田実恵理子/役員、大阪支部長(関西・広島以外の中国地区担当)
私は現在、大阪支部を担当しています。
生まれてからの数十年、関東に居住しておりましたが、昨年より大阪の地に越し、在家会員の方の修行のお手伝いや、様々な相談を受けたりといった活動を日々させていただいています。
この道に入る前は、ライブハウスの店長や、ロックバンドのマネージャーを初めとした、音楽の仕事を主にしていました。
子供の頃から、「自分の人生は自分で楽しくする」という考えが強く、実際、人生の中でだいたい自分の思うことが実現できてしまっていたため、「何かを拠り所にしたい」と考えたことはありませんでした。また若い頃は唯物論に偏っていた時期もありました。
ですから、自分が宗教に入るなどとということは生涯ないだろうと思っていました。そんな私が人生の中盤から後半において、一見まったく畑違いとも思える宗教的な活動を中心に生きていくことになったのですから、本当に人生とはわからないものです。
オウム真理教・アレフの教義は、お釈迦様の教えを誤って、都合よく解釈している面がありました。オウム・アレフの反省・総括をする中で、ひかりの輪では自ずと大乗仏教の神髄の教えに立ち返ることとなりました。
「すべての衆生には仏性がある」「すべての事物は縁起しており空である」「我々が経験する世界は心の現われ」などの教えが説かれ、また、苦と楽の区別、善悪の区別、自分と他人の区別、二元を超えた一元の意識を体得していくことが、幸福の道だということを実感してきました。
最近、精神世界や、心理学、環境問題などの本を読みますが、その解決策として書かれている内容が非常に仏教的であることが多いのに気がつきます。2600年前に説かれたお釈迦様の教えを、現代の社会にあわせて適用していくこと、皆さんと共有していくことの重要性を感じています。
<ひかりの輪の修行体験から>
ひかりの輪には「聖地巡礼」という修行があります。今年は若者の間でも「聖地巡礼」が流行り、霊山なども通年の3倍もの人が訪れた例もあったようですが、ひかりの輪では団体発足前から聖地巡礼を行っていました。
ただそこにあるだけで、自己主張することもなく、一方的に人を癒し続ける自然を見ては瞑想し・・・時に緩やかに、時に激しく、自由自在にその場に応じて流れいく、水のしなやかさを見つめ自分自身の生き方に照らし合わせたり・・・我々も自然の一部として生かされているのだということを感じてきました。
特に奈良にある天川は大変好きな場所で、宗形指導員も著書に書いていましたが、天川を訪れると本当に懐かしく、心が落ち着き安心し、「帰ってきた」ような気がするのです。
また天川の清流と共に、上高地の梓川も大変好きな場所です。高地からの雪解け水でもある梓川の身を切られるような冷たさの清流に、足を投げ出し、たたずんだことが幾度もあります。極度に落ち込んだとき、水の神様に見守られ、後押ししていただいたと感じたこともあります。
聖地巡礼に行きだして、自分は「水のそばにいるととても落ち着く」ということを発見しました。簡単なことのようですが、余裕のない生き方の中で、今まで一度も気づきませんでした。
「水」をそばに感じることで、こんなにも癒され安らぐなんて、それは母親の胎内の羊水の中での記憶なのかもしれない。。などと思うのでした。
現代は精神的な病をもつ人、ストレスを抱える人が増えていますが、そのひとつの原因に自分(人間)が自然の一部であることを忘れ、自然との関わりが減っていることがあるといわれます。
聖地巡礼は現代人の精神にとって大切なものといえます。ぜひ多くの方に参加していただけたらと思っています。
修行面では、ヨーガや呼吸法などをとっても、過去においてはエネルギーをひたすら上げるようなものが中心でしたが、ひかりの輪の行法は、エンライトメントヨーガなど、指や関節ひとつひとつの動きや気の流れ、呼吸の流れを、微細に見つめていくようなもの、多少付加がかかる場合も順を追って無理なくやっていくものが主流になっていきました。段階を踏んで寂静に至る瞑想に無理なく入っていくものです。
またアロマを用いての足湯や、シンギングボウルの波動ヒーリングも取り入れており、忙しく疲労気味の方が多い現代人が修行に入りやすい環境を整える準備のプログラムも充実してきています。
修行の途上にいわゆる「神秘体験」と呼ばれるものがあります。
かつては、エネルギーを上げるような修行でしか霊的な体験はできないと思いこんでおり、ひかりの輪のようなゆるやかな修行方法では、神秘体験と言われるようなものはあまりしないのでは?と思っていました。
ですが、たとえば体外離脱のような「変化身」と呼ばれる体験などは、私自身はひかりの輪になってからのほうが多く経験しました。過去には、離脱といっても身体から意識が抜けて、この現象世界を見ることがほとんどでしたが、ひかりの輪になってからは「光の世界に入る」といった明るさを伴う体験が多くなりました。
神秘体験自体に、特に大きな意味があるとは思わず、重要視していませんが、そこにいたることのできる心身のエネルギーの充実というものは、激しい肉体行法だけでなく、良い瞑想、心の状態などによって得られるのだなということを、ひかりの輪の修行や奉仕活動の中で感じてきました。
また「聖音法輪」といわれるものなど、ひかりの輪のイニシエーションの後は特に、エネルギーが充実し、意識せずとも神秘体験をすることが多かったということがあります。
在家の会員さんのセミナーなどの体験談を見ていても、皆さん以前よりかなり良い体験をされています。オカルト的な神秘体験でなく、慈悲の波動や経験が伴っているものが多くなっていると感じます。
<精神的変化>
また、最近は、依然、心の変化というものが頻繁におこっていくようになりました。
「菩提心」につながっていく方向での心の変化です。「衆生はいずれ仏陀になる存在であり、その仏性を目覚めさせるお手伝いのため、まず自らが仏性を覚醒させ仏陀の境地にいたろうろする心をおこす」ことを「発菩提心」といいますが、そこにいたるための「感謝」や「慙愧」の念がでやすくなり、以前より深い部分でそれを感じる、心から納得する。。ということが増えてきました。
修行や日々の活動の中で、自我執着が落ちているとき、それによって心に光が入り、自分の内側の神と外側の神がつながったときに、パチッと変化がおきると感じていまます。心の変化は聖地の自然の中で、自分が謙虚になっているときにおこることが多いです。
近諏訪大社の前宮に行ったのですが、その日は、7年に一度立てかえが終わったばかりの御柱を見にいきました。
諏訪に行く道中、車の中で私はなぜか「柱の意味をどうか私に教えてください」「柱の意味をわかりたい」と強く神仏に懇願していました。
諏訪大社の前宮では、かつて団体行動で自由時間が長くあったことはないのですが、なぜかこの日は前宮での自由時間が2時間ほどもあり、柱のそばでたっぷりと瞑想、思索をすることができました。
かつて両親、友人、会社の同僚などが、私がとっぴなことをしても頭から否定することなく、辛抱強く自分を理解してくれようと努力し、私を育ててきてくれたこと。多くの人に許され、支えられてきたことが思い出されました。
そしてそれに比べ、いかに今まで自分が人を支えていなかったか、何も返していないか、冷たかったかということに愕然し、慙愧の念で涙が溢れました。私の周りにいた人は修行者ではなかったけれど、すごく寛大であったと。自分が若かった頃を振り返ると、当時支えてくれた人のように、寛大に人と接することは私はほとんどできていなかっただろうと思います。
自分を支えてくれたごくごく普通の人々の優しさを考えたとき、かつて「救済」と言いながら、愛よりもプライド優位で修行していたときの自分と比べると、彼らはよほど人格者で仏性を輝かせた人たちであると思いました。
上祐代表が時々「柱」の話をしますが、今まで「柱」「大黒柱」という言葉を聞いたとき、「要」とか「中心」というイメージが少なからずあったのですが、柱の意味には、「支え」「サポート」という側面があります。この「サポート」「支え返し」ということが今の自分の課題ではないかなと思いました。この課題は心の深い部分で感じたようで、その後の巡礼は何を見ても慙愧と感謝の念が溢れてくるという状態でした。
少しでも「自分も大変だけど、もうちょっとだけ他のために頑張れる」とか、「ほんの少し支える側にまわろう」と半歩先くらいを行こうという人が増えるとき、草の根的な連鎖で、全体がよくなっていくのではないかと思いました。
御柱祭で、柱を曳き、立てることにかかわった大勢の人の中には好きな人も嫌いな人も、しがらみがある人もいたかもしれません。しかし、その神事にはいろんな立場の人が「すべてを水に流して」協力したのではないかと思いました。
柱に対しては各自、色々な見方があると思いますが、私の中では、善悪の二分化を超え万物を尊重する、観音菩薩の法則を始めとした、釈迦・観音・弥勒の三仏の法則が思い出され、「柱の中に三仏の法則が現れている」と感じました。
オウム・アレフ時代の自分というのは、今思うと「他から学ぼうとせず、何もわかっていなかった」と思います。「自分は知らない」「自分はまだまだ」と感じている人は、他から学ぶことができますが、「自分はわかっている」と考えている人は、そこで満足していますから、周りが良い情報を教えようとしてくれてもも聞くことをせず、変化し成長することがありません。
「自分はわかっている」という傲慢は、「自分の信じたグルは絶対である」「自分にはその判断ができる」という考えにつながっていく危険性があります。「自分はもしかしてわかってないのでは?」という問いかけは常に必要だと思います。
今、「人(自分)は間違えるし、人は慢心に陥りやすい」と痛感します。また自分の精神性の低さ、冷たさなどに気づき、これから変わっていく修行ができるということはこの上ない、希望に溢れたことだと感謝します。
2008年にオウム・アレフの総括を書きましたが、今読み返すと思慮が浅く、本当に恥ずかしく皆さんにお見せするのも申し訳ないものです。少しずつ時間をとって、反省総括を継続して行って行きたいと思います。
まだまだ力足らずですが、被害者賠償は被害者の方、被害遺族の方が一人でも存在し続ける限り、できる限りのことをさせていただきたいと思います。
また事件の反省のひとつの柱として、過ちを繰り返さない思想を確立することの重要性を感じています。(たとえばいまアレフにいる方が、総括なしにアレフをやめても、麻原信仰ないし、それにかわるグル信仰から脱却するのはなかなか至難だと思います)
慙愧・謙虚さと感謝の念を持ち続けること。
自分たちが世界の中心でなく、サポートさせていただくという気持ちでいること。
事件と団体の総括を背景に、ひかりの輪が何をしていかなくてはいけないのか考え、実践し続けること。
これらのことを意識しながら、ひかりの輪今後の活動を行って行きたいと思います。
つたない文章を最後まで読んでいただきありがとうございます。
叱咤、ご意見などございましたらお気軽に大阪支部までご連絡くださいませ。
◎オウム時代の総括
ひかりの輪になってまず最初に行った、オウム時代の反省・総括については、 オウムの教訓サイト『オウム・アーレフ時代の総括と、なぜひかりの輪に参加したのか』に掲載しています。
◎経歴
1993年 オウム(現アーレフ)に入会
2001年 アーレフに出家 以来、支部活動担当
2007年3月 アーレフを脱会
2007年5月 ひかりの輪で活動を始める。横浜支部等を担当
2009年 大阪支部を担当
2010年7月 役員に就任。現在、役員、大阪支部長
◎連絡先
携帯電話:080-6797-4772(田実)
支部窓口電話 :06-6762-1293
e_tajitsu
メールアドレスosaka@hikarinowa.net
大阪支部住所・地図http://osaka.hikarinowa.net/images/map-osaka6F1.html
ブログ:ひかりの輪大阪支部 /支部長 田実恵理子のブログ ~present(今を生きる)






