聖地巡礼への参加で、原点回帰することができた(TKさん 50代・名古屋)
「ひかりの輪の活動をするようになって自分自身が変わった点」・・
この視点については、未熟者のわたしとしては、変わったというより、原点回帰したという印象が強くあり、ようやく本来の精神修養ができるようになったので、これからこそが真剣にすすめなければならない仏道修行であり、仏法の本来の在り方に忠実な生き方をすべきであると、思いを新たにしています。遅々とした歩みであるかもしれませんが、仏陀の法への希求を少しでもあるべき姿に日々新たに更新してゆきたいものと願っています。
ひかりの輪の活動といっても、自己の置かれた状況の範囲内の活動ですから、あまり全面的サポーター(後援者)としての活動は出来ていません。
その少ない活動参加の中で、聖地巡礼に参加する中で、わたしにこれまた、原点回帰の感慨が、度々襲って来ました。
数々の他宗教を経験してきました中で、先ず、もの心付く前から祖父に連れられて神社仏閣を訪れていました。その後新興宗教の幾つかを経ている間に、過去に生きた人、現に生きている人を、神や仏として尊崇されていることに、疑問を感じていた記憶があります。
その後旧教団に属し、あれよあれよという間に、人を神や仏と同一視する信仰形態に、変わって行った団体に長く所属していたのです。
空海の霊場とされる、小豆島霊場を二十数年前に、積極的に巡礼していたこともありました。
特定の生きた人を、神や仏と同一視しない実践と、象徴物としての仏像、神山を礼拝していく、ひかりの輪の活動は、わたしがかつて抱いていた疑問の再解決の道であり、かつて、よく参拝に訪れていた"いわくら"神山、神社、仏閣の巡礼の、原点回帰である側面があるのです。
そしてひかりの輪の聖地巡礼をしている最中に、「ああっ、あの時どこどこの神社・仏閣を詣でていたなぁ」という記憶が蘇って来るのです。
この原点回帰には、かつての疑問の解決法と参拝において感じることには、別の要素が大きくあります。
ほとんど忘れかれていた、人を神や仏と同一視することに対する素朴な疑問に関しては、はからずも旧団体に属する以前に、この疑問を抱いていたにも拘わらず、その最たる典型的信仰形態を経験したあとですから、その若き日の素朴な観念的疑問とは異なり、現実的に人を神とみなすことの大きな落とし穴を、熟知したあとであるということが、全く異なる視点で、神や仏への信仰の在り方を押し進められる、スタート台に立つことが出来ていると感じています。
そして、参拝(巡礼)においては、聖地・霊場と呼ばれる場に宿される情報が、確かにあることが、強く実感できるようになったと思います。そして、若き日に訪れていた参拝の時は、それらの聖地・霊場に何かを願い願望していた巡礼だったと記憶しています。
若き日の巡礼の在り方と異なり、現在はその場との一体感を感じようとしていて、自らの欲望の成就を願うような、態度はもっていない変化があるように感じています。
最も大きく自分自身が変わったと感じられるのは、安易な信仰対象を外に措定する実践は、容易い側面がある一方で、"法をみるものは仏をみる。仏をみるものは法をみる。自灯明・法灯明。"この視点での法の実践には難行の面があるのです。
安易に外側に神仏を措定し、その人の言うとおりに実践を行うのは、多少自我を無理矢理殺せば案外容易い側面があります。
ところが真に、"仏がこの世に出ても、出てこなくとも変わりのない法" を模索する道は、ややもすると自我を肥大化ししまい、欲望を肯定してしまう落とし穴があるので、これの制御は並々のことでは出来かねるのです。
しっかりした"法"への理解と、正しい"法"へ自己の行いを遵守させる、克己心が要求されるからです。
また自分自身が変わったと感じられる、もう一つの点は、多くの他宗教の方々の実践道を見て、安易に自分たちの実践が正しく、彼らは間違っていると考えてしまう、落とし穴があると思われます。独善的思いに、オウム・アーレフに所属していた時代は嵌ったいたように思い出されます。
しかしながら、他宗教の方々の実践道には、肯定できる面、称賛すべき面が他宗教の方々の実践にある、そして称賛すべきで見習うべきである側面も多くあると、意識することがより多くなったなぁと思いはじめています。
まだまだスタートを切っただけで、幼児のよちよち歩きであり、先達と仲間の会員と共に、あるべき状態にむかって、現在まだある姿を、変革していく努力をしていかなければならないと考えています。
多くの現実に生きる人達と、共に良き未来を願って努力を怠ることなく着実に、遅々とした歩みであっても、歩を進めてゆきたいものと考えています。






