21世紀の宗教のあり方

21世紀の宗教のあり方『地球教団の理想』
(2008年02月10日)

    21世紀の宗教のあり方『地球教団の理想』


   前にもお話ししましたように、ひかりの輪は、従来の宗教のあり方を超えた、21世紀の宗教・思想のあり方を追求しています。

   そして、その一つのポイントとなることをお話ししたいと思います。それを一言で言えば、地球が(自分の)教団である、という心構えであるということができます。

   従来の宗教団体は、自分の教団と他の教団を区別することに、大きな特徴があります。要するに、自分の教団が、他の教団より素晴らしいという主張をするということであり、そのため、「宗教は、皆、自分の教団が一番である」と主張するという批判はよく聞かれます。

   私たちは、これをどうにか乗り越えることができないかと考えています。というのは、ひかりの輪の思想が、この世界の全てのものは、本質的には一体であり、全てつながっているという一元論的なものだからです。


   とはいえ、上記のような、自分が一番であると主張することは、宗教に限られたことではありません。宗教は社会の中から生まれるものである中で、社会では、ほとんどの企業が自社の製品・サービスを、他者のものより優れていると主張するのは、当然のこととして行なわれています。

   それより以前に、個々人が、自分が、他人より優れていることで、幸福になるという価値観は、この競争社会全体に浸透したものだと思います。

   そして、宗教と言えども、実際に、人、物、金といった要素が揃わなければ存続しない中で、自分の宗教が他の宗教よりも優れているという主張することで、自分の団体の維持をする、ということは、人類の長い宗教の歴史の中で、必然的に起こってきたことではないかと思います。

   しかしながら、20世紀までの宗教を見れば、そして、これは本質的には宗教に限らないわけですが、宗教・宗派の間の争い、対立は、非常に大きな問題になっていると思います。

   いわゆる、イスラム文化圏とキリスト教文化圏の間の文明の衝突については、90年代前半から、長らくその危険性を指摘されていましたが、9・11テロ事件と、その後のアフガニスタンの戦争、イラクの戦争を初めとする対テロ戦争の勃発によって、現実のものとなりました。

   この戦争が、二つの異なる宗教・文明の間の戦争ではなく、アメリカとテロリストの戦争である、という考え方もありますが、そうではなく、やはり、宗教・宗派の違いが、その対立の根底にある、という見方もあり、少なくとも、これを全く無視することは出来ないと思います。

   米ソの冷戦が終了した後に、世界各地で民族紛争が起こりましたが、その紛争の根源には、やはり、宗教を中心とした文化の違いがありました。ユーゴスラビアでも、インドネシアでも同様だと思います。

   冷戦とは関係なく、北アイルランドの紛争、スリランカの紛争、そして、世界の火薬庫とも言われる中東のパレスチナ・イスラエルの紛争など、宗教の違いが根底にある紛争は、世界各地に広がっています。

   よって今、世界では、宗教的な違いを多様性として相互に受容して調和するべきである、という考え方が広がっています。チベット仏教のリーダーであるダライ・ラマ法王なども、そのような主張をされていると思います。

   ひかりの輪は、そのような宗教的な対立を超えることを、団体の大きな目的の一つとしています。

   それは、脱会したオウム真理教において、自分たちの教団がキリストの教団であり、唯一絶対のものである、という考え方によって、社会や他の宗教と対立して、一連の事件が起ったという苦い教訓に基づいていますが、具体的にどのような考え方で、それを超えていこうとしているかについて、以下にお話ししたいと思います。


●人を神としない原則

   まず、第一に、人を神としないという原則です。

   宗教は、冷静に考えるならば、皆神ではない人間が作り、神ではない人間が信仰するものですから、自分の宗教が何の欠陥もない、唯一絶対のものであって、他よりも優れていると主張するのは、矛盾があります。

   しかし、従来の宗教は、オウム真理教もそうですが、教祖・開祖は、神・仏と完全に一体であり、その教えは神の与えた完全なものであり、そして、それを信仰している信者は、神の教え、神の意志を実践しているという考え方を持ちます。

   なぜ、このような考え方が生じるかというと、一つ目には、たいていが、教祖とされる人たちには、一定のカリスマ性、すなわち、超能力とか、神秘的、超常的なエピソードがあるものですが、多くの人は、そういった超常的なものを見ると、それによって、その教祖を絶対化しやすいということがあります。

   これは、人間の盲点であり、ある意味で、人は神秘的なものに弱いと言うことだと思います。神秘的なことは、(多くの人にとっては)滅多に起こらないですから、そういったものがよく起こる環境などに育ち、そういったものに慣れている人以外は、超常的な力を振るう人を見ると、神の化身であると錯覚してしまうのでしょう。

   しかし、世の中の精神世界や宗教といったものをよく知るならば、神秘的なこと、超常的なことは、ままあるものであり、それがあったからと言って、決して、その人が神なわけでも、その宗教が絶対なわけでもありません。生まれつきそういった能力がある人もいます。

   むしろ、人間には、誰しも、潜在的には、未だ現代の科学によっては十分に解明されていない能力があり、その能力が顕現しやすい人と、相対的に顕現しにくい人がいるというだけであり、神につながっている人と、つながっていない人、という二種類の人間がいるわけではないと思います。これは、第六感とか、夢の知らせとか、直感・霊感、といった言葉があることもからも理解できることです。

   しかしながら、そういった神秘的なものに対して慣れが無く、その意味で、免疫が無く、うぶで未熟な場合は、それを過度に絶対視してしまう場合があります。

   特に、そもそもが、誰か他人に依存したいと考えているタイプの人、例えば、いろいろ苦しいことがあって、藁にもすがりたい心境の人が、その際に、神秘的な力で救われた場合は、それを絶対視して、それに過剰に依存してしまいやすいと思います。

   これは、既に冷静な視点を失っている状態であり、対象が、絶対である、という合理的な客観的な根拠があるから、そう信じているというのではなくて、対象に対する愛著が生じている状態です。

   それは、対象が、自分に与える利益が、非常に大きく感じられる状態ですから、そのために対象に愛著し、対象の言うままに、対象が絶対であると信じる、信じたいという心理状態が生じています。

   そして、オウム真理教の例を見れば、他に依存する心理状態は、単に、現実生活においてさまざまに苦しんでいる、一般に弱い人だけに限ったことではなく、知的・精神的な能力が高い、例えば、高学歴でエリートの中にも生じます。

   それは、超能力を得たいとか、解脱・悟りと得たい、といった超常的な自己開発を欲求して、その目的の達成のために、教祖を絶対視する帰依・服従・依存が必要であるという教義が説かれた場合でした。

   こうして、人は、神秘的な現象に対して無知であったり、教祖・宗教に依存することによる自分の利益が大きいと感じられる場合に、客観的に見れば、安易に、その教祖や宗教を絶対視する傾向があると思います。

   これは、冷静な第三者から視れば、不思議なことでしょうが、逆に全く神秘的なことを信じず、宗教を信じない人たちも、自分の考えでは、ある意味で危うい部分があると思います。

   というのは、そういったタイプの人は、ひとたび、自分自身が、否定できないほど明確に、神秘的な現象を体験してしまうと、それまでそういったことを全部否定してきたために、かえって免疫が無く、一転して、過剰に信じてしまう場合があるからです。

   また、神秘的なことを単純に全面的に否定・無視する人の場合は、盲信している人を救い出すことは出来ません。両者は話しがかみ合わず、盲信している人は、全面否定する人について、神秘的なことを知らない人=真理を知らない人である、という単純な軽蔑が生じるからです。

   これは、オウム真理教の信者にも起こったことであり、故に、オウム真理教の信者などを脱会させる際は、彼らの体験や考えを全面否定すれば失敗し、そうしない方が成功するということが、よく言われています。

   よって、一番望ましい状態は、神秘的なことを絶対視するのでもなく、神秘的なことを全面的に無視するのでもなく、神秘的なことはままあることで、人間にとって自然の一部であり、それをもって何かを絶対視しないという、成熟した態度であると思います。

   しかしながら、現代の社会は、ダライ・ラマ法王がその著作(チベット仏教入門)で指摘している通り、一部の宗教に過度に依存する人と、そういった人たちを嫌って、宗教を完全に否定する一部の人と、大半の無関心な人に分かれています。

   これは、社会が、宗教という現象に、いまだに未熟であることを示しており、今後は、それがより成熟していくことによって、宗教による問題が減少していくだろうと思います。

   このような視点に立って、21世紀の宗教家、宗教団体がなすべきことは、人を神としないことであると先に申し上げました。

   具体的には、その宗教家・教祖は、どのような超常的な体験が自分に起こっても、また、周囲の信奉者が自己を称賛するような超常的な出来事が起こっても、自分を不完全な人間であると自覚し、自己の中と信奉者の前で、自分を非絶対と位置づけ、一生涯、自己研磨を続けるという姿勢を大原則とすることだと思います。

   これによって、宗教は、これまでの大きな矛盾を解決することが出来ます。

   その矛盾の第一は、教祖が、自分は、神ではなく、完全ではない人間に過ぎないのに、自分に起こった体験について、それが、完全な神の体験であると思いこんでしまうことでしょう。オウム真理教で言えば、麻原元教祖が自己を最終解脱者と位置づけたことが、これに当たるかも知れません。

   しかし、人の体験は、あくまでも人の体験であって、人類史上のすべての宗教の開祖が説く神についても、その全ては、開祖の神体験であって、人間の内部の体験であり、その開祖と独立した、神・絶対者の存在を証明する客観的な事実ではありません。

   よって、21世紀においては、教祖・開祖が、自己の神体験を絶対視しない謙虚さ、これは、そういった人にとっては、相当に強い意志や智恵・勇気が必要な場合があるかも知れませんが、これを持つ必要があると思います

   教祖が自分を神の化身と位置づけると、その次の段階で、信者が、自分自身が神ではなく、教祖を神であるかどうかを判断する能力がないことに気づかずに、教祖を神であると判断して信じてしまう状態になります。

   そして、そうした自己を過信する教祖と、盲信する信者の集団の中では、客観的には、人間達が作った宗教団体の教えが、人を超えた神によって与えられた教えであると考えられるようになり、完全無欠の物として絶対視されるようになります。

   こうして、この狭い世界の中では、自分たちの絶対性について、ブレーキをかけるものは誰もいなくなり、その結果として、その世界の内部と外部では、価値観が大きく食い違って行き、外部との摩擦が生じやすくなると思います。

   特に、ここで生じやすい心理状態が、自分たちを絶対視しているために、当然、それとは違った他者、非信者や他宗派を軽蔑・否定することになるという問題です。そして、これが、教団と社会、宗教と非宗教の摩擦や、宗教・宗派の間の摩擦の原因となっていくということだと思います。


●地球教団の理想

   さて、人を神としない、という原則の次に、自分が考えていることは、地球教団という理想です。

   宗教は人の作るものであり、開祖もその教えも完全無欠の絶対のものではない、という視点に立つということは、決して、その開祖の教えを全面否定しているものではありません。

   その中には、それだけの人を惹き付ける以上は、良いところが多々あるということを認めた上で、それが完全なものではなく、間違っているところもあって、ないしは、それ以上のものを目指して努力すべきことがあるという考えです。

   よって、この考えの延長上として、自分の宗派の外、すなわち、他宗派等の教えにも、当然のこととして、学ぶべきところが多いにある、何かはあるという考えが、必然的に出てくると思います。

   そして、これを積極的に拡大するならば、地球のあらゆる宗教・宗派・思想について、素晴らしいところは学んでいこうという考え方が出てきます。

   この考え方を私は、とりあえず、地球教団の理想と名付けたいと思います。

   すなわち、私たちの教団とは地球全体であり、私たちの教えとは、地球にあるすべての良い教えであるという考え方です。

   そして、ひかりの輪という団体名は、この理想を象徴しています。

   地球にある、すべての良い教え、叡智・智恵は、智という文字が、日という文字を含んでいるように、精神的な光と喩えることが出来ます。ですから、地球の多くの叡智の光を輪のように結びつけて一つにしていくという理想を現わす言葉として、ひかりの輪という言葉になります。

   こうして、ひかりの輪という名称は、現実としては、私たちの団体と他の団体を区別するための名称である一方で、理想としては、私たちの団体のあり方が、自分たちの団体と他の団体の垣根を越えて、地球の全ての叡智の光りを結ぶ輪を形成したいという考え方を示しています。

   そういったこともあって、今現在、ひかりの輪では、宗教・宗派の区別をせずに、日本各地の聖地・神社仏閣を巡礼し、その中で見いだした良いものは、自分たちの団体にも色々と取り入れています。

   この、地球教団という考え方は、自分と他の宗教・教団の区別から生じる、闘争・紛争を超えるために、非常に重要であると考えていますが、それだけでなく、そもそもが、宗教家、信仰者、求道者が、真実の悟りに至るためにも非常に重要ではないかと考えています。

   自分の体験上は、「地球全体が、自分の教団である」という認識を持つことで、宗教家、信仰者、求道者は、自分が所属しているグループ・集団のエゴ・自我意識を超えて、地球意識(惑星意識)、さらには、宇宙意識といった、広大な意識を持ちやすくなると思いますし、これは、いわゆる仏教などが説く、悟りに一歩近づくことではないかと感じます。

   さらに、賢明な方は、この地球教団という考え方は、単に宗教の問題を解決するだでなく、21世紀世界を覆っている、他の重大な問題の解決にも有効で必要な考え方であるということも、おわかりいただけると思います。

   途上国と先進国の南北格差の問題は、「日本だけではなく、地球全体が、自分の社会である、自分の家族である」という視点(地球社会、地球家族)が有効だと思います。

   さらに、いっそう重要になってきている地球環境の問題についても、「人間だけでなく、地球の全ての生態系・大自然全体が、自分の家族である」という視点が、非常に重要だろうと思います。

   こうして、個々人の精神の向上と、21世紀の地球人類の重要な問題の解決のために、地球教団、地球社会、地球家族という理想をもって、ひかりの輪の活動を進めていきたいと思います。

 

 

 

 

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