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2011年夏期セミナー特別教本「輪の思想と新しい宗教の信仰のあり方」第二章
(2011年08月11日)

11日20:00から生中継される代表講話で使用する教本テキストです。

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第二章 ひかりの輪の信仰のあり方:新しい宗教の創造のため

ここでは、ひかりの輪が考える、21世紀の新しい宗教・思想において、神仏とは一体何か、神仏への信仰とはどうあるべきか、という信仰上の根幹となる思想について説明する。これらの思想は、釈迦牟尼など、いにしえの聖者の智慧に基づいているが、同時に、現代の合理的な知性・理性とも矛盾することがなく、盲信を超えた宗教・思想の基礎となるものと自負している。


1.内の神、万物の中の神という思想

(1)さまざまな宗教に見られる内なる神

ひかりの輪では、それぞれの人・生き物の中にも、神仏がいるという思想を説いている。
この内側にもいる神、内なる神というものは、あまりに聞き慣れないだろうが、実際には、さまざまな宗教に見られる。

日本の宗教・文化についていえば、その発祥となった縄文の精霊信仰も、万物に精霊が宿るという思想である。神道も八百万の神として、生き物に限らず万物に神の存在を認めているし、男の子・女の子を意味する彦・姫という言葉は、いずれも神の子を意味している。
大乗仏教には、仏性思想があり、すべての衆生は、仏性(=未来に仏陀になる可能性)を有し、仏の胎児であり、本質的には仏陀であるが一時的な汚れに覆われているとする。
その大乗仏教は、日本に入る中で、日本らしく変容(進化)して、生き物に限らず万物に仏性を認めるようになった(山川草木悉有仏性)。
ヒンドゥー教・ヨーガの思想も、自己の本質としての真我(アートマン)を説き、それが宇宙の根本原理・創造者であるブラフマンと一体・同一であるとした(梵我一如の思想)。

そして、科学的・合理的に考えると、有史以来、多くの神が語られ、宗教が生まれてきたが、神を体験したのは、他でもなく人間の心・意識・脳である。よって、人の語る神とは、合理的にはあくまで人の意識・脳の中の神体験であり、宗教を作ったのも合理的に考えれば(神ではなく)人間である。
こうして、人の心・意識・脳の働きの中にないものは、人が体験できるはずがないから、人の中に神の要素・神性・仏性があると考えるのが合理的なのである。

(2)万物が平等で一体で神性なものという信仰

それぞれの人の中にも、生き物の中にも、神仏がいるという思想は、必然的に、万人・万物を平等に尊重する思想となる。例えば、大乗仏教では、この世の万物が平等な仏性の顕現であり、不必要なものは一切ないと説く。
これを言い換えれば、宇宙の万物が信仰対象となるのである。この際、一元法則に基づいて、この宇宙の万物は一体であるから、宇宙の万物を平等かつ一体である神聖なものとして信仰するということになる(聖なる一体への信仰)。

(3)自灯明・法灯明:釈迦から学ぶ新しい宗教の基本

さて、内なる神の思想をさらに具体化するために、釈迦牟尼の重要な教えである自灯明・法灯明について考えたい。釈迦牟尼は遺訓として、他人ではなく自己を拠り所として法を拠り所とせよと説き、そうする者が自分の最高の法友であると説いた。また釈迦牟尼は、釈迦牟尼自身を神と崇めることを戒めたとされる。
私は、この仏陀の教えの意味するところは、法・教えの実践によって、自分の中の仏性・神性が覚醒していくことだと解釈している。こうして、自分の中に仏性・神性を認めつつ、それを覚醒させるには、自分の中の要素だけにこだわるのではなく、自分の外の法・教えを学び、修習するというものである。
自分の中には仏性・神性もあるが、同時に欲望・煩悩もある。また、自分の中の力だけで悟ることができると考えるのは慢心であろう。
また、そもそも、一元法則に基づいて考えれば、自分の中と外は繋がっており、自分と他人は実際には区別できないものである。よって、幸福・悟りを求める場合も、自力と他力の双方を一つにして活かすのが、自然かつ道理にかなっている。
こうして、自力だけなら慢心だが、逆に、他力だけなら過剰な依存である。釈迦牟尼は、法・教えを学ぶときは、釈迦牟尼が言っているからと、それを盲信するのではなく、まずは疑い、自分でよく考え吟味し、納得したら修習するようにと説いている。
よって、外側のものを無視する慢心も避け、盲信・絶対視する依存も避け、自と他の力のバランスを取ることが、信仰・修行実践においても、重要である。

なお、ここで正確を期するために説明しておくが、自分の内側だけにいる神は存在しない。逆にいえば、自分の外側だけに存在する神も存在しない。
仏性・神性が覚醒するということは、一元の思想・法則の真理を悟るということであり、自と他の区別を超えた意識を体得するということである。そして、神仏や完全に覚醒した意識とは、人の内側と外側を貫き、宇宙全体に遍在・遍満する存在である。言い換えれば、神仏は、自分の内にも外にもいて、その内の神と外の神は、本質的に一体である。
これまで、人それぞれの中に神がいるとか、内の神仏といった表現を使ったのは、神仏というと、たいていは、自分とは別の外側の絶対的な存在を想定してしまうため、その固定観念を和らげるための表現手段(方便)である。よって、正確にいえば、神仏は自分の内側にも(外側にも)存在し、自分の内側にも存在する神仏を信仰するという表現が正しいであろう。
なお、仏教の思想に関連することとしては、釈迦牟尼の自灯明・法灯明という教えは、大乗仏教の智慧と方便の教えに通じるものがあると思われる。智慧と方便とは、大乗仏教が説く仏陀の境地に至るための条件である。智慧は空の悟りを意味し、方便は(智慧を得るために必要な)利他の手段・功徳を積む手段である。


2.シンボル:象徴としての外の神

(1)法の三つの形態とシンボル

仏教では、教え・悟りの境地が伝わる上では、三つの形態があると説く。それは、言葉による教え、象徴・シンボル、直感(以心伝心)である。この教本は、いうまでもなく、言葉によって皆さんに教えを伝えようとしている。一方、言葉を媒介・手段としない教え・悟りの境地の伝達として、象徴・シンボルによるもの、そして全く無媒介の直感・霊感・以心伝心がある。
象徴・シンボルとは、私の解釈では、それを見たり触れたり聞いたりすることで、神聖な意識、仏性の覚醒が促されるものである。例えば、先ほども出たが、曼荼羅がある。曼荼羅の中には、仏陀の姿や仏陀の象徴の神性文字や仏陀の象徴の法具が描かれている。
また、同様に、仏陀の御姿を描いたご尊像や仏陀を象徴する神性文字も、単独でそれ自体が象徴・シンボルである。また、二次元的・平面的なものに限らず、神聖な意識を引き出す仏像(霊像)、仏陀を象徴する密教の法具(金剛杵や金剛鈴)などもそうである。
さらに、見るものだけに限らず、五感全体にわたって、神聖な意識を引き出すものはシンボルであると私は考えている。すなわち、密教における真言(マントラ)や、密教法具の奏でる聖音、ある種の瞑想音楽もそうであろう。
さらには、手に持ったり、身につけたりする法具も、それによって神聖な意識を引き出す効果があれば、シンボルの一つである。ひかりの輪の考え方では、仏陀の御尊像の中にも描かれているが、数珠の形のブレスレッドやネックレスがそうである。
そして、神聖な意識を引き出す効能のある聖水・御神水や、特別なお香といった、味覚・嗅覚を通したシンボルもあるだろう。
また、これまで人工物だけについて述べてきたが、シンボルには、聖地などの大自然も含まれる。その光景を見ると不思議と神聖な意識が生じるような聖地の自然は、シンボルにほかならない。
ひかりの輪では、その発祥の経緯において、聖地での修行で重要な気づきなどがあった時に不思議と虹を見ることが多く、特に太陽の周りの虹のひかりの輪(日暈・にちうん)については、それが仏陀・仏法の象徴の法輪とも形が似ていることもあって、天空に表現された法則のシンボル・象徴として、天空曼荼羅と位置づけてきた。
また、各地に聖地巡礼に行く中で、特に神聖な意識が生じる場所やその写真も、神聖な意識を引き出すシンボルとして位置づけてきた。

 

(2)内と外の神仏:外の神仏はシンボル:宗教的な対立を超える

さて、先ほど、仏陀の御尊像や仏像といったシンボルについて述べた。ここで重要なことは、ひかりの輪の思想としては、本来は神仏にとっては名前も形も本質的ではなく、名前や形を持った神仏ないしは崇拝対象とは、人の信仰を助けるための方便・手段であるというものである。
例えば、それに触れることで、神聖な意識を引き出すためには、普通の人には、名前や姿が必要・有効な場合がある。先ほども、教え・悟りの境地は、言葉と象徴と直感で伝わるとした。直感・以心伝心だけで、すべての教え・悟りの境地が伝わるならば、名前や形は必要ないだろうが、ほとんどの人にとっては、それは不可能であろう。

そして、この思想に基づいて、次に重要なことは、名前や形を持った神仏(のイメージ・観念)は、神聖な意識を引き出すシンボルではあるが、それ自体が唯一絶対のものではないということである。
しかし、多くの宗教において、自分の宗教・宗派が説く名前と姿を持った神仏が唯一無二・唯一絶対のものであるとして、他を排除・否定するという考え方を持っている場合が少なくない。その結果は、歴史が示すとおり、宗教対立・宗教紛争である。

これに対して、ひかりの輪では、名前や形を持った神仏というのは、神聖な意識のシンボルであり、それは尊いものではあっても、唯一絶対のものがあるわけではなく、人それぞれに神聖な意識が引き出されるシンボルが違ってよいという考え方を持っている。
よって、ある人にとっては仏陀釈迦牟尼が、ある人にはイエス・キリストが、ある人にとってはマホメットがシンボルであってよいのであり、自分に縁のあるシンボルを見つければいいのである。こう考えれば無用な宗教対立・宗教戦争がなくなるだろう。
言い換えれば、すべての宗教は、人の内側にもある神性・仏性を引き出すためのシンボルが違うだけであって、本質的には同じものであり、宗教・宗派の違いは、信仰者の個性の違いであって、善悪、聖邪の違いではないとして、互いに認め合うとよいのではないかと思う。

ここで、これまで話してきたことをわかりやすくまとめるために、あえて「内側の神仏」と「外側の神仏」という表現をとるならば、

1「内側の神仏」とは、それぞれの人の中の「神性・仏性」であり、
それには名前や形はなく、
2「外側の神仏」とは、その「内側の神仏」を引き出す・覚醒させるための
「神仏のシンボル」であり、それは多くの場合、名前や形を持って表現される。

とすることができるだろう。
そして、この「外側の神仏」は、あくまでも象徴・シンボルであって、人の中の神聖な意識=内側の神仏を引き出す象徴・手段であり、その意味で尊いものではあるが、それ自体が神仏なのではなく、唯一絶対なのでもない。人それぞれの個性に応じて多様な「外側の神」が存在してよいのである。

※注1
上記の考え方は、多様性の下の統合という概念であり、さまざまな人種・宗教の違いを超えて平和を推進する人たちの間でも重視されてきている概念である。また、その平和運動の象徴として、無数の色が境界なく連続して一つに融合している虹が用いられることがある。

※注2
神仏に名前や形を与える理由としては、シンボルとして有効にするため以外に、他の神仏と区別するという目的があるだろう。しかし、これは、神仏は本来は一体であるところ、そのさまざまな力・働きのそれぞれに名前・形を与えたにすぎないとも解釈できる。
実際に、一元の法則を学べば、この世界の万物は、異なる名前や形がついているために別々に見えるが、本当は一体として存在していることがわかる。よって、神仏であろうとなかろうと、この世のものは、名前や形が別であっても、本質的には一体である

※注3
仏教は、自己の中の仏を仏性(仏陀になる可能性)というが、それに加えて、三身の仏陀の思想がある。人の心が完全に(仏陀と同じように)浄化された状態を「ほっ法しん身」と呼び、その人の言葉が完全に浄化されたものを「ほう報じん身」と呼び、その人の体が完全に浄化された場合を「おう応じん身」と呼ぶ。


3.ひかりの輪のシンボルの概要

さて、ここでひかりの輪でも主に用いているシンボルについて紹介しておこう。

(1)太陽の周りの虹の光の輪(日暈):自然のシンボル
天空曼荼羅と呼んでいる。これを図画にしたものが天空曼荼羅図

(2)法輪(ダルマチァクラ):仏教での仏陀・仏法のシンボル
ひかりの輪でも採用している

(3)虹の光の法輪:ひかりの輪のシンボルマーク
天空曼荼羅図と法輪を合体させたデザイン

(4)仏陀の御尊像
祭壇に掲げている釈迦牟尼・観音菩薩(千手観音)・弥勒菩薩を含め、
主に用いる仏陀の御尊像は、十二神仏の十三色身であり、釈迦牟尼の
生誕地であるネパール製の御尊像・タンカである。
具体的には、上記の三仏に加え、大日如来・阿弥陀如来・薬師如来、
金剛薩埵、緑多羅・大黑天・地蔵菩薩・六字観音・時輪尊・弁才天。

※「虹輪釈迦牟尼御尊像」
ネパール製の釈迦牟尼の御尊像を天空曼荼羅図と融合させたもの
※「ひかりの輪神仏輪曼荼羅」(表紙の写真)
上記の十二神仏の十三色身のすべてを描いた曼荼羅であり、
ひかりの輪の信仰・教義体系の全体を表すものである。
①中央横の三仏:三世の仏陀:釈迦牟尼・観音菩薩・弥勒菩薩
これは同時に三身の仏陀、仏法僧の三宝も象徴する。
②中央縦の三仏:三乗の仏陀:釈迦牟尼・大日如来(上)・時輪尊(下)
③救いの三仏:大日如来・薬師如来・阿弥陀如来

(5)霊像と思われる仏像の御写真
①京都太秦の広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像の御写真
②奈良斑鳩の中宮寺の如意輪観音像の御写真
③熊野那智の青岸渡寺の如意輪観音像の御写真

※この霊像に関連して、ひかりの輪においては、聖徳太子を
シンボルとする仏像・聖地・その他の霊性という考えがある。
詳細は、第5章の聖徳太子に関する事項を参照されたいが、
上記の霊像御尊像は結界=神聖な空間の形成にも用いる

(6)車輪の法則のシンボル
男性原理・女性原理の統合・合一を象徴するシンボル。
具体的には以下のものがある。

①神柱法輪
神柱(男性原理)と法輪(女性原理)を組み合わせた
ひかりの輪における最も重要な法具のシンボル。
環状列石やリンガとヨニを参考にしたもの。

②結界輪神柱
四方を結界するための円柱の柱:4本
縄文の神柱や諏訪大社の神柱を参考にしたもの。

③金剛杵と金剛鈴:ヴァジュラとガンター
金剛杵が男性原理、金剛鈴が女性原理。
密教伝統の男性原理と女性原理の象徴。

④如意宝珠
正しい願望をかなえる仏の法力を象徴する法具であるが、
同時に、個人と宇宙、意識と無意識の融合を象徴している。
また、聖徳太子がその化身とされる如意輪観音の象徴法具
でもあり、非常に重要である。

⑤如意宝珠法輪
如意宝珠(男性原理)と法輪(女性原理)の組み合わせ
※如意宝珠が現世の幸福、法輪が悟り・煩悩止滅を象徴

⑥如意宝珠蓮華円台
如意宝珠(男性原理)と蓮華円台(女性原理)の組み合わせ。
※観音菩薩の六字真言(マニパドメ)とシンクロした法具。

⑦金剛杵蓮華円台
金剛杵(男性原理)と蓮華円台(女性原理)の組み合わせ。
※下記のツォンカパの金剛薩埵の瞑想で用いるシンボル。


4.具体的な修行実践における柱

(1)法友・先達の重要性:三宝帰依

仏教には三宝帰依という教えがある。三宝とは、仏・法・僧、サンスクリット語で、ブッダ、ダルマ、サンガの三つである。
ひかりの輪の解釈では、仏は、内外の仏であり、法は、輪の法則全体、そして、僧は、広義には仏教教団を意味し、狭義には出家教団を意味する。
前者の広義の解釈は、一般に法友の重要性、すなわち、皆で集団で修行することの必要性・有効性を示す。宗教に限らず、武術その他学問でも、互いに切磋琢磨する法友と、その場となる道場は非常に貴重である。
特に、現代の資本主義・競争主義の社会の中では、エゴ・欲望が肥大化し、二元的な思考・情報が非常に強くなっている。そういった環境の中で、一元の思想・法則を温めていくには、一人・単独で行うには困難が伴う。
それは都市文明が発達してきた釈迦牟尼の時代でも、本質的には同じで、そのため、釈迦牟尼は、仏・法・僧を拠り所とするように指導したのであった。
また、後者の狭義の解釈は、在家で修行する者にとって、修行に専従している出家修行者・修行の先達・仏道修行の指導者の指導・導きを受けることの重要性を示す。
ただし、ひかりの輪では、特定の人物を絶対視することを否定している。指導者との関係については、普通の健全な生徒と先生の関係のように、絶対視したり過剰に依存したりせずに、謙虚に学ぶことを原則としている。

(2)具体的な修行法:ひかりの輪の修行の四本柱

ひかりの輪では、教学、功徳、行法、聖地の四つを、修行の四本柱としている。

①教学:正しい教えを学ぶこと。具体的には、講話会の参加、
各種の教本の読書、教学用の動画・CDの視聴など。
※思考からの浄化をすすめるもの。

②功徳:日々の生活で善行をなし、悪行をさけること。
指針として大乗仏教の六つの完成の教えを説いている。
※日々の言動からの浄化を進めるもの。

③行法:ヨーガや気功の身体行法から仏教・密教の儀式・瞑想まで。
※身体・五感を通した浄化を進めるもの。

④聖地:道場や自然の聖地におもむく。自宅の浄化も。
※環境からの浄化を進めるもの。

(3)シンボルを用いた密教の基本修行について

ひかりの輪では、さまざまなシンボルを用いた密教の瞑想修行を行っているので、その一部、特に基本的な修行について以下に紹介する。

①三密加持

身・口・意において、仏の象徴を修習する密教の伝統の瞑想である。
1)仏の象徴である座法・手印を組んで身体の面で仏に近づき、
2)真言を唱えて言葉の面で仏に近づき、
3)仏の御姿の観想をなすことで意識の面で仏に近づき、
こうして、身・口・意の三業(=三密)において、仏と相通じ(三密相応)、
そうすると、仏が、仏の境地(仏性の顕現)を修行者に与え(加)、
それを行者が体感する(持)、という修行である。

②具体的な三密加持の法

ひかりの輪においては、主に、釈迦牟尼、観音菩薩、弥勒菩薩、金剛薩埵などの仏との三密加持の修習を行っている。そのための真言・座法・手印・観想・思索の指導がある。その詳細は、直接指導を受けるのが望ましいが、一応、以下に説明する。

1)釈迦牟尼
手印:定印(金剛杵を置いた金剛定印が最善)
真言:オー・ムニ・ムニ・マハー・ムニ・スワハー
観想:(虹輪)釈迦牟尼像
思索:釈迦牟尼の法則(第一章参照)

2)観音菩薩
手印:蓮華印(中にマニ宝珠を入れたマニ宝珠蓮華印が最善)
真言:オー・マニ・パドメ・フーム
観想:六字観音像・千手観音像・(各種の)如意輪観音像
思索:観音菩薩の法則(第一章参照)

3)弥勒菩薩
手印:水瓶印
真言:オー・マイトレーヤ・スワハー
観想:弥勒菩薩像・弥勒菩薩半跏思惟像
思索:弥勒菩薩の法則(第一章参照)

4)金剛薩埵
手印:金剛薩埵印(最善は、右手に金剛杵、左手に金剛鈴)
真言:オー(ン)・ヴァジュラサットヴァ・フーム
観想:金剛薩埵像
思索:悪行の懺悔

③五感の仏のシンボルを用いた瞑想

ひかりの輪では、五感全般にわたって、神聖な意識を引き出す仏のシンボルを用いた瞑想修行を行っている。また、これらは日常生活でも使用することでさらに効果が高まる。
具体的には以下の通りである、

1)視覚からの浄化
各種の御尊像・曼荼羅などのシンボルを使用した瞑想

2)味覚からの浄化
聖音水:法具の奏でる聖音で特別に浄化した水

3)聴覚からの浄化
聖音を奏でる密教の法具の各種を用いた瞑想

4)触覚からの浄化
心身が浄化される各種の守護法具を身につける

5)チベット・ブータン香
瞑想に適した最善のお香を選択して道場空間を浄化


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