第2回 『観音様の教え--すべての人を愛すること』
(2011年01月27日)
2 観音菩薩の一元法則--善と悪・優と劣の区別・二分化を超える
1.善と悪、優と劣はセットで、時と場合によって変化する
善と悪、優と劣は、実は表裏・一体である。そもそも、善とは、他と比較して良い、というものであり、何かを善とすれば、必ず何かが悪となる。全く同じように、何かを悪とすると、何かが善となる。こうして、善と悪は常にセットで存在している。
こうして、善悪は、比較の問題であるから、ある善があっても、より大きな善の中では、それは悪とみなされる。そして、ある悪があっても、より大きな悪の中では、それは相対的に善となる。こうして、善と悪は、時と場合によって変化する。すなわち、固定した実体のないものである。
2.善と悪、優と劣、短所と長所は、表裏であること
さらに、善の裏に悪、優の裏に劣がある。言い換えると、短所の裏に長所があり、長所の裏には短所がある。
例えば、何かに優れている人は、それに劣っている人に比べて、同じく劣っている人の気持ちを理解したり、それを乗り越える手助けをしたりすることは難しい。また、自分が優れているがゆえに、逆に他を活かすということは難しくなる。
言い換えるならば、他に勝つ上での優秀性と、他を愛する上での優秀性は、大きく違っている。先ほども述べたように、現代の社会における一般的な喜びは、他に勝つ、他に優位に立つことによって得る喜びであるが、これとは違って、他を愛することによる幸福感がある。
そして、他に優位になって喜びを得ようとする視点からは優れている人が、他を愛して幸福になるという視点からは、逆に劣っている場合がある。そして、他に優位になる喜びは、その裏にさまざまな苦しみをもたらし、無常であるが、他を愛することによる幸福は、そうではないのである。
3.人と人の違いは、それぞれの個性・役割の違いである
こうして、長所の裏に短所があり、短所の裏に長所があると考えるならば、人と人の間の違いは、善悪や優劣に単純に二分化できるものではなく、個性の違いであることがわかる。
もう少し言えば、それぞれの、全体に対して果たすべき役割の違いである。そして、この世の万物は、その違いによって、お互いが補い合う形で助け合って、相互に依存し合って存在している。
そして、短所の裏に長所があると理解して、努力によってそれを活かすならば、卑屈を乗り越えることができる。また、逆に、長所の裏に短所があると理解するならば、慢心によって落下することがなく、絶えず努力する謙虚さを培うことができる。
4.悪人が、苦しみの経験を経て、善人になっていくこと
さらに、仏教の教えで貴重なものとして、悪人はいつまでも悪人ではなく、徐々に善人になっていくという人間観である。
この人間観を具体的に説明すると、まず、人は、悪人だから悪をなすのではなく、幸福になりたいのに、幸福を得る真の道(=利他)がわからないがゆえに悪をなす。しかし、悪を積み続けているうちに、悪は苦しみをもたらすから、苦しみが増大して、行き詰まる時が必ず来る。よって、ある時点で、自分の過ちに気づいて、真の幸福の道、すなわち、善の道に入っていくというものである。
実際に、釈迦牟尼も、仏となる前の生には、カッサパ如来(釈迦牟尼以前の仏)を誹謗中傷したこともあったとされる。仏教では、如来の誹謗中傷は、最も大きな罪とされるが、その大罪をなした者が、後に仏になったのである。
他にも、999人の人を殺した後に、釈迦牟尼に巡り会い、改心して悟りを得たというアングリマーラや、数十人の親族を呪殺した後に、師に巡り会い、大成就者となったというミラレパなどの聖者が有名である。他にも、仏教は、悪人・悪神が、仏陀・聖者・善神になったという話が多い。
これは、罪を憎んで人を憎まずの精神でもある。人は悪をなすが、それは、その人が純粋に絶対的に悪人だからではなく、無智だからにすぎない。そして、その無智は、悪をなして苦しむ経験からの学習によって、徐々に解消されていくという考えである。
その意味で、悪い行為とは、無智のために一時的に生じるもので、善に至る過渡的な試行錯誤である。それは、無智な者が、失敗から成功を得ていく過程のものである。この意味で、悪と善はつながっており、現在の悪は、未来に善に行き着く、苦しみを伴う準備過程とも解釈できる。
よって、大乗仏教では、「すべての衆生は、未来に仏陀になる可能性=仏性を有し、未来の仏であり、仏の胎児であり、仏の子であるがゆえに仏である」と説く。そして、「この宇宙全体が仏であり、その中で育まれているすべての衆生は、仏の子であって、母なる仏である宇宙が、その母胎の中で仏の子を育んでいる」と考える。これは、胎蔵界曼荼羅の思想と呼ばれる。
5.万物は平等な仏の現れ、という教え
次に、こうした教えを土台として、いよいよ、大乗仏教が説く究極的な教えである、「万物は平等な仏の現れ(ないし平等な仏性の顕現)」という教えについて考えてみよう。より詳しくいえば、大乗仏教は、「この世の万物は、根源仏(例えば大日如来)の現れであって、その中の万物は当然、平等な仏の一部であり、平等な仏の現れである」と考える。
これは、常識的な価値観では理解しがたいが、上記で学んだように、
① 優劣は表裏一体で、人の違いは優劣ではなく、個性・役割の違いであり、
② すべての衆生は、過ちの経験を経て悟り、未来に仏陀になる存在であるということを理解するならば、この教えも理解しやすいだろう。
そして、このそれぞれの異なる個性・役割は、すべて仏のさまざまな要素の一部であって、それらは皆、仏の現れである、と考えるのである。
6.万物を平等な仏の現れ(仏性の顕現)として育む
以上の法則をよく理解するならば、結論として、優劣を設けずに、万物を平等な仏の現れ(仏性の顕現)として尊重して、それを育むべきである、という考え方が出てくる。
そして、「仏の現れとして育む」とは、具体的には、すべての衆生の仏性を覚醒させる=仏陀の境地に至る上でのお手伝いをする、ということである。そして、すべての衆生の仏性の覚醒を助けるために、自ら仏陀の境地に至らんと決意するのが、大乗仏教が説く「発菩提心」という心構えである。
7.大煩悩が大解脱をもたらす可能性
善と悪(優と劣)の区別・二分化を超える教えについて、もう少し深めておこう。まず、「大煩悩大解脱」といわれる教えについてである。これは、煩悩が大きい者が解脱したならば、その解脱も大きい、という考えである。
その一つの例が、大悪業をなしていたガネーシャ神が、観音菩薩に教化されて、聖歓喜天に進化した後は、大善業をなすようになったといわれる話である。この話の中では、過去の悪業も今の善業も大きいのは、エネルギーが強いからだと説かれている。これは、ヨーガ・タントラの思想でいえば、煩悩も菩提心も、その源は生命エネルギーである。よって、煩悩が強い場合には、その煩悩が菩提心に昇華した後は、菩提心も強いという考えが成り立つのである。
これは、チベットの大聖者であるミラレパにも当てはまるのではないかと思う。ミラレパは屈強な身体を持ち、師に巡り会う前は、数十人の親族を呪殺する悪業をなした。これは、強いエネルギーがあったからであろう。そして、その後、改心したミラレパは、修行に励み、大成就者となり、深い智慧と慈悲、そして、さまざまな神秘力を有した、チベットで最も敬愛される大聖者となった。
8.悟りの遅い者が得る、大きな慈悲の可能性--先駆者と普及者の役割分担
次に、煩悩が強く、そのため解脱が遅い者が、大きな慈悲を得る可能性についてである。論理的に考えれば、煩悩が強く、そのため解脱が遅いとしても、そういった者が、解脱を果たしたならば、その経験からして慈悲も深いと考えられる。
なぜならば、自己の体験上、煩悩による苦しみや、煩悩から脱却する上での困難を深く経験しているために、自分のように煩悩が強い者に対する慈悲は深くなり、そういった者を助ける力も強いと考えられるからである。
その一例であるかどうかは確かではないが、仏教が説く釈迦牟尼と弥勒菩薩では、釈迦牟尼の方がはるかに早く解脱する。弥勒菩薩は、釈迦牟尼に遅れること56億7千万年後に解脱するといわれている。しかし、弥勒菩薩は、釈迦牟尼よりもはるかに多くの人々を悟りに導くとされている。
こうして、釈迦牟尼は、弥勒菩薩の導き手・先駆者となる一方で、弥勒菩薩は、衆生済度において、釈迦牟尼の不足を補い、釈迦牟尼の仏教の教えを全人類に広める。実際に、弥勒菩薩は、釈迦牟尼を補完する仏と位置づけられる場合がある。
こうして、先に解脱する者と後に解脱する者が、お互いに助け合って存在している。先に解脱する者は先駆者として、後に解脱する者の道筋を作る。後に解脱する者は、その道を太くして、多くの者が通れるようにし、その普及者となる。これは、どちらが優れているというのではなく、まさに役割分担であり、助け合いであろう。
言い換えるならば、両者は、互いに独立した存在ではなくて、先に助けて後に助けられたり、先に助けられて後から助けたりする、といった相補的(相互依存)な関係にあり、両者が一つの大きな流れの中でつながっている。
《参考》観音菩薩の教え
ひかりの輪では、観音菩薩の法則として、その瞑想伝授教本である『観音菩薩の瞑想』の中の教えを重視している。それは、「すべての衆生は、悟りの境地から見れば、観音菩薩であり、この世界は、観音菩薩の本体である阿弥陀如来の極楽浄土である」というものである。
未来に仏陀になる存在を菩薩というが、大乗仏教が説く、「すべての衆生は、仏性(未来に仏陀になる可能性)を有し、今は一時的に煩悩に曇らされているが、未来には仏性が覚醒し、未来に仏陀になる存在である」という思想に基づいて考えると、すべての衆生は菩薩であると考えることができる。
そして、上記でも述べたが、大乗仏教では、「すべての衆生は、仏陀の胎児(=如来蔵)である」と考え、人間の胎児が人間であるように、仏陀の胎児は本質的には仏陀自体にほかならず、「悟りの境地から見れば、すべての衆生は仏陀であり、仏陀・菩薩の集うこの世界は、仏陀の浄土(例えば阿弥陀如来の極楽浄土)である」と考えることができる。
そして、観音菩薩は、同時に、慈悲の化身ともいわれる。これは、すべての衆生が、本質的には仏であり、仏性を有しながらも、それが未覚醒のために、今現在は大変苦しんでいる。これを深く悲しみ、それを取り除こうとする心(大慈悲)の象徴が観音菩薩とされているからである。






