奈良・ヤマト聖地巡礼資料 第1日目・飛鳥方面(2月27日)
ひかりの輪では、2月27日~28日にかけて、奈良・ヤマト聖地巡礼--故きを温ねて新しきを知る巡礼の旅--を行いました。古代の聖地、古き良き古代の日本、天武天皇、聖徳太子などの古代の偉人から学ぶ気持ちを持って。
今回は、その巡礼の時配布した資料の内容に、写真をつけてお届けします。
奈良盆地一帯に位置する、飛鳥川の流れる一帯を「飛鳥」という。初日の2月27日は、592年、推古天皇が豊浦宮(現向原寺)で即位してから約一世紀の間、飛鳥が政治の中心として栄えた飛鳥時代に思いを馳せながら、初春の飛鳥路を歩いた。
■甘樫丘
すがすがしい雨上がりの朝、小鳥たちの声と、咲き誇る梅に迎えられ、丘を登った。
飛鳥側の西岸に沿って1㎞あまりも続く小高い丘、甘樫丘(標高148m)は、古来、神の住まう聖地とされた。
わが国では古事記において重要な場面でうけひ(誓約)が行われているが、日本書紀にはこの丘は、「誓盟(くがたち)の神」の鎮座する神奈備の山で、盟神探湯(くがたち)という、古代日本で行われていた神に神意を問う神明裁判が行われていたと伝わる。
丘の上からは、360度の美しい展望が望める。天香具山、耳成山、畝傍山という大和三山。その間に藤原京、三輪山や青垣の山々、西方には二上、葛城、金剛の山々、南に高取から吉野の連山が、東に多武峰(とおのみね)の山々を望む。
大王(おおきみ)(天皇)の宮を見下ろすこの丘には、聖徳太子の死後強大化した蘇我氏の邸宅が建てられ、その権勢を誇示していた。
ここではその美しい風景から、飛鳥の地の美しさや、その場所に立つことで、当時の歴史をうかがい知ることができた。
■向原寺(豊浦宮・豊浦寺)
甘樫丘のすぐ北に位置する向原寺(こうげんじ)へと、初春の飛鳥路を歩いた。
寺の縁起によれば、538年に百済より日本に仏教が伝来したとき、蘇我稲目が金銅の釈迦仏を安置したのが始まりと伝わる日本最初の寺である。
その後、異国の神を拝んだらこの国の神の怒りを買うと主張する廃仏派の物部氏と、崇仏派の蘇我氏の間で論争が激化し、疫病が流行した際には、物部氏の「疫病は仏教崇拝による日本古来の神の祟り」という主張により、その仏像は「難波の堀江(日本書紀)」に捨てられ、寺は焼却された。
その池は、寺の真横に現存する。
◎豊浦寺(日本最初の尼寺)
593年、日本最初の女帝・推古天皇が豊浦(向原寺跡)で即位し、10年間ここに豊浦宮をおいた。603年に宮を小墾田(おはりだ)に移すにあたり、宮を蘇我馬子が譲り受け、日本で最初の尼寺の豊浦寺が創建された。このころ、聖徳太子により冠位十二階の制が定められ、604年には憲法十七条が制定された。
当時の、豊浦寺の講堂と推定される立派な遺跡が残されており、当時の様子をうかがい知ることができる。住職さんの熱心なご案内をお聞きすることができ、みなで当時のさまに思いを馳せた。
後世、難波の堀江に捨てられた日本初渡来の仏像が、一光三尊の阿弥陀如来仏として信濃の善光寺縁起として登場していった。向原寺に安置されていた仏像は、552年に百済の聖明王から朝廷に献上された金銅の釈迦仏だったが、戦後盗難に遭い、現在行方不明となっている。
その釈迦仏の写真が寺に展示されている。
■水落遺跡
この水落(みずおち)遺跡は、日本書紀に、「660年、皇太子中大兄が初めて漏刻(水時計)を作り、人々に時を知らしむ」とある、日本初の時計台である。その後、この時計台で、日本で初めて鐘が打たれたのが671年6月10日だったことから、6月10日は時の記念日となった。
遺跡が保存されていることで、当時の様子に思いを馳せることがしやすい。初めて時を知った古代人は、どういう気持ちだったのだろう。
■飛鳥・蘇我入鹿の首塚
田んぼの中に、入鹿の首塚と呼ばれる鎌倉時代に作られた五輪塔がある。
聖徳太子の死後、蘇我氏の権勢と我が儘な振る舞いは、しだいに人々の反感と憎しみを募らせていき、中臣鎌足(千葉県鹿島出身と伝わる)は、中大兄皇子と仲間とともに、中国を手本に大王を頂点とした中央集権的国家体制を築くべく、645年、飛鳥板葺宮の大極殿で入鹿を暗殺。大化の改新。
すると、討ち取られた入鹿の首は、鎌足を追いかけてあちこち飛び回ったため、その首を供養するために五輪塔が建てられたと伝わる。暗殺の翌日、入鹿の父・蝦夷は自殺に追い込まれ、蘇我氏は滅亡した。このクーデタ-を乙巳(いっし)の変と呼ぶ。
ここでは蘇我氏が安らかに成仏できるよう祈った。
■飛鳥寺
587年、蘇我氏が物部氏を滅ぼして実権を握ると、仏教は朝廷に公認され、日本初の仏教文化「飛鳥文化」が花開いていった。
この飛鳥寺は、596年(推古4年)、蘇我馬子の発願により創建された、創建時は壮大な伽藍を持つ日本初の本格寺院で、四天王寺(593年、聖徳太子の誓願により建立)とともに日本の仏教の中心的な存在だったと伝わる。仏舎利を祀る仏塔が中心に置かれる配置。
606年に推古天皇が鞍作止利(くらつくりのとり)に作らせた日本最古の大仏・金剛釈迦如来像が安置されている。完成当初は黄金色にまばゆく輝いていたが、長い歳月の間に、火災で黒こげになり、雨ざらしになりながらも、今日まで、ほぼ元の姿のまま鎮座している。
波乱だった飛鳥時代に思いを馳せ、飛鳥仏に祈りを捧げた。
■飛鳥板葺宮(飛鳥浄御原宮)
655年、斉明天皇の時代、飛鳥板葺宮に遷都。672年、天武・持統天皇の時代、飛鳥浄御原宮と名を変えて遷都。日本書紀の記述からは、飛鳥浄御原宮には日本初の大極殿(の原型)が建てられたと思われる。
ここでは、お香や供物、歌や踊り、真言などを捧げ、日本の平安を祈った。
■橘寺
聖徳太子誕生の地。太子の別称「上宮太子」は、この地に太子の父用明天皇の別宮・上宮(かみつみや)が置かれたことに由来する。
寺伝によると、606年、太子が推古天皇のために「勝鬘経(しょうまんきょう)」を説いているとき、庭に蓮の花が1メートルも降り積もったり、南の山に光明を放つ千の仏頭が現れたり、太子の冠から、日月星の光が輝くなど不思議な出来事が相次いだため、天皇が仏堂建立を命じたという。
ひかりの輪では、聖徳太子が遺された、和をもって尊しとなすの教え、神仏習合の考え、人を神としない考え、国力の違いによらぬ国家観(日出づる国の王)などに学ばさせていただいているが、実際に太子誕生の地を訪ねると、その教えが生き生きと蘇ってくる気がする。
■小墾田宮
日本書紀によると603年(推古11年)、豊浦宮で即位した推古女帝は新宮として小墾(おわり)田宮(だのみや)を造営しここに居を移したという。その後女帝が死去するまでの間に、蘇我氏、聖徳太子らを中心として、冠位十二階の制定、十七条憲法の制定、遣隋使派遣などの重要施策がこの宮で行われた。
■藤原京
694年、天武天皇の政策を引き継いだ持統天皇により、都市計画によって建設された日本初の都、藤原京が完成した。中央集権的な律令国家を動かす中心として、中国にならった本格的な都だ。710年に平城京に遷都するまでの16年間、ここが日本の首都となった。
2004年の発掘調査で、一辺が約5㎞四方の正方形に近い形で、大和三山を域内に含む、広大な都市であることが判明した。ほぼ中央に藤原宮(きゅう)、その南に薬師寺が建てられた。
儀式の場の中心をなす建物である大極殿が、初の本格的な中国風宮殿として造営された。
実際にその地に立つと、その規模の巨大さに驚いた。
■難波宮跡と、大阪歴史博物館
難波宮跡は、「ひかりの輪」大阪支部から歩いてわずか5分の場所に位置する古代の都の遺跡である。その所在は長らく不明になっていたが、1954年に始まった発掘によって明らかになった。
難波宮は、古代に2度にわたって都に定められた歴史を持つ(前期および後期)。
前期難波宮は、645年の「大化の改新」における「乙巳の変」(中大兄皇子=後の天智天皇らによる蘇我入鹿の暗殺)直後に、改新政権の本拠地として、飛鳥から遷都された。
その後、都は飛鳥に戻り、近江京、藤原京、平城京などに遷された後、744年、聖武天皇によって再び難波宮が都と定められた(後期難波宮)。さらに都はその後、紫香楽宮を経て、また平城京へと戻っていくことになる。
この後期難波宮にも、それまでの皇都と同じく大極殿が設けられた。
難波宮跡には、この大極殿の基壇(建物の基部に築いた石造の壇)が目立つ形で再現されていて、その規模や位置を目で確認することができる。
この難波宮跡に隣接して建てられているのが大阪歴史博物館である。博物館の10階には、大極殿の内部構造が原寸大で復元されており、大極殿内部の雰囲気を仮想体験できる。さらに、広大な窓から、難波宮跡の全体像を見下ろすことができる。
こうして初日の巡礼は終わった。明日は三輪山・ヤマトを巡礼する。






