輪廻転生

第1章 輪廻転生の思想

●六道輪廻

   輪廻転生の思想は、仏教以前からインドにおいて存在していました。
   仏教においても輪廻思想は説かれ、より明確に六道輪廻という形  で説かれました。
   六道輪廻とは、私たち人間を含めたすべての生き物は六つの世界を生まれ変わり、死に変わりしているということです。六つの世界とは、地獄・餓鬼・畜生(動物)・人間・阿修羅・天と言われる世界です。
   ですから、前の生においては、犬であったということもありえることになります。また、今の世で人間であるからといって、来世もまた人間として生まれ変わるという保障もありません。

●輪廻転生の原動力「カルマ」

   では、六道のどの世界に生まれ変わるかは、何によってきまるのでしょう?
仏教では、生前での生き方、為してきたことの結果によって生まれ変わる世界が決まると説いています。それは「自分の為したことが返る」というカルマの法則に基づいています。カルマとは日本においては業という言葉で知られています。

   カルマとは、心の深い層に蓄えられたデータです。自分の為した行為、行ったこと(身体)、しゃべったこと(口)、思ったこと(心)の印象が痕跡として深い意識に残ります。そして、その残存した痕跡を原因として、条件が整うことで現象・結果を生じさせます。
   種という原因があって、光・水・養分などの条件が整うことで発芽という現象が結果として生じるということです。
   カルマには、身体の行為である身業(身のカルマ)、言葉にかかわる業である口業(口のカルマ)、心にかかわる業である意業(意〔心〕のカルマ)があります。
   単純な例でいいますと、怒りやすい人というのは、心に怒りの痕跡をたくさん残しているので、それが刺激されやすくなっており、ちょっとした条件(きっかけ)で怒りが生じます。怒れば怒るほど、痕跡は深くなり、より怒りやすくなるという悪循環になっていきます。
   習慣や癖、傾向、パターンと一般的に言われているものです。これは、記憶ということとも関連しています。習慣ということを考えると、私たちの行為が何らかの痕跡を残すというのは納得しやすいと思います。

   また、自分の潜在意識に蓄積されているデータ(痕跡)は、周囲の人や自分に起こる出来事、現象に反映されます。
   善いものが蓄積されれば、その反映で善い現象が生じます。悪いものが蓄積されれば、悪い現象が起きます。これは、善いことをすれば善いことが返ってきて、悪いことをすれば悪いことが返ってくるという現象です。善因善果、悪因悪果。因果応報ということです。
   他を傷つけた者は、そのカルマの返りによって自分が痛みを味わうことになります。人に親切にすれば、親切にされます。為したことは返ってくる、あるいは、為したことしか返ってこないということです。今現在、自分に生じている出来事はすべて過去に自分が為したことの結果だということです。

   あなたが今、幸福であるなら、過去において自分が今幸福になる原因を作ったということです。また、逆に今が苦しみ多く不幸であるならば、過去において自分が今苦しむ原因を作ったということなのです。
   善いことを何度も心の深層に刻印することはいいのですが、悪い行為を何度も刻印することは、そのカルマが返ってきたとき(その刻印されたデータが外界に反映されたとき)、私達に大きな苦しみを与えることになります。

    まとめますと、自分の為した行為(身・口・意の行為)は、心の深層に痕跡を残し、それは条件が整うと現象化します。その現象化の仕方は、「同じことを何度も繰り返す」、「為したことが返る」といった形で生じます。
   そして、このカルマの力が六道輪廻の原動力なのです。
  では、どのようなカルマがどの世界に転生する要件になるのでしょう。
  地獄界は、憎しみ、怒り、嫌悪の心を持ち、他の生き物を傷つけたり、殺したりした結果として転生します。
  餓鬼界には、欲が深く、必要以上に物を欲しがり蓄える、また、他の物を盗む、奪うことによって転生します。
   動物界は、無智、愚かさ、怠惰さによって転生します。
   人間界は、情、執着です。
   阿修羅界は、他に対して優位に立とうとして嫉妬、闘争の心を持ち競うことによって転生します。
   天界は、自己満足にひたり、心地よさに満足しているという状態によるカルマによって転生します。


●六道のありさま

   それでは、六つの世界がどういう世界なのか簡単に見ていくことにしましょう。

【地獄】
    地獄は苦しみだけの世界です。その種類はおおまかに言って、熱により苦しむ地獄(例えば、焼けただれた鉄の中に突き落とされるなど)、寒さ冷たさにより苦しむ地獄(例えば、雪と氷の世界で全身凍傷で皮膚も肉もさけてしまう等)、身体が潰されることにより苦しむ地獄(何度も何度も肉体を臼ですり潰されるなど)、身体が切り刻まれることにより苦しむ地獄(繰り返し繰り返し獄卒に体を細々と切り刻まれる等)があります。
   激しい怒りを生じさせること、熱で他の生命を苦しめるなどの結果として熱の苦しみを味わう地獄、心の冷たさにより寒さ冷たさの地獄、心を突き刺す言葉や他の身体を切り刻んだことの結果として切り刻まれる苦しみを味わう地獄があるということです。 

【餓鬼】
   餓鬼は餓えと渇きに苦しんでいます。餓えて与えられない苦しみを極度に味わう欲求不満の極限の世界です。食べ物や飲み物を見つけるのも難しく、また、仮に食べたとしても、胃袋に入って火を発して内臓が焼け爛れてしまったりするといいます。
   他に分け与えることなく、それだけでなく他から奪い、貪欲、強欲に駆られたものたち行く世界です。

【動物】 
   動物は食物連鎖からのがれることができず、恐怖と緊張の中で生を過ごしています。他の動物の餌食になったり、人に使役されたり、食用や毛皮を得るために飼われ殺されるという自由を奪われた状況でも、智慧によりそれを回避することはできません。
   無智や愚かさ、怠惰によって動物界に転生します。

【人間】
   人間は、四苦八苦、三苦と言われる苦しみにより日々苦しみを味わっています。もちろん、常に苦しみを味わっているわけではありませんが、楽しいこと、喜びはかならず、変化して滅してしまうので苦しみに転じてしまうのです。
    無常なるものに、とらわれているのが人間で、とらわれているがゆえに苦しみが生じます。
   人間は、執着、とらわれによって人間として生まれ、とらわれによる苦しみを味わうことになります。

   四苦とは、生(産まれること)・老(老いること)・病(病気になること)・死(死ぬこと)は苦しみであるということです。
   四苦に加え、怨憎会苦(憎しみの対象に会うことの苦しみ)、愛別離苦(愛するものと別れることの苦しみ)、求不得苦(求めても得られないことの苦しみ)、五蘊盛苦(とらわれの五つの集まりを持つことは苦しみ)の四つを加えて八苦と言います。
   三苦とは、肉体的痛みや精神的悩みや憂えなどの直接的苦しみ。楽しいこと喜びが壊れ去ることの苦しみ。一切のものは無常で生滅変化することによる苦しみの三つです。

【阿修羅】 
   嫉妬、闘争心により阿修羅に生まれ変わります。嫉妬、闘争の心は、閉ざされた心です。
   競争の虜になり、嫉妬に駆られて生きています。他を凌ぐことを求め常に闘いを望んでいます。徳を積むことで天界の神々を超えるのではなく、闘争によって超えようとします。阿修羅の生は、戦いと殺戮と死の繰り返しであり、怒りに駆られている苦しみの世界です。

【神々】
   輪廻にあるものの中で、神々は最高の幸福に恵まれている。生活は快適で、あまりにも何もかも申し分ないために、神々はかえって究極の心の解放をもたらす修行に励もうという気をおこさない。確かに、神々は長寿を楽しむけれども、いつかそれも尽きて死を迎えることになります。
   神は死が近づくと、今までの喜びがなくなり、色あせてくる。そして、神通力でひどく恵まれない自分の再生の姿をあらかじめ見てしまい、深い失望を味わいます。
   神々とて六つの世界の輪廻から脱してはいません。ですから、神々から落下してまた、より苦しみの多い世界に転生し続けることになるのです。
   神々へ転生する要素は自己満足という要素です。


   このような六つの世界はそれぞれカルマによって成立しています。
   その人のもっている傾向によって世界が形成されているということです。
   六つの世界の存在を考えるには、「類は友を呼ぶ」という言葉を思うと信憑性が増すのではないかと思います。同様の要素(カルマ)を持ったものは同様の経験をするわけで、そういう存在が集まった世界があったとしても不思議ではありません。
こういう話があります。
   ご馳走がたくさんお皿に盛られています。そして、それを食べるためのとても長いお箸があります。そこに   二つのグループの人たちがいます。
   一つのグループの人たちは、箸を使って一生懸命食べようとしますが、あまりに箸が長いため、自分の口に食べ物を運ぶことができず、目の前にご馳走があっても空いたお腹を満たすことがでず、ひもじい思いをしています。
   一方、もう一つのグループの人たちはどうかというと、長い箸をうまく使ってご馳走を食べています。どのようにしてこの人たちは食べているかというと、自分が長い箸で摘んだ料理を人に食べさせてあげているのです。そして、自分も人に食べさせてもらっています。お互いがお互いに他に食べさせてあげているのです。これなら長い箸でも食べることができます。
   同じ条件・環境でも一方のグループは餓鬼の苦しみを味わい、もう一つのグループは餓えの苦しみを味わうことなく、料理を味わい満足を得ています。

   いかがですか?

   この話と「類は友を呼ぶ」「似た者同士は集まる」という言葉から考えると、カルマに応じて六つの世界が存在することも納得できるのではないでしょうか。

    また、人間界にも六つの世界に類似した様相はあります。病気や怪我による激しい肉体の苦しみは地獄を反映しているでしょうし、アフリカやアジア地域での餓えに苦しんでいる人たちは餓鬼の世界の投影と捉えることができるのではないでしょうか。

   この六つの世界は苦しみの世界であり、この苦しみの六つの世界の輪から脱却することを仏教では目指します。そして、それを解脱と言います。


●「チベット死者の書」に見る転生のプロセス

   チベットには「バルド・トドゥル」という死から次の生への再生までのプロセスが記された経典があります。「チベット死者の書」として知られています。

   バルドとは、死から次の生に再生するまでの間の中間状態のことをいいます。仏教用語では、中有または中陰と言います。
    「バルド・トドゥル」とは「バルドにおいて聴くことによって解脱する」という意味です。聴覚は、死の後にも機能しつづけて、死後の身体の中で働いている意識がイメージを構成するのに大きな役割を果たしているといいます。ですから、死者にこの経典を読み聞かせることによって、迷いの世界に転生しないで、解脱するように導くというものです。
   そこには、死の瞬間から次の再生までのバルドのありさまが描写されており、死者が解脱していくためのガイドブックの役割をはたします。チベットにおいては、死は解脱の絶好のチャンスであるととらえているのです。
   この中間状態(バルド)は死者の意識が再びこの世に輪廻転生するか、それとも輪廻から脱していくかの分かれ道を意味しています。

   「バルド・トドゥル」は、アメリカの人類学者エヴァンス・ヴェンツが1927年「チベット死者の書」という題名で英訳本を刊行したのが西欧世界に紹介された最初です。1935年ドイツ語版発行のとき、ヴェンツの依頼を受けて、心理学者のユングは心理学的注解を書きました。
   「その出版の年以来、何年もの間、私の変わらぬ同伴者であり、私はこの書から多くの刺激や知識を与えられただけでなく、多くの根本的洞察を与えられた」とユングは語っています。


   それでは、「バルド・トドゥル」の教えに則って、死から次の生への再生までのプロセスを見ていきましょう。

   バルドの期間は最長49日間で、解脱して再生を繰り返さない限りは、49日の間にどこかの世界に転生していきます。

・死のプロセス
五感の衰えと四大元素の溶解
地元素の溶解・・・固体成分(肉・骨など)の溶解
水元素の溶解・・・液体成分(血液・体液など)の溶解
火元素の溶解・・・熱成分(体温)の溶解
風元素の溶解・・・呼吸の溶解 最後に長い息を吐き出して呼吸が停止

・「死の瞬間のバルド」(チカイ・バルド)
・「存在本来のバルド」(チョエニ・バルド)
・「再生に向かう迷いのバルド」(シパ・バルド)


●死のプロセス

〔外なる溶解〕
   五感の感覚が弱まってきて、その後、体に変化が起こってきます。身体を構成していた地・水・火・風という四つの元素が溶解していきます。

【地元素の溶解】
   この段階では、体から力がぬけ、体を動かすことができなくなります。体が地面の中に沈みこむか、落ち込むような、あるいは重たいものの下敷きになったような感じがします。この時、死にゆく人は、身体を起こしてもらったり、枕を高くしてもらったり、掛け布団をとってくれと頼むようになります。血の気が引き、肌の色は蒼ざめはじめます。肉体の物質的要素が溶解していくと、死に行く人は脆弱になります。心は散漫になり、妄念がわき、心は重く沈みこんでゆき、視覚は衰え、何もかもがぼんやりしてきて、陽炎や蜃気楼のように見えてきます。
   これらはすべて地の元素が水の元素に溶解していくしるしです。

【水元素の溶解】
   続いて、水の元素が火の元素に溶解していきます。
   鼻水やよだれ、目やにが出、失禁します。体液が乾ききっていくように感じ、唇は血の気を失い、まくれ上がります。口と喉はねとつき、ひどく喉が渇きます。身体が震え、痙攣がおこります。感覚が麻痺し、心はいらだち、神経過敏になり、欲求不満になると同時に、雲がかかったように薄ぼんやりした状態に落ち込みます。人によっては「大海に溺れたかのよう」「大河に押し流されたかのよう」といった表現をする人もいます。     煙が立ち上るような顕れを見るといいます。

【火元素の溶解】
   この段階までくると、口も鼻も完全に乾ききってしまいます。息を吸う力が弱まり、寒さを感じます。想念がぼんやりしてきて、家族や友人の名前も思い出せなくなり、相手を認識することもできなくなります。蛍に似た赤い火花を見るといいます。

【風元素の溶解】
   この段階では、呼吸することがかなり難しくなってきます。息が喉からもれだしているようで、ぜいぜいと喘ぐようになります。吸気は短く、困難をともないます。逆に呼気は長くなります。
   ここで幻覚やヴィジョンが現われはじめます。生きている間、悪行を積み重ねて  きた者は、恐るべき姿形を目にすることになります。今生で経験した忘れることのできない恐怖の瞬間が再現されます。逆に慈悲深い、思いやりのある人生を送ってきた人は、至福のヴィジョンを目にし、仲のよかった友人たちや仏陀や神々に出会うのです。
   風の元素が意識に溶解するのはこのときです。死に行く人は、灯明か松明の赤い煌々たる炎のような顕われを見るといいます。
   最後に死に行く人は三回長く息を吐き出し、呼吸が止まります。
   この段階で通常、現代医学的の知見では死と宣告されます。

〔内なる溶解〕
   しかし、息が絶えてもチベット仏教においては終りではなく、内なるプロセスが残っていると主張します。呼吸が絶えてから、<内なる息>が絶えるまでには「食事をとれるくらいの時間」がある、つまり、およそ二十  分~三十分くらいの差があるとされています。
   呼吸が停止しても体を流れる気のエネルギーは活動を続けます。エネルギーはまず、体の中央にあるエネルギーの通り道である中央管に集まってきます。そうすると死者は自分の頭頂から「白い滴」(男性性の生体エネルギー)が降りてくるのを体験します。すると頭上の空間が澄みわたってきて、月の光のような白い道がこちらに向かってきます。このとき、怒りから生じる思考が滅するといわれています。
   次に、へそのあたりから「赤い滴」(女性性の生体エネルギー)が昇ってきます。すると頭上には、太陽の光を思わせる赤い光の道が開かれてきます。死者はこのとき、貪りから生じる思考が滅し、自分の意識がきれいに澄みわたってくることを認識します。
   この「白い滴」と「赤い滴」が心臓の位置で出会うと、その瞬間あたりは黒い闇で覆われていきます。このとき、無智に起因する思考が滅します。


●「死の瞬間のバルド」(チカイ・バルド)

【第一の光明体験】
   黒い闇で覆われた後、その黒闇は消え、次第に意識は晴れてきて、まるで雲がきれて青空が現れるように、死者の意識には、まばゆいばかりに透明な光が現われてきます。
   この光こそ、生命の大本をつくる原初の光、根源の光であり、私たちの「心の本性」であり、純粋な本質であるといいます。その光は、実体も、色も形もなく、まったく汚れがなく、空であり、輝きに満ちているといいます。

   ダライ・ラマは、「この心はもっとも奥深い微細な心である。私たちはこれを仏性と、一切の意識の真の源と呼んでいる。この心の連続体は悟りの心へと続いていく」と述べています。

   そして、「バルド・トドゥル」では、その光に飛び込むこと、溶け合うことを死者に呼びかけるのです。

   この光こそが私たちの心の本当の姿なのですが、肉体を持って生きているときには、様々な欲望によって心の本当の働きは覆い隠されています。ゆえに本質を知ることができず、苦しみの転生を繰り返しているのです。その状態を仏教では無智により苦しんでいると言います。
   つまり、わたしたちが肉体を持って生存しているという状態は、魂の本来の姿ではなく、あくまでも無常の世界をさまよう仮の姿にすぎないと仏教ではとらえているのです。
   ですから、この心の本性である光に融けこむこと、心の本性である根源の光に立ち返ることこそが苦しみからの脱却、解脱であり、仏教の最終目標とされているのです。わかりやすく言い換えると、仏教の目的     「解脱」とは、魂のふるさとへと帰還することにほかならないといえます。

   このように、生きているときはさまざまな条件に縛られている心が、死の体験の中ではそのもともとの姿である純粋な光に立ち返っていくので、死は解脱の(苦しみから脱却する)またとないチャンスと言えるのです。ですから、「バルド・トドゥル」という経典を死者に読み聞かせ、六道輪廻からの解脱の手助けをするのです。

    しかし、一般の人は、この「解脱」の絶好のチャンスを生かすことができません。なぜなら、大半の人々は生存中に光明を認識する方法(修行)に馴染んでこなかったため、それを認識するための手段を有しておらず、たとえ光明がたちのぼっても、過去の怖れや習慣や条件づけ、つまり古い条件反射にしたがって本能的に反応するしかないからです。
   また、光明があらわれている時間の問題もあります。人を解脱に導くこの純粋な光があらわれている時間は、生前に修行を積んだかどうかで大きく異なるといいます。
   生きているうちに、瞑想の訓練をして、気のエネルギーが通る管を清めておいた人には、いつまでもこの光は見えるということです。しかし、管(ナーディ)を清めてない大部分の人々にとって、これは指を鳴らす瞬間に終わってしまうといいます。また、ある者には、「食事を摂るほどの時間」続くと言われています。
   しかし、ほとんどの人々は根源の光明を認識できず、気絶するといいます。この状態は三日半続き、最後に肉体から意識が離れます。

【第二の光明の体験】
   第一の光明である根源の光に溶け込めなかったものの前には、第二の光明が現われます。
死者は自分が死んでいるのか、死んでいないのかわかりません。でも、家族のことは見えるし、彼らが悲しんでいる声も聞こえます。
   ここでも死者に対する導きの呼びかけをしますが、ここで光に溶け込めるものも少ないということです。また、気絶していてこの状態を認識できない死者も多いといいます。


●「存在本来のバルド」(チョエニ・バルド)

   三日半の気絶状態から意識を戻した死者に、チョエニ・バルドがあらわれます。
   ここは、光と波動、イメージの世界であり、光がさまざまな大きさ、色、形の仏や菩薩の形をとって現われます。四十八の寂静尊と五十二の憤怒尊がたち現われます。これは、心の本性に蓄えられていたいろいろなもののうち、もっとも純粋で、輪廻の世界の力に染まっていないイメージが出現したものです。それらに溶け込めば六道から脱却できるといいます。

   「バルド・トドゥル」では、このバルドのはじめにおいて「バルドにおけるヴィジョンは自分の心(意識)の現われである」ということが重要なポイントであるとして、以下の呼びかけを行います。これは、バルド全体の重要なポイントです。

   「ああ、善い人よ、チョエニ・バルドの状態において、どんなに畏怖させ恐怖におののかすような現出があっても、汝は次の言葉を忘れてはならない。そしてこの言葉の意味を心に思いつづけていくがよい。それがお導きの大切な要点である。

   チョエニ・バルドが現われてきている今この時に
   すべての怖れと怯えを捨て、なにが現われようと、
   それが自分自身の意識の投影であることを認識し
   これがバルドの現出であると見破らなくてはならない
   決定的な瞬間にたどりついたこの時に
   自分自身の心の本質からたちのぼった寂静尊と憤怒尊を怖れることはやめよう

   と、このようにはっきりと何遍も繰り返し唱えることによって、その意味内容を心に思いつづけ、刻みつけるようにすべきである。そして、恐ろしく脅かす幻影がどんなに現われてきても、自身の心の本質の投影であると確実に認識することが大切な要点である。それを忘れてはならない」

   はじめの一週間は、穏やかな波動をたたえた光とともに静寂の神々が現われます。その主なものは以下の五仏です。このとき、仏とともに六つの世界に転生させる光も同時に現われます。死者はその光に引きつけられないよう仏の光に溶け込むように呼びかけられます。

・ヴァイローチャナ
・アクショーブヤ(ヴァジラサットヴァ)
・ラトナサンバヴァ
・アミターバ
・アモーガシディ

   続く一週間は、五仏が恐ろしい憤怒の相をとって現われます。

   寂静尊、憤怒尊の登場によっても解脱を逃したものは、六道輪廻の世界に引きずられていきます。次の再生に向かうバルドが始まるのです。


●「再生に向かう迷いのバルド」(シパ・バルド)

   シパ・バルドにおいては、生前におけるカルマがイメージやヴィジョンとしてはっきりと表面化してくるようになります。生前、善い行ないが多ければ、バルドでのさまざまな体験は至福と幸福感が入り混じったものになります。生前、他人を害したり傷つけたりする行為が多ければ、バルドでの体験は恐怖や苦渋に満ちたものになります。これも自己の心の投影です。
   私たちはカルマの風に追い立てられ、よりどころにすべき基盤を何ももちません。「チベット死者の書」では「この時、恐るべき耐え難いまでのカルマの大嵐があなたを後ろから追い立てる」と表現しています。恐怖に呑みつくされ、タンポポの綿毛が風に翻弄されるように、カルマに翻弄されバルドの薄暗がりのなかで為すすべもなくさまようといいます。

    ここでは、閻魔様として知られるヤマ天が、生前の行為の良し悪しを判断して、その人が次の生でどの世界に生まれるべきかどうかを、決定することもあります。
   閻魔様(ヤマ天)は、死者の生前の行いを全て映し出すという鏡を手に持っているといいますが、これは、臨死体験者の「全生涯のパノラマ的回顧」と似ています。
   この回顧の体験をした人々は、一生の出来事を細部にいたるまできわめて鮮明に思い出します。それだけでなく、自分の行為がもたらしたあらゆる結果をも見ることになります。
   自分の行為が他者におよぼした影響と、他者のなかに引き起こした感情それ──がどんなに不快であれ、衝撃的であれ──をつぶさに体験するといいます。自分の行為が他人に与えた影響を自分が体験したり、自分の行為が他人に引き起こした感情を自らが感じたりすることもあるといいます。


(臨死体験者の体験)

   「私の一生のすべてが次々と浮かんでは消えていったのです。──それは恥ずかしいことばかりでした。というのも、かつての私の考え方は間違っていたようなのです。・・・・私がしてきたことだけでなく、私のしてきたことが他の人々におよぼした影響も見えるのです。・・・・人が考えていることも、ひとつとして見落とすことはないのです。

    一生が私の前を通り過ぎてゆきました。・・・・そこで私は、一生のうちに感じたすべての感情をもう一度感じたのです。そして、その感情が私の人生をどのように左右していたかという基本的なことを、私の目に見せてくれました。私が人生でしてきたことが、他の人々の人生をも左右して・・・・。

   わたしは自分が傷つけている相手でもあり、自分が喜ばせている  相手でもあったのです。

   それは、わたしが思ったり考えたりした思考のすべてを、今一度完全に生きなおすことだったのです。口にしたすべての言葉、行ったすべての行為をです。さらには、ひとつひとつの思い、言葉、行いがおよぼした影響をです。すべての人への影響です。わたしが気づいていたかどうかに関係なく、わたしの影響がとどく範囲にいたすべての人への・・・・。さらには、ひとつひとつの思い、言葉、行いがおよぼした天候や植物や動物たちへの、土や木々や水や大気への影響です。」


   究極的には、審判はすべからく自分の心の中でおこなわれるものなのです。裁かれるのが自分なら、裁くのも自分自身です。レイモンド・ムーディー博士は「続・かいまみた死後の世界」において、「興味深いことに、わたしが調査したケースでは、審判はいずれにせよ人々を愛し、受け入れてくれる神によってなされるのではなく、個々人の内部で行われるということだ」と述べています。
   また、臨死体験をしたある女性はケネス・リング博士に、「(そのときは)あなたの人生を見せ付けられるのです。そして裁くのはあなた自身なのです。・・・・あなたがあなた自身を裁くのです。これまであなたは自分が犯したすべての罪を許してきました。でも、すべきことをしなかったという罪、生前に行なったに違いないごく些細な不正行為をすべて許すことができますか?あなたは自分の罪を許せますか?これが審判です」と告げています。

   このことは、「そのヤマ天も自分の思いが化したものである。」と「死者の書」に書かれていることと同様のことを語っています。

   この審判(裁き)の場は、最終的には個々の行為の裏にある動機にいたるまで問われること、過去の行為、言葉、考えとそれらが刻み込んだ潜在力や習癖の力(カルマ)から逃れるすべはないことを示しています。これは私たちが今生だけでなく来世や来来世にまでも逃れ得ない責任を有していることを意味しています。・・・・自業自得、他の誰の責任でもない。自分自身の責任なのだということです。

[再生のヴィジョン]
   カルマの風に翻弄され、為すすべもなくバルドのなかを彷徨い続けた後、私たちは、自分のカルマに合ったイメージやヴィジョンに感応し、無意識のうちにそこへ飛び込んでいきます。そして、六道のうちのいずれかの世界へと生まれ変わってしまうのです。

   そして、またその生が終わりバルドを経験し、また再生し・・・・とこのように六つの世界を輪が廻るように生まれ変わるのです。

   「チベット死者の書」ではこのように死から再生へと向かう輪廻転生の仕組みを説いています。

 

 

 

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