新団体の社会的意義(3)/地球問題を解決する宗教思想
(2008年03月08日)
前回2回は、主に新団体の社会的な目的・意義をご説明する中で、主に、日本社会の視点からお話ししました。今回は、その枠を広げて、地球の諸問題の視点から、新団体が目指す社会への奉仕について、お話ししたいと思います。
前回において、オウム真理教を含めた、既存の宗教が、人を神とすることを含め、宗教と社会の対立、異なる宗教間の対立、宗教と科学の分裂を招く要素があり、それを乗り越えた新しい21世紀の宗教思想を創造することをお話ししました。
今回は、これと本質的には同じことですが、それを21世紀の地球の諸問題の視点から見て、お話ししたいと思います。
まず、21世紀の地球を覆っている大きな問題とは、皆さんもご存じかと思いますが、
(1)宗教と宗教、宗教と社会の対立
原理主義的な宗教と社会の対立、そして、異なる宗教・文明間の衝突、それによるテロリズム、紛争、戦争など。
(2)先進国と途上国の対立
先進国の消費主義・飽食と、途上国の貧困・飢餓という、圧倒的な富の格差、富の配分の不公平の問題。
(3)人間と自然の対立
地球温暖化の問題を含め、地球規模で加速する人間の経済活動、消費主義は、途上国での人口の爆発と共に、地球環境の変動による危機、多くの生物の絶滅、そして、資源・エネルギーの枯渇と奪い合いの危機。
などではないかと思います。
なお、これに、もう一つ加えるとすれば、それは、現代社会に広がる、精神的な危機があると思います。現代社会病とも言えるのではないかと思いますが、精神病理的な人が増えているという問題です。
●全ての地球問題の根本に宗教・思想の問題がある
さて、まず、最初に結論を言うならば、一つの物の考え方としてですが、こういった問題は、その根本原因を探っていくならば、全ての宗教・思想・価値観の問題であると、考えることが出来ると思います。
そして、21世紀の宗教・思想は、こういった地球規模の問題=地球問題の解決に貢献できる思想・教えであるべきであり、それをひかりの輪を通して、創造していきたいと考えています。では、具体的に一つ一つお話ししていきたいと思います。
まず、一つめの問題は、明らかに宗教の問題であることは明白だと思います。そして、これについては、前2回の中で、詳しく書きました。
さて、次に、(2)の問題は、宗教的に言うならば、結論として、煩悩的な欲求を満たすことによる幸福が、慈悲・智慧(ちえ)による幸福よりも、優位になっている、現代社会の価値観によるものだと考えられます。
この慈悲・智慧の対極にあるのが、貪り・独占・エゴの心の働きであって、それが、先進国の過剰消費や飽食と、途上国の貧困・飢餓という、財や物の著しく偏った分配を生じさせる、心理的な原因となっていると思います。
●他を押しのけて幸福になる価値観の問題
この背景には、現代社会の価値観として、他を押しのけて、自分が優位になることが、幸福になることであるという考え方があると思います。それは、競争主義の価値観=他との比較で幸福になる価値観、ということもできるでしょう。
例えば、お金にしても、日本では、平均所得が年間4万ドルとも言われ、日本では貧しい人も、平均所得が数百・数千ドルの途上国の人たちから見れば、「皆が王侯貴族のような生活をしているように見える」とよく言われます。
しかし、日本の中には、自分は貧しいと思い、苦しんでいる人が多くいます。その人達は、地球全体の中での自分の位置づけではなく、自分たちの身近な人と自分を比較して、自分が優位であれば幸福を感じ、劣っていれば不幸を感じます。
そして、この「王侯貴族ばかりの国」の中で、年間7000人ほどが、経済苦によって自殺している、という統計がありますが、途上国の人たちから見ると、この事実は理解できないようです。
これは、どんなに日本の平均所得が増大しても、変わらないことだと思います。人が、近い他人と自分を比較し、幸福・不幸を判断し、全体的な視点からは、そうしないこと。そして、何かを得れば、もっと欲しくなり、貪り・欲望には、際限がなく、満足には至らないこと。
そして、この人間の心理的な傾向が、現代社会では、その競争主義・個人主義・消費主義・物質主義などで、いっそう強まっています。20世紀末からは、市場原理主義と呼ばれる経済の競争主義がいっそう強くなりました。
お金も、異性も、食べものも、名誉、地位、権力も、他人よりも多く、他人より優れた、他人よりも高いものを持っていることが、幸福なのであって、それは、客観的に見ると、他との競争・奪い合いになります。
自分が、お金持ちになって、幸福になるということは、世の中のお金の総量が無限でない以上、他からお金を奪う行為の側面があります。美しい優れた異性を得るためには、当然同性との競争があります。先進国のグルメ・飽食は、地球の食糧資源が有限である以上、途上国に必要な食べものを奪った結果です。名誉、地位・権力などは、そもそもが、皆が得られるものではなく、ごく一部の人が得るから価値が出るものです。
こうしてみると、今現在の社会の幸福の価値観には、他より優位になって、他に勝利して、他を押しのけて、他から奪って、幸福になるという本質があることが分かります。
●仏教の教えが示す、もう一つの幸福の必要性
しかし、仏教的な教えでは、こういった幸福は、煩悩による錯覚であって、真の幸福ではないと説きます。すなわち、本当は幸福ではないものを、幸福であると錯覚していると言うことです。
その偽りの幸福に替わって、仏教では、そういった煩悩、個人のエゴ・欲望の追求を静めて、全ての人々・生き物の幸福を願い、助けることによって、真の幸福を得ることができると説かれます。
一方、現代の社会が、煩悩的な欲求を追求している限りは、人と人の間の幸福の奪い合いが激しくなり、その結果として、地球社会の中では、先進国と途上国の幸福の奪い合いが激しくなるばかりでしょう。
そして、途上国が感じている不公平感・劣等感は、例えば、イスラム原理主義が先進国を敵視し、そのテロリズムの遠因にもなっていると言われ、途上国だけの問題ではなく、先進国に対するしっぺ返しとなっていきます。
また、地球温暖化問題における各国の協力を阻む大きな障害が、先進国との圧倒的な経済格差に対する不満を背景として、途上国側が、自分たちの経済成長を妨げる温暖化ガスの排出規制に抵抗感があることであり、これは、先進国を含めた地球全体の不幸につながっています。
●慈悲による幸福とは何か
こういった21世紀の人類社会の状況を見ると、布施と慈悲を説く仏教的な思想や、その幸福感は、非常に貴重なものではないかと思います。
それを一言で言えば、競争・奪い合いに勝つことによる幸福ではなく、自分ではなく、多くの他に利益を与えること、喜びや苦しみを分かち合うことによる幸福と言えばいいのでしょうか。
なお、慈悲は、英語では、COMPASSIONなどとも訳されますが、この英語は、COM=共に、PASSION=苦しみを分かち合う、という意味とも解釈できます。
そして、この慈悲による幸福とは、煩悩的な欲求がもたらす興奮とは異質のものですが、感覚的・生理的に感じることが出来るものです。
心・意識が、安定し、暖かく広がり、微細さや深みを得ます。よって、単によいことをしている、という自己満足によるものではありません。
●先進国も苦しむ精神病理的な現象に対する処方箋
さて、最初に上げた三つの問題に加えて、それに付け加えて、現代の先進国の社会では、絶対的貧困や飢餓といった物質的な窮乏は、大体解消されたものの、心の病、精神病理的な症状は、むしろ近年広がりを見せていると言われています。
これは、資本主義・市場原理主義などに基づく、競争社会が激化し、勝ち組・負け組といった区別ができるなど、人々の精神が歪みやすい、厳しい環境に置かれていることに一因があると思います。
この問題に対する処方箋こそが、仏教の慈悲・智慧の教えであることは言うまでもありません。そこには、他人に打ち勝つことではなく、他人を愛することによる幸福という、一部の人だけが得られる幸福ではなく、全ての人々が幸福になる道が示されています。
●地球環境問題の解決に適した仏教思想、東洋思想
そして、この仏教が説く、煩悩的な欲求と別のもう一つの幸福、新しい幸福は、(3)の地球環境の問題を解決する一つの重要な道ではないかと思います。
地球温暖化の問題を含め、地球規模で加速する人間の経済活動・消費主義は、途上国での人口の爆発と共に、地球環境の変動による危機、多くの生物の絶滅、そして、資源・エネルギーの枯渇と奪い合いの危機をもたらしています。
ある試算によれば、世界中の全ての人たちが、先進国と同じ生活水準・消費レベルを実現しようとすると、地球がパンクしてしまい、そのためには、理論上は、地球が3個分必要だそうです。
この問題に対して、今現在、大きく分類すると、二つのアプローチがなされていると思います。
一つ目は、科学技術の開発によって、より効率的なエネルギー技術を導入すること。これは、人のライフスタイル・行動を変えるのではなく、今現在の贅沢・消費レベルを捨てずに、技術の力で、それが、大きな問題にならないようにすること。
二つ目は、そうではなくて、人のライフスタイルを変えること。贅沢・浪費を抑制すること。
もし、一つめの技術的な解決法で、全ての問題が解決できるならばいいのですが、それで、全ての問題を解決することはできず、人が変わらなければならないというのが、おおかたの共通見解ではないかと思います。温暖化問題で、ノーベル賞を受賞した、ゴア氏のグループも、ライフスタイルの変更を呼びかけています。
このライフスタイルの変更とは、それを突き詰めると、煩悩主義・消費主義を超越して、慈悲・智慧による幸福を説く、仏教的な生き方に行き着きます。そのために、私は、仏教が、21世紀の地球問題を解決する上で、根本思想になりうる可能性があるのではないか、と考えています。
●西欧キリスト教文明と東洋文明の相違点
この点に絡めて、西欧キリスト教文明と、仏教などの東洋文明の相違点について、お話ししたいと思います。
結論から言えば、西欧キリスト教文明は、その宗教思想からして、地球問題を抑制しにくく、仏教などの東洋文明は、その宗教思想が、地球問題の解決に適しているということができます。
まず、人の行動パターンを決める根本には、何がよい、何が正しい、といった、価値観がありますが、その価値観の根本には、宗教文化が非常に深く関係しています。
そして、地球環境問題について言えば、西欧キリスト教文明においては、人間は、神の似姿に作られた存在で、他の生き物や地球の自然は、その人間のために神に与えられた、といった世界観があり、その意味で、人間中心主義であり、人間が地球生命圏の主である、といった側面があります。
一方、東洋思想には、例えば仏教の輪廻転生思想など、人間が他の生き物に生れ変わり、他の生き物が人間に生まれ変わるとするものや、神道において、自然の全てに神を見る思想のように、人間と他の生物・自然を区別せずに、平等に尊重し、両者の調和を重視する傾向があります。
多くの日本人は、太陽を拝み、ご来光や、おてんとう様、といった言葉までありますが、西欧人にとっては、物に過ぎず、中世までは、神の作った人間の住む地球の周りを回る物でした。
●超古代の人類の精神性と、一神教の発明による都市文明と戦争
この問題を更に深く突き詰めると、宗教学者・人類学者の見解として、人間の長い歴史の中で、元来は、人は、大自然に神を見い出し、大自然の一部として、それに調和して生きていたというものがあります。
これは、世界各地で残る神話などを見るとよく分かります。人間が自然と調和し、人間と他の生き物の間には、会話などの意思疎通や、相互に生まれ変わるなどといった、豊かな交流があります。
それが、その後、旧約聖書の系統の宗教を含めて、大自然の中ではなく、人の中に、神の替わりとなる存在、神の代理人、神の預言者を置く宗教が出てきたということができると思います。
そして、その人をいわゆる王(=メシア、キリスト)とし、それに従う者達すなわち、王の信者が、民族を形成し、都市文明を形成します。そして、この人間の大規模な組織化が、大きな戦争の原因となったということです。
●日本は、一面において、宗教国家とも言える
日本についても、時代を遡れば、日本民族、日本国家などは、存在しない時代がありました。多種多様な民族の混合体が、現在日本列島と名付けられた東アジアの島々に住んでいました。
日本が、日本と名付けられたのは、天武天皇の時代と言われ、その時代に、天皇という名称も、日本書紀・古事記も出来ました。
これは何を意味しているかというと、その時代に、天皇を絶対神とし、天皇が神の子孫であると位置づける天皇神道の経典である日本書紀・古事記が編纂されて、その天皇を神と仰いで服従する人たち(天皇の臣民)の集まりを日本民族、日本国家とした、ということです。
その意味で、人種に依らず、ユダヤ教を信じる人が、ユダヤ人・ユダヤ民族と言われるように、日本人とは、同じ生物学上のDNAを共有する人間達の集まりではなく、天皇を神と仰いで服従する人々、すなわち、天皇の信者・臣民を日本人としたのですから、その意味では、ユダヤと同じように、日本は宗教国家であるという一側面を、持っていると思います。
その意味で、現在の憲法にも書かれているように、天皇こそが、日本民族の統合の象徴です。すなわち、天皇と天皇を中心とした神道思想なしに、生物学上のDNAだけでは、この島々に住む人たちは、一つに統合することはできない類の集合体です。
そして、その集合体が、国家神道という過激な宗教思想を一つの手段として、大規模な戦争を行ったのが、大日本帝国時代である、ということができると思います。その国家神道も、天皇という人を絶対神・現人神として祭り上げた体制でした。
この視点に基づけば、人間の戦争は、そもそもが、人を神とするタイプの宗教・思想の問題によって発生した、ということができるでしょう。宗教学者によっては、これを一神教の発明・発生としてとらえる人もいます。
●二つのタイプの宗教、そして、仏教の特異性
こうして、宗教には、人を神や、神の化身・代理人として、人と他の生き物や自然を区別するものと、そうではなく、大自然に神を見いだし、人は、大自然の一部として、他の生き物・自然と交流・循環しあうものとする、二つのタイプがある、ということができるかもしれません。
そして、私たちの日常生活においては、たいていの人が、宗教としてイメージするのは、前者の方であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、そして、天皇神道も、皆このタイプに属します。
一方、そういった宗教が圧倒的な中で、釈迦が説いた教えは、非常に特異な部分があります。
釈迦は、絶対神を説かず、釈迦を拝むなと弟子に説きました。拠りどころとすべきは、自分自身であり、法である、と説きました。自灯明・法灯明と言われる有名な教えです。
釈迦は、自分の教団の指導者としても否定し、自分の説いた法についても、そのまま受け入れるのではなく、よく吟味し咀嚼せよとか、疑い騙されるなと説いたと言います。それだけ、自己を神格化されることを否定したと言われます。
これは、釈迦の教えが、ユダヤ教などの一神教が圧倒的に広がっていく中で、人間を中心とするのではなく、人間の自我意識を弱めて、再び、人間の精神を大自然・大宇宙と融合させようというものだったことを示していると思います。いわゆる、無我・空といった思想であり、慈悲もこの思想に結びついています。
●二つの宗教、その両者のバランスが大切
とはいっても、私は、一神教や他の宗教を否定しているのではありません。
昔、人間が、大自然と調和していたと言えば、聞こえは良いですが、現代社会の価値観から見れば、それは、大自然に翻弄されながら生きていた、原始時代と言う側面もあります。
自然の中から人間を区別して取りだし、自然を人間が克服する対象、開発する対象として、西欧キリスト教文明は、この数千年間、特に、この数百年の間に、科学技術などの一面においては、画期的な発展を人類にもたらしたことは事実だと思います。
ただし、その思想が行きすぎてしまい、今、地球規模の大きな問題が起こりつつあるのではないかと思います。
よって、ここで必要なことは、両者のバランスではないかと私は思います。
西欧(キリスト教)文明は、色々な事物を区別します。人と自然を区別し、自分と他人を区別し、両者を競合する対象・対立構造に起きます。そして、自然を開発し、生物資源も消費し、人が競争する社会を作り、発展してきました。
仏教などの東洋思想は、全てのものはつながっているととらえます。人は自然の一部であり、人と他の生き物は循環し、自分と他人につながりを認め、喜び・苦しみを分かち合う慈悲を強調します。
これは、いわゆる、よく言われる二つの原理に相当すると思います。すなわち、陽と陰、男性原理と女性原理、論理性と直感、分離主義と全体主義、左脳と右脳など。
こうして、東洋と西洋のそれぞれの思想は、人間の右脳と左脳のように、両者の間のバランスが取れて、融合することが、人類にとって最も望ましいことではないかと思います。
なお、釈迦の教えには、中道というものがあり、また、釈迦の教えを日本に導入した立役者である聖徳太子には、和の思想があることは、ご存じの通りです。
中道とは、煩悩にも苦行にも偏らないバランスの取れた修行を意味する言葉ですし、和という言葉も、調和・平和という意味に加えて、中庸・バランスという意味があります。
●ひかりの輪の目指す宗教・思想
こうした認識に基づいて、ひかりの輪は、全ての宗教を尊重しながらも、人類の精神のバランスを取り戻すために、仏教、神道、自然信仰といった、東洋の古代の思想・叡智を重視して、21世紀の社会に合わせて、それを創造的に蘇らせようとしています。
ここで、創造的に蘇らせる、と申し上げたのは、本質的には価値がある古代の叡智も、今のままでは、現代人が、実際にそれを学ぼうとしても、様々な障害があると思うからです。
例えば、難しい漢字で書かれた難解な仏典、読んでもよく分からない解説書、複雑すぎる瞑想法など。これらは、現代に生きる私たちの心を解放する実際的な智恵となるには、難しいでしょう。これは、伝統宗派が形骸化し、僧が身近な導き手ではなくなったことも同様でしょう。
また、仏教も含めて、古代の教えは、古代の人間の知性・世界観に基づいたものですから、現代人が重視する科学性や合理性と矛盾した、厳しく言えば、盲信に近い教義の部分もあると思います。それでは、宗教と科学の分裂を解消できません。
こうして、現代人にとっては、容易に、それを理解・吸収し、その本質の価値を実感しうるものにはなっていない面が多々あり、これらの古代の叡智について、その本質を維持しつつも、今の時代に合わせて、その解釈・表現・実践方法などを新たにして、創造的なよみがえり、再創造を行う必要があると思います。
そして、そうすることによって、21世紀において、人間の心身が、適切なバランスを取り戻し、その結果として、宗教と社会、宗教と宗教、先進国と途上国、人類と自然、宗教と科学との対立が解消される時代が来るために、少しでも貢献できればと考えています。






