仏教講義
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【動画あり】21世紀のための仏教講義

第5回『大乗仏教の教え--六つの完成』
(2011年01月27日)


4 六波羅蜜(六つの完成)と十八の実践

では以下に六つの完成自体の説明を行なう。六つの完成とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの修行を完成することである。一つ一つ説明する。





1.布施--三つの布施

第一の布施は、財施である。これは、財物を施すことである。また、広くは労働を奉仕することも含む。財物は人を真に幸福にしないにもかかわらず、現代社会は財物のとらわれが強く、物欲にあふれ、拝金主義の世界であるから、それから解放されるためには、この実践は非常に重要である。

第二の布施は、無畏施(むいせ)である。これは、文字通り解釈すれば、畏れ(恐れ)の無い状態を施す、という意味である。言い換えると、他を恐れから守ることである。そして、これは、その裏に、怒りによって他を攻撃することを避けるという意味がある。

第三の布施は、法施である。これは、法則を施すということである。法則を施す=教えると、自分の理解も深まるため、自己の悟りと利他を求める者にとって重要な実践である。

さて、法施とは、ちまたでいわれる宗教団体の自己拡大欲求に基づくものではなく、すべての衆生を自分の恩人・未来の仏陀と見て、自分と他者を区別せずに、法則を分かち合おうとする心に基づいて、行なうべきものである。その意味で、今生において法則に縁のある人たちすべてに対して、(千手観音菩薩のように)手をさしのべるくらいの心構えが必要である。

もちろん、手をさしのべた結果として、縁があって法則を学ぶかどうかは、もっぱら相手に委ねられる。仏教の教えの達成は、自発的な意志が重要視されるから、当然のことだが、ちまたでいわれるような宗教団体の無理な勧誘などは全く意味がない。

では具体的には、どのような法施を行なうかについては、後述する「21世紀のための宗教の革新」のところを見ていただきたい。会員を増やして教団を膨張させるということを主眼としたのではなく、人類社会全体・万人に開かれた新しいタイプの教団・修行の場を作るのである。

話を元に戻すと、自分の怠惰のために、他と法則を分かち合う実践ができなければ、「自分だけが法則によって幸福であればいい」という、自己中心的な心の働きを乗り越えることができない。法則を、縁あるすべての人と分かち合うことにより、広く大きな心を作るのである。

なお、法施がしにくいと感じる場合は、まず、自と他を区別しないことを含めた教学が不足していると考えるとよいだろう。あらためて、教本を教学したり、発菩提心を含めた密教儀式などをしっかりと行じたりするとよいと思う。

最後に、布施の実践は、法施に限らず、財物や精神的な安寧(あんねい)について、他と分かち合うことであるから、「自分だけ良ければいい」とか、「自分が独占したい」という心の働きを弱めることができる。こうして、自と他の区別を和らげ、利他の心を培うことになるから、智慧と慈悲を体得するために重要な法則である。そして、布施以下の持戒・忍辱・精進・禅定・智慧も、本質的には、これと同じ恩恵がある。


2.持戒--三つの根本戒と十戒

持戒は、例えば、仏陀の説いた十戒(=十悪をなさないこと)を護持することである。十悪とは、①殺生、②偸盗(ちゅうとう)(盗み)、③邪淫、④妄語(嘘)、⑤綺語(必要のない言葉)、⑥悪口(あっこう)、⑦両舌(仲違いさせる言葉)、⑧貪り、⑨怒り、⑩無智(仏法を理解せず、現象をありのままに見ることができない)である。

この十戒の根本は、最後の三つの心に関する戒(貪り・怒り・無智=三毒を避ける)ということができる。この三毒は、根本的な煩悩であるとされ、これから他の悪行も生じるのである。例えば、殺生は主に怒り、偸盗は主に貪り、邪淫は主に無智が原因となることが多い。また、妄語・綺語は主に無智、悪口・両舌は主に怒りが原因となることが多い。


3.忍辱--三つの忍辱

忍辱の第一は、物質的な困窮に耐えることである。第二は、非難・批判に耐えることである。第三は、法則の理解の難しさに耐えることである。

この忍辱の実践は、大乗の修行の中でも非常に重要だといわれている。大乗の実践は、その根幹に、万物への感謝がある。そして、忍辱は、単に苦しみに対する忍耐とか、とらわれの放棄といったものにとどまらず、苦しみを喜びとして、苦しみに感謝するという教えが含まれている(転換の感謝)。それでこそ、敵対者を含めた万物への感謝が生じ、万物を恩人と見た発菩提心の土台となるのである。

なお、三つの忍辱と三つの布施は密接につながっている(表裏である)。財物を施すことは、物質的な困窮に耐えることと表裏であり、怒らずに他を恐れから守ることは、他からの非難・批判に対して怒らずに耐えることと関係し、法則を施すことは、法則の理解(及び法則を理解させること)の難しさに耐えることと表裏である。

さらに、布施と持戒と忍辱には共通点がある。三つの布施と三つの忍辱がつながっているが、この三つの布施と忍辱は、三つの根本戒と合致している。というのは、財施は、貪りを弱め(財物は貪りの原因)、無畏施は、怒りを弱め(怒らずに守るから)、法施は、無智を弱める(法則は無智を弱めるから)。よって、三つの布施・三つの戒・三つの忍辱で、三毒を和らげることができる。

なお、布施・持戒・忍辱の実践と、本質においてよく似ているのが、修行者が悟る上でなすべき三つの放棄である。三つの放棄とは、いろいろな表現が可能だが、仏教用語でいえば、①我所執(がしょのしゅう)(自分のものに対するとらわれ)、②我執(がしゅう)(自分に対するとらわれ)、③邪見(間違った考えに対するとらわれ)である。邪見が、我執・我所執を形成する源であることに注意されたい。

また、ヨーガのチャクラの概念でいえば、①下位の三つのチャクラ(財物・異性・食べ物)の放棄、②虚栄心(プライド)や妬みの放棄(アナハタ・ヴィシュッダに関係)、③間違った善悪の観念のとらわれの放棄(アージュニァーに関係)と表現できるだろう。

一つ目は物欲などの放棄で財施・貪りの止滅と関連し、二つ目の我執ないし虚栄心・プライドは、怒りの原因となることが多いから、無畏施・怒りの止滅と関連し、三つ目の間違った考え方や善悪の観念は、法施・無智の止滅に関連する。


4.精進--三つの精進

精進の第一は、決起の精進である、これは、困難を感じても、決意してダルマの実践に入ることである。人は概して、「楽して幸福を得たい」と思うものだが、ダルマが説く真理は、真の幸福とは、善行を積み上げる努力を経て達成されるものである。よって、常に楽を求める精神からは、ダルマの実践は困難に思えるが、実際にはそれが真の幸福の道であるから、これを乗り越える決起の精進が必要である。

第二は、実行の精進である。これはダルマの実践を遅らせないことである。人は、「今さえ楽であればいい」と考えがちだが、今日できることを明日に延ばすほど、実際には苦しみが増大していくのであることを理解し、今日できることは今日実行する精進が必要である。

第三は、継続の精進である。これは、たゆまずダルマを実践することである。人は、何ごとにつけても、ある程度修行が進むと、途中で気を緩め、修行から離れてしまう傾向があるので、これを乗り越えるのが、継続の精進(たゆまぬ精進)である。

この精進は、法則の実践において、とてもよく問題となる無智・怠惰・慢心を滅するものである。第一の決起の精進は、「楽して幸福になりたい」という無智を超えるものである。第二の実行の精進は、「今さえ楽であればよい」という無智を超えるものである。そして、第三の継続の精進は、「焦らず弛まず努力せずに楽をしたい」という無智を超えるものである。

また、精進とは、発菩提心に基づいた六つの完成の中の実践であるから、それは、すべての衆生の仏性の覚醒への奉仕に対する精進であることはいうまでもない。そして、私たちが、一元の法則の教学をなして、それを現実世界で行為として実現するのが、精進をはじめとする功徳の実践である。

よって、精進の実践とは、教学・行法などによって、自と他、善と悪、楽と苦を区別せずに、すべての衆生の苦しみを取り除くことが、自己の苦しみを完全に取り除くことだと理解し、その教えに、自分たちの日々の実践を合致させて、未来永劫、焦らず弛まず、ひたすら衆生への奉仕・衆生済度を行なうことである。


5.禅定--三つの禅定

禅定の第一は、未真理の瞑想である。これは、まだ、十分にダルマの真理に基づいた瞑想に至っていない段階の瞑想である。教学がしっかりとできていないと、与えられる瞑想をなしても、その深い意味がわからず、瞑想上の気持ちよさなどに意識を取られる場合が、この場合である。

第二は、真理の論理的な瞑想である。これは、ダルマの真理に基づいた瞑想をしているが、それが依然として論理的な思考に基づくものであって、ダルマの真理を直接体験している段階には至っていない。相当に高い段階ではあるが、まだ、煩悩が十分に滅してはいない。

第三は、真理を直接体験している瞑想である。これは、ダルマの真理を直接体験している瞑想であり、論理・思考によらない瞑想である。


6.智慧--三つの智慧

智慧の実践の第一は、教学による智慧である。教学といっても、この段階は、ダルマの真理を知識として吸収しているにすぎない段階である。知識としては吸収しているが、まだ十分な思索・分析がなされておらず、ダルマの正しさを論理的にも体験的にも理解していない。

第二が、推理智(論理智)の智慧の段階である。これはダルマの真理を論理的に分析・思索し、十分に納得している段階である。しかし、この理解は、ダルマの真理の直接体験による理解ではなく、論理によって間接的に、ダルマの正しさを理解した=推理した段階である。

第三が、真理を直接体験している智慧である。これはダルマの真理を(瞑想によって)直接体験して得られた智慧である。

なお、上記のように、禅定と智慧は連動している。これは、禅定=瞑想の結果、心が静まると、智慧が生じるからである。これは、止観の教えの中にも出てくる。すなわち、瞑想によって心が静まる(=止)と、正確な観察が生じる(=観)という教えである。

以上、六つの完成・十八の実践は、煩悩を止滅し、利他の心を培い、仏陀の境地に至るために、私たちの修行に欠かせない重要な実践項目であることをわきまえ、日々励行(れいこう)するべきである。

 

5 付記--オウム真理教の六波羅蜜の解釈の過ちを正すこと

六波羅蜜(六つの完成)は、大乗仏教の伝統である素晴らしい教えであるが、オウム真理教でも六波羅蜜を「六つの極限」と称して実践した点を考慮して、ひかりの輪の六つの完成の解釈が、どのようにオウム真理教の問題を解決し、大乗仏教の伝統の正しい解釈であるかを以下に示すことにする。

それは、六つの完成を実践する準備修行と位置づけられている、①平等心の瞑想、②因果の七つの秘訣の瞑想、③自他平等利他行の瞑想といった、三つの前行に端的に表れている。このことを以下に具体的に説明しておく。この三前行の教えのエッセンスは、まさに三仏の法則と同じでもあり、その意味で、三仏の法則こそが、オウム真理教の間違いを解決する重要なポイントである。

まず、平等心の瞑想では、輪廻の中では、敵味方が頻繁に入れ替わり、各生での人間関係には、固定的な実体がないことを修習する。これに対して、オウム真理教の教えでは、この世界は、過去世から麻原元教祖の集団と悪の集団があるかのようなイメージがあり、これが一連の事件を支える信者の精神構造の一部となった面がある。

しかし、実際には、かつての弟子たちは、私たち自身を含めて大半が脱会し、元教祖を否定するに至ったのが、今生でも確認できる事実である。また、性急に日本の王となろうとし、サリン散布などの非人道的な暴力行為に出た後に、弟子の告発にあって逮捕された元教祖の人格は、比叡山の焼き討ちをなし、明智光秀の裏切りにあった戦国時代の織田信長の性格ともよく似て、部下・家来に裏切られて破滅するタイプであり、その主従関係は、離反が相次ぐ、非常に不安定=無常なものになるはずである。

次に、因果の七つの秘訣の瞑想は、すべての衆生・万物に対する感謝と恩返しを養う教えである。これは、オウム真理教の際に陥った、社会を善業多き魂である自分たちと、悪業多き魂である他者に分けて、「社会が自分たちを弾圧している」という被害妄想や、「その中でキリストの集団となる」という誇大妄想とは、正反対の教えであることは明らかであろう。

そして、この被害妄想の背景になったものと推察されるのが、元教祖の幼少期における不遇であるが、親や周囲に対する不満・被害妄想といった人格の歪みも、法則に基づいて、感謝の実践を行なうならば解消される(例えば、知足・転換・万物の三つの感謝の法則や、内観法などがその実践の具体的な例である)。

よって、貪りを超えて、足るを知り、与えられてきた幸福に感謝すること、そして、苦しみを喜びとして敵対者にも感謝するといった教えは、貪りや怒りの捨断とともに、謙虚さや愛を育んで、誇大妄想や被害妄想を予防することに役立つのである。

最後に、自他平等利他行の瞑想は、自と他の区別を超えた教えである。伝統的な自他平等利他行の思索は、ダライ・ラマ法王などの書籍(『ダライ・ラマ瞑想入門』)によれば、一般的に、利他の行為の利益と、利己・エゴの行為の不利益を考えるというもので、ある意味で道徳的な感じのものである。

それに対して、ひかりの輪の自他平等利他行は、より徹底的なもので、具体的には、三仏の法則などの修習によって、自と他は本質的に一体であるという世界観に基づいて、利他=利己、真の自己=全宇宙・万物、といった認識を確立する。

この教えによって、オウム真理教に見られた、非信者=社会の悪業を、教祖や信者=教団の悪業とは別物と見て、非信者を消去することで(オウム真理教の用語でポアと呼ばれた行為)、この世界を理想の世界にするという発想を乗り越えることができる(なお、オウム真理教でのポアという言葉の使い方は、チベット密教のポアという言葉の使い方と異なる面があるので注意されたい)。

そして、社会の悪業は、自分たちの悪業とつながったもの、投影したものであると考えて、謙虚さを保って、自らの努力を深めることが、社会を浄化することにつながるという考え方を持つことができる。これは、一元の法則を理解する智慧に基づいて、長い間かけて衆生済度を実現するという、忍辱(忍耐)と精進の修行にほかならない。

それから、六つの完成の無畏施についてであるが、ひかりの輪が、教団として行なうべき無畏施がある。それは、オウム真理教時代の問題に起因する、社会の教団への不安を和らげるために、団体全体を挙げて、過去の反省・総括、教団教義と活動の改革、賠償・テロ防止の社会貢献、ならびに団体の現状に関して適切に公表・広報・出版していくといった努力をすることである。

これに加え、今後、各支部の活動における無畏施を考えなくてはならない。それは、少なくとも、①法則を求める一般の人がなるべく不安を持たなくてすむあらゆる工夫をすること、②来道・入会した人を社会的な問題からなるべく守るための努力をすること、③社会が重視するオウム真理教信仰の脱却支援活動として、元信者を導く努力などが含まれるだろう。

また、忍辱の実践とは、現実世界での自我執着の放棄であり、これは、ゾクチェンやマハームドラーの修行の中でも説かれる、現実の試練によって悟りを深める修行に属する。

ただし、オウム真理教のマハームドラーの試練の教義の間違いは、他者=社会を犠牲にした形で、自己満足の世界の中で、自己放棄の修行をしようとしたことであった。この点に十分留意して、反省総括をする必要がある。そして、この自己放棄の修行を、麻原のように社会を犠牲することなしにできてこそ、真の自立の成就でもある。

 

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