超能力による神格化・争いを超える
(2008年02月21日)
オウム真理教においては、相当に超能力が重視されました。
まず、麻原元教祖の最初の書籍が、「超能力秘密の開発法」という名前で、副題として、超能力のつかない修行はにせものだというものでした。
そして、元教祖を最終解脱者であるとか、シヴァ神の化身であるとして神格化していく背景には、元教祖の超能力というものがありました。この神格化が、一連の事件の遠因となったのですから、これは重要な問題です。
よって、これまでの自分の修行や経験に基づいて、超能力というものについての自分の考え方を述べてみたいと思います。
第一に、多くの人たちが、超能力ないし、超能力者について、慣れがないために、そういう人に会うと、すぐに神格化してしまう問題があると思います。これは、私自身が、麻原元教祖について、なした過ちではなかったかと思います。
元教祖について言えば、確かに、一定の超能力(オウムでは、神秘力と読んでいました)というものがあったと思います。こう書くと、元教祖の事件しか知らない方は、感情的に反発されるかもしれませんが、多くの信者の実体験として、ないしは実感として、そういうものがあったのは事実です。
ここでの最も重要なポイントは、一定の超能力があったからと言って、その人が神でも、神の化身でもない、ということだと思います。そして、そういった超能力のある人は、世の中を広く探せば、まま存在するということです。これさえ押さえておけば、超能力があるからと言って、その人をむやみに神格化することはないでしょう
。
しかし、超能力の存在を全面否定し、例えば、麻原元教祖についても、信者が言うような超能力は全くなく、それは手品か何かのインチキだったはずだと考えることは、その人の意に反して、オウムのような教祖や宗教を逆に利する恐れがあります。
そういったタイプの人は、教祖の超能力の実体験をしている(と思っている)信者から見ると、超能力の存在を知らない無知な人と見えて、相手にされず、信者を盲信から脱却させることは出来ません。
更に、そういったタイプの人こそ、自分自身が、超能力・超能力者を体験すると、一転して、その教祖や宗教を信じ込んでしまう可能性があります。これは、超能力や宗教についての未熟な対応と言うに尽きます。
私の経験では、確かに麻原元教祖には、一定の超能力がありましたが、私がオウム・アーレフから脱却する中では、ある面では、それ以上の超能力を持つ人に出会ったことがありました。
しかし、その人に聞くと、その人の超能力の少なくとも一部は、生まれつきのものであり、麻原元教祖が主張したように、(最終)解脱者であるからこそ、有しているものではありませんでした。麻原元教祖が主張した、超能力=解脱者=神の化身という公式が崩れます。
実際に、その人は、日本の伝統武術と、仏教を初めとする宗教思想を何十年に渡って探求してきた求道者ですが、自分は、不完全な人間であり、一生修行のみであると語り、実際に人間的な要素が、いろいろと見て取れました。
こういう人は広い世の中に、少なからず存在します。この人以外にも、私の複数の友人が、元教祖のような超能力を生まれつき、ないし修行によって持っているが、自分は、全くの人間であり、自分なりに苦しみもあると語る人がいることを教えてくれました。
そういった意味で、超能力=神の化身でもないし、超能力=人格の完成でもないと思います。
●麻原元教祖の真実について
麻原元教祖について言えば、世間一般の人から見ると、体も太っているし、多くの女性に子供を産ませたし、自分に都合の悪い者はポワと称して殺してしまうということで、とても人格者、解脱者には見えないと思います。ましてや、今や、勾留中で、重度の拘禁症である、とされていますから、精神的にも弱い人だと思う人が圧倒的ではないかと思います。
しかし、信者が体験していた麻原元教祖は、信者の価値観や視点からのみすれば、煩悩を滅尽した聖者のように見えた面がありました。それは、元教祖が、信者の前で、努めてそのように振る舞ったということかもしれません。
私が、元教祖の高弟として、反省することは、やはり、教団活動の中で、元教祖を持ち上げすぎてしまったということは事実です。それは、一つには、オウム教団の中では、元教祖を称賛すれば、グルに帰依しているということで、自分自身が良い修行者として評価されたからだと思います。
また、オウムに限らず、宗教団体とは、教祖が、その団体の最大のアピールポイントなのですから、幹部が、教祖を持ち上げていく、組織的な構造になっていると思います。
私自身は、一般にもある程度知られていると思いますが、元教祖に対して、あくまでも他の弟子に比べればですが、自分の意見を言うタイプであり、イエスマンではなかった、と思っています(とはいえ、これは、あくまでも、他の弟子との比較ですから、世間一般の方から見たら、そうではないかもしれません)。
しかし、私が、一般の信者を前にする時は、一貫して、麻原元教祖の超能力や偉大さを宣伝する一方で、自分が体験した、元教祖が超能力を発揮できなかった様々な事例や、人間的な弱さをしめす様々な事例については、ほとんど全く語りませんでした。
これについては、他の高弟・幹部も全くそうだと思います。それは、裁判の証言の中にも出てきますし、同じく高弟であった早川紀代秀氏(坂本弁護士事件で起訴)の手記などを読んでも、元教祖の非絶対性に悩む氏の葛藤が、いろいろつづられています。
この結果として、一般信者の方が、私たち高弟よりも、ずっと元教祖やその家族を神格化している、と思います。そして、私は、後日、この自分の行為のつけを払わなければなら
なくなりました。
それは、自分が、オウム・アーレフを脱会する前に、教団が、いわゆる上祐派と反上祐派・中間派などに分かれた際のことですが、私が、一連の事件のことを含めて、麻原元教祖(やその家族)を神格化するのは、不合理である、と主張しても、その主張を受け入れない信者が多くおり、私は厳しく批判されました。
彼らは、自分がオウムの幹部の1人として、元教祖を神格化したことによって生まれた、まさに自分の生んだ鬼っ子でした。
●超能力は、縁によって生じる、相対的なものであること
もう一つ、自分なりの超能力についての考え方を述べておきたいと思います。
それは、超能力というのは、自分の経験によると、科学の法則のように、常に一様に発揮できるものではなく、多分に偶発的なところがあるということです。
これは、ある意味で、当たり前のことで、現在の科学では、科学の検討の対象となるためには、その現象の再現性や普遍性が必要で、いつでも誰でもが、その現象を実験で確かめられなければなりません。
しかし、超能力者の発揮する超能力現象には、こういった普遍性・再現性はなく、時と場合によって、生じたり生じなかったり、そして、その生じ方が違うものです。
そして、自分が強調したいこととして、超能力者が、例えば、他人の心を読み取るなど、超能力を発揮できるかどうかは、それを体験する相手方との相性・縁といったものがあるように思えることです。
これは、何も特別なことではありません。例えば、母親には、娘の気持ちが、言葉を交わさなくても、手に取るように分かる、ということがあると思いますが、これは、母親の娘との縁によって生じる超能力だと思います。
そして、宗教の教祖と信者の関係も、この母親と娘の関係と似ていると思います。教祖と縁のある人と、縁のない人がおり、縁のある人が、教祖との間で超能力現象を経験するということです。
その意味では、超能力というのは、超能力者とされる人物が、他から独立して有している固有の力なのではなくて、縁のある他の人たちとの相関関係によって生じる現象ではないかと思います。
よって、世間一般で、あの人は超能力を持っているとか、持っていないとか、という表現は、誤解を呼ぶのではないかと思うのです。
自分の考えに基づいて、この問題を厳密に表現すれば、
(1)超能力とは、本来は、母親と娘の話にあるように、人間が誰しも有している直感・第六感といったものであり、人間の能力を超えた力として超能力と表現すると、誤解が生じる部分があり、むしろ、全ての人間に潜在している自然な力の一環であると表現した方がいい。
(2)また、それは、超能力者とされる人が、他から独立して有し発揮する力ではなくて、他との相性・縁に応じて生じるものであるから、その意味で、超能力者と非超能力者を強く区別し、ある人が超能力を持っていると表現すると誤解が生じる部分があり、むしろ、縁のある人々の間に生じる超常現象であると表現した方がいい。
ということになります。
例えば、復活という奇跡を起こしたイエスキリストにおいても、イエスは、全人類の前で、奇跡を示したのではなく、聖書が記載する、復活の奇跡も、水上歩行の奇跡も、パンの奇跡も、それが事実であったとしても、人類のごく一部の人たち、その時、イエスと縁があった人たちとイエスの間で生じた超常現象でした。
実際に、人類の歴史において、地球の全ての人々の前で、その人達を信者にするだけの奇跡・超能力を示した宗教家は、いまだかつて、1人も存在しません。これは、イエスに限らず、ブッダも、マホメットも、モーゼもそうですね。この事実のために、世界は、様々な宗教に分かれていると言うこともできます。
そして、ブッダは、縁がない衆生は(ブッダでも)救済できない、という有名な言葉を残しています。これは、私の考え方を裏付ける、非常に興味深い言葉です。
よって、イエス、ブッダ、マホメット、モーゼといった、それぞれの開祖や宗教に縁のある人が、それぞれ、キリスト教徒、仏教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒などに、なっていくのだと思います。その過程で、その開祖や宗教に絡んで、人によっては、奇跡を体験したり、そうではなくても、何かを感じることがあるのでしょう。
●宗教と社会、宗教と宗教の融和のために
そして、この理解が、宗教団体と社会の摩擦や、宗教宗派の摩擦を紐解く一助になるのではないかと思います。
というのは、ある宗教を信じている人は、その宗教を信じず、反対する人たちについて、自分の教祖の超能力を知らない無知な人たちであると軽蔑し、また、信じておらず、反対している人は、その教祖には超能力など無く、信者は騙されているに過ぎないと考えることが多くあります。
こうして、両者の認識にギャップが、両者の間の摩擦の原因になります。これは、宗教と社会、宗教と宗教の間の対立摩擦に同じように当てはまると思います。
よって、こういった問題には、超能力を含めた教祖の力というものが、そもそもが、科学の法則と違って、誰にでも感じられたり、感じられなかったりする、絶対的・普遍的な性質を持つものではなく、人によって、感じられたり、感じられなかったりする、相対的な現象である、という理解が必要ではないかと思います。
こうわきまえておけば、自分と違った経験をする人の気持ちや立場を受け止めやすくなると思うのです。
●ひかりの輪の超常現象に対する姿勢
こうした見解に基づいて、ひかりの輪では、
①超常現象、神秘現象は、何者かを神格する根拠としてはならず、それにまつわる人たちの人格の成熟とは、必ずしも一致しないものであり、
②超常現象、神秘現象は、超能力者とされる人が有し、その人なら誰に対しても発揮できる普遍的な力ではなく、縁のある人々の間で起こる相対的な超常現象であり、
③以上を踏まえることで、超常現象、神秘現象による過ちを十分に排除した上で、事実として存在する以上、超常現象、神秘現象を否定せずに、その存在は肯定する、
という立場です。






