とらわれから解放され、心が穏やかに (東京 Sさん 男性)
皆さんは、自分の目で見、耳で聞いている世界が、本当の世界だと思いますか?
仏教の縁起の法では、私たちが五官を通して理解している世界は、世の中をあまりにも大雑把にとらえているがために、山や平地のように、本当は境界線などないのに、自分と自分以外の世界との間に、境界線があるかのように錯覚をしているのだと教えています。
そして、真実の世の中のありようは、すべてがつながっていて、区別することのできる境界などないのだということを理解することが、本当の智慧を得ることなのだといわれています。
今回ご紹介するSさんは、これまでに、さまざまなセミナーや、上祐代表の説法会などに参加し、大乗仏教の根本教義である「縁起の法」について、常に学んでこられた方です。
Sさんは、一生懸命に教えを学び、瞑想して、真実の世界を垣間見ることで、心がとらわれから解放され、穏やかになったそうです。
それでは、そんなSさんの体験談をご紹介します。
●8月のセミナーで代表のパーソナルガイダンスを受けた後に、次のような体験をしました
パーソナルガイダンス(上祐代表による、その人の問題解決の為の、個人的なアドバイス)で大変印象に残った言葉があります。
それは、「感覚から入る情報と、それを元にした思考は、真実ではなく幻影である。真実の世界のありようは、自分と他人の区別などなく、全てが一体となっている。」という内容です。
そこでセミナー中、ある人への強い嫌悪の感情が起こった時に、その嫌悪感を何とかしたくて「その人(嫌悪の相手)と自分は別々ではなく一体なんだ」と強く思いこもうとしてみました。
しかし全く効果がないばかりか、逆に「自分とその人とは全く別の存在」という思いが強烈にあったのです。
その時の自分の心をよく観察すると、その「強烈な自と他の区別」は「視覚」から来ているということがわかりました。つまり、頭でいくら「自と他は一体」だと考えても、実際に見えているのは、「ここに自分(の体)があって、あそこの離れたところにその人(の体)がいる」という現実です。
この視覚からの(現実/真実と考えている)情報がある限り、自分とその人が一体だなどとはとうてい考えられないことに気づきました。
「どう見たって自分とあの人は離れて存在しいるし、それが現実」なのですから。
そこで「この視覚からの情報が真実ではない」ことを自分に理解させる方法として、「自分の視神経がX線に反応するとしたら、世界の実態はどう変わるか?」という瞑想をしてみました。
それによって得た(心から納得できる)結論は、「いま(真実のように)見えている現実は、自分の目がたまたま可視光線という電磁波の一部分に反応しているからであって、決して世界の本当の姿を映しているのではない」ということです。
そのときには「世界の真実の姿は、今見えているものとは似てもにつかないものだろう」と心から理解できました。
そしてそれを、今見えている「自分と(離れたところにいる)あの人」に当てはめました。
それによって「自分の体とあの人の体は離れて存在しているように見えているが、実際(真実)には、境目などないかもしれないし、つながっているのかもしれない。」ということが理解できたのです。
それが心の深くで理解できた瞬間に、その人への嫌悪感が一切なくなりました。
まるで、今までその人を嫌悪したことなど、一切なかったかのようです。それ以前とは全く別の世界(平行世界)に移動したような感覚でした。
●次に思索が進んだのはセミナー最終日です
セミナー後半は、パーソナルガイダンスを録音したものと、代表が、すべての存在はつながっていて、自分という固定した実態はないのだということを悟るための、無我非我の瞑想の詞章を朗読したものを交互にずっと聴いていました。
そのときは「X線の瞑想」に関連して「では真実はどのように見えるのだろう?」と考えていたのだと思います。
突然ある視覚的なイメージが浮かびました。それは原子、分子が見える眼鏡をかけて世界を見たときのような感じです。
具体的には砂粒のような小さな粒で人間ができているようなイメージで、その粒が固まって(人間)の形を作っているのではなく、ホコリが舞っているようなふんわりとしたイメージです。
形もはっきりしていなくて、皮膚のような内側と外側の境界もなく、周りの空間にも粒がたくさん浮いているので、人間と周りの空間との区別がはっきりしていません。
周りに浮いている粒が人の内側に入ったり内側の粒が外側に出たり、粒も絶えず動いています。
それに加え「気」や「人のエネルギー」も同じように粒として見えるとすると、もっと真実に近くなるようにも思います。
二人の人が会話している光景などはそれはもう、一つの塊にしか見えないのではないでしょうか。
このイメージによって「自分と他の人とは別の存在ではなく、つながり、部分を交換し、空間を含め一体となっている」という瞑想が、ずいぶんとしやすくなりました。
●次に体験が起こったのは、セミナーから1週間くらいたった頃のことだったと思います
セミナー後は、外出するときには代表の録音をいつも聴くようにしていました。
録音を聴きながら道を歩いていたときのことです。
そのときは特に集中できていたのだと思います。
「世界の真実の姿は目に見えているのとは全然違っている」の瞑想に深く入ることができました。
そのときもまた「目から入ってくる情報は真実ではない」という思いが確かに起こりました。
すると、自分(自我)の存在は依然として感じるのですが、意識は自分から離れて客観的に見ているのです。
自分と他の人とを全く同じように(区別なく)平等に客観的に見ています。
自分を特別に大事だとか重要だとも感じられません。他の人が尊重されるのと同じだけ自分も尊重される感覚でした。
そのときにわき起こった思いは、「自我を取り立てて否定する必要はないんだなあ。あってもいいし、なければないでもいいし」という感覚です。
他の人と自分が区別なく同じように客観的に見えているので、「他の人にも自我があって世界が回っているのだから、自分の自我を無理矢理否定しなくても良いんだ」と思えたのでした。
●その体験から3~4日後にもう一度、体験が起こりました
相変わらず、外出時には無我・非我の瞑想の録音を聞き続けていました。
その体験はある小説を読んでいたときのことです。しかも耳からは代表の音声が入っていました。
その小説に「人の意識は細かい意識から成り立っている」というようなことが書いてありました。
それを読んだ瞬間に「意識は細かい意識に分割できて、それらは独立している」という感覚が鮮明になりました。
視覚的には、自分の意識(感覚や感情や思いなど)の一つ一つは砂粒のように小さく、それらが一箇所にふんわり集まって空間に漂っている感じです。
それら一つ一つの粒はごく単純な感情だったり、一瞬の感覚や思いだったりと全く単純なものです。
それらが何万何億個と集まっているのですが、そのぼんやりとした全体を、自分は「私」と呼んでいるのだというふうに見えました。
「私」と呼んでいるその小さな粒の集まりは、その一つ一つの粒を見ればとうてい「私」といえるような代物ではありません。
それら一つ一つは誰もが持っているような単純化された意識(の粒)なのです。
そのような、誰のものでもなく個性といえるような特徴もない、一つ一つの粒が集まっているだけの全体を、私は何となく「私」という名前を付けて、「自分」と呼んでいるのだと思えたのでした。
そのような集まりである「私」に実体などない、と思えたその瞬間、今まで自分の内側に確かに存在していた「自分(私)」が、さらさらと溶け出してしまいました。「自分(私)というのは実態がなく幻影なんだ」と、確かに体感した瞬間でした。
●その後2~3週間たったころの後日談です
生活していて、何となく現実を客観的に見ているような感覚があります。
「自分(自我)にもあまりとらわれていないような、物事を一歩外側から見ているような感じで生活してる」ことに気づいたのです。
心が穏やかで、少しフワフワした感じです。






