6月29日東京説法会が開催されました
(2008年07月14日)
今回の説法会は会員さんがレポートしてくれました。
雨の降りしきる中、東京道場には初めて参加された人も含めて、たくさんの人が集まりました。
最初はいつものように儀式ヨーガから始まりました。
まずは、第2道場の神殿参拝からです。
神殿にはたくさんの神々のタンカや、法具が奉られているので、神仏のエネルギーに満ち溢れていて、その神聖なエネルギーにはいつも圧倒されます。
儀式ヨーガは三仏(釈迦、観音、弥勒)のマントラを唱えた後、神々への供養、懺悔、発菩提心と進み1時間弱で終了しました。
休憩の後、代表の説法が始まりました。
今日のテーマはまず、「釈迦の幸福観」についての話です。
「釈迦は中道を説きましたが、それは「快楽を追求する左道」と「苦行によって悟りを得ようとする右道」の中をとっての中道を意味します。
中道、それは不苦不楽で、空の境地にも等しく『欲望が静まって、苦が無く、光明が射している状態』です。
しかし、現代の人はこんな釈迦の生き方はつまらないと考えがちです。
なぜなら、楽を求めて生きているからです。
そしてそれは、楽の裏に苦があるという事を理解していないからだと思います。
例えば、最初1万円得ていた人が、5万円10万円とステップアップしていった後、10万円がまた5万円に戻ったときには苦を感じる筈です。
これは、求めるという貪りの心によって苦が生じているのです。
このように楽の裏側には苦があり、苦と楽はセットで存在しています。
私たちは苦の伴わない楽があるのではないか?とか、或いは、自分だけは特別だと考える傾向にあります。
この『貪り』の根本には、それが苦しみの原因になっているという事を理解していないという『無智』があります。
そして、苦が生じたとき、その原因を他に求めれば『怒り』が生じます。
釈迦はこの『貪り』『無智』『怒り』を三毒=三つの中毒(麻薬のように抜けられなくなる)であると表現しました。
現象をありのままに受け入れ、何も持っていないことが最高の境地なのですが、反対にたくさんの執着を持っていれば、死に際してすべてを放棄しなければならなくなった時には、大変な苦しみが生じます。
智慧を以て苦楽を遮断すること、『足るを知る』ことが大事だ」というお話でした。
「現代の西洋的文明観に対し、東洋の教えの中には道教の『無為自然』やチベットのゾクチェンの『無努力』のように同じようなすぐれた思想があります。
また、仏教には小乗・大乗とありますが、現世を遮断し山の中で寂静の境地を得る小乗に対し、大乗の教えでは、現世にまみれながら、苦をある程度自分の意志でコントロールし、苦しみがあったとしても、『自業自得』=自分が苦しんでいるのは自分が原因という事を理解しているので、他に対して怒りや苦しみを感じることがありません。」
自分たちが持っているのは神からの預かりものであるとするならば、すべてを失っても苦は生じません。
しかし、他人が悪いと思うとそこで怒りが生じ、ありのままに見ていない=無智によって苦しんでいるというのが今日のお話でより理解することが出来ました。
「人は自分で苦しみ、自分で苦しみを脱却することが出来ます。
『人の強さ』とは苦しみに対する強さです。
例えば、途上国の人からみれば自分たちの収入の何十倍何百倍もある日本人は、王侯貴族のように思えるでしょう。
しかし、そんな日本人が、経済苦で年間七千人の人が自殺しているということです。
人間を含めた生き物の中でトップグループに位置する先進国の人間の内、さらに日本人は寿命が長く安全な国として頂点に位置しているのに...です。
それは、私たちが、全体を見ずに常に自分たちよりも上を見ているからです。
常に恵まれない人のことを考えていれば自分の苦しみは減ります。
つまり、その状態を脱却するには、自分よりも低い生活をしている人々のことを考え、そして分かち合うことです。
途上国支援は『かわいそう』だからと考えるのではなく、それは『貪り』という悪業の清算であり『懺悔』によって行うことが必要だ」ということでした。
「『自分の幸福の裏には他人の不幸がある。』ことを意識し、貪りを静めて、他と分かち合うことで①(自分が)強くなる。そして②贖罪となるのです。」
ここで代表が過去の事件に対して贖罪の祈願をされていたところ、利他の実践が自ずと贖罪の実践に導かれたという話をされました。
「一つめはパキスタンの学校教育支援プログラムに対する支援です。
これは突き詰めて考えるとバランスのとれた世界観を教える教育機関を育成することによって、原理主義の神学校で若いテロリストを養成するのを間接的に妨げるということが分かりました。
二つめはネパールの仏具購入販売で、過去に打撃を与えた僧侶たちにお返しが出来たことです。
つまり、利他の実践とは贖罪の実践に他ならないということです。」
現代人はもっともっとと快楽を貪って生きていますが、現状をありのままに見て、満足感謝して分かち合うこと。
そして、貪っていたことにより他人を不幸にしていたのではないかと気付くこと。
今ある幸福に気付き、他と分かち合うことが必要だという事がわかりました。
次に第2部は、今度行く聖地修行の話でした。それにちなんで「帰依の対象」についての話。
「『誰を帰依の対象にするのか?』これは以前は、グルでしたが、ひかりの輪ではすべての衆生(生き物)を信仰の対象としています。
それは、前にあげた自業自得=自己の苦しみは自己の因。とも関連しています。『苦しみを与える人』=『悪い人』ではなく、『気付かせてくれる人』とも考えることが出来ます。
つまり、グルイズムのように一人の人を絶対だとするのではなく、『全ての人々』が神仏の言葉を気付かせてくれる人と考え、感謝して『神仏の化身』と見るのです。
つまり日常生活における<カルマヨーガ>の実践です。」
次にこのことに関連して、マハームドラーという考え方についてのお話がありました。
「以前はグル=絶対者=絶対善とみて、苦しみを与えられた弟子は、その苦しみはグルの与えたマハームドラーと考え、苦しみに耐えるということをしていました。
しかし、ひかりの輪ではそういう考え方ではなく、全ての人々(苦しみを与える人)の行為をマハームドラーと考え、他を責めるのではなく、じっと耐えて自業自得であると考えることが大切だ」という事でした。(それを「セルフマハームドラー」といいます。)
「しかし、これもケースバイケースで相手が違法行為を行っているときには当然止めなくてはいけないし、バランスが大事であることは言うまでもありません。」
その話を聞いて、重要なことは実生活に於いて、マハームドラーのプロセスを経ないと、(他を責めて、今までの自己を守ってしまうので進歩がなく)人は自業自得を体現・感得出来ないと思いました。
その後、説法に関しての色んな質問がありましたが、最後に「贖罪の心があれば、神様や法の導きがあります。大事なことは、法則を分かち合うこと、つまり、1人1人が法の伝搬者になる事です。
また、全ての人を自分のマハームドラーの師とし、日本全体が貪りを静めて分かち合うよう努力する事です。みんなでやらなきゃダメです。」と力強くおっしやっていました。 (O.H)







