聖地巡礼
ひかりの輪で訪れた各聖地のご紹介や、聖地巡礼修行をご紹介しています

ひかりの輪の聖地修行

(2)一部の誤解について

  オウム・アーレフから脱会した、ひかりの輪の聖地巡礼修行について、公安当局の一部などから、麻原元教祖の手法と同じであるとか、または遊んでいるように見えるのではないかという批判や心配をお聞きしますので、その点については、以下の通りご理解いただければと思います。
  まず、ひかりの輪の聖地修行は、もっぱら日本各地の聖地を巡るものであり、これまでの実に様々な聖地を巡っています。
 
  一方、麻原元教祖が、オウム・アーレフ教団が行ったことは、インドの釈迦縁の聖地の巡礼(91年、92年の2回だけ)に限られており、その点において明確に異なっております。


  ひかりの輪としては、

1.聖地巡礼という行為は、国内外で古来から求道者が行ってきた一般的な修行であり、麻原元教祖の独自の修行ではないことは明らかであり、それによって、ひかりの輪とオウム・アーレフと同一視することは公正なのか、

2.また、麻原元教祖の聖地巡礼についても、それがオウム事件の原因になったと言うことは出来ず、むしろその逆に、麻原元教祖は、一連の事件に繋がったヴァジラヤーナ活動を本格化するために、92年を最後とし、93年にはインド巡礼を行わない決定をしたという事実があり、その意味で、聖地巡礼と一連の事件は方向性として逆のものであったとも思われる、

と考えています。

   さらに、麻原元教祖とオウム教団は、日本社会と日本宗教を否定し、自己の権威をインドのヨーガやチベット密教の聖者に求めた面があり、そのため、聖地巡礼も国内ではなく、インドとなった面がありますが、ひかりの輪の聖地巡礼は、もっぱら日本の聖地(とそれと結びついた日本宗教)に関係するものであり、これが日本社会との融和を進める効果があると考えています。

  さて、聖地修行を真摯な修行の過程としてではなく、観光や遊びのように誤解する方々に対しては、以下の通りご理解いただければと思います。

   まず、オウム・アーレフの教義・思想を超えるためには、教団と社会を強く区別し、教団と絶対として、社会を否定した、善悪二元論的な思想・実践を超える必要があり、そのためには、教団の外の宗教・聖地というものを認め、体験し、その良いところを学ぶことは、非常に重要なプロセスであると考えています。

   さらには、麻原元教祖を神の化身として、麻原元教祖を信者の修行を進めるエネルギー源と位置づける、オウム・アーレフの教義を超えるためには、人を神としたり、人を過度の重視する教義に替わって、例えば、聖地(に限りませんが)というものを重視し、聖地の神聖なエネルギーを活かす実践が必要かつ重要であると考えています。

   最後に、ひかりの輪は、その従来の宗教を超えて、21世紀の新しい宗教思想を創造することを目的としており、そのために、宗教・宗派の区別無く、日本の様々な聖地を赴き、それぞれの良いものを学ぼうと考えています。

   この背景には、オウム・アーレフに限らず、従来の宗教は、社会の中の様々な団体・企業と同じように、宗教・宗派の区別が存在し、その結果として、相互の争いや、宗教戦争・テロリズムなどがあり、オウム・アーレフは、そういった宗教・宗派の持つ独善性の極致とも解釈できるという認識があります。

  そして、こういった既存の社会と宗教の問題の根源には、「人が、自然の支配者である」という傲慢な考え方に基づいて、人の中での競争して勝つことを重視する価値観があると考えており、それを超えるための一つの方法として、「人が、大自然・大宇宙の一部として、皆が一つである」という認識が有効であり、そのためには、聖地・自然での修行は重要ではないかと考えています。

   様々な聖地を巡礼することで、自分たちの心の中ではありますが、様々な聖地と様々な宗教・宗派を輪のように繋いでいき、未来においては、日本と世界の全ての宗教・宗派が、それを生み出している大自然・地球の下で、輪のように繋がって調和し、宗教に限らず、人類社会の調和が深まることを祈りたいと考えています。

   なお、こうした世界の全ての宗教・非宗教の叡智の輪の形成こそが、団体名である『ひかりの輪』という言葉の意味合いの一つです。(つづく)

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