1.大洗磯前神社にて、初日の出を拝む
レポートが二ヶ月遅れとなってしまいましたが、美しい自然の写真もたくさんいただいたので、今年最初の、聖地巡礼レポートをお届けしたいと思います。
2010年を迎え、最初に巡礼したのは、茨城と千葉でした。ひかりの輪では、新年を、東京にて瞑想セミナーで迎えていたのですが、3日になって、遅ればせながら、初詣と初日の出を拝みに、近場の茨城と千葉へと行くことになったのです。
◆初日の出を拝む
最初の目的地は、茨城県の東の海岸沿いにある、大洗磯前神社です。
初日の出を拝ませていただくため、夜明け前、まだ薄暗い午前6時頃に到着しました。
かつて国づくりを終えた後この世を去った二柱の神々が、再び民を救うため平安時代に出現されたという海辺の土地に、この神社は建てられました。
ちょうど夜から朝への変わり目であるこの時、上祐代表から、最初の挨拶と、「陰」と「陽」に関する講話がありました。
そして拝殿で参拝した後、神社のすぐ近くの海岸に向かいました。
拝殿からは、鳥居越しに、すぐそこにある海を拝することができます。
階段を下って道を渡ると、すぐそこは海岸です。
ちょうど、神々が再臨されたという海辺の岩礁に鳥居が建てられており、あたかも遥かな世界から聖なる存在を迎えるかのような雰囲気が漂っていました。
多くの人々が、日の出を拝むために集まってきていました。カメラマンもたくさんいます。雲がかかっていたため、日の出が少し遅くなり、まだかまだかと待ちわびていると、お日さまが顔を出されました。
一人の少女の「出たー!」という歓声で、みんながにこにこ顔になり、場がとても喜ばしい雰囲気となりました。
それは、とても美しく、荘厳で、そこにいたみなが自然と手を合わせ、祈りを捧げていました。
◆歴史書に伝わる、大己貴命と少彦名命のご出現のさま
なお、この浜に二柱の神々が出現されたときの様子が、平安時代の『文徳天皇実録』(わが国の『古事記』からはじまる歴史書、『六国史(りっこくし)の5番目)に残されています。
超訳すると、次のように記されています。
856年12月29日、ある塩作りの者が、夜半に海上を見ると、光り輝くものがあった。
翌日、海辺へ出てみると、一尺あまりのあやしい2つの石があり、
さらに翌日には、その2つの石の周りに、20個あまりの色のついた小石が、
左右に侍るようにあるのが見えた。
その2つの石の形は、修行僧のような姿をしていたという。
その時、神が人に憑いて、
「われは大己貴・少彦名なり。
昔、この国を造り、東の海へ去っていたが、
この度、民を救わんとして、ここへ来たのである」
とお告げがあった。
よって、本社に大己貴命を祀り、酒列(さかつら)磯前神社に少彦名命を祀ったという。
この御由緒によれば、この大洗磯前神社のこの磯は、『古事記』において東の海・常世の国・黄泉の国に去っていった大国主命と、大国主命との国造りの最中に常世の国に去った少彦名命が、民を救うために、復活・再臨した地ということになります。
◆古代の、海からやってくる神への信仰
この歴史書によれば、神の降臨が報告されたのが、12月末日ということは、ちょうど冬至の頃ということになります。
大洗磯前は、地理的に、古代の聖山であった朝房山(あさぼうやま)から見て、冬至の日に朝日が昇る方向に当たるのだそうです。
一年で最も太陽の勢いが弱くなる冬至の時期に、古代人は、自然の力が増えることを祈り、祝うお祭りをしていたといわれますが、この社の、光り輝く石の出現の御由緒は、土地に生命力を与える神そのものである朝日を、神と見立てて拝んでいた古代の信仰とも重なって感じられました。
また、海からやってくる神への信仰は、岩礁を神の依り代とする磐座信仰や、海のかなたからやってくる古墳時代の祖霊信仰のような形で、古くからこの地方に存在したと考えられる信仰の延長線上にあるものだったのかもしれません。
◆大洗と、中央構造線・龍脈との関連
また、この大洗は、中央構造線とも関連しているともいわれています。
昨年10月に、ひかりの輪で巡礼した諏訪地方は、中央構造線とフォッサマグナが交差するというエネルギーのせめぎあう大変特殊な地に位置していました。
(『神秘と癒しのPhoto-Essay』〔伊那谷の夢を叶える会刊行〕より)
そして、この中央構造線の日本列島上の東の端が、この大洗か、鹿島のどちらかの地下へ延びていると考えられているので、今回の巡礼は、昨年の諏訪巡礼から、龍脈を追って、巡礼しているような気にもさせられました。
(大鹿村中央構造線博物館HPより転載)
◆出雲の国譲り神話の再現
大己貴命は、『古事記』の中の、出雲の国譲り神話の中に登場する神ですが、かつてこの社の二大祭では、国譲りの再現ともいえるような神事が行われていたそうなのです。
出雲の大国主命に国譲りを迫ったのは、タケミカヅチノミコト(建御雷神)でしたが、二大祭の「網掛祭」と「八朔(はっさく)祭(まつり)」においては、タケミカヅチが祀られている鹿島神宮や、有賀神社から、神職がタケミカヅチの象徴でもある矛と盾を奉じて、早馬や牛車で神事に参加するというものだったそうです。(※現在では、網掛祭は中断されている)
この事実は、その神が出現したという言い伝えがまるで真実のように迫ってくるように感じられるものでした。
◆「薬師菩薩」の別名と、東方浄瑠璃世界
最後に、この大洗磯前神社は、創祀の翌年に、新たに「大洗磯前薬師菩薩明神」の名がつけられて、「大洗薬師菩薩神社」と呼ばれるようになったそうです。当時、天台宗との関わりにより、神仏習合となったと考えられているそうです。
「薬師菩薩」の名がつけられた理由は、東海道の東の端にあたるこの地を、薬師如来の浄土である「東方浄瑠璃世界」と結びつけて、『法華経薬王菩薩本事品』などの経典をもとにして、つけられたといわれています。
なお、『日本書紀』には、大国主命は、人々や動物たちのために、病気を治す方法を定めたということも書いてあるため、もしかするとその影響もあったのかもしれません。
大洗磯前神社は、このように、さまざまないわれを持つ社でした。なによりも、磯から昇る朝日の美しさは、ほんとうに神さまのご出現のようで、古代人の気持ちがわかるような気がしました。
磯でしばらく、日の出と海に向い、歌や演奏や真言などで祈りを捧げました。そして、次は、少し南に下り、鹿島神宮へと、初詣に向かいます。






