【代表メッセージ】の新着情報

2011/01/05
「上祐史浩のメッセージ」コーナーは、アメブロ「智慧のツィート」に移行しました
2008/12/09
感謝と分かち合い3――すべての人を幸福にする道
2008/12/07
感謝と分かち合い2
2008/12/07
感謝と分かち合い
2008/12/03
王侯貴族の日本人――今の幸福に気づいて分かち合う
2008/12/02
宗教も社会も変わるべき時――少欲知足と分かち合いこそが幸福の道
2008/11/25
自己愛型社会・誇大自己の問題
2008/11/25
大自然とのつながりと精神不安定の関係――特に大地母神について
2008/11/25
仏教心理学について
2008/11/25
ひかりの輪の4つのヨーガ
2008/11/25
ひかりの輪のバクティ・ヨーガ
2008/11/24
《救いの三仏の教え 4》 阿弥陀如来の祝福と教え
2008/11/24
《救いの三仏の教え 3》 薬師如来の教え――心身の癒しと現世幸福
2008/11/24
《救いの三仏の教え 2》 今後の修行体系の改善 ――3つの仏教修行の体系と、救いの三仏の教え
2008/11/24
《救いの三仏の教え 1》 救いの三仏とその教え――現代社会での多様な利他の実践のために
2008/11/24
ザンゲによる真の浄化と許し
2008/11/23
智慧と方便
2008/11/23
弥勒菩薩の智慧と慈悲 ――他人の悪業に対する怒りを滅する、弥勒菩薩の智慧と慈悲
2008/11/23
怒りを滅する3つの一元法則――弥勒半跏思惟像の観想
2008/11/23
自と他のつながり2――輪廻の教えと生態系論から
2008/11/23
自と他のつながり1――人は大自然の一部
2008/11/21
弥勒菩薩の教え――神仏としての大宇宙・大自然への帰依と合一
2008/11/21
観音菩薩の教え、すべてが神仏の現れ=カルマ・ヨーガ
2008/11/21
釈迦の正法--縁起・自業自得
2008/11/21
現代人が集団で積む悪業――カルマ・ヨーガの実践のために
2008/11/21
六波羅蜜の再考 ――業を滅する道として
2008/11/16
涅槃寂静、不苦不楽
2008/11/16
貪りは人を弱くする
2008/11/16
智慧と慈悲
2008/11/15
自業自得の法1
2008/11/15
日常のための一元の法則
2008/11/14
カルマ・ヨーガ5――カルマ・ヨーガと三仏の修行
2008/11/14
カルマ・ヨーガ4――すべての衆生に対する帰依に基づいた、セルフ・マハームドラーの実践法
2008/11/14
カルマ・ヨーガ3――すべての衆生が神仏の現われである
2008/11/14
カルマ・ヨーガ2――他人・外界に感じる幸・不幸は自己に因がある
2008/11/14
カルマ・ヨーガについて1
2008/03/08
新団体の社会的意義(3)/地球問題を解決する宗教思想
2008/03/05
新団体の社会的意義(2):新しい宗教・思想の創造
2008/02/29
新団体の社会的意義(1):三つの目的
2008/02/21
超能力による神格化・争いを超える
2008/02/21
前世・来世による神格化・争いを超える
2008/02/20
宗教間の争いを超え、地球教団の理想へ
2008/02/16
グルイズムを超えて、21世紀の宗教へ
2008/02/10
ひかりの輪の虹の教え
2008/02/10
21世紀の宗教のあり方『地球教団の理想』
2007/04/08
新団体の提供するプログラムの概要
2007/03/10
善悪二元論の世界を超える
2007/03/06
すべての存在に導きを感じる
2007/03/05
新団体の一元論の思想
2007/03/01
21世紀の新しい思想を創る
2007/02/28
新団体を創ろうと思った背景

このコーナーについて

  • 「上祐史浩のメッセージ」コーナーは、アメブロ「智慧のツィート」に移行しました (2011年01月05日)

    この「上祐史浩のメッセージ」コーナーは、上祐史浩オフィシャルブログ--21世紀の思想と創造智慧のツィートのコーナーに移行しました。
    これまでのメッセージはそのままこちらでご覧になれます。21世紀に必要な思想・宗教、さまざまな教えについて語ります。左に、カテゴリー分けしています。


新団体・ひかりの輪について

  • 新団体の社会的意義(3)/地球問題を解決する宗教思想 (2008年03月08日)

    前回2回は、主に新団体の社会的な目的・意義をご説明する中で、主に、日本社会の視点からお話ししました。今回は、その枠を広げて、地球の諸問題の視点から、新団体が目指す社会への奉仕について、お話ししたいと思います。

    前回において、オウム真理教を含めた、既存の宗教が、人を神とすることを含め、宗教と社会の対立、異なる宗教間の対立、宗教と科学の分裂を招く要素があり、それを乗り越えた新しい21世紀の宗教思想を創造することをお話ししました。

    今回は、これと本質的には同じことですが、それを21世紀の地球の諸問題の視点から見て、お話ししたいと思います。

  • 新団体の社会的意義(2):新しい宗教・思想の創造 (2008年03月05日)


    新団体の社会的意義について、付け加えたいと思います。前回は、三つの目的・意義をご説明しました。それは、私たちが、なぜ解散したり脱会せず、団体としてやり直していくのか、という点をご説明したものでもありました。

    その中で、賠償の推進と内部信者の扶養という点については、団体がなければ、現実として実現不可能であることは、比較的容易にご理解いただける内容ではないかと思います。

    そこで、今回は、残りの一つである、二度とオウムのような問題を繰り返さないための、21世紀のための新しい宗教・思想の創造という点について、詳しくお話ししたいと思います。

  • 新団体の社会的意義(1):三つの目的 (2008年02月29日)

    私たちが、オウム・アーレフ教団を集団で脱会して、新団体ひかりの輪を設立するに至った背景には、様々な経緯・動機・理由があります。

    今回は、その個人的・宗教的な経緯や動機ではなく、社会の一部には、解散を求める声がある中で、新団体設立の社会的な意義・目的について、お話ししたいと思います。

21世紀の宗教のあり方

  • 超能力による神格化・争いを超える (2008年02月21日)

    オウム真理教においては、相当に超能力が重視されました。

    まず、麻原元教祖の最初の書籍が、「超能力秘密の開発法」という名前で、副題として、超能力のつかない修行はにせものだというものでした。

    そして、元教祖を最終解脱者であるとか、シヴァ神の化身であるとして神格化していく背景には、元教祖の超能力というものがありました。この神格化が、一連の事件の遠因となったのですから、これは重要な問題です。

    よって、これまでの自分の修行や経験に基づいて、超能力というものについての自分の考え方を述べてみたいと思います。

     

  • 前世・来世による神格化・争いを超える (2008年02月21日)

    ●偉人の前世や来世を主張する教祖の問題

    宗教の教祖は、よく自分が過去世において偉大な聖者・救世主であり、また、来世においても、偉大な聖者・救世主になるということを主張することがあります。

    例えば、オウム真理教の麻原元教祖は、日本では徳川家光であり、阿修羅世界の王であって、未来には、未来仏マイトレーヤ(弥勒仏)になるという主張をしており、信者の多くはこれを信じていました。

    オウム真理教が破綻した後は、多くの人は、信じるのをやめたでしょうが、教団に残っている者は、まだ信じている人がいるでしょう。過去世や来世のことなどは、証拠を持って合理的に判断出来ないことが、決着がつきにくい原因になっています。

  • 宗教間の争いを超え、地球教団の理想へ (2008年02月20日)

    ●前回のまとめ

    前回は、「グルイズムを超えて、21世紀の宗教へ」というテーマで、自分の考えるところを書きました。

     全ての宗教が、全ての人を愛することを重視しながらも、自分の信仰を否定する他者を愛することができないばかりか、宗教・宗派の間や、宗教と社会の間に、紛争さえ生じるというのが、人類の歴史でした。

    そして、超えるポイントとしては、まず、第一に、神ではなく、人間である自分が、他人=教祖を神の化身と考えたり、自分の実践する宗教を神の与えた完全なものだと考えることは、冷静に考えるならば、自分の能力を超えた判断であって、不合理であり、傲慢でさえあることを自覚して、謙虚さを保って、自分の信仰を唯一絶対視するべきではないという主旨のことを書きました。

  • グルイズムを超えて、21世紀の宗教へ (2008年02月16日)

    ●ヨーガ・密教のグルイズム(グルの絶対視)の傾向

       オウム真理教では、麻原元教祖がグルとして、絶対的な位置づけを持っており、これが、元教祖の指示に弟子が無思考に従って、一連の犯罪を犯した問題の一因になりました。

       ここで、グルを絶対視する信仰・修行実践をグルイズムと呼び、今回は、この問題をどのように乗り越えるべきかをお話ししたいと思います。

       まず、ヨーガや密教をよく知る人は、オウム真理教に限らず、ヨーガや密教においては、その教えの一部においては、修行に成功するためには、グルが必要であり、さらには、グルは(弟子に対して)絶対的な位置づけを持ち、場合によっては、殺生をも肯定する、といった、誤解を与える教えがあることはご存じかと思います。

  • ひかりの輪の虹の教え (2008年02月10日)

       ひかりの輪の象徴である虹について、旧暦のお正月となる2月7日、一つの発見をしました。

       ご存じの通り、ひかりの輪のシンボルマークは、虹色の法輪です。法輪は、釈迦・仏法の象徴ですが、虹については、どのような意味合いがあるか。これについては、別項で、ある  程度、書きました。

       例えば、虹は、旧約聖書で、神の契約の印とされていたり、仏教で解脱の象徴などとされており、神聖なものの象徴です。また、私などのひかりの輪の指導員が、聖地において、よく虹を体験することがあり、そういった聖地体験が、オウム・アーレフを脱会し、ひかりの輪を設立する流れの中にはありました。こういったことは以前にも書きました。

       しかし、今回理解したことは、これらよりもずっと深い意味合いであり、それについて、以下にお話ししたいと思いますが、先に結論を言うならば、虹は一元論的な思想の非常に優れた象徴であるということになります。

  • 21世紀の宗教のあり方『地球教団の理想』 (2008年02月10日)

        21世紀の宗教のあり方『地球教団の理想』


       前にもお話ししましたように、ひかりの輪は、従来の宗教のあり方を超えた、21世紀の宗教・思想のあり方を追求しています。

       そして、その一つのポイントとなることをお話ししたいと思います。それを一言で言えば、地球が(自分の)教団である、という心構えであるということができます。

       従来の宗教団体は、自分の教団と他の教団を区別することに、大きな特徴があります。要するに、自分の教団が、他の教団より素晴らしいという主張をするということであり、そのため、「宗教は、皆、自分の教団が一番である」と主張するという批判はよく聞かれます。

       私たちは、これをどうにか乗り越えることができないかと考えています。というのは、ひかりの輪の思想が、この世界の全てのものは、本質的には一体であり、全てつながっているという一元論的なものだからです。

2007年 新団体設立にあたって

  • 「ひかりの輪」設立のごあいさつ (2007年05月13日)

    このたび新団体「ひかりの輪」を設立しました。 それに伴い、その公式サイトを開設し、 みなさまに、 「ひかりの輪」の思想と活動などについて、 できるだけご紹介をしていきたいと思います。 どうかよろしくお願い致します。 また、今後の活動の改善のためにも、 皆様のご意見、ご感想をお待ちしております。 「ひかりの輪」 代表 上祐史浩

  • 新団体の提供するプログラムの概要 (2007年04月08日)

    ベーシック・ヒーリングとセルフ・ヒーリング

    (1)新団体のプログラムの全体構成:
    ベーシック・ヒーリングとセルフ・ヒーリング


    新団体のヒーリング(=浄化・癒やし)プログラムは、主に、ベーシック・ヒーリングとセルフ・ヒーリングに分けることができます。

    ベーシック・ヒーリングとは、主に他者によるヒーリングであり、セルフ・ヒーリングは、主に自分自身で自分をヒールするものです。

    他者によるベーシック・ヒーリングは、いわば入り口であり、人は自分の中に自分をヒールする力を有していますから、より発展的な段階として、セルフ・ヒーリングがあります。

    セルフ・ヒーリングは、いわゆる自己鍛錬、修行と呼ばれる類の実践も含まれます。

  • 新団体の基本的な性格 (2007年04月06日)

    (新団体は従来の宗教団体ではない)
    旧教団の事件が、その宗教によって起こったのに、なぜ新団体は宗教を行なうのか、という質問をされることがあります。
    私たちは、旧教団の事件が、その宗教教義に一因があったということを深く受け止め、オウム真理教の宗教教義の総括だけでなく、カルト教団を宗教的な構造から、従来の宗教全般に渡る問題までを分析・検討して、そういった従来型の宗教を乗り越えた新しい宗教ないしは思想を実践しようとしています。
    よって私たちは去年から、「新教団」ではなく「新団体」と表現してきました。これは、新団体の性格が、「従来の宗教団体」のものではないという意味合いが込められています。

  • 善悪二元論の世界を超える (2007年03月10日)

    3月10日
    数年前に、例の911のテロがありました。
    それを見た時、最初は、ある意味で他人事でした。
    その時は、そろそろ、キリスト教勢力とイスラム教勢力の対立による安全保障上の問題があるのではないか、と信徒の人たちに話していた折でした。
    しかし、この問題と、自分たちの教団の問題は全く結びついていませんでした。
    それから、一年ほど経った後、911事件と、教団の地下鉄サリン事件が、突然結びついてきました。
    色々調べてみると、地下鉄サリン事件と、911事件が、非常によく似ていることに気づきました。
    両方とも、日米の首都・大都市で起こった、無差別大量テロであり、複数の公共交通機関を同時に用い、時刻も、朝8時頃に発生しています。
    そして、その視点でも調べてみると、立花隆氏が、911テロが、オウム真理教を含めた日本人の影響がある、と論じていることを見つけました。

  • 真の人のための宗教を創る (2007年03月07日)

    3月7日
    新団体が目指す中に、盲信を越えて、真の叡智を推進する、
    新しい宗教思想というものがあります。
    ご存じのように、今現在、残念ながら、宗教は知的なものだ、
    とはなかなか思われていません。
    自己を絶対視する宗教は、
    客観性、科学性を重視する人から見れば、どんな宗教であれ、
    多かれ少なかれ、盲信的だと思われるかも知れません。
    しかし、本来は、宗教は、
    人類の精神的な叡智の結晶であったと思います。

  • すべての存在に導きを感じる (2007年03月06日)

    3月6日
    一元論の教えは、旧教団の思想と対極をなします。
    旧教団は、麻原元代表という特定の教祖だけを
    世紀末ハルマゲドンの際に現れるキリスト、神の化身と見て、
    世の中を聖である教団と邪である社会に分ける、
    善悪二元論の思想がありました。
    しかし、現実には、
    オウム・アーレフの信者が、
    どのように自分たちを外部社会と区別しても、
    外部社会がなければ、
    一日も生きていくことはできません。
    そして、一連の事件の結果として、
    日本社会を傷つけて壊したが故に、
    自分たちの教団も破綻し、
    そして、崩壊しよう、としています。

  • 新団体の一元論の思想 (2007年03月05日)

    3月5日
    新団体の教義について、多少、お話ししたいと思います。
    新団体の教義のベースは、旧団体の終末思想的な
    善悪二元論を越えたものです。
    旧教団の終末思想的な善悪二元論とは何か。
    旧教団は、ヨハネ黙示録やノストラダムスなどの
    終末予言を独自に解釈しました。
    そして、松本氏を神の化身であり、
    ハルマゲドンの際に現れるとキリストとして、
    信者をキリストの聖徒としました。
    そして、外部社会をキリストを弾圧する
    マーラ(悪魔)の軍勢と見なし、
    信者は、真理の戦士として、その悪の社会と戦う、
    という教義を展開しました。

  • 21世紀の新しい思想を創る (2007年03月01日)

    3月1日
    私たちの課題は、新団体を創ることではありません。
    理想は、21世紀の新しい宗教を創る、ということ。
    新しい宗教を創らずに、別のオウムを作るなら、
    単なる分裂騒動です。
    それは、意味がありませんし、そういうことは起こらないと思います。
    私たちは、客観的に見れば、まぎれもなく宗教的なテロ組織でした。
    それを懺悔して、新たに生まれ変わる、ということ。

  • 新団体を創ろうと思った背景 (2007年02月28日)

    2月28日

    新団体を創ろうと思った理由は、一言では表現しにくいものです。
    もちろん、それは、一連の事件を起こした旧教団の教訓に基づいています。
    自分の人生の中で、これほどの強烈な体験はありません。

    とはいえ、単に、それを頭で考えただけで、
    やろうとしているのではありません。
    魂と体が、大きな流れを感じて、やろうとしている面があります。

    ここ数年で、元代表時代の教義とは違った、
    様々な意義深い体験をしました。

会員向けメッセージ・特別公開

  • 感謝と分かち合い3――すべての人を幸福にする道 (2008年12月09日)


    「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上祐史浩(ひかりの輪代表)のメッセージを、公式サイトにも掲載することになりました。 ご紹介するメッセージが、皆さまの日々の生活に少しでもお役に立つことができればと願っています。 なお、メンバーズサイトは、会員の方に限らず、真面目なご関心のある方にも、ご利用いただいています。

    お問い合わせはmail@hikarinowa.netまで。

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    ●幸福・不幸は、他との比較の問題

    さて、今回は、感謝と分かち合いこそが、すべての人々を幸福にする道だと思うことについて述べたい。

    例えば、ここに3人の人がいて、それぞれの給料が20万、25万、30万だとする。普通の場合は当然のことだが、20万の人は、25万や30万の人を見て、自分の給料に不満を抱き、自分の給料がもっと上がるように欲求する。

    しかしながら、この世の中のお金は有限だから、誰かの給料が上がるためには、誰かの給料が下がらなければならないときがある。

    それは好景気のときには当てはまらない、と言うかもしれない。しかし、先ほどの3人の給料が、好景気のために、それぞれ二倍になり、40万、50万、60万となっても、30万の人の欲求は変わらない。

     人の感じる幸福・不幸は、「他との比較」の問題であって、いくらであれば幸福で、いくらならば不幸である、といった具合に、額自体で決まるのではないのだ。実際に、お金持ちとは、いくら以上の所得の持ち主である、と定義されるのではなく、単に「他の人より」お金を持っている人という意味にすぎない。つまり、お金持ちになるには、他の人に貧しくなってもらわなければならないのである。

  • 感謝と分かち合い2 (2008年12月07日)

    「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上祐史浩(ひかりの輪代表)のメッセージを、公式サイトにも掲載することになりました。 ご紹介するメッセージが、皆さまの日々の生活に少しでもお役に立つことができればと願っています。 なお、メンバーズサイトは、会員の方に限らず、真面目なご関心のある方にも、ご利用いただいています。

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    ●感謝と分かち合いと、不満と奪い合い

    前回に引き続き、感謝と分かち合いについて述べたい。

    「感謝と分かち合い」とは、すでに与えられている幸福で「足る」を知り、それに「感謝」し、その自分の幸福を他と「分かち合う」ことである。その背景には、欲望には際限がなく、足るを知らずに、もっともっと求めて貪ったとしても、幸福にならないことを悟った智恵がある。

    その反対は、貪りに基づく「不満と奪い合い」の実践である。それは、現在の状態に不満を抱き、まだ与えられていないものを得ようと欲求して、例えば、お金・物、  プライド、名誉、地位といった外的な条件を良くしようとして、それが際限なく肥大化していくプロセスである。

    これは、仏教的な表現では、「貪り」であるが、この貪りにとらわれてしまうと、多くの場合、それがうまくコン トロールできなくなって、欲求が肥大化し、他の人との「奪い合い」になる。これは、煩悩的な欲求の対象は有限であって、それを求めることは、本質的には、他との奪い合いの構図を形成してしまうからだ。

  • 感謝と分かち合い (2008年12月07日)

    「ひかりの輪メンバーズサイトに連載中で、好評をいただいている、会員の方向け・上祐史浩(ひかりの輪代表)のメッセージを、公式サイトにも掲載することになりました。 ご紹介するメッセージが、皆さまの日々の生活に少しでもお役に立つことができればと願っています。 なお、メンバーズサイトは、会員の方に限らず、真面目なご関心のある方にも、ご利用いただいています。

    お問い合わせはmail@hikarinowa.netまで。

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    仏陀の教えを考え直してみると、貪り・怒り・無智を死滅して、「智恵と慈悲」を深めることにその本質があるということがわかる。そして、そのための具体的な実践としては、どうしても「感謝と分かち合い」というものが出てくると思う。

    貪りとその裏にある怒りを捨断するということは、「足る」を知って、「もっと、もっと」という欲望が満たされない ことによる不満・怒りを抑えることだから、そのためには、「与えられているものの大きさを理解し、なるべく感謝する」という実践がとても有効になると思う。

     そして、それが進んでくれば、「自分のために、もっと、もっと」という気持ちが薄れて、「他のために、自分の持っているものを分かち合う」ということが出てくると思う。これが仏教が説く布施の実践であろう。

    現代社会は、不満と奪い合いの傾向が強まっているように見える。個々人の自己愛や消費の欲望は肥大化し、社会システム全体としても、個々人の精神状態にしても、行き詰まりつつあるように見える。

    それを超えるための教えは、この「感謝と分かち合い」の実践ではないだろうか。不満と奪い合いは、貪り・怒り・無智の三毒に基づいたもので、感謝と分かち合いは、言い換えれば、「智恵と慈悲」の実践である。

    感謝と分かち合い。単純ではあるが、非常に本質的な教えではないかと思う。個人としても、団体としても、日常の幸福のためにも、悟りの境地に近づくためにも、今後できるだけ実践していきたいと思う。

     

  • 王侯貴族の日本人――今の幸福に気づいて分かち合う (2008年12月03日)


    (2008年06月29日会員向けメッセージより転載)

    ●日本人は不幸か幸福か--比較による感覚

    毎日、新聞で秋葉原などの最近の犯罪などを見ると、日本の国の中では、多くの人が自分が不幸であると感じているように見える。「若年層の派遣労働」や「ワーキングプア」の問題、市場原理主義が強化された社会での「負け組」、毎年7000人にもおよぶ「経済苦を動機とした自殺」など。

    しかし日本の中で、自分は貧しいと思っている人でも、途上国の人たちから見ると「王侯貴族」に見えるという話を聞いた。それは確かなことだろう。日本の平均年収は数万ドルにおよび、途上国は、その十分の一から、場合によっては百分の一に近いところさえある。

    「結局、人は地球全体を見て、自分が幸福か不幸か、ないし裕福か貧しいかを認識するのではなく、近いしい他人と比較してそれを判断するものだ」とある社会学者が述べていたが、それは事実であろう。実際には、近い他人との比較に加え、例えば以前の自分と今の自分の比較などもある。前より豊かになったら「幸福」だし、落ちぶれたら「不幸」と感じるのだ。

     これは、「幸福・不幸」「裕福・貧困」の絶対的な基準があるのではなく、すべては、相対的なものであるということである。すなわち「幸福・不幸」は、人の心が比較によって作り出す主観的なものであり、客観的なものではなく、その意味で実体がない。

  • 宗教も社会も変わるべき時――少欲知足と分かち合いこそが幸福の道 (2008年12月02日)

    (2008年06月28日会員向けメッセージより転載)

    ●幸福追求のあり方を改めるべき時代

    自分は、21世紀というのは、宗教も社会もその幸福の追求の仕方について、根本的なところから改めていくべき時代ではないかと思う。それは、もっと幸福になろうとするのではなく、「今の幸福に気づいて、それを他と分かち合って幸福になる」という考え方への大転換である。

    現在の人類社会を見ると、これまでの資本主義経済が行き詰まりを見せている。

     地球の環境・資源・エネルギーには限界があるのに、爆発する人口のもとで世界中に経済競争が広がり、水、食料、石油等の資源の不足が懸念され、温暖化などの地球環境問題が進行している。つい最近も、食料危機が悪化し、石油価格が高騰し、先進国の首脳による会議も有効な打開策を打ち出せないでいる。

    これは、今より大きな快楽を求め、それを充足することで幸福になるという従来型の幸福追求のあり方は、もはや続けることができないということだと思う。
    資本主義は、欲求を増大させ、それを満たすために生産と消費を向上させることが根本原理だが、もはや、それを続けることはできなくなりつつある。

  • 自己愛型社会・誇大自己の問題 (2008年11月25日)

    (2008年07月27日会員向けメッセージより転載)

    ●自己愛型社会、誇大自己の問題

    今回は、オウム真理教の総括において心理学的な視点から詳しく分析したことに関して、いくつか述べたいと思う。よって、詳しくは、ぜひとも、すでに発表されている(ないし今後発表される)総括をよく読んでほしい。

    最近、心理学では、現代社会を覆う問題として、「自己愛型社会」とか、「誇大自己」といった問題が指摘されている。これが、日常のさまざまなトラブルから、青少年をはじめとする「異常な犯罪」の原因であるともいわれる。

    自己愛とか、プライドとか、自己の存在意義に対する欲求が強すぎて、「うまく現実に適応できない」という問題だ。

  • 大自然とのつながりと精神不安定の関係――特に大地母神について (2008年11月25日)

    (2008年07月14日会員向けメッセージより転載)

    ●「無意識とのつながり」の希薄さによる魂の危機を唱えたユング

    現代社会は、「精神不安定」の社会であると思う。一般社会を見てもそうだし、自分たちの妄信的な信仰が崩れた後の教団を見ても、その側面がある。

    それを乗り越えるために、ひかりの輪は一元の法則を提唱してきたが、今回は、これについて心理学的な側面から検証したい。すなわち、現代人の精神不安定の「根源」にあるものと、一元思想、特に「大自然の源」との「再融合」の重要性である。

    心理学の巨人カール・ユングは、現代人の心の危機、魂の危機を唱えた。そして、彼はその危機の原因は、「無意識とのつながり」が希薄になっていることから生じていると主張した。

  • 仏教心理学について (2008年11月25日)

    (2008年07月10日会員向けメッセージより転載)

    ●仏教心理学--地球問題、仏教、心理学を結びつけたもの

    山口部長を中心として、ひかりの輪では、従来のユング心理学を土台にして、仏教的な教義と心理学の接点について、日常生活に役立つような考え方を解説してきた。

    今後は、ユング心理学の範疇を超え、現在の「地球規模の問題」と「仏教の教え」と「心理学」を体系的に結びつけた、「仏教心理学」の理論を展開していきたいと思う。

    具体的には、まず、ユング心理学が説く「影の投影の理論」がベースとなる。「影」とは、自分が忘れている、ないし見たくない自分の「暗部」のことであり、自分が嫌だと思う他人は、「自分の暗部の投影」である、という考えである。

    これは、仏教的な一元論の考え方と合致する。

  • ひかりの輪の4つのヨーガ (2008年11月25日)

    (2008年07月09日会員向けメッセージより転載)

    私は少し前に、ジュニアーナ・ヨーガ,、カルマ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガ、バクティ・ヨーガという「4つのヨーガ」について、それぞれ説いたことがあったと思う。

    今回は、改めて4つのヨーガのそれぞれについて、ひかりの輪のそれらのヨーガの解釈が、どのようにオウム真理教のものや、インド伝統のものと違っているかについてや、その4つのヨーガの相互の関連性について述べたいと思う。

    その前に、この4つのヨーガという基本的なコンセプトであるが、これはインド三大聖者の一人であるラーマクリシュナ・パラマハンサの弟子ヴィヴェーカーナンダが体系化した、4つのヨーガの影響を受けている。

  • ひかりの輪のバクティ・ヨーガ (2008年11月25日)

    (2008年06月29日会員向けメッセージより転載)

    ●バクティ・ヨーガ実践者の経験

    オウム真理教では、グルの意思の実践を「バクティ・ヨーガ」と呼んだ。正確には、「神とグルの意思の実践」であるが、神の意思を理解できるのはグルだけであるとされたから、実質的には、グルの意思の実践が「バクティ・ヨーガ」だったのである。

    ところで、この「バクティ・ヨーガ」であるが、本場インドのヨーガでは、必ずしも、神の意思の実践を意味しない。「バクティ・ヨーガ」は、「神への信愛」などと呼ばれて、恋愛感情のごとく熱烈な思いを持って神を信仰することとされている。

  • 《救いの三仏の教え 4》 阿弥陀如来の祝福と教え (2008年11月24日)

    (2008年10月22日会員向けメッセージより転載)

     阿弥陀如来は、西方の極楽浄土にあって、すべての衆生を救済する誓願をなした仏とされ、よく知られるように、観音菩薩の本体でもある。

    この如来は、チベット密教から、日本の浄土宗・浄土真宗まで、広く崇拝されている。チベット密教は、基本的に阿弥陀如来・観音菩薩が主尊であると言ってもよいだろう。ダライ・ラマ法王が観音菩薩、パンチェン・ラマが阿弥陀如来の化身とされ、首都ラサにある法王の宮殿の名前であるポタラは、観音菩薩の浄土の名前である。

  • 《救いの三仏の教え 3》 薬師如来の教え――心身の癒しと現世幸福 (2008年11月24日)

    (2008年10月21日会員向けメッセージより転載)

    1 薬師瑠璃光如来と、ひかりの輪との縁

    救いの三仏の一つである薬師如来は、病を癒す仏陀として有名である。正式な名前は、薬師瑠璃光如来といい、東方浄瑠璃世界にあって、悟りに加えて、病に限らず、他のさまざまな現世の苦しみを取り除き、衆生を救済することを誓願した仏とされる。

    よって、西方の極楽浄土にあって、来世の苦しみから救うことで有名な阿弥陀如来とよく対比され、現世幸福の東方・浄瑠璃世界の薬師如来と、来世幸福の西方・極楽浄土の阿弥陀如来が、東西の仏陀として、対(つい)になって登場することがある。

  • 《救いの三仏の教え 2》 今後の修行体系の改善 ――3つの仏教修行の体系と、救いの三仏の教え (2008年11月24日)

    (2008年10月19日会員向けメッセージより転載)

    ●3つの仏教の修行体系

    今後のひかりの輪の修行システムの改善について、その一端について述べたいと思う。

    まず、最近の教学に基づいて、正当な仏教的な伝統をまとめ上げると、①上座部仏教の修行、②大乗仏教の顕教の修行、③密教の修行という、3つの修行というものが浮かび上がってくる。

    上座部仏教の修行とは、戒・定・慧の三学を中心とした縁起・空の瞑想であり、大乗仏教の修行とは、智慧と方便の両輪=教学・瞑想に加えて、発菩提心に基づく六波羅蜜を中心とした功徳の実践であり、密教の修行とは、大乗の目的を迅速・強力に実現する瞑想修行である。

  • 《救いの三仏の教え 1》 救いの三仏とその教え――現代社会での多様な利他の実践のために (2008年11月24日)

    (2008年10月14日会員向けメッセージより転載)

    ●現代社会における多様な法施の必要性

    大乗の修行においては、智慧を培う縁起・空に関する瞑想に加えて、功徳を積む修行が重要であると説かれているが、具体的には、発菩提心に基づいて布施から始まる六波羅蜜の実践をなさなければならない。

    そして、その布施の実践の中でも、法施の功徳はとりわけ重要であるが、現代社会においては、さまざまな人々の、さまざまな修行に対するニーズがあるから、それを踏まえて法施の実践をしなければならないだろう。

  • ザンゲによる真の浄化と許し (2008年11月24日)

    (2008年07月30日会員向けメッセージより転載)

    ●ザンゲの意味合い--怒りを死滅すること

    仏教・密教には、「ザンゲの修行」というのがある。今回は、ザンゲによる真の浄化とは何か、というテーマについて考えてみたい。

    ひかりの輪では、密教において、罪・悪業を浄化する上で大変力があるといわれている、神格である「ヴァジラサットヴァ」を据えて、その六音節・百音節のマントラを唱えることなどを行っている。

     そして、その密教の経典では、ザンゲの意味合いとして、「怒りを止滅すること」と書いてある。これはなぜかというと、経典には書いていないが、ザンゲによって、自分の悪業を理解するならば、その結果として、他人対する嫌悪、軽蔑、怒り、というのは和らいでいく、ということであろう。

  • 智慧と方便 (2008年11月23日)

    (2008年11月13日会員向けメッセージより転載)

    智慧と方便という言葉が大乗仏教の根幹的な法則としてある。まず、この言葉の伝統的な教科書に関する説明をして、その後、その深い・実践的な意味合いを説明したい。


    ●大乗仏教が説く智慧と方便

    大乗仏教は、個人の幸福である阿羅漢の境地を超えて、すべての衆生を救うための智慧を核とするために、仏陀の境地(ブッダフッド)に至る道を歩むことを説く。

    そして、その仏陀の境地に至るためには、「智慧」と「方便」の2つが必要とされ、この2つがそろってこそ、仏陀の境地を得ることができる、とされている。

    智慧とは、空を悟っている智慧であり、空についての瞑想が、智慧の集積体(智慧の聚〈じゅ〉)を形成するといわれる。

  • 弥勒菩薩の智慧と慈悲 ――他人の悪業に対する怒りを滅する、弥勒菩薩の智慧と慈悲 (2008年11月23日)

    1 怒りの背景にある自と他を区別する無智

    他が悪業をなしている場合に怒りが生じる理由の一つは、悪業をなしている他人と自分とを区別する心の働きである。逆に、自分自身がなしていると自覚している悪業を他人がなしているときには、怒りが生じにくいことからも、これがわかるだろう。

     よって、もし、他人の悪業が、自分の悪業の投影であると理解することができれば、怒りを超えることができる。しかし、普通は、なかなかそうは思えないものである。

    では、そのための突破口は何であろうか。その突破口の一つとして、悪業をなしている他人に対して、なぜ、自分は、哀れみではなく、怒りが生じてしまうのか、という点を考えることである。

  • 怒りを滅する3つの一元法則――弥勒半跏思惟像の観想 (2008年11月23日)

    (2008年10月03日会員向けメッセージより転載)

    1 縁起の法における、3つの一元の重要な法則

     縁起の法の教えの中で述べたが、私が思うに、人の心の解放を妨げる、3つの二元論がある。それは、自と他の区別、楽と苦の区別、善と悪の区別である。

    具体的には、実際には、自と他はつながっているところ、自と他を区別して、他人より自分に愛著すること。次に、実際には、楽と苦は表裏なのに、楽と苦を区別して、苦よりも楽に執着し、苦を厭うこと。最後に、善と悪がつながっているところ、善と悪を区別して、善に執着して、悪を厭うこと。

    そして、この3つの二元論の無智が、今回のテーマである怒りの原因となっているのである。

  • 自と他のつながり2――輪廻の教えと生態系論から (2008年11月23日)

    (2008年09月08日会員向けメッセージより転載)

    伝統的な輪廻転生の思想は、「今、私たちが見ている、すべての人々や生き物は、私たちの無数の前生のいずれかにおいて、父母・兄弟・子孫であったことがあるはずだ」と気づいて、すべての人々・生き物を愛するように説く。

     そして、その者が悪業をなしていたり、自分を傷つけるとしても、その行為は、どこかで、私たち自身の過去世と深いつながりがあるかもしれない。多くの親が、自分の今生の子どもの悪業・非行に対して、自分の責任を感じるが、私たちに責任があるのは、決して今生の自分の子ども・家族・親族だけではないのである。

    また、今生だけに限っても、似たような事実がある。

  • 自と他のつながり1――人は大自然の一部 (2008年11月23日)

    (2008年09月07日会員向けメッセージより転載)

    ●言葉による区別からくる錯覚

    縁起の法が説くように、この世界のすべてのものは、実際には、相互に依存しあって存在しており、他から独立した、固定した実体を有するものはない。そして、この法則をあてはめるべき最も重要な対象が、私たちが「私」と呼んでいるものである。

    ほとんどの人は、「"私"は、"他人・環境"とは別のものである」と思い込んでいるが、ありのままに観察すれば、この世界のすべての生き物は、その環境とともに、相互に依存しあって存在しており、他から独立して存在するものなど何一つない。

  • 弥勒菩薩の教え――神仏としての大宇宙・大自然への帰依と合一 (2008年11月21日)

    (2008年07月25日会員向けメッセージより転載) 

    1.大自然と一体になる道

    聖地修行などでは、よく「大自然と一体になる」という境地が説かれる。では、どのようにしたら、このような心境・生理的な感覚を得ることができるのであろうか。

    そのためには、その障害となっている、私たちの心の中の貪りを滅しなければならない。
    私たちが、「あるがままに、与えられたままに、自然に生きる」ときに、大自然と一体となった感覚が得られるのである。

    しかし、普通人間は、「あるがままに、与えられるままに、自然に生きる」ということが、なかなか難しい。今の外的な環境をあるがままに受け入れるのではなく、「それを変えて、もっと楽を貪りたい」と考えて、行動する。

     一方、聖地修行などで大自然を観察し、見るならば、さまざまな山や川、 木々や草花などは、それらの外的な条件を「そのままに」受けて入れて存在していることがわかる。

    何かの木や花や山が、「自分が一番になりたい」と考えて、他と争ったりはしない。それでいて、個々の木や花や山が、その大小・美醜にかかわらず、生態系の中で、「自分の役割」を果たしている。人を癒すのも、一番高い山とか、一番大きな木だけではない。

    川の水は、特定の形を持たず、しなやかに、その流れるところの地形に合わせて進んでいく。幅広くなったり狭くなったり、深くなったり浅くなったり、速くなったり遅くなったりしつつ、淡々と流れて、ついには大海に行き着き、そして、水蒸気となっては、天に昇り、雲となり、雨として降ることを繰り返している。

    こういった大自然の中で、私たちが貪りを止滅し、自然なままに生きるときに、それと一体となった感覚がおのずと得られるのである。

  • 観音菩薩の教え、すべてが神仏の現れ=カルマ・ヨーガ (2008年11月21日)

    (2008年07月24日会員向けメッセージより転載) 

    1.カルマ・ヨーガについて

    「カルマ・ヨーガ」とは、インドヨーガの定義では、すべての人々を神の現れと見て奉仕するヨーガであるが、ひかりの輪においては、仏教の教義とも組み合わせて、これを発展的に解釈して、より広い意味で用い、「すべての人々、生き物、ひいては万物に、神仏やその法の現れを見て、学び、感謝し、奉仕するヨーガ」と  いった意味合いがある。

    ここで、カルマ・ヨーガは、他から学ぶだけではなく、学べたことに感謝して、「恩返しの奉仕」をする、ということが含まれる。こうして、カルマ・ヨーガと慈悲の実践は結びついているのである。

    では、どのように考えれば、すべてを神仏の現れと見て、学びの対象とできるのだろうか。それには、以下のように、さまざまな考え方が可能である。これらをよく理解して、自分に合ったものからでよいから、さっそく修習を始めて、徐々にその実践を広げ、深めることが望ましい。

  • 釈迦の正法--縁起・自業自得 (2008年11月21日)

    (2008年07月23日会員向けメッセージより転載)

    2008年7月17日 上高地(神降地)の自然にて

    1.縁起の法--因と縁が果を生む

    今回は、これまでとは別の切り口で「縁起の法」を説く。これまでは、縁起の法の意味として、すべての事物は、独立した実体を有しておらず、相互に依存し合って存在している、と説いた。これは、一元的な世界観を与える。

    今回は、その「縁起の法」の原語から解説する。縁起の法の「縁起」とは、「因縁生起」の略である。因縁とは、因が「直接原因」、縁が「間接原因」とされ、因縁生起とは、すべての現象・事物が、「因」と「縁」によって(依存して)生じる、という意味である。

    これに基づいて、すべての事物が、他から独立しておらず、それを生じさせる因と縁に依存している、という一元の世界観が説かれるのであるが、今回は、この「因」と「縁」という二つに注目する。

    縁起の法が説く、「すべての現象は、因と縁によって生じる」という教えは、言い換えれば、「因と縁によって果が生じる」ということであるから、これは「因果の法則」、ないしは、「カルマ(=業)の法則」と通じることになる。

    ここで直接原因を単純に「原因」と言い換え、間接原因を「条件」と言い換えると、皆さんにもなじみがある、「すべての現象は、原因と条件の結合の結果である」とも表現できる。

  • 現代人が集団で積む悪業――カルマ・ヨーガの実践のために (2008年11月21日)

    (2008年08月24日会員向けメッセージより転載)

    「カルマ・ヨーガ」の実践では、すべての現象は、自己のカルマの投影であり、他人の悪業は、自分の潜在的な悪業の投影と見て、怒らずに、反面教師として学んで自省し、他人の善業は、自分の潜在的な善業の投影と見て、嫉妬せずに、見本として喜び、学ぶ、という考えを育むことがある。

     もう少しいえば、そのように考えた上で、すべての存在について、 「自分のカルマを投影する、神仏(と法則)の現したもの」と考えて、それに感謝し、そして、奉仕するという実践である。

    そして、この「他の業と、自分の潜在的な業のつながり」を理解するためには、自分の潜在的な要素を理解する努力が必要である、ということは前に述べた。

  • 六波羅蜜の再考 ――業を滅する道として (2008年11月21日)

    (2008年07月10日会員向けメッセージより転載)

    貪り、怒り、無智といった三毒を滅する道として、六波羅蜜を見直してみると、非常によくできた教えであると思う。

    その前に、馴染みのない人に説明しておくと、「六波羅蜜」とは、大乗仏教(すなわち、菩薩行を行う者)の修行項目であり、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智恵の六つである。

    「布施」とは施しであり、通常、財施・無畏施・法施とされ、財を施す、恐れのない状態を施す、法則を施すことをいう。「持戒」は戒律を保持=守ることで、有名な戒律は十戒・十善業である。「忍辱」は苦しみに耐えることで、物質的な困窮、名誉の毀損、法則を理解する上での観念的な苦しみなどに耐えることである。

  • 涅槃寂静、不苦不楽 (2008年11月16日)

    (2008年07月07日会員向けメッセージ転載)

    ●涅槃の伝統的な定義と解説

    貪りを含めた煩悩を滅した状態を「涅槃(寂静)」という。

     オウム真理教では、「涅槃=ニルヴァーナ」を絶対の世界と解釈していたが、これは、必ずしも、伝統的な仏教の教えの表現ではない(とはいえ、解釈は人の自由だから、まちがっているとまでいっているのではない)。そこで、伝統的な表現・解釈について紹介しよう。

    伝統的な仏教の解釈・表現では、「涅槃」とは、サンスクリット原語の「ニルヴァーナ」の音写で、『仏教辞典』(岩波書店)によれば、「古くは、煩悩の火が吹き消された状態の安らぎ、悟りの境地」であり、「煩悩の根本といわれる貪欲(どんよく)の滅、瞋恚(しんい、怒り※注釈参)の滅、愚痴(ぐち)の滅をいう」とされ、「これら三つ(三毒)を止滅した状態を涅槃の第一義とする」とある。

  • 貪りは人を弱くする (2008年11月16日)

    (2008年07月07日会員向けメッセージより転載)

    ●貪るならば、その裏で他が苦しむ

    「貪り」の不利益については、繰り返し述べてきたが、今回はそれをさらに深めたいと思う。

    まず、自分が快楽を貪るならば、「その裏側で、他人の苦しみが増大する構図」が、この世の中にはあるということである。

     まず、縁起の法に基づいて、この世界をありのままに見るならば、自分と他人やこの世界の一切のものは、互いに独立しておらず、相互に依存しあって、つながっていることがわかる。

    そして、よく観察するならば、お金にしても、異性にしても、食べ物にしても、名誉や地位・権力にしても、それを貪るならば、それは他人から奪わなければならないという側面がある。

  • 智慧と慈悲 (2008年11月16日)

    (2008年07月06日会員向けメッセージより転載)

    ●智慧と慈悲は不可分

     「智慧と慈悲」とは、よく仏教の修行で獲得すべき二大徳目といわれる。「智慧」とは現象をありのままに見る・理解する力であり、「慈悲」とは、他の苦しみを取り除き、幸福を与えることである。

    そして、この「智慧と慈悲」は、不可分である。よく、観音菩薩は、「救済・慈悲」の化身といわれるが、同時に「智慧」の体現者でもある。観音菩薩の本体とされる阿弥陀如来は、仏陀の五つの智慧の象徴である、識別智を有しているといわれる。

  • 自業自得の法1 (2008年11月15日)

    (2008年06月30日会員向けメッセージより転載)

    ●「自業自得」とは

    仏教を含めたインド思想では、「自業自得」を説くが、この教えを真に理解することは、なかなか難しい。

    仏典などでは、例えば自分が「過去世」になした悪業が、今生、返ってきて、不幸・苦しみを経験すると説か  れるが、いざ、自分に不幸・苦しみが訪れた場合は、仏教を信じている人の中でさえ、「過去世」という科学的に知ることができない事柄にもとづいて、それを心から受け入れることが容易ではないことは、ある意味で自然なことであろう。

    しかし、「過去世」という概念を持ち出さなくても、仏教が説く「三毒」とか、「苦楽表裏」という教えをについてよく考察すると、「自業自得」という考えを深めることができる。

  • 日常のための一元の法則 (2008年11月15日)

    (2008年06月29日会員向けメッセージより転載)

    ●一元とは

    今回は、日常生活で、どのように一元の法則を実践していくかについて、できるだけ簡潔にまとめてみよう。

    「一元」とは文字どおり、元が一つという意味である。よって、「一元の法則」とは、諸現象が本質的にはつながっていて一体である、という意味となる。
    そして、ひかりの輪の「輪」は、一元の法則の象徴である。なぜなら「輪」は、輪のようにつながって一体という意味があるからだ。

     

  • カルマ・ヨーガ5――カルマ・ヨーガと三仏の修行 (2008年11月14日)

    (2008年07月01日会員向けメッセージより転載)

    ●カルマ・ヨーガと三仏の縁

    「カルマ・ヨーガ」と「観音菩薩」・「弥勒菩薩」には深い縁がある、と私は感じている。ただし、これは、私個人の宗教観、宗教的体験に基づく面があるので、それははじめにお断りしておく。

     まず、「カルマ・ヨーガ」と「観音菩薩」の縁であるが、観音菩薩の教えの中には、「すべての衆生」が観音菩薩であるという考えがある。その発端は、観音菩薩が33の化身を有し、どんな衆生の姿形をとっても現れるから、ということらしい。

    実際に、カル・リンポチェ師から伝授を受けた観音菩薩の瞑想の中にも、すべての衆生を観音菩薩と考える瞑想がある。これは、「すべての衆生」を神仏の現れと見る「カルマ・ヨーガ」の精神とよく似ていると私は思った。

  • カルマ・ヨーガ4――すべての衆生に対する帰依に基づいた、セルフ・マハームドラーの実践法 (2008年11月14日)

    (2008年07月01日会員向けメッセージより転載)

    ●オウムの「マハームドラー」の問題

    さて、「すべての衆生」を帰依の対象とすえて、それから学び、自己を高めていく実践は、その一部において、自分自身で、自分に試練を課して、悟りを深めるという修行を含む。

    例えば、他人が自分を傷つけたときでも、安直に、その他人を悪と考えて、批判、攻撃、排除しようとせず、そういった状況において、自分が苦しみを感じる根本原因は、自分側の悪業、無智・貪り・怒りにあって、他人は単なる条件に過ぎないと考えて、自分の内側の浄化に努めるのである。

  • カルマ・ヨーガ3――すべての衆生が神仏の現われである (2008年11月14日)

    (2008年07月01日会員向けメッセージより転載)

    ●幸福・不幸の原因は、自分自身の業・煩悩

    「自業自得の法」に基づいて考えるならば、私たちの幸福・不幸の原因は、他人や外界にあるのではなく、自分自身の「業・煩悩」にある、ということになる。

    そして、それに基づいて考えるならば、他人などの外界に接して、幸福・不幸を感じる時というのは、私たちが、私たちの内面の「業・煩悩」に気づかせてもらっている時である、ということが分かる。

    特に苦しみ・不幸を感じるときは、それは、自分たちの中にある悪業に気づかせてもらっている時だということになる。

  • カルマ・ヨーガ2――他人・外界に感じる幸・不幸は自己に因がある (2008年11月14日)

    (2008年07月01日会員向けメッセージより転載)

    ●自業自得の考え方

    前回に引き続き、「カルマ・ヨーガ」について述べる。

    「カルマ・ヨーガ」においては、1.他人を自分のカルマの投影であると考え、教師・反面教師として学び取る、という実践に加えて、2.他人が自分に与える幸福・不幸も、自分に因があると見て、自己を高める機会にする、という実践がある。

     この二つ目の実践において、特に重要なことは、他人が自分に苦痛を与える時である。このときに、「自業自得の考え方」を背景として、その他人が悪いという通常の思考を抑制して、自分の内側の煩悩を見つめて、それを取り除く機会にするのである。

    別テキストの「自業自得の法1」でも説明したが、すべての現象は、「直接原因(因)」と「間接原因(縁)」の結果として生じる、というのが、仏教の因果の法則である。

  • カルマ・ヨーガについて1 (2008年11月14日)

    (2008年07月01日会員向けメッセージより転載)

    ●すべての人を神の現れと見るカルマ・ヨーガ

    「カルマ・ヨーガ」とは、インドヨーガの言葉であり、日本人にはあまり馴染みがない。さらに、そして、ひかり  の輪の「カルマ・ヨーガ」は、インドの「カルマ・ヨーガ」そのものではなく、独自の解釈の部分がある。

    インドヨーガなどでは、すべての人を神の現れと見て奉仕するヨーガであり、その意味で、「労働・奉仕のヨーガ」と言われることがある。ここでの特徴は、すべての人を神の現れと見る、という点と、それに基づいて奉仕する、という点である。そして、ひかりの輪においては、前者の「すべての人を神の現れと見る」という点を特に強調している。

    では次に、なぜ、「すべての人を神の現れと見るか」について、説明する。これにはいろいろな理由がある。

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