(3)精神の死と再生=菩薩の道
(2008年02月23日)
では、次のポイントについてお話ししたいと思います。
それは、死というものが必ず来るとしたら、死をどういうふうに考えるべきか、という問題です。生きる限り、必ず死ななければなりません。
そこで、「私はどうせ死ななければならない」と悲観的に考えるだけなら、絶望するばかりで、めいってしまいます。しかし、仏教の教えとは、そうではありません。
先ほど、生の喜びの裏には、死の苦しみがある、と言いましたが、仏教的な教えでいえば、逆もまた真であり、死の苦しみの裏側には、生の喜びがある、ということです。
仏教思想では、私たちは、「生と死」をセットで経験していきます。「死ぬ」ということは、今度は「生まれ変わる」ということです。「死と再生」、「死と転生」がセットになっているのが、仏教を含めたインドの思想哲学です。
よって、仏教は、命は大切にすべきである、と説く一方で、死が避けられない中で、死には、悪い面ばかりがあるのではない、と説きます。同時に、生にも、いい側面ばかりがあるのではない、と説きます。生きれば、死ななければならないことを忘れてはならないからです。
こうして一般には、生は良いもの、死は悪いものとして、完全に善と悪のように分けられていますが、仏教的な真理においては、生が死に、死が新たな生に繋がり、生と死の循環を説き、生と死を善と悪に二分してはいないと思います。
◎死後の転生を決める今生の善業・悪業
といっても、仏教の教えでは、「再び生まれるのだから、死んでもまったく問題ない」と単純には考えません。生まれ変わるとしても、それで、幸福になるか、不幸になるかはわからないからです。すなわち、生れ変わり方、どのような転生ができるかというのが、大きな問題となります。
そして、今生において、徳を消耗し、多くの悪業を積んでいれば、死を境にして、非常に苦しみの多い世界に転生してします。その場合は、死の苦しみだけでなく、低い世界へ転生する、という二重の苦しみが生じます。
しかし、今生を正しく生きた場合には、死を境にして、幸福な生が約束されます。その場合は、死が、人間の世界の苦しみから解放され、高い世界に生れ変わり、大きな幸福を得る始まりになるのです。
よって、ダライ・ラマ法王などが語るように、正しく生きた場合は、死は、厭うべきものではなく、幸福な世界に生まれ変わる過程として、楽しみに待つべきことでさえある、と説かれます。こう考えれば、近づく死に際しても、絶望から解放され、苦しみなく、平安な心で死を受け入れる心境になることができるのです。
◎精神の死と再生--解脱・悟り
これまでは実際の死についてばかりお話ししてきました。しかし、皆さんがまず実践しなければならないのは、実際に死ぬ前に行うべき「精神的な死と再生」です。「精神的な死と再生」とは何か。それを「解脱・悟り」と言います。これは肉体の死は伴いませんが、精神的な死と、精神的な再生を伴います。
それはいったいどういうものでしょうか。それは、わかりやすく言えば「煩悩が、エゴが死ぬ」ということです。今までの皆さんの煩悩的な自己が死に、新たに菩薩の境地が生まれます。これは、擬似的な死と再生であって、これを「解脱・悟り」と言います。
よって、私が理想の人生と考えていることは、死に関して深く考え、まず実際に生きている間に自分のエゴが死んで、菩薩として生まれ変わることです。
それは、昔の意識状態が死んで、新しい意識状態に生まれ変わるものです。体験上、新しい意識状態が湧き出てくるというか、生まれ出てくる、というような経験をすることもあると思います。ある意味では、新しい意識が覚醒するということです。
これは精神的な死と再生ですが、これも一つの死と転生ということができると思います。これは、人の精神が進化するという意味で、非常に望ましい人生だと私は思います。
そして次の段階で、実際の死を迎えます。実際の死において望ましいことは、この苦しみの多い人間の世界よりも、より高い世界に転生するということでしょう。ないしは、その人間の生で苦しんでいる人たちを救済するために、菩薩として、意図的に人間の生に生まれ変わってくることでしょう。
こうして、生きている間に、精神の死と再生、解脱と悟りを果たして、実際に死ぬ時にはより高い世界に転生する、ないしは、菩薩として人間の生に転生することが、最も理想な生き方でしょう。そしてこれが「死と無常」について、我々が考えなければならないことだと思います。
◎生に執着もせず、死に絶望もせず
これまでの話をまとめますと、一つ目は、生は必ず死をもたらす、というものです。普通の人は、生を喜びにして生きたいと考えます。しかし、その「生きたい」という願望に基づく我々の生存活動自体が、他の生命を奪う結果を招き、我々も決して死を免れることができません。
生きるからには必ず死ななければならない。生きていく努力が、いつかは死んでいく原因となり、その二つは、同時並行で、不可分であるということです。ですから、生を喜んで、その中で煩悩的な喜び、エゴの喜びを満たし、その逆に死を単に厭うばかりということはやめて、生と死はセットであり不可分である、と考えなければなりません。それによって煩悩・エゴを弱めることができるのです。
二つ目は、いずれ死ぬ、という事実に単に絶望しているのは、仏教の教えではありません。死の裏側には生があるわけです。死ぬからこそ生まれ変わるわけですから、高い世界に生まれ変わるためにも、生きている間に前向きに努力するべきです。
死の裏側にある幸福を理解するのです。普通は「死は不幸だ」と考えますが、生という幸福の裏側に死という不幸があるように、死という不幸の裏側には「死の後の再生」という幸福があるわけです。
ただし、それは正しい善業を積んだ者のみが得られるものであり、悪業を積んでいる者の場合は、死がその後にさらなる不幸を招く、つまり、低い世界に転生するという二重苦がもたらされます。
こうして、生だけを喜んだり、死だけを厭うことをやめ、生の裏には死があり、死の裏には生があると考える。そして、できるだけ正しい生を送り、良い転生を得るべきだというのが仏教的な教えです。
最後に、生まれ変わる、という意味には、広い意味では、二つの意味があります。一つ目は、実際に肉体が死ぬ前に、解脱・悟りを得て精神が生まれ変わること。二つ目は、実際に死んだときに、高い世界に生まれ変わることです。
◎殺し合いのない高い世界について
さて、先ほど、今我々が生きている世界では、生きていくためには、他の生命を奪わなければならない、という矛盾があることについて考えました。しかし、仏典の教えでは、この人間の世界は、相対的に低い世界であり、高い世界では、こういった生命の奪い合いはないとされています。
人間界は、生きていくために、必然的に他の命を奪わなければならず、さらに、長く生きることはできません。他を殺すカルマ(業)の結果として、自分も死ななければならず、しかも、たった百年足らずで、死んでしまいます。こうして、無常性が高く、苦しみの多い、不安定な世界が、人間の世界なのです。
しかし、人間の世界の中にいると、これが当たり前ですから、低い世界であるとか、不幸な世界であるとは感じないかも知れません。人の幸福・不幸の感覚は、あくまで相対的であって、他人との比較によって決まります。人間の世界だけを知っているだけでは、他を殺さなければ生きていけなくても、百年足らずで死んでしまっても、それが悪いことだ、不幸なことだとは、思わないかもしれません。
しかし、仏教の教えでは、高い世界には、生命の奪い合いがまったくなく、非常に長い寿命を持つ世界があると説いています。
他の生き物を殺さずとも、生命エネルギーによって生きる身体をもった世界や、または、身体自体を超越した世界で、非常に長く存在し続ける世界があることが説かれています。これらは、仏典では、色界や無色界と呼ばれています。そして、その上に、完全なる仏陀の境地があるとされています。
◎菩薩の道こそ最も偉大な道
しかし、皆さんの中には、自分だけ、この高い世界に転生するよりも、やはり自分と同じように人間の生でいろいろ苦しんでおり、過去世では自分の父親・母親であったすべての衆生を救うという道、これが、最も素晴らしい、と感じられる人も大勢いるのではないかと思います。
そういう人たちは、苦しんでいる多くの衆生、これを放っておくことはせずに、転生の際には、転生をコントロールして、人間の世界に意図的に生まれ変わってきます。そして、これは本当に素晴らしい道であり「菩薩の道」と言われ、単に高い転生を選ぶよりも偉大な道であると仏教では考えられています。
そして、ひかりの輪では、この菩薩になる、菩薩になっていく実践について、皆さんに、いろいろな指導をしていくことになります。






