(3)聖地巡礼と、修行者の功徳・仏性
しかしこれは、「聖地自体が単純に神や仏であり、いつでも誰でもそこに行けばいい」といった単純な考え方では行なっていません。
聖地は、それを体験する人の心の現れであるということもできます。
普段から善業をなし、求道心を持っている場合は、聖地において、重要なことに気づいたり、素晴らしい瞑想体験を得ることできると思います。
そうではない場合は、聖地というのは、迷信に過ぎず、単なる物質であると感じられるかもしれません。
その意味で、「聖地とは、自分の心構えや努力とは関係なく、そこに単に行って、依存すれば、自分を救ってくれるもの」とは考えていません。
そもそもが、「神や仏といった存在も、そういった単なる依存の対象としてはいけない」と考えています。
むしろ、神や仏とは、人の内側にある至高の意識とも解釈でき、「自分の努力の積み重ねによって、それを覚醒させていく」という考えが重要だと考えています。
これは、例えば、仏教が説く「仏性や慈悲の心」、ヨーガが説く「真我」などと表現されます。
よっって、古来から多くの求道者を惹き付けてきた聖地は、そういった高い精神性を引き出す、言わば、呼び水・補助手段であって、そのためには、真摯な気持ちで対することが重要だと思います。
そして本来は、理想としては、日頃の精神的な訓練・修行を積み重ねた上で、聖地に赴くことが望ましいと思います(もちろん、日常的に修行されていない方でも、何かをかきっかけに、聖地に惹かれ、自分なりの動機をもって行き、そこで何かを気づくということが起こるのも、素晴らしいことだと思います)。
「聖地自体が、神や仏ではなく、それを体験する人と聖地の相互作用によって、神聖な経験や叡智が生まれる」という考えは、聖地巡礼以外の他の修行についても同様です。
ひかりの輪では、神聖な法具・仏像などを使った密教的な修行があり、それも、それを使う人の心がけ、日頃の善業の実践で効能が大きく違うと考えています。
宗教には、「偶像崇拝」と言う言葉がありますが、それは、人の心と切り離して、「何らかの物が、それだけで独立して絶対である、神聖である」とする考え方でしょうか。
以上のことを前提として、ひかりの輪としては、訪れる聖地に深い敬意と感謝の意を表する一方で、その聖地自体を絶対化・神格化して信仰対象とする意図はなく、同様に、巡礼される方にも、自分自身の心構えや日頃の実践を重視して、それを行われることをお勧めいたします。






