宗教も社会も変わるべき時――少欲知足と分かち合いこそが幸福の道
(2008年12月02日)
(2008年06月28日会員向けメッセージより転載)
●幸福追求のあり方を改めるべき時代
自分は、21世紀というのは、宗教も社会もその幸福の追求の仕方について、根本的なところから改めていくべき時代ではないかと思う。それは、もっと幸福になろうとするのではなく、「今の幸福に気づいて、それを他と分かち合って幸福になる」という考え方への大転換である。
現在の人類社会を見ると、これまでの資本主義経済が行き詰まりを見せている。
地球の環境・資源・エネルギーには限界があるのに、爆発する人口のもとで世界中に経済競争が広がり、水、食料、石油等の資源の不足が懸念され、温暖化などの地球環境問題が進行している。つい最近も、食料危機が悪化し、石油価格が高騰し、先進国の首脳による会議も有効な打開策を打ち出せないでいる。
これは、今より大きな快楽を求め、それを充足することで幸福になるという従来型の幸福追求のあり方は、もはや続けることができないということだと思う。
資本主義は、欲求を増大させ、それを満たすために生産と消費を向上させることが根本原理だが、もはや、それを続けることはできなくなりつつある。
そして、このような状況にあって、最近は、「省エネルギー」「リサイクル」「持続可能な循環型の経済」「スローライフ」「ロハス」といった考え方が世の中に出てきたが、これは、いずれも欲求をひたすら増大させて、猛スピードで、資源・エネルギーを大量に消費しては使い捨てる従来型の経済システムやライフスタイルからの「脱皮」である。
この状況で重要なことは、「少欲知足」と「分かち合い」であることは明らかである。
すなわち、地球の資源・財・富が限られている以上、先進国は、これまでのように、欲求と消費を増大・向上させるのではなく、足るを知り、それを途上国と分かち合う以外には、すべての人たちが幸福になる道はない。
途上国全体が、先進国と同じまで消費水準を上げるには、地球が一つでは足りず、三つ必要であるという試算や、そうなった場合は、世界全体の消費は、現在の十倍になるというデータがある。地球が一つしかない以上は、それを皆で分かち合うことが必要なことはいうまでもない。よって、「少欲知足」と「分かち合い」なのである。
●幸福感は心の生み出すもの
しかし、「少欲知足」と「分かち合い」といっても、それは、単に先進国の、今まで豊かであった者が、今後はずっと我慢を続け、息苦しい生活をして幸福が追求できないという意味では決してない。
それは、「幸福感」は、本質的には心の生み出すものであり、欲求が大きければ、多くを消費・所有しなければならないが、欲求を減らせば、少なくても満足できて(=少欲知足)幸福でいられるという原理があるからだ。
すなわち、「幸福感」は、「欲求の大きさに対する充足度」という相対的な関係で決まるものであって、消費・所有の大きさだけでは決まらず、消費・所有が多くても、不幸に感じる人もいれば、逆でも幸福に感じる人がいるということである。
そして、重要なことは、欲求・貪りには際限がなく、満たしても満たしても、「もっともっと」という欲求が生じてしまい、回転する檻の中のリスのように、欲求を充足するために、いつまでも走り続けなければならないことだ。
さらに、こうした無限の悪循環の中で、欲求を満たすことができないときや、得ていたものを失うときの苦しみが生じる。前は、それなしでもいられたのに、いったん得て執着が生じると、失うことができなくなってしまう。
これは、正に今の先進国の状態である。獲得した豊かな暮らしに執着し、それをもっと良くしようとはしても、途上国と分かち合おうとはなかなかしない。
先進国の10億は飽食で物にあふれ、途上国の10億は、饑餓に苦しみ、絶対的な貧困や教育機会の欠如などに苦しむが、世界の中での分かち合いの実践は、乏しいどころか、依然として多くの国が、自国の利益・国益にとらわれて、実質上奪い合いを続けているようである。
地球全体の環境や資源エネルギー問題を考えれば、もはや豊かすぎる先進国が、消費レベルを落とし、途上国の生活水準を上げる必要があるが、なかなか実現しそうにない。
そして、これは、同じ一つの国の中で、途上国であれ、先進国であれ、非常に豊かな人と、貧しい人の格差が広がっていることにも通じる現象だ。
こうして、欲求を満たして感じるたぐいの幸福感は、際限のない欲求の追求に繋がり、無限の悪循環の中で、執着の拡大とそれによる弱さ、愚かさ、苦しみをもたらしている。
途上国の地獄絵や、多くの種の絶滅、そして環境・資源・エネルギーで、破局の危機を抱える、21世紀の地球の悲劇は、正に、際限のない貪りが、人を愚かにした結果の悲劇ではないか。
しかし、その一方で、足るを知って、自分の幸福を他人と分かち合い、他人を幸福にすることで得られる幸福がある。
それは、仏教的にいえば、「布施」や「慈悲の実践」といったものであり、それによって、その人の「仏性」、一般的にいえば、その人の「良心」が活性化して喜びを感じるというものである。
欲望を満たす場合の幸福は、快楽の追求であって、その本質は一時的な興奮であり、慣れればあまり感じなくなるのに、失うことには大きな苦痛をもたらす。
その意味では足るを知り、他と分かち合う、慈悲による幸福こそが、真の喜び、真の幸福ではないかと思うのである。そして、この慈悲による幸福には、快楽・興奮はないが、「落ち着いた平安な心」と、「温かく大きく広がった心」がある。
●現代の企業や宗教の偽り
さて、一般企業は営利を追求し、そのために、人々の欲求を刺激しようとするが、現代の宗教の大勢はどうであろうか。
多くの現代の宗教においては、その門をたたく人は、「自分がもっと幸福になりたい」と思ってそうしている。そして、宗教団体の側も、門をたたいた人のニーズに合わせ、その宗教を実践するならば、このように今よりも幸福になると主張する。
しかし、こういった導きだけでは、一般企業の販売やサービスと本質的には変わらないのではないかと思う。むろん、こういったパターンを全く否定するつもりはないが、「もっと幸福になりたい」という欲求を満たし続けることは、本質的には決してできず、その中で、先ほどいったような悪循環や執着の苦しみも生じてくる。
それどころか、自己利益を追求する貪りに乗じて、企業でも宗教でも、多くの「偽り」が行われていないか。それは、確たる根拠のない不利益を強調する「脅し」、実在しない利益を喧伝する「まやかし」によって行われる。
貪りを背景に、人々の不安や妄想を駆り立てて、お金を動かすのである。
例えば、「水子が憑いているのが不幸の原因であり、多額のお布施がその供養に必要である」といったたぐいの話もそうではないか。旧団体が主張した「20世紀末にハルマゲドンとキリストの登場」という話も、意図的ではなかったろうが、結果的には、(20世紀末には)現象化しない問題と救済の主張であった。
●21世紀に必要な幸福の考え方
では、これからの時代において、宗教がなすべき導きのあり方とはどういうものだろうか。
私は、特に日本のような先進国の人々については、「すでに自分たちが十分に幸福である」ことに気づかせることが重要な導きではないかと思う。すでに十分に幸福であることに気づかず、「もっと幸福になりたい」とか、「前はもっと幸福だったのに」と思うことが、不幸の大きな原因となっているからである。
そして、生きていくのに必要以上の物を求めずに足るを知り、あるがままの状態に満足して生きることや、今既に与えられたものに感謝し、自分よりずっと不幸な人の存在に気づいて、その人たちと分かち合うことが非常に重要な実践であろう。
これは、仏陀の説いた、貪りを戒めて施しをなし、慈悲を培うという根本的な法則の実践でもある。貪りは悪業となって「苦しみ」をもたらし、施し・慈悲の心は、善業となって、「幸福」をもたらすというものである。
これは、2600年前の古き法であるが、21世紀の現代社会にこそ、正に必要とされる新しき法でもある。
特に先進国の人たちが、21世紀の地球を破局させないために必要な根本的な道理だと思う。今ほど、仏陀の教えの重要性が感じられるときはない。
これは古くて新しい教えであり、宗教・宗派を超えた価値を持つものである。
社会も宗教も、今自分たちが21世紀の地球にあって、どんな立場、位置づけにあるのかということをよく考えて、「どうしたら幸福になるか」を考えるときに、「今よりももっと幸福になって」とか、「今、不幸な自分が幸福になるように」といった考え方が本当に正しいのか、落ち着いてよく考えるべきだと思う。
それを改め、「今の幸福に気づき、それを地球全体の人々・生き物と分かち合う」という考え方に、大転換していくべき21世紀ではないだろうか。






