2011年 夏期セミナー特別教本『輪の思想と新しい宗教の信仰のあり方』
(2011年10月20日)
2011年夏に行われた夏期セミナーの特別教本です。
セミナーでは、各章ごとに、全7回の上祐史浩による教本解説の講義が行われ、すべてUstreamでネット生中継されましたので、動画をご覧いただきながら、教本を読み進めていただくことができます。
◎動画の内容(全7回)
第1回 『輪の思想とその歴史』
『上祐代表・ひかりの輪の聖地巡礼の体験 』
第2回 『21世紀のための新しい宗教の信仰のあり方』
『自分の中の神=仏性・神性とは 』
第3回 『仏陀の智慧による新しい幸福の発見法』
『未来に争い求める幸福と、今に気づき与える幸福 』
第4回 『釈迦牟尼の智恵から学ぶ真の幸福の道』
『観音菩薩の教えから学ぶ幸福の道』
第5回 『日本人の精神性・宗教性の素晴らしさ』
『正しい願望をかなえる如意宝珠の教え』
第6回 『仏陀の智恵で説く、今後の日本のあり方・ヴィジョン』
『幸福をもたらす功徳とカルマの教え』
第7回 『詳説:聖地とは何か?』
2011年 夏期セミナー特別教本『輪の思想と新しい宗教の信仰のあり方』
第一章 輪の思想の歴史と輪の法則の概説
ここでは、これまでも解説してきた輪の思想(一元思想)とその歴史、及び、それに基づいて、ひかりの輪が説いている各種の輪の法則(一元の法則)についてまとめておく。
1.輪の思想の発祥と歴史:人類普遍の思想
(1)縄文時代の輪の思想から聖徳太子まで
輪の思想とは、文字通り、万物が輪のように一体であるという意味である。
言い換えると、一元思想ということができる。 この輪の思想は、縄文以来の日本の文化であり、また、人類の普遍的な思想であると思われる。
縄文時代は、人々は家を輪のように形成し(環状集落)、学者の研究によると、上下身分の区別がなく、万人平等主義だったといわれている。また、石を丸く並べた環状列石(ストーンサークル)と呼ばれる宗教施設を作り、万物に精霊が宿ると信じる精霊信仰があったとされる。
この縄文の輪の思想は、それ以降も日本文化の中核となった。有名な聖徳太子の十七条憲法で、「和を持って尊しとなす」(第一条)、「人は皆、賢くもあれば愚かでもある、それは端のない輪のようなものだ」(第十条)とされ、万人を平等に見る輪の人間観に基づき、調和を重んじる和の文化が形成された(輪と和の思想)。
また、日本は自分たちの国を、倭国、倭人、和、大和と呼び、一人称も私・我など、ワと発音する言葉を用いるが、その源は(縄文時代の)輪・環であるという学者の見解がある。
(2)仏教の輪の思想
さて、聖徳太子の時代の前後に日本に導入された仏教も、本質的に輪の思想である。仏陀の説いた中核の思想も、万物が相互依存して一体となって存在しているとする縁起の法である。また、象徴としても、仏陀の説法を法輪(ダルマチァクラ・法の車輪)と呼び、最初の説法は初転法輪と呼ぶ。
また、生き物が高い世界から低い世界までをグルグルと転生するという六道輪廻の思想や、インド仏教最後の経典である時輪経典(カーラチァクラ経典)が宇宙の根本原理を「時の輪」(周期的な運動)とする思想も同様である。
さらに、密教が真理・悟り・宇宙の象徴とする曼荼羅(マンダラ)も、原意は円という意味であり、禅にも同じような象徴として円相(一筆書きで円を描いたもの)がある。
(3)道教の思想
仏教と並んで日本文化に影響を与えた道教の思想も、基本的に輪の思想ということができる。道教は、世界は陰と陽によって現れているとするが、両者とも太極から生じたとする一元思想であり、さらに陰と陽は互いに転化し循環しているとする。この原理を表す(陰陽)太極図というものは円の形をしている。
(4)近代心理学の研究
近代の心理学者カール・ユングは、自分や自分の患者の体験から、円状・輪状の図形に人の精神を癒す効果を見出した(日本人も「手のひらに円を描いて飲み込め」というように同じ経験則がある)。彼は、その後、仏教の曼荼羅に巡りあい、自分の体験と曼荼羅の思想が一致していると感じた。
そして、世界の諸宗教・諸文化を研究し、それらに共通する輪の形のシンボルがあることを見出した。仏教や道教に限らず、キリスト教などにも、イエスの背景に輪の形の図がよく描かれる。神道では鏡などが輪状である。さらに、石器時代に遡っては、太陽の車輪と呼ばれる図形が見られるという。
こうして、輪・円は、人類普遍のシンボルであることが発見された。
(5)車輪としての輪
さて、これまで輪と表現してきたが、この輪という言葉には、円・丸いという意味と、車輪という意味がある。法輪も法の車輪という意味である。
そして、私の見解では、円に加えて、この車輪の形も、人類にとって本質的・根本的なシンボルだと思う。車輪は、棒状の軸=柱と輪の合体であり、それが形状として男性性器と女性性器の合体を象徴する。
実際に、縄文の環状列石・ストーンサークルは、石を丸く並べつつ、その中心に柱が立っており、男性原理と女性原理の象徴とされる。同様に、ヒンドゥーの崇拝対象のヨニとリンガも、柱と輪であり、同じく男性原理と女性原理の象徴である。また、仏教・密教で仏陀の象徴とされる金剛杵と金剛鈴も、男性原理(方便)と女性原理(智慧)の象徴とされるが、柱と輪という同じ形状をしている。
そして、柱と輪の合体は、男性原理と女性原理の統合を意味し、それが生命・宇宙の誕生・創造から、悟りの実現(両原理の合体による人格の完成)までを象徴する。
この男性原理と女性原理の統合・調和を重視する思想は、道教にも見られ、陰と陽がそれぞれ女性原理・男性原理である。また、ユング心理学でも、女性原理・男性原理の統合、無意識と意識の統合が人格の完成と位置づける思想がある。
2.ひかりの輪の説く輪の法則:三世と三乗と三性
さて、ひかりの輪は、上記のさまざまな輪の系統の思想・宗教を研究し、そのエッセンスを現代社会に生きる人たちにとって、その日常の苦しみを和らげ、さらには悟りの境地に近づくために役立つように表現した。
それは、輪の思想(一元思想)としては、上記の各宗教・思想が説く主立った一元思想をすべて含んだ総合的なものである。また、現代人にとって容易に理解できて、有益であるように、現代的・革新的な表現に再生されたものと自負している。
その詳細については、これまでの特別教本(『現代人のための一元の法則』『一元の法則とその悟りの道程、金剛薩?の内省修行』『三仏の一元法則、菩提心と六波羅蜜 21世紀の宗教の革新』『ひかりの輪と日本と「輪の思想」』等)を参照されたい。
まず、ひかりの輪の「輪の法則(一元法則)」の概略を述べると、以下の三つに分類することができる。
1.三世の仏陀の法則:釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩の教え
教えの要点:万物が恩恵(感謝)、平等、一体である。
2.三乗の仏陀の法則:小乗・大乗・金剛乗の教え
教えの要点:万物が相互依存し、同根で、循環している。
3.車輪の法則:男性・女性・中性原理の思想
男性原理と女性原理の統合・調和が、生命・宇宙・悟りを生み出す。
それでは、以下にそれぞれの教えの概略を述べたい。その詳細は、この特別教本の第三章や、他の特別教本に詳しく述べているので、それを参照されたい。
(1)三世の仏陀の法則(三仏の一元法則):釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩
三世の仏陀の法則とは、釈迦牟尼(過去の仏陀)、観音菩薩(現在の仏陀)、弥勒菩薩(未来の仏陀)を象徴とした、三つの法則である。この三つとも、万物は輪のように一体であると説く一元の法則である。よって、三仏の一元法則と呼ぶ場合もある。その概略は以下の通りである。
①釈迦牟尼の法則:万物に感謝:知足と慈悲
苦と楽は、輪のように一体で表裏であり、
欲楽を貪らず(少欲知足)、苦の裏の幸福を見出し、
万人・万物に感謝し、恩返しとして、
万人・万物に、苦楽の分かち合い・大慈悲の実践をする。
知足と慈悲、感謝と分かち合いの教え。
②観音菩薩の法則:万物は平等:ぶつ仏も母・慈母の教え
人は、善と悪、優と劣に二分化すべきものではなく、
長期的・多面的な視点からは、善悪・優劣とされるものも、
輪のように一体で表裏であるから、よって、
万人・万物を平等な価値を持つものと尊重し慈しむ。
仏教的にいえば、万人・万物を平等な仏性の顕現、すなわち、
未来の仏・仏の子として慈しむ仏の母の教え(慈母観音菩薩)
③弥勒菩薩の法則:万物は一体:宇宙意識・菩提心
自と他を含めた万物は輪のように一体であるから、
自と他を区別して自我に執着する心を超え、
真の自分は無限の宇宙に広がるものと悟り(宇宙意識)
真の自分の家族は宇宙全体だという視点を持って、
万人・万物と苦楽を分かち合い(大慈悲の実践)、
万人万物と共に幸福を目指す(弥勒菩薩の菩提心)。
(2)三乗の仏陀の法則(三乗の一元法則):小乗・大乗・金剛乗
三乗の仏陀の法則とは、仏教の歴史上の三つのタイプ・時期の教えである小乗仏教(原始仏教)、大乗仏教、金剛乗仏教(密教)を象徴とした、三つの法則である。この三つとも、万物は輪のように一体であると説く一元の法則である。よって、三乗の一元法則と呼ぶ場合もある。その概略は以下の通りである。
①小乗の仏陀の法則:万物縁起 ※象徴仏は釈迦牟尼
万物は相互に依存しあって存在し(縁起)、一体である。
この世の如何なるものも、他から独立して存在していない。
※仏教で、相互依存のことを縁起という。
②大乗の仏陀の法則:万物同根 ※象徴仏は大日如来
万物は同根であり、一体である。
万物は、ビッグ・バンから生まれた同根のもので、
すべての人々・生き物は、地球・宇宙全体を源として
生まれてくる。
③金剛乗の仏陀の法則:万物循環 ※象徴仏は時輪尊
万物は循環しており、一体である。
宇宙は、銀河も太陽系も地球も回転・循環し、
生命は、四季・昼夜・食物・水・空気の循環の下で生まれ、
体の分子も、思考の中の知識も、自己と他者の間で、
密接不可分に交換・循環している。
(3)車輪の法則:男性・女性・中性原理
この宇宙や生命の創造から、悟りの達成にわたって、
男性原理と女性原理の二極の統合・調和(中性原理)が重要で、
二極は本質的に一体である(二極一元論)。
男性原理と女性原理は、道教の陽と陰、ヒンドゥーのリンガとヨニ。
大乗仏教の方便と智慧、心理学上の意識と無意識にあたる。
第二章 ひかりの輪の信仰のあり方:新しい宗教の創造のため
ここでは、ひかりの輪が考える、21世紀の新しい宗教・思想において、神仏とは一体何か、神仏への信仰とはどうあるべきか、という信仰上の根幹となる思想について説明する。これらの思想は、釈迦牟尼など、いにしえの聖者の智慧に基づいているが、同時に、現代の合理的な知性・理性とも矛盾することがなく、盲信を超えた宗教・思想の基礎となるものと自負している。
1.内の神、万物の中の神という思想
(1)さまざまな宗教に見られる内なる神
ひかりの輪では、それぞれの人・生き物の中にも、神仏がいるという思想を説いている。
この内側にもいる神、内なる神というものは、あまりに聞き慣れないだろうが、実際には、さまざまな宗教に見られる。
日本の宗教・文化についていえば、その発祥となった縄文の精霊信仰も、万物に精霊が宿るという思想である。神道も八百万の神として、生き物に限らず万物に神の存在を認めているし、男の子・女の子を意味する彦・姫という言葉は、いずれも神の子を意味している。
大乗仏教には、仏性思想があり、すべての衆生は、仏性(=未来に仏陀になる可能性)を有し、仏の胎児であり、本質的には仏陀であるが一時的な汚れに覆われているとする。
その大乗仏教は、日本に入る中で、日本らしく変容(進化)して、生き物に限らず万物に仏性を認めるようになった(山川草木悉有仏性)。
ヒンドゥー教・ヨーガの思想も、自己の本質としての真我(アートマン)を説き、それが宇宙の根本原理・創造者であるブラフマンと一体・同一であるとした(梵我一如の思想)。
そして、科学的・合理的に考えると、有史以来、多くの神が語られ、宗教が生まれてきたが、神を体験したのは、他でもなく人間の心・意識・脳である。よって、人の語る神とは、合理的にはあくまで人の意識・脳の中の神体験であり、宗教を作ったのも合理的に考えれば(神ではなく)人間である。
こうして、人の心・意識・脳の働きの中にないものは、人が体験できるはずがないから、人の中に神の要素・神性・仏性があると考えるのが合理的なのである。
(2)万物が平等で一体で神性なものという信仰
それぞれの人の中にも、生き物の中にも、神仏がいるという思想は、必然的に、万人・万物を平等に尊重する思想となる。例えば、大乗仏教では、この世の万物が平等な仏性の顕現であり、不必要なものは一切ないと説く。
これを言い換えれば、宇宙の万物が信仰対象となるのである。この際、一元法則に基づいて、この宇宙の万物は一体であるから、宇宙の万物を平等かつ一体である神聖なものとして信仰するということになる(聖なる一体への信仰)。
(3)自灯明・法灯明:釈迦から学ぶ新しい宗教の基本
さて、内なる神の思想をさらに具体化するために、釈迦牟尼の重要な教えである自灯明・法灯明について考えたい。釈迦牟尼は遺訓として、他人ではなく自己を拠り所として法を拠り所とせよと説き、そうする者が自分の最高の法友であると説いた。また釈迦牟尼は、釈迦牟尼自身を神と崇めることを戒めたとされる。
私は、この仏陀の教えの意味するところは、法・教えの実践によって、自分の中の仏性・神性が覚醒していくことだと解釈している。こうして、自分の中に仏性・神性を認めつつ、それを覚醒させるには、自分の中の要素だけにこだわるのではなく、自分の外の法・教えを学び、修習するというものである。
自分の中には仏性・神性もあるが、同時に欲望・煩悩もある。また、自分の中の力だけで悟ることができると考えるのは慢心であろう。
また、そもそも、一元法則に基づいて考えれば、自分の中と外は繋がっており、自分と他人は実際には区別できないものである。よって、幸福・悟りを求める場合も、自力と他力の双方を一つにして活かすのが、自然かつ道理にかなっている。
こうして、自力だけなら慢心だが、逆に、他力だけなら過剰な依存である。釈迦牟尼は、法・教えを学ぶときは、釈迦牟尼が言っているからと、それを盲信するのではなく、まずは疑い、自分でよく考え吟味し、納得したら修習するようにと説いている。
よって、外側のものを無視する慢心も避け、盲信・絶対視する依存も避け、自と他の力のバランスを取ることが、信仰・修行実践においても、重要である。
なお、ここで正確を期するために説明しておくが、自分の内側だけにいる神は存在しない。逆にいえば、自分の外側だけに存在する神も存在しない。
仏性・神性が覚醒するということは、一元の思想・法則の真理を悟るということであり、自と他の区別を超えた意識を体得するということである。そして、神仏や完全に覚醒した意識とは、人の内側と外側を貫き、宇宙全体に遍在・遍満する存在である。言い換えれば、神仏は、自分の内にも外にもいて、その内の神と外の神は、本質的に一体である。
これまで、人それぞれの中に神がいるとか、内の神仏といった表現を使ったのは、神仏というと、たいていは、自分とは別の外側の絶対的な存在を想定してしまうため、その固定観念を和らげるための表現手段(方便)である。よって、正確にいえば、神仏は自分の内側にも(外側にも)存在し、自分の内側にも存在する神仏を信仰するという表現が正しいであろう。
なお、仏教の思想に関連することとしては、釈迦牟尼の自灯明・法灯明という教えは、大乗仏教の智慧と方便の教えに通じるものがあると思われる。智慧と方便とは、大乗仏教が説く仏陀の境地に至るための条件である。智慧は空の悟りを意味し、方便は(智慧を得るために必要な)利他の手段・功徳を積む手段である。
2.シンボル:象徴としての外の神
(1)法の三つの形態とシンボル
仏教では、教え・悟りの境地が伝わる上では、三つの形態があると説く。それは、言葉による教え、象徴・シンボル、直感(以心伝心)である。この教本は、いうまでもなく、言葉によって皆さんに教えを伝えようとしている。一方、言葉を媒介・手段としない教え・悟りの境地の伝達として、象徴・シンボルによるもの、そして全く無媒介の直感・霊感・以心伝心がある。
象徴・シンボルとは、私の解釈では、それを見たり触れたり聞いたりすることで、神聖な意識、仏性の覚醒が促されるものである。例えば、先ほども出たが、曼荼羅がある。曼荼羅の中には、仏陀の姿や仏陀の象徴の神性文字や仏陀の象徴の法具が描かれている。
また、同様に、仏陀の御姿を描いたご尊像や仏陀を象徴する神性文字も、単独でそれ自体が象徴・シンボルである。また、二次元的・平面的なものに限らず、神聖な意識を引き出す仏像(霊像)、仏陀を象徴する密教の法具(金剛杵や金剛鈴)などもそうである。
さらに、見るものだけに限らず、五感全体にわたって、神聖な意識を引き出すものはシンボルであると私は考えている。すなわち、密教における真言(マントラ)や、密教法具の奏でる聖音、ある種の瞑想音楽もそうであろう。
さらには、手に持ったり、身につけたりする法具も、それによって神聖な意識を引き出す効果があれば、シンボルの一つである。ひかりの輪の考え方では、仏陀の御尊像の中にも描かれているが、数珠の形のブレスレッドやネックレスがそうである。
そして、神聖な意識を引き出す効能のある聖水・御神水や、特別なお香といった、味覚・嗅覚を通したシンボルもあるだろう。
また、これまで人工物だけについて述べてきたが、シンボルには、聖地などの大自然も含まれる。その光景を見ると不思議と神聖な意識が生じるような聖地の自然は、シンボルにほかならない。
ひかりの輪では、その発祥の経緯において、聖地での修行で重要な気づきなどがあった時に不思議と虹を見ることが多く、特に太陽の周りの虹のひかりの輪(日暈・にちうん)については、それが仏陀・仏法の象徴の法輪とも形が似ていることもあって、天空に表現された法則のシンボル・象徴として、天空曼荼羅と位置づけてきた。
また、各地に聖地巡礼に行く中で、特に神聖な意識が生じる場所やその写真も、神聖な意識を引き出すシンボルとして位置づけてきた。
(2)内と外の神仏:外の神仏はシンボル:宗教的な対立を超える
さて、先ほど、仏陀の御尊像や仏像といったシンボルについて述べた。ここで重要なことは、ひかりの輪の思想としては、本来は神仏にとっては名前も形も本質的ではなく、名前や形を持った神仏ないしは崇拝対象とは、人の信仰を助けるための方便・手段であるというものである。
例えば、それに触れることで、神聖な意識を引き出すためには、普通の人には、名前や姿が必要・有効な場合がある。先ほども、教え・悟りの境地は、言葉と象徴と直感で伝わるとした。直感・以心伝心だけで、すべての教え・悟りの境地が伝わるならば、名前や形は必要ないだろうが、ほとんどの人にとっては、それは不可能であろう。
そして、この思想に基づいて、次に重要なことは、名前や形を持った神仏(のイメージ・観念)は、神聖な意識を引き出すシンボルではあるが、それ自体が唯一絶対のものではないということである。
しかし、多くの宗教において、自分の宗教・宗派が説く名前と姿を持った神仏が唯一無二・唯一絶対のものであるとして、他を排除・否定するという考え方を持っている場合が少なくない。その結果は、歴史が示すとおり、宗教対立・宗教紛争である。
これに対して、ひかりの輪では、名前や形を持った神仏というのは、神聖な意識のシンボルであり、それは尊いものではあっても、唯一絶対のものがあるわけではなく、人それぞれに神聖な意識が引き出されるシンボルが違ってよいという考え方を持っている。
よって、ある人にとっては仏陀釈迦牟尼が、ある人にはイエス・キリストが、ある人にとってはマホメットがシンボルであってよいのであり、自分に縁のあるシンボルを見つければいいのである。こう考えれば無用な宗教対立・宗教戦争がなくなるだろう。
言い換えれば、すべての宗教は、人の内側にもある神性・仏性を引き出すためのシンボルが違うだけであって、本質的には同じものであり、宗教・宗派の違いは、信仰者の個性の違いであって、善悪、聖邪の違いではないとして、互いに認め合うとよいのではないかと思う。
ここで、これまで話してきたことをわかりやすくまとめるために、あえて「内側の神仏」と「外側の神仏」という表現をとるならば、
1「内側の神仏」とは、それぞれの人の中の「神性・仏性」であり、
それには名前や形はなく、
2「外側の神仏」とは、その「内側の神仏」を引き出す・覚醒させるための
「神仏のシンボル」であり、それは多くの場合、名前や形を持って表現される。
とすることができるだろう。
そして、この「外側の神仏」は、あくまでも象徴・シンボルであって、人の中の神聖な意識=内側の神仏を引き出す象徴・手段であり、その意味で尊いものではあるが、それ自体が神仏なのではなく、唯一絶対なのでもない。人それぞれの個性に応じて多様な「外側の神」が存在してよいのである。
※注1
上記の考え方は、多様性の下の統合という概念であり、さまざまな人種・宗教の違いを超えて平和を推進する人たちの間でも重視されてきている概念である。また、その平和運動の象徴として、無数の色が境界なく連続して一つに融合している虹が用いられることがある。
※注2
神仏に名前や形を与える理由としては、シンボルとして有効にするため以外に、他の神仏と区別するという目的があるだろう。しかし、これは、神仏は本来は一体であるところ、そのさまざまな力・働きのそれぞれに名前・形を与えたにすぎないとも解釈できる。
実際に、一元の法則を学べば、この世界の万物は、異なる名前や形がついているために別々に見えるが、本当は一体として存在していることがわかる。よって、神仏であろうとなかろうと、この世のものは、名前や形が別であっても、本質的には一体である
※注3
仏教は、自己の中の仏を仏性(仏陀になる可能性)というが、それに加えて、三身の仏陀の思想がある。人の心が完全に(仏陀と同じように)浄化された状態を「ほっ法しん身」と呼び、その人の言葉が完全に浄化されたものを「ほう報じん身」と呼び、その人の体が完全に浄化された場合を「おう応じん身」と呼ぶ。
3.ひかりの輪のシンボルの概要
さて、ここでひかりの輪でも主に用いているシンボルについて紹介しておこう。
(1)太陽の周りの虹の光の輪(日暈):自然のシンボル
天空曼荼羅と呼んでいる。これを図画にしたものが天空曼荼羅図
(2)法輪(ダルマチァクラ):仏教での仏陀・仏法のシンボル
ひかりの輪でも採用している
(3)虹の光の法輪:ひかりの輪のシンボルマーク
天空曼荼羅図と法輪を合体させたデザイン
(4)仏陀の御尊像
祭壇に掲げている釈迦牟尼・観音菩薩(千手観音)・弥勒菩薩を含め、
主に用いる仏陀の御尊像は、十二神仏の十三色身であり、釈迦牟尼の
生誕地であるネパール製の御尊像・タンカである。
具体的には、上記の三仏に加え、大日如来・阿弥陀如来・薬師如来、
金剛薩?、緑多羅・大黑天・地蔵菩薩・六字観音・時輪尊・弁才天。
※「虹輪釈迦牟尼御尊像」
ネパール製の釈迦牟尼の御尊像を天空曼荼羅図と融合させたもの
※「ひかりの輪神仏輪曼荼羅」(表紙の写真)
上記の十二神仏の十三色身のすべてを描いた曼荼羅であり、
ひかりの輪の信仰・教義体系の全体を表すものである。
①中央横の三仏:三世の仏陀:釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩
これは同時に三身の仏陀、仏法僧の三宝も象徴する。
②中央縦の三仏:三乗の仏陀:釈迦牟尼・大日如来(上)・時輪尊(下)
③救いの三仏:大日如来・薬師如来・阿弥陀如来
(5)霊像と思われる仏像の御写真
①京都太秦の広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像の御写真
②奈良斑鳩の中宮寺の如意輪観音像の御写真
③熊野那智の青岸渡寺の如意輪観音像の御写真
※この霊像に関連して、ひかりの輪においては、聖徳太子を
シンボルとする仏像・聖地・その他の霊性という考えがある。
詳細は、第5章の聖徳太子に関する事項を参照されたいが、
上記の霊像御尊像は結界=神聖な空間の形成にも用いる
(6)車輪の法則のシンボル
男性原理・女性原理の統合・合一を象徴するシンボル。
具体的には以下のものがある。
①神柱法輪
神柱(男性原理)と法輪(女性原理)を組み合わせた
ひかりの輪における最も重要な法具のシンボル。
環状列石やリンガとヨニを参考にしたもの。
②結界輪神柱
四方を結界するための円柱の柱:4本
縄文の神柱や諏訪大社の神柱を参考にしたもの。
③金剛杵と金剛鈴:ヴァジュラとガンター
金剛杵が男性原理、金剛鈴が女性原理。
密教伝統の男性原理と女性原理の象徴。
④如意宝珠
正しい願望をかなえる仏の法力を象徴する法具であるが、
同時に、個人と宇宙、意識と無意識の融合を象徴している。
また、聖徳太子がその化身とされる如意輪観音の象徴法具でもあり、非常に重要である。
⑤如意宝珠法輪
如意宝珠(男性原理)と法輪(女性原理)の組み合わせ
※如意宝珠が現世の幸福、法輪が悟り・煩悩止滅を象徴
⑥如意宝珠蓮華円台
如意宝珠(男性原理)と蓮華円台(女性原理)の組み合わせ。
※観音菩薩の六字真言(マニパドメ)とシンクロした法具。
⑦金剛杵蓮華円台
金剛杵(男性原理)と蓮華円台(女性原理)の組み合わせ。
※下記のツォンカパの金剛薩?の瞑想で用いるシンボル。
4.具体的な修行実践における柱
(1)法友・先達の重要性:三宝帰依
仏教には三宝帰依という教えがある。三宝とは、仏・法・僧、サンスクリット語で、ブッダ、ダルマ、サンガの三つである。
ひかりの輪の解釈では、仏は、内外の仏であり、法は、輪の法則全体、そして、僧は、広義には仏教教団を意味し、狭義には出家教団を意味する。
前者の広義の解釈は、一般に法友の重要性、すなわち、皆で集団で修行することの必要性・有効性を示す。宗教に限らず、武術その他学問でも、互いに切磋琢磨する法友と、その場となる道場は非常に貴重である。
特に、現代の資本主義・競争主義の社会の中では、エゴ・欲望が肥大化し、二元的な思考・情報が非常に強くなっている。そういった環境の中で、一元の思想・法則を温めていくには、一人・単独で行うには困難が伴う。
それは都市文明が発達してきた釈迦牟尼の時代でも、本質的には同じで、そのため、釈迦牟尼は、仏・法・僧を拠り所とするように指導したのであった。
また、後者の狭義の解釈は、在家で修行する者にとって、修行に専従している出家修行者・修行の先達・仏道修行の指導者の指導・導きを受けることの重要性を示す。
ただし、ひかりの輪では、特定の人物を絶対視することを否定している。指導者との関係については、普通の健全な生徒と先生の関係のように、絶対視したり過剰に依存したりせずに、謙虚に学ぶことを原則としている。
(2)具体的な修行法:ひかりの輪の修行の四本柱
ひかりの輪では、教学、功徳、行法、聖地の四つを、修行の四本柱としている。
①教学:正しい教えを学ぶこと。具体的には、講話会の参加、
各種の教本の読書、教学用の動画・CDの視聴など。
※思考からの浄化をすすめるもの。
②功徳:日々の生活で善行をなし、悪行をさけること。
指針として大乗仏教の六つの完成の教えを説いている。
※日々の言動からの浄化を進めるもの。
③行法:ヨーガや気功の身体行法から仏教・密教の儀式・瞑想まで。
※身体・五感を通した浄化を進めるもの。
④聖地:道場や自然の聖地におもむく。自宅の浄化も。
※環境からの浄化を進めるもの。
(3)シンボルを用いた密教の基本修行について
ひかりの輪では、さまざまなシンボルを用いた密教の瞑想修行を行っているので、その一部、特に基本的な修行について以下に紹介する。
①三密加持
身・口・意において、仏の象徴を修習する密教の伝統の瞑想である。
1)仏の象徴である座法・手印を組んで身体の面で仏に近づき、
2)真言を唱えて言葉の面で仏に近づき、
3)仏の御姿の観想をなすことで意識の面で仏に近づき、
こうして、身・口・意の三業(=三密)において、仏と相通じ(三密相応)、
そうすると、仏が、仏の境地(仏性の顕現)を修行者に与え(加)、
それを行者が体感する(持)、という修行である。
②具体的な三密加持の法
ひかりの輪においては、主に、釈迦牟尼、観音菩薩、弥勒菩薩、金剛薩?などの仏との三密加持の修習を行っている。そのための真言・座法・手印・観想・思索の指導がある。その詳細は、直接指導を受けるのが望ましいが、一応、以下に説明する。
1)釈迦牟尼
手印:定印(金剛杵を置いた金剛定印が最善)
真言:オー・ムニ・ムニ・マハー・ムニ・スワハー
観想:(虹輪)釈迦牟尼像
思索:釈迦牟尼の法則(第一章参照)
2)観音菩薩
手印:蓮華印(中にマニ宝珠を入れたマニ宝珠蓮華印が最善)
真言:オー・マニ・パドメ・フーム
観想:六字観音像・千手観音像・(各種の)如意輪観音像
思索:観音菩薩の法則(第一章参照)
3)弥勒菩薩
手印:水瓶印
真言:オー・マイトレーヤ・スワハー
観想:弥勒菩薩像・弥勒菩薩半跏思惟像
思索:弥勒菩薩の法則(第一章参照)
4)金剛薩?
手印:金剛薩?印(最善は、右手に金剛杵、左手に金剛鈴)
真言:オー(ン)・ヴァジュラサットヴァ・フーム
観想:金剛薩?像
思索:悪行の懺悔
③五感の仏のシンボルを用いた瞑想
ひかりの輪では、五感全般にわたって、神聖な意識を引き出す仏のシンボルを用いた瞑想修行を行っている。また、これらは日常生活でも使用することでさらに効果が高まる。
具体的には以下の通りである、
1)視覚からの浄化
各種の御尊像・曼荼羅などのシンボルを使用した瞑想
2)味覚からの浄化
聖音水:法具の奏でる聖音で特別に浄化した水
3)聴覚からの浄化
聖音を奏でる密教の法具の各種を用いた瞑想
4)触覚からの浄化
心身が浄化される各種の守護法具を身につける
5)チベット・ブータン香
瞑想に適した最善のお香を選択して道場空間を浄化
第三章 三世の仏陀の法則を立体的に理解する
1.釈迦牟尼の法の立体的な理解
--苦楽の輪、知足と慈悲、万物への感謝と分かち合い
釈迦牟尼の教えは、楽と苦が輪のように互いに繋がって一体であるという真理に基づいている。
具体的には、まずは、欲楽の裏に苦しみがあることを悟って、欲楽を貪らずに足るを知る(少欲知足)。次に、苦の裏に幸福があることを悟って、苦を喜びに変える。
そして、これらの理解に基づいて、万人・万物を恩恵と見て感謝し、万人・万物と苦楽を分かち合うこと(大慈悲)が、真の幸福をもたらす、というものである。
これを一言でいえば、苦と楽が輪のように一体であることに基づき、知足と慈悲、万物への感謝と分かち合いの実践である。
ではまず、苦と楽が輪であることを理解しよう。具体的には、苦と楽が輪であるとは、楽が苦に変わり、苦が楽に変わるということであるから、この点を考察する。
(1)楽の裏に苦がある構造を理解する
第一に、楽を貪ることで、その裏に、さまざまな苦しみが生じる。それは以下のように分析できる。
①楽を貪り求めても際限がない。
得ても得ても満足できず、もっともっとという欲求=苦しみが生じる。
②得たものには執着が生じ、失う不安や、失った場合の苦しみが生じる。
得ても満足できないのに、失うことは苦しみになる。
③求めても得られない時に苦しみが生じる。
貪りには際限のないので、その中で、得られない場合が必ず来て苦しむ。
④執着・とらわれが生じるから、それを損なう出来事・対象に怒りが生じる。
例えば、貪れば必ず奪い合いが始まり、妬み・怒り・憎しみが生じる。
そして、貪りが深まるほど、怒りの対象や敵が増える。
これを立体的に理解できるように図にしてみよう。こうすると、欲楽を貪ると、それが得られても得られなくても、結局はすべて苦しみに帰結する構造があることがわかる。この構造の理解は重要である。
(2)仏教の教えから学ぶ苦楽の輪
なお、この点に関連して、仏教には、苦楽表裏という教えや、一切皆苦という教えがある。一切皆苦とは、すべての欲楽の裏には必ず苦しみがあるという意味である。なお、苦しみに帰結する欲楽と違って、苦しみを伴わない真楽というものがある。
また、仏教は、人間の感じる喜びの裏側にある苦しみを詳しく分析している四苦八苦という教えがある。まず、仏教の専門用語としての四苦八苦とは、生・老・病・死と、ぐ求ふ不とく得く苦、あい愛べつ別り離く苦、おん怨ぞう憎え会く苦、ご五しゅ取うん蘊く苦の八つの苦しみのことをいう。
まず、生・老・病・死の苦とは何かというと、老・病・死が苦であることは説明不要だろうが、生が苦しみであるというのは、出産の際の母子の苦しみをいう。
そして、この教えの要点は、人は、自分=自我に執着するが、その裏側には、自分の生・老・病・死の際の苦しみがあるということである。こうして、自我に執着する喜びの裏には、それゆえのさまざまな苦しみがあることがわかる。
次に、求不得苦、愛別離苦、怨憎会苦、五取蘊苦については、まずその意味合いは以下の通りである。
1.求不得苦=求めて得られない時の苦しみ
2.愛別離苦=愛する者と別離する苦しみ
3.怨憎会苦=怨み憎む者と会う苦しみ
4.五取蘊苦=自我(五蘊)にとらわれることによる一切の苦しみ
※仏教では自我を構成するものを色・受・想・行・識の五蘊という。
これらの苦しみもすべて、楽の裏にあるものである。求不得苦は、求めて得る時の喜びの裏にある、得られない時の苦しみである。愛別離苦は、愛著の喜びの裏にある、愛著の対象と別れる時の苦しみである。怨憎会苦は、愛著の喜びの裏にある、愛著の対象を損なう、奪う者を怨み憎む苦しみである。
これらの三つの苦しみは、「自分・自我」へのとらわれに加えて、「自分のもの」にとらわれた結果の苦しみである。仏教では、「自分へのとらわれ」を「我執」、「自分のものへのとらわれ」を我所執という。「自分・自我」へのとらわれの結果として、好ましく感じるものを「自分のもの」にしようとするとらわれが生じ、その結果、奪い合いなどによる苦しみが生じるのである。
(3)苦しみの裏側に喜びがある構造を理解する
次に、反対に、苦しみの裏にある楽について検討すると、次のようになる、
①苦しみを経験すると、普通はそれから逃げようとするが、その逃げる行為は、将来に再び苦しみをもたらす行為(新たな悪業)になり、長期的には、苦しみは減らない。これは苦しみの根本原因であるとらわれが、逃げている間は減らないからである。
②しかし、苦しみから逃げられない場合(ないし法則の理解に基づき、意図して逃げずに乗り越えようとする場合)は、その苦しみに慣れて、苦しみが減少する。これは苦しみの根本原因である、とらわれ・悪業が減少するからである。これを悪業の清算という。悪業が苦しみの原因であり、悪業の清算は苦しみの解消である。
③ただし、②によって苦しみが減少しても、それは一時的なものになる場合が多い。とらわれ・悪業が減って、苦しみが減少し、楽になると、人は、再び欲楽を貪り、とらわれ・悪業が増大する。その結果、再び苦しみが増大する。こうして、人は、苦と楽の間を循環するものである。これが、仏教が説く六道輪廻の思想、すなわち、幸福な状態(善趣)と不幸な状態(悪趣)の間の循環である。
④しかし、③の循環を繰り返し経験する中で、欲楽の貪り・とらわれが苦しみをもたらすことを真に深く悟る段階に至る。これを、仏教では(現象をありのままに見る)智慧という。釈迦牟尼は、この点について、苦によって(正法への)信が生じると説いた。
⑤そして、智慧が生じると、同時に、欲楽を貪り他から奪うことではなく、その逆に、他に幸福を与え、他の苦しみを取り除くこと(=慈悲)が、真の幸福の道と悟る。こうして、苦しみの最終的な結果として、智慧と慈悲が生じる。
この点を立体的に理解できるように図にしてみよう。こうすると、苦しみが苦しみに繋がる段階を経て、苦しみが最終的に、智慧と慈悲の幸福をもたらすことがわかる。
(4)苦しみの裏に喜びを見出す逆転の発想の智慧
さて、ここまでは、苦しみの裏に喜びがあるという点について、仏教の教義に基づいて、抽象的に、苦しみの経験の中で、その苦しみの根本原因であるとらわれが解消され、最終的に智慧と慈悲という真の幸福(真楽)が生じると説いた。
しかし、ここでいうとらわれの減少・解消とは、さまざまな意味、さまざまなレベルのことを含んでいる。
確かに、もっと高度な次元においては、それは自我へのとらわれ=自我執着全体を意味する。すなわち、自我にとらわれない境地を深め(無我の悟り)、自と他の区別を超えて、宇宙全体・すべての衆生に慈悲の実践をする菩薩・仏陀の境地である。この場合、自分の生・老・病・死にさえ、頓着しない不動の境地・平安が達成される。
ただし、そういった高度な次元でのとらわれの解消ではなく、もう少し身近な意味で、苦しみを経験した結果、従来の貪り・とらわれが減少して、逆に幸福になるという場合もある。
例えば、一病息災という言葉があるが、これは一つくらい病気がある方が、体を労るので、長生きするというものである。病気という苦しみが長寿という喜びに繋がっているという意味で、苦しみの裏に喜びがある。
逆に、病気が一つもないと、欲楽へのとらわれ・貪りが減らず、体を労らずに無理するので、逆に早く死んでしまう。これは喜びの裏に苦しみがある一例である。
(5)病苦・経済苦・中傷・失敗の裏にある幸福
これは、病の苦しみだけでなく、経済的な苦しみ、誹謗・中傷される苦しみ、さまざまな失敗・挫折の苦しみなどを含めた、さまざまな苦しみに当てはまる。
例えば、経済的な苦しみは、物欲を和らげ、質素に少ない財で生きる能力を養う。また、自己の財物ではなく、皆が共有する大自然などの価値に目覚める可能性を与える。
逆に、経済的な苦しみが少ないと、質素倹約の能力は培えず、物欲が肥大化し、人生の浮沈の中で突然に没落すると、激しく苦しむ(人によっては自殺しかねない)。また自己所有物にとらわれて、共有物の大いなる価値には目覚めない。
誹謗・中傷は、それが正しければ、自己の慢心を諫める貴重な助言であり、将来の成功の源となる。間違っていても、自己愛を超えて、不動の精神を養う試練であり、冷静に対処すれば、逆に自分の評価が上がる機会である。逆に、誹謗・中傷が乏しいと、慢心や欠点が解消されず、ないしは自己愛が強いままになり、精神的に脆くなる。
失敗・挫折は、あきらめずに努力する限りは、その経験から智慧が深まり、最終的に成功の元になる(失敗は成功の元)。言い換えると、過程の失敗・挫折は、それでは成功しないと知るという「成功のプロセス」である。
仏教的にいえば、失敗とは、成功を阻んでいる悪業・無智を清算して、成功のための智慧(智恵)を生じさせるプロセスであるということができる。よって、失敗の苦しみを喜びとして、努力し続けることが、成功に至る業を速やかに形成するのである。
逆に、挫折・失敗が乏しく、多少の成功をしてしまうと、慢心が強くなって、自己過信から無理をしたり、改善の努力を怠ったりして、長期的には失敗する可能性がある。また、自己愛のために、挫折・失敗を恐れ過ぎ、チャレンジできない場合も、経験による智慧が増えないため、大した成功を得ることはできない。
こうしてみると、苦しみは、自分の心身を引き締め、成長させる面があるということができる。「苦労は買ってでもしろ」、「かわいい子には旅をさせよ」、といった言葉の由縁である。
(6)あらゆる苦しみは慈悲の源となる
これに加えて、苦しみのタイプによらず、すべての苦しみは、慈悲の源となる。というのは、自分がさまざまな苦しみを経験してこそ、同じような苦しみを持つ人の気持ちを理解し、それを取り除こうとする慈悲が生じるからである。
観音菩薩は慈悲から生まれた慈悲の化身とされる。その観音菩薩の誕生は、さまざまな激しい苦しみを抱えた生涯を送った後、その最期の時に、来世以降、この苦しみの経験を縁として、同じように苦しむ他の人々を救っていこうと決意したことによるとされている。こうして、まさに苦しみこそ慈悲の源である。
仮に苦しみの経験が一切ない人は、他の苦しみを理解することは不可能である。その意味で、苦しみが一切ない状態というのは、ある意味で非常に恐ろしい状態である。それは、心身を引き締めて鍛え、智慧と慈悲を培う機会を逸する恐れがあるからである。
(7)求めて得る幸福と気づき与える幸福
ここで、釈迦牟尼の法をよりよく理解するために、「求めて得る幸福」と「気づき与える幸福」という二つの対極的な幸福について考えてみよう。
まず、求めて得る幸福とは、現代社会において一般的な幸福観であり、現状の自分にはないものを得ることを欲求し、それを未来に得ることで喜びを感じるというタイプの幸福観である。それは、自分を取り巻く外的な条件を変えるものであり、財、称賛・名誉、地位・権力などを求めるものである。
一方、気づき与える幸福とは、今すでに与えられている幸福の大きさに気づいたり、苦しみの裏にも幸福があると気づいたりすること、そして、それらの気づきに基づき、他に幸福を与えることによって、幸福になる価値観である。これは、自分の内側=心の持ち方を変えるものであり、外的条件を変えようとするものではない。また、これはいうまでもなく、仏陀の教えが説く、知足と慈悲による幸福への道に通じるものである。
まず、求めて得る幸福は、その性質として、不満と奪い合いがある。なぜ不満かというと、自分にないものを求めて得たとしても、欲求には際限がないから、もっと欲しくなり、満ち足りることがないからである。そして、求めても得られない苦や、得たものにとらわれて、失う不安や苦しみがある。
さらに、求めるがゆえに他と奪い合わねばならないために、憎まれたり憎んだり、妬んだり妬まれる苦しみがある。これは前に分析したとおりである。こうして、不満と奪い合いが特徴になる。
これに対して、気づき与える幸福は、その性質として、感謝と分かち合いがある。今すでに与えられている幸福の大きさに気づくならば、必然的に感謝の心、足るを知る心が生起する。
また、これは、他との苦楽の分かち合い・慈悲の実践に繋がる。自分の得ている幸福の大きさに気づくプロセスの中で、自ずと、自分よりはるかに恵まれない無数の存在に気づくことになる。
また、苦しみの裏に幸福があることに気づくプロセスの中で、自分の苦しみの経験こそが、他の苦しみを理解する慈悲の心を培う源だと知る。こうして、気づき与える幸福は、分かち合い=慈悲の実践に結びついていく。
(8)今ここの幸福、今ある幸福に気づく
こうして、求めて得る幸福は、今得ていない幸福を見て(=不満)、未来に求めるものである(奪い合い)。気づいて与える幸福は、今得ている幸福を見て(感謝)、それに基づき、分かち合うことである。
こうして、前者は未来に幸福を期待するが、後者は今に幸福を見出そうとする。そして、後者の幸福を仏教の禅宗などでは、「今ここの幸福」などと表現する。それは、今のこの瞬間を幸福に感じる道と説く。
一方、前者の方は、今には不満を抱き、未来に期待とその裏側の不安を抱くことになる。また、不満の現状を作った過去にも不満・後悔がある。こうして、普通の人は、常に、過去に後悔、現状に不満、未来に不安を抱えている。そのため、下手をすれば死ぬまで、本当に楽しんだ時のない人生を送りかねないのである。
(9)幸福を見るか、不幸を見るか
また、前者は、今得ていない幸福を見て、後者は、今得ている幸福を見ているという違いがある。よって、前者と後者の違いは、同じ条件の中で、前者は不幸を見て、後者は幸福を見ているという違いである。
これに関連して、この両者の違いを苦しみに対するアプローチから見てみよう。まず、前者は、苦しみを単純に嫌がり、それを全面的に避けようとする(苦しみに嫌悪)。後者は、苦しみの裏の幸福に気づいて、それに感謝しようとする。
こうして、前者は、苦しみを不幸としてだけ見るが、後者は、苦しみの裏の幸福もあることを見るのである。よって、先ほどと同じように、この場合も、同じ条件の中で、前者は不幸を見て、後者は幸福を見ている。
また、前者は、今得ていない幸福を未来に得ることで幸福になるとばかり考えており、得ることによって逆に不幸になる側面を見ていない。しかし、実際には、得ることによる苦しみと、得ていないことによる幸福がある。
例えば、得れば得るほど、さらに欲しくなって満ち足りないのに、守らなければならないもの(失いたくないもの)が増えてしまい、いざ失う時の苦しみは大きくなり、また、得る分だけ、他との奪い合いの輪の中に入るために、妬み妬まれる、憎み憎まれる苦しみも増えていく。
こうして、恵まれている人にも、恵まれていない人にも、平等に幸福と不幸がセットで存在している。また、先ほど述べたように、喜びの裏には苦しみが、苦しみの裏には喜びがあるから、どんな出来事にも、平等に幸福と不幸がセットで存在している。
こうして、どんな人にも、どんな出来事にも、幸福と不幸がセットで存在する中で、前者は不幸を見て不幸となり、後者は幸福を見て幸福となる。これを言い換えるならば、幸福を見る者は幸福になり、不幸を見る者は不幸になるということになる。
(10)幸福は、心の持ち方で決まる。
よって、気づき与える幸福というのは、自分の心の持ち方を変えて幸福になる道であり、自分の内側・心から幸福が生まれるという思想である。求めて得る幸福は、それとは逆に、自分の外側・外的条件を変えることで幸福になろうとするものである。
そして、後者の考え方が、真の幸福の道だと理解するならば、幸福・不幸は、自分の内側・心の持ち方によって決まるということができる。これがまさに、仏教が説く自業自得の法理である。
(11)奪い合いを超えた幸福の道
最後に、求めて得る幸福が、奪い合いになる面があるのに対して、気づいて与える幸福は、奪い合いによらぬ幸福である点を検討する、
まず、第一に、気づき与える幸福は、他から奪うことなしに、今得ている幸福の大きさに気づいて感じるものである。さらに、自分より苦しんでいる者が多く存在していることに気づいて、彼らとの分かち合いによって、幸福になるものである。
第二に、気づき与える幸福は、全体に対して与えられている自分の役割を見出して、幸福になる道である。言い換えれば、自分の真の個性を活かして幸福になる道である。しかし、それは場合によっては、自分が他に劣っていること、自分の短所・欠点の裏側に、自分の長所・役割を見出して、幸福になる道も含んでいる。
具体的にいえば、①優れた他を活かして支えることによる幸福(仏教が説く四無量心でいう慈の心)、②自分と同じように劣っていることで苦しむ他人を理解し、その苦しみをやわらげることによる幸福(四無量心の悲の心)、そして、③他の幸福を自分の喜びと考える、感じることによる幸福(四無量心の喜の心)である。これは、仏教が説く四無量心、慈・悲・喜・捨の心に通じている。
そして、このような実践をしている者が、長期的に見れば、実際の人の輪の中では、真の勝者になるという側面がある。その良い例が、昭和の希代の実業家である松下幸之助である。彼は、体力がないから他に頼む術を覚え、学力・学歴がないから他から謙虚に学ぶことができ、お金がないから丁稚奉公で商人の才を得たと語っている。
これは、まさに自分の恵まれていない部分・欠点に腐らずに、それを逆に活用して、自分より恵まれた人の力を活かして幸福になったという事例であり、欠点を長所にしてしまったのである。
そして、自分が他に勝つだけの能力よりも、多くの人の能力を活かし、その苦しみを和らげ、その幸福を願うという能力と人格は、彼が大会社のリーダーとなったことが示すように、この競争社会・資本主義社会においても、彼を真の勝者にしたのであった。
これと比較すると、学業・体力・容姿・財力など、社会が一般に評価することにおいて他との競争に勝って幸福になるという道は、画一的な幸福の道であり、自分の個性を本当に活かした幸福の道とはいえないだろう。
(12)競争に関する考え方:万人を幸福にする手段として
なお、気づき与える幸福は、競争を全面的に否定するものではない。幸福の奪い合いは否定するが、競争自体は、それを行う者の心構えによっては、勝って幸福になる者と負けて不幸になる者をより分けるものではなくて、皆が幸福になるための切磋琢磨の手段となり得るものだからである。
しかし、競争が皆が幸福になるための手段として機能するためには、その競争のシステムの中で一番になった者が価値があると考えるのではなく、競争による切磋琢磨を手段として、①全体がレベルアップすることを喜び、②そのために、それぞれが自分に与えられた個性を活かして磨きあげること、言い換えれば、優れた切磋琢磨を実現する上での自分なりの役割を見出すことを重視するべきだろう。
こうして、全体として優れた切磋琢磨が実現して、全体のレベルが上がるならば、①勝った者も負けた者も全体が勝者であり、全体がそれに平等に貢献しているから、平等の価値があるし、②また、その切磋琢磨の中で、それぞれが自分の個性を磨くことからも、皆が同じように自己の価値を見出すことができるだろう。
(13)大乗仏教の最高の境地は、気づいて得られる幸福
最後に、大乗仏教が説く最高の境地、すなわち、仏陀の境地の悟りとは、気づき与える幸福の極致である。というのは、この仏陀の境地とは、この世界がそのままに仏の集う仏の浄土と悟るからである。
言い換えると、仏陀をどこかに探し求めたり、仏陀の浄土に行くことを望んだりするのではなく、自分たちの心を浄化し、感謝の心などが極限まで深まることで、今この世界がそのままに仏陀の集う仏陀の境地であることに気づくこと、これが仏陀の境地の悟りなのである。
よって、偉大な聖者であるミラレパは「仏陀など、探して見つかるわけがない。よって己の心を注視せよ」という言葉を残している。また、釈迦牟尼も、その遺訓として、「他人ではなく自己を拠り所として、法を拠り所とする者が、わが最高の法友である」という趣旨の言葉を残している。こうして、真の幸福は、自分の内側、心の持ち方によって生じるということである。
2.観音菩薩の法の立体的な理解
--善悪の輪、優劣善悪の二分化を超え、万人を平等に尊重し愛す
観音菩薩の法則は、普通私たちが人々の間に感じる善悪・優劣の違いは長期的・多面的な視点から見れば輪の如く繋がって表裏であって、本質的には存在せず、それは単なる個性・役割の違いであるという視点に基づいている(善悪・優劣の輪)。
そして、これに基づいて、万人・万物を平等な仏性の顕現(=未来の仏・仏の子)と見て尊重し、慈しむべきであるという教えである。よって、これを、すべての衆生を仏の子と慈しむ仏の母・ぶつ仏も母・慈母の教えとも表現する(慈母観音菩薩)。
(1)長期的な視点で善悪・優劣の転換・循環を見る
さて、それでは、善悪・優劣が輪の如く一体であるという点について考えてみよう。そのためには、まず長期的な視点で考える必要がある。
まず、これまで善行をなし幸福な人がいても、仏陀の教えに基づいて考えると、真に智慧と慈悲に目覚めていなければ、それがそのまま続くことはない。たいていは、自分の幸福に執着し、また、今の自分の状態がそのまま続くという慢心・自己満足によって、努力を怠る。その結果、徐々に悪行が増えていき、その結果、不幸になっていく。
仏教の六道輪廻の思想では、過去の功徳で(人間よりはるかに大きな)幸福の絶頂にある欲天の住人も、この慢心によって、徐々に功徳が減り、悪業が増大し、地獄・餓鬼・動物といった悪趣と呼ばれる人間以下の世界に落ちていくとされている。
これを信じるか信じないかは別にして、これと本質的に同じことが、人間の世界でも確実に起こっている。日米のバブル経済の崩壊は、金融界の超エリート集団の過信・慢心によるものにほかならず、一時は一世を風靡した堀江氏・木村氏・村上氏らも、今は囚人の身であり、安全神話を誇った日本の原子力発電も同様である。
これらを避けるためには、仏陀の教えに基づけば、幸福の絶頂の時に、自己の幸福に執着せずに、他に幸福を分け与え、また、慢心・油断を避けて、努力をし続けなければならない。これが真の智慧と慈悲であるが、いわゆる菩薩と呼ばれる人以外は、ほとんど、一時的に幸福になると、智慧ではなく無智に基づく慢心が増大し、他への慈悲ではなく自己の幸福に執着してしまう。
こうして、善・優とされていた人が、悪・劣の状態になる構造があるのである。私たちが今尊敬している人達も、将来どのように変化していくかは、注意して見なければならないのである。
(2)善が悪に、悪が善に転換する
一方、これまでに悪行をなし苦しんでいる人がいても、それが一定の段階に行き着くと、その苦しみのために悪行を反省し、善行をなすようになる。仏陀は、悪業による苦しみから正法に対する信仰が生まれると説いた。
よって、悪・劣とされていた人が、反省・改心の結果として、時を経て、善・優の状態になる構造があるのである。よって、先ほどとは逆に、今劣っている人・悪いとされている人が、将来どう変化していくかも、謙虚な心を持って、よく注意して見なければならないだろう。
ただし、たいていの場合は、この反省・改心が永続しない。反省・改心によって、徐々に幸福になると、そこで先ほど述べた慢心・執着が生じてしまうのである。よって、人は、長期的に見ると、善から悪に、悪から善になるという循環を繰り返すことになる。
これが、仏教の思想にもある六道輪廻である。生き物が善行の多い幸福な世界(善趣)と、悪行が多く不幸な世界(悪趣)をグルグルと生まれ変わるというのである。そして、六道輪廻を信じようと信じまいと、私たちの人間の世界の中でも、これと本質的に同じことが起こっている。長い人生の中で度々、慢心・油断と反省・改心を繰り返し、さまざまな浮き沈みを経験するのが人間である。
しかし、この循環を空しく繰り返す中で、徐々に、この循環の真理を深く悟り、それを乗り越えるのが菩薩である。循環を悟った菩薩は、その深い智慧と慈悲をもって、幸福になっても執着や慢心を避け、他に幸福を分け与え、善行を積む努力をし続ける。よって、悪趣に生まれ変わることなく、人々の救済のために生まれ変わり続けるとされる。
(3)大煩悩大解脱、解脱前後で優劣・善悪が転換する
そして、この菩薩になっていくプロセスでは、もう一つ重要な、善悪・優劣の循環が生じる。それは、大煩悩大解脱という教えである。これは、煩悩が大きい者は、改心したならば、大きな解脱(高い解脱)をするという意味である。
これにはいくつか根拠がある。煩悩が大きいとは、エネルギーが大きいという面があり、それゆえに、解脱した場合は、そのエネルギーが良い方向に使われるために、大きな解脱をするということである。よって、大悪業をなした者が解脱して大善業をなしたという記載が仏典にはある。
また、大乗仏教には、煩悩即菩提という教えがある。これは煩悩と菩提心(仏の悟りの心・大慈悲)は、本質的には別のものではないという意味である。ヨーガ・密教の教えでは、性欲などの煩悩が、解脱によって昇華されると、慈悲のエネルギーに変わるとされている。よって、大煩悩が大解脱に通じ、大煩悩が大慈悲(大菩提)に通じることになるのである。
また、煩悩が大きい・強い者は、その分だけ深く苦しみ、悟りも遅れることになる。しかし、苦しみは慈悲の源である。自分と同じように煩悩が強く、深く長く苦しむ者の気持ちを理解し、救おうとする慈悲の心も強くなる。煩悩が弱い者は、その分苦しみが少なく悟りも早いだろうが、逆に、自分の実体験を通して煩悩の強い者の苦しみを理解し救おうという動機は形成し得ない。
(4)人の差異は、優劣の違いではなく個性・役割の違い
よって、煩悩が強く解脱が遅いというのは、一つの個性であって、煩悩が弱く解脱が早い者と比べて、劣った存在であるのではない。また、同時に、煩悩が強いがゆえに大解脱するというのは、一つの個性であって、煩悩が弱く大解脱しない者に比べて、優れているのではない。
言い換えると、これは、皆が助けあって幸福になる上において、全体に対する個々人の役割の違いである。煩悩が弱く早く解脱する者は、煩悩が強く後から解脱する者にとっての先駆者・道しるべ・見本として手助けとなる。
そして、後から解脱する者は、自分と同じく煩悩の強い者たちを含めて多くの人を導き、その意味で先駆者の手伝いをする。こうして、助けた者が助けられ、助けられた者が助けるという構造がある。
仏典において、この典型的な例が、いち早く悟って仏法を地上に広めた釈迦牟尼と、釈迦牟尼から遅れること56億7千万年後に悟るとされている弥勒菩薩の教えであろう。遅れて悟る弥勒菩薩は、しかしながら、(釈迦牟尼ができなかった)全人類を四向四果といわれるステージに導く偉業をなし、釈迦牟尼をおおいに助ける(補う)仏とされている。
こうして、人と人の間の差異は、優劣・善悪の違いではなく、それぞれの個性、全体に対する役割の違いなのである。
(5)長所と短所は裏表、よって優劣・善悪は転換する
ここまで仏教の例を挙げて説明してきたが、これらを一般的な表現でわかりやすくいえば、短所と長所はセットであり、短所の裏に長所、長所の裏に短所があるということである。よって、それは本質的にいえば短所でも長所でもなく、その人の個性であり、その人は、その個性の長所の側面を磨いて、全体のために発揮することが、その役割である。
一般的にいえば、何かに優れているということは、その裏に別の面では劣っているということがある。例えば、自分が優れていると、優れている他人を支える徳性は培いにくいし、また、実体験がないから、劣っている人の気持ちを理解し、それを手助けする能力・動機も弱くなる。そもそも、優れているがゆえに、(容赦なく)他に勝つことに慣れてしまうと、負けて苦しんでいる者への慈悲は培いようがない。
こうして、長期的・多面的な視点で見ると、人の短所と長所はセット・裏表であり、善の裏に悪、悪の裏に善があるとわかる。こうして、やはり人と人の差異は、本質的には、優劣・善悪ではなく、その人の個性・役割の違いということができる。
よって、私たちは、一時的・一面的な視点で、人と人の間に安直に善悪・優劣の二分化をするべきではないだろう。私たちが今見下している人たちが、将来大きく脱皮していく可能性を踏まえ、すべての人に対して平等に、謙虚な心をもって見つめる必要がある。
(6)敵が味方に:宗教の最奥儀の一つ
最後に、一つ付け加えるが、大煩悩大解脱、煩悩即菩提という教えを前提にすると、そこでもう一つ出てくるのが、宗教上の敵が、時を経て、大きな味方に変わっていくという重要な教えである。
すなわち、最初は、煩悩によって法則・真理が理解できないために、それを説く者に対して、その強いエネルギーで激しく攻撃することがあるが、時期が来て改心したならば、非常に有力な助力者になるという事実である。
実際に宗教には、例えばイエスを弾圧していたパウロがその後改心してからは最も有力な弟子となった事実、仏陀を殺そうとしていたアングリマーラが仏陀に出会って改心した後は高弟となった事実、同じく仏陀の教団を分裂させたデーヴァダッタが改心した後は仏教の護法神となった説話、そして日本でも、例えば親鸞上人を殺そうとした男がその有力な弟子になったという事実などがある。
この宗教上の敵が味方に変わっていくということは、善悪・優劣の転換の最も興味深い事例であろう。
(7)善悪・優劣転換の構図
では、ここで図によって、優劣・善悪の転換・循環の構造を明確にしておこう。
(8)人と人を優劣善悪に二分化した場合の苦しみ
最後に、人と人の間を優劣・善悪で二分化した場合、どのようなマイナスの心の働きが生じるかを解説しておこう。まず、自分が他より優れている錯覚=慢心、そして、それに基づく他への軽蔑(を含んだ嫌悪)。また、自分が他より劣っているという錯覚=自己嫌悪・卑屈、そして、自分より優れている人と錯覚する対象への妬み・嫉妬である。
こうして、善悪・優劣を二分化すると、自分も他人も愛せない心の状態になる。まず、負け組、卑屈優位な人は、自己嫌悪が強いから、自分を愛せないが、同時に、嫌いな自分を取り巻く周囲・他人に対しても不満・嫌悪がある。自分の不幸を他人のせいにする傾向があるのである。自分が不幸だと感じている以上、他人への感謝も生じない。
また、勝ち組は慢心優位であるが、しかし、上には上がいるから、その人なりの卑屈・自己嫌悪・現状への不満がある。また、慢心で他を見下していると、その慢心のために、将来に自分が没落した時に生じる卑屈・自己嫌悪は非常に強く深くなる。こうして、勝ち組・慢心優位な人も、本当の意味では自分も他人も愛せないのである。
こうしてみると、自分と他人の双方を本当の意味で愛するには、自分と(いかなる)他人の間も優劣で二分化することなく、個々人の違いは個性・役割の違いであり、万人が平等な尊い価値を持つ存在として尊重する場合であるということがわかる。
仏教では、これを万人・万物が平等な仏性の顕現であると表現する。そして、すべての衆生を平等に愛する心(四無量心の捨の心)を培うように説いている。
3.弥勒菩薩の法の立体的な理解--自と他の輪、万物を一体と悟って愛す
弥勒菩薩の法則は、自己と他者を含めた万物が別々の存在ではなく、輪のように一体であるという真理に基づいて、万物を一体として愛するというものである。
それに基づいて、自と他を区別して、自分だけに執着する自我執着を超え、真の自分は宇宙全体であり、真の自分の家族は宇宙全体であるという視点を持って、すべての生き物・万物の幸福・不幸を自分の幸福・不幸と考え(大慈悲)、共に幸福になることを目指すという教えである(弥勒菩薩の菩提心)。
(1)自と他が輪のように一体
それでは自と他が輪のように一体であるという点を検討してみよう。それには、以下のような分析が可能である。
まず、自分の生は他の生き物の死に支えられている。つまり、他の生(他の体)が、自分の生(自分の体)になっている。また、時が来れば、自分の死が、他の生を支える。すなわち、自分の体が他の体になる。いわゆる食物連鎖の循環(=輪)である。
言い換えると、この世の生命体は、自分だけで独立して生きておらず、他と生命・身体を交換し合いなら生きている。これは、地球の生命圏の絶対の摂理であり、仮に人間が死ななくなれば、人口爆発や食物連鎖・生態系のバランスが崩壊して大破局が訪れる。
こうして、自分の生を支えるために、他者が自己になり、お返しに自分が死んで、自己が他者になるというバランスの中で存在しているのであるから、自分だけに執着することは、自然の摂理に反し、真の自分は宇宙全体に広がっているという視点が出てくる。
第二に、自分と他人が輪のように一体であるという事実は、生と死の際に限らず、生きている間にも絶えず起こっている。私たちの体を構成する分子は、少なくとも数年単位で、全部入れ替わってしまう。こうして、自分と外界・他者の間でめまぐるしい分子の交換・循環が生じている。
また、身体面だけでなく、精神面においても、私たちの思考を形成する情報や知識は、自分と他人の間でめまぐるしく交換・循環している。私たちは自分だけで形成した情報や知識は有していない。そもそも思考の土台となる言語自体から、すべて他者から学習したものである。
さらに、まだ科学的にはよくわかっていないが、我々の精神に関係する脳を構成する分子も、他者の分子と完全に入れ替わっていくから、この意味でも、精神的に、自分と他人の間で密接不可分な交換・交流が生じている。
では、最後に、この点を図にして理解してみよう。
第四章 仏教が説く真の幸福の道
1.法則の日記1:今ここの幸福 求める幸福と気づく幸福
(2011年6月21日の日記の改訂版)
仏陀の教えを含めた普遍的な道理で、少欲知足・足るを知るというのがあります。これをわかりやすく表現しなおすと、今ここにある幸福を見つけることだと思います。
人は、多かれ少なかれ現状に不満で、特に経済成長至上主義ともいうべき現代社会の価値観の中では、それが強くなっていると思います。
そのため、現状にいろいろと不満を持ち、その反対の感謝が乏しく、その現状を作っている過去にいろいろと後悔を抱き、さらに未来に対しても現状の不満が解消してほしいと願いつつ、そうならない不安や、より悪くなることに不安を持つ。
こうして、現状に不満、未来に不安、過去に後悔、といった心の働きを常に持って、それが頭の中をいっぱいにしているのです。
そして、この精神状態がただ続いていけば、いつまで経っても幸福になれず、寿命を迎えてしまい、一生本当に楽しんだ時間のないままに人生が終わります。
というか、最近は、寿命を迎える前に、この精神状態のために、うつ病など、人生に途中で疲れてしまう人が多くいるようです。昔なら未来への希望に燃えるべきとされる若者の中にも、すでに疲れている人も。
人は、未来や過去に生きているのではなく、今この瞬間に生きているにもかかわらず、その今現在を十分に楽しめずに、さまざまな不満・苦しみが多い。
それに輪をかけて、頭の中にしか存在しない未来と過去にも不安と不満があるというのでは、二重三重のストレス。
こうしてみると、この問題を緩和するには、今現在にいかにして幸福を感じるか、すなわち、今現在にいかに幸福を見つけるか、ということが重要になると思います。
これは言い換えると、幸福には、
1.今ないものを未来に求めて得る幸福と、
2.今すでにあるものに気づいて得る幸福
という二つがあることがわかります。
そして、前者だけでなく、後者をいかにして得るかが大切です。少なくとも、両者の間の一定のバランスをとることが重要だと思います。そして、このためには、
1.欲楽は求めても求めても際限がなく、その裏にさまざまな苦しみが生じるという本質があることを理解しつつ、
2.今ある幸福に気づくように努めるとともに、今経験している苦しみの裏側にも幸福を見出すこと
が非常に有効だと思います。
次回はこの点について少し書きたいと思います。
2.法則の日記2 幸福を見る人が幸福になる
(2011年6月23日の日記の改訂版)
前回は、多くの人が、「もっともっと(欲しい)」と、未来に欲望を投げかけつつ、その裏で、それが得られないのではという不安、今あるものさえ失うのではという恐れ、また、得られなかった過去や現在についての後悔や不満に悩んでいるお話をしました。
そして、それを言い換えて、「現状に不満、未来に不安、過去に後悔」で頭をいっぱいにしていると表現しました。
これでは、いつまでも幸福になれず、死ぬときに振り返っても、本当に人生を楽しんだことは一瞬もなかったということにもなりかねません。これはおかしいと思います。
最近は、ある意味でこれに気づいたのか、若者の中にさえ、人生に途中で疲れ、燃え尽き、絶望し、鬱・自殺に到る人も多い。これは悲しいことです。
未来に不安、過去に後悔といっても、人は、未来や過去ではなく、今この瞬間に生きている。未来や過去は頭の中にあるだけで、実際にあるのは一瞬一瞬の今のこのときだけ。にもかかわらず、未来や過去の不安や後悔で、今楽しめない。これは残念なことです。
これを乗り越えるには、今現在に、いかに幸福を感じるか、すなわち、今現在に、いかに幸福を見つけるか。言い換えると、幸福には、
1.今ないものを未来に求めて得る幸福と、
2.今すでにあるものに気づいて得る幸福
という二つがあることになります。
求めて得る幸福は、求めても得られない場合の不幸が、その裏にあります。そして、その本質は、他と奪い合う幸福ですね。すなわち、求め争って、得られる人と得られない人がいるという幸福(と不幸です)。
さらに言い換えるならば、他の不幸の犠牲の下の幸福。他の不幸とセットの幸福ということになります。現代の競争社会では慣れきってしまっていることですが、毎日の生活に単に流されずに、これが本当の幸福への道だといえるかについては、よく考えてみる必要があると思います。
一方、気づいて得る幸福は、気づく努力をすれば、必ず得られる幸福です。他から奪う必要のない幸福であり、皆が得られる幸福であり、他の不幸の犠牲・他の不幸とのセットではない幸福です。これこそ本当の幸福ではないでしょうか。
それからもう一つ。求める幸福と、気づく幸福があるとは、言い換えるならば、環境・条件を変えて得る幸福と、視点を変えて得る幸福があるということになります。
視点を変えて得る幸福とは、言い換えると、幸福とは、幸福を見る人に訪れるものであり、不幸とは、不幸を見る人に訪れるものだ、という考え方。
よく考えると、どんな人にも、どんな出来事にも、幸福と不幸の二つの側面があることがわかります。例えば、どんなに恵まれていても、もっと欲しいと思い、ストレスがあるのが人間。高いところに行くほど、失いたくない、落ちたくないという不安は逆に多くなる。さらに、自分を妬む人、敵も増え、奪い合いの中に深く入る。
だから、他人が思っているほど、その人自身は幸福ではない。恵まれた人には、恵まれていない人にはない苦しみがあり、持たない人には、持っている人にはない軽い心がある。
こうして万事、幸福と不幸は裏表、輪のように繋がっていると考えると、幸福・不幸というものは、幸福を見るか、不幸を見るかで決まってくるとわかる(※ひかりの輪の「輪」は、この苦楽・万物が一体という意味を含んでいます)。
これが、釈迦牟尼が説いた自業自得の本当の意味の一つではないでしょうか。つまり、幸福、不幸は、それぞれの人の心の持ち方、視点が作り出しているものである。だから、同じ条件でも、幸福を感じる人、感じない人がいる。
そして、他人を含めた環境が、自分の思い通りにならない以上(ないしは、自分の思い通りにしようとすれば他人を苦しめ、自分も本当に幸福にならない以上)、自分の心の持ち方・視点を変える方が、真の幸福に至る賢い生き方である。これは、覚者(目覚めた人)といわれた釈迦牟尼らしい幸福観ではないでしょうか。
とはいえ、この心の持ち方、視点を変えることが、人にはなかなか難しいものです。そもそも、多くの人、ほとんどの人に、幸福を求めて、他に勝って得ようとする習慣が根付いています。おおよそ都市文明が始まって以来そうなのでしょうが、特に現代の資本主義・競争社会では、そのような傾向が非常に強い。
教育からして、知識や技能を学び、競争に備える学習はしても、心の持ち方を変える、心をコントロールする術などは全く学ぶ機会がない。だから、競争に負けて、絶望した人が自殺や心の病気にかかることも多くなっています(一方、勝ち組は安直に慢心に陥り、非常に不安定に見えます)。
よって、心の持ち方を変えよう、視点を変えようと考えてから、それがある程度できるようになるまで時間がかかります。しかし、焦らず弛まず練習すると、徐々にできるようになるのが、これがまた人間に備わった能力です。練習=良い習慣は徐々に結果をもたらす、まさに継続は力なりです。
そして、心の持ち方・視点を変える力は、身につければ、それは一生の財産になります。
外側のものは、いったんは得ても、いつかは失う定め。どんなに勝っても、年を取り、老いる中では、いつかは負け組になり、失います。しかし、自分の内側に養った智慧と愛の精神は、年を取るにつれ、逆にますます成熟し、老熟の境地をもたらします。
その練習とは、具体的には、それに役立つ考え方を学んで、日常生活で活かすのがまず基本です。
そして、さらにスピードを速めるためには、心に多大な影響がある身体の浄化を含めたアプローチが有効です。それが行法といわれるもので、例えば、ヨーガの体操・呼吸法、そして瞑想などです。
そして、最後に、自分の周囲の環境を浄化する、整えることも重要です。自宅を掃除したり、霊的に浄化したりすること、そして聖地に行くなど。
こうして、ひかりの輪では、①教学(正しい考え方を学ぶ)、②功徳(正しい日々の行動)、③行法、④聖地(聖なる環境)という四つを修行の柱にしています。
さて、どんな人が、心の持ち方を変える道に入るのでしょうか。それは、幸福を貪り求めたあげく、完全に行き詰まった人かもしれない。生来、貪り求める幸福・競争の幸福が、肌に合わない人かもしれない。皆が幸福になることを強く求めている人かもしれない。
人生の行き詰まりか、社会一般の競争の価値観への疑問か、真の幸福・愛への希求かは別にして、何かの苦しみを感じた人が、転機を迎えるようです。お釈迦様の教えでいえば、苦しみがあってこそ、正法への信仰が生まれるという教えがあります。
でも、21世紀、経済成長至上主義、競争主義の世の中が揺らいでいます。資源・エネルギー・環境の問題が露呈させた東北震災と原発事故。そして、ひたひたと近づいてくる地球温暖化問題があります。
人間の自然・地球を開発する(貪る)活動が限界に来ているともいわれる中で、人類全体が、求めて得る幸福の追求には、行き詰まりを感じ始めた時代ではないでしょうか。
そういった時代には、幸福は気づいて得るもの、幸福な人は幸福を見る人、という教えは、さらに重要になると思います。
3.法則の日記3:万人から学ぶ幸福を得る法
(2011年6月24日の日記の改訂版)
前回は、今ここに幸福を感じる、見出す生き方についてお話をしました。そして、その中で、求めて得る幸福だけではなく、今すでにあることに気づいて得る幸福が大切だとお話ししました。
さらに、それを言い換えれば、どんな人にも、どんなことにも、深く考えれば、幸福と不幸の二つの側面があるから、幸福を見る人は幸福になり、不幸を見る人は不幸になるというお話をしました。
今回は、それに基づいて、善い人を見ても、悪い人を見ても、利益=幸福を得ることができる考え方についてお話ししたいと思います。
善い人、悪い人という表現は、わかりやすいものの、人は神でも悪魔でもなく、どんな人にも善悪の双方がある以上、あまりに単純化することは避けて、善いことをしている人、悪いことをしている人と言い換えましょう。
普通、善いことをしている人からは、私たちは利益を得ることができると考え、悪いことをしている人には腹が立ち、嫌な思いをすると考えます。
しかし、これは固定観念であり、善いことをしている人を見ても、悪いことをしている人を見ても、自分の考え方を訓練するならば、利益=幸福を得ることもできます。同時に、下手をすると、どちらを見ても、不幸になる場合があります。
善いことをしている人は、その善行によって、本人は幸福になると思います。しかし、それを見る側の私たちは、
1.その人を自分の見本として喜び、見習う努力をすれば利益になりますが、
2.単に愛著し、依存・盲信すれば、無智と怠惰を増やす不利益になるし、
3.妬む場合は、いうまでもなく、不幸になります。
2の依存・盲信とは、よく誰かの「取り巻き連中」などといわれる人などが、その中心人物を見習い学ぶのではなく、その中心人物の徳を自分の徳と錯覚して、中心人物に依存してプライドを満たしている場合などがあるでしょう。
一方、悪いことをしている人は、その悪行によって、本人は不幸になると思います。しかし、それを見る側の私たちは、
1.その人を自己の反面教師として反省すれば、大きな利益になりますが、
2.自分と区別して、嫌悪・怒りを抱くだけなら利益にはならず、不利益になるし、
3.その悪を真似する場合は、いうまでもなく、不幸になります。
悪いことをしている人を反面教師にすることは、他人の欠点はよく見えるが、自分の欠点を見ることは苦手な私たちにとって、相当に難しいことです。常々、自と他を区別し、虚栄心・慢心にとらわれがちですから。
しかし、例えば、身近に反面教師が存在することで、初めて、自分自身がその反面教師のなしている悪いことを避けるように努力できる場合が非常に多いと思います。最近は、親子関係、夫婦関係の問題がよくいわれますが、親や配偶者を見て、自分は絶対こんな事ことしたくないと思うとか。
人は皆弱いもので、身近に反面教師がいて、自分の代わりに身をもって悪いことをした結果の大きな苦しみ・惨めさを具体的に示す存在がない場合、自分が初めて悪いことに誘惑されることになります。その場合は、反面教師がいる場合と比べて、同じ弱い心を持った人間として、どのくらい悪の誘惑に対抗できるものか。こう考えると、反面教師は貴重です。
こうしてみると、善いことをしている人、そして悪いことをしている人を見た時に生じる利益・不利益、幸福・不幸は、その人たちのせいではなくて、自分が選んでいる、自業自得のものであるということができると思います。
そして、ここでのポイントは、どちらを前にしても、自分が幸福になるには、その人と自分を区別せずに、自己の教師、ないし反面教師として活かす努力をすることであることがわかります。
善いことをしている人に依存したり、妬んだり、悪いことをしている人を嫌悪する人は、他人と自分を区別している点が共通しています。
自と他の区別をせず、善人も悪人も、自己の潜在的な可能性であるとわかれば、善人が自分が見習うべき見本であるだけでなくて、悪人さえも自分の貴重な反面教師であることがわかる。
こうして、どちらを前にしても、そういった努力すれば、教師・反面教師として、すべての人を自分の導き手として、幸福になる場合が多くなり、逆に、その努力をしなければ、どちらを前にしても、利益がないか、不幸になる場合が多くなります。
大乗仏教では、悟った人には万人が仏に見えると説かれますが、万人が教師ないし反面教師であるならば、万人が、仏が私たちの成長のために与えた存在=仏の現れと見ることもできると思います。
●参考:大乗仏教の教義
1.すべての衆生に仏性あり
すべての衆生に仏性=未来に仏陀になる可能性がある。すべての衆生が成仏する。
悪業をなしている者も、その苦しみから反省し、未来に仏陀になる可能性がある。
釈迦も、その弟子たちも、かつては悪をなして、改心して、悟った。
2.すべての衆生が仏の現れ
大乗仏教では、
①すべては平等な仏性の現れであり、不必要なものは一切ないと説き、
②また、悟った人には、すべてが仏と浄土に見えると説く。
一部の経典では、宇宙のすべてが根元仏である大日如来の現れとされ、
この宇宙が法界であると説く(重々無尽縁起・法界縁起)。
3.その他の参考の考え方
①善をなす人は、他の見本となることはできるが、悪をなす人と違って、
その実体験によって、悪をなす人の苦しみを理解して救うことはできない。
②逆に、悪をなす人は、最初は他の見本となることはできないが、
その悪業による苦しみを味わい、改心して成長すれば、同じ悪をなす人を
理解して救う力は、そういった経験のない人よりも大きくなる。
③こうして、万人が成長して、未来に仏陀になるという視点からは、
今善をなしている人も、今悪をなしている人も、長い目で見れば、
人を救う上での時期や役割の違いがあるだけで、その違いは
優劣ではなく個性であって、両者は平等な価値を持つ。
4.法則の日記4:正しい神仏への祈願--如意宝珠をシンボルとして
(2011年7月13日の日記の改訂版)
聖徳太子にまつわる仏像や霊性のお話をしてきましたが、聖徳太子は観音菩薩の化身とされています。特にぐぜ救世観音とか、如意輪観音の化身といわれます。
そして、この如意輪観音が持っている法具が如意宝珠です。法隆寺の聖徳太子を模したとされる救世観音(如意輪観音)の御写真を見ると、確かに両手の上に如意宝珠を持っています。なお、この写真の如意宝珠〈http://tera-q.com/butuzou/b_5.html〉は、宝珠の上に炎が昇っています。
また、如意宝珠は、日本の神社仏閣には相当に浸透していて、上部が尖っている球形の造作は、いたる所で見受けられます。よって、皆さんも気づかないうちに、よく見ているものなのです。
この如意宝珠とは、意のままに願いをかなえる宝珠という意味です。サンスクリット語では、チンター・マニ。チンターが如意(意のままに)、マニが宝珠。
これは、意のままに願いをかなえる仏の法力を象徴しているとも解釈できます。すなわち、仏陀の境地の悟りに到達した者の精神的な力の象徴です。
しかし、かなう願いは、よこしま邪な願いではなく、正しい願いに限られるとされています。観音菩薩は、悟りだけでなく、現世の幸福もかなえる仏ですが、それは、本当の幸福(=悟り)に至らしめるための当面の方便であって、人の欲望を満たすためではないわけです。
よって、観音様は、人から願いを受けると、その願いが正しい願いかどうかを判断するとされます。それがかなうことで、その人や他の人が本当の意味で幸福になるか、ならないかを判断し、かなえるかどうかを決めます。
つまり、正しい願いは必ずかなう(意のままにかなえる)という意味での如意宝珠です。よって、正しい願いとそうではない願いを見分けて、前者を実現する法力だということもできるでしょう。
さて、これは観音様の法力の話ですが、しかしよく考えると、これは私たちの心の仕組みのことを説いているとも解釈できます。すなわち、正しい願い、すなわち、私たちが本当に純粋な心で願うことはかないやすく、不純な願いはかないにくいということです。
正しい清らかな願いは、その人の心の全体が、それをかなえようとします。それは、その人の中の良心、その人の中の仏(=仏性)も、それをかなえようとするからです。こうして、心全体が集中すれば、大きな力が発揮されます。私は、これが、如意宝珠の意味ではないかと思うのです。
これを心理学的にいえば、表層意識と潜在意識の全体が一つになり、すべての精神的なエネルギーが集中する状態です。ユング心理学でいえば、表層意識に加え、集合無意識やセルフといったものが働く。経験則的にいえば、火事場の馬鹿力などもこの一種だと思います。
ちょうど、如意宝珠は尖っている部分のある球の形をしていますが、球が、宇宙全体ないし人の膨大の潜在意識(集合無意識)を表し、尖った先端が、個人ないし人の表層意識を表しているともされます。
よって、如意宝珠全体で、個人と宇宙の合一、表層意識と潜在意識の合一を象徴しているということもできるのです。この表層意識と潜在意識の合一をもって、悟り、仏性の覚醒ともいわれます。
一方、邪な願いの場合は、その人の心全体が、その実現を欲しているとはいえないでしょう。どんなに潜在意識・無意識に埋もれてしまっていても、どんな人にもある良心、その人の中の仏・仏性は、それに抵抗していると思います。さわやかに、一生懸命に願うことはできないでしょう。
では、正しい願いとは何かというと、仏教が説く心の三毒、根本的な煩悩である無智・貪り・怒りのない願いだと思います。この無智・貪り・怒りを超えた正しい願いとは、わかりやすくいえば、
1.神仏に依存して自分の努力を怠ることなく、
人事を尽くした上でのお願いであり、
2.必要以上のものを欲張る貪りのお願いではなく、
必要な分だけのお願いであり、
3.他に対する怒り・憎しみによるお願いではなく、
他への愛を土台とした(ないし他のことも配慮した)お願い、
といったように表現できるのではないかと思います。
とはいえ、私たち人間は、仏のように完全ではなく、無智・貪り・怒りを完全に滅することはできません。仏はそれを十分にご存じで慈悲深いので、私たちに完全は求められません。求められるのは最善を尽くすことまでだと思います。
無理なことではなく、できることの最善を尽くす。よって、今よりも一歩でも二歩でもいいから、無智・貪り・怒りから離れながら、お願いすることだと思います。
私のこれまでの経験からすると、このように正しい祈願ができた時は、本当によく願いがかないます。この自分の経験に基づいて、皆さんにこのお話をすることにしました。
よって、これは、いわば観音様の如意宝珠の教えです。
ただ、正しい願いですから、そんなに頻繁にやるものではありません。一年に何回かでしょうか。必要な時に限って、必要なだけ、自分の努力の改善を決意しつつ、お願いします。そして、記憶している限りでは、必ずかなっています。
そして、これは、人の心の中に眠る潜在的な力であって、すべての人の中にある仏性の力だろうと思います。その尊い力を象徴し、それを引き出すシンボルとして、仏教修行者の歴史の中で信じられたのが、如意宝珠なのだと思います。
最後に、ひかりの輪では、釈迦牟尼の生誕地のネパールにあるヒマラヤの水晶を材料として、特別に注文した如意宝珠を入手しました。日本製の物の方が加工の精密度は上でしょうが、触ったときの感じ(エネルギー)が違います。自分の純粋な気持ちを引き出してくれるシンボルとして適切なのでしょう。しっくり来るというか、何かの力がこもっているので、とても気に入っています。
5.基本仏教講義:幸福をもたらす功徳とカルマの教え
(2011年7月21日 専従スタッフ向け代表講義より)
●功徳とは何か
仏教では、功徳によって幸福になるという。また、大乗仏教が求める仏陀の境地の悟りも、功徳を集積していくこと(方便の実践)が、その条件の一つとなっている。では、この功徳という言葉は、具体的には何を意味しているかについて、述べたいと思う。言葉は知っていても、その意味を知らないことがよくあるからである。
岩波仏教辞典などを見れば、功徳とは、①善行(自体)、②善行に備わった良い性質、③善行によって人に備わった徳性、④善行の果報や利益といった多様な意味がある。
まず、①は、「その行為は、功徳ですか、悪行ですか」などという場合にあたる。②には、「悟りのためには、功徳が必要です」などという場合である。善行を積み重ねることで生じる目に見えない力を意味している。③は、「あの人は功徳がある。徳人である」などという場合。④は、「今幸福なのは、過去の功徳のおかげ」などという場合である。
●カルマとは
さて、功徳に関連して、カルマ(業)という言葉の意味も解説しておく。業は、サンスクリット原語ではカルマン。そして、よく善いカルマ・善業、悪いカルマ・悪業などといわれる。
業というのは、単に何かの行為だけを意味する概念ではなく、その行為の後に残存する、未来に何かをもたらす潜在的な力を含んだ言葉である。
そもそも、インドの思想では、何かの行為は、その行為が終わって、目には見えなくなっても、その後に残る潜在的な力があるという思想があったのだろう。よって、善いカルマという言葉と、功徳という言葉は非常に近い意味を持つ。
●善業・悪業の存在
次に、善業ないし功徳や、悪業といったものが、実在するかどうかについてである。これは目に見えないものであり、輪廻転生を前提として今生の善業や悪業が来世に現れるという思想の場合は、立証のしようがない。しかしながら、依然として、仏教が説く善業・悪業という概念は、解釈の仕方によっては、現代人にとっても理性的で重要な価値を持つ思想となりうると思う。
まず、現代人でも、科学的には立証できなくても、善業・悪業を経験則的に感じている部分がある。その経験則とは、善いことをすると、心が軽く暖かく明るくなり、悪いことをすると、心が重く冷たく暗くなるといった経験則である。これは、善業・悪業というのが、心(と身体)に影響を与える一種のエネルギー(精神的・霊的なエネルギー)である可能性を示している。
そして実際に、仏教の中でも密教やヨーガ、そして道教・仙道の世界では、人の体には、目に見えないエネルギーとその流れる道があるとしている。気や経絡、ヨーガのクンダリニーとナーディ、密教の管・風・心滴といった概念である。
そして、これらの思想では、善い行為によってエネルギーは上昇し強くなり、悪い行為によって下降し減少するとされる。善い行為でエネルギーが上昇し強くなるから、心が軽く暖かく明るくなると感じ、悪い行為でエネルギーが下降し弱るから、心が重たく冷たく暗くなると感じるのである。
●幸福をもたらす功徳
これに基づくと、功徳が幸福をもたらし、悪業が不幸をもたらすということも、ある程度理解できるだろう。軽く暖かく明るい心は、それ自体が幸福な状態ということができるし、そういった精神状態であれば、物事を適切に判断する智恵(智慧)も高まり、何かを達成する力も強くなる。また、さらに善い行為を積み重ねることもでき、人から愛される人格を形成するだろう。一方、重く冷たく暗い心は、その逆であろう。
そして、こう考えると、大乗仏教が、功徳の集積が現象をありのままに見る力=智慧の源となると説くことや、功徳が幸福をもたらす力となると説くことも理解できるだろう。功徳が仏陀の境地に至る条件、幸福になるための条件、願望をかなえるエネルギーというのである。
なお、大乗仏教では、功徳を積むと智慧が増大し、智慧が増大するといっそう功徳を積むことができるとして、功徳と智慧の循環を説いている。逆に言えば、悪業は無智を増大させ、無智が悪業を増大させる一面があるのである。
ただし、この悪循環は永久に続くものではない。というのは、悪業がある段階まで積もると、それによる苦しみが激しくなり、悪業が苦しみの原因であることに気づいて、無智が和らぎ、善業に向かうというプロセスがあるからである。
●功徳は人格・身体・環境に現れる
さらに、伝統の仏教思想では、功徳が、人の心・精神・人格だけでなく、身体や環境に影響を及ぼすとしている。悪業の多い人は、その精神が歪むだけでなく、身体にも苦しみが多く、悪い環境に生まれるというのである。
この思想を安直に使うと、今苦しんでいる人たちは、悪い(ことをした)人たちであるという差別思想になってしまうので注意が必要である。しかし、自分自身が幸福に生きるためには、善業・悪業と、身体・環境の関係に注目することは非常に有益である。
というのは、最近は医学においても、以前より広く認められてきているように、心と身体には密接な関係がある。心療内科、心身症、精神病に伴う肉体の変調など、心と体は決して別のものではない。
先ほど、密教・ヨーガ・仙道などでは、身体には、人の心の働きに左右される目に見えないエネルギーの流れがあり、善い行為はエネルギーを上昇させ強くし、悪い行為が下降させ弱くすると述べた。この点をさらにいうと、エネルギーの流れがスムーズで強いと健康になり、滞って弱いと(その部分が)不健康になるとされている。
そして、病気という言葉は、まさにこの思想を表した言葉である。というのは、病気は「気の病」と書くが、これは、体の病気が気持ちの問題に関係しており、より詳しくいえば、心の働きに左右される「気」という目に見えないエネルギーの流れにトラブルが生じることに原因があることを意味しているのである。
さらに、身体に限らず、善業・悪業の影響は環境にも及ぶと考えることができる。ここで出てくるのが、「類は友を呼ぶ」という経験則である。つまり人の世界は、似たもの同士が集まる一面があるというものである。
これも科学的に立証されたものではないが、我々の経験からいって、同じような精神的な傾向を持つ人と縁ができやすい、惹かれやすいという事実は、それがすべてではないにしても、そういった一面が確かにあることは、納得しやすいであろう。
だとすれば、善業をなす人は、善業をなす人と縁ができやすく、悪業をなす人は悪業をなす人と縁ができやすいということになる。よって、善業・悪業は、その人の人間関係=環境にも影響を与えるということができる。
●身・口・意の三業
次に、伝統の仏教では、カルマ(業)の種類を三つに分ける場合がある。すなわち、身体・行動における業、言葉における業、意識における業である。よって、身体・行動における善業・悪業(非善悪業)、言葉の善業・悪業(非善悪業)、意識の善業・悪業(非善悪業)がある。そして、この三つの業を身・口・意の三業という。
そして、密教の修行では、三密加持という修行があり、これは、修行者が、その瞑想修行において、仏の身・口・意の象徴とされる座法・手印・真言・観想を行うことによって、仏と相通じて、仏の境地に近づこうとする修行である。ここでの三密とは、身・口・意の三業のことを意味している。
●何が善業、何が悪業になるか
最後に、ある意味で順序が逆になったが、一体どういう身・口・意の行為が、善行・善業となり、どういった行為が、悪行・悪業となるのであろうか。
それを一言でいうならば、現象をありのままに見る智慧と、それに基づく慈悲が増大するような結果をもたらす身・口・意の行為が、善行・善業である。逆に、現象をありのままに見ない無智と、それに基づく貪り・怒りが増大するような結果をもたらす身・口・意の行為が、悪行・悪業ということができる。
仏教では、さまざまな煩悩の源となる根本的な煩悩は、無智・貪り・怒りであるとする。そして、煩悩を強めるのが悪業である。ここで重要なことは、煩悩とは、悪業の積み重ね、悪習慣によって生じるとしていることである。悪い行為を重ねると、それが習慣となって、煩悩を増大させ、望ましくない人格を形成し、逆に善い行為は、煩悩を和らげ、望ましい人格を形成するのである。
さて、ここでいう無智は、現象をありのまま見ることができない状態である。現象をありのままに見ることができないというのは、仏陀の説いた縁起の法を含めた真理が理解できないということである。これをひかりの輪の表現を使えば、万物が輪のように一体であることが理解できない、輪の法則・一元法則が理解できない状態である。
その結果として、万物が一体であるという智慧と、それに基づく万人万物への愛(大慈悲)が損なわれる。そうすると、自分と他人を区別し、他より自分に愛著する(自己愛著・自我執着)。そして、私たち人間は(仏陀といわれる人を除いては)ほとんどすべてこの状態であるのである。
そして、この無智の結果として、貪り(愛著)と怒り(嫌悪)が生じる。具体的には、自我執着の欲求を満たすことのできる対象には、貪り・執着の感情が生起する。逆に、その欲求を損なう対象には、怒り・嫌悪が生起する。その他の存在には、冷淡・無関心となる。これが、無智から生じる、貪りと怒りという三つの根本煩悩である。
そして、この三つの根本煩悩から、さまざまな煩悩が派生していく。さまざまな執着、卑屈・妬み・慢心、物欲・性欲・食欲・名誉欲・権力欲・支配欲など。仏教では、108とも分類されるさまざまな煩悩が説かれる。
そして、仏教では、特に十不善(十悪)という教えがある。これは、特に人にとって悪業になりやすい十の身・口・意の行為のことである。それは、身体の業として、殺生・偸盗・邪淫、言葉の行為として妄語(嘘)・綺語(必要のない言葉)・悪口(わるぐち)・両舌(仲違いさせる言葉)、意識の悪業として、無智・貪り・怒りである。
また、こうしたことから、一言でどのような行為が悪業となるかを言おうとすれば(正確かつ十分にいうのは難しいが)、自己中心、エゴの物の考え方や、それに基づく行為であるということができるだろう。
では、どういったことが善業になるか。それは、悪業の場合と正反対に、無智を弱めて智慧を強め、貪りや怒りを弱め慈悲を強める結果となる身・口・意の行為である。言い換えれば、この善業を積み重ねる善い習慣が、無智・貪り・怒りを和らげ、智慧と慈悲を生じさせるのである。
そして、その善業の一例が、先ほど述べたこの十の悪行・悪業をなさないように戒める十戒の実践である。さらに、単にこの十の悪行・悪業をなさないだけでなく、その正反対の実践を積極的に行うことを十善ともいう。
それは、例えば、殺生せずに生き物を慈しむ、偸盗せずに他に施す、邪淫をせずに清らかな人間関係を作る、嘘を言わず真実を語り、必要ない言葉を避けて重要なことを語り、悪口を避けて他を正しく褒め、両舌を避けて人と人を結びつけるように語り、無智・貪り・怒りを抑えて、智慧と慈悲を培うなどである。
また、功徳を積むための教えとして、菩薩になる道を説く大乗仏教では、六つの完成という教えがある。それは、智慧=仏陀の境地に至るための次の六つの修行であり、具体的には、①布施(他に財物と安寧と法則を施す)、②持戒(戒律を守る、例えば十戒)、③忍辱(物質的困窮・批判誹謗・法則の理解の難しさといった苦しみに耐える)、④精進(法則の実践を強い決意で始め、遅らせることなく、弛まず努力し続ける)⑤禅定(瞑想修行)、そして、⑥智慧である。
●業を変える修行とは
では、これまでの悪業の習慣を和らげ、善業の習慣を形成していくには、具体的に何をしたらよいのかというと、ひかりの輪においては、①教学、②功徳、③行法、④聖地という修行の4本の柱を説いている。
まず、第一に、教学によって、何が善業・功徳、何が悪業・功徳になるかを含め、正しい考え方を学ぶ。これによって、善業をなし、悪業を避けるための基本的な理解と動機を得ることができる。そして、これは意識における功徳になる。
第二に、第一の教学で学んだことを活かし、日常生活において、身・口・意の功徳を積む。例えば、十悪を避けて、十善をなし、布施・持戒・忍辱・精進といった六つの完成の実践をする。
第三に、行法。これは、ヨーガ・密教等の行法を実践して、身・口・意の功徳を積むものである。そして、この実践は、身体を含めて自己の心身を浄化し、日常生活でも功徳を積みやすい状態を作る効果がある。すなわち、教えを学ぶだけでなく、行法によって心身を浄化して、功徳を積みやすい状態を作るのである。
第四に、聖地。これは、自宅を浄化し、道場に通い、自然の聖地に親しむことで、環境面から功徳を積みやすい心身の状態を作ることである。
第五章 ひかりの輪と聖徳太子にまつわる霊性の不思議
※以下は 2011年7月8日の日記を改訂したものです
(1)聖徳太子にまつわる霊性
これは、私や私の周りのひかりの輪の人たちの体験ですが、私は、「聖徳太子にまつわる霊性」ともいうべきものがあると感じることが多くあります。もう少し具体的にいえば、聖徳太子をシンボルとした聖地・神社仏閣・仏像・物事に現れてくる霊性といった程の意味です。
私は理系出身で、釈迦牟尼が説いたような合理的・理知的な教義を好む傾向がありますが、これについて理屈では説明できないものです。また、すべての人が、私と同じように、聖徳太子にまつわる霊性を体験するかというと、それはまた別で、縁というものがあると思います。
(2)聖人「聖徳太子」に対する学術研究
ただし、日本では、古事記・日本書紀が成立する中で、聖徳太子がすでに聖人化され、さまざまな神秘的・奇跡的なエピソード(太子伝説)とともに、太子信仰が全国に広がり、太子堂などが建立されました。
学術的には、聖徳太子という人物は、後に神格化されたのであって、伝説の通りではないという見解があります。太子の本名は、厩戸(うまやど、うまやと)皇子といい、その人物が後に神格化されたというものです。
とはいえ、いくら政治的な意図があっても、何のカリスマ性もなかった人間をゼロから神格化することも無理があるように思いますから、何らかの意味で傑出した人物であって、神格しやすかったのだろうと思います。
また、信仰が全国に広がる上では、いろいろな人に太子にまつわる不思議な体験が起こったとされています。そして、私が体験したことも、ある意味でそれと似たものなのかもしれない、だから信仰が広がったのかもしれないと思うところがあります。
(3)聖徳太子の虹の聖地での体験
では、私の体験をお話ししますと、私がオウム・アレフを脱会・独立してひかりの輪に到る動機となった体験の中に、結果として、聖徳太子にまつわる不思議かつ神聖な体験が多いのです。
私は2002年ごろから、後に(2007年に)オウム・アレフを脱会するに到る自分独自の宗教的な体験を始めました。それは、それまでのオウム・麻原の宗教体験とは異質のものでした(そのこともあって、後に教団分裂の事態にもなります)。
ある時、私は、不思議な夢を見ました。その中に、観音菩薩の化身である人物を意味すると解釈した赤い服を着た仏教の師を見て、同時に、爆発する火山、水の中の赤い龍と、赤を中心とした神聖な循環するエネルギー、さらには、大黒柱(神柱)というキーワードが出てきました。
その後、私は、富士山の麓で、この夢とシンクロしていると感じる体験をしました。夕日で真っ赤な富士山を背景に、天に向かって立ち上る、赤が強い非常に神々しいイメージの虹の柱を見たのです。虹は天かける龍といわれます。また富士山と周辺の湖には龍神伝説があります。神々しい柱のような虹は、神柱のように感じました。
さて、それからしばらくして、その場所のごく近くに、聖徳太子を祭る聖徳寺というお寺があることを知りました。ご存じかと思いますが、聖徳太子は観音菩薩(救世観音)の化身とされています。
そして、その祭壇には、なぜか虹の写真がありました。不思議に思って、そこで住職さんに話を聞くと、なんと「昔この場所で聖徳太子が虹を見て、聖地であるといわれた伝承(聖徳太子の黒駒の伝説)があるので、太子を祭る寺を建て、虹の写真を飾った」と言われました。これは、なんとも印象的な不思議な一致でした。
(4)聖徳太子と自分の聖地巡礼のシンクロ
さて次に、私とひかりの輪の聖地巡礼と聖徳太子の縁について書きたいと思います。私が聖徳太子に初めて関心を抱いたのは、知人から、私が上記のヴィジョンや聖地での虹の体験をした後に始めた聖地巡礼が、聖徳太子伝説の中で聖徳太子が黒駒という馬に乗って訪れたとされる場所とよく似ていると聞いたことからでした。
聖徳太子は、黒駒と呼ばれる黒い馬に乗って、富士山を訪れて登山し、その後信州(長野)の各地に行かれたとされています。私も富士山の虹の体験の後は、長野の聖地である諏訪、乗鞍などを回っていました。
それ以来、すでに約10年経ちましたが、ひかりの輪でよく訪れる聖地が、不思議と聖徳太子や、その愛馬と縁がある場所なのです。具体的には、長野県では、諏訪の諏訪大社、長野市の善光寺や戸隠、上高地、そして、茨城県の鹿島神宮などがあります。
そして、この諏訪大社の御祭神のタケミナカタノミコトと、鹿島神宮の御祭神のタケミカヅチノミコトが、聖徳太子の愛馬である黒駒や、もう一つの愛馬の天津速駒(白駒ともいわれる白い馬)の生まれに深い縁があります。
まず、天津速駒はまさにタケミカヅチノミコトの化身とされているのです。そして、黒駒は、タケミナカタノミコトが父親の大国主命を祭った駒ヶ岳から生まれたとされています。しかし、私たちはそのような縁は知らず、全く別の意味で、諏訪や鹿島を巡礼するようになりました。
なお、戸隠や善光寺と聖徳太子の縁については、後で善光寺の秘仏のところで述べたいと思います。
(5)弥勒菩薩半跏思惟像の体験
さて次に、京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像と聖徳太子について述べたいと思います。この国民的に有名な仏像は、私にとって、オウム・麻原信仰の脱却に、大きな影響を与えました。
その仏像の前での瞑想は、非常に素晴らしく、微細かつ広大無辺な慈悲の波動を感じました。この体験は、オウム・アレフでの宗教体験・神秘体験への執着が残っていた私にとって、それから解き放たれる大きな力となりました。
そして、ご存じの通り、この仏像は、聖徳太子が「尊い仏」として、その側近に祭らせたものです。日本の仏像の中で国宝第一号であり、教科書などにもよく掲載され、その美しさから東洋のモナリザともいわれます。
ただ、私自身は、仏像の素晴らしさ自体に魅入られ、これが聖徳太子ゆかりの仏像であることはあまり意識しませんでした。ただ、その仏像を見ていると、その仏像に何か霊的な力・魂が込められているような印象を受け(いわゆるよく霊視ともいわれる体験)、深い意識に誘われるので、これは何なのだろうと思っていました。
しかし、その5年後の今年になって、私は、この広隆寺での体験と聖徳太子の繋がりを強く感じました。というのは、なんと聖徳太子の生誕地とされる奈良飛鳥の橘寺のお堂の中で、広隆寺とよく似た瞑想体験をしたのです。他では似たような体験をすることはありませんでした。橘寺には弥勒像はありませんから、この橘寺と広隆寺の共通点としては、聖徳太子ゆかりということ以外には思いつきません。
なお、つい最近になって、出羽山の羽黒山神社の鏡池で、広隆寺や橘寺と似たような体験をしました。そこは、聖徳太子の従兄弟である蜂子皇子が、羽黒山修験の開祖として祭られていますが、彼が出羽山に行ったのも、彼の父親である崇峻天皇が蘇我馬子に殺された際に、聖徳太子に言われて都での難を逃れようとしたためです。そして、羽黒山神社は、神仏習合の伝統では、聖徳太子がその化身とされる観音菩薩を祭っています。
(6)ひかりの輪の道場と聖徳太子との縁
さて、次にひかりの輪の道場と聖徳太子の縁についてです。私は、去年ごろから、ひかりの輪の長野小諸道場近くにある真楽寺というお寺が気に入り、何度か行くようになりました。
その理由は、観音菩薩を祭るお堂の周辺に特別に良い気の流れを感じるからです。また、そのお堂に刻まれた「慈母観音菩薩」という言葉が、ひかりの輪の仏教教義の解釈とぴったりくるということもありました。仏とは、すべての生き物を仏の子として慈しむ愛を持った宇宙の母の如きものという思想です。
そして、つい最近になって、そのお寺は太子の父(用明天皇)が建てたもので、太子が立ち寄られたという伝承があることがわかりました。他に長野でこういった伝承を持つお寺は今のところ見つかっていません。
また、建立の理由が、近くの浅間山が大噴火した際に、それを鎮めるためであり、観音菩薩に加え、(火山を鎮めるためか水の神である)龍神と水分神が祭ってあります。これは、先ほど書いた、私が2002年に見たヴィジョンと非常にシンクロしています。これもまた非常に不思議なことです。
さらに、ひかりの輪の大阪道場も、偶然にも、太子縁の聖地のごく近くにあります。しかも、これも最初は全く知らなかったもので、つい最近になって後からわかったことでした。
具体的には、道場は大阪市中央区の玉造のごく近くにあるのですが、太子が日本に仏教を導入するために物部氏と戦った際に、その戦勝を神仏に祈願して戦勝の徴候を得たとされるのが、この玉造の岡であったとされ、現在は玉造稲荷神社があります。そして、その神社の分社は、なんと大阪道場ビルの目の前にあります。
(7)ひかりの輪が推奨する仏像と聖徳太子
次に、ひかりの輪で特に霊像として推奨している仏像と、聖徳太子の縁についてです。ひかりの輪では、先に述べた①広隆寺の弥勒像と、法隆寺の近くの②中宮寺(聖徳太子の母の発願による建立と伝わる)の如意輪観音像と、③熊野の那智の滝近くの青岸渡寺の如意輪観音像を推奨しています。
この三つの仏像の御写真は、ひかりの輪が2007年に始まって以来、ずっと推奨していますが、そうし始めたのは、聖徳太子ゆかりの仏像だからではなく、私や私の法友の多くが、特別に神聖な感覚を感じたからでした。
特に広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は、その写真を丁重に自室や道場に飾ると、その周辺の空間も神聖になる感覚・印象を受けることが多くありました。それゆえに、これは道場や自宅を神聖な状態に保つ、いわゆる結界の効能があるとも考えています。
そして、今年になって、聖徳太子が如意輪観音の化身であると知り、青岸渡寺の如意輪観音像を含め、三つの仏像のすべてが、太子にまつわるものと解釈できることに気づきました。
他にも神聖な体験をした仏像はいくつかあるのですが、団体として、そのお写真を推奨しているのは、この三つだけです。他の良い仏像の中には、写真自体が手に入らないものもあり、それを含めて御縁といえばよいのでしょうか。
(8)善光寺の秘仏と聖徳太子
仏像といえば、もう一つ決して外せないのが、長野・善光寺の秘仏です。阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊像ですが、日本最古の仏像で、秘仏であり、「牛に引かれて善光寺」といった故事があるとおり、大変霊験あらたかとされ、古来篤い信仰を集めてきました(現在でも年間参拝客600万人)。絶対の秘仏ですから、お姿は拝めませんが(写真もありません)が、噂に違わぬというか、私自身も、この仏像が納められている前の空間(内陣)で、良い瞑想体験を得ました。
そして実は、この仏像も太子縁の仏像です。伝説として伝わるその神秘的な発祥の経緯は、仏教を理解しない人々によって池の中に捨てられていたところ、まず聖徳太子の前に神秘的な形で現れ出たとされます(ただし、その時は再び池の中に隠れ、その後、本田善光という人の前に現れ出て、善光寺に納められ、現在の善光寺に到ります)。
(9)ひかりの輪が共鳴した親鸞上人と聖徳太子
この善光寺は、浄土真宗開祖である親鸞上人と縁があり、彼の銅像がありますが、この親鸞上人を含め、私やひかりの輪がオウム・麻原信仰を脱却する中で共鳴した日本の歴史上の宗教家が何人かいます。そして、これも不思議なことに、それらの宗教家のすべてが、聖徳太子を崇敬している人ばかりです。
その中の主な人物を挙げると、先ほどの親鸞上人とその師である法然上人、そして比叡山天台宗の開祖である伝教大師最澄、そして高野山真言宗の開祖である弘法大師空海などです。
まず、親鸞上人は(自己を)悪人(と自覚した者)こそ救われる機会があるという悪人正機の教えを説かれました。私たちは、オウムの過去がありますから、この教えに大変励まされ、それは団体の重要な精神となりました。
また、ひかりの輪が毎年巡礼し、多くを学んでいる聖地の中に、長野の善光寺・戸隠・鹿島神宮があります。そして、これも後から気づいたのですが、これらは皆、親鸞上人ゆかりの聖地で、上人ゆかりの場所があるのです。
さらに、親鸞上人の師匠の法然上人(浄土宗開祖)は、別名を円光大師といい、名前がひかりの輪とシンクロしているようにも感じます。
そして、この親鸞上人は、太子を観音菩薩の化身と信じていた人でした。比叡山での長年の修行に行き詰まった際に、彼は、京都で聖徳太子の念持仏・如意輪観音を祭っている六角堂というお寺に毎夜通って祈りを捧げました。その結果、聖徳太子の夢のお告げを得て、師となる法然上人に出会い、大きな転機を得ることになりました。
他にも、日本仏教のあり方に大きな改革をもたらした彼の宗教家として新境地は、太子の夢のお告げを受けた結果のものという伝承があります。聖徳太子に対する崇敬の念を表す歌を多数残しています。
(10)伝教大師最澄と聖徳太子
次に、伝教大師最澄についてですが、彼は、比叡山を総本山とする(日本)天台宗の開祖です。そして、その天台宗においては、釈迦牟尼・阿弥陀如来・薬師如来の三仏が祭られていますが、これは、実は伝教大師が三つの「光の輪」を見て、それをこの三仏と信じたからだそうです。
なお、ひかりの輪も、天台宗と同じように三仏を祭っていますが、それは、釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩ですから多少違います。しかし、阿弥陀如来と観音菩薩は一体とされ、また、薬師如来はあ阿しゅく?如来と同一視され、その阿?如来と弥勒菩薩が同一とされるため、本質的には同じということもできます。
また、伝教大師は、すべての人に平等に仏性(未来に仏陀になる可能性)があるという思想を広めた人で、自分たちだけを特別視したオウム真理教の教義を超えるために、ひかりの輪の思想の中核になりました。
また、天台宗が江戸時代に活性化させた日光東照宮を含む日光山には、「死後は神として北にあって南を守る」との遺訓を残した徳川家康が薬師如来の化身として祭られる中で、その家康の御廟の全く正確に真南に、ひかりの輪の本部道場があるという不思議な縁があります。おまけに、日光のお寺は輪王寺といい(光と輪)、これもシンクロしています。
聖徳太子は伝教大師が中国に留学して学んだ天台宗の始祖の(師の)生れ変わりとされており、伝教大師はそれを信じ、自分を太子の弟子と位置づけ、熱烈な崇敬の念を表す歌を残しています。
(11)弘法大師空海と聖徳太子
最後に弘法大師空海について。まず、ひかりの輪は、密教法具を多用していますが、これを日本で最初に行ったのは、中国で密教を学んできた弘法大師です。彼は中国から多数の曼荼羅や金剛杵などの法具を持ち帰ってきました。なお、この曼荼羅=マンダラの原意は「円」・「丸い」で、これは、ひかりの輪の「輪」と通じます。
また、私は、高野山の弘法大師の御廟に繰り返し行っています。その空間は、非常に明るく神聖に感じられ、気に入っているのですが、そこで非常に不思議な神秘的な体験をしたことがあります。
それは、手の平の上に金剛杵をおいて瞑想していた時のことですが、まず霊的なエネルギーが腕を通して入ってきて、首から頭の上に抜けていき、その後、(私が自覚する限りでは、私が意図して動かしてはいないのに)、ひとりでに金剛杵が小刻みに震動を始めたのでした。
何かの霊的な力で金剛杵がひとりでに動いている、という感じです。非常に不思議なことだったので、こういったことが起こるから、日本人が広く弘法大師を信仰する歴史ができたのかな、とも思ったものでした。そして、これはひかりの輪で行っている弥勒金剛法具エンパワーメントと呼ばれる密教儀式に影響を与えました。
さて、この弘法大師も、聖徳太子を崇敬した人です。若き日に、太子信仰のメッカである四天王寺や太子の御廟(現在の叡福寺)を参拝したといわれ、真言宗では、弘法大師は聖徳太子の生れ変わりだと信じられています。
なお、弘法大師は、四天王寺で夕日を見ながら行なうにっ日そう想かん観という修行を行なったとされていますが、これは何となく、ひかりの輪の聖地巡礼で出る太陽の周りの虹の光の輪の現象を思わせるものです。
(12)ひかりの輪の教えと聖徳太子の十七条憲法
さて、次に、思想・教えの面での聖徳太子とひかりの輪の興味深いシンクロについてお話しします。
太子の十七条憲法は、その第一条にある「和を持って尊しとなす」という言葉がよく知られていますが、その第一条の言葉の土台として、第十条は、万人平等の思想を「輪」という言葉を喩えとして説いています。
そして、これが、ひかりの輪が説いている観音菩薩の教えと、その内容も喩えの使い方も、非常によく似ているのです。しかし、この一致も、今年になってわかったことで、最初からわかっていて、そういった教えや表現をしたのではありません。この発見も実に興味深いことでした。
そして、前に述べたとおり、一部の学者の研究では、太子は、この万人が平等一体という「輪の人間観」に基づいて、有名な「和をもって尊しとなす」という訓戒を示したとされます。万人が平等に尊いという人間観から、他人に対して謙虚に和睦の精神をもって対処せよということです。
そして、この日本古来の「輪と和の思想」は、遡ること、縄文時代の輪の精神・思想に源泉があるという説があります。縄文時代は、人々は、皆の住居が輪のように配置されていて(環状集落)、上下身分の区別・差別のない共同体だったと推察されているのです。また、宗教施設としては、環状列石(石を輪のように並べたもの。ストーンサークル)があります。
こうしたことから、私は、「聖徳太子にまつわる霊性」を感じ、そして、そのルーツは、日本文明の原点である縄文時代の輪の精神・思想に源泉があると感じています。それは、日本の国土(の中の特に聖地)、日本文明の根底、日本民族の心の深層に秘められた「輪の霊性」ともいうべきものではないかと思います。
※注
ひかりの輪では、特定の人物を絶対視することを否定しています。よって、聖徳太子を含め、歴史上に実在した人物を絶対だとは考えていません。また、そもそも、観音菩薩の「菩薩」という言葉は、如来になるために修行している未完の存在を意味することがあります。
こういった意味で、日記の中でも「聖徳太子」ではなく、「聖徳太子にまつわる霊性」と表現しました。それは、聖徳太子という特定の人物自身という意味というより、聖徳太子をキーワード・シンボル・縁としたものに現れてくる霊性、例えば、聖徳太子ゆかりの仏像や聖地・神社仏閣などに現れてくる霊性といったような意味です。
また、ひかりの輪では、特定の人物だけでなく、仏像自体を仏と見なしていません。仏像や仏画・曼荼羅などは、それぞれの人の中にある仏性(仏の如く神聖な心・智慧や慈悲)を引き出す手段・象徴・シンボルととらえています。
これは釈迦牟尼の説いた自灯明・法灯明という教え・遺訓に関連します。すなわち、他ではなく、自己を拠り所として、法を拠り所とせよという訓戒です。私は、この教えを、自己の中の仏性を覚醒させるために、(自己の意志を正しく働かせて)法の実践をせよ、という意味だと解釈しています。
そして、その法の実践の一部として、象徴物を活用した瞑想があると考えているのが、仏教の中でも、密教の宗派です。仏像・仏画、曼荼羅、法具といった(仏の)象徴物を多用します。その中に聖音を奏でるものもあります。
この背景は、人間が言葉による教えだけではなかなか神聖な意識を体得するのが難しい(悟ることができない)中で、そういった象徴物を用いて、五感を通しても神聖な意識に近づこうとするものです。日本では古くは弘法大師空海などもこの系統です。これは、釈尊が入滅した後、釈尊の手法だけではなかなか悟れない人たちが、苦労して編み出した修行実践ではないかと思います。






