仏教講義
上祐史浩の著した特別教本と、それを解説した講話などの仏教講義をご紹介しています。

21世紀のための仏教講義

2010年 GWセミナー特別教本 一元の法則とその悟りの道程
(2010年12月31日)

 第一章 一元の法則の集大成

この章では、これまでにひかりの輪で説かれてきた一元の法則を包括的に解説する。その前に述べておくと、下記のさまざまな一元の法則は、それぞれが別々のものではなく、本質的には一体である。
これは、さまざまな名前のついた神仏がいても、それらは本質的には一体であるのと同様であり、一つの真実の多様な側面にすぎない。しかし、煩悩を止滅し、一元の意識に至るためには、数多くの角度から分析することが望ましい。

 


1 一元の法則の主旨

仏教などが説く一元の法則の中核は、人の煩悩と苦しみは、この世の万物が実際には一体であるにもかかわらず、人の意識・思考の中では、それをさまざまなものに区別して比較し、その区別されたそれぞれのものに、固定した実体があると錯覚することにあるというものである。
しかし、皆さんの日常の思考においては、このように表現されても、相当にわかりにくいであろうから、これをより具体的なさまざまな表現で示したものが、ひかりの輪の一元の法則である。


2 三仏の一元法則

まず、初めに、「三仏の一元法則」である。これは、先ほど述べた人の思考における区別・比較という問題の中で、主要な三つの区別について、それを乗り越える法則を示したものである。その三つの法則は以下の通りである。

① 釈迦牟尼の法則--楽と苦の区別を超える法則
② 観音菩薩の法則--善と悪の区別(二分化)を超える法則
③ 弥勒菩薩の法則--自と他の区別を超える法則

これらの法則については、特別教本『現代人の一元の法則』、特別教本『循環の法則と密教加行』の中でも詳しく述べているので、なるべくそれを読んでいただきたい。そして、今回、本稿では、今までのものを簡潔にまとめあげた上で、いくつかの新しい視点を補充する。


3 釈迦牟尼の一元法則--楽と苦の区別を超える法則

1.楽と苦の区別を超える法則

苦しいことがあるから楽しいことがある、とよくいわれるが、この逆もまた真実であって、楽しいことがあるから苦しいこともあるのである。すなわち、楽の体験と苦の体験は、別々のものではなく、楽の体験が苦の体験を作り出し、苦の体験が楽の体験を作り出す面があるのである。

同じ給料をもらっている二人の人が、一方はそれを楽と感じ、他方は苦と感じることがある。それ以前の給料が今よりも少なかったならば、楽と感じ、逆であれば、苦と感じる。

しかし、最初は楽と感じても、その給料が長く続けばそれが当然のこととなり、楽と感じなくなり、苦と感じても、それに慣れれば苦と感じなくなっていく。その後も、慣れたものに対して、増えれば楽を、減れば苦を感じる。

こうして、楽と苦は相対的なもので、(気づかないうちにしている)比較によって生じている。これを言い換えるならば、楽と苦は絶えずセットで存在し、楽があるから苦があり、苦があるから楽がある、ということになる。

そして、快楽にふけると、少しのことが苦しみと感じられるようになり、苦しみの範囲が増大し、楽の範囲が減少する。逆に、苦しみに慣れるならば、少々の苦しみは苦しみと感じなくなり、苦しみの範囲が減少し、楽の範囲が増大する。

こうして、楽を求めてそれを得る中で、それが逆に苦しみの原因となり、逆に、苦しみの経験が、楽の原因となる。すなわち、楽が苦に転じ、苦が楽に転じることがわかる。こうして、楽と苦は互いに循環している。楽のままで固定的なものはなく、苦から独立した楽は存在しない。同じように、苦のままで固定的なものはなく、楽から独立した苦も存在しない。

しかし、これは、人間にとって、非常に気づきにくいことである。これが、釈迦牟尼が凡夫(普通の人)を、盲目の亀にたとえた所以である。そのために、人は、たいてい楽しいことと苦しいこととは、別々のものであると認識する。そして、楽しいことばかりを求めて、苦しいことは避けてばかりいる。

しかし、そのため、楽を求めては苦に至るという、楽と苦の循環の中で苦しまねばならない。仏教の説く六道輪廻の循環も、この一つである。そして、これに気づいて、ダルマ(法則)の実践をするならば、楽と苦の循環を超えて、真の幸福に至ることができる。


2.楽と苦の区別を超える教えと仏教

釈迦牟尼の教えは、「中道の教え」といわれる。これは、楽と苦が一体であることに基づいて、快楽にふける行為(左道)と、極限まで心身を痛めつける苦行(右道)の双方を否定した教えである。「不苦不楽の教え」ともいわれる。

次に、先ほど述べた楽と苦に関する説明は、じつは仏法の中核の教えとされる、「縁起」と「空(くう)」の教えの一例である。縁起とは、「縁=条件によって生起する」という意味であり、言い換えると、無条件には生起しない、他に依存して生起する、他から独立しては生起しないという意味である。

特に、大乗仏教の縁起の法の解釈は、「(人の思考の対象となるこの世の)すべての事物は、相互に依存し合って存在し、固定した実体はない」というものである。ここで、固定した実体がないことを仏教用語で、空という。よって、大乗仏教は「一切は空である」と説く。

そして、これらの法則を楽と苦に当てはめると、楽と苦は、相互に依存し合って生起し(縁起しており)、楽と苦は固定した実体がない(空である)。また、別の仏教用語による表現をとれば、楽と苦は表裏であり(苦楽表裏)、一切の快楽の貪りは、苦しみに帰結する(一切皆(かい)苦(く))となる。

なお、楽を感じるから、その裏に苦が生じるという上記の説明に対して、「身体の痛みなどは、楽とは関係なく感じる苦ではないか」という反論があるだろう。しかし、仏教では、輪廻転生の思想があり、肉体を伴わない死後の心の存在を前提としている。

そして、肉体の苦しみとは、肉体を伴わない状態だった心が、肉体を持つ楽を求めてそれを得て、その楽に執着したがゆえに(=肉体を持って生まれたがゆえに)、その裏側に肉体の老・病・死の苦しみを経験しているから、やはり、肉体の苦も、肉体の楽に基づくものであるという結論になる。

この転生における楽と苦の関係を説いたのが、釈迦牟尼の「十二縁起の法」と呼ばれるものである。十二縁起の法によれば、感覚の快楽を貪り、執着するがゆえに、肉体を持って転生する結果として、出産の際の生の苦しみ、老・病・死の苦しみを経験する。

そして、仏教は、人間の苦しみを「四苦八苦」と表現した。四苦八苦とは、生・老・病・死の苦の四つの苦と、求めても得られない苦(求(ぐ)不得(ふとく)苦(く))、愛している者と別れる苦(愛別離苦)、嫌いな者に会う苦(怨憎(おんぞう)会苦(えく))、そして、執着・とらわれ(の集まり)による苦(五蘊(ごうん)盛(じょう)苦(く))を合わせた、八つの苦である。

この四苦八苦も、楽の裏に生じる苦である。なぜならば、快楽を求めるがゆえに、① 得られないときの苦しみが生じ、② 快楽を与える対象には執着するが、それを失う(別れる)ときの苦しみが生じ、③ また、快楽を求める限り、必然的に他との奪い合いなどによって、嫌いな者ができて、それと接する苦しみが生じ、④ こうして、さまざまなとらわれからはみな、苦しみが生じるのである。


3.楽と苦の区別を超え、真の幸福を得る修行

ここで、さらに丁寧に、快楽を貪ることの本質を考えてみよう。まず、貪りには際限がない。いくら貪り、いくら得ても、それで満足いくことはなく「もっともっと」という欲求が生じる。得る前は大きな喜びだったものが、得たら慣れてしまって大した喜びではなくなり、再び大きな喜びを得るために、「もっと欲しい」という心理が働く。そして、やっかいなことに、もっと得られなければ、それが逆に苦しみなってしまうのである。

さらにやっかいなことは、すでに得たものに対しては、それでは満足できないにもかかわらず、その一方で、「失いたくない」という執着は生じているから、今やそれを失うと、激しい苦しみを感じる。それを得て執着する前には、なしで済んでいたものなのに、そうなのである。

そして、失いたくがないあまり、必死に守らなければならないという苦しみが生じるが、誰の人生でも、老い病み死ぬ中で、失わなくて済むものは、一つもない。正確にいえば、修行が達成する智慧(ちえ)や慈悲や、それを支える功徳といった、精神的な価値以外には、一つもない。

さらに、貪り求める限り、必ず他との争いに入り込み、そのために、敵を作り出し、恨み、辛み、妬みといった苦しみが生じる。争いに多大な時とエネルギーを費やし、傷つけ合うにもかかわらず、老い病み死ぬ中で、失わなくて済むものはない。

では、快楽の貪りがさまざまな苦しみをもたらすとしたら、どのような生き方が、本当の幸福に至る道であろうか。言い換えると、仏教が説く、真の楽とは何であろうか。

第一に、まず、快楽の貪りには、際限がないことに気づいて、あたかも麻薬を避けるがごとく、自分が生きるに必要以上のものは貪らずに、足るを知る実践をする。

このためには、例えば、感謝の実践がある。「もっともっと」と貪り求めるのではなく、すでに自分に与えられている幸福の大きさを見直してみて、それを支えている万物に対する感謝の実践をする。これによって、際限のない貪り・執着によるさまざまな苦しみから解放され、心身ともに軽く、平安となる。

第二に、苦しみの裏側には喜びがあることに気づいて、苦しみを経験したときに、それを喜びととらえ直す実践を行う。苦しみから逃げてばかりいると、少しのことが苦しみになり、苦しみに弱くなる。一方、無理をする必要はないが、苦しみも、それに慣れるならば、苦しみとは感じなくなり、心身が強くなり、長期的には幸福になる。こうして、苦しみを喜びとすることを大乗仏教では「忍辱(にんにく)の修行」と呼んでいる。これは、「苦しみに感謝する実践」とも表現できる。

第三に、真の幸福とは、他と競って快楽を貪るのではなく、他の幸福を喜ぶ心(慈悲の心)から生じる幸福であると気づき、他に幸福を与え、苦しみを和らげる利他の実践をすることである。このためには、例えば、他に施すといった実践がある。

なお、利他の行為を行なっていく際には、先ほど述べた感謝の実践を活かして、感謝に基づく恩返しと考えて行なうとよい。そうすれば、「自分は他を救ってやっている」などといった傲慢な意識に陥ることを避けることができる。感謝と恩返しの実践、恩返しとしての利他の実践である。

これらの実践が、仏教が説く、悪業(悪いカルマ)を減らし、善業(善いカルマ)を増やす実践、すなわち、功徳を積む実践である。

まず、悪業とは、悪い行為の結果として、そののちに苦しみをもたらす(目には見えない)潜在的な力のことである。苦しみの原因とも表現できる。善業は、この逆のものであり、利他の行為などで形成される。喜びの原因とも表現できる。

重要なことは、悪業を形成する悪い行為は、目先は楽に見えて、のちに苦しみをもたらすものがあることである。先ほども述べたように、快楽を貪ると、のちにさまざまな苦しみが生じる。

次に、善業とは、善い行為の結果として、のちに幸福をもたらす潜在的な力である。ただし、その善い行為とは、逆に目先は楽しくなかったり、逆に辛かったりする場合もある。先ほども述べたように、快楽の裏側に苦しみがあるように、苦しみの裏側にも楽があるのである。

例えば、貪らない実践は、快楽を放棄する面があるが、それによって、快楽の裏のさまざまな苦しみを避けることができる。これ以上の悪業を形成しないことで、未来の苦しみを減らす実践である。

次に、施しの実践は、自分が所有するものが減るが、それを喜びとして行うことで、際限のない貪りを静めるとともに、利他の心という本当の幸福の因を培うことができる。これは、貪りの悪業を減らし、利他心の善業を増やす実践である。

さらに、苦しみに耐える実践は、先ほど述べたように、苦しみから逃げる場合と比べて、最初は辛くても、長期的には、苦しみにより強い心身の状態を作る。これは悪業の清算である。すなわち、苦しみは過去の悪行による悪業がもたらすが、その苦しみに耐えることで、その悪業を清算し、未来の苦しみを減らすのである。

なお、仏教では、いたずらに自己の心身を痛めつける極端な苦行(右道の修行)は否定しており、ひかりの輪も同様であるので、それには注意されたい。しかし、苦しみの裏側に喜びがあるという法理に基づき、今さえ楽であればいいと考えて、すぐに苦しみから逃げることなく、真の幸福のために、苦しみに感謝して、自分を向上させるという教えがあるのである。

実際に、日常生活でも、すぐに苦しみから逃げず、自分を向上し鍛えるために、苦しみに前向きに対応することが、さまざまな達成・幸福につながることは事実である。これについては、この後にも、さまざまな例を挙げて述べることにする。

そして、このようにして、悪業が減少し、善業が増大し、功徳が高まってくると、心身が浄化され、精神的・肉体的なエネルギーが充実する。そして、意識が透明となり、智慧と慈悲が増大してくる。この功徳の実践の素晴らしさは、実際に体験してみることが一番である。これは、現代社会が見失った、仏教が説く真の幸福である。

さて、これらの実践を含めて、大乗仏教が説く、真の幸福に至る総合的な修行が、「六波羅蜜(六つの完成)の修行」である。それは、布施の完成、持戒の完成、忍辱の完成、精進の完成、禅定の完成、智慧の完成と呼ばれる六つの修行で、大乗仏教の修行者(菩薩)の実践課題である。

布施とは、他に施すことであり、貪りなどの悪業を減らし、利他心などの善業を増やす。次に、持戒とは、戒律を守ることであり、悪業を増大させるさまざまな悪い行為を慎む。忍辱は、苦しみに耐えることで、悪業を清算する。精進は、慢心を戒め、努力し続け、善業を増やし、悪業を減らす。禅定とは、法則に従った正しい瞑想の修行のことであり、最後の智慧とは、仏陀の悟りの境地であって、現象をありのままに見る精神的な力のことである。

この修行が目指すものは、最後の智慧の完成であり、智慧と一体である広大な慈悲の心の体得である。大乗仏教では、「智慧と慈悲」の体得を目的としている。智慧と慈悲は、別の表現では、「智慧と方便」「空と四無量心」などとも表現される。これについては、別の機会に詳しく述べることにする。

実際に、この六波羅蜜の実践をすれば、煩悩の多い現代社会の中でも、その中に埋没せずに、神聖な生き方を実現できるようになる。心身は引き締まり、精神的なエネルギーが充実し、意識は透明となり、智慧が増大する。これが、仏教が説く功徳の重要性にほかならないのである。


4 観音菩薩の法則--善と悪の区別(二分化)を超える教え

1.善と悪の区別(二分化)を超える教え

次に、善と悪の区別について考えてみよう。まず、最初に誤解を招かないようにしておくが、「善と悪の区別を超える」というのは、善も悪もないから、何をしてもよいという法則では決してない。むしろ、その逆に、悪行を減らし、善行を増やす結果となるものである。よって、表現が誤解を招くのであれば、「善と悪の二分化を超える」と表現し直してもよいだろう。

まず、広辞苑によれば、「善い(良い)」という言葉の意味は、「物事が質的に他よりすぐれてまさっている」と定義されている。こうして、「他より優れている」とあるように、善と悪は、他との比較によって生じる概念である。

よって、この世に一つしかなく、比較の対象がないものの場合は、それが「善い」とか、「悪い」とは言うことがない。例えば、「善い地球」とか「悪い地球」とかは言わない。すなわち、他と比較されることなく、他から独立して、そのものだけで善いとか、そのものだけで悪いということは、存在しない。

しかし、楽と苦の問題と同様に、これも非常に気づきにくいことである。例えば、「あの人は善い人だ、悪い人だ」と言う場合も、実際には、その時点で、自分が知る他の人たちなどとの比較によって、決めているものなのである。

よって、同じ人が、Aさんには善い人に見えて、Bさんには悪い人に見える場合がある。これは、AさんとBさんのそれぞれが比較する対象=条件が異なっているからである。

さらに、今自分が「悪い人だ」と思う人がいても、仮に、その人とともに、その人より悪い人ばかりの世界に行くならば、その人がたいへん善い人に見えてくる。逆に、「善い人だ」と思う人がいても、その人より善い人ばかりの世界に行くと、その人がたいへん悪い人に見えてくる。

こうして、善と悪は比較による相対的なものである。しかし、人は、このことには気づかずに、無条件に善い人、無条件に悪い人がいると思いこむ。これが人の心理の落とし穴である。

なお、これは、善を奨励し、悪を戒めることを否定しているものでは全くなく、その逆である。修行者は、人一倍、善行をなし、悪行を慎むべきである。また、他人に対しても、できるだけ善行を勧め、悪行を避けるように勧めるべきである。このことは、善業と悪業、功徳を積む教えとして、先ほども述べたとおりである。

しかし、その一方で、仏教の修行者は、他人が何か悪行をなしたときに、憎しみの感情を抱くことは避けなければならない。悪行はその人自身を苦しめるものであり、憎しみの代わりに哀れみの心を持つ必要がある。そして、憎しみよりも、哀れみこそが、他の悪行を防ぐ上で大きな力を発揮する。

そして、そのためには、善と悪とは比較による相対的なものであり、絶対的な悪(善)はないということを理解しておくことが役に立つということである。

さて、話を元に戻すと、これは、人生全体を内省、内観する修行に関わってくる親の評価についても同様である。善い親、悪い親というのも、他の親などとの比較によって生じている。

すべての親はおなかを痛めて子どもを産み、たいていの親は、幼少期の子どもの求めに応じて一日中よく眠れない日々を過ごし、毎日三食、おしめの処理から、掃除や洗濯まで多大な奉仕をする。

しかし、子どもの方は、それは、「他の親も行なう当然のこと」と考えて感謝は乏しく、気づかないうちに比較によって自分の親を否定的に見る場合も多い。それが大人になって、自分が子どもを育てたり、それに類する他を扶養する立場になって、その大変さに気づいたりする(実際、私の場合そうであった)。

これは、人の感覚・認識全般に及んでいる。おいしい食事・まずい食事、美しい異性・醜い異性、良い家や車・悪い家や車など、すべての善し悪しの判断は、人それぞれの比較によって生じる。しかも、その人の時々の比較によって生じるから、一時的なものでもある。

最初は、非常に善いと感じるものでも、慣れれば善いとは感じなくなり、それ以上に善いものを求め、それを得て慣れると、以前のものは、悪いものにさえ感じてくる。逆に、以前は善いとは感じなかったものが、善いものに感じるようにもなる。

こうして、善や悪とされるものに、固定した実体はない。その比較の対象が変われば、善し悪しの判断が変わってしまう。人によって、時によって、判断が変わる。

さらに、善と悪はつねにセットで存在している。縁起の法の表現を借りれば、善と悪は相互に依存し合って存在している。善があるのは、悪とされるものがあるからで、逆に、悪があるのは、善とされるものがあるからである。

そして、これらの法則に気づいていないために、私たちの心には、大きな問題が生じる。すなわち、時々の比較で善と認識したにすぎないものについて、そうとは気づかず、絶対的な善であるかのように錯覚し、過剰に執着する。

逆に、比較によって悪と認識したものについて、そうとは気づかず、絶対的な悪であるかのように、過剰に嫌悪することである。さらに言えば、執着の対象でも、嫌悪の対象でもない大半のものに対しては、無関心・冷淡になる。

そして、この執着と嫌悪の結果として、私たちは、気づかないうちに、この世界を善いものと悪いものとに二分化してしまう(ないし、善いものと悪いものと無関心の対象とに三分化する)。この結果、真の幸福の道である、すべての存在を平等に愛する心、仏の大慈悲を持つことはできなくなるのである。


2.善と悪の区別(二分化)を超える教えと仏教

仏教は、すべての衆生(生き物)を平等に愛する大慈悲・四無量心を説く。これは、世の中を善と悪に二分化する心の働きがあると、到達し得ない境地である。

さらに、大乗仏教では、「凡夫(ぼんぷ)即仏(そくほとけ)」、「輪廻(りんね)即(そく)涅槃(ねはん)」と説き、仏教の崇拝対象である仏陀と、普通の人である凡夫が、そして、仏教が苦しみの世界とする輪廻の世界と、解脱した者が体験する絶対世界である涅槃が、本質的に同一のものであると説く。

そして、仏陀の悟りの境地から見れば、すべての生き物が仏陀と見え、この世界は、仏の浄土と見えると説く。また、世界のすべては、仏の平等な顕現(現われ)であり、不必要なものは一切ないと説く。

こういった、すべてを神聖なものと見る大乗仏教の世界観は、常人の日常の感覚では、とうてい理解しがたいものであろう。世の中には、仏陀とか、仏陀の現われとはとうてい思えないような、さまざまな悪が存在するように見える。

そして、この境地を体得することは、仏陀の智慧、すなわち仏陀の境地を体得することであり、そのためには、単に教学・瞑想をするだけでなくて、膨大な功徳と修行を積み上げる必要があるとされている。

しかし、すぐに膨大な功徳を積むことはできないから、ここでは、この境地の実感は得られなくても、少なくとも理論的に、ある程度この思想が納得できるように、以下に説明を試みたい。

第一に、自分の日常の感覚を絶対視せずに、疑うところから始めるべきである。日常の私たちは、あらゆる事物について、比較によって善と悪に二分化する癖がついてしまっている。しかし、この比較による善と悪の二分化には、固定した実体がなく、人によって、時によって、比較条件が変わると、容易に変わる。これは、世界をありのままに見ておらず、あたかも色メガネ(例えば白黒メガネ)を通して見ているようなものであり、このメガネを外すことが、一元の法則、仏陀の教えである。

第二に、善い悪いとされるものはすべて、他との比較による相対的なものであるから、絶対の悪(や絶対の善)は存在しないと理解する必要がある。絶対の悪とは、他と比較することなく、そのものだけで悪であり、いつどこで誰から見ても、悪となるものである。しかし、たとえ仏陀であっても、仏陀だけの世界に行けば、善い人ではなく、全く普通の人になる。逆に、どんなに悪いと感じる存在があっても、それ以上に悪い存在と比較されれば、それが善い存在と認識されるものなのである。

第三に、仏教を含めて多くの宗教が、この世界の万物は、神仏が創造したもの、ないしは神仏の現われ、神仏の一部、神仏の子、神仏の分身であると説いていることをよく考える。実際に、科学者の中にも、生命の誕生は、単なる物理的な現象と考えると、あまりに奇跡的であり、それが偶然に生じる数学的な確率があまりにも小さいために、神の存在を前提にする方が合理的であるとする人がいる。

第四に、縁起の法が説くように、この地球・宇宙の中で、私たちは、相互に依存し合って存在しており、自分は万物に支えられていることを考える。いかなる人も、自分一人だけでは生きることは決してできないし、自分が善いと認識する存在のみに支えられているわけでもない。

この一体である地球の生命圏の中では、自分が、「悪い」と認識している存在にも、客観的にはどこかで支えられている面がある。しかし、自分の主観・感情の中では、「害ばかりを被っている」と判断してしまっている場合が少なくない。

これを避けるためには、常日ごろからの万物への感謝の実践が有効である。まず、今自分に与えられている幸福の大きさを考えて感謝するように努め、そして、それを支えているのは、宇宙の万物(とそれを現した神仏)であることを考えて、万物に感謝するのである。

第五に、自分が「悪い」と認識する存在も、同じ地球・社会にいる以上、自分と全く無関係ではなく、自分とつながった存在であることを考えるべきである。よく考えれば、悪とされるいかなる存在も、そのものだけで生まれてきて、そのものだけが原因となって、悪をなすことはないことはわかるだろう。この世が、本質的には一体である以上、社会や宇宙といった全体が、それを生み出し育む中で、悪をなすに至っているのである。

この事実から、自分が悪と認識しているものが、自分や社会全体の問題を投影している反面教師、ないしは自分の鏡であることに気づくことができる。そして、自分を含めた全体の努力がなく、単純にある特定の存在を悪として批判・排除しても、同じ類の悪が生まれ続けるという問題があることにも気づくことができる。

なお、誤解がないように述べておくが、悪とされるものを反面教師と見るということは、当然のことながら、悪行を肯定しているのではなく、まったくその逆である。当然のこととして、悪行を戒め、善行は推奨すべきである。

しかし、悪を減らしていくためにも、すでに他がなしてしまった悪行は、それが全体との関係で生じたことをふまえ、反面教師として自分と全体の向上のために活かすことが、同じ類の悪行を減らしていくために重要である。そして、この考えによって、善い人は見本として、悪い人は反面教師として、すべてを憎しみなく受け止めて、すべてを愛する土台ができる。

第六に、仏陀の教えとして貴重なものとして、悪が善につながるという教えがある。人は、悪人だから悪をなすのではなく、幸福になりたいのに、幸福を得る真の道(=利他)がわからないがゆえに悪をなすのである。しかし、悪を積み続けているうちに、必ず苦しみが増大して、行き詰まり、ある時点で、過ちに気づいて、真の幸福の道に入っていくというものである。

すなわち、悪は、善に至るための一時的な試行錯誤、失敗から成功を得るプロセスである。その意味では、悪と善はつながっており、現在の悪は、未来の善のための準備過程とも解釈できる。そして、この意味において、今悪をなしている衆生も、すべては未来の仏陀であって、仏陀の胎児とされる。

こうした法則を修習することで、比較のフィルターによってこの世を善と悪に二分化する習慣を和らげて、仏陀の智慧で見たならば、万物が仏の現われであると悟るという境地があることが理解できるだろう。


3.善悪の区別を超える法則で、卑屈・妬み・慢心を超える

さて、これまでは、主に、他の悪に対する過剰な嫌悪を超えるという視点から法則を説いてきた。ここでは、自分自身を悪と見る考え、すなわち、卑屈・自己嫌悪に対しては、どう考えたらよいのかについて述べる。
卑屈・自己嫌悪に陥っている人は多い。世論調査の結果から、日本人は諸外国と比較しても、自分はだめな人間であると考える人が多いといわれる。そして、この自己嫌悪・卑屈も、自分と他人の比較によって生じている。

ただし、これがつねに悪いとは限らない。自分や他人をより向上させるための手段として、理想とする状態と比較して、今の自分や他人を「悪い」「だめだ」と否定して、叱咤することは、それが必要な場合や、望ましい場合もある。

しかし、これが、向上のための叱咤・手段ではなくて、一人歩きして絶対化してしまうと、場合によっては、自分を単に否定するばかりとなり、自分に絶望し、努力をやめて、身動きできなくなってしまう場合がある。これでは全く逆効果である。さらに、自分も他人も、本質的にはすべては仏の現われという仏陀の智慧に矛盾する固定観念となってしまう。

自分や他人が向上する上では、「悪い」という否定・批判が有効な場合や、「善い」という肯定・称賛が必要な場合があり、それはケースバイケースであろう。そして、この否定・批判も、肯定・称賛も、向上のための手段であって、本質的な見解ではない。本質的な見解は、すべては仏の現われという仏陀の智慧が説くところである。

さらに最近は、自己否定・卑屈を一因とするうつ病が、社会に相当に広がっている。こうした人の場合は、自己否定が強く、絶望感まである場合もあって、それを批判しても、ますます落ち込むだけの場合がある。よって、次に、こうした人の場合は、どうしたらよいかについて、述べたいと思う。

第一に、卑屈の原因は、より優れた他者との比較や、自分のこうあるべきだと思っている状態との比較である。よって、自分が得ることができないものばかりを見るのではなく、「自分がすでに得ているもの、与えられているものが、いかに大きいか」を考えるとよいと思う。

「もっともっと」という貪りが強いと、得ていないこと、できていないことばかりを考え、得ていること、与えられていることの大きさを考えなくなる。貪りは際限がなく、どこかで意思して、足るを知る実践をしなければ、不満・卑屈ばかりが強くなる。

ただし、ここでのポイントは、与えられているものを考えて感謝するということである。自分が得たものと考えると、卑屈から一転して慢心に陥る可能性もある。しかし、与えられているものと考えて、感謝をすれば、それを防ぐことができるからである。

具体的には、自分が与えられているもの・幸福の大きさをよく考えて、それを支えてくれている人たち、究極的には万物に対して、広く深く感謝をする。すると、自己を否定する感情が薄らいでくる。客観的に見て、自分がいかに幸福であり、他が自分をいかに支えてくれているかが理解できるからである。

これとは逆に、足るを知る考えが乏しく、完璧主義的な傾向が強い場合は、自己否定が強くなる。そして、その自己への不満を背景として、他に対する感謝も乏しくなる傾向がある。

第二に、多くの人が卑屈に至る場合、その善悪・優劣の比較の基準が、非常に一面的であることに気づく必要がある。学校や社会で善とされるのは、人の能力の一面にすぎない。それは、この競争社会・産業社会で評価されるための一面的な基準である。

しかし、仏陀によれば、人が本当に幸福になるために必要なものは「慈悲」である。それは、他の幸福を喜び、苦しみを悲しみ、その幸福を増大させ、苦しみを和らげることである。「優しさ」とも表現できるだろう。

この視点からいえば、劣っているとされる人は、優れているとされる人と違って、同じく劣っている人の気持ちを自分の体験から理解できる能力がある。それは、まずは、その苦しみをわかち合う能力となり、次に、その苦しみを乗り越えたならば、同じ苦しみを持つ他を救う能力にもつながる。これは、優れているとされる人には、体験がないがゆえに、難しいことである。

一方、なまじ優れていて、他との競争に打ち勝つことができる人は、その裏側で、自分が打ち負かして苦しむ人には、冷たい性格を形成してしまう恐れがある。そして、最も大切な慈悲の心を失う恐れがある。場合によっては、打ち負かした人の恨みを買う場合もある。

そして、慈悲という最も大切なものを失った人が、本当に優れた人、真の勝利者なのか。それは、本当は、欲望をコントロールすることができなかった劣った人、敗北者の一面があるのではないかという点についても考えてみると、世界が違って見えてくるだろう。

第三に、学校や世間一般が評価する能力は、競争の中で、自分が他に打ち勝つ能力であって、他を活かす能力ではないことに気づく必要がある。実際の世の中では、一人でなし得ることは少なく、いかに他を活かせるかが、非常に重要である。

ところが、自分が優れている場合は、それがゆえに、逆に他を活かせない場合も多いのである。これとは逆に、例えば、昭和最大の実業家である松下幸之助は、自分の能力の不足を、他を活かす力に変えた人である。彼は、身体が弱かったので、他の人に頼むことを覚え、学がなかったので、他人から謙虚に学ぶことができ、家が貧乏だったので、丁稚(でっち)奉公(ぼうこう)に行き、商人のあり方を学ぶことができたと語っている。

こうして、悪の裏に善、欠点の裏に長所がある。だとすれば、自分が悩んでいるのは、自分の欠点ではなくて、神仏が与えた一つの個性であり、逆転の発想で、それを活かすという道が出てくる

そして、こう考えると、この世のすべては仏の現われという教えも理解しやすくなる。すべての人に優劣があるのではなく、神仏の与えた個性があるという考えになるからである。そして、これは、苦の裏に楽があるとした、前項の楽と苦の区別を超える教えにも、つながってくる。

第四に、優れているとされる人が、つねにそうであるとは限らないことも考えるとよいだろう。優れていると評価されると、人は慢心を抱きがちであり、それが、のちに落とし穴にはまる原因となる。例えば、先ほどの松下幸之助の例とは逆に、なまじ自分に能力があって、一時的に成功してしまうと、これまでの成功が、すべて自分の力だと錯覚してしまうことがある。これは、継続的な成功の土台である他の協力を減じる結果となる。

こうして、先ほどとは逆に、善の裏に悪、長所の裏に欠点がある。よって、優れているとされていても、それを単純に善だとか長所だとか思うのではなく、それも、神仏の与えた個性であり、慢心に至れば、その裏には、神仏が用意する試練があると考えることが、真の智慧・賢さであろう。

そして、これまでの法則をまとめると、善・優とされていた者が、慢心と怠惰によって落下し、のちに悪・劣となったり、逆に、悪・劣とされていたものが、反省や努力によって、善・優となったりする仕組みがあることがわかる。すなわち、善が悪に、悪が善になり、善と悪が循環する一面があるのである。

これは、まさに仏教が説く六道輪廻の世界観である。慢心に陥った天界の住人が、低い世界に落ち、低い世界で苦しんでいた者が、その悪業が清算されると、高い世界に生まれ変わると説く。善と悪が循環するという、循環の思想である。

次に、妬みについて言及しておこう。妬みも、自分と他人の比較の結果だが、それに加え、他人が自分の幸福を阻んでいる、という錯覚がある。よって、① 真の幸福は慈悲を培うことで得られるものであって、それは万人に開かれた道であり、妬む必要はないこと、② 欠点の裏には長所があり、自と他の違いは優劣ではなく個性であって、人それぞれが、神仏に与えられた幸福への道が与えられているのだから、他を妬み邪魔をすれば、自分の道を見失い、逆に不幸になるなどと考えるべきである。

次に、卑屈とは逆の慢心について、先にもある程度述べたが、まとめておこう。これは、卑屈とは逆に、「自分が他より優れている」と思う心の働きである。

これについては、① 真の幸福である慈悲を培う視点からは、慢心は、他に対する慈悲・優しさがなく、冷淡になる問題があること、② 「長所の裏に短所あり」で、他より優れていると思う自分の部分の裏側に欠点があることを認識し、自分と他との違いは優劣ではなく個性の違いにすぎないと自覚すること、③ 特に、慢心は、油断・堕落・努力不足を呼んで落下する原因になること、例えば、自分の成功が他に支えられていることを忘れて、感謝が乏しくなったり、他人に見る欠点が自分の潜在的な欠点であるにもかかわらず、それを自覚できなくなったりすることなどを考えるべきである。


4.怠惰・依存・甘えが問題である場合

最後に、怠惰・依存・甘えの問題について言及する。なぜなら、表面的には卑屈・妬みの問題であるようで、実際には怠惰などが根本にある場合が少なくないからである。

まず、努力を尽くしている人は、気持ちが肯定的になりやすいが、目先の楽・怠惰を貪って、できる努力を怠っていると、その後ろめたさから、当然自分に自信が持てず、結果として「自分はできない」という不安や卑屈が増大してくる。

さらに、「自分はだめだ、自分はできない」と考えて、努力しないことを正当化する場合がある。「できない」と考え、主張することで、「努力していない」という批判を免れようとする場合もある。

妬みに関連しても同様であり、自分がなすべき努力をしている人は、他とは違った、自分なりの幸福の道を理解しやすい。それに対して、自分がなすべき努力をしていないと、それができないために、他の畑ばかりを見て、他の幸福を妬む傾向が増大する。

そして、「他が不当に自分の幸福を奪っている」と批判することもあるが、その背景には、自分でも気づかないうちに、「自分が努力していないことを正当化したい」という意識がある場合がある。

いずれの場合も、自分の幸福は、自分の積み上げる善行があってこそ、得ることができるという、カルマの法則の理解が不足している。しかし、怠らずに善行を積み上げること、努力すること以外に、真に幸福になる道はない。もちろん無理したり、焦りすぎたりしてはいけないが、無理せず怠らず、焦らずたゆまず、努力し続ける必要がある。

仮に、目先の楽を貪って、努力を嫌い、怠惰にふけって、他に依存ばかりすれば、心身が堕落し、忍耐力は衰え、少しのことが苦しく感じられて、いっそう努力できなくなる。そして、知的・精神的・肉体的な能力の衰えが進み、無智が増大し、感情は制御しにくくなり、心身の病が増大する。

よって、仏陀が臨終・入滅の際にも説いたように、怠惰を超えて、努力することは重要である。大乗仏教が説くように、布施・持戒・忍辱・精進といった功徳は重要である。精進を含めた功徳の土台があってこそ、その上に智慧と慈悲の悟りの花が咲くことになる。

こうして、卑屈・妬みの問題を分析すると、単純に自と他の比較が原因の場合と、その裏に怠惰がある場合があるが、卑屈から来るうつ病も、それに合わせて、旧型・従来型のうつと、新型のうつがあると言われている。

仕事などでがんばりすぎてしまう人に多いのが旧型のうつであるが、新型のうつは、リラックスうつともいわれ、日ごろから怠惰がすぎて、少しのことが強いストレスになるものである。

これも、仏陀が説いた中道の教えとシンクロする。いたずらに心身を痛める苦行の右道でもなく、快楽・煩悩にふける左道でもなく、不苦不楽の中道というバランスのとれた精進の道である。


5.善悪を超えた智慧と、善悪を手段(方便)として使うこと

先ほど、すべてが仏の現われであり、善悪というのは比較の作る錯覚である、というのが仏陀の智慧であると述べた。その一方で、自分や他人をより向上させるための手段としては、今後目指すべき状態や、見本とすべき他人と比較して、「あなたはだめだ、あなたは悪い」といった叱咤をしたり、逆に、「あなたは善い、あなたは偉い」といった称賛をしたりすることが望ましい場合があるだろうと述べた。

この二つは矛盾しているかというと、そうではない。「本質的には、すべては仏の現われである」というのが智慧である。その一方で、その智慧を保ちながら、人を向上させるための手段=方便として、善と悪の区別を用いるのである。

これとシンクロして、大乗仏教では、「智慧と方便」という教えがある。ここでの方便とは、智慧に至るために必要な功徳を積む手段のことである。六波羅蜜・六つの完成の修行では、布施・持戒・忍辱・精進・禅定が功徳を積む手段=方便である(智慧と方便の智慧は、六波羅蜜の最後の智慧と同じ)。

そして、仏陀の境地とは、この智慧と方便が同時に一体として体得されている境地である。よって、意識においては、「すべては仏の現われである」とか、「一切は固定した実体はない(空である)」といった智慧の超越的な境地を保持しつつ、現実においては、すべての衆生を救済する手段=方便を実践し、大いなる功徳を積んでいる状態である。

この智慧と方便は、言い換えると、智慧と慈悲、空と四無量心などといわれる。この点については、後でもう少し詳しく述べることにする。

この教えを見習って、私たちが、他を叱咤・称賛する際も、それは他を向上させるための手段=方便であって、本質的には、「すべての人々が仏の現われ、未来の仏陀である」という万物への尊重と愛を保つように努めるべきであろう。


5 弥勒菩薩の法則--自と他の区別を超える教え

1.自と他の区別を超える基本的な法則

私たちの日常の思考においては、自と他、自己と他者についても、別々の存在であるかのように錯覚しているが、実際には、両者は、相互に密接不可分に依存し合って存在しており、また、双方とも固定した実体はない。

第一に、物理的な側面を見れば、自分が生きるために、他の生き物からできた食べ物を取り、自分が死ねば、その身体の有機物は、他の生き物のものになる。自分の生のために、他の生き物が死に、自分の死によって、他の生き物が生きる。自と他の間で身体のやりとりをしているのである。いかなる生き物も他から独立して生きていることはなく、この地球の生命圏の生態系の中の一部として、相互に依存し合って存在している。

さらに、分子生物学者によれば、自分の身体を構成する分子は、数年後は、すべて他のものと入れ替わってしまう。そのため、「自分」とは、実際には、多数の分子の吹きだまりのようなものであり、絶えず入れ替えが起きており、その大きさも絶えず変化している。よって、自分も他人も、固定した実体を持った存在ではないのである。

第二に、精神的な側面でも、人と人とは、密接不可分につながっており、自分だけで作った自分の考え方などは、何一つも存在しない。実際に、思考の土台となる言語からして、他人から習ったものであり、その後も大量の情報が他から与えられ、今の自分の考え方が形成されている。この意味で、自分の考えなるものは、人類社会の壮大な精神的なネットワークの一部分であるとも見なすことができる。

そして、さまざまな情報が、自分から他人へ入り、他人から自分へ入り、自分の言動が他人に影響を与え、他人の言動が自分に影響を与え、お互いに影響を与え合い続けており、それが循環している。その中で、自分も他人も、その考えは絶えず変化しており、それに固定した実体などは全くない。


2.自と他の循環と生と死の循環、食物連鎖と輪廻転生

上記の点については、特別教本『循環の法則と密教加行』において、循環の法則として
詳しく述べた。それは、自と他の間の循環、言い換えるならば、生と死の循環である。

先ほど述べたように、自分の身体が他人の身体に、他人の身体が自分の身体になり、自分の考えが他人の考えの中に入り、他人の考えが自分の考えの中に入る。この意味で、自分と他人の間に、物理的にも精神的にも循環があるのである。

また、これを、表現を変えると「生と死の循環」とも表現できる。自分の死が他の生につながり、他の死が自分の生につながる。さらに言い換えると、自分の生は他の死に支えられ、他の生は自分の死に支えられる。自分と他人の間で、生と死の循環が起こっている。

この循環は、生態系の中の食物連鎖の輪を示しているが、これは、仏教における輪廻転生の思想とシンクロしている。輪廻転生の思想は、生き物は、身体が死んでも、心は滅びずに、他の身体を得て生まれ変わるとする。

逆に、生まれたら、ずっと生きていることはできず、必ず死ぬ。仏陀となった釈迦牟尼でさえも死を避けることはできなかった。生は必ず死に至り、死は生につながっていき、こうして、生と死が循環している。この輪廻転生を、食物連鎖の輪と同じように「輪廻の鎖の輪」と表現する。

3.自我執着を超えて、宇宙意識に至る

人は、自分と他人を区別して、他人よりも自分に執着するという自我執着がある。そして、この自我執着こそがさまざまな煩悩の根本であり、さまざまな苦しみの原因である。根本的な煩悩は、貪り・怒り・無智とされるが、貪りも怒りも、明らかに自分に執着するから生じる。無智は、まさに自と他を区別することを含めた、間違ったものの見方のことである。

そして、先ほど述べた四苦八苦という人間のさまざまな苦しみも、自我執着による。例えば、自分に執着すればするほど、自分を失っていく老い病み死ぬプロセスの苦しみは大きくなるし、自分が得たいものを得られないとき、自分が執着したものを失うとき、自分が傷つけられたときの苦しみも大きくなる。すべての苦しみのもとに自我執着がある。

さらに、自我執着があるために、真の幸福の道である、すべての存在を平等に愛すること=大慈悲・四無量心ができなくなる。こうして、自我執着こそがすべての苦しみの原因である。

よって、仏教は、上記の法則などに基づいて、自我執着を弱め、すべての衆生・万物を愛することを説く。自我執着を弱めるためには、まず、自分と他人は密接不可分であるから、自分と他人を区別し、自分だけを愛するのは不合理であることを考える。実際に、今「私」と呼んでいるものは、他とは別の存在の名称ではなく、大宇宙のある一つの部分の一時的な名称にすぎない。

次に、今の「自分」という存在は、たとえそれに執着しても、短い間に必ず死に至るものだから、執着しすぎれば、さまざまな苦しみとなることを考える。生と死が循環する以上は、「自分」と呼んでいる生に過剰に執着し、「自分」の死に過剰に恐怖を抱くべきではない。

こうして自我執着を弱めると同時に、すべてを愛する心を培っていく。そのためには、例えば、自分が実際には、心も身体も他の万物と密接不可分につながっている存在であることを考える。また、死んだならば、心は別の身体に転生していくことも考える。そして、真の自己とは、無限の大宇宙に全体に遍満する存在であると理解するように努める。こうすると、宇宙的な意識(宇宙意識)が生じ、万物への愛が深まっていく。この宇宙意識の悟りも、修行の大きな目標である。


4.弥勒菩薩の唯識思想--他人は自分の心の中の存在である

次に、弥勒菩薩が説いたとされる唯識思想における、自と他の区別を超える教えについて、その概略を述べたい。なお、詳しくは、特別教本『内観・唯識・縁起のエッセンス』特別教本『大乗仏教・六仏の教え』などに詳しく述べたので、それを参照していただきたい。

第一に、唯識には「一人一宇宙」という考え方がある。それは、私たちが体験している他人とか外界といったものは、あくまでも自分の業によって、自分の心の中に形成された他人・外界であって、自分とは別の存在ではないという教えである。

これは、私たちの日常の感覚とは全く異なっているが、よく考えてみれば、全く科学的・合理的な見解にほかならない。なぜなら、私たちが認識している世界は、実際は、外界そのものではなく、自分の脳内の映像などの情報であり、それは、目の前にあるように見えるが、実際は、眼より手前の脳で展開されているものだからだ。目の前に広がる外界の体験とは、実際には、自分の心の中に映し出された外界の映像にすぎない。生き物が、自分の外の世界を直接体験することは、実際には不可能なのである。

そして、さらに重要なことは、同じ外界を見ても、人によって、生き物によって、感じ方は大きく違う。これは、それぞれの生き物が体験する世界のありようは、それぞれの異なる意識や五感が決定しているからである。

その意味で、外界は、私たちの体験の対象ではなく、私たちの脳内の体験を作る単なるきっかけにすぎないのである。外界からの刺激があったときに、それをきっかけに、生き物によってさまざまに異なる五感や意識が、それぞれに作り出す脳内の映像・音・印象などが、私たちの体験である。

して、生き物によって五感や意識がさまざまに異なるのは、それぞれの業が違うからであるから、唯識思想では、その生き物の体験は、その生き物の業が引き出されて形成されると表現している。こうして、外界の体験と呼ばれているものは、その生き物の業に基づき、その五感や意識が脳内に作り出すものであって、外界に実在しているものではないのである。

よって、唯識思想は、同じ場所にいても、善業が多い人・生き物は、幸福の多い世界を経験し、悪業が多い人・生き物は、不幸の多い世界を経験すると説く。同じ場所にいても、違った生き物は、違った世界、例えば、地獄や人間界や天界を経験する。これが、唯識思想の中核である。

すなわち、外界自体は、善い世界でも、悪い世界でもないのである。仏教的に表現すると、外界には、固定した実体はない(空)なのである。「外界」と呼ばれている体験は、外界だけでは形成されず、外界とそれを知覚する生き物との相互作用によって、初めて形成される。

これは、明らかに自と他の区別を超える教えである。なぜならば、私たちが体験するいかなる他人も、あくまで自分の業が作った、「自分の心の中に形成した他人という体験」にほかならないからである。


5.唯識思想の阿頼耶識--万物は同根で、阿頼耶識が変化したもの

第二に、唯識には、万物は「阿頼耶(あらや)識(しき)」が変化したものであり、同根であるという思想がある。具体的には、自分も他人も、それを包む環境も、根源的な意識である「阿頼耶識」が変化(へんげ)して現われていると説かれる。これも自と他の区別を超えた思想である。

私たちの通常の意識は、この阿頼耶識を自覚できない。通常の意識は、いわゆる表層意識であり、それよりずっと深い部分に阿頼耶識があり、深いヨーガの瞑想によって、それは体験される。よって、唯識派は、唯識瑜伽(ゆが)行派といわれる(瑜伽とはヨーガのこと)。また、この阿頼耶識は、すべての衆生が共有している根源的な意識、根本心であり、万物の根源である。よって、阿頼耶識の思想は、自と他の区別を否定している。自と他を含めた万物は同根だからである。

万物が同根とする点で、唯識は、華厳経などが説く「すべては大日如来(毘慮(びる)遮那仏(しゃなぶつ))の現われ」とする思想や、「万物を生む陰と陽は同根(=太極)である」と説く道教の思想と共通点がある。唯識派は、一般には、阿頼耶識の中に仏性があるとするが、一部の宗派では、阿頼耶識のさらに奥に「阿摩(あま)羅(ら)識(しき)」というものを設定し、それが仏性であると説くので、この場合には、華厳経などの思想と非常によく一致する。

そして、唯識は、万物が根源的な意識によって作られているとする根拠の一つとして、夢の中での体験を例示する。夢の中で、私たちは、日常生活と同じように、自分と他人を経験する。そして、他人を見ている自分の意識がある。しかし、その夢の中の自分と他人は、双方とも、自分のより深い意識が生み出したものにほかならない。これと同じように、現実世界で体験している自分と他人も、自と他が共有する根源的な意識である阿頼耶識が生み出しているというのである。

なお、前項で、自と他の区別を超える基本的な教えとして、自と他が肉体的・精神的に密接不可分につながっていると説いた。これと同じ内容の教えが、唯識の教義にもある。それは「依他起(えたき)性(しょう)」といい、万物が、他に依存して生起していると説く教えである。


6.自と他の区別を超える仏教の教えと修行法

前項で唯識思想について述べたが、唯識思想に限らず、仏教の教えは、自と他の区別を超えることを強調する教え・修行法が多い。

まず、仏陀が説いた縁起の法は、まさに自と他の区別を超える教えである。「彼があるから此があり、此があるから彼がある」というのが、仏陀の言葉であった。

そして、大乗仏教では、この縁起の法をあらゆる物事に当てはめて、万物が相互に依存し合って存在していると説いた。特に華厳経などに基づいて説かれる重々(じゅうじゅう)無尽(むじん)縁起(えんぎ)の法では、宇宙のいかなる微少な存在も、宇宙のすべての存在と密接不可分に関連・交流しているとしている。これは、究極的な相互依存・相互関連の法則である。

また、仏陀が説いた「四念処」や五蘊に関する教えは、自と他の区別を根本として生じる、自我執着を弱める教えである。すなわち、自分の肉体や精神的な要素が、無常であり、苦であり、空であり(固定した実体がない)、非我である(永久不変の本質ではない)などと考えて、それに執着することを否定するものである。これらの自我の要素は、自と他を区別して認識する原因でもある。

また、大乗仏教が説く、「大慈悲・四無量心」の教えは、すべての衆生を平等に愛する教えであるが、その土台には、自と他を区別し、自分を偏愛すること(=自我執着)が、人の苦しみの根本的な原因であるという思想がある。よって、大慈悲・四無量心の実践で、自我への執着を和らげるのである。

そして、大乗仏教が説く「菩薩道」は、すべての衆生の幸福・救済を求めて、仏陀の境地に至ろうというものである。これは、自分と他の衆生が、密接不可分であるならば、すべての衆生の幸福は、自分の幸福と一体であって、いかなる衆生の不幸も、自分の不幸と一体であり、すべての衆生の救済は、自己にとっても、最高の救済という意味がある。

よって、大乗仏教には、さまざまな自と他の区別を超える修行実践がある。すべての衆生の救済のために仏陀の境地に至ることを決意し祈願する「発菩提心」、すべての他の苦しみを自己が吸収し、すべての自己の幸福を他に与えることを瞑想する「自他平等利他行」、他の功徳・幸福を喜ぶ「随喜(ずいき)」、自分の積んだ功徳をすべての衆生とわかち合う「回向」などである。

なお、仏に対して、さまざまなものを供養する瞑想修行があるが、この場合も、仏を通して、さまざまな供物をすべての衆生とわかち合うという意味もあり、その意味で、これも自他の区別を超える修行である。


7.自と他の区別を超えて煩悩を止滅する

自と他の区別は、あらゆる煩悩の根源である。よって、自他の区別を和らげることによって、さまざまな煩悩を和らげることができる。

第一に、怒りについて述べよう。悪行をなす他人を見ると、怒りが生じることがよくある。そして、それは、「その他人の悪行が、もっぱらその他人にのみ原因がある」という錯覚に基づいている場合が多い。

しかし、いかなる他も、社会全体と密接不可分な存在として育まれており、自分もその社会の一部である。よって、その言動の原因は、その人だけにあるわけではなく、自分を含めた社会全体に広がっている。「罪を憎んで人を憎まず」の精神である。

さらに、自分が傷つけられたときの苦しみと怒りも、自と他を区別して、自分を偏愛する傾向が強ければ強いほど、大きくなる。よって、「傷つけられた苦しみは、自分の自我執着の問題に気づかせ、それを戒めんとする、神仏が与えた愛の鞭だ」と考え、感謝することが一つの方法である。

また、真に法則を理解しておれば、他の悪行を見て、他への慈悲は生じても、怒りは生じにくい。というのは、怒りは、「悪行をなした者が、他人を苦しめつつ、自分だけが幸福になろうとしている」と錯覚することから生じる面があるからである。

しかし、真に幸福になる道は、慈悲の道であり、身勝手な者は、結局は不幸になる(一方、傷つけられた側が慈悲の道を阻まれることはない)。よって、怒りが生じたならば、自分もこの法則が理解できておらず、条件によっては、身勝手なことをする可能性がある点に注意することが賢明である。

第二に、妬みについては、真の幸福は、自と他を区別せずに、他の功徳や幸福を喜ぶ心(慈悲)によって生じる。つねに他に打ち勝って幸福になることは、どんな人間にも不可能である。一方、すべての人々の幸福を自分の幸福として喜び、共有することは、心の訓練によって可能であり、その場合、膨大な喜び(四無量心の喜)が得られる。

そして、自他の区別を超えた視点からは、通常妬みの対象にする他の功徳は、自分がつながっている他の功徳であり、それは自分の功徳でもある。優れた他人の存在は、さまざまな意味で自分たちの手助けになるし、多くの場合、見習うべき見本ともなる。ただし、努力を嫌がる人には、見本とは思えないので、注意しなければならない。

第三に、卑屈については、自と他の区別をしなければ、「自分の欠点は、自分だけのものではなく、多くの人が共有しているものだ」と理解できる。

そして、自分が、その苦しみを共有しているがゆえに、よく他の気持ちを理解することができるし、さらには、自分が乗り越えることで、他の手助けもできると考えるとよいだろう。これは、幸福になるために、最も重要な慈悲につながる。

さらに、自と他を区別しなければ、「自分が他よりも優れた存在になって、幸福になろう」というのではなく、他を活かして、幸福になる道があることに気づく。これも、慈悲につながる道である。

第四に、慢心については、「他の不幸が、自分の不幸とは別物である」という錯覚から来ている。実際には、他の不幸は、自分とつながっており、自分にとっての反面教師である。そして、その苦しみを取り除くことが、自分の潜在的な苦しみを取り除くことである。

また、慢心は、「自分の今の幸福が、実際には、多くの他者に支えられているのに、自分の力だけで得られている」と錯覚していることにも一因がある。自分の幸福が他に支えられている以上、その他を利する実践をすることが、自分の幸福を支えることになる。

第五に、貪りについても、貪りの根底には、自と他を区別し、「自分だけが幸福であればいい」という考えがある。なぜならば、あらゆる貪りは、他から奪って、他を苦しめる性質があるからである。お金にしても、異性にしても、食べ物にしても、名誉や地位・権力の貪りにしても、同様である。

よって、自と他の区別を超えた慈悲の心が、真の幸福の道であると気づくことで、慈悲と対極にある貪りも、自ずと静めやすくなるだろう。



6 三乗の一元法則

この「三乗の一元法則」は、前項で解説した釈迦・弥勒・観音の「三仏の一元法則」と本質的には同じ意味合いのものである。しかし、一元法則は、さまざまな切り口・表現で理解した方が理解が深まるので、解説することにしたい。

① 原始仏教の一元法則: 縁起の法--万物は相互に依存し合っている
② 大乗仏教の一元法則: 万仏の法--万物は仏の現われである
③ 密部仏教の一元法則: 循環の法--万物は循環している

これらの法則のエッセンスは、すでに三仏の一元法則の中で繰り返し引用されていることがわかるだろう。しかし、三仏の法則が、さまざまなものを区別する人の心の働きを乗り越える点に主眼をおいて表現されているのに対して、三乗の法則は、この世界の万物を貫く根本的な原理を示すことに、その主眼がある。


1.縁起の法

縁起の法は、前項でも解説したが、釈迦牟尼の直説の法であり、ゆえに原始仏教の経典にすでに説かれている。すでに述べたとおり、縁起とは、縁=条件によって生起する、という意味であり、AがあるからBがあり、BがあるからAがある、ということである。これを万物に当てはめた大乗仏教では、すべての事物は、他から独立しては存在しておらず、相互に依存し合って存在し、固定した実体がない(空である)と説くに至った。

前項では、楽と苦、善と悪、自と他が、相互に依存し合って存在し、固定した実体がないことを述べたが、より詳しい解説は、特別教本『内観、唯識、縁起のエッセンス』、『仏教講義・悟りの道程1 縁起の法』などに述べているので参照されたい。


2.万仏の法

「万仏の法」とは、ひかりの輪の独自の表現であって、大乗仏教における通常の表現は、「この世の万物はすべて、仏の現われである」というものである。より詳細に表現すると、「この世の森羅万象は、ことごとく仏の平等な顕現であり、不必要なものは一切ない」などと表現される。

よって、前項で述べた楽と苦、善と悪、自と他は、すべて神仏の現われということにある。楽と認識される現象だけでなく、苦の現象も、善と認識される存在だけでなく、悪と認識される存在も、神仏が現したこの世界の一部である、ということになる。自と他についてもいうまでもない。

仏教では、この思想は、大日如来(毘慮(びる)遮那仏(しゃなぶつ))を根源仏として主尊とする大乗経典である華厳経などで説かれている。華厳経では、世界の万物は大日如来(毘慮遮那仏)の現われであり、どんな微少な存在もそうであるとされる。その後も、中期の密教経典である、大日経や金剛(こんごう)頂(ちょう)経(きょう)でも説かれている。

また、大乗仏教に限らず、道教や、インド古代哲学のヴェーダーンタ、イスラム教、キリスト教、神道にも、「万物が神仏の現われである」ないしは「神仏が現したものである」という思想がある。これは、万物の根源が一つである(万物は同根である)という意味で、一元論的な世界観ということができる。

道教は、「太極が陰陽を含めた万物の根源である」とし、ヴェーダーンタ哲学は、「万物は宇宙の根本原理であるブラフマンが展開したものである」とし、イスラム教は、「万物はアラーである」とし、キリスト教も、「万物は神の創造物である」とし、神道では、天之(あめの)御中主(みなかぬし)神(のかみ)が万物の根源である。

なお、この一元論的な世界観についても、詳しくは、特別教本『現代人の一元の法則』で述べているので参照されたい。


3.循環の法

循環の法とは、この宇宙の根本原理が、周期的な運動・循環であると説く。これは、後期密教の中でも最後の密教経典とされるカーラチャクラタントラ(時輪タントラ)の根本思想である。カーラチャクラとは、時の輪という意味であり、これは周期的運動=循環を表す。よって、この世の万物が循環していることを指す。

この循環は、言い直せば、ひかりの輪の「輪」であり、この団体の中核思想の一つでもあるが、それは、私を初めとするひかりの輪の修行者のさまざまな宗教体験・聖地での体験などと結びついて培われてきた経緯がある。

なお、前項でも、楽と苦、善と悪、自と他が循環していることをある程度述べたが、より詳しくは、特別教本『循環の法則と密教加行』に述べているので、参照されたい。


4.仏教の三乗の法則と道教

三乗の一元法則を一つにまとめて表現するならば、「この世の万物は、神仏を根源として同根であり、相互に依存し合って存在し、互いに循環しており、一体である」と表現できる。これは、一元的な世界観について、相当に緻密に表現したものであるから、よく思索していただきたい。

そして、これは、道教の思想と非常によく似ている。道教は、この世界が、太極と呼ばれる根源から生じる陰と陽の二つの気によって生じたとしている。そして、陰と陽はともに、太極という根源から生じており(陰陽同根)、陰陽は互いが互いの根になっているとされ(陰陽(いんよう)互根(ごこん))、陰陽は、陰が陽に変わり、陽も陰に変わるという(陰陽転換・転化)。

すなわち、「陰陽同根」が万仏の法、「陰陽互根」が縁起の法、「陰陽転換(転化)」が循環の法とよく似ている。道教は、仏教も、その思想の中に含むとする考えもあるが、両者の世界観に共通性が見られ、それはともに一元論的な世界観である。

この道教の世界観については、特別教本『現代人の一元の法則』について、より詳しく述べているので参照されたい。



7 一元法則に基づく感謝と祈願の法

ここでは、一元法則に基づきながら、先の二つの法則よりも、日常生活において、より実践的な法則を紹介しよう。それは感謝の法則と祈願の法則である。


1.感謝の法則

この感謝の法則は、真の幸福=悟りに至るためや、現世の幸福・達成をするために、有効な法則である。具体的には、以下の三つの感謝の実践である。

① 知足の感謝: すでに与えられている幸福の大きさに気づき、それに感謝すること。
② 転換の感謝: 苦しみの裏側に喜びがあることに気づき、苦しみに感謝すること。
③ 万物の感謝: 自分を支えている万物に感謝し、万物の功徳・幸福を喜び願うこと。

この法則は、先ほど述べたように、二つの目的がある。一つは、真の幸福である悟りに至るためである。それは、欲望を乗り越え、他を愛することによる幸福である。もう一つは、現世の幸福・達成を得たい場合である。

まず、悟りのために、いかにこれらの感謝の法則が重要かを述べると、① 知足の感謝は、欲望の止滅に関係し、② 転換の感謝は、忍辱=悪業の清算に関係し、③ 万物の感謝は、他への怒りや妬みを超えて、慈悲の心を培うことに関係している。これらの要素は、すでに述べたとおり、真の幸福に至る重要な要素である。

次に、現実世界で幸福になりたい場合や、自分が何かの物事を達成したい場合に、この法則がどのように重要かを説明する。

まず、「知足の感謝」は、次の二つの意味合いがある。第一に、これは失敗・挫折に負けず、粘り強く努力し続けるために重要である。どんな人も、達成・成功を求める中では、失敗・停滞を経験するものであるが、そのときに、過剰な失望や自己嫌悪に陥らず、粘り強く努力し続けることが重要である。

そのためには、達成できなかったことばかりを考えるのではなく、達成できたことも考えて、自分にすでに与えられている幸福の大きさを考えて感謝をし、視野を広げて、精神のバランスを取り戻すことが有効である。それによって、努力し続けられるようにするのである。

第二の意味合いは、すでに与えられている幸福・達成を考えることをきっかけとして、その幸福・達成を支えている他者に感謝ができるようになることである。これは、後で述べる「万物の感謝」につながるものである。何ごとも一人の力ではなし得ず、他の支え・協力が必要であるから、他への感謝は、自分の成功・達成の土台であり、より大きな達成の準備になる。

そして、これは、失敗・挫折のときに限らず、成功しているときにも重要である。慢心を慎み、謙虚さを保つことで、成功が崩れて落下していくことを防ぐことができるからである。

次に、「転換の感謝」であるが、これは、苦しみの裏側にある喜びを見いだして、それに感謝することである。具体的には、目指す達成を阻むような困難・危機、不利な条件、失敗・挫折を経験した際に、それを逆に活かして、達成を目指すことである。

というのは、困難や不利な条件は、発想を転換し、視点を変えると、達成のために、逆に有利な条件であることがある。「人間万事塞翁が馬」とか、「ピンチの裏にチャンスあり」といった言葉がある通りである。また、失敗・挫折も、失敗を反省して改善すれば、逆に成功の始まりとなる場合がある。「失敗は成功の元」という通りである。

これらの現象は、仏教的にいえば、一種の悪業(カルマ)の清算である。困難・失敗の苦しみは、それに耐えて努力し続ける限りは、悪業を清算し、功徳と智慧を増大させる。これは、前に述べた「楽と苦の区別を超える法則」に則しており、苦しみの経験の裏側に、喜びが生じる例である。

よって、苦しいときにも、自分を向上させるための神仏の愛の鞭であると信じて感謝をなし、具体的に、どのように改善・努力をすればよいか考えるとよいだろう。

最後に、「万物の感謝」であるが、万物が自分の幸福を支えていることに感謝し、その万物の功徳・幸福を喜び願うというものである。

この実践の一つ目の意味合いは、「知足の感謝」のところでも先行して触れたが、慢心を慎み、謙虚さを保つことで、自分の成功・達成の土台を固めることである。先ほども述べたように、自分の達成は、自分一人の力では得られない。慢心に陥ると、それを忘れ、自分の成功の土台である他の支え・協力を失いがちである。

また、二つ目の意味合いは、他の幸福を喜ぶことで、自と他の幸福を区別せずに、他の幸福を妬まないようにすることである。妬みの感情の背景には、先ほども多少触れたが、幸福を得ることは他との奪い合いであるという考えがある。しかし、それは間違いであって、人にはそれぞれ神仏が与える個性と幸福の道があり、他人の庭を見て妬んでいれば、自分の庭を善くする努力には集中できず、善業が減り、悪業が増大するだけで、逆に自分の達成を遅らせてしまう。

実際に、自分の努力に専念できている人は、あまり妬みの気持ちが起きてこないものである。よって、妬みによって他人を引き下げようとすると、自分も落ちるというのが法則である。「人を呪わば穴二つ」という通りである。こうして、自と他の不幸は、連動している。

また、これと同じように、自と他の達成・幸福も連動している。例えば、競争をしていても、妬み合って邪魔し合うのではなく、互いに切磋琢磨し合って、お互いを高め合うための手段として、競争が用いられている場合である。

この切磋琢磨とは、互いに努力し、互いから学び合う状態であるが、慢心や妬みがあると、他から学ぶことが難しくなる。他から学ぶべきは素直に学び、自分の個性を活かした達成のための努力に専念するのが最善であろう。

こうして、自と他の不幸も、自と他の幸福も連動しており、自と他はともに不幸になるか、ともに幸福になるかである。この意味で、競争にも、悪い競争と善い競争がある。悪い競争とは、幸福を得ることは奪い合いであると考え、他を邪魔して幸福になろうとする場合である。善い競争とは、切磋琢磨して、互いが互いを高め合い、競争しながらも互いを尊重・尊敬し合う場合である。


2.祈願の法則

悟りの修行も、現世の達成も、自分一人の力で実現するものではなく、さまざまな他者の支えによって実現するものである。それを突き詰めると、万物の支えによることがわかる。そして、その宇宙の万物の根源は、神仏であるから、すべての達成において、神仏への祈願の修行がある。

なお、自分一人の力で実現できると考えるのは、無宗教的な傾向の強い現代人的な慢心であるが、逆に、宗教に入り、自分の努力を怠り、神仏に過剰に依存することは怠惰であって、神仏が真に期待するところではない。

よって、自力と他力の二つを合わせて達成を願うことが重要である。よって、以下の祈願の法則も、自分の努力を前提としたものである。では、祈願における三つの原則となる法則を以下に述べる。

① 祈願の準備: 感謝と積徳と努力。今までの祝福に感謝し、功徳を積み、最善の努
力を誓うこと。
② 正しい祈願: 利他心に基づいた、ないしは利他心と矛盾しない、正しい祈願をす
ること。
③ 待命と改善: 祈願の後は、天命を待ち、結果に応じて、改善努力をすること。

第一に、「祈願の準備」について述べる。祈願をする前には、
① 今までの守護・祝福に感謝をし、
② 神仏への供養や布施などを行ない、今後の積徳の決意を誓い、
③ 自分でも祈願の実現のために最善の努力をすることを誓願する
という準備を行う。

これによって、① 神仏との縁を深めるとともに、② 貪りや怠惰による間違った祈願をすることを防ぐことができるので、これについて説明する。

まず、貪りが強い人は、「もっともっと欲しい」という気持ちが強く、そのため、今までに与えられた祝福・守護は忘れてしまい、感謝の心がないどころか、「祈願してもかなわないのでは」という疑念や不安を抱きがちである。

実際にも、貪りに基づく願いはかなわない。ある人が、貪りによる過剰な欲求を満たすことは、他から多くを奪い、他を苦しめる結果となり、本人にとっても悪業になり、後で苦しむことになる。そのような願いを慈悲深き神仏がかなえるわけがない。

よって、貪りを静めるために、① すでに与えられている幸福の大きさを考えて、これまでに与えられた神仏の守護に対する感謝をなし、② 貪りを静めるために役立つ、神仏に対する供養や布施の実践をなして、今後の積徳の決意をするとよい。

また、怠惰が強いと、自分でなすべき努力をせずに、祈願ばかりをする。しかし、この場合も、自分自身の中に、努力不足の後ろめたさがすでにあるから、「祈願してもかなわないのでは」という疑念・不安を抱きがちである。

そして、実際にも、怠惰に基づく願いはかなわない。自分でなすべき努力をせずに、願いがかなうなら、その人は堕落してしまうから、そのような願いを慈悲深き神仏がかなえるわけがない。神仏に祈願しつつも、自分でも最善を尽くす場合に、祈願がかなうのである。

よって、最善の努力をすることを誓った上で神仏に祈願をする。そして、そのためにも、供養や布施の実践をなして、今後の積徳の決意をし、できるだけ功徳を積むことは重要である。先ほど述べたように、布施・持戒・忍辱などの功徳を積むことで、人は、いっそう努力・精進できる心身の状態を形成することができる。心身のエネルギーが強まり、智慧が深まるからである。

次に、これまで述べたこととは別の視点・角度から、貪り・怠惰が強く、疑念・不安を抱く人の祈願が、神仏に通じにくい理由を説明したい。

そもそも、神仏は、自分の外にも、中にも存在する。自分の中にも、「仏性」と呼ばれる、未来に仏陀になる可能性が存在している。それは「良心」とか「慈悲の心」といってもよいだろう。よって、貪りや怠惰による邪(よこしま)な願いを抱いても、外の神どころか、自分の中の神にも通じない。

よって、神仏への祈願は、まずは、自分の中の神に通じるもの、すなわち、自分の良心・慈悲の心に矛盾しないものでなければならない。自分の中の神に通じるものならば、自ずと、それが連動する外の神にも通じると考えることができる。

なお、神仏は、慈悲深く、私たちの煩悩の強さを知っているから、私たちの願いが、仏陀のように完全・完璧なものでなければならないということは決してない。しかし、今の自分の能力において、最善を尽くし、後ろめたさのない、さわやかな気持ちで、祈願できるようにする必要がある。

最後に、どのような願いが神仏に通じるかについて、あらためて考えてみよう。世の中には、自分のために祈る人は無数にいるが、その中には、多くの場合、自分だけの利益を考え、他の利益には反するものがある。

しかし、このような願いを神仏がかなえることは、他の人のためにも、本人のためにも、あろうはずがない。すべての衆生を愛する神仏がかなえる願いとは、多くの人が幸福になるような願いであり、利他心に基づいた願いにほかならない。

その意味でも、神仏にしっかりと感謝して信仰を深め、神仏への供養や布施を行ない、功徳を積むことは重要である。この供養や功徳は、貪りを静め、利他心を深める。供養や布施の対象は、神仏を初めとする三宝だが、神仏・三宝を通して、すべての衆生と幸福をわかち合う慈悲の実践も兼ねている。

第二に、「正しい祈願」について述べる。いよいよ祈願をする際には、利他心に基づいた祈願、ないしは、少なくとも利他心に矛盾しない祈願をするべきである。利他心に基づいた祈願の重要性は、前項ですでに述べたので、具体的にはどのような祈願が正しい祈願かを述べる。それは、大まかに分類して、優れたものから順に並べるならば、以下のようになると思う。

① すべての衆生の幸福・救済を祈願し、そのために、自己が仏陀の境地に至ることを祈願する。
② 今自分に縁のある他の幸福を祈願し、そのために自己が必要とするものを祈願する。
③ 自分が解脱するための祈願をする(小乗の修行・阿羅漢の境地の達成を祈願する)。
④ 自己が生きていくために必要な現世の幸福を祈願する(必要以上の貪りを含まない)。

③と④は、利他心に基づいた祈願というよりは、利他心に矛盾しない祈願である。また、消極的な利他とも表現される場合がある。というのは、小乗の修行や、必要以上のものを貪らない持戒の実践は、他を害さないように努めている点で、消極的ではあるが、利他の実践であるからだ。

第三に、「待命と改善」について述べる。正しく祈願したならば、あとは功徳を積み、自己の努力を続けながら、天命を待つことである。

この「天命を待つ」とは、祈願がかなう場合だけでなく、祈願通りの結果が出ない場合にも、それを前向きにとらえて、改善努力をすることを含んでいる。例えば、それが自分の努力不足を意味していると感じたら、素直に努力を尽くすべきである。

また、祈願すべき内容・方向性を修正すべき場合もある。たとえ利他心で祈願しても、現象が動かない場合は、自分が良いと思っていることと、神仏が意思していることとが違う場合がある。その場合は、祈願の内容・方向性を変えて、試行錯誤を通して、神仏の意思を理解するように努める。

 



第二章 悟りの道程--仏教の顕教から密教まで


1 修行の目的--智慧と慈悲

仏教、とりわけ大乗仏教の修行の目的は、智慧と慈悲の獲得とされる。ここで、まず、智慧について述べる。
智慧とは、単なる知性ではない。この訳語のサンスクリット語の原語には諸説があるが、代表的なものが、Prajñā(パーリ語ではpanñā)の訳語とする説で、その音写が般若(はんにゃ)であり、よくいう「般若の智慧」の般若である。

そして、智慧の意味は、「一切の現象や現象の背景にある道理を見極める心(の)作用」、「無常、苦、無我、縁起、中道などの諸法(仏陀の教え)の道理を洞察する強靱な認識の力」(以上『岩波仏教辞典』)、「空を悟っている智慧」(『ダライ・ラマ仏教入門』)などとされる。

わかりやすくいえば、一切の現象を正確にありのままに見る精神的な力であり、それは、仏教が説く、縁起や空の教えに基づいて理解する力といってもよい。

ひかりの輪の表現を使えば、先ほど述べた一元法則に基づいて、一切の現象を理解する力である。よって、三仏の一元の法則に基づいて表現すれば、「楽と苦、善と悪、自と他の区別に惑わされずに、現象をありのままに見る力」であり、三乗の一元の法則に基づいて表現すれば、「すべての事物が相互に依存し合って存在し(縁起)、固定した実体がなく(空)、すべては神仏の現われとして同根であり(万仏)、循環している」ということになる。

なお、智慧と慈悲は密接不可分である。例えば、智慧とは、自と他の区別を超えることを意味するから、智慧が深まるならば、自分を他人に優先させたり、自分に都合のよい相手のみ愛したりするという自己中心的な心の働きが和らぎ、その結果として、すべての存在を平等に愛する心の働き・言動をもたらすから、慈悲が生じる。

そして、慈悲が深まって、利他の心・言動が深まれば、その(功徳の)影響により、いっそう智慧が深まる。功徳が智慧をもたらすという、功徳の重要性については前に述べたとおりである。



2 智慧のレベルについて

仏教では智慧に関してさまざまな分析を試みてきた。その結果、智慧にはいろいろな種類やレベルがあるとされている。その点について代表的なものを解説する。

まず、チベット密教の見解について、ダライ・ラマ法王の教説を参考に述べる(『ダライ・ラマ仏教入門』より)。この中では、「阿羅漢の智慧」と「仏の智慧」を分けて考えている。

阿羅漢とは、自己の解脱・悟りを得た者であるが、いまだに仏陀の境地には到達していない。阿羅漢の境地(=解脱)に至るには、解脱への障害である「煩悩障(ぼんのうしょう)」を取り除かなければならない。煩悩障とは、仏教が説く貪り・怒り・無智(愚痴)の三毒らのすべての煩悩のことであり、これが解脱の障害になるから、煩悩障といわれている。

そして、煩悩を滅するのが智慧であり、それは、先ほど述べた縁起・空の法則、一元の法則を理解する智慧であるから、「空を悟っている智慧」とも表現される。

ただし、この「空を悟っている智慧」にもいろいろなレベルがあり、阿羅漢の境地・解脱のため、煩悩を滅するに必要な智慧は、空を悟っている智慧ではあっても、仏陀の境地に至るために必要なほどのものではない。このレベルの智慧が、阿羅漢の智慧である。

一方、仏陀の智慧とは、「一切智」といわれる。これは、「知られるべきこと一切を一時に知覚すること」などと定義されている。この一切智を阻むのは、煩悩障だけではなく、「所知障(しょちしょう)」というものがある。所知障とは、所知(=知られるべきこと)に対して智が働くことに対する障害である。

そして、この所知障を取り除くには、煩悩を滅するだけではだめである。煩悩は悪業によって生じるが、煩悩を滅しただけでは、煩悩によって形成された「習(じっ)気(け)」と呼ばれる習慣的な力、潜在力が残っているとされ、この習気を含め、煩悩を根こそぎ取り除くことが、所知障を取り除き、一切智を得て、仏陀の境地に至るために必要とされる。これをわかりやすくいえば、煩悩自体だけでなく、煩悩の源・土台になっているものすべてを取り除く必要があるということであろう。

そして、この習気、所知障を取り除くために必要なものも、煩悩障を取り除く場合と同様に、「空を悟っている智慧」であるが、この場合は、煩悩障を取り除くに必要な智慧とは違って、強力な功徳によって裏打ちされた智慧でなければならないとされる。よって、仏陀の境地を目指す大乗仏教では、多くの功徳を積み上げる実践が重視される。以上がチベット密教の見解である。

次に、大乗仏教の般若経(具体的には、大品般若経(だいぼんはんにゃきょう)三慧品(さんえぼん)など)が説く「三智説」を紹介する。

この中では、三つの智慧を説いており、① 声聞・独覚の智を「一切智」とし、② 菩薩の智を「道(どう)種(しゅ)智(ち)」とし、三仏(如来)の智を「一切種智」とした。

ここで、声聞・独覚とは、大乗仏教では、小乗の修行者と位置づけられ、自己の悟り=阿羅漢を目指して修行する者である。声聞・独覚の一切智は、上記のチベット密教の一切智と同じ訳語であるが、内容は異なっており(異なっていると思われ)、「一切の事象を総体相としてとらえ、それらが等しく空であり一相であると知る智慧」とされる(『岩波仏教辞典』)。わかりやすくいえば、一切の現象は皆等しく空であり、それ以外のものはない、と知る智のことであろう。

次に、菩薩の道種智とは、「種々の衆生を教化・救済するために、真理を種々の差別相に即して知り尽くす智慧」とされる(前掲書)。わかりやすくいえば、さまざまな衆生を救済するために、さまざまな事物に関するさまざまな真理を知り尽くす智ということになるだろう。

最後に、一切種智は、「一切の事象・真理を総体相に即しつつ、個別においてすべてを知り尽くす智慧」であり(前掲書)、一切の現象は皆等しく空であると知りつつ、個別の事物に関する真理もすべて知り尽くしているということであろう。

次に、唯識や密教が説く、「四智」ないし「五智」説である。唯識は四智を説き、密教がそれに一つを加えて五智を説く。この五智は、密教では「金剛界五仏の五智」とか、「大日如来の五智」といわれる。

まず、唯識派では、人と世界を構成する意識として、五感に対応する「前五識」、表層意識に対応する「意識」、潜在意識の自我を形成する「末那(まな)識(しき)」、すべての意識・事物の源である「阿頼耶識」という八識を説く。これに、第九識として、清浄な仏性である阿摩羅識を説く場合もある。

そして、これらのおのおのの意識が浄化されると、仏の智慧となると説く(転(てん)識(じき)得(とく)智(ち))。具体的には以下の通りである。

① 前五識は成(じょう)所作(しょさ)智(ち)に転じる(不空成就如来の智慧)
この意味の解釈は諸説あり、その幅が大きすぎるので今回は省略する。

② 意識は妙(みょう)観察(かんざつ)智(ち)に転じる(阿弥陀如来の智慧)
この意味の解釈も諸説あり、その幅が大きすぎるので今回は省略する。

③ 末那識は平等性(びょうどうしょう)智(ち)に転じる(宝生如来の智慧)
すべての事象の平等性を理解する智慧。森羅万象を平等に観る智慧で、
万物が大日如来の化身であり、平等の仏性を持つことを覚る智慧ともされる。

④ 阿頼耶識は大円(だいえん)鏡(きょう)智(ち)に転じる(阿閦如来の智慧)
すべてを明らかにする曇りのない清浄な智慧。
大きな丸い鏡が、一切をありのままに映し出すという意味。

⑤ 阿摩羅識=法界体性(ほっかいたいしょう)智(ち):※密教独自の見解(大日如来の智慧)
真理の世界の本来の性質を明らかにする智慧。

なお、ここで、阿摩羅識とは、本来的に清浄無垢な意識で、仏性とも表現される。そして、法界体性智は、永遠普遍で、本来的に清浄である大日如来の絶対の智であって、他の四智を統合する智慧であるともいわれる。なお、密教経典である金剛頂経では、この九識は、五相(ごそう)成(じょう)身(じん)観(かん)という瞑想法によって、おのおの五智に浄化し転じるとされる。

こうして、智慧には色々なレベル・種類があると説かれている。そして、ひかりの輪の教えにおいても、智慧にはさまざまなレベル・種類がある。それは、前に述べた三仏の一元法則や、三乗の一元法則などが示している。三仏の一元法則に基づいて智慧を分ければ、

① 楽と苦の区別を超える智慧
② 善と悪の区別を超える智慧
③ 自と他の区別を超える智慧
ということになる。

この三つの智慧に、段階の違いがあるかというと、本質的にはそうではなく、三つの智慧は一体である。
しかし、実際に現代人が修行する上では、楽と苦 → 善と悪 → 自と他の区別をなくしていく順に難しいのではないか、というのが私の個人的な印象である。

一つ目の楽と苦の区別を超える智慧は、善業と悪業、および功徳の法則を理解するという基本的な実践に直結する。一方、二つ目の善と悪の区別を超えることは、すべての存在を平等に愛する四無量心の体得と密接不可分である。そして、最後の自と他の区別を超えることは、唯識の教えの体得を含めて、空の思想など、存在の真理を広く深く体得することにつながる。

これに合わせて現代では、三つのタイプの宗教があるのではないかと思う。一つ目は、堕落した宗教である。これは楽と苦も区別し、楽を求めて煩悩的であり、智慧があるとは言い難い。

次に、堕落はしていないが、強い自と他の区別・善と悪の区別があり、自分たちを絶対視する、いわば「狂気の宗教」である。オウム真理教にはこの傾向が強かったのではないかと思う。

最後が、堕落もせず、狂気でもない「智慧の宗教」であり、これこそ、21世紀に求められる宗教であることはいうまでもない。



3 悟りの道程

ここでは、悟りの道程についてまとめてみたい。このテーマについては、特別教本『仏教講義 悟りの道程2 悟りへの道と大乗の教え』に詳細に述べた。それを踏まえ、強調すべきことや、付け加えるべきことを述べる。


1.教学--ダルマの教えを学ぶ

悟りに至るために、まずなすべきは、ダルマ=仏陀の教えを学ぶことである。教学によって、悟りとは何か、そして、悟りに至る道は何かを学ぶ。

前に述べた、さまざまなものの区別を超える考え方・見方である一元の法則は、悟りの境地を表したものであり、同時に、悟りのために修習・瞑想するべき教えを示したものでもある。

また、ダルマを学ぶときには、鵜呑みにせず、しっかりと考えながら学ぶことである。「お釈迦様という偉い人が語っているから信じよう」というのではだめである。人を絶対視せずに、自分の頭をしっかりと使い、自分で納得できるまで考え抜く必要がある。自分で納得したものでなければ、何か条件が変われば、教えを信じなくなるから、堅固な教学とはいえない。

最後に、修行の目的は、智慧と慈悲の獲得であるから、智慧とは何か、慈悲とは何かについてよく考えるべきである。目的地が不明確なまま修行をすると、どこに向かっていくかわからない。正しくない目的に向かって努力すれば、仏陀に近づくのではなく、魔境・魔神に近づく可能性さえある。


2.原始仏教の修行--戒・定・慧

原始仏教では、戒・定(じょう)・慧の「三学」が説かれた。これは、戒律を守り、瞑想(定・禅定)によって心を静めるならば、現象をありのままに見る智慧が生じるという修行のプロセスである。心を静止させて、現象をありのままに見る(観察する)プロセスは、「止と観」とも表現される。

戒律を守ることは、心を静止させる土台となり、非常に重要である。戒律には、十戒、五戒など、さまざまなものがあるが、先ほども紹介した特別教本『悟りへの道と大乗の教え』にて、十善戒、十善、十悪、特別な十の善行などについて詳しく述べたので、参照されたい。

こうして、戒・定・慧の三学の教えは、最も基本的な教えであるが、大乗仏教の視点からいえば、この修行は、個人の解脱である阿羅漢の境地に至るのが限界であり、すべての衆生を済度するために、仏陀の境地に至る場合は、これに加え、慈悲の心を起こし、仏陀の境地に至る発願をなし、六つの完成の教えなどに沿って、大きな功徳を積みあげる必要がある。

さらに、私の見解・体験では、煩悩の強い現代社会のまっただ中で生きている私たちには、戒・定・慧の教えだけでは、煩悩を和らげ、心を静めていくには、不足であると感じる。六つの完成などの大乗仏教の教えが必要であろう。


3.大乗仏教の修行--智慧と方便

先ほど、仏陀の境地、仏陀の智慧に至るためには、その智慧に、大きな功徳の力強い裏打ちが必要であると述べた。よって、仏陀の境地に至るためには、「智慧」と「方便」の二つが必要とされる。
ここで智慧とは、前に述べたように、空を悟っている智慧であるが、方便(=手段)とは、利他の行いの実践手段、功徳を積む手段である。

そして、「空に関する瞑想」が、智慧の集積体を作り、「利他の行い」が功徳の集積体を作り、この二つがあってこそ、仏陀の境地に近づくことができるとされる。

空に関する瞑想とは、例えば、前に説いた一元の法則について思索・修習・瞑想することである。また、利他の行いとは、例えば、六つの完成が説く積徳の実践である。

そして、智慧と方便は互いに助け合うものであり、利他の行いの影響の下にあってはじめて、空についての瞑想(=智慧の集積)を行なうことができ、智慧の下に、利他の意思と実践(功徳の集積)を培っていくことができる。こうして、利他の実践、功徳を積む実践の重要性は、強調して強調しすぎることはない。

また、空を悟っている智慧は、現世を超越するベクトルであるが、他人を救済する手段である方便は、現世に向かっていくベクトルであり、この二つのバランスがとれていることが、仏陀の境地である。

なお、密教の考え方では、智慧が女性原理で、金剛(こんごう)鈴(れい)(ガンター)という法具で象徴され、方便は男性原理で、金剛(こんごう)杵(しょ)(ヴァジュラ)という法具で象徴され、両者の合一・双方の体得が、仏陀の境地と表現されることがある、

また、智慧と方便は、方便が利他の行為の実践手段という意味だから、智慧と慈悲とも表現できるだろう。智慧と慈悲の体得が、大乗仏教の目的ともいわれる。また、「智慧と慈悲」を言い換えて、「空と四無量心」の体得という場合もある。


4.大乗仏教の具体的な修行法

さて、大乗仏教は、すべての衆生の救済のために、仏陀の境地を目指すものであるから、最初に、すべての衆生を済度するという大慈悲の心を培うことから始まる。そのための具体的な修行法は、「因果の七つの秘訣」や「自他平等利他行」などであり、その詳細は、『悟りへの道と大乗の教え』に詳しく述べた通りである。

因果の七つの秘訣の流れを簡単にいえば、① すべての衆生が、過去世では自分の母や親族・親友だったと考え、また敵対者が自分を真理の探究に向かわせる動機となったことなどを考えて、② すべての衆生から受けた大きな恩を思い、③ 恩返しの心を起こし、④ すべての衆生に対する愛を培い(慈心)、⑤ しかし、その衆生が、ダルマを知らず、悟っていないがために、今たいへん苦しんでいる(ないし未来においてたいへん苦しむ)ことを悲しみ(悲心)、⑥ 自分がその苦しみを引き受ける決意をし、⑦ 彼らを救うために、自らが仏陀の境地を得るための利他の心(発菩提心)を起こすというものである。

ここでのポイントは、すべての衆生の恩を思い、彼らを恩人と位置づけて、その恩返しとして、救済していくというプロセスである。これによって、「他を救ってやる」という傲慢な意識を乗り越えることができる。また、慈心と悲心を起こして、その大慈悲が、利他の発菩提心につながっていることがわかる。

また、この修行の前に準備修行として、友人や敵といった、今の人間関係は無常であり、転変・逆転することなどを瞑想し、すべての衆生を平等に見る瞑想をしておく。平等心がすべての衆生への慈悲の土台になるからである。

さらには、この因果の七つの秘訣と同時に、自他平等利他行の瞑想を行い、自己中心的であることの不利益や、他の利益を大切にする利益を瞑想して、自分と他人を平等に見る利他心を培う。これによって、他の苦しみを引き受け、他に幸福を分け与える心の働きを強めて、発菩提心につなげていく。

なお、この修行のプロセスについては、『悟りへの道と大乗の教え』にもう少し詳しく述べているが、より詳しいものとして、『ダライ・ラマ瞑想入門』(春秋社)も紹介しておきたい。また、特別CD「発菩提心の瞑想」に、これらの教えの要点を簡潔にまとめた瞑想を朗読したものを録音して、皆さんが修習しやすいような教材も作成している。


5.六波羅蜜(六つの完成)の重要性

最後に、発菩提心に基づいて、菩薩の道を歩む者が実践すべき修行が「六つの完成」である。これは、先ほど述べたように、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの完成を目指す修行であり、功徳を積み、利他心を養うことになる。これについても、『悟りへの道と大乗の教え』で、本稿とは別の角度で述べているので、参照されたい。

ここでは、現代社会における六波羅蜜の重要性について述べておく。現代は非常に煩悩・欲望の刺激が強い社会である。その中で、心身を浄化し、仏陀の智慧に近づくことは並大抵ではない。現代社会に囲まれながら、自分の心身の状態を清らかに保つためには、六つの完成の実践は必要不可欠だと考える。

現代社会は、人間の際限のない貪りに対して、さまざまな欲望の情報・刺激があり、足るを知る精神から離れやすく、それを満たすためにつねにお金が関わり、拝金主義的な傾向がある。その社会の中で、際限のない欲望とその裏の苦しみから自分の心を解放し、利他の実践に向けて、透明で神聖な状態に保つためには、布施の実践は必要不可欠であろう。

また、布施の実践とともに、持戒の実践で、貪り・怒り・無智をはじめとする悪行を避け、忍辱の実践で、苦しみを喜びとして、自分の心身を引き締めて、エネルギーを蓄えなければ、心身の状態は、悟りを求めるにはあまりに堕落して安定せず、教えを深く理解するために必要な智慧も生じない。現代人にとっては、布施・持戒・忍辱を含めた精進は、悟りに至るための基本・生命線である。

なお、六つの完成の実践に関して、いくつか誤解がないようにしておきたい。まず、繰り返しになるが、智慧の本当の意味は、上記の通り、ちまたで超能力などといわれているものではなくて、現象をありのままに見る超越的・精神的な力である。

もちろん、智慧の境地は普通の人から見たら超越的・神秘的な体験であろうし、修行によって超能力的な要素が拡大する可能性があることはさまざまな経典に説かれてはいる。しかし、仏教の修行の目的は、超能力ではなく、現象を正しく理解する智慧と、それに基づく慈悲の体得によって、正しく利他に富んだ生き方をすることである。

特に、修行は心身を浄化するが、修行することで、自分が聖なる存在であり、修行していない凡夫は邪なる存在であるという、善悪二元論の世界観に陥ったり、自分の宗教・宗派だけを絶対視し、社会や他宗派との争い・対立に陥ったりすれば、それ自体が無智であり、汚れであり、智慧と完全に逆行する。

その場合は、善と悪、自と他の区別を超える智慧とは何か、万物を仏の平等な現われと見る智慧とは何かということをよく考える必要があるだろう。

この点にも関連するが、六つの完成は確かに菩薩の衆生済度の実践であるが、その済度は、衆生を見下して行うものではなく、衆生を恩人と見て、衆生に対する恩返しとして行われることにも、注意したい。

ひかりの輪では、この点について、善と悪の区別、自と他の区別を超えるための一元法則の中でも、繰り返し述べているし、感謝の法則の中でも述べている。また、仏教の法則ではなく、ヒンドゥー・ヨーガの教えの解説として、カルマ・ヨーガという枠組みの中でも、すべての衆生を神の現われと見て奉仕する実践を説いている。このカルマ・ヨーガは、因果の七つの秘訣などの教えとよく似ているが、具体的には、『悟りへの道と大乗の教え』を参照されたい。

最後に、一元の法則は、日常の価値観と違う思想であり、それを理解するのは容易ではなく、ましてや体得・体感するには、教学・瞑想と功徳の積み上げを合わせていく必要があって、時間がかかるのは確かである。

しかし、だからこそ、六つの完成の中の、忍辱と精進の実践がある。忍辱の教えの中には、物質的な困窮や批判・非難に耐えることに加えて、日常の感覚と大きく異なるダルマの真理の思想に耐えるという教えがある。そして、精進の教えは、焦らず弛まず、焦りと慢心の双方を断ち、努力し続ける覚悟を持って、修行に取り組むことである。

そして、布施の実践の中の法施(=他に法則を施すこと)の実践も重要である。一元の法則を自分で理解するだけでなく、それを知らない他とわかち合うならば、自分の理解も深まる。他に教えるならば、自分も学ぶことができるとよくいうが、他に与える者は自分も与えられるというカルマの法則の通りに、教えている者の第一の生徒は、教えている本人である。

 


6.密教の基本的な修行--加行の実践

密教の修行の本質や具体的な内容については、『悟りへの道と大乗の教え』、『循環の法則と密教加行』が詳しいが、今回は、これまでに、ひかりの輪で紹介した密教修行をまとめた上で、それぞれの重要性を指摘しておく。

第一に、密教の修行、特にチベット密教の修行では、「加行」ないし「前行」といわれる基本的な修行がある。しかし、この基本の修行の中に、重要な教義が織り込まれており、決して軽視はできない。

基本的な修行とは、チベット密教のさまざまな宗派で実践されている基本的な「五加行」がある。それは、礼拝、マンダラ供養、金剛薩埵の瞑想(懺悔)、チューの瞑想、発菩提心である。これらの修行については、特別教本『循環の法則と密教加行』の中で詳説したので参照されたい。

また、同じような基本的な修行として、「六加行法・七支分の修行」がある。七支分の修行とは、礼拝、供養、懺悔、随喜、勧請、祈願、回向の七つの修行であり、最初の部分は、上記の五加行とよく似ている。こうして、礼拝と供養と懺悔は修行の土台であることがわかる。

礼拝は、通常、三宝に対して行われるが、万物が神仏の現われという大乗仏教の教義を重視するひかりの輪としては、それに加えて、万物に現われる神仏に礼拝するつもりで行なう。

供養は、尊敬と感謝の気持ちを持って、その対象に対して行うものである。通常、三宝に対して行われるが、三宝を通して、すべての衆生とお供物がわかち合われると考えると、万物に現われる神仏に感謝し、供養していることにもなるし、慈悲の実践にもなる。

懺悔は非常に重要である。礼拝で帰依を深め、帰依の対象の教えを学んだならば、自分のこれまでの言動で、真実の教えに反していたところをすべて反省し、改善する決意と祈願をするべきである。特に、一元法則の体得を考えれば、日常の二元的な意識は絶えず懺悔の対象にするべきである。

そして、修行の始まりだけでなく、絶えず懺悔の気持ちを持ち、慢心による怠惰・堕落を戒め、初心を忘れずに努力するべきである。なお、この懺悔については、金剛薩埵の修行のところで、後でもう一度詳しく述べることにする。

随喜の修行も、一元法則の体得に非常に重要である。他の功徳を喜ぶ随喜の修行は、自と他の区別から来る妬みを超え、すべての衆生を愛するために、決定的に重要な教えであり、最高の功徳であり、最高の幸福への道である。そもそも、自分の幸福と他人の幸福は連動しており、他人の幸福を願うことが自分の最高の幸福への道であるから、両者を区別せずに随喜すべきである。

同じように、自分の積んだ功徳を独り占めにせず、すべての衆生とわかち合う回向も、自と他の区別を超える一元法則の体得に非常に重要であり、最高の功徳である。そもそも、功徳が積めるのもすべての衆生、万物のおかげであるから、感謝に基づく恩返しのつもりで、回向するべきだろう。



7.密教の高度な瞑想について

顕教にはない密教の瞑想の特徴は、本尊とされる仏陀に修行者自らが合一する観想をする瞑想(本尊のヨーガ)である。観想する仏陀は、大乗仏教の到達目標である智慧と方便を兼ね備えており、すべては空であるという悟りの意識(智慧、仏陀の法身)を持ちつつ、救済・利他の方便である身体(仏陀の色身)を有していると観想する。

これは、修行の目標と、修行している対象が一体となっているから、特に強力な効果を持つとされているが、ひかりの輪では、「観音菩薩の瞑想」がこれに当たるということができる。

そして、密教には、生起(しょうき)次第(しだい)と究竟(くきょう)次第(しだい)という二つの瞑想がある。生起次第の瞑想では、万物が平等な仏の現われであることを悟るために、万物が仏であることを表しているマンダラを用いて、高度な観想を含む瞑想法を実践する。

ひかりの輪では、上記の観音菩薩の瞑想が、これと同じ効果を持っていると位置づけている。また、ゲールク派の僧侶が紹介している同派の至高のマンダラ瞑想法を紹介している(『図説マンダラ瞑想法』ビイング・ネット・プレス)。

最後に、究竟次第の瞑想だが、これは最も高度な瞑想とされ、完成の段階の瞑想とされるが、この中では、管・風・心滴の操作、ヨーガでいえばクンダリニーヨーガを含んでいる。

この修行には慎重に取り組む必要があり、入念な準備が必要であるが、そのために「トンラ」と「トゥンコル」という修行がある。トンラは、自己(自分の身体)に実体がないことを体得するもので、ひかりの輪では、『密教秘儀講義』で解説した「空性を観想する瞑想(大日如来の瞑想)」に当たる。トゥンコルの修行は、身体の結節をほどく身体行法であるが、ヨーガのアーサナや気功の行法を用いている。

さらに、心身を浄化して、準備段階を進めるために、「ツォンカパ大師の金剛薩埵の瞑想」を解説している。これは仏の象徴として金剛杵を観想することを含んでいるが、「金剛薩埵の百字真言」とともに、心身の浄化を進めるには非常に有効である。

準備修行ではなく、究竟次第の瞑想自体としては、チャンダリーの瞑想があるが、ひかりの輪では、準備修行に力を入れるため、この直接的な解説はまだ行っておらず、参考図書のみ紹介している。

なお、瞑想法ではなく、究竟次第が目指す管・風・心滴の修行を実現するものが、弥勒金剛法具エンパワーメントであるが、これにも準備の修行を課している。

最後に、密教の加行はともかく、密教の高度な瞑想については、心身に疾患がある場合には、逆効果になる場合が多いので、指導員とよく相談されたい。密教の修行は、条件を満たさない場合は、危険性があり、その詳細は、特別教本『循環の法則と密教加行』と参照されたい。


8.密教的なエンパワーメント

ひかりの輪の密教修行の特徴となっているのが、仏の象徴とされる神聖な密教法具などを用いた精神的・霊的な波動・エネルギーを伝達するイニシエーション、エンパワーメントである。

このエンパワーメントは、仏教・密教の教義研究や瞑想に合致しているが、聖地巡礼などの野外・自然の中での神聖な体験に基づいたものである。万物が神仏の現われという教えに基づき、大自然と神仏が不離一体に結びついた世界観に基づく祝福である。

エンパワーメントに関係する神仏としては、密教の名称を使えば、大黒天、金剛薩埵、大日如来、時輪尊などが目立つが、すべての神仏は本質的には一体であるという考え方なので、おのおのの神仏の祝福の差異は論じていない。ただ、私を初めとするひかりの輪の指導員には、これらの仏やこれらの仏の聖地での宗教体験が顕著であり、その自然な結果であるということもできる。

また、ひかりの輪は、実際に聖地巡礼を行なって、人や法具によるエンパワーメントではなく、聖地の神仏によるエンパワーメントを重視している。



第三章 金剛薩埵の内省浄化修行


ここでは、今回のセミナーで行う、金剛薩埵の内省・浄化修行について述べたい。まず、この修行は二つの部分から構成されている。それは以下の通りである。

① 自分で、人生全体を振り返って、一元法則から見て、主な自分の間違った考え方・行動を洗い出し、分析し、反省していく。また、他人(指導員)との面談で、一緒に分析・反省していく。

② 悪業の浄化を守護する金剛薩埵尊への帰依・懺悔、その瞑想・エンパワーメントといった密教的な手法で、上記に反省した間違った考え方・行動による悪業を浄化していく。

こうして、これは、思索の修行と霊的・密教的な修行を組み合わせた悪業の浄化の修行ということができる。


1 反省と浄化、懺悔の重要性

修行を始める場合、まず何が目指すべき境地であり、何がその境地に至る正しい修行方法であるかを理解する。これは教学のプロセスである。

その次になすべきは、学んだ教え・法則に照らし合わせて、これまでの生き方の間違っていた部分を反省し、それを改める決意をなし、神仏に祈願することである。これが懺悔の修行といわれる。

過去の法則に反した心の働き・言動の集積は、目に見えない悪業として残存し、私たちの今現在の心、身体、環境などに影響を与え、さまざまな苦しみや、目指すべき境地を阻む原因となっている。

よって、修行の初めには、「これから善いことをしよう」と決意するだけでなく、これまでの反省をして、その悪業の浄化をすることが重要である。すなわち、過去の悪業を浄化しつつ、今後未来にわたって善業を形成する二つの作業が必要である。そして、悪業を浄化するのは、この懺悔の修行にほかならない。

また、懺悔は修行の初めだけでなく、絶えず行わなければならない。特に修行を始めて長くなれば、慢心・気のゆるみ・怠惰・堕落といった問題が生じてくることが多い。よって、修行の半ばで、初心に返ったつもりで、いっそう修行に励むべきときがある。初心に返るためには、それまでの気のゆるみ・堕落を一掃するために、しっかりと懺悔することが第一である。

なお、日本語で「懺悔」というと、何か暗いイメージがある。単に悪いことをしてしまったと考えて、じめじめと後悔したり、暗く卑屈になったりすることは、正しい懺悔の修行ではない。正しい懺悔の修行とは、前向きで清らかなものである。

まず、懺悔とは後悔ではなく、反省と改善の決意をし、神仏に浄化を祈願する修行である。単に後悔するのは、自我執着による煩悩であって修行ではない。仏法は、万物は固定した実体がなく、無常であると説く。だとすれば、人のいかなる業・カルマも無常であり、浄化できない業・カルマはない。よって、単に後悔して卑屈になるのは、無智にすぎない。

きちんと反省・決意し、神仏に正しく祈願することで、自己の業・カルマは、一歩一歩ではあっても、確実に浄化されていく。業の浄化は清らかで気持ちのよいことである。よって、懺悔は、真剣に深く行うべきではあっても、同時に力強くさわやかにやるべきものである。

最後に、懺悔による悪業の浄化は、自力の反省・決意だけによるものではない。過去の悪業を浄化するために、神仏の守護・加持をいただいて行なうものである。自力と他力の二つを合わせて行う点が、単なる内省とは違う、仏教という信仰実践における懺悔の特長である。

そして、チベット密教などの修行では、金剛薩埵が、過去の悪業の浄化においてこの上ない浄化力を持つとされ、懺悔の修行の主尊とされている。よって、今回の内省・浄化の修行も、金剛薩埵を中心として行うこととした。


2 自己分析による内省・浄化

1.参考にしたい修行--内観

さて、次に自己分析による内省・浄化について述べる。ここで、第一に参考にしてほしいことは、「内観」という修行法である。この内観を理解しておくことが、今回の金剛薩埵の内省修行においても役に立つのである。

この内観の詳細については、特別教本『大乗仏教・六仏の教え』、特別教本『内観・唯識・縁起のエッセンス』などに詳しく述べたので、それを参照していただきたいが、ここでも、簡潔に内観の修行を説明しておこう。

内観では、人生全体について、幼少期から5年ほどの期間に区切って、両親や友人知人に対して、自分がしてもらったこと、してあげたこと、迷惑をかけたことを思い出していく。

この結果として、いかに自分が他から恩恵を受けていたか、それに対して恩返しをしておらず迷惑をかけてきたか、などという感謝や反省が生じてくる。内観の修行をやらず、普通に生きていると、自分が他から受けている恩恵は当然のこととして感謝せず、恩返ししていないことや迷惑をかけたこともすぐに忘れてしまうのが、人間の持つ自己中心的な傾向である。

また、内観では特に親に対する感情を浄化することに力点が置かれている。よって、上記の三つの点について、最初は、母親について行い、次に父親といった順に、一度に内省する対象を最初は一人に限定して、詳細に行う。

現代人は、親に対する否定的な見方・思いを抱いている人が少なくない(というより多い)。しかし、先ほども述べたが、仏教の修行の大慈悲を培う中で、過去世から今生まで親から受けた多大な恩を思い出すプロセスがあるように、親に対する心の持ち方は非常に重要である。

また、親は、人が最初に出会う人間であるから、その人のその後の人間観・社会観を大きく左右し、その人の人格に大きな影響を与える可能性が高い。「三つ子の魂百まで」というように、自分でも気づかないうちに、子どものころの自分の親に対する感情が、他のすべての人たちに対する自分の感情に、大きな影響を与えている。

これは、ある意味で恐ろしいことだろう。そのためにも、親・家族への感情の歪みがあれば、それを修正し、バランスのとれた肯定的なものにする必要がある。この親に関する問題についても、特別教本『大乗仏教・六仏の教え』、特別教本『内観・唯識・縁起のエッセンス』などで詳しく述べたので、それを参照されたい。


2.金剛薩埵の内省修行における反省のプロセス

次に、「金剛薩埵の内省修行」における反省のプロセスについて述べる。内観と同じように、人生を幼少期から5年ほどに区切って順々に反省していく。

ただし、内観ほど厳密に、期間の区切りを設ける必要はないし、そのときに自分の行為を反省する対象を母親・父親といった順番で、一人一人に限定して、細かく行なう必要はない。ある程度でよいので、丁寧に幼少期から現在までの人生を振り返り、法則に従って、自分の心の働きや言動を反省していくのである。

その際に、特に幼少の時については(本当は幼少期に限らないが)、自分の記憶が不正確である可能性に注意する。無明(むみょう)に基づく煩悩があると、現象をありのままに見ることができないというのが仏陀の法則であるが、それは幼少期にも当てはまる。

幼少期は、何ごとにつけても無知であるし、それによる間違った思い込みが生じやすい。また、強い感情が生起した場合は、その感情によって、記憶の方が歪められてしまう場合もある。

例えば、客観的な事実と主観的な印象を、ごちゃ混ぜにしている場合がある。実際には、誰にも何も言われていないのに「他人は自分を嫌っている」などと思い込んでいる場合がある。その場合は、客観的に起こったことと、自分が主観的に感じたことを、記憶喚起する際に、より分けなければならない。

また、実際に起こった事実よりも、はるかに過大な出来事があったと思いこんでいる場合もある。自分が強い苦しみ・痛みを感じた経験をした場合は、その感情によって、起きた出来事自体が過大視される場合もある。

そして、その中には、自分が傷つけられたとき、ショックを与えられたときもあるし、それだけでなく、自分が他人を傷つけたときに、その後ろめたさから、それを忘れてしまったり、ないしは、事実関係を歪めた解釈をしたりして、自己を正当化する場合もある。

こうした問題を解決するには、第一に、自分自身でもよく注意して記憶を喚起することであるが、必要に応じて、その事柄について、(存命中であれば)客観的な第三者である人の記憶を聞くことがよい結果を生む場合もある。

例えば、自分と母親の問題ならば、父親に聞き、自分と父親の問題ならば母親に聞く。両親との問題ならば、兄弟姉妹や親族に聞く。そうすることによって、自分の記憶の過ち・偏りについて、思わぬ発見をする場合がある。

そして、私の経験では、幼少期に、こうした思い込みや、被害妄想、そして、誇大妄想の傾向の強い人は、大人になっても、その傾向を引きずるように思う。そのため、心理学的には、認知療法と呼ばれる、バランスのとれた認識をする訓練があるほどである。

また、ユングなどの心理学者は、現代社会では、実在しない仮面の自分を自分だと思いこむ人が増えているという。これは、幼少期に限らず、成人後もそうであるというのだ。競争社会の中で、自分と他人の比較が激しくなり、よい人間、よい自分でありたいという欲求が強い現代人は、自分の暗部を見ずに、実在しない仮面の自分を自分と思いこむ、仮面人間になりがちだという。

そして、これは、現代社会の中の宗教においても、教祖や信者の心理に当てはまるのではないかと私は思う。自分がなした宗教的な達成の過大評価などが、この一例であり、それは、いわゆる増上慢・魔境といわれる落とし穴につながる可能性がある。

よって、自分でも、記憶喚起の中で、努めてこのような問題がないかについて、よく内省してみるべきだろう。「こうした問題がないか」という自覚があれば、そうでない場合と比較して、相当に内省内容が改善するだろう。

最後に、このような傾向は、自分だけで努力しても、気づかない部分も少なくない。よって、こうした傾向に気づくためには、他人と話し合うこと(いわゆるカウンセリングを受けること)が有用である。そのために、ひかりの輪では、自己分析に加えて、指導員との面談による分析の改善を行うことにしている。


3.一元法則に基づいた内省のポイント

内省をする際に、その具体的なポイントがないと、やりにくいであろうから、一つのモデルとして、以下のポイントを挙げておく。しかし、これは絶対の規則・法則ではないから、自分が重要だと思ったならば、変更・改善してよいものである。


(1)幼少期から青年期を中心とした、自分の他人への否定的な感情について、記憶喚起して内省する

① 対象は、自分の両親・親族・学校の教師・友人などの身近な人や、特に印象に残った人。これは、大人になっても尾を引く可能性がある時期のため、特に丁寧に行う。
② 思い出す期間の区切りは、5年間ほどでよい。
③ 記憶喚起した後は、その否定的な感情を一元法則で浄化する。
例えば善と悪の二分化を超える法則などを当てはめると、自分が悪いと思った、親・家族・教師・友人・知人にも、バランスのとれた見方ができるようになる。


(2)人生全体にわたって目立つ自分の煩悩について内省する

① 内省するべき主な煩悩の例を挙げると、
1 貪り・執着、2 怒り・嫌悪、3 恨み・憎しみ、4 冷たさ、5 卑屈・自己嫌悪、
6 妬み・嫉妬、7 慢心・虚栄心。
さらに、被害妄想、誇大妄想、仮面人間的な傾向(虚栄心)

② これらの煩悩について、その煩悩が一番出て来る事柄・対象について記憶を喚起し、一元法則に基づいてよく内省・浄化する。各煩悩の浄化の仕方は、この教本の各所で述べている通り。


(3)オウム真理教の元信者の人の場合

① オウム時代の自分の人格の問題。例えば、善悪を二分化する傾向など。
② オウムから現在(ひかりの輪)の間の問題。例えば、修行に弛み・怠惰が出たこと


4.内省に基づいた霊的な浄化--金剛薩埵と懺悔の修行

ここでは、懺悔のやり方について述べる。まず、懺悔の対象とすべき悪行とは何かを説明する。
第一に懺悔すべきは、「無明」と「三毒」である。まず、無明とは、ダルマの真理を悟っていないために、現象をありのままに見ることができない状態であり、精神的な盲目の状態を意味するから無明(明かりが無い)という言葉を使う。

これを言い変えると、仏陀の説いた縁起の法をはじめとする仏法を理解していないこと、ひかりの輪の表現では、楽と苦、善と悪、自と他の区別(二分化)を超える「三仏の一元法則」、ないしは、縁起と万仏と循環の「三乗の一元法則」を理解していないことである。

この無明とともに、懺悔の対象となる三毒とは、無明の結果として生じる無智・貪り・怒りの三つの根本煩悩のことである。無智は、無明と同じ意味であるという解釈と、自と他の区別に基づいた他に対する冷たさ・無関心という解釈がある。それに加えて、好きなものに対する貪り・執着と、嫌いなものに対する怒り・嫌悪である。

よって、無明と三毒の懺悔とは、言い換えるならば、智慧と慈悲がないことの懺悔である。無智によって、すべての衆生・万物を平等に愛することができず、一部に執着し、一部は嫌い、他には冷たい、という心の働きが、無明と三毒である。

無明と三毒に続いて、懺悔の対象とすべき悪行は、無智・貪り・怒りに加え、欲六界に転生する原因となる煩悩とされている、慢心・嫉妬・愛著といったさまざまな煩悩がある。

さらに、仏教の基本的な戒律に反する行為、例えば、「十不善」などである。十不善は、無智・貪り・怒りの三毒に加えて、殺生、偸盗(盗み)、邪淫、妄語(嘘)、悪口、綺語(必要のない言葉)、両舌(仲違いさせる言葉)である。

こうして懺悔すべき悪行を理解したら、具体的に懺悔の修行に入っていくが、懺悔の修行全体は、四つの要素からなる。第一に、過去の悪行の反省、第二に、「今後は繰り返すまい」という決意、第三に、三宝に対する浄化の祈願、そして第四に、浄化のための修行法の実践である。最後の浄化のための修行法としては、チベット密教でも重視される金剛薩埵の百字真言を用いる。

第一の悪行の反省とは、自分のなした悪行が、いかに自分と他人に不利益・苦しみを与えるものであったかをよく考えることである。

具体的にどのような不利益・苦しみが生じるかを理解できていなければ、本当に反省したことにはならない。「悪いと言われているから」とか、「批判されるから」反省するというのでは、反省のふりをしているだけに近い。

よって、悪行が形成する悪業が、他人はもとより、自分自身にとって、いかにさまざまな苦しみをもたらすかを法則にそって、しっかりと考えて気づかなければ、本当の意味での反省にならない。わかりやすくいえば、今までは悪行を好んでいたが、それが実際には猛毒であったことに気づくということである。

この意味で、最も重要な反省とは、悪行が本当に自分に苦しみをもたらすということを心から理解できていないこと、すなわち、無明、業・カルマの法則の無理解である。よって、悪行をなしたことに加えて、それを好んでなしたことや、自分だけでなく、他人にもそうさせたことなども懺悔する。

そして、実際に、法則を学び始めた後も、いまひとつ、悪行・悪業が自分に苦しみをもたらすことが実感できない部分もあるだろう。その場合は、それ自体を懺悔して、今後理解できるようになるために、教学や功徳を含めた自分の修行を深める決意をし、神仏への祈願を実践すべきである。

悪行がもたらす不利益については、前にもいろいろな角度から述べた。例えば、悪行をなせば、人間界の中では、四苦八苦を含めたさまざまな苦しみが生じるし、輪廻転生思想を前提にすれば、三悪趣といわれる地獄・餓鬼・動物などの苦しみの世界に転生する。また、真の幸福である智慧と慈悲、現象をありのままに見る力と、すべてを愛する心の働きを得ることができない。

また、貪り・執着、怒り・嫌悪、嫉妬・妬み、卑屈、慢心といったおのおのの煩悩のもたらす不利益についても、個別にこれらを解説したので、必要に応じて参照されたい。

これらを理解するためには、繰り返し教学することは当然だが、同時に功徳を積むことも重要である。先ほど述べたように、功徳と智慧は、お互いを助け合う。すなわち、六つの完成などの実践で、功徳を積めば、現象を正しく理解する智慧を深めることができる。

そして、反省と改善の決意は、できるだけ真剣で力強いものであるべきである。その強さが、悪行・悪業を浄化するスピードを決めるのはいうまでもない。ただし、その一方で、「自分は、繰り返さないと決意しても、実際には止められないから懺悔する資格がない」と考える必要はない。

仏陀は、私たちの煩悩の強さ・執拗さをよく理解されておられ、できないことを求めてはおられず、私たちができる最善を尽くす限りは、懺悔する資格はある。すぐには変われなくとも、コツコツ努力することである。そして、悪業の浄化は、自力だけではなく、神仏の加持・祝福という他力を祈願して行なうものであることも忘れるべきではない。

なお、この点に関連して、意志の力が弱いと思う人は、教学を繰り返しつつ、功徳を積むと、意志の力も強くなっていくので、そうするとよいだろう。懺悔しても、戒律の実践がしにくい人は、六つの完成の修行において、持戒の実践の前の布施の実践に励めば、その功徳によって、持戒の実践もしやすくなる。

また、最初から高い達成を目指さず、実践可能な小さな目標から始めて、徐々にそれを高くしていくという方法もある。これは、人の業・カルマは必ず変わるが、いっぺんには変わりにくいという法則に基づいた工夫である。これは、困難に耐え、粘り強く努力し続けるという意味で、六つの完成の忍辱や精進の功徳の実践に関連するものということができる。

こうして、繰り返さない決意をしたら、前に述べたように、三宝に悪業の浄化を心から祈願し、金剛薩埵の百字真言を唱える。さて、ここまでが通常の懺悔の修行である。ひかりの輪では、密教加行の中の懺悔の修行として解説している。詳しくは、特別教本『循環の法則と密教加行』ないしは『ひかりの輪の密教加行の儀式次第』を参照されたい。

最後に、特別な瞑想による浄化について述べる。それは、チベット密教ゲールク派の始祖であるツォンカパ大師による金剛薩埵の瞑想というものである。これは、金剛薩埵尊をはじめとする神仏の祝福に基づき、特別な観想や真言・詞章によって、悪業を浄化し、善業を増大させる特別な瞑想法である。詳しくは、会員用HPないしは、瞑想伝授教本『密教秘儀講義』を参照されたい。

そして、このツォンカパ大師の金剛薩埵の瞑想を準備修行として、ひかりの輪では、弥勒金剛法具エンパワーメントという特別な霊的な儀式・瞑想を行っている。これは、神仏の象徴である神聖な密教法具を用いて、受講する修行者が、修行の先達とともに瞑想し、神仏の祝福・エネルギーをいただくという特別な霊的儀式である。


 


《付録》 関連教材リスト

以下は、今回の講義に関連する、これまでのひかりの輪の教材リストです。ご活用ください。

1 特別教本

『現代人の一元の法則』(2009・2010年末年始セミナー)
『循環の法則と密教加行』(2009年夏期セミナー)
『内観、唯識、縁起のエッセンス』(2009年GWセミナー)
『仏教講義・悟りの道程1 縁起の法』(2008年9月)
『仏教講義・悟りの道程2 悟りへの道と大乗の教え』(2008・2009年年末年始セミナー)
『大乗仏教・六仏の教え』(唯識、内観の部分)(2009年2月)
『ひかりの輪 密教加行の儀式次第』(2009年8月)

2 伝授テキスト

『密教秘儀講義』(2007年夏期セミナー)

3 代表メッセージ( ひかりの輪会員サイト「上祐代表講話」)

『第1回 金剛薩埵の内省修行における 金剛薩埵への祈願など』2010年03月26日
『第2回 金剛薩埵に関連する教えと修行』2010年03月26日
『第1回 世尊ヴァジュラサットヴァ』2009年08月28日
『64.すべての人々を神仏の現れと見る--日々の実践や儀式の修行』2008年12月13日

4 ひかりの輪会員サイト「瞑想・修行テキスト」

(1)基本修行
『内観の具体的なやり方』(2009/04/15)

(2)密教修行
『ひかりの輪 密教加行の儀式次第』(2009/8/15)
『ヴァジュラサットヴァの百音節のマントラ』(2009/7/02)
『ツォンカパのヴァジュラサットヴァの瞑想』(2008/02/13) 一部公開

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