●付記:オウムのシャクティパットとの大きな違い
最後に、誤解がないように説明しておきますが、このエンパワーメントは、オウム真理教などにおけるシャクティパットとは、その思想や実践形態、手法において、全く異なるものです。この点について特に気になる方は、多少宗教的に専門的で、難解な部分もありますが、この先を読んでいただければと思います。
二つを比較する前に、まず、オウムでのシャクティパットがどのようなものであったかについて、説明しておきましょう。
①グルないしグルの高弟(=イニシエーター)が、グルを含めた神々、仏陀、聖者を観想して、そのエネルギーを自分に受けた上で、
②そのエネルギーが、信徒である受講者に(触れているイニシエーターの右手を通して)入り、
③その結果、受講者が仏陀の弟子、グルの息子・娘になる、
などと観想するものでした。
一方、ひかりの輪における、弥勒金剛法具エンパワーメントは、
①修行上の先達(=先輩の修行者)が、その両手に、密教法具の金剛杵(ヴァジラ)を持ち、それを修行上の後輩(=信徒・会員の方々)にあてた形で、エンパワーメントを行ない、
②特定の人を絶対・完全と考えないひかりの輪の思想・視点に基づき、オウムのシャクティパットとは違って、先達のエネルギーが後輩に入るとか、先達をとおして神仏のエネルギーが後輩に入る、と考えず、
③仏教において伝統的に仏陀の智慧・仏陀の悟りの心の象徴とされてきた金剛杵を通して、仏陀の智慧と慈悲の心・エネルギーが入ると観想してます。
ここで「仏陀の慈悲の心・エネルギーが入ると考えます」と書きましたが、それは、今現在の段階において、後輩修行者の行なうことであって、先達修行者の場合は、同じように考える場合もあれば、より高度な実践として、自と他を区別をしない慈悲の意識を保つ瞑想を行う場合もあります。
さらに、
④オウムでは、グルやグルの高弟が、信徒に一方的にエネルギーを入れるとしたのに対して、この新しいエンパワーメントにおいては、後輩修行者が、自分で神聖なエネルギーが入ってくる、と観想して、それを先達修行者の瞑想が助力するものであると考えます。
これは、英語で言えば、コラボレーティブ・エンパワーメント(共同作業によるエンパワーメント)とも呼べるものですが、これは、オウム真理教とひかりの輪の教義における重要な違いになります。
オウムの教義・実践は、最初はそうではなかったのですが、後半においては、弟子・信徒は、自分を否定して、空っぽになり、グルのイニシエーションのデータを受け、グルのクローンになる、ということを目指した面(少なくともそういう印象を弟子・信徒に与える働きかけ)がありました。
ひかりの輪においては、すべての人が、自己の中に仏性を有している、という大乗仏教の思想に基づいて、エンパワーメントにおいても、先達が行うことは、後輩修行者自身の仏性を引き出すお手伝いであり、その呼び水を与えることであって、後輩修行者の仏性の替わりになるものではない、と位置づけています。
なお、この考え方は、正統なチベット密教の考え方と似ている、と思われます。例えば、中沢新一氏などが、チベット密教と旧団体オウム真理教のイニシエーションの本質的な違いとして、これと同じことを指摘しています(参考文献:オウム真理教の深層、中沢新一等監修)
こうして、オウムとは違った、新しい思想や形態を持つ弥勒金剛法具エンパワーメントですが、これは、旧団体の問題点を解決できるように、工夫されたものであると言うことが出来ます。
オウムのシャクティパットにおいては、イニシエーターが、グルを神、仏として観想し、そのグルを含めた神仏からエネルギーが注がれると考えます。さらに、グル以外にも、イニシエーターとなるグルの高弟は、自分が神仏のエネルギーの通り道である、といった考えを持つことになり易いと思います。
こういった考え方は、それから派生して、(オウムの事件の原因となった)自己や自己の宗派を絶対視する傲慢な思考が芽生えてしまう可能性があると思われます。
ひかりの輪のエンパワーメントは、こういった傲慢な意識の発生を防ぐために、
①人ではなく、密教の法具を神聖なエネルギーの発生点と位置づけており、さらには、
②グルや高弟などが、信徒に一方的にエネルギーを入れると考えるのではなくて、先輩修行者が後輩修行と協力・助力して、神仏からの神聖なエネルギーが後輩に入る、
と考える仕組みになっています。
そして、傲慢な意識が生じる場合、そのデメリットは、危険な思想にはまり込んでしまうだけでなくて、それだけでなく、
①実際に移入される霊的なエネルギーの質が悪化する、
②それを行う人の身体に悪影響がある、
という問題もある、と考えています。
多少難しい話しになりますが、仏教では、「自分」とか、「自分の体」といった、すべての事物は、本質的に空であり、他から独立した永久不変の実体がない、と説きます。こうして、人が執着しがちである「自分」というものに対する執着(自我執着、自我意識)を弱めることが、悟りへの道であるとされています。
よって、イニシエーターにおいて、「自分が神・仏である」とか、「自分がイニシエーションを行っている」とか、「自分が他を救済している」という思考が生じる場合は、仏教的に言えば、自我意識の汚れが生じている恐れがあり、悟りに近づく神聖なエネルギーを移入することは難しくなると言うことが出来ます。
さらに、専門的な話しになりますが、自我意識があると、イニシエーターが、救済の対象とする他人のマイナスのエネルギー(オウムでは、信徒の悪いカルマとか、悪いエネルギーと呼ぶ)を受けて、心身を痛める可能性が高くなると考えられます。
これは、自分の体験でもそうですが、チベット密教の瞑想指導者の中にも、自我意識があると、マイナスのエネルギーを受けるという見解を持っている方がいることが分かりました(参考文献:「マンダラ観想法」ツルティムケサン等著)。
実際に、旧団体では、麻原元教祖が、大量のシャクティーパットによって体を痛めた、という話がよく出ました。
また、最近のスピリチュアルブームの中で、他人に自分の気・エネルギーを注入するヒーリングが多々見られますが、そういったヒーラーの中にも、心身を痛める人が多くいる、と聞いています。
そして、ひかりの輪のエンパワーメントでは、この自我意識を最大限に押さえ込むために、先ほど述べたように、
①自分を通してではなく、密教法具を通してエネルギーが入ると考え、
②自分だけの努力で、エネルギーが受講者に入るのではなく、受講者の努力を助力する共同作業である、と考える仕組みになっているのです。
また、これらに加えて、(実現はなかなか困難ですが)、エンパワーメントの間に、瞑想によって、自分というものを全く意識しない状態(自我意識が滅した状態)を作ることを、指導員の実践の理想である、としています。






