仏教講義
上祐史浩の著した特別教本と、それを解説した講話などの仏教講義をご紹介しています。

【動画あり】21世紀のための仏教講義

2011年 GWセミナー特別教本『ひかりの輪と日本と「輪の思想」』
(2011年08月18日)

2011年春に行われたGWセミナーの特別教本です。テーマは、『ひかりの輪と日本と「輪の思想」』です。

セミナーでは、各章ごとに、全7回の上祐史浩による教本解説の講義が行われ、すべてUstreamでネット生中継されましたので、動画をご覧いただきながら、教本を読み進めていただくことができます。

 

◎動画の内容(全7回)

第1回 『輪の思想について』
第2回 『第1章 ひかりの輪「輪の法則」とはの解説』
第3回 『日本の「輪の思想」とひかりの輪』

 >>動画はこちらでご覧いただけます。


第4回 『第4章 競争社会を輪と和の精神で生きる、真の大和魂・和魂洋才』
第5回 『第5章 太古から続く輪の思想の系統とひかりの輪』

 >>動画はこちらでご覧いただけます。

 
第6回 『第6章ひかりの輪と日本とのシンクロニシティ、第7章ひかりの輪のホー  リーシンボル(神聖な象徴物)』
第7回 『第8章 正しい神仏への祈願、聖徳太子・ 如意輪観音を象徴として』

 >>動画はこちらでご覧いただけます。

 

 

 2011年GWセミナー特別教本 『ひかりの輪と日本と「輪の思想」』


第一章 ひかりの輪の「輪の法則」とは


  1 「ひかりの輪」とは何か

  ひかりの輪とは、「輪の教え」ないしは「一元法則」と呼ばれる思想に基づ   いた団体である。輪の教え(一元法則)とは、簡単にいえば、万物が輪のように繋がっていて、一体であると見る思想である。
そして、ひかりの輪は、その思想によって、個々人をさまざまな苦しみから解放し、人と人、および、人と大自然の調和を促進し、理想の未来社会へ向かうことを目的としている。一言でいえば、輪の教えによる調和を広める団体である。

 

この一元法則は、太古から育まれてきた人類の普遍的な道理・真理である。輪の思想は、日本では縄文時代まで遡り、和(輪)を重視した聖徳太子の思想もそうであり、それゆえに、日本文化の中核にある思想である。また、日本に限らず、世界に広がっており、法輪を象徴とする仏陀の法も、道教の陰陽・太極の思想も、ヒンドゥーの思想も、輪の思想の本質がある。
なお、ひかりの輪という団体名は、団体の発祥の経緯となった、聖地で体験された「太陽の周りの虹のひかりの輪」などに由来している。「ひかり」は、無智の闇を照らす精神的な智慧の光、すなわち、教えという意味があるから、ひかりの輪とは、輪の教えという意味が含まれている。
 

2 輪の法則とは

輪の法則とは、万物が輪のように繋がって一体であると説く、さまざまな教えの総称である。そして、輪の法則を言い換えて、一元法則ということがある。一元法則とは、万物が一つの根元を有し、本質的に一体であることを意味している。なお、単純にすべてが同じであるという意味(単一論)ではない。
ひかりの輪において、最も中心的な一元法則は、「三仏の一元法則」と呼ばれている。それは、釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩という三者の仏陀にちなんだものである。それに次いで、「三乗の一元法則」がある。それは、万物が相互に依存しあって存在し(縁起)、同根であり、循環しているという三法のことをいう。

3 三仏の一元法則とは

まず三仏とは、過去・現在・未来の三世の仏である釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩である。過去世の仏が、2600年前に現れて入滅した釈迦牟尼である。現在世の仏が、さまざまな人・生きものの姿で現れるとされる観音菩薩である。未来の仏が、仏教で未来仏と信じられている弥勒菩薩である。
次に、その三仏の一元法則とは、三仏に象徴される、三つの一元法則である。なお、過去・現在・未来が連続しているように、三仏は本質的に一体である。よって、この三つの一元法則も、本質的には一体で、言い換えると、同じ普遍的な道理を三つの視点から見たものである。
この三仏の一元法則については、『中道の教え、卑屈と怒りの超越--21世紀の新しい信仰のあり方』(2010年~11年 年末年始セミナー特別教本)、『三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜--21世紀の宗教の革新』(2010年夏期セミナー特別教本)、『一元の法則とその悟りの道程』(2010年 GWセミナー特別教本)といった、過去の特別教本で詳しく述べてきたので、詳細はそちらを参照されたい。今回は、その要点を簡潔にまとめておく。


4 釈迦牟尼の一元法則--苦楽の輪を悟る

釈迦牟尼の一元法則を簡潔にいえば、欲楽と苦しみが輪のように一体であり、欲楽の裏に苦が、苦の裏に楽があると知って、万物を恩恵と見て感謝し、すべての衆生と苦楽を分かち合う大慈悲の実践をする、というものである。
まず、人は、自分だけの喜び(欲楽)を求めて貪っても、さまざまな苦しみを招くことになる。欲望は際限がなく、貪り求めても満ち足りないが、とらわれ・執着を生じさせるので、求めても得られない苦、得たものを失う苦、奪い合う敵対者を作る苦などが生じる。こうして欲楽はさまざまな苦しみをもたらす。
一方、苦しみは、その背景に何らかのとらわれ・執着があるから生じるものであるために、それに慣れるならば、とらわれ・執着が弱まって、苦しみではなくなっていく。その結果として、より広い条件で、幸福でいることができるようになる。
また、苦しみの経験は、特に法則を学んでいる者には、智慧や慈悲の源となる。苦しみの経験によって、欲楽の裏に苦しみがあると悟る智慧が生まれる。さらに、他の苦しみを理解し、取り除く力を育むことも助ける。苦しみが、智慧と慈悲の源となるのである。
こうして、欲楽が苦しみを、苦しみが楽をもたらし、欲楽と苦しみは、輪のように循環して一体となっているのである。
さて、こういった楽と苦の循環は、欲楽を求める場合には生じるが、利他の行為による喜びの場合には生じない。よって、仏教では、これを真の楽(真楽)と呼ぶこともある。この利他の実践とは、簡潔にいえば、他の幸福を助け、他の苦しみを取り除き、他と苦楽を分かち合うことである。
この実践をする者は、他と幸福を分かち合う中で、自ずと、自らの欲楽にとらわれて他と奪い合いをするなどの苦しみはなくなる。その一方で、他の幸福を助けることは、他が支えている自分の幸福も支えることになる。
また、他と苦しみを分かち合う中で、自分が苦しみに強くなる。他の苦しみは自分の潜在的な苦しみ(未来の苦しみ)であるから、それは、自分の未来の苦しみを取り除き、苦しみに強くする。こうして、他を利することは自己を利することであり、自と他の幸福と不幸は一体である。
よって、仏教は、真の幸福(真楽)に到る道として、万物を一体と見る智慧(智恵)に基づいて、万人・万物と苦楽を分かち合う大慈悲(四無量心)の実践を説くのである。

以上の考察に基づいて、正しい生き方を考えると、以下のようになる。

(1)欲楽を貪らず、今ある楽・幸福に気づいて足るを知り、それを支える万物に感謝する。
(2)苦しみが、智慧と慈悲の源と知って感謝する。
こうして、苦楽を含めた万物が恩恵と知って、万人・万物への感謝と恩返しの心を持つ。
(3)感謝をもって、万人・万物と苦楽を分かち合う(=大慈悲の)実践をする。

以上をまとめていえば、万物への感謝と分かち合い(知足と大慈悲)の実践ということもできるだろう。

これらの教えを仏教用語で表現すると、自分や自分のものにとらわれずに(自我執着を滅し)、無我や空の悟りの境地に到るとともに、すべての衆生への慈悲の心(四無量心)を体得することである。自分にとらわれず、すべての衆生を愛する意識を培うのである。
この自我執着の根本は、「自分」という存在に対する執着である。誰もが自分の生に執着するがゆえに、老い、病み、死ぬことを恐れる。よって、生・老・病・死を含めた人間の苦しみを仏教では四苦八苦という。しかし、悟りに到った仏道修行者は、必ず死ぬ運命にある無常な生への執着を超えて、老い病み死ぬことへの恐怖をも超えた無我の境地に到達する。これは高度な悟りの段階だが、しかし毎日のコツコツとした修行の延長上にある。
とはいえ、仏教は生を軽視することはない。むしろ人間としての生は宝のように貴重なもので、それを大切にして、悟りを達成し他者を救済するべきであると説く。しかし、生への執着を超えているがゆえに、恐怖なく天寿をまっとうすることができるのである。


5 観音菩薩の一元法則--善人・悪人の輪を悟る

観音菩薩の一元法則を簡単にいえば、善人と悪人はまったく別々の存在ではなく、本質的には輪のように繋がっていると知って、慢心や卑屈を超えて万人を平等に尊重し、さらには、万人を学びの対象と見て感謝して、大慈悲の実践をすることである。
今、善人とされている者も、慢心を抱いて、悪人とされている者と自分を区別して、内省の心を欠くと、悪人に堕することになる。一方、悪人とされている者も、正しく反省して努力すれば、未来には善人になる。
こうして、自と他を区別し、善人と悪人を区別する限りは、善人と悪人は輪のように循環(輪廻)してしまうことがよくわかるだろう。逆に、謙虚な心をもって、両者を区別しない者は、善人から悪人へと循環(輪廻)していくことはなくなるのである。そして、仏教では、すべての人々・生きものが、今はどうあれ、未来においては仏陀になる可能性(仏性)を有していると説き、謙虚になって万人・万物を尊重することを説く。
なお、これとまったく同じ内容の教えを、観音菩薩(如意輪観音)の化身とされる聖徳太子が、その「十七条憲法」の第十条において説いている。それは、「自分だけが聖人で他は愚かであるということはなく、人は皆賢くもあれば愚かであって、それは耳の輪のようなものである」というものである。ひかりの輪では、「和の思想」で有名な太子の十七条憲法は、その土台に「輪の思想」があると考えている。
また、悪人とされる者も、善人とされる者も、その者だけの原因・力によって、それぞれが悪行や善行をなしているのではない。そもそも、悪人も善人も、人は皆、自分だけの原因・力で生まれ育つのではなく、親から生まれ、その後の環境の影響を受けて育ち、いうなれば、この社会・大自然・宇宙全体によって作られたものである。
こうして、善人を形成した社会は、その一部に悪人を含み、同様に、悪人を形成した社会は、その一部に善人を含んでおり、悪人と善人は、社会・宇宙の一部として、本質的には輪のように一体になって繋がっている。
よって、自と他を区別せずに、悪をなす者を慢心によって嫌悪するのではなく、自分の中の潜在的な悪を投影する存在=反面教師と見ることが重要である。また、同様に、善をなす者を妬むのではなく、自分の教師・見本と見ることも重要であり、善人・悪人を含めた万物を、自分の教師・反面教師、導き手・鏡と見て、尊重・感謝するのである。
そして、単に他を鏡と見て学ぶだけでなく、他の悪行とそれによる苦しみを、自己の苦しみと考えて悲しみ、それを取り除く手助けをする。他人が悪行を脱却することを手助けするならば、自分が未来に同じ悪行に陥ることを未然に防ぐことができる。また、他人の善行・幸福を手助けすれば、他人に支えられている自分の幸福も増大することになる。
こうして、他の苦しみを取り除くことは自己の苦しみを取り除くことであり、他の幸福を助けることは自己の幸福を助けることになる。他を利することは自己を利することになる。これが仏教が説く大慈悲の実践である(大慈悲の慈とは、他に幸福を与えることで、大慈悲の悲は、他の苦しみを悲しみ、それを取り除くことである)。

以上の考察に基づくならば、正しい生き方を考えると以下のようになる。

(1)万物を平等に(未来に仏陀になる可能性を有する存在として)尊重する。
(2)万人の善行・悪行を自己の教師・反面教師と見て学んで感謝する。
(3)感謝をもって、他の善行・幸福を助け、他の悪行・苦しみを取り除く、大慈悲の実践をする。

まとめていえば、万物の尊重と感謝に基づく分かち合いの実践である。そして、慢心を抱かず、謙虚な智慧をもって、万物を尊重する実践をする者が、真の善人=菩薩となっていく。

 

6 弥勒菩薩の一元法則--自と他の輪を悟る

弥勒菩薩の一元法則を簡単にいえば、自と他を含めた万物が、輪のように循環して一体であると知って、自と他を区別せずに、他の幸福・不幸を自己の幸福・不幸と考え、大慈悲の実践をし、真の自己が無限の宇宙であることを悟ることである。
まず、自と他を含めた万物は、輪のように循環して一体となって存在している。例えば、人は、両親を含めた万物・大自然から生まれ、死んでは、自分は、他人を含めた万物・大自然に戻っていく。これは、太陽や地球といった星も同じであり、大宇宙から生まれ、大宇宙に戻っていく。この循環を繰り返している。
体について注目すれば、他者が死んでは、それが自分の体の一部となり、自分が死んでは、それが他者の体の一部となる。また、生きている間も、自分と他者・外界の間では、その体を構成する分子が絶えず交換されており、自分だけの体の分子などない。
また、体に加えて、思考・感情の面でも、自分だけで作った思考や感情などはなく、生まれてからずっと、他者から吸収した言語・知識・情報に基づいてそうしており、自と他の間で絶えず影響を与え合っている。こうして、自分だけの体も思考も存在せず、自と他を含めた万物は、物心両面で、互いの要素を交換・循環させながら、一体となって存在しているのである。
さらに、仏教等が説く輪廻転生説に基づけば、人は死んでは生まれ変わり、生まれ変わっては死ぬという生と死の循環の中にいる。この意味でも、今生において、自分と他人とを区別して、(今生の)自分だけを愛して執着しても、それは死によって無常に消え去っていくものであるから、空しい結果となる。

これに基づいて、正しい生き方を考えると、以下のようになる。

(1)自他を含めた万物は、輪のように循環し一体であると知る。
(2)他の幸福・不幸を、自己の幸福・不幸と考え、大慈悲の実践をする。
(3)老い病み死ぬ、無常な自我ではなく、無限の宇宙全体が真の自己であることを悟る(宇宙意識)。

まとめていえば、万物が一体と見て、分かち合い、万物と同化する実践である。

さて、釈迦牟尼が説いた中核の教えとして、「縁起の法」がある。それは、「我があるがゆえに、彼があり、彼があるがゆえに、我がある」という教えである。大乗仏教では、これを解釈して、「万物は相互に依存しあって存在し、他から独立した固定した実体を持つものはない」と説いた。また、これに関連して、固定した実体がないことを「空」であるというが、よって、この世の一切は空であると説く。
そして、特に、私たちが「私」と呼んでいるもの、すなわち、心や体で構成される自我存在には固定した実体がなく、老い病み死んでいく無常なものであるから、それに過剰に執着するべきではないと説くのが、無我の教えである。
この教えは、真の自己とは、本質的には一体である無限の宇宙であると言い換えることもできる。これをぼん梵が我いちにょ一如ともいう(自己の本質と宇宙の根本原理が同一であること)。また、これを宇宙意識と表現することもできる。真の自己を強調するのは、仏教よりも、ヒンドゥー、ヨーガの教え・表現である。
なお、縁起の法と輪の法則は、両者とも、万物が繋がって一体であると説いている点で、本質的に同じものである。本質が同じであるせいか、縁起の法を中核とする仏法は、興味深いことに、法輪(ダルマチャクラ、法則の車輪の意味)というもので象徴される。仏教の教えを説くことを、法輪を転じると表現するのである。
また、輪は円に通じるが、日本語では、円は縁と同じ発音であるところも興味深い。輪・円・縁はすべて、何かと何かが繋がっているという概念である。この縁という概念は、ご存じの通り、日本文化に深く浸透しているものである。


7 輪が象徴するさまざまな重要な事柄

さて、ひかりの輪において、輪という言葉が象徴しているものは、①「輪の法則」や、その悟りの境地だけではない。それは、②宇宙や宇宙の創造原理、さらには、③仏教の根本的な修行体系までを示している。
まず、輪は、「宇宙」も象徴している。輪は、丸い・円という意味を含むが、この輪や円は、さまざまな思想において、宇宙を象徴することがある。例えば、仏教における曼荼羅は、仏の悟りの境地や、真理や宇宙を象徴したものだが、その元の意味は円である。また、禅においても、円相というものがあるが、これも悟りの境地・真理・宇宙を象徴する。
ここで、悟りの境地と真理と宇宙が、同じ一つの輪・円という象徴で表されるのは、悟りの境地が、自と他が一体という輪・円の真理を体得して、心が宇宙と一体となった境地であることに関係しているのだろう。
また、古代人にとっては、宇宙と輪は、不可分のイメージだっただろう。星々が回転する夜空を見ても、太陽が回転する昼間を見ても、宇宙は輪・循環・回転するものだった。現代では、地球も太陽も銀河系も回転することが知られている。そして、インド仏教最後の経典である「カーラチャクラ・タントラ」は、宇宙の根本原理を「時の輪」=周期的な運動・循環であるとした(カーラチャクラとは時の輪という意味)。
さらに、輪は、「車輪」という三次元的な意味がある。日本語でもそうだし(『広辞苑』など参照のこと)、サンスクリット語で「輪」を意味する「チャクラ」も、車輪という意味がある。先ほども述べたが、仏法の象徴の法輪・ダルマチャクラは、法則の車輪という意味である。
そして、この車輪は、輪の部分と、軸となる直線上の部分、言い換えると、輪と柱の二つの要素の合体で構成されている。そして、これをこの世を構成する「女性原理・男性原理」の象徴と見る思想がある。
例えば、ヒンドゥーのリンガの信仰や、縄文時代のストーンサークル(環状列石)などである。ヒンドゥーのリンガ信仰では、この世の万物は、柱と輪が象徴する男性原理と女性原理の合体によって創造されたとし、その両者が本質的に一体であると解釈する宗派もある。
なお、道教でも、「陰陽」と呼ばれる男性原理・女性原理が万物を展開しており、両者は同根であるとする(両者の根元は「太極」と呼ばれる)。ただし、道教では、柱と輪の合体物ではなく、円の形をした太極図によって、その思想を象徴する(円の中に、陰と陽を組み合わせて表現している)。
最後に、大乗仏教においては、この両者が「智慧(智恵)」と「方便」という、仏陀の境地に到るための二大要素を象徴している。具体的には、方便を男性原理と見て、柱状の法具(金剛杵・ヴァジュラ)で表す。智慧を女性原理と見て、輪状の法具(金剛鈴・ガンター)で表す。
ここで、女性原理である智慧は、空の悟りを示している。男性原理である方便は、手段という意味である。これは、空の悟り=智慧を得るための手段である。言い換えると、修行法、特に、利他の手段、功徳を積む手段を中心とした修行法を意味する。よって、車輪=柱と輪は、悟りの境地と、悟りを得る手段・修行法を象徴している。
そして、智慧と方便は不離一体とされる。方便=修行法の実践が深まると、智慧が深まるだけでなく、智慧が深まれば、また、方便=修行法の実践が深まるということである。そして、智慧と方便の同時一体の体得が、仏陀の境地とされる。
こうして、輪とは、円・車輪・循環などに通じ、①私たちが学ぶべき一元の法則と、それを体得したときの悟りの境地に加えて、②この宇宙全体やその根本原理、③さらには宇宙の創造原理としての男性原理・女性原理(陰陽)、さらには、④悟りとそれに到る修行法の関係という根本的な修行体系まで、さまざまな重要な概念を包み込んでいるのである。

   

第二章 日本の「輪の思想」とひかりの輪


1 日本の「和の思想」は、縄文の「輪の思想」から

ここでは、日本民族の根本思想としての「輪」について述べる。ご存じのように、日本の文化の根本には、和の思想がある。そして、じつは、この和の思想の源が、輪の思想であり、それは縄文時代まで遡るという説がある。
その前に、まず、日本人は、自分たちのことを「ワ」と呼び続けてきた。『魏志倭人伝』には、日本人・日本国が、倭人、倭の国と表現されている。これは、当時の日本人が自分たちを「ワ」と呼び、それを聞いた中国人が、それに漢字の倭を当てたというのが有力である。
そして、日本人は一人称に、同じように、我、我々、私など、ワという言葉を当てている。これはどうやら日本語のルーツとなった言語から来たようである。
ワは、日本を表す言葉として今も残っている。国の名前は、倭から大和(やまと)に変わったが、「やまと」に当てられた漢字には、和=ワが入った。さらに、和洋、和食、和室と、日本のものを和=ワという音・言葉で表し続けている。
そして、冒頭に述べたように、この倭・我・和などの漢字が当てられたワという言葉の語源は何かというと、一説に、「輪」・「環」ではないかという。それは、縄文時代の集落の形状が輪であったことから来るということである。
いわゆる、環状集落、環状列石(ストーンサークル)と呼ばれる縄文時代の居住形態である。輪の中に広場があり、集会その他の共同活動が行われたのではないかと推察されている。
そして、この輪の居住形態は、単に集落の物理的な形態を意味するだけではなく、万人が平等で一体という共同体の運営理念の現れであり、ここに、今現在も依然として根強く残っている、和を重んじる日本文化の源があるという説である(この説の詳細について、ご関心がある方は、末尾の参考文献・ブログ等を参照されたい)。
これは、要するに、日本のワの文化は、聖徳太子の十七条憲法が始まりではなく、縄文時代の輪状の集団生活に源があるということである。


2 「和の国」は「輪の山」から、大和政権の発祥地は三輪山

さて、ここで参考までに、もう一つ不思議な、輪と和の合体がある。それは、倭の後に、日本の国の名前となった「やまと(大和)」についてであるが、この語源にも、なんと、輪が関係している。
やまと(大和)や、やまたい(邪馬台)の語源は、山の麓であるという説があるが、具体的には、大和政権の発祥地になった奈良県のみわやま三輪山の山の麓とされているのである。こうして大和は、三輪山から生まれ、和の国が、輪の山から生まれたことになる。
また、この付近は、学問的に大和政権の発祥の地とされているが、最近は、当地にあるまき纒むく向遺跡の発掘による新発見が相次ぎ、それをさらに遡って、卑弥呼の邪馬台国の地としても非常に有力になりつつある(すなわち、邪馬台国畿内説=大和朝廷の前身がそのまま邪馬台国であるという説)。


3 聖徳太子の和の思想は、輪の人間観に立脚している

さて、一般に和の思想の原点とみられるのが、聖徳太子の十七条憲法であるが、じつは、これにも、「輪の思想」が表現されている。十七条憲法では、最初の第一条で、ご存じのように、和の尊さを強調し、最後の第十七条に、重要なことを決める際に皆で話し合う衆議の重要性を説いている。
そして、そういった指針の根拠として、第十条に、万人平等主義的な人間観・思想が説かれており、それを「輪」という言葉で喩えている。具体的には、「自分だけが聖人で、他が愚かであるということはない」、「人は皆賢くも愚かでもあり、それは、耳の『輪』に端がないようなものである」、「(他に)憤ってはならない」などとしている。
こうして、十七条憲法は、全体として、慢心や自我執着と、それによる他者への軽蔑・怒りを捨てて、他を尊重し、和や衆議を重視せよという内容になっている。
そして、偶然だったのだが、この聖徳太子の「ワ」(輪と和)の思想は、先に述べた、ひかりの輪の教え・活動目的と非常によく似ている。特に、この第十条は、ひかりの輪が説く、観音菩薩の一元法則と呼ばれるものそのものである。
ひかりの輪が重視する大乗仏教の世界観は、優劣の比較が強い現代の競争社会と違って、万人平等主義的な思想である。そして、聖徳太子も、仏教を篤く信仰し、大乗仏教の経典を解釈しているから、同じ人間観を持っており、それを仏教の言葉ではなくて、日本古来の万人平等の思想の象徴である「輪」という言葉で喩えたのだろうか。
いや、より正確に表現すれば、そもそも日本には、仏教伝来より遙か以前の太古から、平等主義的な人間観・世界観である「輪」というものが根本的な精神としてあって、それが太子にも染み込んでいて、外来の思想である仏教は、その日本伝統の思想との共通点があったから、日本文化の中に溶け込むことができたのではないだろうか。
そして、日本に仏教を導入した聖徳太子は、日本の伝統的な思想を無視して仏教を導入したのではなく、両者をマッチングさせて、両者の共通点を強調して、それを導入したのではないかと思う。いわゆる和魂漢才(和魂洋才)・和洋折衷である。
そして、その後も、この傾向は続き、日本の仏教は、万人平等主義の輪・和の思想に合わせて、すべての生きものに仏性(未来の仏陀になる可能性)を認める大乗仏教の考え方が主流となった(これを「一切衆生しつ悉う有ぶっしょう仏性」などという)。
さらには、インドの大乗仏教さえも超えてしまって、生きもの以外の万物・山や川や草や木にまで、仏性を認める日本独自の解釈を生むことになった(さんせんそうもくしつ山川草木悉う有ぶっしょう仏性〔しっかい悉皆じょうぶつ成仏〕)。これは、やおよろず八百万の神などとして、大自然すべてに神性を認める神道にも見られる。
そして、その源は、仏教や神道の歴史をはるかに超えて遡り、縄文時代の輪の精神や、それに基づく精霊信仰などの原初的信仰にあると思われる。


4 ひかりの輪と聖徳太子の輪の思想

なお、ひかりの輪の「観音菩薩の一元法則(輪の法則)」と同じ内容の教えを聖徳太子が説いているのは、太子が観音菩薩の化身とされていることもあって興味深い。
さらに太子は、さまざまな形態を有する観音菩薩の中で、「如意輪」観音菩薩の化身とされており、輪を象徴とした観音菩薩の化身である。こうして、輪を象徴とする観音菩薩の化身である太子が説いた輪の教えが、ひかりの輪の観音菩薩の輪の教えと同じ内容だったことになる。
また、繰り返しになるが、十七条憲法が、その全体として、第十条の「輪」の平等主義的な人間観・世界観に基づいて、第一条の「和」を重視する構成となっていることも、ひかりの輪の発足の目的・活動目的の表現とまったく同じである。
具体的には、ひかりの輪の公式サイトには、「新団体『ひかりの輪』では、...すべての人々...の間には、...輪のような繋がりがあり、皆が助け合って生きることが、大切だという...ことを『輪』という言葉で表現したのです。...こうして、新団体『ひかりの輪』は、21世紀の社会で、...人と人の和合・助け合いが進み、...さらには、人類と大自然・地球との調和が深まることを願っています。」と明記されている。
これらは意図的に一致させようとしたのではまったくなく、ひかりの輪発足から4年を経た今年2011年になって聖徳太子の十七条憲法を精査して気づいたことである。不思議なことであるが、日本民族として共有するDNAの影響であろうか。


◆関連資料1 縄文時代の輪の思想

1「『わ』の思想の源流-十七条憲法以前の和の思想-佐倉哲」
(http://www.j-world.com/usr/sakura/japan/origin_of_wa.html)
2「環状集落に見る円の思想」(武光誠氏『一冊でつかむ天皇と古代信仰』〔平凡社〕)
3「森の思想」「循環の思想」(梅原猛氏の著書『「森の思想」が人類を救う』〔小学館〕、梅原猛氏、稲森和夫氏『人類を救う哲学』〔PHP研究所〕など)


◆関連資料2 聖徳太子十七条憲法(第一条、第十条、第十七条)

◎第一条:和の重要性
一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが) う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
〔現代語訳〕
一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。

◎第十条:平等主義的人間観--人は皆賢くかつ愚か=万人に仏性あり、万人は皆凡夫
十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖 (いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(ひと)り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙 (おこな)え。
〔現代語訳〕
十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。
(中略)

◎十七条:衆議の必要性
十七に曰わく、それ事(こと)は独(ひと)り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。故(ゆえ)に、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、辞(ことば)すなわち理(ことわり)を得ん。
〔現代語訳〕
十七にいう。ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。

 

第三章 日本の国土に育まれた、ひかりの輪の「輪の思想」


1 「ひかりの輪」という団体名称の由来

繰り返しになるが、ひかりの輪の「輪と和」の思想は、聖徳太子の和(輪)の思想や、縄文時代に始まったと思われる「ワ」の精神を学習したうえで作られたものではない。
それは、私をはじめとする現在のひかりの輪の中心的なスタッフが、日本の聖地・自然や、神社仏閣などに親しむ中で、自ずと育まれてきたものである。その意味で、ひかりの輪の思想は、日本の国土・文化に育まれた自然発生的なものということができる。
それが、その後、以前から重視していた仏教の教えと結びついたのである。
仏教では、仏陀と仏法の象徴として法輪(ダルマチァクラ)がある。また、インド仏教最後の経典には、「時輪タントラ」と呼ばれ、時の輪=循環を宇宙の根本原理とする教えがある。こうした経緯があって、2007年の団体の発足の際に、団体名を「ひかりの輪」としたのである。その後、仏教に加えて、道教の陰陽の循環の思想も結びついてきた。
そして、有名な聖徳太子の十七条憲法の「和の思想」の中に、ひかりの輪と同じ「輪の思想」を発見したのは前に述べたが、今年である。2月7日に聖徳太子誕生祭を行ったが、その前後であった。そこで思い直してみると、2002年に最初の虹の体験をして以来、聖徳太子や日本の縄文文化に見られる輪の思想に、たびたび触れあっていることに気づいたのである。
そして、それらの経緯をまとめてみると、驚くべきことに、縄文時代から現代までの遙かなる時空を超えて、この日本の国土には、輪・和の思想と、その霊的なエネルギーが確固として存在しており、オウム真理教で、それとは正反対の善悪二元論に基づく闘争にはまり込んでいた私たちを、それらが救い出していった結果としてできたのが、「ひかりの輪」ではないかと思うのである。


2 麻原への盲信を超える仏教的な気づきとシンクロした、天空の体験

そこで、私がオウム・麻原信仰から脱却した経緯をざっと振り返ってみたい。
まず、私は、2002年6月に、大きな転機となる体験をした。それは天空に、太陽の周りに何重もの虹のひかりの輪を見たことである。虹をすべて数えると、全部で七つあったので、七重の虹の体験と呼んでいる。
ただ、重要なのは、その直前に経験した瞑想の内容である。そのとき私は、長年悩んでいた麻原に対する疑問・違和感・嫌悪感に対して、瞑想によって一つの気づきを得て、心が晴れるという体験をしていた。それは、麻原と自分が別ものではなく、同じ条件に置かれれば自分もそうなる可能性があり、自己の潜在的な要素、自己のカルマの投影(としての自業自得)であるというものだった。
この気づきは、私に、麻原の盲信を続けるのでもなく、「自分は騙された」として自己の責任を回避して麻原を憎むのでもなく、自己の責任を自覚して、憎しみなく麻原から自立していく出発点に立つことを可能にした(とはいっても、完全な自立には、それから何年も費やすが)。
そして、当時は気づかなかったが、麻原と自分が別ものではないという仏教的・一元的な気づきと、太陽の周りの虹の「輪」には、興味深い一致点がある。というのは、仏法の象徴が「輪」だからである。
厳密に言えば、仏教では、仏法の象徴を「法輪」(ダルマチァクラ)で表す(法輪の形は団体のシンボルマークに用いられているので表紙のそのマークを参照されたい)。釈迦牟尼の最初の説法も「しょてん初転ぼうりん法輪」と呼ばれ、その中核の教えの「縁起の法」は、万物が互いから独立した存在ではなく、輪のように繋がっていることだとも表現できる。
さらに、インド仏教最後の経典は、「時輪経典」と呼ばれるもので、宇宙の根本原理を「時の輪」(周期的な運動=循環)と説いた。そして、不思議なことに、私がこの七重の虹を見た日は、私が時輪経典を初めて学んでからちょうど9年後で、時の記念日である6月10日だった。しかも、この日、私の友人が、私とは別のところで、時輪経典の仏(時輪尊)の形によく似た虹の雲を見たと教えてくれたという事実まであった。
さらに、2002年の7月には、太陽の周りの虹だけでなく、それにスポークのような直線的な虹の雲が加わったものを見た。これはさらに法輪を連想させるものであった。しかも、それは、私が、仏教の中核の教えである苦楽表裏の教え(苦と楽が輪のように繋がっていること)に基づく瞑想をしていたときのことであった。
こういった経緯から、今現在、ひかりの輪では、この太陽の周りの虹は、天空に表現された法則の象徴、天空の曼荼羅などと解釈されている。そして、ひかりの輪のシンボルマークは、太陽の周りの虹の輪と法輪を融合させたものである。
なお、精神医学者のカール・ユングは、長年の研究の中で、人の内面・心と外界の現象が、偶然にも重要な一致を見る現象があると考えるようになり、それを「シンクロニシティ」と呼んだが、私の瞑想体験と外界の虹の体験や、一般によくいわれる正夢なども、その一種ではないかと思う。


3 聖徳太子の伝説とシンクロしたヴィジョンや、聖地での体験

さて、同じ年2002年の10月に、私は、啓示的とも思えるヴィジョンを見た。その中には、神聖なエネルギーの回転と、その回転の軸となっている柱と、「大黒柱」というキーワードが含まれていた。また、赤い服の仏教の師が見え、循環するエネルギーの色も、赤が中心の鮮やかなものだった。
そして、そのちょうど1カ月後に、私は、富士山の麓で、このヴィジョンとシンクロするかのような体験をした。そこに現れたのは、言葉で表現するのは難しいほどに、神々しい虹で、それは地から天に向かう柱のように立っていた。やはり赤色が強かった。そして、私は、それを神柱のようだと感じた。
そして、これも後からわかったことだが、この体験をした場所が、偶然にも、聖徳太子伝説において、聖徳太子も虹を見て、聖地であるとした場所だった。そのため、現地には、虹の写真を飾る聖徳寺というお寺が実際にある。しかし、この伝説やお寺の存在を知ったのは、体験してから5年以上後のことだった。
なお、赤い服の仏教の師も、よく考えると、観音菩薩の化身とされる聖徳太子と関連がある。密教上、赤は、観音菩薩の本体である阿弥陀如来のシンボルカラーとされるからだ。よって、阿弥陀・観音の信仰が篤いチベット密教の僧衣は赤である。


4 輪の思想の原点である縄文遺跡に導かれる

さて、ヴィジョンと聖地での神柱に影響を受けた私は、他の神柱の聖地を巡礼することにした。その中には、神柱の祭で有名な諏訪大社と、その近くの縄文遺跡や、東北の縄文遺跡(十和田地方の環状列石など)が含まれていた。こうして、当時はまったく気づかない中で、私は日本の輪の思想の原点である、縄文時代に導かれていた。
そして、こうした巡礼を続けているうちに、私は、ふとしたことから聖徳太子との縁を感じ始めた。それは、友人が、私が行く聖地が、つまり、富士・諏訪・東北などが、聖徳太子が伝説の馬(黒駒)で訪れたとされる聖地と非常によく一致していると教えてくれたことがきっかけだった。これがきっかけで、私の聖徳太子探究が始まった。


5 太子ゆかりの弥勒菩薩半跏思惟像と出会う

そして、2006年に、聖徳太子に関係して非常に重要な体験をした。それは、京都の聖徳太子ゆかりの広隆寺での、弥勒菩薩半跏思惟像との出会いである。そこで、私は、麻原・オウムの下での神秘体験・宗教体験を上回る、衝撃的な体験をした。
それは、言葉ではとうてい言い尽くせないが、精妙な智慧と広大無辺の宇宙大の慈悲の空間であり、弥勒の宇宙がそこにあると感じた。そして、この体験は、その前までは依然として残っていた麻原への依存を完全に抜け出して、オウム(アレフ)を脱会する上で非常に大きな役割を果たした。私は、その後、何度も何度も広隆寺に参拝し、翌年2007年に実際に脱会するにいたった。
ただ、この時期は、仏像の前での体験の素晴らしさに気を取られ、それが聖徳太子ゆかりの仏像であることはあまり意識していなかった。私の中で、聖徳太子とは別に、弥勒菩薩半跏思惟像が存在していた。
しかし、その当時から、その仏像を見ていると、何かが宿っていると感じた。目の錯覚かもしれないが、宗教家や霊能者ならば、霊視体験と呼ぶだろう。そこに何かの霊的エネルギーが込められているように感じた。
そして、昨年2010年ごろ、これは、聖徳太子と関係しているのではと思うようになった。というのは、聖徳太子への信仰は日本中に広がっているが、それは、昔の人が、太子に関連して、私と似たような宗教体験をしたからではないかと思ったからである。
さらに、今年2011年の3月に、聖徳太子の生誕地とされる飛鳥の橘寺に参拝した際に、そこで広隆寺と似たような体験をした(まったく同じではなかったが)。しかし、橘寺は弥勒菩薩ではなく、太子がその化身とされる観音菩薩(如意輪観音)を祭っている。よって、京都の広隆寺と奈良・飛鳥の橘寺を結ぶものは、太子だけである。
こうして、私の中で、聖徳太子と弥勒菩薩半跏思惟像が結びつくようになり、聖徳太子がその化身とされる観音菩薩と弥勒菩薩が一つになった。また、観音菩薩は「釈迦牟尼の王子時代」ともいわれ、太子は「日本の釈迦」ともいわれるので、釈迦・弥勒・観音の三仏が一つになった。そして、じつは、ひかりの輪は発足以来、釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩の三仏を、最も重要な象徴仏として祭壇に祭っている。


6 善光寺秘仏と万人平等の思想との出会い

また、聖徳太子と縁の深い、もう一つ重要な仏像・霊像がある。それは、日本最古の仏像にして、霊験あらたかとしてあまりに有名な、長野の善光寺の秘仏・阿弥陀如来像である。私は、繰り返し巡礼し、時々に素晴らしい宗教体験をさせていただいた。
また、瞑想体験だけでなく、阿弥陀如来の平等主義的な思想を学んだ。善光寺は男女平等・宗派無差別の寺院である。太子とともに、南無阿弥陀仏を唱える浄土宗や、浄土真宗開祖の親鸞と縁が深い。
親鸞は、悪人が(悪人も)救われるとする悪人正機の教えを説いた。それはオウムで大罪をなした私たちの再起を励ましてくれた。また、親鸞は、人間の間の功徳に大差はなく、自分は弟子を一人も取らないと説き、聖徳太子を観音菩薩の化身として信仰した。こういった学びが、万人を平等に尊重する「ひかりの輪の観音菩薩の教え」とも結びついていった。

 

7 今年2011年になって

そして、今年2011年になって、聖徳太子の十七条憲法が、まさに、ひかりの輪と同じ、輪に基づいた和の教えである可能性や、和・輪という日本文化の源は、縄文時代からの輪の精神・文化まで遡る可能性があることを知った。
そして、また不思議な偶然の一致があった。太陽の周りの美しい虹が、奈良の天川や長野の諏訪に出て、それが新聞で報道されたのだが、それらの記事が皆、それを虹の「ひかりの輪」という表現で表していたのである。過去にはそういった表現をとった記事を見た記憶がないが、今年に入って私が知る限りでも三つも出たのである。
この天川や諏訪は、私たちが何度も巡礼をし、虹も見たところだった。今年も、天川には3月に巡礼をし、諏訪にも6月に巡礼する予定である。天川は、「日本」という国名が啓示された地であるという説がある。諏訪についてはすでに述べたが、縄文時代の最大の人口地であり、日本(本州)の地理的な中心である。
さて、最近、最も注目していることは、「輪」とは、古来、一元の法則=真理を意味するだけではなく、宇宙を意味するということである。輪は、円・丸いに通じるが、仏教には、円を意味する曼荼羅と呼ばれる図画があって、それは、真理や悟りの境地・宇宙を表しているとされる。また、禅には「円相」と呼ばれる図画があるが、この一筆で書いた円も、同じように、悟りの境地・真理・仏性・宇宙を表すという。
輪や円は、循環する中で無限である。また宇宙の万物は、輪のように一体である。それが、輪が宇宙の象徴となった理由かもしれない。そして、弥勒菩薩半跏思惟像の前での瞑想体験のように、輪の法則、一元の法則を体得した境地は、無限の宇宙に広がる広大無辺の慈悲とか、無限の宇宙との一体感などと表現することもできる。宇宙意識とも呼ばれる自我意識・自我執着を超えた境地である。こうして、輪とは、人の心が戻っていくべき宇宙・大自然の象徴ということができる。

最後に、ここまで述べてきたことをまとめると、この10年ほどの間に、各地の聖地・自然・神社仏閣・先人先達・人々から、さまざまな体験・学びを重ねてきたが、それらは、どこかで確かに輪のように一つに繋がっており、その中で、日本の国土・自然・聖地・文化に育まれるべくして育まれてきたのが、「ひかりの輪」とその「輪の思想」だということである。

※ご注意いただきたいこと

ひかりの輪は、特定の人物を絶対視・神格化しないという原理原則を持っている。これは聖徳太子にもあてはまり、太子が日本文化上、神秘的な伝説の持ち主だとしても、やはり一人の人間である客観的な事実を踏まえて、太子の歴史上の言動や、太子伝説や太子信仰といったものすべてを絶対視しないことを原則としている。聖徳太子とは後世に神格化された面があるのではないかという学説も無視していない。
よって、上記の文章の趣旨は、聖徳太子の言動や伝説を含めた日本の和や輪の文化と、私をはじめとするひかりの輪のシンクロ現象の紹介であって、聖徳太子を人として(私個人は)尊敬はしているものの、ひかりの輪として、太子を絶対化して信仰しているというものではまったくない。
なお、日本の文化・仏教の中で、聖徳太子は、観音菩薩の化身とされている面があるが、ひかりの輪では、その「菩薩」という概念についても、それはいまだ如来に至っていない、未完成な存在であるととらえており、その意味でも、太子を絶対視するものではない。

 

 

第四章 競争社会を輪と和の精神で生きる、真の大和魂・和魂洋才


1 「大和魂」の真の意味--和魂洋才(和魂漢才)

ここでは、「輪(和)」の思想に関連して、「大和魂」という言葉と、その本来の意味について述べたい。
今現在の大和魂という言葉のイメージは、第二次世界大戦の軍国主義、突撃精神、無理な精神主義などであろう(その象徴の敗北した軍艦が戦艦大和)。しかし、大和魂の本来の意味は、外国の文化等をそのまま受け入れるのではなく、日本の実情に合わせて応用する力などを意味するものだった。歴史的には、源氏物語にある「和魂漢才」という言葉が始まりとされる。漢才とは中国からの才能などを意味して、これが、後には「和魂洋才」となったのである。


2 聖徳太子の「十七条憲法」に見られる和魂漢才

そして、輪と和の思想を表現した聖徳太子の「じゅうしち十七条憲法」は、まさに和魂漢才の精神に基づくものだと私は考えている。
まず、太子の時代に至るまでの日本の歴史的流れは、縄文時代は、前にも述べたとおり、輪と和の時代(平等的な共同体と戦争のない平和な社会)であった。しかし、弥生時代から、大陸の文化が入り、それは、上下の区別=王権と戦争の文化が特徴となった。
そして、その結果として、太子の十七条憲法は、縄文以来の日本と列島の民族の伝統である輪と和の文化と、大陸から来た王権と戦争の文化の折衷=和魂漢才であった。
具体的にいうと、前に紹介したように、第一条・第十条・第十七条では、和・輪・衆議の重視などが説かれている。これは縄文時代以来の伝統的な輪の思想である。
しかし、その一方で、第二条は、渡来文化の仏教を重視し、仏・法・僧の三宝を敬うことを説き、第三条は、日本の王である天皇に従うことを説いている。三宝の中で、仏と法は別にしても、僧を敬うことや、天皇に従うことは、万人平等主義の輪の思想とは異なった、渡来の文化であろう。


3 日本の天皇と特異な性質

こうした、和魂漢才・和洋折衷の思想の結果として、日本の天皇は、中国の皇帝と違って、(宗教的)権威・象徴ではあっても、権力者では必ずしもなかった。権威と権力の両方を兼ねた絶対権力者ではなく、その意味で、天皇による独裁色は弱く、王の平等性が高かった。
実際に、聖徳太子の時代自体が、実務権力者が摂政である聖徳太子や蘇我馬子などであり、天皇は推古天皇という女帝であった。そして、卑弥呼を含めて、日本が女帝を受け入れたのは、女性が男性と違って権力者になりにくいという安心からではないかという説もある。
その後も、日本の歴史では、天皇・朝廷という宗教的な権威は維持されたまま、貴族や将軍が実際の権力を有する状態が続いた。天皇・朝廷も絶対権力者ではないが、時の権力者である貴族・将軍も、なるべく独裁を避ける傾向があった。
明治体制になり、天皇が憲法上は宗教と政治の双方の権力を有しても、実際の政治の実務に関与せず、「君臨すれども統治せず」という原則があった。そして、昭和以降はまさに象徴天皇制の時代となった。
この日本の天皇のあり方が、他の国の王室と違って、約2千年もの間、同じ王室が続いた背景だともいわれている。他の国では、統治者・権力者が変わる際には、従来の王室は滅ぼされる必要があったが、日本には、それがなかった。
なお、哲学者の吉本隆明が述べているが、日本の歴史上、単に権力者ではなく、天皇を打倒して、自分がこの国の宗教的な権威=現人神になろうとした人物は、ほとんど見られず、オウム真理教の麻原彰晃は極めてまれな例である(自分が日本のキリストになる予言をし、自らを神聖法皇と名付け、天皇・皇居に対するテロ構想も有していた)。あとは、可能性として、織田信長に、その傾向があったのではないかという説がある。


4 真の大和魂・真の和魂洋才が必要な、21世紀の日本

さて、こうして大和魂という言葉は、本来は和魂漢才・和魂洋才の意味を持っていたが、第二次世界大戦を通して、そのイメージがひどく歪められた。戦後は、大和魂という言葉は非常に誤解され、日本の主流思想ではなくなってしまった。
そして、それと同時に、その本来の意味である和魂漢才・和魂洋才の精神も、戦後の日本社会では、徐々に失われつつあるのではないかと思う。すなわち、時代を追うにつれて、日本は、欧米文化(特にアメリカの文化)を自国に合わせて咀嚼することなく、そのまま輸入しつつあるのではないか。これは、現在の21世紀の日本に住む私たちの心身に、多大な影響を与えている。
その例として、戦後の昭和期の日本の社会には、平等主義である輪・和の思想の反映ともいうことができる経済体制があったが、今は市場原理主義の導入の下で、崩壊しつつあるということがある。
いわゆる、戦後の昭和期の、終身雇用制・年功序列という平等な雇用体制が、平成に入って、米英中心の弱肉強食・市場原理主義の経済体制の導入などによって、なくなった。そして、勝ち組・負け組という言葉に見られるように、人々の間に、競争とそれによる優劣の区別・貧富の差が強まり、幸福な勝ち組と不幸な負け組という社会の分断が深まりつつある。
それは心の問題に繋がり、負け組の自己否定・絶望からの自殺・欝病の増大を作り出している。そして、勝ち組の方もじつは同様で、慢心・独善からの突然の没落(例えばバブルの崩壊など)などの問題を作り出していると思う。
ここで、私は、現代社会に必要な和魂洋才という意味での、本来の大和魂の実践が必要ではないかと考えている。欧米の競争原理が世界規模で展開されて、日本社会にも浸透する中で、なおかつ日本独自の文化である「輪と和の思想」、すなわち万人を平等に尊重して和合する精神を維持する智慧を見いだすことである。
社会主義の試みが失敗に終わって、資本主義という競争原理に基づく社会を否定することが、少なくとも直ちには非現実的であったとしても、その中で、人の精神と社会の調和を守るために、私たちなりに十分な工夫をして、それに対処するのである。


5 競争社会を愛で生きる--和魂洋才の実践

その一つの例として、私は、「競争社会を愛で生きる」という日記エッセイを書いたことがある。それは、仏教的な、一元的な思考に基づいて、どういったものの考え方をして、どういった実践をすれば、競争社会の中で、万人への尊重や愛を失わずに生きることができるかについて述べたものである。それによって、社会の分断を和らげることも意図している。
その要点をいえば、まず、競争の本来の意味とは、互いの切磋琢磨を通じて、全体の幸福・成長を実現する手段であって、勝って幸福になる者と、負けて不幸になる者を選別することではないということである。しかし、現在は、全体の成長・幸福という目的を忘れ、本来は手段である勝ち負けというものが目的化してしまっている。
これを改めるならば、勝った者は、自分が今あるのは、負けた者との切磋琢磨を含めた、全体の支えによってであって、決して自分だけの力によってではないことを絶えず謙虚に認識するべきである。
そして、慢心に陥らないようにして、全体への感謝を忘れず、その恩返しとして、負けた者を含めた全体を慈しみ、苦楽を分かち合うことである。そうせずに、慢心に陥れば、自分を支えていたものが崩れて、中東の独裁者やバブルが崩壊した際の金融エリートのように、没落することになる。
また、負けた者も、競争の本来の意味は、全体の成長・幸福であり、勝者と敗者というのは形上のことであると考えるべきである。そして、真の勝者は、切磋琢磨によって向上した全体であること、すなわち勝者と敗者を含めた全体であると認識することである。
そして、勝者に対して、彼らが先頭に立って全体を引っ張り上げた面があることを認識し、素直にその価値を認めて称賛しつつ、同時に、勝って上に立つことばかりに人の価値や役割があると錯覚してはならない。
勝者の立場にとらわれずに、優れた他人を支えるという立場・役割や、自分の敗者としての経験を活かして、他の敗者の苦しみを理解して、正しく助ける(ともに勝者を妬み憎むという堕落をするのではなく)といった役割にも、勝者と同じだけの価値があることに気づくべきである。
こうして、他を活かすこと、他を助けることができるようになれば、それは集団・組織・国の中で非常に貴重な存在となる。今の世の中では、皆が他に勝とうとし、実際に勝つ人も少なくないが、他を活かす、支える資質を持つ人は、逆に少ないからである。
その結果として、そういった人たちこそ、将来において、真に人の上に立つ存在(真の勝者)となる可能性がある。「分裂すればできることはほとんどなく、団結すればできないことはほとんどない」という言葉があるが、人は勝者であっても、自分一人の力でできることは実際にはほとんどなく、逆に他を活かして支えるなどして団結すれば、できないことはほとんどない。
これとは逆に、単に勝った者を妬み、自らは卑屈になって努力をやめるならば、せっかくの自分の役割・価値を見失ってしまい、その結果として、全体がレベルダウンすることになる。こういった人は、妬みや卑屈の内奥に、じつは努力を嫌がる怠惰を抱えている場合が少なくない。
この教えについて、より詳しいことにご関心がある方は、前にも述べたが、巻末の私の日記(「競争社会を愛で生きる」、「自と他の区別を超える教え」、「妬みを超える教え」など)をご覧いただきたい。


6 大日本帝国の間違った大和魂

さて、オウム真理教も、『宇宙戦艦ヤマト』などのパロディを使ったりして、「ヤマト」という言葉に縁があった。しかし、その教えと活動は、大日本帝国と類似していた。
オウムのグルへの帰依に基づく一連の事件への突っ込みも、大日本帝国で用いられた誤った大和魂の精神と似ている。それは、天皇を現人神として、日本は神国だと信じ、軍国主義で、排外的で、合理的ではない無理な精神主義や突撃精神である。戦艦大和の特攻などは、オウム真理教の突っ込みと似た感じがする。
そして、このオウムに投影された大日本帝国の誤った大和魂に対して、オウムを乗り越えんとするひかりの輪の立場から見るならば、日本人が、真の大和魂の精神をよく理解することが、大日本帝国の過去を十分に乗り越えることだと感じられる。
真の大和魂とは、大日本帝国の戦艦大和のイメージではなく、大和=大いなる和という漢字が表すとおり、日本の本来の思想である、和と輪の精神を中核としたものでなければならない。それは、万人・万国の尊重と、それに基づく平和の実現である。
宗教・思想的にいえば、日本だけが神の国なのではなく、日本が神の国ならば、世界万国も同じように神の国として尊重するといった精神である。それが、本来の日本の輪の精神であり、それを失わずに、外国文化を摂取するのが、真の大和魂であろう。
言い換えれば、明治から第二次世界大戦の日本の思想は、日清戦争・日露戦争などの成功による慢心のためか、日本だけが神の国といった側面が強くなり、気づかないうちに、欧米の思想の模倣になってしまったのではないかと思うのである。
具体的にいえば、欧米は、キリスト教的な思想に基づいて、植民地侵略を神の明白なる天命として正当化し、侵略対象を自分たちと同じ平等な人間と見なさなかった。これと同じように、明治政府は、欧米の強さが、その植民地侵略を正当化するキリスト教の信仰にあると考えて、日本にも同じものを欲し、天皇を絶対神・現人神とする国家神道の体制を作り上げていったとされる。
しかし、欧米の植民地支配は、日本の敗戦とともに、戦後まもなく崩壊したのであって、決して優れたものでも、強い文化でもなかった。第二次大戦は、連合国であろうと、枢軸国であろうと、キリスト教や国家神道やナチズムといった宗教・思想によって、自国を特別視して侵略を正当化し、結果としては自滅・敗北したのである。
これは、万人平等主義の和・輪の思想を根底に持った、聖徳太子や天武天皇以来の日本本来の天皇の意味合いとは違ったものである。輪の思想とは、日本だけが神の国というのではなく、世界のすべての国が神の国という思想のはずである。


7 東洋と西洋などの二極をバランスさせる思想

さて、和魂洋才・和洋折衷などで表される真の大和魂のものの考え方は、競争原理などの西洋の思想にそのまま染まることでもなければ、完全に拒絶するものでもない。それは、東洋と西洋の適切な融合・折衷・バランスを重視する思想である。例えば、その一例が、先に述べた、競争原理を否定せずに、いかに万物の尊重・平等の原理を守るかということである。
この二極をバランスさせる思想が、仏教にはある。まず、釈迦牟尼の中核の教えが、「中道」という教えである。それは欲楽にふけるのでもなく、無理な苦行にも陥らず、楽にも苦にも偏らないという思想である。
さらに、大乗仏教における「智慧と方便」という思想がある。智慧と方便は、大乗仏教において、仏陀の境地に到るための二つの重要な要素であるとされている。そして、両者のバランスが重要であり、仏陀はこの二つを同時に一体として体得しているとされる。
まず、智慧とは、万物が他から独立した固定した実体を持たず(空であり)、一体であるという悟りの境地(空の悟り)のことである。これは現世から離れる(現世を超越する)精神的な傾向である。
一方、方便とは、智慧の境地に近づくための修行法であり、特に、利他の手段、功徳を積む手段のことを指している。これは現実の生活の中で行う実践であるから、現世に近づく精神的な傾向である。方便とは手段という意味がある。
そして、この智慧と方便の考え方は、先ほど述べた「競争社会を愛で生きる教え」に活かされている。本来は、社会全体の幸福は一体であり、皆が幸福になったときに一人一人も本当に幸福になるのが真実(=智慧)である。そして、勝者と敗者を分ける競争のシステムとは、その全体の幸福を実現するための「方便・手段」であって、それ自体が目的ではない。
こうして、東洋思想(輪・和)と西洋思想(区別・競争)や、智慧と方便といった、二つの原理の融合は、ユング心理学などにも見られる。その中では、男性原理と女性原理が、それぞれ善悪を分けて悪を浄化する機能と、善悪無差別にすべてを受容する機能とに位置づけられて、その両者の融合が、最高の精神的な発達段階としている。これをわかりやすくいえば、厳しさと優しさの双方があって、真に人を育てる愛となるといってもよいだろう。
また、道教にも、「陽と陰」という二極があって、その両者のバランス・融合を重視する思想がある。陰陽とは、火と水、男性と女性、西洋と東洋、光と闇、浄化と受容、厳しさと優しさなどである。


8 「二極一元論」のシンボル--柱と輪

さて、この二極を本質的に一体と見て、両者のバランス・融合を重視する思想をひかりの輪では、「二極一元論」と呼んでいる。そして、それを「柱と輪」というシンボルで表現している。これは、陽・男性原理が柱に、陰・女性原理が輪に、それぞれ対応している。両者の性器の形とシンクロしているのである。
ここで、今までお話ししてきた「輪」というのは、より精密にいうならば、円いという意味だけではなく、車輪という意味があることに注意してほしい。そして、この車輪を分析すると、輪と軸によって形成されていることがわかる。すなわち、車輪とは、輪と柱が合体した姿ということもできるのである。
この柱と輪の形のシンボルは、さまざまな宗教・文化に見られる。智慧と方便を象徴する大乗仏教の法具であるヴァジュラとガンターや、仏陀や仏法を象徴する法輪(法の車輪を意味する)、さらには、ヒンドゥーの崇拝対象であるリンガとヨニ、そして、縄文時代の環状列石(ストーンサークル)の形状にも共通して現れている。
そして、環状列石などの遺跡は、日本の縄文時代に限らず、環太平洋文明全体に広がっているという説もある。その意味で、「輪」の思想とは、日本の根本思想であるとともに、まだ戦争のなかった頃の太古の人類の共通の財産ではないだろうか。それが、極めて良く保存されているのが、日本という国ではないかと思う。


9 期待される日本の進化

最後に、ひかりの輪が、日本の国土に触れつつ再発見してきた輪の思想に基づけば、21世紀の日本には、以下のような国家理念と宗教の改善が期待される。
第一に、真の和(輪)の国=大和の国としての再生である。輪の思想に基づく国家観は、ナショナリズム・国粋主義ではなく、万国・万人が平等に尊く一体というものである。
第二に、真の大和魂(和魂洋才)の覚醒である。真の大和魂とは和魂洋才=東洋と西洋の融合などに本質がある。例えば、欧米の市場原理主義の競争社会を単に輸入するのではなく、輪(和)の思想(=慈悲)を維持しつつ、それを活かしていく能力である。
第三に、宗教・仏教の改革・再生である。日本の仏教や神道の伝統宗派は形骸化したといわれて久しい。そこで日本伝統の輪の思想の再生に伴い、21世紀の日本の宗教思想の再生・改革が期待される。
それは、輪の思想に基づく新しいタイプの宗教団体とその実践者の展開であろうし、仏教界においては、平成新仏教・21世紀新仏教といったものの展開であろう。その意味で、ひかりの輪は、聖徳太子、天武天皇、空海・最澄、法然・親鸞など、その時代々々の宗教・思想の改革者を尊重している。


第五章 太古から続く輪の思想の系統とひかりの輪

さて、ここでは、縄文時代の日本に限らず、世界の各地で、太古から続いてきた輪の思想について、歴史を振り返って述べたいと思う。


1 日本--縄文時代からの輪の思想

まず、日本の輪の思想について、縄文時代から聖徳太子までについて、前章まで述べたことをまとめておく。まず、縄文時代の環状集落や環状列石などから、万人を平等一体と見る輪の思想が生じ、その後の「和の文化」を形成した。それが聖徳太子の十七条憲法にも見られるということであった。
これに関連して付け加えると、縄文土器も、輪・循環の思想を表すという研究がある。例えば、その紋様が月の満ち欠けを模して、生成と消滅の循環を示しているとか、縄文の名称の由来である縄が蛇を象徴し、蛇は脱皮するところから、生と死の循環を示すといった見解などである。また、偶然の一致ではあるが、縄文のなわ縄という言葉が、わ(輪)の音を含むのも興味深い。
そして、ひかりの輪では、①諏訪大社と御柱(下部の周囲が木で囲まれた柱)、②八ヶ岳・諏訪地方の縄文遺跡の環状集落や土器、③東北の十和田地方の縄文遺跡の環状列石などを訪問した。
なお、これらの訪問は、以前にも述べたが、私が「大黒柱の啓示的なヴィジョン」と表現する宗教体験をして、神柱への関心が深まったからであった。ただし、これは、自己や自己の宗派を絶対化することに結びつくような、いわゆる神のお告げ的な意味で用いているのではない。ひかりの輪では、特定個人や宗派を絶対視しない原則がある。
そして、これは科学的にいえば、ユングや、ユングの研究したチベット密教の僧侶が語るように、人が、日常生活であれ、悟りを求める過程であれ、何か精神的な壁にぶつかったときに、精神の統合・進化をもたらすために、その内面から現れる輪・円の要素を含んだヴィジョンに類すると思われる(これが密教の曼荼羅にも関係するという)。そして、当時の私は、オウム・麻原信仰に疑問を感じ、それを乗り越えようとして、精神的な葛藤を始めていた時期であった。
最後に、この縄文文化について一つ特筆すべきことがある。それは、縄文土器が世界最古の土器であるということである。それも1万5千年以上前とされ、氷河期が終結する以前からのものだと推察される。この時期に、東アジア一帯で世界最古期の土器が同時並行的に出現したとみられている。
そして、氷河期の終結といえば、科学的な根拠は乏しく、科学的な考察の対象とはなりえないが、氷河期に存在した高度な文明(氷河期文明)が、氷河期の終焉=温暖化に伴う急激な海面水位の上昇や気象変動によって水没・滅亡し、それがノアの洪水をはじめとする、世界各地の洪水伝説の源になったのではという話が繋がってくる。
そして、世界最古の土器を持つ縄文文化が、氷河期文明から連続的に生き残った、特別な文化なのではないかと考える人もいる。東北などのストーンサークルや自然ピラミッドを見て、それが単なる文化ではなく、高度な精神的な文明だったとする人もいる。
仮にそうだとするならば、縄文時代の輪の思想も、氷河期文明とその終焉と何かの繋がりがあるかもしれない。例えば、それは、①氷河期文明の思想の一部を引き継いでいるとか、②氷河期文明が破滅したことの反省に基づくものであるとか、③(ノアの洪水のノアのように)氷河期文明を生き残った、全体から見れば僅かな者たちの思想傾向を反映している、などである。科学的な考察の対象にはなりえないが、興味深い話であるので、一応述べておくことにする。


2 仏教思想--法輪・縁起・輪廻・曼荼羅・円相・時輪

仏教と輪(チャクラ)は非常に縁が深い。まず、仏陀の説法=仏法は「法輪」(ダルマチャクラ)と呼ばれ、説法をすることはてん転ぼうりん法輪と呼ぶ。釈迦牟尼の初めての説法はしょてん初転ぼうりん法輪と呼ばれる。そして、釈迦牟尼の中核の法である、縁起の法や中道の教えの本質は、輪の法則である。
例えば、縁起の法の中の「十二縁起の法」は、欲楽への愛著・執着が苦しみをもたらすことを説いており、また、それに付随する経典では、逆に、苦しみが正法への信仰に繋がり、解脱に導くとも説かれている。こうして、楽が苦に、苦が楽に輪のように繋がることが説かれている(先に述べた釈迦牟尼の一元法則に相当する)。また、苦に楽にも偏るなと説く中道の教えも、苦楽が表裏=輪であるがゆえに、そのように説かれるのである。
また、縁起の法は、自と他が相互に依存しあって存在することも説いている。そして、この思想が、大乗仏教では、この世の万物に拡大適用されて、一切の事物が相互依存(縁起)しており、一切が固定した実体がないという「空の思想」に発展した。
さらに、仏法以前からのインドの伝統であり、仏教にも取り入れられた輪廻転生の思想は、人が、幸福な世界(善趣)と苦しみの世界(悪趣)をグルグルと回るように転生するという思想であり、これも苦楽の輪、善悪の輪の思想であることは明白である。
さらに、ひかりの輪が重視する大乗仏教の思想である唯識思想の中にも、輪の思想が顕著に見られる。唯識思想は弥勒菩薩が説いた教えとされるが、その主たる教えの中には、「あらや阿頼耶しき識縁起」や「さんしょう三性」といった教えがある。
阿頼耶識縁起の教えは、この世の万物は同根であり、根元的な意識である阿頼耶識が現れた(変化した)ものであると説く。また、阿頼耶識が万物として現象化すると、現象化した万物が阿頼耶識を変え、阿頼耶識と現象がお互いを変えあうという循環構造があることを説く。こうして、万物が同根・一体・循環という輪の思想が現れている。
三性の教えとは、縁起の法と同じように、事物は皆相互に依存し合っている性質があると説き(えたき依他起しょう性)、それを完全に体得した境地をえん円じょう成じっしょう実性と呼び、ここでも円・輪という表現が出てくる。
なお、阿頼耶識縁起の教えは、人の意識と外界の現象がシンクロしていることを説いている点で、後に述べるユング心理学のシンクロニシティの概念と共通点がある。それだけでなく、意識が多重構造を持っていることや、万物が共有する根元的な意識が存在すると主張する点も、ユング心理学と共通している。
ただし、人の意識と外界がシンクロしているといっても、唯識思想では、外界というものは実体がないと説く。同じ場所・時間にあっても、それを見る人や生きものによって、異なった外界が体験され、解釈されるように、それぞれの人・生きものが「現実」と呼んでいるものは、それぞれの感覚器官や思考・意識に合わせて作り出される実体がないものと位置づけている。
また、中国において、だるま達磨大師が創始した禅仏教の伝統にも、輪の思想、輪を象徴とした教えが見られる。それは、えんそう円相と呼ばれるものがあり、禅における書画のひとつで、図形の丸(円形)を一筆で描いたものである。「いちえんそう一円相」「円相図」などとも呼ばれるが、これが、悟りや真理、仏性、宇宙全体などを円形で象徴的に表現したものとされる。
さらに、インド仏教の最後の仏教経典となった「カーラチャクラ・タントラ」(時輪経典)にも、輪の思想が見られる。カーラチャクラとは、時の輪という意味であり、この経典は、宇宙の根本原理は、時の輪、周期的な運動・循環であると説く。
宇宙の様相を見ていると、地球も、太陽も、銀河も回転し、そのため、季節や昼夜も循環し、水や空気は天地を巡って循環し、輪廻転生として生と死が循環し、睡眠と覚醒を繰り返し、人間の活動形態も循環している。
なお、時輪経典は、占星学の教えを含むが、ひかりの輪でも用いているインド占星学では、占星学を時の輪の思想と解釈する人もいる。
ひかりの輪は、釈迦牟尼と仏教の教えに縁が深い。まず、祭壇中央には、釈迦牟尼御尊像がある。しかも、この釈迦牟尼の御尊像は、胸の前に「法輪」を持って、ひかりの輪に縁の深い「虹」の色の輪の後光を放っている。ところが、この仏画も、今日のひかりの輪の教義が確立する前から団体にあったものであり、それが偶然にも、その後の教義とぴったり合った図柄だったのである。


3 道教思想--太極から生じた陰陽二極の循環の思想

道教は、万物は太極を根元とする陰と陽の二極によって生じ、その陰陽が、互いが互いに転換=循環すると説く。その思想を表すのが、陰陽の二極を書き込んだ円形の太極図であり、これが陰陽の循環を表している。
道教の思想は、万物が一体であると見る一元論の思想としては、非常に多面的であり、完成されている面がある。道教は、①陰と陽の両者がお互いを支え合っているという「互根」の原理、②両者が同じ根元(太極)を持つという「同根」の原理、③両者がお互いに転換する「転換・転化」の原理などを説いている。
この道教の思想は、詳しくは、過去の特別教本を参照してほしい(『一元の法則とその悟りの道程(2010年GWセミナー特別教本)』、『現代人のための一元の法則(2009年~2010年 年末年始セミナー特別教本)』)。
これは仏教でいうならば、互根は、縁起の法が説く万物の相互依存にあたる。同根は、唯識思想が万物の根元は阿頼耶識であると説いたり、大日如来の経典が万物は大日如来の現れと説いたりすることに相当する。転換・転化は、時輪経典の時の輪・循環の思想に相当する。
こうして、仏教ではさまざまな経典にバラバラに説かれている一元論的な概念が、道教では、その陰陽思想の中でまとめられているのである。そして、ひかりの輪では、互根(縁起の法)、同根(唯識・大日如来の法)、転換(時輪経典の法)という三つの視点に立った一元法則のことを「三乗の一元法則」と呼ぶことがある。
こうして、ひかりの輪は、この道教の教えを取り入れているが、前に述べた大黒柱をキーワードとした啓示的なヴィジョンも、道教思想と関係がある。というのは、この大黒柱という言葉は、道教が説く宇宙の根元である「太極」に由来する「だいごく大極でん殿」の柱から来たものである。
なお、話は脱線するが、この大極殿は、都にある天皇が政治にあたる宮殿の名称である。そして、天皇という名称も、道教が説く太極に存在する絶対神であるてんこう天皇たいてい大帝に由来する。
この天皇という名称や大極殿を創始したのは天武天皇とされているが、同天皇は道教思想に基づきおんみょうりょう陰陽寮も創設した(あべの安倍せい晴めい明などがおんみょうじ陰陽師として所属)。そして、ひかりの輪が訪れる聖地も、同天皇に縁がある場所が多く、天川や吉野などがある。
そして、これは私的な解釈ではあるが、天皇という言葉は、万物の根元としての太極に由来するために、自己を特別視する存在=独裁者ではなく、万民が自分と同じく太極から出た存在と見る平等主義的な一元思想を持つ王と解釈するべきだろう。
実際に、日本の天皇は、歴史的に見ても、中国の皇帝などと違って、独裁を避け、輪・和・衆議を重んじる傾向があり、時に実権を貴族・将軍・民主政府に委ねたのである。それは、和の王であったと解釈できるのではないだろうか。


4 ヴェーダ・ヒンドゥーの思想--不二一元論(アドヴァイタ)

ヴェーダ聖典に基づくインド哲学や、それに由来するヒンドゥー教の思想の中にも、輪の思想、一元の思想が多く見られる。その一つが、前にも述べた、ヒンドゥーの崇拝対象であるリンガである。
また、インドの主流の哲学であるヴェーダーンタでは、万物をブラフマンの現れとして同根一体であると説く。これを不二一元論=アドヴァイタといい、シャンカラがその創始者とされている。この思想は、近代においては、ラーマクリシュナが説き、その弟子であるヴィヴェーカーナンダが欧米にも広めたことが有名である。
特に、ラーマクリシュナは、「万物を神の現れと見て奉仕する」というカルマ・ヨーガと呼ばれる教えを説いた。ひかりの輪は、このカルマ・ヨーガの教えを非常に重視している。ひかりの輪では、万人万物を導き手と見て感謝し、大慈悲の実践をするという観音菩薩の一元法則があるが、これとよく合致している。
なお、一つ興味深いことは、先ほど釈迦牟尼とひかりの輪の縁のところで、法輪を思わせるようなスポークを伴う虹の輪が長時間現れる体験をしたことがあると述べたが、不思議にも、その日は、ちょうどヴィヴェーカーナンダの百年忌の日で、その前後から、私のラーマクリシュナ・ヴィヴェーカナンダの思想の学習も始まったという不思議な縁があった。

5 近代心理学--ユング心理学:円形のシンボルによる自己治療

さて、近代心理学の巨頭の一人であるカール・ユングの思想にも、輪の思想が見られ、それは仏教の曼荼羅と結びついている。
彼は、師であるフロイトと決別し、幻覚も伴う精神病理的な状態に陥り、その自分を治療しようとする過程で、わけもなく、円形の図をたくさん描き、それは彼の心の治療に大きな影響を及ぼした。さらに、その経験をもとにして、回復期にある精神病者に絵を描かせてみると、同じように円形の図を描いた。
よって、ユングは、円形の図は、心が分裂の危機状態にあったり、不統合性を感じたりしているとき、それを統合しようとする心の内部の働きとして生じるものと考え、それを真の自己の象徴的な表現と考えた。
そして、その後チベット仏教の文献によって、この円形の図=マンダラが、宗教的に大きな意義を持つと知ったが、この東と西のシンクロは、大変興味深い発見であった。このマンダラは、円という意味があるが、その語源「マンダ」は心の中心となるもの・本質であり、「ラ」は所有・成就を意味し、本質心髄を有するものという意味にもなる。
ユングは、その著作の中で、チベットの高僧から、マンダラについて、次のような説明を受けている。「マンダラとは...精神の像...で、...一つとして同じものはなく、個々人によって異なる。...それは心の平衡が失われている場合か、ある思想がどうしても心に浮かんでこず、経典を紐解いてもそれを見出すことができないので、自らそれを探し出さなければならない場合などに、(能動的な)想像力によって徐々に心の内に形作られるものである」(C・G・ユング『心理学と錬金術』人文書院)
さて、ユング心理学とひかりの輪の教義は共通点が多い。ひかりの輪は、ユング心理学の思想の中で、嫌悪の対象が自分の暗部の投影であるとする「影の理論」や、心の内面と外界の現象が偶然にも一致する「シンクロニシティ」の理論などを、一元法則の一環として取り入れている。また、ひかりの輪は、ユング心理学と似ているとされる仏教の唯識思想を取り入れている。
また、個人的な話になるが、私は、カール・ユングに親近感を覚える一面がある。ユングが師であるフロイトと決別し精神的な葛藤を経験し始めた年は、私が麻原への疑念を抱えつつ聖地でいろいろと体験しながら模索を始めたのとちょうど同じ、40歳の時であった。そして、私の場合も、円・輪・循環が、その葛藤を越えるシンボルとなった(たとえば、循環するエネルギーや、太陽の周りの虹のひかりの輪の体験など)。
さらに、ユングの葛藤が、その後4年ほど続いたというのも、私がその4年後にオウム・アレフから脱会・独立を決めたのと似ている。こうして見ると、私の自立のプロセスは、ユングから遅れてちょうど90年後のことであった。

 

 

第六章 ひかりの輪と日本とのシンクロニシティ


1 ひかりの輪の名称・シンボルと、日本の国土のシンクロ

私たちが聖地巡礼でよく体験した「太陽の周りの虹の輪」は、ひかりの輪の名称とシンボルマークの由来となったことは前に述べたが、それは、日本の国土・文化を非常によく象徴している。
まず、日・太陽は、日本国家とその文化の典型的な象徴である。①日本の国名は日の本、②国旗も太陽を象徴、③神道の主神の天照大神(アマテラスオオミカミ)も太陽神であり、それが日本民族・天皇の先祖たる神となっている。そして、日の本を日出ずる国と解すると、海から太陽が昇る国とも解される。
次に、虹であるが、これは水や龍を象徴する。虹は、天翔る龍とされており、雨と関係するから水の神とも見なされるのである。そして、この水や龍は、日本の国土・自然の最大の特徴を表す象徴にほかならない。
まず、日本は、太平洋と日本海に挟まれた海洋国であり、それによる豊富な水・雨により森林を含めた豊かな自然に恵まれている(よく「水と森の国」といわれる)。そして、国土の形が、龍の形をしているので、極東の龍とも呼ばれることがある。
なお、繰り返しになるが、虹や龍は、水の神の象徴とされる。龍は蛇を神格化したもので、竜宮城に住むとか、雨を降らせる神と信じられており、水の神である。また、虹は、天翔る龍と信じられ、これが蛇と同じ虫偏である理由と思われる。そして、龍神とともに、水の神の象徴である。
話を元に戻すと、天皇家が最初に祭った神が龍神である。具体的には、天照大神とともに唯一大神の称号を持つ大国主神(オオクニヌシノカミ)である。この神を祭る神社が、出雲大社や、日本最古の神社とされる三輪山のおおみわ大神神社である。
なお、付け加えると、太陽と水・龍神に縁が深いのは、釈迦牟尼も同じである。釈迦は、太陽族のまつえい末裔といわれる。そして、釈迦族のトーテムは龍神(ナーガ)とされており、その誕生の時に龍王の灌頂が行われ、龍が、悟った釈迦の弟子となったという。また、釈迦の息子はラーフラというが、これは龍の頭=ラーフに由来するという説もある。そして、釈迦の説いた教えは、法輪・法の車輪という言葉で象徴された。
こうして、ひかりの輪と日本と釈迦牟尼のシンクロを考えると、輪の思想は、日本とインドという空間的な隔たりを超えて、世界に普遍的な思想であると考えることができるだろう。


2 ひかりの輪が巡礼した日本の各聖地の、不思議な位置関係

第二章で詳しく述べたように、ひかりの輪は、日本の国土・文化に育まれた宗教である。輪の教えを掲げて、「ひかりの輪」という名称になったのも、縄文時代以来の日本文化の中核に輪・和の思想があったことを反映していると考えるならば、自然なことであった。
ここでは、今まで述べてきたことに加えて、ひかりの輪が縁を有した日本の各聖地には、不思議なことに、その間を結ぶ特殊なラインが存在している場合が多いことについて述べたい。それによって、ひかりの輪が、日本の国土とその不思議なあり方に深く結びつていることが、いっそうよく理解されるのではないかと思うからである。
さて、不思議なラインとは、例えば、三地点が一直線上にあったり、二地点が真北・真南の関係にあったり、真東・真西の関係にあったりするなどである。ちまたでも、レイラインとか、聖地を結ぶラインがあることがよくいわれるので、馴染みのある方もいるだろう。
まず、ひかりの輪の東京本部と諏訪と大黒岳が一直線に並んでいる。私が本部で大黒柱の啓示的なヴィジョンを見た後に、神柱に関心を持って訪れたのが諏訪大社と大黒岳であったが、その三者がほぼ直線上に並んでいた。詳細は省くが、この二カ所は、ヴィジョンと非常によくシンクロする物や出来事があった。
次に、ひかりの輪の東京本部と日光である。本部と日光東照宮は、正確に南北の関係にある。そして、日光には、その名前をはじめとして、信仰対象も、観音菩薩、大黒様、薬師如来、阿弥陀如来など、ひかりの輪とよくシンクロしている。
なお、日光の真北・真南というのは重要な意味があり、というのは、徳川家康が、自分が死んだら、「北にあって神となり南方を守護する」という趣旨の遺言を残しているからである。
また、東京本部と富士山の虹の聖地と大阪道場が一直線上にある。富士山の虹の聖地とは、私と聖徳太子がともに虹を見て聖地と考えた、神柱のような虹が出た富士山の麓である。それと本部と大阪道場がほぼ一直線上にあり、その大阪道場は大極殿の跡もあるなにわのみや難波宮の跡地の中にある。
また、ひかりの輪がよく巡礼する諏訪と戸隠が、真北・真南にある。よって、諏訪には、道教の太極・北斗信仰に基づいた北斗神社もあり、諏訪から見て、北斗を隠すように見える戸隠山を「斗隠山」と解釈した。この諏訪と戸隠は、諏訪の御頭ミシャグチ総社の御聖木や、戸隠神社奥社のほうきょういんとう宝篋印塔の御聖木など、神柱探しをしてきたひかりの輪の聖地巡礼で代表的な神柱がある。
そして、諏訪大社と鹿島神宮が、東西の位置関係にある。この二社は毎年巡礼している。諏訪の御祭神は建御名方神(タケミナカタノカミ)、鹿島は建御雷神(タケミカヅチノカミ)であるが、両神は、『古事記』の有名な大国主神の出雲の国譲り神話に関連している。
また、出雲大社、諏訪大社、おおあらい大洗いそさき磯前神社が、一直線上であるといわれる。この三社はいうまでもなく、大国主神に由来する。出雲は古来、西にあって、日の沈む国とされ、大洗は、ご来光を拝む聖地として有名である。
最後に重要なのが、中央構造線上の聖地である。日本国土の最大の地層の断層帯である中央構造線の上には、不思議と名だたる聖地が並んでいることがよく知られている。具体的に列挙すると、西から、九州の八代・阿蘇から四国の剣山など、紀伊半島の高野山・吉野天川・伊勢、名古屋の豊川稲荷、長野の分杭峠・諏訪・八ヶ岳、東関東の大洗・鹿島などである。
このうち、吉野・天川・伊勢・分杭峠・諏訪・八ヶ岳・大洗・鹿島などは、すべてひかりの輪で巡礼し、重要な聖地としている。これは、日本の国土の最大の龍脈であり、大黒柱の啓示的なヴィジョンにも出てくる龍やその回転とシンクロしている。
最後に、ひかりの輪の本部道場は、こうした聖地と連動した空間になるように工夫されている。本部道場の神殿は、日光東照宮の奥の院(家康の墓)のちょうど真南にあって、南方を守護するとした家康の遺訓のラインにある。また、前に述べたように、東京本部は、諏訪・大黒岳および、富士山・大阪道場と一直線上にある。
また、本部神殿の基本構造は、重要な聖地とシンクロした造りとなっている。具体的には、本部神殿は、①結界神柱が四方の隅に合計4柱立ち、②弥勒菩薩半跏思惟像が、厨子の中に秘仏として他の神具・法具とともに納められ、③結縁神柱が1柱立ち、それが弥勒菩薩半跏思惟像と御神紐で結びつけられている、という構造である。
まず、①結界神柱は、諏訪大社の御柱とシンクロし、その意味合いは、鎮護国家、そのための四方八方への智慧と慈悲の波動の放射である。②は、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像にならったもので、この仏像は智慧と慈悲の象徴と位置づけている。③は、善光寺の秘仏の前立本尊と結ばれた回向柱や、縁結びの神の笠森観音に見習ったものである。
さらに、この弥勒菩薩半跏思惟像は、各地の聖水・ご神水で修法された上で、聖地の法具・神具とともに厨子に秘仏として納められている。本部神殿には、日本の優れた聖地の祝福を結集させていただいている。


3 日本の輪の思想の歴史と、ひかりの輪の関係

次に、日本の国土ではなく、文化・宗教に注目して、日本とひかりの輪のシンクロについて述べたい。そのために、縄文時代に限らず、日本における輪の思想の歴史をざっと振り返って、それとひかりの輪がどう縁を結んできたかをご紹介する。
まず、縄文時代の輪の思想とひかりの輪の思想のシンクロや、ひかりの輪の縄文遺跡の訪問はすでに述べたとおりである。それに付け加えると、この縄文時代には、日本古来の原初的な信仰が生じている。それは、山、木、石などの自然信仰や、精霊信仰であったりした。石棒の信仰も見られる。ひかりの輪は、こうした原初的な信仰にも、諏訪のミシャグチ総社をはじめとする各地の巡礼を通して触れあってきた。
その後、弥生時代に入って、日本人は自分たちを「倭」と称し、それが「和」に繋がっていったが、この源が「輪」だと推察される(なお一人称の「我」「私」も、「輪」を語源としているという説がある)。そして、大和政権と、その前身との説がある邪馬台国が成立する時代に入る。これについて、ひかりの輪は、卑弥呼宮殿跡と推察される纒向遺跡や箸墓古墳、大和朝廷発祥の地である三輪山などを巡礼してきた。また、天照大神に関しては、伊勢神宮を巡礼した。
次に飛鳥時代に入って、聖徳太子が初の憲法によって、和と輪の思想を明らかにする。これについては、飛鳥や斑鳩など、聖徳太子ゆかりの地を巡礼してきた。十七条憲法制定の跡地や、太子誕生の地である橘寺を含めて巡礼した。
その後、天武天皇が、日本という国名や、天皇という名称を設けたとされ、また『古事記』『日本書紀』の編纂を命じるなどして、日本国体をほぼ確立した。その際、道教思想に基づく天皇・大極殿・陰陽寮(占星学)も創始した。ひかりの輪は、その舞台となった奈良の吉野や飛鳥や天川、大極殿の復元された平城京や、その跡地がある大阪道場近くの難波宮を巡礼した。
そして、奈良時代に入っては、聖武天皇が、けごん華厳思想に基づいて東大寺に大仏を建立した。この華厳思想はまさに一元思想であり、また、大日如来も光の仏として、ひかりの輪と縁が深い。ひかりの輪は、東大寺を繰り返し巡礼している。
平安時代になると、最澄・空海が登場し、万人に仏性を認める大乗仏教や密教の教えが展開された。最澄の天台宗は、釈迦・薬師・阿弥陀の三仏を祭るが、それは最澄が三つの光の輪を体験したことに由来しており、これは、ひかりの輪や、その三仏とシンクロしている。
また、万人に仏性を認める彼の思想は、万人平等主義の輪の思想でもある。空海の大日如来やこんごう金剛しょ杵の信仰も、ひかりの輪の信仰や密教修行とシンクロしている。こうした、最澄や空海の世界には、ひかりの輪は、比叡山・高野山などを巡礼して触れあってきた。
鎌倉時代になると、法然・親鸞らが登場した。彼らは、万人を救う新しい仏教(鎌倉新仏教)を展開した。法然は、万人を救う念仏を説いたが、円光大師・和順大師ともいわれ、その教えも称号もひかりの輪とシンクロしている。
また、親鸞の説いた悪人正機などの教えや、万人の徳に大差を付けぬ思想は、万人平等の輪の思想であり、ひかりの輪の思想・教義との重要な共通点である。これらについては、法然の浄土宗の知恩院や、親鸞の浄土真宗の本願寺や六角堂などを巡礼してきた。
それから鎌倉新仏教としてともに発展した禅仏教にも、円相など、輪の思想がある。これらについては、鎌倉や道元・栄西などの聖地を巡礼して触れあってきた。
なお、宗教家ではないが、忍耐と家臣の和を重視した戦国武将の徳川家康の思想、特にその忍耐を重んじ、怒りを戒める遺訓は、ひかりの輪の「輪の思想」と多くの共通点がある。家康は、戦国の世を終結させ、長期間の平和をもたらしたことと、出生の逸話などから、薬師如来の化身とされる。なお、江戸時代の経済は循環経済とされ、環境保護の視点から昨今見直されてもいる。そして、ひかりの輪は、家康の墓がある日光東照宮などを繰り返し参拝してきた。


4 オウムと大日本帝国、ひかりの輪と古代日本のシンクロ

前に、ひかりの輪は、日本の国土・文化に育まれたとした。では、ひかりの輪が反面教師としているオウム・アレフと日本とはどういう関係にあるのか。
私たちひかりの輪のスタッフは、オウム・アレフを総括する中で、事実として日本に生まれたオウム真理教は、日本にとって宇宙からやって来たエイリアンではなく、やはり、日本が生み出した、日本人の教祖と日本人の信者の、日本の団体である以上、日本社会と密接不可分の関係にあると考えた。
そして、自己分析と識者の見解、そして心理学的な分析に基づいて、オウム・アレフが、日本の近代史の暗部である大日本帝国などの投影ではないかと結論している(正確にいえば、大日本帝国が同盟したナチス・ドイツを含めた社会主義的な思想も含まれているが)。これについては、「オウムの教訓サイト」の心理学的な総括のコーナーを参照されたい。
それでは、この視点から、ひかりの輪はどう表現できるか。ひかりの輪は、日本が欧米の影響を受けて軍事国家となる以前の日本、突き詰めると、縄文時代以来の日本の古き良き思想を重視し、それを活かそうとしている。
そして、当然のことながら、それは単純に昔の古代の日本に戻るのではなく、それを学びつつ、現代21世紀の日本と世界に合わせて活かすことである。それは創造的な再発見、創造的な原点回帰ということができるだろう。いわゆる「古きを温めて、新しきを知る」形である。

 


第七章 ひかりの輪のホーリーシンボル(神聖な象徴物)


1 天空曼荼羅「虹のひかりの輪」

ひかりの輪では、聖地巡礼などでよく現れる太陽の周りの虹のひかりの輪は、天空に現れた法則と解釈しているが、それが象徴するものとしては以下の通りである。

(1)さまざまな法則の象徴

まず、輪の法則・一元法則を象徴する。無智の闇を照らす智慧の光の輪であり、言い換えると輪の法則=一元法則を象徴している。
また、これは、仏陀・仏法の象徴である法輪の象徴でもある。形からして太陽の周りの虹のひかりの輪は、法輪と似ている。
さらに、二極一元の真理の象徴(輪を、車輪を意味すると解釈)である。二極一元とは、男性・女性、火と水、陰と陽のように、万物は二極に分かれて現れるものの、その本質は一体であることを意味する。
ここで、太陽は、光・陽・男性原理・方便を示し、虹は、水・陰・女性原理・智慧を示し、太陽の周りの虹のひかりの輪は、その両者の合体・一体性を示す(虹も、水と火の合体で生じるもの)。
また、三乗の一元法則を象徴している。太陽・虹・輪が、それぞれ万物が互根・同根・循環との法則を象徴し、三乗の一元法則を象徴している。第一に、太陽は、大日如来=万物の根元の象徴として万物同根に関係し、第二に、虹は、万物が連続し一体であることを象徴して万物互根(縁起)に関係し、第三に、輪は、万物が輪の如く循環することを象徴して万物循環(時輪)に関係する。

(2)全宇宙の象徴(宇宙の全時空間・すべての生きもの=森羅万象を象徴)

太陽は、ビッグバン=原初の宇宙の象徴(太陽内部もビッグバンも、水素の核融合でヘリウムができ、原子核と電子が分離した曇った空間の状態で、聖書や道教が説く宇宙の原初の状態である混沌・カオスと一致する)。太陽は大日如来であり、大日如来は宇宙の根元という位置づけがあり、それもビッグバンや道教が説く混沌の太極に通じる。
また、虹の輪は、原子と光による現在の多様な色や形を持つ宇宙を象徴する。仏教の曼荼羅や禅では、円(輪)が宇宙を表す。さらに、虹は、水と光が生むさまざまな生命をも象徴すると考えられる。


(3)平和・調和の(到来の)象徴

虹は、聖書の文化で、ノアの洪水の後に、神がノアに二度と全人類を滅ぼさないと約束した神と人類の契約の印。厳密には、無智による災厄が収まり=悪業の清算が終了して、幸福が訪れる時の到来を意味する。幸福な時代の始まり・知らせ。
また、虹は、多様性の下の統一・統合を意味し、戦争反対の平和の旗に用いられている。これは、虹の無数の色は、白色光から分かれた同根のもので、白は平和を象徴する色であることや、虹の含む無数の色は、連続しており境界がなく一体であるからである。

(4)虹と輪は、東北震災や温暖化による水の災厄からの解放の象徴

東北の震災は、津波を中心とした水の災厄であった。また、原発事故は原子力発電の停滞による温暖化の悪化をもたらすことが懸念されている。そして、この温暖化も、海面水位の急激な上昇=21世紀のノアの洪水という水の災厄をもたらす恐れがある。
こういった現代文明による水の災厄を乗り越える基本的な精神が、目先の欲楽・便利に溺れず、長期的な幸福を重視する輪の思想である。
今回の震災の後に、防災対策の専門家が口を揃えて述べた反省の中には、次のようなものがあった。それは、国内外で起き続けている最大の災害レベルには対応できないことがわかっていたにもかかわらず、それを「想定外のもの」として考慮しなかったのは、海沿いの町の危険性を直視し、防潮堤の建設には限界があり、移住を含めた都市計画の変更が必要であることを率直に言えば、社会的な影響が大きすぎることを恐れすぎたのではないか、という内容のものであった。
しかし、だとするならば、この問題の責任は、決して専門家や政府だけにあるということはできないだろう。想定している地震の規模が真に十分なものではないとか、防潮堤が不完全であることは、素人でも誰もがちょっと調べればわかることである。
にもかかわらず、これまでに玄人も素人も、従来の防災対策に誰も異を唱えてこなかったことは、海運による物資の運搬などのために便利な海沿いの町を発展させてきた現代文明の流れの中で、社会全体に、その原因・責任があると認めざるをえないのではないだろうか。これは、決して震災の犠牲者・被災者の方々を批判するものではなく、全体の問題として指摘しているのであるが、今回の問題は、政府・専門家から一般市民まで、皆の意識・価値観の総和が引き起こしたというのが事実であろう。
また、原発の事故についても、巨大津波について想定外であった。そして、今回の件で巨大津波に対しての対応を改善したとしても、真に完全なものとはならず、自ずと限界があるだろう。さらに、専門家の分析を見れば、原発には、事故の問題に限らず、例えば、テロ攻撃による破壊の危険があるが、戦争やテロを前提にすると、安全対策などは立てようがない。さらには、原発から出る放射性廃棄物の最終処理場が依然として未確保である問題があって、その意味で、原発が、見切り発車の巨大システムであることはよく知られている。
このような原子力発電に対して依存していることは、やはり、安全な自然的なエネルギーに比べて、原発が、安く大量の電力を供給できるからであるだろうが、これも、地震津波対策と同様に、単に政府や専門家の過ち・陰謀ではなくて、社会全体の選択・責任だと認めざるをえないだろう。原発をやめれば、相当に省エネルギーを進め、かつ高いエネルギー代を払わなければならず、ある専門家は、生活の質を3割落として原発を廃止することは(社会全体として)できないだろうとして、今後のエネルギー政策について万全な方針・方向性は立たない状況であることを新聞紙上で吐露している。

そして、仏教では、人間の心の働きの中には、短期的・一面的な利益・便利・利得のために、真に長期的な利益・幸福・安定を見失ってしまう傾向が本質的に存在するとしており、仏教用語で、これを無智と呼んでいる。無智は根本的な煩悩だとされている。
これを乗り越えるのが、輪の法則を理解した智慧である。
そして、前にも述べたが、縄文時代は、氷河期の終結による海面水位の急激な上昇を生き延びた存在として、世界でも他に類を見ない性質を持っている。この縄文文化の強さと、その輪の思想の関連性は証明されてはいないが、重要な示唆ではないかと思われる。
さらに、虹は、先に述べたとおり、二度と水の災厄で全人類を滅ぼすことはしないとした神の契約の印である。すなわち、水の災厄からの解放の象徴である。とはいえ、神が約束したのは、全人類を滅ぼすことはないということであって、何の災厄も起こることはないということではない。
人類自身の自業自得もあって、天災とも人災ともいうことができる災害が多くなることが予想される21世紀は、輪の思想・精神とその実践によって、最善の努力をなして、災厄を未然に防ぐべきである。


2 団体のシンボルマーク「虹のひかりの法輪」

これは、上記の天空曼荼羅「太陽の周りの虹のひかりの輪」が、天空に現された法則=法輪であることを表すために作成したものであり、団体の輪の思想と、その発祥の経緯を象徴するマークである。


3 天空曼荼羅・釈迦牟尼如来御尊像

これは、ひかりの輪の祭壇中央に掲げている釈迦の生誕地ネパールで描かれた釈迦牟尼御尊像に、上記の天空曼荼羅をだぶらせた御尊像である。釈迦牟尼の背後に、太陽の光と、虹のひかりの輪があり、法輪を、胸の前の手に持っている。
釈迦牟尼は、太陽族の末裔ともいわれ、この御尊像の釈迦牟尼を太陽に置き換えると、天空曼荼羅そのものになる。また、前に述べたとおり、釈迦牟尼は、虹が象徴する龍にも縁がある。そして、この御尊像は、釈迦牟尼を象徴するとともに、輪の法則を象徴し、それに合致する仏教の教え=法輪を象徴する。


4 聖徳太子ゆかりの弥勒菩薩半跏思惟像(広隆寺)および、その御尊像

これは、三仏の教えの体現(=大黒柱)を象徴する霊像と見なしている。言い換えると、自と他、善人と悪人、楽と苦の区別を超えた、無限の宇宙に広がった神聖な智慧と広大無辺の慈悲の心・空間を象徴するものである。
また、この仏像は、弥勒菩薩に限らず、釈迦・弥勒・観音の三仏すべての象徴である。この仏像は、聖徳太子が尊いとして祭るように命じた、太子ゆかりの仏像であるが、太子は日本仏教の父として、日本の釈迦、日本の観音様とされている。


5 聖徳太子の本体とされる如意輪観音像

ひかりの輪と縁のある如意輪観音像は、せい青がん岸とじ渡寺の如意輪観音を第一として、太子ゆかりの飛鳥橘寺・斑鳩中宮寺・京都六角堂などの如意輪観音像がある。
如意輪観音とは、如意宝珠と法輪を持つ観音様であり、いわば輪の仏である。そして、聖徳太子が、救世観音・如意輪観音の化身とされ、同時に、和と輪の教えを説かれていることは、興味深い一致である。
如意輪観音は、現世幸福の仏である観音菩薩の典型である。如意宝珠は、この世の幸福の願いの成就のためであり、法輪は、煩悩を砕く仏法であり、悟りのためである。ただし、如意宝珠によるこの世の幸福は、欲楽を満たすものではなく、正しい願望のみをかなえるものである。
そして、突き詰めれば、それは自分の心の浄化を願うことと切り離されるべきものではなく、言い換えれば、悟りに近づくことと、本当の意味でこの世の幸福を得ることが、本質的には一体であることがわかる。よって、如意宝珠と法輪も、本質的には一体の法具である。この点は、第七章で詳述する。
なお、この如意輪観音の真言は、六字観音の六字真言と同じと解釈される。如意輪観音は、サンスクリット語で、チンター・マニ・チャクラであるが、六字真言では、それを略して、マニとしたと解釈される。
最後に、弥勒菩薩半跏思惟像と如意輪観音像は、双方とも聖徳太子ゆかりの仏像であり、私の体験上は、弥勒菩薩半跏思惟像を祭る広隆寺と、太子の生誕地である如意輪観音を祭る飛鳥・橘寺は同じエネルギーラインであると思われる。


6 ひかりの輪・神仏輪曼荼羅

これは、三仏を含めたひかりの輪に縁の深い神仏を象徴する曼荼羅である。釈迦牟尼を中心に十二神仏、十三色身が輪になって配置される。これは、天空曼荼羅(太陽の周りの虹のひかりの輪)や、天空曼荼羅・釈迦牟尼御尊像とシンクロしたものである。
そして、すべての神仏が別々ではなく、輪のように一体であることや、さらには、ひかりの輪の仏教体系が、インド仏教と日本仏教の融合であることを象徴している(向かって左側に日本仏教で篤く信仰されている諸仏が並び、右側にインド・チベット仏教で篤く信仰されている諸仏が並ぶ)。
なお、諸仏の配置は、左右東西に、仏教の教義通りに、弥勒菩薩・薬師如来と観音菩薩と阿弥陀如来を対極に配置し、釈迦牟尼の上下に、大日如来と時輪尊を配置した。大日如来と時輪尊は、ひかりと輪の象徴であり、二つで「ひかりの輪」を現す。


7 ひかりの輪・神柱法輪

この法具は、輪の思想の三次元的な表現である、車輪=チャクラとしての輪を象徴しており、基本的には、ひかりの輪の総合的な世界観である二極一元論の思想を象徴するが、具体的には、下記のようなさまざまな一元法則を象徴する。

(1)大乗仏教が説く智慧と方便と、両者の一体性を象徴する

神柱法輪の中の、輪が、空の悟りである智慧(女性原理)を象徴し、柱が、智慧を得るための利他の(功徳を積む)手段である方便(男性原理)を象徴し、両者が一体であることを意味する。
この両者が一体であるというのは、智慧が深まると方便の実践も容易になり、方便の実践を深めると智慧も深まるという循環があり、両者の同時一体の体得が仏陀の境地であるからである。
この方便の基本的な修行法として、八正道をはじめとする七科三十七道品、三学や六つの完成といった修行法があり、その中には、仏・法・僧の三宝帰依がある。そして、この点に関連して、神柱法輪の柱は、精神的な成長のための修行の拠り所としての大黒柱をも象徴している。

(2)男性原理と女性原理による世界の創造原理を象徴する

これは、ヒンドゥー・道教等に見られる思想であり、世界の万物は男性原理(陽)と女性原理(陰)の二極によって生まれたが、その両者は本質的に一体であるとする世界観である。智慧と方便と同様に、女性原理を輪で、男性原理を柱で表す。なお、縄文時代の環状列石も、ほぼ同じ形状であるから、この世界観の表れではないかと推察される。

(3)宇宙の全時空間と、その一体性を象徴する

ビッグバンという一点から始まった原初の宇宙が、時とともに輪のように広がったことと、そのすべての一体性を象徴している。輪は、地の一体性(人と人)を象徴し、柱は、天と地の一体性を象徴し、輪と柱の合体が、この両者の一体性を象徴している。


8 ひかりの輪・結界四神柱

この四本の柱は、ひかりの輪の修行法の四本柱、教学・功徳・行法・聖地を象徴している。なお、修行法とは、智慧と方便の中の方便に当たるから、神柱法輪と同様に、柱によって表されている。
また、これは、「四方八方の世界が智慧と慈悲に満ちて幸福になるように」という願いが込められている(鎮護国家)。その神聖な願いの結果として、その内部に結界を構成するが、外敵の侵入を防止する拒絶的な性質・意図はない。
また、上記7の神柱法輪の一本の柱と、この結界の四本の神柱の関係は、密教の五仏と似て、結界の四つの柱を集大成したものが、神柱法輪の一本の柱であり、同時に、帰依の対象である神仏・三宝を示している。

 

 

第八章 正しい神仏への祈願、聖徳太子・如意輪観音を象徴として


1 勝利による幸福の裏側の苦しみと、仏教が説く真の幸福

仏教は、仏の悟りを得ることが真の幸福の道であると説く。その悟りとは、単に自分だけの幸福ではなく、すべての衆生の幸福のために自己の悟りを求めることから生じる。
より正確にいえば、自分と他人の幸福・不幸の区別をせず、すべての生きものに幸福を与え、その苦しみを取り除くところに、真の幸福があると説く。言い換えると、自分と他人を区別して、自分だけの幸福を求める我欲という心の病こそ、人のさまざまな苦しみの根本原因である、というものである。
なお、すべての衆生の幸福のために自己の悟りを求める心を「菩提心」といい、求めることを決意することを「菩提心をおこ発す」と呼んで、ほつ発ぼだい菩提しん心という。また、他に幸福を与え、苦しみを取り除く心を「慈悲」という。そして、すべての衆生にそうすることを「大慈悲」という。
その意味で、仏教は、個人主義・金銭主義・物質主義・競争原理が強い現代社会において、多くの人が一般に求める幸福とは異なった幸福感を持っている。現代社会における一般的な幸福感が、お金や異性・地位・名誉を含め、自分が他に優位に立って得る幸福、すなわち、勝利による幸福だとすれば、仏教が説く幸福は、他を愛して助けることによる幸福である。
仏教が前者を基本的に否定するのは、その欲望追求は際限がなくて、満ち足りることがなく、求めても得られない苦しみや、得たものを失う苦しみ、奪い合いの苦しみなどを含めて、その幸福の裏側に、とらわれによるさまざまな苦しみが生じ、結局は苦しみに帰結するということである。そして、人生の後半、老い病み死ぬ中で、人は誰しも勝ち組から負け組になっていく。こういった意味で、勝利による幸福は、人生後半は尻すぼみである。
一方、他を愛して助ける幸福、すなわち、他の苦しみを取り除く、他の幸福を助けて喜ぶことによる幸福は、勝利による幸福のような興奮はないが、落ち着いた温かい大きな心を形成していく。また、その裏側に苦しみが生じることはなく、逆に、我欲のとらわれが弱まるから、苦しみに対して、より強くなるのである。


2 仏教が認めるこの世の幸福や自分の幸福

しかしながら、仏教は、菩提心や大慈悲のみを求め、自分の幸福を求めてはならないとはしていない。というのは、実際に菩提心や大慈悲を得るためには、その手段として、早死にしないことを含め、一定の自分の現世における幸福は必要であるし、他人を悟りに導くためには、自分の悟りが必要である。
よって、仏教は、修行によって求める幸福について、①現世の幸福、②自己の悟り、③すべての衆生の救済(発菩提心・大慈悲)という三つがあるとして、修行の動機としては、すべての衆生の救済が一番高度なものではあるが、現世の幸福や自己の悟りも、すべての衆生の救済と別ものではなく、不可分の部分があるから、認めているのである。
ただし、それは、すべての衆生の救済・幸福に繋がる形で自己の悟りを求めるとか、すべての衆生の救済と自己の悟りに繋がる形で現世の幸福を得る、ということでなければ、現世の幸福を得ても、その裏側にはさまざまな苦しみが生じるとする(また、自己だけの悟りでは、悟りはいずれ崩れていく)。


3 当面の方便として、現世の幸福をかなえる観音菩薩

悟りに導くだけでなく、現世の幸福をかなえるがゆえに、万能の救済者として、絶大な信仰を集めたのが観音菩薩である。しかし、この観音菩薩による願望成就の御利益も、最終的には悟りに到るための当面の方便という位置づけである。
仮に、他の仏と違って、観音菩薩だけは、自分が信じる人間であれば、その欲楽を満たしたいだけ満たしてやるとしたら、その人間は堕落し、長期的には苦しむのであるから、それは仏ではなく、悪魔である。
よって、観音菩薩に願望成就を祈願する側も、それが正しい願望であるかどうかはよく考えなければならない。仏の立場に立てば、「自分(だけ)が勝ちたい、自分(だけ)が金持ちになりたい」という願いは、仏に対して、「他の人を不幸にしても自分を幸福にしてくれ」と頼んでいるようなものだから、いかがなものであろうか。
その場合は、少なくとも、自分が勝ったら、ないし、金持ちになったら、それによって、他の人々に、どんな恩返しをするのかという誓約がなければ、仏が特定の人間をえこひいきして、他の人間を苦しめることになる。そういった願いを仏がかなえるわけがない。
また、百人が百人、「他に勝ちたい、他より金持ちになりたい」と願っても、皆が皆に勝つ、皆が皆より恵まれることは、現実としてあり得ないから、それは仏の法力をもっても、かなえられない。
こうして、仏に誓願する際には、仏がかなえるわけがない願い、仏がかなえられない願いをかけてはならない。それはまったくの空回りである。しかし、そういった願いをかけることが多いのが我々人間であるから、よく自省するべきである。


4 正しい願いとは、貪りと怠惰を超えた願い

では、正しい願いとは何かを考えてみよう。私は、その一つの表現として、貪りと怠惰のない願いということができるのではないかと思う。
まず、貪りのない願いをするためには、願いをかける前に、足るを知る精神を持って、それが本当に自分にとって必要なものなのかを考えるべきであろう。というのは、自分が本当に必要とする以上のものを求める場合は、客観的に見れば、それは他から奪う行為となる場合がある。
お金も仕事も名誉も地位も、多かれ少なかれ奪い合いの対象であり、それに対しては、分かち合いの精神を持って、願いも定めていく必要がある。とかく、人は貪り多く、施し少なく、感謝少なく、不満が多いものであるから、これを自問自答することは重要である。
また、貪りとは逆の願いとして、利他の願いがある。自分の願いが他を利する面がどのくらいあるのかを考えるべきである。仏が望んでいることは、衆生が利他の精神に目覚めることにほかならず、利他の要素の多い願いをすることである。
とはいっても、人の願いは、どうしても自分のための部分があるから、それを踏まえて、その願いに利他の部分をなるべく多く含めるように心がけるというのが、現実としてできることかもしれない。「自分がこうしてもらったら、それによって他にこうします」という誓願をするとか、自分と他人の双方の、ためになることを願うといった具合にである。
良い例かどうかはわからないが、聖徳太子が一つのテーマになっているので、太子の例を出すと、仏教を排除しようとする物部氏と、太子が蘇我氏と連合して戦わなければならなかったときに、仏教の神である四天王に戦勝祈願をする際に、太子は、勝利を与えられれば、必ずや仏教を振興することを誓ったという。
良い例かわからないと述べたのは、戦いに勝つということは、他の生命を奪うということであるからだが、当時はまだ若年の太子としては、現実に、戦いがやむを得なかったのであろうし、そういった場合において、その後に不殺生・非暴力を教える仏教を広めることを誓うことは、一種の贖罪を兼ねた利他行だったとも思われる。
さて、次に怠惰を超えた願いである。人は、よく考えれば、自分が努力して達成すべきことを、十分な努力なく、神仏に祈る場合もある。しかし、智慧と慈悲の神仏は、衆生が努力なく幸福になって、その怠惰で堕落することを望んではいない。
そして、実際この世の中で誰かが楽して幸福になるということは、他人がその負担を背負うことになる(仏が他人にその負担を背負わせることになる)。皆が楽して幸福になりたいが、実際には、皆が楽したら誰も幸福になれないのがこの世の構造である。よって、自分が神仏に祈願するうえで十分に努力しながら、そうしているかは考える必要がある。言い換えれば、人事を尽くして天命を待つ心構えであろう。
とはいえ、無理に焦る必要はないし、実際に、それはできないだろう。神仏は慈悲深いから、私たちの努力には限界があり、私たちが怠惰であることもよくご存じでありながら、そういった私たちを見捨てることはない。
よって、自分なりの努力を尽くし、自分なりに怠惰を超える努力をすればよい。言い換えれば、今までよりも一歩二歩でもいいから努力を深め、今までより一歩でも二歩でもいいから怠惰をなくすという心構えを持ち、それを継続していくことである。


5 現世の幸福と悟りの願いを一体化させること

こうして神仏への正しい願いについて考えていくと、現世の幸福の祈願と悟りの祈願は、じつは不離一体であることがわかってくる。それを一言でいうと、仏道修行者に限らず、実業から武術まで、古今東西のさまざまな分野の達人が言うとおり、無心・無我の境地こそ、願望を成就するうえで最善の境地であるということである。
何かを得ようとする場合、それにとらわれすぎると、逆に得ることはできず空回りばかりして、あたかもその欲を超えた無心・無我の境地こそが、最もよく目的を達成することができる精神状態を形成するというものである。
例えば、仮に、何かの幸福が欲しいとしても、絶えずそれを求めてガツガツしていては、そういった人からは、良い縁も逃げていく。逆に、笑う門には福来たるというように、明るい心の持ち主には、向こうの方から福がやってくるという現象が起こる。
幸福は、自分の力だけでなく、他の人との縁が与えられる中で、貪りの強い人は、類は友を呼ぶ法則に従って、同じような人と縁ができて、奪い合い・騙し合いが起こりやすくなる。逆に、貪り少なく施し多い人には、同じような人と縁ができて、お互いに助けあい、恵まれることになる。また、そういった落ち着いた明るい人には、幸福を得るひらめき・インスピレーションも生じやすい。
だとすると、幸福を得たいならば、幸福が欲しいとばかり貪り求めるのではなく、逆に、そういった貪りから自分の心が解放されるように神仏に祈り、本当に必要な場合に限って、必要な幸福について、しっかりとお願いするべきだということになる。そして、そういったお願いは、多分に他のためになるお願いであろう。

もう少し具体的にいえば、
①まず、今与えられている幸福の大きさに気づいて、それを与えてくださったとして、神仏に感謝の祈りを捧げて、
②今後も貪りから自分の心が解放されるようにと、自分でそのように努めることを神仏に誓うとともに、そうなるような守護・お導きを神仏に願う(これは誓いと願いの双方を含むから誓願と呼ぶことができるだろう)、
③本当に必要な場合に限って、それが与えられるようにお願いするのである。

これによって、貪りと怠惰を超えた願いとなる。①と②の③の実践は、いずれも貪りを超えるためであることは、説明しなくてもわかるだろう。怠惰を超える点については、②で、自分の(貪りなどの)心の浄化に励む努力を決意することと、③で、神仏に依存する場合を最小限にすることで、怠惰を超える効果がある。


6 如意宝珠と法輪を併せ持つ、如意輪観音菩薩への誓願

こうして、現世の幸福と心の浄化=悟りは、本質的に繋がっている。その意味で、現世の幸福をかなえる仏の法力を象徴する「如意宝珠」と、煩悩を砕いて悟りを得ることを象徴する「法輪」を併せ持つ如意輪観音は、まさに、現世と悟りの幸福を一つにした、真に正しい祈りをなすにふさわしい仏ではないかと思われる。
よって、如意宝珠と法輪を一つにして、如意輪となる。それが観音菩薩への正しい誓願・祈願のあり方の象徴ではないかと思うのである。

 

◆巻末特別資料 上祐史浩・仏法日記エッセイ

1 競争社会を愛で生きる

現代社会は競争社会の様相がますます濃くなっていますが、一見して弱肉強食の論理が強いように見えるこの社会でどのようにして、仏教が説くすべての人々への愛を保って生きることができるかについて考えてみたいと思います。
まず、資本主義に見られる競争の本来の目的は、すべての人に平等の価値があることを否定したり、勝つ人=幸福になる人=価値のある人と、負ける人=不幸になる人=価値のない人、を選別したり、より分けたりするためのものではないと思います。
それは、互いに切磋琢磨して全体がレベルアップするための手段であって、例えば経済競争は、確かに貧富の差を作るけれども、しかし、経済競争がない場合と比べると全体が豊かになるがゆえに肯定されるものだと思います。
スポーツの場合などは、これがよりわかりやすい事例であり、競争がない場合より競争があった方が、切磋琢磨によって技能が上がることは明白だと思います。
こうして競争は、本来お互いを高め合い、全体を幸福にするための手段、すなわち全体への愛・慈悲の手段として位置づけるべきだと思います。しかしながら、競争の中で、勝者だけを肯定し価値を認め、敗者を否定し価値を認めない、という風潮があるように思います。周囲がそうしてしまうこともあるし、自分でそう思いこんでしまう場合もあります。
しかし、当たり前のことをいうようですが、勝者は敗者がいてこそ勝者であり、敗者は勝者がいてこそ敗者であって、お互いが相互に依存し合って存在していることは間違いありません。この、事物が相互に依存しあって存在することを、仏教では「縁起の法」といいます。
勝者は、自分の力だけで勝者になったのではなく、敗者との切磋琢磨を含め、実に多くの人のおかげでそうなったのであり、全体と一体の中で勝者となったのですから、敗者を含めた全体に感謝すべきものだと思います。
敗者も、競争の中の切磋琢磨でレベルアップするのは全体であって、その意味で勝者も敗者も本当は勝者であると考え、健全な自己の価値を見失わないように努めるべきだと思います。
さらに、勝者が勝利は自分の力のみで達成したと考えるならば、それは事実に反した慢心であり、自分を支えた全体に対する感謝と慈しみがなければ、努力し続けることを忘れ、他からの協力が得られなくなり、未来の没落のおそれがあると思います。
現在の日本の競争社会は、競争で負けた者が自己存在意義を失い、そのために競争に参加する活力のある人々が減っているのではないかという問題があります。
鬱病、ひきこもり、その他。その原因は色々あるでしょうが、勝ち組は負け組の上に乗っていますから、負け組が壊れてしまって、競争自体が減少すれば、全体が地盤沈下してしまい、その上に乗っている勝ち組も沈下します。
また、敗者や、下にある者は、柔軟な考え方によって、自分の価値を見いだすことができるし、将来の勝者になる道も開けてくると思います。例えば、敗者は、勝者と違って、自分の実体験から、同じ敗者・下の者の気持ちがわかり、彼らを労ることや手助けができる面があると思います。これは勝者も努力すればできますが、やはり実体験があるかないかは、大きな違いになると思います。
仏教ではこれを大悲の実践といい、これは、他の苦しみを自己の苦しみとして悲しみ、それを取り除く実践です。自己の苦しみは、それを他の苦しみを取り除くことに活かしてこそ、取り除くことができるという教えがあります。
また、敗者や下にある者は、自分が上に立って、自分が主導して物事を進めるのではなく、勝者・上にある者・自分より優れている者を活かしたり、支えたりして、幸福になる方法があると思います。
仏教では、これを喜(随喜)の実践といい、他の功徳・才能・長所・幸福を自分のそれのように喜ぶ実践です。自分一人の喜びを喜びとするより、無数の他人の喜びを自分の喜びとした方が、他と奪い合うのではなく、膨大な喜びを得ることができるという視点があります。
これらの実践は、努力する限りは、敗者・下の者に開かれた可能性であり、勝者・上の者は、不可能ではないが実践しにくいことです。その意味で、敗者・下の者が、①同じ敗者・下の者をいたわって支えること、また、②勝者・上の者を支える・活かすことは、敗者・下の者こそが得られる幸福であり、また、果たせる役割であると思います。こういったことに健全な自負心を持つべきではないかと思います。
優れた他を活かすといいましたが、自分だけの力には限界があるため、他を活かせる人は、究極的な勝ち組になる可能性もあります。昭和期最大の実業家である松下幸之助は、学力がないから他から素直に学び、病弱で体力がないため他に頼む術を身につけ、貧しかったのでお金持ちの元に丁稚奉公に行き、商人の才を覚えたといいます。一般には負け組となる要素を逆転活用したということです。
大乗仏教では、万人が平等に未来に仏陀になる可能性を有する存在として、平等に尊重する教えがあります。比較優劣の分別を越えた思想です。
この教えをさらに解釈すると、人と人の間の違いは、本質的・絶対的な優劣・善悪ではなく、先ほどいったように、敗者・下の者こそが、勝者・上の者よりも、努力すれば、逆に優れている存在になる可能性がある分野があり、こうして劣・悪なるものの裏に優・善の可能性があって、逆に、優・善なるものの裏に劣・悪の可能性があるということだと思います。
言い換えれば、一般には、あまりに一面的な価値観や、今現在の一時的な状態で、善悪・優劣を決めつけ思い込み、そのため他を見下したり、逆に自己嫌悪に陥ったりするということです。
その逆に、真実は、勝者は敗者に、上は下に、敗者は勝者に、下は上に依存し、お互いが助け合って存在しており、言い換えると、全体は一体となって成立しており、その意味で、勝者と敗者、上と下は、それぞれに与えられた貴重な役割であって、両者の間に、本質的な価値の違いはないと考えることができると思います。


2 妬みを超える 第一回

今回は、仏陀の教えに基づいて、妬みの苦しみを超える考え方について書くことにしました。これは、自と他の比較をして優劣をつける習慣が強い現代の競争社会では、なおさら強くなるのが妬みの感情のように思います。以前に競争社会を愛で生きるという日記を書きましたが、それにも関連したテーマです。
人は誰しも、自分より幸福そうな人を見て妬むということがあると思います。これについて深く考察してみると、それは、自分に与えられている幸福の道を見いだすことができないために、他人の庭を見ている状態だと思います。自分の道を歩むことに専念できている人は、あまり他に対する妬みはないように思います。
自分の道を歩むことに専念できない理由の一つに、既存の幸福・成功のパターンの観念にとらわれて、自分独自の幸福・成功の道が見えない場合です。こういうのが幸福だ、成功だ、という常識、既存の観念、他人の事例などにとらわれてしまって、それとは違った自分なりの道が見えてこない。
自分の幸福の道は、場合によっては、常識的には、自分の欠点・短所とされるものの裏側にあるかもしれません。競争社会では、他に勝つことによる幸福ばかり注目されますが、そうではなく、他の苦しみを取り除いたり、他を活かしたりすることによる幸福があります。
この場合は、自分の欠点・短所が自分の幸福の源になり、勝ち組の人よりも、負け組の人の方が有利な一面があります。自分に色々欠点があったり、自分が負け組であったりする方が、同じような他の苦しみを理解しやすいし、また、優れた他人を活かすことによって幸福になる道に入りやすいからです。
学力・体力・財力のなかった松下幸之助氏が、それを逆に活かして、他から謙虚に学び、体力のある他に頼む術を覚え、お金持ちの元に丁稚奉公に行って成功した例は以前にもお話ししました。これは、まさに欠点を長所に変えた例ですし、また、他を活かして幸福になった例だと思います。
また、知り合いで、病名もつく精神的な不安定を抱えつつ、歌手をしている女性がいるのですが、その問題を共有する人たちのコミュニティをミクシィに開いて、自分の経験を活かして、参加者の手助けをしつつ、同時にその人脈の中から自分のCDを買ってもらっている(笑)というたくましい人がいました。自分の病気も仕事に活かした事例です。
そういえば、最近話題になった、「ツレがうつになりまして」というマンガも、自分の家族の鬱を自分の仕事に活かした事例でしょうか。ただ、こういった事例も、他人をそっくりそのまま真似ることはできないのがみそで、精神問題のコミュも、鬱のマンガも、二番煎じは通用せず、欠点を長所にするためには、自分で何かを新たに発見する努力が必要です。
しかし、妬みというのには、既存の幸福・成功のパターンにとらわれるという固定観念に加えて、もう一つの原因があります。そして、それは、今まさに出てきた努力の必要性に関することであり、要するに、妬みの背景に、じつは怠惰がある場合です。
これは、楽して幸福になりたいと思っているために、自分なりに幸福になる道があっても、それに向かうことができず、そのために他がうらやましくばかり見えます。特に一見して楽に幸福になっている人を見ると、ひどく妬みますが、長期的には楽して幸福にはなれないのですから、妬むに値しない人を妬むことにもなります。
こういった場合どうしたらいいか。まずは、楽して幸福にはなれないことを、色々学んだり、色々経験したりしながら理解する必要があります。しかし、こういった怠惰な人は、単に楽しては幸福になれないことを理解してないというよりは、努力するために必要な気力・心身のエネルギーが不足している場合も多いように思います。気持ちの浮き沈みが激しく継続的な努力ができません。
では、必要な気力・心身のエネルギーを得る方法は何かというと、仏教の教えでいうところの功徳を積むことが、それに当たると思います。何が功徳かというと一概にいえませんが、一般にいう、良いことをすることです。
良いことをすると、気持ちが明るく、軽く、温かくなり、悪いことをすると、気持ちが暗く、重たく、冷たくなるという経験則があるのはご存じの通りですが、これは、良いことがエネルギーを強め、悪いことがエネルギーを弱めることになる証明です。
具体的にどんなことが良いかというと、仏教では、さまざまな施し・奉仕や戒律を守ることが説かれています。気力がなく、仕事につけず、お金がない人でも、できることが少なからずあります。何かの小さな奉仕もそうです。また、言葉による善行があります。他に感謝したり、良いところを褒めたり、悪口を慎むことなどです。
次に、ヨーガの身体行法、すなわち、体操(体位法・アーサナ)や呼吸法(調気法・プラーナーヤーマ)は、物理的・霊的にエネルギーを強化する方法です。体内の気の流れをスムーズにして、大気中のプラーナ(生命エネルギー)を取り込んで、心身を強化・浄化します。基本的なものは簡単ですから、それを少しでもやるとよいと思います。
身体行法と関連して、日々の体を作る食事も、エネルギーを高めるものと、そうでないものがあります。これは多分に個人差・民族差・地域差もありますが、一般的にいえば、消化が良く、温かいものは、心身のエネルギーを高める傾向があると思います。ただ、どんな食事が良いかを気にしすぎると、諸宗派や専門家にも見解に相違があり、混乱する可能性がありますので、ほどほどでよいと思います。
また、エネルギーは環境と連動する一面があります。その意味で、部屋の掃除も、善行の一つです。部屋の気の流れを良くして幸福を呼び込む風水の思想では、整理整頓が第一だと聞いたことがあります。松下幸之助氏も仕事ができる社員は整理整頓ができることをあげています。精神的な安定や知的能力と連動しているようです。
チベット仏教では、部屋を整理整頓して、祭壇を設置し、自宅を道場と見なすことを第一の基本修行としています。聖地での修行に効果があるのも同様で、人の内面と環境の連動性を示しています。ひかりの輪では、これらに加えて、伝統的なエネルギーツールである密教の法具や貴石、法具の奏でる聖音の活用を勧めています(詳しくは、http://www.joyus.jp/hikarinowa/shrine/)
また、各地に道場を設けて、聖地と同じように神聖な空間を提供する努力をしています。
また、環境の中で、決して忘れてはならず、多くの意味で最も重要なのは、どんな友人・知人を持つかです。釈迦牟尼は、良き友と交われと言い、出家修行者を初めとする仏教教団(サンガ)に帰依することを説きました。日頃から功徳の実践をし、エネルギーの高い環境を持ち、身体行法等の修行をしている人は、少なからず助けになると思います。
さて、今日は、妬みという話で始まったにもかかわらず、途中から脱線してしまい、いかに努力するための気力・エネルギーを蓄えるかという話になってしまいました。次回は、再び、妬みを超える教えについて話題を戻したいと思います。その中では、妬みを超えた「無量の喜」という仏陀の心についても、お話ししたいと思います。それは、誰しもが願っていること、すなわち、この世界の一切の幸福を得るための教えでもあります。


3 妬みを超える 第二回

妬みについて、それは、固定観念や怠惰によって、自分に与えられている自分なりの幸福への道を見いだしていないゆえに生じる感情ではないかという話を前回しました。
今回は、より本質的なこととして、妬みというのは、仏のような長大な視点から見ると、他の幸福を自己の幸福とする過程にある心理現象ではないかという視点をお話しします。
その前に、妬みを持たないためには、一般的な幸福の価値観にとらわれて、他に勝つことによって幸福になることばかり考えるのではなく、他の苦しみを取り除いたり、優れた他を活かしたりすることによって幸福になる道を考えて、自分なりの幸福への道を見つけるべきであるという話を思い出して下さい。
これは、仏教では慈悲の心といわれ、仏陀の心といわれます。つまり、他の苦しみを自分の苦しみとして悲しみ、それを取り除く心は、「悲」の心といわれ、他の幸福を自分の幸福として喜ぶ心を「喜」の心といわれ、他に幸福を与えて慈しむ心を「慈」の心といいます。そして、人による分け隔てを捨てて、すべての人を平等に愛する心を「捨」といい、この四つを合わせて慈・悲・喜・捨の四無量心といって、これが仏の心とされています。なお、これをもう少し短く、慈悲の心、大慈悲の心というときもあります。
例えば、自分が他に勝って幸福になるのではなく、自分が負け組の立場にあっても、その苦しみを活かして、同じように負け組の立場にある他の苦しみを理解し、それを取り除くことで、幸福になるのは、悲の心による幸福です。前回の日記に書いた自分の精神の問題を活かして、同じ悩みを持つ他を助けたのは、この実例です。
また、例えば、自分が負け組であることにこだわらず、優れた他を活かして幸福になろうとしたならば、それは他の幸福を喜ぶという視点で喜の実践であり、また、その優れた他にさらに幸福を与えるという意味で慈の実践です。松下幸之助氏の実践はこの成功例ですね。
ここから重要なのですが、仏陀の教えの中で、人の苦しみというのは、それを活かして他の苦しみを取り除いたときに、真に癒されるというのがあります。私は、これは絶妙の真理だと思います。苦しみは、それを嫌がるとますます大きくなる面があります。
逆に、それを嫌がらず、同じような苦しみを持つ人の気持ちを理解し、いたわり合い、その苦しみを取り除くために活かすことで、和らいでいくと思います。すなわち、苦しみを人にとって最も重要な慈悲の心を培うための原動力として喜びに変えていくのです。
ここでの重要な真理は、人の苦しみの本質・根本原因は、自と他の区別をすることである、ということです。自と他を区別し、自分の幸福ばかり考えていると、自分の欲楽のために、他と争うばかりで、苦しみが増大するが、自と他を区別しなければ、自分の苦しみも、他の苦しみを取り除く力となって、喜びに変わっていくというものです。
これを突き詰めると、苦しみとは、人がエゴを乗り越えて、慈悲の心に到達していくために、神仏が与える試練・愛の鞭であるという思想も出てきます。
さて、これを土台にして、妬みの心の乗り越え方を考えてみましょう。妬みは幸福そうな他を見た際に生じる苦しみです。これは、自と他を区別して、他と幸福を奪い合おうとすれば、他の幸福は自分の苦しみとなりますが、自と他を区別せずに、他の幸福を自分の幸福と考えれば、逆に喜びになります。すなわち、上記の喜の心の実践によって、妬みの苦しみは逆に喜びの源になっていくのです。
この喜の実践のためには、私たちの真の幸福の道とは何かを熟考する必要があります。人は、どんなに頑張っても、他に打ち勝って、他から奪って、幸福を得ようとしても、限度があります。今まで人類史上、世界全体を支配した王も、世界全体を信者とした教祖もいません。
しかし、人は何かを得ると、もっと欲しくなり、貪りには際限がありませんから、他から奪って幸福になる勝ち組による幸福を得ようとした場合、勝っても勝っても満足できるのは一時的であり、もっともっと勝ち組になろうとして、必ず、勝とうして勝てない苦しみ、勝ち得たものを失う苦しみ、他と奪い合う苦しみが増大していきます。
こうして、他から幸福を奪って幸福になろうとする道=煩悩を満たすことによる幸福は、満ち足りることがなく、際限のない貪りを招く中で、その裏側に、得られない苦、失う苦、奪い合う苦など、さまざまな苦しみを招くことになるというのが仏陀の教えです(仏教の専門用語では、人の経験するこの苦しみの分析が、私たちが知る「四苦八苦」という言葉の本来の意味としています)。
一方、仮に、自と他を区別せずに、他の幸福を自己の幸福として喜ぶ、他を幸福にすることで自分が幸福になる訓練ができたならば、世界中の60億の人々の、すべての生き物の幸福が自分の幸福となることになります。富で言えば世界一の大富豪、権力で言えば米国の大統領、悟りでいえば仏陀やイエス、彼らの幸福・成功・才能の喜びが自分の喜びになることになります。
これは膨大な幸福です。よって、先ほど、(四)無量心という言葉が出てきました。無量の喜びの心という意味です。言い換えると、世界の、宇宙のすべての幸福が自分の幸福となります。すべての幸福が自分のものになる、正確にいえば、他のものであると同時に、自分のものにもなるのです。
そして、この「すべての幸福が自分のものに(も)なる」ということは、非常に重要なポイントだと思います。先ほど、人の貪りは際限がないといいました。貪りに際限がないということは、人は果てしなく幸福を求める本質があるといってもよいかもしれません。言い換えると、人は宇宙のすべての幸福を手に入れたいと潜在的に思っているのです。
では、宇宙のすべての幸福を手に入れたいとして、その正しい道は何でしょうか。自と他を区別して、他と争って、他を支配し、自分が全宇宙の王・支配者となることでしょうか。それは、先ほども述べたように、不可能なことであり、妄想です。にもかかわらず、道理がわからないために、この過ちを犯しやすいのが人間というものだと思います。
この過ちをなす者を仏教ではマーラ(悪魔)といいます。マーラは、人間の世界を含む欲六界の頂点にあって、それを支配しようとする欲望を持った存在ですが、自分の支配を脅かすように見える者を憎んで妨害しつつ、結局は老い病み死ぬことは避けられず、支配しきることができない中で、地獄に落ちて行くとされています。
こうして、マーラといっても、仏陀から見ると、無智な存在にすぎません。そして、マーラというのが実在するかどうかは、信仰の問題となりますが、仏教の世界観は、人間の世界に投影されていると解釈できます。今崩壊しつつある中東の独裁者や、どこかの政治家の末路は、まさにマーラと似ているかもしれませんね。
では、無智に基づくマーラの間違った道ではなく、宇宙のすべての幸福を手に入れるための正しい道とは何か。私は、それが仏陀の心だと思います。宇宙のすべての幸福を手に入れるためには、それを持つ他者から奪うのではなく、他者の幸福をそのままに自分の幸福・喜びとできるように、自分の心・意識を改革することである。これを悟ったのが仏陀だと思います。
仏陀とマーラ。共に宇宙のすべての幸福を手に入れようとした点では違いがありません。しかし、一方は無智によって徒労の空回りの道、自分も他人も苦しむ道を選んだのがマーラ。そして、自分も他人も幸福になり、すべての人が宇宙のすべての幸福を手に入れる道を歩み、その道を説いたのが仏陀ということになると思います。
よって、先ほどと同様に、妬みの苦しみも、人が、宇宙のすべての幸福を手に入れる上で、その間違った道から正しい道に導くために、神仏が与える愛の鞭・試練であると解釈することもできると思います。妬みの苦しみから、妬みを超えた、真の幸福の道を見いだす可能性があるからです。
さて、実際に、妬みを超えて、他の幸福を自分の幸福と考え、感じることができるように、自分の意識・人格を改革することは容易ではないと思います。それは一朝一夕にできることではないと思います。宇宙のすべての幸福を手に入れることが一朝一夕になったら、その人は仏陀もイエスも超えた超救世主ですから、私も帰依したいくらいです(笑)。
しかし、仏教は常に、仏陀の教えの実践は、焦らず弛まずコツコツと続けることで、徐々にではあるが確実に身についていくと説きます。ローマは1日にしてならず、急がば回れ。安かろう悪かろうであり、すぐ達成できるものには真の価値はありません。
そして、具体的な修練の方法としては、第一に、こうした教えをよく学ぶこと、第二に、その道理・論理を鵜呑みにせずに、自分でよく検討し、心はその状態になりきれなくても、まずは頭ではしっかりと「これが真実の幸福の道だ」と納得すること、第三に、それを繰り返して修習する(=瞑想する)ことで、実際に心を変えていくこととされています。
これは基本的な教学・思索・瞑想による直接体験という三段階の智慧(智恵)のプロセスですが、これに加えて、密教・ヨーガの世界では、妬みを含めた煩悩を和らげるために役立つ方法として、例えば、1.体操や呼吸法といった身体行法、2.各種の観想・イメージングの瞑想法、そして、3.煩悩と密接に関連する体の中を流れるエネルギーを制御する霊的な修行法などを開発していきました。聖地の巡礼などの環境からのアプローチも、それらの努力の一部です。

最後に今日の要点をまとめると、
人の苦しみが本当に和らぐのは、それを、他の苦しみを取り除くために活かしたときであり、
人が本当に幸福になるのは、他の幸福を自分の幸福としたときである、

ということになると思います。


4 妬みを超える 第三回

今回は、妬みを超えるために、まずできることは、自分が妬んでいる対象があっても、それは自分が思っているほどには幸福ではなく、逆に苦しみも多いのではないかということに気づくことであるというお話をします。
仏陀の教えを学んで気づく重要な人の心の性質は、人の欲望には際限がないということで、何かを得たら、もっと欲しくなり、満ち足りることがなくなるからです。さらには、もっと得れば得るほど、失う可能性のあるものも多くなり、それを失う恐怖や、守るための苦痛=奪い合う激しさも大きくなります。しかし、人は誰もが常に他に勝てるわけではないし、老・病・死という敵には勝てず、結局はすべてを失うことになります。
すると、自分が妬んでいる人、自分がその人に取って代わりたいと思っている人、その人がいると自分が幸福になれないと思っている人がいたとして、仮に自分が、そういった人に取って代わったとしても、実際には自分は決して満ち足りることはなく、もっともっとという貪りの心は増大する中で、上には上が無限に存在するために、対象は変わっても、妬みがなくなることはなく、逆に、より多くのものを得た分だけ、苦しみ・苦労も増えてしまうことになるのではないでしょうか。
この意味で、自分が妬んでいる人は、自分よりさして幸福ではないし、むしろ、自分より苦が大きい部分もあり、これを言い換えるならば、慈悲の心がなく、単に他に勝つだけ、他に優位に立つことができても、できない場合と比較して、その幸福に大きな違いはないのではないか、ということがわかります。
慈悲なき人の幸福に大差なし、仏の手のひらでドングリの背比べです。よって、真の幸福は、この道理を理解して、他の幸福を妬むのではなくて、他の幸福を自己の幸福として喜んで、それを助けることにあるという気づき・目覚めが必要であると思います、仏陀の教えでは、他に幸福・楽を与えることを慈の心といいます。また、他の幸福を自己の幸福のように喜びとすることを喜の心といいます。こういった意識の改革こそが真の幸福の道と説かれます。
この点をもう少し深めてみるために、すべての幸福を得るための二つの道という視点を考えてみたいと思います。人には際限のない貪りがあるといいましたが、それはある意味で、人が無限の幸福、すべての幸福を得たいという欲求があるとも表現できると思います。そして、すべての幸福を得るためには、二つの道があって、一つは仏の道であり、もう一つは仏教ではマーラ(悪魔)の道といわれるものです。
仏の道は、すべての他人の幸福を自分の幸福と考える意識の改革=悟りによって、すべての幸福を得ようとします。一方、マーラ(悪魔)の道は、すべての他人に打ち勝ち、すべての他人の上に立ち、すべての他人を支配して、すべての幸福を得ようとします。しかし、このマーラ・悪魔の道は、実際にはすべての幸福を得ることができる道ではありません。マーラの道は、実際には、無智であり、自滅する道とされるのです。
実際に、この世界のすべてを支配した人はいません。イエスや仏陀も地球のすべてを信者にしたわけではなく、米国の大統領も同様です。地球でさえすべてを支配できないのですから、宇宙全体を支配することなど到底できません。
さらには寿命には勝てません。マーラを含めたすべての生き物には寿命があり、老い衰えて、すべてを失い、死んだら、生前の悪行のために、地獄に落ちていくと説かれています。
また、支配欲・妬みが強く、自分の権力・権益を脅かす存在を恐れ、妨害するとされています。イエスや仏陀が悟るときに、悪魔が妨害したのも、彼らの功徳が、自分を上回ることを恐れてだとか、自分の立場を脅かすと恐れてのことだとされています。結局はこの道は他と奪い合いですから、勝つこともあれば、負けることもあり、争っている中で、真に幸福になることはできないのが道理だと思います。
そして、賢明なる皆さんもお気づきのように、この悪魔と仏は、すべての人の心の中に存在します。自分とは別な特別な存在としての悪魔や仏は、信じる人も信じない人もいる宗教的・霊的な存在となりますが、誰しもが持っている心の象徴・比喩としての仏と悪魔は、非常に重要な意味を持つのはおわかりになると思います。悪魔が一時的に他を支配しつつ、必ず没落・自滅に至るという運命は、最近の話では、中東の独裁者の末路を思わせます。
こうしてみると、人間が無限の幸福、宇宙のすべての幸福を欲する本質があるとしても、それを得る唯一の正しい道は、すべての他者の幸福を自己の幸福ととらえなおして喜ぶことにあると思います。智慧ある仏は、他の幸福を自己の幸福となし、すべての幸福を得て、無智な悪魔は、他から幸福を奪ったり、他を支配したりすることで、幸福になると錯覚し、空しく没落していくということです。この意味で、真に幸福になるのは、他の幸福を自己の幸福として喜ぶことだという結論が得られると思います。
さて、妬みを超えるための考え方をもう少し深めておきたいと思います。まず、妬みの対象には、この人がいなければ自分が幸福になれるのにという気持ちが起こっている場合がありますが、視点を変えれば、その人、そういった人たちに、自分がさまざまな恩恵を得ている面があるのが見つかるものではないでしょうか。
例えば、競争において自分を負かした人でも、そういった優れた人がいてこそ、自分も切磋琢磨し、そうではない場合よりも、大きな努力することができます。逆に、仮に、自分のこれまでの人生で、自分より優れていて、妬ましい存在がいなかったならば、どうなっていたかと考えてみると、ある意味で恐ろしいもので、自分が世の中で一番であるかのような錯覚をして、マーラや独裁者のように、慢心に陥り、後に大きな不幸に陥るかもしれません。
また、妬みの対象は、色々な面で、自分を含めた全体を支えている存在である可能性もあります。妬ましいのだが、いてもらわないと自分も困るし、自分がその人の替わりをやって、責任を背負うのは嫌だ・できないという場合もあります。これは甘えに他なりませんが、怠惰な人は妬みが多いということは前にも述べた通りで、こういったパターンが実際には多いと思います。これは自分の中の怠惰が妬みの対象を作り出しているともいうことができますから、なすべきことは努力であって、妬みの苦しみは、怠惰をしては幸福になれないことを戒め、努力を促す神仏のメッセージです。
そして、妬ましい他者の成功・幸福・その他は、実際には、その人だけの力で得られたものではなく、自分もその一端に「貢献」している事実があります。実際、この世界で一人で生きていくことができる人や生命体は皆無であり、どんな人のどんな幸福・成功・長所・喜びも、すべて他者・万物に依存しています。その意味で、他者の幸福は自分に全く無縁のものではなく、どこかで自分がそれに貢献していることであり、本来ならば、同じ地球の一員として、彼の幸福・成功を自分の誉れとしてもよいのではないでしょうか。
例えば、競争で自分が負けたとしても、勝った他人がなした達成は、自分との切磋琢磨の中で、皆で全体で達成したものです。負けた自分が勝った他人の達成に貢献していることは明らかです。このように考えて、妬むのではなく、彼らの幸福を、自分を含めた全体の努力の結果だと考えて、自分の喜びとするように努めることができないでしょうか。
こうしてみると、妬みの対象は、怒りの対象と同様に、本来は感謝と分かち合いの対象にすべきものだと思います。
悪行をなす人への怒りに対しては、その人を貴重な反面教師と見ることで、感謝の対象とすることができるように、妬みの対象の場合も、その人が実際には、さまざまな意味で自分の恩者・助力者であると気づけば、感謝の対象になります。
そして、この感謝に基づいて、苦楽の分かち合いに進みます。他の悪行とそれによる苦しみが、自己の潜在的な悪行と苦しみであると考えて、それを取り除く手伝いをし、他人と自分の苦しみを同時に取り除くように努めます。自己の苦しみも取り除くものだという感謝を持って、他の苦しみを取り除くお手伝いをするのです。
同様に、他の善行・成功・幸福についても、それが自分の善行・成功・幸福に繋がっているものだと気づいて、自分の喜びとします。そして、その他の幸福がさらに大きくなるように手助けし、自分と他人の双方の喜びを増大させるように努めます。自分の幸福も大きくするものだという感謝を持って、他の幸福の手助けをするのです。


5 自と他の区別を超える仏陀の教え 第一回

前回は、「人の苦しみが本当に和らぐのは、それを他の苦しみを取り除くために活かしたときであり、人が本当に幸福になるのは、他の幸福を自分の幸福としたときである」という、仏陀が説いた、慈悲による幸福の教えについて書きました。
この教えは、世界が全体として幸福になる道理も示していると思います。一人の苦しみを二人で分かち合えば苦しみは半分に減り、一人の喜びを二人で分かち合えば喜びは二倍になる。その意味で、苦しみを60億の人間で分かち合えば、苦しみは限りなく少なくなり、喜びを60億で分かち合えば、喜びは限りなく大きくなる。
仏教では、人間の世界よりもはるかに苦しみが少なく、幸福が大きい世界(欲天ではない高位の天界)があると説かれますが、その世界の住人は皆、互いへの慈悲が深いとされています。仏教的な考えでは、その世界の幸福・不幸は、その世界の住人の心の現れ・報いとされますから、この世界観は、実際にそういった高位の世界の存在が科学的には証明されてはいないといっても、慈悲こそが苦しみを取り除き、喜びを増大させる道理であることを示しているという意味で、十分価値のある話だと思います。
ラクビーの有名な言葉にも、「一人がすべてのために、すべてが一人のために」という言葉がありますが、これも似たような考えだと思います。個々人がエゴを捨て全体に奉仕し、全体が一人一人を大切にするということでしょうか。
さて、今日の本題としては、こうした自と他の区別を超えた慈悲による幸福を支える仏教的な世界観です。他の苦しみを自己の苦しみとし、他の喜びを自己の喜びとする幸福の思想の土台として、仏教にはそもそも、実際に、自と他の間には私たちが日常生活で考えているような区別・境界は実在しないと説きます。これは、幸福観の問題ではなく、実際に科学的・合理的な視点からも、自と他は繋がっており一体であると論じているのです。
まず私たちの体ですが、分子生物学の発見では、体を構成する分子は数年ですべて外界のもの(他者のもの)と入れ替わってしまうことがわかっています。私たちには自分の体だけの分子などはないということになります。その中で、体は絶えず、その大きさ・形を変化させ続け、微小な受精卵から成人の体になっては、老いる中で縮小して、死んでは崩壊します。
よって、分子生物学的な視点からいうと、「過去の自分と全く変わらない何かを維持している一人の私がいる」という観念=「自己同一性」は、全く幻想であると主張する学者もいます。これは、仏教が、この世界では、私を含めたいかなるものも他から独立しておらず、相互に依存し合って存在し、固定した実体を持っていないと説くのと全くよく似ています。
次に精神面ですが、思考や感情も、その土台となる言語や知識・情報は皆生まれてから他人から吸収したもので、自分だけのものはありませんし、今も他からさまざまな情報を吸収し続け、また、他人にも発信し続けており、自分と他人の間で絶えず情報を交換し合っています。そして、体と同様に、人の思考や感情は絶えず移り変わっており、一生全く同じ考えを持ち続ける人はいないですし、以前の自分の考えが他人のそれになり、またその逆もよく起こります。
自分と他人を考察してみると、自分も他人も、社会・地球・宇宙全体に支えられて生まれ育ち死んでいきます。どんな人も自分自身で生まれることはできず、両親によって生まれ、両親からの遺伝子、その後の養育・教育・社会環境と密接不可分な存在です。
その意味で、ある人が、どんな悪いことをしても、良いことをしても、それは、その人だけが原因となって生じたものではなく、落ち着いて考えれば、社会・地球・宇宙全体が作ったものだということがわかります。言い換えれば、社会・地球・宇宙全体が、その人のところで、その悪いこと良いことを現象化させたといってもよいのではないでしょうか。例えば、火山から出るマグマは、決して火山の下だけにあるものではなく、地球全体の地殻に広がっているのと同じようにです。
その意味では、どんな人の悪いことも、良いことも、社会・地球・宇宙全体が共有する要素の現れだしたものであり、その人だけの欠点や長所、罪や功績ではないと思います。しかし、現代の社会では、この点が見過ごされがちで、悪いことが起こると、誰かだけの責任にして済ませ、良いことも、その人だけの功績とする傾向があります。
すると、他人の悪行を見ては、自分がそれに関係・加担している一面があっても、それに気づかずに、安直に自分と区別して、軽蔑・嫌悪したり、怒りを発したりするということが起こります。また、他人の善行を見ては、それが自分も協力した結果だとは気づかずに、自分とは区別して考え、それを妬むことも起こります。
その結果として、軽蔑や妬みだけでなく、自分と他人を区別して、自分は他人と違って駄目であるという卑屈、自分は他人と違って優れているという慢心が生じます。本来は、自分だけが駄目であることはなく、自分の欠点・問題は多くの他人が共有しているものですし、また、自分だけが優れているということはなく、自分の長所・功績は多くの人によって支えられたものですが、それに気づかないことになります。
仮に、自と他の繋がりを意識するならば、他人の問題は自分にも潜在している問題であると考えて、他人を見下すのではなく、反面教師と見て内省し、他人の問題の解決を手伝うことで、自分の問題を未然に防ぐという智慧と慈悲が生まれます。また、自分の問題は、他も共有している問題だと認識して、卑屈ばかりに陥らず、自分の問題の解決に努力しつつ、それを他の問題の解決に活かすという智慧と慈悲が生じます。
このことが前回の話と繋がってきます。前回は、自分の苦しみを本当に解消するのは、同じような苦しみを持つ他の苦しみを理解し、それを取り除く手伝いをするために活かすときであるという話をしましたが、まさに、これはどんな問題も、自と他の間で共有されている事実を土台にしています。
すなわち、自と他が繋がっているから、他の苦しみを取り除くことが、自分の苦しみを取り除くことになるのです。突き詰めれば、自分と他人の苦しみを区別しない境地です。自他の区別を超えて、すべての衆生の苦しみを取り除かんとする仏陀は、そういった意味では、自分のすべての潜在的な苦しみを取り除くためにも、すべての衆生の苦しみを取り除こうとする、ということになります
さて、これに関連して反面教師という視点について多少加えると、実際に私たちは他人の問題を見ては、自分は絶対にこういうことはしないようにしようと考えるときがあると思います。しかし、それは見方を変えれば、人というものは他の悪行を見て自分がそれを避ける力にしている面が多々あることを示しています。悪いことをした人が、他を害して苦しめ、批判・処罰されたり、本人がそれで自滅したりして苦しむ様を見て、それを教訓とすることは非常に多いと思います。
そして、仮に自分の周囲にそういった反面教師が一切いなかったならばどうでしょう。そういう人が、何か悪に誘惑されたときには、反面教師がいた場合と比べて、それに打ち勝てる力が同じように持てるでしょうか。
その意味で、反面教師が一切持てない境遇というのがあったら、それは恐ろしいことではないでしょうか。そして、こうしたことを突き詰めると、人というのは、他人の悪行を見て学ぶことで、ようやく、かろうじて、自分が悪を避けている部分がないだろうか、という視点も出てくるかと思います。
こういった考察は、安直な自と他の区別から来る慢心・軽蔑・嫌悪・怒りを和らげ、謙虚さと努力という貴重な資質をもたらします。具体的には、他の苦しみを取り除くことが自己の苦しみを取り除くことであるという考えを深め、謙虚さと慈悲が一体化した心境をもたらすと思います。
だいぶ長くなりましたので、今回はこの辺にして、次回、さらにこういった点の考察を深めたいと思います。


6 自と他の区別を超える仏陀の教え 第二回

今回も引き続いて、慢心・卑屈・妬みといった、自と他を区別・比較するところから生じる心の問題について書きたいと思います。前回は、人は、悪いことをする他人を反面教師として、ようやくかろうじて自分が悪を回避している面が多々あって、それに気づけば、自分が善で、他人が悪といった、他を見下した心の働き(慢心)は超えられるのではないかということを最後に書きました。今回は、この点をさらに深めたいと思います。
それは、悪いことをしている他を見たときに、多くの場合に怒りが生じますが、じつはそれは、その他人と自分が違うことを示しているのではなく、似ている要素があることを示しているということです。これは、カール・ユングという希代の心理学者が唱えた「影」の理論と呼ばれ、人は、自分が見たくない自分の暗部を他人に見ると強い怒りが生じるというものです。
まず、人は、自分の暗部は、それを見たくないために、普段は忘却しており、潜在意識にあります。言い換えると、多くの人は、暗部がない仮面の自分を本当の自分だと思い込んで生きています(仮面人間)。自分を実際よりよく見たいというのは、自己愛に基づく虚栄心・反省・努力を怠る怠惰など色々な原因があると思いますが、比較優劣が強調される現代の社会で、特に自分を良い人だと思いたい欲求が強い面があるのでしょう。よって、ユングは現代人の心の危機として、この問題をとらえました。表層意識に良い自分、潜在意識に悪い自分がいて分裂しています。
しかし、「類は友を呼ぶ」の経験則があるように、自分の周囲には、自分の暗部を共有している他人が現れます。そして、自分の暗部は見えなくても、他人の暗部はよく見えます。自分の問題は理解しにくいが、他人の問題はよくわかるものです。すると、普段から自分が見たくないと思っているものを他人に見るわけですから、その他人に強い嫌悪が生じます。これは、ある意味で、近親憎悪と呼んでもよいでしょう。嫌いな部分の自分と似ているから怒りが生じる状態です。
仏陀の教えに基づいて考えると、悪いことをしている他人に対して生じるべき心の働きは、軽蔑や怒り・嫌悪ではなく、慈悲ということになります。この慈悲は、その他人の悪行と、その悪行による苦しみを他人事ではなく、自分の潜在的な悪行と苦しみととらえて、自分のものとして悲しみ、他人のそれを取り除くことによって、自分の潜在的なものも取り除くという智恵(智慧)に基づく心の働きであると私は考えています。
そして、この軽蔑・怒り・嫌悪が生じる場合と、この慈悲が生じる場合を比べてみると、悪いことをしている人と、その人に慈悲が持てずに軽蔑・怒り・嫌悪が生じる人は、それほど大差がないのではないかという視点が出てきます。
仏陀の教えでは、例えば、何かが本当に悪いことであると理解しているということは、それをなした本人も、それによって苦しむことを理解していなければなりません。いわゆる自業自得です。例えば、お金を盗んだ人は、違法な手段で得をしたずるい人なのではなく、本当には人を幸福にしないお金などにとらわれすぎて、その奴隷となった人であるという認識が必要です。
しかし、単純に怒りが生じる場合は、お金を盗んだ人は、ずるく得をした人であり、それを処罰しなければ、逃げ得であって許せないという意識が根底にあるのではないでしょうか。その場合は、お金を盗んだ人も、それに怒っている人も、どちらもお金にとらわれているという点では、似た価値観を有していることになります。
そして、仮に今怒っている人が、時と場合が変わって、自分が経済的な窮地に陥ったり、決して見つからない・処罰されない・皆がやっているから等と言葉巧みに誘惑されたりしたときには、同じような間違いをしてしまう可能性があるのではないでしょうか。逆にいえば、自分が軽蔑や怒りを持っている対象は、条件を変えたときの未来の自分を投影している可能性があります。
さらにいえば、この金銭欲についていうと、悪人とされる人たちの悪い行為と、善人とされる人たちの行為が繋がっている場合があります。善人の行為が悪人の行為の原因の一部になっている場合です。例えば、この社会では、合法的にお金を儲けることは良いこととされ、それができる人は優れた人として評価されます。
しかし、その合法的な経済活動の中では、さまざまな物欲や金銭欲を刺激する多大な宣伝等の活動がなされます。その宣伝によって欲望が増大するわけですが、世の中の一部には、心の弱い人がいて、そうして欲望が刺激されると、他の人と違って、悪い行動を抑制できない人たちがいます。
例えば、性欲を刺激する情報が合法的に社会に波乱する中で、性犯罪が発生する構造は、この一例だと思います。実際には、多くの事業が、人の欲望を刺激する面がある中で、それが一部には害悪になっている場合は、多く存在すると思います。
実際、良心的な事業家の場合は、自分がやっていることが一般では評価されていても、その中に何か他を害する部分、社会の悪に繋がっている部分があることを自覚しているのではないでしょうか。そして、多額の収益を上げている企業によく求められる社会貢献とか慈善活動などは、その罪を償う・相殺する意味でなされるべきものではないかと思います。
これは、自己の悪人の部分を理解してこそ、それを相殺するために、善行に励む謙虚な心構えができるという教えです。わたしは、この考え方が好きで、神仏とその教えを語る宗教家は、慢心に陥りやすいことを自覚し、というよりは、基本的に慢心型の一面がある人格であることをよく自覚し、それが酷くなり過ぎないように努めつつ、その欠点を相殺するような他者への尊重と奉仕に励むべきだと思います(例えば人々を神仏の表れと見て奉仕するなど)。これは親鸞聖人の悪人正機の教えの一つの解釈でもあり、言い直せば、「自己が悪人であると自覚した者こそ正しい教え・仏の救いに巡り会う機会がある」というものです。
この点に関連して、そもそも、自分が悪を回避しているのは、自分が偉いのではなく、たまたま自分がそういった条件に恵まれ、他人が条件に恵まれなかった部分があるのではないか、という視点を持つことも有益だと思います。仮に自分が悪いことをしている人と、似たような親・遺伝子、似たような養育・教育・社会環境に育ったとしたら、どうだろうかと考えてみることです。すると、その場合は、自分も同じようなことをする可能性があるのではという気持ちになれると思います。
そう考えると、たまたま条件に恵まれていた自分が、条件に恵まれなかった他人を単純に軽蔑し見下したり、怒ったり嫌悪することは、ある意味で、慢心の一面があるということになります。そして、その慢心の問題は、その他人を反面教師として自分を内省・自戒をする機会を失うがために、未来において自と他の条件が変われば、自分が似た悪いことをしかねないということです。
むしろ自分がなすべきは、条件が良かったことに感謝して、条件が悪かった他人を反面教師として内省のために活かして、さらには、その他人を悪行から救い出すことによって、自分自身の中にもある潜在的な悪行の可能性を事前に摘み取っておくことではないかと思います。
ここで、他人をある問題から救えば、自分も同じ問題から救われるという視点が出てきます。例えば、何かの知識・技能のない他人に対して、それを教える立場にある人は、自分が教えることによって、自分自身が学ぶという経験をよくします。自分がわかっていると思っても、実際に教えてみるとわかっていないことも多く、教える中で気づくことも多いものです。同じように、他を何かの悪行とそれによる苦しみから救うことは、自分がその悪行のもたらす苦しみをよりよく理解し、それから脱却する道もよりよく理解することに繋がります。

こうして、まとめてみると、

1 悪行をなす他人を見たときに、単純に軽蔑したりするのは、自分と他人の真の関係を理解すれば、慢心の一面があるもので、それは、悪をなす他人と大差ない愚かさを自分も有している状態であり、

2 真に智恵(智慧)のある者になろうとするならば、謙虚さ(という最高の智慧)をもって、自と他に繋がりがあることを悟って、感謝の心を持ちながら、他を救うことで自己も同時に救う実践をするべきである、

ということになると思います。そして、この点にまさに、仏陀・菩薩と呼ばれる智慧ある人が、すべての衆生を救おうとする慈悲を持つ背景があると思います。自分と他人が繋がっている(大差がない)という智慧が自と他を一体として救おうという慈悲をもたらすということです。


7 自と他の区別を超える仏陀の教え 第三回

前回は、主に、自と他を区別して他を見下す慢心と、それに連動する軽蔑・嫌悪・怒りという問題を取り上げました。そして、その答えとして、自と他の繋がりを見る謙虚な智慧と、それから来る感謝と慈悲について書きました。
さて、ここで出てくる感謝というのは、慢心の強い人にも、卑屈・妬みの強い人にも、そのどちらも重要な実践だと思います。そして、感謝が深まると、自ずと恩返しの心が生じ、それが苦楽を分かち合う慈悲に繋がってきます。大乗仏教の教えでも、衆生済度に励む菩薩の修行をする人の動機はすべての衆生に対する感謝と恩返しなのです。
ここで、感謝と恩返しがなく、他を救おうとする場合は、他人を救ってやるという傲慢な意識が背景にあります。しかし、真に他を救うことは自分を救うことでもあるという視点があると、感謝と慈悲は一体化します。自分と他人を同時に救うという智恵(智慧)が生じます。
こうして、自と他を区別しない智慧から、感謝を伴う慈悲、自分の成長と一体となった利他の実践という概念が生じます。私も、説法会などでは、皆さんに教えについて語ることで、自分も皆さんから学ぶ、ないし皆さんと共に学ぶ=教えを分かち合い温め合う、という心構えで望みたいと思っています。
さて、慢心を乗り越えるために、自と他の区別をしないで、感謝をすることについて書いてきましたが、それをもう少し深めたいと思います。
慢心に陥っている人は、自分の幸福・成功が、実際には、他に支えられている、全体に支えられているということが理解できないケースが多いと思います。そのため、今まで自分を支えていたものを徐々に失って、近い将来に没落するパターンを取ります。独裁者などの盛衰、勃興と没落は、このパターンだと思います。そして、これを乗り越えるのが、自分を支える多くの存在・全体への感謝の実践であることは明らかですね。
最近、世の中では勝ち組と負け組というのがありますが、私は、勝ち組と負け組を二分化するのは慢心と卑屈をもたらすと考えています。勝ち組といっても、彼らは自分たちの力だけ成功したのではなく、全体に支えられていますし、負け組にさえ支えられています。
実際に、勝ち組は負け組になった人たちを含めた他者との競争=切磋琢磨によって、勝ち組の状態・立場に至っています。勉強でも、スポーツでも、企業の経済競争でも、他と切磋琢磨し競争することで、全体のレベルが引き上がり、その中で勝者と敗者に分かれるとしても、敗者なくして勝者なしが事実です。勝ち組とは、負け組を含めた全体の力で作り出した存在なのです。
しかし、今の社会で心配なのは、勝ち組とされる人が、自分の力だけで勝ち組になったと錯覚し、また、周囲からもそのように位置づけられて称賛される中で、負け組を含めた全体からの支えへの感謝を見失い、本来感謝に基づいて恩返しするべき立場にあるにもかかわらず、慢心を抱いて、それをなさないために、没落してしまうことです。
先ほども出ましたが、最近の中東などの独裁者の突然の没落は、これまでの成功に慢心を抱き、自分が全体に支えられていることを見失い、民衆への利益の還元を忘れて、権力や富を独占した結果だと思います。
この慢心の問題は現代の社会を揺るがしていると思います。社会のエリート層がもたらしたバブルとその崩壊による世界規模の不況がありました。その中で、一時は時代の寵児ともてはやされたIT事業家、ファンド事業家、銀行事業家などが、次々と逮捕されていきました。
宗教界では、オウムこそが、一時的な成功による慢心がもたらした狂気でした。教団を聖とし、社会を邪として、世界を二分化する教義・物の考え方に、慢心が潜んでいました。実際には社会に支えられて教団が成立・成功していたのが実際なのに、その社会を否定・破壊して、理想の社会を作るという誇大妄想を抱いた結果、実際には、社会とともに、自らを破壊した形になりました。
そのため、私はひかりの輪の教えを展開していく中で、いかにして慢心を超えるかについて考察する必要に迫られました。そもそも宗教は、神仏に近づくものであるという意味で、慢心に陥りやすい本質があることをよく自覚し、いかにその良さを残して、悪さを取り除くことができるかについて工夫する必要があると考えています。
こうして、勝ち組・上に立つ立場の者にこそ、最初にお話しした、感謝と恩返し=苦楽の分かち合い・慈悲の実践が必要であることがわかります。その実践こそが、他を利するだけでなく、他が支えている自分を支え続ける土台となります。ここでも、他を利すること=自己を利することという、自と他を区別しない一元的な価値観が出てきます。
さて、勝ち組の慢心ではなく、負け組の卑屈・妬みについても、じつは、感謝と分かち合い=慈悲が必要だと私は思います。卑屈な人は、自分は駄目だと思っていますが、同時に感謝が少ない場合が多いと思います。
しかし、実際には、人には上には上があり、下には下があり、上も下も際限がありません。つまり、自分が恵まれていない、負け組であるといっても、それは比較の問題であって、自分よりも下の人は無数にいます。この世界には60億の人間がいて、その全体から見ると日本人は全くの勝ち組です。健康長寿で、戦争もなく安全で、豊かな日本人は、途上国の人から見ると皆が王侯貴族に見えると聞いたことがあります。
しかし、この日本で自殺者が年間数万人、鬱の人も100万もいて、自分が恵まれていない、負け組だと考えるのは、比較の対象が自分よりも上であるからであることは明らかでしょう。人はたいてい、自分に近い存在と自分を比べたり、少し前の自分と自分を比べたりして、比較によって、幸福や不幸を感じます。ですから、全体から見れば大変幸福な人も、比較の対象が自分よりも上ばかりであれば、卑屈や妬みばかりとなります。
辞書を引くと、善い悪いとは、比較して優れている様、劣っている様と定義されています。つまり、善い悪いとか、幸福とか不幸とは、人の心の比較が作り出す実体のないものです。同じ外的な環境条件にあっても、幸福な人と不幸な人がいるのはこのためです。
善いもの、優れたものも、それ以上に善いもの、優れたものに比べたら、悪いもの、劣ったものに感じられるのが、人間の生理的な感覚の不思議なところです。逆に、悪いもの、劣ったものも、比較の対象によっては、善いもの、優れたものに感じられるようになります。こうして、善悪・優劣から来る幸福・不幸には実体がありません。それは心が作り出すものです。
私は、これが、仏教を含めたインド思想が説いた自業自得という教え、すなわち、自分の業=行為が、自分の幸福・不幸を決めるという教えの真の意味だと思っています。
では、どんな心が幸福を作り出し、どんな心が不幸を作り出すかというと、自分に与えられている幸福の大きさを考え、それに感謝する心が幸福感を作り出し、自分に与えられていない物ばかりを見て、不満を持つ心が不幸を作り出します。
そして、不満を持ち、自分が不幸であると感じる人は、当然、卑屈=自己嫌悪を抱き、同時に、そういう自分の状態を他人のせいにもすることが多く、他に対する不満・嫌悪も強くなります。こうして、卑屈=自己嫌悪の強い人は、他への嫌悪も強く、自と他両方が嫌いになります。
一方、自分が得ている幸福をよく見て、感謝の心が強い人は、その自分の幸福を支えている他への感謝の心も強くなり、こうして、自分と他人の双方を肯定的に見て、愛することができます。そして、感謝に基づく恩返しとして、他と苦楽を分かち合う、利他・慈悲の実践をする傾向が強まります。
というのは、感謝の実践をすると、上ばかりを見ずに、下を含めたこの世界の全体をバランスよく見ることができるようになりますから、その結果として、自分よりも不幸な人が無数に存在する現実に気づくからです。その結果として、利他・慈悲の実践をする傾向が強まると、当然のこととして、多くの他から愛され、(神仏の祝福・守護も受けて)、さらに恵まれることになります。
よって、卑屈・妬みが強い場合は、自分に与えられている幸福を見て感謝して、他と苦楽を分かち合う慈悲の実践をすることが重要だと思います。そして、この感謝と分かち合いは、先ほど述べたように、くしくも、慢心の強い人がなすべき実践と不思議にも同じなのです。その意味で、いかに感謝と分かち合い・慈悲が、大切かがわかります。
なお、ここで、自己の現状に不満を抱くのがいけないといっても、それが、自分をさらなる努力に駆り立てて、自身への叱咤の手段となっている場合は、問題はあまりないと思います。しかし、最近のケースは、感謝が少なく、不満が多い結果として、ひどく卑屈・自己嫌悪に陥って、努力をしない、あきらめてしまうケースが多いというのが問題ですね。
この背景に、前の日記にも書きましたが、単に卑屈・妬み深いのではなく、努力せずに楽して幸福になりたいという怠惰が潜んでいる場合もあると思います。その場合は、根本原因は卑屈ではなく、怠惰です。人によっては、自分は(努力しても)駄目だと自ら思い込むことで、さらなる努力をしないことを正当化するケースもあると思います。これは卑屈で怠惰を正当化している状態で、努力したくない怠惰が、努力しても無駄という卑屈を口実として利用している状態です。
こういった場合は、怠惰自体を解決しなくてはならないと思いますが、それは以前の日記に書いたとおり、楽しては幸福になれない道理を理解しつつ、怠惰の背景にある心身のエネルギーの不足を段階的に解消する必要があると思います。

 

<<< 前へ【2011年 GWセミナー特別教本『ひかりの輪と日本と「輪の思想」』】

次へ【2011年 夏期セミナー特別教本『輪の思想と新しい宗教の信仰のあり方』】 >>>

一般の方のために
外部監査委員会
ひかりの輪を監査する「外部監査委員会」のサイト〈河野義行委員長監修〉new!2012年5月26日
アレフ問題
アレフ洗脳被害のご相談窓口もこちら,アレフの盲信脱却法も掲載。
地域のみなさまへ
地域の住民のみなさまに向けて、団体の活動や、疑問へのお返事を公開。
ポータルサイト
ネット生中継
ひかりの輪 ネット道場
会員でない方も、どなたでも、支部道場での、教えや修行法を、ネットを通じて、ご自宅から学ぶことができます。
21世紀の宗教・思想の創造「ひかりの輪」