縁起の法は、原始仏教から大乗仏教・密教に至る仏教の変遷の中で、その解釈も大きく変化してきた。
</p>
<p>
まず、原始仏教の時代の縁起説は、「十二支縁起(十二因縁)説」が代表的なものであり、それは、「生き物の苦しみの原因（とその滅尽の方法）」を説くものであった。これは後に詳しく述べる。
</p>
<p>
次に、部派仏教時代には、「業感縁起説（ごうかんえんぎせつ）」が説かれた。これは、縁起の法を「過去世・現在世・未来世の三世にわたる業（カルマ）の因果関係を表すもの」として見る教えとされる。これは後に詳しく述べる。
</p>
<p>
なお、部派仏教時代には、「人（にん）」には実体がないが、人などを構成する物質や心といった客観的な事物「法（ほう）」には実体があるとした。
</p>
<p>
なお、ここでの「人」は、「輪廻の主体」を表すサンスクリット語の漢訳であり、「法」とは、「ダルマ」の漢訳で、このダルマの中には、「事物」という特殊な意味がある。
</p>
<p>
<br />
<strong>５　大乗仏教での縁起の法の拡張--　一切は空</strong>
</p>
<p>
一方、『般若経』などの大乗仏教では、「一切は空」（一切の事物は空である）として、実体的な存在は何一つないとした。ここでの「空」とは、固定的な実体がない、という意味の仏教用語である。そこで、「人」も無我だし、「法」（＝事物）も無我である、と説かれた。
</p>
<p>
なお、ここでの「無我」とは、「我」が、永久不変の本質という意味で、「無我」が、永久不変の本質が「無い」ことであり、すなわち、固定的な実体がないこと＝空と同じ意味となる。そして、この法則は、「人無我」「法無我」といわれる。
</p>
<p>
そして、この空の理論の大成は、ナーガールジュナらによって果たされた。
</p>
<p>
ナーガールジュナは、「あらゆる存在が、縁起によって成立している（すなわち相互に依存しあって存在している）」と明確に論じた。そして、「あらゆる存在を表現する言葉自体まで、縁起によって成立している」とした。
</p>
<p>
こうして、すべての事物において、独立の実体（＝自性）を完全に否定して、「すべては空であり、無自性である」ことを徹底した。
</p>
<p>
<br />
<strong>６　チベット密教が説く、３つのレベルの縁起の法</strong>
</p>
<p>
チベット密教ゲールク派で説かれる縁起の法には、３つのレベルがある。
</p>
<p>
まず、第１のレベルの縁起は、ある原因の結果として生じる事物・現象に関する縁起の法である。すなわち、因果関係のある事物・現象に関するものである。
</p>
<p>
縁起の法の表現に従って言い換えると、ある現象がある原因に依存して生起するという場合の縁起の法であり、具体的に言えば十二支縁起の法である。
</p>
<p>
この十二支縁起の法は、輪廻の中で行われた行為（原因）とその結果を説明するものである。
</p>
<p>
そして、この「十二支」とは、無智（無明）、行為（行）、意識（識）、名称と色形（名色）、６つの（感覚）領域（六処）、接触（触）、感受作用（受）、欲求（愛）、執着（取）、生存（有）、誕生（生）、老衰と死（老死）の１２の項目のことである。<br />
この縁起の法については、後に詳しく述べることにする。
</p>
<p>
なお、この第１のレベルの縁起は、「因果関係にある事物」に適用されるために、「無常な事物」にのみ適用される。しかし、これから述べる第２レベル以降の縁起は、「無常な事物」にも、「常なる事物」にも適用できるものである。
</p>
<p>
<br />
<strong>７　第２レベルの縁起の法</strong>
</p>
<p>
第２のレベルの縁起は、あらゆる事物は、それを構成している部分に依存して（部分を条件として）仮設されたものである、というものである。
</p>
<p>
より詳しく説明すると、まず、この世の現象は、それが精神的なものであれ、物質的なものであれ、部分を持たない事物は存在しない。そして、あらゆる事物は、その部分に依存して、仮に設定（仮設）されたものである、ということである。
</p>
<p>
なお、ここで、「仮設されたもの」という意味を確認すると、本当にあるものではなく、何らかの基体の上に仮に設定されたもの、ないしはその基体に仮に名前を付けられただけのものということである。
</p>
<p>
例えば、「私」というものを例に取ってみると、「私」という全体は、その肉体や心といった部分に依存して存在しており、「私」とは、それらの部分の集合体の総称として、「私」という名前をもって、仮に設定された概念にすぎない。
</p>
<p>
ところが、こうして仮に設定されたものにすぎないのに、実際の人間の感じ方においては、その全体である「私」というものが、あたかも、その部分から独立して存在する、確かな実体のあるものであるかのように錯覚している。<br />
しかし、実際には、全体は、部分から独立して存在しておらず、部分がなくなれば全体もなくなってしまう。例えば、「私」という全体から、「私の身体」や「私の心」といった部分を取り除いていったら、何も残らない。始めから「私」というものがあって、それに属するものとして、「私の心」「私の身体」といった部分があるのではないのである。
</p>
<p>
さらに、その「私」の中の「心」についても同様である。心は、実際には、絶え間なく変化し、一瞬一瞬違う心が現れている。そして、「私の心」とは、それらの無数の心を総称するものとして、仮に設定した概念にすぎない。しかし、通常私たちは、それらの無数の心から独立した、一つの実体のある「私の心」なるものが存在するかのように錯覚している。
</p>
<p>
ところが、厳密に考察するならば、「私の心」の中には、絶えず変化する心を貫いて、まったく変わらない要素は何もない。思考も、感情も、そして、記憶さえも刻々と変化しているのである（記憶が変化していることについては、この章の最後の資料を参照）。
</p>
<p>
こうして、厳密には何の同一性も見いだせない、これらの絶え間なく変化する無数の心を総称して、「私の心」というものを仮に設定した結果、あたかも、これらの無数の心から独立した、一つの実体のある「私の心」なるものが存在するかのように錯覚しているのである。
</p>
<p>
しかし、実際には、「私の心」なるものから、これらの無数の心を取り除いたならば、何も残らない。始めから他から独立した「私の心」があって、その中に、これらの無数の心が属しているわけではないからである。
</p>
<p>
同じように、「昨日の私」と「今日の私」と「明日の私」は、正確に見れば、心身ともに、「すべて違った存在」であって、これらの部分を総称する「私」という全体は、仮に設定された概念にすぎない。しかし、通常私たちは、それらの部分から独立した、一つの実体のある「私」なるものが存在するかのように錯覚している。
</p>
<p>
そして、この錯覚が、大きな問題を引き起こす、と仏教は説く。
</p>
<p>
仮に設定された概念にすぎない「私」を、他から独立した実体を有するものと錯覚してしまう結果として、「私」に対する執着が生じてしまい（我執）、それが、さまざまな苦しみの原因となるのである。
</p>
<p>
なお、仏教教義においては、一般には、「私」とは「色・受・想・行・識」と呼ばれる５つの集まり（＝五蘊）の集合体であり、「私」とは、この五蘊に基づいて、仮に設定された概念にすぎないとする。この中で「色」が肉体にあたり、それ以外の４つが心にあたる。
</p>
<p>
また、物質現象も精神的な現象も、必ず、その部分に分けることができる。肉体を含めて、物質的なものは、必ず、一定の空間を占めており、その空間は、必ず、さらなる「部分」に分けることができる。
</p>
<p>
また、「心」のように精神的なものも、一定の時間を占めているから、例えば、「昨日の私の心」「今日の私の心」などとして、時間において、必ず、それを構成する「部分」に分けることができる。
</p>
<p>
<br />
<strong>８　第３のレベルの縁起の法</strong>
</p>
<p>
さて、第３のレベルの縁起は、「深層のレベルの縁起」とされ、あらゆる事物は、ある基体の上に、「言語」や「概念」によって（「言葉」や「概念」に依存して）仮設されたものにすぎないということを説く。
</p>
<p>
例えば、仮に、「私」と「外界」といった「言葉」をまったく知らない人がいたならば、その人には、「外界」とは別の「私」という認識は生じない。
</p>
<p>
なぜなら、後で詳しく述べるが、物理的に言えば、「私」と「外界」との間には、確たる境界は存在しないからである。両者は、実際には、密接不可分であり、どこまでが私で、どこからが私ではない、といった境界などは存在しない。
</p>
<p>
実際には、「私」というものは、前に述べたとおり、「五蘊」という基体の上に、「私」という言葉によって、仮に設定された概念にすぎない。しかし、「私」という言葉によって、人の意識に生じる概念的・観念的な思考においては、この実在しない区別が、実在するかのように感じられてしまうのである。
</p>
<p>
「山」と「平地」という言葉があるが、物理的には、どこまでが山で、どこまでが平地であるという境界は存在しない。これらの言葉による概念的・観念的な思考が、「山」と「平地」といった事物を、別々のものとして感じさせているのである。
</p>
<p>
このように、ある事物は、その名前によって、あたかも他の事物とは別の存在であるかのように、仮に区別されて設定されているのである。しかし、実際には、すべての事物は、縁起の法が説くように、相互に依存しあって存在しており、他から独立した実体などないのである。
</p>
<p>
そして、ここでの問題は、実際には、言葉によって、仮に区別されて設定されたにすぎないのに、他から独立した固定的な実体を持っているかのように錯覚すると、その対象に執着してしまい、さまざまな苦しみが生じるということである。
</p>
<p>
例えば、「私」というものが、「他」から独立した、固定的な実体を持っていると錯覚するから、「私」に執着して、さまざまな苦しみが生じたり、「他人」よりも「私」を優先して、さまざまな悪業を積んだりするのである。
</p>
<p>
この点に関連して参考になる講話として、ラマ・ケツン・サンポ師のチベット密教ニンマ派の経典の解説を引用しておく。
</p>
<p>
「この世界のあらゆるものは、互いに依存しあって存在している。何ひとつとしてそれだけで孤立しているものはない。だから、この現象の世界には、そのものという固定した実体をもつものなど、一つもないのである。
</p>
<p>
ところが、私たちは言葉を使ってこの現象の世界に名前をあたえようとする。あれは山であり、あれは木であり、これは私であるというように。そのこと自体はこの現象の世界にあらわれている、ありのままの差異をとらえようとする根源的智慧の働きのあらわれであると考えることができる。
</p>
<p>
しかし、いったん名前があたえられると、それだけで山や木や私が、何か固定した実体をもっているように思えてくるのである。言葉を口に出して言わなくとも、それが心にひらめいた瞬間、私たちは世界を固定してとらえる危険に踏み込んでしまう。でも固定した「私」なんていったいどこにあるのだろう。どこからが山で、どこで山が終わるというのだろう。
</p>
<p>
言葉や観念は私たちをとらえて、ありのままの世界とはちがう、こわばった世界をつくりあげる力をもっている。私たちはそこで固定した「私」に執着するようになる。「私」が年老いて死んでいくことを、恐いと思うようになる。愛していたものが消えていくことを深く悲しむ。
</p>
<p>
でもそれは、ありのままの世界に素手でふれあうことができず、夢や幻影のような観念の世界にとらわれていることから起こる恐れであり、悲しみである。この幻影のベールをとりのぞくことができた時、私たちの前には、つねに動いてやむことのない、ありのままの世界の壮大な光景がたちあらわれてくる。そこには限りない喜びがあふれている。」
</p>
<p>
この点については、「私の体」、「私の心」といった事例をあげて、後でさらに詳しく述べたいと思う。
</p>
<p>
<br />
<strong>９　十二支縁起</strong>
</p>
<p>
仏陀は、『稲竿経（とうかんきょう）』において、次の３通りの表現を用いて、十二支縁起を詳述しているという。
</p>
<p>
（１）これがあることによって、かれがある。
</p>
<p>
（２）これが生じることによって、かれが生じる。
</p>
<p>
（３）無智によって、行為（行）が生じ、行為によって、意識（識）がある。意識によって名前と色形（名色）がある。名前と色形によって６つの感覚領域（六処）がある。６つの感覚領域によって接触（触）がある。接触によって感受作用（受）がある。感受作用によって欲求（愛）がある。欲求によって執着（取）がある。執着によって「生存」と呼ばれる成熟した業（有）がある。生存によって誕生（生）がある。誕生によって老衰と死（老死）がある。
</p>
<p>
これは、仏教思想の特徴を示している。仏教は、この世の現象を創造したものとして、絶対神を主張（強調）したり、この世に永久不変なものが存在するとは説いたりしない。インドのサーンキャ哲学が説く、永久不変である真我と自性などは説かない。
</p>
<p>
代わりに、一切の現象は、原因・条件によって生じた（＝縁起した）ものであると説き、この世のすべての現象は、無常な原因によって生じている、無常な現象であるといった考え方を採る。
</p>
<p>
そして、具体的に輪廻の事物は、どのような無常な原因や条件によって生じているか、というのを説明したのが、「十二支縁起」である。
</p>
<p>
<br />
<strong>10　「無智（無明）」は輪廻の根本原因</strong>
</p>
<p>
さて、十二支縁起の最初の「無智（無明）」とは、諸事物（諸法）の実相を理解していないこと、すなわち、「すべてのものが空（くう）であること（空性）」を理解していないことを意味する。
</p>
<p>
言い換えると、これは、「ものが現実にはいかに存在しているか」についての無智であり、物事をその真の様相とは反対のものとして認識する誤った意識である。
</p>
<p>
ナーガールジュナは、「原因と条件によって生じたにすぎない事物を真実に存在するものである、と執着する意識は、仏陀によって&quot;無智&quot;と呼ばれている。この無智から縁起の十二支が生じるのである。」と述べている。
</p>
<p>
無智に覆われていると、この世のものは、確たる存在であるように感じられる。しかし、真実は、空＝固定的な実体がないのである。すべてのものは、そのもの自体で独立して存在せず、他の原因や条件に依存しており、そのため、絶えず変化している、無常で固定した実体のないものである。
</p>
<p>
なお、ここでの「空」とは、まったく何もない、まったく存在しない、という意味ではない。それは、「実体を持って存在しているのではない」という意味である。よって、それは、「幻影のようなもの」であって、目には確かに見えても、そこには実体はなく、執着に値しないものである、ということになる。
</p>
<p>
<br />
<strong>11　２つの無智</strong>
</p>
<p>
無智は、２つのタイプに分けられる。
</p>
<p>
１つ目は、「私」などと呼ばれる、「輪廻の主体」が、実体的な存在である、と錯覚する無智である。これを「人我執」（にんがしゅう）という。なお、ここで、人我執の「人」は「輪廻の主体」を意味し、「我」は「実体的な存在」を意味する特殊な訳語である。
</p>
<p>
もう一方のタイプの無智は、「あらゆる事物」を、実体的な存在であると錯覚する無智である。これを「法我執」という。なお、ここで、法我執の「法」は「事物」を意味する特殊な訳語であり、「我」は上記のとおり、「実体的な存在」を意味する。
</p>
<p>
先に解説したが、部派仏教などでは、「輪廻の主体に実体性を認める意識」（人我執）は否定する一方で、「事物に実体性を認める意識」（法我執）は肯定したが、大乗仏教は両方とも否定した。
</p>
<p>
さて、「輪廻の主体に実体性を認める意識」は、「心身を構成する５つの集まり（五蘊）である身を、実体的な存在であるととらえる誤った見解」（有身見）を含むものである。
</p>
<p>
これについて、ナーガールジュナは、「自分の身体を、なにものからも自立して存在するものとする、生来の誤った見解＝有身見が、輪廻の根本的な原因である。それは、（中略）&quot;自己&quot;という名前が付けられる基体となっている、心身を構成する５つの集まり（五蘊）を、実体的な存在として錯覚し、執着するところから生じるものである。」と述べた。
</p>
<p>
<br />
<strong>12　仏教の漢訳語としての「我」「法」の特殊な意味</strong>
</p>
<p>
なお、ここでの「我」という言葉は、「私」とか「私たち」といった普通の意味ではなく、サンスクリット語の「アートマン」（atman）の漢訳語であり、「実体的な存在」とか、「ある存在を、そのものたらしめている永久不変の本質」のことを意味することである。いわゆる「真我・真実の自己」とも呼ばれるものである。
</p>
<p>
そして、仏教以外のインドの哲学（ヒンドゥー・ヨーガなど）においては、個人の根本として、永久不変の「アートマン」（我）を認めたが、仏教は、そのような「我」は否定したのである。仏教では、「実際には、一切は空であり、そういった&quot;我&quot;は、一切存在しない」と説いたのである。
</p>
<p>
ただし、後で詳しく述べるが、アートマン・真我の存在の否定は、仏教の伝統的な主流の教義においての話であって、釈迦牟尼自身がアートマン・真我を否定したか、という点になると、当時の釈迦牟尼の言説を調査・研究する専門家の間で、異論を唱える人たちが少なからずいる。
</p>
<p>
次に、ここでの「法」とは、教えとか法律という意味ではなく、「事物」を意味する漢訳語であり、サンスクリット語では「ダルマ」である。
</p>
<p>
というのは、サンスクリット語のダルマには２つの意味があり、１つが、よく知られている「仏陀の教え」としてのダルマ・法則という意味であり、もう１つが、「あらゆる存在・事物」という意味なのである。ただし、中国の漢字の「法」という文字には、一般には、後者の意味（存在・事物）はない。仏教用語の「法」のみに、後者の意味があるのである。
</p>
<p>
これに関連して、仏教には「諸法無我」という教えがあるが、これは「すべての仏陀の教えには、私はない」という意味では決してない。それは「すべての存在・事物には、永久不変の本質はない、実体はない」という意味である。
</p>
<p>
<br />
<strong>13　五蘊について</strong>
</p>
<p>
ここで、心身を構成する５つの集まり（五蘊）について解説しておこう。<br />
<br />
五蘊とは、「５つの集まり」といった意味で、仏教では、心身を構成する５つの集まりをいい、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊と漢訳されている。
</p>
<p>
「色蘊」とは、「色の集まり」という意味だが、この「色」とは、色・形あるもの、という意味で、仏教では、物質的存在の総称である。よって、例えば「肉体や血液など」を意味する。
</p>
<p>
「受蘊」とは、「感覚の集まり」の意である。「受」とは、眼（視覚）・耳（聴覚）・鼻（嗅覚）・舌（味覚）・身（触覚）・意識を通して生じる苦楽等の感覚・印象のこと。いわば「知覚作用」とも表現できる。
</p>
<p>
「想蘊」とは、「表象作用の集まり」の意である。「想」とは、心の働きの一つで、事物の形象を心の中に思い浮かべることを意味する。「表象作用」とか「イメージ」と訳することができる。
</p>
<p>
「行蘊」は、訳が難しいが、ダライ・ラマ法王は、「形成力の集まり」と訳されている。
</p>
<p>
この「行」は、「行為」とも訳されることがあるが、この「行為」と「形成力」は不可分のものであり、何らかの行為がなされた際に、その行為の後も、未来において何らかの現象を形成する潜在的な力（＝形成力）が生じる、と考えられている。
</p>
<p>
これは、まさに、仏教に限らず、インド哲学の一般が説く、業（カルマ）の法則のことであるが、仏教教学では、行は、業（カルマ）の一部とされることがある。<br />
<br />
この「行」と訳されるサンスクリット原語は多数あるが、この文脈の「行」の原語は、samskara（〈サンスカーラ〉形成力、形成されているもの）とか、samskrta（〈サンスクリタ〉形成されたもの、有為）と思われる。
</p>
<p>
「識蘊」の訳としては、ダライ・ラマ法王などは、識を「意識」と訳し、「意識の集まり」と訳されている。ただし、この「意識」という訳は必ずしも一般的ではなく、「識別」と訳される場合もある。
</p>
<p>
『岩波仏教辞典』（岩波書店、第二版版、2002）によれば、「識」の原語は、「（区別して）知ること」などを意味するとされている。こうして、「識」という言葉のニュアンスとして、人が、言葉などで、何かを他から区別して認識する作用が含まれていると思われる。そのため、『岩波仏教辞典』では、識を「認識作用」などと訳している。
</p>
<p>
<br />
<strong>14　欲望や怒りの原因に、自己の実体視・固定化がある</strong>
</p>
<p>
仏教では、私たちの欲望や怒りを吟味すると、それらが、自分自身を、非常に固定したものとして考えて、「自分」に執着すること（我執）から生じていることがわかる、と説く。
</p>
<p>
その「自分」の「固定化」のため、自と他の間に、強い「線引き」が行われ、ある者に愛着を感じ、他の者に怒りを覚えるようになる。
</p>
<p>
仮に、自分自身というものが、老い、病み、死んでいく、無常で、固定的な実体がないものであることを深く理解し、自分自身に執着していなければ、その自分のために、他と争って、がつがつとお金や名誉・地位を得ようとすることはないことがわかるだろう。
</p>
<p>
こうして、このように「欲望」や「怒り」は、「自分」を「固定した実体のある確たる存在」として「過大視」し、執着することに根本的な原因がある。
</p>
<p>
ただし、たとえ「自分には、固定的な実体がない」とはいっても、「自分」「私」といった行為の主体、すなわち、業を積む主体が存在することは事実である。そして、この「私」が、これらの業の結果として、苦その他もろもろの結果を引き受けている。
</p>
<p>
しかし、問題は、私たちの心が、実際に存在しているもの以上に、実体的な「私」を感じてしまっていることである。
</p>
<p>
実際には、「私」というものは、単に「心身を構成する５つの集まり」（五蘊）に依存して、「私」という名前が付けられて、仮に設定されたものにすぎない。
</p>
<p>
それ自身が他から独立した固定的な実体を持っているわけではない。しかし、人は、日常において、あたかもそのように感じてしまっているのである。
</p>
<p>
<br />
<strong>15　身体に実体がないこと</strong>
</p>
<p>
では、「私」というものが、他から独立した固定的な実体を持っているわけではない、という点について、より深く考えてみよう。まず、私を構成する五蘊＝色・受・想・行・識のうち、身体に相当する「色蘊」について検討する。
</p>
<p>
私たちが、自分の五感と日常の意識でとらえている「身体」は、「肉体」と呼ばれているように、「一つの肉や骨などの固まり」であると感じられる。
</p>
<p>
一方、仏教では、身体は「色蘊」と言われ、その意味は、さまざまな物質的な要素（＝色）の集まり（＝蘊）を意味する。
</p>
<p>
そして、身体を厳密に観察すれば、確かに、それらは、「一つの肉や骨などの固まり」ではなく、さまざまな物質的な要素の集まりであることがわかる。特に、現代に生きる私たちは、この点を理解する上では、釈迦牟尼の時代よりも恵まれており、科学の知識や科学の目の力を借りることができる。
</p>
<p>
私たちの身体は、実際には、「さまざまな細胞の集まり」からできている。この様子は、顕微鏡を通して見ることができる。そもそも、私たち人間の「肉眼」というものは、あまり正確・厳密な観察・認識をする能力はない。これは重要なことで、肉眼に限らず、私たちの五感は、正確・厳密な観察ができず、それどころか「錯覚」を与える。
</p>
<p>
そして、細胞は、生まれてから死ぬまで、まったく変わらないかというと、当然そうではない。体の中の細胞の多くが壊れ、新しい細胞が作られている。科学者によれば、人間には約６０兆の細胞があり、毎日３０００億から４０００億の細胞が死んで、同じ数の細胞が生まれている。
</p>
<p>
なお、神経細胞のように、一生再生されない細胞もあるが、しかし、その細胞を構成している分子自体は、絶えず入れ替わっており、科学者によると、１年ほどすると、私たちを構成している細胞の分子はすべて入れ替わってしまうという。
</p>
<p>
こうして、私たちの身体は、分子レベルでは、非常に流動的で、固定的ではないことがわかる。すなわち、「私の身体」と言ったとしても、「私の身体」を構成する「私だけの分子」というものは存在しないのである。
</p>
<p>
私たちは、地球生命圏を循環する無数の分子を、他の生き物と絶えず交換・共有しながら生きており、「私だけの身体の分子」などは、持っていないのである。
</p>
<p>
こうしてみると、「私」というものが、他から独立した固定的な実体を持っているわけではない、という仏教の教えがよく理解できるだろう。「私」と「他者」の区別はつかず、しかも、非常に流動的で非固定的な存在なのである。
</p>
<p>
さて、分子レベルよりもさらに根源的な「素粒子」のレベルで身体を観察すると、この分野を探求する量子力学によれば、すべの物質は、物質性・粒子性だけではなく、宇宙全体に広がる波動性を有しているとも主張する。そうなると、「私」と「他人の身体」の区別はますますなくなってくる。
</p>
<p>
こうして、私たちは、日常において、「自分の身体」が、「他の身体」と独立した、固定的な実体を有していると感じているが、実際にはそうではないのである。
</p>
<p>
それは、私たちの感覚器官が、粗雑で不完全であり、対象を厳密に認識できないことや、私たちの日常的な知性が、「私」といった言葉や観念にとらわれてしまっていることから生じている「錯覚」なのである。
</p>
<p>
<br />
<strong>16　無智の本質＝人の世界の感じ方と、世界の実際のあり方の違い</strong>
</p>
<p>
こうして、「私」というものは、私たちが普段感じているようには、実際には存在していないのである。それは、普段は、実体のある具体的なものと感じられるが、考察すれば実体がないものだとわかる。
</p>
<p>
これに関連して、仏教では「人生は幻である」というが、正確には「幻と似ている」ということである。すなわち、何も存在しないというのではなく、「人が感じるようには存在していない」という意味なのである。
</p>
<p>
科学の世界では、人の感じ方と、実際の事物の存在の仕方が大きく違うということは、よく認識されていることである。しかし、日常の私たちは、このことによく気づいておらず、自分たちの五感と日常の知性で感じている世界が、実際の世界である、実在していると思い込んでいるのである。
</p>
<p>
こうした、私たちの世界の感じ方と、実際の世界のあり方の違いの中には、さまざまなものがあり、これが、人の苦しみの原因となる。
</p>
<p>
その中でも、例えば、実際には「苦しみの源」である煩悩が、一見すると「快楽の源」と見える、ということは非常に重要である。
</p>
<p>
煩悩的な欲求の対象は、一見すると、私たちに「快楽」を与えてくれるように見えるが、実際には、その快楽は「苦しみの源」になるのである。
</p>
<p>
すなわち、快楽は、快楽だけで独立して存在し、苦しみと関係がないものではなく、快楽は苦しみと相互に依存しあって存在している。すなわち、苦しみがあるから快楽があり、快楽があるから苦しみがあるという構造になっている。
</p>
<p>
さらに、時を経て、快楽は苦しみに、苦しみは快楽の原因に変わっていく。こうして、快楽や苦しみは、相互を原因として縁起したものであり、実体がないのである（これについては後で詳しく述べる）。
</p>
<p>
また、実際には「無常なもの」なのに、「永久のもの」と見えるということがある。特に、人の感覚器官は、ゆっくりとした変化は認識できないから、あたかも、変化しないもの、無常ではないものと「錯覚」してしまうのである。
</p>
<p>
こうして、非常に重要なこととして、事物の真実のあり方と、人の感じ方の間には違いがあり、これが仏陀が説いた「無智」の本質である。すなわち、無智とは、人は、事物が実際に存在しているようには感じないという問題なのである。
</p>
<p>
修行者は、これをよく理解し、自分が事物を実際とは違ったように感じているということに努めて注意し、教えに基づいて、できるだけ事物をありのままに理解する努力をするべきである。それが、仏陀が説いた、無智を止滅し、煩悩と苦しみを止滅する修行の本質である。
</p>
<p>
<br />
<strong>17　人の五感と日常の思考の作り出す錯覚</strong>
</p>
<p>
こうしてみると、人の五感と日常的な意識・思考が、私たちに、世界のありのままの理解を妨げている部分があることがわかる。
</p>
<p>
そして、十二支縁起の法では、この五感と意識は、六処（６つの感覚領域）と呼ばれている。そして、それは、無明（無智）に基づく、行（行為）と識（意識）と名色（名称と色形）によって生じるとされている。<br />
すなわち、人の五感と日常的な意識・思考は、そもそもが「無明に基づくカルマ」によって作られたものであると位置づけられている。よって、当然だが、それは、信頼できないし、執着に値しないのである。
</p>
<p>
そして、十二支縁起は、六処が形成された後について、次のように説いている。
</p>
<p>
まず、六処が、外界と接触することを「触」という。その結果生じるのが、「受」（五感と意識を通した知覚作用）である。それは対象に対する好き嫌いの感情を含んだものである。
</p>
<p>
そして、その結果、対象を求める「愛（欲求）」が生じ、対象にとらわれる「取（執着）」が生じ、その後の苦しみの原因を作るのである。
</p>
<p>
こうして、人の五感と日常的な意識・思考は、欲求・執着をもたらし、苦の原因を作る、とされている。そして、その原因は、その人の五感と日常的な意識が形成された根本原因が、無明（無智）のカルマだからである。
</p>
<p>
実際に、科学的に考察してみても、先ほど言ったように、人間の五感による認識は、非常に粗雑であり、対象の実態を正確に把握できない面がある。
</p>
<p>
例えば、肉眼で肉体を見ても、肉体の「色形」は認識できるが、それを構成している分子の存在や、その分子の活発な出入りの動きは認識できない。そのため、自分と外界、自分と他の生き物が、同じ分子を絶えず共有・交換しているということはまったくわからない。
</p>
<p>
このため、自分が他から独立して存在しているように思えてしまい、すべての事物が、相互に依存しあっており、他から独立していないと説く、縁起の法の真実がわからなくなる。
</p>
<p>
自と他の区別がないことは、あらゆる対象に当てはまる。この世界はすべて原子・分子でできており、自分と他人はおろか、生物と無生物といったものの間にさえ、実際には、明確な境界などは存在しない。縁起の法が説くように、すべては相互に依存しあって存在している。しかし、人間の五感は、これが認識しにくいのである。
</p>
<p>
また、人間の五感や意識はその対象が変化しているという事実についても、十分緻密に認識できない性質がある。特に、その変化が微小である場合や、変化は大きくても、そのスピードが遅い場合である。
</p>
<p>
そのため、縁起の法や空の思想が説く、すべての事物には固定した実体がない、という点を理解しにくい性質がある。
</p>
<p>
例えば、人の目には、人の体は、今日と１日前では、まったく変わっていないように見えるが、微細・緻密な観察をすれば、分子レベルに限らず、より粗雑なレベルにおいても、人の体は、刻一刻と相当に変化している。
</p>
<p>
ところが、人の肉眼による認識は、ある程度の変化があって初めて、変化を認識する性質があり、そのため、例えば「あの人は近ごろ、急に老けた（ふけた）」とか、「まだまだ若いと思っていたが、近ごろ急に体力がなくなったと感じる」といったことがある。
</p>
<p>
また、この逆に、対象の変化が早すぎても、その対象の実態を理解できない場合がある。例えば、１秒間に２４コマのフィルムが連続して映写されると、それが２４コマのフィルムであるとは見ることができず、一つの物が動いていると錯覚する。これが、動画映像の原理である。
</p>
<p>
こうして、縁起の法によれば、すべてのものは、①他から独立しておらず（非独立）、②固定的な実体がない（流動的）にもかかわらず、私たちの五感は、①独立していないものを独立しているように錯覚し、②固定的ではないものを固定的であるかのように錯覚するというゆがみがある、ということである。
</p>
<p>
そして、私たちは、①自と他の区別などないのに区別があると錯覚して、自分だけに執着し、②さらに、無常である外界を固定的なものであると錯覚し、その中の何かに愛著したり怒ったりする、ということが起こっているのである。
</p>
<p>
よって、私たちは、人間の五感と日常の意識というものが、自分たちを欺く傾向がある、ということを理解しなければならない。そして、これを修習するための瞑想法が、今解説している十二支縁起の法であり、また四念処・五蘊無我の中の「受（感覚）は苦なり」といわれる教えである。
</p>
<p>
<br />
<strong>18　四念処・五蘊無我</strong>
</p>
<p>
「四念処」は、①身体、②感覚、③心、④もろもろの事物について、それをよく考察して、それぞれが不浄であり、苦しみであり、無常であり、固定した実体がないということを観想し、それらに対する執着を止滅する瞑想である。
</p>
<p>
まず、「身体」については、身体が「不浄」であることを瞑想する。
</p>
<p>
私たちは、自分や異性の身体（肉体）に執着するが、それをよく考察すると、若く美しい身体でさえ、その内部には、さまざまな臓器がグロテスクに詰まっており、便・尿・汗などの汚物が排出される事実がある。
</p>
<p>
また、時とともに、どんなに美しい人の体も、老い、病み、しわくちゃになり、醜くなって、さまざまな苦しみをもたらしながら、最後には、死んで骨だけが残る。
</p>
<p>
こうして、私たちが、肉体について、日常の意識では見ていない「苦しみの部分」をしっかりと意識することで、肉体に対する執着を取り除くのである。
</p>
<p>
次に、「感覚」については、感覚が「苦しみ」であることを瞑想する。
</p>
<p>
まず、先ほども述べたが、人の感覚は、実体のない現象に実体を錯覚させるという問題がある。
</p>
<p>
十二支縁起が説くように、感覚は、そもそも無明のカルマが作った六処（６つの感覚領域）によるものであって、それを通した錯覚によって、私たちは、欲求・執着を生じさせて、さまざまな苦しみをもたらす。
</p>
<p>
また、感覚を通して、私たちは、快楽を感じるが、同時に、嫌いなものを感じなければならない。快楽を貪るならば、「苦しみ」も強くなるのが貪りである。
</p>
<p>
そして、老い病む中で、感覚は徐々に弱くなり、感覚による快楽は失われ、逆に、「苦しみ」が増大し、最後には、死に至ることになる。
</p>
<p>
そして、「心」については、心が「無常」であることを瞑想する。
</p>
<p>
人は、「私の心」などといって、自分の心を固定的にとらえているが、実際には、心は絶えず移り変わっている。
</p>
<p>
心に浮かぶ自分の思いも考え方も、常に移り変わっており、これが「私の心である」と呼べるような一つの心などはない。
</p>
<p>
そして、快楽を満たした場合の心の働きを見ると、その時は心に喜びが生じるが、その喜びは、確実に「苦しみ」に変わっていく。なぜならば、もっと快楽を求めようとする心や、手に入れた快楽を失いたくないという執着などが生じるからである。
</p>
<p>
そして、人の意識の対象となる「もろもろの事物」については、それらが「無我」であることを瞑想する。
</p>
<p>
すなわち、あらゆる事物は、他から独立した固定した実体がなく、永久不変の本質を有さない。これについては、まさに縁起の法が説くところである。
</p>
<p>
それらに実体があるように感じられたとしても、それは、五感や言葉に基づく日常的な思考によって、実体があるように錯覚しているにすぎない。
</p>
<p>
さて、「五蘊無我」の場合は、瞑想の対象が、「私」を構成している五蘊＝色・受・想・行・識になる。
</p>
<p>
すなわち、私の「肉体」「感覚・知覚作用」「イメージ・表層作用」「行為の結果の潜在的な形成力」「意識・識別・認識作用」である。
</p>
<p>
そして、その５つのそれぞれについて、無常であり、苦しみであり、固定した実体がなく（空）、永久不変の本質を有さない（無我・非我）ことを瞑想するのである。
</p>
<p>
<br />
<strong>19　「心」にも固定した実体はない</strong>
</p>
<p>
さて、先ほどは、「私」を構成する五蘊の中で、色蘊＝身体について考察したが、それ以外の４つ＝受・想・行・識について、同じように考察してみよう。この４つは、身体ではなく、心を構成するものだとされている。
</p>
<p>
まず、私たちは、日常の感覚では、「私の心」というように、「私」には、「一つの心」があるかのように感じている。
</p>
<p>
しかしながら、心を正確に考察すれば、心は、絶えず変化している。私たちの思考や感情は、絶えず変化しており、いっときも以前と同じではない。
</p>
<p>
また、心を上記のように、受・想・行・識の４つの要素に大別して考察しても、その４つの要素は、それぞれが絶えず変化しており、それ故に、「無数の要素の集まり」であることがわかる。そもそも、五蘊の「蘊」とは「集まり」という意味である。
</p>
<p>
釈迦rs2.jpg　「受」（蘊）とは、五感と意識を通した外界の知覚作用のことであるが、この知覚作用は、絶えず変化している。いっときたりとも、同じことを知覚し、同じことを感じることはない。こうした「多くの知覚作用の集まり」を「受蘊」と呼んでいるのである。
</p>
<p>
「想」（蘊）とは、外界の知覚作用ではなく、心の中のイメージ（表層作用）のことであるが、人が心の中に何かのイメージを抱く場合、厳密に考察すれば、いっときたりとも同じイメージを抱いていることはなく、それは瞬間瞬間に変化していることがわかる。この「多くの表層作用の集まり」を「想蘊」というのである。
</p>
<p>
「行」（蘊）とは、先ほど説明した、何らかの行為がなされた際に生じる形成力のことであるが、これも絶えず繰り返される行為（身体、言葉、意識の行為）の数だけあり、絶えず変化しており、この「多くの行為の集まり」を「行蘊」と呼んでいるのである。
</p>
<p>
「識」（蘊）とは、先ほど説明したように、意識・識別・認識作用のことであるが、いうまでもなく、この意識・識別も、絶えず変化しており、この「多くの意識・識別・認識作用の集まり」を「識蘊」と呼んでいるのである。
</p>
<p>
こうして、人の心・精神的な要素を分析すれば、「これが私の心である」と呼べるような、一つの固定的な心があるのではなく、絶えず変化し続ける無数の心があり（詳しくは、無数の知覚作用・表層作用・形成力・意識〈識別〉があり）、固定的な実体はないことがわかる。
</p>
<p>
それだけではなく、もう一つ重要な事実として、「私の心」と「他の心」の間には明確な境界はないということができる。
</p>
<p>
すなわち、縁起の法が説くように、「自分の心」についても、他から独立した固定した実体はないのである。これについて考えてみよう。
</p>
<p>
<br />
<strong>20　他と独立した「私だけの心」というものもない</strong>
</p>
<p>
まず、私の思考は私だけで作ったものではない。生まれてから今までに、他から与えられた、さまざまな教育・情報に基づいて形成されたものである。
</p>
<p>
そもそもが、人の思考の土台となっている言語自体が、親をはじめとする他人から与えられたものであり、そうして習った言語を土台に、さまざまな情報を外から取り込んで、人は思考している。よって、いかなる人にも、自分だけの思考などは存在しない。
</p>
<p>
そして、この言葉による思考というものが、先ほど述べたように、実際には他から独立した実体などないものを、独立した実体があるかのように錯覚させるのである。すなわち、私たちは、幼少のころから、親たちと同じように、言葉による誤った認識をするように教育されているのである。
</p>
<p>
その意味で、私たちと、私たちの親の心の働きは、ともに言葉による概念的・観念的な思考による影響を受けており、私たち自身は、親とは違った心の働きを持っていると思っているが、両者は、仏陀の目からすれば、非常に似通った性質を持っている、ということになる。
</p>
<p>
こうして、私たちは、他の人々、言葉による概念的・観念的な思考を共有しつつ、それに加えて、さまざまな思考・情報が、言葉や文字を通して、絶えず、「他」から「自分」に入ってくるし、「自分」からも、「他」に対して出ていくのである。
</p>
<p>
こうして、「自分」と「他人」の思考・情報は、互いの中で、絶えず混じりあって、人類の歴史の中で、思考・情報の交換は、ずっと続いてきた。その意味で、私たちの社会の中では、無数の人間が、互いにさまざまな影響を与えあい、いわば反響しあって、渾然一体となって存在しているのである。
</p>
<p>
よって、自分と他人の思考・心の関係は、個々人が自覚するよりも、実際には、はるかに深い「つながり」がある。
</p>
<p>
さらに、人の思考や感情といった精神的な要素は、言葉や文字を通さずに、人と人の間で、直接交わりあう性質を持っている。
</p>
<p>
例えば、言葉によらず気持ちが伝わる「以心伝心」や、多くの人々がいる場全体の「空気」や、ある場所の「エネルギー」の影響を受ける、といった私たちの体験は、人をはじめとする生き物の「心」・「精神的なエネルギー」が、言葉を媒介とせず、そのもの自体で交わりあう性質があることを示している。
</p>
<p>
さらに、物質によっても心が交わりあう、という見解がある。「記憶する心臓」などに関する見解や、仏教・密教の秘儀伝授の教えによれば、その人の肉体を構成する物質は、その人の精神・性格のデータを宿している。
</p>
<p>
よって、日々、呼吸・飲食・排泄などで、無数の原子分子を自分と他人の間で交換する中で、私たちの心は互いに交わりあっており、すべての人々・生き物が、心においても、地球全体に広がっている何らかの精神的な要素を共有している、ということになる。
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<p>
こうして、普段「これが私の心である」と思っているものも、実際には、自分だけのものではなく、他の人・生き物と交わったものであり、地球（ないし宇宙）全体の生き物たちの心が、互いに影響しあっている。
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<p>
これが、例えば、その時代の「社会の空気」とか、「時代精神」と呼ばれるものを作り出しているのではないだろうか。
</p>
<p>
こうして、思考や心においても、実際には、「私」と「私以外」の区別・境界は存在せず、その意味で、他から独立した私の考え・私の心といったものは存在しない。私の考え・私の心は、常に他のそれと連動して、絶えず変化しているものである。
</p>
<p>
にもかかわらず、日常生活の中で、私たちは「これは、私の考えであり、他の考えではない」といった思い込みを持っている。これは、「私」「私の考え」という言葉を用いる中で、あたかもそれが存在するかのように錯覚してしまっているのである。
</p>
<p>
それは実在せず、「私」という言葉や概念に基づく思考をする人間の心の中にのみ現れる観念であって、錯覚なのである。
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<p>
<strong><br />
21　無智が、欲望と怒りを生み出す</strong>
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<p>
「欲望」（貪り）には、さまざまな種類や段階がある。
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<p>
最初の段階では、対象は単純に意識に現れる。このときには「欲望」はまだ生じておらず、単に「認識」されている。次に、「これは本当にいいものだ」と感じ、「それが欲しい」という感情が生まれる。さらに、「その品物を買おう」と決めて、買って、それを自分のものとして愛玩するようになると、これが３番目の段階になる。
</p>
<p>
最初の段階では、対象が（実際には実体はないが）「実体的な存在」として意識に現れ、２番目の段階では、「対象に実体があるという認識」に基づいて、「欲望」を引き起こし、３番目の段階で、「自分のもの」としたときに、意識は、それを「非常に価値のあるものである」と思い、「強力な所有観念」に巻き込まれる。
</p>
<p>
３番目の段階では、２つの無智から生じる執着が一体となるので、執着・欲望が高まることになる。その２つとは、「対象に、実体を錯覚して素晴らしいと思う執着」（我所執〈がしょのしゅう〉）と、「自分自身に、実体を錯覚して愛著する執着」（我執〈がしゅう〉）である。
</p>
<p>
同じことは「怒り」にも当てはまる。第１に、対象が「実体的な存在」として意識に現れ、第２に、その「実体を錯覚した意識」に基づいて、「これは本当に悪いものだ」と思い、「怒り」が生じる場面に至り、第３に、それが「自分自身に害をもたらす可能性がある」ように思われたとき、さらに、「より強い怒り」へと展開する。
</p>
<p>
こうして、対象が実体として存在していると思い込む「無智」は、「欲望」と「怒り」の両方を助長する。このように無智（無明）は他の煩悩の根本となっている。仏教の三毒（無智・貪り・怒り）の根本には無智がある、ということである。
</p>
<p>
<br />
<strong>22　行（行為）、識（意識）、名色（名称と色形）などについて</strong>
</p>
<p>
このような無智によって、十二支縁起の２番目の項目「行為」が生じる。行為は苦しみ、楽しみなどといった効果を生み出すので「形成力」とも呼ばれる。行為は新しい結果を生み出す一連の流れの端緒となる。
</p>
<p>
命あるものによって行為がなされると、それは心に「潜在力」（習気〈じっけ〉）を生じる。この「潜在力」（ないし「その行為が過去のものとなった状態」）は、その結果を生じるまでは消滅することなく、潜在的に存続し続ける。
</p>
<p>
行為は、いったんなされるや、その結果を生じるまで、消滅することなく、意識中に潜在的に存続し続ける。今生から来世に向けてつながっている「意識の連続体」（心相続）は、この潜在力を、その行為が成熟して結果を生み出すときまで運び続ける。
</p>
<p>
この「行為」が、未来のわれわれの体験を決定する「潜在力」を「意識（識）」（縁起の３番目の項目）の中に形成する。<br />
なお、「識」を「意識」ではなく、「識別」と訳す立場からは、行（行為）の結果として、識別が生じると解釈することができる。識を「意識」と訳す立場においても、その意識は、純粋な仏陀の意識ではなく、識別を有する意識のことである。
</p>
<p>
なお、前にも述べたが、この行（行為）は、インド哲学が説く業（カルマ）である（正確に言えば、行は、業（カルマ）の一部と定義されることがある）。
</p>
<p>
こうして、仏教は、「一切に実体がなく、無常である」と説く一方で、同時に、インド哲学の「カルマの法則」を継承している。
</p>
<p>
そのため、具体的には、行＝行為は、「生じては滅する無常なもの」であるが、行が滅した後に、「潜在力」（習気）が生じ、それが、意識の中に蓄積され、その意識が、今生から来世まで連続していき、「来世において結果が生じる」と説く。
</p>
<p>
さて、次は、「意識（識）」の結果として、「名称と色形（名色）」が形成される。
</p>
<p>
この「名称（名）」は、五蘊のうちの４つ、すなわち、「心を構成する４つの集まり」を指す。それは、感覚（受）、表象作用（想）、行為（行）、意識（識）である。また、「色形（色）」は、「体を構成する集まり（色蘊）」である。よって、「名称と色形」（名色）とは、五蘊のことを意味する。
</p>
<p>
これを人間の生成と関係づけるならば、「名称」と「色形」の時期は、受胎した胚が五感を生ずるまでに成長する期間にあたっていると解釈されることがある。
</p>
<p>
さて、「名称と色形」（名色）の結果として、「６つの感覚領域（六処）」が生じ、それが外界と「接触（触）」すると、「感覚（受）」が生じ、その結果として、外界の対象に対する「欲求（愛）」が生じ、それにとらわれて「執着（取）」が生じるが、このプロセスについては、先ほど述べたとおりである。<br />
その後は、「生存（有）」「誕生（生）」というプロセスがあるが、これは、「生存」が、胎児が生まれようとしている段階で、「誕生」が出産と解釈されることがある。
</p>
<p>
こうした「十二支縁起」のプロセスを経て、人は誕生するが、誕生すれば、その潜在力に応じて、老・病・死を含めた、さまざまな苦しみを経験することになる。
</p>
<p>
そして、これらの苦しみの根本原因には「無智」がある、と説くのが、この「十二支縁起の法」であり、よって、「無智を取り除く修行」が、苦しみを取り除く根本となる。
</p>
<p>
<br />
<strong>23　大乗仏教の一元論</strong>
</p>
<p>
さて、大乗仏教が到達した縁起の法の究極の解釈について述べることにする。
</p>
<p>
まず、部派仏教までの縁起の法は、悟りの世界は、縁起の法の対象に含まれておらず、悟りは、「縁起の滅した世界」とされた。
</p>
<p>
すなわち、「悟った仏」と「煩悩にまみれた凡夫」、「仏陀の悟りの心である菩提心」と「凡夫の煩悩」、「悟りの境地・世界である涅槃」と「生死を繰り返す輪廻の世界」は、別のものであり、縁起によって成立していない（相互に依存しあって存在していない）としていた。
</p>
<p>
これは、ある意味では、善悪二元論の人間観・世界観である。すなわち、仏・菩提心・涅槃という浄（善）なる存在と、凡夫・煩悩・輪廻という不浄（悪）の２つに、この人間や世界が区別される、ということである。
</p>
<p>
ところが、大乗仏教に至って、悟りの世界も、空・無自性とする『般若経』の縁起観が広がった。そこでは、「悟り」も「迷い」も、固定的な実体、自性を持たないもの、とされたのである。
</p>
<p>
そして、「凡夫即仏」「煩悩即菩提」「生死即涅槃（しょうじそくねはん）」といった解釈が行われた。
</p>
<p>
これはどういう意味かというと、「凡夫」と「仏」、「煩悩」と「菩提心」、「生死・輪廻」と「涅槃」とは、互いに独立した、まったく別のものではなく、縁起の法に従って、相互につながった、本質的には一体のものである（不二、相即〈そうそく〉）という意味なのである。
</p>
<p>
こうして、大乗仏教は、それ以前の二元論的な人間観・世界観から、一元論的な人間観・世界観に変わっていったのである。
</p>
<p>
<br />
<strong>24　生死即涅槃（輪廻即涅槃）</strong>
</p>
<p>
「生死即涅槃」（ないし「輪廻即涅槃」）とは、悟った仏の智から見たならば、迷える衆生の生死の世界（輪廻の世界）そのものが、不生不滅の清浄な涅槃の境地であって、そこには、厭うべき生死もなく、求むべき涅槃もないといった意味になる。
</p>
<p>
先ほど述べたが、私たちの世界には、多くの生き物が存在して、その生き物それぞれに生と死があるように見える。
</p>
<p>
しかし、縁起の法の理解を深めるならば、前に述べたように、実際には、すべての生命存在は一体であって、「私」や「他の生き物」といった存在は、仮に設定された概念であり、実体のないものである。実際には、この世界において、どこまでが私で、どこからが私ではない、といった境界などはない。
</p>
<p>
また、同様に、生と死についても同様であり、生と死といった言葉による概念的・観念的な思考によって、生と死が別々のものとしてあるように錯覚している。実際には、その両者の明確な境界などない。
</p>
<p>
そして、人間の五感や思考ではなく、科学の目でこの世界を見るならば、それは、私や彼が生きたり死んだりしている世界ではなく、絶えず流動している壮大な原子・分子の集合体の世界と見える。
</p>
<p>
その中で、一部の分子が、一時的に寄り集まっては離散していく現象を仮に「私」と名付けているだけで、分子自体には生も死もなく、特定の「私」だけに属する分子などもなく、地球・宇宙をダイナミックに循環しているのである。
</p>
<p>
こうして、縁起の法を悟った智慧によって、この世界をありのままに見れば、そもそもが、生まれて死んでいく私や他者といったもの自体が、単に仮に設定された概念であって、この世界自体が、生も死もない涅槃の世界である、ということができる。
</p>
<p>
その意味で、涅槃とは、この世界を智慧によって正しく見た場合のことであり、逆に、輪廻とは、この世界を無智によって見た場合のことである、と表現することができる。
</p>
<p>
すなわち、輪廻も涅槃も、それを見る人の心の状態に依存して生起するものであって、見る人と無関係に、この世界が、輪廻であるとか、涅槃であるとか、ということは決まらないということである。これは、まさに縁起の法である。ここにおいて、輪廻即涅槃、涅槃即輪廻という教えが成立する。
</p>
<p>
そして、この教えに基づけば、この世には存在しない涅槃を求めて、輪廻から解放されること、すなわち再生しない状態を求めるのではなく、この世にあって、この世に執着せずに、利他の実践をなし、輪廻と涅槃は本質的には同一である、という大乗仏教の悟りを求める実践が出てくるのである。
</p>
<p>
<br />
<strong>25　煩悩即菩提</strong>
</p>
<p>
「煩悩即菩提」とは、煩悩と菩提心（仏陀の悟りの心）は、互いに独立したものではなく、煩悩がそのまま悟りの縁（原因・条件）となるということである。
</p>
<p>
この教えは、大乗仏教の思想であるが、釈迦牟尼が説いた教えの中で、これと結びつくものとしては、「苦あって信あり」という教えであろう。それは、人は苦しみを経験した結果として、解脱に導く仏法に対する信を持つというものだ。
</p>
<p>
そして、解脱に導く因が、苦しみであるならば、苦しみの因は、無明を根本とした煩悩であるから、解脱の源に煩悩があるということになるから、煩悩と菩提にはつながりがある、ということができる。
</p>
<p>
また、密教の教えにおいては、「大煩悩大解脱」というものがある。これは、煩悩が大きいほど、解脱を果たせば、その解脱も大きい、といった思想である。
</p>
<p>
これと類似する話が、仏教の守護神である聖歓喜天であり、かつては大悪業をなしていたところ、観音菩薩の教化の後には、大善業をなすようになったが、なぜ、大悪業をなしていた者が、大善業をなすようになったかという理由は、エネルギーが強いために、悪業をなすにも善業をなすにも、大きくなったとされている。
</p>
<p>
こうして、煩悩も菩提心も、人の心の働きをエネルギーであると見るならば、その本質は一つであるということができるだろう。
</p>
<p>
そして、これを実際に体得することができるのがクンダリニー・ヨーガとか、密教の究竟次第の瞑想（管・風・心滴のヨーガ）である。精神集中等によって、エネルギーをコントロールすることによって、性欲や怒りといった煩悩のエネルギーが昇華されて、菩提心になっていくのである。<br />
その意味もあって、密教では、煩悩を活用して、仏陀の境地、菩提心に近づいていくという修行があると思われる。
</p>
<p>
また、これを逆に言えば、菩提心の状態から、エネルギー状態が変化すれば、それが煩悩として生起することもある、ということになるだろう。
</p>
<p>
そして、これと同じように、悟った「仏陀」と煩悩にまみれた「凡夫」についても、互いが独立した別のものではない、ということができ、「凡夫即仏」が成立するのである。
</p>
<p>
<br />
<strong>26　凡夫即仏、煩悩即菩提の教えの重要性</strong>
</p>
<p>
私は、凡夫即仏、煩悩即菩提の教えの重要性は、宗教が陥りやすい傲慢、善悪二元論を防ぐ点にもあると思う。
</p>
<p>
煩悩即菩提、凡夫即仏とすることで、いかなる人・生き物にも、仏性（未来に仏陀に至る可能性）を認める思想が生まれてくる。これによって、すべての人々・生き物を尊重して愛する心を培うことができる。
</p>
<p>
そうではなく、煩悩と菩提心を完全に区別し、仏と凡夫を完全に区別すると、場合によっては、善悪二元論の世界観に陥るのではないかと思う。例えば、特定の人物を安直に絶対視して愛著・依存・盲信したり、逆に、煩悩が強いと思われる人を嫌悪・軽蔑したりである。
</p>
<p>
さらに、他の欠点に対する嫌悪が強い人は、自己嫌悪が強い傾向があり、自分の煩悩について、卑屈になりすぎて、その卑屈のために、浄化されない場合がある。そういった場合は、煩悩を絶対悪と考えず、菩提心の源・エネルギーであるから、それを昇華すればいいという柔らかい考えを身につけることで、よりよく浄化される場合が多い。
</p>
<p>
また、煩悩は菩提心の源として大切なものであると考えることで、性欲が生じたときも、それを安易に漏らさずに、怒りが生じたときも、安易に発散せずに、できるだけ昇華していく実践がしやすくなるのではないかと思う。
</p>
<p>
ただし、「凡夫と仏陀は同じだ」「煩悩と菩提心は同じだ」と考えて、仏陀の教えを実践しなくなれば、この教えの悪用である。この教えは、両者が同じである、というものではなく、両者にはつながりがある、といったほどの意味である。すべての法則は、良き目的を実現する手段として使わなければならない。
</p>
<p>
なお、凡夫と仏陀、煩悩と菩提心が、まったく別のものではなくて、凡夫が仏陀になり、煩悩が菩提心になる、とするならば、理論上は、仏陀が凡夫になり、菩提心が煩悩になる、ということもあり得る、ということになるが、この点について、違和感がある人もいるかもしれない。
</p>
<p>
この点については、仏教では、釈迦牟尼の死後、釈迦牟尼の神格化が行われ、人間存在を超えた永久不滅の釈迦牟尼や、釈迦牟尼を超えた大日如来などの神格が現れたため、一般に、仏陀・如来という言葉には、絶対者というイメージがあるかもしれない。
</p>
<p>
しかし、仏教辞典などによれば、仏陀という言葉は、そもそもは、目覚めた人（覚者）という意味で、当時のインドの宗教一般においては、優れた修行者・聖者に対する呼称であった。よって、絶対者を意味する言葉ではなかったと思う。
</p>
<p>
そして、実際には、釈迦牟尼も人間であって、彼自身が、信者が彼を拝むことを否定したし、また、一時期は自身の教団の分裂という問題も抱えた人である。さらに、伝統的な仏教の悟りの境地、すなわち、涅槃の教義においても、生きている間は、肉体の汚れ・制約の中にあるとして、それを有余涅槃と呼び、肉体を止滅させた（入滅した）状態での無余涅槃と区別している。
</p>
<p>
そして、ひかりの輪では、これまでの宗教的実践の教訓に基づいて、釈迦牟尼を含めて、特定の人を絶対者・神とはしない、という思想を原理原則としたのである。
</p>
<p>
これらを前提にして、「凡夫即仏」の教えを解釈すると、「どんなに仏陀の悟りの境地に近づいた修行者であっても、一面においては、凡夫と同じ煩悩を有しているのだから、慢心・油断を努めて避けて精進し続けよ」という戒めが出てくる。<br />
<br />
また、これを信者側から言うならば、自分の先生・師からは積極的に学びつつも、誰かを絶対視、絶対者として、過剰に依存することは避け、釈迦牟尼が説いたように、自己と法を帰依処とするべきである、という戒めが出てくる。
</p>
<p>
そして、これらの思想をまとめて、率直に表現すれば、人間とは、どんな人にも、良いところと悪いところがあり、すなわち、どんな人にも、仏陀と凡夫、菩提心と煩悩の両面があるのだから、誰かを絶対悪として全面否定したり、誰かを絶対善として過剰に依存したりせずに、すべての人々の存在を適切に尊重すべきである、ということになる。
</p>
<p>
<br />
<strong>27　大乗仏教の多様な縁起説</strong>
</p>
<p>
そして、大乗仏教の一つの特徴として「如来蔵（＝仏性）」の思想があるが、それに関連して、この世界は如来蔵が現れたものと説く「如来蔵縁起」がある。如来蔵のことを真如とも呼ぶので、「真如縁起」とも言う。
</p>
<p>
これは、ある意味で、宇宙の根本原理をブラフマンとして、それが展開したのが宇宙であり、個々人の本質であるアートマンとブラフマンは本質的に同じものである、と説く、インド哲学のヴェーダーンタと似ている面がある。
</p>
<p>
しかし、両者の異なる点は、ヴェーダーンタは、ブラフマンとアートマンに、永久不変の本質を認めるのに対して、如来蔵縁起では、あくまでも、その如来蔵に、永久不変の独立した実体を認めない点である。
</p>
<p>
また、華厳宗では、華厳経に基づいて、「法界縁起」(重々無尽縁起〈じゅうじゅうむじんえんぎ〉)が説かれる。これは、現象界が、そのまま真如であると説くものとされる。
</p>
<p>
そして、この中には、「一即一切・一切即一」という教えがあり、一部分がそのまま全体であり、全体がそのまま一部分である、といった意味である。これは、この世界のおのおのの現象が、限りなくかかわりあい、一体的であることを意味しているが、この世界観は、最新の科学理論と共通する点があり、物理学者などにも注目されている。
</p>
<p>
さらに、唯識派が説く「阿頼耶識縁起説（あらやしきえんぎせつ）」というものがあり、これは、人の意識の深層には、業が蓄積された「阿頼耶識」があって、この世は、その阿頼耶識が現れたものである、という考えである。
</p>
<p>
<br />
<strong>---------------------------------<br />
＜参考資料＞　分子生物学者の見解と仏教的な教えの共通点<br />
---------------------------------</strong>
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<p>
以下に、これまでに述べた仏教的な人間観と非常によく似ている、分子生物学者（福岡伸一 青山学院大学教授）の見解を紹介する。
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<p>
（田中裕二・太田光・福岡伸一『爆笑問題のニッポンの教養11 生物が生物である理由 分子生物学』講談社、2008）
</p>
<p>
<strong><br />
●生物の細胞を構成する分子が絶え間なく入れ替わっている</strong>
</p>
<p>
つまりネズミの体っていうのは、ミクロなプラモデルみたいに部品がカチッとしているものではなくて、絶え間なく合成と分解が入れ替わっていて、食べ物の分子がそのままネズミの体の一部になって、そしてネズミの体を構成していた分子はどんどん外へ抜けていく。まさに分子のレベルではグルグルグルグル、ネズミの中で回っているわけです。
</p>
<p>
そういうその非常にダイナミックな在り方が、ネズミの体の中で起きている。つまり生命というのは、常に動きながらも、バランスを取っている。そこでそういう状態を彼は「動的平衡」と呼んだわけです。私はそれが生命を解く上で、もう一度光を当てなければいけない大事な概念じゃないかと思うわけなんです。（p.49）
</p>
<p>
<strong><br />
●細胞が置き換わるだけでなく、細胞を構成する分子が置き換わる</strong>
</p>
<p>
もちろん細胞が死ねば新しい細胞が出来て、細胞の中身は入れ替わりますけれども、細胞が生きているままでも、細胞の中にある分子は、常に分解されて捨てられる。食べ物から来た分子がそこに置き換わっているんです。
</p>
<p>
だから生きている状態の中で、別に細胞１個１個が死んで、それが再生される必要はなくて、細胞は生きながらにして、中が入れ替わっているわけです。細胞が死ぬ以前に、細胞の中の分子が食べ物の分子と入れ替わっている。（p.55）
</p>
<p>
<br />
<strong>●１年もたつと、人間の体の分子はすっかり入れ替わる</strong>
</p>
<p>
（捨てられた分子は）一つは排泄されます。尿やふんになって排泄されます。それから、捨てられたものは燃やされて、エネルギーになった後、二酸化炭素や水になって捨てられます。だから、その１年もたつと、私たちの体っていうのは、もとあった原子や分子はすっかり入れ替わっているんです。（p.56）
</p>
<p>
<br />
<strong>●地球の中を循環する分子が、一瞬寄り集まるのが人間というもの</strong>
</p>
<p>
だから地球全体の元素の量っていうのは、実はほぼ一定で、それがグルグル回って、ある時には太田さん、ある時には田中さん、ある時にはミミズ。
</p>
<p>
（中略）それがガーッと流れているのが地球環境で、ある一瞬寄り集まって、太田さんを作っている、田中さんを作っているっていう状態が、生命現象なんですが、長い時間で見ると、それはグルグル回りながら、食べ物と交換されているし、一瞬そういう形を作っている。（p.58－59）
</p>
<p>
<br />
<strong>●人間は長い時間単位で見ると、ガスの集まりのようなもの</strong>
</p>
<p>
今、私たちは何か固体だと思っているけど、むしろそういう長い時間を取ってみると、ガスなんです。
</p>
<p>
ゆっくり緩やかに分子が集まっている状態で、分子を混ぜただけでは生命はできなくて、この要素がある一瞬入れ替わりながらも、ある一瞬を形作っている効果が生命っていうことなんです。（p.60）
</p>
<p>
<strong><br />
●「自分」とは、一瞬分子が集まったときに現れている特殊な効果</strong>
</p>
<p>
それもそうですよね。自己も、この体の分子が自己を支えているんじゃない。分子はものすごい速度で入れ替わっているし、その分子は元どこか持ち主が別にいて、それが入り込んで、自分の中でそういう図柄を支えているわけですよね。
</p>
<p>
そうすると、自分自身というのも、実は非常に動的平衡の中ではあやふやな存在で、たまたま分子が今この一瞬、微分的な一瞬が集まっている時に現れている特殊な効果が自己ですよね。（p.119）
</p>
<p>
<br />
<strong>●実際は、「私」は絶えず変化しているのに、「一人の同じ私がいる」と思う「自己同一性」とは、幻想みたいなもの</strong>
</p>
<p>
去年の私と今年の私は、同じ私のように見えても、分子のレベルではすっかり「お変わりありまくり」なわけですよね。
</p>
<p>
それでも自己同一性が保たれているっていうことは不思議なことですけれども、それは幻想みたいなものです。今そう思っている、そういう効果なわけですよね。（p.119）
</p>
<p>
<br />
<strong>●人間の脳には癖があり正確な認識ができない（受は苦なり）</strong>
</p>
<p>
そうなんですよね。っていうか、人間は実は脳の癖っていうのがあるわけですよ。例えば虹を見れば、七色に見える。あるいは五色に見える民族もいますよね。でも虹っていうのは、実は色が連続しているので、そんな切り分けられないし、線も何もついていないわけです。
</p>
<p>
あるいは何か天井を見たら、そこに顔の染みが見えるとか、常にいろいろな自然を加工して見てしまう癖があるわけです。
</p>
<p>
これはある意味で、遺伝子が私たちに強制している一定の枠組みですよね。で、ついそれを信じて、いろいろな行動が生まれてしまうわけですよ。
</p>
<p>
でもそこから自由にできることも生物は用意されているわけですよね。だから虹は実は七色じゃないと。連続しているスペクトルで、どこにも線がないっていうのは、やっぱり勉強しないと分からないことですよ。
</p>
<p>
虹が実は連続した線だということが分かれば、そこに新しい言葉、あるいは新しい詩が生まれるわけです。そのために実は学問というのはあるわけです。（p.110）
</p>
<p>
<br />
<strong>●人の記憶は物質レベルでは保存されていないあやふやなもの</strong>
</p>
<p>
（&rarr; 物質レベルでは、「自分」が一人の同じ人間であるという自己同一性・アイデンティティを支えるものはない）
</p>
<p>
もし記憶というのが物質レベルで脳の中に保存されているとすれば、ミクロな何かビデオテープみたいなものが脳の中にあるとすれば、それをいつも再生して、記憶が呼び出されているかっていうとそうじゃないわけです。
</p>
<p>
なぜかというと、人間の体の中の分子はすべて動的平衡のグルグル代謝回転の中にあるわけなんで、そういうものがたとえあったとしても、その分子はすごい速度で入れ替わっているわけですよね。そうすると、やっぱり記憶っていうのは物質レベルでは担保するものが何もないわけです。
</p>
<p>
なのに私たちは、記憶っていうのを何となく持っているように思いますよね。そこが大きな謎ですけれども、記憶がもうちょっと上のレベル、物質よりも上の細胞のレベル、あるいは細胞のつながりのレベルで保存されているとすれば、そのジグソーパズルのモデルっていうのがあるんですけれども。
</p>
<p>
ジグソーパズルってピース一つひとつを仮に古いピースを新しいピースに入れ替えても、絵柄としては全体としては変わらないでいることができますよね。そういうふうに、分子レベルで入れ替わっても、絵柄全体として、あるいは細胞と細胞の何か連絡網として記憶が保存されているという考え方もあります。
</p>
<p>
それから、もっとドラスチックな考え方は、記憶っていうのは別に分子でも細胞のレベルでも保存されてるんじゃなくて、すべてが今作られているものだと。今、あれを思い出すっていう思考が作り出している何か幻想みたいなものですよ。
</p>
<p>
だから、自分の記憶で、小さい頃の記憶で非常にビビッドに覚えている何か美しい記憶があったとしますよね。それは、その記憶がガチッと脳の中にあるんじゃなくて、実はその記憶は、その人にとって繰り返し繰り返し思い出しているペットのような記憶で、何回も思い出しているからビビッドなんです。<br />
<br />
それが今もまた再構成されているにすぎない、そういう考え方もできますよね。物質レベルで私たちのアイデンティティを支えているものは何もないわけです。（p.116）
</p>
<p>
<br />
<strong>●現実と夢との境界はない</strong>
</p>
<p>
現実も私たちの五感が、まあ作り出している効果ですよね。夢もまあそうです。だから本当にどっちがリアルなものか。どっちが大切なものかっていうのは、本当の意味で線引きはない。
</p>
<p>
だから生物学にこういう理論があって、実は私たちがあくせく働いているのは、夢を見るためだと。つまり夢が本当のもので、現実の部分は夢を支えるものだって言っている人もいるぐらいです。
</p>
<p>
だからそういう境界は何もないし、私たちの体の分子は常に振動しながら流れているので、それ故に私たちは外部に文明を作ったり、約束を作ったり、法律を作ったりして、何とか自己同一性っていうものを付託する、記憶させるものを作ってきたわけですよね。そういうふうに考えると、むなしくもあり、でも面白くもあるわけです。（p.125）
</p>
]]>
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>【仏教講義】２０１０年 夏期セミナー特別教本『三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜――２１世紀の宗教の革新』</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.joyus.jp/lecturetext/012010/00372010.html" />
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   <published>2011-03-10T13:12:22Z</published>
   <updated>2011-04-18T10:04:30Z</updated>
   
   <summary> 2010年夏に行われた夏期セミナーの特別教本です。 テーマは、『三仏の一元法則...</summary>
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         <category term="【動画あり】21世紀のための仏教講義" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.joyus.jp/lecturetext/">
      <![CDATA[<p>
<span style="font-size: small">2010年夏に行われた夏期セミナーの特別教本です。<br />
</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small">テーマは、『三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜--２１世紀の宗教の革新』です。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small">セミナーでは、各章ごとに、全６回の上祐史浩による教本解説の講義が行われ、すべてＵstreamでネット生中継されましたので、動画をご覧いただきながら、教本を読み進めていただくことができます。</span>
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>◎動画の内容(全６回)</strong></span>
</p>
<p>
<strong><span style="font-size: small">第１回講話 『釈迦牟尼の教え--苦楽表裏について』<br />
第2回講話  『観音様の教え--すべての人を愛すること』<br />
第3回講話  『弥勒菩薩の教え--自分と他人の区別を超え幸福になる<br />
第4回講話 『真の利他心・菩提心とは』<br />
第5回講話 『大乗仏教の幸福への智恵--六つの完成』<br />
第6回講話 『21世紀の宗教の革新、３つのポイント』</span></strong>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
&nbsp;<span style="font-size: small"><a href="http://www.joyus.jp/movie/00200911/00151620_2010_6.html">＞＞動画はこちらでご覧いただけます。</a></span>
</p>
<p>
<span style="color: #000000">&nbsp;</span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<span style="font-size: small"><strong>2010年夏季セミナー特別教本</strong></span><br />
<p>
<span style="font-size: small"><strong>『三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜--２１世紀の宗教の革新』</strong></span>
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
&nbsp;
&nbsp;
</p>
<p style="background-color: #ffffff">
&nbsp;
<img src="/mt/uploads_files/images/2011kyouzai/2010kaki.h.jpg" alt=" " width="150" height="214" align="left" />
<strong><span style="font-size: large; color: #000000">第一章　一元法則の理解を深める</span></strong>
</p>
<p>
&nbsp;
ここでは、従来から説かれている「三仏の一元法則」の理解をさらに深めることにする。なお、これまで説かれてきた一元法則の基礎は、特に『ひかりの輪 2010年ゴールデンウィークセミナー特別教本 一元の法則とその悟りの道程、金剛薩?の内省修行』にまとめられているから、ぜひ読んでいただきたい。ただし、本稿は、それを読んでいない人も、一定の理解ができるようには説明している。
</p>
&nbsp;
]]>
      <![CDATA[<strong><span style="font-size: medium">１　釈迦牟尼の一元法則--苦と楽の区別・二分化を超える</span></strong>
<p>
&nbsp;<span style="font-size: small"><br />
<strong>１．楽の裏に苦がある</strong></span>
</p>
<p>
苦と楽は、表裏一体である。楽の裏に苦があり、苦の裏に楽がある。まず、楽の裏に苦があるとは、例えば、快楽に貪りとらわれれば、その裏に、さまざまな苦しみが生じることである。
</p>
<p>
仏教では、自分や自分のものに対するさまざまなとらわれによって、四苦八苦と呼ばれる苦しみが生じると説く。四苦八苦の中にある最初の四苦とは、生・老・病・死の４つの苦しみである。釈迦牟尼が説いた「十二縁起の法」によれば、人は、意識と五感を通して、何かに愛著してとらわれる結果、この世に転生し、生・老・病・死の苦しみを経験するという。
</p>
<p>
これを言い換えれば、人は、自分自身やこの世の快楽に対して執着するほど、老い、病み、死ぬことが苦しみとなる。そして、最後の死の際には、一切を失うという苦しみを経験する。
</p>
<p>
また、次に、四苦八苦の他の４つの苦とは、貪りには際限がない中で、求めても得られない苦、愛著・執着するものを失う（と別れる）苦、奪い合う苦（敵対者と会う苦）など、さまざまなとらわれによる苦しみをいう。こうして、苦と楽が表裏であることを理解し、絶えず貪り求めることをやめて、足るを知ることが重要である。<br />
そして、そのためには、今すでに得ている幸福の大きさに気づいて、それを支えている万物に感謝することが重要である。
</p>
<p>
&nbsp;<br />
<span style="font-size: small"><strong>２．苦の裏に楽がある</strong></span>
</p>
<p>
次に、苦の裏に楽があるとは、上記と逆のプロセスである。例えば、苦しみの経験を経る中で、それに慣れてくるが、それは、とらわれが減少したことを示している。その結果、その人の苦しみの範囲が減り、喜びの範囲が増える。
</p>
<p>
一般にも、苦しみ・労苦は、その人の心身を鍛える、愛の鞭である、試練であるなどといわれる。そして、大乗仏教には、六つの完成の忍辱(にんにく)の修行のように、自己を批判する敵対者も、自分の修行を進める教師として、感謝する教えがある。
</p>
<p>
それだけでなく、苦しみの経験は、慈悲の心を深める可能性がある。それによって、同じ苦しみを持つ人の気持ちがわかり、自分がその苦しみを乗り越えれば、他者がその苦しみを取り除く手助けをすることもできる。そうなれば、その人は、慈悲による幸福を得ることができる。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>３．他に優位にある喜びと、他を愛することによる幸福の違い</strong></span>
</p>
<p>
ここで考えたいことは、喜び・幸福には２つのタイプがあることだ。一つは、現代の社会における一般的な喜びとは、他に勝つ、他に優位に立つことによって得る喜びであって、仏教的に見れば利己的な喜びである。お金持ちになる喜び、魅力的な異性を得る喜び、地位や名誉・権力を得る喜びは、皆が他との競争である。<br />
もう一つは、他を愛することによる幸福感、四無量心による幸福というものがある。四無量心とは、慈・悲・喜・捨という４つの計り知れない大きな心という意味である。慈とは、他に幸福・楽を与える心であり、悲とは、他の苦しみを悲しみ、それを取り除く心、喜とは他の幸福を喜ぶ心、捨とは、分け隔てなく平等に他を愛する心である。
</p>
<p>
そして、重要なことは、他に優位になって喜びを得ようとする視点からは、苦しみに感じられる事柄が、他を愛して幸福になるという視点からは、逆に、幸福の原因となるということである。例えば、先ほども述べたように、他に勝つことができないという苦しみは、同じような弱者の苦しみを理解し、それを手助けしたり、自分ではなく、他の能力を活かしたりするという力になる。
</p>
<p>
そして、他に優位に立つことによる幸福は、その裏にさまざまな苦しみをもたらし、それに加えて、いつかは失う無常なものである。これは、四苦八苦の教えと本質的に同じであり、勝てない苦しみ、さらに負けて失う苦しみ、敵対者を作る苦しみなどがある。そして、老い、病み、死ぬ中で、すべては苦しみに変わる。仮に人生の前半は勝ち組でも、後半は、死に神に負け、すべてを失う。その意味で、この、他に勝つことによる幸福は、尻すぼみの無常な幸福となる。
</p>
<p>
その一方、他を愛することによる幸福は、その心の修練を積み重ねるほど、成熟していく。老い病み、死ぬことで衰えることがない。自己に対するとらわれも薄まり、死の恐怖も超越する。さらに、心に培った徳性は、死後、来世においても継続するので、死によって失われることはない。その意味で、これは尻上がりの継続する幸福である。
</p>
<p>
よって、仏陀は、人生が無常であることをふまえ、さまざまな利己的な執着を放棄して、慈悲を培うように説いた。そして、その具体的な実践は、大乗仏教で六つの完成といわれる。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>４．苦しみに感謝すること</strong></span>
</p>
<p>
そして、先ほど述べたとおり、苦しみの経験は、その人の慈悲を深める可能性がある。詳しく言い直せば、利己的な視点における苦しみの裏に、他を愛する視点における喜びがある。この意味でも、やはり、苦しみの裏に喜びがある。
</p>
<p>
こうして、苦の裏には、とらわれの減少や、慈悲の心の増大による楽・喜びがあると理解することが重要である。そして、それに基づいて、今経験している苦しみや、苦しみを与える存在に対して、感謝することが重要である。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
５．万物に恩恵・恩人として感謝すること</strong></span>
</p>
<p>
以上をまとめると、<br />
① 楽の裏に苦があることを理解し、今すでに得ている幸福と、それを支える万物に感謝し、かつ、<br />
② 苦の裏に楽があることを理解し、苦しみと、それを与えるものに感謝することが重要である。
</p>
<p>
そして、この２つを合わせて実践すれば、最終的に、森羅万象・万物が、自分にとって恩恵となっており、万人が恩人であることに気づき、万物に感謝する境地が生まれてくる。わかりやすくいえば、自分の経験している「すべてがありがたい」と感じる境地である。
</p>
<p>
そして、このすべての衆生に対する感謝に基づいた恩返しの実践が、すべての衆生の苦しみを取り除き、彼らに幸福を与えようとする「大慈悲・四無量心」であり、それに基づく「発(ほつ)菩提(ぼだい)心(しん)」、すなわち、すべての衆生の済度のために、仏陀の境地に至ろうとする心である。
</p>
<p>
<strong><br />
《参考》釈迦牟尼が説いた法則--縁起の法</strong>
</p>
<p>
釈迦牟尼が説いた中核の教えである「縁起の法」とは、「此（これ）があるから、彼（あれ）があり、彼（あれ）があるから、此（これ）がある」というものである。これは、事物が相互に依存し合って存在していることをいう。そして、大乗仏教では、これをすべての事物に当てはめて、「万物は相互に依存し合って存在し（一体であり）、他から独立した固定した実体はない（空である）」とした。
</p>
<p>
そして、人は、この法理を悟っていない無智（＝無明）のために、無智に加えて、貪り・怒りの３つの根本煩悩（三毒）を有しており、そのために、さまざまな苦しみが生じる。例えば、先ほども述べたように、無智（無明）に基づく貪り・愛著によって、生・老・病・死の苦しみが生じるプロセスを説いたのが、「十二縁起の法」と呼ばれる教えである。
</p>
<p>
また、事物が相互に依存し合って存在し、固定した実体がないということは、言い換えると、無常であるということである。この世の万物は無常であり、人も必ず、老い、病み、死ぬものである。よって、それに執着しても、失われるものだから、苦しみを招く。これも重要な釈迦牟尼の教えである。
</p>
<p>
そして、この無明をわかりやすい言葉で表現すると、楽と苦、善と悪、自と他の区別・二分化などと表現できる。これを乗り越える教えが、ひかりの輪の説く三仏の一元法則である。そして、特に、楽と苦の区別・二分化を超える教えを、ひかりの輪では、釈迦牟尼の一元法則と呼んでいる。これは、上記のとおり、実際には、楽の裏に苦があり、苦の裏には楽があるという教えである。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<span style="font-size: medium"><strong>２　観音菩薩の一元法則--善と悪・優と劣の区別・二分化を超える</strong></span>
<p>
&nbsp;<span style="font-size: small"><strong>１．善と悪、優と劣はセットで、時と場合によって変化する</strong></span>
</p>
<p>
善と悪、優と劣は、実は表裏・一体である。そもそも、善とは、他と比較して良い、というものであり、何かを善とすれば、必ず何かが悪となる。全く同じように、何かを悪とすると、何かが善となる。こうして、善と悪は常にセットで存在している。
</p>
<p>
こうして、善悪は、比較の問題であるから、ある善があっても、より大きな善の中では、それは悪とみなされる。そして、ある悪があっても、より大きな悪の中では、それは相対的に善となる。こうして、善と悪は、時と場合によって変化する。すなわち、固定した実体のないものである。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><br />
<strong>２．善と悪、優と劣、短所と長所は、表裏であること</strong></span>
</p>
<p>
さらに、善の裏に悪、優の裏に劣がある。言い換えると、短所の裏に長所があり、長所の裏には短所がある。<br />
例えば、何かに優れている人は、それに劣っている人に比べて、同じく劣っている人の気持ちを理解したり、それを乗り越える手助けをしたりすることは難しい。また、自分が優れているがゆえに、逆に他を活かすということは難しくなる。<br />
言い換えるならば、他に勝つ上での優秀性と、他を愛する上での優秀性は、大きく違っている。先ほども述べたように、現代の社会における一般的な喜びは、他に勝つ、他に優位に立つことによって得る喜びであるが、これとは違って、他を愛することによる幸福感がある。<br />
そして、他に優位になって喜びを得ようとする視点からは優れている人が、他を愛して幸福になるという視点からは、逆に劣っている場合がある。そして、他に優位になる喜びは、その裏にさまざまな苦しみをもたらし、無常であるが、他を愛することによる幸福は、そうではないのである。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>３．人と人の違いは、それぞれの個性・役割の違いである</strong></span>
</p>
<p>
こうして、長所の裏に短所があり、短所の裏に長所があると考えるならば、人と人の間の違いは、善悪や優劣に単純に二分化できるものではなく、個性の違いであることがわかる。<br />
もう少し言えば、それぞれの、全体に対して果たすべき役割の違いである。そして、この世の万物は、その違いによって、お互いが補い合う形で助け合って、相互に依存し合って存在している。<br />
そして、短所の裏に長所があると理解して、努力によってそれを活かすならば、卑屈を乗り越えることができる。また、逆に、長所の裏に短所があると理解するならば、慢心によって落下することがなく、絶えず努力する謙虚さを培うことができる。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>４．悪人が、苦しみの経験を経て、善人になっていくこと</strong></span>
</p>
<p>
さらに、仏教の教えで貴重なものとして、悪人はいつまでも悪人ではなく、徐々に善人になっていくという人間観である。<br />
この人間観を具体的に説明すると、まず、人は、悪人だから悪をなすのではなく、幸福になりたいのに、幸福を得る真の道（＝利他）がわからないがゆえに悪をなす。しかし、悪を積み続けているうちに、悪は苦しみをもたらすから、苦しみが増大して、行き詰まる時が必ず来る。よって、ある時点で、自分の過ちに気づいて、真の幸福の道、すなわち、善の道に入っていくというものである。<br />
実際に、釈迦牟尼も、仏となる前の生には、カッサパ如来（釈迦牟尼以前の仏）を誹謗中傷したこともあったとされる。仏教では、如来の誹謗中傷は、最も大きな罪とされるが、その大罪をなした者が、後に仏になったのである。<br />
他にも、９９９人の人を殺した後に、釈迦牟尼に巡り会い、改心して悟りを得たというアングリマーラや、数十人の親族を呪殺した後に、師に巡り会い、大成就者となったというミラレパなどの聖者が有名である。他にも、仏教は、悪人・悪神が、仏陀・聖者・善神になったという話が多い。<br />
これは、罪を憎んで人を憎まずの精神でもある。人は悪をなすが、それは、その人が純粋に絶対的に悪人だからではなく、無智だからにすぎない。そして、その無智は、悪をなして苦しむ経験からの学習によって、徐々に解消されていくという考えである。<br />
その意味で、悪い行為とは、無智のために一時的に生じるもので、善に至る過渡的な試行錯誤である。それは、無智な者が、失敗から成功を得ていく過程のものである。この意味で、悪と善はつながっており、現在の悪は、未来に善に行き着く、苦しみを伴う準備過程とも解釈できる。<br />
よって、大乗仏教では、「すべての衆生は、未来に仏陀になる可能性＝仏性を有し、未来の仏であり、仏の胎児であり、仏の子であるがゆえに仏である」と説く。そして、「この宇宙全体が仏であり、その中で育まれているすべての衆生は、仏の子であって、母なる仏である宇宙が、その母胎の中で仏の子を育んでいる」と考える。これは、胎蔵界曼荼羅の思想と呼ばれる。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><br />
<strong>５．万物は平等な仏の現れ、という教え</strong></span>
</p>
<p>
次に、こうした教えを土台として、いよいよ、大乗仏教が説く究極的な教えである、「万物は平等な仏の現れ（ないし平等な仏性の顕現）」という教えについて考えてみよう。より詳しくいえば、大乗仏教は、「この世の万物は、根源仏（例えば大日如来）の現れであって、その中の万物は当然、平等な仏の一部であり、平等な仏の現れである」と考える。
</p>
<p>
これは、常識的な価値観では理解しがたいが、上記で学んだように、<br />
① 優劣は表裏一体で、人の違いは優劣ではなく、個性・役割の違いであり、<br />
② すべての衆生は、過ちの経験を経て悟り、未来に仏陀になる存在であるということを理解するならば、この教えも理解しやすいだろう。
</p>
<p>
そして、このそれぞれの異なる個性・役割は、すべて仏のさまざまな要素の一部であって、それらは皆、仏の現れである、と考えるのである。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>６．万物を平等な仏の現れ（仏性の顕現）として育む</strong></span>
</p>
<p>
以上の法則をよく理解するならば、結論として、優劣を設けずに、万物を平等な仏の現れ（仏性の顕現）として尊重して、それを育むべきである、という考え方が出てくる。<br />
そして、「仏の現れとして育む」とは、具体的には、すべての衆生の仏性を覚醒させる＝仏陀の境地に至る上でのお手伝いをする、ということである。そして、すべての衆生の仏性の覚醒を助けるために、自ら仏陀の境地に至らんと決意するのが、大乗仏教が説く「発菩提心」という心構えである。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><br />
<strong>７．大煩悩が大解脱をもたらす可能性</strong></span>
</p>
<p>
善と悪（優と劣）の区別・二分化を超える教えについて、もう少し深めておこう。まず、「大煩悩大解脱」といわれる教えについてである。これは、煩悩が大きい者が解脱したならば、その解脱も大きい、という考えである。<br />
その一つの例が、大悪業をなしていたガネーシャ神が、観音菩薩に教化されて、聖歓喜天に進化した後は、大善業をなすようになったといわれる話である。この話の中では、過去の悪業も今の善業も大きいのは、エネルギーが強いからだと説かれている。これは、ヨーガ・タントラの思想でいえば、煩悩も菩提心も、その源は生命エネルギーである。よって、煩悩が強い場合には、その煩悩が菩提心に昇華した後は、菩提心も強いという考えが成り立つのである。<br />
これは、チベットの大聖者であるミラレパにも当てはまるのではないかと思う。ミラレパは屈強な身体を持ち、師に巡り会う前は、数十人の親族を呪殺する悪業をなした。これは、強いエネルギーがあったからであろう。そして、その後、改心したミラレパは、修行に励み、大成就者となり、深い智慧と慈悲、そして、さまざまな神秘力を有した、チベットで最も敬愛される大聖者となった。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><br />
<strong>８．悟りの遅い者が得る、大きな慈悲の可能性--先駆者と普及者の役割分担</strong></span>
</p>
<p>
次に、煩悩が強く、そのため解脱が遅い者が、大きな慈悲を得る可能性についてである。論理的に考えれば、煩悩が強く、そのため解脱が遅いとしても、そういった者が、解脱を果たしたならば、その経験からして慈悲も深いと考えられる。<br />
なぜならば、自己の体験上、煩悩による苦しみや、煩悩から脱却する上での困難を深く経験しているために、自分のように煩悩が強い者に対する慈悲は深くなり、そういった者を助ける力も強いと考えられるからである。<br />
その一例であるかどうかは確かではないが、仏教が説く釈迦牟尼と弥勒菩薩では、釈迦牟尼の方がはるかに早く解脱する。弥勒菩薩は、釈迦牟尼に遅れること５６億７千万年後に解脱するといわれている。しかし、弥勒菩薩は、釈迦牟尼よりもはるかに多くの人々を悟りに導くとされている。<br />
こうして、釈迦牟尼は、弥勒菩薩の導き手・先駆者となる一方で、弥勒菩薩は、衆生済度において、釈迦牟尼の不足を補い、釈迦牟尼の仏教の教えを全人類に広める。実際に、弥勒菩薩は、釈迦牟尼を補完する仏と位置づけられる場合がある。<br />
こうして、先に解脱する者と後に解脱する者が、お互いに助け合って存在している。先に解脱する者は先駆者として、後に解脱する者の道筋を作る。後に解脱する者は、その道を太くして、多くの者が通れるようにし、その普及者となる。これは、どちらが優れているというのではなく、まさに役割分担であり、助け合いであろう。<br />
言い換えるならば、両者は、互いに独立した存在ではなくて、先に助けて後に助けられたり、先に助けられて後から助けたりする、といった相補的（相互依存）な関係にあり、両者が一つの大きな流れの中でつながっている。
</p>
<p>
<br />
<strong>《参考》観音菩薩の教え</strong>
</p>
<p>
ひかりの輪では、観音菩薩の法則として、その瞑想伝授教本である『観音菩薩の瞑想』の中の教えを重視している。それは、「すべての衆生は、悟りの境地から見れば、観音菩薩であり、この世界は、観音菩薩の本体である阿弥陀如来の極楽浄土である」というものである。<br />
未来に仏陀になる存在を菩薩というが、大乗仏教が説く、「すべての衆生は、仏性（未来に仏陀になる可能性）を有し、今は一時的に煩悩に曇らされているが、未来には仏性が覚醒し、未来に仏陀になる存在である」という思想に基づいて考えると、すべての衆生は菩薩であると考えることができる。<br />
そして、上記でも述べたが、大乗仏教では、「すべての衆生は、仏陀の胎児（＝如来蔵）である」と考え、人間の胎児が人間であるように、仏陀の胎児は本質的には仏陀自体にほかならず、「悟りの境地から見れば、すべての衆生は仏陀であり、仏陀・菩薩の集うこの世界は、仏陀の浄土（例えば阿弥陀如来の極楽浄土）である」と考えることができる。<br />
そして、観音菩薩は、同時に、慈悲の化身ともいわれる。これは、すべての衆生が、本質的には仏であり、仏性を有しながらも、それが未覚醒のために、今現在は大変苦しんでいる。これを深く悲しみ、それを取り除こうとする心（大慈悲）の象徴が観音菩薩とされているからである。
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<span style="font-size: medium"><strong>&nbsp;３　弥勒菩薩の一元法則--自と他の区別・二分化を超える</strong></span>
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<p>
<span style="font-size: small"><strong>１．自と他は、物理的に精神的に一体であり、循環していること</strong></span>
</p>
<p>
自と他は、よく考えれば、本質的に一体のものである。実際に、自己は他に支えられ、自己も他を支えており、独立して存在してはいない。自分というものは、その身体も思考も、他に支えられて、相互に依存し合って存在している。
</p>
<p>
例えば、人は、生きるためには、毎日他の生き物の犠牲である食べ物を取り、そのため、自分の体を構成する分子は、絶えず他の生き物のそれと入れ替わり続けている。こうして、地球の生命圏を循環している分子を、自分も他の生き物も共有している。
</p>
<p>
思考においても、自分だけで作った考えなどはなく、他から得た大量の情報の結果でできており、逆に、自分の言動も、絶えず他に影響を与え、他の思考に関わっている。こうして、自分と他人の思考は、互いに独立したものではなく、自分も他人も、社会全体を循環する膨大な情報・思考を共有している。
</p>
<p>
また、地球の生態系・食物連鎖の中では、自己の生が、他の生き物に支えられているだけではなく、自己の死も、他の生を支えることになる。科学者によれば、ある生き物が死ぬと、その体の有機物は、他の生命体にほとんど再利用されるという。
</p>
<p>
実際に、地球は生命が誕生して以来３６億年もの間、無数の生命を育んできたが、これが可能であったのは、無数の生命が死んだからである。死がなければ、新たな生命が生まれることはない。人が死ななかったならば、人口爆発によって、とうの昔に人類は滅びている。こうして、地球の生態系とは、生まれる者と死ぬ者のバランス、生と死の循環によって、成り立っている。こうして、自と他は、物心両面で、相互に依存し合って存在し、相互に循環し、一体不可分となっている。
</p>
<p>
なお、輪廻転生を信じる立場からは、自分の生と死の間にも循環が生じる。生まれた者は必ず死ぬが、死んだ者は新たな生を受ける。この自分の生と死も表裏であり、生と死が循環している。自分の今生の体を失った後は、他の体を得る。
</p>
<p>
こうして、自分が死んだ後、自分の体の分子は、無数の他の生き物などを構成するものとなる。また、自分の心は、他の体に転生していく。よって、自分の真の身体とは、この無限の宇宙全体に広がっているもの、と解釈できるだろう。
</p>
<p>
<br />
<span style="font-size: small"><strong>２．弥勒菩薩が説いた唯識思想における、自と他の区別を超える教え</strong></span>
</p>
<p>
ここでは、弥勒菩薩が説いた唯識と呼ばれる教えに基づいて、自と他の区別を超える教えをさらに深く広く理解してみよう。自と他の区別を超えるという視点から、特に重要な唯識の教えは以下のとおりである。
</p>
<p>
（１）三性の法則、特に、依他起(えたき)性(しょう)
</p>
<p>
これは、万物は他に依存して生起している、という教えであり、上で述べたことと一致する。
</p>
<p>
（２）主客同一、一人一宇宙
</p>
<p>
これは、外界の体験と呼ばれているものは、よく考えれば、実際には、外界の直接的な体験ではなく、自分の心の中の体験（脳の中のさまざまな情報処理の結果）である事実を重視した教えである。すなわち、他人とか外界といっても、それは、自分の心の中に現れた他人・外界にすぎず、あくまでも自分の中のものであるということである。
</p>
<p>
もう少し精密に説明すれば、五感や意識（六処）が違う生命体は、同じ場所にいても、体験する外界が大きく違う。その意味で、外界には、何か固定した実体のあるものが存在するのではなく、それは、外界をきっかけとしつつも、個々の生命体の五感と意識が作り出すものである。
</p>
<p>
そして、そこで感じる苦や楽も、外界をきっかけとしつつも、その主たる原因は、自分の中に内包されていた悪業（苦しみの原因）や善業（喜びの原因）が引き出されて生じるものである。実際、同じ場所・環境で、それを喜びと感じる人と、苦しみと感じる人がいる。これは、自分の心・業の現れである。これを言い換えれば、一人に一つの宇宙の体験があるということになる。
</p>
<p>
（３）阿頼耶識縁起
</p>
<p>
これは、世界の万物は、（すべての生命体が共有する）「阿頼耶(あらや)識(しき)」という根源的な意識が変化して現れたものであり、万物は阿頼耶識の変化したものとして、まさに同根であって一体である、といった教えである。
</p>
<p>
この思想は、心理学や科学に通じる面がある。例えば、ユング心理学では、すべての人々の意識は、多重構造をなしており、その最も深い部分に、通常は気づかない「集合的無意識」というものがあって、それは、すべての人々が共有している、自と他の区別を超えた意識であるとしている。これは、上記の阿頼耶識と非常によく似た概念なのである。
</p>
<p>
また、科学的な宇宙観でも、この世の万物は、ビッグ・バンから生じたもので、宇宙の創生期は、すべては一体であったとも解釈できる。さらに、量子力学では、万物は波動の性質を有しており、万物は波動レベルでは、宇宙全体に広がって重なり合い、一体として存在しているとも表現できる。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><br />
<strong>３．万物を一体と見て、愛すること</strong></span>
</p>
<p>
こうして、自と他の区別は、実際には存在しないことを理解して、万物が本質的には一体であると認識したならば、万物・すべての衆生を自己と区別せずに愛するという教え（四無量心）が出てくる。<br />
具体的には、他の苦しみは、他だけのものでなく、他とつながっている自分にとっても、その潜在的な苦しみ、過去や未来の苦しみを現していると考える。よって、他の苦しみを自己の苦しみと同じように悲しみ、それを取り除く心の働きを持つ。これを大悲という。
</p>
<p>
同じように、他の喜びは、他だけのものではなく、他とつながっている自分の喜びである。よく考えれば、自分の幸福は万物に支えられており、他の幸福は自分を支える力となる。また、他の幸福は、自分が他の良いところを見習うならば、自分の未来の幸福となるものである。よって、他に幸福を与える心を培う。これを大慈という。
</p>
<p>
よって、自と他を含めた万物を一体と見たならば、他の苦しみを取り除き、他に幸福を与えるという、大慈悲の実践をすることが、自分の苦しみを取り除き、幸福を高める道であることがわかる。これが、大乗仏教が説く、大慈悲、ないし四無量心の実践である。
</p>
<p>
なお、大慈悲ではなく、四無量心という場合には、慈と悲に加えて、喜と捨という心の働きが加わる。喜とは、他の幸福を喜ぶ心であり、捨とはわけ隔てなくすべてを平等に愛する心である。慈・悲・喜・捨の４つを合わせて四無量心という。
</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong><br />
<span style="font-size: small">４．弥勒菩薩の船頭の菩提心</span></strong></span>
</p>
<p>
上記の唯識の教えに加えて、弥勒菩薩には、「船頭の菩提心」という教えがある。菩提心とは、すべての衆生を救うために仏陀の境地に至らんとする心である。そして、船頭の菩提心とは、弥勒菩薩が、すべての衆生を乗せて、解脱という目的地に向かう救済の船の船頭である、という意味である。
</p>
<p>
そして、そのポイントは、弥勒菩薩は、すべての衆生を先導しながら、すべての衆生とともに、解脱を果たすという意味があることである。これは、まさに自と他の区別を超えた心構えであり、解脱においても、すべての衆生と自分を区別することなく、それを同時に達成するといった心である。
</p>
<p>
また、自と他の区別を超えた視点からは、先ほど述べたように、真の自己（の身体）は、無限の宇宙に広がっていると解釈できる。また、真の自己の家族は、すべての衆生であり、真の自己の家は、宇宙全体であるとも表現できる。そして、すべての衆生とともに解脱する救済の船の船頭である弥勒菩薩にとって、真の自己の教団は、無限の宇宙そのものにほかならないのであろう。
</p>
<p>
そして、これは、自と他のすべてを平等に愛し、無限の宇宙に広がる意識（宇宙意識）を得る教えである。これにふさわしく、弥勒菩薩の原語のマイトレーヤは、慈愛の教師という意味がある。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
５．悪人は自己の反面教師</strong></span>
</p>
<p>
さて、万物は一体であるとか、万物が同根であるという視点で考えるならば、悪業をなす人がいたとしても、それは、自己の反面教師である意味を持っている。ここで注意すべきことは、自分が「悪い」と認識する存在も、同じ地球・社会にいる以上は、自分と全く無関係なのではなく、どこかしら自分とつながった存在であるということである。
</p>
<p>
よく考えれば、悪とされるいかなる存在も、そのものだけで生まれてきて、そのものだけが原因となって、悪をなすことはないことがわかる。この世が、本質的には一体である以上、社会や宇宙といった全体が、それを生み出し、育む中で、悪をなすに至っている。
</p>
<p>
この事実から、自分が悪と認識しているものが、自分や社会全体の問題を投影している反面教師、ないしは自分の鏡であることに気づくことができる。そして、自分を含めた全体の努力がなくて、単純にある特定の存在を悪として批判・排除したとしても、同じ類の悪が生まれ続けるという問題があることにも気づくことができる。<br />
なお、誤解がないように述べておくが、悪とされるものを反面教師と見るということは、当然のことながら、悪行を肯定しているのではなく、まったくその逆である。当然のこととして、悪行を戒め、善行は推奨すべきである。
</p>
<p>
<br />
そして、悪を減らしていくためにも、すでに他がなしてしまった悪行は、それが全体との関係で生じたことをふまえ、反面教師として自分と全体の向上のために活かすことが、同じ類の悪行を減らしていくために重要である。<br />
さらに、この考えによって、善い人は見本として、悪い人は反面教師として、すべてを憎しみなく受け止めて、すべてを愛する土台ができる。この愛の心が、多くの悪い行為を防ぐことはいうまでもない。
</p>
<p>
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</p>
<p>
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</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>４ 三仏の一元法則のまとめ</strong></span>
</p>
<p>
では最後に、三仏の一元法則をまとめておこう。
</p>
<p>
<br />
（１）釈迦牟尼の法則--苦と楽は表裏・一体であり、万物は恩恵・恩人である
</p>
<p>
よって、万物に感謝し、恩返しをすること。
</p>
<p>
<br />
（２）観音菩薩の法則--善悪・優劣は表裏・一体であり、万物に優劣はなく、仏の平等な現れである
</p>
<p>
よって、万物を尊重し、仏として育むこと。※個々の違いは、相互に助け合う上での役割の違い。
</p>
<p>
<br />
（３）弥勒菩薩の法則--自と他は本質的に一体であり、万物は一体である
</p>
<p>
よって、万物の苦しみ・喜びを自己の苦しみ・喜びとし、大慈悲の実践をすること。
</p>
<p>
<br />
そして、現代の多くの人は、①苦楽が表裏であることがわからず、快楽を貪り、苦しみを厭い、②優劣には実体がないとわからず、卑屈・自己嫌悪や、慢心と軽蔑に陥り、③自と他が一体であると理解できず、怒り・妬み・卑屈などさまざまな苦しみを抱え、自と他の双方への嫌悪があって、自己も他者も双方を愛せないのである。
</p>
<p>
しかし、心が浄化されて、すべての存在が、自分にとって恩恵であり、等しく尊い価値・役割があって、さらには、すべてが一体であると理解できれば、自分と他人の双方を含めた、万物を愛することができるのである。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<strong><span style="font-size: medium"><br />
５　補足説明--苦楽・善悪・自他が、表裏で循環すること</span></strong>
</p>
<p>
ここでは、一元法則のより正確な理解のために、苦と楽、善と悪、自と他といったものが、表裏であって、かつ、循環していることについて、補足説明して整理しておこう。
</p>
<p>
<strong><span style="font-size: small"><br />
１．苦と楽の表裏・循環</span></strong>
</p>
<p>
苦と楽の表裏・循環については、これまでも説いてきたとおりである。快楽を貪れば、快楽にとらわれることで、求めても得られない苦しみや、得たものを失う苦しみや、奪い合いの苦しみなどを含め、四苦八苦と呼ばれる苦しみが生じる。逆に、苦しみの経験は、その結果、快楽へのとらわれが静まることで、とらわれによる苦しみが減って、楽が生じる。こうして、楽が苦に、苦が楽に循環している。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
２．善と悪、優と劣の表裏・循環</strong></span>
</p>
<p>
前に述べたように、一面的な視点からは、善・優であるものが、別の視点からは、悪・劣となる。言い換えるならば、短所の裏に長所があり、長所の裏に短所がある。こうして、善悪・優劣は表裏である。
</p>
<p>
そして、これに基づいて、悪・劣が善・優に、善・優が悪・劣に循環する現象がある。例えば、悪・劣とされた者は、上記のように、①同じ苦しみを持つ者の気持ちを理解したり、②努力して苦しみを乗り越えて、同じ苦しみを持つ者を手助けしたり、③自分にこだわらずに、他を活かすことで、成長する可能性がある。
</p>
<p>
その一方で、善・優とされる者は、①そうではない者の苦しみを理解できず、②彼らを手助けすることができず、③自分の力に頼って、他を活かすことができない場合がある。これを言い換えると、他に冷淡であったり、ワンマン的になって、慢心によって落下したりするというケースである。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong>３．自と他の表裏・循環</strong></span>
</p>
<p>
そもそも、無思考の状態では、自と他の区別は存在しない。自と他を区別して認識する意識が存在しない。それが、人が思考を始めると、その思考の中で、自と他の区別をして、自己という概念を認識すると、それと同時に、他という概念も生じる。同じように、逆に、他という概念を認識すると同時に、自己という概念も生じる。こうして、自と他という概念・認識は、表裏一体である。
</p>
<p>
また、前に述べたように、人は、自分の身体も思考も、他の身体と思考に支えられて存在しており、身体を構成する分子も、思考に影響を与える情報も、自分と他人の間を絶えず循環している。さらに、自己の生は、他者の死によって支えられ、また、逆に、自己の死は、他の生を支えることになり、他者が自己になり、自己は他者になり、互いが互いに循環している。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
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</p>
<p>
<span style="font-size: medium"><strong>６　三仏の一元法則が一体であることの理解</strong></span>
</p>
<p>
ここでは、楽と苦、善と悪（優と劣）、自と他の区別・二分化を超える、という三つの一元法則が、実際には、互いに表裏をなしており、密接不可分の関係があることを説明する。これは、そもそも、三仏の一元法則というものが、それぞれ別々のものではなく、一つの根本的な道理を三つの切り口で見た、表現の違いであるからと説明することもできる。では、一部は、これまでの繰り返しになる部分があるが、この点を説明しよう。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
１．何が苦で、何が楽かは、自と他を区別する視点と、区別しない視点では、正反対になる</strong></span>
</p>
<p>
何が楽であり、何が苦であるかは、自と他を区別する視点と、自と他を区別しない視点では、正反対であるほど、大きく違ってくる。これは、苦と楽の区別を超える法則が、自と他の区別を超える法則と、表裏の関係にあることを示している。
</p>
<p>
まず、ここで、自と他を区別する視点とは何かというと、自と他を区別して、自己に愛著する、自己を偏愛する視点であり、仏教教義から見れば、利己的な視点である。これは、自分が他に勝って、他より優位に立つことで、幸福になるという考えである。この場合は、幸福は自分と他人の間で奪い合うものである、という考えになる。競争主義の現代社会では、これが一般的な幸福であり、幸福観である。
</p>
<p>
一方、ここで、自と他を区別しない視点とは、自と他を平等に愛する視点である。これは他に勝つのではなく、他を幸福にすることで、幸福になろうという考えである。この場合は、幸福は奪い合うものではなく、自と他の幸福は同時に強まるという考えである。
</p>
<p>
これは、仏教教義では、四無量心といわれている。四無量心とは、慈・悲・喜・捨の４つの心であり、具体的には、①すべての他者を慈しむ心（慈）、②すべての他者の苦しみを悲しみ、それを取り除く心（悲）、③すべての他者の幸福を喜ぶ心（喜）、④すべての他者をわけ隔てなく愛する心（捨）である。
</p>
<p>
さて、自と他を区別した利己的な視点において幸福とされるものは（現代の社会では、これが一般的に幸福といわれる場合が多いが）、自分の幸福の裏には、他の不幸があるということになる。
</p>
<p>
例えば、お金持ちになる、魅力的な異性を得る、おいしいものを食べる、名誉・地位・権力を得るといった幸福の裏には、他の苦しみがある。お金持ちとは、一般の平均よりお金を持っていることであり、自分が他人より多く持つということは、他人はその逆になるということである。
</p>
<p>
魅力的な異性も、実際には同性の間での奪い合いの対象であり、おいしい食べ物は他の生き物の犠牲によるものである。地位や名誉・権力は、ごく一部の人が得てこそ、意味を持つもので、その意味でやはり競争の対象である。
</p>
<p>
よって、自と他を区別せずに、他を幸福にすることで、幸福になろうとする四無量心の視点から見るならば、こういった利己的な（一般的な）幸福を得るということは、本当の幸福ではなくて、逆に苦しみとなる（おそれがあるものである）。
</p>
<p>
例えば、他との幸福の奪い合いに勝つということは、その裏側で、他の苦しみに対して冷淡になり、他の苦しみを取り除く力が弱り、また、他の幸福を喜んで、他と幸福を分かち合い、他を活かすという力が弱るということである。すなわち、四無量心による幸福を得る力は弱るということになる。
</p>
<p>
その逆に、自と他の区別をする利己的な（一般的な）視点から、苦しみと感じられるものは、自と他の区別をしない四無量心の視点からは、幸福・楽になる可能性がある。
</p>
<p>
例えば、自分が他と比較して、いろいろ恵まれなかったり、他との競争に負けたりするといった苦しみを経験するならば、同じ苦しみを持つ他の気持ちを理解する力が生じる。また、その苦を取り除く手伝いをする力を培うことができる。そして、自分がある能力において、他人より劣っている場合の方が、自分が優れている場合よりも、他の能力を活かす力を培いやすい場合がある。
</p>
<p>
この典型的な例が、昭和の著名な実業家である松下幸之助氏であり、彼は、学がなかったから、他から謙虚に学び、体が弱かったから他人に頼むことを覚え、お金がなかったから丁稚奉公に行って商人の才を得たという。こうして、彼の場合は、自分の（他と比較して）乏しい学門・体力・財力が、他人の学門・体力・財力を活かす力へと変わり、大勢の人々の力を活かし、大きな企業の成功へとつなげたのである。
</p>
<p>
最後に、死のとらえ方も、自と他の区別をする視点と区別しない視点では大きく違う。自と他を区別する利己的な（一般的な）視点からは、最大の苦しみの一つとなるものが、自分の死である。しかし、これを自と他を区別しない四無量心の視点から見るならば、自分が死ぬことは、他の生を支えるものである、という全く別の見方が出てくる。
</p>
<p>
地球は生命が誕生して以来３６億年もの間、無数の生命を育んできたが、これは無数の生命が死んだからであり、死がなければ、新たな生命が生まれることはできない。人が死ななかったならば、人口爆発によって、とうの昔に人類は滅びている。地球の生態系は、生まれる者と死ぬ者のバランスで、成り立っているのである。
</p>
<p>
そして、私たちは、他の生き物の生命を犠牲にして、日々の糧を得て生きており、いわば、他の生き物の身体の供養を受けている。よって、自と他を区別せず、平等に愛する視点からは、日々自分が生きる上で、その犠牲となっている他の生き物に感謝するように努め、そして、自分が天寿を全うする時が来たならば、これまでの恩返しとして、他の生き物に自分の身体を捧げる（返す）つもりで、死んでいくという考えが出てくるだろう。
</p>
<p>
これは、死に対する嫌悪・恐怖を乗り越える考え方である。これは、決して自分の命を粗末にするという意味ではなく、天寿を全うして死ぬことを恐怖せずに、それを恩返しと位置づけて、喜びに変えるものである。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
２．何が楽で何が苦かは、善と悪、優と劣を区別する視点と区別しない視点でも正反対になる</strong></span>
</p>
<p>
何が楽であり、何が苦であるかは、善と悪（優と劣）を区別する視点と区別しない視点の間でも、正反対になる。これは、苦と楽の区別を超える法則が、善と悪（優と劣）の区別を超える法則と、表裏の関係にあることを示している。
</p>
<p>
第一に、善と悪・優と劣の区別をする視点から見て、一時的に楽と感じられるものは、善と悪の区別をしない視点から見れば、一時的には楽であっても、長期的には楽ではなく、苦の因となり得るものである。<br />
例えば、優れているとされる人は、劣っている人の苦しみを理解したり、手助けをしたりする力は弱くなる。また、自分が優れていると、他人の力を活かす力は培えない場合もある。そして、劣っているとされる人に対して冷淡で、自分の力を過信するワンマン的なタイプになるおそれがある。
</p>
<p>
何でも自分の力でできると思い込み、いかなる成功や達成も、他の支えがあってこそ得られる、ということがわからず、謙虚な心や感謝の心が薄くなり、他を活かし、助け合ってこそ、自分も幸福になるということがわからない。これは、本質的に無智な状態である。
</p>
<p>
第二に、これとは逆に、善と悪・優と劣の区別をする視点からは、一時的に苦と感じられるものは、善と悪の区別をしない視点からは、長期的には苦ではなく、楽の因となる可能性がある。<br />
例えば、劣っているとされる者は、同じ苦しみを持つ者の気持ちを理解し、その手助けをしたり、また、自分にこだわらずに、他を活かしたりすることで、成長していく可能性がある。
</p>
<p>
昔からよく、苦労は買ってでもしろ、といわれるように、最初から優れていて、楽に幸福になることが、長期的には、逆に、不幸を招く可能性がある。美人薄命というのも、美人であれば、人格的な努力をせずに、幸福になれてしまうことが、長期的に不幸をもたらすことを意味しているのであろう。
</p>
<p>
よって、そうならないように、かわいい子には旅をさせよ、ということになる。逆に、さまざまな欠点・不遇があっても、人間万事塞翁が馬というように、それが幸福をもたらす可能性がある。
</p>
<p>
<span style="font-size: small"><strong><br />
３．自と他の区別は、楽と苦の区別や善と悪（優と劣）の区別によって生じる</strong></span>
</p>
<p>
自と他の区別をする意識の土台には、楽と苦の区別をする意識がある。しかし、仏教の法則は、楽と苦の区別はなく、苦楽は表裏であると説く。すなわち、善行を積む努力＝労苦によって、真に幸福になり、煩悩による一時的な快楽は、不幸をもたらすと説く。
</p>
<p>
しかし、人は、多くの場合、楽して幸福になりたいと考える。これは、楽と苦を区別する法則で、努力・労苦なくして幸福になりたいという意識である。そして、この楽と苦を区別する意識によって、自と他を区別する意識にも陥ることになる。
</p>
<p>
この典型的なパターンが、自分の悪い部分があっても、それを直視して、乗り越える努力を回避し、そうではなく、それを忘却しようとする場合である。この場合、他人に、自分と同じ悪い部分を見ても、それが自分の投影とは理解できずに、怒りが生じることになる。
</p>
<p>
また、他人の幸福や良い部分を見たときに、それに嫉妬がわくのも同じである。人は、それぞれの個性・役割を与えられており、努力をするならば、自分の個性・役割を活かして、幸福になることができる。しかし、努力を厭う人は、個々人に幸福になる道があるとはわからない。そのため、他人の幸福を見ても、それが自分の幸福とはつながらず、嫉妬という形で、自と他の区別が生じるのである。
</p>
<p>
また、この自と他を区別する心の原因として、努力を嫌がる心に加えて、もう一つあるのが、善と悪・優と劣を区別する意識である。<br />
自分の悪い部分を見ることは辛いことだが、善と悪を区別せずに、悪の裏に善があると理解できれば、その辛さがやわらぐ。自分の短所や失敗に関して、それを長所や成功の元として前向きにとらえ直すことができる。
</p>
<p>
逆に、それを理解できなければ、悪い部分は単に悪い部分でしかないから、それを直視することは、より難しくなる。こうして、善と悪の区別をしなければ、悪の裏に善があると理解できて、自分を善としたいがために、自分の暗部を見ずに、自と他を区別してしまう問題はやわらぐ。
</p>
<p>
&nbsp;
</p>
<p>
<span style="font-size: large">&nbsp;</span>
</p>
<span style="font-size: large"><strong>第二章　発菩提心と六波羅蜜（六つの完成）</strong></span>
<p>
&nbsp;
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&nbsp;
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ここでは、大乗仏教の最も重要な実践課題である発菩提心と六つの完成について述べたいと思う。これは、大乗仏教が目指す仏陀の境地、智慧と慈悲を獲得するためのものである。
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<strong><span style="font-size: medium">１　六つの完成とは何か</span></strong>
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六波羅蜜は、六つの完成という意味である。仏教の伝統では、大乗仏教で、すべての衆生の済度のために、仏陀の境地に至ろうと決意し（発菩提心）、菩薩の道を歩む者がなすべき実践項目である。具体的には、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの修行を完成させていくことである。
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六つの完成の修行の恩恵は、煩悩を鎮め、現象・事物をありのままに理解する力＝智慧を増大させ、すべてを愛する大慈悲・四無量心を増大させるものである。これを仏教の専門用語で言い換えると、六つの完成とは、仏陀の境地に至る条件とされる「智慧」と「方便」を形成することである。智慧とは、縁起・空といった法則の悟りであり、方便とは、利他・功徳を積む手段のことである。
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そして、六つの完成でいえば、先に述べた、布施から禅定までが、普通は方便とされて、最後が智慧となる。この智慧と方便は、お互いを助け合って増大していき、智慧と方便が一体として体得された境地を仏陀の境地という。ただし、智慧の修行という場合、縁起・空をはじめとする法理を教学・思索して修習＝瞑想する修行、すなわち思考上の修行をいい、方便の修行といえば、実際の行為によって徳を積む修行をいう場合もある。
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<span style="font-size: medium"><strong>２　六つの完成の前行</strong></span>
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六つの完成を実践する前に、チベット仏教などでは、次の修行を行なう。これは、六つの完成の土台となり、非常に重要である。六つの完成とは、衆生済度を目指す菩薩の実践であるが、この前行は、それが、独りよがりで高慢な「済度もどき」にならないように、その健全な土台を作る。
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<span style="font-size: small"><strong>１．平等心の瞑想</strong></span>
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これは、人間関係は無常であり、輪廻転生の中で、味方が敵に、敵が味方に変わってきたということを考え、すべての人々・生き物を平等に見る瞑想である。
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<span style="font-size: small"><strong>２．因果の七つの秘訣の瞑想</strong></span>
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これは、以下の七つの瞑想である。
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① すべての衆生は、無数の過去世のいずれかにおいては、自分の母などであったこと<br />
があり、または、敵対者として自分が法則に向かう動機を与えてくれた存在となっ<br />
ており、<br />
② こうして、すべての衆生に多大な恩を受けたと考え、<br />
③ すべての衆生の恩に報いる（恩返しをする）心を培い、<br />
④ すべての衆生を（恩人とみなして）愛し、<br />
⑤ その恩人たる衆生の現在の苦しみを悲しみ、<br />
⑥ 自分がその苦しみを引き受ける決意をし、<br />
⑦ その救済のために、自分が仏陀の境地に至ろうとする心<br />
＝菩提心を起こす（発菩提心）
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なお、この修行の前に、上記の平等心の瞑想によって、すべての衆生を平等に見る心を培い、この瞑想と合わせて、すべての衆生を平等に恩人と見るように努める。
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<span style="font-size: small"><strong><br />
３．自他平等利他行の瞑想</strong></span>
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これは、人が通常は、自と他を区別し自分だけを愛する傾向があることに対して、①自己だけを愛する不利益と、②他を利する利益をよく考え、③自分の幸福のすべてを他に与え（大慈）、④すべての他の苦しみを自分が引き受ける（大悲）ことができるようになる祈願をするものである。
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ここで、自と他は、別々の存在のようで、実際には密接不可分であることを考え、他の幸福は自己の幸福につながり、他の苦しみも自己の苦しみにつながり、自と他の幸福と不幸が、本質的には一体であることを修習するとよいだろう。
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なお、この点の参考教材としては、『ひかりの輪の密教儀式（密教加行の儀式次第・増補改訂版）』の中の発菩提心の瞑想や、特別教本の『仏教講義・悟りの道程２　悟りへの道と大乗の教え』などがあるので参照されたい。
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<span style="font-size: small"><strong>４．三仏の一元法則が大慈悲・発菩提心を支える</strong></span>
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以上が、伝統仏教における六つの完成の前行である。しかし、ひかりの輪においては、三仏の一元法則の修習が、この前行と同じ効果（ないしそれ以上）を持つと考えている。この法則と、六つの完成の前提である大慈悲・発菩提心が、以下のように深い関係があるからである。
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第一に、釈迦牟尼の法則は、楽と苦の区別・二分化を超える教えであるが、それは、楽の裏に苦があり、苦の裏に楽があるという意味である、よって、その結果は、①快楽を貪らずに、足るを知り、与えられたものに感謝し、②苦しみを喜びととらえ直して感謝するという実践に結びつく。
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そして、これは、万物に感謝する教えである。与えられている幸福に感謝し、かつ苦しみに感謝するならば、万物・森羅万象に感謝することになる。なお、釈迦牟尼の法則とは別に、前回の特別セミナーの教本の中に、「感謝の法則」として、①知足の感謝、②転換の感謝、③万物の感謝の三つの感謝を説いたことを思い出されたい。これと同じことである。
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そして、万物に感謝することが、発菩提心の前提として、すべての衆生を恩人として感謝すること（因果の七つの秘訣の第二）と結びつく。すべての衆生をかつての母親などの親族・友人として、また、かつての敵対者として感謝するのである。
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母親などに感謝するには、彼らに与えられた幸福の大きさを考え感謝すること（足るを知る感謝）がポイントである。内観の実践などは、この具体的な実践である。足るを知らず、貪りが多く、常に自分と他人（自分の親と他人の親）を比較するなどして不満の多い人は、親にも感謝が少ない。
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また、敵対者に感謝するためには、苦しみを喜びととらえ直すことが必要であることはいうまでもない。敵対者の与える苦しみは、私たちが真理に向かう動機となり、心身を引き締め強くし、自我執着を放棄するといった実践を促す愛の鞭となり、六つの完成の中の重要な実践である忍辱の実践において、必要不可欠なものである。こうして、敵対者は、日常生活において、神仏の与える、悟りの試練ということもできるだろう。
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第二に、観音菩薩の法則は、善と悪（優と劣）の二分化・区別を超えて、すべての衆生・万物を仏の平等な現れとして尊重する教えである。これは、すべての衆生は平等に仏性があって、未来の仏陀である、という理解である。
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そして、発菩提心の教えでは、①すべての衆生に仏性を認めつつも、②その仏性がいまだ覚醒していないために、すべての衆生が苦しんでいることを悲しみ、③ 彼らを救うために、その仏性を覚醒させるしかないが、その手伝いをするためには、まず、自分が仏性を覚醒させること＝仏陀の境地を得る以外にはないと理解し、④仏陀の境地を求める心＝菩提心をおこすのである（発菩提心）。
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よって、すべての衆生が仏性を有し、未来の仏陀であるという理解がなければ、すべての衆生を救うために、まず自らの仏性を覚醒させる（仏陀の境地に至ろうとする）決意をする意味はまったくない。
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また、衆生済度は、表現を変えると、すべての衆生の仏性の覚醒のための奉仕である。それは、宇宙が仏の現れであり、その中のすべての衆生は、母なる仏に育まれている仏の胎児であり、私たちは、母なる仏とともに、仏の胎児が一人前の仏に成長するように、奉仕するのである。
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これは、仏の胎児が仏になるための奉仕であるから、哀れみとか衆生済度といった言葉を使っていても、その対象を見下しているのではなく、奉仕の対象に対して、最大限の尊重を持った考え方であることに注意する必要がある。
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第三に、弥勒菩薩の法則は、自と他の区別・二分化を超えて、万物を一体と見る教えである。これと発菩提心の教えとの関係は、因果の七つの教えの第六や、自他平等利他行の教えに出てくる、他の苦し
