聖地調査巡礼1:難波宮(水野)
1日~3日まで、指導員合宿中ではありましたが、今月末に予定されている、奈良をめぐる聖地巡礼の調査に行って参りました。
今回の聖地巡礼は邪馬台国から大和朝廷の流れに始まり、本格的な都が整えられた飛鳥・奈良の都めぐりとなります。調査中にわかった興味深いことがらもご紹介していきます。
1日は大阪支部から徒歩10分内のところにある、難波宮(なにわのみや)跡地を初めて訪れました。かねてからこの場所の由来は知っていましたが、今回訪れる場所との歴史的流れの関連性があることと、ここが(天皇の執務室や国家行事を執りおこなう)朝堂院や大極殿の跡地だとわかったことによります。
難波宮は異なる時代に作られた前期・後期の2期からなり、遺跡からは上下2層が重なりあうようにして存在したことがわかりました。前期の上に後期の遺跡があるということですね。
まず、今回の奈良巡礼には歴史背景がわかるとよりわかりやすいので、歴史のおさらいも含めて、少し難波宮のご説明から。
645年6月(飛鳥時代) 飛鳥における大事件「大化の改新」で中大兄皇子(後の天智天皇)が蘇我入鹿を斬殺します。その後即位した孝徳天皇が難波遷都を断行したのが同年12月。それから654年までの9年間、難波は政治の中心地として機能します。これを前期難波宮と呼びます。
孝徳天皇をはじめとする政権には、新しい行政制度として、中国の礼制を取り入れるという大きな課題があり、官人の出仕形態も細かく定められました。もう一つの大きな特徴は仏教を重んじたことでした。孝徳天皇が仏教に帰依したため、寺の造営や僧侶の重用がなされました。
そして時は下り、726年(奈良時代)、聖武天皇(724年即位)が難波宮を再建。これが後期難波宮で、現在復元されているのはこの後期難波宮です。
前期から後期難波宮への変遷の中では、壬申の乱(672年)もあり、再び飛鳥の浄御原(きよみがはら)や藤原京に都を移すなど、さまざまな動乱・思惑の中にあった時代だったのです。
当時は、国が乱れるのは帝をはじめとする為政者の不徳とする考え方もあったようで、国を治めるのには相当尽力されたのでしょう。
しかし都の造営は何年もかかる大事業(前期難波宮は6年がかり)。それだけの大事業を決断する天皇の苦悩もうかがい知ることができます。
さて、難波宮は現在の大阪城の近くに位置しており、当時の広大な敷地に大阪支部のあたりも入っているのです。支部の位置は下の写真あたりです。私が93年から約2年間つとめた教団経営のスーパーも平安京の大極殿の直近だったのは不思議な一致です。
遺跡のそばには大阪歴史博物館があり、その10階に当時の大極殿内部を原寸大復元したすばらしい展示があるとのことでしたので、見学に行きました。これはたいへん精妙につくられており圧巻でした。ここには3Dを駆使した復元映像が映されている大きなスクリーンがあるのですが、終わるとスクリーンが上がり、一面のガラス窓から見た難波宮跡地の景色が一望できるのです。
続く






