真の人のための宗教を創る

3月7日

新団体が目指す中に、盲信を越えて、真の叡智を推進する、
新しい宗教思想というものがあります。

ご存じのように、今現在、残念ながら、宗教は知的なものだ、
とはなかなか思われていません。

自己を絶対視する宗教は、
客観性、科学性を重視する人から見れば、どんな宗教であれ、
多かれ少なかれ、盲信的だと思われるかも知れません。

しかし、本来は、宗教は、
人類の精神的な叡智の結晶であったと思います。

それが、現代では、
そうではない部分が目立ってきてしまいました。

特に、科学という人類のもう一つの叡智と相矛盾する、
分裂した様相も呈しています。

本来は、精神分野の叡智である宗教と、
物理的な分野の叡智である科学が
融合することが必要なのでしょうが、
未だにそれは達成されていません。

その中で、オウム真理教から、対テロ戦争まで、
自己を善、他を悪とする、タイプの宗教・思想によって、
社会には、様々な混乱、紛争が起こっています。

これでは、知的・精神的な能力の高い人の中には、
21世紀には、宗教は不要なもの
と考える人が増えるかもしれません。


その一方で、社会に、人生に、様々な苦しみがある以上は、
宗教に入る人、必要とする人は後を絶たないでしょう。

こうして、社会が宗教に人を押し出す構造がある中で、
今のままでは、再び、新たな狂信的な行為が生まれる可能性を
根絶することはできないのではないか、と思います。

それは、宗教は、未だに、未成熟な段階にあって、
21世紀において、一次元高く、
進化しなければならないのではないか、
ということもできます。

そして、そのために、宗教が多くの人に必要で、
多くの人を救う面がある一方で、
多くの人を傷つけ、
社会の分裂をもたらしてもいる状況を創っています。


さて、盲信を越えて、科学とも矛盾せず、
真に叡智を増進する宗教思想を創る、ということは、
相当複雑なことだと思います。

宗教から見て、宗教と科学の接点になりうるのは、
心の科学である心理学、マクロの科学である宇宙物理学、
ミクロの科学である量子力学などだ、と思います。

心理学では、カール・ユングの心理学を土台とした、
トランスパーソナル心理学などでは、
その理論は、非常に宗教、特に、仏教思想と近いものがあります。
個人を越えて、人類全体の意識が、
底辺で繋がっているという考え方です。


また、マクロの科学では、宇宙物理学の理論の中に、
多くの宗教が説く、宇宙は偉大な何者かによって創造された、
という考えを示唆する理論があります。

それは、最新の宇宙創造論の中で、
生命体を育むような宇宙ができたことは、
単なる偶然の物理現象である、と考えると、
それが起こる確率が余りにも小さく、合理的ではない、
という説です(宇宙の人間原理説)。
 
これは、偶然に起こる可能性が余りにも小さい現象が
起こる場合は、それが偶然ではなく、
何者か(=創造主?)の意図した結果である、
と考える方が合理的である、という考えに基づいています。


また、ミクロの世界の量子力学には、人が観測を意思すると、
それまで波動状態であったものが、粒子に収斂して現れる、
という説もあります(観測者問題)。
これは、人の意思が、物質を現す可能性を示唆しています。

こうして、最新のマクロとミクロの科学は、
伝統的な科学よりも、ずっと宗教的、仏教的になってきました。


仏教では、全ての現象は心と関連している、
心の現れである、と説きますが、
最新の科学は、伝統的な科学よりも、
仏教を初めとする東洋思想に近い世界観を持ち始めています。

そのために、西洋の物理学者で、東洋思想を学び、
そこからヒントを得ようとする人が出てきました。

こうして、最新の心理学や物理学を見ると、
人々の意識は、互いに関連し合っており、
さらに、心と物質も関連し合っており、全てが一体である、
という一元論的な思想に近づきつつあるように思います。


一方、宗教の方はどうか。

宗教の最大の問題は、私の経験からしても、
自分たちの宗教が唯一絶対である、
という思いこみのように思います。

それは、全く非科学的なことですが、多くの宗教が、
自分たちの宗教が世界で唯一の宗教になることが理想だ
と潜在的には考えているように思います。

しかし、人類の歴史が始まって以来、
イエスにしても、マホメットにしても、釈迦にしても、
地球の唯一の教祖になることはありませんでした。

当然、麻原元代表・旧教団も、そうでした。

この現実を本当の意味で受け入れることができるかが、
宗教にとって、大きな進化の第一歩だと思います。

自分が検討するに、それぞれの宗教の崇拝対象は、
確かにその信者にとっては、神聖な気持ちに導くものですが、
どの崇拝対象・どの宗教が、それに導くかは、
人それぞれに個性があるように、
人によって、違っていると思います。


これは何を意味するのでしょうか。

私が思うに、それは、神聖な意識自体は、
崇拝対象という人の外側にあるのではなく、
人の内側にあって、それを引き出すものが
各々の崇拝対象だからだ、と思います。

すなわち、各々の崇拝対象は、
各人の神聖な意識を引き出すものではあっても、
それ自体は絶対なものではない、ということです。
そのために、実際に、人類全体が共有する唯一の崇拝対象、
すなわち、本当の意味での絶対の崇拝対象は、
生まれなかったのだ、と思います。

この意味で、各宗教で絶対視されている崇拝対象は、
その信者たちの中において、
神聖な意識を引き出す「象徴(シンボル)」であって、
その信者の輪を超えたところでは、
象徴・シンボルにならない=絶対ではない、と思います。


しかし、人間には、誰しもプライド・愛著があって、
潜在的に自分たちが信じた、自分たちが愛著したの宗教と
その象徴・シンボルが、世界で最高のもの、
世界で唯一絶対の存在であってほしい、という心の働きから、
この点を理解することに障害があるのでしょう。

旧教団で言えば、信者にとっての象徴物は、元代表でした。
そして、旧教団の問題は、信者が元代表を
自分たちが好きなシンボルにとどめるのではなく、
それを範疇を超えて、全世界のシンボル=キリスト
と位置づけたことだと思います。


この点を宗教を実践する人たちが超えていくことが、
宗教が、再び人類の叡智として復活するための
(一つの)条件ではないだろうか、と思います。

そうでなければ、実際には、
世界人類を全てを統一する唯一の崇拝対象がないのに、
それを求めて、異なる宗教の間や、宗教と社会の間に、
闘争が続くからです。

これは、崇拝対象だけでなく、
教義についても、言うことが出来るでしょう。
教義にも、唯一絶対なものがあるわけではなく、
個々にあったものがある、と思います。

よって、ある教義にあった人を高めるための手段
(=方便)として、それを尊重するべきではあっても、
それを絶対化してしまうと、人を高めるだけでなく、
人を振り回してしまい、害する場合が出てくる、と思います。


チベット密教でグルを完璧と見る、という修行があり、
それが旧教団に取り入られましたが、
これについても同じことが出来ると思います。

チベットでは、弟子が自分のエゴ・慢心を弱める手段として、
指導者に対する高い尊敬を持つようにしました。

しかし、グルと弟子の個人的な関係を超えて、
第3者を巻き込んで、グルを絶対者として、
グルの指示があれば、第三者の生命・財産を奪っても良い
(ないし、奪わなければならない)と考えるならば、
逆に、大変な傲慢さをもたらす、と思います。
 
しかしながら、これに気づかないのが、
自分の宗教、自分の崇拝対象や教義を絶対化した場合でしょう。

しかし、自分の宗教、自分の崇拝対象や教義を絶対化すると、
それによって、自分が振り回されてしまいます。


旧教団では、そもそも、本来は、
誰も弟子は、人を殺したいなどとは考えていないのに、
自分の信仰上の義務のために、
(教団で言えば、元代表への帰依のために)、
そうしなければならない、と考える信者が出てきてしまったのです。

その意味では、私は、本当の意味で、
人のための宗教を創造したい、と思います。

人のためにはなるが、人を振り回すことのない宗教です。


宗教は皆、教祖である人間の体験によって作られ、
あくまでも、ある人間の「神体験」に基づく教えです。

それは、人間とは別の「絶対の神様」が作ったものではないし、
そういった証明は、どの宗教にもないわけです。

しかし、その信者たちが、
自分の信仰・宗教を自ら絶対化していくと、
本来、人が創った宗教が、神が人に与えたもの、
という位置づけに変わってしまいます。

そうすると、人の手には負えなくなり、
人を振り回し始めるのだと思います。

こうして、各宗教・宗派が、
自分たちの崇拝対象や教義について絶対化することなく、
多様な崇拝対象や教義を認める必要があります。

さらに、それを信者を高めるためための手段として位置づけ、
それに振り回されないようにする必要がある、と思います。

これが自分が考える、「人のための宗教」の理念です。


民主主義を象徴する言葉として、リンカーン大統領の
「人民の、人民による、人民ののための政治」
という言葉ありました。

私は、大学時代に、この言葉を含む、
リンカーン大統領のゲティスバーグ・アドレスを
英語で暗唱したことがあるので、よく覚えている言葉です。

そして、今、20年もの間、宗教をやってきて、
事件を経験して考えることは、
本来は、人の、人による宗教が、そうではなく、
神の、神による宗教になっているのではないか、と思うことです。

それを超えて、「人の、人による、人のための宗教」
を創る必要がある、と思います。

それは、決して、様々な宗教が大切にしてきた
神・仏の存在の否定ではなく、
それぞれの人々の心の中にこそ、神がいる、ないしは、
心を通してこそ神と巡り合う、ととらえることだと思います。

これは、神とか、神聖な存在を否定することなく、
それと同時に、神を掲げる宗教のために、
人を損なうことなく、全ての人々を
尊重することができる思想ではないか、と思います。

21世紀に入っても続いている、
宗教を実践する人が、宗教に振り回されて、
多くの人々が傷ついてしまう時代を終わりにしたい、
と思うのです。

<<< 前へ【すべての存在に導きを感じる】

次へ【解散せずに新団体を立ち上げた理由】 >>>

一般の方のために
ネット生中継
ひかりの輪 ネット道場
会員でない方も、どなたでも、支部道場での、教えや修行法を、ネットを通じて、ご自宅から学ぶことができます。
21世紀の宗教・思想の創造「ひかりの輪」