一般・会員の方の声
一般の方、会員の方の、ひかりの輪についてのさまざまな声をご紹介します

オウムを脱会し、ひかりの輪に入会して(~2009年)

事件に向き合うことで信仰の原点に帰れた (Hさん 40代男性・大阪)

「宗教は弱い人間がするものだ」。私の父がよく言っていた言葉です。
父への反発もあったのかもしれませんが、私はそのような見解を持つことができませんでした。それは「あれほど世間から侮蔑されても、攻撃されても信仰を捨てないのは決して弱い人間だとは言えないんじゃないか」という認識からでした。

少なくとも人は何かを拠り所にして生きている。それは宗教という形をとらなくても、お金であったり、会社であったり、家族であったりしているのではないか。それが何故、宗教であればいけないのか。私が宗教に関して初めて持った見解はこのようなものであったと思います。また、そこから私の宗教遍歴は始まりました。

数は限られてはいますが、いずれの宗教の構成員も個人的には非常に魅力的な方が多く、素晴らしい方ばかりでしたが、いざ教義的な部分になると非常に排他的でした。
世界的な宗教を目指している宗教においても、結局は自分たちの教義を受け入れないと人は幸せになれない、というものであったと記憶しております。自分が尊敬している人たちがお互いに相手の宗教を批判している姿は、非常に疑問に思いましたし、宗教というものは一体何なのかをもっと深く考えさせられるようになっていきました。

そんな時、地下鉄サリン事件が起きました。とうとう宗教が人殺しまで行ってしまったのです。確かに事件はオウム真理教が起こしました。しかし、私にとってはたまたま自分の所属していた団体が起こさなかっただけで、どの宗教も自らの絶対性を説き、そこから排他性が生まれてくる以上、どの団体が起こしてもおかしくはなかったのではないか。オウムだけがなにも特別ではない、という認識をしていました。

私が知っている他の団体とオウムと何が違っているのか、事件は何故起こったのか、もっと知りたい、という衝動を抑えることができずに、私はオウム真理教への入会を決意いたしました。しかし、意気込んで入会はしたものの「解脱・悟り」を目指していた訳ではないので、信仰という面では非常に苦しむこととなりました。「信じる」ことが出来ないのです。

どこの宗教でも「この宗教を信ずれば、苦しみから解放され幸せになれる」という言い方をします。オウムでもやはり同じでした。グルに帰依し、グルに全てを投げだすことで、エゴを滅し、苦しみから解放される、つまり「信じる」ことが全ての始まりなのです。

「信じる」からこそ、その人の持つ様々な潜在的能力を最大限に引き出すことができる。宗教とはそういうものではないでしょうか。私も経済的な問題や家庭的な問題で非常に苦しんだ時期がありました。自分ではどうしようもない状況に追い込まれ、「信じる」ことによって現状を打破したい、という心境になった時があります。「帰依マントラ」という真言を暇があれば唱え続けました。しかしながら、唱えれば唱えるほど自分の苦しみが増してくるのです。「信じる」ことが個人の潜在能力を開花させる反面、「信じる」ことこそが事件を生みだしたことを知っていたからです。

「実行犯の方々は、『信じた』からこそ人殺しになった。お前は人殺しになりたいのか」そんなことを自問自答していたように思います。
結局、信じることも出来ず、オウム・アーレフにおける自分の存在意義も見出せずに鬱々とした日々を過ごしていた時、上祐代表の活動を知り、私も参加するようになりました。

 当時は、アーレフから独立しようなどとは誰一人考えていなかったと思います。なんとかして教団を立て直したい、そんな気持ちだったのではないでしょうか。しかし、そのためには事件に真正面から向き合う必要がありました。事件は何故起こったのか、オウムの何が悪かったのか、そう自らに問いかける必要があったのです。

そして、それは取りも直さず、今まで絶対の存在であった松本氏に疑問を投げかけることにもなりました。

私自身は松本氏を「信じる」ことも出来ない落ちこぼれ信者でしたし、事件が何故起きたのか、という命題は入会の動機にもなっていたことなので、ようやく自分の信仰の原点に帰れたような気がしましたが、アーレフの主流派の方々は松本氏に疑問を向けることができずに、我々と袂を分かつこととなっていきました。

「グルも人間であって、神では決してない」。自と他を区別し、「我々が善で他が悪である」と善悪二元論に陥っていたのではないか、などなど、事件を反省、検証していく上で様々な問題点が出てきました。そしてそれらは、オウムのみならずあらゆる宗教にも通じる問題であろうと思うのです。

現在はアーレフから独立し、ひかりの輪になりましたが、事件への反省、教訓を踏まえ様々な試みが行われています。「聖地巡礼」はその最たるものではないかと思います。通常、他の宗教で「聖地」というと自分の宗派の総本山などを指すと思うのですが、我々は宗教・宗派を超えて参拝し、学んでいこうとするものですから、若いころ私が宗教に感じた絶対性・排他性を超えようとする試みであると思います。

もはやひかりの輪は「宗教」と言うべきものではなく、「思想」や「哲学」に近いものではないかと感じる時があります。第二次世界大戦の反省から平和憲法が生まれたように、事件の反省からひかりの輪は生まれました。
我々の活動が少しでも宗教間戦争やテロを減らすことに繋がっていけるよう、そして21世紀の「宗教を超えた宗教」としてひかりの輪が育っていくことを私も微力ながら協力していきたいと考えております。

 

 

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